大学章句序
大學之書、古之大學所以敎人之法也。蓋自天降生民、則既莫不與之以仁義禮智之性矣。然其氣質之稟或不能齊。是以不能皆有以知其性之所有而全之也。一有聰明睿智能盡其性者出於其閒、則天必命之以爲億兆之君師、使之治而敎之、以復其性。此伏羲・神農・黄帝・堯・舜、所以繼天立極、而司徒之職、典樂之官所由設也。三代之隆、其法寖備。然後王宮・國都以及閭巷、莫不有學。人生八歳、則自王公以下至於庶人之子弟、皆入小學、而敎之以灑掃・應對・進退之節、禮・樂・射・御・書・數之文。及其十有五年、則自天子之元子・衆子、以至公・卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學、而敎之以窮理、正心、脩己、治人之道。此又學校之敎、大小之節所以分也。夫以學校之設、其廣如此、敎之之術、其次第節目之詳又如此、而其所以爲敎、則又皆本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彝倫之外。是以當世之人無不學。其學焉者、無不有以知其性分之所固有、職分之所當爲、而各俛焉以盡其力。此古昔盛時、所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也。及周之衰、賢聖之君不作、學校之政不脩、敎化陵夷、風俗頽敗。時則有若孔子之聖、而不得君師之位以行其政敎。於是獨取先王之法、誦而傳之以詔後世。若曲禮・少儀・内則・弟子職諸篇、固小學之支流餘裔、而此篇者、則因小學之成功、以著大學之明法、外有以極其規模之大、而内有以盡其節目之詳者也。三千之徒、蓋莫不聞其説、而曾氏之傳獨得其宗。於是作爲傳義、以發其意。及孟子沒而其傳泯焉。則其書雖存、而知者鮮矣。自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學而無用、異端虚無寂滅之敎、其高過於大學而無實。其他權謀術數、一切以就功名之説、與夫百家衆技之流、所以惑世誣民、充塞仁義者、又紛然雜出乎其閒、使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之澤。晦盲否塞、反覆沈痼、以及五季之衰、而壞亂極矣。天運循環、無往不復。宋德隆盛、治敎休明。於是河南程氏兩夫子出、而有以接乎孟氏之傳。實始尊信此篇而表章之、既又爲之次其簡編、發其歸趣。然後古者大學敎人之法、聖經賢傳之指、粲然復明於世。雖以熹之不敏、亦幸私淑而與有聞焉。顧其爲書猶頗放失。是以忘其固陋、采而輯之、閒亦竊附己意、補其闕略、以俟後之君子。極知僭踰。無所逃罪。然於_國家化民成俗之意、學者脩己治人之方、則未必無小補云。
  淳熙己酉二月甲子
                新安朱熹序
【読み】
大學の書は、古の大學にして人を敎うる所以の法なり。蓋し天の生民を降すよりは、則ち既に之に與うるに仁義禮智の性を以てせざること莫し。然るに其の氣質の稟[う]けること或は齊しきこと能わず。是を以て皆以て其の性の有る所を知りて之を全くすること有ること能わず。一りも聰明睿智にして能く其の性を盡くす者其の閒に出づること有れば、則ち天は必ず之に命じて以て億兆の君師と爲して、之をして治めて之を敎えて、以て其の性に復らしむ。此れ伏羲・神農・黄帝・堯・舜の、天に繼ぎ極を立つる所以にして、司徒の職、典樂の官、由りて設くる所なり。三代の隆んなりし、其の法寖[ことごと]く備われり。然して後王宮・國都より以て閭巷に及ぶまで、學有らざること莫し。人生れて八歳なれば、則ち王公より以下、庶人に至るまでの子弟は、皆小學に入りて、之に敎うるに灑掃・應對・進退の節、禮・樂・射・御・書・數の文を以てす。其の十有五年に及びては、則ち天子の元子・衆子より、以て公・卿・大夫・元士の適子と、凡民の俊秀とに至るまで、皆大學に入りて、之に敎うるに理を窮め、心を正しくし、己を脩め、人を治むるの道を以てす。此れ又學校の敎、大小の節の分かたる所以なり。夫れ以[おも]んみれば、學校の設、其の廣きこと此の如く、之を敎うるの術、其の次第節目の詳かなること又此の如くにして、其の敎を爲す所以は、則ち又皆之を人君躬に行い心に得るの餘に本づき、之を民生日々に用うる彝倫の外に求むるを待たず。是を以て當世の人學ばざること無し。其の學ぶ者は、以て其の性分の固より有る所、職分の當に爲すべき所を知りて、各々俛焉として以て其の力を盡くすこと有らざる無し。此れ古昔の盛んなりし時の、治は上に隆んに、俗は下に美しき所以にして、後世の能く及ぶ所に非ず。周の衰うるに及びて、賢聖の君作[おこ]らず、學校の政脩まらず、敎化陵夷し、風俗頽敗す。時に則ち孔子の若き聖有りて、君師の位を得て以て其の政敎を行わず。是に於て獨り先王の法を取り、誦じて之を傳えて以て後世に詔[つ]げり。曲禮・少儀・内則・弟子職の諸篇の若きは、固に小學の支流餘裔にして、此の篇は、則ち小學の成功に因りて、以て大學の明法を著わし、外は以て其の規模の大なるを極むること有りて、内は以て其の節目の詳かなるを盡くすこと有る者なり。三千の徒、蓋し其の説を聞かざること莫くして、曾氏の傳、獨り其の宗を得たり。是に於て傳義を作爲して、以て其の意を發す。孟子沒せるに及びて其の傳も泯びたり。則ち其の書は存すと雖も、而れども知る者は鮮し。是より以來、俗儒の記誦詞章の習は、其の功小學に倍して用無く、異端の虚無寂滅の敎は、其の高きこと大學に過ぎて實無し。其の他權謀術數、一切に以て功名を就[な]すの説と、夫の百家衆技の流と、世を惑わし民を誣い、仁義を充塞する所以の者も、又紛然として其の閒に雜り出で、其の君子をして不幸にして大道の要を聞くことを得ず、其の小人をして不幸にして至治の澤を蒙ることを得ざらしむ。晦盲否塞、反覆沈痼して、以て五季の衰うるに及びて、壞亂極まりぬ。天運循環して、往きて復らざること無し。宋の德は隆盛にして、治敎は休明なり。是に於て河南の程氏兩夫子出で、以て孟氏の傳を接すること有り。實に始めて此の篇を尊信して之を表章し、既に又之が爲に其の簡編を次して、其の歸趣を發せり。然して後古者[いにしえ]の大學の人を敎うるの法、聖經賢傳の指、粲然として復た世に明らかなり。熹の不敏なるを以てすと雖も、亦幸に私淑して聞くこと有るに與れり。顧るに其の書爲る、猶頗る放失す。是を以て其の固陋を忘れ、采りて之を輯め、閒々[まま]亦竊かに己が意を附け、其の闕略を補いて、以て後の君子を俟つ。極めて僭踰なることを知る。罪を逃るる所無し。然れども國家の民を化し俗を成すの意と、學者の己を脩め人を治むるの方に於ては、則ち未だ必ずしも小補無くんばあらずと云う。
    淳熙己酉二月甲子
                  新安の朱熹序す

