大学曰大學之道云々  十二月二十七日
【語釈】
・十二月二十七日…寛政2年庚戌(1790年)12月27日。

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大學曰、大學之道、在明明德、在親民、在止於至善。大學者、大人之學也。明、明之也。明德者、人之所得乎天、而虚靈不昧、以具衆理而應萬事者也。但爲氣禀所拘、人欲所蔽、則有時而昏。然其本體之明、則有未嘗息者。故學者當因其所發而遂明之、以復其初也。新者、革其舊之謂也。言既自明其明德、又當推以及人、使之亦有以去其舊染之汙也。止者、必至於是而不遷之意。至善、則事理當然之極也。言明明德、新民、皆當止於至善之地而不遷。葢必其有以盡夫天理之極、而無一毫人欲之私也。此三者、大學之綱領也。
【読み】
大學に曰く、大學の道、明德を明かにするに在り、民を親にするに在り、至善に止まるに在り。大學は、大人の學なり。明は、之を明にするなり。明德は、人の天に得る所にして、虚靈不昧、以て衆理を具えて萬事に應ずる者なり。但、氣禀に拘ずる所、人欲に蔽われる所を爲すは、則ち時として昏む有り。然るに其の本體の明は、則ち未だ嘗て息まざる者有り。故に學者當に其の發する所に因りて遂に之を明にし、以て其の初に復すべし。新は、其の舊を革むるの謂なり。言うこころは、既に自ら其の明德を明にし、又當に推して以て人に及し、之をして亦以て其の舊染の汙を去るを有らしむるべし。止は、必ず是れに至りて遷らずの意。至善は、則ち事理當然の極なり。言うこころは、明德を明にし、民を新にするは、皆當に至善の地に止まって遷らざるべし。葢し必ず其の以て夫の天理の極を盡くすこと有りて、一毫の人欲の私無きなり。此の三の者は、大學の綱領なり。
【補足】
この条は、大学章句経1である。

直方先生、学而の始めをは引かず、不如丘之學、夕死可と、かどのある語を出してをかれた。それから志を立る処がするどくなってくる。その志のするどくなってから上のことぞ。志がするどく立て、それから學問にかかる。好學と云字と聞道と云字を出し、それから全ひ學問に取かかることぞ。そふでなければ道學は得られぬことなり。ここへきてもまたかどのあることを云と、異端などのやつきゃつと云やうになる。そこでここへ三綱領と中庸の廿七章目を出して全くの道學を見せるなり。大學中庸を見ぬものはないが、好學と聞道と幷べて見ぬゆへ大學中庸の語がたはいなくなる。三綱領を讀んでも精彩がないゆへ、ただ誦する計りぞ。そこで志がするどくなって、その上じみちな語を出すと、これが標的になる。直方先生の至極な置き様なり。
【解説】
「大學曰、大學之道、在明明德、在親民、在止於至善」の説明。この条の前に「不如丘之学」と「夕死可」という角のある語を出して置いたので志が鋭くなる。志が鋭くなった上で大学や中庸を読むのでなければならない。それで標的となる。
【通釈】
直方先生は学而の始めを引かないで、「不如丘之学」と「夕死可」と、角のある語を出して置かれた。それで、志を立てる処が鋭くなって来る。ここは、志が鋭くなった上でのこと。志が鋭く立って、それから学問に掛かる。好学という字と聞道という字を出して、それから完全な学問に取り掛かる。そうでなければ道学は得られない。ここへ来てもまだ角のあることを言うと、異端などが人を指して言うのと同じ様になる。そこでここへ三綱領と中庸の二十七章目を出して完全な道学を見せたのである。大学中庸を見ない者はいないが、好学と聞道とを並べて見ないので、大学や中庸の語が他愛なくなる。三綱領を読んでも精彩がないので、ただ誦ずるだけである。そこで、志が鋭くなって、その上で地道な語を出すと、これが標的になる。直方先生の至極な置き様である。

朝聞道夕死可矣。とう聞道と云になったとき、大學の三綱領の通り、微塵違うても道學標的でない。陸象山や王陽明の學問は精彩もあり、志のたぎりたこともある。三綱領の通りの全ひことはかけてをるなり。大學之序に異端百家から記誦詩章迠ある。あれが皆三綱領のはばにかけたことなり。異端は明徳めいたことはありても新民がなく、伯者は新民めいたことはあっても明徳がない。文中子なとは云ひ分なく垩賢に似たやうなことを云ても至善を知らぬ。そこで学問があちこちしてよい処までにつまらぬに、三綱領につまら子ば本の學問とは云はれぬ。在明々徳在新民在止至善と在々が三つある。これが動かされぬことぞ。こうでなければ學問はならぬ。学問はここに帰したことそ。明徳新民至善につめる。三つなり。
【解説】
大学の三綱領の通りでなければならない。陸象山や王陽明の学問は精彩もあり、志の滾ったこともあるが欠けがある。異端は明徳めいたことはあっても新民がなく、伯者は新民めいたことはあっても明徳がない。文中子などは聖賢に似た様なことを言っても至善を知らない。
【通釈】
「朝聞道夕死可矣」で、どの様に聞道という場になった時は、大学の三綱領の通りにして、それから微塵も違っては道学標的ではない。陸象山や王陽明の学問は精彩もあり、志の滾ったこともある。しかし、三綱領の通りの完全さには欠けがある。大学の序に異端百家から記誦詞章まである。あれが皆三綱領の幅から欠けたこと。異端は明徳めいたことはあっても新民がなく、伯者は新民めいたことはあっても明徳がない。文中子などは言い分もなく聖賢に似た様なことを言っても至善を知らない。そこで学問があちこちしてよい処までに詰まらない。三綱領に詰まらなければ本当の学問とは言えない。「在明明徳在新民在止至善」と在の字が三つある。これが動かせないこと。こうでなければ学問はならない。学問はここに帰すこと。明徳新民至善に詰める。この三つである。
【語釈】
・陸象山…南宋の大儒。名は九淵。字は子静。象山・存斎と号。江西金渓の人。程顥の哲学を発展、理気一元説を唱え、心即理と断じ、朱熹の主知的哲学に対抗。文安と諡す。1139~1192
・王陽明…明の大儒。名は守仁。字は伯安。陽明は号。浙江余姚の人。初め心即理、後に致良知の説を唱えた。世にこれを陽明学派または王学と称する。兵部尚書。文成と諡された。著「伝習録」「王文成公全書」など。1472~1528
・大學之序…大学章句序。「自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學而無用。異端虚無寂滅之敎、其高過於大學而無實。其他權謀術數、一切以就功名之説、與夫百家衆技之流、所以惑世誣民、充塞仁義者、又紛然雜出乎其閒。使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之澤、晦盲否塞、反覆沈痼、以及五季之衰、而壞亂極矣」。
・文中子…隋末の学者。字は仲淹。山西竜門の人。唐の王勃の祖父。中説(文中子)を作って論語に擬し、礼論・楽論・続書・続詩・元経・賛易を作って六経に擬した。門人諡(オクリナ)して文中子という。584頃~618頃

至善を道学の標的にすると見ることではない。三綱領、三つに帰□たこの規摸を道學標的と見ることぞ。それゆへ道學のはばと云ものが、我方さへよければ人にはかまはぬと云、これは氣質なり。あまり人の世話をしたかるも氣質なり。垩賢の學問は両方揃ふことで、両方揃ふても、まだ氣質のうごきのとれぬ迠にこぎつけることぞ。在々と云が道學の標的。これを目當にすることなり。この三つに闕があると道學ではない。そふ聞ては六ヶ鋪。我々いかふ力の落たこと。もし外に心易ひことでもあるか聞ふと云に、いや々々ない、この外はないと爰へ三綱領を出して置れた。この三つを標的にしろと云ことなり。それゆへ、三綱領を大学で説ふが道學標的で説ふが三綱領に二つはなけれとも、全体は大學で吟味したことゆへ、ここではどこ迠も此の三つを道學の標的だと落すが此章の主意なり。
【解説】
至善のみでなく、三綱領の三つに帰すのが道学の標的である。この三つに欠けがあれば、それは道学ではない。
【通釈】
至善を道学の標的にすると見てはならない。三綱領の三つに帰す、この規模を道学標的と見るのである。そこで、道学の幅ということでは、自分さえよければ人には構わない言うのでは、これは気質である。あまりに人の世話をしたがるのも気質である。聖賢の学問は両方が揃うことで、その両方が揃っても、まだ気質が動きの取れなくなるまでに扱ぎ付けなければならない。在々と言うのが道学の標的。これを目当てにするのである。この三つに欠けがあると道学ではない。そう聞けば難しいこと。それは我々にとっては大層力の落ちること。もしも他に心易いことでもあればそれを聞こうと言っても、いや、それはない、この他はないとここへ三綱領を出して置かれた。この三つを標的にしろということ。そこで、三綱領を大学で説こうが道学標的で説こうが三綱領に二つはないが、全体は大学で吟味したことなので、ここでは何処までもこの三つを道学の標的だと落とすのがこの章の主意である。

好學と云ても朝聞道と云も、三綱領にはつるれば、手前で建立した学流と云もの、標的にはならぬに、三綱領を向に立て、あの通り々々々々と學ふことなり。招虞人以旗不至とある。虞人を招には別に動くものがある。餘のことを以てゆきては動かぬ。學者もそれなり。異端に引込れ、伯者の心術に陷るは餘の処へ行たものぞ。餘の処へふれてくるは三綱領の旌を持ぬのなり。世の中に道の明でないときは色々なものを持てくるぞ。処を三綱領なれば動く、餘のことでは動ぬと云。三綱領にすこしも違ふは狐につかれたのなり。直方先生道學標的を編まれて、明德新民至善この標的の外へふりむけぬことぞ。明徳ができても新民の出来ぬと云が今日此頃のことではない。異端虚無寂滅の教が手前の明徳は明にして、人の方は明にならぬと云。其他権謀は、我々はすてて臭ひものに蓋をするやうにして人を治めやうと云。皆彼の三綱領の規摸に違ふ。これがあたまで學者の標的になることなり。
【解説】
三綱領に外れれば我流であり、標的にはならない。異端は明徳を明にすることはできるが新民ができず、権謀は明徳をせずに新民をしようとする。
【通釈】
好学でも朝聞道でも、三綱領に外れれば自分で建立した学流というもので、標的にはならない。三綱領を向こうに立てて、あの通りにしようと学ぶのである。「招虞人以旌不至」とある。虞人を招くには別に動かせるためのものがある。他のことを持って行っては動かない。学者もそれ。異端に引き込まれ、伯者の心術に陥るのは他の処へ行ったのである。他の処へ振れて行くのは三綱領の旌を持たないからである。世の中で道が明でない時は色々なものを持って来る。そこを、三綱領であれば動くが、他のことでは動かないと言う。三綱領に少しでも違えば、それは狐に憑かれたのである。直方先生が道学標的を編まれたのは、明徳新民至善という標的の外へ振り向かせないためである。明徳はできても新民ができないと言うのは今日この頃のことではない。異端の虚無寂滅の教えが、自分の明徳は明にして、人の方は明にならないと言う。その他権謀は、自分達は捨てて、臭いものに蓋をする様にして人を治めようと言う。皆あの三綱領の規模に違う。これが最初に学者の標的になること。
【語釈】
・招虞人以旗不至…孟子滕文公章句下1。「孟子曰、昔齊景公田。招虞人以旌、不至。將殺之。志士不忘在溝壑、勇士不忘喪其元。孔子奚取焉」。

士不可以不弘毅を直方先生の冬至の文に書れた。三綱領のあの三つを持てゆくことゆへ、弘毅でなければならぬ。吾が得手方をするなれば弘毅には及ぬ。明徳新民至善と云三つをそろへて持て行くことゆへ、大抵な擔ではない。是を一生地へ落さぬやうにする。曽子の弘毅はこれを落さぬこと。子張が執徳不弘信道不篤焉能為有焉為亡云たは、我をよいと思ふ學者をあざけった語なり。少しよいとて、そのよいに腰を掛ると執徳不弘信道不篤と云ぞ。又焉能為有焉能為亡は、其様な學者は筭盤には入れぬ。三綱領の規摸にはづれても我が学をよいと思ふは方々の国々の者が己が国をよいと思う様なもの。何にずりのなにかた氣のと云ことはない。子張の語は、三綱領の中で一つ吾が得手をすると學問のはばがちいさくなると云ことを云たものなり。
【解説】
三綱領を持って行くのは大抵なことではないから、弘毅でなければならない。子張の執徳不弘の語は、自分の得手をすると学問の幅が小さくなるということ。
【通釈】
「士不可以不弘毅」を直方先生が冬至文に書かれた。三綱領のあの三つを持って行くことなので、弘毅でなければならない。自分の得手方をするのであれば弘毅には及ばない。明徳新民至善という三つを揃えて持って行くことなので、大抵な荷ではない。これを一生地面に落とさない様にする。曾子の弘毅はこれを落さないこと。子張が「執徳不弘信道不篤焉能為有焉能為亡」と言ったのは、自分をよいと思う学者を嘲って言った語である。少しよいとしても、そのよいところに腰を掛けるのを執徳不弘信道不篤と言う。また、焉能為有焉能為亡は、その様な学者は算盤には入れないということ。三綱領の規模に外れても自分の学をよいと思うのは方々の国々の者が自分の国をよいと思う様なもの。何吊り、何気質ということはない。子張の語は、三綱領の中で一つ自分の得手をすると学問の幅が小さくなるということを言ったもの。
【語釈】
・士不可以不弘毅…論語泰伯7。「曾子曰、士、不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。
・執徳不弘信道不篤焉能為有焉為亡…論語子張2。「子張曰、執德不弘、信道不篤。焉能爲有、焉能爲亡」。

