廷秀問條  七月十六日  文録
【語釈】
・七月十六日…寛政5年(1893)7月16日。
・文…林潜斎。花沢文次。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

27
廷秀問、今當讀何書。曰、聖賢敎人、都提切己説話。不是敎人向外、只就紙上讀了便了。自家今且剖判一箇義利、試自睹當自家、今是要求人知、要自爲己。孔子曰、君子喩於義、小人喩於利。又曰、古之學者爲己、今之學者爲人。孟子曰、亦有仁義而已矣。何必曰利。孟子雖是爲時君言、在學者亦是切身事。大凡爲學、且須分箇内外。這便是生死路頭。今人只一言一動、一歩一趨、便有箇爲義爲利在裏。從這邊便是爲義、從那邊便是爲利。向内便是入聖賢之域、向外便是趨愚不肖之途。這裏只在人劄定脚做將去、無可商量。若是已認得這箇了、裏面煞有工夫、卻好商量也。顧謂道夫曰、曾見陸子靜義利之説否。曰、未也。曰、這是他來南康。某請他説書、他卻説這義利分明、是説得好。如云、今人只讀書便是爲利、如取解後、又要得官、得官後、又要改官、自少至老、自頂至踵、無非爲利、説得來痛快、至有流涕者。今人初生稍有知識、此心便恁亹亹地去了。干名逐利、浸浸不已。其去聖賢日以益遠。豈不深可痛惜。百十九。
【読み】
廷秀問う、今當に何の書を讀むべき。曰く、聖賢の人を敎うる、都て己に切なる説話を提ぐ。是れ人の外に向い、只紙上に就きて讀了し便ち了らしめず。自家今且つ一箇の義利を剖判し、試みに自ら自家、今是れ人知を求むるを要するか、自ら己が爲を要するかを睹當せよ。孔子曰く、君子は義に喩く、小人は利に喩し。又曰く、古の學者己が爲、今の學者人の爲。孟子曰く、亦仁義有るのみ。何ぞ必ずしも利と曰わん。孟子是れ時君の爲に言うと雖も、學者に在りても亦是れ身に切なる事なり。大凡學を爲むるは、且つ須く箇の内外を分つべし。這は便ち是れ生死路頭。今人只一言一動、一歩一趨、便ち箇の義を爲し利を爲すは裏に在るに有り。這邊に從えば便ち是れ義の爲、那邊に從えば便ち是れ利の爲。内に向えば便是れ聖賢の域に入り、外に向えば便ち是れ愚不肖の途に趨る。這裏は只人の脚を劄定し做し將に去くに在り、商量す可き無し。若し是れ已に這箇を認得し了れば、裏面煞だ工夫有り、卻って商量に好し。顧みて道夫に謂いて曰く、曾て陸子靜義利の説を見るや否や。曰く、未だし。曰く、這は是れ他は南康より來れり。某他に書を説くを請うに、他は卻って這の義利を説いて分明、是れ説き得て好し。今人只書を讀むは便ち是れ利の爲、解を取りて後、又官を得るを要し、官を得て後、又官を改むるを要すが如く、少より老に至るまで、頂より踵に至るまで、利の爲に非ざる無しと云が如き、説き得來て痛快、涕を流す者有るに至る。今人初めて生れ稍知識有る、此の心便ち恁く亹亹地に去き了る。名を干し利を逐い、浸浸として已まず。其の聖賢を去ること日に以て益々遠し。豈深く痛惜す可からざるや。百十九。

今當読何書。廷秀が此節何の書を読ませふか、と。これが誰でもあたり前の問なり。然るに本んの益は何の書と云ことはないこと。直方の、五車の書ても己か爲めあり、学而の一篇でも人のためがあると云れた。○曰、垩賢教人、都提切己説話。不是教人向外、只就紙上讀了便了。何の書を読べきと問は尤なれども、朱子のそれをはづして云。論語二十篇、句々肝要で、皆己に切なることなれども、外に向ふと役にたたぬ。学問の譬喩に親切なは医者の療治なれども、学問のことと違いのあるは、医者は益氣湯と云ことなれば益氣湯で動かぬ。学者には是非論語と云ことでなし。読みやうにあることなり。○自家今且剖判一箇義利、試自睹當自家、今是要求人知、要自爲己。今の学者はここを知らぬ。何の書とかぎることでもなく、よく剖判すると三才圖繪ても益あることぞ。睹當は、空にせず己にあてて見ることなり。讀法にも、爲今日之耳聞と云。義理の辨は斯ふじゃと文義ばかりを只言ふゆへ役にたたぬ。我胸へあてて、人の為か己か爲かを見ることぞ。
【解説】
「廷秀問、今當讀何書。曰、聖賢敎人、都提切己説話。不是敎人向外、只就紙上讀了便了。自家今且剖判一箇義利、試自睹當自家、今是要求人知、要自爲己」の説明。どの書を読むかは問題ではない。己のために読むことが大事である。
【通釈】
「今当読何書」。廷秀がこの節どの書を読んだらよいでしょうかと尋ねた。これは誰でも当たり前の問いである。しかし、本の益は何の書がよいということではない。直方が、五車の書でも己のためがあり、学而の一篇でも人のためがあると言われた。○「曰、聖賢教人、都提切己説話。不是教人向外、只就紙上読了便了」。何の書を読べきかと問うのは尤もなことだが、朱子はそれを受けずに言った。論語二十篇は、句々肝要で、皆己に切なことが書かれているが、外に向かうと役に立たない。学問の譬喩に親切なのは医者の療治のことだが、学問のことと違いのあるのは、医者は益気湯ということであって、益気湯で確かなこと。学者には是非論語と言うことではない。読み方が重要である。○「自家今且剖判一箇義利、試自睹当自家、今是要求人知、要自為己」。今の学者はここを知らない。何の書と限ったことではなく、よく剖判すれば三才図絵でも益ある。「睹当」は、空にせず己に当てて見ること。読法にも、「作今日耳聞」とある。義理の弁はこうだと文義ばかりをただ言うのでは役に立たない。自分の胸に当てて、人のためか己かためかを見るのである。
【語釈】
・五車…荘子雑篇天下。「恵施多方、其書五車」。
・三才圖繪…天文・地理・人物・動物・植物・器物、その他種々の物を図解して説明した書。106巻。明の王圻の撰。1607年成る。その子思義これを続集。
・爲今日之耳聞…読論語孟子法。「程子曰、學者須將論語中諸弟子問處便作自己問、聖人答處便作今日耳聞、自然有得」。

○孔子曰、君子論於義、小人喩於利云々。我講釈も、これは義でするか利でするかと睹當すべきこと。役人の前で講釈の時、義か利かと云はば、我胸へ耻ることあるべし。長作も国へ帰って講釈よくするとて首尾がよくば親父が悦ばうが、そこを睹當せふこと也。己が為のやうに只口でばかり云て講釈を念ごろにしても、人の為があるなり。孟子曰、亦有仁義而已矣。何必曰利。孟子雖是爲時君言、在学者亦是切身事。時君の爲めに言を經済のことと思ふが、何にぶんに経済と云ことはない。利のためが微塵もあると学問も何も皆になる。孟子のこの語、病根を切ること。胸の中に少しも利が有てはならぬ。○大凡爲学、且須分箇内外。這便是生死路頭。内外の字が己が爲め人の爲にもあたり、又、義と利も内外ぞ。生死路頭は地獄極樂の堺目と云やうなもの。爰をふみはどすとどふもならぬ。
【解説】
「孔子曰、君子喩於義、小人喩於利。又曰、古之學者爲己、今之學者爲人。孟子曰、亦有仁義而已矣。何必曰利。孟子雖是爲時君言、在學者亦是切身事。大凡爲學、且須分箇内外。這便是生死路頭」の説明。義でするか利でするかと睹当する。利のためが微塵でもあれば学問は台無しになる。
【通釈】
○「孔子曰、君子喩於義、小人喩於利云々」。自分の講釈も、これは義でするか利でするかと睹当しなければならない。役人の前で講釈の時、義か利かと言えば、自分の胸に恥じることがあるだろう。長作も国に帰って講釈よくすると、首尾がよければ親父が悦ぶことだろうが、そこを睹当しなければならない。己のための様にただ口でばかり言い、講釈を懇ろにしても、人のためがある。「孟子曰、亦有仁義而已矣。何必曰利。孟子雖是爲時君言、在学者亦是切身事」。時君のために言ったのが経済のことかと思えば、何分にも経済のことではない。利のためが微塵でもあると学問も何も台無しになる。孟子のこの語は病根を切ること。胸の中に少しも利があってはならない。○「大凡為学、且須分箇内外。這便是生死路頭」。内外の字が己のため人のためにも当たり、また、義と利も内外である。生死路頭は地獄極楽の境目という様なもの。ここを踏み外すとどうにもならない。
【語釈】
・君子論於義…論語里仁16。「子曰、君子喩於義、小人喩於利」。
・長作…山田長作。山田華陽斎。名は記思。通称は長作、黒水。館林藩士。1773~1832
・亦有仁義而已矣…孟子梁恵王章句上1。「孟子對曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣」。

○今人只一言一動、一歩一趨、便有箇爲義爲利在裏。従這邊便是爲義、従那邊便是爲利。向内便是入垩賢之域、向外便是趨愚不肖之途。這裏只在人劄定脚做將去、無可商量。迂斉、今人[きんじん]とよむはわるい、いま人とよむべしと云。四端の今人と同ことなり。誰でも一言一動、義か利の外はないもの。在裏が、そこについてあるを云。なるほど親への新酒と下たとき、賣場へ配る酒は違ふ。閔子の親への酒と豊嶋屋がくばるは義と利が違う。町医者の屠蘓をくばるもいやなり。爰がこまり切たと云もの。今日からは吾々も利の根を断ったと云れぬ。丁ど人に垢のつくやうなものにて、こちの身に又も垢がつく。義が不掃除なればそうなる。さてここは誠意の功夫なれども、学者は挌致の功夫なり。従這邊便是爲義、従那邊便是爲利を丁どに□□は誠意なれども、学者は義か利かを挌致でぎんみしてゆくべし。爲義は仁義のこやしにて、義利の掃除のよいが圣賢なり。愚不肖は、外に向て行水きらいなり。いつも垢がある。劄定脚做將去、無可商量。足を丈夫にして義の方へ行き、利の方へふみ込せぬ。一寸軽ひことでも、そこらの井戸ばたの際に女が居るに、外人が見ぬとて戯れも云まいと云るるか足を劄定なり。先日の王子合か処にも別に支度でない。垩賢に至るはそのやふな掃除なり。
【解説】
「今人只一言一動、一歩一趨、便有箇爲義爲利在裏。從這邊便是爲義、從那邊便是爲利。向内便是入聖賢之域、向外便是趨愚不肖之途。這裏只在人劄定脚做將去、無可商量」の説明。人の一言一動には、義か利の外はない。利は垢の様なもので、掃除をしなければ身に付いたままである。そこで、義で掃除をする。
【通釈】
○「今人只一言一動、一歩一趨、便有箇為義為利在裏。従這邊便是為義、従那邊便是為利。向内便是入聖賢之域、向外便是趨愚不肖之途。這裏只在人劄定脚做將去、無可商量」。迂斎が、今人[きんじん]と読むのは悪い、いま人と読みなさいと言った。それは四端の今人と同じこと。誰の一言一動でも、義か利の外はないもの。在裏が、そこに付いてあることを言う。なるほど親へ新酒を下ろした時は、売場へ配る酒とは違う。閔子の親への酒と豊嶋屋が配る酒とは義と利が違う。町医者が屠蘇を配るのも嫌なこと。ここが困り切ったというもの。今日からは我々も利の根を断ったとは言えない。それは丁度人に垢の付く様なもので、こちらの身にまたも垢が付く。義が不掃除であればそうなる。さてここは誠意の功夫のことだが、学者には格致の功夫である。「従這邊便是為義、従那邊便是為利」を丁度にやれば誠意になるが、学者は義か利かを格致で吟味して行きなさい。為義は仁義の肥やしで、義利の掃除のよいのが聖賢である。「愚不肖」は、外に向き、行水嫌いである。いつも垢がある。「劄定脚做將去、無可商量」。足を丈夫にして義の方へ行き、利の方へ踏み込ませない。一寸軽いことで言えば、そこ等の井戸端の際に女がいるとして、外に人が見えないとしても戯れも言わないというのが足を劄定である。先日の王子合の処にも別に支度はない。聖賢に至るのはその様な掃除をすること。
【語釈】
・先日の王子合…講学鞭策録21を指す。