黙斎先生大學講義  天明六年丙午正月十六日 恭節席書
【語釈】
・天明六年丙午正月十六日…1786年1月16日。
・恭節…鈴木恭節。字は子長。長藏と称す。大網白里町清名幸谷の人。鵜澤近義の第三子。館林藩儒臣。文政13年(1830)11月10日没。年55。
・席書…集会の席などで、即興的に書画を書くこと。

大學序。大學を読むには兎角小學と云ことを忘れすに見ることなり。小學を知ら子ば、やたけに思てもならぬことなり。小學で人間一疋はすむ。それて朱説にも、大學では小學に光りを出すのじゃと云なり。大學は磨きをかけることなり。そこで小學とは違ふ。それはどふなれば、小學はわざなり。大學は知を開くことなり。と云て、ぶんのことをするではないぞ。そこでこれが學問の至極なり。それゆへに、なんでも下地なしには出来ぬと云ことを合点するがよいぞ。左官が土蔵を塗るもそれで、いくらせはしい人が塗て色々と云ふても、下地なしには出来ぬぞ。大學の大きいことも、小學の下地ありてじり々々と下地へうは磨きを掛ることなり。それで大そふ六ヶしいように思ふことではないぞ。直方先生が、大學は道中記のやうなものとなり。これがをかしい云分のやうなれとも、道中するものは何のことなし、道中記のやうにさへゆけばすむなり。大學もそれで、一二三の次第の通りにゆけばよいぞ。それで道中記と云がかるいことのやふな云ぬいたことなり。章句は一章々々をわけ、一句々々をわけたこと。その序なり。
【解説】
小学は業で、大学は知を開くこと。大学を読むには小学の下地がなければならない。大学は小学に光を出すことで、小学に磨きを掛けるのである。
【通釈】
「大学序」。大学を読むには、とかく小学ということを忘れずに見なければならない。小学を知らなければ、弥猛に思ってもできない。小学で人間一疋は済む。それで朱説にも、大学では小学に光を出すのだとある。大学は磨きを掛けること。そこで小学とは違う。それはどうしてかと言うと、小学は業で、大学は知を開くこと。そうは言っても別のことをするのではない。そこで、これが学問の至極となる。それで、何でも下地なしにはできないということを合点しなさい。左官が土蔵を塗るのもそれで、いくら人が忙しく塗って色々と言っても、下地なしにはできない。大学の大きいことも、小学の下地があってじりじりと下地へ上磨きを掛けること。そこで、大層難しい様に思うことではない。直方先生が、大学は道中記の様なものだと言った。これが可笑しい言い分の様だが、道中する者は何事もなく、道中記の様に行きさえすれば済む。大学もそれで、一二三の次第の通りに行けばよい。それで道中記と言うのが軽いことの様で、言い抜いたこと。章句は一章一章を分け、一句一句を分けたこと。これはその序である。

大學之書云々。教人と云ても何も別なことはない。人も教がないととほうもないものになるそ。今日耕作するもすててをいては出来るではないぞ。之法は、その教へ方のことなり。法の字に気を付よ。我流や手前細工は法とは云はぬぞ。それで、町人が御白徒細工と云がにくいことのやふなれとも、尤なことなり。今日人々何も角も相応にするやふなれとも、垩賢の方からは白徒と云さふなものなり。それはなぜなれば、利口に取りまはすやふでもこの法にかけてをるからなり。盖天自降云々。そふたい書に盖の字を出すはとふなれば、重いことを云ときなり。字の訳は疑の詞なり。字は疑の辞でも、心で疑ふことではないぞ。迂斎の弁に、さらば一つ由来を語り申ふと云ことじゃとなり。そこで中庸の序にも大學の序にも盖と云字がかいてあり。
【解説】
「大學之書、古之大學所以敎人之法也。蓋自天降生民」の説明。人は教えがないと途方もないものになる。その教えにも仕方がある。我流や手前細工は法ではない。
【通釈】
「大学之書云々」。「教人」と言っても何も特別なことではない。人も教えがないと途方もないものになる。今日耕作するにも放って置いては作物はできない。「之法」は、その教え方のこと。法の字に気を付けなさい。我流や手前細工を法とは言わない。それで、町人が御素人細工と言うのが憎いことの様だが、尤もなこと。今日の人々は何もかも相応にする様だが、聖賢の方では素人と言いそうなもの。それは何故かと言うと、利口に取り回す様でもこの法に欠けているからである。「蓋天自降云々」。総体、書に蓋の字を出すのはどうしてかと言うと、重いことを言う時の語だからである。字の訳は疑いの詞である。字は疑いの辞でも、心で疑うことではない。迂斎の弁に、それでは一つ由来を語り申そうということだとある。そこで中庸の序にも大学の序にも蓋という字が書いてある。

