稲葉黙斎顕彰事業講演資料

稲葉默齋の小学講義 ~儒学における童蒙教育~

                          2005年11月23日
                          於成東町文化会館のぎくプラザ
                          黙斎を語る会 柏木 恒彦

  昨年の暮、黙斎の小学講義の写本を見る機会があり、凡そ半年をかけてその講義録を「黙斎を語る会」のホームページに掲載しました。今回、稲葉黙斎顕彰事業で講演をするにあたり、黙斎の小学講義を通して、儒学における童蒙教育とはどの様なものだったのかを改めて考え、まとめてみようと思った次第です。

         次 第
Ⅰ 『小学』の成立とその時代
Ⅱ 古三代の童蒙教育
Ⅲ 『小学』の位置付け
Ⅳ 『小学』の構成
Ⅴ 『小学』は朱子自身の語ではなく、古人の語を集めたもの
Ⅵ 『小学』が今あまり読まれていない理由
Ⅶ 『小学』を講義した年と前後の黙斎の講義
Ⅷ 『小学』の主題
Ⅸ 『小学』を読んで…儒学の再評価
Ⅹ 結 語

Ⅰ『小学』の成立とその時代
  『小学』は、南宋の朱子が劉子澄(りゅうしちょう)に命じて編集した初学入門の書(童蒙向けの教本)で、その成立は淳熈(じゅんき)14年(1187年)とされています。
  この『小学』が作られた頃の中国はどの様な状況だったのでしょうか?中国の歴史は夷狄との戦いの歴史だったともよく言われますが、この宋もまた、夷狄の脅威にさらされ続けました。金の侵入によって、宋は今まで開封にあった都を放棄して江南の杭州へと遷りました。それ以前を北宋と言い、それ以後を南宋と言います。その後も南宋は金に対して屈辱的な外交を強いられるわけですが、この『小学』を編んだ頃は宋朝随一の名君と謳われた孝宗の時で、金との間も小康を保っていました。しかし、その孝宗も『小学』ができた二年後には退位し、やがて激しくなる官僚同士の権力抗争の中で、朱子は官職を剥奪され、朱子学も偽学として弾圧されることになります。その代表的な事件を慶元偽学の禁と言います。
  一方、この淳熈十四年は日本では平安の末期、壇ノ浦の合戦の二年後で、初めて貴族から武家へと政権が移った頃であります。

  さて、朱子は何故『小学』を編んだのでしょうか?それを考える前に、先ず、儒学とはどの様なものだったのかを述べておかなければなりません。
  儒学は粗く言えば儒教が学問になったものです。それは孔子によって大成され、孟子が継ぎ、漢唐の学者を経て宋代に至り、周濂渓・張横渠・程明道・程伊川等によって宋学が確立し、それを朱子が集大成して、朱子学という一つの新儒学が完成することとなったわけです。儒学は儒教が学問になったものなので、目当てとするところも古三代、夏・殷・周の政となり、人で言えば堯・舜・文王という聖人が目標となりました。
  また儒学では、人は性善であって五倫が備わっているのだから、誰もが欲を抑えれば理ばかりとなり、聖人に至ることができる、たとえ聖人に至ることができなかったとしても賢人にはなることができると考えました。
  小学嘉言60に「伊尹の志す所を志し、顔子の學ぶ所を學べば、過ぐれば則ち聖、及ばば則ち賢。及ばざるも則ち亦令名を失わず」とあります。これは近思録では為学の初めにある周濂渓の語ですが、伊尹・顔子という大賢を目指せば少なくとも令名(よき名声)を失うことはないと言うのであります。本来、儒学には聖人を目指すという、しっかりとした目当てがありました。
  また一方で、朱子学になると形而上にも言及する様になります。理は気に絶えず付いており、気があれば必ず理があるとします。「有物有則(物有れば則有り)」(小学外篇題辞。出典は詩経大雅烝民)です。そして、気に障えられず理の通りなのが聖人だとして、聖人に至るための実践を窮理と居敬(持敬)に求めました。全ての物には理があるから、物を通してその理を窮めるのです。
  また、書経大禹謨に「人心は惟れ危く、道心は惟れ微なり。惟れ精に惟れ一にして、允に厥の中を執れ」とあります。これは舜が禹に授けた言葉で、「允に厥の中を執れ」は堯が舜に授けた言葉だとされています(中庸章句序・論語堯曰篇)。人心は危うく欲に引かれるものだから、心法としての居敬をしなければならないとするのであります。
  居敬窮理によって聖人に至ろうとする、それが本来の学問の手法であり、目的であるにも関わらず、当時の官僚は自分の保身や栄達に奔走し、学者は官僚となるべく、科挙に及第するために学問をしていました。いつの世も人は出世や富貴を求めるものですが、特に宋代は儒学が重用され、学問に長けてさえいれば政治に携わることのできる官僚の時代だったので尚更であります。この様に、学者が本来の学問をしない状況を朱子が見て、幼年からの教育の必要性を痛感して『小学』を作ったということだろうと思います。
*朱子・・・朱熹。南宋の大儒。宋学の大成者。字は元晦・仲晦、号は晦庵・晦翁。1130~1200。
*劉子澄・・・淳熈初年、宰相の推薦によって孝宗に召対を命ぜられる。太常寺主簿などの中央の官の他、江西・湖南・湖北の行政官として治績を挙げる。五十七歳で没。
*堯・・・中国古伝説上の聖王。陶唐氏。名は放勲。帝嚳の子。唐堯。帝堯。
*舜・・・中国の古代説話に見える五帝の一。顓頊の六世の孫。有虞氏。大舜。虞舜。
*文王・・・ 周王朝の基礎をつくった王。姫昌。武王の父。武王が殷の紂王を討って天下を統一する。
*伊尹・・・殷初の名相。湯王をたすけ、夏の桀王を滅ぼして天下を平定。
*顔子・・・顔回・顔淵。孔門十哲の首位。字は子淵。早逝。前514~前483。

