袁州州學三先生祠記條  八月廿四日  文録
【語釈】
・八月廿四日…寛政5年(1893)8月24日。
・文…林潜斎。花沢文次。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

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袁州州學三先生祠記曰、自鄒孟氏沒而聖人之道不傳、世俗所謂儒者之學、内則局於章句文詞之習、外則雜於老子釋氏之言、而其所以脩己治人者、遂一出於私智人爲之鑿、淺陋乖離莫適主統。使其君之德、不得比於三代之隆、民之俗、不得躋於三代之盛。若是者、蓋已千有餘年於今矣。濂渓周公先生奮乎百世下、乃始深探聖賢之奧、疏觀造化之原、而獨心得之、立象著書闡發幽秘。詞義雖約、而天人性命之微、脩己治人之要、莫不畢舉。河南兩程先生既親見之而得其傳。於是其學遂行於世、士之講於其説者、始得以脱於俗學之陋、異端之惑、而其所以脩己治人之意亦往往有能卓然不惑於世俗利害之私、而慨然有志於堯舜其君民者。蓋三先生者、其有功於當世、於是爲不小矣。然論者既未嘗考於其學、又拘於今昔顯晦之不同。是以莫知其本末源流之若此、而或輕議之。其有略聞之者、則又舍近求遠、處下窺高、而不知即事窮理、以求其切於脩己治人之實也。七十八。
【読み】
袁州州學三先生の祠の記に曰く、鄒孟氏沒するよりして聖人の道傳わらず、世俗謂う所の儒者の學、内は則ち章句文詞の習に局し、外は則ち老子釋氏の言に雜りて、其の以て己を脩め人を治むる所の者、遂に一に私智人爲の鑿に出で、淺陋乖離適として主統する莫し。其れ君の德、三代の隆に比するを得ず、民の俗、三代の盛んに躋るを得ざしむ。是の若き者、蓋し已に今に千有餘年なり。濂渓周公先生百世の下に奮い、乃ち始めて聖賢の奧を深探し、造化の原を疏觀して、獨り心は之を得、象を立て書を著し幽秘を闡發す。詞義約なりと雖も、而して天人性命の微、己を脩め人を治むるの要、畢舉せざる莫し。河南兩程先生既に親しく之を見て其の傳を得。是に於て其の學遂に世に行われ、士の其の説に講ずる者、始めて以て俗學の陋、異端の惑に脱するを得て、其の以て己を脩め人を治むる所の意も亦往往能く卓然として世俗利害の私に惑わずして、慨然として其の君民を堯舜にするに志有る者有り。蓋し三先生は、其れ當世に功有る、是に於て小ならずと爲す。然るに論者既に未だ嘗て其の學を考えず、又今昔顯晦の同じからざるに拘わる。是れ以て其の本末源流此の若きを知ること莫くして、或いは輕く之を議す。其れ略之を聞くこと有る者は、則ち又近きを舍て遠きを求め、下に處り高きを窺いて、事に即し理を窮め、以て其の己を脩め人を治むるに切なるの實を求むるを知らず。七十八。

この条は三先生と云字へ氣を付て見よ。某今日鞭策を講ずるの意趣なり。朱子は集て大成し、孔子後の一人なれども、独り立ならぬもののやうに三先生を尊ばれ、孔孟へ直訴する心でなく、とかく平生から三先生々々々と云はるるが朱子の精彩なり。そこで三先生と云をよく見よとはそこなり。この三先生の祠の記と云は、あの比学挍で祭ると云ことになりてありた。今日は丸に古昔を持てくるゆへ学挍には先つ垩像安置して釋奠と云ふ。それは天子諸候のこと。学者が圣像を本尊にするがあるまいことでもないが、それでは自分の師伝の処が虚になり、實がないと精彩がない。朱子の身にとりて親切な段は周子二程の三先生。それから推せば、今日吾黨の山崎先生から佐藤浅見三宅の四先生を尊ぶがここなり。されども学者傳来を知らぬゆへ先軰を軽んずる。それで先軰がひくくはならぬが、軽んずる方がつまりひくく見へる。甚しいは師匠がよいと羽ぶりにし、師匠が甲斐ないと師傳を隱くし、自ら遺經に得た顔をする。其高ぶりから学を得た面ぶりがない。某これを云がこの三先生□字の精彩なり。
【解説】
「袁州州學三先生祠記曰」の説明。朱子はとかく平生三先生のことを尊んだ。今日我が党が山崎先生や佐藤浅見三宅の四先生を尊ぶのも同じことである。先輩を軽んじることによって先輩が卑く見える。
【通釈】
この条は三先生という字へ気を付けて見なさい。それが、私が今日鞭策を講じる意趣である。朱子は集めて大成し、孔子の後の一人だが、独り立ちのできない者の様に三先生を尊ばれ、孔孟へ直訴する心ではなく、とかく平生から三先生のことを言われたのが朱子の精彩である。そこで三先生をよく見よと言うのはそこのこと。この三先生の祠の記とは、あの頃に学校で祭るということになっていた。今日は丸々古昔を持って来るので、先ず学校には聖像を安置して釈尊と言う。それは天子諸侯のすること。学者が聖像を本尊にするのはないことでもないが、それでは自分の師伝の処が虚になり、実がないから精彩がない。朱子の身にとって親切な段は周子二程の三先生。それから推せば、今日我が党が山崎先生から佐藤浅見三宅の四先生を尊ぶのがここのこと。しかし学者が伝来を知らないので先輩を軽んじる。それで先輩が卑くはならないが、つまり軽んじることで卑く見える。甚だしい者は師匠がよいとそれを羽振りにし、師匠が甲斐ないと師伝を隠し、自ら遺経で得た顔をするが、その高振りから学を得た面振りがない。私がこれを言うのがこの三先生の字の精彩である。

女が奉公にとり親と云をするが、心あるものは甚たにくむこと。日傭取の親でも三年の喪は天子より庶人に達すとある。然るに駕篭舁の娘が我身をふけらす爲には市医者をとり親にして、大名などへ御部屋に出るもある。学者も筋目なしに名家を云立るのは取り親して妾奉公に出ると同ことなり。ここが朱子の方ては孔子後一人の大成なれば、三先生を目くぼに見てもゆかるるに、常々あのやうに三先生を尊と云が朱子の朱子たる処とみよ。ここの一つの見やうなり。さてこの祠とて、今日学者に祠をせよではない。道を尊ぶからは山嵜先生より先軰を祠るべきことなれども、今の学者は先軰いつ死れたか、諸先生の忌日さへ知らぬ。それを知たとて知見のためにもなるまいが、そうふかく信するか精彩と云もの。佛者は法花坊主が十月十三日に飾り物して祖師□祭る。その信から意地もこはくなり、金をやろふと云ても念仏□□□□□。ここは章句軰の心からは及ぬことゆへ、直方の学者不及日蓮説を作ふと云も信の篤、と。
【解説】
学者が取親ではならない。朱子は三先生を尊んだ。先輩の忌日も知らないのでは精彩がない。深く信じるのである。
【通釈】
女が奉公に取親ということをするが、心あるものは甚だそれを憎む。日傭取りの親でも三年の喪は天子より庶人に達すとある。それなのに、駕篭舁きの娘が我が身を誇るために町医者を取親にして、大名などへ御部屋に出ることもある。学者も筋目なしに名家を言い立てるのは取親をして妾奉公に出るのと同じことである。ここが朱子の方では孔子の後一人の大成だから、三先生を目くぼに見てもよいのに、常々あの様に三先生を尊ぶというのが朱子の朱子たる処だと見なさい。それがここの一つの見方である。さてこの祠も、今日学者に祠をしなさいと言うことではない。道を尊ぶからは山崎先生より先輩を祠るべきものだが、今の学者は先輩がいつ死なれたのか、諸先生の忌日さえ知らない。それを知ったとしても知見のためにもならないだろうが、その様に深く信じるのが精彩というもの。仏者は法華坊主が十月十三日に飾り物をして祖師を祭る。その信から意地も強くなり、金を遣ろうと言っても念仏を唱えている。ここは章句などをしている者の心では及ばないことであって、直方が学者不及日蓮説を作ろうと言ったのも、彼等が信じることが篤いからである。
【語釈】
・とり親…取親。仮の親子関係を結ぶ時、その親になる人。
・天子より庶人に達す…礼記上王制。「三年之喪、自天子達、庶人縣封」。
・十月十三日…日蓮の忌日。

○自鄒孟氏没而垩人之道不傳。先つ孟子の没後は学問が倒れて大学之序、其傳亡たりもこのことなり。傳が亡ては何をするかと思ふに、やはり詩書論孟の仕事をすれども、身に得たことはない。○世俗所謂儒者之學、内則局於章句文詞之習。これを人を出せば鄭玄孔隷達なり。文詞は韓退之桺子厚、れっきとした衆ぞ。けれどもこの局するがあはれなこと。それぎりぞ。局は丁ど中げんが振舞によばれ、夷講の膳部をば覚てをるが塩梅はどうやら知ぬやふなもの。そこが局で、局と云はそれかぎり下卑た咄と云ものなり。香を知らぬものが、何か香爐よりよい香がして烟か出たと云。四子六經の上品を知らぬがやはりそれと同ことぞ。○外則雜於老子釈氏之言、而其則所以脩己治人之道、遂一出私智人爲之鑿。これも人を出せは、王弼か易は老子、唐の翺か中庸を貴んでも仏じゃと云類なり。世の俗学の卑いは文字、高いは老仏の外はないものぞ。
【解説】
「自鄒孟氏沒而聖人之道不傳、世俗所謂儒者之學、内則局於章句文詞之習、外則雜於老子釋氏之言、而其所以脩己治人者、遂一出於私智人爲之鑿」の説明。孟子の没後学問は亡んだ。その後は鄭玄や孔穎達、韓退之や柳子厚が出たが彼等は章句文詞に局し、王弼や李翺も釈老に被れた。
【通釈】
○「自鄒孟氏没而聖人之道不伝」。先ず孟子の没後は学問が倒れた。大学の序の「其伝泯」もこのこと。伝が亡んでは何をするのかと思えば、やはり詩書論孟の仕事をするのだが、身に得ることはない。○「世俗所謂儒者之学、内則局於章句文詞之習」。人を出して言えば鄭玄と孔穎達である。文詞は韓退之と柳子厚で、れっきとした衆である。しかし、この局するのが哀れなこと。それだけである。局は丁度中間が振舞いに呼ばれ、夷講の膳部は覚えているが塩梅はどうやら知れない様なもの。そこが局で、局とはそれ限りの下卑た話というもの。香を知らない者が、何か香炉よりよい香がして烟が出たと言う。四子六経の上品を知らないのがやはりそれと同じこと。○「外則雑於老子釈氏之言、而其則所以修己治人者、遂一出於私智人為之鑿」。これも人を出せは、王弼の易が老子、唐の翺が中庸を貴んでも仏という類である。世の俗学の卑いのは文字、高いのは老仏の外はないもの。
【語釈】
・其傳亡…大学章句序。「及孟子沒而其傳泯焉」。
・翺…李翺。

講後惟秀内外の字を問。先生曰、文詞と云へども圣賢の書の上にあるゆへ内と云。異端は圣学の外□□□内典外典と云やふなもの。先生曰、それはあちらこちらでわるい。春秋で内は夏、外は夷と云と同じこと。
【解説】
聖賢の書の上にある文詞だから内と言うが、異端は内典外典と色々とあって悪い。
【通釈】
講後惟秀が内外の字を問うた。先生が、文詞と言っても聖賢の書の上にあることなので内と言う。異端は聖学の外□□□内典外典と言う様なもので、あちこちして悪いと言った。春秋で内は夏、外は夷と言うのと同じこと。

脩己治人とこの字の出も上とつり合はぬやうて聞へたは、儒者の学はこの二つなり。流石儒者ゆへ脩己治人と云こと合点なり。この間とれやら東金へ来た江戸の儒者が脩己治人は知れたことと云そうなが、ををををよく知れやう。知れぬことなり。私智人爲が經書を見ても老仏の見になる。私意と云ものぞ。理屈はどうでもつくゆへ、古今經書の注とれも一理ある。古註の上に仁斉が古義、徂徠が徴も皆一つ理屈はつくが、私意人爲ぞ。それがそれでをらずに、生於其心害於其政なり。そこで天下之大害になる。
【解説】
「修己治人」が儒者の学である。「私智人為」は私意である。仁斎の古義も徂徠の徴もそれである。これで政をも害する。
【通釈】
「修己治人」と、この字が出たのも上と釣り合わない様でよくわかるのは、儒者の学はこの二つだからである。流石に儒者なので修己治人は合点している。この間誰やら東金へ来た江戸の儒者が修己治人は知れたことだと言ったそうだが、よく知っているだろうが、本当は知らない。「私智人為」では経書を見ても老仏の見になる。私意というものである。理屈はどうでも付くので、古今経書の注はどれも一理ある。古註の上に仁斎が古義を、徂徠が徴を書いたのも皆一つ理屈は付くが、私意人為である。それがそれだけでいないで、「生於其心害於其政」である。そこで天下の大害となる。
【語釈】
・生於其心害於其政…孟子公孫丑章句上2。「詖辭知其所蔽、淫辭知其所陷、邪辭知其所離、遁辭知其所窮。生於其心、害於其政。發於其政、害於其事。聖人復起、必從吾言矣」。

○浅陋乖離莫適主統。上の章句は浅陋、老釈が乖離なり。根かこれゆへ一つとして主統はない。学術に一定の流儀のあるを主統と云なれども、これは習がなくて自己流ゆへきまりはない。明德のことても新民のことても皆それで、明德も虚無寂滅になり、新民も五覇の術になる。そこか主統のないからなり。時にこの適としてかどこもかしこもそうなってゆくを云。これを適たる主統なれどもよめる。然れども、莫と云字と適の字のあるは惣体の例かゆくとしてとよむ例ゆへ如此に点してあれども、ここはそう計り見へぬ。誰に適從せんの適で、惣領も適と云にはとあてのあること。そこて適たる主統なれとも読たいやふなぞ。
【解説】
「淺陋乖離莫適主統」の説明。当時の「浅陋乖離」で自己流だった。そこで明徳も虚無寂滅となり、新民も五覇の術になった。ここの「適」の字は適くとしてと読むのが通例だが、適たるとも読める。
【通釈】
○「浅陋乖離莫適主統」。上にある章句が浅陋、老釈が乖離である。根がこれなので一つとして主統はない。学術に一定の流儀のあることを主統と言うが、これは習いがなくて自己流なので決まりがない。明徳のことでも新民のことでも皆それで、明徳も虚無寂滅になり、新民も五覇の術になる。それは主統がないからである。時にこの適くとしてが何処もかしこもそうなって行くことを言う。これを適たる主統なれどもとも読める。しかし、莫という字と適の字がある時は総体の例が適くとしてと読むのが通例なので、この様に点をしてあるが、ここはそうとばかりは言えない。誰に適従せんの適で、惣領も適というにはと当てのあること。そこて適たる主統なれどもとも読める。

