某平生不會懶之條  七月十一日
【語釈】
・七月十一日…寛政5年(1893)7月11日。

15
某平生不會懶。雖甚病、然亦一心欲向前做事、自是懶不得。今人所以懶、未必是眞箇怯弱、自是先有畏事之心。纔見一事、便料其難而不爲。縁先有箇畏縮之心。所以習成怯弱而不能有所爲也。百二十。
【読み】
某平生懶を會せず。甚だ病むと雖も、然れども亦一心前に向き事を做すを欲し、自ら是れ懶し得ず。今人以て懶する所、未だ必ずしも是れ眞箇に怯弱ならず、自ら是れ先ず事を畏るるの心有り。纔に一事を見て、便ち其の難を料りて爲さず。先ず箇の畏縮するの心有るに縁る。怯弱を習い成して爲す所有ること能わざる所以なり。百二十。

懶と云は何も悪事でもないが、只ぶせふなこと。夛葉粉いつ迠も呑は、巨燵いつまでもかかっておる。出る方角はないのだ。不會は不得手と云こと。今人不會讀書、よみやうの不調法なこと。朱子の病氣の時などは懶があたりまいだか、それも得ならぬ。懶下手じゃ。一心欲向前做事。前の纔焉と同こと。どふもことがしたい心もちだ。すすみたいのじゃ。懶不得。勿れと云やうなことではない。公儀から云付られても出來ぬのぞ。今人所以懶、未必是眞箇怯弱。本んに臆病なの弱いのと云役にたたずてもないが、先有畏事之心。初手からあぐむのなり。銘を打た怯弱ではない。他出のとき、今日は降ふかなどと空を見て出たり入りたりするものがある。雨だとて、そのやうにこはいものではないとなり。ここは畢竟懶の講釈をしたのぞ。それに入用あることなり。
【解説】
「某平生不會懶。雖甚病、然亦一心欲向前做事、自是懶不得。今人所以懶、未必是眞箇怯弱、自是先有畏事之心」の説明。この条は「懶」の講釈である。懶は不精なこと。朱子は進みたいと思うから懶はない。今の人は本当の怯弱ではないが、懶で最初から倦む。
【通釈】
「懶」とは何も悪事でもないが、ただ不精なこと。煙草をいつまでも呑み、炬燵にいつまでもあたっている。出る方角はない。「不会」は不得手ということ。「今人不会読書」は、読み方が不調法なこと。病気の時などは懶が当たり前だか、朱子はそれもならないとする。懶下手である。「一心欲向前做事」。前条の「纔焉」と同じこと。どうもことがしたい心持である。進みたいのである。「懶不得」。勿れという様なことではない。公儀から言い付けられてもできない。「今人所以懶、未必是真箇怯弱」。本当に臆病で弱いという様な役立たずでもないが、「先有畏事之心」。初手から倦むのである。銘を打った怯弱ではない。他出の時、今日は降るだろうかなどと空を見て出たり入ったりする者がいる。雨だとしても、その様に恐いものではないと言う。ここは畢竟、懶の講釈をしたのである。それに入用のあること。

見一事、便料其難。田舎ても、風雨のあとで畑のものををこすに、まめしいものはじきにをこす。懶なものはあぐんで、跡でせふと云。二日もすぎる内に大きな損と云をしらぬ。それと云が畏縮、ひびくれぞ。旅をするにも今はそふもないが、皈り自分は寒になる。見合せやうかと云。寒中旅をしたとて死たものはない。本とふの怯弱てもないが、こちから出かした羪成なり。田舎にをる内は女も虵はあまりこわからぬが、江戸へ奉公に出たとき、虵がこはくないと云てはほうはいの前もわるい。女らしくないからこはい々々々と云。そのくせで、又田舎へ引たときはほんにこはくなる。養い成すのぞ。さて此懶の講釈が立志になると云はどふなれは、郷人より垩人に至ると云学問が懶ではならぬ。百姓一作はづれたとは違ふ。一度人と生れ圣人へ思い立ち、道中が懶ではゆかれぬ。山﨑派を人の好まぬも尤だ。此條など、本んに圣人を目がけるものでなくては受られぬことだ。文章を書くたりにすることにはならぬ。
【解説】
「纔見一事、便料其難而不爲。縁先有箇畏縮之心。所以習成怯弱而不能有所爲也」の説明。人として生まれて聖人になろうと思う者の道中が懶であっては行き着くことはならない。
【通釈】
「見一事、便料其難」。田舎でも、風雨のあとで畑の物を起こすのに、まめな者は直ぐに起こす。懶な者は倦んで、後でしようと言う。二日も過ぎる内に大きな損となることを知らない。それというのが「畏縮」で、面倒がったためである。旅をするにも今はそうでもないが、帰り時分には寒になる。見合わせようかと言う。寒中に旅をして死んだ者はいない。本当の怯弱でもないが、自らが作った養成である。田舎にいる内は女も蛇はあまり恐がらないが、江戸へ奉公に出た時、蛇が恐くないと言っては朋輩の手前も悪い。それでは女らしくないから恐い恐いと言う。その癖で、また田舎へ引いた時は本当に恐くなる。養い成すのである。さてこの懶の講釈が立志になると言うのはどういうことかと言うと、郷人より聖人に至るという学問は、懶ではならないからである。百姓の一作外れたのとは違う。一度人と生まれて聖人になろうと思い立っても、道中が懶では行き着けない。山崎派を人が好まないのも尤もなこと。この条などは、本当に聖人を目掛ける者でなくては受けられないこと。文章を書く足しにすることにはならない。


孔子曰不得中行之条
16
孔子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎。看來這道理、須是剛硬、立得脚住、方能有所成。只觀孔子晩年方得箇曾子、曾子得子思、子思得孟子、此諸聖賢都是如此剛果決烈、方能傳得這箇道理。若慈善柔弱底、終不濟事。如曾子之爲人、語孟中諸語可見。子思亦是如此。如云、摽使者出諸大門之外。又云、以德、則子事我者也、奚可以與我友。孟子亦是如此。所以皆做得成。學聖人之道者、須是有膽志、其決烈勇猛、於世間禍福利害得喪不足以動其心、方能立得脚住。若不如此、都靠不得。況當世衰道微之時、尤用硬著脊梁、無所屈撓方得。然其工夫只在自反常直、仰不愧天、俯不怍人、則自然如此、不在他求也。五十二。
【読み】
孔子曰く、中行を得て之に與せざるは、必ずや狂狷か。看來るに這の道理、須く是れ剛硬、得脚を立て住むべく、方に能く成す所有り。只孔子晩年方に箇の曾子を得、曾子子思を得、子思孟子を得るを觀るに、此れ諸聖賢都て是れ此の如く剛果決烈、方に能く這箇の道理を傳え得。慈善柔弱底の若きは、終に事を濟まず。曾子の人爲りが如き、語孟中の諸語を見る可し。子思も亦是れ此の如し。使者を摽き諸を大門の外に出すと云い、又德を以てすれば、則ち子は我に事える者なり、奚ぞ以て我と友なる可しと云うが如し。孟子も亦是れ此の如し。以て皆做し得て成す所なり。聖人の道を學ぶ者は、是れ膽志有り、其の決烈勇猛、世間の禍福利害得喪に於て其の心を動かすに足ざるを須って、方に能く脚を立ち得て住む。若し此の如からざる、都て靠り得ず。況や世衰道微の時に當り、尤も脊梁を硬著し、屈撓する所無きを用いて方に得。然るに其の工夫は只自ら反りて常に直、仰いで天に愧ず、俯して人に怍らずに在り、則ち自然此の如く、他に求むるに在ざるなり。五十二。

中行は丁どな云に云へぬ、孔子が一寸と直しをかけると孔子ほどにもなる人のことだ。尭舜から孔子の時迠めったにない人だ。きれ物と云のだ。そんならどのやふな人をと云に、必也狂狷乎なり。これが論孟にあることだか、皆うか々々讀むから論孟で目がさめぬ。近思録を四子の階梯と云もここてすむ。世間のは近思録の階梯からよまぬ。四書たから爰らがすまぬ。孔門の曽点狂だ。季武子の門に歌ふ。一番家老の死を席ふさぎか死んだと云沙汰のかぎりぞ。日本でも一休などは狂の方。大久保彦左ェ門殿は狷の方。青菜三把老中へ進物した。昨日は忝いと云たれば、老中へ進物すれば立身すると申すから進じだと出る。此様な癖物だか、孔子は療治の名人じゃ。それ々々に寫藥補藥の丁どの藥をもると、それかきいてしゃり々々々したほんのものになる。そこてこの狂狷が孔子のちそうふがよい。御側へ出されまい人物だと思へば、狂狷がゆくともそっと話せ孔子が云はるる。爰の鞭策にこのやうなものを出すと云が吾黨の精彩だ。直方先生を人のわるく云もここぞ。直方をよいにするとどうも吾がわるくなってならぬ。そこで圣学がこびり付た魂ではゆかぬ。三宅先生の中村揚斉を、銭屋の七兵衛何事ぞ、圣賢の道を任ずることだにと云れたもこのいきぞ。云はふやふもないと云人物をは孔子よろこばれぬ。櫻木、此狂狷乎の意をとんと一生知らぬ。孔子も御姫様には巴豆も飲せられぬ、狂狷をつれて來いとなり。
【解説】
「孔子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎」の説明。中行に近い人は狂狷だと孔子が言った。狂狷は曲者だが孔子は彼等を好む。彼等は孔子の療治によって本物となる人である。
【通釈】
「中行」は丁度で言うに言えない人のことで、孔子が一寸直しをすると孔子ほどにもなる人のこと。堯舜から孔子の時まで滅多にない人で、切れ者である。それならどの様な人がそうなるのかと言えば、「必也狂狷乎」である。これは論孟にあることだが、皆うかうかと読むから論孟で目が醒めない。近思録を四子の階梯と言うのもここで済む。世間の学者は近思録という階梯から読まずに四書から読むのでここ等が済まない。孔門の曾点は狂である。季武子の門で歌う。一番家老の死を席塞ぎが死んだという沙汰の限りである。日本でも一休などは狂の方。大久保彦左衛門殿は狷の方。青菜三把を老中へ進物した。昨日は忝いと言われて、老中へ進物をすれば立身すると申すから進じたのだと出る。この様な曲者だか、孔子は療治の名人である。それぞれに寫薬補薬の丁度よい薬を盛ると、それが効いてしゃりっとした本物になる。そこでこの狂狷への孔子の馳走がよい。御側へ出さない様な人物だと思えば、狂狷が来るともう少し話していけと孔子が言われる。ここの鞭策にこの様なものを出すというのが我が党の精彩である。直方先生を人が悪く言うのもここ。直方をよいとするとどうも自分が悪くなってならない。そこで聖学はこびり付いた魂ではうまく行かない。三宅先生が中村揚斎に、銭屋の七兵衛何事か、聖賢の道を任ずることなのにと言われたのもこの意気である。言い様もないという人物を孔子は喜ばない。桜木はこの狂狷乎の意を一生全く知らない。孔子も御姫様には巴豆油も飲せられない、狂狷を連れて来いと言う。
【語釈】
・必也狂狷乎…論語子路21。「子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎。狂者進取、狷者有所不爲也」。孟子尽心章句下37。「萬章問曰、孔子在陳曰、盍歸乎來。吾黨之士狂簡。進取、不忘其初。孔子在陳、何思魯之狂士。孟子曰、孔子不得中道而與之、必也狂獧乎。狂者進取、獧者有所不爲也。孔子豈不欲中道哉。不可必得。故思其次也。敢問、何如斯可謂狂矣。曰、如琴張、曾皙、牧皮者、孔子之所謂狂矣。何以謂之狂也。曰、其志嘐嘐然。曰、古之人、古之人、夷考其行、而不掩焉者也。狂者又不可得。欲得不屑不潔之士、而與之。是獧也。是又其次也」。
・季武子の門に歌ふ…孟子尽心章句下37集註。「季武子死、曾皙倚其門而歌。事見檀弓」。
・中村揚斉…
・櫻木…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。友部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・巴豆…巴豆油。巴豆の種子を圧搾して採った油。透明で粘りがあり、褐色または黄色。異臭がある。軟膏として神経痛・凍傷などに外用するほか、他の薬と混ぜて下剤とする。