○若是已認得這箇了、裏面煞有工夫、却好商量也。仕覚へたことでなければならぬ。仕覚へると功夫をむつかしくせずとなるものぞ。三年京学の筋ではゆかぬ。療治仕覚て、手ん手の心に覚へたことは、手もなくやすくなるもの。そこで好商量と云。文辞訓話ではならぬ。知た同士は凉いと云もこれからさきにあることなり。○顧謂道夫曰、曽見陸子靜義利之説否。曰、來也。曰、這是他來南康。某請他説書、他却説這義利分明、是説得好。其咄の序に陸子靜を云。あれは道学のさまたげになるものなれども、魂はと云ことなり。儒中の異端なれども、人欲をなくすにはよいなり。這是の這の字、其時の筆記を指して云。義利の説□□□なり。義利の説、今文集にもあるが、朱子のなをし□□へる。今ではさっとしたことなり。
【解説】
「若是已認得這箇了、裏面煞有工夫、卻好商量也。顧謂道夫曰、曾見陸子靜義利之説否。曰、未也。曰、這是他來南康。某請他説書、他卻説這義利分明、是説得好」の説明。自分の心に仕覚えたことは簡単にできるもの。「好商量」と言う。また、陸子静の義利の説が分明でよいと言った。
【通釈】
○「若是已認得這箇了、裏面煞有工夫、却好商量也」。仕覚えたことでなければならない。仕覚えると難しい功夫をしなくてもできるもの。三年京学の筋ではうまく行かない。療治を仕覚え、自分の心に覚えたことは、手もなく簡単にできるもの。そこで「好商量」と言う。文辞訓詁ではできないこと。知った同士は涼しいと言うのもこれから先にあること。○「顧謂道夫曰、曾見陸子静義利之説否。曰、未也。曰、這是他来南康。某請他説書、他却説這義利分明、是説得好」。この話の序に陸子静のことを言った。あれは道学の妨げになる者だが、魂はということ。儒中の異端だが、人欲をなくすにはよい。「這是」の這の字は、その時の筆記を指して言う。義利の説□□□のである。義利の説は今文集にもあるが、朱子のなおし□□える。今ではざっとしたこと。
【語釈】
・陸子靜…陸象山。南宋の大儒。名は九淵。字は子静。象山・存斎と号。江西金渓の人。程顥の哲学を発展、理気一元説を唱え、心即理と断じ、朱熹の主知的哲学に対抗。文安と諡す。1139~1192

○如云、今人只讀書便是爲利、如取解後、又要得官、得官後、又要改官、自少至老、自頂至踵、無非爲利、説得來痛快、至有流涙者。上德の者はここのさまたげなく学問で損をする。すれば皆君子になるべきはづなり。そふないは利の爲めはなけれども、どふでも薄すどんな処があると見へる。謂十次郎曰、賢もくさった玉子を持て來るが、役をしながら印判さへなく無して二三月すてておけは、鷄の塒[とや]は吟味せぬはづ。そうした薄どんな処があるぞ。知がさへぬと塒も知らぬ。某兎角わる口云が、口も知見から出るぞ。取解後、又要得官、得官後、又要改官。このやうに利にまくり付られる。この節の旱て、外とをあるくと足のどろになるのなり。さて、聽徒の涙を流したと云は、陸象山か胸の親切からのこと。今雄辨ゆへ、人が泣たと云へとも、雄弁て涙は出ぬ。それで涙が出るなら反魂丹賣が泣かせそふなもの。そふでなく、親切が心へひびく時のことなり。只の雄弁は耳へ入らぬもの。人に仁義の良心があるゆへ親切が向から響て、利は面目ないと涙なり。今日人が全くなければならぬの、揃は子ばならぬのと云は涙の出ぬ仕向けにて、寒暑を一度に持て来るなり。
【解説】
「如云、今人只讀書便是爲利、如取解後、又要得官、得官後、又要改官、自少至老、自頂至踵、無非爲利、説得來痛快、至有流涕者」の説明。今の人が読書するのは利のためで、官職を得ようとしてのこと。そこで利に捲くし立てられる。このことが陸象山の胸に響いた。
【通釈】
「如云、今人只読書便是為利、如取解後、又要得官、得官後、又要改官、自少至老、自頂至踵、無非為利、説得来痛快、至有流涙者」。上徳の者はここの妨げがなくて学問で損をする。それなら皆君子になるべき筈である。そうでないのは利のためではなくても、どうでも薄鈍な処があると見える。十次郎に謂いて曰く、賢も腐った卵を持って来るが、役をしながら印判さえなくして二三月捨てて置くのであれば、鶏の小屋は吟味をしない筈。そうした薄鈍な処があるもの。知が冴えないと鳥小屋も知らない。私はとかく悪口を言うが、口も知見から出るもの。「取解後、又要得官、得官後、又要改官」。この様に利に捲くし立てられる。それは、この節の旱で、外を歩くと足が泥になるのと同じである。さて、聴徒が涙を流したとあるのは、陸象山の胸の親切からのこと。今の人は雄弁だが、人が泣いたと言っても、雄弁によって涙は出ない。それで涙が出るのなら反魂丹売りが泣かせそうなもの。そうでなく、親切が心へ響く時のこと。ただの雄弁は耳へ入らないもの。人に仁義の良心があるので親切が向こうから響いて、利は面目ないと涙を流す。今日人が完全でなければならないとか、揃わなければならないと言うのは涙が出ない仕向けであって、寒暑を一度に持て来ることになる。
【語釈】
・薄すどん…薄鈍。うすのろ。まぬけ。
・十次郎…中田重次。十二とも言う。博徒であったが、三十歳頃に黙斎に入門。~1798

○今人初生稍有知識、此心便恁亹々地去了云々。これが知識の□□ぬ前からあるて、知るに隨てそれがある。小児同士で樒柑などをやるに、やりもやるが、是非わるい方か小いか疵のある方を友だちへやる。子とものことなれば人欲と云ほどのことでもないが、先つ我身を馳走する方が初めからあると見へる。干名逐利浸々不已。其去垩賢日以益遠云々。我と人の買物を一つにしたとき、名も利もあるゆへ我方へよいのを取ては如何と名をこのみ、されども我は江戸へ行ただけ善い方にしてもよかろうと云て利を好む。其二つのさはぎゆへ、胸の中でいつもがわ々々する。さて々々なさけないことなり。其去圣賢曰以益遠がだたい圣賢へ行ふとての学問をして、却てわる知惠がつき、利が功者になりて、結句遠くなる。迂斉平生丸けれども、さへたことを云ふ人欲を、そこへ人欲じゃとまけ出せと云へり。まけ出さずに善い顔するで興がさめる。皆学者が義利をかざり、胸の中の掃除はせぬ。さて々々ぞ。今日こんなことを見臺へのせて讀まぬゆへ役にたたぬ。世間の学者が鞭策録は読まずとよいと云そふなが、それなら近思録もよまぬがよいはづなれども、近思をよま子ば朱子学の言訳けがないゆへのこと。丁ど法蕐坊主が安国論をよま子ばすまぬやふなもの。近思を四子の階梯と云て鞭策録を近思の階梯と云ことを知らぬ。それゆへ精彩がつかぬ。これは長作への千両道具の進物なり。館林で東渓以来こんなひどい風が吹かぬ。只やわらかゆへ、とんび紙鳶あげるにはよい。
【解説】
「今人初生稍有知識、此心便恁亹亹地去了。干名逐利、浸浸不已。其去聖賢日以益遠。豈不深可痛惜」の説明。小さい頃から自分を馳走するものを人は持っている。その後は、名と利との騒ぎが心にできる。聖賢になるための学問をして、却って悪知恵が付いて聖賢から遠ざかる。義利を飾り、胸の中の掃除をしないのは嘆かわしいことである。
【通釈】
○「今人初生稍有知識、此心便恁亹々地去了云々」。これが知識の出る前からあって、知るに随ってそれがある。小児同士で蜜柑などを遣るにも、遣りもするが、是非の悪い方が、小さいか疵のある方を友達に遣る。それは子供のことなので人欲と言うほどのことでもないが、先ず我が身を馳走する方が初めからあると見える。「干名逐利浸々不已。其去聖賢日以益遠云々」。自分と人の買物を一緒にした時、名も利もあるので自分の方によいものを取って悪いと名を好み、しかしながら、自分は江戸へ行っただけ善い方を取ってもよいだろうと言って利を好む。その二つの騒ぎなので、胸の中がいつもがやがやとする。それは実に情けないこと。「其去聖賢曰以益遠」が、そもそも聖賢に行こうと学問をして、却って悪知恵が付き、利が功者になって、結局は遠くなる。迂斎は平生丸かったが、冴えたことを言う人欲を、そこへ人欲だと撒け出せと言った。撒け出さずに善い顔するので興が醒める。皆学者が義利を飾り、胸の中の掃除をしない。嘆かわしいことである。今日こんなことを見台に乗せて読まないので役に立たない。世間の学者が鞭策録は読まなくてもよいと言うそうだが、それなら近思録も読まなくてもよい筈なのに、それを読むのは近思を読まなければ朱子学の言い訳けが付かないからである。丁度法華坊主が安国論を読まなければ済まない様なもの。近思を四子の階梯と言いながら、鞭策録が近思の階梯であることを知らない。それで精彩が付かない。これは長作への千両道具の進物である。館林で東渓以来この様な酷い風は吹かない。ただ柔らかなので、とんび紙鳶を揚げるのにはよい。
【語釈】
・東渓…石川丈山。江戸初期の漢詩人・書家。六六山人・四明山人・凹凸窩・東渓などと号。三河の人。徳川家康に仕え、大坂夏の陣に功をたてた。のち藤原惺窩に学び、晩年は京都に詩仙堂を築いて閑居。1583~1672
・とんび紙鳶…トビが羽を張った形に作った凧。


答呂子約書條
28
答呂子約書曰、熹嘗語此間朋友、孟子一生忍窮受餓費盡心力、只破得枉尺直尋四字。今日諸賢苦心勞力費盡言語、只成就枉尺直尋四字。不知淆訛在甚麼處。此話無告訴處。只得仰屋浩歎也。文集四十七。
【読み】
呂子約に答うる書に曰く、熹嘗て此の間の朋友に語る、孟子一生窮を忍び餓を受け心力を費盡し、只尺を枉げ尋を直にすの四字を破り得。今日諸賢心を苦しめ力を勞し言語を費盡し、只尺を枉げ尋を直にすの四字を成就す。知らず、淆訛甚だ麼の處に在るを。此の話告訴する處無し。只屋を仰ぎ浩歎するを得るなり。文集四十七。

熹嘗語此間朋友、孟子一生忍窮受餓費尽心力、只破得枉尺直尋四字。なんでもわる口を黙斎が云うと云。直方をもそう云が、朱子をわる口とは云はぬ。朱子をもそしりたらわる口と云はふぞ。道を任ずる人は自らわる口が出る。丸い迂斉が噫々不如無学矣と云。先日館林へあの掲示を贈りて学をすすめる最中に、不如無学とはどふやら水をかけるやふなれども、道を任ずれは斯ふ出子ばならぬ。孟子戦国で一生枉尺直尋の四字を破ると云も、道を任するからなり。衆生済度するゆへと云学者もあるそふなが、衆生済度を仏者の語とて呵ることでなく、あれは新民のことなれども、まあ斯ふしてからと云ことはない。蘓秦張儀と孟子を連れ立て、をれは義、そちは利と云てしたら功の爲にはよかろふが、それはせぬ。初手はまあぬるけたことをさせて、あとできびしい処と云はふが、まあと云ことはないことぞ。
【解説】
「答呂子約書曰、熹嘗語此間朋友、孟子一生忍窮受餓費盡心力、只破得枉尺直尋四字」の説明。道を任ずるから悪口も出る。また、孟子が一生「破得枉尺直尋」も道を任じたからである。
【通釈】
「熹嘗語此間朋友、孟子一生忍窮受餓費尽心力、只破得枉尺直尋四字」。何でも悪口を黙斎が言うと言う。直方をもそう言うが、朱子を悪口とは言わない。朱子をも謗れば悪口と言うだろう。道を任ずる人は自ら悪口が出る。丸い迂斎が「噫不如無学矣」と言った。先日館林へあの掲示を贈って学を勧めた最中に、不如無学とはどうやら水を掛ける様だが、道を任ずればこう出なければならない。孟子は戦国で一生枉尺直尋の四字を破ると言うのも、道を任ずるからである。衆生済度するからと言う学者もあるそうだが、衆生済度は仏者の語だと呵るものではなく、あれは新民のことなのだが、まあこうしてからと言うことはない。蘇秦張儀と孟子を連れ立って、俺は義、お前は利と言ってしたら功のためにはよいだろうが、それはしない。初手はまあ温けたことをさせて置いて、後で厳しい処をと言うが、まあと言うことはないもの。
【語釈】
・枉尺直尋…孟子滕文公章句下1。「陳代曰、不見諸侯、宜若小然。今一見之、大則以王、小則以霸。且志曰、枉尺而直尋、宜若可爲也。孟子曰、昔齊景公田。招虞人以旌、不至。將殺之。志士不忘在溝壑、勇士不忘喪其元。孔子奚取焉。取非其招不往也。如不待其招而往、何哉。且夫枉尺而直尋者、以利言也。如以利、則枉尋直尺而利、亦可爲與」。
・噫々不如無学矣…先君子諭学者文。「不然則爲人之弊噫不如無學也」。

