道学標的

1
論語曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也。十室、小邑也。忠信如聖人、気質之美者也。夫子生知而未嘗不好學。故言此以勉人。言美質易得、至道難聞。學之至、則可以爲聖人。不學、則不免爲鄕人而已。可不勉哉。
【読み】
論語に曰く、十室の邑、必ず忠信丘が如き者有らん。丘の學を好むに如かず。十室、小邑なり。忠信聖人の如きは、気質の美なる者なり。夫子生知にして未だ嘗て學を好まずんばあらず。故に此を言いて以て人を勉めしむ。言うこころは美質得易く、至道は聞き難し。學の至りは、則ち以て聖人と爲る可し。學ばざれば、則ち鄕人爲るを免れざるのみ。勉めざる可けんや。
【補足】
この条は、論語公冶長28である。

論語曰云々。此書は孔子曰と出さず論語曰と出し、この次の条に子思曰となく、中庸曰とある。直方先生のこの思召はとうも知れぬことぞ。ときに直方先生の思召を聞かずに一つ云ことがある。周書抄畧の序に子思孟子とはなく、中庸孟子の後とあるは周書の抄畧なるゆへ書名で出した。道學標的は初めに孔曽思孟と書きだしたゆへ、孔子曰とだしそうなこと。論語曰とあるはまづはどうしたことか知れぬが、某鑿説があるなり。ものは大事なことで、きっと斯うで有ふと云と鑿説になるが、直方先生の思召は知れぬにのけてをいて説を付てをくも、これが直方先生の思召にあへばよく氣の付たと云ものなり。道學標的は孔曽思孟周程張朱の八人の御方を標的にすること。今日學者の功夫するにはじきに孔曽思孟周程張朱に入門ならぬからは、とかく大學論語孟子中庸近思録語類文集の外にはない。孔子へも朱子へも頓と親炙することはならぬ。そこでこの四子近思録語類文集と書を出して、それを見るとつかまへどがある。四書近思録語類文集を讀と、これより外に書物はいらぬと云て、これにとりつかまって吟味をすると、これてかたがつく。とんと四書近思録語類文集で道は得らるることなり。
【解説】
「論語曰」の説明。「孔子曰」と言わずに「論語曰」と出したのは、直に孔曾思孟周程張朱に入門することはできず、大学論語孟子中庸近思録語類文集を読むことで掴まえ所を得ることができるので、それで書名で言ったのである。
【通釈】
「論語曰云々」。この書は「孔子曰」と出さずに「論語曰」と出し、この次の条は「子思曰」ではなく、「中庸曰」とある。直方先生のこの思し召しはどうもわからないこと。時に直方先生の思し召しを聞かずに一つ言うことがある。周書抄略の序に子思孟子ではなく、中庸孟子の後とあるのは周書の抄略だから書名で出したのである。道学標的は始めに孔曾思孟と書き出したので、孔子曰と出しそうなもの。それを論語曰とあるのは先ずはどうしたことかわからないが、私に鑿説がある。ものは大事なことで、きっとこうだろうと言うと鑿説になるが、直方先生の思し召しはわからないと除けて置いて説を付けて置いても、それが直方先生の思し召しに合えばよく気が付いたというもの。道学標的は孔曾思孟周程張朱の八人の御方を標的にすること。今日の学者が功夫するのには、直に孔曾思孟周程張朱に入門することはできないので、とかく大学論語孟子中庸近思録語類文集の外にはない。孔子へも朱子へも全く親炙することはできない。そこでこの四子近思録語類文集と書を出して、それを見れば掴まえ所があると言ったのである。四書近思録語類文集を読むと、これより外に書物は要らないと言い、これに取り掴まって吟味をすると、これで片が付くのである。四書近思録語類文集ですっかり道を得ることができる。

これは某などもなめて見たこと。前漢後漢を見子ば文字の力がつかぬと云。成程、世間一と通りの儒者役の力にはなる。道學者などがそう云てはさても々々々笑止ぞ。前漢後漢を見たとてなにほとのことがあるものぞ。新渡ものがあるかなどと長﨑へ聞にやることではない。四書の集註章句或問で朱子の思召は見えておることぞ。近思録でたましいがつく。語類文集は朱子の門人衆と往来問答の書。平生の御咄にて、さま々々あちからはつき、こちからはついて朱子學の全備存してある。これでなければ道學標的ではない。まつこの書名でさい道學標的の薬方つけはすんてをる。近年医者も奇薬つかいとてさま々々人の知らぬ薬をもって上手と思う。学者も前後漢書を読むと諸先軰の誤も知るるのなんのと云。十方もないことを云。然れば直方先生の論語曰などと皆書で出されたは、論語や孟子中庸近思録語類文集ですむと云思召で、此書で道は得らるると云意かもしれぬ。これ、某が鑿説で有ふが、端的初學の心得にはなるべし。
【解説】
道学には四書近思録語類文集があれば十分である。これで道は得られるのであって、漢書などはそれには不要である。
【通釈】
これは私なども嘗めて見たこと。前漢後漢を見なければ文字の力が付かないと言う。なるほど、それは世間一通りの儒者役の力にはなる。しかし、道学者などがその様に言っては実に笑止である。前漢後漢を見たとしてもどれほどのことがあるものか。新渡物があるかなどと長崎へ聞きに遣ることはない。四書の集註章句或問で朱子の思し召しは見えている。近思録で魂が付く。語類文集は朱子の門人衆との往来問答の書。平生の御話で、様々にあちこちと突いて朱子学の全備が存してある。これでなければ道学標的ではない。先ずこの書名によってでさえ、道学標的の薬方付けは済んでいる。近年の医者も奇薬使いと言い、人の知らない薬を様々に盛って上手だと思う。学者も前後の漢書を読むと諸先輩の誤りも知れるの何のと言い、途方もないことを言う。そこで、直方先生の論語曰などと皆書で出されたのは、論語や孟子、中庸近思録語類文集で済むという思し召しで、この書で道は得られるという意かも知れない。これは私の鑿説だろうが、端的初学の心得にはなるだろう。
【語釈】
・新渡…外国から新たに渡来したこと。また、その物。

さてこの初条、十室之邑必有忠信如丘者焉は、どの様な村にでもと云弁で、どの様な村でも人間と云もののありがたさには忠信を尋て見るとをれが様な者が有ふが、をれがやふに学を好むものはあるまいとなり。さて此語の根を考て見るがよい。忠信と云は誠のことで、平生は白木の臺に載せて大切にすることぞ。然れば甚だ結搆なことなり。時に其忠信を筭盤に入れぬ。手前が忠信になっている。これが手抦なことではないと思ことなり。あの人の色が白ひと云様なもの。色の白はわるくはない。よからふことなれとも、白ひがなんだと云。あの人はせいが高ひと云。せいの高ひがなんだと云。生れ付を御辞義をすることではない。後世は生れ付を結搆がるが、そんなことを勘定には入れぬ。そこが道學標的の眼なり。
【解説】
「十室之邑、必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也」の説明。忠信は誠であって結構なものだが、それは生まれ付きだから、結構がることではなく、勘定に入れることではない。
【通釈】
さて、この初条、「十室之邑必有忠信如丘者焉」は、どの様な村にでもという弁で、どの様な村でも人間というものの有難さには忠信を尋ねて見ると俺の様な者もいるだろうが、俺の様に学を好む者はいないだろうということ。さて、この語の根を考えて見なさい。忠信は誠のことで、平生は白木の台に載せて大切にすること。それなら甚だ結構なことである。時にその忠信を算盤に入れない。自分が忠信になっていても、それは手柄なことではないと思うべきこと。それは、あの人の色が白いと言う様なもの。色が白いのは悪いことではなくてよいことだろうが、白いのが何だと言う。あの人は背が高いと言う。背の高いのが何だと言う。生まれ付きに御辞儀をする必要はない。後世は生まれ付きを結構がるが、そんなことを勘定には入れない。そこが道学標的の眼である。