仁義礼智は目にもみへす耳にもきこへぬものなり。丁ど梅はすいと云ても、すいと云ことが目にはみへぬぞ。でも食てみればすいやうなもの。砂糖の甘いもそれなり。それで道理のことなり。扨これを云ときに一日云ても云つくされぬものなり。なれとも爰でちょっと云てみれば、小児をみればかはゆくなる。それはなんのためたと云ときに、よい子たと云ても可愛らしいと云てもこちの為にも向の為にもならぬものなれとも、それはなせたと云に、内に仁があるからなり。それからして、川へでもころげるとはっと云てさはぐなり。義と云はどのやふなことなれば、此のやうなことはあらく合点するがよいぞ。義と云はとふなれば、日頃欲が深くても此義は御免なされと云なり。いくら腹かへりても乞食非人の食ふものを振舞へとは云はぬ。なぜ其やうな流義なことを云なれば、内に義があるからなり。礼と云は君が出るとあたまがさがる。なぜだと云に、内に礼と云ものがあるからぞ。いくら不行義な者でも親の鼻先きへ尻をまくりて出す者はないぞ。どふなれば、これがどふもされぬものが内にあるからなり。智は、何ほど権威を以て云付て、此屋敷では筆をきせると云へ、頭巾を羽折と云へと云ても、口では云付るゆへにそふも云ををが、心は合点せぬぞ。馬を鹿と云ては心が合点せぬぞ。そこで此やうにざっととくで、下女下男に至るまで私どもも仁義礼智がござると云なり。そこを孟子が性善とときかけたぞ。扨これを朱子が序に云はどふなれば、すぐに大學の明德のことなり。矣の字が、きっとあることなり。
【解説】
「則既莫不與之以仁義禮智之性矣」の説明。「仁義礼智」は目にも見えず耳にも聞こえないが、人に備わってある。朱子がこれを言うのは大学の明徳のこと。
【通釈】
「仁義礼智」は目にも見えず耳にも聞こえないもの。丁度梅は酸いと言っても、酸いということは目に見えない。それでも食ってみれば酸い様なもの。砂糖の甘いのもそれ。それでこれが道理のこと。さて、これを言えば一日言っても言い尽くすことはできないものだが、ここで一寸言ってみれば、小児を見れば可愛くなる。それは何のためだと言うと、よい子だと言っても可愛らしいと言ってもこちらのためにも向こうのためにもならないのだが、それは何故かと言うと、内に仁があるからである。それからして、川へでも転げるとはっと言って騒ぐ。義というのはどの様なことかと言うと、この様なことは粗く合点するのがよい。義とはどの様なものかと言うと、日頃は欲が深くても、この義は御免下されと言う。いくら腹が減っていても乞食非人の食う物を振舞えとは言わない。何故その様な流儀のことを言うのかと言うと、内に義があるからである。礼とは、君が出ると頭が下がる。それは何故かと言うと、内に礼というものがあるからである。いくら不行儀な者でも親の鼻先へ尻を巻くって出す者はいない。それはどうしてかと言うと、どうしてもできないものが内にあるからである。智は、どれほど権威があり、この屋敷では筆を煙管と言え、頭巾を羽織と言えと言い付けても、口では言い付けなのでその様に言うとしても、心は合点しない。馬を鹿と言っては心が合点しない。そこで、この様にざっと説くので、下女下男に至るまで、私共にも仁義礼智がありますと言う。そこを孟子が性善と説き掛けたのである。さて、これを朱子が序に言うのはどうしてかと言うと、それは直に大学の明徳のこと。「矣」の字が、しっかりとあるということ。

かうして見れば明德と云もよくすみ、性善と云こともよくきこへたことなり。それなれば巨燵にはいりて寢てをろふと云と、そこで然るにとは子かへして、さふひまにしてをられぬことがあるなり。気と云は、阴阳の気なり。質と云は、その気のかたまりたものなり。たとへて云はば、仁義礼智は十五夜の月のやうなものなり。気質と云ものは、その十五夜の月をうつすときに銀の鉢に清水を入て出してをくと凉やかにみへる。又、きたないものにどぶの水を入てうつすとどうもむさいぞ。丁ど仁義礼智は雪の降るやうなもの。雪はどこも白くふる。仁義礼智、たれもつもってをるなり。なれとも禀る処の不能斉と云は、円いものを出すと円くつもり、三角なものへは三角につもるやうなものなり。そこでこちのうけ次第で仁義礼智の减がたつなり。そこで學問がいるなり。
【解説】
「然其氣質之稟或不能齊」の説明。人には仁義礼智があるが、受ける人の気質次第でその仁義礼智の量が変わる。それで学問が必要なのである。
【通釈】
こうして見れば明徳ということもよく済み、性善ということもよく聞こえる。それなら炬燵に入って寝ていようと言うと、そこで「然」と跳ね返して、その様に閑にしてはいられないことがあると言う。「気」とは、陰陽の気である。「質」とは、その気が固まったもの。たとえて言えば、仁義礼智は十五夜の月の様なもの。気質というものは、その十五夜の月を映す時に銀の鉢に清水を入れて出して置くと涼やかに見える。また、汚いものに溝の水を入れて映すとどうもむさい。丁度、仁義礼智は雪の降る様なもの。雪は何処へも白く降る。仁義礼智は誰にも積もっている。しかし「禀或不能斉」と言うのは、円い物を出すと円く積もり、三角な物へは三角に積もる様なもの。そこで、こちらの受け次第で仁義礼智が減ったりもする。そこで学問が要る。

是以不能皆云々全之。大名衆の身代がこれなり。髙は立派なことなれとも、内証は何もない。そこで身代を直そふと云相談にかから子はならぬ。学問をせ子ばならぬと云ことがいるなり。独聦明睿知云々。耳にきくことがなにもすら々々ときこへ、目にみるものがずう々々と明にみへる。睿知は心に入れるほどのものがずう々々と通るのなり。聦明睿知は天降生民へあててみるがよいぞ。天必命と云字が道理のなりなことなり。これは世間の學者から宋儒をしかることなり。なるほど聞手のわるいものにはなすは癡人に夢をとくとなり。垩人と云ものがあると人かすててをかぬ。そこが天命なり。孟子にも有る通り、先覺が後覺をさとすと云て、早く目の覺めたものがあとの者を起すやうなものなり。をかしなやふな弁なれとも、幸田が云はれたが、小児遊ひも中て一ち利口な者が遊び頭になると云れた。面白ことなり。
【解説】
「是以不能皆有以知其性之所有而全之也。一有聰明睿智能盡其性者出於其閒、則天必命之」の説明。人は仁義礼智を知ってそれを全くすることができていない。そこで、学問をしなければならない。聡明睿智の人が出れば人が捨てては置かない。そこが「天命」である。
【通釈】
「是以不能皆云々全之」。大名衆の身代がこれ。禄高は立派だが、内証は何もない。そこで身代を直そうという相談に掛からなければならない。学問をしなければならないということが要る。「独聡明睿知云々」。耳に聞くことが何でもすらすらと聞こえ、目に見るものがずうずうと明らかに見える。睿知は心に入れるほどのものがずうずうと通るのである。聡明睿知は天降生民へ当てて見なさい。「天必命」という字が道理の通りなこと。これは世間の学者から宋儒までを叱ったこと。なるほど、聞き下手な者に話すのは癡人に夢を説くものだと言う。聖人というものがあると人が捨てて置かない。そこが天命である。孟子にもある通り、先覚が後覚を覚すと言う。早く目の覚めた者が後の者を起こす様なもの。これは可笑しい弁の様だが、幸田が、小児遊びも中で一番利口な者が遊び頭になると言われた。面白いことである。
【語釈】
・癡人…愚か者。癡は愚か。
・先覺が後覺をさとす…孟子万章章句上6。「天之生此民也、使先知覺後知、使先覺覺後覺也。予天民之先覺者也。予將以斯道覺斯民也。非予覺之而誰也」。孟子万章章句下1にも同様の語がある。
・幸田…幸田誠之。晩に精義と改める。字は子善。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。寛政4年(1792)2月9日没。年73。私諡は穆靖。野田剛斎門下。

