黙斎先生道學標的講義

道學標的序  庚戌十二月二十六日
【語釈】
・庚戌…寛政2年庚戌(1790年)。

孔曾思孟之後、接其道統者、周程張朱也。吾人所學、豈外此而他求乎。俗學者流不知所求道者、固置而無論焉。雖或有稱實學聖賢者、而於道不知所向、則徒局于謹厚拘滯之域耳。亦何足與議於道學哉。今實學聖賢而欲造其道、則又不可以不識聖學之要歸矣。因竊略舉聖賢之言關於此者、以僃諸講學用力之標的云。
正德壬辰季夏日 佐藤直方謹識

【読み】
孔曾思孟の後、其の道統を接ぐ者は、周程張朱なり。吾人の學ぶ所は、豈此を外にして他に求めんや。俗學者流、道を求むるを知らざる者は、固より置いて論ずる無し。或いは實に聖賢を學ぶと稱する者有りと雖も、而れども道に於て向かう所を知らざれば、則ち徒に謹厚拘滯の域に局するのみ。亦何ぞ與に道學を議すに足らんや。今實に聖賢を學んで其の道に造らんと欲せば、則ち又以て聖學の要歸を識らざる可からず。因りて竊に聖賢の言、此に關る者を略舉し、以て諸々を講學力を用うるの標的に僃うと云う。
正德壬辰季夏日 佐藤直方謹識
【語釈】
・正德壬辰…1712年

朱子の近思録の書は道学のぎり々々なり。畢竟近思録と云書があれば、外に書はいらぬほどなことぞ。その近思録にもう一つ元氣を付けやうと思たて鞭策録を編れた。それゆへ直方先生の思召は鞭策録の一つですむことぞ。直方先生の鞭策録の編集は三十四の年なり。それゆへ直方先生も、毎々の御咄にも鞭策録を杖につけ々々とたひ々々云はれたことなり。あれから道は得らるるそ。然る処、六十三の年に成て、やむにやまれず道學標的を作られた。ここを大切に聞べし。鞭策録てのこることはないが、直方先生が世間の學問の惣体を見て、いこふなげかれたそうなり。どうもああでは學問ではないとなり。世間の學問か目指す処がはっきりとない。そこで道學標的を作られたぞ。道学標的は晩年に作り、あとに出来たものなれとも、今日學者の讀には鞭策録より先きに道學標的を読なりとはどうなれば、目指的をこしらへて、そこへ鞭策録と云むちをあててゆくぞ。そんなら直方先生の初手鞭策録を編れたはいかがと云に、鞭策録の中に標的はありうちのことなり。然るに晩年標的を作られたは、鞭策録を編れても全体にまちがへある。それを氣の毒に思へて標的を引挙て見せられたことなり。
【解説】
近思録は道学の至極だが、直方先生は、それにもう一つ元気を付けようと思って鞭策録を編んだ。直方が六十三歳になって道学標的を作ったのは、鞭策録を編んでも学者に間違いがある。それを気の毒に思ってのことである。今日の学者は、鞭策録より先に道学標的を読むのがよい。
【通釈】
朱子の近思録の書は道学の至極である。畢竟近思録という書があれば、外に書は要らないほどのこと。その近思録にもう一つ元気を付けようと思ったので鞭策録を編した。そこで、直方先生の思し召しは鞭策録の一つで済むこと。直方先生の鞭策録の編集は三十四歳の頃だったので、それで直方先生は、毎々の御話の中で鞭策録を杖に突けと度々言われたのである。あれから道が得られる。それなのに、六十三歳になって、已むに已まれず道学標的を作られた。ここを大切に聞きなさい。鞭策録で余すところはないのだが、直方先生が世間の学問の総体を見て、大層嘆かれたそうである。どうもあれでは学問ではないと思った。世間の学問の目指す処がはっきりとしていない。そこで道学標的を作られたのである。道学標的は晩年に作られ、後にできたものだが、今日学者が読むには鞭策録より先に道学標的を読むというのはどうしてかと言うと、目指す的を拵えて、そこへ鞭策録という鞭を当てて行くのである。それなら直方先生が初めに鞭策録を編まれたのはどうしてかと言うと、鞭策録の中に標的は入っている。それなのに晩年標的を作られたのは、鞭策録を編まれても全体に間違いがある。それが気の毒に思えて標的を引き挙げて見せられたのである。
【語釈】
・杖につけ…杖に突く。立てて杖のようにしてよりかかる。

道學標的の書はどこ迠も志の書と見ることぞ。そこで、あとから出たれとも、さきに讀むことなり。迂斎が一と口によく云たことあり。今日の學者的を見ずに弓を射るやうなもの。いくら稽古しても、的を知らず弓を射ては無調法なり。旅をするにも、京を見物せうと思ふものは京を目當にゆき、松嶋を見やうと思ふものは松嶋を目當にゆく。標的なり。どこへでも行く処へ行ふと云旅はない筈。足まかせにどこへでも行くと云てはどこへ行ふも知れず、くたびれがつく。そこで道學標的と云的をきっと置くぞ。君父の讐を報するやうなものなり。息のかやう内は讐を報じやう々々々々と云。今日は天氣がわるい、やすめと云ことはない。標的が丈夫に立と鞭策も出てくるものぞ。標的が立ぬゆへ、鞭策もかいない。御相談次第ともかくもと云、ぬるけたことでなるものではない。標的で氣がぬけてはならぬ。標的を目當にゆくでなければきまらぬ。
【解説】
道学標的は志の書であり、標的を目当てにして行くのである。標的がないのは的を見ないで弓を射る様なもの。旅をすることでさえも行き先という目当てがある。
【通釈】
道学標的の書は何処までも志の書だと見なさい。そこで、後から出たものだが、先に読むのである。迂斎が一口にうまく言った。今日の学者は的を見ずに弓を射る様なもの。いくら稽古をしても、的を知らずに弓を射っては無調法である。旅をするにも、京を見物しようと思う者は京を目当てに行き、松島を見ようと思うも者は松島を目当てに行く。それが標的である。何処へでも行く処へ行こうと言う様な旅はない筈。足まかせに何処へでも行くと言うのでは、何処へ行くかも知れず、草臥れる。そこで道学標的という的をしっかりと置くのである。それは君父の讐を報ずる様なもの。息の通う内は讐を報じようと言う。今日は天気が悪いから休もうということはない。標的が丈夫に立つと鞭策も出て来るもの。標的が立たないので、鞭策も甲斐ない。御相談次第ともかくもと言う様な、温けたことで成るものではない。標的で気が抜けてはならない。標的を目当てにして行くのでなければ決まらない。