○使其君之德、不得比於三代之隆、民之俗、不得躋於三代之盛。これは大学を得ると得るのことなり。大学の序、大道之要至治の澤とあるを書かへたものなり。隆。君の德一人で云。盛。天下億兆の民て云。隆は白牡丹一輪、盛は芳野山の花のやふなもの。民は大勢、君は一人て隆盛のあたりがあるぞ。○若是者、蓋已千有餘年於今矣。嘆はしきは孟子より周子迠は世の中眞くらて居たぞ。
【解説】
「使其君之德、不得比於三代之隆、民之俗、不得躋於三代之盛。若是者、蓋已千有餘年於今矣」の説明。隆盛の隆は君子で言い、盛は民で言う。孟子から周子までは世の中が真っ暗だった。
【通釈】
○「使其君之徳、不得比於三代之隆、民之俗、不得躋於三代之盛」。これは大学を得れば得るということ。大学の序に「大道之要至治之沢」とあるのを書き替えたもの。隆。君の徳一人で言う。盛。天下億兆の民で言う。隆は白牡丹一輪、盛は吉野山の花の様なもの。民は大勢、君は一人て隆盛の当たりがある。○「若是者、蓋已千有余年於今矣」。嘆かわしいことに、孟子より周子までは世の中が真っ暗だった。
【語釈】
・大道之要至治の澤…大学章句序。「使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之澤、晦盲否塞、反覆沈痼、以及五季之衰、而壞亂極矣」。

○濂溪周公先生奮乎百世下、乃始深探圣賢之奧、疏觀造化之原、而獨心得之。奮乎百世之下が孟子の字なり。惣体の闇い処へ挌別は子切って出たて奮の字なり。なるほど奮の勢を書たも大きな魚か鰯の網へ一つかかった底がそれぞ。始て深深かこれ迠圣賢の云はぬ処のこと。漢唐章を分け句を絶って註ぎりのこと。こちは其中の垩賢の語らぬ処ぞ。易有太極も人のひしょ々々々と説く所を無極而太極と、なるほど深深なり。子思の誠と云てあるも、周子之誠は垩人之本と云たて中庸も生きて來る。疏觀造化之本か太極動而両儀立迠が疏觀ぞ。其前には疏の字。それほどに思はなんだかこれが面白ひこと。朱子のめったに文字は下さぬことぞ。異端は上からめっちゃに押っ冠せる。
【解説】
「濂渓周公先生奮乎百世下、乃始深探聖賢之奧、疏觀造化之原、而獨心得之」の説明。漢唐では章を分けて句を絶って註をしただけだが、周子は聖賢の言わなかったことまでをも出した。
【通釈】
○「濂渓周公先生奮乎百世下、乃始深探聖賢之奥、疏観造化之原、而独心得之」。「奮乎百世之下」が孟子の字である。総体、暗い処へ格別に跳ね切って出たので奮の字がある。なるほど奮の勢いを書いたのも、大きな魚が鰯の網に一つ掛かった底がそれ。「始深深」が、これまでの聖賢の言わなかったこと。漢唐は章を分け句を絶って註をしただけ。こちらにはその中で聖賢の語らなかったものがある。「易有太極」も人のひそひそと説く所を「無極而太極」とする。なるほど深深である。子思が誠と言ったのも、周子が「誠者聖人之本」と言ったので中庸も生きて来る。「疏観造化之原」は、太極動而両儀立までが疏観である。その前には疏の字で、それほどに思わなかったわけだが、これが面白いこと。朱子は滅多に文字を下さない。異端は上から滅茶苦茶に押っ冠せる。
【語釈】
・奮乎百世之下…孟子尽心章句下15。「孟子曰、聖人、百世之師也。伯夷柳下惠是也。故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。聞柳下惠之風者、薄夫敦、鄙夫寛。奮乎百世之上、百世之下、聞者莫不興起也。非聖人而能若是乎。而況於親炙之者乎」。
・易有太極…易経繋辞伝上11。「易有太極。是生兩儀。兩儀生四象、四象生八卦。八卦定吉凶、吉凶生大業」。
・子思の誠…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也。」。
・誠は垩人之本…通書誠上。「誠者聖人之本。大哉乾元、萬物資始、誠之源也」。

周子勇猛直前に云はるるけれども、皆こまかあたりなり。老子の字もあるから異端ではないかと云に、筋が通っている。帒の中をあけて見てのこと。朱子の疏觀とはよい字をつかはれた。朱子の斯ふ見たゆへ圖解が皆疏觀なり。某幼年より妙理の高いことはかり聞て、近年に至て鳩巣の口述を見、あれを調法するを江戸の学者が疑ったそふなが、なるほど直方門であれを調法するは前方な様なれども、疏觀の所から来たもの。圖解の文句をこまかにわけられたぞ。見識もこの疏觀がないと老仏になる。上からは面白様にして風呂敷冠せて置てはならぬ。周子の周子たるは疏觀なり。○獨心得之が不傳之学を遺經につぐなり。周子は誰にも習はぬ。邵子はなんと云ても象数からあとのことゆへ、はや陳圖南も役に立ったが、周子は外を聞て得たことはない。獨心得之なり。
【解説】
周子の言には筋が通っている。それは細かな当たりがあるからである。彼には疏観があった。また、周子は独りでこれを得た。
【通釈】
周子は勇猛直前に言われたが、それには皆細か当たりがあった。老子の字もあるから異端ではないかと言うが、筋が通っている。それは袋の中を開けて見てのこと。朱子が疏観と、よい字を使われた。朱子がこの様に見たので図解が皆疏観である。私は幼年より妙理の高いことばかりを聞いて、近年に至って鳩巣の口述を見てあれを調法にする。それを江戸の学者が疑ったそうだが、なるほど直方門であれを調法するのは未熟な様だが、それは疏観の所から来たもの。図解の文句を細かに分けられたもの。見識もこの疏観がないと老仏になる。上からは面白い様にして風呂敷を冠せて置いてはならない。周子の周子たるところは疏観である。○「独心得之」が不伝の学を遺経に継ぐということ。周子は誰にも習わなかった。邵子は何と言っても象数から後のことなので、早くも陳図南も役に立ったが、周子は外を聞いて得たのではない。「独心得之」である。
【語釈】
・不傳之学を遺經につぐ…
・陳圖南…陳博。字は図南。扶揺子と号す。唐末五代の道士。宋の太宗に謁見して希夷先生の号を賜う。108歳で没する。

○立象著書闡發幽秘。詞義雖約、而天人性命之微、脩己治人之要、莫不畢挙。幽秘が天地圣人之道は眼に見へぬ。立象は太極圖、著書は通書なり。闡發とは、中庸之上天之載無音無臭至矣哉をあけて見たものぞ。山崎先生の發太易之秘発中庸之妙と云かここぞ。俗学は博識で只いそがしいゆへ、こんなことや山崎先生などの得られた所を見ることはならぬ。いそかしければ、市塲の見飩屋の亭主どふしても靜坐はならぬ筈。それと同ことなり。顧重二曰、又わる口が、いかさま鞭策録も假。諸太夫でなければ読れぬ書ぞ。詞義約が周子廿尋ほど理屈は仰せられぬ。通書で見へている。脩己治人。これをほつ々々云はるるが周子の一生經済のこと迠のこらぬ。隱者めいたことてなし。通書て知れてある。礼楽のことでもさま々々なれども、周子の文銅をさへて云ことなり。通例の俗見で周子と陶淵明とを似たことに思い、こちは蓮、あちは桺と思ふか笑止きことぞ。莫不尽挙が通書一冊で經済はすむ。去によって近思の治体の始も治法の始も周子なり。さて不傳の学を遺經に得たと落し置て、河南両程先生なり。
【解説】
「立象著書闡發幽秘。詞義雖約、而天人性命之微、脩己治人之要、莫不畢舉」の説明。太極図と通書で幽秘を開いた。また、周子は理屈を言う人ではなことが通書でわかる。また、経済についても「修己治人」で残すことはない。
【通釈】
○「立象著書闡発幽秘。詞義雖約、而天人性命之微、修己治人之要、莫不畢挙」。「幽秘」。天地聖人の道は眼に見えない。「立象」は太極図、「著書」は通書である。「闡発」とは、中庸の「上天之載無声無臭至矣」を開けて見たもの。山崎先生の「発大易之秘発中庸之妙」と言うのがここのこと。俗学は博識でただ忙しいので、こんなことや山崎先生などの得られた所を見ることはできない。忙しければ、市場の饂飩屋の亭主はどうしても静座ができない筈で、それと同じこと。重二を顧みて言った。また悪口が出た。全く鞭策録も借り物である。諸大夫でなければ読めない書である。「詞義約」。周子は二十尋ほどの理屈は仰せられない。それは通書で見えている。「修己治人」。これをぽつぽつと言われるのが、周子は一生経済のことまで残さないということ。隠者めいたことはない。それも通書で知れている。礼楽のことでも様々だが、周子は文銅を押さえて言う。通例の俗見で周子と陶淵明とを似ていると思い、こちらは蓮、あちは柳と思うのが笑止なこと。「莫不畢挙」。通書一冊で経済は済む。そこで近思の治体の始めも治法の始めも周子である。さて不伝の学を遺経に得たと落として置いて、河南の両程先生となる。
【語釈】
・上天之載無音無臭至矣哉…中庸章句33。「詩云、予懷明德、不大聲以色。子曰、聲色之於以化民、末也。詩云、德輶如毛。毛猶有倫。上天之載、無聲無臭。至矣」。詩は、詩経大雅文王。
・發太易之秘発中庸之妙…近思録序。「其所謂無極而太極、則啓大易之秘而發中庸之妙也」。
・重二…中田重次。十二とも言う。博徒であったが、三十歳頃に黙斎に入門。~1798

○河南両程先生既既親見之而得其傳。於是其學遂行於世。二程は丸でそれを得られたと云ことなり。二程の事業は周子の上へも出たとも云へきなれども、周子の傳であのやうになられたことぞ。於是其学遂行於世は、ここは二程の手にかかってからを云。二程からで周子の学が世に行われた。○士之講於其学者、始得以脱於俗学之陋、異端之惑。其説は周程を一つにして濂洛に行はれたと見がよし。この始てと云の手抦は大なことなり。何事も初手は重いこと。創業の君の貴いもそれて、始ての字は手抦あることそ。ここて始て濂洛の学が世に行はれ、道学か盛になりた。日本でも始ては道春先生なり。これは万世に大切なり。されとも脱俗学の陋と云にはすこし甲斐ない様なり。それを脱すと□□柯先生に帰するぞ。異端之惑が学者も老佛をよいとは思はぬが、程子より前は猫のをきをせせるやふで、そこがはきとせぬ。周程からであらい拔て迷を去た。
【解説】
「河南兩程先生既親見之而得其傳。於是其學遂行於世、士之講於其説者、始得以脱於俗學之陋、異端之惑」。二程子は周子の伝であの様になり、二程によって道学が盛んになった。日本のそれは林羅山先生だが、「脱俗学之陋」となったのは山崎先生に帰すこと。
【通釈】
○「河南両程先生既親見之而得其伝。於是其学遂行於世」。二程は丸でそれを得られたということ。二程の事業は周子の上へも出たとも言うべきだが、周子の伝であの様になられたのである。「於是其学遂行於世」は、ここは二程の手に掛かってからを言う。二程から周子の学が世に行なわれた。○「士之講於其説者、始得以脱於俗学之陋、異端之惑」。「其説」は周程を一つにして濂洛に行なわれたものと見なさい。この「始」という手柄は大きなこと。何事も初手は重いこと。創業の君の貴いのもそれで、始めての字は手柄のあること。ここで始めて濂洛の学が世に行なわれ、道学か盛んになった。日本でも始めては道春先生である。これは万世にとって大切なこと。しかし、「脱俗学之陋」と言うには少し甲斐ない様である。それを脱す言うのは柯先生に帰すること。「異端之惑」が、学者も老仏をよいとは思わないが、程子より前は猫が荻をせせる様で、そこがはっきりとしない。周程からで洗い抜いて迷いを去った。

○而其所以脩己治人之意亦往々有能卓然不惑於世俗利害之私、而慨然有志於尭舜其君民者。ここへ又脩己治人と出されたか朱子の文の大切なり。初手の脩己治人は学問上て廣く云、ここは眞の処。ほんのことなり。そこて前のをここてしめたものなり。卓然の字が文辞訓話にかかる人にはないこと。ぐち々々書を讀では卓と云はれぬ。これはつっ立たことなり。世の中の学者のたぎらぬは利害の外はない。これも多少般の數あることで、学問の世話をやくにもあり、道を任するにもあり、よい加减に世を渡るには固りなり。鳥の羽のもちにかかったやふなが利害の私ぞ。時にここては学者も伊川の好学論明道の定性書を聞て目のまわる程のことなれば、利害の私に迷はぬやふになるもあなた方の御影なり。只今ては卓然が世味にあたるゆへ、それを又一つやわらげてよい加减をする。こまり果たこと。近思をよんで興起せぬものへは最はや藥はきかぬことなり。然れば四子の階梯と云もここて合点すべし。
【解説】
「而其所以脩己治人之意亦往往有能卓然不惑於世俗利害之私、而慨然有志於堯舜其君民者」の説明。世の中の学者が滾らないのは利害の私があるからである。伊川の好学論や明道の定性書を聞いて目の回る程でなければならない。
【通釈】
○「而其所以修己治人之意亦往々有能卓然不惑於世俗利害之私、而慨然有志於堯舜其君民者」。ここへまた修己治人と出されたのが朱子の文の大切なところ。初手の修己治人は学問上で広く言い、ここは真の処、本当のことである。そこで前のをここて締めたもの。卓然の字が文辞訓詁に掛かる人にはないこと。ぐちぐちと書を読んでは卓とは言えない。これは突っ立ったこと。世の中の学者が滾らないのは利害の外はない。これも多少般の数のあることで、学問の世話を焼くことにもあり、道を任ずることにもあって、よい加減に世を渡るには固よりのこと。鳥の羽が餅に掛かった様なのが利害の私である。時にここでは学者も伊川の好学論や明道の定性書を聞いて目の回る程でなければならない。利害の私に迷わない様になるのも貴方方の御影である。只今では卓然が世味に当たるので、それをまた一つ和らげてよい加減をする。それは困り果てたこと。近思を読んで興起しない者へは最早薬は効かない。そこで、四子の階梯と言うのもここで合点しなさい。
【語釈】
・多少般の數…近思録致知8。「知有多少般數、煞有深淺」。
・定性書…近思録為学4を指す。
・四子の階梯…近思録序。「近思録好看四子六經之階梯。近思録四子之階梯。信哉是言也」。