○看来にか俗学の云はぬ口上そ。孔子の語をきいて、いかさまおもへばと看てとりたことなり。今の学者柔和忍辱何の役に立ぬ。私も学問せふかと云ものがあると、やれ竒特なことと云。講席に人が多いと悦ぶ。何の役に立ふ。それは掃だめに埃の夛いを喜ぶやふなもの。どふして役に立ふ。学者がそのやふに夛くあるものではない。○剛硬立脚。ここか弘毅の字のことだ。これがあれはめりこまぬ。子路が加之加之。もて来い々々々々とうけこむ。今の学者不断大きな口をきいても、もてこい々々々々かならぬは立得脚かないからぞ。
【解説】
「看來這道理、須是剛硬、立得脚住、方能有所成」の説明。本当の学者は少ない。持って来いと受け込むことができない。「立得脚」がないのである。
【通釈】
○「看来」とは、俗学の言わない口上である。孔子の語を聞いて、思えばいかにもと看て取ったこと。今の学者の柔和忍辱では何の役にも立たない。私も学問をしようかと言う者があると、やれ奇特なことだと言う。講席に人が多いと悦ぶ。それで何の役に立つものか。それは掃き溜めに埃が多いのを喜ぶ様なもの。どうして役に立つものか。学者はそれほど多くいるものではない。○「剛硬立脚」。ここが弘毅の字のこと。これがあれはめり込まない。子路が「加之加之」。持って来いと受け込む。今の学者が普段大きな口を聞いても、持って来いができないのは立得脚がないからである。
【語釈】
・忍辱…六波羅蜜の一。もろもろの侮辱・迫害を忍受して恨まないこと。
・加之加之…論語先進25。「千乘之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以饑饉。由也爲之、比及三年、可使有勇、且知方也」。

○孔子晩年云々。曽子孟と出たて道統のことかと云、そんなことではない。狂狷のあとへ本んのよいのを見せたのぞ。参也以魯得之の語ばかりて甲斐ない学者が云たがるが、それも了簡が違う。曽子の魯と云は聞一知十、聞一知一などとさへぬを云。落し咄ををそく笑ひ出すのぞ。一体は曽子はつよいと云人ぞ。此様な評判が立志の姿ぞ。向へゆきとをした。子思も同くそれなり。孟子のつよいは知れたこと。如此剛果决烈。剛果はつよいなりに行ををせる也。决烈は向へ出る勢のつよいこと。○方能傳得這箇道理。道統の傳と云と中を執ると計り覚へるが俗学のなりぞ。肩骨のつっ立た処から道を傳へ得たとは知られたこと。
【解説】
「只觀孔子晩年方得箇曾子、曾子得子思、子思得孟子、此諸聖賢都是如此剛果決烈、方能傳得這箇道理」の説明。曾子と子思、孟子の三人は強い人である。勢いがあって行き果す人だから道統の人なのである。
【通釈】
○「孔子晩年云々」。曾子、子思、孟子と出たので道統のことかと思えば、そんなことではない。狂狷の後へ実によいものを見せたのである。「参也以魯得之」の語ばかりを甲斐ない学者が言いたがるが、それも了簡が違う。曾子の魯とは「聞一知十、聞一知一」などと冴えないことを言う。落し話に遅くなって笑い出すのである。曾子は一体が強い人。この様な評判が立志の姿である。向こうへ行き通す。子思も同じくそれ。孟子が強いのは知れたこと。「如此剛果決烈」。剛果は強いなりに行き果せること。決烈は向こうへ出る勢いの強いこと。○「方能伝得這箇道理」。道統の伝と言うと中を執るとばかり覚えているのが俗学の姿である。肩骨の突っ立った処から道を伝え得たのは知れたこと。
【語釈】
・参也以魯得之…近思録為学26。「參也竟以魯得之」。
・中を執る…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。

○慈善柔弱よいものだか、不済事。うんとはり立るつよみがないで、どふも道をもちををせぬ。外に罪もないが、葛餅のやうなもの。葛餅の腹では十里道中はならぬ。栄次かやうなものも、葛餅て江戸へ日付にはならぬ。例の大焼飯がよい。学者もつっ立て強ばりたのかよいぞ。如曽子云々。つよい方へむけて云。いや曽子をば今迠そうは思はぬと云に、語孟を見やれ。弘毅の章を初として、可託六尺之孤、可寄百里之命、大節に臨て不可奪。又孟子には秦楚之冨不可及、彼以其冨、我以吾仁。のっきった口上ぞ。子思は繆公亟見子思曰。繆公もよほど馳走心に千乘之君友士と云たに、子思不機嫌だ。以德、則子事我者也。位がなくは庭でもはくほどのことと心得られた。
【解説】
「若慈善柔弱底、終不濟事。如曾子之爲人、語孟中諸語可見。子思亦是如此」の説明。論孟を見ると曾子の強さがわかる。子思も同じく強い人であることがわかる。
【通釈】
○「慈善柔弱」はよいものだが、「不済事」。うんと張り立る強味がないので、どうも道を持ち果せない。外に罪もないが、葛餅の様なもの。葛餅の腹では十里の道中はできない。栄次の様なものも、葛餅て江戸へ日着けはできない。例の大焼飯がよい。学者も突っ立って強張るのがよい。「如曾子云々」。強い方へ向けて言う。いや曾子を今までその様には思わなかったと言うが、語孟を見なさい。弘毅の章を始めとして、「可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節、而不可奪」。また、孟子には「晉楚之富、不可及也。彼以其富、我以吾仁」とある。乗り切った口上である。子思は「繆公亟見子思曰」で、繆公も余程馳走心に「千乗之君以友士」と言ったのに、子思は不機嫌である。「以德、則子事我者也」。位がなければ庭でも掃くほどのことだと心得られていた。
【語釈】
・栄次…幸田栄次郎?
・日付…日着け。その日のうちに目的地へ達すること。
・弘毅の章…論語泰伯7。「曾子曰、士、不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。
・可託六尺之孤、可寄百里之命、大節に臨て不可奪…論語泰伯6。「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節、而不可奪也。君子人與。君子人也」。
・秦楚之冨不可及、彼以其冨、我以吾仁…孟子公孫丑章句下2。「曾子曰、晉楚之富、不可及也。彼以其富、我以吾仁。彼以其爵、我以吾義。吾何慊乎哉」。
・繆公亟見子思曰…孟子万章章句下7。「繆公亟見於子思曰、古千乘之國以友士、何如。子思不悅曰、古之人有言曰事之云乎。豈曰友之云乎。子思之不悅也、豈不曰、以位、則子君也、我臣也。何敢與君友也。以德、則子事我者也。奚可以與我友。千乘之君、求與之友而不可得也、而況可召與」。

又摽使者。これ々々とよひかへす。これは吸物でも出すやふに思ふたるべし。鼎肉をことはりだ。一度々々に御礼申すで腰骨がいたむと云はるる。きついことだ。斯やうな処を會得せぬから鳩巣ほどでも、柯先生を謙譲の意がないから上朱子を累すと云た。邵康節、他山之石可錯玉。ものになる人はたたみさわりがあらい。頭巾かぶりて養安、天氣もようては氣の毒たが、あふした豪邁でなくて道はふるわれぬ。学圣人之道者、須有膽志。書の二典て尭舜の御様子も見へ、威而不猛の圣人なれども、其丸い圣人を学ぶにちっとかくがなくてはならぬ。胆か大きくなくてはなり。馬などあれほど大いが、胆がないと云ことだ。さればこそ十四五の子ともにも使はるる。一とは子は子てもたまらぬものにつかわるる。今の学者胆がない。廿一史十三経よんでも、孔安國と云と紋所が孔子じゃと云ひ、馬融鄭玄が注がありがたいとあたまをさげる。あなたは孔子の末孫などと云、下座するやふな学問だ。宋朝の諸先賢きついことだ。漢唐を見破りた。経理の明かは漢、礼物の明かは唐だ。それらは圣賢になる用にはたたぬ。諸先賢も漢唐の注釈をも用るか、それは文字のことなり。それを追っぱらって出ることなり。ここらはうぐひす声でゆくことでない。
【解説】
「如云、摽使者出諸大門之外。又云、以德、則子事我者也、奚可以與我友。孟子亦是如此。所以皆做得成。學聖人之道者、須是有膽志」の説明。子思は繆公の贈り物を断った。丸い聖人を学ぶには胆が大きくなければならない。経理の明らかなのは漢、礼物の明らかなのは唐だが、彼等には胆がない。
【通釈】
また、「摽使者」。これこれと呼び返す。これは吸い物でも出す様に思ったのだろう。鼎肉を断った。その都度御礼を申すので腰骨が痛むと言われた。それはきついこと。この様な処を会得しないから、鳩巣ほどでも、柯先生は謙譲の意がないから上朱子を累わすと言った。邵康節は「他山之石可以攻玉」で、ものになる人は畳触りが粗い。頭巾を被って養安が行く。この天気模様では気の毒だが、あの様な豪邁でなくては道は振るえない。「学聖人之道者、須有胆志」。書の二典で堯舜の御様子も見える。「威而不猛」の聖人なのだが、その丸い聖人を学ぶには一寸角がなくてはならない。胆が大きくなくてはならない。馬などはあれほど大きいが、胆がないということ。そこで十四五の子供にも使われる。一跳ね跳ねても堪らないほどの者に使われる。今の学者は胆がない。二十一史十三経を読んでも、孔安国と言えば紋所が孔子だと言い、馬融や鄭玄の注を有難いと頭を下げる。貴方は孔子の末孫だなどと言い、下座する様な学問である。宋朝の諸先賢はきつい。漢唐を見破った。経理の明らかなのは漢、礼物の明らかなのは唐である。それ等は聖賢になる用にはならない。諸先賢も漢唐の注釈をも用いるが、それは文字でのこと。それを追っ払って出るのである。ここ等は鴬声で行くことではない。
【語釈】
・摽使者…孟子万章章句下6。「君餽之則受之。不識、可常繼乎。曰、繆公之於子思也、亟問、亟餽鼎肉。子思不悅。於卒也、摽使者出諸大門之外、北面稽首再拜而不受。曰、今而後知君之犬馬畜伋。蓋自是臺無餽也。悅賢不能舉、又不能養也、可謂悅賢乎」。
・柯先生…山崎闇斎。
・他山之石…詩経小雅鶴鳴。「鶴鳴于九皋、聲聞于野。魚潛在淵、或在于渚。樂彼之園、爰有樹檀、其下維蘀。它山之石、可以爲錯。鶴鳴于九皋、聲聞于天。魚在于渚、或潛在淵。樂彼之園、爰有樹檀、其下維穀。它山之石、可以攻玉」。
・養安…三井養安?越前府中の医士。または永田養庵か?

