答呉晦叔書條  八月六日  文録
【語釈】
・八月六日…寛政5年(1893)8月6日。
・文…林潜斎。花沢文次。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

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答呉晦叔書曰、熹伏承示及先知後行之説。反覆詳明引據精密警發多矣。所未能無疑者、方欲求敎、又得南軒寄來書藳讀之、則凡熹之所欲言者、蓋皆已先得之矣。特其曲折之間、小有未僃。請、得而細論之。夫泛論知行之理、而就一事之中以觀之、則知之爲先行之爲後、無可疑者。如孟子所謂、知皆擴而充之。程子所謂、譬如行路、須得光照。及易文言所謂、知至至之、知終終之之類、是也。然合夫知之淺深行之大小而言、則非有以先成乎其小、亦將何以馴致乎其大者哉。如子夏敎人以洒掃應對進退爲先。程子謂未有致知而不在敬者。及易文言所言、知至知終、皆在忠信脩辭之後之類、是也。蓋古人之敎自其孩幼而敎之以孝悌誠敬之實、及其少長而博之以詩書禮樂之文。皆所以使之即夫一事一物之間、各有以知其義理之所在、而致涵養踐履之功也。此小學之事。知之淺而行之小者也。及其十五成童學於大學、則其洒掃應對之間、禮樂射御之際、所以涵養踐履之者略已小成矣。於是不離乎此、而敎之以格物以致其知焉。致知云者因其所已知者、推而致之、以及其所未知者、而極其至也。是必至於舉天地萬物之理、而一以貫之。然後爲知之至、而所謂誠意正心脩身齊家治國平天下者、至是而無所不盡其道焉。此大學之道。知之深而行之大者也。今就其一事之中而論之、則先知後行、固各有其序矣。誠欲因夫小學之成以進乎大學之始、則非涵養履踐之有素、亦豈能居然以夫雜亂紛糾之心、而格物以致其知哉。且易之所謂忠信脩辭者聖學之實事、貫始終而言者也。以其淺而小者言之、則自其常視毋誑、男唯女兪之時、固已知而能之矣。知至至之、則由行此而又知其所至也。此知之深者也。知終終之、則由知至又進以終之也。此行之大者也。故大學之書雖以格物致知爲用力之始、然非謂初不涵養履踐而直從事於此也。又非謂物未格知未至、則意可以不誠、心可以不正、身可以不脩、家可以不齊也。但以爲必知之至、然後所以治己治人者、始有以盡其道耳。若曰必俟知至而後可行、則夫事親從兄承上接下、乃人生之所不能一日廢者、豈可謂吾知未至而暫輟以俟其至而後行哉。按、五峯作復齋記、有立志居敬身親格之之説。蓋深得乎此者。但知言所論、於知之淺深、不甚區別而一以知先行後概之、則有所未安耳。抑聖賢所謂知者雖有淺深、然不過如前所論二端而已。但至於廓然貫通、則内外精粗自無二致、非如來敎及前後所論觀過知仁者、乃於方寸之間、設爲機械欲因觀彼而反識乎此也。候子所闢緫老默識之、是識甚底之言、正是説破此意。如南軒所謂知底事者、恐亦未免此病也。又來論所謂端謹以致知、所謂克己私集衆理者、又似有以行爲先之意、而所謂在乎兼進者、又若致知力行初無先後之分也。凡此皆鄙意所深疑、而南軒之論所未僃者。故敢復以求敎、幸深察而詳論之。四十二。
【読み】
呉晦叔に答うる書に曰く、熹、知を先にし行を後にするの説を示し及ぶを伏承す。反覆詳明引據精密警發多きかな。未だ疑い無きこと能わざる所の者は、方に敎えを求めんと欲すれば、又南軒寄來の書藳を得て之を讀めば、則ち凡そ熹の言わんと欲する所の者は、蓋し皆已に先ず之を得るなり。特に其の曲折の間、小に未だ僃わざる有り。請う、得て細に之を論ぜん。夫れ泛く知行の理を論じて、一事の中に就きて以て之を觀れば、則ち知の先と爲り行の後と爲るは、疑う可き者無し。孟子謂う所の、皆擴げて之を充つるを知る。程子謂う所の、譬えば路を行くが如く、須く光照を得るべし。及び易の文言に謂う所の、至るを知りて之に至り、終えるを知りて之を終えるの類、是れなり。然るに夫れ知の淺深行の大小を合わせて言えば、則ち以て先ず其の小に成ること有るに非ざれば、亦將に何を以て其の大なる者に馴致せん、と。子夏の人を敎えるに洒掃應對進退を以て先と爲す。程子の未だ知を致して敬に在ざる者有らずと謂う。及び易の文言に言う所の、至るを知りて終えるを知る、皆忠信辭を脩むるの後に在るの類の如き、是れなり。蓋し古人の敎えは其の孩幼よりして之を敎えるに孝悌誠敬の實を以てし、其の少く長ずるに及びて之を博くするに詩書禮樂の文を以てす。皆以て之に夫れ一事一物の間に即して、各々以て其の義理の在る所を知ること有りて、涵養踐履の功を致さしむ所なり。此れ小學の事。知の淺くして行の小なる者なり。其れ十五の成童大學に學ぶに及べば、則ち其の洒掃應對の間、禮樂射御の際、以て之を涵養踐履する者略已に小成す。是に於て此に離れずして、之を敎えるに物に格り以て其の知を致すを以てす。知を致すと云う者は其れ已に知る所の者に因りて、推して之を致し、以て其の未だ知らざる所の者に及んで、其の至りを極むなり。是れ必ず天地萬物の理を舉げて、一を以て之を貫くに至る。然る後知の至りと爲りて、謂う所の意を誠にし心を正し身を脩め家を齊え國を治め天下を平にする者、是に至りて其の道を盡さざる所無し。此れ大學の道。知の深くして行の大なる者なり。今其の一事の中に就きて之を論ずれば、則ち知を先にし行を後にする、固より各々其の序有り。誠に夫れ小學の成るに因りて以て大學の始めに進まんと欲せば、則ち涵養履踐の素有るに非ざれば、亦豈能く居然として夫の雜亂紛糾の心を以てして、物に格り以て其の知を致さんや。且つ易の謂う所の忠信辭を脩むる者、聖學の實事は、始終を貫いて言う者なり。其の淺くして小なる者を以て之を言えば、則ち其れ常に誑かすこと毋きを視て、男唯女兪の時より、固より已に知りて之を能くす。至るを知りて之に至るは、則ち此を行に由りて又其の至る所を知るなり。此れ知の深き者なり。終えるを知りて之を終えるは、則ち至るを知るに由りて又進んで以て之を終えるなり。此れ行の大なる者なり。故に大學の書、物に格り知を致すを以て力を用いるの始めと爲すと雖も、然れども初めより涵養履踐せずして直に事えるに此に從うと謂うに非ず。又物未だ格らず知未だ至らざれば、則ち意は以て誠ならざる可く、心は以て正しからざる可く、身は以て脩めざる可く、家は以て齊わざる可きと謂うに非ず。但以て必ず知之れ至りて、然る後以て己を治め人を治むる所の者は、始めて以て其の道を盡すこと有りと爲すのみ。若し必ず知至るを俟ちて後行う可しと曰えば、則ち夫れ親に事え兄に從い上に承り下に接する、乃ち人生の一日廢すること能わざる所の者、豈吾が知未だ至らずして暫輟以て其の至るを俟ちて後行う可けんや。按ずるに、五峯復齋の記を作るに、志を立て敬に居り身親之に格るの説有り。蓋し深く此に得る者なり。但し知言に論ずる所、知の淺深に於て、甚だ區別せずして一に知先行後を以て之を概すれば、則ち未だ安ぜざる所有るのみ。抑々聖賢謂う所の知は淺深有りと雖も、然れども前に論ずる所の二端の如くに過ぎざるのみ。但廓然貫通に至れば、則ち内外精粗自ら二致無く、來敎及び前後論ずる所の過ぎるを觀て仁を知る者は、乃ち方寸の間に於て、機械を設爲し彼を觀るに因りて此に反識せんと欲すが如きに非ざるなり。候子の緫老默して之を識る、是の甚だ底を識るを闢く所の言、正に是れ此の意を説破す。南軒謂う所の底事を知る者の如きも、恐らくは亦未だ此の病を免れず。又來論謂う所の端謹以て知を致し、謂う所の己私に克ち衆理を集める者、又行を以て先と爲すの意有るに似て、謂う所の兼進在る者も、又致知力行初めより先後の分無きが若し。凡そ此れ皆鄙意深く疑う所にして、南軒の論未だ僃わざる所の者なり。故に敢て復た以て敎えを求め、幸に深く察して詳さに之を論ず。四十二。

序文に云通り、操存精義之方が、上の敬斉の箴迠で操存はすみて、行宮便殿奏箚は精義へかかるつなぎの其根ざすつなぎの処を間へ入れ、それから跡が全くの精義窮理になる。さてこの知行の書は文集の中にあれども、これを見出したは山嵜先生なり。大学之蘊而傳者之所未發也と名を打たは朱子の後一人の眼力にて、これ一つても先つ道統の傳なり。人抦のをとなしいが道統でなく、このやうなこと云処が道統の傳にあつかるぞ。程子の礼記の中から大学を見出したと、柯先生の知行の書を見出だが同挌になる。今あの知行の書が一冊ものになってある。それを私も文集持て、その中にあれば別に入らぬと云は知らぬ者の云ことにて、然らば大学中庸も礼記の中にあるゆへ別に入らぬはづになる。一冊になったと云が大切なり。これがつまり学問は知にきはまれども、居敬が根になければ知惠が知惠にたたぬ。すれば小学大学の両方でなけれはならぬが、其ことがこの知行の書て見へる。去るによってこの書が重いことなり。
【解説】
これは知行の書であり、文集にあったものを山崎先生が見出した。これは一冊物になっているが、それは礼記にあった大学と中庸が一冊物となっているのと同じである。
【通釈】
序文に「操存精義之方」とある通り、上の敬斎の箴までで操存は済み、次の行宮便殿奏箚は精義へ掛かる繋ぎであり、その根差す繋ぎの処を間に入れ、それから後が全くの精義窮理となる。さてこの知行の書は文集の中にあるものだが、これを見出したのは山崎先生である。「大学之蘊而伝者之所未発也」と名を打ったのは朱子の後一人の眼力であって、これ一つでも先ず道統の伝となる。人柄が大人しいのが道統ではなく、この様なことを言う処が道統の伝に与ることである。程子が礼記の中から大学を見出したのと、柯先生が知行の書を見出したのが同格になる。今あの知行の書が一冊物になっている。それを、私も文集を持っており、その中にあるのだから別には要らないと言うのは知らない者の言うことで、それなら大学や中庸も礼記の中にあるのだから別には要らない筈になる。一冊になったというのが大切なこと。これがつまり学問は知に極まるものだが、居敬が根になければ知恵が知恵に立たないということ。それなら小学大学の両方でなけれはならないが、そのことがこの知行の書で見える。そこで、この書が重いことになる。
【語釈】
・大学之蘊而傳者之所未發也…山崎闇斎近思録序。「答呉晦叔知行書、則大學之蘊而傳者之所未發也。皆不載之」。

○曰、熹伏承示及先知後行之説。反覆詳明引據精密警發多矣。先知後行は知れたこと。珍しそうに今云に及ぬことなれども、只晦叔知を主張しても見取のない人ゆへ斯ふ云て來たものなり。某先年朱子の爰を斯ふ警発多などと誉たはどふ云つり合かと疑ったが、この頃そふで有ふとなり。引據精密は、向でも知行の證拠は多いはづ。さま々々珍しそうに引たで有ふ。古から色々とある説ともなり。時に知は先、行は後と云に朱子の警發はないはづ。それはふるいことなり。そこで某若いときは爰をみな挨拶ことばとしたがそうでなく、反覆詳明引拠精密は向の説がそうあるべし。只警發多矣ばかりがあいさつ辞なり。
【解説】
「答呉晦叔書曰、熹伏承示及先知後行之説。反覆詳明引據精密警發多矣」の説明。先知後行は知れたことで、それに朱子の警発はない。先知後行の証拠は昔から色々とある。
【通釈】
○「曰、熹伏承示及先知後行之説。反覆詳明引拠精密警発多矣」。先知後行は知れたことで、珍らしそうに今言うには及ばないことだが、ただ晦叔は知を主張しても見取りのない人なのでこの様に言って来たもの。私は、先年朱子がここをこの様に「警発多」などと褒めたのはどういう釣り合いなのかと疑ったが、この頃その通りのことだとわかった。「引拠精密」。向こうでも知行の証拠は多い筈。様々と珍らしそうに引いたことだろう。古から色々とある説である。時に知は先、行は後ということに朱子の警発はない筈。それは古くからのことである。そこで私が若い時にはここを皆挨拶言葉だと思ったが、そうではなく、「反覆詳明引拠精密」は向こうの説がそうだろうということ。ただ警発多矣だけが挨拶言葉である。