二程の御影で卓然になる。□□ゆへ、論語も何晏や孟子も趙岐が眼で見たは合点せぬ。ここの卓然慨然の字をみよ。經済を云ふも大ていよい□□にて貞觀政要ぎりの小康なり。王代の学とそれなり。二帝□□の善治と云も、書物の上て講釈もするが慨然がない。慨然が此分では置まいと、これが新民の精彩なり。大抵と云ことはないゆへ至善につめる。其君民を尭舜の治にすると云は事も仰山に聞ゆれども、大学ではやはり至善のことなり。人のもちまへて云へば、我々式がどふして漢高祖唐大宗へあたまの上ることはない。それよりは大久保彦左ェ門殿にもあたま上らぬなり。されども学問の上で云ふには慨然としてなり。大学へ對しては又中々あの衆などの小康の眞似はせぬ。御目附衆の大へいな様なもの。小身ても御用のときは大名にも屈しはせぬ。明德新民を尭舜の通りにするとかかる。そこて爲学の始に伊尹顔渕なり。今日の学者が朱子の近思録は読めども鞭策録を読まぬは合点ゆかぬ。直方をにくむからでも有ふが、鞭策録は近思の續篇なり。
【解説】
「慨然」はこのままでは置くまいと思うことで、これが新民の精彩である。人の持前で言えば、我々は高祖や太宗、大久保彦左衛門にも劣るが、大学を言えば、あの衆などより劣ることはない。
【通釈】
二程の御蔭で卓然になる。□□で、論語は何晏の眼、孟子は趙岐の眼で見たものには合点しない。ここの卓然慨然の字を見なさい。経済を言うにも大抵よい□□にて貞観政要だけの小康である。王代の学とそれを合わせる。二帝三王の善治も書物の上て講釈もするが慨然がない。慨然はこのままでは置くまいということで、これが新民の精彩である。大抵ということがないので至善に詰める。「志於堯舜其君民者」とは、事も仰山に聞こえるが、大学ではやはり至善のこと。人の持前で言えば、我々如きがどうして漢の高祖、唐の太宗に頭の上がることがあるだろう。それよりも大久保彦左衛門殿にも頭が上がらない。しかし、学問の上で言うには慨然としてである。大学へ対してはまた中々あの衆などの様な小康の真似はしない。御目附衆が大柄な様なもの。小身でも御用の時は大名にも屈しはしない。明徳新民を堯舜の通りにすると掛かる。そこで為学の始めに伊尹顔淵である。今日の学者が朱子の近思録は読むが鞭策録を読まないのには合点が行かない。直方を憎むからでもあるだろうが、鞭策録は近思の続篇である。
【語釈】
・其君民を尭舜の治にする…近思録為学1。「伊尹顏淵、大賢也。伊尹恥其君不爲堯舜、一夫不得其所、若撻于市」。

○蓋三先生者、其有功於當世、於是爲不小矣。周程に功の字がつくが一寸見ては疑しいぞ。當時王荊公東坡を始め、学者大勢ありて高名なり。程子をば知らぬ者もある。陳了翁さへ程伯淳とは誰ことぞと云。なるほどあのとき程子經済の跡は□□知らぬ筈なり。されども孟子七篇の終に段々道統を挙て、学不傳千載無眞儒と云。この眞儒の処なり。當世には功は知れ子ども、千載の後迠道学を起されたは一代の功なり。易の官无渝が誰も受用せ子ども、漢唐の間うか々々したのを周程は官有渝にて、そこが有功當世なり。いかさま宋朝学者多ても、二程には動たそふなぞ。文會にもある。精義が始て刊作したとき、諸人始て二程の立言を知た。その前は古註や学挍の師のあるべかかりとみへた。丁どなみ々々のやはらかのあとへ大黄巴豆の攻劇飲んで膽をつぶしたそうなり。そこてこれが經済と見へずに經済なり。
【解説】
「蓋三先生者、其有功於當世、於是爲不小矣」の説明。当時は大勢の高名な学者がいて、程子のことを知らない人もいた。しかし後世に道学を興したのは大きな功である。また、初めて精義を刊作した時に、人々は胆を潰したそうである。
【通釈】
○「蓋三先生者、其有功於当世、於是為不小矣」。周程に「功」の字が付くのが一寸見ては疑わしいこと。当時王荊公や蘇東坡を始め、大勢の学者がいて皆高名だった。程子を知らなかった者もいる。陳了翁でさえ程伯淳とは誰のことかと言った。なるほどあの時、程子の経済の跡は□□知らない筈である。しかし、孟子七篇の終わりに段々と道統を挙げて、「学不伝千載無真儒」と言った、この真儒が彼等である。当世では功は知られなかったが、千載の後に道学を起こされたのは一代の功である。易の「官无渝」が誰も受用にならず、漢唐の間でうかうかしていたのを周程は「官有渝」と言った。そこが「有功当世」である。いかに宋朝に学者は多くても、二程には動いたそうである。文会にもある。精義を初めて刊作した時、諸人は初めて二程の立言を知った。その前は古註や学校の師で、普通の者と見えた。丁度並々の柔らかな後へ大黄巴豆の攻劇を飲んだ様で、胆を潰したそうである。そこでこれが経済と見えずに経済である。
【語釈】
・王荊公…王安石。1021~1086
・陳了翁…
・官有渝…易経随卦。「初九。官有渝。貞吉。出門交有功。象曰、官有渝、從正吉也。出門交有功、不失也」。
・学不傳千載無眞儒…孟子尽心章句下38集註。「孟軻死、聖人之學不傳。道不行、百世無善治。學不傳、千載無眞儒」。

○然論者既未嘗考於其学。論者は周程を評判する者。それか内々で論ずるものてなく、上へも書上るほどのこともあるぞ。ここに於の字がありて、二程の学に一と脩行して知ることなれとも、とくと考てみたもののない。どふしてあれが一寸との目利てはない筈。挌物致知が一草一木にも理があると云中に、学者の目利ほど大切なことはなし。この論者は周程をにくむてもなく、我方に眼がないゆへさらりと論じたもの。周程の書を見ても韓桺のやふな卓越の文章ではないと深く考へぬなろふが、今日もそれぞ。浅見先生の筆記や直方先生の假名書をざっと心得ると同ことなり。医者が唐本をは□んしゃくするが、手引草をば軽く見る。近年あれほどの医書はないと思うに、それほどには考へぬなり。
【解説】
「然論者既未嘗考於其學」の説明。論者は周程を憎んだのではなく、自分に眼がないのでさらりと論じたもの。周程の書は韓愈や柳宗元の様な卓越した文章ではないと思った。
【通釈】
○「然論者既未嘗考於其学」。論者は周程を批判する者。それは内々で論ずる者ではなく、上へも書き上げるほどのこともある人。ここに於の字があって、それは二程の学に一修行して知ることだが、じっくりと考えてみたものではない。どうしてもあれは一寸の目利では知れない筈。格物致知は一草一木にも理があると言う中に、学者の目利ほど大切なことはない。この論者は周程を憎むのでもなく、自分に眼がないのでさらりと論じたもの。周程の書を見ても、それは韓愈や柳宗元の様な卓越した文章ではないと思い、深く考えなかったのだろうが、今日もそれと同じ。浅見先生の筆記や直方先生の仮名書をざっと心得るのと同じこと。医者が唐本は斟酌するが、手引草を軽く見る。近年あれほどの医書はないと思うが、それほどには考えない。

周程を讒するには趣向も有ふが、論者は意趣も遺恨もなく、わるくせふでない。只さっと評判して軽く取り扱ふ。それと云も考へぬゆへ、まあ其位のものと云。道春先生の始て京都で朱子の新注て講釈されたとき、藤原某か敕許なく新註を用ると駁した。それから罪をえるへきに、東照宮御笑あそはされて、人の心得になる方を用べきことと上の意ありて、何事も無りしとぞ。これももと道春先生を嫉みてのことと云へとも、たとひ子たまぬとても新註の妙處か一寸と知れぬ。皆未考其書から出ることぞ。今吾黨の学者も諸老の假名筆記に妙義あれども、嘗て考ぬそ。今日某これを云も鞭策録を読の精彩ぞ。この嘗の字がなめても見ぬこと。知らずにわるく云か多くあることで、姫路のある人が何に五郎作がと直方先生のことを云た、と。それか遠く云たこと。直きに合へば中々叶はぬ。あたまでやりつけられるぞ。
【解説】
林羅山が朱子の新註で講釈をした時に敕許なく新註を用いると駁された。また、直方先生のことを姫路の或る人が軽く言った。それは「皆未考其書」から出たこと。
【通釈】
周程を讒する者には趣向もあるだろうが、論者には意趣も遺恨もなく、悪くしようとしたことではない。ただざっと批評して軽く取り扱った。それと言うのも考えないからで、まあその位の者だと言う。道春先生が初めて京都で朱子の新注で講釈された時、藤原某が敕許なく新註を用いると駁した。そこで罪を得るべきところを、東照宮が御笑いあそばされて、人の心得になる方を用いるべきだとの上意があって、何事もなかったという。これも元は道春先生を嫉んでのこととは言え、たとえ嫉まなくても新註の妙処は一寸わからず、「皆未考其書」から出たこと。今我が党の学者も諸老の仮名筆記に妙義があるのに、嘗て考えない。今日私がこれを言うのも鞭策録を読む精彩である。この嘗の字を舐めても見ない。知らずに悪く言うことが多くあり、姫路の或る人が何に五郎作がと直方先生のことを言ったそうである。それが遠くで言うこと。直に合えば中々適わない。最初で遣っ付けられる。

○又拘於今昔顕晦之不同。昔と云ふと事も大そふに思ふものじゃが、知らぬからなり。昔と顕は鄭孔の類。今と晦は周程を云。顕は古註の名高く知れたこと。晦は、濂渓とは誰ことなどと知らぬゆへ、晦なり。拘はそれに引とめられるのぞと迂斉云へり。目利知らず茶を知らぬもの。道具は古いを□□とて煤でよごれたもぶせふと知らずに、あれは時代ものと云。漢の鄭玄唐の孔隷達ぢゃもの、中々今の人がどふして及ふと云か昔の字なり。顕晦と云ふも人の知ると知らぬとて、外皮から云。皆中は知らぬ。
【解説】
「又拘於今昔顯晦之不同」の説明。「昔」と「顕」は鄭玄や孔穎達の類。「今」と「晦」は周程を指して言う。昔がよいと言うが、それは中を知らないのである。
【通釈】
○「又拘於今昔顕晦之不同」。昔と言うと事も大きそうに思うものだが、それは知らないからである。「昔」と「顕」は鄭玄や孔穎達の類。「今」と「晦」は周程を指して言う。顕は古註で名高く知れたこと。晦は、濂渓とは誰のことなのかを知らないので、晦なのである。「拘」はそれに引き止められることだと迂斎が言った。目利知らずは茶を知らない者。道具は古いのがよいと思い、煤で汚れたのも不精からとも知らずに、あれは時代物と言う。漢の鄭玄と唐の孔隷達だもの、中々今の人がどうして及ぶものかと言うのが昔の字である。顕晦も、人が知るとか知らないとかを外皮から言うこと。皆中は知らない。

○是以莫知其本末源流之若此、而或軽議之。ここはむつかしい訳ぞ。本は源、垩賢孔曽思孟を云。末流は周程を云。あの孔孟から周程へ傳ったことを知らぬ。軽義之は中へ入らずに周程何と云。ここて見れは上の今昔顕晦をも垩賢を昔顯と見るもよい。鳩巣へ或人が南学と云たれば、それはなにのことか、南学などと云ことは云はぬかよいてやと云はれし、と。これか南学と事かましく云をいやに思ふのぞ。それがかるく見てのことなり。なにあの山崎などか南土てをこりたとてそのやふに云ことはないと軽んずるからなり。とは云へども、山崎先生直方先生などを歒にしてはむつかしい筈。其軽く云はるるも、文章などの下手なを外から見て根を知らずに遠くからそしる。やはりここの軽議の方なり。某ををちゃくものなれども、當今の人の何ぞ書たものをとくと見る方なり。それは其人どの位とみるためぞ。そうなくて只是非を云は、子ともとかくこちの犬かつよいと云のなり。
【解説】
「是以莫知其本末源流之若此、而或輕議之」の説明。鳩巣が南学のことは言わない方がよいと言った。それは南学を軽く見たからである。中を見ずに是非を言うのは悪い。
【通釈】
○「是以莫知其本末源流之若此、而或軽議之」。ここは難しいわけがある。「本」は「源」で、聖賢孔曾思孟を言う。「末流」は周程を言う。あの孔孟から周程へ伝わったことを知らない。「軽義之」は中へ入らずに周程は何だと言うこと。ここで見れば上の今昔顕晦を、聖賢が昔顕と見るのもよい。鳩巣へ或る人が南学と言うと、それは何のことか、南学などということは言わない方がよいのではと言ったそうである。これが南学と大袈裟に言うのを嫌に思ってのこと。それが軽く見てのこと。何あの山崎などが南土で起こったとしても、その様に言うことはないと軽んじたのである。そうとは言え、山崎先生や直方先生などを敵にしては難しい筈。軽く言われるのも、文章などの下手なことを外から見て根を知らずに遠くから謗ったもの。やはりここの軽議の方である。私は横着者だが、当今の人が何か書いた物をとくと見る方である。それはその人がどの位かを見るためである。そうでなくてただ是非を言うのは、子供がとかく自分の犬が強いと言うのと同じである。
【語釈】
・南学…朱子学の一派。南海の地土佐に興隆したからいう。室町末期の南村梅軒を祖とし、谷時中・小倉三省・野中兼山・山崎闇斎らがこれに属する。精神力を尚び、実践躬行を主とする。海南学派。