○决烈勇猛。よい字を出された。たた胆志と云ては空た。そこて决烈勇猛がどふも似せではならぬ。よく々々のことだ。東坡が皃が土氣色になりたとある。あれがそうならぬ底な人ていて、どふもならぬものなり。今の学者が絽の羽織をさいてもはっと云ながら、仕官すれば千石の知行もすてると云は覚束ない。羽織ではっと云位ではゆかぬ。利害得喪心中にひそんておる。身上もあげたし、学問も上けたいと云やうで何になるものぞ。心安堵、をちつく処なくてはうろたへる。覇王の佐でさへ士の子は常に士、農の子は常に農。心を丈夫にする手段なり。同門の中ても、子をしこむにもとかく立得脚の仕こみがないは管仲に及はぬ。士にして見たり、又麁田へ土をはこんでよい田にしろと云。そんな知惠て道学がゆくことではない。今日吾黨の学者の処へ鞭策録と云座頭を催促にやりたい、なんとどうぢゃ々々々々催促し、貴様の利害得喪はどうでごさると責られて、ちと待て下されと云であろう。ここらのことにあくんて直方をいやがり、直方の学は禅学だなどとそしる。それより外に仕方はない。俗学一生論語ばかりよんで丸くなろうとする。それで孔子の氣に入るものではない。つまり玉しいのないのぞ。
【解説】
「其決烈勇猛、於世間禍福利害得喪不足以動其心、方能立得脚住。若不如此、都靠不得」の説明。「利害得喪」があっては狼狽える。直方は利害得喪を責めるから、人は彼を嫌がって禅学だと言って謗る。俗学は一生論語ばかりを読んで丸くなろうとするが、魂がない。
【通釈】
○「決烈勇猛」。よい字を出された。たた胆志と言っては空である。そこで決烈勇猛がどうも真似ではならない。よくよくのこと。東坡の顔が土気色になったとある。あれはそうならない底な人だが、どうにもならないもの。今の学者は絽の羽織を裂いてもはっと言うのに、仕官をすれば千石の知行も捨てると言うのは覚束ない。羽織ではっと言う位では、それはできないこと。「利害得喪」が心中に潜んでいる。身上も上げたい、学問も上げたいと言う様で何になるものか。心安堵で、落ち着く処がなくては狼狽える。覇王の佐でさえ士の子は常に士、農の子は常に農。これが心を丈夫にする手段である。同門の中でも、子を仕込むのにもとかく「立得脚」の仕込みがないので、管仲に及ばない。士にして見たり、又粗田へ土を運んでよい田にしろと言う。そんな知恵で道学はできはしない。今日我が党の学者の処へ座頭を鞭策録の催促に遣りたいが、どうだと催促をして、貴様の利害得喪はどうかと責められれば、一寸待って下さいと言うことだろう。ここ等のことに倦んで直方を嫌がり、直方の学は禅学だなどと謗るが、それより外に仕方はない。俗学は一生論語ばかりを読んで丸くなろうとする。それは孔子の気に入るものではない。つまり魂がないのである。

○世衰道微。孟子や朱子の時が斯ふぞ。先つ皆が今は斯ふでないと思て居るがよい。○硬著脊梁。上総もをれが来てから学者もふへたが、どれでも骨はない。其内昔の庄内ばかりが脊梁ありた。外にたのみはない。玉しいのあるのはみへぬ。○自反常直、仰不愧天、俯不怍人。これからが大切なり。この十二字なしに上の段々のことを云へば、から口をきくになりて役に立ぬ。朱子のことを□を届けるやふに届けるになる。自反而直。斯ふ云ふものがなくてはならぬ。天に不愧、不怍人。道理なりをすることぞ。懐中に後藤から吹き立の金を持たやうなもの。いづれへ出てもまぎれはない。道理のわきへふそっとも手を出さぬこと。自然如此。吾知らす、いつかそうなると云か不断道理をしたしめたからぞ。それは不在他求。つけやきばてゆくことではない。かふてなくてはから元氣也。
【解説】
「況當世衰道微之時、尤用硬著脊梁、無所屈撓方得。然其工夫只在自反常直、仰不愧天、俯不怍人、則自然如此、不在他求也」の説明。上総では庄内だけしか脊梁がない。「自反常直、仰不愧天、俯不怍人」で、道理の外には少しも出てはならない。
【通釈】
○「世衰道微」。孟子や朱子の時がこうであった。先ず皆が今はこうではないと思いなさい。○「硬著脊梁」。上総も俺が来てから学者も増えたが、どれでも骨はない。その内で、昔の庄内だけに脊梁があった。外に頼みはない。魂のある者が見えない。○「自反常直、仰不愧天、俯不怍人」。これからが大切なこと。この十二字なしに上の段々のことを言えば、空口をきくことになって役に立たない。朱子のことを□を届ける様に届けることになる。「自反而直」。こういうものがなくてはならない。「不愧於天、不怍於人」。道理の通りをする。懐中に後藤から吹き立ての金を貰った様なもの。何処へ出ても紛れはない。道理の脇に少しも手を出さないこと。「自然如此」。我知らず、いつかそうなるというのが断えず道理をしたためたからである。それは「不在他求」。付け焼刃でうまく行くことではない。こうでなくては空元気である。
【語釈】
・庄内…鈴木養察。俗称庄内。酒井修敬に見出され、和田義丹と共に江戸へ出て迂斎に入門。元禄8年(1695)~安永8年(1779)
・自反常直…孟子公孫丑章句上2。「自反而縮、雖千萬人吾往矣」。
・仰不愧天、俯不怍人…孟子尽心章句上20。「孟子曰、君子有三樂、而王天下不與存焉。父母倶存、兄弟無故、一樂也。仰不愧於天、俯不怍於人、二樂也。得天下英才而敎育之、三樂也。君子有三樂、而王天下不與存焉」。
・後藤…後藤光次。江戸初期の幕府金改役。通称、庄三郎。後藤徳乗(後藤家五代)の門人。家康に抜擢され、金座の主宰者となり、代々金改役として鋳貨をつかさどった。1571~1625


與或人説條
17
與或人説、公平日説甚剛氣、到這裏爲人所轉、都屈了。凡事若見得了、須使堅如金石。百二十一。
【読み】
或る人と説く、公平日甚だの剛氣を説き、這の裏に到りて人の爲に轉す所、都て屈し了る。凡そ事は若し見得て了れば、須く堅きこと金石の如くならしむべし。百二十一。

上の條で圣賢を学ぶにはつよいことと云相談にきまりた。それを受た此条也。時に公平日説剛氣、つよいと云ことを主張さるる、たのもしいことだが、されともとただりたもの。這裡は剛氣の入用な塲になってと云弁がよい。剛氣々々と云てもかんしんの時出子ば、云うたがやくたいはない。當強而不強者とある。出処進退から氣質変化人欲克己にこそ剛氣を出すことじゃに、屈了は世間の相塲でかはるうちはたのみはない。○見得了は、吾がこれと見つめたこと。医案の丈夫なやふなもの。此塲は斯ふと見るとかはることはない。学者見処も人て変したと云にたのみはない。見得了たことは先軰皆かたい。迂斉の爰へ、朱子の寺々で祖師の像を見たことを引てよみた。見得了た。祖師の顔が違う。又、朱子の、祖師にならずは賊になろふと云たことがある。日蓮法然只の顔ではなかったで有ふ。玉しいの丈夫な処が異端でもそうで有に、学者は致知挌物で融通すると云からつい俗人めく。人の爲に轉せらる。かんしんの魂ををとしてしまうは笑止なことなり。
【解説】
剛気を主張するのは頼もしいことだが、入用な場になってそれが出なければ何にもならない。出処進退から気質変化人欲克己に剛気が出なければならないのに、世間の相場でそれが変わるのでは頼みはない。自分がこの場はこうだと見切れば変わることはない。学者は致知格物で融通するからつい俗人めき、人に転せられる。
【通釈】
上の条で、聖賢を学ぶには強くなくてはならないという相談が決まり、それを受けたのがこの条である。時に「公平日説剛気」、強いということを主張されるのは頼もしいことだが、しかしながらと祟った。「這裏」は剛気の入用な場になってという弁がよい。剛気と言っても肝心の時にそれが出なければ、それを言っても役に立たない。「当強而不強者」とある。出処進退から気質変化人欲克己にこそ剛気を出すものなのに、「屈了」で、世間の相場で変わる内は頼みはない。○「見得了」は、自分がこれと見詰めたこと。医案の丈夫な様なもの。この場はこうだと見れば変わることはない。学者の見処も人で変われば頼みはない。見得了したことは先輩も皆堅い。迂斎がここを、朱子が寺々で祖師の像を見たことを引いて読んだ。見得了した。そこで祖師の顔が違う。また、朱子が、祖師にならなければ賊になろうと言ったことがある。日蓮や法然もただの顔ではなかったことだろう。魂の丈夫な処が異端でもその様であるのに、学者は致知格物で融通するからつい俗人めく。人のために転せられる。肝心の魂を落としてしまうのは笑止なこと。
【語釈】
・當強而不強者…


学者不立則之條
18
學者不立、則一齊放倒了。八。
【読み】
學者立たざれば、則ち一齊に放倒し了る。八。

志のことを云たもの。前条も脚と云は形容じゃ。心のことぞ。垩人三十而立。道理に性根のすはりたこと。学者不立は性根がないから、挌物致知と云諸道具も一切放倒了。役に立ぬ。その上誠意などか猶更志なくてはならぬことた。江戸て道具を買ふにも、茶人は茶器、商人は商賣もの。皆なんとか志ありて買なり。只買てをけ、進物にも賂にもなると云はいやなことだ。学者のきまらぬと云があわれなことだ。傘にろくろがない。當時は大名衆でとれもとかく、衍義補だからちと看てをくがよいと云は、あんまりたたぬ見処なり。某など幼年の頃は御老中方の中にも徂徠学があり、勢が盛てありた。元氣がよかった。今の徂徠派はとかく上はべを朱子のやうにする。兎角学者の心もちが、町人の衣裳、法度ちりめんの羽織もまあこふしてをおけ、後には又出す時節もと云やうなぞ。山崎派か出来ずは鳩巣になろふと云。甘は和を受くとあるが、学者の甘くは散々だ。一切放倒と云て、道楽もののことではない。それは論には入らぬが、学者の玉しいのきまらぬは、病人の差圖で藥をもるやふなもの。江戸の冨豪な町家など、病人が苦いものはいやと声をかけると、出入の医者苦いものは入れぬ。それは医術の放倒したのぞ。
【解説】
「学者不立」は性根がないこと。学者が魂を決めなければ、放倒し了る。それは哀れなこと。
【通釈】
ここは志のことを言ったもの。前条も脚と言ったのは形容してのことで、心のこと。聖人は「三十而立」。それは道理に性根の据わったこと。「学者不立」は性根がないからで、格物致知という諸道具も「一切放倒了」で役に立たない。その上誠意などが尚更志がなくてはならないこと。江戸で道具を買うにも、茶人は茶器、商人は商売物。皆何かの志があって買う。ただ買って置け、進物にも賂にもなると言うのは嫌なこと。学者が決まらないのが哀れなこと。傘に轆轤がない。今の大名衆の誰もがとかく、衍義補だから一寸見て置くのがよいと言うのは、あまりに立たない見処である。私などの幼年の頃は御老中方の中にも徂徠学があり、勢いが盛んだった。元気がよかった。今の徂徠派はとかく上辺を朱子の様にする。とかく学者の心持が、町人が衣裳のことで、法度縮緬の羽織もまあこうしてを置け、後にはまた出す時節もあるだろうと言う様なもの。山崎派ができなければ鳩巣になろうと言う。甘は和を受くとあるが、学者の甘くは散々なこと。一切放倒と言っても道楽者のことではない。それは論に及ばないが、学者の魂が決まらないのは、病人の指図で薬を盛る様なもの。江戸の富豪な町家などで病人が苦いものは嫌だと声を掛けると、出入りの医者は苦いものを入れない。それは医術を放倒したのである。
【語釈】
・前条も脚と云は…講学鞭策録16を指す。「立得脚」。
・三十而立…論語為政4。「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」。
・甘は和を受く…礼記礼器。「君子曰、甘受和、白受采。忠信之人、可以學禮。苟無忠信之人、則禮不虚道。是以得其人之爲貴也」。