朱子の子張の執徳不弘と中庸の尊徳性而道問學の二を取れた語を鞭策録の巻頭にされた。鞭策録は直方先生の若ひ時作られ、冬至の文は晩年の作。あれで学問の相塲をやすくせぬことなり。大切なことで、若ひ學者は倡[いさな]ふものの云なりになる。そこで師はづんと大事なことなり。但し今は師も弟子も伍挌なれとも、若ひ者は老人の云ことを真ん誠にするなり。とかくに學問の相塲がくるふてくるぞ。どこ迠も明徳新民至善の規摸をくるわせぬが道學の標的なり。それでゆか子ばうちやりて仕舞ふでよい。古も大學挍は凡民之俊秀を教てあとは農畝へ帰し、畠でもうのふてをる。所の名主が何にかしこむ。孔孟周程張朱のはばを云へば三綱領と云。それではあれにはすぎますと云。その様なものに示す標的でない。
【解説】
若い学者は誘う者の言いなりになるから学問の相場が狂って来る。そこで師が大層大事なものとなる。道学標的は農畝を耕す者のためのものではない。
【通釈】
朱子が子張の「執徳不弘」と中庸の「尊徳性而道問学」の二つを取られた、その語を鞭策録の巻頭にされた。鞭策録は直方先生の若い時に作られ、冬至の文は晩年の作である。あれが学問の相場を安くしないこと。それは大切なことで、若い学者は誘う者の言いなりになる。そこで師は大層大事である。但し今は師も弟子も互角だが、若い者は老人の言うことを丸でその通りにするから、とかく学問の相場が狂って来る。何処までも明徳新民至善の規模を狂わせないのが道学の標的である。それで行かなければ捨てて仕舞うのがよい。古も大学校は凡民之俊秀を教え、その他は農畝へ帰して畠でも耕していた。在所の名主が何かを仕込む。孔孟周程張朱の幅を言えば三綱領と言う。それでは彼等には過ぎますと言う。その様な者に示す標的ではない。
【語釈】
・尊徳性而道問學…中庸章句27。「故君子尊德性、而道問學、致廣大、而盡精微、極高明、而道中庸」。
・大學挍は凡民之俊秀を教て…近思録教学15。「古者八歳入小學、十五入大學。擇其才可敎者聚之、不肖者復之農畝」。

白人には過きやうも、此方の修業はこれなり。このならぬと云ものはぶんに教手がある。名主が世話をする筈。一文字讀ぬ者へ標的を出しはせぬ。それは公儀の役人のかかり。孔孟程朱の下に居て道を倡[すすめ]るの任に非す。学問の規模は三綱領と云。これが後世で道學を倡の大切なり。直方先生鞭策録を編み、又晩年道学標的を編れた。その上に遺言のやうに冬至の文を書れた。學問せずは挌別、直方先生の門下に生れては、その宗旨をつぶさぬがよい。今時は斯ふすると人々のためになると云。はや一味はいざいになる。一味はいざいでよいこともあると云は、忰にはあれがよいと云やうなもの。向のためにさへなればよいと云が、俗人は挌別、この道學と云者がそれではならぬ。古方でも後世家でも方組の通りに薬を盛る。方組に何々と有ふと、一味でよいとはせぬ。まけてかからぬが道學の大事なり。
【解説】
一文字も読めない者に道を進める任はない。直方先生の門下に生まれたからは、その宗旨を潰さない様にするのがよい。今時はこれがよいなどと言ってはならない。
【通釈】
素人には過ぎるだろうが、こちらの修業はこれである。これができないと言う者にはその人に合った教え手がいる。名主が世話をする筈である。一文字も読めない者へ標的を出しはしない。それは公儀の役人の仕事。孔孟程朱の下にいて、道を進める任をする者ではない。学問の規模は三綱領と言うのが、後世で道学を進める大切なところである。直方先生が鞭策録を編み、また、晩年道学標的を編また。その上に遺言の様に冬至文を書かれた。学問をしないのなら格別だが、直方先生の門下に生まれては、その宗旨を潰さない様にするのがよい。今時はこうすれば人々のためになると言う。早くも一味配剤になる。一味配剤でよいこともあると言うのは、忰にはあれがよいと言う様なもの。向こうのためにさえなればよいと言う。俗人なら格別だが、道学を言う者がそれではならない。古方でも後世家でも方組の通りに薬を盛る。方組に何々とあるだろうと言い、一味でよいとはしない。曲げて掛からないのが道学の大事である。
【語釈】
・古方…古医方は、江戸時代の漢方の医家の説の一。金・元以後の後世派の医学を批判し、晋・唐の根本精神に復帰し経験と実証的精神に基づいた治療を主張。この説をとる医家を古方家という。江戸前期名古屋玄医に端を発し、後藤艮山により確立され、香川修徳・山脇東洋・吉益東洞らがその代表者。
・後世家…わが国に鎌倉時代末期以降伝えられた中国の金・元の医家の処方を祖述する医家の一派。これを奉ずる医家を後世家とよび、田代三喜・曲直瀬道三・曲直瀬玄朔はその代表者。

標的を示すことゆへ三綱領を規矩[かね]にして、これが標的じゃと云。これが直方先生より的々の傳なり。迂斎の三十計の時、為學説と云文ありて、これにそむけば非道非教と書きつめた。寛裕底な氣象の迂斎などが如此たぎりたことなり。中々此様なつよいことは書れぬものなり。これ、直方の傳なり。友部が此文章を見て、いかふ腹を立て弁じた。今この書板行して埀加文集の末にあり。迂斎などの直方先生の道を継だと云が此様なことなり。道を論ずるときは此様に峻く出すことなり。文義は學者とさへ云へば説くが、標的が立子ば精彩がない。
【解説】
寛裕底な気象の迂斎でも、為学説という文の中で、これに背けば非道非教と書き詰めた。迂斎が直方先生の道を継いだと言うのがこの様なことである。
【通釈】
標的を示すことなので、三綱領を規矩にして、これが標的だと言う。これが直方先生からの、的々の伝である。迂斎が三十ばかりの時、為学説という文を作り、これに背けば非道非教と書き詰めた。寛裕底な気象の迂斎などがこの様に滾った。中々この様な強いことは書けないものであり、これが直方の伝である。伴部がこの文章を見て、大層腹を立てて弁じた。今、この書は板行して垂加文集の末にある。迂斎などが直方先生の道を継いだと言うのがこの様なこと。道を論じる時はこの様に峻く出すのである。文義は学者でありさえすれば説くことはできるが、標的が立たなければ精彩がない。
【語釈】
・友部…伴部安崇。武右衛門と称す。号は八重垣翁。幕臣。元文5年(1740)7月14日没。年74。

大學者大人之學也。ひょいと大きくなりた人はない。小児が段々をとなになる。子供のとき飯を喰ふと云下地からして大人になっても飯を喰ふ。飯を喰ふは氣の養ひ、學問は理の養ひ。飯も學も小児大人の順あるは自然なこと。そこで、學問は大人になれば大學挍に入る。大学は小學挍に對して云こと。小學と云下地なくては大學はならぬからは、大學を語るには遠慮なく大く語るがよい。とうに小學挍て仕入れ仕込をし、人がら云分のない様に仕立た其上を大學挍に入れて、知行のぎりぎり、天下国家を治る吟味をする。大學はその様なことならばなるまいと云が、隨分なること。雀にまりではない。無学な者ならば高ひことは無理なれとも、これは小學挍で仕入れ仕込のありた人ゆへ、形而上のきり々々を仕込む。兒守小奴稺[こでっち]にかまうことはない。これからは垩賢へぼっつけることをする。
【解説】
「大學者、大人之學也」の説明。小学校で仕入れ仕込みをして、言い分のない様に仕立てた上で、大学校で知行の至極、天下国家を治める吟味をする。これは無学な者に関わることではない。
【通釈】
「大学者大人之学也」。急に大きくなった人はいない。小児が段々と大人になる。子供の時の飯を喰うという下地から、大人になっても飯を喰う。飯を喰うのは気の養い、学問は理の養い。飯も学も小児大人の順があるのは自然なこと。そこで学問では、大人になれば大学校に入る。大学は小学校に対して言うこと。小学という下地がなくて大学はできないのだから、大学を語るには遠慮なく大きく語るのがよい。早くに小学校で仕入れ仕込みをして、人柄言い分のない様に仕立てたその上で大学校に入れて、知行の至極、天下国家を治める吟味をする。大学がその様なことであればできないだろうと言うが、それは随分とできること。雀に鞠ではない。無学な者であれば高いことは無理だが、これは小学校で仕入れ仕込みのあった人なので、形而上の至極を仕込むことができるのである。子守や小丁稚に構うことはない。これからは聖賢へ行き着くことをする。

大人と云註を一と通りに云ことではない。道理にこきあげて下地のある上をまた々々と上へのぼせること。人々大學を説くに浅はかなことに説くゆへ、學問の規摸がちいさくなる。此大人の二字て大なる。ヶ様な字を、とかくか子てそこ々々にしてをくなり。吾黨学者小學は根基にして道學と云ときは、大學のきりきりぞ。今日、もってこい大學とて、大學を讀でも眼目小學めいたことでは道學と云掛札は出されぬ。王祥が孝行、汲黯が忠、あれほどなれとも、根が素人なり。大學からは奇特なと云ほどなこと。脩己は顔曽の通り、天下を治ることは伊尹周公の通りと云ことゆへ、學問をして善ひ人になるなどと思ふことでは食ひ足らぬ。
【解説】
小学を本にして大学を言う時は、大学の至極を言うこと。それは、修己では顔曾、治天下では伊尹周公の通りをすることであって、善人になるなどという様な甘いことではない。
【通釈】
「大人」という註を一通りに思ってはならない。道理に扱き上げて下地のできた上を、またその上へと上らせること。人々は大学を説くのに浅はかに説くので、学問の規模が小さくなる。この大人の二字で大きくなる。この様な字を、これまでとかく適当に扱って置いた。我が党の学者が小学を根基にして道学という時は、大学の至極のこと。今日、大学が丁度よいと思ってそれを読んでも、眼目が小学めいたことでは道学という掛札は出せない。王祥の孝行や汲黯の忠はあれほどのことだが、根が素人である。大学からは奇特だと言うほどのこと。修己は顔曾の通り、天下を治めることは伊尹周公の通りということなので、学問をして善い人になるなどと思うことでは食い足りない。
【語釈】
・王祥…晋朝の人。親孝行な人で、「臥冰求鯉」の故事がある。
・汲黯…漢代。武帝の時代初期の官僚。
・伊尹…殷初の名相。名は摯。湯王を輔け、夏の桀王を滅ぼして天下を平定したので、湯王はこれを尊んで阿衡と称した。
・周公…周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王をたすけて紂を滅ぼし、魯に封ぜられ、武王の死後は甥の成王をたすけて礼楽を作り、康王が即位するや、召公と共にこれを補佐して文武の業績を修めた。周公旦。

揚亀山が吾道南すと云顔で云ゆへ、面白ひことを云やったなり。をぬしたちは学問をして非義をせぬ人になると思ふかとなり。非義をせぬなどと云は小學と云舞臺て舞を舞ふことなり。大學はそれをきり上けたことなり。まつ此章の道學標的になることを合点すべし。云ふに云へぬこと。不如丘之好學はここを合点することなり。小笠原では礼は殷謹あまるべしと云がよし。されとも余り殷謹すぎるはわるい。あまり殷謹すぎると學問もちいさくこ子まはす。そうすると、あのををきい道學の副[はば]をちいさくする。いつも頭を下けると、その拍子で道を説くにもち□□くする。
【解説】
非義をしないことや慇懃なことを目標にしては、道学の幅を小さくする。
【通釈】
楊亀山が「吾道南」という顔で、面白いことを言った。お前達は学問をして非義をしない人になろうと思うのかと言ったのである。非義をしないなどというのは小学という舞台で舞を舞うことで、大学はそれを切り上げたこと。先ず、この章が道学標的になることを合点しなさい。言うに言えないこと。「不如丘之好学」はここを合点すること。小笠原では、礼は慇懃余るべしと言うのがよい。しかしながら、あまりに慇懃過ぎるのは悪い。あまりに慇懃過ぎると学問も小さくこね回す。そうすると、あの大きい道学の幅を小さくする。いつも頭を下げていると、その拍子で道を説くのも小さくする。
【語釈】
・揚亀山…楊時。北宋の儒者。字は中立。1053~1135
・吾道南す…

明は明之。之はの字が大切にあつかること。之の字の出処は子思の語なり。中庸に誠之とある。之が力のつく字ぞ。迂斎云、寢て居る者は子起ること、と。果報寢て待てでないなり。氣質をたのむ學者は明之でない。我がす子からもみ出したが明々之也。これでしゃっきりとなる。明徳者人之所得乎天云々。朱子學をする者も、朱子の近思録を編集なさるに近く思ふと云頭に道体の篇がある。頓とこれを済す者いない。切問近思と云書の始めに無極而太極と云。これはどうしたことじゃと云たら、その返事のしてはあるまい。近く思ふならば、切り身に塩をつけ、三里へ灸をする様なことでありそうなものじゃに、無極而太極。いかさま済ぬこと。
【解説】
「明、明之也。人之所得乎天、而虚靈不昧」の説明。「明明之也」は自分の臑から揉み出すこと。また、近思録の始めに道体を置き、「無極而太極」と言った意味をわかる者がいない。
【通釈】
「明明之」。「之」の字が大切に与ること。之の字の出処は子思の語である。中庸に「誠之」とある。之が力の付く字である。迂斎が、寝ている者が跳ね起きることだと言った。果報は寝て待てではない。気質を恃む学者は明之でない。自分の臑から揉み出したのが「明明之也」。これでしゃっきりとなる。「明徳者人之所得乎天云々」。朱子が近思録を編集なさる際に、近く思うという最初に道体の篇を置いたが、朱子学をする者の中にも、頓とこれを済す者がいない。切問近思と言う書の始めで「無極而太極」と言う。これはどうしたことかと聞けば、返事のできる者はいないだろう。近く思うのであれば、切り身に塩を付け、三里へ灸をする様なことでありそうなものだが、無極而太極。いかにも済まないこと。
【語釈】
・誠之…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也」。
・切問近思…論語子張6。「子夏曰、博學而篤志、切問而近思。仁在其中矣」。
・無極而太極…近思録道体1の書き出しの語。