○今日諸賢苦心労力費尽言語、只成就枉尺直尋四字。當時陳同甫は、にけ出した覇者ゆへまだよく、漢高唐宗でも天下を平にすればよいと出る。才力ありて任したものなり。これは別段の宗旨ちがふなり。呂東莱は近思録をも一処に編で朱子同学なれども、気味のわるいこと。朝は論語、夕は佐伝と云。それでなければ挙業がならぬ。それから博議とくる。枉尺直尋の四字を成就したものなり。不知淆乱在甚麼處。此語無告訴處。只得仰屋浩歎也。我か公事がならず、三奉行へ出られぬゆへ、歎息してやれ々々とて心持がわるいと云。世間皆これなれども、これがつまり呂東莱などをもしことぞ。学問を事業にして心術にこ子ば皆これぞ。某それをどこて見たなら、呂子約は東莱の弟ゆへのこと。向へあて子は何の役にたたぬ。そふないにこれを云へば遠くの咄になる。そふなければきかぬ藥をやるのなり。この事朱子行状ては知れぬが、年譜てはよく知れる。朱子も後は、うしと見し夜ぞ今は恋しきにて、陸象山などは却てなつかしくなり、呂東莱ばかりを辨じられた。委しく年譜に見へるぞ。つまり同甫と東莱が学が一つになりた。これ理勢の必然也。されども東莱兄弟が節義のない人と云ふではない。節義はありた。ただ立志の玉しいがぬるいは俗見ゆへなり。
【解説】
「今日諸賢苦心勞力費盡言語、只成就枉尺直尋四字。不知淆訛在甚麼處。此話無告訴處。只得仰屋浩歎也」の説明。陳同甫と呂東莱の学問は同じである。呂東莱は節義はあったが、挙業を重んじ博議を好んだ。俗見から立志が温けた人で、枉尺直尋を成就した人なのである。
【通釈】
○「今日諸賢苦心労力費尽言語、只成就枉尺直尋四字」。当時、陳同甫は、逃げ出した覇者はまだよく、漢の高祖や唐の太宗でも天下を平にすればよいと出た。彼等は才力があって任じた者だが、これは別段に宗旨が違う。呂東莱は近思録をも一処に編んで朱子と同学だが、気味の悪い人である。朝は論語、夕は左伝と言う。それでなければ挙業ができない。それから博議と来る。枉尺直尋の四字を成就したのである。「不知淆訛在甚麼處。此語無告訴處。只得仰屋浩歎也」。自分の公事ができず、三奉行の前に出られないので歎息してやれやれと、心持が悪いと言う。世間は皆これだが、これがつまり呂東莱などには重いこと。学問を事業にして心術へと行かなければ皆これである。私がそれを何処で見たのかと言えば、呂子約は東莱の弟だからである。向こうへ当てなければ何の役にも立たない。そうでないのにこれを言えば遠くの話になる。そうでなければ効かない薬を盛るのである。この事は朱子行状ではわからないが、年譜ではよくわかる。朱子も後は、憂しと見し世ぞ今は恋しきで、陸象山などを却って懐かしくなり、呂東莱ばかりを弁じられた。それが委しく年譜に見える。つまり同甫と東莱の学は同じである。それは理勢の必然である。しかしながら、東莱兄弟が節義のない人ということではない。節義はあった。ただ立志の魂が温いのは俗見だからである。
【語釈】
・うしと見し夜ぞ今は恋しき…藤原清輔朝臣。ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき。


答呉伯豊書條
29
答呉伯豐書曰、示及疑義。未及奉報。但念。上蔡先生有言、富貴利達、今人少見出脱得者。非是小事。邇來學者何足道。能言眞如鸚鵡。此言深可畏耳。伯豐講學精詳、議論明決、朋游少見其比、區區期望之意不淺願、更於此加意、須是此處、立得脚定。然後博文約禮之工、有所施耳。五十二。
【読み】
呉伯豐に答うる書に曰く、疑義を示及す。未だ報を奉るに及ばず。但念ず。上蔡先生の言有り、富貴利達、今人出脱し得る者を見ること少なし。是れ小事に非ず。邇來の學者何ぞ道うに足らん。能く言いて眞に鸚鵡の如し。此の言深く畏る可きのみ。伯豐の講學精詳、議論明決、朋游其の比すを見ること少なく、區區として期望の意淺からず願い、更に此に於て意を加え、須く是れ此の處に脚を立ち得て定むべし。然る後博文約禮の工、施す所有るのみ。五十二。

上蔡先生有言、富貴利達、今人少見出脱得者云々。冨貴利達は心を動すもの。某でも館林からの聘礼と桺橋の老人が牛房持て来たとは違ふて利達なり。禄をとらぬとてもとふてもふんの氣になるぞ。泄桺段干木は偏なれども、あれほどの偏でなければ出脱もならぬ。必竟明德を明にもせず新民はならぬ筈。それに手を出すは皆半分は利害を入るゆへなり。何ても出脱せぬと云なれば、五倫の内なれども、夫婦を醜とするは淫欲あるゆへと五峯の云が、昏礼に息子が赤面するも好色が手傳ふからぞ。文王の后妃に赤面はあるまい。不仕無義と云へども、某毎々云ふ通り、君臣之義醜之者以有俸禄也。そこを出脱せぬと云も皆利欲が手傳ふからなり。寒山など人を馬鹿にして只にい々々と笑て居る。画であの通りなり。朱子の寒山が詩を志南上人に乞ふも團十郎が画なら乞ふまい。あれが出脱からして別な塲があるぞ。自家の上面無人他下面有人と、黄蘖でもなんでも出脱なり。能言眞如鸚鵡。此言深可畏耳。これは名高い語なり。口ま子は残念なり。さて講釈上手も色々なぞ。知見から上手なれば藝でな藝でない。道理を知からさとすゆへ、言語には宰我子貢と云やふなもの。弁舌ではないぞ。そこが我に得子ば鸚鵡なり。
【解説】
「答呉伯豐書曰、示及疑義。未及奉報。但念。上蔡先生有言、富貴利達、今人少見出脱得者。非是小事。邇來學者何足道。能言眞如鸚鵡。此言深可畏耳」の説明。富貴利達は心を動かすものだから、それから出脱しなければならない。君臣の義を醜くするのは俸禄であり、利欲が手伝っているのである。講釈も知見から我が身に得なければ鸚鵡と同じである。
【通釈】
「上蔡先生有言、富貴利達、今人少見出脱得者云々」。富貴利達は心を動かすもの。私でも館林からの聘礼と柳橋の老人が牛蒡を持って来たのとは違う。利達である。禄を取らなくてもどうでも分な気になる。泄柳や段干木は偏だが、あれほどの偏でなければ出脱もできない。畢竟、明徳を明にもせずに新民はできない筈。それなのに手を出すのは皆、半分は利害を入れるからである。何でも出脱しなければならない。五倫の内でも、夫婦を醜いとするのは淫欲があるからだと胡五峯が言ったが、婚礼に息子が赤面するのも好色が手伝うからである。文王の后妃に赤面はないだろう。「不仕無義」とは言うが、私が毎々言う通り、君臣の義、之れを醜する者は俸禄有るを以てなりであり、そこを出脱しないのも皆利欲が手伝うからである。寒山などは人を馬鹿にしてただにやにやと笑っている。画の通りである。朱子が寒山の詩を志南上人に乞うたが、団十郎の画なら乞わなかっただろう。あれが出脱からのことで、別な場があるのである。自家の上面に人無く、他の下面に人有りと、黄檗でも何でも出脱である。「能言真如鸚鵡。此言深可畏耳」。これは名高い語である。口真似は残念なことである。さて講釈上手も色々である。しかし、知見からの上手であれば芸ではない。道理を知から悟る。それは言語には宰我子貢と言う様なもの。弁舌のことではない。そこで自分に得なければ鸚鵡だと言う。
【語釈】
・桺橋の老人…大網白里町柳橋の大原要助。
・泄桺…魯の臣。魯の穆公の時の賢人。穆公が泄柳を大臣にしようとして自ら会いに来たが、泄柳は門を閉じて中へ入れなかったという。
・段干木…魏の臣。卜商の弟子。魏成子の推挙で魏文侯に仕え、賓客として処遇される。
・五峯…胡五峰。胡宏。宋の建寧祟安(福建省)の人。字は仁仲。胡安国の末子。五峰先生と称せられる。著書『五峰集』『皇王大記』『胡子知言』~1155
・不仕無義…論語微子7。「子路曰、不仕無義。長幼之節、不可廢也。君臣之義、如之何其廢之。欲潔其身、而亂大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣」。
・寒山…唐代の僧。天台山の近くに拾得と共に住み、奇行が多く、豊干に師事したと伝える。その詩は「寒山詩」中に収載。文殊の化身と称せられ、画題にされる。
・黄蘖…黄檗希運。中国唐代の禅僧。福州閩県の人。百丈懐海に師事した。弟子に臨済義玄がいる。断際禅師。~850頃
・言語には宰我子貢…論語先進2。「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。

○伯豊講学精詳、議論明决、朋游少見其比、區々期望之意不浅願、更於此加意云々。呉伯豊は上の云々の中へ這入る人ではないが、朱子の伯豊が用心に云てやられた。ここに一と考あり、文集にも外のことに付きちと麁相あれども、伯豊は一体がもぬけた人にのけて、冨貴利達などに溺れるやふなことでなく、此章を為めにすることありて云たとみるはわるい。今云通り、この章用心に云てやられたもの。殊に冨貴利達のことは伯豊若死ゆへ、その間もない。須是此處、立得脚定。然後博文約礼之功、有所施耳。冨貴利達の心があれば博文約礼もならぬ。誠に恐るべきと云がここらなり。冨貴利達が手傳ふと、博文もその香ひがある。約礼は立派に道理をすることなれども、それも冨貴利達に意がありてはならぬ。あたまからこれを取てのけることぞ。某前にも云たが、出直してこいと云がよいなり。今の学者は兎角出直さぬ。
【解説】
「伯豐講學精詳、議論明決、朋游少見其比、區區期望之意不淺願、更於此加意、須是此處、立得脚定。然後博文約禮之工、有所施耳」の説明。この章は、朱子が伯豊の用心のために言ったもの。富貴利達の心があれば博文約礼もできない。始めからこれを取って除けるのである。
【通釈】
○「伯豊講学精詳、議論明決、朋游少見其比、区区期望之意不浅願、更於此加意云々」。呉伯豊は上の云々の中へ這い入る人ではないが、朱子が伯豊の用心のために言って遣られたのである。ここに一考えあり、文集にも外のことに関しては少々粗相もあるが、伯豊は一体が出脱した人として、富貴利達などに溺れる様なことはなく、この章をためにすることがあって言ったと見るのは悪い。今言った通り、この章は用心に言って遣られたもの。殊に富貴利達のことは伯豊は若死になので、その間もない。「須是此処、立得脚定。然後博文約礼之工、有所施耳」。富貴利達の心があれば博文約礼もできない。誠に恐るべきと言うのがここ等のこと。富貴利達が手伝うと、博文にもその香りがある。約礼は立派に道理をすることだが、それも富貴利達に意があってはならない。最初からこれを取って除けるのである。私が前にも言ったことだが、出直してこいと言うのがよい。今の学者はとかく出直さない。