Ⅱ古三代の童蒙教育
  朱子学は古三代を尚ぶ尚古主義です。古の聖人の政治や思想を理想的なものとして、それを今に活かそうとしました。それは新らしいものを作ろうとするものではありませんが、また、空理を説くものでもありません。朱子学は実学です。その理想とする古三代を教育で言えば、①対象となる児童、②教育の場、③進学、この三点がその特徴となると思います。
①対象となる児童…古三代では八歳になると誰もが小学校で学んだ。
  朱子は大学章句序で以下の通り言います。
  「三代の隆には、其の法寖(いよいよ)備わる。然る後王宮・國都より以て閭巷に及ぶまで、學有らざるは莫し。人生れて八歳なれば、則ち王公より以下庶人に至るまでの子弟は、皆小學に入る。而して之を教うるに灑掃・應對・進退の節、禮・樂・射・御・書・數の文を以てす。其の十有五年に及べば、則ち天子の元子・衆子より、以て公卿・大夫・元士の適子に至るまでと、凡民の俊秀とは、皆大學に入る。而して之を敎うるに理を窮め心を正し、己を修め人を治むるの道を以てす。此れ又學校の敎、大小の節の、分かるる所以なり。」
  古三代には小学校があって、誰もが八歳になるとそこに入り、掃除や受け答え、行儀や六芸を学びました。
②教育の場…郷々に小学校があり、郷人はそこで学んだ。
  小学立教4に、「學記に曰く、古の敎うる者は家に塾有り、黨に庠有り、術に序有り、國に學有り」とあり、黙斎は、「あの方では村々に木戸があって中に道があり、この方の組屋敷の様にある。其両木戸に塾がある。一寸出るとはや塾へ行かるる様にしてある」と説明をしています。
  尚、ここの「家」とは共同体を形成する単位であり、二十五家で里(ここで言う家)を形成し、五百家で「党」、一万二千五百家で「術(遂)」になると鄭玄は注をしています。また、「庠」と「序」はどちらも学校のことであり、孟子滕文公章句上3に「夏は校と曰い、殷は序と曰い、周は庠と曰う。學は則ち三代之を共にす」とあります。
③進学…選ばれた者は凡民であったとしても大学へと進んだ。
  凡民であっても、俊秀には大学への道が開かれていました。
  しかし、大学に進むことのできなかった者には学問が不要だということではなく、彼等も農閑期には引き続き小学校で学びました。小学立教4の小注に「民、家に在る時、朝夕出入して恒に敎を塾に受く」とあり、黙斎はこれを、「冬至から四十五日過ぎると農事が始まる。その前の暇な時のこと。普段は大人も折々行く。小児の外傅に付いた者は詰め切りなり」と説明をしています。
  以上をまとめると、
  古三代には郷々に学ぶ場が確保されており、八歳になると誰もが小学校で学んだ。そして、凡民の優れた者は選ばれて大学へと進んだが、大学へ行かなかった者も、農閑期には小学校で学んだ。古三代では学問が身近にあったということになるでしょう。