大學の虚霊不昧は誰も不審を云はぬが、すぐに無極而太極のことなり。とかくどこでも道体なりの為學と云がこれぞ。明徳は道体なり。明之が為學なり。次の段、中庸の廿七章も三綱領と同じことて功夫なれとも、大哉と始に道体を語る。道体から出た為學でなければ本んのことではない。寢たものがは子起る程な力のあることなれとも、元来の道体から語らぬと、半分からさきにのことになる。虚霊不昧、はてもない咄しなり。人之所得乎天は、人間は天の客によばれた様なもの。客に呼ふと亭主が馳走をする。明徳と云結搆な者を供へ振舞とてくれたそ。明徳を明にせぬは客ぶりのわるい様なものなり。折角結搆な明徳を振舞ても、吸物椀の蓋をあけぬ様なもの。それではさん々々なことじゃ。天は馳走をするとても、人間の様にやつきゃつとは云ぬ。人へやりはやりたがだまって見てをる。そも天の馳走は何んじゃと云と、明徳と云ものが人にあって、これがいかう結搆なものなり。その結搆な明徳に人々が近付でない。これはどうしたものぞ。吾にある者に近付てないは如何と云に、丁度程子の、人が五臟六臍をもっても知らぬと云れたやふなもの。明徳と云結搆な御馳走になってをるがとんと知ぬ。
【解説】
大学の虚霊不昧が無極而太極のこと。何処でも道体なりの為学である。明徳は道体で、明之が為学であり、道体から語らなければ、最初がなくて半分から先のことになる。人は天から明徳を馳走されているが、そのことを人は全く知らない。
【通釈】
大学の虚霊不昧は誰も不審を言わないが、それが直に無極而太極のこと。とかく何処でも道体の通り為学と言うのがこれ。明徳は道体である。明之が為学である。次の段の中庸二十七章も三綱領と同じことで功夫のことだが、「大哉」と始めに道体を語る。道体から出た為学でなければ本当のことではない。寝た者が跳ね起きるほどの力のあることだが、元来の道体から語らないと、半分から先のことになる。虚霊不昧は果てない話である。「人之所得乎天」は、人間は天から客として呼ばれた様なもので、客に呼べば亭主が馳走をする。明徳という結構なものを供え、振舞ってくれたのである。明徳を明にしないのは客振りの悪い様なもの。折角結構な明徳を振舞っても、吸物椀の蓋を開けない様なもの。それでは散々なこと。天が馳走をするとは言っても、人間の様に誰彼とは言わない。人へ遣りはしたが、黙って見ている。そもそも天の馳走は何かと言うと、明徳というものが人にあって、これが大層結構なものなのである。その結構な明徳に人々が近付きでない。これはどうしたものか。自分にあるものに近付きでないのはどうしてかと言うと、それは丁度程子が言った、人が五臓六腑を持っていてもそれを知らないという様なもの。明徳という結構な御馳走を頂いているのだが、全くそれを知らない。

道体云々とて、上の方を見ることではない。すぐにその明徳と云。胸の中が道体なり。明徳は誰もあるものと云と、さてもそうかと云。學問をせぬ者を近禽獣と云が聞へたことじゃ。明徳と云結搆な働のあるのに知らすに居る。虚霊不昧をつめて云へば人の持た太極なり。周子は是を人極と云ひ、洪範では皇極と云。すくに明徳のことなり。人の心え得た処で虚灵不昧と云。この虚灵不昧と説たが面白ひ。なぜなれば、太極を語るは上の方のこと。それを人へ受て人極と云。虚灵不昧と云と人へうけたものと、人極と云ふもすむ。天から拜領とは何れを指て云と云とき、胷を扣ひてここにあると云。心のことなり。人の天から明徳をもらって胷がひか々々ひかると云。そこから虚霊不昧と書たもの。
【解説】
胸中が道体であり、虚霊不昧は人の持った太極であり、それが明徳である。
【通釈】
道体云々と言っても、上の方を見ることではない。直に明徳と言い、胸の中が道体である。明徳は誰にもあるものだと言われれば、実にそうである。学問をしない者を禽獣に近いと言うのがよくわかる。明徳という結構な働きがあるのに知らずにいる。虚霊不昧をつめて言えば人の持った太極である。周子はこれを人極と言い、洪範では皇極と言うが、それは直に明徳のこと。人の心に得た処で虚霊不昧と言う。虚霊不昧と説いたのが面白い。それは何故かと言うと、太極を語るのは上の方のこと。それを人に受けて人極と言う。虚霊不昧と言うと人に受けたものなので、人極と言うのも済む。天から拝領とは何を指して言うのかと問われれば、胸を叩いてここにあると言う。心のこと。人は天から明徳を貰って胸がぴかぴか光ると言う。そこから虚霊不昧と書いたのである。
【語釈】
・學問をせぬ者を近禽獣と云…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸」。
・人極…近思録道体1。「聖人定之以中正仁義、而主靜、立人極焉」。
・皇極…書経洪範。「皇極。皇建其有極、斂時五福、用敷錫厥庶民。惟時厥庶民、于汝極、錫汝保極」。

それではどうか氣のやうで、氣なれば魂魄も一つになる。體のあたたかや手や足の動くは氣のこと。氣を手傳はせぬが明徳ぞ。氣を手傳はせぬ虚灵ゆへ、魂魄を説ではない。氣めきても、太極のことを云たこと。同し太極なれとも人の胸にあると云ゆへ虚霊不昧と云ぞ。ここに形はとんとないこと。一つここにあいた穴があるさふなと云。それからして心のことを空洞と云。これは周伯仁が云たことなり。列子の方寸と云たも同じこと。これを圖に書くとき、丸くより外はかかれぬ。そこで太極の圖もをのづと丸なり。ただ何と云ことなく、あいた処がある。されともあき店へ犬や猫の這入るやうなことかと云に、中々あなどられぬ。恐れ多いと云こと。何もかもとっくにのみこむものなり。形せぬもので何もかも持てをる。これが心のなりぞ。そこはどうした塲所ぞ。虚霊不昧なり。ここに道理を備てをる。ここがべったりと太極なり。
【解説】
気を手伝わせないのが明徳である。心は形のないものだが、何もかも持っている。そこで、虚霊不昧なのである。
【通釈】
それではどうも気の様で、気であれば魂魄と同じになる。体の温かなのや手や足の動くは気のこと。しかし、気を手伝わせないのが明徳である。気が手伝わせない虚霊なので、魂魄を説くことではない。気めいても、太極のことを言ったこと。同じ太極だが、人の胸にあるというので虚霊不昧と言う。ここに形は全くない。一つここに空いた穴があるそうだと言う。それからして心のことを空洞と言う。これは周伯仁が言ったこと。列子が方寸と言ったのも同じこと。これを図に書く時は、丸くより外に書くことはできない。そこで太極の図も自ずと丸である。ただ何と言うことなく、空いた処がある。しかし、それは空き店に犬や猫が這い入る様な簡単なことかと言えば、中々侮ることはできない。恐れ多いということ。何もかも直ぐに飲み込むもの。形のないものだが、何もかも持っている。これが心の姿である。そこはどうした場所か。虚霊不昧である。ここに道理を備えている。ここがべったりと太極である。
【語釈】
・周伯仁…
・列子の方寸…列子仲尼。「既而曰、嘻。吾見子之心矣。方寸之地虚矣。幾聖人也。子心六孔流通、一孔不達。今以聖智爲疾者、或由此乎。非吾淺術所能已也」。

明徳は天から拜領。天では太極。霊臺と云も明徳のうて、なんそこれが人間でなければ云はれぬことなり。人の天に得る処を語れば明徳なり。ただ天から拜領の徳と云へば、とうがらしの辛く、沙糖の甘く、犬の門を守り、鶏の時を告る、皆徳なれとも、衆理がない。人計りに明徳と云は、衆理を備りてをる。天下萬物の理に一としてこちへひびかぬことはない。そこで具衆理と云。衆理が心に具てをる。丁度それだけ應万事者也。萬事は万物の上のことぞ。物と云はず事と云は、応すると云からして云。こちの心に衆理を具でをるゆへ、こちのことではないが、心がよい様にさばく。君へは君の様にし、親には親のやふにし、女房や子には女房や子のやうにする。有物有則なり。為人臣止於敬為人子止於孝。とれも皆一つではない。向の萬事に此方のそなへてある衆理が丁どよい加减に出てくる。それを一つにして虚霊不昧と云。いかさま面白ひことぞ。そこで人間を天地人三才と云も明德があるゆへなり。これを聞て人には明徳が有て禽獣草木とは違うと云て出ると、これ々々ちとまたれよと云。
【解説】
「以具衆理而應萬事者也」の説明。人だけに衆理の具わった徳があり、それを明徳と言う。心に衆理を具えているので、外のことをも心がうまく捌く。人間を天地人三才と言うのも明徳があるからである。
【通釈】
明徳は天から拝領したもので、天では太極である。霊台と言っても明徳がなければならない。どうもこれが人間でなければ言えないことである。人が天に得る処を語れば明徳である。ただ天から拝領の徳と言えば、唐辛子が辛く、砂糖が甘く、犬が門を守り、鶏が時を告げる様なことで、それ等は皆徳ではあるが、「衆理」がない。人だけに対して明徳と言うのは、衆理が具わっているからである。天下万物の理に一つとしてこちに響かないことはない。そこで「具衆理」と言う。衆理が心に具わっている。丁度それだけ「応万事者也」である。万事は万物の上のこと。物と言わずに事と言うのは、応ずるということで言う。こちらの心に衆理を具えているので、こちらのことではなくても、心がよい様に捌く。君へは君の様にし、親には親の様にし、女房や子には女房や子の様にする。「有物有則」である。「為人臣止於敬為人子止於孝」で、どれも皆一つではない。向こうの万事にこちらの具えてある衆理が丁度よい加減に出て来る。それを一つにして虚霊不昧と言う。いかにも面白い。そこで、人間を天地人三才と言うのも明徳があるからである。しかし、これを聞いて、人には明徳があって禽獣草木とは違うと言って出る者には、これこれ少々待ちなさいと言う。
【語釈】
・有物有則…小学外篇題辞。「詩曰、天生烝民有物有則、民之秉彛好是懿德」。詩は詩経大雅烝民。孟子告子章句上6にもある。
・為人臣止於敬為人子止於孝…大学章句3。「爲人君、止於仁。爲人臣、止於敬。爲人子、止於孝」。
・天地人三才…易経説卦伝2。「立人之道、曰仁與義。兼三才而兩之」。

但為氣禀所拘云々。これからさきには明德のあてにならぬことを云。段々とはなしを聞くと、鼻が高くなったりひくくなりたりする。これ、鼻を高くしやんな。為氣禀所拘云々なり。氣禀と人欲が兎角邪摩もので、どちがどふと云ことなく、六ヶ鋪ものなり。氣禀ては拘され、人欲では蔽はれる。兎角氣禀の方が六ヶ鋪。国辞のやめられぬやふなものなり。とんとしにくいことぞ。人欲はさりとはうるさいものなれとも、月に村雲の様なもの。氣禀様にはへぬいてもいぬものなり。氣禀はほくろの様なもの。人欲はあかの様なもの。ほくろは手水をつかふてもとれぬ。なれとも、その取れぬほくろもぬきやうがある。平人は此二つを云立にする。これを馳走すると明德はらりになる。
【解説】
「但爲氣禀所拘、人欲所蔽」の説明。気禀と人欲がとかく邪魔者である。気禀は黒子の様なもので生え抜きだが、人欲は垢の様なもので生え抜きではない。この二つを馳走すれば、明徳は台無しになる。
【通釈】
「但為気禀所拘云々」。これから先には明徳が当てにならないことを言う。段々と話を聞くと、鼻が高くなったり低くなったりする。これ、鼻を高くするな、為気禀所拘云々だ。気禀と人欲がとかく邪魔者で、どちらがどうということなく、難しいもの。気禀では拘わされ、人欲では蔽われるが、とかく気禀の方が難しい。それはお国言葉の止められない様なもの。実にし難いこと。尤も人欲は煩いものだが、月に叢雲の様なもので、気禀の様に生え抜いてはいないもの。気禀は黒子の様なもの。人欲は垢の様なもの。黒子は手水を使っても取れない。しかし、その取れない黒子も抜き様がある。平人はこの二つを口実にするが、これを馳走すると明徳は台無しになる。

有時而昏。これで始めて皆々の覚へのあること。明の字は覚なし昏と云。この廻状に点をかけたものはあるまい。どこもかしこも皆くらいだらけじゃ。この節季などはなを暗ひ。利欲紛挐ぞ。二両か三両のことに靣を赤める。真暗な最中ぞ。されとも本体の処は、固より空に有明の月なり。利欲にふさがれてをるゆへ、日は暮れぬがなぜ暗と云。ここで消へ切れると屏風を立まはさ子ばならぬが、暗くなりても全体は暗くない。これ迠道体から語り出して氣にさへられたこと迠を云。太極から語て惟人也得其秀と云ひ、それから善悪分萬事出矣と云様なもの。そこが有時而昏也。本体に丈夫なものがある。
【解説】
「則有時而昏。然其本體之明、則有未嘗息者」の説明。人は利欲に塞がれて真っ暗だが、本体の処は明である。
【通釈】
「有時而昏」。これで初めて皆の覚えのあることになる。明の字の覚えがなければ昏と言う。この廻状にこの様に点を掛けた者はいないだろう。何処もかしこも皆昏だらけ。この節季などは尚更暗い。利欲紛挐である。二両か三両のことに面を赤める。真っ暗な最中である。しかしながら本体の処は、固より空に有明の月である。利欲に塞がれているので、日は暮れないが何故か暗いと言う。ここで消え切ると引っくり返らなければならないが、暗くなっても全体は暗くない。これまでは道体から語り出して気に障えられたことまでを言ったこと。それは太極図で、太極から語って「惟人也得其秀」と言い、それから「善悪分万事出矣」と言う様なもの。そこが有時而昏である。本体に丈夫なものがある。
【語釈】
・利欲紛挐…小学題辞。「益浮靡鄕無善俗世乏良材、利欲紛挐異言喧豗」。

そこで学者當云々と云。これで道体から為學のになったのぞ。手もなくここは孟子で云。四端の塲なり。本体の明が息ぬゆへ、ちょい々々々と出る。どうしてそれが知れやう。無理無たいなことを云ふが、子供が井戸へ落たと云とはっと云ふ。此節推しつまり、欲得をかはかすときは義はないやうなり。殊の外見苦鋪が、そふかと思と何のこともないに顔を赤くする。耻と云をば知る。このないものはない。又、不親切なものも鬼の目に涙なり。鬼の様になっても本体の明が息ぬゆへ、その発を種にして段々功夫にかかる。本体の明がなければいくらさわいでもならぬが、本体の明がある。それを本と手にして、とう々々こぎ付た。鏡磨が真黒な鏡を磨く。初て一つちらりと明になる。そこへ藥をやる。それから段々明になって本の通りになるが、外から持て来たではない。本との通りの鏡になること。自然なことと云がこれじゃ。明明之と云へば力を入れることで、力を入れてこきつける。こきつけるが明徳得乎天で、道体の自然の処を氣質人欲にさへられると本体の明がくらんでくる。道体はあるが、その道体が見へぬ。
【解説】
「故學者當因其所發而遂明之、以復其初也」の説明。孟子の言う四端は、人の本体の明が息まない現れである。人には本体の明があるので、それを元手にして扱ぎ付ける。気質人欲に障えられると、本体の明が昏んで来る。
【通釈】
そこで「学者当云々」と言う。これで道体から為学のことになったのである。ここは簡単に孟子で言う。四端の場である。本体の明が息まないので、ちょいちょいと出る。どうしてそれが知れるのか。無理無体なことを言っても、子供が井戸へ落ちたと言えばはっと言う。この節押し詰まり、欲得を求めるのに義はない様である。殊の外見苦しいが、そうかと思うと何事もないのに顔を赤くする。恥を知っている。これのない者はいない。また、不親切な者も鬼の目に涙である。鬼の様になっても本体の明が息まないので、その発を種にして段々と功夫に掛かる。本体の明がなければいくら騒いでも何にもならないが、本体の明がある。それを元手にして、とうとう扱ぎ付けた。鏡磨きが真っ黒な鏡を磨く。最初に一つちらりと明になる。そこへ薬を遣る。それから段々と明になって元の通りになる。それは外から持って来たことではない。元の通りの鏡になること。自然なことと言うのがこれ。「明明之」と言えば力を入れることで、力を入れて扱ぎ付ける。扱ぎ付けるのが「明徳得乎天」だからで、道体の自然な処が気質人欲に障えられると、本体の明が昏んで来る。道体はあるが、その道体が見えない。
【語釈】
・四端…孟子公孫丑章句上6。「惻隱之心、仁之端也。羞惡之心、義之端也。辭讓之心、禮之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者、賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣。若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母」。