忠信は生れつき。ずんとあてにならぬものぞ。御朱印、百姓の作り取のやうなものなり。忠信でない人の忠信になる様にするが道學の道学たる処ぞ。直方先生の権八に迂偽をつき習へと云たも、氣質のあてにならぬことを云たものなり。迂斎は下戸でありた。直方先生の、十左は、迂斎先生の俗穪、酒では孔子より上じゃと云はれた。酒を飲ぬと云は調法なよいことなれとも、何んにも手抦なことはない。こんなものはいくらも有ふが、なんの役に立ことではない。ここの文義を迂斎の、孔子のをれが忠信をま子るな、学問をま子ろと云たことじゃ、と。迂斎などの説がどうも及はれぬことなり。こんなものは寄合辻番にも有ふが、それは何んにもならぬ。学を好むをま子ることなり。
【解説】
忠信は気質であり、気質は全く当てにならず、手柄になることではない。これは孔子が、俺の忠信を真似るな、学問を真似ろと言ったことだと迂斎が言った。
【通釈】
忠信は生まれ付き。全く当てにならないものである。御朱印や百姓の作り取りの様なもの。忠信でない人が忠信になる様にするのが道学の道学たる処である。直方先生が権八に嘘を吐いて習えと言ったのも、気質が当てにならないことを言ったこと。迂斎は下戸だった。直方先生が、十左は、迂斎先生の俗称、酒では孔子より上だと言われた。酒を飲まないのは調法なよいことだが、何も手柄なことはない。こんなものはいくらでもあるだろうが、何の役にも立たない。ここの文義について、孔子が俺の忠信を真似るな、学問を真似ろと言ったのだと迂斎が言った。迂斎などの説がどうも及ばれないことである。こんな者は寄合や辻番にもいるだろうが、それは何にもならない。学を好むことを真似るのである。
【語釈】
・作り取…作り取り。年貢を納めず、耕作した所の全収穫を我が物とすること。
・権八…小野権八?

迂斎の、孔子は一生氣質をあてにせぬ人じゃと云はれた。論語の中のことが一つも氣質をほめたことはない。窂に氣質の咄もあるが、あれはそれに及ばぬものがそれになれと云ことゆへ、氣質を主に云たことではない。師也過啇也不及も、あれはよくないゆへ、あれをこぢ直して本道になれと云ことなり。どこまでも氣質を尊ばぬと云が道學のぎり々々。迂斎の、今すなをな人があると孔子のやうじゃと云がをかしいことじゃ、孔子はすなををあてにはせぬとなり。好學と云が道學の目當ぞ。斯うして始の序文へふりかへりて見ると、謹厚拘滞は十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學に目がつかぬ。忠信如丘ならばいかう重疂なことなれとも、生れ付の忠信と云はなにも手抦はない。道落者がそうなること。とかく我に得手があると、それをよいと思うものなり。迂斎の、朝をきな人はあさをきと云とよいと思う、下戸は下戸と云と十方もなくよいと思うとなり。
【解説】
論語に気質を褒めたことは何もない。気質を尊ばないというのが道学の至極であり、好学が道学の目当てである。しかし、とかく自分によいところがあると、それをよいと思うもの。
【通釈】
迂斎が、孔子は一生気質を当てにしなかった人だと言われた。論語の中のことに一つも気質を褒めたことはない。罕に気質の話もあるが、あれはそれに及ばない者にそれになれと言ったことであり、気質を主に言ったことではない。「師也過商也不及」も、あれはよくないので、あれを抉じ直して本道になれと言ったこと。何処までも気質を尊ばないというのが道学の至極である。迂斎が、今素直な人がいると孔子の様だと言うのが可笑しいことだ、孔子は素直を当てにはしないと言った。好学が道学の目当てである。こうして始めの序文を振り返って見ると、「謹厚拘滞」は「十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好学」に目が付かないこと。忠信如丘であれば大層重畳なことだが、生まれ付きの忠信には何も手抦はない。道楽者がそうなる。とかく自分に得手があると、それをよいと思うもの。迂斎が、朝起きの人は朝起きと言えばよいと思い、下戸は下戸と言えば途方もなくよいと思うと言った。
【語釈】
・師也過啇也不及…論語先進15。「子貢問、師與商也孰賢。子曰、師也過、商也不及。曰、然則師愈與。子曰、過猶不及」。

論語孟子でたかいことを云を見て、をちついた人はそれを学ひ、をちつかぬ人のをちつくことなり。たかい人のたかい方へ計りゆくを非言之難行惟難と出ぬことなり。此様な者をつかまへて氣質変化は出来ぬかと訶ればよいぞ。なれとも世間の學者が忠信と云とうれしがって、不如丘之好學に氣が付ぬ。氣質は、それを受た人は學ずともなるものなり。氣質のよいはひろい首をしたやうなもの。いかなる大將の首でも、拾ひ首は役に立ぬ。春からの儉約で當暮はしまいがよいと云は手抦なれとも、百両拾ふたと云は手抦にならぬ。鳩巣先生の様な御方でからが中江與右ェ門を譽て、間然することないものは中江與右ェ門じゃと云て、陽明が学問の非をただす沙汰がない。尤も中江右衞門は温厚の君子□、人も近江の圣人と云程なことなれとも、あれは忠信如丘者なり。
【解説】
世間の学者は忠信を嬉しがり、「不如丘之好学」に気が付かない。中江藤樹も「忠信如丘者」だけの人である。
【通釈】
論語孟子で高いことを言うのを見て、落ち着いた人はそれを学び、落ち着かない人は落ち着くのである。高い人は高い方へばかり行くが、「非言之難行惟難」で、出てはならない。この様な者を掴まえて気質変化はできないかと訶ればよい。しかしならが、世間の学者は忠信と言うと嬉しがって、不如丘之好学に気が付かない。気質は、それを受けた人は学ばなくても成るもの。気質がよいのは拾い首をした様なもの。どの様な大将の首でも、拾い首では役に立たない。春からの倹約で当暮は仕舞いがよいと言うのは手柄だが、百両拾ったと言うのでは手柄にはならない。鳩巣先生の様な御方でさえも中江与右衛門を誉め、間然することのない者は中江与右衛門だと言って、陽明の学問の非を糺す沙汰はない。尤も中江右衛門は温厚の君子で、人も近江の聖人と言うほどだが、あれは忠信如丘者のこと。
【語釈】
・非言之難行惟難…言は之れ難きに非ず、行なうが惟難し?
・鳩巣先生…室鳩巣。江戸中期の儒学者。名は直清。江戸の人。木下順庵に朱子学を学び、加賀藩の儒官、のち新井白石の推薦で幕府の儒官となり、将軍吉宗の侍講。著「駿台雑話」「六諭衍義大意」「赤穂義人録」など。1658~1734
・中江與右ェ門…中江藤樹。江戸初期の儒学者。わが国陽明学派の祖。名は原。近江の人。初め朱子学を修め、伊予の大洲藩に仕え、のち故郷に帰り、王陽明の致良知説を唱道。近江聖人と呼ばれた。門人に熊沢蕃山らがいる。著「孝経啓蒙」「翁問答」「鑑草」など。1608~1648