君師。其垩人が上へ立て人を教ゆるぞ。治て教ゆると云は二つなり。而の字も一つにみると二つにみるとがあるなり。大學は教の書なれば教とばかりありそふなものじゃに、治と云ふがきこへたぞ。先治と云ふでなければ教にかかられぬぞ。孟子がなんの生産無教じゃと云れたぞ。扨、治てそれぎりでをると孟子が無教近禽獣と云れたぞ。そこで教がいるなり。垩賢上に立て教るに仕出し持出しはないぞ。もとの仁義礼智にするのなり。丁ど垩賢の教と云は身代を直し借金を済してやるやうなものなり。とうやら垩賢が上に立て教ると云とぶんなものを教るやうに思ふがそふではなく、もとの物にすることなり。上は道理のなりを云。伏羲神農云々は、さうなされた人を云。此人たちは德と位が揃たぞ。継天は、天の思召を継たことなり。天と云と又不審を云たがるが、何でも道理のなりなことは天と云なり。そこで先日太極説でも云通り、垩人天と同腹中なり。立極の極と云も道理の至極なことなり。それはどふしたものじゃと云に、やはり仁義礼智、明德のことなり。立と云はこふしたものと云目当になることなり。由設は、この人を教るが為めに設けたのなり。後世は大名衆にもいろ々々役人はあるが、教人役人がないぞ。尭舜のときは役人もそろはすずんと完固であったなれとも、人を教る官と云がありた。ここが垩人なり。御手前が聦明睿知ゆへに人はどふでもよいとは云はぬぞ。
【解説】
「以爲億兆之君師、使之治而敎之、以復其性。此伏羲・神農・黄帝・堯・舜、所以繼天立極、而司徒之職、典樂之官所由設也」の説明。聖人が上に立って人を教える。それには先ず治があって、それから教えに掛かる。その教えとは、本の仁義礼智に復すということだけである。古は人を教える官があった。
【通釈】
「君師」。その聖人が上に立って人を教える。「治而教」は二つのこと。「而」の字も一つに見る時と二つに見る時とがある。大学は教えの書なので教えとばかりありそうなものだが、治と言うのが尤もなこと。先ず治でなければ教えに掛かれない。孟子が、生産が何もなければ教え難いと言われた。さて、治だけでいるのを孟子が「無教近禽獣」と言われた。そこで教えが要る。聖賢が上に立って教えるには仕出しや持出しはない。本の仁義礼智にするのである。聖賢の教えとは、丁度身代を直し借金を済まして遣る様なもの。どうやら聖賢が上に立って教えると言うと特別なものを教える様に思うがそうではなく、本のものにすること。以上は道理の通りを言い、「伏羲神農云々」は、その様になされた人を言う。この人達は徳と位が揃った人である。「継天」は、天の思し召しを継いだこと。天と言うとまた不審を言いたがるが、何でも道理の通りなことは天と言う。そこで先日の太極説でも言った通り、聖人は天と同腹中である。「立極」の極も道理の至極なこと。それはどうしたものかと言うと、やはり仁義礼智、明徳のこと。立というのはこうしたものという目当になること。「由設」は、人を教えるために設けたということ。後世は大名衆にも色々な役人があるが、人を教える役人がいない。堯舜の時は役人も揃っていなかったが、実に完固だった。人を教える官もあった。ここが聖人である。御自身が聡明睿知だから人はどうでもよいとは言わない。
【語釈】
孟子がなんの生産無歹教じゃと云れた…「歹」は「難」か?
・無教近禽獣…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸」。
・完固…完全で堅固なこと。