道体なりを磨くと本のなりになる。病人の灸、薬の様なもの。藥をも止るときが初めに復たのなり。如此して見れば、学問は圣賢の持ち出しをしたには非す。藥はわけあってのむ。初めに復る。その初めは道体。初は道体のなりで、それが昏む。そこで功夫して引かへすと、しまいが又道体なり。垩賢の學もここらで手に入ることぞ。此様に説くのは大學では読に及ぬこと。標的で讀がよい。標的へ近思録の道体為学のなりを出すが直方先生の請人に立つのなり。道体云々と云て為學をする。為学をすると圣賢になる。圣賢になると道体のなりぞ。近思録編集の意可考。この復其初と云も為學をして道体になったのじゃ。圣賢のなりが何んのことなく道体なりの明徳なり。孟子がそこを知て、仲尼不為已甚者也と云れた。明徳のなりてもち出したことはちっともない。尭舜與人而已で、人にかはりたことはちっともない。そこで楊亀山が、本分之外不加毫末と云れた。斯ふしたことゆへ、近思録の道体から垩賢迠になると云が道學のぎり々々。復初と、垩賢のなりになったのじゃ。
【解説】
学問は初めの道体に復るためのもの。道体の通りに為学をすると聖賢になる。聖賢になると道体の通りである。近思録の意はそこにある。
【通釈】
道体の通りに磨くと本の姿になる。それは、病人の灸や薬の様なもの。薬をも止める時が初めに復ったのである。この様に見れば、学問は聖賢が持ち出しをしたのではない。薬はわけがあって飲む。初めに復るため。その初めは道体。初めは道体の通りだが、それが昏む。そこで功夫をして引き返すと、最後がまた道体となる。聖賢の学もここ等で手に入る。大学では、この様に説くには及ばないが、標的ではこの様に読むのがよい。標的に近思録の道体為学の姿を出したのが直方先生の請人に立ったこと。道体云々と言って為学をする。為学をすると聖賢になる。聖賢になると道体の通りである。近思録編集の意を考えなさい。この「復其初」と言うのも、為学をして道体になったのである。聖賢の姿は何のこともなく道体の通りの明徳である。孟子がそこを知って、「仲尼不為已甚者也」と言われた。明徳の通りで、持ち出したことは少しもない。「堯舜与人同耳」で、人と変わったことは少しもない。そこで楊亀山が、「本分之外不加毫末」と言われた。こうしたことで、近思録の道体から聖賢までになるというのが道学の至極なのである。復初は、聖賢の通りになったのである。
【語釈】
・仲尼不為已甚者也…孟子離婁章句下10。「孟子曰、仲尼不爲已甚者」。
・尭舜與人而已…孟子離婁章句下32。「孟子曰、何以異於人哉。堯舜與人同耳」
・本分之外不加毫末…孟子離婁章句下10集註。「楊氏曰、言聖人所爲、本分之外、不加毫末。非孟子真知孔子、不能以是稱之」。

新者革其舊云々。今迠のぶんで置れぬことを革舊と云。新しくすると云からは、我がもったなりをすへてをいては役に立ぬ。今迠の悪ひをなをして餘のものにすることぞ。餘のものになったと云でなければ本のことではない。易の革の卦に、君子は豹変し、小人革靣と云がよくなったこと。大學の新民もぶんのものになったことなり。これがちょっとした甘口なことではない。これが八条目になると国治天下平と云ひ、書経ては黎民於変り時れ雍くと云。革舊と云がほんの新民そ。下民のくっとも云はぬやうにすることではない。鄭の子産や晏平仲なとを出して云は何の役に立ぬ。大學衍義や補のかいないもここなり。道學にならぬ男ともを出せば標的にならぬ。尭舜の政でなければならぬ。親を思ふやうには君は思はれそもないものなれとも、親から間地をうって君には方喪三年と云。親は可愛がる計り、君は閉門も云ひ付る。その君を親の様に思ふは尭舜の政なり。伯者のは新民と云ても題が違う。伯者も一旦の拍子で治めることも有るが、時れ雍と云様にうまみはない。
【解説】
「新者、革其舊之謂也」の説明。今までの悪いところを直して他の者にすることを「革旧」と言い、これが本当の新民である。その標的になるのが堯舜である。
【通釈】
「新者革其旧云々」。今までのままでは置けないことを革旧と言う。新しくすると言うからは、自分が持った通りで据えて置いては役に立たない。今までの悪いところを直して他の者にすること。他の者になったというのでなければ本当のことではない。易の革の卦に、「君子豹変小人革面」とあるのがよくなったこと。大学の新民も分の者になったこと。これが一寸とした甘口なことではない。これが八条目になると国治天下平と言い、書経では「黎民於変時雍」と言う。革旧が本当の新民である。下民をぐっとも言わせない様にすることではない。鄭の子産や晏平仲などを出して言っては何の役にも立たない。大学衍義や補の甲斐ないのもこれ。道学にならない男共を出しても標的にはならない。堯舜の政でなければならない。親を思う様には君を思えそうもないものだが、親からしっかりと決めて、君には「方喪三年」と言う。親は可愛がるばかりだが、君は閉門も言い付ける。その君を親の様に思うのが堯舜の政である。伯者のは新民と言っても題が違う。伯者も一旦の拍子で治めることもあるが、時雍という様な甘味はない。
【語釈】
・君子は豹変し、小人革靣…易経革卦上六。「上六。君子豹變。小人革面。征凶。居貞吉」。
・国治天下平…大学章句経1。「國治而后天下平」。
・黎民於変り時れ雍く…書経堯典。「黎民於變、時雍」。
・子産…鄭の宰相。名は公孫僑、字は子産。七穆出身。公孫成子ともいう。~前497。
・晏平仲…晏嬰。斉の宰相。名は嬰、字は平仲。晏弱の子。萊の夷維の人。~前500。
・間地をうって…決める?
・方喪三年…小学内篇明倫。「禮記曰、事親有隱而無。犯左右就養無方。服勤至死。致喪三年。事君有犯而無隱。左右就養有方。服勤至死。方喪三年。事師無犯無隱。左右就養無方。服勤至死。心喪三年」。

徂徠や太宰が経済を任じ、先王に云と云ふが片腹いたいこと。先王の通がただ明になるものではない。天下の人がこちの明徳を明にしたを見て、その通りにする。そこを建皇極と云。又當推以及人云々。古之明々徳於天下からでたもの。新民は天下を治と云字とは違う。治と云は火事を消す様なもの。治国と云字は相手の病をどこ迠も療治してやるから云たものなれとも、向をくっとも云はせぬの、かしこまらせるのと云ことではない。こちが明になってをいて、そちらも明にしやうと云ことなり。新民と云ふがぶんにあるには非ず。伯者は猿猴の月をつかむ様に手を出す。圣人にはそのやうなことはない。文王の奥方のことを出すが面白ひ。文王の御夫婦中がよい。それから屋鋪かよふなって、領分迠及。そこをさして明德を天下に明すと云。仏者は又大きなことを云て、それも迷ひ、これをなくそうと云。これは理外、横に車なり。
【解説】
「言既自明其明德、又當推以及人、使之亦有以去其舊染之汙也」の説明。自分の明徳を明にしたのを天下の人が見ることで、新民となる。伯者は猿が月を掴む様に手を出し、仏者は新民も迷いだと言ってなくそうとする。
【通釈】
徂徠や太宰が経済を任じ、先王が言うと言うのが片腹痛いこと。先王の通りだけで明になるものではない。天下の人がこちらの明徳を明にしたのを見て、その通りにする。そこを「建皇極」と言う。「又当推以及人云々」。「古之欲明明徳於天下」から出たもの。新民は天下を治めるという字とは違う。治は火事を消す様なもの。治国という字は相手の病を何処までも療治して遣ることから言ったものだが、向こうをぐっとも言わせないとか、畏まらせるということではない。こちらが明になって置いて、そちらも明にしようということ。新民が別にあるわけではない。伯者は猿が月を掴む様に手を出す。聖人にはその様なことはない。ここに文王の奥方のことを出すのが面白い。文王の御夫婦仲がよい。それから屋敷がよくなって、領分までに及ぶ。そこを指して明徳を天下に明にすと言う。仏者はまた大きなことを言って、それも迷いだ、これをなくそうと言う。これは理外なこと。横車である。
【語釈】
・古之明々徳於天下…大学章句経1。「古之欲明明德於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先脩其身。欲脩其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物」。

偖て、右のことはわるいことでよく合点すべし。一人貪戻一国作と云ふ。あの通りそ。手本を出してなんぼてもこち次第ぞ、こちので新にする。大學の規摸は大なことなり。どうさふなるものと云は、夏の虫氷を疑ふなり。みなここの字が我へしたことを向へ出すこと。推がこちの明にしたを向へ及すことなり。革其舊をわるく見ると新民が根が見へぬ。新民は推以及人と見るはかりになる。そうではない。新民の中に明徳をもふ一つ云たもの。既自の字を新民の注へわりこんだが三綱領の大切なり。湯盤銘もてまへのこと。その手前のことを新民の傳文にしたはわけあることなり。我が手水をつかふことなれとも、新民の傳にある伯者は斯ふするものと云。牛つかいや鵜つかひ、猿まはしの猿をまはすやうにする。その様なことではならぬ。使有か新民なり。あちで手前から手水をつかふやうにすること。
【解説】
新民が「推以及人」とある中に、明徳は含まれている。自分を明にして向こうへ及ぼすのである。それは人自らがそれをする様に仕向けるのでなければならない。
【通釈】
さて、右のことは悪いことでよく合点しなさい。「一人貪戻一国作乱」と言う。あの通りである。手本を出せば何でもこちら次第、こちらので新たにする。大学の規模は大きい。それをどうしてできるものかと言う者は、夏の虫氷を疑うである。皆ここの字は自分にしたことを向こうへ出すこと。「推」がこちらを明にしたのを向こうへ及ぼすこと。「革其旧」を悪く見ると新民の根が見えず、新民は「推以及人」と見るだけになる。そうではない。それは、新民の中で明徳をもう一つ言ったもの。「既自」の字を新民の注へ割り込ませたのが三綱領の大切なところ。湯盤銘も自分のこと。その自分のことを新民の伝文にしたのはわけのあること。手水は自らで使うものだが、新民の伝にある伯者はこうするものだと言う。牛使いや鵜使い、猿回しが猿を回す様にする。その様なことでは悪い。「使有」が新民である。あちらが自分から手水を使う様にすること。
【語釈】
・一人貪戻一国作…大学章句9。「一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂」。
・湯盤銘…大学章句2。「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新」。同集註。「盤、沐浴之盤也。銘、名其器以自警之辭也。苟、誠也。湯以人之洗濯其心以去惡、如沐浴其身以去垢。故銘其盤、言誠能一日有以滌其舊染之汙而自新、則當因其已新者、而日日新之、又日新之、不可略有間斷也」。

止者必云々。止者は、そこへきっとすわったなり。傳文に鳥の止ることにしてある。而不遷は、止と云字ぎりてはまた飛でゆく様にも思う。落着塲にすはることなり。止と云か不遷の字義てはない意味なり。至善から蹈はづすと大學の規摸でない。止善すと少しつつのすきまがある。そこでとんと一分のみのがしもないこと。我にはゆるせ敷嶋の道と云はせぬ。あれほど大切に焼て唐津から茶碗がくる。御同朋衆が来てその上を吟味し、これはならぬ々々々々々々とのける。これでも固より茶は飲めやうかなとと云は献上道具にはならぬ。學問も献上道具になるやうでなければならぬ。小學では、献上道具にならぬことをも馳走してやる。そのはづよ、舜と江革も同じことにする。なるほどそうぞ、人へひびくはどちも同こと。必至善が極上々吉にすること。揚弓を射るものの、桐の処へつぼんとあたったのじゃ。脇えはづるるや否や、もう至善てない。真中へ當るでなければ至善と云へぬ。そう々々はゆかぬと云。小學ではゆるさふが、大學では頓とゆるされぬこと。
【解説】
「止者、必至於是而不遷之意」の説明。至善から踏み外すと、それは大学の規模ではない。「必至善」は極上上吉にすることであり、それができないと言うのは大学では許されないこと。
【通釈】
「止者必云々」。「止者」は、そこへしっかりと座ること。伝文に鳥の止まることにしてある。「而不遷」は、止まるという字だけでまた飛んで行く様にも思うので、落ち着き場に座るということ。止は不遷の字義ではないということである。至善から踏み外せば、それは大学の規模ではない。止善でなければ少しの隙間がある。そこで全く一分の見逃しもないこと。我には許せ敷島の道と言いはしない。あれほど大切に焼いた茶碗が唐津から来る。御同朋衆が来てそれを吟味し、これは駄目だ、これは駄目だと除ける。これでも十分茶は飲めるだろうがなどと言うのは献上道具にはならない。学問も献上道具になる様でなければならない。小学では、献上道具にならないことをも馳走して遣る。その筈で、舜と江革も同じことにする。なるほどそうで、人へ響くのはどちらも同じこと。「必至善」が極上上吉にすること。楊弓を射る者が、桐の処へずぼんと当てたのである。脇に外れるや否や、もう至善ではない。真ん中へ当たるのでなければ至善とは言えない。そうはうまく行かないと言うのは、小学では許すが、大学では全く許せないこと。
【語釈】
・傳文…大学章句3。「子曰、於止、知其所止、可以人而不如鳥乎」。
・我にはゆるせ敷嶋の道…慈円。人ごとに一つの癖はあるものを我には許せ敷島の道。敷島の道は、和歌の道。歌道。
・江革…後漢の人。二十四孝の一人。母親孝行だった。