○所未能無疑者、方欲求教。呉晦叔は五峯の門、南軒とも学友なれば、朱子も同挌のつつきゆへ慇懃にあいさつせらるるなり。○又得南軒寄來書藳読之、則凡熹之所欲言者、蓋皆已先得之矣。特其曲折之間、小有未備。請、得而細論之。時に南軒より下た書の書を寄せられたが、その中に朱子の云たいことは南軒から言て來たとなり。已先得之の文字が書経の罪人得之の文法ぞ。これは某申ふと存ずる処のさなごな臍落の処は南軒の方にありて、得之と云ことなり。特其曲折之間、小有未備。請、得而細論之は、南軒のもまだ某存念とは、こまかな処にのこった処があるとなり。惣体見識高い人のはこまかに云とげっくりするもの。細論之が向へあたりあること。大べらにざっと云と高いやふでも、細かに論じた時ぬけがあるものぞ。杜子美が李伯へこまかに詩を論ぜんと云ふも、李伯はあの才ゆへこまかがないゆへなり。詩は一と通りのことで、天授の得手不得手あることでさへそふなり。况んや道学のことはこまかなことでなければ丁どへ落ぬ。
【解説】
「所未能無疑者、方欲求敎、又得南軒寄來書藳讀之、則凡熹之所欲言者、蓋皆已先得之矣。特其曲折之間、小有未僃。請、得而細論之」の説明。私の言いたいことは南軒の来書にあるが、それも細かな処では物足りない処があるので、細かに論じようと朱子が言った。見識の高い人は細かなところが悪いもの。
【通釈】
○「所未能無疑者、方欲求教」。呉晦叔は五峯の門で、南軒とも学友なので、朱子も同格の続きなので慇懃に挨拶をされた。○「又得南軒寄来書藳読之、則凡熹之所欲言者、蓋皆已先得之矣。特其曲折之間、小有未備。請、得而細論之」。時に南軒より下書を寄せられたが、朱子の言いたいことはその中で南軒が言っていると言う。「已先得之」の文字が書経の「罪人得之」の文法である。これは私が申そうと思った処の核心の臍落ちの処は南軒の方にあって、「得之」だということ。「特其曲折之間、小有未備。請、得而細論之」は、南軒のもまだ私の存念とは細かな処で足りない処があると言ったこと。総体、見識の高い人は細かに言うとげっそりとするもの。「細論之」が向こうへ当たりのあること。大まかにざっと言うと高い様だが、細かに論じた時には抜けがあるもの。杜甫が李白に細かに詩を論じようと言ったのも、李白はあの才なので細かなところがないからである。詩は一通りのことだが、天授の得手不得手あることでさえそうなる。況や道学のことは細かでなければ丁度に落ちない。
【語釈】
・書経の罪人得之…書経金滕。「周公居東二年、則罪人斯得」。
・杜子美が李伯へこまかに詩を論ぜん…春日憶李白。「白也詩無敵、飄然思不群。清新愈開府、俊逸鮑参軍。渭北春天樹、江東日暮雲。何時一樽酒、重與細論文」。

そふたい細と云字は大切に見べし。医者が、白述が一味ないゆへ代りに蒼述と云へばいやなこと。死生にあつかる我からたのことぞ。この細かな論がなくては道理がぎり々々につまらぬ。俗学はくといことや役にも立ぬことを細とをほへ、年號迠本朝何帝などとこまかに云が、爰は道理のさなごのこと。細かのあたりてなければつやは出て來ぬものなり。風は百病の長たりますてはいかぬ。兎角南軒でも呉晦叔てもこまかの処が朱子へあたらぬ。さてここて細の字のことを丁寧に云も、此すへまで此細の字が貫く。これ呉晦叔の書をよむの精彩也。夫泛論知行之理、而就一事之中以觀之、則知之爲先行之爲後、無可疑者。知先行後は御定りのことなれども、向から云て來たゆへ朱子も又これから云ぞ。泛く知行の道理を一事の上で云へば、知がさきは知れたことで疑はないなり。これは汁か飯か知らずに食ものはない。鼻先にあるぞ。箸と烟管でも知がさきゆへ、火箸を口へ入れ、吸口を火鉢の中へ入れはせぬ。すれば知から行くに異論はないことなり。
【解説】
「夫泛論知行之理、而就一事之中以觀之、則知之爲先行之爲後、無可疑者」の説明。細かな論がなくては道理が至極に詰まらない。細とは道理の核心のことである。また、この細の字が最後までを貫く。知先行後は御定まりのことで、知から行くのに異論はない。
【通釈】
総体、細という字を大切に見なさい。医者が、白述が一味ないので代わりに蒼述と言うのは嫌なこと。死生に与る自分の体のことである。この細かな論がなくては道理が至極に詰まらない。俗学はくどいことや役にも立たないことを細かと覚え、年号までも本朝何帝などと細かに言うが、ここは道理の核心のこと。細かの当たりでなければ艶は出て来ない。風は百病の長たりと言いますではうまく行かない。とかく南軒でも呉晦叔でも細かな処が朱子へ当たらない。さてここで細の字のことを丁寧に言うのも、ここの最後までこの細の字が貫くからである。これが呉晦叔の書を読むことの精彩である。「夫泛論知行之理、而就一事之中以観之、則知之為先行之為後、無可疑者」。知先行後は御定まりのことだが、向こうから言って来たので、朱子もまたこれから言った。泛く知行の道理を一事の上で言えば、知が先なのは知れたことで疑いはない。これは汁か飯かを知らずに食物はないのと同じ。鼻先にあること。箸と煙管でも知が先なので、火箸を口へ入れ、吸口を火鉢の中へ入れはしない。それなら知から行くのに異論はない。
【語釈】
・白述…漢方薬。健胃、整腸、利尿薬。
・蒼述…漢方薬。胃腸消化薬、止瀉整腸薬、利尿薬、鎮暈薬、保健強壮薬、鎮痛薬。

○如孟子所謂、知皆擴而充之。これは点の付やうがわるい。爰に限らず鞭策録鬼神集説の中にはまま点の誤かある。此点ては集註の通りの文義になる。そふでなく、ここへ引たは朱子集註でないが入用で取たものなり。これ迠諸先生も朱子のこれを引るるに色々ふまへある云の吟味ないはあらいぞ。ここの集註の文義は皆擴而充ることを知てと、知の字を軽く云ことなり。されともあたまから擴充がなるものでない。知が根になる。知てから擴ると云ことを先つ知てと云ふ。なるほどそふで、本んとうふに擴充は大学以上でなければならぬ。そこで今大学者が擴而充かなることなり。とかく知が先じゃ。去によって駕舁や中間んにも惻隱はあるが擴充はならぬ。手習子が師匠にわるいことを呵られると赤面するが、これも擴充は出來ぬ。然れば先つ知てから擴ると云ことなり。これ改点の意にて、ここの定った説なり。時にその上に某が一説あり。此知てと云を出すは、朱子の南軒を立にとりて云はれた。南軒は孟子の文義を知てからと、知を重く云。呉晦叔は五峯の弟子なれば同門の南軒が知って擴め充ると云をたてにして云ふへし。ぬしの集註は出さず、南軒のを幸にして、證拠にするなり。
【解説】
「如孟子所謂、知皆擴而充之」の説明。「知皆拡而充之」は、集註の文義では皆拡げて充てることを知ってと読むが、ここは知って皆拡げて之を充てると読む。知が根にならなければならず、拡充は大学以上ですること。また、南軒が知って拡め充てると言ったのを楯にして言ったとするのが黙斎の一説である。
【通釈】
○「如孟子所謂、知皆拡而充之」。これは点の付け様が悪い。ここに限らず鞭策録鬼神集説の中にはまま点の誤りがある。この点では集註の通りの文義になる。そうではなく、ここへ引いたのは朱子集註でないことが入用で取ったもの。これまで諸先生も朱子がこれを引かれるのには色々と踏まえがあると言ったが、吟味のないのは粗いこと。ここの集註の文義は皆拡げて充てることを知ってと、知の字を軽く言うもの。しかしながら、最初から拡充ができるものではない。知が根になる。知ってから拡がるということを、先ず知ってと言う。なるほどそうで、本当に拡充するのは大学以上でなければならない。そこで今大学者には拡而充ができること。とかく知が先である。そこで駕舁きや中間にも惻隠はあるが拡充はできない。手習子が師匠に悪いことを呵られると赤面するが、これも拡充はできない。それなら先ず知ってから拡げるということ。これが改点の意であって、ここの定まった説である。時にその上に私の一説がある。この知ってと出したのは、朱子が南軒を楯に取って言われたのである。南軒は孟子の文義を知ってからと、知を重く言う。呉晦叔は五峯の弟子なので、同門の南軒が知って拡め充てると言ったのを楯にして言ったのだろう。自分の集註は出さず、南軒のを幸いにして證拠にした。
【語釈】
・擴而充之…孟子公孫丑章句上6。「凡有四端於我者、知皆擴而充之矣」。

○程子所謂、譬如行路、須得光照。道を行くにいつも灯燈かさきなり。旦那の先へ立は慮外とて、あとになると旦那をどぶへ落す。夜分何事でも先つ火がなければならぬ。盗賊や急病ても何よりさきに火をとぼさ子ばはたらかれぬ。くらくして、ここか靜が根と云てはすまぬ。この光照の字は知に假て云なり。○及文言所謂、知至至之、知終終之。至る終るは行なれども、それは知てからでなければならぬ。長崎へゆくも長崎のあることを先つ知て、そこで旅装束なり。さて知の先き行の後は、上段々これほと證拠があるぞと云ことなり。呉晦叔が引據精密が、あちからもほぼこのやうに云て來たものであろふか、朱子ほどにはあるまい。
【解説】
「程子所謂、譬如行路、須得光照。及易文言所謂、知至至之、知終終之之類、是也」の説明。道を行くにはいつも提灯が先である。また、易にも「知至至之、知終終之」とあり、これが先知後行の証拠である。
【通釈】
○「程子所謂、譬如行路、須得光照」。道を行くにはいつも提灯が先である。旦那の先へ立つのは慮外なことだとして後になると、旦那を溝へ落とす。夜分は何事でも先ず火がなければならない。盗賊や急病でも何より先に火を灯さなければ働くことはできない。暗くして、ここは静が根だと言っては済まない。この「光照」の字は知に仮して言ったこと。○「及易文言所謂、知至至之、知終終之」。至る終わるは行だが、それは知からでなければならない。長崎へ行くにも長崎のあることを先ず知って、そこで旅装束をする。さて知が先で行が後なのことは、上段々にこれほと証拠があるということ。呉晦叔の「引拠精密」も、あちらからもほぼこの様に言って来たものだろうが、朱子ほどではなかっただろう。
【語釈】
・知至至之、知終終之…易経乾卦文言伝。「九三曰、君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎、何謂也。子曰、君子進德脩業。忠信所以進德也。脩辭立其誠、所以居業也。知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也。是故居上位而不驕、在下位而不憂。故乾乾。因其時而惕、雖危无咎矣」。

○然合夫知之浅深行之大小而言、則非有以先成乎其小、亦將何以馴致乎其大者哉。さてこれからが傳者の所未發也。山嵜先生のあの言はここの処を見て云はるることぞ。知にも深浅大小あり、上の就一事之中とこれを昭看すべし。一事と云へばどっちしても知先後、それに深浅大小あるで、その浅い処から深い処へゆくときには小学の浅い知行が大学の深い知行へかかるとき、たた知先行後てなく、小学の行が先に立て大学の知、小かの大へ参る時、其知行々々とまいる中に行知となるあやがある。某啓発の集讀むとき、知行と行知の旨を圖にして見せたが、あれで早くすむ。知行な深い知へかかるときは浅行から深知へうつる。小学も知行、大学も知行なれども、小学の行から大学の知へゆくは行知にて、小学の行を根にして大学の格致のきんみへかかる。其堺目は知行が行知になるぞ。これが朱子の胸へかけて発明せられたことなり。漢當かあの通り文字も相応にきまれども、人の言ばかり聞て居て、我む子にはのせて見ぬ。なるほど夢をとくなり。右申す通り大小学ともに知行々々なれども、小学の知行から大学へうつる時は行がさきで知があとなり。孔子三十而立は行、四十而不惑、五十而知天命は知。あの立つと云行が又知になる。じりんの下地にそれがなければ大きな処や深い処へは行れぬ。そこを其小を成して其大なる者に馴致すと云。
【解説】
「然合夫知之淺深行之大小而言、則非有以先成乎其小、亦將何以馴致乎其大者哉」の説明。一事では知先行後だが、それには深浅大小があり、浅い処から深い処へ行く時は行から知へと移る。小学から大学へ移る時がそれである。
【通釈】
○「然合夫知之浅深行之大小而言、則非有以先成乎其小、亦將何以馴致乎其大者哉」。さてこれからが「伝者所未発」である。山崎先生のあの言はここの処を見て言われたこと。知にも深浅大小があり、上の「就一事之中」とこれを昭看しなさい。一事と言えばどちらにしても知先行後だが、それには深浅大小があり、浅い処から深い処へ行く時、小学の浅い知行が大学の深い知行へ掛かる時など、ただ知先行後ではなく、小学の行が先に立って大学の知、小が大へ参る時に、その知行と参る中に行知となる綾がある。私が啓発集を読んだ時、知行と行知の旨を図にして見せたが、あれで早く済む。知行な深い知へ掛かる時は浅行から深知へ移る。小学も知行で大学も知行だが、小学の行から大学の知へ行くのは行知であって、小学の行を根にして大学の格致の吟味へ掛かる。その境目は知行が行知になる。これが朱子の胸へ掛けて発明さられたこと。漢唐はあの通りに文字も相応に決まっていたが、人の言ばかりを聞いていて、自分の胸には乗せて見ない。なるほど夢を説くと言うもの。右に申す通り大小学共に知行だが、小学の知行から大学へ移る時は行が先で知が後である。孔子の三十而立は行、四十而不惑、五十而知天命は知。あの立つという行がまた知になる。基の下地にそれがなければ大きな処や深い処へは行かれない。そこを「成其小馴致其大者」と言う。
【語釈】
・三十而立…論語為政4。「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」。