Ⅲ『小学』の位置付け
  黙斎は小学序の講義で、「今日、昔のことを集めて、古の様に小学校がないから、この本を小学校の代わりにして、昔の小学はこうであったと知らせる」と言います。『小学』は古の小学校の代わりとなる書なのです。
  更にこれが最も重要なことで、『小学』は『大学』の下地となります。朱子学では『小学』が始めであり、これが学問の下地で、『大学』へと進む基礎となります。
  朱子学では、『小学』→『近思録』→『大学』→『論語』→『孟子』→『中庸』→『六経』の順を厳守します。学問をするには次第階級があるとして、その順序を厳しく守るのですが、それは、一歩ずつ堅実にして行くことで難しいものも克服することができるという認識に基づくものです。山崎闇斎の近思録序にも「四子は六経の階梯。近思録は四子の階梯」とあり、また、小学嘉言81から85の並びが上の大学以降の学問の手順の通りとなっています。そこで、『小学』は儒学の基礎として、初学が当然に読むべき書となるのであります。
  その意があってかどうかは定かではありませんが、黙斎も寛政二年四月一日に『小学』の講義を終え、同年六月六日より『近思録』の講義に入っています。
  一方、この『小学』や『近思録』は大学の下地なのだから、学問が上がれば読まなくても済む筈のものなのでしょうが、読んではならないというものでもありません。事実、大人の学者も読みました。朱子学では、儒学の基礎を述べた書物としてこの『小学』を重く扱っていたのであります。
佐藤直方
  「兼ねて御思し召し寄りとは存じ候えども、拙者存じ寄る故、又申し進じ候。来春より改めて新しく成り候年の始めより、諸書を箱へ入れ、封をして、小・近・四等の書ばかり机上に御置き、精密詳審に御吟味候わば、天下の善これに過ぎたる事、これ有るまじくと深く願い申し候。」(佐藤子、浅見子へ与えし手帖:冬至文凡七道)
幸田子善
  「俺はとかく外篇を読む。外篇がよい。」(小学嘉言91)
  また、黙斎も講義に『小学』を多く引用しています。特に上総の人を教える時などは、あまり難しいことを言うよりも『小学』あたりを引用する方が身に切になったことでしょう。教える側にとっても、『小学』は役立つ書だったことと思います。
*山崎闇斎・・・名は嘉、柯。小字は長吉。字は敬義。号は垂加霊社。嘉右衛門と称す。京都の人。近江伊香立郡に生まれる。谷時中に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人。後に吉川惟足に神道を修め、垂加神道を興した。天和二年(1682)九月十六日没。年六十五。
*佐藤直方・・・五郎左衛門と称す。備後福山の人。江戸に住む。享保四年(1719)八月十五日没。年七十。山崎闇斎門下。
*幸田子善・・・幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政四年(1792)二月九日没。年七十三。私諡は穆靖。野田剛斎門下。

Ⅳ『小学』の構成
  『小学』は内篇と外篇の二篇に大別され、それを小割にすると、内篇は立教・明倫・敬身・稽古の四篇、外篇は嘉言・善行の二篇で、全部で六篇、三百八十六条で出来ています。そして、内篇は三代の古のことを中心とし、外篇は漢唐以降宋代のことを中心に述べています。この中で特に重要な篇は明倫篇であり、模範となる人の具体例を挙げたのが稽古篇と善行篇であります。また、『小学』の引用は、礼記からが九十六条、論語からが五十二条で、この二つで全体のほぼ四割を占めています。古の礼を『小学』の下地として重く見ているのであります。

Ⅴ『小学』は朱子自身の語ではなく、古人の語を集めたもの
  『小学』は古人の語を朱子が編集したものであって、朱子自身の語はありません。『近思録』も同じです。佐藤直方の四部作である『講学鞭策録』『排釈録』『鬼神集説』『道学標的』も同じで、直方の語は一つもありません。直方の本だから、直方が何を言っているのかを確かめよう思ってその本を開いて見ても、直方の言は一つもないのです。これが、その目的に叶った先達の語だけを集めて一冊の教本を作るという彼等の手法なのであります。