三代之隆云々。其法寖備は、尭舜の思召を受てそろ々々と全備したぞ。莫不有学。学問所と云ものはたま々々有ては役に立ぬぞ。今方々に寺のあるやふなが、古の学問所があの通りにありたなり。今小児が題目や念佛をたれも教へてがないのに覺へるぞ。古は學問所があのやうであったぞ。人生八歳。ここが全く早いやふなれとも、教てよいときなり。此頃はをとなしくなりて灸をすへるにも合点してすへさせると云ときに、教てよいときなり。聞分のあるときなり。垩賢がた子く教るやうなれとも、五つ六つでは教へられぬぞ。洒掃応対云々は、かるいことと云はれぬことなり。これが本になるぞ。どのやうな能書と云はれる人もいろはからなり。礼樂射御云々。今のわるい樂で人がわるくなるやふに、古は樂で人がよくなりたさうなり。これがみな日用に入用なものなり。文と云は今の詩文と云ことではなく、道理のあらはれたものなり。及其十有五年云々。衆子は親王家なり。今の親王家とは違ふなり。諸矦になる人たちのことなり。元士は侍従になるもののことなり。これはどう云ことなれば、末始終役人にもなるものゆへなり。凡民之俊秀云々。やうきくと、此外の者ははきだめへすてるやうに思ふがさうしたことでなく、小学と云が重いことぞ。そこで古の凡夫は此屋可封と云てある。小學て人柄もよくなりて、大名にしてもよい人柄でありたとなり。俊秀は宰相にもなるへき者ゆへなり。垩人の不可使知可使由と云ことを小學大學のこととみることなり。今大學をよめとも、小學の教へなければ大學をきいてもあとへふりかへら子ばならぬことがあるなり。
【解説】
「三代之隆、其法寖備。然後王宮・國都以及閭巷、莫不有學。人生八歳、則自王公以下至於庶人之子弟、皆入小學、而敎之以灑掃・應對・進退之節、禮・樂・射・御・書・數之文。及其十有五年、則自天子之元子・衆子、以至公・卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學」の説明。今方々に寺がある様に、古は何処にも学問所があった。八歳で小学校に入り、灑掃応対や礼楽射御などを学び、十五歳で大学へと進む。
【通釈】
「三代之隆云々」。「其法寖備」は、堯舜の思し召しを受けてそろそろと全備したということ。「莫不有学」。学問所というものは偶々あるのでは役に立たない。今方々に寺がある様に、古の学問所はあの通りにあった。今小児が題目や念仏を、教え手もいないのに誰もが覚える。古の学問所はあの様だった。「人生八歳」。実に早い様だが、これが教えてよい時である。この頃は大人しくなって灸をすえるにも合点してすえさせるという時が、教えてよい時である。聞分けのある時である。聖賢は細やかに教える様にするが、五つや六つでは教えられない。「洒掃応対云々」は、軽いことだとは言えない。これが本になる。どの様な能書と言われる人もいろはからである。「礼楽射御云々」。今、悪い楽で人が悪くなる様に、古は楽で人がよくなったそうである。これが皆日用に入用なもの。「文」は今の詩文ということではなく、道理の現れたもの。「及其十有五年云々」。「衆子」は親王家のことだが、今の親王家とは違う。諸侯になる人達のこと。「元士」は侍従になる者のこと。これはどういうことかと言うと、最後は役人にもなる者だからである。「凡民之俊秀云々」。よく聞くと、この外の者は掃き溜めに捨てる様に思うがそうしたことでなく、小学というのが重いこと。そこで古の凡夫には「此屋可封」と言う。小学で人柄もよくなり、大名にしてもよい人柄だったそうである。俊秀は、宰相にもなるべき者だからである。聖人の「不可使知可使由」を小学大学のことだと見なさい。今大学を読んでも、小学の教えがなければ後へ振り返らなければならないことがある。
【語釈】
・此屋可封…文選。「尚書大傳曰、周民可比屋而封」。
・不可使知可使由…論語泰伯9。「子曰、民可使由之、不可使知之」。

學問のまっ先は究理なり。これは易の文字なり。難波の芦は伊勢の濱荻なり。近思の精微を尽すと云がここのことなり。孝行をしよふとも、小學のやうなことでは合点せぬぞ。二十四孝位では合点せぬぞ。舜の通りでなければ合点せぬぞ。恭節謂、小学は老莱子が孝行を學ぶこと。大学は舜の孝行を學ぶこと。正心は、誠意をもこめて云ことなり。何でも究理は致知格物、正心は誠意もはいりてをると思べし。これはよほど深いわけのあることなり。脩己と云ことは小學のことなれとも、もふ一つここで云が明德なり。治人。これは小學はないことなり。これでみると大學と云ことは莫大な大きいことなれとも、その大きなことに小學を忘れるなと云は、わるく聞と髙それになる為に云と思ふがさふしたことではなく、小學ないと蒔絵がならぬぞ。小學の時には大學を知らぬともよいが、大學の時は小學をわすれると、下地がないから上塗が出来ぬぞ。小學には七十致事と云迠あり、あれを太宰がしたたか笑ふてをいたが大な間違で、小學は人間全体のことを云ことなり。そこて大學の下地になるなり。大學のををきなことも小學をふまへて成ることなり。
【解説】
「而敎之以窮理、正心、脩己、治人之道。此又學校之敎、大小之節所以分也」の説明。大学は窮理から始める。しかし、それも小学の下地があってのことなのである。
【通釈】
学問の真っ先は「窮理」である。これは易の文字である。難波の葦は伊勢の濱荻。近思の精微を尽くすと言うのがここのこと。孝行をするにしても、小学の様なことでは合点はしない。二十四孝位では合点はしない。舜の通りでなければ合点はしない。恭節が、小学は老莱子の孝行を学ぶこと、大学は舜の孝行を学ぶことだと言った。「正心」は、誠意をも込めて言うこと。何でも窮理は致知格物で、正心は誠意も入っていると思いなさい。これはよほど深いわけのあること。「修己」は小学のことだが、もう一つここで言うのが明徳になる。「治人」。これは小学にはないこと。これで見ると大学は莫大な大きなことだが、その大きなことに小学を忘れるなと言うのは、悪く聞くと高逸れになるために言うのだと思うが、そうしたことではなく、小学がないと蒔絵ができないからである。小学の時には大学を知らなくてもよいが、大学の時は小学を忘れると、下地がないから上塗りができない。小学には「七十致事」ということまでがあり、あれを太宰がしたたか笑ったが、それは大きな間違いで、小学は人間全体のことを言ったこと。そこで大学の下地になる。大学の大きなことも小学を踏まえて成る。
【語釈】
・易の文字…易経説卦伝1。「窮理盡性以至於命」。
・精微を尽す…中庸章句27。「君子尊德性、而道問學、致廣大、而盡精微、極高明、而道中庸」。
・老莱子…小学内篇稽古14に老莱子の話がある。
・七十致事…小学内篇立教2の語。