答石應之書條
30
答石應之書曰、熹衰病日益沈痼。數日來、又加寒熱之證、愈覺不可支吾。相見無期、亦勢應爾不足深念。猶恨、黨錮之禍。四海横流而賢者從容其間、獨未有以自明者、此則拙者他日視而不瞑之深憂也。富貴易得名節難保。此雖淺近之言、然亦豈可忽哉。便中寓此以代靣訣。五十四。
【読み】
石應之に答うる書に曰く、熹の衰病日に益々沈痼す。數日來、又寒熱の證を加え、愈々支吾す可からざるを覺ゆ。相見て期無く、亦勢爾に應うるに深念に足らず。猶恨む、黨錮の禍。四海横流して賢者其の間に從容し、獨り未だ以て自明すること有らざるは、此は則ち拙者他日視て瞑ならざるの深憂なり。富貴得易く名節保ち難し。此れ淺近の言と雖も、然れども亦豈忽せにす可けんや。便中此を寓し以て靣訣に代う。五十四。

熹衰病日益々沈痼。數日來、又加寒熱之證、覺不可支吾。相見無期、亦勢應爾不足深念。直方先生、日和見ぢゃと云。日和見は明なものなれども、日和を見る学者はさん々々なり。迂斉へ直方の、此の條でつらをさらすと云れしとなり。上の條、朱門の伯豊は孔門の顔子なり。ここへ東萊門の石應之を出したがつらをさらすの処なり。今の学者の讀書は、朱門を知るのも武鑑で大名の家老用人の名を見るやうで、人を知らぬが先軰は朱書に熟して居るゆへ編次に人を並へるにもわけあるそ。勢應爾は、ものを苦にせぬ口上なり。遠方ゆへ御目にかかられず、又、大病もどふもならぬ。この段になりてはあちへやりこちへやることもならぬなり。
【解説】
「答石應之書曰、熹衰病日益沈痼。數日來、又加寒熱之證、愈覺不可支吾。相見無期、亦勢應爾不足深念」の説明。前条で朱門の伯豊を出し、ここで東萊門の石応之を出した。
【通釈】
「熹衰病日益沈痼。数日来、又加寒熱之證、覚不可支吾。相見無期、亦勢応爾不足深念」。直方先生が日和見だと言った。日和見は明なものだが、日和を見る学者は散々である。迂斎に直方が、この条で面を曝すと言われたそうである。前条の朱門の伯豊は孔門における顔子である。ここへ東萊門の石応之を出したのが面を曝す処である。今の学者の読書は、朱門を知るにも武鑑で大名の家老用人の名を見る様である。先輩は人を知らないが、朱書に熟しているので編次に人を並べるにもわけがある。「勢応爾」は、ものを苦にしない口上である。遠方なので御目に掛かれず、また大病でどうにもならない。この段になってはあちへ遣りこちへ遣ることもできない。

○猶恨、黨錮之禍。四海横流而賢者從容其間、獨未有以自明者、此則拙者他日視而不瞑之深憂なり。勢應爾とさっはとしたことなれども、この一色が如何となり。黨錮之禍は後漢書の黨錮。傳は後漢にかぎれども、伊川のときの伊川も黨錮、朱子も初からのけものにせられ、晩年偽学の禁はやはり黨錮なり。賢者は石應之を指す。此時教挍官なり。賢者よりこのこと一つ何となりとも仰せられそふなものに、其間に従容として鮒の水によふたやふにして居らるる。従容中道垩人とあり、今の人は垩人にならぬ内に従容なり。これが漢の楊雄が垩人のぬけ荷賣たからなり。ぶらついて日和を見て、よらずばさわらず、誰ともかれとも出合ふて居る。長藏が、誰やらと云学者がそれも一理これも一理と云て咄した。なるほと理外なことはない。なれとも何もかも一理と云れぬことあるゆへ従容はならぬ。
【解説】
「猶恨、黨錮之禍。四海横流而賢者從容其間、獨未有以自明者、此則拙者他日視而不瞑之深憂也」の説明。党錮の最中に石応之が従容としていたのは何故かと朱子が訊ねた。従容になるのは聖人であり、それに至らないのに従容としているのは悪い。世に理外なことはないが、何もかも一理だとは言えない。従容は悪い。
【通釈】
○「猶恨、党錮之禍。四海横流而賢者従容其間、独未有以自明者、此則拙者他日視而不瞑之深憂也」。「勢応爾」はさっぱりとしたことだが、この一色は如何と訊ねた。「党錮之禍」は後漢書にある党錮。伝は後漢に限ったものだが、伊川の時の伊川も党錮、朱子も初めから除け者にされ、晩年の偽学の禁もやはり党錮である。「賢者」は石応之を指す。彼はこの時に教校官だった。賢者からこのことを一つ何なりと仰せられそうなものなのに、その間に従容として鮒が水に酔った様にしておられる。「従容中道聖人」とあるが、今の人は聖人にならない内に従容としている。これは漢の揚雄が聖人の抜け荷を売ったからである。ぶらついて日和を見て、寄らなければ触らず、誰彼構わず出合っている。長蔵が、誰やらという学者がそれも一理これも一理と言って話したと言った。なるほど理外なことはない。しかしながら、何もかも一理と言えないことがあるので従容することはならない。
【語釈】
・黨錮…後漢の桓帝・霊帝の時に宦官が跋扈し、反対党であった陳蕃・李膺らの清節の学者を終身禁錮して仕進の道をふさいだこと。
・従容中道垩人…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也」。
・楊雄…揚雄。前漢の学者。字は子雲。四川成都の人。前53~後18
・長藏…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830

そこがはきとないが、獨未有以自明者也。自明は官府文字に不調法と仰せ出されたとき、さやうでこざらぬ云で不調法ごさらぬと云が自明也。これが自明のあたり前なり。ここはそふもなし。たたなんとなく様子しれず晦ましてをるを明めずと云ふ。そこで朱子の御手前ははき々々ない。伊川や某がわるいならわるいと云はず。何がわるくは向をはるいと云はづのこと。道学者が流義ちがいの学者に交って居るもこれなり。鳩巣翁、加賀より上へ召出され、當時徂徠が一はいを云を翁はだまっ居て排斥せず、門人がそれを千金之怒の、不爲鼷巤發と云て居られた。徂徠が論語徴、あれほど朱子をそしれども、翁は杜門の時と云てすててをかれた。これも明めぬ方なり。さて朱子の、御手前これにぶら々々しては道義上の御役抦がつまるまいなり。他日視而不瞑之深憂也は、世俗の云ことなれども、よみぢのさわりと云やふなもの。朱子もこれ一つが目が眠られぬなり。石應之のこれが何からなれば、冨貴利達からと見へる。前条の冨貴利達もここではきとなる。冨貴、いやなものなり。丹次などには気遣はない。貧乏は学者の藥になる。善太郎殿、寒中綿入一つて來いよと云ても誰もこぬ。酒もあるちゃと云てもない。それからのあとがよい。をらは死ぬことありても残念と思はぬと云はれき。津軽殿の邸から比叡颪のやうな風が來るに、障子は皆破れて寒けれども、何とも思はれぬ。
【解説】
石応之ははっきりとしていないと朱子が言った。伊川や私が悪いのなら、悪いと言う筈なのに何も言わない。それは富貴利達からのことである。鳩巣も徂徠に対して何もしなかった。それとは逆に、善太郎は比叡颪の様な風が来るのに、障子が皆破れて寒くても何とも思わない。彼は死ぬことがあっても残念とは思わない人だった。
【通釈】
そこがはっきりとしないから、「独未有以自明者也」。自明は官府文字に不調法と仰せ出された時、左様でこない、不調法ではないと言うのが「自明也」である。これが自明の当たり前である。ここはそう言うことでもない。ただ何となく様子が知れず晦ましているのを明めずと言う。そこで朱子が、貴方ははきはきとしていないと言った。伊川や私が悪いのなら、悪いと言う筈。何か悪ければ、向こうを悪いと言う筈である。道学者が流儀違いの学者に交わっているのもこれである。鳩巣翁が加賀より上へ召し出され、当時徂徠が好き放題を言っているのを翁は黙っていて排斥せず、門人がそれを千金の怒とか、鼷鼠と為して発せずと言っておられた。徂徠が論語徴で、あれほど朱子を謗っても、翁は門を杜じる時と言って放って置かれた。これも明めない方である。さて朱子が、貴方がこれにぶらぶらとしていては、道義上の御役柄が詰まらないだろうと言った。「他日視而不瞑之深憂也」は、世俗で言うことだが、夜道の障りという様なもの。朱子も、これ一つがあるので眠られない。石応之のこれは何からかと言うと、富貴利達からと見える。前条の富貴利達もここではっきりとする。富貴は嫌なもの。丹次などには気遣いはない。貧乏は学者の薬になる。善太郎殿が寒中綿入れ一つで来いよと言っても誰も来ない。酒もあるぞと言ってもない。それからの後がよい。俺は死ぬことがあっても残念と思わないと言われた。津軽殿の邸から比叡颪の様な風が来るが、障子は皆破れて寒くても何とも思われない。
【語釈】
・丹次…大木丹二。東金市北幸谷の人。名は忠篤、晩年は権右衛門と称す。黙斎没後、孤松庵をもらい受けて書斎とした。1765~1827
・善太郎…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・津軽殿…幸田子善か?

○冨貴易得名節難保云々。冨貴易得は冨貴在天と云と同こと。冨貴を得るが求てはならぬ。これもふいと來るもの。そこを易得と云。丁ど日和の晴れるやふなもの。こちから十五夜をさへさせるやふにはならぬが、あちから晴れて來て、日雇取も團子を喰ふて月見をする。冨貴もふいとあちから來る。そこを易得と云。面白ひ云様なり。さて俗に云四百四病の疾より貧ほどつらひものはなしと迂斉が度々云たが、この時名節くずすなり。浅近之言は俗で云ことなれども、油断ならぬとなり。○此以代面訣は最早死わかれと云こと。石應之もこの答書が魂になったか反古になったか、そこは知れぬ。
【解説】
「富貴易得名節難保。此雖淺近之言、然亦豈可忽哉。便中寓此以代靣訣」の説明。富貴は向こうから来るものであって、こちらから求めるものではない。しかし、貧乏ほど辛いものはなく、そこで名節を崩すから油断はならない。
【通釈】
○「富貴易得名節難保云々」。「富貴易得」は「富貴在天」と同じこと。富貴を得るのは求めてはならない。これもふいと来るもの。そこを易得と言う。丁度日和の晴れる様なもの。こちらから十五夜を冴えさせることはできないが、あちらから晴れて来るので、日雇取りも団子を喰いながら月見をする。富貴もふいとあちらから来る。そこを易得と言う。面白い言い様である。さて俗に云四百四病の疾より貧ほど辛いものはなしと迂斎が度々言ったが、この時に名節を崩す。「浅近之言」は俗の言うことだが、油断はならないと言う。○「此以代面訣」は最早死に別れということ。石応之もこの答書が魂になったか反古になったか、それはわからない。
【語釈】
・冨貴在天…論語顔淵5。「司馬牛憂曰、人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰、商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也」。
・四百四病…疾病の総称。仏説に、人身は地・水・火・風の四大から成り、四大調和を得なければ、地大から黄病、水大から痰病、火大から熱病、風大から風病が各101、計404病起るという。


今爲辟禍之説條
31
今爲辟禍之説者、固出於相愛。然得某壁立萬仭、豈不益爲吾道之光。語類百七下同。
【読み】
今禍を辟くの説を爲す者、固より相愛するに出ず。然るに某壁立萬仭を得れば、豈益々吾が道の光を爲さざらんや。語類百七下同。