学者當常以之條
19
學者當常以志士不忘在溝壑爲念。則道義重、而計較死生之心輕矣。況衣食至微末事、不得未必死、亦何用犯義犯分、役心役志、營營以求之耶。某觀今人、因不能咬菜根、而至於違其本心者衆矣。可不戒哉。十三下同。
【読み】
學者當に常に志士の溝壑に在りて忘ざるを以て念と爲すべし。則ち道義重くして、死生を計較するの心輕し。況や衣食は至微末事、得ざるも未だ必ずしも死せず、亦何ぞ義を犯し分を犯し、心を役し志を役し、營營として以て之を求めんや。某今人を觀るに、菜根を咬むこと能わざるに因りて、其の本心に違う者衆し。戒めざる可けんや。十三下同。

志士不忘在溝壑爲念。誰も知た孟子の語なれとも、朱子などの学者をさとす語と云はするどいこと。孟子の頃、蘓秦張義がやうな巾着切、世上てはつよいと云へとも妾婦の道なり。それより馬伏波などが氣味よいことだ。蘓張雄弁でも小学に載せることは一つもない。馬瑗はのせらるる。大久保彦左ェ門殿なども載せらるる人物だ。馬瑗は、なに棺椁、をれが死だら馬の皮がよいと云。子路を馳走せいで中庸をせふと云、これが俗儒にをちる溝堀ぞ。先日易の大過で先軰のことを云たもここなり。あのあやを知るものがない。今の学者はただ字彙を引くやうに思也。道統の傳と云も絹ぶるいかける様に思ふ。それも尤じゃが、それまてゆく魂には不忘在溝壑。疂ざはりあらいこともあるは知らぬ。字てすますのなり。
【解説】
「學者當常以志士不忘在溝壑爲念」の説明。蘇秦や張儀が強いと言われるが、彼等のは妾婦の道である。彼等よりも馬援の方がよい。馬援や子路のことを見ないで中庸をしようとすると俗儒に落ちることになる。今の学者は字彙を引くだけで、畳触りの粗いことがあることを知らない。
【通釈】
「志士不忘在溝壑為念」。誰もが知っている孟子の語だが、朱子などの学者を諭す語は鋭いもの。孟子の頃、蘇秦や張儀の様な巾着切りが世上では強いと言われたが、彼等のは妾婦の道である。それより馬伏波などが気味よいこと。蘇張は雄弁でも小学に載せることは一つもない。馬援は載せることができる。大久保彦左衛門殿なども載せられる人物である。馬援は、何、棺椁は不用だ、俺が死んだら馬の皮がよいと言った。子路を馳走しないで中庸をしようと言う、これが俗儒に落ちる溝堀である。先日易の大過で先輩のことを言ったのもここのこと。あの綾を知る者がいない。今の学者はただ字彙を引く様に思う。道統の伝と言うのも絹篩いに掛ける様に思う。それも尤もなことだが、それまで行く魂には不忘在溝壑で、畳触りの粗いこともあることを知らない。字で済ますだけである。
【語釈】
・志士不忘在溝壑…孟子滕文公章句下1。万章章句下7。「志士不忘在溝壑、勇士不忘喪其元」。
・馬伏波…馬援。字は文淵。諡は忠成侯。扶風郡茂陵の人。伏波将軍に任ぜられた。前14~49
・馬瑗はのせらるる…小学外篇嘉言。「馬援兄子嚴敦並喜譏議而通輕俠客。援在交趾還書誡之曰、吾欲汝曹聞人過失如聞父母之名。耳可得聞、口不可得言也。好議論人長短妄是非政法。此吾所大惡也。寧死不願聞子孫有此行也。龍伯高敦厚周愼口無擇言謙約節儉廉公有威。吾愛之重之。願汝曹效之。杜季良豪俠好義憂人之憂樂人之樂清濁無所失、父喪致客數郡畢至吾愛之重之。不願汝曹效伯高、不得猶爲謹敕之士。所謂刻鵠不成尚類鶩者也。效季良不得陷為天下輕薄子。所謂畫虎不成反類狗者也」。「馬援書殷勤戒諸子。擧世賤清素奉身好華侈、肥馬衣輕裘揚揚過閭里。雖得市童憐還爲識者鄙。我本覉旅臣遭逢堯舜理、位重才不充、戚戚懷憂畏。深淵與薄冰蹈之惟恐墜爾曹當閔我。勿使增罪戻。閉門歛蹤跡縮首避名勢。勢位難久居。畢竟何足恃。物盛則必衰。有隆還有替。速成不堅牢。速走多顚躓灼灼園中花早發還先萎遲遲澗畔松鬱鬱含晩翠。賦命有疾徐。青雲難力致寄語謝諸即。躁進徒爲耳」。

道義重而計較死生之心軽しい。こふ別なことなり。三宅先生これを身でした人だ。ためしたことはないが、直方浅見はその上をゆく人ぞ。直方先生など幼年から別な人ぞ。仕立をろしの黒羽二の小袖て手をふくやふな人だ。火のしをかけて仕まふておけと云やうなことではない。衣服さへ女のやうに大事がるやうては死生の塲は心本なし。手のこんだ人はくもり日の羽織と云やふなもある。どふなれば、雨がかかりてもきわづかぬと云。くされた根性だ。さう云たらわる口講釈と云はうが、衣食は至微末事、不得未必死。某も館林侯からの賜衣もあり、順斉が嚊か手織の単物もあるが、あれがなしとも死もせぬ。そこを末事と云。何用犯義犯分。義分と云ものがある。百姓は百姓の義分、武士は武士の義分がある。うろたへ学者が直方先生を道を害すと云ひ、迂斉弟子にも直方を非と心得るがあるが、義分と云段はたぎらぬ。長崎迠ゆくの類あり。
【解説】
「則道義重、而計較死生之心輕矣。況衣食至微末事、不得未必死、亦何用犯義犯分、役心役志、營營以求之耶」の説明。道義と計較死生の心は別なこと。諸先輩は衣食に構わなかった。衣食を構わなくても死ぬことはない。また、義分というものがあり、それが重要である。
【通釈】
「道義重而計較死生之心軽」。この様に別なこと。三宅先生はこれを身でした人。それを試したことはないが、直方や浅見はその上を行く人である。直方先生などは幼年から別な人で、仕立下ろしの黒羽二重の小袖で手を拭く様な人である。火熨斗を掛けて仕舞って置けと言う様なことではない。衣服でさえ女の様に大事がる様では死生の場は心許ない。手の込んだ人は曇り日の羽織という様なものも持っている。どうして持っているのかと言うと、雨が掛かっても汚れが目立たないと言う。腐った根性である。その様に言えば悪口講釈と言われるが、「衣食至微末事、不得未必死」である。私も館林侯からの賜衣もあり、順斎の嚊の手織の単物もあるが、あれがなくても死にもしない。そこを末事と言う。「何用犯義犯分」。義分というものがある。百姓は百姓の義分、武士は武士の義分がある。狼狽え学者が直方先生を道を害すと言い、迂斎の弟子にも直方を非と心得る者がいるが、義分という段では滾らない。長崎まで行く類がそこにはある。
【語釈】
・きわづかぬ…際付くが、よごれがはっきり見えること。
・順斉…中野順斎。丸亀藩士。名は教之。

石原の先生、菅野彦兵衛が学挍願のことを、その時子めつけた。近年彦明が姪の唐崎淡路が来て、山崎先生へ謚を九條殿へ乞ふと云たを某が一と口に、ああ馬鹿なことをとふとけした。其足で彦兵衛が処へゆいてさうだんしたれば、菅野が云のには、兎角あの黨は事をなすことを嫌ふと云た、と。これが、学挍のことを石原のついたことが六十年来人のにくむことぞ。されども学挍は天子諸候のこと。浪人が建立するは義分でなし。却て吉田から埀下霊社やめろと云てこそしたが、これは尤なことぞ。神袛官神名帳の外、新らしく起すことはならぬこと。そこで今は下御霊の庚申堂の中に埀加霊社は寓客になりておるぞ。俗学は義分の外をする。そしると怒る。そうたいこちの馳走かわるいと腹を立ると云は俗人根性だ。既に孔子へ文宣王もわるいになりてをる。なんの爲めに埀加の謚を乞ふぞ。犯義犯分の四字の中に私意も私欲もこもりておるぞ。一条分明なことは中間のつり臺がつくやうに、義と分そ。私意も私欲もない姿ぞ。
【解説】
菅野彦兵衛が学校願いをした際、石原先生がそれを叱った。そのため菅野は石原を憎んだが、本来学校は天子諸侯のことだから、浪人がそれを建立するのは義分ではない。唐崎淡路が山崎先生の謚を乞うたのも、義分に外れたこと。俗学は義分の外をする。
【通釈】
菅野彦兵衛が学校願いのことを言った時、石原先生が叱った。近年彦明の姪の唐崎淡路が来て、山崎先生の謚を九条殿に乞うと言ったので、私が一口に、ああ馬鹿なことだと吹き消した。その足で彦兵衛の処へ行って相談すると、菅野が言うには、とかくあの党は事を成すことを嫌うと言ったそうである。学校のことを石原が叱ったのを六十年来人が憎んだ。しかしながら、学校は天子諸侯のこと。浪人が建立するのは義分でない。却って吉田から垂下霊社を止めろと言って遣したのが尤もなこと。神祇官は神名帳の外に、新しく起こすことはならない。そこで今は下御霊の庚申堂の中に垂下霊社は寓客になっている。俗学は義分の外をする。謗ると怒る。総体、こちらの馳走が悪いと腹を立てるというのは俗人根性である。既に孔子へ文宣王の謚も悪い。何のために垂下の謚を乞うのか。犯義犯分の四字の中に私意も私欲も篭っている。一条分明なことは中間が釣台を担ぐ様に、義と分である。私意も私欲もない姿である。
【語釈】
・菅野彦兵衛…菅野兼山。江戸の人。名は直養。佐藤直方門下。幕府の援助を得て、郷学「会輔堂」を起こす。1678~1747
・子めつけた…睨め付けた。睨み付けたこと。
・彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。なお竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758
・吉田…
・文宣王…孔子の諡。唐代に追諡。
・つり臺…釣台。板の両端に竹をわがねてつけ、これに棒を通して前後から舁いて行く台。嫁入道具などを積んで運んだ。