さて、この道學の二字は衰世の意じゃと迂斎云へり。成る程そうぞ、衰世の意なり。書経に我れ甘盤に学ぶと云。道學と云はず、学と一字ですむ。孔子も吾十有五而志于學と、ただ学とある。道學と名の付くは世の中にさま々々学問が出来たゆへ、にせものと一つになるからつけたものなり。ほんの金と云様なものぞ。にせ金があるゆへ本金と云。本の字のつくがにせ金に對したものぞ。本んの学問でないがある。そこて中庸の序に道學と云字あるなり。尭舜三代の目出度ときは中庸は作らぬ。異端百家が學問めいたことを云。それゆへに、對して道學と云。何程骨折りてもむだ。骨折りやうがある。道学をせ子ば、骨を折れはをるほどついへをする。薬の煎しからを飲むやうなもの。苦し薬をこらへてのむはこちの病氣を直そうとてなり。本んのことをせぬと云なれば、何にも役に立ことはない。
【解説】
学のみでなくて道学と言うのは衰世だからであって、堯舜三代の目出度い時には道学と言う必要はなかった。異端や百家が学問めいたことを言うので、これに対して道学と言うのである。
【通釈】
さて、この道学の二字は衰世の意だと迂斎が言った。なるほどそうである、衰世の意である。書経に「学于甘盤」とある。道学と言わなくても、学という一字で済む。孔子も「吾十有五而志于学」と、ただ学とあるだけ。道学と名が付くのは世の中に様々な学問ができたからで、贋物と一つになるから付けたのである。それは本金と言う様なもの。贋金があるので本金と言う。本の字が付くのが贋金に対してのこと。本当の学問でないものがある。そこで中庸の序に道学という字があるのである。堯舜三代の目出度い時に中庸は作らない。異端や百家が学問めいたことを言う。そこで、これに対して道学と言う。どれほど骨を折っても無駄なことがあって、骨の折り様がある。道学をしなければ、骨を折れば折るほど費えとなる。薬の煎じがらを飲む様なもの。苦い薬を堪えて飲むのは自分の病気を治そうとしてのこと。本当のことをしないというのであれば、何も役に立つことはない。
【語釈】
・我れ甘盤に学ぶ…書経説命下。「王曰、來汝説、台小子、舊學于甘盤」。
・吾十有五而志于學…論語為政4。「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」。
・中庸の序に道學…中庸章句序。「中庸何爲而作也。子思子憂道學之失其傳而作也」。

さて、近思の近く思ふも鞭策のむちをあてると云も、道学の二字を取違へたことなり。近思録のあとで鞭策録、それから道学標的と著されたが道學の講習なり。それゆへ文義訓詁などは隨分すむことぞ。讀書千遍其意自通ともあって、朱子の集註章句をつかまへて吟味すればどふかこふか済むが、標的の志がないと、彼のなまずを瓢たんでをさへるやうになる。文義はすませばすむが、君子になる役には立ぬ。學問をしても道學標的の了簡がないと、なぐさみに読むになる。ここが道學のぎり々々の処ぞ。道學標的は、吾黨の者はまつさきに讀むことなれとも、學問の下地がなければ読て聞せられぬ。この村の若ひ者の為めになどと云様では役に立ぬ。いっかどな學者をつかまへて云ことなり。學問をしても標的と違へば、火消が南の火事に北へ行くやうなもの。そふ読と、道學を知ぬとて北と南をとりちがへはすまいと云が、全体の魂が違て居るゆへ、あてどがあてどに立ぬ。そこで標的を作られた。さればとて新しいことではない。精出して親切に学んでも、標的が違うとたのもしくない。某學友へ学問を仕直せ々々々と云は、今迠よいと思ふたもそでない方へむいてをると氣がつくと、学問の上りたのなり。學問の仕様はこの書のやうでなければ、よこ道へ足をだしたになる。
【解説】
道学標的は我が党の者が最初に読まなければならないものだが、それを読むには学問の下地がなければならない。一角な学者に対しての書なのである。
【通釈】
さて、近思の近く思うと言うのも鞭策の鞭を当てると言うのも、道学の二字を取り違えたからである。近思録の後に鞭策録、それから道学標的と著されたのが道学の講習である。そこで、文義訓詁などは随分と済む。「読書千遍其意自通」ともあり、朱子の集註章句を掴まえて吟味をすればどうにかこうにか済むが、標的の志がないと、彼の鯰を瓢箪で押さえる様になる。文義は済ませば済むが、君子になる役には立たない。学問をしても道学標的の了簡がないと、慰みに読むことになる。ここが道学の至極の処。道学標的は我が党の者が先ず先に読まなければならないものだが、学問の下地がなければ読んで聞かせることはできない。この村の若い者のためになどと言う様では役に立たない。一角な学者を掴まえて言うことである。学問をしても標的と違えば、火消が南の火事で北へ行く様なもの。そう読むと、道学を知らないとしても北と南を取り違えはしないだろうと言うが、全体の魂が違っているので、当て所が当て所にならない。そこで標的を作られたのであり、これは新しいことなどではない。精を出して親切に学んでも、標的が違うと頼もしくない。私が学友へ学問を仕直せと言うのは、今までよいと思っていたことも、違った方へ向いていると気付けば、学問が上ったことになるからである。学問の仕様がこの書の様でなければ、横道へ足を出したことになる。
【語釈】
・讀書千遍其意自通…朱子訓學齋規。「引古人云、讀書千遍、其義自見」。三国志魏書王朗伝。「讀書百遍而義自見」。

孔曽思孟之後云々。孔子の孔の字は、大学の序に伏羲神農黄帝尭舜と名乘かけてある。学問は孔子できまりて孔子が祖になるゆへ、道學の淵源を語るには孔子を出すなり。孔子より前はわるいかと云に、そうではない。学問のうちどめを出して見せたものぞ。孔子と云中に伏羲神農黄帝尭舜はあるが、學問の大成した処で云たものぞ。天地始って、道學の始は孔子なり。不案内なものが見ると、伏羲神農黄帝尭舜を外にする大学の序と違うかと云に、そふではない。孔子は祖述尭舜憲章文武と云が、道学を語る中は孔子から語。さて、この孔曽思孟の後學者はをびただしくありたことぞ。なんとして周程張朱出らるるをまたず、漢唐の間に學者はしたたかありたぞ。孔曽思孟の云てある註もしたが、どふも道學と云には名のつけられぬことがある。そこで道學と云は大切なことなり。
【解説】
「孔曾思孟之後、接其道統者、周程張朱也。吾人所學、豈外此而他求乎」の説明。孔子の内に伏羲神農黄帝堯舜はあるが、孔子によって学問が大成したので「孔曾思孟之後」と出した。孔曾思孟の後、特に漢唐には学者が夥しくいたが、それを道学と名付けることはできない。
【通釈】
「孔曾思孟之後云々」。孔子の孔の字は、大学の序に「伏羲神農黄帝堯舜」と名乗り掛けてあるのと同じで、学問は孔子で決まって孔子が祖になるので、道学の淵源を語るには孔子を出すのである。孔子より前は悪いのかというと、そうではない。学問の打ち止めを出して見せたもの。孔子と言う内に伏羲神農黄帝堯舜はあるが、学問の大成した処で言ったもの。天地始まって以来、道学の始まりは孔子である。不案内な者が見ると、伏羲神農黄帝堯舜を外にするのは大学の序と違うがと言うが、そうではない。「仲尼祖述堯舜憲章文武」と言い、道学を語る時は孔子から語る。さて、この孔曾思孟の後は学者が夥しくいた。どうしてか周程張朱が出られるのを待たず、漢唐の間に学者がしたたかいた。孔曾思孟の言ったことの註もしたが、どうも道学とは名付けられないことがある。そこで道学というのも大切なことなのである。
【語釈】
・大学の序に伏羲神農黄帝尭舜…大学章句序。「大學之書、古之大學所以敎人之法也。蓋自天降生民、則既莫不與之以仁義禮智之性矣。然其氣質之稟或不能齊、是以不能皆有以知其性之所有而全之也。一有聰明睿智能盡其性者出於其閒、則天必命之以爲億兆之君師、使之治而敎之、以復其性。此伏羲・神農・黄帝・堯・舜、所以繼天立極、而司徒之職、典樂之官所由設也」。
・祖述尭舜憲章文武…中庸章句30。「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。