○如子夏敎人以洒掃応對進退爲先。子夏も行を先にしてまいる。先つ疂さわりがさっかけなくては心が居処に居ぬ。子夏などが知た人なり。文学とは云へとも、後世の文学のことでない。心へ道理をきめるが游夏の文学なり。知から行の次第は知先行後。とっくに知てなれども、以洒掃応對進退爲先が小学の涵養で、心が居処に居るゆへ、そこで窮理がなるとて斯ふ教へるぞ。○程子謂未有致知不在敬者。大学の入口が敬でなければならぬ。其はづなり。明日は太極圖説の講釈するとて東金の祭礼見物に出て、其下た見はならぬ。太皷のどん々々と云処で無極而太極はすまぬ。誹諧師が庭へ樹などうへ風雅と云。それほどのことでもあるまいが、静に秋草でも見るで歳旦や月見の句をするに、市塲のやうではなるまい。よい句も静から出るはづぞ。○易文言所言、知至知終、皆在忠信脩辞之後。初手引たことを又自由に云はるる。文言で孔子のとふに斯ふ仰せられてあること。垩人ぬけはない。忠信なしに知がなるものでない。忠信を先に立て至る也。敬なしに挌物はならぬ。皆様の知行を云は御定りの一と通りのこと。先後、それは知れたこと。但し大小学のうつりぎはは左様でごさらぬなり。これで先つ段落て、あとは知の深浅行の大小を云て大小学を直きに云也。
【解説】
「如子夏敎人以洒掃應對進退爲先。程子謂未有致知而不在敬者。及易文言所言、知至知終、皆在忠信脩辭之後之類、是也」の説明。子夏も「洒掃応対進退行」という行を先にして行く。それが大学に移るには、敬と忠信がなければならない。
【通釈】
○「如子夏教人以洒掃応対進退為先」。子夏も行を先にして参る。先ず畳触りがざっかけなくては心が居処にいない。子夏などは知った人である。子夏は文学だと言っても、後世の文学のことではない。心へ道理を決めるのが游夏の文学である。知から行の次第は知先行後。それはとっくに知ったことだが、「以洒掃応対進退為先」が小学の涵養で心が居処にいるので、そこで窮理ができると、この様に教えるのである。○「程子謂未有致知不在敬者」。大学の入口は敬でなければならない。その筈である。明日は太極図説の講釈をするというのに、東金の祭礼見物に出ては、その下見はできない。太鼓がどんどんと鳴る処で無極而太極は済まない。俳諧師が庭へ樹などを植えて風雅と言う。それほどのことでなくても、静かに秋草でも見るので歳旦や月見の句ができるのに、市場の様ではできないだろう。よい句も静から出る筈。○「易文言所言、知至知終、皆在忠信修辞之後」。初手に引いたことをまた自由に言われた。文言で孔子がとっくにこの様に仰せられている。聖人に抜けはない。忠信なしに知ができるものではない。忠信を先に立てて至るのである。敬なしに格物はならない。皆様が知行を言うのは御定まりの一通りのこと。先後は知れたこと。但し大小学の移り際は左様なことではない。これで先ずは決まり、後は知の深浅、行の大小を言って大小学を直に言う。
【語釈】
・子夏敎人以洒掃応對進退爲先…子張12。「子游曰、子夏之門人小子、當洒掃應對進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫。言游過矣。君子之道、孰先傳焉。孰後倦焉。譬諸草木、區以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎」。
・さっかけなく…粗野なこと。
・文学…論語先進2。「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。

○蓋古人之教自其孩幼而敎之以孝弟誠敬之実。孝悌誠敬が大切のこと。小児はぐわんぜなくてわる心もなけれども、不知尊卑長幼之序厳呵禁之と云。それをやが上へに孝悌誠敬の実をしこむぞ。愛親敬兄ことを良知で孩提から知れども、其根の実をだん々々仕こむなり。昨日もそう存ずるに、武家の子が麁相で刀を蹴ると直にいたたかせる。親の杖をける、直きにいましめる。これは小児でもよく覚てそうする。刀の重いは武家の幸也、杖屨祗敬之勿敢近と云。軽い者は脇指をまだいてもなんとも思はぬが、杖屨より重いこと也。武士は少も合点はせぬ。これらはよいことそ。そこで小児が量簡も何もなけれども、戴くものと思う。それからして、惣体物をまたぐやふなことが成長してもないものなり。
【解説】
「蓋古人之敎自其孩幼而敎之以孝悌誠敬之實」の説明。愛親敬長ことは良知で孩提の時から知っているもの。幼い時からその根の実を仕込むので、成長しても悪いことをしない。
【通釈】
○「蓋古人之教自其孩幼而教之以孝弟誠敬之実」。「孝悌誠敬」が大切なこと。小児は頑是なくて悪心もないが、「不知尊卑長幼之序厳呵禁之」と言う。やが上に孝悌誠敬の実を仕込むのである。愛親敬兄ことは良知で孩提の時から知っているが、その根の実を段々と仕込む。昨日もそう思ったが、武家の子が粗相で刀を蹴ると直に呵る。親の杖を蹴れば、直に戒める。これは小児でもよく覚えていてそうする。刀が重いのは武家の幸いであり、「杖屨祗敬之勿敢近」と言う。軽い者は脇差をまたいでも何とも思わないが、杖屨より重いことであり、武士は少しも合点はしない。これ等はよいこと。そこで小児には了簡も何もないが、戴くものだと思う。それからして、総体物をまたぐ様なことが成長してもないもの。
【語釈】
・不知尊卑長幼之序厳呵禁之…尊卑長幼の序を知らざれば、厳に之を呵禁す。
・孩提…孟子尽心章句上15。「孩提之童、無不知愛其親者。及其長也、無不知敬其兄也」。同集註。「孩提、二三歳之閒、知孩笑、可提抱者也。愛親敬長、所謂良知良能者也」。
・杖屨祗敬之勿敢近…小学内篇明倫。「父母舅姑之衣衾簟席枕几不傳、杖屨祗敬之、勿敢近」。

○及其少長而博之以詩書礼樂之文。小学の立教で見ても、詩書六藝の文を学ぶが行でなく、博之がはや知への分域にて、小学からしてひろくすることなり。詩経の素読の關々雎鳩の時から、これは文王の御夫婦中よいことぞと先つ聞かせて置き、下人ども喧嘩を見ても、あれをせぬものとそろ々々教て置て斯ふ知を開くぞ。○皆所以使之即夫一事一物之間、各有以知其義理之所在、而致涵養践履之功也。このやふなことも小学の全書がないゆへ、朱子の温公の誠などを出したは、あれは注でなく補ったことなり。先つ小学であらましを知らせて置が大切のことぞ。時に道春様の集成のあるに、句讀を取て本註を用いられぬはわるい。山崎先生、句讀を巨劈と云ながらも集成を取らるるは、本文のわけをすますよりは温公などて小学のかけを補ふが第一のことなり。
【解説】
「及其少長而博之以詩書禮樂之文。皆所以使之即夫一事一物之間、各有以知其義理之所在、而致涵養踐履之功也。此小學之事。知之淺而行之小者也」の説明。小学で詩書六芸を見るのは既に知への分域である。先ずは小学であらましを知らせて置くのが大切なこと。温公の誠などを出したのも、小学の欠けを補ったもの。
【通釈】
○「及其少長而博之以詩書礼楽之文」。小学の立教で見ても、詩書六芸の文を学ぶのは行ではなく、「博之」が早くも知への分域であり、小学からして広くする。詩経の素読の「関々雎鳩」の時から、これは文王の御夫婦仲のよいことだと先ず聞かせて置き、下人共の喧嘩を見ても、あれはしないものとそろそろと教えて置いて、この様に知を開く。○「皆所以使之即夫一事一物之間、各有以知其義理之所在、而致涵養践履之功也」。この様なことも小学の全書がないからで、朱子が温公の誠などを出したのも、あれは注でなく補ったこと。先ず小学であらましを知らせて置くのが大切なこと。時に道春様の集成があるのに、句読を取って本註を用いられないのは悪い。山崎先生が句読を巨劈と言いながらも集成から取られたのは、本文のわけを済ますよりは温公などで小学の欠けを補う方が第一としてのこと。
【語釈】
・關々雎鳩…詩経国風周南。「關關雎鳩、在河之洲窈窕淑女、君子好逑」。
・温公の誠…小学外篇善行。「劉忠定公見温公問盡心行己之要可以終身行之者。公曰、其誠乎。劉公問行之何先。公曰、自不妄語始。劉公初甚易之。及退而自檃栝日之所行與凡所言自相掣肘矛盾者多矣。力行七年而後成自此言行一致表裏相應遇事坦然常有餘裕」。
・道春…林羅山。1583~1657

即夫一事一物之間、各有以知其義理之所在が、從是以往可以觀群書などなり。そろ々々知惠を開かせる。某など迂斉の子に生れ幸なと云も、今はいら子とも、傍に居て一事一物之間に道理あることを聞て、あらましをば得たなり。さてこのやうなことが文辞訓話の外で、某などこんな処をこまかに云も吾黨の傳なり。これが去によりて、小児の時はどふでもよいでない。呉服屋の子が前髪の時から端物を持てはこびたり、賣揚を持て出たり、かれこれする中にそろ々々商を覚へる。あれも一事一物の間につくなり。大木の小僧などかこれは御德用むきでごさりますなどと云。されとも未だ商の小学挍ゆへ見世はあつけられぬが、そろ々々子り立るなり。この仕こみでなければそれほど小学も頼母しくはない。直方の、小学の仕こみでなければ地蔵の小石並べるになると云。○此小学之事。知之浅而行之小者也。此細字、これがきっはり々々々々と断はること。これでよく筋がわかるぞ。
【解説】
呉服屋の子が前髪の時から商いを手伝うので、そろそろと商いを覚える。しかし、その段階で店を預けるわけには行かない。小学は知が浅く、行の小さい時のこと。
【通釈】
「即夫一事一物之間、各有以知其義理之所在」が、「従是以往可以観群書」などのこと。そろそろと知恵を開かせる。私などは迂斎の子に生まれて幸いだと言うのも、今は不要だが、傍にいて一事一物の間に道理があることを聞いて、あらましを得た。さてこの様なことが文辞訓詁の外で、私などがこんな処を細かに言うのも我が党の伝である。そこで、小児の時はどうでもよいではない。呉服屋の子が前髪の時から反物を持って運んだり、売上げを持って出たり、かれこれする内にそろそろと商いを覚える。あれも一事一物の間に付くこと。大木の小僧などがこれは御徳用向きでございますなどと言う。しかし、未だ商いの小学校なので店は預けられないが、そろそろと練り立てるのである。この仕込みでなければそれほど小学も頼もしくはない。直方が、小学の仕込みでなければ地蔵の小石を並べることになると言った。○「此小学之事。知之浅而行之小者也」。この細字が、きっぱりと断わったこと。これでよく筋がわかる。
【語釈】
・從是以往可以觀群書…是に從いて以て往き、以て群書を觀る可し。
・大木…大木丹二。東金市北幸谷の人。名は忠篤、晩年は権右衛門と称す。黙斎没後、孤松庵をもらい受けて書斎とした。1765~1827。しかし彼は貧乏だったので別人か?