某觀今人、因不能咬菜根、而至於違其本心者衆矣。某觀るにと云が、今上総で云やふなことではない。あの方は科挙の学で、どれも々々々一つ文字力はある。そこで上に召され、その力で中々一と器量も出るやうなが沢山あれども、後々はそうゆかぬを朱子の見て云こと。つまり力て飯を喰はふと思へばよいに、それにならぬから本心を失ふ。孟子の本語も飯食から本心を失って、取る手方角もなくなるを云た語類じゃが、素志を失ふと云にかけてよむがよい。朱子に懇な人が今天子の誠意正心の話はきらいた、こなたにも出られたらは此度此筋を申上ることはやめられよと云たれば、をれは誠意正心の外は云ふべきことは知らぬ、若い時からこれより外の仕込はないと云はれた。兼て志をちっともかへぬ。これが素志と云のぞ。今の学者は此御家では山崎派はきらいと云たら、然らは只一通り朱子学に致さうと云。それも在所でひへ米くふがいやで素志を失いきりたのぞ。市郎なども石王が学御禁じらるとあらは、講官を去るがよい。駒之助なども人が石王が学をそしる、駒の爪でけるがよい。されども知行をとり冨饒になると、鯛の咪噌漬で羽二重がきられぬ浪人ときくと身の毛よだつ。ついそれから本心を失ふ。可不戒哉。これか違本心。素志と見て、兼てと違うものじゃ。可不戒哉と云こと、本心を失ふと云段には可不戒哉処ではない。
【解説】
「某觀今人、因不能咬菜根、而至於違其本心者衆矣。可不戒哉」の説明。宋朝では科挙の学があったので、誰も文字力はあった。彼等は力で飯を食えばよいのに、そうしなかったので本心を失った。今の学者も本心に違うことをする。本心に違うのは戒めなければならないが、本心を失ってはそれどころではない。
【通釈】
「某観今人、因不能咬菜根、而至於違其本心者衆矣」。某観るにと言うのが、今上総で言う様なことではない。向こうは科挙の学で、誰もが一つ文字力はある。そこで上に召され、その力で中々一器量も出る様な者が沢山いたが、後々はそう行かないことを朱子が見て言ったこと。つまり力て飯を喰おうと思えばよいのに、そうしないから本心を失う。孟子の本語も飯食から本心を失って、途方もなくなることを言った語類だが、素志を失うことに掛けて読むのがよい。朱子に懇ろな人が、今の天子は誠意正心の話は嫌いだ、貴方も出られたらこの度この筋を申し上げることは止めなさいと言うと、俺は誠意正心の外に言うべきことは知らない、若い時からこれより外の仕込みはないと言われた。前から志を少しも変えない。これを素志と言う。今の学者はこの家では山崎派が嫌いだと言われたら、それならただ一通り朱子学に致そうと言う。それは在所で稗米を食うのが嫌で素志を失い切ったのである。市郎なども石王の学が禁じらるとあれば、講官を去るのがよい。駒之助なども、人が石王が学を謗れば駒の爪で蹴るのがよい。しかしながら、知行を取り、富饒になると、鯛の味噌漬で羽二重が切られない浪人と聞けば身の毛がよだつ。それからつい本心を失う。「可不戒哉」。これか本心に違うことで、素志と見て、前とは違うもの。可不戒哉ということ、本心を失うという段には可不戒哉処ではない。
【語釈】
・咬菜根…小学外篇善行。「汪信民嘗言人常咬得菜根則百事可做。胡康侯聞之撃節嘆賞」。
・孟子の本語…孟子告子章句上10。「孟子曰、「魚、我所欲也。熊掌、亦我所欲也。…此之謂失其本心」。
・市郎…
・石王が学…石門心学と王陽明の学か?石門心学は、石田梅岩(江戸中期の思想家。通称は勘平。丹波生れ。京都に講席を開き、商人の役割を肯定するなど、庶民を教化。1685~1744)が始祖。
・駒之助…


人最不可曉之條
20
人最不可曉。有人奉身、儉嗇之甚、充其操、上食槁壤、下飲黄泉底。卻只愛官職。有人奉身清苦而好色。他只縁私欲不能克、臨事只見這箇重、都不見別箇了。或云、似此等人、分數勝已下底。曰、不得如此説。才有病、便不好、更不可以分數論。他只愛官職。便弑父與君也敢。
【読み】
人は最も曉る可からず。人の身を奉ずるに、儉嗇の甚しく、其の操を充てるに、上槁壤を食い、下黄泉を飲む底有り。卻って只官職を愛す。人の身を奉ずるに清苦して色を好む有り。他は只私欲克つ能わざるに縁り、事に臨みて只這箇の重きを見て、都て別箇を見ずに了る。或るひと云う、此れに似る等の人は、分數已下底に勝る、と。曰く、此の如く説くを得ず。才に病有れば、便ち好まず、更に分數を以て論ず可からず。他は只官職を愛する。便ち父と君とを弑すも敢てす。

不可暁と云語意か面白いと聞がよい。どふもはや人と人同士のことだから仁義礼知もあるが、人と云ものは合点のゆかぬものとなり。段々療治をして見た処が不可暁と云。嘆が出てくるもの。どふも知れぬ脉があるものと仕覚た処で云口上ぞ。死ふと思た病人も思の外生きる。生きやうと思ふたのが一寸死ぬのかあるは不可暁の方ぞ。○奉身倹嗇。飲食居処より調度迠にものずきあるものじゃ。いやをれが身には何も入らぬと、どふでもよいと云、苟完苟具り、衣を寒をををふに取、食は飢に充つるに足りと云底だ。それをつめて云なら上食槁壤下飲黄泉と云ほどに求のないこと。それは圣賢てはないかと云に、愛官職。ふと々々しい人欲がある。布衣迠になりたか、此上はどふぞえり元の白ひ元日をしたいと云。いかさま見付て下座でもされる身分になりたらうれしくなるで有ふ。痔であるかれぬ男がぶら々々すると通れと呵る内に、かち々々拍子木打てはた々々内史車中に自如と坐すがうれしからふ。それは尤にせうが、どふして平生は無欲で官職には大欲ぞ。これ不可暁の処なり。
【解説】
「人最不可曉。有人奉身、儉嗇之甚、充其操、上食槁壤、下飲黄泉底。卻只愛官職」の説明。人は「不可曉」なものである。平生は倹嗇な人にも、官職という大欲がある。
【通釈】
「不可曉」という語意が面白いと思って聞きなさい。どうも早、人と人同士のことだから仁義礼智もあるが、人というものは合点の行かないもので、段々療治をして見た処が不可曉だと言う。嘆きが出て来るもの。どうも知れない筋があるものと仕覚えた処で言う口上である。死ぬだろうと思った病人も思いの外生きる。生きるだろうと思った人が一寸の間に死ぬことがあるのは不可曉の方のこと。○「奉身倹嗇」。飲食居処より調度までに物好きがいるもの。いや俺の身には何も要らない、どうでもよいと言い、苟完苟具で、衣は寒さを覆うために取り、食は飢えを充つるだけで足りると言う底である。それを詰めて言うと、「上食槁壌下飲黄泉」と言うほどに求めのないこと。それなら聖賢ではないかと言うに、「愛官職」。太々しい人欲がある。布衣までにはなったが、この上はどうか襟元の白い元日をしたいと言う。いかにも見付けられて下座にでもなる身分になれたら嬉しくなることだろう。痔で歩けない男がぶらぶらとしていると通れと呵られるが、かちかちと拍子木を打って、はたはたと内史車中に自如と座すのが嬉しいことだろう。それは尤もだろうが、平生は無欲であっても、どうして官職には大欲である。これが不可曉の処である。
【語釈】
・苟完苟具…苟に完く苟に具り?
・布衣…
・元日…
・内史…禅宗の僧職。

○奉身清苦而好色。寒中にも素足火鉢も巨燵も入らぬと云。それてはにやけたことはあるまいと云に、好色には御丁寧。さりとはあるまいことやうなことで、これがある。倹嗇と云人て官職。明け六から起て庭前の霜を掃く。にやけたことはないかと云に、下女が方へ向ひてをどけを云。にやけた見ぐるしい底がある。直方先生の、氣質は夕立雨の脊をわる、片々あかるいかと思へば片々はまっくらだ。何こともこのいきで、茶人が道具を並てをくと玩物喪志と云てそしるが、又我方には田地のあるものには金を借して田を取る工面をする。玩物処ではない。すれば学者も私欲のあるうち、どのやうなことをしても何にもならぬ。たとへは全体が悪女では化粧をしても見にくいやうなものなり。
【解説】
「有人奉身清苦而好色。他只縁私欲不能克」の説明。清苦に身を捧げる人にも好色ということがある。人には明と暗とがある。学者も私欲のある内は何にもならない。
【通釈】
○「奉身清苦而好色」。寒中にも素足で火鉢も炬燵も要らないと言う。それではにやけたことはないだろうと言えば、好色には御丁寧である。ないことの様で、実にこれがある。倹嗇という人に官職の欲がある。明け六つから起きて庭前の霜を掃く。にやけたことはないかと言えば、下女の方へ向かって戯けを言う。にやけた見苦しい底がある。直方先生が、気質は夕立雨が背を割る様で、片方が明るいかと思えば片方は真っ暗である。何事もこの意気で、茶人が道具を並べて置くと玩物喪志だと言って謗るが、また、自分は田地のある者に金を貸して田を取る工面をする。それは玩物処ではない。そこで、学者も私欲のある内はどの様なことをしても何にもならない。たとえばそれは、全体が悪女では化粧をしても見難い様なもの。

○這箇重。それずりと云こと。そこて不見別箇也。外へは目もふらず、飲食などの人欲などにはあさいが、金ためる方の人欲には專門の学と云がある。立身にも好色にも專門の人欲と云がありて、好色ものは月見も凉もせぬ。只女の縫物して居る脇にとやかく世話してをるものある。合点ゆかぬものなり。とかくぬけきらぬは人欲だ。いかさま色々なをちとつつ持合せた。人欲の方もよかろうぞ。それは病身ものの保養で生てをるやふなもの。○或曰云々。話し上手に聞下手。片々よけれは片々わるいか、身を奉する、儉嗇てなくて官職を愛する人も有ふ。それを以下底と云のなり。それにまさるかとの問也。片方に取得あるを勝ると云たのそ。○不得如此説。そんなことを云てはたまらぬ。下黄泉を飲む、もたげたことと思が、げっと云て吐き出すことしゃ。清苦て好色。胸がわるいと云ことじゃ。長作藩中などてこのやうによまふことてはない。あたりさはりあろふこと。よく文義をよむがよい。
【解説】
「臨事只見這箇重、都不見別箇了。或云、似此等人、分數勝已下底。曰、不得如此説」の説明。とかく人欲は抜け切らないもので、立身にも好色にも専門の人欲がある。或る人が、倹嗇でなくて官職を愛する人よりもまだよいだろうと尋ねたのに対して、朱子は、清苦て好色は胸が悪くなることだと答えた。
【通釈】
○「這箇重」。それだけということ。そこで「不見別箇也」。外へは目も振らず、飲食などの人欲などには浅いが、金を貯める方の人欲には専門の学ということがある。立身にも好色にも専門の人欲ということがあって、好色者は月見も涼もせず、ただ女が縫物をしている脇でとやかく世話をしているという者がいる。それは合点の行かないこと。とかく抜け切らないのは人欲である。実に色々な欲を少しずつ持ち合わせている。それは人欲の方にはよいことだろう。それは病身者が保養で生きている様なもの。○「或曰云々」。話し上手に聞き下手。一方がよければ片方が悪いものだが、身を奉ずるのに倹嗇でなくて官職を愛する人もいることだろう。それを以下底と言う。それに勝るかとの問いである。片方に取り得があることを勝ると言ったのである。○「不得如此説」。そんなことを言っては堪らない。下黄泉を飲むのは見上げたことだとは思うが、それではげっと言って吐き出してしまう。清苦て好色は、胸が悪くなることである。長作の藩中などではこの様に読んではならない。当たり障りがあるだろう。よく文義を読みなさい。
【語釈】
・長作…山田長作。山田華陽斎。名は記思。通称は長作、黒水。館林藩士。1773~1832