大學は一味配剤でない。至善になってはこれ程なきり々々なことを説ゆへ、上の方を見て云ふかと思へばそうではない。事理當然之極也。斯ふせ子ば叶ぬこと。君臣父子の上から日用萬事の上、皆事理當然之極かある。異端は至極飛ぬけたことをして、あとはかまはぬ。事理當然をけちらかす。大學の至極はどこ迠もかまはぬことはない。何にもかも至善の地迠やら子はならぬ。これ式のことは見ぬふり、そうせずともよいと云は大きな了簡違ひなり。小学は洒掃応對から七十致仕まてあるゆへ小學の内にも明徳新民はあるが、至善につまらぬものがいかいことある。鄧伯道も載れば王凝がやうなきゃうさんな男もある。やはり小學では則になる。至善の咄の合点ゆかぬのは、農畝へ帰へす。わるいことさせ子ばすむと云は民可使由之也。小學挍の教は五兵衞の六兵衞のと云男がすること。農畝へ帰すとて、博奕を打てもゆるすではない。隨分五倫五常の道を守ること。但、大学の至善咄のならぬものは白髪がはへても小學挍に居る。三十有室と云て、學問やめはせぬ。冬は學挍へ出る。冬至から四十九日過るとすきくはを以て田へ出る。そんな者は小學男なり。可使由之と云様な男は、白髪がはへても至善は可使知の上じゃ。脩己には顔子曽子、天下之政は伊尹周公と云ことゆへ、献上道具なり。
【解説】
「至善、則事理當然之極也。言明明德、新民、皆當止於至善之地而不遷」の説明。至善は至極のことだが、それは上の方を見て言うのではない。日用万事の上に「事理当然之極」がある。それを見るのである。小学にも明徳新民はあるが、至善に詰まるものではない。小学は「不可使知」の人のためのものであり、大学は献上道具である。
【通釈】
大学は一味配剤ではない。至善になってはこれほどの至極なことを説くので、上の方を見て言うのかと思えばそうではない。「事理当然之極也」。こうしなければ叶わない。君臣父子の上から日用万事の上にまで、皆事理当然之極がある。異端は至極飛び抜けたことをして、後は構わない。事理当然を蹴散らかす。大学の至極は何処までも構わないことはない。何もかも至善の地まで遣らなければならない。これ位のことはと見ない振りをしたり、そうしなくてもよいと言うのは大きな了簡違いである。小学は洒掃応対から七十致仕までがあるので小学の内にも明徳新民はあるが、至善に詰まらないものが大層ある。鄧伯道も載れば王凝の様な仰山な男もある。やはり小学では則になる。至善の話に合点が行かないのは農畝へ帰えす。悪いことをさせなければ済むと言うのは「民可使由之」である。小学校の教えは五兵衛や六兵衛などという男がすること。農畝へ帰すと言っても、博奕を打っても許すというのではない。随分と五倫五常の道を守ること。ただ、大学の至善話のわからない者は白髪が生えても小学校にいる。「三十有室」と言って、学問を止めはしない。冬は学校へ出る。冬至から四十九日が過ぎると鋤鍬を持って田へ出る。そんな者は小学の男である。「可使由之」と言われる様な男では、白髪が生えても至善は「不可使知」である。修己には顔子曾子、天下の政は伊尹周公ということなので、これは献上道具である。
【語釈】
・小学は洒掃応對から七十致仕まてある…小学内篇立教。「五十命爲大夫服官政。七十致事」。
・鄧伯道…小学外篇善行35。鄧伯道は我が子を捨てて兄の子を助けた。
・王凝…小学外篇善行48。「王凝常居慄如也。子弟非公服不見。閨門之内、若朝廷焉。御家以四敎。勤・儉・恭・恕。正家以四禮。冠・昏・喪・祭。聖人之書及公服禮器不假。垣屋・什物必堅朴。曰、無苟費也。門巷・果木必方列。曰、無苟亂也」。
・民可使由之也…論語泰伯9。「子曰、民可使由之、不可使知之」。
・三十有室…小学内篇立教2。「三十而有室。始理男事。博學無方。孫友視志」。

至善の吟味になりたなれとも、あまりこきあげ空に注をするとまぎらかすが、無一毫人欲之私でまぎらかしがならぬ。人欲之私がなければ云分ない。至善の注のつまりに人欲之私とくる。ここで明德の方へかへしたもの。人の天に得るも人欲でくらむ。それが、人欲之私がなければ明徳のぎり々々に帰た。そこが至善なり。結搆な明徳が氣禀人欲に蔽はれることがある。その人欲の私がないと、目鼻のついた男になりた。されとも人欲なくずっとぬけたことでも天理の極でないことがある。伯夷柳下惠は垩人とまでゆるしたが、伯夷隘、柳下惠不恭と云。大學中庸の規矩にはづれて居る。天理之極でないゆへ門違ひがある。極と云ぎり々々でなければ頓とうけとられぬことなり。又何程天理之極こまかあたりがよふても一毫人欲之私があると、もう至善と云ものではない。それゆへ至善をつめたのが民之不能忘也。文王の御夫婦寢てござる処からして不愧屋漏ぞ。夫婦寢てをると云は十方もないやうなことを云様な塲所なれとも、あそこの処に人欲らしいことや氣味のわるいことがちっともない。あれまでにつめること。
【解説】
「葢必其有以盡夫天理之極、而無一毫人欲之私也」の説明。天から明徳を得ても人欲で昏む。その人欲の私がなければ明徳の至極に帰る。そこが至善である。しかし、人欲がなくても伯夷柳下恵は「天理之極」ではないから至善ではない。文王の様に詰めるのである。
【通釈】
至善の吟味になっては、あまりに扱き上げて空に注をすると紛らかすことになるが、「無一毫人欲之私」で紛らかしはできない。人欲の私がなければ言い分はない。至善の注の最後に人欲之私と来たのは、明徳の方へ返したのである。人が天から明徳を得ても人欲で昏む。それが、人欲の私がなければ明徳の至極に帰る。そこが至善である。結構な明徳が気禀人欲に蔽われることがある。その人欲の私がないと、目鼻の付いた男になる。しかしながら、人欲がなく、ずっと抜けたことでも天理の極でないことがある。伯夷柳下恵は聖人と言われるにまで許された者だが、「伯夷隘柳下惠不恭」と言う。大学中庸の規矩に外れている。「天理之極」ではないのでお門違いがある。極というぎりぎりでなければ全く請け取られない。また、何ほど天理之極に細かく当たってよくしても一毫人欲之私があると、もう至善というものではない。それで、至善を詰めたのが「民之不能忘也」である。文王の御夫婦が寝ておられる処からして「不愧屋漏」である。夫婦が寝ていると言うのは途方もない様なことを言う様な場所だが、あそこの処に人欲らしいことや気味の悪いことが少しもない。あれまでに詰めること。
【語釈】
・伯夷柳下惠は垩人…論語述而14。「冉有曰、夫子爲衞君乎。子貢曰、諾、吾將問之。入曰、伯夷・叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁、又何怨。出曰、夫子不爲也」。
・伯夷隘、柳下惠不恭…孟子公孫丑章句上9。「孟子曰、伯夷隘、柳下惠不恭。隘與不恭、君子不由也」。
・民之不能忘也…大学章句3。「有斐君子、終不可諠兮者、道盛德至善、民之不能忘也」。
・不愧屋漏…詩経大雅抑。「相在爾室、尚不愧于屋漏」。「屋漏」は西南の隅で、家の奥にあって神様を祭る所。

さて、章句の一ち仕舞に長々と云はず三者と云。この三が揃ふてなければ大學でない。さて、明徳の中に新民もあるほどのことなれば、至善と云一綱の名はなさそうなものじゃにあると云が大切なり。もと至善はさがすものではない。明徳新民二綱の中にあるもの。丁度よいものを買はふと云と、京でも大坂でも何でござると云。処を木綿を買と木綿の上に至善があり、蝋燭を買ふと蝋燭の上に至善があり、越後屋で絹を買ふと絹の上に至善がある。されば明徳新民の外にない。至善を一つ、至善を綱領を立るが大学なり。所以為大學也。大學小學の違ひは至善のあるとないのこと。大學でも親に孝、小學でも親に孝。たた至善の段が違う。この三つにかけがあると教へにならぬゆへ、標的にならぬ。
【解説】
「此三者、大學之綱領也」の説明。至善は明徳新民の二綱の中にあるものだが、大学と小学とでは至善の段が異なる。至善がなければ標的にはならない。
【通釈】
さて、章句の最後で長々と言わずに「三者」と言った。この三つが揃うのでなければ大学ではない。さて、明徳の中に新民もあるほどのことなので、至善という一綱の名はなさそうなものだが、それがあるというのが大切なこと。もともと至善は探すものではない。それは明徳新民の二綱の中にあるもの。丁度よいものを買おうと言うと、京でも大坂でも何ですかと聞かれる。そこを、木綿を買うと木綿の上に至善があり、蝋燭を買うと蝋燭の上に至善があり、越後屋で絹を買うと絹の上に至善がある。それなら明徳新民の外にはない。至善を一つ、至善を綱領として立てるのが大学である。それが、「所以為大学也」。大学と小学の違いは至善があるかないかということ。大学でも親に孝、小学でも親に孝。ただ至善の段が違う。この三つに欠けがあると教えにならないので、標的にはならない。

また爰で不如丘之好學と朝聞道へもどして見ると爰が活てくる。三綱領を讀ぬ人はないが、此様な大きなことを聞を聞道、好學と云ぞ。人々吟味はするが、我を明にしやうと不思なり。李延平が只是説也云々。それは口で云のじゃと云へり。ただ口で云ては朝聞道好學が此方のものにならぬ。これを學問にするでなければ、學問の相塲が下る。因て謂主一曰、父の命を承て遠路學問に来る。甚た幸なれとも、三綱領を手高に受用するでなければ路銀損なり。韓退之文に詹不在而志楽むとかありた。學。學を好む親の志を云たもの。親は子を案ずるものなれとも、學問のためと思ふゆへ三千里さきへよこす、なんとも思はぬ。其意を体するが子たる者の大事じゃ。どこ迠も親の意を体すべし。ちっとも忘るべからず。
【解説】
今の人は三綱領を読んでも口先だけのことで、自分を明にしようとは思わない。口先だけでは自分のものにはならない。黙斎が大谷主一に、親は子を案ずるものだが、学問のために三千里の先へ遣る。その意を体するのが子たる者の大事であると言った。
【通釈】
またここで「不如丘之好学」と「朝聞道」へ戻して見るとここが活きて来る。三綱領を読まない人はいないが、この様な大きなことを聞くのを聞道、好学と言う。人々吟味はするが、自分を明にしようとは思わない。李延平が「只是説也」と言った。それは口だけで言うのだと言った。ただ口だけで言うのでは朝聞道好学が自分のものにならない。これを学問にするのでなければ、学問の相場が下がる。そこで主一に言った。父の命を承って遠路学問に来る。それは甚だ幸いなことだが、三綱領を手高く受用するのでなければ路銀の損である。韓退之の文に「詹不在而志楽」とかあった。これは学を好む親の志を言ったもの。親は子を案ずるものだが、学問のためと思うので三千里の先へ遣すのを何とも思わない。その意を体するのが子たる者の大事である。何処までも親の意を体さなければならない。少しも忘れてはならない。
【語釈】
・李延平…字は愿中。羅豫章の門に程氏学を学ぶ。朱子も22歳の時に李延平の門を叩く。1093~1163
・主一…大谷主一。唐津藩士。
・詹不在而志楽む…

道學の標的三綱領の規摸、これにはづれるなれば、家に居て小倉の百人首でも讀でをるがよい。俚諺抄の様なものでも文義はすむ。道學を實にしようと思へば三綱領にかけては役に立ぬと云ふ識趣。志の卑陋と云ことあり、なんとなく志がさもしい。學問するとても、道學をめがけると、天木子の云へる如く、平生のつらたましい迠違うほどでなければ精彩がない。歴々に招かれたとて喜ぶやうでは役に立ぬ。その様な心がちっとてもあれは、蚊屋に穴のあいた様なもの。蚊屋に穴があくと夜中寢られぬ。今日の学者は一生蚊に食てをる。この言大切に思べし。名利の欲が學者の蚊なり。善太郎殿が學者には平人にない人欲があると云れた。我も度々穪す。訂斎先生大に稱された。皆々このこと忘るべからず。平人はをしいのほしいのと云計りなり。學者は尤らしい人欲あり。その上に自慢をする。中々道學のなめられぬと云がここなり。とかく子張執徳不弘を大切に見るがよい。先生と仰がるる日になる、手前も今でははやなどと道學らしい体をする。圣になっても希天と云。それに、今のあのぐつ々々した列ですこしよいのがうれしいなとと云はいやなことなり。三綱領でつぢつまあはせたことを云ても朝聞道と好學を合せ見ぬと、道學標的へ直方先生のえっさをっさ引てきたせんがない。
【解説】
道学を目掛けるのであれば、天木時中の言う様に。平生の面魂までが違うほどでなければ精彩がない。また、善太郎が学者には平人にない人欲があると言われた。尤もらしい人欲がある上、更に自慢をする。それでは道学を嘗めることはできない。
【通釈】
道学の標的である三綱領の規摸に外れるのであれば、家にいて小倉の百人一首でも読んでいるのがよい。俚諺抄の様なものでも文義は済む。道学を本当にしようと思うのなら、三綱領が欠けては役に立たないという識趣である。志の卑陋ということがあり、何となく志がさもしい。学問をするにしても、道学を目掛けるのであれば、天木子の言われた様に、平生の面魂までが違うほどでなければ精彩がない。歴々に招かれたと言って喜ぶ様では役に立たない。その様な心が少しでもあれば、それは蚊屋に穴の開いた様なもの。蚊屋に穴が開くと夜中寝られない。今日の学者は一生蚊に食われている。この言を大切に思いなさい。名利の欲が学者の蚊である。善太郎殿が学者には平人にない人欲があると言われた。私もこの語を度々称す。訂斎先生も大いに称された。皆このことを忘れてはならない。平人は惜しいとか欲しいとかと言うだけだが、学者には尤もらしい人欲がある。その上に自慢をする。中々道学を嘗められないと言うのがこのためである。とかく子張の「執徳不弘」を大切に見なさい。先生と仰がれる日になると、自分も今ではもうなどと道学らしい振りをする。聖人になっても天を希うと言う。それに、今のあのぐつぐつした列席の中で少しよいのが嬉しいなどと言うのは嫌なこと。三綱領で辻褄を合わせたことを言っても、朝聞道と好学を合わせて見ないと、道学標的へ直方先生がえっさおっさと引いて来た甲斐がない。
【語釈】
・天木子…天木時中。通称は善六。33歳の時に佐藤直方に入門したが、翌年の享保4年7月に直方が死去したので、その後は三宅尚斎に師事する。1696~1736。
・善太郎…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。迂斎と野田剛斎に学ぶ。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・訂斎先生…久米訂斎。京都の人。三宅尚斎門下。名は順利。通称は断二郎。尚斎の娘婿。1784年没。
・圣になっても希天…通書志学篇。近思録為学1。「濂渓先生曰、聖希天、賢希聖、士希賢」。