山﨑先生のことを謙讓の意が少くて上み朱子をわつらすと云。これがとんと道學の標的を知ぬことなり。温々恭人惟德之基。山﨑氏、爰を思はぬかなど氣質の評品ばかりしてあり。山﨑先生が謙讓の意がないとてなに朱子にかかることなきことなり。朱子の學を日本へ開たに山﨑先生の上へゆくものはない。この評などが局于謹厚拘滞之域たものなり。とかく古今の學者眼たぎらず、念佛ぐみを君子と思てをる。そのこうじたが司馬温公ぞ。づっとつよくさへて出る処から、孔子に似ぬとて孟子を疑ふ。それから孔子に似たと思ふに揚子法言の註をする。皆氣質ずりなり。向ふ処を知らぬと云がこれぞ。司馬温公は圣人の様な人なれとも、十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學也、此様なことを知らぬから吾が學の標的にはならぬなり。
【解説】
室鳩巣は山崎先生のことを謙譲の意が少なくて朱子を煩わすと言ったが、朱子学を日本に開いたのは山崎先生の御陰である。とかく古今の学者は眼が滾らない。司馬温公も聖人の様な人だが、「不如丘之好学也」を知らないから標的にはならない。
【通釈】
山崎先生のことを謙譲の意が少なくて上朱子を煩わすと言った。これが頓と道学の標的を知らないこと。山崎氏は「温々恭人惟徳之基」と思わないのかなどと、気質の評品ばかりをしている。山崎先生が謙譲の意がないとしても、どうして朱子のことを言う必要があるものか。朱子の学を日本へ開いたことでは山崎先生の上へ行く者はない。この評などが「局于謹厚拘滞之域」である。とかく古今の学者は眼が滾らず、念仏組みを君子と思っている。それが高じたのが司馬温公である。ずっと強く冴えて出る処から、孔子に似ていないと孟子を疑う。それから孔子に似ていると思って揚子法言の註をする。皆気質吊りなり。向かう処を知らないと言うのがこれ。司馬温公は聖人の様な人だが、十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好学也という様なことを知らないから、我が学の標的にならないのである。
【語釈】
・温々恭人惟德之基…詩経大雅抑。「荏染柔木、言緡之絲、温温恭人、維德之基」。

十室小邑也は、どこにもあると云こと。東金はなを清名幸谷にもあると云ことぞ。垩人に似たと云へばどふか迂偽を云しいやうなれとも、さてこれがあるものなり。學問もないが厚重で親切な男じゃと云。そんなものがはばをすると学問もいらぬになる。氣質はさて々々あてにならぬものぞ。直方先生が、氣質は夕立雨のやうなもの、馬の脊をわると云れた。霍光が不失尺寸と云人なり。そふかと思へば女房のわるたくみ□るをばうっかとしてをる。氣質のよいの役に立ぬと云も、これらでも見へて居るぞ。立身かせぎをせぬ人が小金をためるのすきながある。又、つんと金銭は目がけぬが、好色の方はまたと云。そこで氣質と云ものは片々はよいやうなれとも、片々にそれだけのことがあるものなり。
【解説】
「十室、小邑也。忠信如聖人、気質之美者也。夫子生知而未嘗不好學」の説明。直方先生が、気質は夕立雨の様なものだ、馬の背を割ると言われた。一方ではよい様だが、もう一方には別のことがあるもの。
【通釈】
「十室小邑也」は、何処にもあるということ。東金は勿論、清名幸谷にもあるということ。聖人に似ていると言うとどうも嘘を言う様だが、さてこれがあるもの。学問もないが厚重で親切な男だと言う。そんな者が幅をすると学問も要らないことになる。気質は実に当てにならないもの。直方先生が、気質は夕立雨の様なものだ、馬の背を割ると言われた。霍光は「不失尺寸」という人である。そうかと思えば女房が悪巧みをしているのに、うっかりとしている。気質のよいのが役に立たないと言うのも、これ等でも見えている。立身稼ぎをしない人でも小金を貯めるのが好きな者がいる。また、金銭は全く目掛けないが、好色の方はまだあると言う。そこで気質というものは一方ではよい様だが、一方にそれだけのことがあるもの。
【語釈】
・はばをする…幅をする。見栄を張る。上辺を飾って威張る。
・霍光…前漢の政治家。字は子孟。霍去病の異母弟。武帝に仕えて匈奴を征し、太子の傅となり、昭帝の時、大司馬大将軍、宣帝の時、何事も霍光に関かり白して後に天子に奏した(関白の号の起源)。執政前後二十年。その娘は宣帝の皇后となり、一門尊貴を極めた。彼の死後、族滅。~前68
・不失尺寸…小学善行。「霍光出入禁闥二十餘年、小心謹愼未嘗有過。爲人沈靜詳審毎出入下殿門進止有常處。即僕射竊識視之不失尺寸」。漢書霍光金日磾伝。「毎出入下殿門、止進有常處。郎僕射竊識視之、不失尺寸」。

言此以勉人は、孔子の衆生済度ぞ。孔子の好學が寒三十日、寒聲を使うやうなことではないなり。なれとも孔子が、をれは圣人だから学問はいらぬとは仰せられぬはづ。由断なくはげむなり。孔子の学を好だは本のことなれとも、それをあとから云とき何にも孔子の方に追ひ欠けるやうなことはないゆへ、言此以勉人と云。言美質易得を直方先生の、これは世間皆斯ふじゃと云文義と云れた。世間に忠信な人は沢山あれとも、道を聞たものはない。九十九里に肴はあるが、料理をするものはすくないと云様なもの。よい人は昔からいかいことあるが、學問したものはない。氣質は我がもったものでたしかなものなれとも、それきりでうごきのとれぬものなり。迂斎曰、揚貴妃ほどきりゃうがよいとても、そのやうに譽ることてはない。あのよいは天から貰ふたものぞ、と。
【解説】
「故言此以勉人。言美質易得、至道難聞。學之至、則可以爲聖人。不學、則不免爲鄕人而已。可不勉哉」の説明。世間に忠信な人は沢山いるが、道を聞いた者はない。気質がよいのは天からの貰い物である。
【通釈】
「言此以勉人」は、孔子の衆生済度である。孔子の好学は寒三十日に寒声を使う様なことではない。しかしながら、孔子は、俺は聖人だから学問は要らないとは仰せられない筈。由断なく励む。孔子が学を好んだのは本当のことだが、それを後から言う時に、何も孔子の方を追い駆ける様なことはないので、言此以勉人と言う。「言美質易得」を直方先生が、これは世間皆こうであるという文義だと言われた。世間に忠信な人は沢山いるが、道を聞いた者はない。九十九里に魚はあるが、料理をする者は少ないという様なもの。よい人は昔から大層いるが、学問をした者はいない。気質は自分が確かに持っているものだが、それだけでは動きの取れないもの。迂斎が、楊貴妃ほど器量がよいとしても、その様に誉めるものではない、あのよいのは天から貰ったものだと言った。
【語釈】
・衆生済度…仏・菩薩が衆生を迷いの苦海から救済して彼岸に度すこと。人々を救って悟りを得させること。
・寒…二十四節気の一。寒期。小寒と大寒。立春前のおよそ三十日間。
・寒聲…寒中に大声で経を読み、歌曲を歌いなどして、音声の訓練をすること。

