己酉一六中庸筆記十五
二十四章至二十五章  四月六日 恭節
【語釈】
・己酉…寛政1年(1789)年。
・恭節…鈴木(鵜澤)恭節。字は子長。長藏と称す。大網白里町清名幸谷の人。鵜澤近義の第三子。館林藩儒臣。文政13年(1830)11月10日没。年55。


中庸章句第二十四章
至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孼。見乎蓍龜、動乎四體。禍福將至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神。見、音現。○禎祥者、福之兆。妖孼者、禍之萌。蓍、所以筮。龜、所以卜。四體、謂動作威儀之閒。如執玉高卑、其容俯仰之類。凡此皆理之先見者也。然惟誠之至極、而無一毫私僞留於心目之閒者、乃能有以察其幾焉。神、謂鬼神。
【読み】
至誠の道、以て前知す可し。國家將に興らんとするときは、必ず禎祥有り。國家將に亡びんとするときは、必ず妖孼[ようげつ]有り。蓍龜[しき]に見[あらわ]れ、四體に動く。禍福の將に至らんとするときは、善も必ず先ず之を知り、不善も必ず先ず之を知る。故に至誠は神の如し。見は音現。○禎祥は、福の兆。妖孼は、禍の萌。蓍は、筮する所以。龜は、卜する所以。四體とは、動作威儀の閒を謂う。玉を執るの高卑、其の容俯仰の類の如し。凡そ此れ皆理の先ず見るる者なり。然れども惟誠の至極にして、一毫の私僞も心目の閒に留むること無き者のみ、乃ち能く以て其の幾を察すること有り。神とは鬼神を謂う。

右第二十四章。言天道也。
【読み】
右第二十四章。天道を言うなり。


天道は垩人の上へ、學者の今日の用にはたたぬ。全体天道はこたつにあたって松嶌の圖を見る様なものなり。いつぞは行て見る。迂斉の、清凉殿の咄をきくやふなものなり。○垩人の上には様々のことあれとも、つまり誠に帰着する。中庸は誠を様々にかたりたものなり。前知は先きのことなり。先きのことを知ると云と不測なことのやふなれとも、不測なことはない。此方の心が誠でてりきって居るゆへ、なんでもちらりとした処でひびく。平澤が占のやふなことではない。今日の人は知がくらんでをるゆへこちへうつらぬ。垩人の誠は鏡を研きってをく様なもので、うぶけ一本でもうつる。○国家將興。大王・王季・文王。国家將亡。その裏なり。○禽獣無心なれとも、鳶が舞と風が吹く。呂東莱もそふ云てをいた。石が汗をかくと必ず雨が降る、と。今尾長が鳴くと又降ふと云やふなことなどもそれなり。
【解説】
「至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孼。見乎蓍龜」の説明。「前知」は先のことを知ることだがそれは不測なことではない。こちらの心が誠で照り切っているので、何でもちらりとした処で響くのである。
【通釈】
天道は聖人の上のことで、学者の今日の用には立たない。全体天道は炬燵にあたって松島の図を見る様なもの。何時かは行って見る。迂斎が、清涼殿の話を聞く様なものだと言った。○聖人の上には様々なことがあるが、つまりは誠に帰着する。中庸は誠を様々に語ったものである。「前知」は先のこと。先のことを知ると言うと不測なことの様だが、不測なことではない。こちらの心が誠で照り切っているので、何でもちらりとした処で響く。平沢の占いの様なことではない。今日の人は知が暗んでいるのでこちらに映らない。聖人の誠は鏡を研き切って置く様なもので、産毛一本でも映る。○「國家將興」。大王・王季・文王のこと。「國家將亡」。その裏である。○禽獣は無心だが、鳶が舞うと風が吹く。呂東莱もそう言って置いた。石が汗をかくと必ず雨が降る、と。今尾長が鳴くとまた降ろうと言う様なことなどもそれ。
【語釈】
・平澤…平沢流の易を指す。平沢随貞がその開祖。

○動乎四体禍福將至。そこへなんのことなく若い方か出らるると、あれは後には宰相にもなるべき人じゃと云。又数万石とる大名でも、とふでもししゆう若か隱居でもさせずはなるまいと云がある。そこで前知として不測なことではなく、理のあらはれたなりを知ることなり。てあることではない。今世事かしこい人が、とふに五年ほど先きからそふあらふとにらんでをいたの、をれが視た目か違ふかのと云はちがふ。なぜなれば、せじかしこいものは人の方のことは知るが、手前の方のことは知らぬものなり。○如神。人間沙汰ではないと云弁なり。此神ををもくして看ることではない。孟子の垩而不可知曰神とはちがふ。迂斉の、誠と云字に照して看よ。明知とありさふなものを至誠と云に味あり、と。面白ことなり。至誠がすぐに知なり。此方に欲があると中々このやふなことを知ることはならぬ。鼻の先のことさへみへぬと迂斎云へり。
【解説】
「動乎四體。禍福將至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神」の説明。前知は不測なことではなく、理の顕れた通りを知るのである。至誠が直ぐに知である。
【通釈】
○「動乎四體。禍福將至」。そこへ何のこともなく若い方が出られると、あれは後には宰相にもなるべき人だと言う。また数万石を取る大名でも、どうでも嗣子の若を隠居でもさせなければなるまいということがある。そこで前知であって不測なことではなく、理の現れた姿を知るのである。手あることではない。今世事に賢い人が、とうに五年ほど先からそうであろうと睨んで置いたとか、俺が視た目が違うかなどと言うのは違う。それは何故かと言うと、世事に賢い者は人の方のことは知るが、自分の方のことは知らないものだからである。○「如神」。人間沙汰ではないと言う弁である。この神は重く看ることではない。孟子の「聖而不可知之之謂神」とは違う。迂斎が、誠という字に照らして看よ。明知とありそうなものを至誠と言ったのに味があると言った。面白いことである。至誠が直ぐに知である。こちらに欲があると中々この様なことを知ることはならない。鼻の先のことさえ見えないと迂斎が言った。
【語釈】
・垩而不可知曰神…孟子盡心章句下25。「聖而不可知之之謂神」。