○才有病、便不好。徂徠の徒か孔子の平かを云を程朱からきつくなったと心得るが、さうではない。錦の直埀、私ならぬ願い。四位をひろふて世を渡る、人情尤なこととゆるすことだが、愛官職と云はをして云へは以の外、ゆるされぬことなり。千乘之国弑其君者必百乘之家。のぞみをかけるとどうなろふも知れぬ。仲由再求は大臣かとほこるを、孔子があいらもあたまかずにはなる具臣と云たが、拙者弟子なれば父与君弑すには不從となり。鄙夫なれば患失之無所不至の集註をよくみるべし。いかさまをぬしの主を弑して来たならば大名にせうと云やうにはなくとも、古から弑君父も次第階級のあること。だたい我か君に得られぬ身で歒方から君ほろぼされ、其後歒方からはをもい歴々にせふと云たらば、日月を歴てはつひかけこむものぞ。それに呑炭而爲唖。それでもゆかぬとて漆身而爲癩。身はそんでんに出した。爰に至ては令女も豫讓か心にもをとらぬ。弑父与君と云も愛官職の方がかふじてそうなるなれば、をそろしきことなり。ここらのことは文義せせりはやくにたたぬ。魂のぬけた中はどふもならぬことだ。
【解説】
「才有病、便不好、更不可以分數論。他只愛官職。便弑父與君也敢」の説明。古から弑君父には次第階級のあることで、それも愛官職が高じてのこと。豫譲は死ぬまで忠信を尽くした。ここ等は文義せせりでは役に立たないことである。
【通釈】
○「才有病、便不好」。徂徠の徒が、孔子が平なことを言ったのに、程朱からはそれがきつくなったと心得ているが、そうではない。錦の直垂は私ならぬ願いである。四位を拾って世を渡るのは人情で尤もだと許すことだが、愛官職を推して言えば以の外で、許されないことである。「千乗之国弑其君者、必百乗之家」。望みを掛けるとどうなるかも知れない。仲由と冉求は大臣だろうと誇ったところで、孔子が彼等も頭数にはなる具臣だが、自分の弟子なので「父与君弑不従」だと言った。「鄙夫患失之無所不至」の集註をよく見なさい。たとえお前の主を弑して来れば大名にしようと言う様なことではなくても、古から弑君父には次第階級のあること。そもそも自分が君に重用されない身であって、敵方に君を滅ぼされ、その後に敵方から重い歴々にしようと言われれば、日月を歴てはつい駆け込むもの。そこを「呑炭而為唖」。それでもうまく行かないので「漆身而為癩」。身は損田に出した。ここに至っては令女も豫譲の心にも劣らない。弑父与君というのも愛官職の方が高じてそうなるのだから、恐ろしいことである。ここ等のことは文義せせりでは役に立たない。魂の抜けている内はどうにもならないこと。
【語釈】
・直埀…垂領式の上衣で、袴と合せて用いた、武家の代表的衣服。
・千乘之国弑其君者必百乘之家…孟子梁恵王章句上1。「萬乘之國弑其君者、必千乘之家。千乘之國、弑其君者、必百乘之家」。
・仲由再求は大臣か…論語先進23。「季子然問、仲由・冉求、可謂大臣與。子曰、吾以子爲異之問。曾由與求之問。所謂大臣者、以道事君。不可則止。今由與求也、可謂具臣矣。曰、然則從之者與。子曰、弑父與君、亦不從也」。
・鄙夫なれば患失之無所不至…論語陽貨15。「子曰、鄙夫、可與事君也與哉。其未得之也、患得之。既得之、患失之。苟患失之、無所不至矣」。
・そんでん…損田?水・旱・風・虫・霜などの被害のために収穫の減った田地。不熟田。
・豫讓…紀元前五世紀、中国戦国時代の晋の人。仕えていた智伯が趙襄子に殺されたので主人の復讐を謀るが、一度は捕らえられ、釈放される。その後、体に漆を塗り、癩病のふりをし、墨を飲んで声を失い、乞食に身をやつして仇討ちをするが失敗して果てる。


答王子合書之條
21
答王子合書曰、大抵吾輩於貨色两關、打不透、便更無話可説也。朱子文集四十九。
【読み】
王子合に答うる書に曰く、大抵吾輩貨色两關に於て、打たし透らざれば、便ち更に話の説く可き無し。朱子文集四十九。

王子合、さのみわるい人てもないが、どっともせぬ人たからこのやうなこともある。このやうな語の出ると云か向の耻ることのあるものゆへ云。吾輩と云字はこなた衆と云やうなことだか、そこ元も我等もと向と我を一ちまきに云時の字ぞ。○貨色両關。此の二つか一生ついてまわる。孔子の、少き時戒之在、老に及ては得にありと、どれもそのことの盛んな処て云たもの。若ひ時欲かない、老人色を好まぬと云ことてはない。此両關中々終身□へられぬもの。皆大概こへた顔て居るものだが、それは吟味のつまらぬの。古今之分義理の弁、利か義かの吟味かつまりてそれからでなく、中々此關はこへられぬ。先つをとなしい人の病と云が好色に迷ふ時分から、をらは見苦しひことはせぬと覚てをる。又、活達な者は、なにそのやうなくつ々々したことはないと思ふ。どれも浅見先生の云はるる筭用ちがいだ。工夫かあらいそ。打たした云は、爰の工夫をしてしぬくことた。透るなり。それが一寸としてゆくことてなく、又猫のをきをせせりと云やふなことてはゆかぬ。針治が針を立るにこだはり、へちとあたると病人がああいたみます々々々々々と云。そこで上へそろ々々ぬく。皮ぎり計りで病のなをりやふはない。病の処迠針を打こんでするでなくてはゆかぬ。爰は他人を頼みがたしの処ぞ。
【解説】
「答王子合書曰、大抵吾輩於貨色两關、打不透」の説明。「貨色両関」は一生付きまとうものだが、そこを工夫し抜くのである。
【通釈】
王子合はそれほど悪い人でもないが、ぱっとしない人だからこの様なこともある。この様な語が出るというのが向こうに恥じることがあるからである。「吾輩」という字は貴方衆という様なことだが、ここは貴方も私達もと、向こうと自分を一緒に言う時の字である。○「貨色両関」。この二つが一生付いて回る。孔子が、若い時は「戒之在色」で、老に及んでは得に在りと、どれもそのことの盛んな処で言ったもの。若い時には欲がなく、老人は色を好まないということではない。この両関が中々終身越えられないもの。皆大概越えた顔をしているが、それは吟味の詰まらないからである。古今の分義理の弁で、利か義かの吟味が詰まり、それからでなくては、中々この関は越えられない。先ず大人しい人の病というのが好色に迷う時分からのことで、俺は見苦しいことはしないと覚えている。また、闊達な者は、何その様なぐずぐずしたことはないと思う。どれも浅見先生の言われる算用違いである。工夫が粗い。「打」は、ここの工夫をしてし抜くこと。それで「透」となる。それは一寸して行くことではなく、また、猫の荻をせせるという様なことではうまく行かない。針治が針を立てるのに拘って、しっかりと当たると病人がああ痛みますと言う。そこで上へゆっくりと抜く。最初だけで病が治る筈がない。病の処まで針を打ち込んでするのでなければ悪い。ここは他人を頼み難しの処である。
【語釈】
・少き時戒之在…論語季氏7。「孔子曰、君子有三戒。少之時、血氣未定、戒之在色。及其壯也、血氣方剛、戒之在鬥。及其老也、血氣既衰、戒之在得」。

さてこのあとにひょんな咄がある。更無話可説。内へ帰りて吟味して見やれとなり。胸の不掃除ては話はならぬと云。家内すみ々々の処はごみたらけ。屏風を取と埒はない。そこ爰にいたちの吸かけの鼠が有ふ。貨色両關にさらさの風呂鋪をかぶせてをく。迂斉の、子路を堂に升るとあるも爰を話のなることだと云た。さすが直方門のよみやうた。与五右ェ門や太兵衛も暮に金を取扱ふ時考て見よ。南鐐銀などをにらめ付けて、透りたか透らぬかためして見よ。胸中のごみをはく氣で学問はすることだ。長作などは若ひなれば、最中好色のことでためして年の暮などには彌々打し透りたかと学友か廻状てもまはすこと。ここか透らずに朱子の処へ御慶申入にすと云てもうけぬ。のし計り出して朱子の咄はされぬなれば、さて々々痛入たこと也。
【解説】
「便更無話可説也」の説明。胸中の塵を掃く気で学問はするもの。それができない内は話ができない。子路はそれをしたから、孔子は子路を堂に升る人だと言ったのである。
【通釈】
さてこの後にひょんな話がある。「更無話可説」。家に帰って吟味をして見なさいと言った。胸が不掃除では話はできないと言う。家内隅々の処は塵だらけ。屏風を取ると埒はない。そこここにいたちの吸いかけの鼠がいることだろう。貨色両関に更紗の風呂敷を被せて置く。迂斎が、子路を堂に升るとあるのもここの話ができる者だからだと言った。流石に直方門の読み様である。与五右衛門や太兵衛も暮に金を取り扱う時に考えて見なさい。南鐐銀などを睨み付けて、透ったか透らないか試して見なさい。胸中の塵を掃く気で学問はするもの。長作などは若いから、最中好色のことで試して、年の暮などには愈々打たし透ったかと学友が廻状でも回す様にすること。ここが透らずに朱子の処へ御慶び申し入ると言っても朱子は受けない。熨斗ばかり出して朱子の話をされないのなら、それは実に痛み入ったことである。
【語釈】
・子路を堂に升る…論語先進14。「子曰、由之瑟、奚爲於丘之門。門人不敬子路。子曰、由也升堂矣。未入於室也」。
・与五右ェ門…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812
・太兵衛…北田慶年。東金市福俵の人。通称太兵衛。自家を「学思斎」とし、默斎に学ぶため他郷から来る人々を宿泊させると共に、子弟をそこで教導した。
・南鐐銀…江戸時代の貨幣で、二朱判銀のこと。
・長作…山田長作。山田華陽斎。名は記思。通称は長作、黒水。館林藩士。1773~1832


学者不於富貴之條
22
學者不於富貴貧賤上立定、則是入門便差了也。語類十三。
【読み】
學者富貴貧賤の上に於て立ち定まらざれば、則ち是れ門に入りて便ち差い了る。語類十三。

足のふら々々せぬが立定の字ぞ。富貴貧賎なんてもかまわす立定してること。近思録の出處の篇、爰を立定ることた。隱者はとかく出まいと云、俗人は出たがる。伊尹の出たのは冨貴に立定した、顔子の陋巷は貧賎に立定してた。向から来しだいなことぞ。それで孔子は出てよいときは出る、出まいときは出ぬ。立定た人はちっとも吾をまけぬ。小学に虔州の人で開封の戸籍に出るは、欲仕君先欺君。出かけからわるいと云てある。かるいことのやうたか、一生の魂だ。公事人か、江戸に居ては町奉行へ出子ばならぬ、勝手にわるいと千住へ越して勘定奉行へ出やうとする。学者もそれに似たことをする。色々とすることは皆玉しいのきまらぬのなり。今日の学問の仕やうて垩賢になろふと云は比丘尼を軍に出すやうなもの。女も食い付かひっかくことはなろふが、軍には出られぬ。垩学は大軍ぞ。直方先生、中庸の十四章で不願外のことに、山伏は頭巾朱鞘だけよいと云たが爰ぞ。どうしても立定の魂なくては志はとげられぬことなり。
【解説】
学者は「富貴貧賎」などに構わず、立定していなければならない。立定して、向こう次第に応じるのである。
【通釈】
足のふらふらとしないのが「立定」である。「富貴貧賎」何でも構わず立定していること。近思録の出処の篇がここを立定すること。隠者はとかく出ないと言い、俗人は出たがる。伊尹が出たのは冨貴に立定し、顔子の陋巷は貧賎に立定してのこと。それは向こうから来次第なこと。それで孔子は出てよい時には出て、出てはならに時には出ない。立定の人は少しも自分を曲げない。小学に虔州の人が開封の戸籍に出るのは、「欲仕君先欺君」で、出掛けから悪いとある。軽いことの様だが一生の魂のことである。公事人が、江戸にいては町奉行へ出なければならない、勝手に悪いと千住へ越して勘定奉行へ出ようとする。学者もそれに似たことをする。色々とするのは皆魂が決まらないからである。今日の学問の仕様で聖賢になろうと言うのは比丘尼を軍に出す様なもの。女も食い付くか引っ掻くことはできようが、軍には出られない。聖学は大軍である。直方先生が、中庸十四章の「不願乎其外」を、山伏は頭巾朱鞘だけよいと言ったのがここのこと。どうしても立定の魂がなければ志は遂げられない。
【語釈】
・顔子の陋巷…論語雍也9。「子曰、賢哉、囘也。一箪食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉、囘也」。
・欲仕君先欺君…小学外篇善行。「李君行先生名潜、虔州人。入京師至泗州留止。其子弟請先往。君行問其故。曰、科場近。先至京師貫開封戸籍取應。君行不許。曰、汝虔州人而貫開封戸籍、欲求事君而先欺君可乎。寧遲緩數年不可行也」。
・不願外…中庸章句14。「君子素其位而行、不願乎其外。素富貴、行乎富貴。素貧賤、行乎貧賤。素夷狄、行乎夷狄。素患難、行乎患難。君子無入而不自得焉」。