好学はこの方で揉み出すことなり。學問せぬと一生ただの人で仕舞。そこで學者でなければ見せられぬと云が道學標的ぞ。町人や百姓が町人百姓で果れば何のことはない。私は願のあるものでござると云、そのつらではいぬつもりなり。そふして見れば、美質を手抦そうに思う□、學問を本道にせぬは、きかぬ藥を飲たやうなもの。それではさりとは残念なものなり。私は五年薬を飲がいつも同しことと云は、わるい薬の飲みやうなり。學問はするがただの者と同じことと云。それでは学問した甲斐はない。すは學問をすると云になっては垩人を目がけて、あの學を好むと云にゆか子ばならぬことなり。
【解説】
学問をしなければ、一生ただの人で終える。学問をするのであれば、聖人を目掛け、好学でなければならない。
【通釈】
好学は自分で揉み出すこと。学問をしないと一生ただの人で終える。そこで学者でなければ見せられないと言うのが道学標的である。町人や百姓が町人百姓で果てるのは何事もない。私は願のある者でござると言い、その面ではいないつもりでいる。この様に見れば、美質を手柄そうに思って学問を本道にしないのは、効かない薬を飲む様なもの。それはまた残念なこと。私は五年薬を飲んでいるがいつも同じだと言うのは、悪い薬の飲み方である。学問はするがただの者と同じだと言う。それでは学問をした甲斐はない。学問をするということになれば、聖人を目掛け、あの学を好むで行かなければならない。

2
又曰、朝聞道、夕死可矣。道者、事物當然之理。苟得聞之、則生順死安、無復遺恨矣。朝夕、所以甚言其時之近。○程子曰、言人不可以不知道。苟得聞道、雖死可也。又曰、皆實理也。人知而信者爲難。死生亦大矣。非誠有所得、豈以夕死爲可乎。
【読み】
又曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。道は、事物當然の理。苟くも之を聞くを得ば、則ち生きるに順い死するに安し、復た遺恨無し。朝夕は、其の時の近きを甚だしく言う所以なり。○程子曰く、言うこころは、人以て道を知らざる可からず。苟くも道を聞くを得ば、死すと雖も可なり。又曰く、皆實理なり。人知って信ずるを難しと爲す。死生も亦大なり。誠に得る所有るに非ざれば、豈に夕に死するを以て可と爲さんや。
【補足】
この条は、論語里仁8である。

又曰朝聞道云々。朝の字は、日頃心かけていることの願の叶ふとき書字なり。今日はなんたる吉日と云は、何んのこともないときは云はぬ語なり。歒の顔を見知ふ々々々と云て願てをるぞ。処を歒の顔を見た。そこで、何たる吉日と云なり。本意を達したゆへ、もふよいと云こと。死と云は、さて々々人のきらいなこと。垩賢でも凡夫でも死を聞て耳よりなことを聞たとは云ぬ。天地生物之心で生て居るゆへ、死と云ことはさん々々なことなり。処を道を聞たゆへ死んでもよいと云は、よく々々道の重ひことを知らせたものぞ。上の章の注に至道難聞と云。それを聞たものゆへ死でもよい。さて、この語を因果をふくめるやうに思ふて、のらぬことなり。人も道を聞ぬ内はうろたへだらけぞ。道を聞と覚悟が出来てくる。道を聞ぬ内は蝶や蜻蛉の蜘の巣にかかりてをるやうなもの。凡夫は氣質や人欲に引からまれてをる。蝶や蜻蛉のくものすにかかりてせつなそうに居る。それ取てやれと云とうれしさうに飛でゆく。丁度あのやうな心持で有ふ。
【解説】
「又曰、朝聞道、夕死可矣」の説明。道を聞いたので死んでもよいと言うのは、道の重いことを知らせたもの。道を聞かない内は狼狽だらけである。
【通釈】
「又曰朝聞道云々」。朝の字は、日頃心掛けていることの願いが叶った時に書く字である。今日は何たる吉日とは、何事もない時には言わない言葉。仇の顔を見知ろうと言って願っている。その処に仇の顔を見た。そこで、何たる吉日と言う。本意を達したのでもうよいということ。死は実に人の嫌いなこと。聖賢でも凡夫でも死を聞いて耳寄りなことを聞いたとは言わない。天地生物の心で生きているので、死ということは散々なことである。その処を、道を聞いたので死んでもよいと言うのは、よくよく道の重いことを知らせたもの。上の章の注に「至道難聞」とある。それを聞いたので死んでもよい。さて、この語を因果を含める様に思っては、乗らないこと。人も道を聞かない内は狼狽だらけである。道を聞くと覚悟ができて来る。道を聞かない内は蝶や蜻蛉が蜘蛛の巣に掛かっている様なもの。凡夫は気質や人欲に引き絡まれている。蝶や蜻蛉が蜘蛛の巣に掛かって切なそうにしている。それ、取って遣れと言うと嬉しそうに飛んで行く。丁度あの様な心持だろう。
【語釈】
・天地生物之心…中庸章句20。「仁者、天地生物之心、而人得以生者、所謂元者善之長也」。