○及其十五成童学於大学、則其洒掃応對之間、礼樂射御之間、所以涵養践履之者略已小成矣。上の註の行之小者也へ棒を引て十五学於大学と見ることなり。ここか小学之行から大学の知へのうつりぎはで、行がさき知があとになる。時に小学でこれ迠のことは小成して居る。そこで十五の者に手を取て敎はせぬ。今でもよく仕こめば、大抵をとなほどのことをするもの。障子もはり、巻き紙もよくつぐ。竹馬に乘るやうなことはない。涵養践履で、略已小成がまたほんとうではなけれども、どこへ出しても用に立つ。手跡でも筭盤でも弓馬でも、もう一匹になったこと。そふなければ農畝にかへすがすまぬぞ。農畝にかへすを今日の学者文字面てすます。役に立ずゆへ、ごみはきへ茄子のへたすてるやうに思うが、それでは農畝がわるものだらけてたまらぬ。農畝にかへすとても、一とかどのことのなるものぞ。男事ををさむはそこのことなり。
【解説】
「及其十五成童學於大學、則其洒掃應對之間、禮樂射御之際、所以涵養踐履之者略已小成矣」の説明。小学によって小成する。そこで大学へ行くか農畝に帰すかとなる。小成しなければ農畝は悪者だらけとなる。
【通釈】
○「及其十五成童学於大学、則其洒掃応対之間、礼楽射御之間、所以涵養践履之者略已小成矣」。上の註の「行之小者也」へ棒を引いて「十五学於大学」と見るのである。ここが小学の行から大学の知への移り際で、行が先で知が後になる。時に小学でこれまでのことは小成している。そこで十五の者に手を取って教えはしない。今でもよく仕込めば、大抵は大人ほどのことをするもの。障子も貼り、巻き紙もよく継ぐ。竹馬に乗る様なことはない。「涵養践履」で「略已小成」となり、まだ本当のものではないものの、何処へ出しても用に立つ。手跡でも算盤でも弓馬でも、もう一人前になる。そうでなければ農畝に帰すと言うのが済まないこと。農畝に帰すのを今日の学者は文字面で済ます。役に立たないので、塵掃きへ茄子のへたを捨てる様に思うが、それでは農畝が悪者だらけで堪らない。農畝に帰すと言っても、一角のことができるもの。男事を理むはそこのこと。
【語釈】
・農畝にかへす…近思録教学15。「古者八歳入小學、十五入大學。擇其才可敎者聚之、不肖者復之農畝」。
・男事ををさむ…礼記上内則。「三十而有室。始理男事」。

於是不離乎此、而教之以挌物以致其知焉。此不離の文字か呉晦叔へ答書の目貫の処なり。小学から別に大学になったでない。役替をして、先役の勤めにはかまわぬでない。又今日から諸太夫になったとて、飯は食はぬ、白湯ばかりのむと云ことはない。人間一生のなりか小学なり。されとも小成ばかりては天井へぬけることならぬゆへ、大学のその小から大へうつりきは、小学の知行の行から大学の知也。爰は行がさきになりて挌物致知なり。小学の養できょと々々々がないゆへそれがなる。今は小学の教がないゆへつづけてあくびをする。欠は二つ出るものではないが、皮膚の會筋骸の束がわるいからぞ。そうすると腮をはなしたと云て大さはぎする。古人は古の小成で落付た処からするゆへ知がひらくはつぞ。始の答林擇之書の以思慮知識求之をあてて見べし。思慮知識でするは我知惠で捌ふと云。大学も知のことなれども、小学なしゆへ本んのでない。この涵養践履の根があってするゆへ本んの致知挌物がなる。ここは丁ど致知挌物の時になりたなり。
【解説】
「於是不離乎此、而敎之以格物以致其知焉」の説明。小学の知行の行から大学の格物致知へと続く。涵養践履の根があるので本当の致知格物ができる。
【通釈】
「於是不離乎此、而教之以格物以致其知焉」。「是不離」の文字が呉晦叔への答書の目貫の処である。小学から別に大学になったのではない。役替えをするのに、先役の勤めには構わないということはない。また今日から諸大夫になったとしても、飯は食わない、白湯ばかりを飲むということはない。人間の一生の姿が小学である。しかし、小成ばかりでは天井へ抜けることができないのであって、大学のその小から大への移り際が、小学の知行の行から大学の知となるところ。ここは行が先になって格物致知である。小学の養いできょときょとしないのでそれができる。今は小学の教えがないので続けて欠伸をする。欠伸は二つ出るものではないが、それは皮膚の会、筋骸の束が悪いからである。そうして顎を外したと言って大騒ぎをする。古人は古の小成で落ち着いた処からするので知が開く筈である。始めにある答林択之書の「以思慮知識求之」をここに当てて見なさい。思慮知識でするのは自分の知恵で捌くもの。大学も知のことだが、小学がなければ本当のものではない。涵養践履の根があってするので本当の致知格物ができる。ここは丁度致知格物の時になったのである。
【語釈】
・皮膚の會筋骸の束…講学鞭策録36。「其或摧頽已甚而不足以有所兼、則其所以固其肌膚之會筋骸之束、而養其良知良能之本者、亦可以得之於此、而不患其失之於前也」。
・以思慮知識求之…講学鞭策録39。「但見大學以格物爲先、便欲只以思慮知識求之、更不於操存處用力」。

○致知云者因其所已知者、推而致之、以及其所未知者、而極其至也。先生謂聽徒曰、云者の字、皆は如何見るや。これをなぜ出したと思ふや。笑曰、吉五郎が文章書た、と。経義がすまぬと云ぞ。ここへ来て致知と云ても、小学の時は知がないではなけれども、改て云ゆへ云者の字あり。今迠は十分にない知にて浅けれども、知の外てはないぞ。その知がとかく根になる。然らは致知の知は小学にもあるに、改めて致知とあるからの吟味そ。そこを致知云者はと名主がましく云はどふなれば、小学の根のこと。即ち不離乎此の処なり。そこで推而致之云云が孔子の四十而不惑から耳順知命とつっかけてゆかれる処のことなり。以及其所未知者、而極其至也は、とちしても致知挌物の事へかかって云ゆへなり。よしの山こぞのしをりの路かへてまだ見ぬ奧の花を尋ねてなり。天下万物が多いゆへ、今迠知りぬいたと云ても、わたりくらへて今ぞ知ると云ことあり、道中これ迠聞及んだは藤澤神奈川に斯ふと云ても、段々旅をして十五度東海道したと云は又知ることがあり、これ迠の上を理ても氣でも至善つめて知ることがあるぞ。極其至也が、此段になりては孔孟が来てもこまらぬ。至善をかぶるがそこなり。
【解説】
「致知云者因其所已知者、推而致之、以及其所未知者、而極其至也」の説明。小学を根にして致知格物の事をする。天下には万物が多いので、知は限りない。致知格物を推してすることで至善に至るのである。
【通釈】
○「致知云者因其所已知者、推而致之、以及其所未知者、而極其至也」。先生が聴徒に言った。「云者」の字を皆はどの様に見るか。これを何故出したのかと思うか、と。微笑んで言った。吉五郎が文章書いた、と。経義が済まないのである。ここへ来て致知と言っても、小学の時に知がないわけではないが、改めて言うので「云者」の字がある。今までは十分でない知で浅かったが、それも知の外ではない。その知がとかく根になる。そこで、致知の知は小学にもあることだが、改めて致知とあるから、この吟味となる。そこを「致知云者」と名立てがましく言うのはどうしてかと言うと、小学の根のことで、即ち「不離乎此」の処のこと。そこで「推而致之云云」が孔子の「四十而不惑」から「耳順知命」と続けて行ける処のこと。「以及其所未知者、而極其至也」とあるのは、どちらにしても致知格物の事へ掛かって言うからである。吉野山去年のしおりの路変えてまだ見ぬ奧の花を尋ねてである。天下には万物が多いので、今まで知り抜いたと言っても、わたりくらべて今ぞ知ると言うことがあり、道中これまで聞き及んだのが藤沢神奈川にこうと言っても、段々旅をして十五度東海道を旅したと言えばまた知ることがあり、これまでした上を、理でも気でも至善に詰めて知ることがある。「極其至也」が、この段になっては孔孟が来ても困らない。至善を被るとはそのこと。
【語釈】
・吉五郎…新島礼夫。名は幹。通称は吉五郎、治助。館林藩士。
・よしの山こぞのしをりの路かへてまだ見ぬ奧の花を尋ねて…西行。「よしの山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねん」。
・わたりくらへて今ぞ知る…道歌。「世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は波風ぞなき」。
・至善をかぶる…

講釈が藝でもあれが朱子はよいと云は、こちが至りを極めぬからぞ。某若いとき出まかせの活論云ふに、小市が上下て居るといやで有た。某は吟味つまらぬ処あるゆへ、とかくあれかうるさくやかましいが、それもかまはぬやうでなければならぬ。某はうるさかったが、善太郎殿は邪魔に思はぬ。只高いばかりでなく、吟味つまりた人なり。小市行藏が語類に斯ふと云と、いやあれは論語の部で云より孟子の部で云がよい、又、訓門人のどこにあると云ゆへ、小市行藏口をとからかして云て見ても、それでげっくりする。今は只善太を高とはかり思う。そふてない。吟味をつめた人なり。さて又極其至と云日には、誠意へ半分這入たことと思へ。ここで誠意関へ這入ると云ことがすま子ば大学のくさりつなぎが知れぬ。直方の熊坂も盗人がわるい、業平も淫乱がわるいと思ふならふか、そふゆかぬと云。誠意は一寸とあたる処で直きにすむこと。克己のやうに盗人を打擲するでない。誠意はわきへきる処をきれるなと氣がつく、最うわきへやらぬ。これ、挌致の手抦か半分の余は誠意へ入りてをる。そこて大学の序の、補其闕畧と云もここの処のこと。これが五章目に細に云てないゆへなり。右段々のわけゆへ爰は斯ふこまかに説子ばならぬぞ。
【解説】
善太郎は高いだけでなく、吟味を詰めた人である。また、「極其至」の段階では、格致の外、誠意にも這い入るのである。
【通釈】
講釈が芸でも朱子がそれをよいと言うのは、こちらが至りを極めていないからである。私が若い時に出任せの活論を言うのに、小市が裃でいると嫌だった。私には吟味の詰まらない処があるので、とかくあれが煩く喧しく言ったが、それも構わない様でなければならない。私は煩がったが、善太郎殿は邪魔に思わなかった。ただ高いばかりでなく、吟味の詰まった人である。小市や行蔵が語類にこうだと言っても、いやあれは論語の部で言うより孟子の部で言う方がよい、また、訓門人の何処にあると言うので、小市や行蔵が口を尖らして言ってみても、げっそりとなる。今はただ善太を高いとばかり思うがそうではない。吟味を詰めた人である。さてまた「極其至」という日には、誠意へ半分這い入たことと思いなさい。ここで誠意の関に這い入るということが済まなければ大学の鎖繋ぎがわからない。直方が、熊坂も盗人が悪い、業平も淫乱が悪いと思うだろうが、そうは行かないと言った。誠意は一寸当たる処で直に済むこと。克己の様に盗人を打擲することではない。誠意は脇へ切れる処を切れるなと気が付けば、もう脇へは遣らない。これが格致の手柄が半分の余は誠意へ入っていること。そこで大学の序の、「補其闕略」と言うのもここのこと。これが五章目に細かに言っていないからである。右段々のわけがあるので、ここはこの様に細かに説かなければならないのである。
【語釈】
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・善太郎…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・行藏…村士玉水。江戸の人。名は宗章。享保14年(1729年)~安永5年(1776年)
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。奥州に赴く金売吉次を美濃国赤坂の宿に襲い、牛若丸に討たれたという伝説的人物。
・業平…在原業平。平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第五子。825~880
・補其闕畧…大学章句序。「補其闕略、以俟後之君子」。
・五章目…大学章句5は、「此謂知本。此謂知之至也」だけである。

○是必至於挙天地万物之理、而一以貫之。然後爲知之至、而所謂誠意正心脩身齊家治国平天下者、至是而無所不尽其道焉。天地万物の理があるゆへ、尭舜も屋根のことは筑波の屋根屋ほどには知らぬ。然らは筑波の屋根屋は尭舜の上かと云に、尭舜の上てはないが、尭舜は先務を急にすなり。今でも本因坊と孔子が碁を打たら孔子も負けやふが、天地万物の理があるゆへせふことがない。理をどこ迠もつめることなれども、碁も本因坊より上でなければならぬと云ことでない。万物の理には垩人も知らぬことあるが、その知らぬ迠が此方の領分で、それを聞に及ぬ。今日は得てそれを聞たがる。礼を老子に問とは違う。こちは一以貫之の調法なことがある。しゅろ箒こしらへることは知らぬか、知らぬとてかまはぬ。されともそれに理がないてはない。此方には一貫の悟道がある。悟道と云もひらけてくることなり。ここを知らぬゆへ王陽明が挌物を支離と云。
【解説】
「是必至於舉天地萬物之理、而一以貫之。然後爲知之至、而所謂誠意正心脩身齊家治國平天下者、至是而無所不盡其道焉。此大學之道。知之深而行之大者也」の説明。天地万物の理があるので、聖人でもその全てを知ることはできないが、それに構うことはない。聖人は先務を急にし、我々には「一以貫之」という悟道がある。
【通釈】
○「是必至於挙天地万物之理、而一以貫之。然後為知之至、而所謂誠意正心修身斉家治国平天下者、至是而無所不尽其道焉」。天地万物の理があるので、堯舜も屋根のことは筑波の屋根屋ほどにはわからない。それなら筑波の屋根屋は堯舜よりも上かと言えば、堯舜の上ではなく、堯舜は先務を急にするのである。今でも本因坊と孔子が碁を打てば孔子も負けるだろうが、天地万物の理があるので仕様がない。理を何処までも詰めることではあるが、碁も本因坊より上でなければならないということではない。万物の理には聖人も知らないことがあるが、その知らないことまでがこちらの領分で、それを聞くには及ばない。今日は特にそれを聞きたがる。それは礼を老子に問うのとは違う。こちらには「一以貫之」という調法なことがある。棕櫚箒を拵えることは知らないが、知らなくても構わない。しかし、それに理がないのではない。こちらには一貫の悟道がある。悟道とは開けて来ること。ここを知らないので王陽明が格物を支離と言う。
【語釈】
・礼を老子に問…論語序説。「適周、問禮於老子。既反、而弟子益進」。
・一以貫之…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。論語衛霊公2。「子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與。對曰、然。非與。曰、非也。予一以貫之」。
・挌物を支離…伝習録137。「此後世之學所以析知、行爲先後兩截、日以支離決裂、而聖學益以殘晦者、其端實始於此」。