4
中庸曰、大哉聖人之道。包下文兩節而言。洋洋乎發育萬物、峻極于天。峻、高大也。此言道之極於至大而無外也。優優大哉、禮儀三百、威儀三千。優優、充足有餘之意。禮儀、經禮也。威儀、曲禮也。此言道之入於至小而無閒也。待其人而後行。總結上兩節。故曰、苟不至德、至道不凝焉。至德、謂其人。至道、指上兩節而言也。凝、聚也、成也。故君子尊德性而道問學。致廣大而盡精微。極高明而道中庸。温故而知新。敦厚以崇禮。尊者、恭敬奉持之意。德性者、吾所受於天之正理。道、由也。温、猶燖温之温。謂故學之矣、復時習之也。敦、加厚也。尊德性、所以存心而極乎道體之大也。道問學、所以致知而盡乎道體之細也。二者脩德凝道之大端也。不以一毫私意自蔽、不以一毫私欲自累、涵泳乎其所已知、敦篤乎其所已能。此皆存心之屬也。析理則不使有毫釐之差、處事則不使有過不及之謬、理義則日知其所未知、節文則日謹其所未謹。此皆致知之屬也。葢非存心無以致知、而存心者又不可以不致知。故此五句、大小相資、首尾相應。聖賢所示入德之方、莫詳於此。學者宜盡心焉。
【読み】
中庸に曰く、大なるかな聖人の道。下文兩節を包んで言う。洋洋乎として萬物を發育し、峻く天に極まる。峻は、高大なり。此れ道の至大に極って外無きを言うなり。優優とし大なるかな、禮儀三百、威儀三千。優優は、充足餘有りの意。禮儀は、經禮なり。威儀は、曲禮なり。此れ道の至小に入りて閒無きを言うなり。其の人を待って後行わる。上兩節を總結す。故に曰く、苟くも至德にあらざれば、至道凝[な]らず、と。至德は、其の人を謂う。至道は、上兩節を指して言うなり。凝は、聚なり、成るなり。故に君子は德性を尊んで問學に道[よ]る。廣大を致して精微を盡くす。高明を極めて中庸に道る。故きを温ねて新しきを知る。厚を敦くし以て禮を崇くす。尊は、恭敬奉持の意。德性は、吾れ天に受くる所の正理。道は、由るなり。温は、猶燖温の温のごとし。故之を學び、復時に之を習うを謂う。敦は、加厚なり。德性を尊ぶは、心を存して道體の大を極むる所以なり。問學に道るは、知を致して道體の細を盡くす所以なり。二の者、德を脩め道を凝すの大端なり。一毫の私意を以て自ら蔽わず、一毫の私欲を以て自ら累わさず、其の已に知る所を涵泳し、其の已に能くする所を敦篤す。此れ皆心を存するの屬なり。理を析けば、則ち毫釐の差を有らしめず、事を處せば、則ち過不及の謬を有らしめず、理義は則ち日に其の未だ知らざる所を知り、節文は則ち日に其の未だ謹まざる所を謹む。此れ皆致知の屬なり。葢し心を存するに非ざれば以て知を致すこと無くして、心を存する者は又以て知を致さざる可からず。故に此の五句は、大小相資、首尾相應す。聖賢德に入るの方を示す所、此より詳なるは莫し。學者宜しく心を盡くすべし。
【補足】
この条は、中庸章句27である。

中庸曰大哉。この章は中庸で學問のきり々々の功夫を云たことなり。よい加减に學問してもよさそなものなれとも、学問をきり々々につめるには垩人を見てゆかふと云。圣人へゆかふと云が標的なり。たたの學問はなぐさみ同前、それほどてなければ役に立ぬ。はてさて本道に療治をしやうとすると、七日塩もの絶をしろと云。今さんきらいを飲むと云なから酒を飲たり、閨門の不敬み、それては根はぬけたことじゃ。三綱領で氣質人欲を出してをく。これが中々くさめのやうなことではない。瘡毒癩病の難症なり。大抵なこと、ことを出しては標的にならぬ。中庸廿七章などがこみ入て仕直すこと。それを語るにも、やっはりいつもの流羲で、先つ道体から語ら子ばならぬ。
【解説】
「中庸曰、大哉聖人之道」の説明。この章は中庸で学問の至極の功夫を言ったことで、聖人が標的である。
【通釈】
「中庸曰大哉」。この章は中庸で学問の至極の功夫を言ったこと。よい加減に学問をしてもよさそうなものだが、学問を至極に詰めるには聖人を見て行こうと言う。聖人へ行こうと言うのが標的である。ただの学問は慰み同然、それほどてなければ役には立たない。本当に療治をしようとすれば、七日塩物を絶てと言う。今山帰来を飲むと言いながら酒を飲んだり閨門で不敬をするのでは根が抜ける。三綱領で気質人欲を出して置く。これはくしゃみの様なことでは中々なく、瘡毒や癩病という難症である。大抵なことを出しても標的にはならない。中庸二十七章などが込み入って仕直すこと。それを語るにも、やはりいつもの流儀で、先ずは道体から語らなければならない。
【語釈】
・閨門…①寝所の入口の戸。②一家の奥向き。③家庭の風儀。

大哉はほめた辞なり。ただほめた計りではない。ほめて其通りにするが大哉垩人之道也。子思でなければ云はれぬ口上と見るがよい。外つもりでは知れぬ。武鑑をあけて見ると加賀や薩摩などがある。加賀薩摩は大きいと誰も云が、初て加賀の国へ入り薩摩の国へ入ると本道に大きいが知れる。中々ただ武鑑で見たとて本道に知れるものではない。大哉圣人之道と云はとっくりと見すへて云たこと。ただ日本一とほめたことではない。これを云が凡民の俊秀でない者へ示すことではなし。此様なことを聞ては何んとしてなるまいと云。然らば足本のあかるいうちやめるがよい。此語が皆がきやれ々々々と云こと。我一人感心するではない。某弱齡の頃云、道學は無用の長物なり。これを聞たら人々偏なことを云とて腹をかかへ笑ふで有ふが、道學と云もの、どうも今日や明日の間に合ふものではない。今日や明日の間に合へば本んの道學ではない。そこで、本んの學問を出すと中々得られぬこと。これでよふござるか々々々々々々々々々なとと云はちっとつつなこと。そんなことで間に合ことではない。
【解説】
本当のことを知るのは難しい。そこで、道学は今日や明日の間に合うものではないのである。「大哉聖人之道」は、子思でなければ言えない口上である。
【通釈】
「大哉」は褒めた辞である。しかし、ただ褒めただけではない。褒めてその通りにするのが「大哉聖人之道」である。子思でなければ言えない口上だと見なさい。そのつもりではわからない。武鑑を開けて見ると加賀や薩摩などがある。加賀薩摩は大きいと誰もが言うが、初めて加賀の国へ入り、薩摩の国へ入ると本当に大きいのが知れる。ただ武鑑で見ただけでは中々本当に知れるものではない。大哉聖人之道は、とっくりと見据えて言ったこと。ただ日本一と褒めたわけではない。これは凡民の俊秀でない者へ示すことではない。この様なことを聞いてはどうしても成る筈はないと言う。それなら足元の明るい内に止めるのがよい。この語が皆来い来いと言うこと。自分一人が感心するではない。私が若齢の頃、道学は無用の長物だと言った。これを聞けば人々は変なことを言うと言って腹を抱えて笑うだろうが、道学というものはどうも今日や明日の間に合うものではない。今日や明日の間に合うのは本当の道学ではない。そこで、本当の学問を出せば、それは中々得られないこと。これでよいですかなどと言うのは小さなこと。そんなことで間に合うことではない。

包下文両節而言。何を云か、あたまから大哉と云ゆへ酒にても醉ふたかと思へば、あとのことを云たものじゃ。ここが朱子の注の仕様の上手と云もの。天上天下唯我獨尊と、あたりに人もない様なことを云て喜ぶ。たれでも小兒のときは隱れんぼうなとをしてもよしと云様なが理の自然。但し、孔子などはそこに処に違ったよいことありて、其喜戯陳俎豆也。にょいと生れると天上天下唯我獨尊、人間自然ではない。妖物なり。ここを大哉は、その様な出まかせを云たことではない。この章、主意は學者の功夫を告んとして道体を云。道体からの為学でなければ為学に根がない。今の結め將棊をする様な、斯ふすればこふまはると云は本の學問ではない。脩道之言教は道体。教と云ものは天道。自然なことなり。そこで学問が道体になら子ばならぬこと。
【解説】
「包下文兩節而言」の説明。この章の主意は学者の功夫を告げるために道体のことを言ったこと。道体からの為学でなければ為学に根がない。教えは天道であり、自然なこと。学問が道体にならなければならない。
【通釈】
「包下文両節而言」。どうしたことか、最初から「大哉」と言うので酒にでも酔ったかと思えば、後のことを言ったもの。ここが朱子の注の仕様の上手なところ。「天上天下唯我独尊」と、辺りに人もない様なことを言って喜ぶ。誰でも小児の時は隠れん坊などをしてもよいと言う様なものが理の自然。但し、孔子などはそこの処で違ったよいことがあって、それは「嬉戯陳俎豆」である。にょいと生まれると天上天下唯我独尊では、人間の自然ではない。妖物である。ここの大哉は、その様な出任せを言ったことではない。この章の主意は、学者の功夫を告げようとして道体を言ったこと。道体からの為学でなければ為学に根がない。今の詰め将棋をする様な、こうすればこう嵌るというのは本当の学問ではない。「修道之言教」は道体。教えというものは天道で、自然なこと。そこで学問が道体にならなければならない。
【語釈】
・喜戯陳俎豆…論語序説。「生孔子於魯昌平鄕陬邑。爲兒嬉戲、常陳俎豆、設禮容」。
・脩道之言教…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎」。

洋々乎云々。始に大哉と云たはこことあとをさして云。ここが圣人の道の大ひこと。釋迦や達磨がうれしがることもこちにある。そふかと思ふと、をとなしい息子の様な者迠垩人の教なり。直方先生爰をよく見て取られて、知は達磨のやうで、行はくはんぜよりをする様ながよいと云はれた。垩人を見すかしたことなり。某中庸は達磨の昏礼する様なものと云がこれなり。異端はかた々々。山﨑先生の一高卑合遠近と云が、やっはり道体。大ひことを腹一はい云て、何んでもこちのかかりでないものはない。そのことはをれが方では知れぬと云が人間にはあるが、天地へは、それはこちかかりでないの、をれがには知れぬのと云ことはない。天地の間に出来るか垩人の道の領分なり。黿鼉[げんだ]鮫龍[こうりょう]麒麟鳳凰皆天地で出来る。さて々々すさまじいことじゃ。然るに上をしるとて富士山を云様なことではないが、大きひと云、此上はないことなり。
【解説】
「洋洋乎發育萬物、峻極于天」の説明。聖人の道は大きい。そこには何でもある。天地の間が聖人の道の領分である。
【通釈】
「洋々乎云々」。始めに「大哉」と言ったのは、ここと後を指して言ったこと。ここが聖人の道の大きいこと。釈迦や達磨が嬉しがることもこちらにはある。そうかと思うと、大人しい息子の様な者までが聖人の教えである。直方先生がここをよく見て取られて、知は達磨の様で、行は頑是撚りをする様なのがよいと言われた。これは、聖人を見透かしたこと。私が中庸は達磨が婚礼する様なものと言うのがこれ。異端は片々。山崎先生が「一高卑合遠近」と言うのが、やはり道体のこと。大きいことを腹一杯に言って、何でもこちらの関わりでないものはない。そのことは俺の方では知らないと言うことが人間にはあるが、天地には、それはこちらの関わりでないとか、俺は知らないと言うことはない。天地の間にできるというのが聖人の道の領分である。黿鼉・蛟龍・麒麟・鳳凰も皆天地でできたもの。実に凄まじいことである。そこで、上を知ると言っても富士山のことではないが、大きいと言えばこれより上はない。
【語釈】
・一高卑合遠近…闇斎近思録序。「竊謂、一高卑合遠近者、聖人之道也」。
黿鼉
・鮫龍…蛟龍。竜とならない蛟。水中にひそみ、雲雨に会して天に上るという。

峻高大也云々。何でも道理のないと云ものはないと云こと。それゆへ中庸の費而隠也と云がこれで、垩人の道にこちの方では知らぬと云ことはない。その道は圣人の建立したものではない。太極のなりなり。太極は形のないもので、何の上にもある。雷の鳴も地震のゆるも、寒往暑来も皆道のなりぞ。長﨑から松前の端迠もと云ふが、中々そんなことではない。中蕐天笠迠も道理の行き渡らぬ処はないぞ。大ひことを云にこれより大ひことはない。人事の末は隣の国へ行きてももう通用せぬことがある。道理に於てはあの国この国と云ことは頓とない。この一句で道体のすさまじい大きなことを云たものなり。
【解説】
「峻、高大也。此言道之極於至大而無外也」の説明。道は費而隠で、道理のないところは何処にもない。道は太極の姿である。
【通釈】
「峻高大也云々」。何でも道理のないものはないということ。中庸の「費而隠」というのがこれで、聖人の道にこちらの方では知らないということはない。その道は聖人が建立したものではなく、太極の姿である。太極は形のないもので、何の上にもある。雷が鳴るのも地震で揺れるのも、寒往暑来も皆道の姿である。長崎から松前の端までもと言っても、中々その様なことではない。中華や天笠までも道理の行き渡らない処はない。大きいことを言うのにこれより大きいことはない。人事のことは、末は隣の国へ行ってももう通用しないことがある。道理では、あの国この国と言うことは全くない。この一句で道体の凄まじく大きなことを言ったのである。
【語釈】
・費而隠也…中庸章句12。「君子之道、費而隱。夫婦之愚、可以與知焉」。
・その道は圣人の建立したものではない…荻生徂徠が弁道で、先王の道は先王が造ったものだと言ったことに対して言ったこと。