道を聞子ば人間のせんはない。そこで學問の道を聞く。そうもなければ炬達に寢ておるがよい。あの山越てこの山こへて難行苦行をするは道を聞たいばかり。その道を聞けば死でもよい。聞道と云合点のない内、いかさまさふでござると云は違い。死は設けて云たこと。死でもよいと云程なれば、よく々々親切ぞ。迂斎の、聞道は飯を喰ふ程親切には思はぬものなり。今大名の供ふれをするに、明日は遠方へ御出なれとも弁當はやらぬと云と、あの遠ひ道に弁當がなくてどうなるものと云。學者が學問して道聞たをそれほどに思はぬ。それゆへに、ちゃくちゃくする道を聞てから始めて人間になる。上の段では好学が標的になり、この章では聞道が標的になる。れっきとした者へ數年学問するが本んの學問かと云。垩賢の書を讀でも文字訓詁の吟味計りなり。それでは役に立ぬ。學問で此方のよくなると云でなければならぬ。学問で此方がよくなれば、人の役を仕舞ふた様なもの。そこで夕死可矣なり。
【解説】
人は道を聞いて初めて人間となる。今の歴々は、聖賢の書を読んでも文字訓詁の吟味ばかりで道を聞かない。それでは役に立たない。学問は自分をよくするものである。
【通釈】
道を聞かなければ人間の甲斐はない。そこで学問の道を聞く。そうでなければ炬燵で寝ているのがよい。あの山越えてこの山越えて難行苦行をするのは道を聞きたいばかりから。その道を聞けば死んでもよい。聞道という合点のない内に、いかにもそうですと言うのは違う。死は設けて言ったことで、死んでもよいと言うほどであれば、よくよく親切である。迂斎が、聞道を飯を喰うほどには親切に思わないものだと言った。今大名の供触れをするのに、明日は遠方へ御出だが弁当は遣らないと言えば、あの遠い道に弁当がなくてはどうしたものかと言う。学者が学問をして道を聞くのをそれほどに思わない。そこで、嫡々とした道を聞いて初めて人間になる。上の段では好学が標的になり、この章では聞道が標的になる。歴とした者に、数年学問をしているが本当の学問かと問えば、聖賢の書を読んでも文字訓詁の吟味ばかりである。それでは役に立たない。学問で自分がよくなるのでなければならない。学問で自分がよくなれば、人の役を終えた様なもの。そこで「夕死可矣」である。

道と云ものが松や梅を見るやうに見物するものではない。吉野の花を見物したり、觀世が一世一代の能をするやうなことではない。道と云ものは日用万事目前にゆきわたって、ここは道のないと云ことはない。君へ向ても事物當然之理、父母へ向ても事物當然之理、女房や子へ向ても事物當然之理なり。医者もこれと云動かされぬ方組がある。まちかへな薬を見るは事物當然之理の間違ぞ。なんの上にも事物當然之理と云動かされぬものがある。そこを合点せぬゆへ道がこちのものにならぬ。道がこちの受用になると事物當然之理を知るゆへ、いこうらくになってくる。そこで何にもあがくことはない。いやと云はれぬことは、學問をしてそれが手に入ると、どうしたい斯ふしたいと云ことはない。垩希天賢希垩士希賢と云。あれをのけてああしたいこふしたいはない。百姓はすきを以て出る。事物當然之理なり。大名の家来は上下を着て出るが事物當然之理なり。この方すき自由にはならぬ。
【解説】
「道者、事物當然之理」の説明。道は日用万事目前に行き渡っていて、道のないところは何処にもない。そこには事物当然の理があり、それを合点し、その通りをするのである。
【通釈】
道は、松や梅を見る様に見物するものではない。吉野の花を見物したり、観世が一世一代の能をする様なことではない。道は日用万事目前に行き渡って、ここは道がないということはない。君へ向かっても事物当然の理、父母へ向かっても事物当然の理、女房や子へ向かっても事物当然の理である。医者もこれという動かせない方組がある。間違った薬を見るのは事物当然の理の間違いである。何の上にも事物当然の理という動かせないものがある。そこを合点しないので、道が自分のものにならない。道が自分の受用になると事物当然の理を知るので、大層楽になって来る。そこで何も足掻くことはない。それは違うと言えないということに、学問をしてそれが手に入ると、どうしたいこうしたいと言うことはない。「聖希天賢希聖士希賢」と言う。あれを除けてああしたいこうしたいはない。百姓は鋤を持って出る。事物当然の理である。大名の家来は裃を着て出るのが事物当然之理である。自分の好き放題にはならない。
【語釈】
・垩希天賢希垩士希賢…周濂渓の通書志学篇。近思録為学1。「濂渓先生曰、聖希天、賢希聖、士希賢」。

生順死安。此方のてを出さぬことで、道理なりをするなり。理なりにすることを生順死安と云。往生安楽ではない。とこぞてはこっくりと死。今死ぬが安ではない。日が暮るると行燈をともし、夜が明ると行燈を吹き消すやうなもの。萬端この通りにすることぞ。これが大切なことで、西銘のしまいにこのことを云てをかれた。そこで朱子西銘の註に朝聞道死夕死可矣を引てをかれた。こうしたいああしたいと云ぬことなり。理なりをする。とんと思ひのこすことはない。なんぞ我が方にたりぬことがあると思ひのこす。太閤が天下を取り、朝鮮迠責た。あれほどても、死ぬと云馬鹿ものにはこまると云た。そこで時薬でも飲む氣になる。禹稷は一生欠廻る。顔子は以有孔子在焉。あの通り陋巷につく子んとしてをる。比干は胷をさかれても、幽灵は出ぬ。伯有はうらめしいと思うたゆへ、幽灵になる。比干箕子微子は理なりゆへ、孔子の殷有三仁と云。まづ無遺恨と云がこれほどのことなり。
【解説】
「苟得聞之、則生順死安、無復遺恨矣」の説明。道理の通りをすることを「生順死安」と言う。それで全く思い残すことはない。理の通りであれば遺恨はない。
【通釈】
「生順死安」。これは自分から手を出さないことで、道理の通りをすること。理の通りにすることを生順死安と言う。往生安楽のことではない。何処かではこっくりと死ぬ。今死ぬのが安ではない。日が暮れると行燈を灯し、夜が明けると行燈を吹き消す様なもの。万端この通りにすること。これが大切なことで、西銘の最後にこのことを言って置かれた。そこで朱子が西銘の註に朝聞道死夕死可矣を引いて置かれた。こうしたいああしたいと言わないこと。理の通りをする。全く思い残すことはない。何か自分の方に足りないことがあると思い残す。太閤が天下を取り、朝鮮まで攻めた。あれほどても、死ぬという馬鹿物には困ると言った。そこで持薬でも飲む気になる。禹稷は一生駆け回る。顔子は「以有孔子在焉」。あの通り陋巷につくねんとしている。比干は胸を割かれても、幽霊になっては出ない。伯有は恨めしいと思ったので、幽霊になる。比干箕子微子は理の通りなので、孔子も殷有三仁と言った。先ず「無遺恨」と言うのがこれほどのこと。
【語釈】
・西銘のしまい…為学89。西銘。「存吾順事、沒吾寧也」。
・顔子は以有孔子在焉…孟子序説。「學者全要識時。若不識時、不足以言學。顏子陋巷自樂、以有孔子在焉。若孟子之時、世既無人、安可不以道自任」。
・伯有…伯有は鄭の卿で、子産に殺された。
・殷有三仁…論語微子1。「微子去之。箕子爲之奴。比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉」。