○其有略聞之者、則又舎近求遠、處下窺高。これはまあよい方なり。我朝にな□□の周程ぢゃ。濂洛の学は本んのことそふなと云。そこてこれは知見の眼力ちと持ている。丸に知らずとも略知なり。知見のある方から無極而太極と性理の高い処へ計り取つく。これも亦贔屓の引たをしなり。近をすてて遠を求む。これに大ふ大事がある。同じ道体を知るにも太極の上の丸に味があると云。そう云ふとそれからして下の巴の丸の精彩かぬけてくる。はや道体に穴があく。同門でも、幸田子家礼をよまぬ。あれて家礼と来ると猶高くなれども、そうないゆへ薄手になる。喪祭で道体とみれば学の指南も小学家礼と来る。あそこへ来ると精彩のあることぞ。ここの処を麁末にして俗学から呵られるは、こちの不調法なり。處下窺高。我に知見なく人物がひくくて、そうして高い処へ目をとどかせる。高い処へ目をかけるはよいことて学者の志のやふなれども、身とそこな□□□へ実事がない。上総の学者がこの癖がある。どふもはや銀藏迠がひん々々云。ああ云てもつまるものでない。けれどもこれが世間にはない害なり。何事にも害あるものぞ。
【解説】
「其有略聞之者、則又舍近求遠、處下窺高」の説明。知見の少しある者は高い処へばかり取り付く。しかし、実事がないから詰まらない。
【通釈】
○「其有略聞之者、則又舎近求遠、処下窺高」。これはまあよい方である。我が朝になっての周程である。濂洛の学は本当のことだそうだと言う。そこでこれは知見の眼力を少し持った人である。全体を知らなくても「略知」である。知見のある方から無極而太極と性理の高い処へばかり取り付く。これもまた贔屓の引き倒しである。「舎近求遠」。これに大分大事なことがある。同じ道体を知るにも太極の上の丸に味があると言う。その様に言うと、それからして下の巴の丸の精彩か抜けて来る。それで早くも道体に穴が開く。同門でも、幸田子は家礼を読まない。あれで家礼と来ると尚高くなるのだが、そうでないので薄手になる。喪祭を道体と見れば学の指南も小学家礼と来る。あそこへ来れば精彩のあること。ここの処を粗末にして俗学から呵られるのはこちらの不調法である。「処下窺高」。自分に知見がなく人物が卑くて、そうして高い処へ目を届かせる。高い処へ目を掛けるのはよいことで学者の志の様だが、身とそこな□□□へ実事がない。上総の学者にこの癖がある。どうも早くも銀蔵までがびんびんと言う。あの様に言っても詰まるものではない。しかし、これが世間にはない害である。何事にも害はあるもの。
【語釈】
・幸田子…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・銀藏…作田銀蔵。

○不知即事窮理、以求其切於脩己治人之實也。略知たれども、これも外から打たれる。ここは事物をはなさぬこと。そこて某只今家礼を出して云もこの処ぞ。只無極而太極と高いこと説くよりは、祭や葬の上で太極を取ら子ば面白ない。直方の祭のしたいと云か根のあること。事物の上に妙理のあることなり。迂斉忌日に一日袴て居る。土井候なとへ新参なれども、元祖利勝忌日七月十日なり。两日齊めらるる。かたではなく見へていかう上品なことでありた。事物について理をきはめたものゆへなり。精進日に肴はうまくないはづ。学者は勤て食はぬがよし。それでよいが、ほんのはむまくないほどてなければ懇望にないぞ。それと云も事物につくてなけれは得られぬ。先日も云、直方の小学明倫の明はくらやみでも物を探りそこなはぬなり。そふないと、君が無理を云へばこちの心がなんぼ君でもとかわるぞ。それはさぐりそこなったのなり。そこで理と事が二つでは我物にならぬ。
【解説】
「而不知即事窮理、以求其切於脩己治人之實也」の説明。事物を離さない。無極而太極と高いことを説くよりは、祭や葬の上で太極を知るのである。理と事が別では自分の物にならない。
【通釈】
○「不知即事窮理、以求其切於修己治人之実也」。略知っても、これも外から打たれる。ここは事物を離さないこと。そこで私が只今家礼を出して言うのもこの処である。ただ無極而太極と高いことを説くよりは、祭や葬の上で太極を取らなければ面白くない。直方が祭をしたくなると言ったのが根のあること。事物の上に妙理がある。迂斎は忌日に一日中袴でいる。土井侯などには新参だが、元祖利勝の忌日七月十日である。両日斉められる。それは形でするのではなく見え、大層上品なことだった。事物に即いて理を窮めたからである。精進日に肴は美味くない筈。学者は努めて食わない方がよい。それでよいのが、本当のは、美味くないと思うほどでなければ懇望ではない。それと言うのも事物に即くのでなければ得られないからである。先日も言ったが、直方の小学明倫の明は暗闇でも物を探り損なわないということ。そうでないと、君が無理を言えば、こちらの心がなんぼ君でもと変わる。それは探り損なったのである。そこで理と事が二つでは自分の物にならない。

今日の学者、朱子の學友ゆへ張南軒呂東莱をどちも一つことと思うがいかふちがふぞ。同じ友ても南軒は別段なり。朱子の南軒で事と理が一つになったと云。理ばかり云と俗から蹴られ、事ばかりは小笠原になる。ほんのことは事理一つになら子ばならぬ。朱子のここが即事窮理から誠正の字なく、脩身として上だん々々の此路銀で脩己治人かなれども、それを求ることを知らぬと云。さて三先生の當世の功が大なことなれども、後来学者があなた方の面へ泥を打なり。山崎先生日本開闢以來の大功あり、それを汚さぬは迂斉石原先生迠なり。其後ちは皆泥をなする。それが皆この方の誠のないなり。なれども三先生の尊いを知ると云も吾黨のこと。それを又消そふとするはなげかはしきことなり。さて直方先生のここを濂洛ときめて置て、そこて顔子へもどしてぎり々々を見せるなり。
【解説】
理ばかりを言うと俗から蹴られ、事ばかりでは小笠原になる。朱子は南軒で事と理が一つになったと言った。即事窮理から修身をして修己治人ができるのだが、学者はそれを求めることを知らない。
【通釈】
今日の学者は、張南軒と呂東莱は朱子の学友なのでどちらも同じだと思うが、大層違う。同じ友でも南軒は別段である。朱子は南軒で事と理が一つになったと言った。理ばかりを言うと俗から蹴られ、事ばかりでは小笠原になる。本当のことは事理が一つにならなければならない。朱子が、ここが即事窮理から誠正の字なしで、修身として上段々のこの路銀で修己治人ができるのに、それを求めることを知らないと言う。さて三先生の当世の功は大なことだが、後来の学者が貴方方の面へ泥を打つ。山崎先生には日本開闢以来の大功がある。それを汚さないのは迂斎石原先生までである。その後は皆泥を擦る。それが皆自分に誠がないからである。しかしながら、三先生の尊いことを知るというのも我が党のこと。それをまた消そうとするのは嘆かわしいことである。さて直方先生がここを濂洛と決めて置いて、そこで顔子へ戻してぎりぎりを見せる。


好学論
76
或曰、詩書六藝、七十子非不習而通也。而夫子獨稱顏子爲好學。顏子之所好、果何學歟。程子曰、學以至乎聖人之道也。學之道奈何。曰、天地儲精、得五行之秀者爲人。其本也眞而靜。其未發也五性具焉。曰仁義禮智信。形既生矣、外物觸其形而動於中矣。其中動而七情出焉。曰喜怒哀懼愛惡欲。情既熾而益蕩、其性鑿矣。故覺者約其情使合於中、正其心、養其性而已。然必先明諸心、知所往、然後力行以求至焉。若顏子之非禮勿視聽言動、不遷怒貳過者、則其好之篤、而學之得其道也。然其未至於聖人者、守之也。非化之也。假之以年、則不日而化矣。今人乃謂聖本生知、非學可至、而所以爲學者、不過記誦文辭之間。其亦異乎顏子之學矣。論語集註。
【読み】
或るひと曰く、詩書六藝は、七十子習いて通ぜざるには非ず。而して夫子獨り顏子を稱して學を好むと爲す。顏子の好む所、果して何の學ぞや。程子曰く、學びて以て聖人に至るの道なり。學ぶ道は奈何。曰く、天地精を儲くるとき、五行の秀を得し者を人と爲す。其の本や眞にして靜。其の未だ發せざるや五性具る。仁義禮智信を曰う。形既に生ずれば、外物は其の形に觸れて其の中を動かす。其の中動きて七情出づ。喜怒哀懼愛惡欲を曰う。情既に熾にして益々蕩けば、其の性鑿たる。故に覺れる者は其の情を約して中に合せしめ、其の心を正し、其の性を養うのみ。然れば必ず先ず諸を心に明らかにし、往く所を知り、然る後に力行して以て至るを求む。顏子の禮に非ざれば視聽言動すること勿れ、怒を遷し過を貳びせざる者は、則ち其の之を好むこと篤くして、之を學びて其の道を得るなり。然るに其の未だ聖人に至らざる者は、之を守るなり。之を化するに非ざるなり。之に假すに年を以てせば、則ち日ならずして化せしならん。今人乃ち聖は本より生知なれば、學びて至る可きものに非ずと謂いて、以て學を爲す者は、記誦文辭の間を過ず。其れ亦顏子の學に異なれり。論語集註。

直方先生の、好学論は伊川の文なれども、鞭策録では朱子の文にして見べしと云。そこでこれを論語集註と書名を断ってある。迂斉の、顔子は貧も古今一人、若死も古今一人。氣の上は不足たら々々なれども学が古今の飛切と云。学文はとと顔子へ落さ子ばならぬ。それゆへ近思の爲学の初もこれからして。○七十子非不習而通云云。よき難問なり。七十二人がどれもうっかとしたはない。徒然草は何のことでごさると云やふなことはない。仁も義もそれ々々に間に合ふ衆なり。この習而通も我身へ引つけて見べし。習て通せぬゆへ只今ても師匠が印可をつけぬ。因て笑曰、どこへやりても三十人扶持にはなると云は下卑た口上なり。時に習而非不通と云に顔子一人を好学と云。顔子に別段が有ふ、外に面白い処か有ふと見ての問なり。それは一牧の鯛に二つある眼を吸物にして、それを取りあてたやふに、孔子の顔子へ眼の処をやられはせぬ。顔子に別のことはない。孔子門人衆へ同じ盛り方なれども、顔子の方にありて外に教方はないけれども、そふ見るゆへ斯ふ問を立たものなり。
【解説】
「或曰、詩書六藝、七十子非不習而通也。而夫子獨稱顏子爲好學。顏子之所好、果何學歟」。顔子は貧乏で早死にであって気の方では不足なことばかりだが、学問は別格である。孔門七十子の中で顔子独りを好学と言うのは、孔子が特別な教えを顔子にしたのだろうかとの問いである。
【通釈】
直方先生が、好学論は伊川の文だが、鞭策録では朱子の文として見なさいと言った。そこで書名を論語集註だと断わってある。迂斎が、顔子は貧も古今一で、若死にも古今一、気の上は不足だらけだが、学が古今の飛び切りだと言った。学問の詰まりは顔子へ落とさなければならない。そこで、近思の為学の最初もこれからである。○「七十子非不習而通云云」。よい難問である。七十二人がどれもうっかりとした者ではない。徒然草は何のことですかと言う様なことはない。仁も義もそれぞれに間に合う衆である。この習而通も自分の身に引き付けて見なさい。習って通じないので只今でも師匠が印可をしない。そこで笑って言った。何処へ遣っても三十人扶持にはなると言うのは下卑た口上である。時に習而非不通と言うのに顔子一人を好学と言う。顔子には別段なことがあるのだろう、外に面白い処があるのだろうと見ての問いである。それは一匹の鯛に二つある眼を吸物にして、それを取り充てた様に、孔子が顔子へ眼の処を遣られはしない。顔子に対して別なことはない。孔子は門人衆へ同じ盛り方をしたが、顔子の方によいところがあって、外に教え方はないのだが、その様に見たのでこの問いを立たもの。

○程子曰、学以至乎垩人之道也。学問の筋と云はこれなり。この外のことはない。これはまあどふ云氣のとふれた事と云ことでなく、程子の思ひつけたはこの外はないなり。これを知らずに今日は程子が身もない方便か、又はをとして云はれたと思が、そうでない。齊桓晋文のことは、孟子のをれは知らぬと云はれたと同こと。仲尼之徒云はぬとざっとしたことなり。これが圣人に至るの外に学はなく、とかく思へばの思付たのなんのと云ことてない。そこて伊川のこふより外は存ぜぬなり。某も前は俗学へ對しての口上のやふに云たはわるい。顔子計りの学と云はないことぞ。古今の人誰ても学と云へば垩人に至るの道なり。これはずんとていのよい口上ぞ。学者が圣人を遠く思からのことで、耳立つことなれども、病人は何の爲の藥と云に本復せふと云の外はない。病氣の時は大名も本復したいが、中げんも本復したいと云。圣人に至るは人間の本復なり。そこて学而にも復其始と云。これがほんのこと。これらはとんと塵も灰もつけぬと某毎々云ことなり。道体爲学の一つにゆくはここの処。塵も灰もつけられぬ。訓話の学や詞章の学は学でない。迂斉の不如無学矣とあんな氣の短いことを云ふをらが親父ではなけれども、直方からの傳来ぞ。今館林の学挍に掛てあるから長作も其氣で学ぶべし。何も外になし。学問は垩学に至るの道なり。其外を学ぶと心得る学ならば、不如無学なり。
【解説】
「程子曰、學以至乎聖人之道也」の説明。学問は聖人に至るの道であり、これより外はない。そこで、顔子だけの学というものはない。薬を飲むのは本復するためであり、人間の本復は聖人になることである。これが全く塵も灰も付けないということ。聖人に至る以外の学問は学問ではない。
【通釈】
○「程子曰、学以至乎聖人之道也」。学問の筋と言うのがこれで、この外のことはない。これはまあどうしたものか、気でも触れた事かと言うことではなく、程子の思い着けたのはこの外はない。これを知らずに今日は、程子が身もない方便を言ったとか、または脅して言われたことだと思うが、そうでない。孟子が斉桓晋文のことは俺は知らないと言われたのと同じこと。仲尼の徒は言わないと、さっぱりと言ったこと。聖人に至る外に学はなく、とかく思えばで、思い付いたの何のということではない。そこで伊川はこれより外は知らないと言う。私も前には俗学に対しての口上の様に言ったが、それは悪い。顔子だけの学というものはない。古今の人は誰でも学と言えば聖人に至るの道である。これはかなり体のよい口上である。学者が聖人を遠くに思うから耳立つが、病人には何のための薬かと言えば、本復するためというより外はない。病気の時は大名も本復したいだろうが、中間も本復したいと言う。聖人に至るのは人間の本復である。そこで学而にも「復其初」と言う。これが本来のこと。これ等は全く塵も灰も付けないことだと私が毎々言っていること。道体為学が一つに行くのはここの処。塵も灰も付けられない。訓詁の学や詞章の学は学ではない。迂斎が「不如無学矣」と、俺の親父はあの様に気の短いことを言う様な人ではないが、これが直方からの伝来である。今館林の学校に掛けてあるから長作もその気で学びなさい。何も外にはない。学問は聖人に至るの道であって、その外を学ぶと心得る学であれば、不如無学である。
【語釈】
・齊桓晋文…孟子梁恵王章句上7。「齊宣王問曰、齊桓晉文之事、可得聞乎。孟子對曰、仲尼之徒、無道桓文之事者。是以後世無傳焉。臣未之聞也。無以、則王乎」。
・復其始…論語学而1集註。「學之爲言效也。人性皆善、而覺有先後。後覺者必效先覺之所爲、乃可以明善而復其初也」。
・不如無学矣…先君子諭学者文。「不然則爲人之弊噫不如無學也」。
・長作…山田華陽斎。名は記思。通称は長作、黒水。館林藩士。1773~1832