○福之兆。麟鳳亀龍。禍之萌。狐狸に至るまで、人に気にかかることをする。鴬も日和のよいときは音を出す。日よりわるければ音が出ぬ。○執玉高卑。魯の定公、邾君と出合のときなり。魯の君が歴々ゆへ高い筈じゃに、魯の君が卑く邾君は高かった。そこを子貢が看てとってあじなことじゃと云たれば、果して魯君は早世、邾君は国を亡た。梅花心易とはちがふ。理のあらはれたなりを孔子の弟子の子貢ゆへ看て取た。子貢が至誠ではないが、前知と云は理の先見るる処を見るか前知と、不測奇妙にせぬためにこの左傳を引く。賀古権藏か盆成話と云よし。気がをくれると道中すれば雲助に迠機嫌をとるやふになる。そこをものをあてるのどふのと云ことではない。なんでも物は理で推すが大事なり。扁鵲が斉の桓公の病気をとふにみてとって、もふいかぬと云。理で云たものなり。占者の云ふとは違ふ。医者は気を相手にして云ことなれとも、理が主なり。理が顕るなればだがにもみへそふなものじゃに、唯天下之至誠でなければならぬ。朱子が唯誠之至極と唯の字を出したでみよ。凡夫は人欲でいそがしく、こちの方へうつる間がない。
【解説】
「見、音現。○禎祥者、福之兆。妖孼者、禍之萌。蓍、所以筮。龜、所以卜。四體、謂動作威儀之閒。如執玉高卑、其容俯仰之類。凡此皆理之先見者也。然惟誠之至極」の説明。何でも物は理で推すのが大事である。理が顕れるのであれば誰にでも見えそうなものだが、「唯天下至誠」でなければならない。人欲に忙しい凡夫にはできないことなのである。
【通釈】
○「福之兆」は、麟鳳亀龍。「禍之萌」は、狐狸に至るまで、人に気に掛かることをするもの。鴬も日和のよい時は音を出す。日和が悪ければ音が出ない。○「執玉高卑」。魯の定公と邾君との出合いの時のこと。魯の君は歴々なので高い筈だが、魯の君が卑く邾君が高かった。そこを子貢が看て取って奇妙なことだと言うと、果して魯君は早世、邾君は国を亡ぼした。梅花心易とは違う。理の現れた姿を孔子の弟子の子貢なので看て取った。子貢は至誠ではないが、前知というのは理の先ず見れる処を見るのが前知だと、不測奇妙にしないためにこの左伝を引いた。賀古権蔵が盆成話と言ったそうだ。気が遅れると、道中すれば雲助にまで機嫌をとる様になる。そこを物を当てるのどうのということではない。何でも物は理で推すのが大事である。扁鵲が斉の桓公の病気をとっくに見て取って、もういけないと言った。それは理で言ったもの。占者が言うのとは違う。医者は気を相手にして言うものだが、理が主である。理が顕れるのであれば誰にでも見えそうなものだが、「唯天下至誠」でなければならない。朱子が「惟誠之至極」と惟の字を出したのを見なさい。凡夫は人欲で忙しくて、こちらの方へ映る間がない。
【語釈】
・魯の定公、邾君と出合のときなり…春秋左氏傳定公。「傳十五年、春、邾隱公來朝。子貢觀焉。邾子執玉高、其容仰。公受玉卑、其容俯。子貢曰、以禮觀之、二君者皆有死亡焉。夫禮、死生存亡之體也。將左右・周旋・進退・俯仰、於是乎取之、朝祀喪戎、於是乎觀之。今正月相朝而皆不度」。
・梅花心易…易の一つ。
・賀古権藏…賀古利器。関宿藩士。
・唯天下之至誠…中庸章句22の語。

○心目之間。心のこと。目はなぜなれば、そふたいものの目て見て心て知るものゆへ、心目と云。たとへは動作威儀でからが坐頭のには見へぬ。○神謂鬼神。さふたい垩人の云に云へぬことは神の字を付て云が御定りなり。さふみせまいと思ふて謂鬼神と註たものなり。神様じゃ。人間わざではないと云なり。○前知に仕方があると云とほんのことでない。邵康節の前知は術なり。こことは違ふたことなれとも、祈も仕方がると云ふ。もふ術でほんのものでない。庾點婁か祈も仕方はない。誠なり。占て先きのことが知やふものなれば、盗賊奉行も入らぬ。理の前知てなくて道統の書へ載られものではない。
【解説】
「而無一毫私僞留於心目之閒者、乃能有以察其幾焉。神、謂鬼神」の説明。物は目で見て心で知るものなので「心目」と言う。前知に仕方があると言うと本当のことではない。それでは術である。誠による理の前知でなくてはならない。
【通釈】
○「心目之間」。心のこと。何故目を言うのかというと、総体物は目で見て心で知るものなので「心目」と言う。例えば動作威儀は坐頭には見えない。○「神、謂鬼神」。総体聖人の言うに言えないことは神の字を付けて言うのが御定まりである。そこで、そう見せない様にしようと思って「謂鬼神」と註をしたもの。神様だ。人間業ではないと言ったのである。○前知に仕方があると言うと本当のことではない。邵康節の前知は術である。こことは違うことだが、祈りも仕方がると言う。もう術であって本物ではない。庾點婁の祈りも仕方はない。誠である。占って先のことが知れるものであれば、盗賊奉行も要らない。理の前知でなくては道統の書に載せられるものではない。
【語釈】
庾點婁

右第二十四章。嘉点此章を人道とす。大事のことを筆工が書そこなふてある。
【解説】
「右第二十四章。言天道也」。嘉点は天道を人道と記してある。筆工の誤りである。
【通釈】
「右第二十四章」。嘉点はこの章を人道としてある。大事なことを筆工が書き損なった。


中庸章句第二十五章
誠者自成也。而道自道也。道也之道、音導。○言誠者物之所以自成、而道者人之所當自行也。誠以心言、本也。道以理言、用也。
【読み】
誠は自ら成る。而して道は自ら道[みちび]く。道也の道は音導。○言うこころは、誠は物の自ら成る所以にして、道は人の當に自ら行うべき所なり。誠は心を以て言い、本なり。道は理を以て言い、用なり。

誠者物終始。不誠無物。是故君子誠之爲貴。天下之物、皆實理之所爲。故必得是理、然後有是物。所得之理旣盡、則是物亦盡而無有矣。故人之心一有不實、則雖有所爲亦如無有。而君子必以誠爲貴也。蓋人之心能無不實、乃爲有以自成、而道之在我者亦無不行矣。
【読み】
誠は物の終始。誠あらざれば物無し。是の故に君子は誠を貴しとす。天下の物は、皆實理の爲す所なり。故に必ず是の理を得て、然して後に是の物有り。得る所の理旣に盡きれば、則ち是の物も亦盡きて有ること無し。故に人の心一つも實ならざること有れば、則ち爲す所有りと雖も亦有ること無きが如し。而して君子は必ず誠を以て貴しとす。蓋し人の心能く實ならざること無ければ、乃ち以て自ら成ること有りと爲して、道の我に在る者も亦行われざること無し。

誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也。成物知也。性之德也。合外内之道也。故時措之宜也。知、去聲。○誠雖所以成己、然旣有以自成、則自然及物、而道亦行於彼矣。仁者體之存、知者用之發。是皆吾性之固有、而無内外之殊。旣得於己、則見於事者、以時措之、而皆得其宜也。
【読み】
誠は自ら己を成すのみに非ず。以て物を成す所なり。己を成すは仁なり。物を成すは知なり。性の德なり。外内を合わせたるの道なり。故に時に之を措くこと宜し。知は去聲。○誠は以て己を成す所と雖も、然れども旣に以て自ら成すこと有れば、則ち自然に物に及んで、道も亦彼に行わる。仁は體の存、知は用の發。是れ皆吾が性の固有にして、内外の殊なり無し。旣に己に得れば、則ち事に見るる者、時を以て之を措き、皆其の宜しきを得るなり。