Ⅵ『小学』が今あまり読まれていない理由
  『論語』や『孟子』などは書店にも色々と陳列されていますが、『小学』は殆ど見ることができません。図書館にもあまり置かれていません。『小学』が普及していない理由をちょっと考えてみました。
○論・孟は儒学の真髄であってその内容も深いのですが、『小学』は朱子学の中の一書であり、その内容も童蒙を対象とした初学の教本ですので、論・孟の様な評価は当然得られる筈はありません。
  直方が、「善行にある人たちに聖人をあてるのは雀に蹴鞠だ」(小学善行35講義録)と言う様に、『小学』は童蒙を対象としたものなので、初学が模範とするにはよい例なのですが、特に外篇などには聖人を目指すには相応しくない人達も模範例として挙げられているとします。それは、朱子学では漢唐以降の朱子学以外の学者をあまり評価しないことが大きく影響しています。彼等にとっては『小学』は完璧な書と言うわけには行かないわけです。
○黙斎も小学敬身1の講義で、「年長けた者が小学の下地なくては大学に掛かれぬという時、この敬で小学を埋めて行く」と言っています。これは『大学或問』を引用したのですが、『小学』の闕は敬で埋めることが可能だとします。
○『小学』は朱子が古人の語を編集したものであって、朱子の発明はありません。出典を見る機会のある人、その多くは学者でしょうが、そういう人にとっては、『小学』を見なくても出典を読めば足りるわけです。
○黙斎の学派は朱子学なので『小学』を大切な書としましたが、朱子学を批判する学派もあり、そこでは『小学』も批判の対象となりました。
「太宰が斥非に、小学なのに七十致事とある。七十になる小僧があるものかという意で誹った。」(小学立教2講義録)
ちなみに、「七十致事」とは七十歳で仕事を辞めて隠居するということです。そんな年の小僧はいないと誹ったわけです。
「太宰なとの斥非の意では、小学の父子之親には己が孝計りあるべきに、日雇取も同前の僕隷までを入るるは扨々心得ぬと主張するが、それが孝行の蓋を開けて見ぬ所ぞ。」(小学明倫2講義録)
これは「父子の親」に僕隷のことまでが載っていることを誹ったものです。
*太宰・・・太宰春台。名は純。字は徳夫。号は春台・紫芝園。信濃の人。出石藩に仕え、後に辞して荻生徂徠に学ぶ。1680~1747。

Ⅶ『小学』を講義した年と前後の黙斎の講義(「黙斎を語る会」に掲載済みのもの)
  黙斎の小学講義は寛政元年(1789年)七月十六日を初会として、寛政二年四月一日に終了します。講義は一六課会であり、毎月、一、六、十一、十六、二十一、二十六日の六回です。
  黙斎の小学講義は九ヶ月余りを要し、講席の回数は五十回余りに及びます。講義は年をまたぐわけですが、年末は十二月二十六日まで行い、元日は休んだものの、一月六日から始めるという、非常に精力的なものでした。
                天明元年(1781年)八月、黙斎上総へ移住。
冬至文一講  …天明六年(1786年)十一月一日
小学講義   …寛政元年(1789年)七月十六日~寛政二年四月一日
近思録講義  …寛政二年(1790年)六月六日~寛政三年五月二十六日
冬至文二講  …寛政二年(1790年)十一月十六日
道学標的講義 …寛政二年(1790年)十二月
冬至文三講  …寛政三年(1791年)
鬼神集説講義 …寛政五年(1793年)一月~寛政五年五月
講学鞭策録講義…寛政五年(1793年)一月十一日~寛政五年八月二十四日
排釈録講義  …寛政五年(1793年)正月及び寛政七年七月~九月
冬至文四講  …寛政七年(1795年)
冬至文五講  …寛政十年(1798年)戊午十一月十五日 
                寛政十一年(1799年)十一月一日、黙斎没。