財猶膩也之條
23
財、猶膩也。近則汚人。豪傑之士耻言之。百三十八。
【読み】
財は猶膩のごとし。近ければ則ち人を汚す。豪傑の士は之を言うを耻ず。百三十八。

いかさま冨貴貧賎と云へば大事、財と云へばちょっとしたやうじゃが、あけて見ると一とつつきた。財と云も同ことだ。宋朝で、爲宰相要得銭多、云た人がある。二本道具と云たばかりではない。大名のよいと云も財のことだ。又、貴人望ではないが、我々は浪人で銭の夛いがよい云か、それもやっはり冨貴のことだ。冨豪な町人百姓、大名よりよいと云も財のことだ。此條前条と同ことだか、冨貴と云字を財と出したで面白い。猶膩。そこへより付と汚人。とぼし油賣、どれも性行靜に見へるが、ああよこれておるもの。これはもと通鑑にある、輿猶膩と云たこと。南北朝あたりの人。劉輿と云た人。それを朱子のなして云たこと。豪傑之士耻言之。豪傑は学者の数に入れぬ人で云、いたみいら子ばならぬ。鞭策録は垩人になる氣のもちへ読せる書だ。豪傑、只ならぬたぎりた人なり。それさへそのやふなことはないといたみ入らせたもの。頼朝義経と云位でも、財と云字は云ぬ。財は一ち調法なもの。知惠につついた財だが、学問のさまたげをするもの。そこて財猶膩也。しみこむと膓がくさる。
【解説】
ここの「財」は前条の「富貴貧賎」と同じこと。財は猶膩のごとしで、これが染み付くと腹が腐る。
【通釈】
いかにも富貴貧賎と言えば大事なことで、財と言えば一寸したことの様だが、開けて見ると一続きである。財も富貴貧賎と同こと。宋朝で、「為宰相要得銭多」と言った人がいる。二本道具と言うばかりではない。大名がよいというのも財のこと。また、貴人を望むのではないが、我々浪人が銭の多いのがよいと言うのも、やはり富貴のこと。富豪な町人百姓は大名よりもよいと言うのも財のこと。この条は前条と同じことだが、富貴という字を財と出したのが面白い。「猶膩」。そこへ寄り付くと「汚人」。灯し油売りは、どれも性行静かに見えるが、あの様に汚れているもの。これはもと通鑑にあって、「輿猶膩」と言ったこと。南北朝辺りの人。劉輿という人。それを朱子が変えて言ったこと。「豪傑之士恥言之」。豪傑は学者の数には入れない人なので、痛み入ることである。鞭策録は聖人になる気の者に読ませる書である。豪傑は、ただならぬ滾った人。それでさえその様なことはないと、痛み入らせたもの。頼朝義経という位でも、財という字は言わない。財は最も調法なもの。知恵に続く財だが、学問の妨げをするもの。そこで財猶膩也。これが染み込むと腹が腐る。
【語釈】
・輿猶膩…資治通鑑晋紀8。「越將召劉輿。或曰、輿猶膩也。近則污人」。


人須是有廉耻之條
24
人須是有廉耻。孟子曰、耻之於人大矣。耻便是羞惡之心。人有耻、則能有所不爲。今有一檨人不能安貧、其氣銷屈、以至立脚不住。不知廉恥、亦何所不至。因舉呂舍人詩云、逢人即有求、所以百事非。十三。
【読み】
人は須く是れ廉耻有るべし。孟子曰く、耻の人に於るや大なり。耻は便ち是れ羞惡の心。人耻有れば、則ち能く爲さざる所有り。今一檨の人有りて貧を安んずること能わず、其の氣銷屈し、以て立脚を住まざるに至る。廉恥を知らざれば、亦何の至らざる所あらん。因りて呂舍人の詩を舉げて云う、人に逢えば即ち求むる有り、以て百事非なる所なり。十三。

須と云字か無ふてならぬものじゃと云こと。廉知と云持合せかないと跡はぐにゃ々々々になる。廉知はかどのあること。かどと云はあたりのわるいやうなものたけれども、明德性善をいかすものは廉耻だ。廉耻がないと親の皃に泥を塗ると云ことにもなる。又性善にも泥をかける。○於人大矣が千両道具と云こと。一日も耻がないと玉しいがぶちかへる。大事のことだ。廉耻で魂がしゃんと引立つ。燭臺にしん棒があるであかりがよい。しん棒がたをれては蝋燭はてらぬ。能有所不為。人の魂すまいことをせぬと云字でよい。暮には父兄の云付けて金借りにゆく。いろ々々とあたまさげ云にくいことをも云が、返り路に落て居た金をひろうて返ると乞食の玉しいになる。有所不爲か廉耻の心の立たのぞ。今皆か皈りがけにひだるい色青さめた、これを参れと番太がにぎり飯を出す。過分ではあるがくわれぬと云のぞ。せさる処あるがきまら子ばならぬことだ。人の金子を借りて返さずに立派をするは盗をするも同前と直方先生の福山で講釈に云た。あたりのある役人がことの外にくみて、それが本とて暇願いをしたと云。いかさま人のにくむことだが、平生は素町人と云ながら、其素町人がものを借りて返さぬと云はきたない魂だ。
【解説】
「人須是有廉耻。孟子曰、耻之於人大矣。耻便是羞惡之心。人有耻、則能有所不爲」の説明。廉恥がないと親の顔に泥を塗り、性善にも泥を掛ける。廉恥で魂がしゃんと引き立つ。してはならないことはしないと決めるのである。
【通釈】
「須」という字がなくてはならないものだということ。「廉恥」を持ち合わせないと後はぐにゃぐにゃになる。廉恥は廉のあること。廉は当たりの悪い様なものだが、明徳性善を生かすものは廉恥である。廉恥がないと親の顔に泥を塗るということにもなる。また、性善にも泥を掛ける。○「於人大矣」が千両道具ということ。一日も恥がないと魂が元に戻る。それは大事なこと。廉恥で魂がしゃんと引き立つ。燭台に心棒があるので灯りがよい。心棒が倒れては蝋燭が照らない。「能有所不為」。人の魂がしてはならないことをしないというのでよい。暮には父兄の言い付けで金を借りに行く。色々と頭を下げ、言い難いことをも言うが、帰り道に落ちていた金を拾って帰ると乞食の魂になる。有所不為か廉恥の心の立ったこと。今皆か帰り掛けに空腹で青ざめいるところへ、これを参れと番太が握り飯を出す。過分ではあるが食えないと言うのである。してはならない処が決まらなければならない。人の金子を借りて返さずに立派をするのは盗をするも同然だと直方先生が福山での講釈で言った。心当たりのある役人が殊の他憎んで、それが元で暇願いをしたと言う。いかにも人の憎むことだが、平生は素町人と言いながら、その素町人がものを借りて返さないというのは汚い魂である。
【語釈】
・番太…江戸時代、町村に召し抱えられて火の番や盗人の番に当った者。非人身分の者が多く、番非人ともいわれた。江戸では番太郎といい、平民がなり、町内の番小屋に住んで駄菓子・雑貨などを売りながら、その任をつとめた。

○不能安貧と云きたない根情から、どふぞ今迠の形でくらしたいと云。そこを付け込れて、あの人にも近付になりておるがよい、福者でござるなそと云るる。そこへ二本さしていつも甼人があるく、あしろふもの。なんと碁は御嫌いかなぞと云調子なもの。浪人儒者などか冨豪に出合たがる。みぐるしいものだ。其氣銷屈。身上のよいものの処へゆきたとて、じきに銷屈をせぬ筈だか、斯ふもしたらよいかと云のなり。臆病もの、雷の鳴る時そこへ人をおきたがる。女などにはなをあるが、なんの為めになろふぞ。だたい腰ぬけと云の二字だ。
【解説】
「今有一檨人不能安貧、其氣銷屈、以至立脚不住。不知廉恥、亦何所不至」の説明。貧に安んじることができないから、今まで通りに暮らしたいと思い、追従を言う。
【通釈】
○「不能安貧」という汚い根性から、どうか今まで通りに暮らしたいと言う。そこを付け込まれて、あの人にも近付きになっているのがよい、福者だなどと言われる。そこへいつも二本差しをして、町人が歩くところをあしらうもの。碁は御嫌いかなどと言う調子である。浪人儒者などが富豪に出合いたがる。それは見苦しいこと。「其気銷屈」。身上のよい者の処へ行ったとしても、直ぐに銷屈はしない筈だが、こうもしたらよいだろうなどと言う。臆病者は雷の鳴る時、そこへ人を置きたがる。女などには尚更にあることだが、それが何のためになるものか。そもそも腰抜けという意の二字である。

○逢人即有求。あまりさもしいことてもないが、それがもふと云こと。鞭策録のここも近思の懈怠一生自棄自暴も同じ意なり。さまてもないことを大そうに云か吾学の精彩ぞ。長作に館林の千本んしめ治、幸便のときくれろと云たとて、あまりきたないことでもないが、それも云はぬことなり。求ると其日から乞喰と云ことでもないが、所以百事非。心がたきらぬと未発からのくれろだ。求めずともくれろづらだ。それか段々こふじて廉耻をなくす。廉耻をなくすと何もかもろくなことはない。百事非ぞ。或道具屋の貰ひ好きか、物を見るとこれはをまへ入るまいなと声をかける。貰ふつもりぞ。直方先生の、人の女房の開帳参りにゆくをじろ々々見るは未発の密夫と云れた。そこ迠へ吟味をかけるが鞭策の魂だ。学挍などてこふよんで、大勢向ふにひかへたものの爲にもならぬことだか、斯ふ云熊膽を呑子ば垩学の任はもたれぬことだ。
【解説】
「因舉呂舍人詩云、逢人即有求、所以百事非」の説明。心が滾らないと、未発の時から求める様になる。これが高じて廉恥がなくなる。
【通釈】
○「逢人即有求」。あまりさもしいことでもないが、それがもう悪い。鞭策録のここも近思の「懈意一生自棄自暴」も同じ意である。それほどでもないことを大層に言うのが我が学の精彩である。長作に館林の千本占地を幸便の時にくれと言ったとしても、あまり汚いことでもないが、それも言わないこと。求めるとその日から乞食だと言うことでもないが、「所以百事非」。心が滾らないと未発の時からくれと言う。求めなくてもくれと言う顔をしている。それが段々高じて廉恥をなくす。廉恥をなくすと何もかも碌なことはない。百事非である。或る道具屋の貰い好きが、物を見るとこれはお前は要らないだろうなどと声を掛ける。貰うつもりである。直方先生が、人の女房の開帳参りに行くのをじろじろと見るのは未発の密夫だと言われた。そこまで吟味を掛けるのが鞭策の魂である。学校などでこの様に読んでは、向こうに控えた大勢の者のためにもならないことだが、この様な熊膽を飲まなければ聖学の任は持てないもの。
【語釈】
・懈怠一生自棄自暴…近思録為学35。「懈意一生、便是自棄自暴」。
・長作…山田長作。山田華陽斎。名は記思。通称は長作、黒水。館林藩士。1773~1832
・幸便…よいついで。都合のよいたより。


