梅沢芳男(思斎)と蕪木文庫

1.梅沢芳男の経歴

    山口家は千葉氏一族の鏑木氏(旭市在住)が一族を率いて、上総の蕪木に移住し、山口氏も同道土着して帰農したに始まる。梅沢芳男(旧姓山口)は明治四十二年十月二十一日、山口卯吉の三男として松尾町(旧豊岡村)蕪木の農家に生まれる。

    叔父の梅沢は生まれながら病弱であったが、横芝町の角屋に出張し、開業していた漢方医の佐野氏の五年間に及ぶ治療と、母の献身的な介護により、六・七才頃に漸く普通児らしくなったとのことである。

    梅沢の父卯吉は三男芳男が生まれる前に病死した。若い夫と死別した母のみのは、父母を助けて農事に励むと同時に、二人の子供(芳男とさき)の養育に命をかけて働いたのである。大正九年春には祖母志も、秋に祖父芳蔵を失った山口家は、母子三人だけの寂しい生活を送ることになった。当時の農家に在っては、男の労働力は絶対に欠かせないものであった。また、家族制度上の後継者は男の芳男が該当者であったが、右に記した状況から、姉のさきが家督を継ぎ、婿養子の三好を迎えたのである。

   芳蔵夫婦は貧乏はしていたが、教育には深い関心を持ち、二人の孫には幼い時から文字やソロバンを教え、また孫の学資にと、貯金通帳を芳男の母に与えたとのことである。

    大正十三年三月、豊岡小学校を卒業した梅沢は、同年四月、県立成東中学校に入学し、昭和三年三月、同校を卒業する(二十四回生)。五年生の秋には学校ストライキに参加し、全員三日間の停学処分を受ける。昭和三年四月、二松学舎専門学校に入学、同五年十一月、病の為に退学する。

    司法書士の業務に従事するようになったのは昭和三年九月であり、昭和七年に司法書士筆生(補助者)、同十六年三月に司法書士として認可される。昭和四年四月に梅沢家の婿養子になり、養父の代書業を引き継いだのである。

    昭和十九年七月に補充兵として応召、海軍に入り三宅島で終戦を迎える。この間、昭和二十年三月十日の東京大空襲で義父及び妻子を失う。復員後、司法書士の本務は、昭和二十一年四月から本所菊川の焼跡で再開する。やがて、東京司法書士会墨田支部長、日本司法書士会理事や東京会理事の役職に選任され、会の運営に尽力する。其の他、町内会や各種団体の役員にも推される。

    亀戸天満宮、菩提寺の浅草延命院の再建運営及び崎門諸先輩の遺書の収集と稲葉黙斎忌法要は、終生の仕事と心得、努力していた。昭和五十三年五月に脳血栓で飯田橋の厚生年金病院に入院する。病状は幼児程度の片言の会話がやっと出来るくらいで再起が心配されたが、数年後には奇跡的に回復し、黙斎忌法要も主宰出来るようになった。

    昭和四十八年に韓国李退渓十六代後孫の李東俊氏が稲葉黙斎を景仰して来日し、法要に参堂し、展墓に元倡寺を訪れる。昭和五十三年七月には韓国に於ける国際孔学会議に招待され、稲葉黙斎と李退渓の関係に就いてと題して講演を約束したが、病後の体調不良の為、辞退する。平成十年秋、韓国KBS放送は正月の特別番組、李退渓の放映資料撮影に来日し、蕪木文庫等を訪れて収録する。
昭和六十年十二月二十一日、脳内出血で死去する。年七十六才。

    俳諧歴については、田中蛇湖翁から手ほどきを受けたのが始まりで、大正十四年から俳誌閑古鳥に投句、更にしののめ・睡蓮・赤壁・半仙戯・曲水等にも投句する。昭和十三年、池上幸二郎氏(俳号は浩山人)と謀り、神田ほととぎす会を結成、やがて深川正一郎師の指導を受けて、俳誌ほととぎすに投句するまでになる。昭和二十二年から二十五年まで、高浜虚子翁の委嘱を受けて古俳書の刊行に当たり、また、深川正一郎師の冬扇会の発会運営にも参画する。ほととぎす以外に玉藻・比叡・曲水・山彦・ももすももにも投句をしている(俳号は総人)。

    冬扇会の句会の外、東京探勝会・東海道五十三次俳行脚・奧の細道俳行脚・関東探勝会等の吟行会にも参加する。生涯の句稿数十冊と句集九枚笹は手許に保管してある。

    徳富蘇峰翁・高浜虚子翁・川端龍子画伯をはじめ、俳諧関係其の他幅広い多数の友人知己を通じて豊かな精神的な糧を得ることが出来、満足な人生を送ったことと思う。

 