Ⅷ『小学』の主題
  小学序、一般に小学書題と言いますが、それに、「古は小學、人を敎うるに灑掃・應對・進退の節、親を愛し、長を敬し、師を隆び、友に親しむの道を以てす。皆、脩身・齊家・治国・平天下の本と爲す所以にして、必ず其れをして講じて、之を幼穉の時に習わしむ。其の習い、智と長じ、化、心と成り、扞格して勝えざるの患い無からんことを欲するなり」とあります。
  これは『小学』を編集した朱子本人の言であり、彼が『小学』を編んだ意がここにあります。
  普段の掃除や受け答え、節度のある行動を習得することが大学の基になるとします。
  そして、幼い頃からこれを習い続けることにより習慣化し、成長するに従って智も心も成長すると言います。形ですることを習慣化することで心がよくなるとするのであり、教えが大事だということであります。
  また、『小学』では明倫篇が最も重要な篇となります。
  山崎闇斎の敬斎箴序に「人の一身五倫備わる」とありますが、黙斎は小学講義で度々これを引用します。五倫は人が天から授けられたものであり、儒学では、これを明らかにすることが人の務めであるとします。
  黙斎は鵜沢七蔵に、「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友は何れも持合わせておれども、父子之親、君臣之義、夫婦之別、長幼之序、朋友之信という、親・義・別・序・信という五つの者無ければ、樽ばかりあって酒の無き様なものと迂斎言う」と告げています。これは五旬引の語で、樽ばかりがあって酒がないという比喩は、五倫があってもそれを明らかにしなければ人として生まれた甲斐がないということです。
  黙斎は続けて『小学』の書を評して、「人間の一生、この書に備われり。この一書を熟復すべし。謂う所の親・義・別・序・信を吾が身に得ること、この一書に全備す」と言います。五倫を明らかにするのが『小学』の主題となるのであります。
  尚、教えが大事だとする立場、人は教えがなければならないといとする立場が、無為自然を尊び人為を否定する老荘への批判へと繋がり、五倫が備わっているとする立場が、虚無寂滅を唱え、五倫をないものとする仏への批判へと繋がります。
  ここで、明倫の概略を述べておくこととします。
  小学立教5、出典は孟子滕文公章句上4ですが、それに、「人の道有るや、飽食煖衣、逸居して敎えらるる無ければ、則ち禽獸に近し。聖人之を憂うる有りて、契をして司徒たらしめ、敎うるに人倫を以てす」とあり、その後に「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」と続きます。明倫は舜が契に命じて天下に広めたとされています。
  この明倫を個々に見ると、
父子之親は、子が親に孝を尽くすこと。
君臣之義は、臣は道をもって君をよくしようと尽くすこと。それも、もしも君に受け入れられなければ辞職もする(去る)覚悟であること。
夫婦之別は、夫は外に務め、妻は内に務め、互いにそれぞれの務めを侵さないこと。 中国では父母・兄弟などの家族が一つの集団・共同体を作って一緒に暮らしていました。家の中のことは祖母を中心として女が仕切っていた様です。そこで、夫婦の別には、男は家の中のことに口出しをしないということも含まれるわけです。
長幼之序は、年長を先にすること。
朋友之信は、朋友は自分をよくするものであり、朋友に対しては、言葉と心とが違わず、偽りのないこと、であります。ここの「信」はまことに近い意でしょう。
  さて、五倫の始めは父子です。親に対してのことが五倫の基になり、これが他の四倫にも及ぶとします。親に対して子は孝で事えます。『小学』は童蒙向けの書ですので、そこで、『小学』では孝が主題となります。
  また、五倫を明らかにするのは人自身です。そこで朱子は小学敬身題下に、「孔子曰く、君子は敬まざること無し。身を敬むを大なりと爲す。身は親の枝なり。敢て敬まざらんや。其の身を敬むこと能わざるは、是れ其の親を傷うなり。其の親を傷うは、是れ其の本を傷うなり。其の本を傷えば、枝從いて亡ぶ」と孔子の語を引き、黙斎もその講義の中で「誰が五倫にすると言うにこの方の体が五倫にする。この身というものは五倫の中に立っておりて父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の交わりをする。それ故、この身を離れることはない。…五倫を一々細かに吟味して、その吟味が詰まっても、この体が修まらなければ向こうへ出し様がない」と言って、敬身が重要なことを述べます。そこで、身を敬むことが『小学』の主題となります。
  以上から、小学の主題は以下の三つであろうと考えられます。
○教えが大事であり、子供にあっては灑掃応対という、身近な形ですることを習慣化することで、結果として心をよくする。最初はしていることの意味がわからなくても、身体(外側)ですることによって、知らず知らずに心(内側)をよくする。
○五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)を明らかにする(親・義・別・序・信)。
○朱子学の手法の内、特に孝と敬の仕方を教え込む。格物致知などは大学からのことなのであります。

Ⅸ『小学』を読んで…儒学の再評価
  『小学』は童蒙向けの書であり、儒学の真髄は『四書』にあります。『小学』は儒学の理論を窮めるのが目的ではなく、儒学の基礎を教え込む初級教本であることを前提として読まなければなりません。
  『小学』が初級教本であることは、例えば小学稽古12を見てもよくわかります。これは孟子離婁章句上19が出典で、異説もある様ですが、内容は以下の通りです。

  曾子が、父である曾晳の食事が終わって膳を片付けようとする時に、残りを誰に与えましょうかといつも曾晳に尋ねました。曾晳が酒肉はまだあるかと問うと、曾子はそれがなかったとしてもまだあると答えました。曾晳が死んで、曾元が父である曾子の食事の世話をすることになりました。曾子が酒肉はまだあるかと尋ねると、曾元はそれがあったとしてもないと答えました。曾子は人に与えたいとする父の心を大事に思い、曾元は父に酒肉を食べて欲しくてその様に答えたのです。
  そこで孟子は、曾元は口体を養う者であり、曾子は志を養う者であって、親に事えるには曾子の様なのがよいと言います。
  これが孟子の主張なのですが、黙斎の講義内容は違います。曾子と曾元とでは流儀は違うが、どちらも道理を得たものであって、口体を養うのは真似をし易いから、先ずは曾元の真似をしなさいと言います。『小学』は初級教本なのであります。