よく々々のことで、親が子を自由にすることがならぬ。藝のことでも、忰あてになりませぬと云。道學と云は先賢の心へわり込で継だこと。そこで、これは誰が継くと云ことはない。あれに讓るの、これに讓るのと云ことはない。この方がすっかりと心が道學旨訳になる。そこを継だと云。中庸の書を道統傳授の心法と云からしてのことなり。道統と云ものは聞書きにならぬものぞ。道理を吾が心へ得ることなり。朱子の恭惟千載心秋月照寒水と云れた。程子、数千年の久しいあとのことなれとも、道理を得ると尭舜の心が今そこにあると云れた。秋月が鼻の先にうつるやうなもの。道統と云はどのやうなことなれば、上手な医者の子が親の通り薬をもって年玉にあるくやふなもの。親通りでその通りの薬を持てあるいても、我下手なれば誰も薬をとりに来ぬ。
【解説】
道学を継ぐというのは、道理を自分の心へ得ることであり、譲られて継ぐという様なことではない。
【通釈】
よくよくのことで、親が子を自由にすることができないもの。芸のことでも、忰は当てになりませんと言う。道学とは、先賢の心へ割り込んで継いだこと。そこで、これは誰が継ぐということはない。あれに譲るとか、これに譲るということはない。こちらの心がすっかりと道学の旨訣になる。そこを継いだと言う。中庸の書を道統伝授の心法と言うことからしてそのこと。道統というものは聞き書きにはならないもの。道理を自分の心へ得ることである。朱子が「恭惟千載心秋月照寒水」と言われた。程子は、数千年の久しい後のことではあるが、道理を得ると堯舜の心が今そこにあると言われた。秋月が鼻の先に映る様なもの。道統とはどの様なことかと言うと、上手な医者の子が親の通りに薬を持って年玉に歩く様なもの。親の通り、その通りに薬を持って歩いても、自分が下手であれば誰も薬を取りには来ない。
【語釈】
・中庸の書を道統傳授の心法と云…中庸章句題辞。「此篇乃孔門傳授心法、子思恐其久而差也。故筆之於書、以授孟子」。
・恭惟千載心秋月照寒水…朱子文集巻4の斎居感興五言詩凡廿首の一。「恭惟千載之心。敬者是心之貞。聖人專是道心。秋月照寒水」。弧松全稿68録絶筆の語にもある。

漢唐の間がいとしなげにわる心はない。中庸の注もし、大学の注もした。論語孟子の注迠したが道統を継ぬゆへ心を得ぬ。周子程子は数百年の後に生れても尭舜の心を得られ、今あると云はれた。そこて道統の傳と云は我が魂にあることぞ。それを継だものが周程張朱なり。さりとては道學は六ヶ鋪ものにはきはまりた。なんとしてあの董仲舒や韓退之が圣賢の道に見違と云ことはあるまいが、道統の傳と云にはいれられぬものがある。細工のよい人が細工をすると、大工がああよい細工でござるが素人細工でござると云。ここが道統の大事なり。細工はよくとも素人細工がある。漢唐の間にれき々々もあるが、どこぞでは妖けをあらはすぞ。事上のかさから云へば周程張朱よりもよいやうなれとも、周程張朱のやうでないと云は、孔曽思孟の旨を得ぬゆへなり。そこでどうもは子のけ子ばならぬ。
【解説】
漢唐の間の学者は色々なことをしたが、そこに悪心はなかった。しかし、孔曾思孟の旨を得なかったので道統とは言わない。
【通釈】
漢唐の間は気の毒なことに悪心はなかった。中庸の注もして、大学の注もした。論語孟子の注までしたが、道統を継がないので心を得ない。周子程子は数百年の後に生まれても堯舜の心を得られ、それが今あると言われた。そこで、道統の伝は自分の魂にあることなのである。それを継いだ者が周程張朱である。そこで道学は難しいものと言うに極まる。決してあの董仲舒や韓退之が聖賢の道を見違えるということはないだろうが、道統の伝には入れられないものがある。細工のよい人が細工をすると、大工がああよい細工ですが素人細工ですと言う。ここが道統の大事である。細工はよくても素人細工がある。漢唐の間に歴々もいたが、何処かでは妖けの皮を現す。事上の量から言えば周程張朱よりもよい様だが、周程張朱の様でないと言うのは、孔曾思孟の旨を得ないからである。そこでどうも跳ね除けなければならない。

道統の傳は教てくれろと云たとて、教へられるものではない。ろくに素読もせぬものに道學標的を讀て聞せられぬと云がそれなり。唯我獨尊と云氣になって居る學者へきかせたいぞ。一と通の學者へ聞せることではない。知惠の高ひは邵康節、行のよいは司馬温公なり。いとしなげにあの衆もここへ入れてやりたいが、入れられぬ。邪魔はなるまいがと云ふことが邪魔になる。あの衆のよいは、よければよい程邪魔になる。邪魔とはどうなれば、中庸で知者は過賢者不及と云て、知者の賢者のと云がわるいことになってをる。道学のめったになめられぬと云がこれなり。孟子が伯夷柳下惠は百世の師と云た。道学の吟味では邪魔になる。そこで、伯夷隘柳下惠不恭と云。伯夷柳下惠、そちの方へもってゆけと云。そこではっと肝を潰す。とうもあの衆があれほどな御方でも道学と云手本にはならぬ。
【解説】
道統の伝は教えることのできるものではない。邵康節や司馬温公、伯夷や柳下恵でも道統の手本にはならない。
【通釈】
道統の伝は教えてくれと言われても教えられるものではない。碌に素読もしない者に道学標的を読んで聞かせることはできないと言うのがそこのこと。唯我独尊という気になっている学者へ聞かせたいもの。一通りの学者へ聞かせることではない。知恵が高いのは邵康節、行のよいのは司馬温公である。気の毒なことに、あの衆もここへ入れて遣りたいが、入れられない。邪魔にはならないだろうというのが邪魔になる。あの衆がよいのは、よければよいほど邪魔になる。邪魔とはどういうことかと言うと、中庸で知者は過賢者不及と言って、知者や賢者というのが悪いことになっているからである。道学は滅多に嘗められないと言うのがこのこと。孟子が伯夷柳下恵は百世の師と言った。しかし、道学の吟味では邪魔になる。そこで、伯夷隘柳下恵不恭と言う。伯夷柳下恵、向こうへ持って行けと言う。そこではっと肝を潰す。どうもあの衆があれほどの御方であっても道学という手本にはならない。
【語釈】
・邵康節…北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は堯夫。康節は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤の理気学に対して象数論を開いた。著「皇極経世」「漁樵対問」「伊川撃壌集」「勧物篇」など。1011~1077
・司馬温公…北宋の政治家・学者。字は君実。涑水先生と称。山西夏県の人。神宗の時、翰林学士・御史中丞。王安石の新法の害を説いて用いられず政界を引退、力を「資治通鑑」の撰述に注いだ。哲宗の時に執政、旧法を復活させたが、数ヵ月で病没。太師温国公を賜り司馬温公と略称。文正と諡。1019~1086
・知者は過賢者不及…中庸章句4。「子曰、道之不行也、我知之矣。知者過之、愚者不及也。道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖者不及也」。
・伯夷柳下惠は百世の師…孟子尽心章句下15。「孟子曰、聖人、百世之師也。伯夷・柳下惠是也」。
・伯夷隘柳下惠不恭…孟子公孫丑章句上9。「孟子曰、伯夷隘、柳下惠不恭。隘與不恭、君子不由也」。