夫以學校之設云々。夫以はすぐに上のことを云なり。以は文章では如此と云ことなれとも、をもんみればとよませるは、あとをふりかへる意なり。學校ばかり有ても、教に手ぬけがありては役にたたぬぞ。舞臺斗有ても、ひうともどんとも云は子ばすまぬものなり。教之之術云々。異端などの教にはまぢなひのやうなこともあるが、垩賢の教へにそれはないぞ。次第。これは本文にわたすことなり。ここは一目ぬけてもよかろふと云ことはないぞ。節目之詳なり。丁ど医書をみるに、何でも病気に考て主方の付ぬことはないが、なれとも匕をとる人がわるくてはすまぬ。それをかたりたものなり。其所以為教云々。人君云々。手前に大學の通りのことを持てをることなり。漢唐が治世だと云ても古の世へかへされぬと云ことはどふなれば、身にないことをするから、そこでよい制札を出しても下へひびかず。迂斎云、臆病な大将がかかれ々々々と云やふなものとなり。身にないことをすることはならぬものなり。大學の教が民生の日用に合ことともなり。君臣父子の間へひったり々々々々と合から畏りた々々々と云なり。
【解説】
「夫以學校之設、其廣如此、敎之之術、其次第節目之詳又如此、而其所以爲敎、則又皆本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彝倫之外」の説明。学校があっても、教えに手抜けがあってはならない。その教えは民生の日用に合ったものだったのである。
【通釈】
「夫以学校之設云々」。「夫以」は直ぐに上のことを言ったもの。「以」は文章では如此ということだが、おもんみればと読ませるのは、後を振り返る意である。学校ばかりがあっても、教えに手抜けがあっては役に立たない。舞台ばかりがあっても、ひゅうともどんとも言わなければ済まないもの。「教之之術云々」。異端などの教えには呪いの様なこともあるが、聖賢の教えにそれはない。「次第」。これは本文に渡すこと。ここは一目抜けてもよいだろうと言うことはない。「節目之詳」である。丁度医書を見ればどの様な病気にも処方の考え付かないことはなくても、匙を執る人が悪くては済まない様なもので、それを語ったもの。「其所以為教云々」。「人君云々」。自分に大学の通りのことを持っていること。漢唐が治世だと言っても古の世に復すことができないと言うのはどうしてかと言うと、身にないことをするからで、そこでよい制札を出しても下へ響かない。迂斎が、臆病な大将が掛かれと言う様なものだと言った。身にないことをすることはならないもの。大学の教えが民生の日用に合ったものなのである。君臣父子の間へぴったりと合うから畏まったと言う。

是以当世之人云々。無不學はもってまいるなり。法てすることはならぬものなり。管仲抔があのやうに世話をやいたがどふも手際がわるい。法ゆへぞ。垩人のは、學はぬ、いやにくいやつと云ことではなく、向からくるのなり。其學焉者云々。その性分と云ことを小學の洒掃応対としてみるがよいぞ。小學で小兒に教るやふなことではないぞ。ここで今迠先軰方のときやふがわるし。知を主に云がよい。知と云も致知格物で知りたことなり。小學ては形て其すべき処へはめてゆくことだが、大學はその奥の院があるなり。性分のある処の仁なりに親へ孝、性分の義なりに君へ忠をするのなり。各俛焉云々。吃[しか]られやうと云てするではないぞ。礼記の文字で、うつむくことなり。ものを精出すもやうなり。そこて仰た底と云は怠りたもようなり。小學はうしろにさせてが有てするなり。大學はこちの知のそこがぬけてをるから俛焉云々なり。此古昔盛時云々。治隆於上は、まことにとささぬ御代なり。俗美於下は、今日の人のわるいことをせぬやうな底ではないぞ。今日の人のわるいことをせぬは猫の肴を取らぬやふなもの。番人が付てをるからなり。古の美と云は、わるいことをせよと云てもわるいことはきたなくてどうもされぬぞ。そこが俗美なり。後世と云が漢唐の治りた底迠が後世なり。後世の治と云が中々大學のやうなことはないぞ。
【解説】
「是以當世之人無不學。其學焉者、無不有以知其性分之所固有、職分之所當爲、而各俛焉以盡其力。此古昔盛時、所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也」の説明。法でするとうまくは行かない。小学は後ろにさせ手がいてするが、大学は自らがして自分の知の底が抜ける様にする。
【通釈】
「是以当世之人云々」。「無不学」は持って回るので言う。法ですることはならないもの。管仲などがあの様に世話を焼いたが、どうも手際が悪い。法だからである。聖人のは、学ばなければ憎い奴だと言うのではなく、向こうから来るのである。「其学焉者云々」。「其性分」を小学の洒掃応対と対して見るとよい。小学で小児に教える様なことではない。ここの今までの先輩方の説き様は悪い。知を主に言うのがよい。知というのも致知格物で知ったこと。小学では形でそのすべき処へ嵌めて行くが、大学ではその奥の院がある。性分のある処の仁の通りに親へ孝、性分の義の通りに君へ忠をするのである。「各俛焉云々」。呵られるだろうと思ってするのではない。これは礼記の文字で、俯くこと。ものに精を出す模様である。そこで仰向いた体は怠った模様である。小学は後ろにさせ手がいてする。大学はこちらの知の底が抜けているから俛焉云々である。「此古昔盛時云々」。「治隆於上」は、実に途絶えない御代だということ。「俗美於下」は、今日の人が悪いことをしない様な体ではない。今日の人が悪いことをしないのは猫が魚を取らない様なもので、番人が付いているから取らないのである。古の美とは、悪いことをしろと言われても、悪いことは汚くてどうもできないのである。そこが俗美である。「後世」と言うのが、漢唐の治まった体までが後世である。後世の治は、中々大学の様なことではない。
【語釈】
・俛焉…礼記下表記。「子曰、詩之好仁如此。郷道而行、中道而廢、忘身之老也、不知年數之不足也。俛焉日有孳孳、斃而后已」。