この條も前と同じく朱子の晩年で、死の一両年前也。朱子の小市がやふな大きな声で議論せらるるゆへ、人からもそっと靜がよかろふと云のぞ。それを、今爲辟禍之説者、固出於相愛と云。皆が某を愛してのことなろふがと、此が直方の云はるる、どうでくたばる身でと云ものぞ。此時一つ咄をしたら同心が來て縛ふとても、鳴物停止のやうにならぬ。○然得某壁立万仭、豈不益爲吾道之光。壁立万仭は巖のつっ立たか壁のやふな、碎いてもたたいても崩れぬを云。先日曽子のことを云でもそれなり。此御大切に簀をかへるはわるかろふと云を、曽子の細人の人を愛するへちくりと云こと。明日死ぬものが今夜死でも、それで曽子の方は安い。女の親切がそんなものなり。當時揚子直や劉平甫などが第一これで、御爲めになるまいと云のなり。
【解説】
朱子が大きな声で議論するので、それを控えた方が自分のためになるだろうと人から助言を受けた。朱子は、どの様な困難でも、それが益々道の光となると答えた。
【通釈】
この条も前と同じく朱子の晩年のもので、死の一両年前のもの。朱子が小市の様な大きな声で議論されるので、人からもう少し静かにしたらよいだろうと言われた。それを、「今為辟禍之説者、固出於相愛」と言った。皆が私を愛してのことだろうがと、これが直方の言われる、どうせくたばる身でというもの。この時一つ話をしたら同心が来て縛るとしても、鳴物停止の様にはならない。○「然得某壁立万仭、豈不益為吾道之光」。「壁立万仭」は岩の突っ立ったか壁の様なことで、砕いても叩いても崩れないことを言う。先日曾子のことを言ったのにもそれがある。この大切な時に簀を易るには悪いだろうと言うのに、曾子は「細人之愛人也以姑息」とちくりと言った。明日死ぬ者が今夜死んだとしても、曾子の方は安らかである。女の親切がその様なもの。当時楊子直や劉平甫などがこれの第一で、それでは御ためにならないだろう言ったのである。
【語釈】
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・鳴物停止…大葬・国葬の際などに、楽器の演奏を禁止すること。
・簀をかへる…礼記檀弓上。「曾子寢疾。病。樂正子春坐於床下。曾元・曾申、坐於足。童子隅坐而執燭。童子曰、華而睆、大夫之簀與。子春曰、止。曾子聞之、瞿然曰、呼。曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然、斯季孫之賜也。我未之能易也。元起易簀。曾元曰、夫子之病革矣。不可以變。幸而至於旦。請敬易之。曾子曰、爾之愛我也不如彼。君子之愛人也以德。細人之愛人也以姑息。吾何求哉。吾得正而斃焉。斯已矣。舉扶而易之。反席未安而沒」。

さて斯ふするどてなければ道学は任ぜられぬ。直方の学者不及日蓮之説を書ふと云も、日蓮が壁立の処がけなけなゆへのこと。それでなければ面白ない。隱求先生の佐野源左ェ門はとて呵ったが、意を知らぬからなり。これもけなげと云からのこと。佐野源左ェ門信ずる筈はなけれども、あのたしなみがよい。今の学者用ひられたがるが、武士の貧でも具足櫃置やふなたしなみはなく、程朱を切り賣にする。あれをくやふでなければならぬ。某つまると物を賣るが、楊亀山文集ばかりをこれまで賣らぬ。源左右ェ門が痩馬也。然し此後東士川がある内は知れぬ。東士川が金出す、ついうるぞ。因笑云、こちの操をくつす方ぞ。
【解説】
日蓮も佐野源左衛門も壁立の処が健気だったが、今の学者にそれはなく、程朱を切り売りにする。黙斎も小川省義につい書を売ってしまう。それは操を崩すことである。
【通釈】
さて、この様に鋭くなければ道学は任じられない。直方が学者不及日蓮之説を書こうと言ったのも、日蓮の壁立の処が健気だからである。それでなければ面白くない。隠求先生が佐野源左衛門はと言って呵ったが、それは意を知らないからである。これも健気ということからのこと。佐野源左衛門を信じる筈はないが、あの嗜みがよい。今の学者は用いられたがるが、武士が貧でも具足櫃を置く様な嗜みはなく、程朱を切り売りにする。あれを置く様でなければならない。私は困窮すると物を売るが、楊亀山文集だけはこれまで売らなかった。源左衛門の痩馬である。しかしこの後は小川省義がいる内はそれもわからない。東士川が金を出すとつい売る。そこで笑って言った。こちらの操を崩すことになる、と。
【語釈】
・隱求先生…永井行達。三右衛門。1689~1740
・佐野源左ェ門…佐野源左衛門尉常世。鎌倉武士。上州(群馬県)佐野に住したといい、謡曲「鉢木」の主人公として名高く、歌舞伎にも脚色。
・東士川…小川省義。幼名は磯次郎、興十郎。上総山辺郡東士川村人。文化11年6月21日没。81才。黙斎の孤松全稿を買う。


今人開口條
32
今人開口亦解一飲一啄自有定分、及遇小小利害、便生趨避計較之心。古人刀鋸在前、鼎鑊在後、視之如無物者、蓋縁只見得這道理、都不見那刀鋸鼎鑊。又曰、死生有命。如合在水裏死、須是溺殺。此猶不是深奧底事、難曉底話。如今朋友都信不及、覺見此道日孤。令人意思不佳。
【読み】
今人口を開けば亦一飲一啄自ら定分有るを解し、小小の利害に遇うに及び、便ち趨避計較の心生ず。古人刀鋸前に在り、鼎鑊後ろに在り、之を視ること物無きが如きは、蓋し只這の道理を見得て、都て那の刀鋸鼎鑊を見ざるに縁る。又曰く、死生命有り。水裏に在りて死するに合うが如き、須く是れ溺殺すべし。此れ猶是れ深奧底の事、曉ること難き底の話にあらざるがごとし。如今朋友都て信じて及ばず、此の道日に孤なるを覺見す。人の意思を佳からざらしむ。

今人開口亦解一飲一啄自有定分云々。兎角志を立るは警戒が重もなり。某四書抄畧の秡に、警戒は存養の始をなし終をなすと書たか、皆定分々々と口で云へども警戒がない。孔子も其言はんことを行ふと云。一飲一啄定分があると云ても知り皃で知らぬ。そこで天命を飲喰に直云ながら、小々の利害で違う。多く人が頼むと云ことをする。幸田子さへ、御旗本の気習で頼むと云ことをした。其中は役に立ぬ。頼むと云ほどいやなことはない。某を縛ったとき、あれは人も知た黙斎でござると云へば、與力同心もちとは縄をゆるべふが、それも頼にて計較なり。なんても理なりをしてたのむことはない筈。○古人刀鋸在前、鼎鑊在後、視之如無物者、蓋縁只見得這道理、都不見那刀鋸鼎鑊。刀鋸は人の首を切り、鼎鑊は人を煮る。古人は節義の人にて云ふ。道学からは白人でも理なりを推出してひびくれぬ。なるほど及ぬこと。丁ど香車の向へ行くのなり。直方先生、香車は將棊盤が一町四方あれば一町の外へも行くと云。学者も家老の贔屓でと安堵とする。そんなことで役にはたたぬ。
【解説】
「今人開口亦解一飲一啄自有定分、及遇小小利害、便生趨避計較之心。古人刀鋸在前、鼎鑊在後、視之如無物者、蓋縁只見得這道理、都不見那刀鋸鼎鑊」の説明。一飲一啄に定分があるとは言え、学者はそれを真に理解していない。そこで人を頼み計較をする。しかし、理の通りにすれば頼むことはない。
【通釈】
「今人開口亦解一飲一啄自有定分云々」。とかく志を立てるには警戒が重要である。私が四書抄略の拔に、警戒は存養の始めをなし終をなすと書いたが、皆定分と口では言うが警戒がない。孔子も「先行其言」と言った。一飲一啄に定分があると言っても、知り顔で知らない。そこで天命を飲食と直に言いながら、「小々利害」で違う。多く人が頼むということをする。幸田子さえ、御旗本の気習で頼むことをした。その様な内は役に立たない。頼むというほど嫌なことはない。私を縛った時、あれは人も知った黙斎だと言えば、与力同心も少しは縄を緩めようが、それも頼みであって計較である。何でも理の通りをすれば頼むことはない筈。○「古人刀鋸在前、鼎鑊在後、視之如無物者、蓋縁只見得這道理、都不見那刀鋸鼎鑊」。刀鋸は人の首を切り、鼎鑊は人を煮る道具である。古人は節義の人で言う。道学には素人でも、理の通りを推し出して弛まない。なるほど及ばないことである。丁度香車が向こうへ行くのと同じである。直方先生が、香車は将棋盤が一町四方あれば一町の外へも行くと言った。学者も家老の贔屓でと安堵をする。そんなことでは役に立たない。
【語釈】
・其言はんことを行ふ…論語為政13。「子貢問君子。子曰、先行其言、而後從之」。
・幸田子…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)

○又曰、死生有命。如合在水裏死、須是溺殺。此猶不是深奧底事、難暁底話。上の計較を最一つきびしく見せる。それを重いことで云はふが死生有命なり。人間の有難さに死生有命を大べらに覚て、こちの自由にならぬ、自由になるなら大名はそふないはづなどと云。然れども、それが向って來たとき、その魂を出すが出さぬかなり。難舩で溺殺はどふもならぬ。これも咽の乾くに水なり。この時唐津大明神と云はぬこと。死まい、とうても舩か覆へる。天も垩人も人を殺したくはあるまいが、難風也。勿論風も無心で知らぬことぞ。なんでも猿の木から落たやふなもの。某上總へ來てからも、九十九里て人が度々死たが、あとへ残た親子がそううろたへもせぬ。然れども、平生の覚悟とちがい、そこへ來たときうろたへる。さて又妻子ないものは頓死がよいと云。それがかざりて云もせぬ。されども雷の時は、か子て望の頓死の時とよろこびはせぬ。火をたけと云。火をたいたとて蚊のやふににげはせぬ。しかればしらぬのなり。
【解説】
「又曰、死生有命。如合在水裏死、須是溺殺。此猶不是深奧底事、難曉底話」の説明。「死生有命」であって、死ぬ時は仕方がない。死ぬ場になって狼狽えるのは「死生有命」を知らないのである。
【通釈】
○「又曰、死生有命。如合在水裏死、須是溺殺。此猶不是深奧底事、難曉底話」。上の計較をもう一つ厳しく見せた。それを重いことで言うのが「死生有命」である。人間の有難さで死生有命があるのを大べらに覚えて、それはこちらの自由にはならないもの、自由になるのなら大名はそうではない筈などと言う。しかし、ここはそれが向かって来た時、その魂を出すか出さないかということである。難船での溺殺はどうにもならない。これも咽が渇くには水である。この時に唐津大明神と言ってはならない。死ぬまいと思っても、どうしても船が覆る。天も聖人も人を殺したくはないだろうが、難風のためである。勿論風も無心でそれは知らないこと。何でも猿の木から落ちた様なもの。私が上総へ来てからも、九十九里で人が度々死んだが、後に残った親子がそうは狼狽えもしない。しかし、平生の覚悟とは違い、そこへ来た時には狼狽える。さてまた妻子のない者は頓死がよいと言う。それが飾って言うことでもない。しかし、雷の時は、兼ねて望みの頓死の時と喜びはしない。火を焚けと言う。火を焚いたとしても蚊の様に逃げはしない。そこで、知らないと言うのである。
【語釈】
・死生有命…論語顔淵5。「司馬牛憂曰、人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰、商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也」。

○如今朋友都信不及、覚見此道日孤。令人意思不佳。信不及は俗語にて、知惠のとどかぬことなり。人知而信すと云。知のなりなり。をとなは金ををとさぬが、小兒は金と饅頭を取かへる。信不及ゆへなり。此道日孤そ。聽徒もこんな時面白ひと思って帰ら子ば弧なり。この間の館林の者どもは必ず信不及なるべし。あの暑中さはがしく何の益あるべき。丹次が耳はかりが事實が残った。鞭策録排釈録を聞ても役には立ぬ。令人意思不佳は、譯を付れは頭痛のた子になる。直方の、うつらぬ者と咄すは疝氣の毒なり、と。七十の時上京されたれども、古いものに出合はれぬ。高田未白など弓五郎もどきでなんそ一と意思咄しの役にたたぬ。干鯛よりは鰯のぬたがよいなり。尤づくめを云ても、立志の精彩はなきものなり。
【解説】
「如今朋友都信不及、覺見此道日孤。令人意思不佳」の説明。「信不及」は知恵の届かないこと。この間の館林の者がこれである。直方が、ものわかりの悪い者と話すのは疝気の毒だと言った。
【通釈】
○「如今朋友都信不及、覚見此道日孤。令人意思不佳」。信不及は俗語で、知恵の届かないこと。「人知而信」と言う。知の姿である。大人は金を落とさないが、小児は金と饅頭を取り替える。それは信不及だからである。「此道日孤」である。聴徒もこんな時は面白いと思って帰らなければ弧である。この間の館林の者共は必ず信不及である。あの暑中に騒がしくして、何の益があるものか。丹次の耳だけに事実が残った。鞭策録や排釈録を聞いても役には立たない。「令人意思不佳」は、わけを付ければ頭痛の種になるということ。直方が、ものわかりの悪い者と話すのは疝気の毒だと言った。七十の時に上京されたが、古い者とは出合われなかった。高田未白などは弓五郎もどきで何でも一意思で話の役に立たない。干鯛よりは鰯の饅の方がよい。尤もづくめを言っても、立志の精彩はない。
【語釈】
・人知而信す…
・丹次…大木丹二。東金市北幸谷の人。名は忠篤、晩年は権右衛門と称す。黙斎没後、孤松庵をもらい受けて書斎とした。1765~1827
・高田末白…名は正方。鞆の津で町人家塾を開き、町人教育に務めた。1629~1703
・弓五郎…弓太郎?弓次郎?