餘の細工と違うて、舛やはかりのやうなもの。これに間違があると天下の害になる。細工がよくても、一舛這入ら子ば舛にはならぬ。少々不細工でも、一舛の舛が一舛いればよい。柳下惠や邵康節は一舛貳合も入る程な腹中なれとも、か子にならぬ。不恭なり。司馬温公や伯夷はいくらきりつめても望々然として去る。尺が短ひなり。そこで中庸にはのけられた。されと道統とても法花宗の六老僧とは違ふなり。先生笑曰、旅は道づれゆへ大勢つれて行きたいが、つれてゆかれぬ。道学と云へば急度其通りでなければならぬ。丸ひものを書くにはぶんまはしでなくてはならぬ。百姓の年貢をはかるやうなもの。一舛の処は一舛はから子ばならぬ。學問も其通り。そふでないと学問に規格が立ぬ。
【解説】
学問は正しい規矩でしなければならない。柳下恵や邵康節は規格が大き過ぎ、司馬温公や伯夷は小さ過ぎる。
【通釈】
他の細工とは違って、道統は枡や秤の様なもの。これに間違いがあると天下の害になる。細工がよくても、一枡這い入らなければ枡にはならない。少々不細工でも、一枡の枡が一枡入ればよい。柳下恵や邵康節は一枡に二合も入るほどの腹中だが、秤にはならない。不恭である。司馬温公や伯夷はいくら切り詰めても望々然として去る。尺が短いのである。そこで中庸には除けられた。しかしながら、道統と言っても法華宗の六老僧とは違う。先生微笑んで言う、旅は道連れなので大勢連れて行きたいが、連れては行けない。道学はしっかりとその通りでなければならない。丸いものを書くにはコンパスでなくてはならない。百姓の年貢を量る様なもの。一枡の処は一枡量らなければならない。学問もその通り。そうでなければ学問に規格が立たない。
【語釈】
・望々然として去る…孟子公孫丑章句上9。「推惡惡之心、思與鄕人立、其冠不正、望望然去之」。
・六老僧…日蓮の六人の高弟。日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の総称。

はてさ、あの釈迦や老子は及もないことなり。わるいぐるみに釈迦も老子も孔子の向へ並ぶほどなものなれとも、道が違ふとみな弁ぜ子ばならぬ。學者も孔曽思孟の道をちっとでも出るともう合点せぬ。俗學は沢山にある学者のことぞ。者流と云がいやな文字なり。後世學者と云ものが出て来て、書物を並べてをると、あれは儒者じゃと云。山鹿甚左衞門が儒者を役人の様に思ふた。軍のときは儒者を一人つれるがよい、金堀りもなくてならぬなどと云た。別して日本などではそれで、儒者と云は文字をよむことになってをる。唐津や嶋原では儒者がなくてはならぬと云。なぜ儒者がなくてならぬぞ。これは中蕐から書簡でも来たとき読せるのなり。どふても藝者ぞ。何にも知らぬ医者が食傷には枇杷葉がよいと云。儒者もそのやふに、これは史記にある、これは何の故事のと、そこを俗學者流と云たもの。
【解説】
「俗學者流不知所求道者、固置而無論焉」の説明。孔曾思孟の道を少しでも出れば、それを弁じなければならない。後世は書物を並べていれば儒者だと言われるが、書物を読むだけの者は「俗学者流」である。
【通釈】
さて、あの釈迦や老子は及びもない者。悪い包み釈迦も老子も孔子の向こうへ並ぶほどの者だが、道が違うと皆弁じなければならない。学者も孔曾思孟の道を少しでも出るともう合点はしない。「俗学」は沢山いる学者のこと。「者流」というのが嫌な文字である。後世学者というものが出て来て、書物を並べていると、あれは儒者だと言う。山鹿甚左衛門が儒者を役人の様に思った。軍の時は儒者を一人連れるのがよい、金堀りもなくてならないなどと言った。特に日本などではそれで、儒者は文字を読むものになっている。唐津や島原では儒者がなくてはならいと言う。何故儒者がなくてならないのか。これは中華から書簡でも来た時に読ませるためである。どう見ても芸者である。何も知らない医者が食傷には枇杷葉がよいと言う。儒者もその様に、これは史記にある、これは何の故事だと言う。そこを俗学者流と言ったのである。
【語釈】
・山鹿甚左衞門…山鹿素行。江戸前期の儒学者・兵学者。古学の開祖。名は高興・高祐。会津に生まれ、江戸に育ち、儒学を林羅山に、兵学を北条氏長らに学ぶ。「聖教要録」を著して朱子学を排し、幕府の怒りを受けて赤穂に配流。のち赦免されて江戸に帰る。著「武教要録」「配所残筆」「山鹿語類」「中朝事実」「武家事紀」など。1622~1685。
・金堀り…鉱山で鉱石を掘ること。また、その人。坑夫。