朝夕所以甚言其時之近。朝聞夕死、あんまりでござると云。五百石加増を下されてその晩に死だと云は残念なことなり。道を聞と云はそのやうなわざについたことではない。迂斎の云に云へぬ面白ひことを云はれた。手短に云てよくすむ。座頭に目をあけてやらふと云とき、此れ迠三四十年の目くらゆへ明けるに及ばぬとは云まい。官金も何も出してあけてもらふ其時の心持。夕死可なり。學者聞道をそれ程には思う合点はない。学者の道を聞と云は本意を達したこと。今日の学者は道も聞たし人欲もそのなりでをきたいと思う。
【解説】
「朝夕、所以甚言其時之近」の説明。「夕死可」は、目を明けて遣ると言われた時の座頭の心持ちだと迂斎が言った。道を聞くとは本意を達したこと。今日の学者は道も聞きたくて、人欲もそのままにして置きたいと思う。
【通釈】
「朝夕所以甚言其時之近」。朝聞夕死ではあまりなことだと言う。五百石加増を下されてその晩に死んだというのは残念なこと。道を聞くと言うのはその様な事に付いたことではない。迂斎が言うに言えない面白いことを言われた。手短かに言い、よく済む。座頭に目を明けて遣ろうと言えば、これまで三四十年盲なので明けるには及ばないとは言わないだろう。官金でも何でも出して明けて貰おうとするその時の心持ち。それが夕死可である。学者が聞道をそれほどには思う合点がない。学者が道を聞くというのは本意を達したこと。今日の学者は道も聞きたくて、人欲もそのままにして置きたいと思う。
【語釈】
・官金…盲人が検校・勾当などの位を得るために官に納めた金銭。

程子曰云々。ずんばあるべからずが甚だきびしい語意じゃと迂斎云へり。うらから云たできびしい。苟と云、此のきまらずに云がきびしいとなり。私ならぬのぞみぞ。飯を喰は子ば奉公はつとまらぬと云。食はずんばあるべからずなり。道を聞ずに一生をるは本道のはたらきではない。苟がけれふなやうで面白ひ。道をきく連衆になるがさいごなり。ここらで圣人を云はわるい。覚悟をしたとて李初平が孔子の様にはならぬはづ。朝聞道夕死可矣は與君一夜の話勝説十年書と、此様なことなり。周礼儀礼迠吟味したと云は道の方へは遠ひことなり。今儒者にはいろ々々な歯がゆいのがあって、儒者一道のことに吟味のつまらぬことはない、そのかはり、五百石が一粒かけても出られぬと云た學者がありた。さて々々□たないことぞ。藝者でもその様なことはない。道學標的でそのやうなことをきくと歯がういてくる。
【解説】
「程子曰、言人不可以不知道。苟得聞道、雖死可也」の説明。道を聞かずに一生を過ごすのは本道の働きではない。また、書を吟味するだけでは道には遠い。
【通釈】
「程子曰云々」。「不可以不」が甚だ厳しい語意だと迂斎が言った。裏から言うので厳しい。「苟」と、この決めずに言うのが厳しいと言った。私ではない望みである。飯を喰わなければ奉公は勤まらないと言う。食わずんばあるべからずである。道を聞かずに一生を過ごすのは本道の働きではない。苟が仮令な様で面白い。道を聞く連中になるのが最後のことである。ここらで聖人のことを言うのは悪い。覚悟をしたとしても李初平が孔子の様にはならない筈。朝聞道夕死可矣は、君と一夜の話は十年書より説び勝ると、この様なこと。周礼儀礼まで吟味したと言うのは道の方へは遠いこと。今儒者には色々な歯痒い者がいて、儒者一道のことに吟味の詰まらないことはないが、その代わり、五百石が一粒欠けても出られないと言った学者がいた。それは実に汚いこと。芸者でもその様なことはない。道学標的でその様なことを聞くと歯が浮いて来る。
【語釈】
・李初平…李初平二年而大覚悟と近思録講義教学15にある。

又曰実理也云々。皆実理也とつめて出したが、上にしたたかなことがあるゆへなり。前に語のあるにかまはぬこと。道を聞くと云と遠くにある道を聞く様なれとも、そうではない。道は熊胃やふにこうるのやうなものではない。鼻のさきのこと。珎らしそうに今迠しらぬものを聞たやうに思ふは違ひなり。これでぎんみしたことそ。知て信は丈夫なこと。知たばかりではあともどりもするが、信は知るのぎり々々。知は知惠。信は行と見たがるが、そふではない。知るの丈夫になったことを信と云。小児の金を知ると大人の金を知るやうなもの。小兒も小判を小判とは知るが信じ様が甲斐ないゆへ、つい饅頭と取かへる。大人は中々はなすことではない。知而信なり。遠ひことを見付るでないゆへ、誰もかれも聞かれ、さて信じさうなもの。仏者の本来面目を尋るやうなことではないぞ。なれとも、これが少々知たと云てもをちつきはならぬ。そこが、しり顔にしてしらざるなり。そこでここの悟道はめったにならぬことなり。
【解説】
「又曰、皆實理也。人知而信者爲難」の説明。道を聞くとは、遠くのことではなくて鼻の先のこと。「知而信」は知ることの丈夫になったこと。少々知ったとしても安堵はならない。
【通釈】
「又曰実理也云々」。「皆実理也」と詰めて出したのは、上にしたたか書いてあるからである。ここは、前に語があるのには構わない。道を聞くと言えば遠くにある道を聞く様だが、そうではない。道は熊胆や一角の様なものではない。鼻の先のこと。珍しそうな、今まで知らなかったものを聞いた様に思うのは違う。これで吟味すること。「知而信」は丈夫なこと。知っただけでは後戻りもするが、信は知るの至極である。知は知恵、信は行と見たがるが、そうではない。知ることの丈夫になったことを信と言う。小児が金を知るのと大人が金を知るのの違いの様なもの。小児も小判を小判とは知っているが信じ様が甲斐ないので、つい饅頭と取り替える。大人は中々離しはしない。知而信である。遠いことを見付るのではないから、誰も彼も聞くことができ、それを信じそうなもの。仏者が本来の面目を尋ねる様なことではない。しかしながら、少々知ったと言ってもそこで落ち着いてはならない。そこが、知り顔にして知らざるなり。そこで、ここの悟道は滅多にはできないことなのである。
【語釈】
・ふにこうる…ウニコール。一角。一角の牙から製した生薬で、毒消し及び健胃剤。昔は痘瘡の薬として用いた。