孔子の吾道一以貫之と云へとも、天地の間には知れぬことあるべし。知れぬ迠が一貫の内で、致知挌物は安堵なことなり。入大廟毎事問か先役に聞てする。其聞迠が一貫ゆへ知らぬでもよい。友部が、孔子でも番丁の道は知るまい、と。圣人でも辻番できく。それで胸があくことなり。王陽明外でせぬを自慢して、この方の知で推ふと云。そうはならぬ。こちは向の理を吟味して、その理一貫で知れぬこと迠が安堵なは、明楽官而不明楽音となり。されともその楽音が理なり。それをも挌るなれども、急にせぬ。急ならぬことは急にせぬと云まてか挌物で、我知かひらくなり。観世がああ謡ふゆへよかろふと云てすむ。觀世ほと謡は子ばならぬと云て自身にすると神農のことをする許行になる。天子は天地の祭田出御あり、田へ出て鋤とるま子をなさるるまてなり。但し舜は覚てもござられやうが、天子は百姓のやうにすることでない。そこで知らぬ処までが一貫の内になると云が、そうするとこれらも朝聞道なり。安堵なことぞ。○此大学之道。深而大者也。知の大が平天下迠ゆく。十分尽頭が大学の大者也。
【解説】
知らないことまでが一貫の内である。急にできないことは急にしないと言うまでが格物であり、それは安堵なこと。急にできないことをしようとするのは許行と同じである。王陽明は自分の知で推そうするが、それではうまく行かない。
【通釈】
孔子は「吾道一以貫之」と言ったが、天地の間には知らないことがあるだろう。知らないことまでが一貫の内で、致知格物は安堵なこと。「入大廟毎事問」で先役に聞いてする。その聞くことまでが一貫なので知らなくてもよい。友部が、孔子でも番丁の道は知らないだろうと言った。聖人でも辻番で聞く。それで胸が開く。王陽明は外でしないことを自慢して、自分の知で推そうと言うが、そうはならない。こちらは向こうの理を吟味して、その理が一貫なので、知らないことまでもが安堵であって、「明楽官而不明楽音」である。しかし、その楽音が理である。それをも格るのだが、急にはしない。急にできないことは急にしないと言うまでが格物で、自分の知が開くのである。観世があの様に謡うのでよいだろうと言うので済む。観世ほどに謡わなければならないと言って自身のことにすると神農のことをする許行になる。天子には天地の祭田への出御があるが、それは田へ出て鋤を取る真似をなさるだけのこと。但し舜は覚えてもおられるだろうが、天子は百姓の様にはしない。そこで知らない処までが一貫の内になると言うのが、そうすると、これ等も朝聞道であって、安堵なこと。○「此大学之道。深而大者也」。知の大が平天下まで行く。十分に尽くす頭のところが大学の大なる者である。
【語釈】
・入大廟毎事問…論語八佾15。「子入大廟、毎事問。或曰、孰謂鄹人之子知禮乎。入大廟、毎事問。子聞之曰、是禮也」。
・友部…
・明楽官而不明楽音…
・許行…孟子滕文公章句上4。「有爲神農之言者許行」。以下に孟子との問答がある。
・朝聞道…論語里仁8。「子曰、朝聞道、夕死可矣」。

○今就一事之中而論之、則先知後行、固各有其序矣。この一段は前のことを最ふ一返かへすなり。告子の篇は告子を打たをせばそれですんだと朱子も云へり。此答書の文法はそふでない。上文の泛論知行之理就一事之上、觀之則云云のことを又かへしたものなり。極々に云つめるときの文法が打かへし々々々々斯ふしたものなり。さてこの固の字が先行が後は恩でもなく御定のこと。あくせく云ことでない。誰も知たことなり。
【解説】
「今就其一事之中而論之、則先知後行、固各有其序矣」の説明。ここは前に返して言ったこと。固より行は後である。
【通釈】
○「今就一事之中而論之、則先知後行、固各有其序矣」。この一段は前のことをもう一遍返したもの。告子の篇は告子を打ち倒せばそれで済むと朱子も言った。この答書の文法はそうではない。上文の「泛論知行之理就一事之上、観之則云云」のことをまた返したもの。極々に言い詰める時の文法が、この様に打ち返し言うものである。さてこの「固」の字が、先ず行が後なのは言うまでもなく御定まりのことで、あくせく言うことではなく、誰もが知っていることだということ。

○誠欲因夫小学之成以進乎大学之始、則非涵養履践之有素、亦豈能居然以夫雜乱紛糾之心、而挌物以致其知哉。小学より大学のうつりを見しゃっしゃれよなり。小学も知行、大学も知行なり。それか小学から大学なり。それで大学の知のあたまを小学の行がふんでいる。先刻も云、これを圖にすると行がさきになるか明白也。大晦日は元日の始と迂斉云。これが書物藝ではすまぬ。素の字は日ごろなり。昨日今日の間には言はぬ。垤澤の門によばう。何ぞ吾君の声に似たるなり。上品な声が大名の素なり。博弈打が金が有ても分限の底とは違う。横からさらったことは役に立ぬ。先日の思慮知識なり。急に思慮知識でする。知も知の外ではないが、涵養から来た素のある知とは一つにならぬ。根入の深いことでなければ役に立ぬ。居然は斯ふしたなりでと云ことなり。仕入れ仕込みなしにふいとして取ると云、姜源の居然生子も支度なしに何のことなく安産を云。上の素は手間の取れることで、平素常素とも云。居然は思ひもふけずふいとのことなり。そこで雜乱紛糾之心が涵養せぬゆへそふなり、それでどふ深いことの吟味がなろふぞ。心がさま々々になりて糸の乱のやふになり、其うしろに引ものあるゆへ、挌物はならぬ。これで又一節なり。
【解説】
「誠欲因夫小學之成以進乎大學之始、則非涵養履踐之有素、亦豈能居然以夫雜亂紛糾之心、而格物以致其知哉」の説明。小学も知行、大学も知行なので、大学の知が小学の行を践んでいる。また、急なことは役に立たない。急に思慮知識でするのは涵養からの知と同じではない。また、「居然」として雑乱紛糾の心でいては、格物致知はできない。
【通釈】
○「誠欲因夫小学之成以進乎大学之始、則非涵養履践之有素、亦豈能居然以夫雑乱紛糾之心、而格物以致其知哉」。小学から大学への移りを見なさい。小学も知行、大学も知行である。そこで小学から大学と移る際は、大学の知の頭を小学の行が践んでいる。先刻も言ったが、これを図にすると行が先になるのが明白である。大晦日は元日の始めと迂斎が言った。これが書物芸では済まないこと。「素」の字は日頃ということ。昨日今日の間では言わない。垤澤の門で呼ぶ。何か我が君の声に似ている。上品な声が大名の素である。博奕打ちが金を持っていても分限の底とは違う。横から攫ったことは役に立たない。先日の思慮知識である。急に思慮知識でする。知識も知の外ではないが、涵養から来た素のある知とは同じにならない。根入れの深いことでなければ役に立たない。「居然」はこうした姿でということ。仕入れ仕込みなしに急にして取ると言う。姜嫄の「居然生子」も支度なしに何事もなく安産したことを言う。上の素は手間の取れることで、平素常素とも言う。居然は思いもかけずふいのこと。そこで「雑乱紛糾之心」が涵養しないのでそうなる。それでどうして深いことの吟味ができようか。心が様々になって糸の乱れの様になり、それを後ろで引くものがあるので、格物はできない。これがまた一節である。
【語釈】
・垤澤の門によばう…詩経国風豳東山。「我徂東山、慆慆不歸。我來自東、零雨其濛、鸛鳴于垤。婦歎于室、洒埽穹窒。我征聿至、有敦瓜苦。烝在栗薪、自我不見、于今三年」。
・姜源の居然生子…詩経大雅生民。「厥初生民、時維姜嫄、生民如何。克禋克祀、以弗無子。履帝武敏歆、攸介攸止。載震載夙、載生載育。時維后稷。誕彌厥月、先生如達。不拆不副、無菑無害。以赫厥靈、上帝不寧。不康禋祀、居然生子」。

○且易之所謂忠信脩辞者聖学之実事、貫始終而言者也。ここは上文の古人敎自其孩幼而教之云云を又かへしたものなり。このあとの知至知終在忠信脩辞之後と云を考て見れば面白いことなり。さてここを朱子の軽いことに思はれな。圣学之実事貫始終となり。貫始終は徹上徹下と云やうなもの。実事が一生動かぬことになるなり。これが小児からをやぢ学者より垩人になるを始終を貫くと云なり。時になるほどはやいと腹好くるくる也と云ことがあるが、文二賢は知てか。今何藩の文学とかくが、これもい腹好くるくるぢゃ。あの洒掃応對からゆく子夏に喪致哀而止と云子游じゃ。其文学とはどふじゃ。一つ腹好くるくるじゃ。王勃楊炯魯照鄰洛賓王、浮操浅露忠信はない。首を切られ海へ溺れてそれを脩辞と、忠信脩辞と云ふや孔子脩辞のとあまり腹好くる々々ぞ。文章書を脩辞と云たも南郭などか云始めたことで有ふ。大切な文字ともを俗学に手薄くつかわるることになりた。
【解説】
「且易之所謂忠信脩辭者聖學之實事、貫始終而言者也」の説明。忠信修辞は聖学の実事である。今何藩の文学と書いたりするのも可笑しなもの。また、子游の文学も可笑しい。初唐の四傑にも忠信はない。文章書きを修辞と言うのも南郭などが言い始めたもの。
【通釈】
○「且易之所謂忠信修辞者聖学之実事、貫始終而言者也」。ここは上文の「古人教自其孩幼而教之云云」をまた返したもの。この後の「知至知終在忠信修辞之後」を考えて見れば面白いこと。さてここを朱子は軽いことに思われて、「聖学之実事貫始終」と言った。「貫始終」は徹上徹下という様なもの。実事が一生確かなことになる。小児から親父学者までが聖人になることを、始終を貫くと言う。時になるほど早いと腹好くるくるということがあるが、文二、お前は知っているか。今何藩の文学と書くが、これもいと腹好くるくるである。あの洒掃応対から行く子夏に「喪致哀而止」と言った子游である。その文学はどうだ。一つ腹好くるくるである。王勃楊炯盧照鄰駱賓王は浮操浅露で忠信はない。首を切られ海に溺れてそれを忠信修辞と言うのは、孔子の修辞とはあまりに腹好くる々々である。文章書きを修辞と言うのも南郭などが言い始めたことだろう。大切な文字を俗学に手薄く使われることになった。
【語釈】
・喪致哀而止…論語子張14。「子游曰、喪致乎哀而止」。
・王勃楊炯魯照鄰洛賓王…王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王。初唐四傑。

○以其浅而小者言之、則自其常視毋誑、男唯女兪之時、固已知而能之矣。常視す誑くことなかれがよい点なれども、点をなをす迠のこともなく、どちでも聞へる。うそをつくなと云こと。隣の樒柑もろふて貰はぬと云。それをすてて置てもよいやふなれども、そこをつかまへて灸ても居へ、あつい目さするがよい。田舎者の下々はいそがしいか、して小児のうそをつくを仕置きせぬそ。すこし心ある親と云のが銭でもなくなると急度吟味する底にみへる。うそをつくはしかりはせぬ底なり。うそつくとそれからは、扇や烟草入をかくすやふになる。小学はた子いことで、すこしのことをゆるさぬ。小学も詳解などを始として、諺解するものの説やふが鳴和鸞などと云と丁寧を云て、勿誑などはすててをき、ずふとなり、それで役に立ぬぞ。これらが小学の要なり。
【解説】
「以其淺而小者言之、則自其常視毋誑、男唯女兪之時、固已知而能之矣」の説明。金がなくなると厳しく吟味をするが、嘘を吐いても叱らないもの。しかし、嘘を吐くことから悪くなるから、小児の時から厳しく躾けるのである。
【通釈】
○「以其浅而小者言之、則自其常視毋誑、男唯女兪之時、固已知而能之矣」。常視す、誑くこと毋れがよい点だが、点を直すまでのことでもなく、どちらでも通じること。嘘を吐くなということ。隣から蜜柑を貰って貰わないと言う。それを放って置いてもよい様だが、そこを掴まえて灸でもすえ、熱い目をさせるのがよい。田舎者の下々は忙しくして、小児が嘘を吐いても仕置きをしない。少し心ある親は銭でもなくなると厳しく吟味する底に見えるが、嘘を吐くのを叱りはしない底である。嘘を吐くとそれからは、扇や煙草入れを隠す様にもなる。小学は小さい少しのことでも許さない。小学も詳解などを始めとして、諺解する者の説き様が鳴和鸞などと言えば丁寧を言い、毋誑などは捨てて置くので悪くなり、それで役に立たなくなる。これ等が小学の要である。
【語釈】
・常視毋誑…小学内篇立教。「曲禮曰、幼子常視毋誑、立必正方不傾聽」。
・男唯女兪…小学内篇立教。「内則曰、凡生子擇於與諸母與可者、必求其寛裕慈惠温良恭敬愼、而寡言者使爲子師。子能食食敎以右手、能言男唯女兪。男鞶革女鞶絲」。
・諺解…口語でする解釈。通俗語による解釈。
・鳴和鸞…五御の一。