  さて、ここでは『小学』から読み取れる儒学の基礎概念として、「孝と礼」、「人の役割」の二点を挙げることとします。
○孝と礼
  儒学では、人は性善で生まれながらにして五倫が備わっているとします。『小学』はその五倫を明らかにする方法を童蒙に教える書であります。そして、対象が童蒙ですので、その教え方は理論でするというよりも形ですることに力点がかかります。礼によって身体で覚えさせるのです。その礼の基となるものが孝であります。
  加地伸行氏は著書『儒教とは何か』で、「儒学では、死生の上に孝を置き、孝の上に礼を載せる」と述べ、儒学の宗教性を唱えます。
  これから述べることは、そのほとんどが加地氏の主張するところですが、黙斎の思想もそうだったと思いますので、加地氏の主張に由ることとします。
  儒学における孝は、単に子が親を敬ってよく尽くすという様なことではありません。
  孝とは、①祖先の祭祀、②父母への敬愛、③子孫を作る、この三つが孝なのであります。この様に言うと、②父母への敬愛を孝と言うのはわかるが、①祖先の祭祀と③子孫を作ることは孝ではないのではないかとの疑いが出ます。しかし、これは儒学の宗教性、いわゆる、儒教から来たものなのです。
  孔子が「身體髪膚之を父母に受く。敢て毀傷せざるは孝の始なり」(小学明倫34、出典は孝経)と言い、曾子は「身は父母の遺體なり」(小学明倫38、出典は孝経)と諭しました。
  加地氏は、「自分の身体は父母の遺体である。当然、父母の身体は祖父母の遺体である。というふうに連続して遡ってゆくならば、自分は過去をすべて背負いこんでおり、自分の身体は生命として確かに昔からずっと続いてきたことを意味する。すなわち、親とは、自分の生命でもあるのだ。そして、己れの生命を次の世代に残すとき、自分の子はまた父母の遺体ともなるのである。そして、確かに自分の生命を後世に伝えたことになる」と述べています。
  儒学では、人が亡くなると人を作っていた魂(精神)と魄(肉体)とが分離し、魂は天上へ、魄は地下へ行くとしました。そこで丁寧に土葬をします。そして子孫が祖先を祭ります。子孫が命日に招魂儀礼を行うと魂魄が憑りつき、祖先が来格するとされました。祖先崇拝であります。ここで、子孫がいなければ祖先を祭ることができないから、祭を絶やさないためには子孫を作ることが祖先への孝となります。
  今の人がこう聞くと、招魂再生などはないと言うでしょうが、今の価値観で昔を批判するのは意味がありません。昔はその様に思っていたのです。
  儒学では、祖先から子孫への血脈の継承をその生命論の根幹とし、祖先への祭祀を厚く行うことを孝とするのであります。
  ところで祭祀というと、今、日本の葬儀を見ると仏式が主流です。しかし、仏の本来は輪廻転生です。仏にあっては、人が死ぬと霊魂は中有(中陰。衆生が死んで次の生を受けるまでの間。日本では四十九日)に入り、この四十九日が過ぎると因果応報によって生まれ変わる先が決まるとします。つまり、仏ではこの中有の期間を除いては、祖先は何かに生まれ変わっているとするのであります。そうだとすれば死者の肉体は霊魂の入れ物というだけで、死によって霊魂が抜けてしまえば無用のものであり、輪廻転生なのだから招魂再生などもないとする筈であって、本来であれば、祖先を祭ることなどは仏には有り得ないことなのであります。しかし、その様に言っては人々に受け入れられません。そこで、仏は儒教の儀礼を取り込みつつ、人々の中にとけ込んで行きました。
  黙斎は、「仏道とても、人の死んだ世話を焼くことはもとあちにもないこと。だたい、本来無一物何処惹塵埃、死んだ者に供養は要らぬ筈。されどもそういうことでは行なわれぬ故、人の死んだ取り納めをする仏法が出来て来た」(小学善行18講義録)と言います。黙斎はこの様に仏を見ていたわけです。その様に見ると、今の仏式の中にも儒教の儀礼が取り込まれ、人が気付かない内に儒教は生きているということになります。
  さて、儒学では孝を重んじ、それを礼で実践します。そして礼とは理に叶った立居振舞のことであり、儀式のみならず、灑掃・応対・進退等の日常の所作もその中に含まれます。
  黙斎は「目の鼻のと言うは、人間ほどではないが、よかれ悪しかれ禽獣にもある。然れば人間と禽獣の違いはこの礼儀の処なり。その礼義に構わぬと言うなれば、人間と生まれて禽獣をしておるのなり。人間と禽獣の変わる境目は礼義で分かる」(小学敬身13講義録)と言います。礼が人と禽獣とを分けるものとなります。その礼も中庸章句27に「礼儀三千威儀三百」とある通り、細かに分かれたものであります。儒学がこの様に礼を重んじるので、儒学は形(礼)に偏重していると非難される面もありますが、人が禽獣と違うという点から出ている以上は致し方ありません。しかも根本に孝があっての礼であるということを考慮すれば、礼も至極尤もなことなのであります。
  また、論語子張篇に「子游曰く、子夏の門人小子、洒掃・應對・進退に當りては、則ち可なり。抑末なり。之に本づけば則ち無し。之を如何。子夏之を聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は孰をか先に傳え、孰をか後に倦まん。諸を草木の區して以て別あるに譬う。君子の道は焉ぞ誣う可けん。始め有りて卒り有る者は其れ惟聖人か」ともあり、子夏は、道は何処にもあって後先はなく、最初から全てを理解しているのは聖人だけだと言いました。「有物有則」で、学問の対象に高卑はないが、その手法には次第階級がある。簡単なことから難しいことへと進むのがよいとするのが子夏の主張であり、日常にできることを、外側(礼)でするというのが『小学』の手法なのであります。