優々大哉云々。上の句に大ひことを云ひ、これから細なことを云。云へば云ほど行届ひたことなり。ここに大の字が二つあるが見にくいそ。始の大の字は洋々乎発育萬物峻極于天と、優々云々礼儀三百とちいさいことからををきいこと迠そろったから、両節を合せて大哉と云こと。ここの大の字は上の大の字とは違う。上のは道の至極ををきいことを云。大きい処はかりかと云に、ちいさい処にもありて、とこにもかしこにも道のない処はないを大哉と云。洋々乎発育万物峻極于天。西国のはてから中国、それから東海北海、皆あの月が照す。然ればこれより大きいことはない。萬国にない月がもう一つあって日本を照すと云ふことはない。その大きい月が薄き葉をも照す。上は大くくりを云大哉。ここは其ちいさいこと迠ゆきわたりたを大哉と云そ。薄の葉を照すちさいがををきくなる。
【解説】
「優優大哉、禮儀三百、威儀三千」の説明。上の大哉は道の大きいことを言ったことで、ここの大哉は小さいことにまで道が行き渡っていることを言ったものである。
【通釈】
「優々大哉云々」。上の句に大きいことを言って、これから細かなことを言う。言えば言うほど行き届いたこと。ここに大の字が二つあるのが見難い。始めの大の字は、「洋々乎発育万物峻極于天」から「優々云々礼儀三百」まで、小さいことから大きいことまで揃っているから、両節を合わせて「大哉」と言ったもの。ここの大の字は上の大の字とは違う。上のは道が至極大きいことを言う。大きい処ばかりかと言うと、小さい処にも道はあって、何処にもかしこにも道のない処はないことを大哉と言う。洋々乎発育万物峻極于天。西国の果てから中国、それから東海北海、皆あの月が照らす。それならこれより大きいことはない。万国にはない月がもう一つあって日本を照らすということはない。その大きい月が薄の葉をも照らす。上は大括りを言った大哉。ここはその小さいことにまで行き渡ったことを大哉と言う。薄の葉を照らす小さいことが大きくなる。

百萬石取る加賀守も、公方様に従ふ御小人のやふなちいさいも、公方様の扶持人なり。大海を照す大きい月が薄の葉や庭の面のちり々々草まで照すぞ。礼儀三百は礼の大きい動かされぬこと。その大きい中に礼儀三千と云こわりがある。昏礼にもさま々々あれば、祭にもさま々々あり、元服にもさま々々がある。さてもよくわれましたと云が天地の姿なり。何か向に真くろなものがある。あれは馬たさふな、牛だそうなと見る。そばへよると毛の一本々が、中々誰でも数へををされぬなり。其様に礼儀三百威儀三千の細かにわれたぞ。今日の時事に至ても、様と云字を書きやうに色々ある。礼儀三百威儀三千なり。朋軰に書く様と云字を公方様にかくとををきな目に遁ふ。云に云へぬことぞ。丁どよい加减がある。人の死たには涙が本と云。涙ばかりではない。斬衰斎衰大切小功と別れてをる。あれが天地のなりなり。ををきいこともあればちいさいこともある。
【解説】
天地は隅々にまで割れ、行き届く。礼儀三百威儀三千が細かに割れているのである。全てに丁度よい加減がある。
【通釈】
百万石を取る加賀守も、公方様に従う御小人の様な小さい者も、公方様の扶持人である。大海を照らす大きな月が薄の葉や庭の面のちりちり草までを照らす。礼儀三百とは礼の大きく動かされないこと。その大きい中に「礼儀三百威儀三千」という小割がある。婚礼にも様々あり、祭にも様々あって、元服にも様々ある。実によく割れましたというのが天地の姿である。何か向こうに真っ黒な物がある。あれは馬の様だ、牛の様だと見える。側へ寄ると、中々その毛の一本一本までを、誰もが数え切ることはできない。その様に、礼儀三百威儀三千が細かに割れている。今日のことでも、様という字の書き方でも色々とある。礼儀三百威儀三千である。朋輩に書く様という字を公方様に書くと酷い目に遇う。それは言うに言えないこと。丁度よい加減がある。人の死んだ時は涙が本だと言うが、涙ばかりではない。斬衰斎衰大切小功と分かれている。あれが天地の姿である。大きいこともあれば小さいこともある。
【語釈】
・御小人…武家に使われた走り使いの者。江戸時代には職名となる。
・斬衰…儀礼喪服にある。
・斎衰…儀礼喪服にある。
・大切…儀礼喪服にある。
・小功…儀礼喪服にある。

優々充足は、どこへも行き渡て居るなり。ここらではこふしてもよからふと思ふと、どこでも合点せぬ。裏店の女房が洗濯してをる処へ行きて、われも親は大切かと云と、何んと仰せらるるぞ、親の一大切でないものが天まの下にござるかと云。親に不孝ゆへ孝行は知るまいと思ふて、をのれは孝行と云を知てかと云と、ををきく腹を立つ。道が充滿してをるゆへなり。日傭取の女房でも、めったなことを云ふと合点するものではない。周公旦は爰を知て居らるるゆへ、周礼三百官を作られた。釈迦を、これを知ぬから雪山に遁る。老子は呻をしてああよい加减にしやればよいと云。三千三百の筋を合せるには、その筋をよく聞合せ子ばならぬ。忠をする迚も三千三百の筋があるゆへ、出まかせはならぬ。大名と御簱本とが丁度それ々々に別れてをるも、礼を読だでもない。三千三百のなりがある。そのなりが礼なり。外からしたと云はちがふ。我胸に存したものなり。義之や子昴に書せても、公方様の字を女の書く様の字ではならぬ。御機嫌伺を假名でかくことはならぬ。どうでも忠義さへ尽せばよいとは云れぬ。礼は形からすることで、いやと云はれぬことなり。
【解説】
「優優、充足有餘之意。禮儀、經禮也。威儀、曲禮也。此言道之入於至小而無閒也」の説明。道は何処にも充満している。それを周公旦は知っているので周礼三百官を作られた。釈迦はこれを知らないから雪山に逃げ、老子は適当にすればよいと言う。しかし、出任せでは悪い。形から礼でするのである。
【通釈】
「優々充足」は、何処へも行き渡っていること。ここ等ではこうしてもよいだろうと思うのは、何処でも合点をしない。裏店の女房が洗濯をしている処へ行って、お前も親は大切かと言うと、何と仰せられるのか、一番に親が大切だと言わない者が天下にいるかと言う。親に不孝なので孝行は知らないだろうと思って、お前は孝行ということを知っているかと言うと、大いに腹を立てる。それは道が充満しているからである。日雇い取りの女房でも、滅多なことを言っては合点しない。周公旦はここを知っておられるので、周礼三百官を作られた。釈迦はこれを知らないから雪山に逃げる。老子は呻いて、ああよい加減にすればよいと言う。三千三百の筋を合わせるには、その筋をよく聞き合わさなければならない。忠をするにも三千三百の筋があるので、出任せでは悪い。大名と御旗本とが丁度それぞれに別かれているのも、礼を読んだからでもなく、三千三百の姿があるからである。その姿が礼である。外からしたと言うのは違う。自分の胸に存したもの。王義之や陳子昴に書かせても、公方様の字を女の書く様な字では悪い。御機嫌伺いを仮名で書くいては悪い。どうでも忠義さえ尽くせばよいとは言えない。礼は形からすることで、それは違うと言えないこと。

礼は太極に上は繪を書た様なもの。太極は無極で形はないが、中を見ると道理の條理分派がある。老子はここを無為自然と云、釈氏はここを寂滅と云。圣人の道は頓とそうしたことではない。三千三百の上は繪がある。これが天地自然。私は紋を五つ付たと云ても、上は繪はなくては殿中へ出られぬ。異端は上繪をかかぬ。無星無寸なり。急度礼の通りにせ子ば受取らぬは、こちの條理分派なり。太極の細かにわれたが礼。それが人の胸へこまかにわかれていりて居る。此様なことをひっくるめて垩人之道と云。朝聞道夕死可矣をらくなことに思うと違う。禅坊主の悟を開たやうなことではない。めったに悟たとは云はせぬ。三千三百の筋を見ることなり。
【解説】
太極は無極で形はないが、それには三千三百の上絵がある。太極が細かに割れたのが礼で、それが人の胸に細かに分かれて入っている。
【通釈】
礼は太極に上絵を書いた様なもの。太極は無極で形はないが、中を見ると道理の条理分派がある。老子はここを無為自然と言い、釈氏はここを寂滅と言う。しかし、聖人の道は全くそうしたことではない。三千三百の上絵がある。これが天地自然。私は紋を五つ付けたと言っても、上絵がなくては殿中へ出られない。異端は上絵を描かない。無星無寸である。しっかりと礼の通りにしなければ受け取らないのが、こちらの条理分派である。太極が細かに割れたのが礼で、それが人の胸へ細かに分かれて入っている。この様なことをひっくるめて「聖人之道」と言う。朝聞道夕死可矣を楽なことに思うのは違う。禅坊主が悟りを開いた様なことではない。滅多に悟ったとは言わせない。それは三千三百の筋を見ることなのである。
【語釈】
・無星無寸…目盛り、基準のないこと。

孔子が我與點と云はれたれとも、季武子が喪に哥ふたは訶ることなり。三千三百の礼に合ぬ。論語に曽点の章がある。學問の梁上けをした様なものなれとも、ととの処は顔曽でなければならぬ。風乎舞雩謡而歸れはよいが、季武子が喪にこんなやつは早く死がよいと謡ふた。此歌にこまる。曽點が処へ忰を御頼み申すとは云れぬ。どふも一体が道學の規矩でない。孔子のかわりをする曽子をふくろたたきにした。實は凡のことなり。曽点は爰をやりばなしにする。邵康節の道統にならぬと云も、世界のことを皆たわけと見て、文字呈尭夫など云ひ、この頃はひまでござって太極を手鞠につくと云。道學はそんなことではない。すきもまもないこと。司馬温公が圣人の様な御德で其れ誠と云れた。その誠はどこから買て来たと云に、問屋に誠なり。問屋にないと、なんぼよくても請取らぬ。判のない鳫鴨は東國屋伊兵衞店ては呵て取上る。司馬公の誠はとこから来たと云に、抜け荷を買ふた様なもの。この人参はとこから来たと云とき、由て来る処がない。つんとよいやうても致知挌物のない誠ゆへ、とんと役に立ぬ。
【解説】
曾点は遣りっ放しにするから、一体が道学の規矩でない。邵康節も世界を戯けと見たから道統にならない。司馬温公も致知格物がないので役に立たない。顔曾でなければならないのである。
【通釈】
孔子は「吾与点」と言われたが、季武子の喪に歌ったことは訶るべきこと。三千三百の礼に合わないからである。論語に曾点の章がある。それは学問の棟上げをした様なものなのだが、結局は顔子と曾子でなければならない。「風乎舞雩詠而帰」はよいが、季武子の喪に、こんな奴は早く死ぬ方がよいと歌った。この歌に困る。曾点の処へ忰を頼みますとは言えない。どうも一体が道学の規矩でない。孔子の代わりをするほどの曾子を袋叩きにした。実はそれも尤もなことなのである。曾点はここを遣りっ放しにする。邵康節が道統にならないと言うのも、世界のことを皆戯けと見て、「文字呈堯夫」などと言い、この頃は暇なので太極を手鞠に突くと言う。道学はそんなことではない。隙も間もないこと。司馬温公が聖人の様な御徳で「其誠乎」と言われた。その誠は何処から買って来たのかと言えば、問屋の誠でなければならない。問屋のものでなければ、どれほどよくても請け取らない。判のない雁鴨は東国屋伊兵衞の店では呵って取り上げる。司馬公の誠は何処から来たのかと言うと、抜け荷を買った様なもの。この人参は何処から来たと言う時、その由来がない。かなりよい様でも致知格物のない誠なので、全く役には立たない。
【語釈】
・我與點…論語先進25。「莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。夫子喟然歎曰、吾與點也」。
・季武子が喪に哥ふた…礼記檀弓下。「季武子寢疾。蟜固不説齊衰而入見、曰、斯道也、將亡矣。士唯公門説齊衰。武子曰、不亦善乎。君子表微、及其喪也。曾點倚其門而歌」。
・曽子をふくろたたきにした…
・邵康節…北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は尭夫。康節は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤の理気学に対して象数論を開いた。著「皇極経世」「漁樵対問」「伊川撃壌集」「勧物篇」など。1011~1077
・文字呈尭夫…
・其れ誠…小学外篇善行72。「劉忠定公見温公、問盡心行己之要、可以終身行之者。公曰、其誠乎。劉公問行之何先。公曰、自不妄語始」。
・東國屋伊兵衞店…

道學標的は息を継く間もないことなり。三千三百を云ひわけ子ばならぬ。仏者は一尺と云て、七寸五分外はない。皆まぎらを喰はせる。一尺と云処は合ふようでも、中の一分云々を知ぬ。垩人之道は一尺と云中一寸もあれば一分もある。ここでむぐかは々々々々するなり。王陽明陸象山は高ひゆへ大きい処では曽点めいたが、ここで合ぬ。吾黨でも六藝の注はすまぬ、井田の方は済ぬと云は本の学問でない。程子朱子に其様な無調法はとんとない。孔子は職原を郯子に聞れた。物に就て理を究めるが垩學の大切。直方先生が塵にもすてると云理があると云れた。鼻の先にふる草履がある。これはどふするかと云に、取て捨ろなり。異端大きつらをしても、どっこい中庸では合点せぬ。女房そこにいろ、をれは雪山へ行くとて遁れ、なぜその様にやかましいと云ふ。此方のは殊の外細なことそ。
【解説】
道学標的は三千三百という細かなところで理を窮めること。細かなところが済まなければ、それは本当の学問ではない。
【通釈】
道学標的は息を継ぐ間もない。三千三百を言い分けなければならない。仏者は一尺と言っても、七寸五分より外はない。皆紛らかしを喰わせる。一尺という処では合う様でも、中の一分云々を知らない。聖人之道は一尺という中に一寸もあれば一分もあり、ここで咀嚼する。王陽明や陸象山は高いので、大きい処は曾点めくが、ここで合わない。我が党でも六芸の注が済まない、井田の方が済まないと言うのは本当の学問ではない。程子や朱子にその様な無調法は全くない。孔子は職原を郯子に聞かれた。物について理を窮めるのが聖学の大切。直方先生が塵にも捨てるという理があると言われた。鼻の先に古草履がある。これをどうするかと言えば、取って捨てろである。異端が大きな面をしても、どっこい中庸では合点しない。女房はそこにいろ、俺は雪山へ行くと言って逃れると言うが、何故その様に喧しいと言うのか。こちらは殊の外細かなのである。
【語釈】
・郯子…春秋左氏伝昭公。「仲尼聞之。見於郯子而學之。既而告人曰、吾聞之、天子失官、學在四夷、猶信」。