○そこで学者も耳よりになって学之道奈何なり。学者でなければ外のものはこれは云はぬ。陶朱公ほどの金を持ても金持のでならぬ。只学者は耳を引立ること。鼠がこっそりと云と猫が聞耳立る様なぞ。学者のそれも性善から来てのことぞ。○曰、天地儲精。これは学者にさして云にも及ぬ。又いつも道体をかたるがこちの流義と云ことでもない。学者があせりて問が、爲学へは道体からでなければ自ならぬ。こちの好きと云ことてはないなり。先日の大学或問でも道体から致知へ落すぞ。ここは人の生れた処から語るゆへ、天地儲精と云。
【解説】
「學之道奈何。曰、天地儲精」の説明。学の道を説明するには、道体から説かなければならない。そこで、「天地儲精」である。
【通釈】
○そこで学者も耳寄りになって「学之道奈何」と尋ねた。学者でなければ、外の者ではこれは言わない。陶朱公ほどの金を持っていても、金持にはできない。ただ学者なら耳を引っ立てる。鼠がこっそりと行くと猫が聞き耳を立てる様なもの。学者のそれは性善から来たことである。○「曰、天地儲精」。これは学者を指して言うにも及ばないことで、またいつも道体を語るのがこちらの流儀ということでもない。学者が焦って問うが、為学へは道体からでなければ自ら成らない。こちらの好きということではない。先日の大学或問でも道体から致知へ落とす。ここは人の生まれた処から語るので、天地儲精と言う。
【語釈】
・陶朱公…越の大夫、范蠡の異称。官を退いて陶の地に住み、朱と称したのでいう。陶朱猗頓の富。

○得五行之秀者爲人。これはどふやら氣化の人を云やふに思ひ、天地始て開け、得五行之秀が人ぢゃと云やふに聞くが、そふしたことでない。今日形化で母の胎内から生れ出たは全く父母て、天地とは縁切れたやうなれとも、それもやはり天地儲精、五行の氣で出来たもの。伊弉冊の時出来たも今日出来たも同こと。天地に離なれると云ことは形化でも氣化でもない。畑の物は地が生じ、瓦にはへる草は地でないやうなれども、石臺の花が坐敷で咲てもやはり天地なり。父母計りの受取ではなく、皆天地のすることなり。ここは陳安郷の説もありた。さて精は天地の氣のくわしきもの。こまかに雜りなく云に云はれぬ辨のつかぬが精なり。天地は古今流行なれども、そこの中に儲ると云てなくて、又濁りた雜たものては出来ぬ。その精氣の出来る、水の流れかあまり急なれは、魚もないやうなもの。これは両方の手を合せると暖りの来る処。天地流行の氣のとどまるぎり々々の処で人となる。氣の上に五行に分るものがありて、一切衆生五行で出来るなれども、其中で秀たが人なり。そこてここへ人の生れて出た素姓をかたり、斯ふしたものじゃと好学のことらしくないことをよく聞かやれなり。早束聞たとて、今日の工夫役にはたたぬが、そろ々々こちのものになる。道体は人の先祖を知り、源平藤橘を知ると直方の云。人に秀才と云もこの秀を得たもの。なるほと万物か皆天の子なれども、学問のなるは人計り。そこか秀からぞ。
【解説】
「得五行之秀者爲人」の説明。ここは気化を言ったものだけではなく、形化も天地の精でできる。天地流行の至極の処で人となる。人は五行の秀を得るから、そこで学問をすることができる。
【通釈】
○「得五行之秀者為人」。これはどうやら気化の人を言う様に思い、天地が初めて開け、「得五行之秀」が人のことだという様に聞こえるが、そうしたことではない。今日形化で母の胎内から生まれ出たのは全く父母からで、天地とは縁が切れた様だが、それもやはり「天地儲精」で、五行の気でできたもの。伊弉冉の時にできたのも今日できたのも同じこと。天地に離れると、形化でも気化でもない。畑の物は地で生じ、瓦に生える草は地でない様だが、石台の花が座敷で咲いてもやはり天地からである。父母だけの受け取りではなく、皆天地のすること。ここには陳安郷の説もある。さて「精」は天地の気の精しいもの。細かに雑じりなく、言うに言ず、弁の付かないのが精である。天地は古今流行するが、その中に儲けるということではなく、また濁り雑じったものではできない。その精気のできるのは、水の流れがあまりに急であれば、魚もいない様なもの。これは両方の手を合わせると暖まりのできる処である。天地流行の気の留まるぎりぎりの処で人となる。気の上に五行に分かれるものがあって、一切衆生は五行でできるが、その中で秀でたのが人である。そこでここに人の生まれて出た素姓を語り、こうしたものだと好学のことらしくないことをよく聞きなさいと言う。聞いたとしても、今日の早速の工夫の役には立たないが、そろそろとこちらのものになる。道体は人の先祖を知り、源平藤橘を知ることだと直方が言った。人で秀才と言うのもこの秀を得たもの。なるほど万物は皆天の子だが、学問をすることのできるのは人だけである。そこは秀からである。
【語釈】
・源平藤橘…奈良時代以来その一門が繁栄して名高かった四氏。源氏・平氏・藤原氏・橘氏の称。

○其本也眞而靜。本は本体のこと。本体はどふと云に、あらはれぬもの。人の出来た元初の処で眞而靜が天より性を下さる。このからだか天地の精氣で出來て、其中に眞と云がある。太極流行の理を下されたが、それが少しも雜りないもので、靜は色香あらはれぬなり。天地の氣は動靜。どちも同挌なれども、ここは発せぬ処から靜と云。隱居処や死た物を云靜でない。冬の靜ははや春をふくむ。こ□□靜は寂感の寂か感をふくんでいる寂感の寂とは違う。元祖を語るゆへ色香あらわさぬ処ばかりを云て靜と云。これが大工の箱にさま々々に道具あれども、あれが箱の中で音がしては化物なり。德利の中の酒つがぬまへは靜なもの。白鳥が赤くなって色にあらはれては大さはぎぞ。靜を異端がうれしがるが、それとは違う。某かく云ふも異端の靜でないを云。利休が京童べの邪鬼を拂ふとなり。吾学も異端の邪氣をせめる。こちはやがてをこる処をもって發らぬ。先軰の□未明と云様なもの。明けるものを持て明けずにをる。発るはづでをこらずにをるを未と云。そこに五性が具ってをるぞ。それはどなたと云はぬ計りに云かけて置て、曰、仁義礼智信なり。明德と云も性善と名の付くもこのことぞ。孟子は其持なりを云、子思は皆持た仁義礼智を一つにして誠と云。先つ人間の御朱印がこふなり。
【解説】
「其本也眞而靜。其未發也五性具焉。曰仁義禮智信」の説明。天から下された性は「真而静」である。「静」とは、発るべきものを持っていて、未だ発らないことを言う。その五性は仁義礼智信である。明徳も性善もこのことであり、子思は仁義礼智を一つにして誠と言う。
【通釈】
○「其本也真而静」。「本」は本体のこと。本体はどうかと言えば、それは現れないもの。人のできた元初の処で「真而静」で天が性を下さる。この体が天地の精気でできて、その中に真というものがある。太極流行の理を下されたのだが、それが少しも雑じりないもので、静は色香の現れないこと。天地の気は動静で、どちらも同格だが、ここは発しない処から静と言う。隠居処や死んだ物を言う静ではない。冬の静は早くも春を含んでいる。ここの静は寂感の寂が感を含んでいる寂感の寂とは違う。元祖を語るので、色香を現さない処ばかりを静と言う。大工の箱には様々に道具があるが、あれが箱の中で音を出しては化物である。徳利の中の酒は、注ぐ前は静なもの。白鳥が赤くなって色に現れては大騒ぎである。異端は静を嬉しがるが、それとは違う。私がこの様に言うのも、異端の静のことではないことを言うためである。利休が京童の邪鬼を払うと言った。吾学も異端の邪氣を攻める。こちらはやがて発る処を持っていて発らないところ。先輩の□未明と言う様なもの。明けるものを持っていて、明けずにいる。発る筈で発らずにいることを「未」と言う。そこに五性が具わっている。それはどなたかと言わんばかりに言い掛けて置いて、「曰、仁義礼智信」である。明徳と言うのも性善と名の付くのもこのこと。孟子はその持った姿を言い、子思は皆持った仁義礼智を一つにして誠と言う。先ずは人間の御朱印がこれである。

○形既生矣、外物觸其形而動於中矣。人の生れたとき、其形へ仁義礼智がやどる。ここに前後はないが、性は御朱印ゆへそこへ靜から語る。とちから語りてもよけれども、言葉で云には先後がある。迂斉の、これからは取上け婆々も知るとなり。形既生は七夜の初手で云が、外物觸其形はその時計りで云ことてない。人間は形へあたる処でひびく。雪の降夜は寂こそすれも五尺のからだあるゆへぞ。寒ひもあついもこの身か知る。それからこちに腹立つことも皆外物からぞ。儀封人が道を求たいと孔子に御目見も、其形に觸れてあの感がある。樂正子か政と聞くも外にふれて、そこて喜而不寐なり。向から出合頭に中のものへあたり喜しい悲いがある。在番先て忰が加僧と云と喜び、親類の喪と聞と泣き出す。そこが其中動而七情出焉なり。顧重二謂曰、樽を見て喜は下卑たこと。そんな喜はこの中へは入らぬ。くいたがる類は犬馬の喜で犬七情。畜生也。情に非ずや、如何。重二こまりて苦が笑いなり。そこを不曽点と□云。
【解説】
「形既生矣、外物觸其形而動於中矣。其中動而七情出焉」の説明。人が生まれると同時に仁義礼智が宿る。その後、外物に当たると響いて七情が出る。しかし、食欲などは畜生の七情である。
【通釈】
○「形既生矣、外物触其形而動於中矣」。人の生まれた時、その形に仁義礼智が宿る。ここに前後はないが、性は御朱印なので、そこで静から語る。どちらから語ってもよいが、言葉で言うには先後がある。迂斎が、これからは取り上け婆も知っていると言った。「形既生」は七夜の初手で言うが、「外物触其形」はその時ばかりで言うことではない。人間は形に当たる処で響く。雪の降る夜は寂しくこそすれも五尺の体があるからである。寒いのも暑いのもこの身が知る。それからこちらで腹の立つことも皆外物からのこと。儀封人が道を求めたいと孔子に御目見えしたのも、その形に触れてあの感がある。楽正子が政をすると聞いたのも外に触れたことで、そこで「喜而不寝」である。向こうから出合い頭に中のものに当たって嬉しい悲しいがある。在番先で忰が加増と聞けば喜び、親類の喪と聞けば泣き出す。そこが「其中動而七情出焉」である。重二を顧みて言った。樽を見て喜ぶのは下卑たこと。そんな喜はこの中へは入らない。食いたがる類は犬馬の喜で犬七情、畜生であり、情ではない。どうか。重二が困って苦笑いである。そこを不曾点と言う。
【語釈】
・儀封人…論語八佾24。「儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也。從者見之。出曰、二三子何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸」。
・樂正子…論語告子章句下13。「魯欲使樂正子爲政。孟子曰、吾聞之、喜而不寐」。
・不曽点…曾点の気象でないということ。論語先進25。「莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。夫子喟然歎曰、吾與點也」。

○曰喜怒哀樂愛悪欲。さてこの愛悪欲が、欲は四端に信を云はずと同ことで、欲は全体になるもの。語類に説がいろ々々ありて極められぬ時に、欲がわるい方へも出るか、ここがそんなこと云でなく、この欲と云は信の仁義礼智へとこへも這入るやふなもの。欲は七情の惣体へつくぞ。古人の説はともあれ、某など我胸へ這入りよい。先つこれ迠は道体なり。
【解説】
「曰喜怒哀懼愛惡欲」の説明。信が仁義礼智の何処へも這い入る様に、欲も七情の総体へ付くもの。ここまでが道体である。
【通釈】
○「曰喜怒哀懼愛悪欲」。さてこの愛悪欲だが、欲は四端で信を言わないのと同じことで、欲は全体になるもの。語類に色々な説があって極められない時に、欲が悪い方へも出るが、ここはその様なこと言ったものではなく、この欲とは、信が仁義礼智の何処へも這い入る様なもの。欲は七情の総体へ付くもの。古人の説はともかく、私などにはこの説が我が胸に這い入りよい。先ずこれまでが道体である。

○情既熾而益蕩、其性鑿矣。性は全く理、七情は氣の雜ったことなれとも、それも道体なり。然るになんで学問が入るなれば、情熾んで人がわるくなる。熾は火のもへるやうなもの。釜の下ばかりなればよいが、そうないゆへ火消が入る。学文も七情が理なりに出るなれば何も入ら子ども、そうないゆへ学ば子ばならぬ。三宅先生の、聖人は道心計りと云。尭舜性のままは火消入らぬ。それは圣人のこと。学者は入るぞ。情既熾か泣きちらす。五郎兵衛も泣き過きて人か氣か狂ふと迠云たか、そこかむつかしいあやあるぞ。子の喪でかなしむは天理の形りなれども、品節がなければならぬ。中庸脩道の教がそれなり。喪に悲は性に卛ふなれども、過ると子夏か明を失ふたを子游が呵るぞ。錦の直埀は私ならぬ望と云が私ぞ。私ならぬことでない。子夏のは私ならぬことなれども、過ると学者からはゆるさぬ。それか皆情熾か相手なり。
【解説】
「情既熾而益蕩、其性鑿矣」の説明。情が熾んになって人が悪くなるので学問が必要なのである。堯舜の様に性のままであれば学問は要らないが、学者には学問が必要である。また、天理の通りの情でも品節がなければならない。喪に悲しむのは性に率うことだが、過ぎると悪い。
【通釈】
○「情既熾而益蕩、其性鑿矣」。性は全くの理で、七情は気の雑じったものだが、それも道体である。それなのに、何で学問が要るのかと言えば、情が熾んで人が悪くなるからである。熾は火の燃える様なもの。釜の下だけであればよいが、そうでないので火消しが要る。学問も七情が理の通りに出るのであれば何も要らないが、そうでないので学ばなければならない。三宅先生が、聖人は道心ばかりと言う。堯舜の様に性のままであれば火消しは要らない。それは聖人のこと。学者には要る。情既熾が泣き散らす。五郎兵衛も泣き過ぎて、人が気が狂うとまで言ったが、そこに難しい綾がある。子の喪に悲しむのは天理の形だが、品節がなければならない。中庸修道の教えがそれ。喪に悲しむのは性に率うことだが、過ぎると子夏が明を失ったのを子游が呵ることになる。錦の直垂は私ならぬ望と言うのが私である。私ならぬことではない。子夏のは私ならぬことだが、過ぎると学者は許さない。それは皆情熾が相手となる。
【語釈】
・五郎兵衛…
・脩道の教…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎」。