答蔡季通書之條
25
答蔡季通書曰、見近日朋友憂道、不如憂貧之切。心甚愧恐。平日所講果爲何事、而一旦小利害便打不過。欲望其守死善道難矣。文集四十四。
【読み】
蔡季通に答うる書に曰く、近日朋友の道を憂うるは、貧を憂うるの切に如かざるを見る。心は甚だ愧恐す。平日講ずる所、果して何事と爲して、一旦小利害あれば便ち打たし過たず。其れ死を守り道を善くするを望まんと欲するは難し。文集四十四。

憂道、不如憂貧之切。これらは早く左様でごさると返事をするがよい。吾黨のものは道を憂る顔だが、なんとしてなり。排釈録のはじめにも任道者とあるが、異端を憂るも去春などの丸焼ほどには思はぬ。をらなど今年九年母のならぬも喜はぬ方なり。あれを取て賣る身分でもないが、ちと心にある。冬至文以上と云が爰の本とふになりた処。任した皃でまぎらすは胸がわるい。これは心へきりつけて道理を憂るが、貧ほどせつないがせつなくないかと云のぞ。此字の出処は論語だ。これが孔門は魂だ。○甚愧恐す。これがうそに云へば朱子ではない。吾はとうにそれになりて、これが朱子の新民だ。○平日所講果爲何事。木口塲をにげたものに、此様なよい鎧でこのきれ物をさして、これで迯げたかとたたいて見せたやうなもの。纔の小利害、それがならずはあのときがなるまい。守死善道は大きなこと。小いことかならいで大がどうして成ふぞ。論語のよみやうがわるいからと愧恐すなり。
【解説】
道理を憂うるのは心へ切り付けてすることだが、それは貧ほど切ないものかどうかと問うて見なければならない。貧などの小利害が済まなければ、大きな「守死善道」をすることなどはできない。
【通釈】
「憂道、不如憂貧之切」。これ等のことは早くその通りですと返事をするのがよい。我が党の者は道を憂うる顔をしているが、どうもそうではない。排釈録の始めにも「任道者」とあるが、異端を憂うるにも、去春などの丸焼けほどには思わない。俺など今年九年母が生らないのも喜ばない方である。あれを取って売る身分でもないが、それも一寸心にある。冬至文以上というのが、ここが本当になった処。任じた顔で紛らかすのでは胸が悪くなる。これは心へ切り付けて道理を憂うることだが、貧ほど切ないか切なくないかと問うのである。この字の出処は論語である。これが孔門の魂である。○「甚愧恐」。これを嘘で言えば朱子ではない。私はとっくにそれになったと言う。これが朱子の新民である。○「平日所講果為何事」。戦場を逃げた者に、この様なよい鎧でこの切れ物を差していながら、これで逃げたのかと祟って見せた様なもの。纔かな小利害のことが済まなくて、「守死善道」はできないだろう。守死善道は大きなこと。小さなことができなくて、で大きなことがどうしてできるだろう。論語の読み方が悪いからだと愧恐する。
【語釈】
・任道者…排釈録1。「異端之害道、如釋氏者極矣。以身任道者、安得不辯之乎」。
・九年母…ミカン科ミカン類の常緑低木。
・論語…論語衛霊公31。「子曰、君子謀道不謀食。耕也、餒在其中矣。學也、祿在其中矣。君子憂道不憂貧」。

さてこのあいてが蔡季通だ。朱子に連及して道州へ流されたほどのこと。其人にこのやふな□はありそもないことなり。されどもこれが卑陋て貧を憂ふを戒めたことてなく、高い人物ゆへ道の憂やふが親切にないこともあり、又、貧ての憂は高い方から一日ごかしにまあ斯ふして居てもよいと云やうなことで、何やらやりばなしなこともありたやうなことを、朱子から戒めてやりたと見へる。幸田子を人のわるく云もこのやふなことで、大名に金子だりても何とも思はぬ。此外季通へ朱子の、爲悪而不近刑は荘子が浅近と思ふたが、今思へばさうでないと云やりたこともある。季通へあてたことありて、一服飲ませたなり。幸田子にもあまたの押し手があればあふはならぬ。人もわるく云ぬで有ふ。さて此條などは立志にありても一と通りでない。塩梅のあること。季通への手紙の返事に、近日朋友云々とひろく云たと云てはあたりがなし。又季通には貧を憂るかあると云に片付ることもならず、取扱の大事な條ぞ。文集や淵源録、とくと読たものでなくてはすみにくい條ぞ。
【解説】
蔡季通に貧を憂うるの切に如ずと朱子が言ったのは、蔡季通は高い人なので、貧を遣り放しにするところがあることを戒めたもので、蔡季通が貧を憂えたということではない。これは高い蔡季通への戒めなので、文集や淵源録をしっかりと読んだ者でなくては済み難い条である。
【通釈】
さてこの相手が蔡季通である。彼は朱子に連座して道州へ流されたほどの人で、その人にこの様な□はありそうもないこと。しかしながら、これは卑陋で貧を憂うることを戒めたことではなく、高い人物なので道の憂い様が親切でないこともあり、また、貧の憂いは高い方から一日ごかしにまあこうして置いてもよいと言う様なこともあり、何やら遣り放しなこともあった様なことを朱子が戒めて遣ったことと見える。幸田子を人が悪く言うのもこの様なことで、大名に金を強請っても何とも思わない。この外季通に朱子が、「為悪而不近刑」は荘子の浅近だと思ったが、今思えばそうでないと言い遣ったこともある。これは季通へ当てることがあって、一服飲ませたのである。幸田子も多少の意見者がいればあの様にはならない。人も悪く言わないだろう。さてこの条などは立志に関しても一通りのことではない。塩梅のあること。季通への手紙の返事に、「近日朋友云々」と広く言ったと思っては的が違う。また、季通には貧を憂うるところがあると片付けることもならず、取り扱いの大事な条である。文集や淵源録をしっかりと読んだ者でなくては済み難い条である。
【語釈】
・幸田子…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・爲悪而不近刑…荘子内篇養生主。「吾生也有涯、而知也無涯。以有涯隨無涯、殆已。已而爲知者、殆而已矣。爲善無近名、爲惡無近刑、縁督以爲經、可以保身、可以全生、可以養親、可以盡年」。


以今世之所習之條
26
以今世之所習、雖做得官、貴窮公相、也只是箇沒見識底人。若依古聖賢所敎做去、雖極貧賤、身自躬耕、而胸次亦自浩然、視彼汚濁卑下之徒、曾犬彘之不若。語類百二十一。
【読み】
今世の習う所を以て、官と做し得、貴きこと公相を窮むと雖も、也た只是れ箇の見識を沒する底の人なり。若し古聖賢の敎うる所に依りて做し去かば、貧賤を極め身は自ら躬耕すと雖も、而して胸次亦自ら浩然、彼の汚濁卑下の徒を視るに、曾て犬彘之れに若かず。語類百二十一。

今世所習は挙業のことだ。隋唐以来始りた。程朱一生顔をしかめた。日本にはこれがないが幸だか、今ては上で学問のことを御世話なさるるたけ、ちとそれめいて来た。挙業は学者心術のわるくなることだ。貴窮公相。あの方は家からでなく級第から宰相にもなる。それを本望なことと思ふが、没見識底人。圣賢の道の貴い処を一つ見ることはならぬ。道理を見ずに只よむのだ。本に志なくば、あまり時めかぬことぢゃ。○依古垩賢所教。古今之辨義理之分、学問はこれですることた。訂翁など一生貧賎を極めた。久しい貧乏で、いつも白ひさいみの袴でをられた。をれが往た時、此頃は書生の世話で身上もよい。酒は大坂から忠藏がこしますと云たが、富とは云へなんだ。某来て上総の書生もはばか出来たやうだが、一人も魂はない。このひどい鞭策録も小市や行藏がよんだらひびかふが、をれがだたいやだものゆへひびかぬであろう。ああ仕方もないことだ。○犬彘之不若。論孟の文義もすんでも、只犬や彘のこへたやうな。秦楚之冨不可及とは出ぬ。蔡京も只悪人と計りみるが、あれも学者だ。なれども没見識底からあふなりた。宰相ゆへあのさまぞ。この條のことが閔子鶱のことについて云たこと。朱子もこのやうなことをつよく云から、某頭粘在於頸上と云。又、答呂伯恭書にも、きさまとをれと出合ふか目立ってはをためにもなるまい。どこの処でひそかに出合はふと云たこともある。いつれ魂がたぎりたゆへの咎ぞ。衆人愛敬底ではない。
【解説】
官職を望み、上になって富を得ようと学問をするのは見識のないこと。学問は古今の弁義理の分でするもので富貴に関係はない。彼等が論孟を読んでも、それは犬や豕が肥えるのと同じである。
【通釈】
「今世所習」は挙業のこと。隋唐から始まった。それで、程朱は一生顔をしかめていた。日本にはこれがないのが幸いだか、今では上で学問のことを御世話なされるだけ、一寸それめいて来た。挙業は学者の心術の悪くなること。「貴窮公相」。あちらでは家柄でなく、級第で宰相にもなる。それを本望なことだと思うのが、「没見識底人」である。聖賢の道の貴い処を一つ見ることができない。道理を見ずにただ読むだけである。本当に志がなければ、あまり時めかない。○「依古聖賢所教」。学問は古今の弁義理の分でするもの。訂翁などは一生貧賎を極めた。久しく貧乏で、いつも白い細布の袴でおられた。俺が往った時、この頃は書生の世話で身上もよい。酒は大坂から忠蔵が送って来ますと言ったが、富んでいるとは言えない状態だった。私が来て上総の書生も幅ができた様だが、一人も魂はない。この厳しい鞭策録も小市や行蔵が読めば響くだろうが、そもそも俺がよくないから響かないだろう。ああそれは仕方もないこと。○「犬彘之不若」。論孟の文義が済んでも、ただ犬や彘が肥えた様である。「晋楚之富不可及」とは出ない。蔡京もただ悪人とばかり見ているが、あれも学者である。しかしながら没見識底からあの様になった。宰相なのであの様である。この条は閔子鶱のことについて言ったこと。朱子もこの様なことを強く言うから、私が彼を「頭粘在於頸上」と言う。また、答呂伯恭書にも、貴様と俺とが出合うと目立るので、お為にもならないだろう。何処かで密かに出合おうと言ったこともある。いずれも魂が滾ったからの咎である。衆人愛敬底ではない。
【語釈】
・訂翁…久米訂斎。京都の人。三宅尚斎門下。名は順利。通称は断二郎。尚斎の娘婿。1784年没。
・さいみ…貲布。細布。織目のあらい麻布。夏衣などに用いる。
・忠藏…
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・行藏…村士玉水。江戸の人。名は宗章。別号は一斎。門下に寛政三博士の一人である岡田寒泉がいる。享保14年(1729)~安永5年(1776)
・秦楚之冨不可及…孟子公孫丑章句下2。「曾子曰、晉楚之富、不可及也。彼以其富、我以吾仁。彼以其爵、我以吾義。吾何慊乎哉」。
・蔡京…北宋末の宰相。徽宗に取り入り,奢侈をすすめて財政を窮迫させた。1047~1126