今世人多道東漢名節無補於事條
33
今世人多道、東漢名節無補於事。某謂、三代而下、惟東漢人才、大義根於其心、不顧利害、生死不變、其節自是可保。未説公卿大臣、且如當時郡守懲治宦官之親黨。雖前者既爲所治、而來者復蹈其跡、誅殛竄戮、項背相望、略無所創。今士大夫顧惜畏懼、何望其如此。平居暇日琢磨淬厲、緩急之際、尚不免於退縮。況遊談聚議、習爲軟熟、卒然有警、何以得其仗節死義乎。大抵不顧義理、只計較利害。皆奴婢之態、殊可鄙厭。三十五。
【読み】
今世人多く道う、東漢の名節は事を補うこと無し、と。某謂う、三代より下、惟東漢の人才、大義其の心に根し、利害を顧みず、生死變らず、其の節自ら是れ保つ可し。未だ公卿大臣を説かず、且つ當時の郡守、宦官の親黨を懲治するが如し。前者既に治むる所を爲すと雖も、而れども來者も復た其の跡を蹈み、誅殛竄戮、項背相望、略創る所無し。今士大夫顧惜畏懼、何ぞ其れ此の如きを望まん。平居暇日琢磨淬厲するも、緩急の際、尚退縮を免れず。況や遊談聚議、習いて軟熟を爲し、卒然として警め有る、何を以て其の節に仗り義に死するを得んや。大抵義理を顧みず、只利害を計較す。皆奴婢の態にして、殊に鄙厭す可し。三十五。

この章、吟味ある章なり。これは黙斉が云出ずことそ。東漢の名節、なんで有れ白人藝なり。そこで程子の笑はれ、本の道理を知れはあんなことせぬとなり。時に今日それを云のは、程子の尻馬に乘て我臆病の種ややわらかの種にする。この章も某毎々讀むに朱子の士氣を振はれ、直方の立志に取らるる処も甚た趣意あることなり。直方先生、靖献遺言は意氣慷慨はかりて垩賢になる役にはたたぬゆへ無用と見られたもの。そこて吾父師講しられぬか、然るに某二十四五の時から靖献遺言を用るも、朱子東漢の名節を取らるる意なり。直方の取らぬことを取るが、これが黙斉が衆生済度なり。迂斉も若いとき高木甚平をよんで遺言を講じられた。某も迂斉の命で二十四五の時、唐津や新発田などの友大勢に説けり。それから蹴ちらして疂さはりがわるくなった。学者すり足でをち付ても、遺言めいた処ないと士氣がめりこむぞ。この条をここへのせたは一と肩入れたことなり。
【解説】
「今世人多道、東漢名節無補於事」の説明。東漢の名節は素人芸であり、程子はそれをよく思わなかった。しかし、朱子はそれが士気を振うものとし、直方は立志に取った。また、直方が靖献遺言を聖賢になる役には立たないものとしたのに、それを黙斎が採ったのは、朱子が東漢の名節を取ったのと同じ意である。
【通釈】
この章は吟味のある章である。これは黙斎が言い出したこと。東漢の名節は何であれ素人芸である。そこで程子が笑われて、本当の道理を知ればあんなことしないと言った。時に今日それを言うのは、程子の尻馬に乗り、自分の臆病の種や柔らかの種にするためである。私がこの章を読む度に思うことだが、朱子が士気を振るわれ、直方が立志に取られた処も甚だ趣意あることである。直方先生は、靖献遺言は意気慷慨ばかりで聖賢になる役には立たないから無用なものと見られた。そこで私の父師は講じられなかったが、それにも拘らず私が二十四五の時から靖献遺言を用いるのも、朱子が東漢の名節を取られた意からである。直方が取らなかったことを取るのが、黙斎の衆生済度である。迂斎も若い時に高木甚平を呼んで遺言を講じられた。私も迂斎の命で二十四五の時、唐津や新発田などの大勢の友に説いた。それから蹴散らしたので、畳触りが悪くなった。学者が摺り足で落ち着いていても、遺言めいた処がないと士気がめり込む。この条をここへ載せたのは一肩入れたもの。
【語釈】
・高木甚平…

○某謂、三代而下、惟東漢人才、大義根於其心、不顧利害、生死不変、其節自是可保。未説公卿大臣。今日の学者が東漢の名節を役に立ぬと云が、朱子の、某はよいと思ふとなり。三代は殷の三仁を始として、伯夷は云に及ぬ。而下とは、それをのけてはとかく東漢の人才大義云々と、朱子當時比丘尼のやふな士氣を振ふことなり。不顧利害生死不変が一寸と浪人するや役を退く位のことでない。魂のよごれぬやうに保ったなり。さて、名節は士や浪人などのこと。未説公卿大臣は陳蕃などを云。陳蕃老中で官官のために殺されたなり。且如當時郡守懲治官官之親黨。雖前者既爲所治、而來者復蹈其跡、誅殛竄戮、項背相望、略無所創。當時天下の士が意氣慷慨で官官の親類を手痛くしたを官官が怒りてせりたてて、隱嚢のない役人ともに郡守を竄戮させた。然らは今度あとの郡守は柔和にんにくかと思ふに、迹をついで手痛する。又官官が同心へ手紙をやり、それが段々仕舞にはをびたたしく誅殛された。この事後漢書の黨錮傳と、そこの綱目にある。某は、むかしは綱目、今は十八史畧かきりて見た。あれを見ると今でも噛付くほと腹の立ことあり。因笑云、絹布の夜具と二十一史は黙斉知らぬ。今もふか布團に十八史畧はかりぞ。皆は本書で見るべし。略無所創は、又しても々々々々なり。
【解説】
「某謂、三代而下、惟東漢人才、大義根於其心、不顧利害、生死不變、其節自是可保。未説公卿大臣、且如當時郡守懲治宦官之親黨。雖前者既爲所治、而來者復蹈其跡、誅殛竄戮、項背相望、略無所創」の説明。三代以外には東漢の人才がよいと朱子は言った。当時、宦官と郡守との抗争が続いた。
【通釈】
○「某謂、三代而下、惟東漢人才、大義根於其心、不顧利害、生死不変、其節自是可保。未説公卿大臣」。今日の学者は東漢の名節を役に立たないと言うが、朱子は、私はよいと思うと言った。三代は殷の三仁を始め、伯夷も言うに及ばないこと。「而下」は、それを除いてはとかく「東漢人才大義云々」と、朱子が当時比丘尼の様な士気を振るった。「不顧利害生死不変」は一寸浪人になったり役を退く位のことでない。魂の汚れない様に保ったのである。さて、名節は士や浪人などのこと。「未説公卿大臣」は陳蕃などを言う。陳蕃は老中で宦官のために殺された。「且如当時郡守懲治宦官之親党。雖前者既為所治、而来者復踏其跡、誅殛竄戮、項背相望、略無所創」。当時の天下の士は意気慷慨で宦官の親類を手痛くしたのを宦官が怒って迫り立てて、隠嚢のない役人共に郡守を竄戮させた。そこで、その後に来た郡守は柔和忍辱だろうと思えば、後を継いで手痛くする。また宦官が同心へ手紙を遣り、それが段々と高じて最後には夥しく誅殛された。この事は後漢書の党錮伝とその綱目にある。私は、昔は綱目、今は十八史略だけでこれを見た。あれを見ると今でも噛み付くほど腹が立つ。そこで笑って言った。絹布の夜具と二十一史は黙斎は知らない。今も深布団に十八史略だけである。皆は本書で見なさい。「略無所創」は、またしてもということ。
【語釈】
・殷の三仁…論語微子1。「微子去之。箕子爲之奴。比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉」。

○今士大夫顧惜畏懼、何望其如此。平居暇日琢磨淬厲、緩急之際、尚不免於退縮。况遊談聚議、習爲軟熟、卒然有警、何以得其伏節死義乎。今日の学者、これなり。館林の学者も出し茶をしたがる。金餅糖で出し茶ではいかぬ。大高坂か椎の實を一口に噛た様でなければ役に立ぬ。今は武士にも似合ぬ。市井へゆき、飲食の具を求む。さらさ梅を買なり。さらさ梅や出し茶ては武士にも学者にもならぬ。我々幼少のときなどは、書肆へゆく外は市井で物買ふことなどは武士の耻と心得た。士氣ふるわぬと卒然のときが役にたたぬ。さて、事の起りあることで、佐傳に張本々々とあるが、その外の史傳も断ってはなけれども、前からわるくなる根がありて、変は急に起るもの。平家の者どもの音樂の中へ佐原十郎なり。そこでさわぐも平生ぬるけているからなり。学者もそれにて日比のはげみが甲斐なふて何ぞ急の間に合はぬ。迂斉の、ここは一と通りの人物を賞するが、それがこちのによいと云。学者がただ知見や道体向の高いこと云は役にたたぬ。浩然章、北宮孟舎也。あれは息子にはせられぬが、こちの養氣のよい方の用に立つ。木村長門や眞田左ェ門を云とそれがこちの爲になると迂斉の云がよい説なり。学至圣人之道也もこれでなければならぬことなり。
【解説】
「今士大夫顧惜畏懼、何望其如此。平居暇日琢磨淬厲、緩急之際、尚不免於退縮。況遊談聚議、習爲軟熟、卒然有警、何以得其仗節死義乎」の説明。今の学者は学者らしくないことをする。士気が振るわない。悪くなるのには根があり、また、変は急に起こるもの。日頃の励みが甲斐なくては、急の間に合わない。
【通釈】
○「今士大夫顧惜畏懼、何望其如此。平居暇日琢磨淬厲、緩急之際、尚不免於退縮。況遊談聚議、習為軟熟、卒然有警、何以得其伏節死義乎」。今日の学者がこれである。館林の学者も出し茶をしたがる。金平糖で出し茶とはいかない。大高坂か椎の実を一口に噛んだ様でなければ役に立たない。今は武士にも似合わないことをする。市井へ行き、飲食の具を求め、更紗梅を買う。更紗梅や出し茶では武士にも学者にもなれない。我々が幼少の時などは、書店へ行く外は市井で物を買うことなどは武士の恥だと心得ていた。士気が振るわないと卒然の時に役に立たない。さて、事の起こりがあることで、左伝に張本の字が多くあり、その外の史伝も断わってはいないが、前から悪くなる根があり、また、変は急に起こるもの。平家の者共が音楽をしている中に佐原十郎である。そこで騒ぐのも平生が抜けてているからである。学者もそれで、日頃の励みが甲斐なくては、急の間に合わない。迂斎が、ここは一通りの人物を賞することがこちらにとってもよいと言った。学者がただ知見や道体向きの高いことを言っても役に立たない。浩然の章の北宮と孟舎である。あれは息子にはできない者だが、こちらの養気のよい方の用に立つ。木村長門や真田左ェ門のことを言うと、それがこちらのためになると迂斎が言うのがよい説である。「学至聖人之道也」もこれでなければならない。
【語釈】
・出し茶…煎じ出して用いる茶。煎じ茶。
・張本…事件のもと。おこり。原因。根本。
・佐原十郎…佐原十郎義連。奥州藤原氏征伐の功により、会津四郡を賜る。
・北宮孟舎…孟子公孫丑章句上2。「北宮黝之養勇也、不膚撓、不目逃、思以一豪挫於人、若撻之於市朝。不受於褐寛博、亦不受於萬乘之君。視刺萬乘之君、若刺褐夫。無嚴諸侯。惡聲至、必反之。孟施舍之所養勇也、曰、視不勝猶勝也。量敵而後進、慮勝而後會、是畏三軍者也。舍豈能爲必勝哉。能無懼而已矣」。
・木村長門…木村長門守重成。大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家のために戦って死ぬ。母の右京大夫局は豊臣秀頼の乳母。
・眞田左ェ門…真田幸村。安土桃山時代の武将。昌幸の次子。名は信繁。関ヶ原の戦に父と共に豊臣方に属して上田城に拠ったが、戦後、父と共に九度山に退去。冬の陣に大坂城に入って徳川氏の軍を悩まし、夏の陣に戦死。1567~1615
・学至圣人之道也…近思録為学3。「伊川先生曰、學以至聖人之道也」