2.崎門学の研究

    成東中学校(現在の成東高校)へ進んだ梅沢は、そこで田中幸二郎氏(一九〇八~一九八五)と交友し、その父の田中蛇湖翁(名は謙蔵:一八七三~一九五五)を知り、崎門学への道を歩み始めたのである。田中幸二郎氏は、崎門学者佐藤直方派の道統を継いだ碩学田中蛇湖翁の二男として、東金市小野の雄蛇湖畔の農家に生まれ、幼い頃から父親の薫陶を受けて漢籍や国文関係に秀でた才能を発揮し、当時、成東中学校に於ては、彼の右に出る者がない実力者であったとのことである。

    大正十四年、田中と梅沢の二人は、中山校長の許可を得て稲葉黙斎の遺書遺墨等、崎門学関係書籍の展覧会を講堂に開き、当時としては異例の行事に関係者をびっくりさせたとのことである。

    大正から昭和に至る時代の崎門学者には、東金市小野に田中蛇湖翁、成東町の湯坂に田原擔庵翁(名は綱三郎:一八七二~一九三八)、根蔵に伊庭弘道翁(町長歴二十年:一八五八~一九四三)がおり、何れも佐藤直方派の道統を継承する人達である。

    成東中学校に進んだ田中幸二郎、梅沢芳男、桜木保(桜木誾斎の子孫)の学友達は、土曜日の放課後や日曜日には田中家や伊庭家及び田原家を尋ねて崎門学の研鑽に励んだ。其の後、田中幸二郎氏は上京して徳富蘇峰翁の大森山王草堂の修史室成簀堂に入り、やがて神田小川町池上家の養子となり、古書籍の修理業を引き継ぐ。梅沢と桜木の二人もしばしば成簀堂に出入りする。

    桜木保氏は成東中学校卒業後満州に渡り、終戦後は島根県に移り住んで県庁に勤務し、傍ら県下の古文書や漢籍の研究と整理に当たる。退職後は県立図書館及び県庁所蔵の漢籍を整理分類して、昭和五十一年に図書目録を完成する。生まれ故郷の千葉県に移ってからも、各地の古文書研究会の講師として活躍している。

    梅沢芳男は成東中学校卒業後、上京して二松学舎専門学校に入り、池田芦洲・萩原羅月・池田亀鑑・黒沢隆信等の教授指導の下、漢文学や国文学を学ぶ。また、田中・伊庭・田原三師の介を以て内田遠湖翁、岡彪村翁の門に入り教導を受けると共に、崎門学会員となる。

    昭和三年に田中幸二郎氏と謀り黙斎学会を興し、崎門派学者の遺書遺墨の収集に努め、上総道学の顕彰と研鑽に励む。昭和四年に梅沢家の養子となり、代書業務を継承する。昭和十年には池上氏と共に『山崎闇斎全集』正続五冊を古典学会の名を以て刊行し、次で十二年に『山崎闇斎と其門流』と云う、闇斎学の手引書を編集して伝記学会から発行する。山崎闇斎全集に続いて『佐藤直方全集』を昭和十六年に発行する。編集出版に際し、梅沢が最も苦心し努力したのは昭和十五年に印行された『崎門学脈系譜』の原稿作りで、参考資料に乏しく、数多くの漢籍を読み漁り、編集も数回繰り返して漸く完成させたとのことである。

    稲葉黙斎忌の法要を梅沢が代行するようになったのは、敗戦で三宅島から還った翌年の昭和二十一年十一月からで、主宰の法要は昭和二十四年から始まり、毎年欠かさずに続けている。此の間に黙斎墓所を町の史跡や県の史跡に指定するよう当局に働きかけたり、墓所の石標や顕彰碑の建立に努力する。また、有名な崎門学者の墓所を全国各地に尋ねて先輩の遺徳を偲ぶと共に、道学の研鑽に励む。

    戦時中に浅見絅斎文集十六巻を出版すべく資料原稿を整えたが、戦災で焼失し、大変残念がっていたことが、現在も私の脳裡に焼きついている。昭和十四年には冬至文資考を稿して、雑誌東洋文化に収載する。また、田原擔庵翁の「上総に於ける山崎学」に倣い、「明治時代の崎門学」と題して道学協会の事業や活動状況を世に公刊する。更に、『稲葉黙斎先生年譜』、『三宅尚斎先生年譜』、『山崎闇斎学集大成哲需 稲葉黙斎先生』、『黙斎先生と南総の道学(附田中蛇湖・田原擔庵翁・彪邨岡先生)』等の冊子を作り、黙斎忌法要の折等で参列者に配布している。

    崎門学派関係の遺書の収集には最も力を尽くし、収入の大部分をこれに注ぎ込んだと云っても過言ではない。洋服代や靴の代金が何回となく本に化けてしまい、義父に叱られたり笑われたり、妻にぶつぶつ云われたことも随分多かったと聞かされている。司法書士と云う恵まれた職業に在り、また、戦前戦後の世相も幸いしてか、貴重な古典籍を数多く入手することが出来て、現在の蕪木文庫が整ったのである。