出家なれば方々へよばれて時を食ふ。馳走になってよいと云様なもの。出家の本道がそふで有の筈はない。道を求る心がないゆへ、なんの為めに学問をすると云ことか、わけが知れぬ。病を直す了簡がなくて薬をのむやうなもの。咽のかわくには益氣湯がよいと云てはつまらぬ。今の學者が甚たていがわるい。者流とて腹を立ことではない。道のためでない学問ゆへ者流と云。ただそれを家業にするを云。孔曽思孟と出してそのあとゆへ、この様なただの学者がでたぶんで、筭盤にはいれぬ。某の若ひ時、ある医者が、方々に医者が橋の下からこうもりの出る様に長羽識着てでると云た。よい弁なり。此様な医者は医者でも、本の医者は相手にせぬ。大名になるとなんであれ儒者をかかへるなり。そふすると、どこの文學と云がさて々々をかしいことぞ。中蕐では史と云。祐筆なり。今の學者か文學云々と云は道の沙汰なしに書簡でも書くことぞ。土用干に掛物が出て読ぬと、それ儒者の処へ持てゆけと云。馬の煩ふに馬医者を呼ひ、柱の根つぎに大工を呼びにやるやふなもの。たをれ者は番太でなければならぬ。読ぬ字があらば學者と云。此様なことゆへ、周程張朱の中へ世間の學者が入りたからふが入れられぬ。直方先生の云、をべにやなり。御同前と云ても合点せぬ。
【解説】
「者流」は学問を家業にする者のこと。今の学者が文学などと言っても、それは道の沙汰なしに書簡でも書く様なことである。
【通釈】
出家であれば方々へ呼ばれて時を食う。それは馳走になってよいと言う様なもの。出家の本道がそうである筈はない。道を求める心がないので、何のために学問をするのか、そのわけがわからない。それは、病を治す了簡がなくて薬を飲む様なもの。咽が渇くのには益気湯がよいと言うのでは詰まらない。今の学者は甚だ体が悪い。「者流」と言われても腹を立てることではない。道のためでない学問なので者流と言う。ただそれを家業にすることを言う。孔曾思孟と出したその後なので、この様なただの学者が出ただけで、彼等を算盤には入れない。私の若い時、ある医者が、方々で橋の下から蝙蝠の出る様に医者が長羽織を着て出ると言った。よい弁である。この様な医者も医者だが、本当の医者は相手にしない。何であれ、大名になると儒者を抱える。そして何処の文学などと言うが、それは実に可笑しいこと。中華ではそれを史と言う。祐筆のことである。今の学者が文学などと言うのは道の沙汰なしに書簡でも書くこと。土用干しに掛物が出てそれが読めないと、それ、儒者の処へ持って行けと言う。馬が煩うのに馬医者を呼び、柱の根接ぎに大工を呼びに遣る様なもの。行き倒れは番太でなければならない。読めない字があれば学者をと言う。この様なことなので、周程張朱の中へ世間の学者が入りたくても入れられない。直方先生の言う、お紅屋である。御同前と言っても合点はしない。
【語釈】
・祐筆…①筆をとって文を書くこと。②武家の職名。貴人に侍して文書を書くことを司った人。物書き。③文筆に長じた人。文学に従事する者。文官。
・番太…江戸時代、町村に召し抱えられて火の番や盗人の番に当った者。非人身分の者が多く、番非人とも言われた。江戸では番太郎と言い、平民がなり、町内の番小屋に住んで駄菓子・雑貨などを売りながら、その任を勤めた。

於道云々。爰が道學標的の入用なり。俗學の外に一つぶんながある。それへたたることなり。實學圣賢云々。これがある。中々詩文にはせるでもない。立身子がいの、奉公のぞみのと云でもない。これはまづよいことなり。それほどなもので、實と云はよいやうなれども、學びやうを知ら子ば役に立ぬ。何にも私はない、實と云字がわるくない字なれとも、経胳を知らぬ者が親切に針をうつやふなもの。知らずに親切は入らぬぞ。人欲もなく我方にわたがまりがなくても、学問のことが根から不案内では本道にならぬ。親切に、今度のことは命にかへてもと云。そふ云ひながら、間違な薬をもる。尤らしいこともあるが、その尤が役に立ぬ。
【解説】
「雖或有稱實學聖賢者、而於道不知所向、則徒局于謹厚拘滯之域耳」の説明。俗学以外でも、実に聖賢を学ぶという者の中にも弁じなければならない者がいる。それは、学び方を知らなければ役に立たないからである。
【通釈】
「於道云々」。ここが道学標的の入用なところである。俗学の外に一つ問題な者がいる。それへ祟ること。「実学聖賢云々」にこれがいる。中々詩文に馳せるのでもない。立身願いや奉公望みということでもない。これは先ずはよいこと。それほどの者で、実と言えばよい様だが、学び様を知らなければ役に立たない。何も私はなく、実という字も悪くない字だが、それは経絡を知らない者が親切に針を打つ様なもの。知らなければ親切は要らない。人欲もなく自分にわだかまりがなくても、学問のことが根から不案内では本道にはならない。親切に、今度のことは命に代えてもと言う。そう言いながら、間違った薬を盛る。尤もらしいこともあるが、その尤もが役に立たない。

温公へ一生の覚悟になることを聞たれば、それ誠乎と云れた。上もない云分なれとも、あたまから誠と云へば、これが無学之根本なり。中庸も誠にきまったこと。司馬温公が一生の覚悟を誠と云はれたも隨分きり々々なしらげた処なれとも、この教がよければよいほど間違になるとはどうなれば、大学の入り口致知挌物が済でから誠意の功夫がある。入口が不吟味。誠乎と云。どこから入ることか、それを知らぬ。この病には何がよからふと云ことを知ず薬をもってゆきては毒になるも知れぬ。司馬温公は圣人の様な人なれとも、道學標的の吟味になってはこまりたものなり。さて、司馬温公を棒ばなしにして陸象山王陽明、それをもらって来て仁斎が大学は孔子の遺書にあらずと云。大学を孔氏の遺書でないと云はずと、たたい見手は見てとるが、大学を孔氏の遺書でないと云で、仁斎が非はなをよく知れる。中江與右衞門を近江の圣人と云が、學をのけての論と云もの。許渤がことを如此の垩人あらんやと程子云へり。たたのものの圣人風、役に立つものではない。
【解説】
司馬温公は一生の覚悟を誠だと言ったが、誠意は致知格物が済んだ後のことであり、彼はその入り口を知らないから、道学標的に叶う人ではない。陸象山や王陽明、伊藤仁斎や中江藤樹も彼と同じである。
【通釈】
温公に一生の覚悟になることを聞くと、「其誠乎」と言われた。この上もない言い分だが、最初から誠と言えば、これが無学の根本である。中庸も誠に決まる。司馬温公が一生の覚悟を誠と言われたのも随分と至極をなされた結果だが、この教えがよければよいほど間違いになるとはどういうことかと言うと、大学の入り口の致知格物が済んだ後に誠意の功夫があるのであって、入り口が不吟味だからである。誠乎と言うが、何処から入るのか、それを知らない。この病には何がよいだろうということを知らずに薬を持って行っては毒になるかも知れない。司馬温公は聖人の様な人だが、道学標的の吟味になっては困った人である。さて、司馬温公を始めとして陸象山や王陽明、それを貰って来て仁斎が大学は孔子の遺書にあらずと言う。大学は孔子の遺書でないと言わなくても、そもそもわかる人は見て取るのに、大学を孔子の遺書でないと言うので、仁斎の非は尚更よく知れる。中江与右衛門を近江の聖人と言うのが、学を除けての論というもの。許渤のことを、この様な聖人がいただろうかと程子が言った。ただの者が聖人風をしても役に立ちはしない。
【語釈】
・誠乎…小学外篇善行。「劉忠定公見温公問盡心行己之要可以終身行之者。公曰、其誠乎。劉公問行之何先。公曰、自不妄語始。劉公初甚易之。及退而自檃栝日之所行與凡所言自相掣肘矛盾者多矣。力行七年而後成自此言行一致表裏相應遇事坦然常有餘裕」。
・棒ばなし…棒端。棒鼻。いちばん先。最初。先頭。
・陸象山…南宋の大儒。名は九淵。字は子静。象山・存斎と号。江西金渓の人。程顥の哲学を発展、理気一元説を唱え、心即理と断じ、朱熹の主知的哲学に対抗。文安と諡す。1139~1192
・王陽明…明の大儒。名は守仁。字は伯安。陽明は号。浙江余姚の人。初め心即理、後に致良知の説を唱えた。世にこれを陽明学派または王学と称する。兵部尚書。文成と諡された。著「伝習録」「王文成公全書」など。1472~1528
・仁斎…伊藤仁斎。江戸前期の儒学者。名は維楨。通称、源佐。京都の人。初め朱子学を修め、のち古学を京都堀川の塾(古義堂)に教授。門弟三千。著「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」「童子問」など。諡して古学先生。1627~1705
・許渤…程氏遺書3二先生語3。「許渤與其子隔一窗而寢、乃不聞其子讀書與不讀書。先生謂、此人持敬如此。曷嘗有如此聖人」。