○大抵不顧義理、計較利害。皆奴婢之態、殊可鄙厭。今の学者利害を計較せぬ顔なれども、心に問はば何と答へん。義理は心へのせず、飾り上手で、復性するの暇を取るのと云が、魂がきまらずに名を好むことがありてはならぬ。心喪などは本と礼できめることゆへよけれども、多くは心が利害や名の爲めなり。皆奴婢之態殊可鄙厭が、学者は取迯けもせぬが、義理と見せかけて利害なれば、取迯も同ことなり。土用の中腐った肴のやふなもの。そちへやれ、鄙厭すべきなり。これが朱子の手荒なれども、こふなければ鞭策にならぬ。
【解説】
「大抵不顧義理、只計較利害。皆奴婢之態、殊可鄙厭」の説明。今の学者は義理を心へ乗せず、魂が決まらずに名を好む。それでは鄙厭すべきものである。
【通釈】
○「大抵不顧義理、只計較利害。皆奴婢之態、殊可鄙厭」。今の学者は利害の計較をしない様な顔をしているが、心に問えば何と答えるだろう。義理を心へ乗せず、飾り上手で、復性するとか暇を取ると言うが、魂が決まらずに名を好むことがあってはならない。心喪などは本来礼で決めることなのでよいことだが、多くはその心が利害や名のためである。「皆奴婢之態殊可鄙厭」が、学者は取り除けもしないものだが、義理と見せ掛けて利害であれば、取り除けるのも同じこと。土用の中で腐った肴の様なもの。そちらへ遣れと、鄙厭すべきものである。これは朱子の手荒く言ったことだが、こうでなければ鞭策にはならない。


味道問死生是大關節處條
34
味道問、死生是大關節處。須是日用間、雖小事亦不放過。一一如此用工夫、當死之時、方打得透。曰、然。十三。
【読み】
味道問う、死生是れ大關節の處。須く是れ日用の間、小事と雖も亦放過せざるべし。一一此の如く工夫を用いれば、死する時に當り、方に打し得て透る。曰く、然り。十三。

これが何ぞ侍の役にやくにたたぬやふなもの。学者にも何ぞ学者がある。武士が平生不奉公をして、何ぞのとき手抦と云。学者も死生の時して取ると云へども、平生ぬるけて急になるものぞ。ここへ飛でゆくと云は佛見ぞ。大關節の處へゆくには平生のまていな処からでなければならぬ。ふだん麁末にないと云が大關節になる。垩賢は平生挌別ゆへ死ぬときも挌別也。このやふな問はひろい語類の中にも澤山はない。よい問也。さて打し得透るはうろたへる塲をうろたへぬやうにして行くを云。
【解説】
「味道問、死生是大關節處。須是日用間、雖小事亦不放過。一一如此用工夫、當死之時、方打得透」の説明。平生が怠けていて、急な場でし遂げるということはならない。
【通釈】
これが何も侍の役に立たない様なもの。学者にも何も役に立たない学者がいる。武士が平生不奉公をして、何かの時に手柄をと言う。学者も死生の時にして取ると言うが、平生温けていて、急にできるものではない。ここで飛んで行くと言うのは仏見である。「大関節」の処へ行くには平生の真底な処からでなければならない。絶えず粗末でないということが大関節になる。聖賢は平生が格別なので死ぬときも格別である。この様な問いは広い語類の中にも沢山はない。よい問いである。さて「打得透」は狼狽える場で狼狽えない様にして行くことを言う。

○曰然り。文二賢等も語録をよくするが、この章の問、曰然りと計りではないはづ。曰然りは只うんど云たこと。この問はほめ子ばならぬことなり。朱子のほめたで有ふが録者がのこしたものぞ。さて平生誠意正心の功夫せず、死ぬときにさとりて臨終よいと云はづはないこと。四十而見悪焉其終也已や血氣既衰戒之在得と云に、其上にまだ好色のよくもふかく、其やふななりを盖をしてかくしてをいて、死たときよい底て死だとて何の益に立ものぞ。尤らしきこと云へば、まして巧言令色さん々々なり。當死之時方打得透と云は平生にあることなり。若林が面白こと云はれた。死とき辞世するは死たとき迠名を好のとなり。せめて此塲ではほんのもので死子ばまだもよいなり。皆功夫は日比の上にあることなり。
【解説】
「曰、然」の説明。平生誠意正心の功夫をせず、死ぬ時に悟って臨終がよいという筈はない。その上、その時に尤もらしいことを言うのは散々なこと。若林が、辞世は死んだ時まで名を好むものだと言った。
【通釈】
○「曰然」。文二等も語録をよくするが、この章の問いや曰く然りの様なことばかりではない筈。曰然はただうんと言ったこと。この問いは褒めなければならないもの。朱子が褒めただろうことを録者が残したもの。さて平生誠意正心の功夫をせず、死ぬ時に悟って臨終がよいという筈はない。「四十而見悪焉其終也已」や「血気既衰戒之在得」と言うのに、その上にまだ好色の欲も深く、その様な姿を盖をして隠して置いて、死んだ時によい底で死んだととしても何の益にならない。そこで尤もらしいことを言うのは、それにも増して「巧言令色」で散々なこと。「当死之時方打得透」は平生にあること。若林が面白いことを言われた。死ぬ時に辞世をするのは死んだ時まで名を好むのだと言った。せめてこの場では、そのままで死ねばまだよい。皆功夫は日頃の上にあること。
【語釈】
・文二…林潜斎。花沢文次。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)
・四十而見悪焉其終也已…論語陽貨26。「子曰、年四十而見惡焉、其終也已」。
・血氣既衰戒之在得…論語季氏7。「孔子曰、君子有三戒。少之時、血氣未定、戒之在色。及其壯也、血氣方剛、戒之在鬥。及其老也、血氣既衰、戒之在得」。
・巧言令色…論語学而3。「子曰、巧言令色、鮮矣仁」。
・若林…若林強斎。


跋鄭景元簡條
35
跋鄭景元簡。曰、六經記載聖賢之行事、僃矣。而於死生之際無述焉。蓋以是爲常事也。獨論語檀弓記曾子寢疾時事爲詳、而其言不過保身謹禮與語學者以持守之方而已。於是足以見聖賢之學、其所貴重、乃在於此非若浮屠氏之不察於理、而徒以坐亡立脱爲奇也。然自學者言之、則死生亦大矣。非其平日見善明、信道篤、深潛厚養力行而無間、夫亦孰能至此而不亂哉。今觀鄭君景元所報、其兄龍圖公事、亦足以驗其所學之正而守之固矣。所謂朝聞道夕死可矣者、於公見之。因竊書其後、以自警、又將傳之同志、相與勉焉。文集八十一。
【読み】
鄭景元が簡に跋す。曰く、六經聖賢の行事を記載する、僃われり。而して死生の際に於て述る無し。蓋し是を以て常事と爲すなり。獨り論語檀弓に曾子疾に寢る時の事を記すこと詳爲りて、其の言、身を保ち禮を謹しむと學者に語るに持守の方を以てするとに過ぎざるのみ。是に於て以て聖賢の學、其の貴重なる所は、乃ち此に在りて浮屠氏の理に察せずして、徒らに坐亡立脱を以て奇と爲すが若きに非ざるを見るに足るなり。然るに學者より之を言えば、則ち死生も亦大なり。其の平日善を見るに明かに、道を信ずるに篤く、深潛厚養力行して間無きに非ざれば、夫れ亦孰か能く此に至りて亂れざらんや。今鄭君景元が報ずる所、其の兄龍圖公の事を觀れば、亦以て其の學ぶ所の正にして守りの固きを驗るに足る。謂う所の朝に道を聞かば夕に死すも可なる者は、公に於て之を見る。因りて竊に其の後に書し、以て自警し、又將に之を同志に傳え、相與に勉めんとす。文集八十一。

六経記載圣賢之行事、備矣。而於死生之際無述焉。蓋以是爲常事也。六経に圣賢の死ぎはのことがない。尭典に放勲徂落と計りで短いこと。あれは御他界と云たぎりなり。曰稽古帝尭より禹湯文武に至まで、臨終のことはない。死生を改て云は前かたなこと。垩賢の死は平生のなりの尽るにて、天理なりのわたもちなれば、死生之際を述るには及ぬ。朱子の、孔子は其太極乎也。それに五臟百骸あるにて、死ぬときに観化と云やふなことはない。○獨論語檀弓記曽子寐疾時事爲詳、而其言不過保身謹礼與語學者以持守之法而已。曽子若い時から戦々兢々として、それを今日使い仕舞うなり。保身謹礼が雖小事亦不放過のことなり。
【解説】
「跋鄭景元簡。曰、六經記載聖賢之行事、僃矣。而於死生之際無述焉。蓋以是爲常事也。獨論語檀弓記曾子寢疾時事爲詳、而其言不過保身謹禮與語學者以持守之方而已」の説明。聖賢は天理の通りであり、死は天理の通りに身を終えるだけのことである。
【通釈】
「六経記載聖賢之行事、備矣。而於死生之際無述焉。蓋以是為常事也」。六経に聖賢の死際のことはない。堯典に放勲徂落とあるだけで短い。あれは御他界だと言っただけのこと。「曰稽古帝堯」より禹湯文武に至るまで、臨終のことはない。死生を改めて言うのは未熟なこと。聖賢の死は平生の通りが尽きるだけで、天理の通りの肉身なので、死生の際を述べるには及ばない。朱子が、「孔子其太極乎」と言った。それに五臓百骸あるのであって、死ぬ時に観化という様なことはない。○「独論語檀弓記曾子寝疾時事為詳、而其言不過保身謹礼与語学者以持守之方而已」。曾子は若い時から戦々兢々としていたが、それを今日使い終えたのである。保身謹礼が「雖小事亦不放過」のこと。
【語釈】
・放勲徂落…孟子万章章句上4。「堯典曰、二十有八載、放勳乃徂落。百姓如喪考妣、三年四海遏密八音」。
・曰稽古帝尭…書経堯典。「曰、若稽古帝堯」。
・前かた…前方。初心。うぶ。未熟。
・戦々兢々…論語泰伯3。「曾子有疾、召門弟子曰、啓予足。啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫。小子」。
・雖小事亦不放過…講学鞭策録34の語。

○於是足以見圣賢之学、其所貴重、乃在於此非若浮屠氏之不察於理、而徒以坐亡立脱爲竒也。佛は理を察せぬ。平生に理のあることは知らぬ。理を察せぬから烟草盆蹴て疂ざはりわるくても、行義よくても胡坐でも、かしこまりてもどちでもよいやふなものなれども、こちは理を察するゆへ、すこしのことか理にはづれても、それでは奧歯に物のはさまりたやうなり。理を察するがひまのないこと。飯不厭精膾不厭纖も理を云。又飯か黒くても中りもせまいとて呵られもせぬが、白いがよいなり。文王の夫婦中と玄宗の夫婦中とは違ふが、佛は何もきたないと云て垩人の閨門もうるさく思ふ。そこで文王でも玄宗も同ことに見る。然るに理を察せ子ば、天地の中に居られぬ。今和尚も南鐐と小判とは違う。龍光寺も大きな判を押す。
【解説】
「於是足以見聖賢之學、其所貴重、乃在於此非若浮屠氏之不察於理、而徒以坐亡立脱爲奇也」の説明。仏は平生に理のあることを知らない。文王の夫婦仲と玄宗の夫婦仲とを一緒にして嫌うが、一方、彼等も南鐐と小判とでは対応が違う。
【通釈】
○「於是足以見聖賢之学、其所貴重、乃在於此非若浮屠氏之不察於理、而徒以坐亡立脱為奇也」。仏は理を察しない。平生に理のあることは知らない。理を察しないのなら、煙草盆を蹴って畳触りが悪くても、行儀よくても胡座でも、畏まってもそうしなくてもどちらでもよい様なものだが、こちらは理を察するので、少しのことが理に外れても、それでは奥歯に物の挟まった様である。理は暇なく察する。「飯不厭精、膾不厭細」も理を言う。また、飯が黒くても中りもしないから呵られもしないが、白いのがよい。文王の夫婦仲と玄宗の夫婦仲とは違うが、仏はどちらも汚いと言い、聖人の閨門も煩く思う。そこで文王でも玄宗も同じことと見る。そこで、理を察しなければ、天地の中にはいられない。今は和尚も南鐐と小判とでは違う。龍光寺も大きな判を押す。
【語釈】
・飯不厭精膾不厭纖…郷党8。「食不厭精、膾不厭細」。
・南鐐…江戸時代の貨幣で、二朱判銀のこと。