男唯女兪は、男らしく女らしくしこむこと。そふ仕込で置と、やがて後にひまになることなり。今の小児のそだてやうは、初手は樂くでも後に勘當の迯けたのといそがしい。女兪と云に、今日の娘は母が何ぞ云とそれがどふしたと云。それがやがて夫をかろしめる本となり。今日は男にもやわらかながある。それが男唯からしこまぬのなり。はや女房にかろしめらるる。小学は桑名の夜舟と云ふは知らずによくなること。今もすててをく、いつの間にかわるくなる。善悪ともに理勢の自然なり。小児しこむは大ふいそがしいこと。ちっとも見のがしせぬ。これが軽いことでなく、忠信脩辞の始終の仕こみなり。今でも江戸などによい母親がありて、娘に人に仕事をしてもろふは耻ぞよと云。歴々は子の師があるが、軽い者は母が教子ばならぬ。牡丹つくるさへよく出来ぬゆへ、小児はいそがしいことなり。固已知而能之矣。其知るも大いことでない。浅小也。軽いもの一入ゆかぬ。れき々々はそうない。今日も武家の歴々の子は違う。大名御姫さまも、さそ餅も食たふてもめったにくはぬ。そこへ医者でも來る。平生のことなれどもはや行義が違う。小学の教と云は手にないこと。このやふなことなり。さて忠信脩辞者垩学之実事貫始終は惣体にかかることで云たもの。其浅而小はここの知惠と行でそのなることを、已知而能之と云。
【解説】
「男唯女兪」で、小児を男らしく女らしく仕込まなければならない。そうしないと、後には親や夫を軽んじる様になる。歴々の子には師がいるが、軽い者では母がこれを教えるのである。
【通釈】
「男唯女兪」は、男らしく女らしく仕込むこと。その様に仕込んで置くと、やがて後には楽になる。今の小児の育て様は、初手は楽でも後に勘当したり逃げるなどと忙しい。女兪と言うのに、今日の娘は母が何か言うと、それがどうしたと言う。それがやがて夫を軽んじる本になる。今日は男にも柔らかな者がいる。それは男唯から仕込まないからである。早くも女房に軽んじられる。小学を桑名の夜舟と言うのは、知らずによくなること。今放って置けば、いつの間にか悪くなる。善悪共に理勢の自然である。小児を仕込むのは大分忙しいこと。少しも見逃しはしない。これは軽いことではなく、忠信修辞の始終の仕込みである。今でも江戸などにはよい母親がいて、人に仕事をしてもらうのは恥だと娘に言う。歴々の子には師がいるが、軽い者は母が教えなければならない。牡丹を作るのでさえよくできないのだから、小児は忙しいこと。「固已知而能之矣」。この知るも大きいことでない。「浅小」である。軽い者は一入うまく行かない。歴々はそうではない。今日も武家の歴々の子は違う。大名の御姫様も、さぞ餅を食いたくても滅多に食わない。そこへ医者でも来ると、平生のことでも、早くも行儀が違う。小学の教えは手もないこと。この様なことである。さて「忠信修辞者聖学之実事貫始終」は総体に掛かることで言ったもの。「其浅而小」はここの知恵と行でそれができること。そこで「已知而能之」と言う。
【語釈】
・桑名の夜舟…桑名の七里の渡し。東海道は尾張の熱田から伊勢の桑名までの七里を船で渡る。これを「七里の渡し」と言う。夜の間に熱田から桑名に到ること?

○知至至之、則由行此而又知其所至也。此知之深者也。上段々の仕こみて十三で半元服と云ふ様にはきとはみへぬこと。それが段々まいる処が毎常。某が好学論で顔子をそろ々々垩人に及ぶ処が月夜の夜の明ける様なと云のぞ。爰も在忠信脩辞之後と一つこと。又、前不離乎此といふが目貫と云もここぞ。そこで由行此の此の字が小学を離さぬことぞ。○知終終之、則由知至又進以終之也。此行之大者也。上は知、是は行の方で云。知たことを又進んて行へ出すこと。至善と知て知たぎりてはならぬ。職人の紫震殿見て來たと云。それは拜したぎりでよいが、学問は又進が、知たぎりで置てはならぬ。絶骨の灸がよい々々と云ても、そう知たぎりて灸のあとが白くている。あそこに生ま疵のたへぬが又進なり。○故大学之書雖以挌物致知爲用力之始、然非謂初不涵養履践而直從事於此。ここが各々様は大学を知りすぎてわるふござるなり。世間の学者は知らぬが、こちは知れども、涵養履践の根なしになると云ことではござらぬなり。直從事於此は、あとさきなしに大学は知惠とてかかっても、前の仕入れ仕こみかないゆへ致知格物がならぬなり。そこで大学が知惠の書といへども、小学をはなれて直になると云ことに非すなり。
【解説】
「知至至之、則由行此而又知其所至也。此知之深者也。知終終之、則由知至又進以終之也。此行之大者也。故大學之書雖以格物致知爲用力之始、然非謂初不涵養履踐而直從事於此也」の説明。小学の仕込から知が深くなって行く。その知を行に出す。知っただけでは何にもならない。大学は知恵の書だが、小学の仕込みがなければ、大学で致知格物はできない。
【通釈】
○「知至至之、則由行此而又知其所至也。此知之深者也」。ここは、上段々の仕込みで十三になると半元服という様に、はっきりと見えるものではない。それが段々参る処が毎常である。そこで、私が好学論で、顔子のそろそろ聖人に及ぶ処が月夜の夜の明ける様なことだと言うのである。ここも「在忠信修辞之後」と同じこと。また、「前不離乎此」を目貫と言うのもここのこと。そこで「由行此」の此の字が小学を離さないこと。○「知終終之、則由知至又進以終之也。此行之大者也」。上は知、ここは行の方で言う。知ったことをまた進んで行へ出すこと。至善と知って知っただけではならない。職人が紫震殿を見て来たと言う。それは拝しただけでよいが、学問は「又進」であって、知っただけで置いてはならない。絶骨の灸がよいと言っても、そう知っただけで灸の跡が白いままである。あそこに生疵の絶えないのが又進である。○「故大学之書雖以格物致知為用力之始、然非謂初不涵養履践而直従事於此」。ここが皆様が大学を知り過ぎているので悪いということ。世間の学者は知らず、こちらは知っているが、涵養履践の根がなくてできるものではない。「直従事於此」。後先なしに大学は知恵と言って掛かっても、前の仕入れ仕込みがないので致知格物ができない。そこで大学は知恵の書だと言っても、小学を離れて直にできるということではない。
【語釈】
・好学論…近思録為学3を指す。
・絶骨…針灸のつぼ。別名懸鐘。

○又非謂物未挌知未至、則意可以不誠、心可以不正、身可以不脩、家可以不斉也。ここは朱子のまけに云たことで、正面ではないやふに先年某見たがそうでなく、ここがなければほんの知行の書にならぬ。そこて非謂々々の文字が知行の書の返事なり。只知先行後を云は書物藝にて、今日たんてきこれを身てしてゆく段には次第の順がありはあって、さてないやふなものなり。身てして見ると、知が先と云ても前の身持かわるいゆへ、そわ々々になる。そこて我に小学の践履がないゆへと知る。この答書の正面は小大学、うつりは小の行から大の知行とゆく堺目を云が主意なれども、又向の云通り、大学計りの次第にしても、端的身てしてゆく時は入り口が致知挌物と云ても誠意からもゆき、又、誠意のならぬ内に正心からゆくこともある。それをまだ誠意の関を越へぬから正心はならぬ筈、正心をせぬから脩身斉家はならぬと云て、関をすへて打すててをくは書物藝になる。そこてこの段が朱子の負けに云でなく、これでとめぬとこの答書が迂詐になる。然れば物未挌知未至則意可以不誠云云が大学を道中記に云時は、品川なしに川崎とはゆかれぬ。次第はそうななれでも、今日受用にするとは違う。前の答何叔京書の豈曰放僻邪移於内而姑正容謹節於外乎のことを云も昭看すべし。次第ては致知挌物がつまりて誠意と云へとも、未たそふならぬ内でも誠意せ子ばならぬ。受用の上にこれは妙なことなり。学者とくとためしてみるがよい。
【解説】
「又非謂物未格知未至、則意可以不誠、心可以不正、身可以不脩、家可以不齊也」の説明。ただ知先行後を言うのは書物芸である。次第では大学の入口は致知格物だと言うが、誠意や正心から行くこともある。誠意ができないから正心はできない筈、正心をしないから修身斉家はできないと言うのは書物芸である。
【通釈】
○「又非謂物未格知未至、則意可以不誠、心可以不正、身可以不修、家可以不斉也」。ここは朱子の負けて言ったことで、正面のことではない様に先年私は見たが、そうでなく、ここがなければ本当の知行の書にはならない。そこで「非謂々々」の文字が知行の書の返事である。ただ知先行後を言うのは書物芸であって、今日端的これを身でして行く段には次第の順があるにはあるが、またない様なもの。身でして見ると、知が先と言っても前の身持が悪いので、そわそわとする。そこで、それは自分に小学の践履がないからだと知る。この答書の正面は小大学で、その移りが小の行から大の知行へと行く境目を言うのが主意だが、また向こうの言う通り、大学ばかりの次第にしても、端的身でして行く時は入口が致知格物と言っても誠意からも行き、また、誠意のできない内に正心から行くこともある。それをまだ誠意の関を越えないから正心はできない筈、正心をしないから修身斉家はできないと言って、関を据えて打ち捨てて置くのは書物芸になる。そこでこの段が朱子の負けて言ったことでなく、これで止めないとこの答書が嘘になる。そこで、「物未格知未至則意可以不誠云云」が大学を道中記にたとえて言えば、品川なしに川崎へは行かれないということ。次第はそうだが、今日受用にするのとは違う。前の答何叔京書に「豈曰放僻邪侈於内、而姑正容謹節於外乎」とあるのを昭看しなさい。次第では致知格物が詰まって誠意と言うが、まだその様にならない内でも誠意をしなければならない。受用の上では、これは妙なこと。学者はしっかりとこれを試して見なさい。
【語釈】
・豈曰放僻邪移於内而姑正容謹節於外乎…講学鞭策録52。「豈曰放僻邪侈於内、而姑正容謹節於外乎」。

○但以爲必知之至、然後所以治己治人者、始有以尽其道耳。上で云やふに、それなら致知挌物にかまはず誠意正心と云へばやりばなしなり。そこで此知至と云ことて道を尽す。そこが大学の至善なり。温公も道を尽さぬゆへ、人品は垩人のやうでもここでこまるなり。それ誠かと云は孔子にも負け子ども、致知挌物の根がないゆへ道が尽ぬ。致知挌物は道を尽すためなり。小学の小学の善行の中は皆誠なり。劉寛が登城の上下へ汁をかけても羹汝が手を燗すかと、腹立つものから見ればさて々々及ぬことなれども、道は尽きぬ。挌致誠意から来た正心とは請合はれぬ。然しこれが何もかも大学で云こと。小学では温公も上坐、大学では次の間なり。さて呉晦叔が涵養に眼がつかぬゆへどこにかがさつがある。只知づりに高いこと云へども、践履の素がないゆへ瑩けざる処がある。つまり道を尽す尽さぬのこと也。上の請得而細論之もここらのことなり。
【解説】
「但以爲必知之至、然後所以治己治人者、始有以盡其道耳」の説明。「知之至」で道を尽くす。致知格物は道を尽くすためのもの。小学の善行は皆誠のことだが、道を尽くしたものではない。
【通釈】
○「但以為必知之至、然後所以治己治人者、始有以尽其道耳」。上で言う通り、それなら致知格物に構わず誠意正心と言うのでは遣り放しである。そこで、この「知至」ということで道を尽くす。そこが大学の至善である。温公も道を尽くさないので、人品は聖人の様でもここで困る。「其誠乎」と言ったのは孔子にも負けないことだが、致知格物の根がないので道が尽きない。致知格物は道を尽くすためのもの。小学の善行の中は皆誠である。劉寛が登城の裃に汁を掛けられても、羹でお前の手は火傷しなかったかと、腹の立つ者から見れば実に及ばないことだが、道は尽くしていない。格致誠意から来た正心とは請え合えない。しかしこれが何もかも大学で言うこと。小学では温公も上座だが、大学では次の間である。さて呉晦叔が涵養に眼が付かないので、何処かがさつである。ただ知吊りに高いことを言っても、践履の素がないので瑩さない処がある。つまり道を尽くすか尽さないかのことで、上の「請得而細論之」もここ等のこと。
【語釈】
・劉寛…後漢書卓魯魏劉列伝15。「夫人欲試寬令恚。伺當朝會、裝嚴已訖、使侍婢奉肉羹、□汙朝衣。婢遽收之、寬神色不異、乃徐言曰、羹爛汝手」。