少し誠めいたことが有ても学問の向ふ所を知らぬと役に立ぬ。誠はだし塲がはやいと何んにもならぬ。圣人なら圣人。たたの誠は傾城の誠のやうなもの。あれも人間之誠はあるはづ。土臺が違う。尤らしい温和なことを學者と思う。文王もまん丸、孔子もまん丸ゆへよいと思うてするで有ふが、古哥に、あまり丸きはころびやすきとあり、先軰の説に、丸くしやうと思うには、まつ四角にけづり、それから八角、八角から十六角。それを段々丸めて、そこでまん丸になる。初手から丸ひと云ことはない。大學は道の制札を書た書なり。初に誠意と書ず、致知挌物の吟味を始にする。致知挌物の吟味をするゆへ、似せものが来ても中々うけとらぬ。許魯斎が小學を神明の如くに尊だと云はまつ實なことなれとも、道学の沙汰はなし。あれを標的にしては、あたまで道學にはくらいことなり。小學は方々の息子をしあげやうと思うて、下地にあのやうな善行の男どもまで手本に出したものなり。大學になっては小学の善行などを喰ふてはいぬ。所向と云が大事なり。これと見立てゆくこと。すぐにこの所向が標的のことぞ。標的に向てゆく所を所向と云。
【解説】
誠は最初に出すものではない。致知格物の吟味をするので、偽物が来ても中々受け取らない。それから誠意なのである。そこで、「所向」が大事である。標的に向かって行く所を所向と言う。
【通釈】
少し誠めいたことがあっても学問の向かう所を知らないと役に立たない。誠は出し場が早いと何にもならない。聖人なら聖人の誠がある。たたの誠は傾城の誠の様なもの。あれにも人間の誠はある筈だが土台が違う。尤もらしい温和なことを学者だと思う。文王も真ん丸、孔子も真ん丸なので、温和がよいと思ってするのだろうが、古歌に、あまり丸きは転び易きとあり、先輩の説に、丸くしようと思えば、先ず四角に削り、それから八角、八角から十六角。それを段々丸めて、そこで真ん丸になる。初手から丸いということはない。大学は道の制札を書いた書である。最初に誠意と書かず、致知格物の吟味を始めにする。致知格物の吟味をするので、偽物が来ても中々受け取らない。許魯斎が小学を神明の如く尊んだというのは先ずは実なことだが、道学の沙汰はない。あれを標的にしては、最初から道学には暗いことになる。小学は方々の息子を仕上げようと思い、下地にあの様な善行の男共まで手本として出したもの。大学になっては小学の善行などを喰ってはいない。「所向」が大事である。これと見立てて行くこと。この所向が直に標的のこと。標的に向かって行く所を所向と言う。
【語釈】
・傾城…漢書外戚伝上。「一顧傾人城再顧傾人国」。美人。遊女。
・許魯斎…

時に今日の學問の仕様は見當が違う。謹厚拘滞は孔子の云、郷愿德之賊也がこのことなり。まつはの郷愿は人の受け取る誠なよい人なり。壻にしてもよい、番頭にしてもよい。何もかもあづけられるものぞ。ときにこれが徳のにせもの。にせ金つかいじゃ。尤な処か圣人に似ても、道を知ぬゆへ役に立ぬ。繪に書と猫と虎が似よる。猫が虎に似たとて何の役に立つものではない。孔子と孟子と大きく違ったなれとも、道があったゆへ孔孟と幷ぶ。見た処が孔子と孟子は違うゆへ、人が孟子を疑ふが所向を知らぬのなり。明道と伊川は大きく違ったなれとも、道が一つゆへ朱子のわけず、程子云々と云はっしゃる。惣体学と云ものは道を尊んで氣質を尊ばぬものなり。二程は氣質は違っても学問が一つなり。生れ付が違うても、学問が一つなればよい。
【解説】
「謹厚拘滞」は「郷愿徳之賊也」のこと。尤もな様子でも、道を知らないので役に立たない。孔子と孟子、明道と伊川の気質は違うが、道は同じであり、学問では一つである。
【通釈】
時に今日の学問の仕様は見当が違う。「謹厚拘滞」は孔子の言う「郷愿徳之賊也」がこのこと。先ず郷愿は人が受け入れる、誠によい人である。壻にしてもよい、番頭にしてもよい。何もかも預けられる者である。時にこれが徳の偽物。贋金使いである。尤もな処が聖人に似ても、道を知らないので役に立たない。絵に書くと猫と虎が似る。猫が虎に似たとしても何の役に立つものではない。孔子と孟子とは大きく違うが、道が合ったので孔孟と並ぶ。見た処が孔子と孟子は違うので、人が孟子を疑うのは「所向」を知らないのである。明道と伊川は大きく違っているが、道が一つなので朱子は分けず、程子云々と仰った。総体学というものは道を尊んで気質を尊ばないもの。二程は気質は違っても学問が一つである。生まれ付きは違っても、学問が一つであればよい。
【語釈】
・郷愿德之賊也…論語陽貨13。「子曰、鄕原、德之賊也」。

今日の人は氣質ばかりとる。そこで尤らしいをよいと思ひ、殊の外をとなしい、しゅしゃうらしいものがあると、御徳義がと云て尊ぶ。学問の節にはとんと合点ゆかぬ。孟子は一生手あらなり。朱子なども死ぬ迠かどが有た。今日の學者ほんの徳の有ふはづのことではない。生れつきのよいは親の讓り金を持た様なもの。とんと手抦ではない。我す子からもみ出したが大切なり。さて々々生れ付てせいのたかい男と云ひ、色の白い男と云。ほめることではない。謹厚は通用がよいゆへ、そこへ局するなり。どこからも人の口ばしをいれることなく、尤しごくなをよいと云。ただの人が孔子風なことをする。それを見て、直方先生が明道狐と云はれた。あの人のそばに居ると春風の中に居るやうじゃと云。明道ではない筈。道学が中々そんなことで得られるものではない。氣質もよく、人欲も寡くても、圣学道統の方に足腰たたず眼力よはければ道學は得られぬ。
【解説】
今日の人は気質ばかりを取って、学問のことには合点が行かない。生まれ付きがよいのは自分の手柄ではない。聖学道統の方に足腰が立たず眼力が弱ければ道学は得られない。
【通釈】
今日の人は気質ばかりを取る。そこで尤もらしいのをよいと思い、殊の外大人しい、殊勝らしい者がいると、御徳義がと言って尊ぶ。しかし、学問の節には全く合点が行かない。孟子は一生手荒だった。朱子なども死ぬまで角があった。今日の学者に本当の徳のある筈はない。生まれ付きがよいのは親の譲り金を持った様なもの。全く自分の手柄ではない。自分の臑から揉み出したものが大切である。生まれ付きから背の高い男と言い、色の白い男と言う。それは全く褒めることではない。謹厚は通用がよいので、そこへ局することになる。何処からも人が嘴を入れることはなく、尤も至極な者をよいと言う。ただの人が孔子風なことをする。それを見て、直方先生が明道狐と言われた。あの人の側にいると春風の中にいる様だと言う。それは明道ではない筈。道学はそんなことで中々得られるものではない。気質もよく、人欲も寡くても、聖学道統の方に足腰が立たず眼力が弱ければ道学は得られない。
【語釈】
・春風の中に居る…近思録聖賢22。「侯師聖云、朱公掞見明道於汝。歸謂人曰、光庭在春風中坐了一箇月」。