及周之衰云々。正月二十六日。於是独云々。あはれなていなり。さび々々としたていなり。詔後世と云が垩人の仁なり。今日の人に後世と云ことはないが、子や孫を思ふときに後世と云ことがある。今松をうへてをいたならば子孫の為にもならふと云なり。これが浪人儒者の元祖なり。近思に教學と云ふがこれなり。こちから世話をやいて、ちと私方へもござれと云て廻状を廻すことではないぞ。そこで、朋遠方より来ることありて、こちからは手は出さぬ。弟子職云々。管仲は狼のやふな男なれとも、弟子職を作たと云が狼に衣をきせたやうなものなり。此篇者則云々。大學の尊ひも小學の成功てなり。因は小學と云もののある因縁でと云きみなり。直方先生も因の字を気を付よと云れたぞ。大學の惣くるわが規模なり。此内外の字をひきはなしてみるはわるい。直方先生も、茶碗の内ち外とのやふなものなり。小學の法にかけると公儀から御咎めがあるなり。大學ではそれはない。そこがくわしい処なり。丁ど献上の茶碗のやふなもの。小學の法にかけたは茶碗のもるやふなもの。大學の法にかけたは献上になる。うちの吟味ゆへに、洩るなそと云ことはないはつなり。
【解説】
「及周之衰、賢聖之君不作、學校之政不脩、敎化陵夷、風俗頽敗。時則有若孔子之聖、而不得君師之位以行其政敎。於是獨取先王之法、誦而傳之以詔後世。若曲禮・少儀・内則・弟子職諸篇、固小學之支流餘裔、而此篇者、則因小學之成功、以著大學之明法、外有以極其規模之大、而内有以盡其節目之詳者也」の説明。「詔後世」が聖人の仁である。教学は、自分が世話を焼いてすることではない。大学が尊いのは小学の成功からのことだからである。小学の法は外の吟味なので、それに違うと咎められるが、大学は内の吟味となるので、小学の法に違うことなどはない筈である。
【通釈】
「及周之衰云々」。正月二十六日。「於是独云々」。哀れな体である。寂々とした体である。「詔後世」が聖人の仁である。今日の人に後世ということはないが、子や孫を思う時に後世ということがある。今松を植えて置けば子孫のためにもなるだろうと言う。これが浪人儒者の元祖である。近思に教学があるのがこれ。こちらから世話を焼いて、一寸私の方へ来なさいと言って廻状を廻すことではない。そこで、「有朋自遠方来」で、こちらからは手を出さない。「弟子職云々」。管仲は狼の様な男だったが、弟子職を作ったというのが狼に衣を着せた様なもの。「此篇者則云々」。大学が尊いのも小学の成功からである。「因」は、小学というもののある因縁でと言う気味である。直方先生も因の字に気を付けろと言われた。大学の総郭が規模のこと。この「内外」の字を引き離して見るのは悪い。直方先生も、茶碗の内と外の様なものだと言った。小学の法に欠けると公儀から御咎めがあるが、大学ではそれはない。そこが詳しい処である。丁度、それは献上の茶碗の様なもの。小学の法に欠けたのは茶碗が洩る様なもの。大学の法に欠けたのは献上にもできる。内の吟味なので、洩るなどということはない筈のこと。
【語釈】
・正月二十六日…天明六年(1786)丙午1月26日。
・朋遠方より来る…論語学而1。「子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。

其説云々。大學がすめば道体もすみ、道体がすめば大學もすむと云ほどのことなり。なれとも道体は見処、大學は功夫なり。三千之徒云々。其宗とは何でこざると云ときに、大学の道を合点されたゆへなり。発其意と云て道統と云ことがみへるぞ。曽子からじきに孟子と云を気を付よ。孟子のうちに子思もはいりてをることなり。そこて朱子も、論語なぞにちょっ々々々と孟子を合せて注してをくなぞがそれなり。知者鮮。知りてがないと云ことになる。それから勝手次第の學者が出て来たぞ。そこで、自是以来と云なり。俗儒と云はとう云処から出ると云をしるがよいぞ。直方先生も、道理に遠ひことたとなり。今は俗にもいろ々々ありて、手跡の上でも御家流で手紙を書と俗と云。唐様て唐紙へ書とよいやふに思ふが、どちへしても俗なり。
【解説】
「三千之徒、蓋莫不聞其説、而曾氏之傳獨得其宗。於是作爲傳義、以發其意。及孟子沒而其傳泯焉。則其書雖存、而知者鮮矣。自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學而無用」の説明。大学が済めば道体も済み、道体が済めば大学も済むが、道体は見処、大学は功夫という違いがある。曾子・子思子・孟子と道統は続いたが、それ以降は道理を知る者がいなくなり、勝手次第な学者が出て来た。
【通釈】
「其説云々」。大学が済めば道体も済み、道体が済めば大学も済むと言うほどのこと。しかしながら、道体は見処、大学は功夫である。「三千之徒云々」。その宗は何かと聞かれた時に、大学の道を合点されたからである。「発其意」と言うので、道統ということが見える。曾子から直に孟子と言ったことに気を付けなさい。孟子の内に子思も入っている。朱子が論語などに一寸孟子を合わせて注をして置くことなどもその様なこと。「知者鮮」。知り手がないということになる。それから勝手次第な学者が出て来た。そこで、「自是以来」と言う。俗儒はどの様な処から出るのかを知りなさい。直方先生も、道理に遠いことだと言った。今は俗にも色々とあって、手跡の上でも御家流で手紙を書くと俗と言う。唐様で唐紙へ書くとよい様に思うが、どちらにしても俗である。