さて浮屠氏ふだんは雨ふらばふれと蹴ちらかし、死ときここが大切と遺経因果経の時也。坐亡立脱があちてもさはかしい。人をどしなり。釈迦は咄するかと思ふ中に、こふとふに死だなり。坐亡立脱と云ふがたたい了簡違そ。死ときは倒れるはづ。立をふじゃうは理を見ぬゆへ竒とするなり。たたい臨終正念は平生のよいがそふなること。仏は只臨終正念とて平生は蹴ちらかす。そこで一休が蜷川が女房に戯れる。垩人は以の外の非礼とする。佛の死を大事とする。それは茶人の客を見かけて釜の火なり。茶は平生のどの乾くにするもの也。急に見かけてするによいはづはない。忰を頼ますと云て死は人生の平實で、ほんのなりぞ。それは面白くない死やふのやうに云が、却てそれがよい。
【解説】
仏は普段を蹴散らかし、死を大切だと言う。それは茶人が人を見掛けて茶の用意をする様なもの。それでよい筈はない。平生のよいところが臨終正念に繋がるのである。
【通釈】
さて「浮屠氏」は普段雨降れば降れと蹴散らかし、死ぬ時はここが大切と言う。遺経因果経の時である。「坐亡立脱」があちらでも騒がしい。それは人脅しである。釈迦は話をするかと思う内に、高踏に死んだ。坐亡立脱と言うのはそもそも了簡違いである。死ぬ時は倒れる筈。立往生は理を見ないから「奇」とするもの。そもそも臨終正念は平生のよいところがそうなること。仏はただ臨終正念と言って平生は蹴散らかす。そこで一休が蜷川の女房に戯れる。聖人はそれを以の外の非礼とする。仏は死を大事とする。それは茶人が客を見掛けて釜の火を熾す様なもの。茶は平生喉が渇くからするもの。急に見掛けてすることによい筈はない。忰を頼みますと言って死ぬのは人生の平実で、本当の姿である。それは面白くない死に方の様に言うが、却ってそれがよい。
【語釈】
・雨ふらばふれ…一休。「有露路より無露路へ帰る一休み、雨降れば降れ、風吹かば吹け」。

○然自学者言之、則死生亦大矣。から口にせぬためにこれを云。凡人はほへづらかいて昨日今日とは思はさりけりとてよい。医者を召んて玉へと云。死生を大とするからなり。そこで死生大なりと知惠を付るに及ばぬが、合点してからは夕べ死生をかるく云も心得違なり。夭壽不貳と云は、我ものにならぬゆへこれを云なり。然るに明德性善もこのからたへ入れるゆへ、花火線香とは違う。死生亦大也そ。非其平日見善明、信道篤、深潛厚養力行而無間、夫亦孰能至此而不乱哉。平日にあることで、急の間には合はぬ。善い着る物で出て大名と見せても、大名とは違う。此方の死生を云は平生の違ふことなり。見善明は、大学の始の教も中庸も、先つ明からでなければならぬ。さてここの段になると俗学のなりがわるくなる。事を帳に付て急に先例をくる。それではいかぬ。このあたりでも今倒れものあるに、享保年中の倒れものが斯ふとは云はぬ。今の學者善に明になく、事ばかりを覚へる。軍に木馬で出るのなり。此句は先つ道理を知る計りなり。
【解説】
「然自學者言之、則死生亦大矣。非其平日見善明、信道篤、深潛厚養力行而無間、夫亦孰能至此而不亂哉」の説明。凡人は「死生亦大」を言うには及ばないが、学者にはこれが重要である。それは平日にあることであり、事を帳面に付けて先例を括る様なことではうまく行かないこと。
【通釈】
○「然自学者言之、則死生亦大矣」。空口にしないためにこれを言う。凡人は吠え面かいて、昨日今日とは思わざりけりでよい。医者を呼んでくれと言う。それは死生を大とするからである。そこで死生大矣と知恵を付けるには及ばないが、合点してからは、夕べに死生を軽く言うのは心得違いである。「殀寿不貳」は、自分にはどうしようもないのでこの様に言うのである。そこで、明徳性善もこの体に入れることなので、花火線香とは違う。死生亦大矣である。「非其平日見善明、信道篤、深潛厚養力行而無間、夫亦孰能至此而不乱哉」。平日にあることで、急の間には合わない。善い着物で出て大名と見せても、大名とは違う。こちらで死生を言うのは平生が違うということ。見善明は、大学の始めの教えも中庸も、先ず明からでなければならないからである。さてここの段になると俗学の様子が悪くなる。事を帳に付けて急に先例を括る。それではうまく行かない。この辺りでも今倒れ者があるが、享保年中の倒れ者がこうだとは言えない。今の学者は善に明でなく、事ばかりを覚える。軍に木馬で出るのである。この句は先ず道理を知るだけのこと。
【語釈】
・昨日今日とは思はさりけり…親鸞。「会者定離ありとはかねて聞きしかど、昨日今日とは思わざりけり」。
・夕べ死生…論語里仁8。「子曰、朝聞道、夕死可矣」。
・夭壽不貳…孟子尽心章句上1。「孟子曰、盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也。殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」。

この信道篤は、見たなりをふりかへらぬことなり。孟子の孔子のあとをつぐは信道からのこと。そふなければ荘子になると迂斉云。某が先軰を信ずるもそれなり。某律義正直ではない。先軰を信じそふなものでなけれども、どふ見ても先軰はよいからなり。若い時いろ々々と見て徂徠派にもなりか子ぬ。何の遠慮や人口はをそれぬか、政談経済録や辨名辨道を見てもそも々々末なことなり。とふもあれに流れやふはないそ。さて見善明なればやりはなしの出る処をこの外はないと道を信してあつくなる。深潛厚養力行が平生が違ふ。今學者我等も此頃朱子学になったと云てさわがしいが、どこを見取て朱子になりたぞ。その手ではどふらくもならぬ。とふらくにさへ趣と云かある。わるいことても深潛厚養でなければ出來ぬ。なぜなれば、わるい方で仲ヶ間にせぬ。况や圣賢の道や死生のことが急に浅いことではいかぬ。時にこれ迠も知に見るべし。中庸温故と云も知惠の上の存養して知新の問學なり。力行ははたらくことゆへ骨は折れぬ。そこで子思の、力行をば篤行之と一と口に云。なるほど料理でも食うに骨は折れぬ。昨日からの献立を今日一と口となり。其手間の取れたものを食う時に辛いがある。そこが力行也。すれば死ぎはのこと計りを一と口に云ことでない。
【解説】
平生は「見善明」で「信道篤」をする。黙斎は律儀でも正直でもないが、先輩を信じると言う。また、その上で「深潛厚養力行」をする。死生のことばかりを言っていてはならないのである。「見善明、信道篤、深潛厚養力行」は皆知のことである。
【通釈】
この「信道篤」は、見た通りを振り返らないこと。孟子が孔子の後を継いだのは信道からのこと。そうでなければ荘子になると迂斎が言った。私が先輩を信ずるのもそれ。私は律儀でも正直でもない。先輩を信じそうなものでないが、どう見ても先輩はよいから信じる。若い時に色々と見て徂徠派にもなりかねない。何も遠慮や人口は恐れないが、政談経済録や弁名弁道を見てもそもそも末なこと。どうもあれに流れる術はない。さて「見善明」であれば、遣り放しの出る処をこの外はないと道を信じて篤くなる。「深潛厚養力行」で平生が違う。今の学者や私達もこの頃朱子学になったと言って騒がしいが、何処を見取って朱子になったのか。その手では道楽もできない。道楽にさえ趣ということがある。悪いことでも深潛厚養でなければできない。それは何故かと言うと、悪い者が仲間にしない。況や聖賢の道や死生のことが急で浅いことではうまく行かない。時にこのことまでも知のことだと見なさい。中庸で温故と言うのも知恵の上で存養して知新の問学である。力行は働くことなので骨は折れない。そこで子思が、力行を「篤行之」と一口に言った。なるほど料理も食うに骨は折れない。昨日からの作った献立を今日一口で食う。手間の取れたものを食う時に辛いものがある。そこが力行である。それなら死際のことばかりを一口に言うのは悪い。
【語釈】
・温故…中庸章句27。「故君子尊德性而道問學、致廣大而盡精微、極高明而道中庸。温故而知新、敦厚以崇禮」。
・篤行之…中庸章句20。「博學之、審問之、愼思之、明辨之、篤行之」。

○今觀鄭君景元所報、其兄龍圖公事云々、所謂朝聞道夕死可矣者、於公見之。因竊書其後、以自警、又將傳之同志、相與勉焉。鄭景元がどちへ返書の中に兄のことを書こんだなり。これは濂渓時分の人なり。龍圖公この通りなれば道理得たものと見へて、道統の人でなしとも朝聞道は道統の人の下た坐に置くことなり。時に朝聞道を立志の末へ置き、道学標的の始もこれを出され、これからあとの大学或問へゆくか直方の手なり。されとも直方の方にそふと云ことでもあるまいが、思はず期ふなって來たことなり。さて朝聞道は手まひまかけずにすることなり。顔曽を友に孔子の御側に居て、朝聞道と云は事がさはがしい。大学の八條目の通りにして学問のふんどうをさへるが朝聞道なり。それゆへ曽點は舩遊山で見てとり、漆彫開は奉公すまいて分銅つまかへた。そこは朝聞道なり。ここが成就でなく、立志で云ことなり。すれば全い人で云ことでないなり。冉有奉公しても道をきかぬゆへ、収歛する。漆彫開は冉有ほど政事は行まいが、あたまで道を聞て小出来に出來た成就なり。曽子一以貫已や、顔子喟然嘆か朝聞道と云ことでなく、あの衆はそんなことではない。朝聞道は入り口の処なり。斯ふして見ると朝聞道はこはいやうてもあり、又、心持よいやふでもあり、寒熱往來なり。先つこれ迠が立志で、あとが操存なり。
【解説】
「今觀鄭君景元所報、其兄龍圖公事、亦足以驗其所學之正而守之固矣。所謂朝聞道夕死可矣者、於公見之。因竊書其後、以自警、又將傳之同志、相與勉焉」の説明。立志の末に朝聞道を置いた。朝聞道は成就のことではなく、立志のことである。曾子や顔子などは朝聞道を超えた人である。
【通釈】
○「今観鄭君景元所報、其兄龍図公事云々、所謂朝聞道夕死可矣者、於公見之。因竊書其後、以自警、又將伝之同志、相与勉焉」。鄭景元の返書の中に兄のことを書き込んだ。彼は濂渓時分の人。龍図公はこの通りの人なので道理を得た者と見え、道統の人ではなくても朝聞道で道統の人の下座に置く人である。時に朝聞道を立志の末に置き、道学標的の始めにもこれを出され、これから後の大学或問へ行くのが直方の手である。しかしながら、直方の方でそうしようと思ったのでもないだろうが、思わずこの様になって来たのである。さて朝聞道は手間暇掛けずにすること。顔曾を友にし、孔子の御側にいて、朝聞道と言うのでは事が騒がしい。大学の八条目の通りにして学問の分銅を押さえるのが朝聞道である。そこで曾点は船遊山で見て取り、漆雕開は奉公を断ることで分銅を掴まえた。そこが朝聞道である。ここは成就でなく、立志で言うこと。そこで、全い人で言うことでない。冉有は奉公しても道を聞かないので、聚斂をした。漆雕開は冉有ほど政事はうまく行かないだろうが、最初に道を聞いたので、小出来の成就である。曾子の一以貫已や、顔子の喟然の嘆は朝聞道ということではない。あの衆はそんなことではない。朝聞道は入口の処。こうして見ると朝聞道は恐い様でもあり、また、心持よい様でもあり、寒熱往来である。先ずこれまでが立志で、あとが操存である。
【語釈】
・曽點は舩遊山…論語先進25。「莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。夫子喟然歎曰、吾與點也」。
・漆彫開は奉公すまい…論語公冶長6。「子使漆雕開仕。對曰、吾斯之未能信。子説」。
・収歛する…論語先進16。「季氏富於周公、而求也爲之聚斂而附益之。子曰、非吾徒也。小子鳴鼓而攻之可也」。
・曽子一以貫已…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。
・顔子喟然嘆…論語子罕10。「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人、博我以文、約我以禮。欲罷不能、既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已」。