標的の幷べやう、朱子学は根済みの処が知るるぞ。そこで注のしむけが違ったことなり。ここへかふならべたればこそ此様に見へるが、論語でははるか遠くの処にあるが、根が一つこと。前条に至道難聞と云、その難聞を聞たことなれば、さて々々本望ぞ。さて死生亦大矣と出たもきこへた。七十年八十年生きても、ただをれは道を聞たとは云はれぬ。聞けば死而可ぞ。されとも論語の□句では、生死なんのこともないやうなれとも、軽ひことなれば云には及ぬ。死と云は一世一代のことで、何もかもここで皆なくなる。これが出てはををさはきなこと。それでもよいと云なれば、大きなことなり。ここが學者が無せうにのりすぎて出まかせを云てはならぬ。わけもなく死でもよいと云たとて、うけとられぬ。とらほどなことじゃと知るべし。道を聞ずに死んでは何の役に立ぬ。講釈をきいて死でもよいと云は違うことぞ。
【解説】
「死生亦大矣。非誠有所得、豈以夕死爲可乎」の説明。道は標的では近くに見え、論語では遠くにあるが、根は一つである。死は一世一代のことで重いことなので、それを死んでもよいと言うのは大きなことである。乗って出任せに死を言ってはならない。
【通釈】
標的の並べ様で、朱子学の根済みの処が知れる。そこで注の仕向けが違ったことになる。ここへこの様に並べたからこそこの様に見えるが、論語では遥か遠くの処にある。しかし、根は一つ事。前条に「至道難聞」とあり、その難聞を聞いたのだから、実に本望である。さて、「死生亦大矣」と出たのもよくわかる。七十年八十年生きても、それだけで俺は道を聞いたとは言えない。聞けば「死為可」である。論語の文句では、生死は何事もない様だが、軽いことなら言うには及ばない。死は一世一代のことで、何もかもここで皆なくなる。これが出ては大騒ぎである。それでもよいと言うのであれば、大きなことである。ここを学者が無性に乗り過ぎて出任せを言ってはならない。わけもなく死んでもよいと言ったとしても、それを請け取ることはできない。どれほどなことかを知りなさい。道を聞かずに死んでは何の役にも立たない。講釈を聞いて死んでもよいと言うのは間違いである。

さて、この道學標的の出来たとき、直方先生のどう云思召でこの二語を出されたるや。孔子の御辞の中で標的になる語はかずかぎりはあるまい。別して論語の巻頭、学而時習之を出されさうなものじゃと問たれば、直方先生の、学而時習之は全ひ語ゆへ學者の志が立ぬ。十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學也と朝聞道夕死可矣の二語はかどがある。かどのある語が道學の知所向こととなり。この二つで向所が知るるぞ。学而時習之も、吾がものになればあの中にこの二語のことはあるが、全いだけ道問の向ふ所を知るにならぬとなり。垩人の語はいづれかどなくむっくりとしたことなれとも、をれが様に忠信なものは幾人もあらふが、をれがやうに好学ものはあるまいと云が氣質を蹴たものなり。朝聞道の合点ないと、役に立ぬことを学問にしている。
【解説】
標的になる語は孔子には数限りなくあるのに、何故この二語を出したのかと言うと、この二語には角があり、角のある二語によって、道学の向かう所を知ることができるからである。「十室之邑云々」は気質を蹴ったもの。「朝聞道云々」は道を聞くことのない学問を蹴ったもの。
【通釈】
さて、この道学標的のできた時、直方先生はどの様な思し召しでこの二語を出されたのだろうか。孔子の御辞の中で標的になる語は数限りなくある。特に論語の巻頭の「学而時習之」を出されそうなものだと問うと、直方先生が、学而時習之は完全な語なので学者の志が立たない。「十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好学也」と「朝聞道夕死可矣」の二語には角がある。角のある語が道学の向かう所を知ることだと言った。この二つで向かう所が知れる。学而時習之も、自分のものになればあの中にこの二語のことはあるが、完全なだけ道を問うための向かう所を知ることにならないと言った。聖人の語はいずれも角がなくてむっくりとしたものだが、俺の様に忠信な者は幾人もいるだろうが、俺の様に学を好む者はいないだろうと言うのが気質を蹴ったもの。朝聞道の合点がないと、役に立たないことを学問にしていることになる。

こんな茶入れと蹴たやうなもの。利休が処へ茶にゆきて茶入れを見たいと請たれば、利休が不機嫌にて、このことかと茶入をころ々々ところがして出した。清みかた影もさやけき波のうへに月のくまある濱千鳥哉と、後濱千鳥と云た。十五夜の月は此様にかけくまもなくさへたが、千鳥があの明月をさへきりたとなり。學者も氣質に腰を掛るは月のくまあるのぞ。利休か、をれが茶の湯は道具のことではないとなり。忠信が孔子に似たと云へば金箔のついた忠信なれとも、孔子がそれをころ々々ところばした。そこで好學が標的になる。ここへ持てきては生順死安が道學の標的になる。とかく今日の學者は世間めいた風をする。先生笑曰、鴬の焼鳥と云話がある。江戸や京大坂で小鳥を飼ふに、鴬を百匁くらいたして買ふ。何ぜ其様に金を出すと云に、あの音をきかふなり。焼鳥にして喰へば言語同断。今日の學者は鴬の焼鳥なり。論語をも読めとも、聞道の合点なきは鴬を焼き鳥にするにてはなきや。二十一史私所持でござる。十三経もあると云が、道を聞た沙汰はふっつりばったりきかぬ。道具立ばかりぞ。利休がころ々々ところばしたがここなり。
【解説】
気質に腰を掛けるは月に隈があるのと同じである。今日の学者は鴬の焼鳥である。道を聞くという学者本来のことをしていない。
【通釈】
こんな茶入れと蹴った様なもの。利休の処へ茶に行って茶入れを見たいと請うと、利休が不機嫌になって、このことかと茶入れをころころと転がして出した。清見潟影もさやけき波の上に月の隈ある濱千鳥哉と、後に濱千鳥と言った。十五夜の月はこの様に欠け隈もなく冴えているが、千鳥があの明月を遮ったと言う。学者も気質に腰を掛けるは月に隈があるのと同じ。利休は俺の茶の湯は道具のことではないと言ったのである。忠信が孔子に似ていると言えば金箔の付いた忠信だが、孔子がそれをころころと転ばした。そこで好学が標的になる。ここへ持って来ると、生順死安が道学の標的になる。とかく今日の学者は世間めいた風をする。先生が微笑んで言った。鴬の焼鳥という話がある。江戸や京大坂で小鳥を飼うために、鴬を百匁位出して買う。何故その様に金を出すのかと言えば、あの音を聞きたいからである。焼鳥にして喰うのは言語道断。今日の学者は鴬の焼鳥である。論語も読むが、聞道の合点のないのは鴬を焼鳥にするのと同じではないか。二十一史を私所持しています。十三経もあると言うが、道を聞いた沙汰はぶっつりばったり聞かない。道具立てばかりである。利休がころころと転ばしたのがこれである。
【語釈】
・清みかた影もさやけき波のうへに月のくまある濱千鳥哉…清見潟影もさやけき波の上に月の隈ある濱千鳥哉
・二十一史…中国の古代から元に至るまでの二十一部の正史。史記・漢書・後漢書・三国志・晋書・宋書・南斉書・梁書・陳書・魏書・北斉書・周書・隋書・南史・北史・新唐書・新五代史・宋史・遼史・金史・元史。
・十三経…宋代に確定した十三種の経書。易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝・論語・孝経・爾雅・孟子。