    学生時代に私はしばしば叔父梅沢の家に遊びに行った。すると夜は必ず神田の古本屋に同道させられ、馴染みの店主との典籍話を脇で聞かされることが多かった。甥の私に期待をしていた様であり、「学問をさせたき子あり麦を踏む」の句は梅沢(俳号は総人)の心境を吟じたものと思い、申し訳ない感を抱いている。

    梅沢が親しくしていた書店で私の記憶にあるのは、東京に松雲堂・山本書店・一誠堂・浅倉屋書店・琳瑯閣・誠心堂・伊賀上野の沖森書店等で、他に名古屋や京都・大阪・北京・京城の本屋とも古書通信を通して取引をしている。

    田原・伊庭両翁亡き後は専ら田中蛇湖翁を師と仰ぎ、しばしば翁の自宅を訪れたり、書翰の交流等により道学の真髄究明に努めいている。

 

3.蕪木文庫の保存

   昭和十八年、梅沢の住居は電話局に隣接している理由により強制疎開の命を受け、家財や書籍は殆ど蕪木の生家に移された。この疎開による引越しがなかったならば、数千冊に及ぶ貴重な典籍類は東京大空襲で焼失したものと思い、改めて梅沢ともども幸運に感謝するものである。

    生前梅沢は常々、此の漢籍類は予が生涯に渉って収集したり先師から譲り受けた先輩学者の門外不出の写本も沢山あり、池上家の蔵書と合わせると崎門学派の資料は殆ど揃っており、江戸儒学史研究上重要なものであるから、散逸や売却は絶対に避け、蕪木文庫として永存せよと厳命されている。

    梅沢の死後、蕪木文庫の遺書遺墨類の保存方法や在り方には頭を痛め、黙斎墓所のある元倡寺や近隣町村の図書館・資料館等の関係者と交渉したが何れも不調に終わり、梅沢が望んでいた黙斎ゆかりの山武郡内での保管を断念して、千葉県文書館に寄託することになったのである。三ヶ所に分散した蕪木文庫が揃うまでには五・六年の歳月を要したが、現在は文書館に於て一冊毎に調査点検と同時に仮目録の作成に努力をされている。やがて完成の蕪木文庫蔵書目録は、全国の関係機関や施設等に配布されるものと思う。関係者以外の妄見(むやみやたらに見ること)を禁じた崎門学派の伝統はあるが、一般研究者が容易く手にとって見ることが出来ることは時代の要請でもあり、文化遺産の正しい在り方に適うものと思う。

 

4.上総道学について

    江戸時代の朱子学には二代潮流があり、一は昌平学問所に代表される幕府の御用学であり、他は学問に依る人間形成・自己完成を唱える崎門学である。世に山崎闇斎の門弟は六千人と称され、多数の人々が崎門学に傾倒した所以は、学問が仕官や立身出世の為でも博学を誇るでもなく、自己の完成・人間形成の為にあると云う点に共鳴したからであろう。

    崎門学派が重んじた道とは何かと云うと、それは五倫の道であり、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つの人間関係の道である。この五つの人間関係の道理を明らかにし実践して、立派な人間になることが学問の目的であると云う考え方である。崎門学派の中でも佐藤直方派に在っては、孔子や朱子及び朝鮮の李退渓を特に尊信し、五倫の道を究明して、人格の陶冶、品性の向上に努めた。人間は利欲のかたまりであり、この利欲を克服し、どんな困難にも打ち勝てる人となって、社会の為に活動する賢人や君子となることを目指す学問であると云う立場をとっている。

    稲葉黙斎が館林邸左右近侍に示す書付に、
己レノ為メノ学トハ、吾ガ心身ヲヨクスルコトナリ。儒臣ノ様ニナラント心掛クルニハ及バザルコトナリ。学問芸業役目ニナリテハアシシ。--- 略 --- 茶ノ湯ニテモ、茶道役ニテナキ人ノ好ムニ精彩アリ。コレニテ知ルベシ。(道学読書要覧)

    黙斎が晩年二十年近く上総の地に在って専ら学問の研究と子弟の教育に専念出来たのは、鵜澤家との特別な関係もさることながら、上総の地が学問研究にふさわしい環境にあり、加えて地主・商人・医師等、地位や経済力に富んだ人々や向学心旺盛な人達が、心の拠り所を黙斎の学問・人柄に求めて研鑽に励んだ為であろう。

    黙斎が孤松庵から江戸に出たのは晩年の僅か四回だけで、以外は孤松庵にこもって学問の集大成と門弟の教導に専念したのである。上総の地はその恩恵に浴し、影響は今日にまで及んでいる。

平成十四年冬至の日
山 口  巌   識