荘子は天の拜領をすててかまはぬ。無為の流儀で喜怒に動かさす、どうなりと出まかせ。それは異端のこと。学者は怒もある□□。哀は父母の喪と、七情はもちまへにしてをれども、又七情にこまるは、それが情のなりで居らずにとほうもなく寸法にはづれて性を鑿つぞ。情熾になると性のすがたかなくなる。食色性也と云もむりてはない。我ままはさせられぬ。我ままをすると深草の少將や業平が見ぐるしい。とらけるなり。それて御朱印を皆にする。一献之礼賓主百拜なればよけれども、寢ころんで飲ゆへ蕩ける。鑿が仁義へ疵を付る。鑿つとはきづのない柱へのみで穴あけるやふなものなり。
【解説】
七情に困るのは、性を鑿つからである。鑿つとは疵のない柱へ鑿で穴を開ける様なもの。
【通釈】
荘子は天からの拝領を捨てて構わない。無為の流儀で喜怒に動かされず、どうなりと出任せである。それは異端のこと。学者には怒もある筈。哀は父母の喪と、七情を持前にしてはいるが、また七情に困るのは、それが情のままでいないで途方もなく寸法に外れて性を鑿つからである。情熾になると性の姿がなくなる。「食色性也」と言うのも無理ではない。我侭はさせられない。我侭をするのは深草の少将や業平の様で見苦しい。蕩けるのである。それで御朱印を台無しにする。「一献之礼賓主百拝」であればよいが、寝転んで飲むので蕩ける。鑿つのが仁義へ疵を付ける。鑿つとは疵のない柱へ鑿で穴を開ける様なもの。
【語釈】
・食色性也…孟子告子章句上4。「告子曰、食色、性也。仁、内也。非外也。義、外也。非内也」。
・深草の少將…小野小町のもとに九十九夜通ったという伝説上の悲恋の人物。僧正遍昭あるいは大納言義平の子義宣かといわれるが不詳。
・業平…平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。825~880
・一献之礼賓主百拜…礼記楽記。「夫豢豕爲酒、非以爲禍也。而獄訟益繁、則酒之流生禍也。是故先生因爲酒禮、壹獻之禮、賓主百拜、終日飲酒而不得醉焉」。

○故覚者約其情。覚有先後と学而の註にもあるも爰の好学論を後ろに置て云たもの。もと伊尹の文字なれども、伊尹ては山にあるやふなもの。朱子学而の註は、伊尹の財木屋から買て来たやふなものぞ。さてこの約ると云がむつかしい。根から無すと云異端はやすいが、爰はなりにくい。仏は女房迷ひ子は三界の首かせとするどいことで、凡情からはならぬが、非常の俊傑なれはなること。けれども圣人の道にはない。眼が邪魔とてつぶして、耳が邪魔とてなまりを入る。圣賢は目をそふして置き、耳をそふしてをいて約る。仏はせくものゆへ、何ぞと云と断食する。江戸などにも一日に一度食ふ坊主がある。一度のときいかいこと食ふそふな。こちは三度食ふてむつかしい。そこを丁度にする。そこて倹約と云も使ふべきにつかふ。今のは吝嗇で握りつめ、金を石にする。情は活□□ちゃに、仏は死物にする。そこが圣人のは活物で程よいぞ。
【解説】
「故覺者約其情」の説明。仏は情を死物とするが、こちらはそれを活物と見る。活物として応じるのは面倒なことだが、そこを丁度にするのである。
【通釈】
○「故覚者約其情」。「覚有先後」と学而の註にあるのも、ここの好学論を後ろに置いて言ったもの。元は伊尹の文字だが、伊尹では山にある様なもの。朱子学而の註は、伊尹の材木屋から買って来た様なもの。さてこの約めるというのが難しい。根からなくすと言う異端は容易いが、ここは成り難い。仏は女房は迷いで子は三界の首枷と言うのは鋭いことで、凡情ではできないことだが、非常の俊傑であればできる。しかしそれは聖人の道ではない。眼が邪魔だとして潰し、耳が邪魔だとして鉛を入れる。聖賢は目をそのままにして置き、耳をそのままにして置いて約める。仏は急くので、何かというと断食をする。江戸などにも一日に一度食う坊主がいる。一度に大層食うそうである。こちらは三度食って面倒だが、そこを丁度にする。そこで倹約というのも使うべき時に使うもの。今のは吝嗇で握り詰めて金を石にする。情は活物なのに、仏は死物とする。そこが聖人のは活物で程よいもの。
【語釈】
・覚有先後…論語学而1集註。「人性皆善。而覺有先後。後覺者必效先覺之所爲。乃可以明善而復其初也」。
・伊尹の文字…孟子万章章句上7。「天之生此民也、使先知覺後知、使先覺覺後覺也。予天民之先覺者也」。孟子万章章句下1にもある。

○使合於中。うちとよむこと。中庸の中ではない。約めるでうちの筭用と丁どになる。性を仕直すに及はぬ。うちに合はせる計りぞ。正其心養其性而已。德利をふりちらさぬと内の酒が養はれる。正其心と云は存の字を正と直したが趣向のあることなり。心を存するはにけぬやふに放心を求るのこと。ここは好学論大学を相手にして大学の正心を云。大学の忿懥哀矜で不得其正々々々々で、性が鑿つゆへ正心する。そこで前へふりかへりて仁義礼智が養はれる。ここを蚤にも食さぬなり。○然必先明諸心、知所往、然後力行以求至焉。然るにとは子かへしたか、右の学者のこふするは大ていな学問なり。これ迠は第一等の顔子のことで書たなれども、先明於心。惣体の学者の療治も必先明諸心云云なり。明は先つ挌物致知へかへさ子ばならぬ。先日の中度々あった知至至之なり。三綱領も知止からのこと。まつ知所往がそれぞ。それから誠正脩身なり。然後力行以求至焉が克己復礼なり。
【解説】
「使合於中、正其心、養其性而已。然必先明諸心、知所往、然後力行以求至焉」の説明。「正其心」は心を存することであり、放心を求めることである。また、ここは大学の正心のこと。これで性が養われる。これは格物致知から行い、それを克己復礼する。
【通釈】
○「使合於中」。中はうちと読む。中庸の中ではない。約めるので中の算用と丁度になる。性を仕直すには及ばない。中に合わせるだけである。「正其心養其性而已」。徳利を振り散らさなければと中の酒が養なわれる。正其心は、存の字を正と直したのが趣向のあること。心を存するとは逃げない様に放心を求めること。ここは好学論が大学を相手にして、大学の正心を言ったもの。大学の忿懥哀矜によって「不得其正」で、性が鑿つので正心をする。そこで前へ振り返り仁義礼智が養なわれる。ここを蚤にも食わさないのである。○「然必先明諸心、知所往、然後力行以求至焉」。然るにと跳ね返したのが、右の学者がこの様にするのは大抵でない学問なのである。これまでは第一等の顔子のことで書いたが、「先明於心」で、総体の学者の療治も「必先明諸心云云」である。明は先ず格物致知へ返さなければならない。先日の中に度々あった「知至至之」である。三綱領も知止からのこと。先ずは「知所往」がそれ。それから誠正修身である。「然後力行以求至焉」が克己復礼である。
【語釈】
・忿懥…大学章句7。「所謂脩身在正其心者、身有所忿懥、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好樂、則不得其正。有所憂患、則不得其正」。
・知至至之…講学鞭策録57の語。元は易経乾卦文言伝。「九三曰、君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎、何謂也。子曰、君子進德脩業。忠信所以進德也。脩辭立其誠、所以居業也。知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也。是故居上位而不驕、在下位而不憂。故乾乾。因其時而惕、雖危无咎矣」。

○若顔子之非礼勿視聽言動、不遷怒貳過者云云。顔子の何の工夫したなれば、この四句なり。学者須学顔子と云も斯ふ準的があるで学びよい。これをつかまへ勿れと云ふ。其非礼は何なれば、七情がすることなり。この章、斯ふつめ子ば文字がはき々々せぬ。非礼は七情の為めには勝手のよいものなり。非礼□りにか□□ぬと、樂くなのび々々としたいままはたらき次第になるものなれども、そこを約めるぞ。学力ない中は喜怒哀樂と視聽言動を別のことに思ふが、七情が視聽言動と連れ立てはたらくものなり。そう間のあるものでないぞ。筋を云ふには七情は正心の工夫、視聽言動は人欲へゆくゆへ、七情が亭主になりてするゆへ勿でつつめる。もう一杯と云処を後から引く所が勿なり。そこて二日醉もせぬ。この通りの手置でなければならぬが、それがならずは置がよい。ここにはまりなくては迚もほんとうの学はならぬ。詩文がよいぢゃ。
【解説】
「若顏子之非禮勿視聽言動、不遷怒貳過者」の説明。非礼は七情のためには勝手のよいものであり、七情は視聴言動と連れ立って働く。七情は正心の工夫だが、視聴言動は人欲へ行くものなので、勿で約める。
【通釈】
○「若顔子之非礼勿視聴言動、不遷怒貳過者云云」。顔子は何の工夫をしたのかと言えばこの四句である。「学者須学顔子」と言うのも、この様な準的があるので学びよい。これを掴まえて勿れと言う。その非礼は何かと言えば、七情がすること。この章はこの様に詰めなければ文字がはっきりとしない。非礼は七情のためには勝手のよいもの。非礼のままで構わないと、楽な伸び伸びとしたいままの働き次第になるものだが、そこを約めるのである。学力のない内は喜怒哀楽と視聴言動を別のことに思うが、七情は視聴言動と連れ立って働くもの。そう間のあるものではない。筋を言うには、七情は正心の工夫だが、視聴言動は人欲へ行くもので、七情が亭主になってするので勿で約める。もう一杯という処を後ろから引く所が勿である。そこで二日酔いもしない。この通りの手置きでなければならないが、それができなければ放って置きなさい。ここに嵌らなければとても本当の学はできない。詩文をすればよい。
【語釈】
・非礼勿視聽言動…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮、爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由仁乎哉。顏淵曰、請問其目。子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。顏淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣」。
・不遷怒貳過…論語雍也2。「哀公問、弟子孰爲好學。孔子對曰、有顏囘者好學、不遷怒、不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也」。
・学者須学顔子…

不遷怒は勿れ々々をするゆへ斯ふなる。これは効なり。七情を皆工夫することなれども、其中で怒がむつかしいゆへ、孔子のこれを出された。これさへなれば外は皆なると見べし。火が怒なり。そこで戸前も塗らずににげたと云は火事の勢のつよいぞ。遷はその火事の延焼なり。大火になる。いかさま怒は手取りもの。喜などはそうない。喜ぶとて通りの者を呼んで酒を飲めとも云ぬ。あれは遷さぬもの。怒は女房のわるいて下女迠呵る。これさへ遷さ子ばあとのことは手高になる。顔子を生んた孔子ゆへ、あとは言はずと知るゆへ怒ばかりを上けられたぞ。
【解説】
「勿」をするので「不遷怒」となる。七情の中で怒が一番難しい。怒は遷るものだが、これさえ遷さなければ後のことは手軽にできる。
【通釈】
「不遷怒」は勿れとするのでこうなる。これは効である。七情は皆工夫をするものだが、その中で怒が難しいので、孔子はこれを出された。これさえできれば外は皆できると見なさい。火が怒である。そこで戸前も塗らずに逃げたと言うのは火事の勢いが強いから。遷はその火事の延焼である。大火になる。実に怒は厄介である。喜などはそうでない。喜ぶと言っても通りの者を呼んで酒を飲めとも言わない。あれは遷さないもの。怒では女房が悪くて下女までを呵る。これさえ遷さなければ後のことは手軽にできる。顔子を教えた孔子であり、後は言わなくても知れるので、怒だけを上げられたのである。
【語釈】
・戸前…①蔵の入口の戸の前。蔵前。②土蔵の引戸の前に設ける観音開きのとびら。

不貳過。ひょっとした仕そこない。それも顔子に二度はない。怒ははへ秡きの御譜代、過はふと出る。そこで過は凡人ても七情のやうにはない。それゆへ兼て蹈ぬきすまいと覚悟もしても置かぬ。ひょっとするもの、と。時に顔子は一度ぎり。凡人は又しても々々々々仕そこなふ。うるさいこと。そうたひ々々するは改ると云ふことなく過に馴染がつく。そこで悪になる。顔子は不貳過と上品なことなり。大抵の者我過を知らずによいと云顔で通す。又たま々々知ても直さぬ。顔子我胸中にちらりとしたことを一寸と見てしらぬことなり。知るとはや直きになをすとそれきりなり。なせなれば、胸の鏡がとぎきってよこれがつかぬ。これ効の処を云なり。
【解説】
過ちはふと出るもので、前もって備えようとしてもうまく行かないもの。しかし顔子はそれを知ると直ぐに直すので、過ちは一度だけなのである。それは、胸の鏡が研ぎ切って汚れが付かないからである。
【通釈】
「不貳過」。一寸した仕損ないでも、顔子にそれは二度はない。怒は生え抜きの御譜代だが、過はふと出る。そこで過は凡人でも七情の様ではない。そこで、かねて踏み抜きはすまいと覚悟をしてもうまく行かない。それはひょっと出るもの。しかし顔子は一度だけである。凡人はまたしても仕損なう。それは煩いこと。その様に度々するのは改めるということがなく、過ちに馴染が付いたもの。そこで悪くなる。顔子は不貳過と上品なこと。大抵の者は自分の過ちを知らずによいという顔で通す。また、偶々知っても直さない。自分の胸中にちらりとしたことは一寸見てもわからないものだが、顔子はそれを知ると直ぐに直すのでそれぎりである。それは何故かと言うと、胸の鏡が研ぎ切って汚れが付かないからである。これが効の処を言ったこと。

○其好之篤而云云。ここか学至乎垩人之道也の処ぞ。顔子のは好やうが篤い。好に篤と云になれは外にかへるものはない。学者は学問と外のことをかへ々々にする。又好むことが篤いとても筋が違うてはならぬが、顔子藥を信仰で藥がよく、そふして飲やうがよい。○然其未至於垩人者、守之なり。非化之也。顔子、それでは垩人じゃと向から云はれぬ先に未至於垩人云云なり。顔子を圣人とは伊川のやふな本阿彌も云はれぬさふな。これはさふなと云位のことなり。守ると云がちと用心して居る塲がある。ここは番を付て番は入らずに眼の覚ているやふなもの。そこが顔子の守る字なり。圣人にならぬと云はとふしたことか、ここはあけて見られ子ども、程子の知り手が未至於垩人と云。守るは馬もよくのるもの名人と云が、悪の馬ても落はせぬが、なんぼても馬ゆへ用心が入る。我足であるくやふには。さて化は何も物のないこと。熱湯の中へ雪なり。今の雪はと云に、直きになくなる。圣人はそのやふなり。何もない。化なり。
【解説】
「則其好之篤、而學之得其道也。然其未至於聖人者、守之也。非化之也」の説明。顔子は好むことが篤く、学問を信仰し、替えることがなかった。しかし、顔子はこれを守った人であり、聖人に化したのではない。
【通釈】
○「其好之篤而云云」。ここが「学至乎聖人之道也」の処。顔子は好み様が篤い。好むに篤いということになれば外に替えるものはない。学者は学問と外のことを替えてする。また、好むことが篤いと言っても筋が違ってはならないが、顔子は薬を信仰し、薬もよく、そして飲み様がよい。○「然其未至於聖人者、守之也。非化之也」。それなら顔子は聖人だと向こうから言われる前に、「未至於聖人云云」である。顔子を聖人とは伊川の様な本阿弥でも言えないそうである。これはそうだという位のこと。「守」というのが一寸用心している場があること。ここは番を付けるには及ばないが眼の醒めている様なもの。そこが顔子の守るの字である。聖人にならないとはどうしたことか、ここは開けて見ることはできないが、程子の様な知り手が「未至於聖人」と言う。守るとは、馬をうまく乗る者を名人と言い、悪い馬でも落馬はしないが、どうしても馬なので用心が要る。自分の足で歩く様には行かない。さて、化は何も物のないこと。熱湯の中に雪である。今の雪はと言えば、直ぐになくなる。聖人はその様なもの。何もない。化である。
【語釈】
・本阿彌…鑑定家。