  ただし、この礼に関しては、黙斎は実学者でした。小学敬身の衣服の制で黙斎は、「唐のことを巻舌で読んでも役に立たぬ。今日に引付けて今の衣装法度と見るが小学の衣服之制を活して用に立てると言うものなり」と言い、今は行われない古の制度を研究してその実践を唱えるよりも、今の用に立つことをすべきであるとしました。
  大久保紀子氏は論文『儒教の社会化に関する一考察』で、「黙斎は『家礼抄略』において礼の大胆な省略を断行する」と言い、その理由として、「黙斎の講義は、礼の初心者ともいうべき人々を対象として行われた。…一般の人々が行いにくい礼を捨象していくのは、それによって礼の確実な実行を促すための手段であった。礼を基本的なものに限って実行し易くし、その実践を通して礼の背景にある人間の本来の情に目を向けさせ、内在する理を自覚することを促す、それが黙斎の講義の目的であった」と述べています。黙斎は現実をよく見ていました。礼の実行は不変なものではなく、時代に合わせてするものだと理解していたと言えます。
○人の役割
  儒学では人それぞれに違った役割があるとします。儒学では、人には五倫があり、五倫に従って親・義・別・序・信という五教があるとします。この五倫が社会秩序の大本となります。それを子供の時にしっかりと教え込むのです。
  人はそれぞれに立場が違い、人には異なった役目があるとします。人は無条件に平等だとする考えは儒学にはありません。子は親に従うものであって、親と子とを平等だとはしません。また、子を養い教育を受けさせるのは親の義務だとか、教育を受ける権利が子にあるなどとも儒学では言いません。儒学では、子が親に尽くすのは、それが五倫の孝だからだとします。その孝の手本となるのが舜です。舜は親である瞽瞍に殺されそうになっても孝を続け、遂には「瞽瞍厎豫」(孟子離婁章句上28)です。
  ここでちょっと舜のことをお話します。
  舜の父、瞽瞍は頑迷な人で、継母は大嘘吐き、異母弟の象はいつも舜を殺すことばかりを考えていました。この様なことがありました。ある日、舜の父母が舜に米蔵の修繕をさせ、舜が屋根に上がると梯子を外して米蔵に火を付けて焼き殺そうとしました。またある日は、舜に井戸浚えを命じ、舜が井戸に入ると、瞽瞍と象は井戸に土を入れて埋め殺そうとしました。舜はどちらも何とか逃げて生き延びたのですが、その様にされても舜は自分の尽くし方が足りないのだとして孝行を続けたので、遂には頑迷な瞽瞍も舜の大孝によって喜ぶ様になりました。また、自分を殺そうとした象さえも、舜は有庳という土地の君に封じました。舜の様な孝は中々できることではありません。そこで、『小学』でも舜を多く挙げ、理想の聖人としているわけなのです。
  また、夫婦について言えば、夫婦は天地の姿だとします。「夫婦が人道の本になると言うが天地とあいもんの合ったことぞ。易の始めは乾坤。これが天地の夫婦。下経に咸・恒のあるは人間の夫婦なり」(小学嘉言39講義録)と黙斎は言います。(咸は艮下兌上、恒は巽下震上で賓卦の位置(ひっくり返った位置)にある。咸は感じるの感であり、艮の少男が兌の少女に謙下して、その心を感ずることで、婚姻を通ずること。恒は震の長男が上にいて、巽の長女が下にいる形で、男女相応じて長く家を保つ意である。)
  天と地とが違う様に夫婦の役割も違います。更に夫婦には祖先の祭祀を執り行い、子孫を作って祭祀を絶やさないという重要な役目があります。
  そこで黙斎も、小学明倫67の「不順父母去(父母に順ならざれば去る)」の説明で、「先ず一番に(嫁を)親の気に入らねばふっつりと去る。ここで(夫婦が)情愛でないことが知るる」と言います。
  尚、この明倫67は儒学が男尊女卑で封建的だと言われる一端にもなり得る章なので、若干、この章の一部を補足をしておきます。
  この章では、妻を離縁する理由が七つあり、離縁してはならない理由が三つあると言います。離縁する七つの理由とは、①父母に柔順でない、②男子が出来ない、③淫蕩、④嫉妬深い、⑤悪疾、⑥多言、⑦盗癖であり、離縁してはならない三つは、①実家が衰亡した者、②三年の喪を行った者、③艱難を共にした者とするのですが、離縁してはならない理由の方が離縁する理由よりも優先されます。そして、ここでも孝が重んじられ、親の喪を一緒に行った妻はたとえ離縁するに足る理由があったとしても離縁してはならないとします。この離縁する理由と離縁してはならない理由がはっきりと定まっているので男女共に安堵することができるのだが、今はそれ以外の理由で離縁されるから心が安まらないと黙斎は言います。
  尚、子のいない夫婦も悪疾を患う夫婦も世の中にはおられます。その様な場合、離縁しなさいと黙斎は言いません。それも天命なのだから、その現実を受け入れて天寿を全うすべきであるという考えなのであります。ただ、子を持つことは非常に重要なことだとの認識があるのです(黙斎自身は生涯独身でした・・・)。
  そして、男女の別も幼い頃から仕込みます。『小学』では立教2で早くも「内則曰云々」を出して、男女それぞれの行いを立てています。男がすべき天性のこと、女がすべき天性のことがそれぞれにあるとし、男が女めいてもその逆であっても悪いとします。
  しかし、これ等は今の社会通念とは異なります。今、西洋伝来の個人主義・平等主義が当然なこととされ、国を挙げて男女共同参画社会を築こうとしている中にあっては、儒学は時代遅れな思想だと思われがちです。しかし、本当にそうなのでしょうか。今は個人の立場の違いや男女の性差を超えて、誰もが同等であると教えますが、儒学は違います。人には五倫があって、立場に応じた教えがあり、礼があるとします。
  孝に教えの基礎を置き、五倫を明らかにすることを通して人としての役割と他人への正しい対し方を覚え、それを実践して明倫を確かなものとする。形ですることを軽んじず、敬身で身を律する。格物致知以降のことはその後に修める。それは実に堅実な手法であり、黙斎の生きた時代のみならず、今を生きる私達にも参考になるものだと思います。