右第二十五章。言人道也。
【読み】
右第二十五章。人道を言うなり。


○誠者自成云云。天道は少しも手を付ぬ。学者のとふくから見てをることなり。人道は學者のそろ々々かかることなり。学者のかかるには前に致曲と云。あそこがかかる処なり。なれともあそこも致曲が人道で、あとは天道なり。此章も力をそへるやふなことは一字もない。その力をそへぬやふな処が人道になると云が大事の見処なり。云ぬ誠が云にまさると云やふなもので、力を着ることかなけれはないほど力を着ることになる。段々と此章を読て見るとしれる。初節道体、二節功夫、三節効つまる処。道体をかたるうちに為学になることを合点すべし。それに付ても道体は天、為学は人かする。四つづつ揃て云ふて道あり。二十七章なり。又此章なとはそれは天道ではないかと云に、人道になるか此章の主意なり。天地から人間禽獣草木みな誠で成就。それから人もそれ。牛や馬てもなんにも外の助力を假らずに自分が手に成就する。自成なり。蕃椒の辛、砂糖の甘。蕃椒なりに辛く、砂糖なりに甘ひ。御無心ながらちと借用と云ことは天地の間にはない。これは何でたとへても同ことで限りはない。火の燃へ水の流れ、みなそれなり。そこを自成と云なり。此章爰が主なり。わるふみると誠者自成、これか片方、道は自道、これが片方で、両掛の狹箱のやふにみたがる。それがわるい。誠者自成ぎりのことだ。而の字、誠は自成の道体をかためてをいて、そふしてをいてと云ことなり。誠自成はきっと上み下もて云こと。而はそふして吸物酒すみ、肩衣とって道は自道と云やふなものなり。あじな弁て云やふなれども、二つ同并べさせまい弁なり。誠と道を二はなにせぬやふにみること、この章の第一見なり。
【解説】
「誠者自成也。而道自道也」の説明。天道は他の手を借りることはなく、自ら成るもの。この章の主意は、天道を言って人道になるということ。ここは二鼻で見るのではなく、「誠者自成也」で、それで「道自道也」であるということ。
【通釈】
○「誠者自成云云」。天道は少しも手を付けないもので、学者が遠くから見ているもの。人道は学者がそろそろ掛かるもの。学者が取り掛かるには前に「致曲」とある。あそこが掛かる処である。しかしながら、あそこも致曲が人道で、あとは天道である。この章も力を添える様なことは一字もない。その力を添えない様な処が人道になるというのが大事な見処である。言わぬ誠が言うに優るという様なもので、力を着けることがなければないほど力を着けることになる。それは段々とこの章を読んで見るとわかる。初節は道体で、二節は功夫、三節は効の詰まる処。道体を語る内に為学になることを合点しなさい。それに付けても道体は天、為学は人がする。四つずつ揃えて言うので道がある。二十七章である。またこの章などはそれは天道ではないかと言うに、人道になるのがこの章の主意である。天地から人間禽獣草木が皆誠で成就する。それから人もそれ。牛や馬でも何も他の助力を借りずに自分の手で成就する。「自成」である。蕃椒は辛く、砂糖は甘い。蕃椒なりに辛く、砂糖なりに甘い。御無心ながら一寸借用ということは天地の間にはない。これは何で譬えても同じことで限りはない。火の燃え水の流れるのは皆それ。そこを自成と言う。この章はここが主である。悪く見ると「誠者自成」が片方、「道自道」が片方で、両掛の鋏箱の様に見たがるが、それが悪い。誠者自成ぎりのこと。「而」の字は、誠者自成の道体を固めて置いて、そうして置いてということ。誠者自成はきっと裃で言うこと。而はそうして吸物や酒も済んで、肩衣を取って道自道と言う様なもの。変な弁で言う様だが、二つを同じく並べさせないための弁である。誠と道とを二鼻にしない様に見ることが、この章の第一見である。
【語釈】
・致曲…中庸章句23の語。

○道は誠のわれたものなり。誠のこまかあたりなり。○朱子誠は自成の句を孤立懸空と云。これを蒙引がみちがへて未定の説と云。さすが直方先生看て取られた。牛の角のやふなことではないとなり。朱子の章句も孤立懸空から定りて出来たものなり。○合羽傘と云、孤立懸空でない。合羽を相手にする。誠は自成の句は、丁ど傘ばかりを開てしゃんとさしあけ持てをるやふなが孤立懸空なり。その傘をすぼめると細にひだがあり、骨がなんぼんとしれる。道自道なり。一年は誠。その内に四時あり、三百六十日と分れた処は道自道なり。○凡そ語類の説に章句の張本になるもあり、羽翼になるもある。此章孤立懸空などは章句の張本になる語なり。
【解説】
朱子が誠者自成の句を孤立懸空と言った。孤立懸空な中に筋がある。それが道自道である。
【通釈】
○道は誠の破れたもの。誠の細か当たりである。○朱子が「誠者自成」の句を孤立懸空だと言った。これを蒙引が見違えて未定の説と言った。流石に直方先生が看て取られ、牛の角の様なことではないと言った。朱子の章句も孤立懸空から定まって出来たもの。○合羽傘というのは孤立懸空ではない。合羽を相手にする。誠者自成の句は、丁度傘ばかりを開いてしゃんと差し上げて持っている様なことで、それが孤立懸空である。その傘を窄めると細かに襞があり、骨が何本あると知れる。それが「道自道」である。一年は誠。その内に四時があり、三百六十日と分かれた処は道自道である。○凡そ語類の説には章句の張本になるものもあり、羽翼になるものもある。この章の孤立懸空などは章句の張本になる語である。
【語釈】
・朱子誠は自成の句を孤立懸空と云…朱子語類64。「誠者自成也。而道自道也。上句是孤立懸空說這一句、四旁都無所倚靠」。