異端虚無云々。小學は事故に功用と云、大學は教の書ゆへ教実と云なり。老子の方からは、をれは虚無じゃと看板をかけたことでもなく、釈氏が寂滅と云看板をかけたでもないぞ。朱子が老子の書にゆきわたりた故にこふ書てみると此二字で動されぬことなり。老子は、道は虚なものとみたものなり。見処虚ときたものゆへに教が無なり。手を出さぬがよいとしたものゆへに無と出たそ。釈氏は、人の性と云ものは動ものではない、静なものじゃ。静とみこんだゆへ、そこて滅するなり。これも上の虚文の文義と同ことなり。滅と云は法をなくなすことなり。もとは寂なものなり。静なものじゃ。何も角もなくなせと云ことなり。動ぬゆへに物があるとみたものなり。そこで、生れぬさきの父そうれしきとなり。直方の、老子はないやふにする、釈氏はないものにすると、たった一と口で云はれた。虚無寂滅之説、非也。後改見戊申雜記中。権謀術数は、手もなく今の軍者なり。かう申せは軍學はわるいと云やうに思ふが、さうしたことではないぞ。垩人の五礼のうちの一なり。朱子も通解に委く云てをかれたぞ。然れば軍學がわるいではない。軍者がわるいぞ。謀には術があるものなり。唐の大宗のいな虫を食たなぞと云ことが術なり。覇者は仁義迠術数に落るぞ。数の字の付もさま々々なことで、数多いからなり。使其君子不幸而云々。戦国の世などには切取強盗武士の習ひと云が、大道之要をきくことを得ぬのなり。直方の、日本には武士道と云異端があるとなり。
【解説】
「異端虚無寂滅之敎、其高過於大學而無實。其他權謀術數、一切以就功名之説、與夫百家衆技之流、所以惑世誣民、充塞仁義者、又紛然雜出乎其閒、使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之澤」の説明。小学は事なので功用と言い、大学は教えの書なので教実と言う。道統が途絶えて、老荘は虚無を言い、仏は寂滅を唱えた。「権謀術数」は軍学を悪いと言ったのではなく、軍者が悪いと言ったのである。謀には術がある。
【通釈】
「異端虚無云々」。小学は事なので功用と言い、大学は教えの書なので教実と言う。老子の方から、俺は虚無だと看板を掛けたのでもなく、釈氏が寂滅という看板を掛けたのでもない。朱子が老子の書に行き渡ったので、こう書いてみるとこの二字で動かされないことになる。老子は、道は虚なものと見た。見処が虚なので教えがない。手を出さないのがよいとしたので無と出た。釈氏は、人の性というものは動くものではなく静なものだと静と見込んだので、そこで滅する。これも上の虚の文の文義と同じこと。滅とは法をなくなさせること。本は寂なもので静なものだから、何もかもなくなせということ。動かないので物があると見たもの。そこで、生まれぬ先の父ぞ恋しきと言う。直方が、老子はない様にする、釈氏はないものにすると、たった一口で言われた。虚無寂滅の説は非なり。後に改めて戊申雑記中を見よ。「権謀術数」は、つまりは今の軍者である。この様に言うと軍学は悪いという様に思うが、そうしたことではない。軍学は聖人の五礼の内の一つである。朱子も通解に委しく言って置かれた。それなら軍学が悪いのではない。軍者が悪い。謀には術があるもの。唐の太宗が蝗を食ったなどということが術である。覇者は仁義までを術数に落とす。数の字が付くのも様々なことで、数多いからである。「使其君子不幸而云々」。戦国の世などには斬取り強盗武士の習いと言うが、それが「不得聞大道之要」である。直方が、日本には武士道という異端があると言った。
【語釈】
・生れぬさきの父そうれしき…白隠禅師。闇の夜に鳴かぬ鴉の声きけば、生まれぬ先の父ぞ恋しき。
・五礼…周礼春官大宗伯。吉(祭祀)・嘉(冠婚)・賓(賓客)・軍(軍旅)・凶(喪葬)に関する礼。
唐の大宗のいな虫を食た…

晦盲否塞のつつくことを反覆沈痼と云なり。別に反覆と云ものがあるではない。入梅の天気のやうなものなり。宋德云々。朱子が宋の人ゆへに隆盛と云はれたものなり。これが礼なり。治教は始めへもとしたものなり。休明の字は書経にも左傳にもあるなり。於是云々。丁どの時なり。接乎孟子之傳と云ことは、知ぬ人がみると何からひょんなこと云たと思ふほどのことなり。次其簡編云々。明道の改正の大學、伊川の改正の大學と云ものありて、それ々々に趨向が違ふてあり。復明於世は、孟子のときの通りになりたと云ほどのことなり。與有聞は、その列にも加ははりたと云ほどのことなり。放失は、あるべきものがなくて、どこへかいったそふなと云ことなり。輯之は、こちらにあるものをこちらへあつめるやうなことなり。間は、ぬけた処のことなり。そこで鳩巣もかんにと点をつけたぞ。大學一冊をちょっ々々々と補ふたとみせまい為めなり。これは余り丁寧のすぎたことなり。然は、ここで首をもちあげて云ことなり。これを文章の抑揚となり。垩人の教へをつづめたが大學なり。そこで、仁斎が大學を疑ふたで別て明なことなり。通解は天下の礼で古礼を傳ると云ことゆへに、鄭玄や孔頴達が注を引れたが、大學中庸の部には御手前の註を出されたれば、此小補と云が少し斗りと云ことではないぞ。朱子の方ではたしかなことなり。
【解説】
「晦盲否塞、反覆沈痼、以及五季之衰、而壞亂極矣。天運循環、無往不復。宋德隆盛、治敎休明。於是河南程氏兩夫子出、而有以接乎孟氏之傳。實始尊信此篇而表章之、既又爲之次其簡編、發其歸趣。然後古者大學敎人之法、聖經賢傳之指、粲然復明於世。雖以熹之不敏、亦幸私淑而與有聞焉。顧其爲書猶頗放失。是以忘其固陋、采而輯之、閒亦竊附己意、補其闕略、以俟後之君子。極知僭踰。無所逃罪。然於_國家化民成俗之意、學者脩己治人之方、則未必無小補云」の説明。朱子は通解では鄭玄や孔頴達の注を引かれたが、大学と中庸の部には御自身の註を出した。そこで、この「小補」と言うのが少しばかりのことということではない。
【通釈】
「晦盲否塞」の続くことを「反覆沈痼」と言い、別に反覆というものがあるのではない。入梅の天気の様なもの。「宋徳云々」。朱子は宋の人なので「隆盛」と言われたのであって、これが礼である。「治教」は始めに戻したもの。「休明」の字は書経にも左伝にもある。「於是云々」。丁度の時である。「接乎孟子之伝」は、知らない人が見ると何か妙なことを言ったと思うほどのこと。「次其簡編云々」。明道の改正の大学、伊川の改正の大学というものがあって、それぞれに趨向が違ってある。「復明於世」は、孟子の時の通りになったと言うほどのこと。「与有聞」は、その列にも加わったと言うほどのこと。「放失」は、あるべきものがなくて、何処かへ行った様だということ。「輯之」は、こちらにあるものをこちらへ輯める様なこと。「間」は、抜けた処のこと。そこで鳩巣もかんにと点を付けた。大学一冊を少しずつ補ったと見せないためである。これはあまりに丁寧過ぎたこと。「然」は、ここで首を持ち上げて言ったこと。これを文章の抑揚と言う。聖人の教えを約めたのが大学である。それで仁斎が大学を疑ったのだが、別して明らかなこと。通解は天下の礼で古礼を伝えるということなので、鄭玄や孔頴達の注を引かれたが、大学と中庸の部には御自身の註を出されたのだから、この「小補」と言うのが少しばかりのことということではない。朱子の方では確かなこと。
【語釈】
・休明の字は書経にも左傳にもある…書経は「休命」のことか?左伝は宣公。「桀有昏德、鼎遷于商、載祀六百。商紂暴虐、鼎遷于周。德之休明、雖小、重也」。