Ⅹ結 語
  かつて、上総の人々が黙斎のもとで朱子学の修得に励みました。大網の人もいたものの、黙斎の門下は東金が中心です。今であれば車で三十分もかからない距離ですが、当時は徒歩で通ったのでしょうから、毎回そこに通うだけでも大変なことだったと思われます。それに加えて、課会は四つ時(午前十時)から七つ時(午後四時)まで行われたと思われることから、その日の家業は殆どできなかった筈です。黙斎の門下は隠居した人や裕福な人、その縁者が多かったのでしょうが、近思録為学53の講義録には秋葉惟恭と作田銀蔵が学問を止めたことが載っています。家の事情から已む無く学問を断念した人もいました。
  仏への攻撃一つを見ても黙斎には凄まじいものがありました。当時の祭祀の主流であった仏を容赦なく攻撃するのを周りの人々はどの様に思っていたのでしょう。黙斎が信じる道学を片田舎でするのにはかなりの障害があったものと思われます。
それにもかかわらず、彼等は当地で道学を継承しました。彼等をそこまで上総道学へ向かわせたものは何だったのか。今そのわけを断言することはできませんが、興味深いことではあります。
  そして、彼等門下が黙斎の学問をその教義のままに引き継いだので、この道統は昭和まで残りました。当時は写本を作ってそれを教本としたので、多くの資料が今に残っています。それは黙斎の真蹟も含め、膨大な量です。また、その本に書かれている内容は佐藤直方の学問を正統に継いだものであり、しかもそれが田野の平民によってなされたという、国内にあっても稀有なものであり、当地が誇うるべきことの一つです。
  しかし、懸念もあります。今、先達の事績を考証し、後世に伝えることをしなければ、いずれは上総道学の偉業も風化して跡形もなくなります。当地の行政、それと地元に住む私たちが、この上総道学を遺す作業を担うのが最も自然なことだと思います。
  特に上総道学発祥の地である成東町におかれては、長年にわたり稲葉黙斎顕彰事業を催され、また諸出版物を通じて上総道学の事跡を世に広めて来られました。そこで、町村合併も間近ではありますが、これからも行政事業の一環に上総道学を位置付けて下さることを切に願うものであります。