先生又笑曰、月見の月見ずと云話あり。四十年ほど以前、播州邊の冨豪者江戸へ来り、見物は今夜は月見なりとて何れへか行た。その夜、坐中蝋燭や灯烑をならべ、琴三味線藝子などがとりまはしてをりた。定て遊女町か芝居町で有ふぞ。夜半に及びたれば、彼の富人云、やれ々々今夜はみなの取持ちで氣のべをした。かたじけないが十五夜のことなれば、ちと月をも見せてくれまいかと云たれば、座がしらげたと云。月見に行ても酒や三味線のさわぎで月を見ぬ。今の學者がいかほど學んでも道を聞く心はない。月見の月を見ざるなり。書を多く見て先生長者と云はるるが、向ふ所を知らぬとそうなり。然れば誰も先生株にしそもないものなれとも、氣質の美からをとなしやけ、人のあなどらす、人抦のよい方から先生役はつとまる。皆謹厚拘滞に腰を掛て居る。ここが戒むべきことなり。謹厚拘滞になると道は聞かれぬ。
【解説】
今の学者がどれほど学んでも道を聞く心がないのは、月見で月を見ないのと同じである。その様な者でも先生役が勤まるのは気質の美からである。謹厚拘滞では道を聞くことはできない。
【通釈】
先生がまた微笑んで言った。月見の月見ずという話がある。四十年ほど前、播州辺りの富豪者が江戸へ来て、見物は今夜は月見だと言って何処かへか行った。その夜、座中に蝋燭や行灯を並べ、琴三味線芸子などが取り回していた。きっと遊女町か芝居町でのことだろう。夜半に及んで、あの富人が、やれやれ今夜は皆の取り持ちで気伸べをした。忝いが十五夜なので、一寸月をも見せてくれないかと言うと、座が白けたという。月見に行っても酒や三味線の騒ぎで月を見ない。今の学者がどれほど学んでも道を聞く心はない。月見で月を見ないのである。書を多く見て先生長者と言われるが、向かう所を知らないとそうなる。それなら誰も先生株にしそうもないものだが、気質の美からを大人し気で人を侮らないので、人柄のよい方から先生役が勤まる。皆謹厚拘滞に腰を掛けている。ここが戒むべきこと。謹厚拘滞になると道を聞くことはできない。

生れつきの忠信は親から貰ふた身上なり。たれも一郷愿人と云て圣賢の様なれとも、これを謹厚拘滞と云て此方ではすてものにする。學者の尤づくを云が皆謹厚拘滞なり。大概學者と云ても皆謹厚拘滞に宿を借りて居る。山﨑先生や直方先生が世間の學者をあんでもないものにして、俗儒が々々々と云。ただをほ口ではない。知ぬからをほ口と思う。こんな処をつかまへぬゆへ、俗儒とは云なり。又、吾黨で道學標的と云と朝聞道めいたやうになにもかも見せる。これが又大きく違ふたことなり。朝聞道も實地の本道にゆくこと、たしかに見せたもの。まぎらかすはわるい。十に七八死と云へば了簡をかへて迯るが、それは却てうぶのままぞ。ただ朝聞道夕死可矣云々と計りは以の外わるい。
【解説】
生まれ付きの忠信は親から貰った身上であり、道学はこれを謹厚拘滞なものとして捨てる。大概の学者は謹厚拘滞である。また、道学標的と言えば朝聞道めいたものの様に言うが、それは実地に本道に行くことであり、口だけでは以の外である。
【通釈】
生まれ付きの忠信は親から貰った身上である。誰もが一郷愿人と言うので聖賢の様だが、これをこちらでは謹厚拘滞と言って捨て物にする。学者が尤も尽くを言うのが皆謹厚拘滞である。学者と言っても大概は皆謹厚拘滞に宿を借りている。山崎先生や直方先生が世間の学者を何でもないものとして、俗儒がと言う。それはただの大口ではない。知らないから大口だと思う。こんな処を掴まえないので俗儒と言うのである。また、我が党で道学標的と言うと朝聞道めいた様に何もかも見せる。これがまた大きく違ったこと。朝聞道も実地に本道に行くことを確かに見せたもの。紛らかすのは悪い。十に七八は死ぬと言えば了簡を替えて逃げるが、それでは却って初心のままである。ただ朝聞道夕死可矣云々とばかり言うのは以の外で悪い。
【語釈】
・一郷愿人…孟子尽心章句下37。「萬子曰、一鄕皆稱原人焉。無所往而不爲原人。孔子以爲德之賊、何哉」。

因て云、むかし本所に手習の師がありて、そこへ牢人ものが大晦日にゆきて、武士は相身たがひ、三両金をかしてくれろ、もしそれがならずは身分たたぬ、坐式をかしてくれよと云。その師が、氣の毒ながら三両出来ぬ。我等も武士ゆへ見かけてござる、そこもといかにも切腹されよ、介錯をしやうと云たれば、彼牢人小用に立つふりして裏からにげたと云。これが常情。本んのことなり。ただ一と通りの学者が夕死可矣云々と云たとて、本にはならぬこと。孔子のああ云はれた上を、程子の豈以夕死為可乎か聞へたことなり。両国橋へ三度迠行て見たがかへりたと云咄もある。それほど死ぬと覚悟してさへしなれぬものぞ。そこで、死ほどなことを何んとも思はぬゆへ、よく々々丈夫なことなり。生と死の難ひことから聞道の大ひことを語たものぞ。さて、道學標的は迂斎筆記溝口候録にて学話附録に載てあり。中々あれに及はれぬことぞ。あの書について吟味すべし。予謂、直方先生曰、直方が学筋を云ならば、朝聞道などて云へとなり。今日御講釈を承り、この章について考れば、さても々々々直方先生の志の丈夫は云に及ず、道を任するの重き、学を得るの深き、いかんとも云べきなし。先生頷之艮久曰、直方の明朝なとの人ならば、人々の感発すること自ら多かるべし。俗儒異国人をばほんそうする。
【解説】
死ぬと覚悟しても中々死ねないもの。これは、生と死の難しいことから聞道の大きいことを語ったものである。
【通釈】
そこで言う。昔、本所に手習の師がいて、そこへ浪人者が大晦日に来て、武士は相身互い、三両金を貸して下さい。もしもそれができなければ身分が立たないから座敷を貸して下さいと言った。その師が、気の毒ながら三両はない。我れ等も武士なので立ち会います。貴方はどうぞ切腹をして下さい。介錯をしますと言えば、その浪人は小用に立つ振りをして裏から逃げたという。これが常情で、本当のこと。ただ一通りの学者が夕死可矣云々と言っても、本当はできないこと。孔子があの様に言われた上を、程子が「豈以夕死為可乎」と言ったのがよくわかる。両国橋へ三度まで行ってみたが帰ったという話もある。それほど死ぬと覚悟してさえ死ねないもの。そこで、死ほどのことを何とも思わないので、よくよく丈夫なことなのである。これは、生と死の難しいことから聞道の大きいことを語ったもの。さて、道学標的は迂斎筆記溝口候録の学話附録に載っている。中々あれには及ばないこと。あの書に付いて吟味しなさい。私が言った。直方先生が、直方の学筋を言うのなら、朝聞道などで言えと言った。今日御講釈を承り、この章について考れば、全くなことで、直方先生の志の丈夫は言うに及ばず、道を任ずることの重き、学を得るの深き、何も言うべきことはない。先生が頷いた後暫くして言った。直方が明朝などの人であったのであれば、人々の感発することが自ずから多かっただろう。俗儒や異国人を奔走しただろう。