註。物と人とわけて註してあるを気を付てみよ。物に一切衆生垩凡牛馬一つに云ことなり。なずなのこまのつめのと云までが自成。外はからぬ。○道は物をはらいのけて語るが朱子の御趣向なり。當の字あるゆへ毎々工夫の字と看ちがへてをったが、當然の當の字でも工夫字と見ることではない。天命章の當行の字も工夫はない。このごろまて人能弘道非道弘人の語のやふに思ふてをったが、けっしてそふでない。道は為堯桀の不存亡と云て自然と立てをるものなり。そんならばとてすててをいては行れぬ。去によって道不行とも云てあり。そこで人の自行と云。先つこれで一くさりすんだ。ここに一つ吟味と云は、自の字三つありて皆自らと読が定説なり。ときに山崎先生自[おのづか]らと点付たはあやまりなり。文會に大全者を引て、許氏なり。みずからをのつからと引て分てある説はわるい。皆自[みずから]と見ることじゃ。語類からあやまりたらふと云てあり。そこて自らとよむことなり。文會自字皆独自也。自成前後同矣。ときに四書の点はたび々々改ることなれば文會より四書の方がよい筈なれども、此章は文會がよい。嘉点本天道人道さへ書き違へたなりであれば、文會がよいときめてをくこと。さて其上にあとから直方・三宅二先生が出てとかくみつからとよむがよいと定たことなれば、をのづからとあらふともみづからとよむべし。さて大全者のとりちがへも語類からとりちかへたと云てある。その語類を直方の便講へ引てあり。然れは語類説わるいではなく、大全の説は語類をとりちかへた。語類の説に自然の二字あるは、誠は自然とより外云はれぬ筈。あの自然の字が誠自成の自の字を云たではなきなり。
【解説】
「道也之道、音導。○言誠者物之所以自成、而道者人之所當自行也」の説明。物とは、一切衆生聖凡牛馬を一つに言うこと。道は物を払い除けて語るのが朱子の御趣向である。道は自然と立っているが、放って置いては道は行われない。自を山崎先生がおのずからと点を付けたのは誤りである。
【通釈】
註。物と人とを分けて註をしてあるのを気を付けて見なさい。物とは、一切衆生聖凡牛馬を一つに言うこと。薺や駒の爪というものまでが自成で、他を借りない。○道は物を払い除けて語るのが朱子の御趣向である。「當」の字があるので毎々の工夫の字と看違えていたが、当然の当の字でも工夫の字と見ることではない。天命の章の当行の字も工夫はない。この頃まで「人能弘道、非道弘人」の語の様に思っていたが、決してそうではない。道は堯の為に存せず、桀の為に亡びずと言って自然と立っているもの。それならと捨てて置いていては行われない。そこで「道不行」とも言ってある。そこで「人之所當自行」と言う。先ずこれで一くさり済んだ。ここに一つ吟味があると言うのは、自の字が三つあって皆自[みずか]らと読むのが定説である。時に山崎先生が自[おの]ずからと点を付けたのは誤りである。文会に大全者を引いて、許氏である。みずからおのずからと引いて分けてある説は悪い。皆自[みずか]らと見ること。語類から誤ったのだろうと言ってある。そこで自らと読むこと。文会の自の字は皆独自である。自成の前後同じ。時に四書の点は度々改めるものであれば文会より四書の方がよい筈だが、この章は文会がよい。嘉点本は天道人道さえも書き違えた様であれば、文会がよいと決めて置きなさい。さてその上に後から直方・三宅二先生が出てとかくみずからと読むがよいと定めたのだがから、おのずからとあってもみずからと読みなさい。さて大全者の取り違えも語類から取り違えたと言ってある。その語類を直方が便講に引いてある。それなら語類の説が悪いのではなくて、大全の説は語類を取り違えたのである。語類の説に自然の二字があるのは、誠は自然とより他に言えない筈。あの自然の字は「誠者自成」の自の字を言ったのではない。
【語釈】
・人能弘道非道弘人…論語衛靈公28。「子曰、人能弘道。非道弘人」。
・道は為堯桀の不存亡…荀子天論篇。「天行有常。不爲堯存、不爲桀亡」。
・道不行…論語公冶長6。「子曰、道不行、乘桴浮于海」。
・語類の説に自然の二字ある…朱子語類64。「誠者、是箇自然成就底道理、不是人去做作安排底物事。道自道者、道卻是箇無情底道理、卻須是人自去行始得」。

○和訓の違ふもわけがちがふからのこと。みづからと云訓は身と云訓から自身とつついて、身からと云ことでみずからと訓ず。をのずからと云訓は自己と云てをのれと云から、そのをのれをはなさずをのつからと訓たものなり。つまり一つことのやふなれども、あたりはちがふことなり。唐人が云へばとちも同ことと云にあらず。唐人があたりをちがへるから和訓にするにもあたりがちがへる。これ点の吟味なり。某面白ないことを云と思ふが、此章面白くなく云に入用あることなり。直方先生云、書にも此章には手は付ぬとなり。そんなら直方先生の手を付たかと云に、韞藏四巻の説もつかまへ処に手はつけぬ。さて三の自字独自にてみづからとよむにして、そのみづからに皆あたりあり。自成。外を假らぬこと。無假借なり。自足なり。万物皆備於我のきみ。自足の自なり。自道。外をたのまずこちですること。不倚頼也。為仁依己と云やふなもの。自成己。あいてを取て云こと。自他のわけなり。欲己立立人と云やふなもの。自と云口の下にじきに物を成と云、己立と云口の下にじきに人を立と云までのこと。
【解説】
みずからという訓は身という訓から自身と続いて、身からということ。おのずからという訓は自己と言って己というから、その己を離さずにおのずからと訓じたもの。「自成」は他を借りないこと。「自道」は他を頼まずにこちらですること。「自成己」は相手を取って言うこと。
【通釈】
○和訓が違うのも訳が違うからのこと。みずからという訓は身という訓から自身と続いて、身からということでみずからと訓じる。おのずからという訓は自己と言って己というから、その己を離さずにおのずからと訓じたもの。つまりは一つことの様だが、当たりは違う。唐人が言えばどちらも同じことということではない。唐人が当たりを違えるから和訓にするにも当たりを違える。これが点の吟味である。私が面白くないことを言うと思うが、この章は面白くなく言うことに入り用があるのである。直方先生が、書にもこの章には手は付けないとあると言った。それなら直方先生が手を付けたかと言えば、韞蔵四巻の説も捉まえ処に手は付けない。さて三つの自の字は独自にてみずからと読むことにして、そのみずからに皆当たりがある。「自成」。他を借りないこと。無仮借である。自足である。「萬物皆備於我」の気味。自足の自である。「自道」。他を頼まずにこちらですること。不倚頼である。「爲仁由己」と言う様なもの。「自成己」。相手を取って言うこと。これが自他の分けである。「己欲立而立人」という様なもの。自と言う口の下に直に物を成すと言い、己立つと言う口の下に直に人を立つと言うまでのこと。
【語釈】
・万物皆備於我…孟子盡心章句上4。「孟子曰、萬物皆備於我矣」。
・為仁依己…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、「克己復禮、爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由仁乎哉」。
・欲己立立人…論語雍也28。「夫仁者、己欲立而立人。己欲達而達人」。

○誠以心言云云。さふここがこと々々くむつかしい。先つ朱子の全体の思召、孤立懸空へ相手をとらぬ。そこて本也用なりは、相手を取らぬ注と看べし。なんでも文字には對待と云あり。本末とつつけは、末は本のあいてになる。体用とつつけは、体は用の相手になる。ここを對待に説くと孤立懸空でない。かの牛の角并たやふになる。そこで本末の体用のと云仕向の章句でなく、はなれ々々々にとくが孤立懸空なり。本用とつつかぬ、連綿せぬ、對待せぬ、承應せぬやふな文字のつかいやふをなさるるは深意あり。雪蹈かた々々、下駄かた々々な文字のつかいやふをみよ。ここがすま子ばこの章手に入らぬ。
【解説】
「誠以心言、本也。道以理言、用也」の説明。「本也」「用也」は、相手を取らない。離れ離れに説くのである。
【通釈】
○「誠以心言云云」。さあここが悉く難しい。先ず朱子の全体の思し召しは、孤立懸空で相手を取らない。そこで、「本也」「用也」は、相手を取らない注だと看なさい。何でも文字には対待ということがある。本末と続けば、末は本の相手になる。体用と続けば、体は用の相手になる。ここを対待に説くと孤立懸空でなく、彼の牛の角を並べた様になる。そこで本末や体用という様な仕向けの章句ではなくて、離れ離れに説くのが孤立懸空なのである。本用とは続かず、連綿せず、対待せず、承応しない様な文字の使い様をなされるのには深意がある。雪踏旁、下駄旁な文字の使い様を見なさい。ここが済まなければこの章は手に入らない。