○若曰必俟知至而後可行、則夫事親從兄承上接下、乃人生之所不能一日廃者、豈可謂吾知未至而暫輟以俟其至而後行哉。上の尽は知、爰は行ぞ。知の至りと云とき、たやすく顔子や子貢のやふにはならぬ時に、上には親や兄があり、下には書子を始め家来がありて、承上接下なり。これが一日もかかれぬ、断りの云はれぬもの。それを未た知が至らぬとて、隱居所へ行き、孝行は物挌て知至る迠御用捨下されの、奉公人のあたまをはり膳を投け出して、知のいたるを俟て其内は斯ふするとてはならす。知が至らずども正心も脩身もせ子ばならぬ。朱子あたる処で工夫せよと云。忿懥は忿懥の処で工夫すべしと語類大学の部にあるぞ。
【解説】
「若曰必俟知至而後可行、則夫事親從兄承上接下、乃人生之所不能一日廢者、豈可謂吾知未至而暫輟以俟其至而後行哉」の説明。知の至りに届かなくても、父兄や家来などに対して「承上接下」があり、これは欠かせないこと。知が至らないからと言ってこれを放って置いてはならない。
【通釈】
○「若曰必俟知至而後可行、則夫事親従兄承上接下、乃人生之所不能一日廃者、豈可謂吾知未至而暫輟以俟其至而後行哉」。上の尽は知で、ここは行のこと。知の至りと言う時、容易く顔子や子貢の様にはなれない時に、上には親や兄があり、下には庶子を始め家来があって、「承上接下」である。これが一日も欠かせない、断りの言えないもの。それをまだ知が至らないからと言って、隠居所へ行き、孝行は物格り知至るまで御容赦下さいとか、奉公人の頭を張り、膳を投げ出して、知が至るのを俟ってその内にはこうすると言っては悪い。知が至らなくても正心も修身もしなければならない。朱子は当たる処で工夫をしないさいと言った。忿懥は忿懥の処で工夫しなさいと語類大学の部にある。
【語釈】
・忿懥は忿懥の処で工夫すべし…朱子語類。

○按、五峯作復斉記、有立志居敬身親挌之之説。蓋深得于此者。復齊記はここをよく合点で五峯のせられた。然し朱子のここへ急の入用でもないが、呉晦叔が師のことゆへこれを引れたものぞ。この記の立志居敬身親挌之が尤なことで、次第が鞭策録と同ことなり。この順が申も愚かなれども、そちの先生がよい云はれやふじゃとなり。○但知言所論、於知之浅深、不甚區別而一以知先行後概之、則有所未安耳。そちの先生のにも、残念なことには知の主張の方から、知言には知の浅深のことに氣がつかれぬ。浅い時は知先行後なれども、深い時の行知とうつる処の區別がないなり。朱子の上段々が浅深小大の區別がありて、深い知は行から知とまいることぞ。そこて知言は有所未安耳が、知先行後が御定りゆへ世間へはよいが、我胸へ工夫をかけるときはちと違ふでござらふ。それでは知をみがくときのしばんがなく、知の精彩があるまいなり。ふだんは文字などのことで云へども、ここは胸からこれほどに云は子ばならぬ。
【解説】
「按、五峯作復齋記、有立志居敬身親格之之説。蓋深得乎此者。但知言所論、於知之淺深、不甚區別而一以知先行後概之、則有所未安耳」の説明。五峯の復斎記の「立志居敬身親格之」が鞭策録と同じ次第でよい。しかし、知言では、知先行後を言うものの、知に浅深の区別のあることに気付いていない。浅い時は知先行後だが、深い方へ移る時は行知となるのである。
【通釈】
○「按、五峯作復斎記、有立志居敬身親格之之説。蓋深得于此者」。復斎記はここをよく合点して五峯が載せられたもの。これは急な入用でもないが、呉晦叔の師のことなのでこれをここに引かれたのである。この記の「立志居敬身親格之」が尤もなことで、次第が鞭策録と同じである。この順が申すも愚かなことだが、お前の先生のよい言われ様だと言ったのである。○「但知言所論、於知之浅深、不甚区別而一以知先行後概之、則有所未安耳」。お前の先生の語も、残念なことには知を主張するばかりで、知言では知の浅深のことに気が付かれていない。浅い時は知先行後だが、深い時の行知と移る処の区別がない。朱子の上段々には浅深小大の区別があって、深い知は行から知と参る。そこで知言は有所未安耳とは、知先行後は御定まりのことなので世間へはよいが、自分の胸へ工夫を掛ける時は一寸違うだろう。それでは知を磨く時の地盤がなく、知の精彩がないだろうということ。普段は文字などのことで言うが、ここは胸からこれほどに言わなければならないこと。

○抑垩賢所謂知者雖有浅深、然不過如前所論二端而已。この一節はこれ迠のことをくくり上けたものなり。垩賢の知惠を云に、浅い塲深い塲で知惠の面ぶりかはれども、前の通りの外はござらぬなり。前の字は右の字と同こと。二端は小学大学へかけて云ことなり。○但至於廓然貫通、則内外精粗自無二致。浅深がどちも一つになりたときは一つことで廓然なり。補傳のもこれで、一つになるとどちも知なり。中庸費隱の章も、語大天下莫能載、語小天下莫能破と云へども中は同こと。内外精粗はない。遭先生於道、正立拱手と時冝をするも知惠、程子の道通天地有形外想入風雲変態中と云も知惠で、浅深はあれども知惠と云に二つはない。廓然の時は一貫ぞ。そこで迂斉の、小児が能を習ふに初手はしまいを習ふと云。謡もくせを習て、それから後は傳授事の石橋もある。こちは浅いから深いなれとも、観世が法では同ことなり。
【解説】
「抑聖賢所謂知者雖有淺深、然不過如前所論二端而已。但至於廓然貫通、則内外精粗自無二致」の説明。知には浅深があり、それは前に言った通りだが、一つになった時は廓然貫通で、内外精粗はない。
【通釈】
○「抑聖賢所謂知者雖有浅深、然不過如前所論二端而已」。この一節はこれまでのことを括り上げたもの。聖賢が知恵を言うのに、浅い場深い場で知恵の面振りは変わるが、前の通りの外はない。「前」の字は右という字と同じこと。「二端」は小学大学へ掛けて言うこと。○「但至於廓然貫通、則内外精粗自無二致」。浅深がどちらも一つになった時は一つことで廓然である。補伝のもこれで、一つになるとどちらも知である。中庸の費隠の章も、「語大天下莫能載、語小天下莫能破」と言っても中は同じこと。内外精粗はない。「遭先生於道、正立拱手」とお辞儀をするのも知恵、程子が「道通天地有形外、思入風雲変態中」と言うのも知恵で、浅深はあるが知恵というのに二つはない。廓然の時は一貫である。そこで迂斎が、小児が能を習うのに初手は仕舞を習うと言った。謡も九世戸を習って、それから後は伝授事の石橋もある。こちらは浅い方から深く行くが、観世の法でも同じこと。
【語釈】
・語大天下莫能載、語小天下莫能破…中庸章句12。「天地之大也、人猶有所憾。故君子語大、天下莫能載焉、語小、天下莫能破焉」。
・遭先生於道、正立拱手…小学内篇明倫。「從於先生不越路而與人言。遭先生於道趨而進正立拱手。先生與之言則對、不與之言則趨而退。從長者而上丘陵則必郷長者所視」。
・道通天地有形外想入風雲変態中…偶成。明道作。「閒來無事不從容、睡覺東窗日已紅。萬物靜觀皆自得、四時佳興與人同。道通天地有形外、思入風雲變態中。道通天地有形外,思入風雲變態中」。

これは申しにくいが、必竟吟味事のむつかしいも太極圖説や中庸の吟味のことなり。某などが斯ふ云と、そりゃ和尚様が出てと云が、太極圖説も中庸も知のことなれども、うんとのみ込む段には小学でも同ことなり。鯛の潮煮はむつかしいけれども、八はい豆腐はどふでもよい、なんでもないでない。其豆腐か上手は各別なり。料理と云になりては皆同ことぞ。無二致なり。それはなぜなれば、太極圖をみた上から五行迠同じ太極と合点すべし。太極の上の虵の目の丸から五行の丸迠皆同ことなり。山崎先生、無極而太極は則啓大易之秘云云、四子六経可不治而明矣と云も皆太極の丸のことなり。
【解説】
吟味の難しいのは太極図説や中庸の吟味のこと。しかし、理解することでは小学もそれと同じである。
【通釈】
これは申し難いが、畢竟吟味事の難しいのは太極図説や中庸の吟味のこと。私などがこの様に言うと、そりゃ和尚様が出たと言うが、太極図説も中庸も知のことだが、うんと飲み込む段では小学でも同じこと。鯛の潮煮は難しいが、八杯豆腐はどうでもよい、何でもないではない。その豆腐が上手なのは格別である。料理ということでは皆同じこと。「無二致」である。それは何故かと言うと、太極図を見た上から五行までが同じ太極だと合点すること。太極の上の蛇の目の丸から五行の丸までが皆同じこと。山崎先生が、「無極而太極、則啓大易之秘云云、四子六経可不治而明矣」と言うのも皆太極の丸のこと。
【語釈】
・八はい豆腐…八杯豆腐。細く薄く切った豆腐を、水四杯・醤油二杯・酒二杯の割合にまぜ合せた汁で煮た料理。また、その豆腐。うどんどうふ。
・無極而太極は則啓大易之秘云云、四子六経可不治而明矣…山崎闇斎近思録序。「其所謂無極而太極、則啓大易之秘而發中庸之妙也。誠能有得於斯則四子六經可不治而明矣」。

○非如來教及前後所論觀過知仁者、乃於方寸之間、設爲機械欲因觀彼而反識乎此也。非如が湖南のいかもの食ひを云。知はなんでもないすらりとしたことなれども、知惠にもいかもの食の知惠がある。田中なんとか云男が雪の下へ蛙を入て葛□□にして出したと云。あぢな見へをするなり。百年前はそのやふなことがはやりたそふじゃ。湖南一派がやはりそふで、かの知惠のいかもの食ぞ。さてあちから毎度見過識仁と云。これを孔子の本意で譬て云に、番に遲く出たを目附に呵られたときなり。これか過なり。それを過を觀て仁を知るはどふなれば、親が病氣ゆへ出られまいと存じたか、親共が出子は許さぬと申すゆへ延引遲く出ましたと云。呵ら□□もそこで仁を知ると云ことなり。然るに湖南が髙く吹上けて彼のあんかけの中から蛙なり。過を見て馳走して云ぞ。
【解説】
「非如來敎及前後所論觀過知仁者、乃於方寸之間、設爲機械欲因觀彼而反識乎此也」の説明。知恵にも下手物食いがある。湖南一派がこれである。過を観てそれを馳走する。
【通釈】
○「非如来教及前後所論観過知仁者、乃於方寸之間、設為機械欲因観彼而反識乎此也」。「非如」が湖南の如何物食いを言う。知は何でもないすらりとしたことだが、知恵にも如何物食いの知恵がある。田中なんとかと言う男が雪の下へ蛙を入れて葛掛けにして出したと言う。変な見栄をするもの。百年前はその様なことが流行ったそうである。湖南一派がやはりそうで、彼の知恵の如何物食いである。さてあちらから毎度「見過識仁」と言う。これを孔子の本意でたとえて言えば、番に遅く出たのを目附に呵られた時である。これが「過」である。それを過ちを観て仁を知るのはどいういうことかと言うと、親が病気なので出られないだろうと思ったが、親共が出なければ許さないと言うので延引して遅く出ましたと言う。呵られてもそこで仁を知るということ。そこを湖南が高く吹き上げて、彼の餡掛の中から蛙である。それは過ちを観て馳走をするということ。
【語釈】
・いかもの食ひ…如何物食い。①常人の食わぬものを、わざとまたは好んで食うこと。また、その人。②常人とちがった趣味・嗜好をもつこと。また、その人。
・延引…時日が予定より延び遅れること。