亦何足云々。亦の字、上の固置而無論焉へかけ見ることなり。實学垩賢云々。よほど学者と云はるるが、謹厚拘滞かぎりの學者ゆへ、これも亦何足與議云々哉也。今實学圣賢而云々。一ちしまいを垩学の要歸と説き納めたがきめ処なり。きめ処を知らぬゆへ謹厚拘滞と云に腰をかける学問が出来たぞ。きめ処を知ることを要歸と云。要歸は即ち道學標的を知ることなり。道學標的と云ものがあると本の標的を合点する。本の標的を合点した処が要歸なり。爰に圣賢と云字がある。これが常の圣賢と云とはちとあたりが違うことなり。ここをよく合点すべし。常の垩賢と云はただ古の圣人賢人のと云ことで、ここの垩賢と云字はそふ見ることではない。垩は孔子のこと。賢は曽思孟周程張朱の七人とあてて見るがよい。
【解説】
「亦何足與議於道學哉。今實學聖賢而欲造其道、則又不可以不識聖學之要歸矣。因竊略舉聖賢之言關於此者、以僃諸講學用力之標的云」の説明。決め処を知ることを要帰と言い、それは道学標的を知ること。ここの聖は孔子、賢は曾思孟周程張朱を指して言う。
【通釈】
「亦何足云々」。亦の字は上の「固置而無論焉」へ掛けて見なさい。「実学聖賢云々」。余程学者と言われても、謹厚拘滞だけの学者なので、これも「亦何足与議云々哉也」である。「今実学聖賢而云々」。最後を「聖学之要帰」と説き納めたのが決め処である。決め処を知らないので謹厚拘滞に腰を掛ける学問ができたのである。決め処を知ることを要帰と言う。要帰は即ち道学標的を知ること。道学標的というものがあると、本当の標的を合点すること。本当の標的を合点した処が要帰である。ここに聖賢という字がある。これは常に言う聖賢とは少々当たりが違う。ここをよく合点しなさい。常の聖賢はただ古の聖人賢人ということで、ここの聖賢はその様に見ることではない。聖は孔子のこと。賢は曾思孟周程張朱の七人と当てて見なさい。

迂斎の、直方先生のことをよふ知りて云はれたことがある。直方先生が世間の学問の体を見て、どふもあのぶんではすむまいと云はれたことあったそうなり。成程そうで有ふは、学問の仕方がいこふ深切でも、ちっとつつ圣学にふれが出来てくる。垩学にふれが出来てきては、どうもそのぶんにはさしをかれぬ。そこで道學標的がいこふ大切なことにあづかることなり。さて、吾黨の學者は山﨑先生を標的にするか一ちよさそうなものなれとも、どふもあの習合が心もちのわるいことなり。此様なことは不断は云ぬことで、道學標的で云はどうしたことと考るがよい。道學標的によのものがまじると標的の邪魔になる。此様なことを云は、さりとはひょんなことのやうなれとも、直方先生の道學標的を作られたが、垩學にちっともきつを付ぬと云が志ゆへ、今日この道學標的を講する者も、ちつも垩學的々の法方旨訣にそむくものはそのぶんにならぬ。ここがすててをかれず、とればをもかげなり。
【解説】
直方は世間の学問を見て、聖学に振れができて来ていると思った。そこで道学標的が大切なものとなる。道学標的に外のものが混じると標的の邪魔になる。そこで、そのままにしては置けないのであり、それは山崎先生に対しても同様である。
【通釈】
迂斎が、直方先生のことをよく知って言われたことがある。直方先生が世間の学問の姿を見て、どうもあの分では済まないだろうと言われたことがあったそうである。なるほどそうだろう。学問の仕方が大層深切でも、一寸ずつ聖学に振れができて来る。聖学に振れができて来ては、どうもそのままにはして置けない。そこで道学標的が大層大切なことに与る。さて、我が党の学者は山崎先生を標的にするのが一番よさそうなものだが、どうもあの習合が心持ちの悪いこと。この様なことは普段は言わないことだが、道学標的のことでそれを言うのはどうしたことかと考るのがよい。道学標的に外のものが混じると標的の邪魔になる。この様なことを言うのは実に突飛なことの様だが、直方先生が道学標的を作られた際、聖学に少しも疵をを付けないという志があったので、今日この道学標的を講じる者も、少しでも聖学的々の方法旨訣に背く者はそのままにしては置けないのである。ここが、捨てて置かれず、取れば面影である。
【語釈】
・すててをかれず、とればをもかげ…能の松風。「宵々に、脱ぎて我が寝る狩衣、かけてぞ頼む同じ世に、住む甲斐あらばこそ忘れ形見もよしなしと、捨てても置かれず取れば面影に立ち増り、起き臥し分かで枕より、後より恋の責め来れば、詮方涙に伏し沈む事ぞ悲しき」。

直方先生が山﨑先生の神道の説を聞かれて、このこと夢になれと云れた。これを直方は神道を知ぬからああ云たなどと云やからもあるげなが、道學を云ときはどふも此の孔曽思孟周程張朱のと云の外が這入りてはならぬことなり。ときに今日某なども山﨑先生の御影で道理を説くこともなるが、でも道學の標的を云ときは山﨑先生の非も云は子ばならぬ。子たる者はどこ迠も親を大切にすることぞ。親の非を云はぬことなり。さればとても、ちんばな親をちんばてないとは云れぬ。ちんばでも難有とは云べし。私親仁のあのかたはがありがたいと云筈はない。習合は見処のくるいなり。そのくるいをありがたいと云筈はなし。親を至極敬ふても、かたわな親はかたはと外云はれぬぞ。古今舜ほどな孝行はない。天下萬世孝行の相塲もきまりたと云程のことなれとも、瞽叟の目のつぶれたを、目がつぶれぬとは云はれまい。道學を論する中は何も遠慮はない。直方先生が、中庸を読ば假り、諸大夫になって読めと云はれたとはどうなれば、今日學者が中庸を読む人品ではないが読む時、假り。諸大夫になることなり。こちがしばらく暦々になって云ことぞ。迂斎や石原先生は本の道學標的、某などは通事の辞を通する様なものなり。
【解説】
子たる者は何処までも親を大切にしなければならず、親の非は言わないものだが、その非を有難がることはない筈。道学を論ずる内では何も遠慮することはない。
【通釈】
直方先生が山崎先生の神道の説を聞かれて、このこと夢になれと言われた。これを直方は神道を知らないからあの様に言ったのだなどと言う輩もいる様だが、道学と言う時は、どうもここにある孔曾思孟周程張朱の外が這い入ってはならないのである。時に今日私なども山崎先生のお陰で道理を説くこともできるが、それでも道学の標的を言う時は山崎先生の非も言わなければならない。子たる者は何処までも親を大切にしなければならない。親の非は言わないもの。しかしながら、ちんばな親をちんばでないとは言えない。ちんばでも有難いとは言える。私の親父のあの片端が有難いと言う筈はない。習合は見処の狂いである。その狂いを有難いと言う筈はない。親を至極敬っても、片端な親は片端としか言えない。古今舜ほどの孝行はない。天下万世孝行の相場も決まったと言うほどのことだが、瞽叟の目が潰れたのを、目は潰れないとは言われないだろう。道学を論ずる内では何も遠慮はない。直方先生が、中庸を読む際は、諸大夫になったつもりで読めと言ったのはどうしてかと言うと、今日の学者は中庸を読む人品ではないが、それを読む時は諸大夫になったつもりでなければわからないからである。こちらが漸く歴々になって言うのである。迂斎や石原先生は本当の道学標的、私などは通事が辞を通じる様なもの。