○本なりの出所、通書の誠垩人之本、又五常之本の本なり。百両の金を包でをくやふなものなり。様々なことが皆此百両の本から出来る。今云、酒の本をかけるの本。或はわかい人にものをふるまふに、元とは澤山だ、たっぷりと食へと云夲なり。郷黨一篇、さま々々なことみな誠の夲から出る。そこて体と云とは違ふ。体と云と似たやふで違ふ。丁ど口てつく息と鼻からつく息のやふなもので、鄰あはせなものなり。なれどもどふも体とはかかれぬ。喜怒哀楽未発は体、発而中節は用。体用は同格なり。誠道を体用と云と五两の金と百両の金が同格になる。体用とかかれぬは此わけなり。此用字、どこから出たと云出処はない。それとも出処がほしいかと云ときに、易の顕仁藏用なり。あれもここの出処にはならぬなれとも、易の藏用は体を相手にせぬ用の字ゆへ、若しや出処にもならかなりと云ことじゃ。録得好し。このやふなことを云もなんの為なれば、体用の用ではないと云ことをみせるためなり。道は誠を小く切てつこふことなり。礼義三百威儀三千、みな誠のわれたものゆへ銭一文も小判の端と云。誠と云ことばかり説て、其われて出たが道しゃと云たものなり。ここが孤立懸空なり。これて本用のことは大槩すんだ。誠は百両さいふの中に足りてをる。自成る本なり。その百両から十金は大工、五両は衣類、さて鳥目て手掛一つかふたまでかの百両のわれたので、そのわれたのが道自道の用なり。体用と云、百兩と手掛かふた銭と同格になる。この本から手掛もかふたと、百兩が手掛にわれたとみたもの。
【解説】
「本」とは、百両の金の様なもので、そこから色々な物を買う。本が破れて出たのが道であり、それが「用」である。これは体用とは違う。体と用は同格である。
【通釈】
○「本也」の出所は、通書の「誠、聖人之本」、また「五常之本」の本である。それは百両の金を包んで置く様なもの。様々なことが皆この百両の本から出来る。今言う、酒の本を掛けるの本。或いは若い人にものを振舞うのに、元は沢山だ、たっぷりと食えと言う時の本である。郷党の一篇の様々なことは皆誠の本から出る。そこで体というのとは違う。体と言うのは似た様で違う。丁度口でつく息と鼻からつく息の様なもので、隣合せなものなのだが、どうも体とは書けない。「喜怒哀樂未發」は体、「發而中節」は用。体用は同格である。誠と道を体用と言うと、五両の金と百両の金が同格になる。体用と書かれなかったのはこの訳だからである。この用の字は、何処から出たという出処はない。それでも出処が欲しいかと言う時に、それは易の「顯仁藏用」である。あれもここの出処にはならないものだが、易の蔵用は体を相手にしない用の字なので、若しや出処にもなろうかということだ。録し得て好し。この様なことを言うのも何の為かというと、体用の用ではないということを見せるためである。道は誠を小さく切って使うこと。礼儀三百威儀三千、皆誠の破れたものなので銭一文も小判の端と言う。誠ということばかりを説いて、その破れて出たのが道だと言ったもの。ここが孤立懸空である。これで本用のことは大概済んだ。誠は百両が財布の中にあって足りている様なもの。自ら成るの本である。その百両から十金は大工、五両は衣類、さて鳥目で手掛を一つ買ったことまでが彼の百両の破れたものであり、その破れたのが道自道の用である。体用と言うと、百両と手掛を買った銭とが同格になる。この本から手掛も買ったのだと、百両が手掛に破れたと見たもの。
【語釈】
・誠垩人之本…通書誠上。「誠者、聖人之本」。
・五常之本…通書誠下。「聖、誠而已矣。誠、五常之本」。
・顕仁藏用…易經繫辭傳上5。「顯諸仁、藏諸用、鼓萬物而不與聖人同憂。盛德大業至矣哉」。

さて以心言以理言。物と云からは理と書きそふなものを心と云、道は人のとあるからは心と書そふなものを理と云。あちらこちらにかたりた。本文は天人万物こめてかたるは、天でかたれば実理、人でかたれば実心なり。そこで人物こめたものなれとも、以心言と云が此章の主なり。此章人道ゆへ人で云たい。道体でかたりても、はきよせる処は人が主なり。そこて以心言。こふ云はぬとあとの工夫か面白ない。周子の通書太極圖と同ことなれとも、通書では太極と云はずに誠とばかり云。○親には孝、君には忠、それ々々に出るは以理言。
【解説】
本文は天人万物を込めて語るので、天で語れば実理、人で語れば実心である。この章は人道なので、「以心言」が主となる。
【通釈】
さて「以心言、以理言」。「誠者物之所以自成」と言うからは理と書きそうなものを心と言い、「道者人之所當自行也」とあるからは心と書きそうなものを理と言う。あちらこちらに語った。本文は天人万物を込めて語れば、天で語れば実理、人で語れば実心である。そこで人物を込めたものなのだが、「以心言」というのがこの章の主である。この章は人道なので人で言いたい。道体で語っても、掃き寄せる処は人が主である。そこで以心言。この様に言わないと後の工夫が面白くない。周子の通書は太極図と同じことなのだが、通書では太極と言わずに誠とばかり言う。○親には孝、君には忠、それぞれに出るのは「以理言」。