だたい顔子も不貳過と云て仁にあやまちない筈。凡人は過ちだらけゆへ、其過を我手にみてはっと氣がつく、過とみた端的そこが仁と云。そふばかり云と過を幸にして、過がなければ仁は見られぬになる。孔子の教は仁を得ることなれども、湖南は仁を見やふとかかるぢゃ。まづこの見やうからかあたまで本んのことでない。やはり仏の觀心から來たもので、仏が本来を見る、面白い塩梅ぞ。仏は本来の面目、仁は本心の全德、そこて本心の全德は我本來なれどもそれは見へぬ。処を過ちではっと云。そこで仁がみへる。過はさん々々なれども、それで結搆なものを見ると云。それを王日休が歳旦に焼なをしをして麒麟は獅子と云。これは麒麟は仁獣、それが百獣のをそるる獅子じゃと引くりかへして云ふのが過と云。氣の毒なもので、仁を見ると云機械なり。面白いからくりと云もの。
【解説】
湖南一派は、過ちと見た端的が仁だと言う。目に見えない仁を過ちによって見ようとする。それでは仏の観心である。過ちを結構なものとするものである。
【通釈】
そもそも顔子も「不貳過」と言って、仁に過ちはない筈。凡人は過ちだらけなので、その過ちを我が手に見てはっと気が付く、過ちと見た端的が仁だと言う。その様にばかり言うと過ちを幸いにして、過ちがなければ仁は見られないことになる。孔子の教えは仁を得ることだが、湖南は仁を見ようと掛かる。先ずこの見様からが最初から本当のことではない。やはり仏の観心から来たもので、仏が本来を見るのには面白い塩梅がある。仏は本来の面目、仁は本心の全徳、そこで本心の全徳は我が本来なのだがそれは見えないもの。そこを過ちではっと言う。そこで仁が見える。過ちは散々なことだが、それで結構なものを見ると言う。それを王日休が歳旦に焼き直しをして麒麟は獅子だと言う。麒麟は仁獣なので、これが百獣の恐れる獅子だと引っくり返して言うのを過ちと言う。気の毒なもので、仁を見るという機械である。面白い絡繰というもの。
【語釈】
・不貳過…論語雍也2。「哀公問、弟子孰爲好學。孔子對曰、有顏囘者好學、不遷怒、不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也」。
・王日休…南宋の僧。1110?~1173

於方寸之間、設爲機械が、禅が心で心を見るも本来のを見る。凡夫もこの心はたれもあるが、心を觀ると云のは別のことなり。これを佛心とも仏性とも云。湖南も過で仁が見へると心で心の機械がある。機械はからくりで、この糸を引けば彼の團扇にある人形の眼を開くやふになる。過と云大それたもので大切の仁が見へてくると云。因觀彼而反識乎此なり。これは過□□わる者の御影でこちの仁を知たと云□ばかりでなく、禅の機語がこれなり。一旦豁然は妙處でも、内外精粗の一つになりた。さてもと云やふなは子たことはない。湖南のは、やはり旗が動くか風が動かの筋なり。こちの文意のまていなことはいやになりて、一つ別に出したがる。此やふなことが高い方からもひくい方からも出るもの。文章者が荘子を云ふのも、手嶋が身上が大切の金が大切のとひくいこと云ゆへ、又本心會得を云がひくいをかざるなり。湖南は高いにはせて平易なはいやと思う。この機械の筋は皆異端にあることなり。手嶋の中でも或人は性理の力では子た筈ぞ。
【解説】
心を観ると言うの仏心仏性のこと。湖南は心に機械を設ける。そして、高い方に馳せて平易なことは嫌に思う。しかし、知は一旦豁然で内外精粗の一つになることなのである。
【通釈】
「於方寸之間、設為機械」が、禅が心で心を見ると言うのも本来のものを見ること。凡夫にも誰にもこの心はあるが、心を観ると言うのは別なこと。これを仏心とも仏性とも言う。湖南も過ちで仁が見えるという心であって、心の機械がある。機械は絡繰のことで、この糸を引けば彼の団扇にある人形の眼が開く様になる。過ちという大それたもので大切な仁が見えて来ると言う。それでは「因観彼而反識乎此」である。これは過□□悪者の御蔭で自分が仁を知ったという□ばかりでなく、禅の機語がこれである。一旦豁然は妙処でも、内外精粗の一つになること。流石だと言う様な跳ねたことはない。湖南のは、やはり旗が動くか風が動くかの筋である。こちらの文意の真底なことは嫌になって、別に一つ出したがる。この様なことが高い方からも卑い方からも出るもの。文章者が荘子を言うのも、手島が身上は大切だ、金が大切だと卑いこと言うからで、本心会得を言うのが卑いのを飾ることになる。湖南は高い方に馳せて平易なことは嫌に思う。この機械の筋は皆異端にあること。手島の中でも、或る人は性理の力で跳ねた筈。

○候子所闢緫老黙識之、是識甚底之言、正是説破此意。如南軒所謂知底事者、恐亦未免此病也。これは機械の證拠に云。緫老は常緫かことにて續傳燈にあるそふな。この坊主が論語に黙識とある。あれは何を識ることぞ、中庸の自得はなにを得ることそと役に立ずの儒者をなぐさんでのこと。論者が力ないゆへこまってそれに答が出なんだなり。処を程門の候子垩なり。常緫がこと中庸輯略にものってある。候子が闢てよく説破せり。黙識は黙識ぎりでよく、筆は筆と云ぎりですみて、何と云ことはないとなり。あちは深密を云て機械にするを、こちはそこを浅く云が趣向なり。臧三耳や鷄三足の筋もそこなり。あるく足とあるかせる足があるの、聞く耳ときかせる耳があるのとむつかしく云を、候子垩の垩人のはすらりと云こと、と。そこが機械のないのぞ。
【解説】
「候子所闢緫老默識之、是識甚底之言、正是説破此意。如南軒所謂知底事者、恐亦未免此病也」の説明。総老が論語の黙識や中庸の自得の意味を儒者に訊ね、皆が答えられない中を候子聖が、黙識は黙識だけでよいと言って説破した。向こうは親密を言うが、こちらは浅く言うのが趣向である。そこに機械はない。
【通釈】
○「候子所闢総老黙識之、是識甚底之言、正是説破此意。如南軒所謂知底事者、恐亦未免此病也」。これは機械の証拠に言ったこと。総老は常総のことで、続伝燈にあるそうである。この坊主が、論語に黙識とあるが、あれは何を識ることか、中庸の自得は何を得ることかと役立たずの儒者を慰んで言ったこと。論者は力がないので困ってそれに答えられなかった。そこを程門の候子聖である。常総のことは中庸輯略にも載っている。候子が闢いてよく説破した。黙識は黙識だけでよく、筆は筆と言うだけで済み、何と言うことはないと言った。あちらは深密を言って機械にするが、こちらはそこを浅く言うのが趣向である。臧三耳や鶏三足の筋もそこ。歩く足と歩かせる足があるとか、聞く耳と聞かせる耳があるなどと難しく言うところを、候子聖が、聖人のはすらりと言うことだと言った。そこが機械はないということ。
【語釈】
・黙識…論語述而2。「子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉」。
・自得…中庸章句1補伝。「蓋欲學者於此、反求諸身而自得之、以去夫外誘之私、而充其本然之善」。
・臧三耳…
・鷄三足…西竹林の鶏三足。

さて南軒もあちむきなことを云はれたはかぶれなり。南軒には禅の意はなけれども、湖南一派の中で高いことはすきなり。そこで南軒は、をのし達は知る々々と云が何を知ると云たことがあるなり。この知底事が禅めく。これが禅ではなけれども、湖南のかぶれなり。彼のいかなるかこれ佛と云が最ふ一皮ある時の口上ぞ。儒は目鏡は目鏡、見臺は見臺と云てよいに、あちは一と皮奧がある。こちは明德を明にすと云ぎりなれども、仏はいかなるかこれ佛と云てまた何かあるやふに云。こちは明德は明德でこそあれ、いかなるか明德とは云ぬ。学者が知り皃でしらぬゆへ深く見せふで、最ふそれが曲ものなり。未免此病が機械の方の病にならふ。貴様も南軒は学友のことゆへ云てやらしゃれなり。かわったもので、それと云も皆湖南の高く云からのかぶれて、南軒にありそもないことのあるは、やはり大名の流行辞を云やふなもの。これはあなた方には無さそふなことなれども、出入の者伽の者の云ふたかぶれぞ。上總者のそれと云言葉なり。あれは無頼の云こと。れき々々は江戸では决して云ぬことなれども、近ころは歴々の公卿太夫も云ふそふなが、とほうもないことなり。とかくかぶれるものぞ。
【解説】
南軒が、知るとは何を知るのかと言ったことがある。それは湖南の被れである。禅で言う、如何なるか是仏などの意はこちらにはない。明徳は明徳であり、如何なるか明徳とは言わない。深く見せようとするのが曲者である。
【通釈】
さて南軒もあちら向きなことを言われたのは被れたからである。南軒には禅の意はないが、湖南一派の中なので高いことが好きである。そこで南軒は、お前達は知ると言うが、何を知るのかと言ったことがある。この「知底事」が禅めく。これは禅ではないが、湖南の被れである。彼の如何なるか是仏と言うのがもう一皮ある時の口上である。儒は目鏡は目鏡、見台は見台と言うのでよいのに、あちらは一皮奥がある。こちらは「明明徳」と言うだけだが、仏は如何なるか是仏と言って、また何かある様に言う。こちらは明徳は明徳でこそあれ、如何なるか明徳とは言わない。学者が知り顔で知らないので深く見せようとするが、もうそれが曲者である。「未免此病」が機械の方の病になるだろう。貴方も南軒は学友なのだから、そのことを言ってあげなさい。変わったもので、それと言うのも皆湖南が高く言うことからの被れで、南軒にありそうもないことがあるのは、やはり大名が流行言葉を言う様なもの。これは貴方方にはなさそうなことだが、出入の者や伽の者が言ったのの被れである。上総者のそれという言葉と同じ。あれは無頼の言うこと。歴々は江戸では決して言わないことだが、近頃は歴々の公卿大夫も言うそうだが、それは途方もないこと。とかく被れるもの。

○又來論所謂端謹以致知、所謂克己私集衆理者、又似有以行爲先之意、而所謂在乎兼進者、又若致知力行初無先後之分也。これを挙たは分けあることなり。呉晦叔知見さへても学問の習が丈夫にないぞ。定見ないはあわれなもの。自語相違があるぞ。自ら知かさき行が後と云ながら、端謹以致知と云。端謹が大切と云ことはこちで云ことで、これを根にして知を致むと云はよけれども、それでは貴様の主張する知先行後に合まいぞなり。克己私集衆理は人欲を無くして天下の理を見と貴様は云が、それでは行が先になるぞと、打どめがきまらぬことになるをたた祟りて云なり。在兼進者云云は、これは後ろに付て居る人がある。南軒ぞ。南軒が兼進を主張したことが大学啓蒙集に吟味があるぞ。朱子の、貴様の兼進もよいが、それも致知力行の分がありてからなれば聞ゆれとも、只兼進と云ては知から兼進むか、行から兼進むか、兼進の分けが知れぬとなり。朱子も向をとがめるつもりにたん々々と云。又來喩以下はかまわぬことなれども、晦叔が定見がなくてきまらぬゆへ、そこを朱子の氣を付らるるて、全体のあちの論に定見のないにをちるなり。○凡此皆鄙意所深疑、而南軒之論所未備者。故敢復以求教、幸深察而詳論之。始に細論之と云て、ここも詳論せよと云。こまかに云とぎく々々するもの。これがいた々々しく慇懃に云とめたことなり。
【解説】
「又來論所謂端謹以致知、所謂克己私集衆理者、又似有以行爲先之意、而所謂在乎兼進者、又若致知力行初無先後之分也。凡此皆鄙意所深疑、而南軒之論所未僃者。故敢復以求敎、幸深察而詳論之」の説明。呉晦叔は知見が冴えても学問の習いが丈夫でない。知先行後と言いながらも「端謹以致知」と言う。それでは知先行後に合わない。「克己私集衆理」も行が先である。「在兼進者」は南軒を楯にして言ったこと。それを朱子は、知から兼ね進むか、行から兼ね進むか、兼進のわけが知れないと言った。
【通釈】
○「又来論所謂端謹以致知、所謂克己私集衆理者、又似有以行為先之意、而所謂在乎兼進者、又若致知力行初無先後之分也」。これを挙げたのはわけのあること。呉晦叔は知見が冴えても学問の習いが丈夫でない。定見がないのは哀れなもの。自ら語る中に相違がある。自ら知が先、行が後と言いながら、「端謹以致知」と言う。端謹が大切だということはこちらで言うことで、これを根にして知を致すと言うのはよいが、それでは貴方の主張する知先行後には合わないだろう。「克己私集衆理」は人欲をなくして天下の理を見ることだと貴方は言うが、それでは行が先になると、打ち止めが決まらなくなるとただ祟って言ったのである。「在兼進者云云」。これには後ろに付いている人がある。それは南軒である。南軒が兼進を主張した。大学啓蒙集にその吟味がある。朱子が、貴方の兼進もよいが、それも致知力行の分があってからであればわかるが、ただ兼進と言っては知から兼ね進むか、行から兼ね進むか、兼進のわけが知れないと言った。朱子も向こうを咎めるつもりで段々と言う。「又来喩以下」は構わなくてもよいことだが、晦叔が定見がなくて決まらないので、そこを朱子が気を付けられたのであって、全体、あちらの論は定見がないことに落ちる。○「凡此皆鄙意所深疑、而南軒之論所未備者。故敢復以求教、幸深察而詳論之」。始めに「細論之」と言い、ここも「詳論之」と言う。細かに言うとぎくぎくするもの。これが痛々しく慇懃に言い止めたこと。