○假之以年、不日而化矣。ここは顔子の方の不調法でなく、天の不調法なり。御いとしなげに顔子三十二なり。垩人でさへ三十而立と順を云。学問あのきりきざなり。あるもの、顔子年さへあれば垩人になるものとの所なり。不日而化矣が日限は入らぬ。長崎へは幾日と云へども、塗師屋が明日御出下されと云が、まちと乾かぬと云間に乾くぞ。そこで顔子も明日は圣人になる。わずかの処なり。されどもこれは今日胸へかけても知れぬ重いことなれども、ここなり。これを目當にせ子ばならぬ。そこが鞭策なり。これかほんのことと、そこ迠行子ばならぬ。それもこれも学びやうを知ら子ばならぬとほんのを云たもの。
【解説】
「假之以年、則不日而化矣」の説明。顔子は早世だった。もしも年さえあれば時を待たずに聖人になっただろう。学者は顔子を目当てに鞭策しなければならない。
【通釈】
○「仮之以年、不日而化矣」。ここは顔子の方の不調法でなく、天の不調法である。御気の毒に顔子は三十二で亡くなった。聖人でさえ「三十而立」と順を言う。学問はあの通り至極だから、顔子は年さえあれば聖人になると言う所である。「不日而化矣」。日限は要らない。長崎へは幾日掛かると言い、塗師屋が明日御出下さいと言うが、まだ少し乾かないという間に乾く。そこで顔子も明日は聖人になる。ここは僅かな処である。しかし、これは今日胸へ掛けてもわからない重いことだが、ここが重要で、これを目当てにしなければならない。そこが鞭策である。これが本当のことで、そこまで行かなければならない。それもこれも学び方を知らなければならないと本当のことを言ったもの。
【語釈】
・三十而立…論語為政4。「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」。

時に今人乃謂垩本生知、非学可至云云。徂徠耻知らずなり。伊川のやすげに斯ふ云たあとへ、徂徠が圣人にはなられぬと朱子へ押てかかる氣で云が自暴自棄の利口に見へると同こと。今の世でも圣人になられぬと云は利口の筭盤なり。自暴自棄ぞ。徂徠がだたい朱子を打ばかりのことなれども、本原宗旨が邪魔になるで據なく思孟をも打てかかりたもの。思孟を述た程朱、それもつまり圣人を目がける。学と云はここばかりぞ。浅見先生、迂斉へ何にありゃ学問と云ものじゃないと云はれたと云が、浅見先生は徂徠をはまた細には知らずに仁斉を立てに云はれたこと。孟子の主や屋守りのことてない。学問をする、屹度した歴々のことなり。
【解説】
「今人乃謂聖本生知、非學可至、而所以爲學者」の説明。徂徠は聖人には至れないと言った。彼は朱子を打ちたかったのだが、そこでその本になる思孟をも打たなければならなかったのである。
【通釈】
時に「今人乃謂聖本生知、非学可至云云」。徂徠は恥知らずである。伊川の軽くこの様に言った後に、徂徠が聖人にはなれないと朱子へ押して掛かる気で言うのが、自暴自棄が利口に見えるのと同じこと。今の世で聖人にはなれないと言うのは利口の算盤であり、自暴自棄である。徂徠はそもそも朱子を打ちたいだけのことなのだが、本源の宗旨が邪魔になるので仕方なく思孟をも打って掛かったもの。思孟を述べた程朱、それもつまり聖人を目掛けることで、学というのはこのことだけである。浅見先生が迂斎に、何あれは学問というものではないと言われたというが、浅見先生は徂徠をまだ細かには知らずに、仁斎を楯に取って言われたのである。孟子の主や屋守りのことではない。学問をする、しっかりとした歴々のことである。

不過記誦文辞之間。其亦異乎顔子之学矣。記誦文辞□ちなものに取ついている。それより只寢てをるが氣位の高いもの。それも七賢八達が上は手になる。記誦文辞で上へ出たがるが、いつでも大酒ても飲ものにはまけるものそ。其筈そ。いくら達人でも狂言見たやふに思。孔隷達へ太宗の世話なされて疏をつくらせた。つまり記誦文辞でそれも学問で有ふが、顔子の学とは違う。さて三先生祠記からここへ受けて見べし。顔子に照らして宋朝の三先生の学問を云が、顔子の学問がよければ三先生の学問もよい。又顔子がわるいなれば三先生の学問もわるい。今日先軰を軽く云も記誦文辞に勢をつけるになる。
【解説】
「不過記誦文辭之間。其亦異乎顏子之學矣」の説明。記誦文辞は顔子の学とは違う。顔子の学問がよければ宋朝の三先生の学問もよい。また、顔子が悪ければ三先生の学問も悪い。先輩を悪く言うのは記誦文辞に勢いを付けることになる。
【通釈】
「不過記誦文辞之間。其亦異乎顔子之学矣」。記誦文辞は妙なものに取り憑いている。それよりはただ寝ている方が気位が高い。それも七賢八達が上手になる。記誦文辞で上へ出たがるが、いつも大酒でも飲む者には負けるもの。その筈で、いくら達人でも、狂言を見た様に思われる。孔穎達へ太宗が世話をなされて疏を作らせた。つまり記誦文辞で、それも学問だろうが、顔子の学とは違う。さて三先生祠記をここに受けて見なさい。顔子に照らして宋朝の三先生の学問を言えば、顔子の学問がよければ三先生の学問もよい。また、顔子が悪ければ三先生の学問も悪い。今日先輩を軽く言うのも記誦文辞に勢いを付けることになる。
【語釈】
・三先生祠記…講学鞭策録75を指す。

周程張で四書へ魂を入れるための近思録なり。朱子の近思を編ても朱子ことがないゆへ直方の鞭策録を作る。これで又近思へ魂を入れることなり。すれば六経に玉しいは四書なり。四書のたましいは近思録なり。近思録のたましいは鞭策排釈なり。山崎佐藤浅見三宅四先生で朱子学の大業精彩がついた。ここに精彩をつかせるための直方の編集なり。吾黨でも近年鞭策録がないゆへぬけて記誦文辞の間へも落る。先年某今の学者は折角骨を折りて唐の俗人になるのじゃと云ふもそこなり。たた唐ずきにて唐紙の唐のもの筆のと朱印を押し、甚し□しては飯にまでがしつ□□、唐机で東□巾、明道巾と出□。皆唐に化かされている。あさましきなり。好学論などを説くとみよ。学至於垩人之道也と云に、唐の日本のと云ことありや。圣賢の道に唐めくと云ことはなし。好学論を鞭策の□にのす。学者たち唐の俗人にならぬやうに鞭策すべし。
【解説】
六経の魂は四書、四書の魂は近思録、近思録の魂は鞭策録と排釈録である。今の学者は唐好きだが、聖賢の道に唐めくということはない。唐の俗人にならない様に鞭策しなければならない。
【通釈】
四書へ魂を入れるために周程張で言うのが近思録である。朱子が近思を編んでも朱子ことがないので直方が鞭策録を作った。これもまた近思へ魂を入れること。それなら六経に魂を入れるのは四書である。四書の魂は近思録である。近思録の魂は鞭策録と排釈録である。山崎佐藤浅見三宅四先生で朱子学の大業に精彩が付いた。直方の編集はここに精彩を付かせるためのもの。我が党でも近年鞭策録がないので、抜けて記誦文辞の間へも落ちる。先年私が、今の学者は折角骨を折っても唐の俗人になると言ったのもここのこと。ただの唐好きで唐紙の唐の書などとと朱印を押し、甚だしい者は飯にまでがしつ□□、唐机で東坡巾、明道巾と出る。皆唐に化かされている。浅ましいことである。好学論などをしっかりと見なさい。「学至於聖人之道也」と言うのに、唐だ、日本だと言うことがあるだろうか。聖賢の道に唐めくということはない。好学論を鞭策の終わりに載せた。学者達、唐の俗人にならない様に鞭策しなさい。


跋講学鞭策録

爲學之方、朱子明之、至矣、盡矣。今究其要而舉之不過敬義兩言、而至於日新之功上達之效、則全在乎積累習熟而已矣。頃日略掇其尤確實緊切者、集次爲一編。然學者志不先立焉、則千言萬語皆無用之贅也耳。尚何學之可議哉。故又冠立志一節於最首、以備乎觀省儆戒之資焉。先生嘗有言。開卷便有與聖賢不相似處。豈可不自鞭策。吾輩所宜深致思也。
天和癸亥冬至日 佐藤直方謹識
【読み】
學を爲むるの方、朱子之を明かにする、至れり、盡せり。今其の要を究めて之を舉ぐるに敬義兩言に過ぎずして、日新の功上達の效に至りては、則ち全く積累習熟に在るのみ。頃日略其の尤も確實緊切なる者を掇り、集次して一編と爲す。然れども學者志先ず立たざれば、則ち千言萬語は皆無用の贅なるのみ。尚何ぞ學を之れ議す可けんや。故に又志を立つるの一節を最首に冠し、以て觀省儆戒の資に備う。先生嘗て言える有り。卷を開けば便ち聖賢と相似ざる處有り。豈自ら鞭策せざる可けんや。吾輩宜しく深く思を致すべき所なり。
天和癸亥冬至の日 佐藤直方謹識

爲學之方、朱子明之、至矣、盡矣。これが朱子で学問は片付たと云ことなり。二程へ對してはぶしつけのやふじゃが、朱子はあとから出たゆへなり。ここへ迂斉の引やふがよい。山崎先生近思の序に、先生以後更無先生則云云となり。挌別するどいことぞ。居業録でも見てうれしがる、は痒いことぞ。こちの受用には譯文筌蹄でもなんでも益があるが、本尊に朱子の外はない。外へ目をやると云は不調法なこと。そこて至矣尽矣と云。そのことが語類文集にありて、大部なれば通書のやふに一寸と見られぬ。そこて今究其要而挙之なり。要は肝要にて、これを大部な中よりよく操り出さ子ばならぬ。旅立に荷をつめるやふなもの。つつらやどふらんへ入用なものを取ってつめる。家内にある物を皆はならぬゆへ、肝要なものを擇らむぞ。鞭策録排釈録で皆要を挙けたものなり。其要はと云に、不過敬義両言なり。敬義は敬以直内、義以方外の文字なり。ここは序文に云操存精義のことなり。朱子の千言万語がこの敬義の二で尽て、旅用意は出來たぞ。
【解説】
「爲學之方、朱子明之、至矣、盡矣。今究其要而舉之不過敬義兩言」の説明。朱子は為学の仕方を明にしたが、そのことは語類文集にあって一寸見るということができない。そこで、そこから肝要のところを択んで抜いたのが鞭策録や排釈録である。その肝要とは、「敬義」のことである。
【通釈】
「為学之方、朱子明之、至矣、尽矣」。これが朱子で学問は片付いたということ。それでは二程に対して不躾な様だが、朱子は後から出たからである。ここへの迂斎の引き様がよい。山崎先生が近思の序に、「先生以後更無先生則云云」とあると言った。それは格別に鋭いこと。居業録でも見て嬉しがるのは歯痒いこと。こちらの受用には訳文筌蹄でも何でも益になるが、本尊は朱子の外はない。外へ目を遣るというのは不調法なこと。そこで「至矣尽矣」と言う。そのことが語類文集にあって、大部なので通書の様に一寸見るということはできない。そこで「今究其要而挙之」である。「要」は肝要であり、これを大部の中からよく操り出さなければならない。旅立ちに荷を詰める様なもの。葛篭や胴乱に入用なものを取って詰める。家内にある物を皆入れることはできないので、肝要なものを択んで入れる。鞭策録と排釈録は要を挙げたもの。その要はと言うと、「不過敬義両言」である。敬義は「敬以直内、義以方外」の文字である。ここは序文に言う「操存精義」のこと。朱子の千言万語がこの敬義の二つで尽き、旅用意ができた。
【語釈】
・先生以後更無先生則…近思録序。「先生以後更無先生、則註解之眼、續編之手、果望於誰哉」。
・譯文筌蹄…同訓異義・異訓同義を弁じた書。荻生徂徠著。初編六巻は1714~15年(正徳四~五)刊、後編三巻(残り六巻未刊)は後人の編で96年(寛政八)刊。漢字の用法、殊に漢語の動詞・形容詞・副詞に属する字を主としたもの。略称、訳筌。
・どふらん…胴乱。革で作った方形の袋。薬・印・煙草・銭などを入れて腰に下げる。
・敬以直内、義以方外…易経坤卦文言伝。「直其正也、方其義也。君子敬以直内、義以方外。敬義立而德不孤」。
・操存精義…講学鞭策録序。「繼之以操存精義之方」。

至日新之功上達之効、則全在乎積累習熟而已矣。敬義が役に立って日々に新でなければならぬ。日新は大切に見べし。沐浴は昨日風呂に入たゆへ今日は這入るまいと者もあるが、昨日食ったから今日は食うまいとは云はぬ。日新は三度の食のやふにすること。学文にぬるけがつくと飯をくわぬやうなものなり。不進則退をここで見べし。飯をくわぬと顔色がわるくなるぞ。日新。大学。上達。論語。之効。大学論語兼て云。積累習熟。たへずするを云。大名の家中などにあるもの。隱居がいつも鍔をせせりている。茶人が毎日羽帚で爐段を掃ている。敬義の両言が大切ても、あのやふにせ子ば我ものにならぬ。
【解説】
「而至於日新之功上達之效、則全在乎積累習熟而已矣」の説明。毎日食う様に日々の努力で上達する。敬義があっても、絶えず努力しなければ自分のものにはならない。
【通釈】
「至日新之功上達之効、則全在乎積累習熟而已矣」。敬義が役に立ち、日々に新たでなければならない。日新は大切に見るもの。沐浴では、昨日風呂に入ったので今日は入らないと言う者もあるが、昨日食ったから今日は食わないとは言わない。日新は三度の食の様にすること。学問に温気が付くのは飯を食わない様なもの。「不進則退」をここで見なさい。飯を食わないと顔色が悪くなる。「日新」。大学。「上達」。論語。「之効」。大学論語を兼ねて言う。「積累習熟」。絶えずすること。大名の家中などにあるもの。隠居がいつも鍔を触っている。茶人が毎日羽箒で炉壇を掃いている。敬義の両言が大切でも、あの様にしなければ自分のものにはならない。
【語釈】
・不進則退…近思録治体13。「天下之事、不進則退、無一定之理」。
・日新…大学章句2。「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新」。
・上達…論語憲問24。「子曰、君子上達、小人下達」。同憲問37。「子曰、不怨天、不尤人。下學而上達。知我者、其天乎」。
・爐段…炉壇。護摩壇。護摩を焚いて修法する炉を据えた壇。