○誠者物之終始云云。これから工夫。工夫と云て力贅を出てすることではない。工夫の着処を云ことなり。それゆへこれもやはり道体なり。なんでも一切衆生誠で出來て誠で死ぬ。人で生れて人で死ぬ。生れるときは犬で、人になって死だと云ことはない。それゆへ誠は物終始と云。火が水になり水が火になれは終始とは云はれぬ。天地の間誠でもったものじゃ。不誠無物。不誠無物はちょっと看と看にくい字なり。すくに上の終始と云ことを説たものなり。木で有ふか金てあらふかと云物はない。木なら木、金なら金。子も誠でない子はもたぬにはをとる。供も、向からをいはぎの出たときに旦那より先きへにげるなればつれぬにはをとる。司馬牛が人皆有兄弟我独無しと云も、ありはあっても孔子を殺ふと云兄ゆへ無兄弟と患ぬ。○禽獣草木いつも誠。人ばかりをりふし誠でない。それなれば人ではない。朱子の萬正淳に中庸不誠無物、不の字を気を付よ。だが不にするそとなり。天が誠の建立すれば人が人欲で不の字の建立をする。
【解説】
「誠者物終始。不誠無物」の説明。一切衆生は誠で出来て誠で死ぬ。天地の間は誠で保っている。しかし人だけが折節誠ではない。天が誠の建立をすれば人が人欲で「不誠無物」の不の字の建立をする。
【通釈】
○「誠者物終始云云」。これからが工夫。工夫と言っても力瘤を出してすることではない。工夫の着け処を言うこと。そこでこれもやはり道体である。何でも一切衆生は誠で出来て誠で死ぬ。人で生まれて人で死ぬ。生まれる時は犬で、人になって死んだということはない。そこで「誠者物終始」と言う。火が水になり水が火になれば終始とは言えない。天地の間は誠で保っているもの。「不誠無物」。不誠無物は一寸看ると看難い字だが、直ぐに上の終始ということを説いたもの。木だろうか金だろうかという物はない。木なら木、金なら金。子も誠でない子は持たないよりも劣る。供も、向こうから追剥が出た時に旦那より先に逃げるのであれば連れないよりも劣る。司馬牛が「人皆有兄弟。我獨亡」と言ったが、あることはあっても孔子を殺そうとする兄なので兄弟無しと患う必要はない。○禽獣草木は何時も誠で、人ばかりが折節誠ではない。誠でなければ人ではない。朱子が萬正淳に中庸の不誠無物の不の字を気を付けなさい。誰が不にするのかと言った。天が誠の建立をすれば人が人欲で不の字の建立をする。
【語釈】
・司馬牛が人皆有兄弟我独無し…論語顏淵5。「司馬牛憂曰、人皆有兄弟。我獨亡」。
・無兄弟と患ぬ…論語顏淵5。「君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也」。
・だが不にするそ…朱子語類64。「正淳問、誠者物之終始。不誠無物。此二句是汎說。故君子誠之爲貴。此卻說從人上去。先生於不誠無物一句亦以人言、何也。曰、誠者物之終始、此固汎說。若是不誠無物、這箇不字、是誰不他。須是有箇人不他、方得」。

○誠之為貴。誠が大事なものじゃと知らせるで工夫になる。身代のよい町人が子を呼て、金と云は大事なものじゃと、金の大事な講釈をするやふなものなり。ここがさっきちらと云、云はぬ誠か云にまさるになり。金をみだりにつかふなと云はずに大事なものと示すで工夫になる。山崎先生、之を誠にすると云点わるし。此章の点は不手際じゃ。これは論語の改之為貴の字例じゃと直方先生云へり。やかましい吟味いらずに之をとは読まれぬ。之をと読む処なれば、唐人は此文例が大晦日ほといそかしくてももふ一つ之の字を入る。有若のやふな舌のたらぬやふな文でも之をと読せる気なれば、もふ一つ之の字を入。そうしたことゆへ章句にはあたまで一字の之の字もなし。かしましと植木やが松の枝伐てをとしたやふに、朱子は之の字伐てのけた。
【解説】
「是故君子誠之爲貴」の説明。山崎先生が之を誠にするとした点は悪い。之をと読むのであれば、之之とすべきである。
【通釈】
○「誠之爲貴」。誠が大事なものだと知らせるので工夫になる。これは身代のよい町人が子を呼んで、金というものは大事なものだと、金の大事な講釈をする様なもの。ここが先ほどちらりと言った、言わぬ誠が言うに優るである。金を妄りに使うななどとは言わずに大事なものだと示すので工夫になる。山崎先生の之を誠にするという点は悪い。この章の点は不手際である。これは論語の「改之爲貴」の字例だと直方先生が言った。喧しい吟味は要らず、之をとは読めない。之をと読む処であれば、唐人はこの文例が大晦日ほどに忙しくてももう一つ之の字を入れる。有若の様な舌の足りない様な文でも之をと読ませる気であれば、もう一つ之の字を入れる。そうしたことなので、章句には最初から一字の之の字もない。囂しいと植木屋が松の枝を伐って落とした様に、朱子は之の字を伐って除けた。
【語釈】
・改之為貴…論語子罕23。「子曰、法語之言、能無從乎。改之爲貴。巽與之言、能無說乎。繹之爲貴。說而不繹、從而不改。吾末如之何也已矣」。

註。百目掛の蝋蠋も、とぼしてしまへはもふしまふ。是の物亦尽云云。尽はなくなることなり。尽心尽性の尽でない。日食之既と、春秋に杜豫既は尽也。讀書疏廣飲食費且尽。又詩罄桮も尽なり。一舛の酒すぎたなり。○故人之心。本文の是故ではなく、人の心と云もののそふしゃと云の故なり。そふした道理ゆへに人の心もなり。○万物のなくなるはよくしれるが、心のなくなるは視へぬ。そこて亦如と云字面白。○芝居へいきながら悔に行ば、御笑止と云ながら心は芝居ぞ。悔が悔には立ぬ。笑ながら膳をそなへれば、祭をしてもせぬやふなもの。なぜ如しと云へば、料理を并べ神主も出てあるから祭には極たれとも、祭らぬも同こと。雖有所爲亦如無有。○而君子の而か本文の是故に當る。○亦如無有。日々三性の養を用と雖とも猶不孝とすと云が、これで心が誠でなければみな有こと無が如なり。誠なしにわざですることはみな是れなり。○盖。なぜ子思がこふ云はしゃると思ふに盖し。人の心なんにも外のことは入らぬ。不実のないやふにと心掛ることなり。学者赤面にたへぬことなり。子思誠自成と云ても筭用合て銭不足なり。そこを不実でないやふにすると自成になると云ことじゃ。盖以下は本文の文意ともに埒を明て、さてと一つ子思の思召をかたるなり。○親に孝行なれば背をさする。不孝でさすると云なれば、さすりはすれともさするでない。直方先生云、此章誠は々々とうるさいほど誠と云立る、と。これも誠と云ばかりにみせる説なり。
【解説】
「天下之物、皆實理之所爲。故必得是理、然後有是物。所得之理旣盡、則是物亦盡而無有矣。故人之心一有不實、則雖有所爲亦如無有。而君子必以誠爲貴也。蓋人之心能無不實、乃爲有以自成、而道之在我者亦無不行矣」の説明。ここの「盡」は無くなること。心が誠でなければ皆有ること無きが如きである。誠なしに業ですることは皆これ。そこで、不実のない様にと心掛けるのである。
【通釈】
註。百目掛の蝋燭も、灯してしまえばもう仕舞う。「是物亦盡云云」。尽はなくなることで、尽心尽性の尽ではない。春秋に「日食之。既」とあり、杜豫が「旣、盡也」と言う。読書疏広、飲食費且つ尽。また詩の罄桮も尽である。一升の酒が過ぎたのである。○「故人之心」。本文の是故ではなく、人の心というものもそうだという故である。そうした道理なので人の心もということ。○万物がなくなるのはよくわかるが、心がなくなるのは視えない。そこで「亦如」という字が面白い。○芝居へ行きながら悔みに行けば、御笑止と言いながら心は芝居である。悔みが悔みに立たない。笑いながら膳を具えれば、祭をしても、しない様なもの。何故如しと言うかというと、料理を並べて神主も出してあるから祭には極まったが、それは祭らないのも同じこと。「雖有所爲亦如無有」である。○「而君子」の而が本文の是故に当たる。○「亦如無有」。「雖日殺三性之養、猶爲不孝」と言うのが、心が誠でなければ皆有ること無きが如きである。誠なしに業ですることは皆これ。○「蓋」。何故子思がこの様に言われたのかと思っての蓋しである。人の心に何も他のことは要らない。不実のない様にと心掛けるのである。学者赤面に堪えないこと。子思が「誠者自成」と言っても算用合って銭不足である。そこを不実でない様にすると自成になるということ。蓋以下は本文の文意共に埒を明けて、さてと一つ子思の思し召しを語る。○親に孝行であれば背をさする。不孝でさするというのであれば、さすりはしてもさするではない。直方先生が、この章、誠は誠はと煩いほどに誠と言い立てると言った。これも誠ということばかりを見せる説である。
【語釈】
・日食之既と、春秋に杜豫既は尽也…春秋左氏傳桓公3年。「六月、公會杞侯于郕。秋、七月、壬辰朔、日有食之。旣」。注に「旣、盡也」とある。
・罄桮…詩經小雅蓼莪。「缾之罄矣、維罍之恥」。桮は盃。
・笑止…気の毒なこと。同情すべきこと。
・日々三性の養を用と雖とも猶不孝とす…旧唐書列伝41。「雖日殺三性之養、猶爲不孝」。