直方先生は山﨑先生の直弟子ぞ。あれほどゆるしそのない人なれとも、山﨑先生のことをかれやこれやと云はれぬが、神道を一味加へてよいとは云はれぬ。李延平が觀音喜怒哀楽未発の氣象と云れた。あまりよすぎてわるい。そこで朱子は不觀之觀と云。あとからは朱子と合ぬと立派に云は子ばならぬ。山﨑先生の神道に流れたはちっと道學にはひょんなことなれとも、天地間水火のある処には隂陽があり、隂陽のある処には必道はあるゆへ、もってきれば一つにもなる。十方もないものを持て来て合せ、地獄極楽の説の様なことではないなれとも、もってくると云になると、よほど細工がいる。この細工のいると云が道學では禁物なことなり。道學と云はなにか知らぬが孔子の道と云ことぞ。伏羲から段々孔子迠継だが、道學これにはづれれは請取られぬと云ことなり。道學を説くときまつ斯ふ丈夫に云は子ばならぬ。我々は直方先生の年季童にすんだなれば、をらが旦那の宗旨はこふで有たと云は子ばならぬ。
【解説】
山崎先生は神道を習合した。習合は持って来ることであり、それには細工が入る。この細工が道学には禁物である。道学は孔子の道であり、その通りをしてこれから外れてはならない。
【通釈】
直方先生は山崎先生の直弟子である。あれほど許しそうもない人でも、山崎先生のことをかれこれやと言わなかった。しかし、神道を一味加えてよいとは言われなかった。李延平が観音喜怒哀楽未発の気象と言われた。あまりによ過ぎて悪い。そこで朱子は不観之観と言った。後からは、朱子と合わないとしっかり言わなければならない。山崎先生の神道に流れたのは道学には一寸妙なことだが、天地の間、水火のある処には陰陽があり、陰陽のある処には必ず道があるので、持って来れば一つにもなる。途方もないものを持って来て合わせた。それは地獄極楽の説の様なことではないが、持って来るということになると、余程細工が入る。この細工が入るというのが道学では禁物である。道学は何かは知らないが、それは孔子の道ということ。伏羲から段々と孔子まで継いだが、道学に外れれば請け取られないということ。道学を説く時は先ずこの様に丈夫に言わなければならない。我々は直方先生の年季童を済んだ者だから、俺の旦那の宗旨はこうだったと言わなければならない。
【語釈】
・李延平…字は愿中。羅豫章の門に程氏学を学ぶ。朱子も22歳の時に李延平の門を叩く。1093~1163

さて、詩文の學者、又、徂徠仁斎の方のことは学者にはせぬことぞ。蟹翁の非徂徠學の序に、訂斎先生が徂徠は論に足らぬと云はれた。あれは道と云ものではない。王陽明は心にたち入ぬゆへ弁子ばならぬ。さて、さっきから云神道と云は、某など學ばぬゆへ得知らぬことなり。其上神道などを弁ずると云は恐れ多きことにて、上をも憚りあるべし。それを弁ずるではなし。ただあの習合と云ことがわるい。定て神道はわけあることで有ふが、一ち々々程朱をもってゆくがわるい。習合になると、若林などか克己は秡ひじゃ、存養は正直、志は祈祷などの丁度に合せ、さま々々合せて土金の傳も道學のことをもってゆく。そこで此方の道學、あれとは違うと弁ぜ子ばならぬ。先生低声にして予に謂て曰、だたい神道の方でもよくないことなり。神道へこんなことをもってゆきて云と神道が小利根になって却てわるい。又曰、道學になるとこれほどなことも弁せ子ばならぬ。神道をわるいと云も習合を云ことで、とっつけひっつけこちのことを云がわるい。然れば、神道者の方でも仏法をもってきてとりつけるはわるいはづなり。始に孔曽思孟と出して、それにちっともちりをつけぬこと。ちっとも匂ひがあると道學と云ものではない。
【解説】
心に立ち入らない者は学者ではない。そこで、弁じなければならない。神道に関しては、それ自体が悪いと言うのではなく、道学を習合するのが悪いのであり、そこで、道学はそれとは違うと弁じなければならない。孔曾思孟に少しも塵を付けてはならない。
【通釈】
さて、詩文の学者、また、徂徠や仁斎の方のことは学者として入れないこと。蟹翁の非徂徠学の序に、訂斎先生が徂徠は論ずるに足りないと言われた。あれは道というものではない。王陽明は心に立ち入らないので弁じなければならない。さて、さっきから言う神道は、私などは学ばないので知り得ないこと。その上神道などを弁ずるというのは恐れ多いことで、上にも憚りがあるだろう。神道を弁ずるわけではない。ただあの習合ということが悪い。きっと神道はわけのあることだろうが、一々程朱を持って行くのが悪い。習合になると、若林などか克己は祓いだ、存養は正直、志は祈祷などと丁度に合わせ、様々に合わせて土金伝も道学のことを持って行く。そこでこちらの道学はあれとは違うと弁じなければならない。先生が低声で私に言った。そもそもこれは神道の方でもよくないことである。神道へこんなことを持って行って言えば神道が小利口になって却って悪い。また言う。道学になれば、これほどのことも弁じなければならない。神道を悪いと言うのも習合を言ったことで、こちらのことを取っ付け引っ付けて言うのが悪いのである。それなら、神道者の方でも仏法を持って来て取り付けるのは悪い筈である。始めに孔曾思孟と出して、それに少しも塵を付けない。一寸でも匂いがあると道学ではない。
【語釈】
・蟹翁…三宅尚斎か?
・訂斎先生…久米訂斎。京都の人。三宅尚斎門下。名は順利。通称は断二郎。尚斎の娘婿。1784年没。
・若林…若林強斎。浅見絅斎の門下。
・土金の傳…神道の書。