○頃日略掇其尤確実緊切者、集次爲一編。敬義両言の方からも積熟の中からも確実緊要を取りあけた。あのはばひろな語類文集の中からこのやふにあまれたと云が、直方先生の熟なりた知見とみれども、そう計りでとふならふぞ。熟が違ふたものの、排釈録ても鞭策録ても、語類文集の中にあれへ挙けそふな語をあけずに、とらずとよさそふな語を却て取てある。そこで某などそふではあるまいと思ふに、こちの熟の甲斐ないなり。この語はするどい、こちは長いと云に、其長い語中に学者の爲になることがある。外から見てとふかと云やふなことが、皆主の熟なり。排釈するにも語類にあちを直きに取て投ける語あるに、それを排釈録へ取らぬと云も、それでははすはになりて、禅で禅をけるやふな筋合がありてのこと。これは某斯ふ云は子ば誰も知て見るものがない。
【解説】
「頃日略掇其尤確實緊切者、集次爲一編」の説明。敬義両言からも積熟からも確実緊切なものを採り上げた。もっと適当なものが語類文集にあると思うのは、熟が甲斐ないのである。
【通釈】
○「頃日略掇其尤確実緊切者、集次為一編」。敬義両言の方からも積熟の内からも確実緊要なものを採り上げた。あの幅広い語類文集の中からこの様に編まれたというのが、直方先生の熟した知見からと見えるが、それだけでどうしてこれができるだろうか。熟が違うのである。排釈録でも鞭策録でも、語類文集の中からあれに挙げそうな語を挙げずに、採らなくてもとよさそうな語を却って採ってある。そこで私などはそうではないだろうと思うが、それはこちらの熟が甲斐ないからである。この語は鋭く、こちらのは長いと言っても、その長い語の中に学者のためになることがある。外から見てどうしたことかと言う様なことが、皆直方の熟である。排釈するにも、語類にはあちらを直に取って投げる語があるのに、それを排釈録に採らないというのも、それでは浮薄になって、禅で禅を蹴る様な筋合いがあってのこと。これは私がこの様に言わなければ誰も知るものがない。

○然学者志先不立焉、則千言萬語皆無用之贅也耳。尚何学之可議哉。こちから何ほと誘引ても、大和めぐりには行まいと云にはどふもならぬ。灸はすまいと云に、灸穴の吟味するので無用の贅なり。志か立子ばどふもせふことはない。故又冠立志一節於最首、以備乎觀省儆戒之資焉。ここは其上に又なり。この段になりては操存も精義もそれもこれも根は立志からゆへ、初へ立志の一節を出したとなり。以備乎觀省儆戒は、これも鞭策録全体でなく、立志て云ぞ。敬義両言は日新のことゆへ、戒るのなんのと云には及はぬ。あれは飯くうやふにする。ここは立志の部に手抦なことを云てあるそのことで、今迠のは学びやふがわるい、觀省儆戒と立志へかけることなり。觀省儆戒は、直方先生の鞭策録を杖につくと云がそこぞ。鞭策録が杖でなければ志の立ではないと思ふし。そこで立志のことに云とめて、鞭策の二字を下文に云。
【解説】
「然學者志不先立焉、則千言萬語皆無用之贅也耳。尚何學之可議哉。故又冠立志一節於最首、以備乎觀省儆戒之資焉」の説明。志が立たなければ操存も精義も無駄である。鞭策録を杖にして志を立てるのである。
【通釈】
○「然学者志先不立焉、則千言万語皆無用之贅也耳。尚何学之可議哉」。こちらからどれほど誘っても、大和巡りには行かないと言われてはどうにもならない。灸はしないと言うのに、灸穴の吟味をするのは無用の贅である。志が立たなければどうにも仕様がない。「故又冠立志一節於最首、以備乎観省儆戒之資焉」。ここはその上にまたすること。この段になっては、操存も精義もそれもこれも根は立志からのことなので、始めに立志の一節を出したのである。「以備乎観省儆戒」は、鞭策録全体のことではなく、立志で言う。敬義両言は日新のことなので戒るの何のと言うには及ばない。あれは飯を食う様にする。ここは立志の部で手柄なことを言っているそのことで、今までのは学び様が悪い、観省儆戒だと立志へ掛けること。観省儆戒は、直方先生が鞭策録を杖につくと言うのがそのこと。鞭策録の杖がなければ志は立たないと思いなさい。そこで立志のことで言い止めて、鞭策の二字を下文で言う。

○先生嘗有言。開巻便有與圣賢不相似処。豈可不自鞭策。吾軰所冝深致思也。この語、語類学の部にありて朱子の感にたへて云はれたこと。ひよめきのかたまらぬ者□云ことてなく、よい学者へ云ことなり。学者が我に言ぶんない気で居れども、論語でも孟子でも巻を開くと似つこらしはない。開巻の字が面白い字で、開ぬまへは我に三綱領も八條目も麁相はないと云やふにまぎらかすか、開巻とすっへりと垩人と似ずなり。垩賢の人を教るも別段にはなく、藥に違はなけれども、こちに魂がない。眠って物を書やふなもの。手本を見ぬゆへ手本の筆法と違う。鞭策録は我に覚へある者へ見せる書て、俗人に見せる書でないと云がそこのことぞ。吾軰冝所深致思が一と工夫しやれなり。ここをさっと通すが深く思を致すてなくてはならぬ。長作も筆記が出來、やがて道学館で鞭策録もよめると云位いては役にたたぬ。世上にはないか、今ては館林ばかりか鞭策録も挙業になる。それでは迂詐の鞭策録になる。左様な弊へ出來やふ。これ計が安堵せぬことなり。
【解説】
「先生嘗有言。開卷便有與聖賢不相似處。豈可不自鞭策。吾輩所宜深致思也」の説明。これは学者に言った言葉で、鞭策録は自分に覚えのある者に見せる書である。自分は一角と思っていても、巻を開けると聖賢とは違っていることがわかる。
【通釈】
○「先生嘗有言。開巻便有与聖賢不相似処。豈可不自鞭策。吾輩所宜深致思也」。この語は語類学の部にあって朱子の感に耐えず言われたこと。顋門の固まらないぬ者に言ったことではなく、よい学者へ言ったこと。学者が自分に言い分はない気でいるが、論語でも孟子でも巻を開くと似た様なことはない。開巻の字が面白い字で、開ける前は、自分は三綱領にも八条目にも粗相はないという様に紛らかすが、巻を開くとすっかり聖人とは異なる。聖賢が人を教えるにも別段なことはなく、薬に違いはないが、こちらに魂がない。眠って物を書く様なもの。手本を見ないので手本の筆法と違う。鞭策録は自分に覚えのある者へ見せる書で、俗人に見せる書ではないと言うのがそこのこと。「吾輩宜所深致思」が一工夫しなさいということ。ここをざっと通すが、深く思いを致すのでなくてはならない。長作も筆記ができ、やがては道学館で鞭策録も読めるという位では役に立たない。世上にはないことで、今では館林ばかりだが、鞭策録も挙業になる。それでは嘘の鞭策録になる。その様な弊害ができるだろう。これだけは安堵できないこと。
【語釈】
・開巻便有與圣賢不相似処。豈可不自鞭策…朱子語類10学四の語。
・長作…山田華陽斎。名は記思。通称は長作、黒水。館林藩士。1773~1832

○天和癸亥冬至日。この年直方先生三十四の時なり。年も精彩になるは、このときから直方の蹴出が違うなり。それも山崎先生の手抦なり。當時天下に大儒の多い中に、直方先生斯ふしたことなり。迂斎はこの翌年生れり。○冬至日。迂斉云、鞭策録の跋は冬至の日、排釈録の跋は夏至の日にかかれた。これがわざ々々冬至夏至の日をえらんで跋を書れたではなけれども、自然とそふ来たものなり。然れども、今日は冬至夏至と云に微意あると求むべし。冬至は一陽を取立る目出度こと。鞭策録は士となるに始り、垩となるに終る。士は学者のことなれども、それが伸て垩人になる。目出度ことなり。そこて冬至なり。又排釈録の方は夏至と云も、異なものその分にならぬ。刑罰のやふなぞ。隂の生した、念頃にならぬ、目出度ことてはない、にが々々しいなれば、跋が夏至日尤ぞ。これが直方先生の方に必と思入れある意はなけれども、たたではない学者があとから見るには意思甚あることなり。そふ読ま子ばならぬ。
【解説】
「天和癸亥冬至日」の説明。鞭策録の跋は冬至の日、排釈録の跋は夏至の日の作である。鞭策録は士となることに始まり、聖となって終わるから冬至に合い、排釈録は仏のことで目出度くないことだから陰の生じる夏至に合うと考えるのもよい。
【通釈】
○「天和癸亥冬至日」。この年、直方先生が三十四の時である。年も精彩になる。この時から直方の蹴り出しが違う。それも山崎先生の手柄である。当時天下に大儒の多い中で、直方先生はこうしたこと。迂斎はこの翌年に生まれた。○「冬至日」。迂斎が、鞭策録の跋は冬至の日、排釈録の跋は夏至の日に書かれたが、これはわざわざ冬至と夏至の日を選んで跋を書かれたのではないが、自然とそうなったのであると言った。しかし、今日は冬至夏至ということに微意があると思いなさい。冬至は一陽を取り立てる目出度いこと。鞭策録は士となることに始まり、聖となって終わる。士は学者のことだが、それが伸びて聖人になる。それは目出度いこと。そこで冬至である。また、排釈録の方が夏至というのも、異なものはそのままにしては置けない。刑罰の様なこと。陰が生じるが、それとは懇ろにはならない。目出度いことではなく、苦々しいことなので、跋が夏至日なのは尤もなこと。これが直方先生の方に必ずしも思い入れのある意ではないが、普通ではない学者が後から見るには甚だ意思のあること。その様に読まなければならない。
【語釈】
・天和癸亥…天和3年。1683年。

直方先生曰、鞭策録は藥食ひ、排釈録は毒だちとなり。鞭策の藥になるものを毒でわるくする。それを排すると藥が利く。そこて排釈録で毒断ちせぬと鞭策録もどふもならぬ。直方先生、爲学から致知存養克己惣体をくるめて鞭策録をあみ、近思の弁異端から排釈録を作られた。この二書がぬきさしならぬことで、其ぎり々々へ鬼神集説なり。鬼神がすむと道体がすむ。そこて鬼神集説は鞭策排釈録が手に入てからのことぞ。鞭策排釈二録の上は手が鬼神集説なり。これを先年長藏が祖父容齋が某に語るに、私も三部の書を授ったと云た。某知らずに問へば、容斉、石原先生に聞たと云ことなり。さて道学標的はなせのこしたと云に、これは聞へたことで、道学標的は直方先生晩年に出來た書ゆへ三部中へのらぬと見へる。當時三部の書と云ことは舊い弟子の三輪善藏や小野權八なとかそふ云たなるべし。石原先生もそれを傳へて三部の書と言つろふ。迂斉石原は晩年の弟子。程門なれば尹彦明張思叔がやうなもの。そこてむかしより云傳へた三部の書と聞て道学標的は晩年の編集ゆへ四部の書とは唱へぬ。今日は四部の書と唱へたい。直方の外に編集の書もあれども、垩学のぎり々々へ蹈み込には三部の書と道学標的でなければならぬ。鞭策のぎり々々と云も立志から道学標的へつきぬけること。然れば今日より四部の書と云は子ばならぬこと。これは恐れながら某が名付けるぞ。
【解説】
直方先生が、鞭策録は薬食いで、排釈録は毒断ちだと言った。鞭策と排釈が済んだ後に鬼神集説へと行く。三部の書は鞭策録と排釈録と鬼神集説だが、それに道学標的が入らないのは、道学標的が晩年の作であって、古い弟子が三部の書と言ったからである。しかし、聖学の至極へ踏み込むには三部の書と道学標的でなければならない。四部の書と言わなければならないのである。
【通釈】
直方先生が、鞭策録は薬食い、排釈録は毒断ちだと言った。鞭策という薬になるものを毒で悪くする。それを排すると薬が利く。そこで排釈録で毒断ちをしないと鞭策録もどうにもならない。直方先生が、為学から致知存養克己の総体を包めて鞭策録を編み、近思の弁異端から排釈録を作られた。この二書が抜き差しならないことで、その至極が鬼神集説である。鬼神が済むと道体が済む。そこで鬼神集説は鞭策排釈録が手に入ってからのことになる。鞭策排釈二録の上手が鬼神集説である。これを先年長蔵の祖父の容斎が私に語るに、私も三部の書を授かったと言った。私がそれがわからずに問うと、容斎が石原先生に聞いたということだった。さて道学標的を何故入れないのかと言うと、これはわかり切ったことで、道学標的は直方先生の晩年にできた書なので三部の中には入らないものと見える。当時三部の書ということは古い弟子の三輪善蔵や小野権八などがその様に言ったのだろう。石原先生にもそれが伝わった三部の書と言ったのだろう。迂斎石原は晩年の弟子で、程門であれば尹彦明や張思叔の様なもの。そこで昔より言い伝えた三部の書と聞いて道学標的は晩年の編集なので四部の書とは唱えなかった。今日は四部の書と唱えたい。直方には外に編集の書もあるが、聖学の至極へ踏み込むには三部の書と道学標的でなければならない。鞭策の至極と言うのも立志から道学標的へ突き抜けること。それなら今日から四部の書と言わなければならない。四部の書とは、恐れながら私が名付けるものである。
【語釈】
・藥食ひ…滋養となる物を食べること。
・長藏…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・容齋…鵜沢容斎。大網白里町清名幸谷の人。本姓は鈴木で鵜沢家の養子となる。名は寛堯。通称は長右衛門。天禄8年(1695)~安永2年(1773)
・三輪善藏…三輪執斎。江戸中期の陽明学者。名は希賢。字は善蔵。京都の人。崎門三傑の一人である佐藤直方に学ぶ。致良知の説を尊び、1712年王陽明の『伝習録』に標注を加えて翻刻し、中江藤樹・熊沢蕃山なきあと、江戸の地で陽明学の先駆をなした。和歌もよくした。1669~1744
・小野權八…