○誠者非自成己而已云云。又誠誠でしまふ章じゃ。子思の道は自道はついでに云はれたじゃ。○ここは効で、我誠になると、人とは気もつかぬのにおのづから人へも及ぶことなり。大学なれば成己は明々德、成物は新民。ここは似たやふで大学とちがふ。大学では明德新民をかかさず云。明德ばかりでも新民がなら子ばほんのことではない。中庸は効て、こちが誠になれば、その餘りが人へもおのづとをよぶことなり。たとへは大学は、をれも夜ちょふちんをつけるゆへ人へもちゃふちんを借すと云が明德新民。中庸は夜ちゃふちんをとぼしてあるく。どこかの人がこちのちゃふちんでどぶへもをちずに御蔭を蒙て帰るのじゃ。所以と云字でも大学と當りかちかふかみへる。大学ではきっはり々々々々と一つ々々に云ことなり。ここはひとつ々々々でない。
【解説】
「誠者非自成己而已也。所以成物也」の説明。ここは効のことで、自分が誠になると、人は気が付かないのに自ずから人へも及ぶ。これは大学に似ているがそれとは違う。例えば大学は、俺も夜提灯を点けるので人へも提灯を貸すというのが明徳新民。中庸は夜提灯を灯して歩くので、何処かの人がこちらの提灯で溝へも落ちずに御蔭を蒙って帰るということ。
【通釈】
○「誠者非自成己而已云云」。また誠で仕舞う章である。子思の「道自道」は序でに言われたこと。○ここは効で、自分が誠になると、人は気が付かないのに自ずから人へも及ぶこと。大学であれば「成己」は明明徳、「成物」は新民だが、ここは似た様で大学とは違う。大学では明徳新民を欠かさずに言う。明徳ばかりでも新民がならなければ本当のことではない。中庸は効で、こちらが誠になれば、その余りが人へも自ずと及ぶこと。例えば大学は、俺も夜提灯を点けるので人へも提灯を貸すというのが明徳新民。中庸は夜提灯を灯して歩く。何処かの人がこちらの提灯で溝へも落ちずに御蔭を蒙って帰るということ。「所以」という字でも大学と当たりが違うのが見える。大学ではきっぱりと一つ一つに言うが、ここは一つ一つではない。
【語釈】
・所以と云字でも大学と當りかちかふかみへる…大學傳9。「所謂治國必先齊其家者、其家不可敎而能敎人者、無之。故君子不出家而成敎於國。孝者、所以事君也。弟者、所以事長也。慈者、所以使衆也」。大学では「孝者、所以事君也。弟者、所以事長也。慈者、所以使衆也」と一つ一つに言う。

○成己仁云云。論語にも克己復礼爲仁とあり。医者で云へば、此方上手になるは仁、療治をして人の病を直すは知なり。○誠はすぐに性の德じゃ、と。さて誠は自成は天命性、道は自道は率性道と云。このやふな説は某などはきらいなり。はつれもない説なれども面白ない。丁ど今時分の鯛うしを、すいくちに大きなさんしょの葉を入れて出すやふなものなり。中庸天命性はとこへもはつれぬなれば、云て云はれぬことはないが、二十章誠を云出し誠と云からは、天命性とあてるに及ぬこと。但しここは仁知と云から性の德と云は子ばならぬ。天命之性、循性之道はきっとをし並ふ性道なり。去るによって大本は天命之性。達道は循性之謂と体用と章句てきめてをき、ここは体用と出さず本と用としたには甚わけのあることなり。するに自成は天命性、自道は循性の道と云ては朱子の意は皆になってしまふなり。○大全の饒氏か説の己と物は内外なれとも、仁と知は己が性の德なれば内外を合せて一つしゃの説を、三宅先生一意あることゆへ考へてみよと云てあり。三宅先生は丁寧な學問で某などのやふな麤いことではない。其三宅先生が斯ふ云てをくなれは、これも考に具ふへし。たたいは己を成し物を成し、こちと向との内外を合たる道と云ことなり。○時措冝。堯舜の禅受、湯武の放伐、時措之冝なり。素冨貴行冨貴素貧賎行貧賎。皆時中なり。允執其中。中を恰好とも。時措之冝を云てするゆへよい。燕王之會は時措きそこなふたなり。
【解説】
「成己仁也。成物知也。性之德也。合外内之道也。故時措之宜也」の説明。医者で譬えると、自分が上手になるのは仁、療治をして人の病を治すのは知である。ここは本と用とで語っているのだから、中庸初章で言っては台無しである。また、仁と知は自分の性の徳であれば、内外を合わせて一つである。
【通釈】
○「成己仁云云」。論語にも「克己復禮爲仁」とある。医者で言えば、自分が上手になるのは仁、療治をして人の病を治すのは知である。○誠は直ぐに「性之德」だと言う。さて「誠者自成」は天命性、「道自道」は「率性道」だと言う。この様な説は私などは嫌いである。外れもない説ではあるが面白くない。それは丁度今時分の鯛潮の吸口に大きな山椒の葉を入れて出す様なもの。中庸の天命性は何処にも外れないものであれば、言って言えないことはないが、二十章に誠を言い出して誠と言うからは、天命性に当てるには及ばない。但しここは「仁」「知」と言うからは、「性之德」と言わなければならない。「天命之性」、「循性之道」はきっと推し並ぶ性道である。そこで「大本者、天命之性」、「達道者、循性之謂」と体用と章句で決めて置き、ここは体用と出さずに本と用としたのには甚だ訳のあること。そこを自成は天命性、自道は循性之道と言っては朱子の意は台無しになってしまう。○大全の饒氏の説の己と物は内外のことだが、仁と知は自分の性の徳であれば、内外を合わせて一つだと言う説を、三宅先生が一意あることなので考えて見なさいと言ってある。三宅先生は丁寧な学問で私などの様な粗いことではない。その三宅先生がこう言って置くのであれば、これも考えに具えなさい。そもそも己を成し物を成し、こちらと向こうとの内外を合わせた道ということ。○「時措之宜」。堯舜の禅受、湯武の放伐は時措之宜である。「素富貴行乎富貴、素貧賤行乎貧賤」は皆時中である。「允執厥中」。中を恰好とも言う。時措之宜でするのでよい。燕王の会は時措き損なったのである。
【語釈】
・克己復礼爲仁…論語顏淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由人乎哉」。
・大本は天命之性。達道は循性之謂と体用と章句てきめてをき…中庸章句1集註。「大本者、天命之性。天下之理皆由此出。道之體也。達道者、循性之謂。天下古今之所共由、道之用也」。
・素冨貴行冨貴素貧賎行貧賎…中庸章句14。「素富貴行乎富貴、素貧賤行乎貧賤、素夷狄行乎夷狄、素患難行乎患難。君子無入而不自得焉」。
・允執其中…書經虞書大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
燕王之會

註。然は、これたけもふかった。自然に及物。こちは気か付ぬ。ここか大学と違ふ処。○道亦行。本文の合内外之道の道てはない。さっき子思が道は自道と云はれた道なり。致中和の下に修道之敎亦在其中もこの意なり。此章誠はかりなれとも、朱子のつきあいに云とはいたつらな弁を云がここなり。そこで朱子が又ここでつきやった。すべて誠なれども向へやる処丸ではやらぬ。そこて道は自道の道がわれて出たものぞ。孔子の丸がわれて顔曽になりたは道亦行於彼矣なれとも、それも誠ぞ。恭節竊謂、此章孤立懸空に説誠故に以及物謂誠。然に彼の及物者即道之用耳。○仁知は一つことなり。そこで体之存用之発と云。誠を主にしてをいて云口上なり。この体用は御定りの体用なり。ときに此存発を仁の惻隱、知の是非のやふに看たり、喜怒哀樂の未発ると云やふに看とちがふ。こっちにもってをる処で之存と云、人へ及ぶ処で之発と云。このやふな処はたれでも看ることはならぬ。直方先生などは、つまり世儒は下々に云、百日の飯一度にくふてもなり。直方の意、先君子の録にあり。此時先生拔聳言ふ之一序皆悚動せり。体之存は日月の光りのやふなもの。用之発は世界明るいやふなもの。日月が人の為に光りはせぬ。手前の方か光る。体存なり。それが人へ及ぶ。用之発なり。伊川先生、治喪不用浮屠は体之存、一二之人家化之は用の発。ここの体用は同し目方なり。此のやふにあらくすますべし。○以時措之云云。大文字は書よいが細ま書きは書にくいと云ことは義之や子昴にはない。○直方先生ここを読ときに、梅のはなに匂らん見る人の色をも香をも忘れぬる世にと云歌を詠せり。まづここにとり合ぬ哥なり。それをなぜ引たなれば、ここらは色をも香をも知る人で無れば知ぬことなり。それで直方先生の此歌をここへ引は自負とみへるぞ。恭節謂、函丈亦以深く自荷其意。学者尤了潜思。さりとは迷惑なり。東坡の易の注を作りたではなし。
【解説】
「知、去聲。○誠雖所以成己、然旣有以自成、則自然及物、而道亦行於彼矣。仁者體之存、知者用之發。是皆吾性之固有、而無内外之殊。旣得於己、則見於事者、以時措之、而皆得其宜也」の説明。ここの体用は御定まりの体用であり、同じ目方である。こちらに持っている処で「之存」と言い、人へ及ぶ処で「之發」と言う。
【通釈】
註。「然」は、これだけ儲かったということ。「自然及物」。こちらは気が付かない。ここが大学と違う処。○「道亦行」。本文の「合内外之道」の道ではない。先ほど子思が「道自道」と言われた道である。「致中和」の下にある「脩道之敎亦在其中」もこの意である。この章は誠のことばかりだが、朱子が突き合いに言うと悪戯な弁を言ったのがここ。そこで朱子がまたここで突いた。全て誠のことだが向こうへ遣る処は丸では遣らない。そこで道自道の道が破れて出たもの。孔子の丸が破れて顔曾になったのは「道亦行於彼矣」だが、それも誠である。恭節竊かに謂う、この章は孤立懸空に説く誠の故に物に及ぶを以て誠を謂う。然るに彼の物に及ぶ者は即ち道の用なるのみ、と。○仁と知は一つごと。そこで「體之存」「用之發」と言う。誠を主にして置いて言う口上である。この体用は御定まりの体用である。時にこの存発を仁の惻隱、知の是非の様に看たり、喜怒哀樂の未だ発らざるという様に看ると違う。こちらに持っている処で「之存」と言い、人へ及ぶ処で「之發」と言う。この様な処は誰でもが看ることではない。直方先生などは、つまり世儒は下々に言う、百日の飯一度に食ってもという様なものだと言った。直方の意は先君子の録にある。この時先生抜聳して言うの一序、皆悚動せり。体之存は日月の光の様なもの。用之発は世界中が明るい様なもの。日月が人の為に光りはしない。手前の方が光る。体之存である。それが人へ及ぶ。用之発である。伊川先生が言った「治喪不用浮屠」は体之存、「一二之人家化之」は用之発。ここの体用は同じ目方である。この様に粗く済ましなさい。○「以時措之云云」。大文字は書きよいが細書きは書き難いということは王羲之や陳子昂にはない。○直方先生がここを読む時に、梅の花に匂うらん見る人の色をも香をも忘れぬる世にという歌を詠じた。先ずはここに取り合わない歌である。それを何故引いたのかと言うと、ここらは色をも香をも知る人でなければ知れないことだからである。そこで直方先生がこの歌をここへ引いたのは自負と見える。恭節謂う、函丈亦以て深く自ら其の意を荷う。学者尤も潜思を了[さと]れ、と。実に迷惑なことである。蘇東坡が易の注を作った様なことではない。
【語釈】
・致中和の下に修道之敎亦在其中…中庸章句1集註。「此學問之極功、聖人之能事、初非有待於外、而脩道之敎亦在其中矣」。
・治喪不用浮屠…小學善行18。「伊川先生家、治喪不用浮屠。在洛亦有一二人家化之」。

右第二十五章。右予講する處甚拙けれとも、これて骨組となし、迂斎學話二十三巻を并考へば、ほぼ此章の意を得ん。意味は学話にあり。又佐藤氏韞藏録四巻載する説にて大くくりを片付け、意味は拾遺十九、正義録七にて得。但し先君之此録粗脱夛けれは看難けれども甚面白きことあり。
【通釈】
「右第二十五章」。右に予が講ずる処は甚だ拙いが、これで骨組となし、迂斎学話二十三巻を併せ考えれば、ほぼこの章の意を得ることだろう。意味は学話にある。また佐藤氏の韞藏録四巻に載せた説で大括りを片付け、意味は拾遺十九、正義録七にて得なさい。但し先君のこの録は粗脱が多ければ看難いものだが、甚だ面白いことがある。