そこで、扨々垩人之道と云ふものはと云と、それが天地之道なり。鯨が出来ればぼうふりの様なものが出来、鴬や鷦鷯[みそささい]の様なものがあれば鷲くま鷹ある。皆天地万物。石竹のしぼり、さて々々見事ぞ。あれも天地なり。天地の道の姿が此様なもの。尭舜の禅授、湯武の放伐、皆理のなりなり。行不能正屈。今朝の御食はと云に、杖をつかぬばかりぞ。それがひっくりかへると羑里てなんとも顔て彖の辞をかけらるる。孔子が入公門鞠躬如。垩人の誠で樓田の見付へ行と、もう首を伸てあるかれぬやふなり。そふかと思ふと誅少正卯とて、少正卯が首をふっつりと切た。理のなりなり。これが天地の姿を写したものぞ。本がこれ程の仕入れ仕込ありて、さて待其人而行るるなり。
【解説】
聖人の道は天地の道である。堯舜の禅授や湯武の放伐、周公や孔子の行いも皆天地の姿を映したものなのである。
【通釈】
そこで、聖人の道と言うのは天地の道である。鯨ができればぼうふらの様なものができ、鴬や鷦鷯の様なものがあれば鷲や熊鷹もいる。皆天地万物である。石竹の絞りも実に見事である。あれも天地である。天地の道の姿はこの様なもの。堯舜の禅授、湯武の放伐は皆理の姿である。「行不能正屈」。今朝の御食はと言っても、杖をつく様な姿である。それが引っ繰り返ると、羑里で何ともない顔で彖の辞を繋けられる。孔子は「入公門鞠躬如」。聖人の誠で樓田の見付へ行くと、もう首を伸ばして歩けない様な姿である。そうかと思うと少正卯を誅すと言って、少正卯の首をぷっつりと切った。理の通りである。これが天地の姿を写したもの。本にこれほどの仕入れ仕込みがあり、さて、「待其人而行」となる。
【語釈】
・尭舜の禅授、湯武の放伐…禅受は、堯が舜に、舜が禹に帝位を譲ったこと。湯武の放伐は、湯王が桀王を、武王が紂王を討ったこと。禅受放伐は「孟子万章章句上」に詳しくある。
・行不能正屈…
・羑里…文王は費仲達の讒言から殷の紂王によって羑里に幽閉される。そこで伏羲の八卦を六十四卦となした。
・入公門鞠躬如…論語郷党4。「入公門、鞠躬如也、如不容。立不中門、行不履閾。過位、色勃如也、足躩如也、其言似不足者。攝齊升堂、鞠躬如也、屏氣似不息者。出、降一等、逞顏色、怡怡如也。沒階趨、翼如也。復其位、踧踖如也」。
・少正卯…荀子宥坐篇に、孔子が魯の摂相になって七日目に少正卯という大夫を誅殺したとある。それ以前の文献には、少正卯という名は出て来ない。

待其人而云々。ここが中庸の講釈の時はあまり人の字をいきりて云にも及ぬが、道學標的では人と云字をつよく云が大切なり。冬至の文で其人と云がここの待其人しゃ。是れ程ながかいの大きいはばの廣ひ、いつもある道なれとも、其人がないと、とんと道沙汰がない。中庸もただ講釈になった。その講釈と云が、彼不逾言語文字之間也。冬至文もそこなり。又此書の序文へふりかへりて見れば、孔曽思孟周程張朱が待其人而行れたのぞ。道は孔曽思孟周程張朱にかまはず、ずふ々々と天地之間に流行す。道は為尭桀不存亡とて、いつも々々々道はあるが、人がなければ行はれぬ。そこで孔子がかなしい声をなされて、道其不行矣夫となかしった。道は天地自然ゆへ消るものではない。太閤記に、何事もかわりはてたる世の中に知らでや雪の白くふるらん。数千歳の後も雪は白く降る。あの様に道はいつもあるが、人がなければ行はれぬ。尭が出たとて道がふへもせず、桀が為に道がへりもせぬ。尭は道を行ふゆへ道がさかん。桀は道を打やりて置く。そこて擔物を地上と云れたが面白ひぞ。直方先生の標的ゆへ、その人の文を云がよい。其人のないは如捨置擔物地上也。
【解説】
「待其人而後行。總結上兩節。故曰、苟不至德、至道不凝焉。至德、謂其人。至道、指上兩節而言也」の説明。道は増えも減りもするものではないが、「其人」を待って後行われる。「其人」とは孔曾思孟周程張朱であり、冬至文における「其人」もこれと同意である。
【通釈】
「待其人而云々」。中庸の講釈の時はあまり人という字を熱って言うにも及ばないが、道学標的では人という字を強く言うことが大切である。冬至文で「其人」と言うのがここの待其人である。これほどに規模が大きく幅も広く、いつもある道なのだが、其人がいないと、全く道の沙汰がない。中庸もただの講釈になってしまう。その講釈というのが、あの「不越言語文字之間」である。冬至文もそこを言ったこと。また、この書の序文を振り返って見れば、孔曾思孟周程張朱が「待其人而行」である。道は孔曾思孟周程張朱に構わず、ずんずんと天地の間に流行する。道は「為堯桀不存亡」であって、いつも道はあるが、人がなければ行われない。そこで孔子が悲しい声をされて、「道其不行矣夫」と泣かれた。道は天地自然なものなので消えはしない。太閤記に、何事も変わり果てたる世の中に知らでや雪の白く降るらんとある。数千歳の後も雪は白く降る。あの様に道はいつもあるが、人がなければ行われない。堯が出たからと言って道が増えもせず、桀のために道が減りもしない。堯は道を行うので道が盛んで、桀は道を打っ遣って置く。そこで擔物を地上に捨て置くと言われたのが面白い。直方先生の標的だから、その人の文で言うのがよい。其人がいなければ、「如捨置担物地上也」である。
【語釈】
・冬至の文で其人…佐藤先生冬至文。「道之廢而不行猶擔物之捨置地上也。若有其人出於其時則任之而使不永墜地矣」。
・不逾言語文字之間…佐藤先生冬至文。「中庸序所謂吾道之所寄不越乎言語文字之間」。
・道は為尭桀不存亡…荀子天論。「天行有常。不爲堯存、不爲桀亡。應之以治則吉、應之以亂則凶」。
・道其不行矣夫…中庸章句5。「子曰、道其不行矣夫」。

さて、道學の任はそきらでも、ここの人足に出るが學者也。黙斎でも人足じゃ。長持を一と竿かづいて一宿ゆく合点がよい。羽二重を着てもじょろ々々々めいてはならぬ。杜子美李伯は名のあるものなれとも、下駄をはいて出るゆへそちへゆけ々々々々々と云。ここを合点すると、道學標的を讀む任になる。大哉垩人之道で、至道は知れる。これがただ者の手際に出来ることではない。迂斎の面白ひことを云れた。観世が朱をさした謡本を持ても、観世が出子ば役に立ぬとなり。それゆへ、今日の学者の道を語るは不忠信なものが楠の太刀や甲を持たやうなもの。何の役に立つものぞ。道は天地自然はへぬきなものなれとも、至徳でなければならぬ。孔子が魯の国に居る。よいものが有ても哀公も定公も役に立ぬ。孔子ほどな者が有ても、こちが至德でなければ役に立ぬ。そこで至德へむけ子ばならぬ。至德と云ものでなければならぬことぞ。結搆な藥種が有ても、医者の来ぬやうなもの。医者が来ぬと病人は直らぬ。上手な医者がくると本復するなり。待其人が至徳のことぞ。
【解説】
道は天地自然生え抜きなものだが、至徳の者でなければそれを得ることはできない。結構な薬種があっても、医者が来なければ病人は治らないのと同じである。
【通釈】
さて、道学の任は遠いものだが、その人足に出るのが学者である。黙斎でも人足だ。長持を一竿担いで一宿行く合点がよい。羽二重を着ても女々しくては悪い。杜子美や李白は名のある者だが、下駄を履いて出るので、向こうへ行けと言われる。ここを合点すると、道学標的を読む任になる。大哉聖人之道で、至道は知れる。これが普通の者の手際でできることではない。迂斎が面白いことを言われた。観世の朱を点した謡本を持っていても、観世が出なければ役に立たたない、と。それで、今日の学者が道を語るのは、不忠信な者が楠の太刀や甲冑を持った様なもの。何の役にも立たない。道は天地自然で生え抜きだが、至徳でなければならない。孔子が魯の国にいた。その様によい者がいても哀公も定公では役に立たない。孔子ほどの者がいても、こちらが至徳でなければ役には立たない。そこで至徳へ向けなければならない。至徳という者でなければならない。結構な薬種があっても、医者が来ない様なもの。医者が来なければ病人は治らない。上手な医者が来ると本復する。待其人が至徳のこと。

凝聚也成也。これは朱子などの趣向ある注と合点すべし。一口てすむことなれとも、向に重ひわけあいのあることをつつんだを一字で説けば、もしとどかぬことあったときどうもならぬ。何もかも合点な人の此様な委い注をするは、わけのあることにはきまわりた。大學でも快也足也とせらるる。だたい聚也とか成也とか一つてすみさふなことを二字注をするは無調法けな注のしやうなれとも、至道をつかまへて、それが成就することゆへ一口ではならぬ。しごとが大きいゆへ、たった一字では心元ない。今日済みたと云様なことなれば注には及ばぬ。至道はごく々々の大きいこと。茶漬をすする様なことではない。何もかも一つにすることを聚也と云。誠さへすればよいかと云。致知挌物、しからば挌致ですむか。いや、八条目が残ずなり。それを聚る。徳性々々と云と、いや々々そうではならぬ、道問學と云。そふした処でなふては成就せぬ。そふして成就するから成也と云。
【解説】
「凝、聚也、成也」の説明。何もかも合点な朱子がこの様に「聚也」「成也」と委しい注をするのは、わけがあること。誠、致知格物、八条目の全てをすることを「聚也」と言い、それで成就することを「成也」と言う。
【通釈】
「凝聚也成也」。これは朱子の趣向ある注だと合点しなさい。一口で済むことなのだが、向こうで重い訳合いのあることを包んでいるのを一字で説くと、もしもそれが届かないことがあった時にはどうにもならない。何もかも合点な人がこの様な委しい注をするのは、わけのあることに極まること。大学でも「快也足也」とされた。そもそも「聚也」とか「成也」とかと一つで済みそうなことを二字で注をするのは無調法の様な注の仕様だが、至道を掴まえ、それが成就することなので一口では言えない。仕事が大きいので、たった一字では心許ない。今日済んだという様なことであれば注するには及ばない。至道は至極大きいこと。茶漬けを啜る様なことではない。何もかも一つにすることを聚也と言う。誠さえすればよいかと言えば致知格物。それなら格致で済むかと言えば、いや、八条目を残らずと言う。それを聚める。徳性と言うと、いやいやそれでは悪い、「道問学」だと言う。そうした処でなくては成就はしない。そうして成就するから成也と言う。
【語釈】
・快也足也…大学章句6。「謙、快也、足也」。

ありだけをあつめ子ばならぬと云。あつめはあつめても、がらくた道具をあつめては役に立ぬ。あつめたことを極々に成就する。聚也は明徳新民ぞ。成也は至善につまる様なもの。此二つてなみや大抵なことではならぬ。三十年四十年學んでもつきぬことゆへ聚也成也。此注の仕向け、徂徠などの决して知ぬことなり。功夫の大事ゆへ、一つで注はならぬ。ちっと計りでは聚也成也ではない。三綱領へ合せることゆへ中々では成就はならぬ。ををきなこと。李延平は見た処律義な親父と云様に見へたが、中々許可せずとて、めったによいとゆるされす。大概やををかたのことで點はかけられぬなり。本と此道學は聚也成也でなければならぬ。軽々鋪許可せぬはそこなり。孔子がめったに印可はなされぬ。未知焉得仁と云。陳文子有馬十乘棄而違之。子張がいきせいはって云たが、孔子の焉得仁と云。丁度の処へもってこぬ内はゆるさぬなり。この規模を知ると、ちっとなことをやつきゃつとほめはせぬ。田舎ではごぜの三味線をほめる。堺町を見たものは、あのやうなはほめぬ。
【解説】
ありっ丈を聚めて、それを成就させる。聚也は明徳新民であり、成也は至善に詰まる様なもの。そこで、少しばかりでは聚也成也ではない。
【通釈】
ありっ丈を聚めなければならないと言う。聚めは聚めても、がらくた道具を聚めては役に立たない。聚めたことを極々に成就する。聚也は明徳新民である。成也は至善に詰まる様なもの。この二つが並大抵なことではできないこと。三十年四十年学んでも尽きないことなので、聚也成也と言う。この注の仕向けは徂徠などでは決して知らないこと。功夫の大事なところなので、一つで注をしてはならない。一寸ばかりでは聚也成也ではない。三綱領へ合わせることなので、中々成就はできない。大きなことなのである。李延平は見た処律儀な親父の様に見えるが、中々許可はせず、滅多によいとは許されない。大概や大方のことで点は掛けられなかった。正にこの道学は聚也成也でなければならない。軽々しく許可しなかったのはそこのこと。孔子は滅多に印可はなされなかった。「未知焉得仁」と言う。「陳文子有馬十乗棄而違之」。子張が意気込んで言ったが、孔子の焉得仁と言う。丁度の処へ持って来ない内は許さない。この規模を知ると、少しのことについて褒めはしない。田舎では瞽女の三味線を褒める。堺町を見た者は、あの様なものを褒めはしない。
【語釈】
・未知焉得仁…論語公冶長19。「子張問曰、令尹子文三仕爲令尹、無喜色。三已之、無慍色。舊令尹之政、必以告新令尹。何如。子曰、忠矣。曰、仁矣乎。曰、未知、焉得仁。崔子弑齊君。陳文子有馬十乘、棄而違之。至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也。違之、之一邦、則又曰、猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰、清矣。曰、仁矣乎。子曰、未知、焉得仁」。

故君子云々。故は斯ふしたわけじゃにと云訓義ぞ。それを知ぬものはないが、学問に力のないうちは故と云あやが済ぬ。道体から為學へかかる処。そこて故とうけるはめったにすまぬ。道体をふまへて道体なりにする為學ぞ。君子は大學之道はと云様なり。大哉垩人之道と語り出したで見よ。何んでもかたへらなことはない。故君子は垩賢から學者迠功夫をするはなで云。圣人の道はどふ学ぶと云に、尊徳性道問學なり。道体の方は洋々乎発育萬物優々大哉とそらふことなり。君子の学問は尊徳性而道問學とそろふことなり。而の字は両掛の挟箱ぞ。德性ばかりではなく、問學ばかりではなく、二つづつなり。車の両輪、鳥の両翼。一つづつかたついたことはなく、二つづづなり。天地が二つゆへ學問も二つぞ。両掛の挟箱へ棒を通して一つにする。とうあっても私はかた々々がよいと云と、兎も角もそれは異端の方へもってゆきて相談せよ。垩賢の學問は尊徳性而道問學と云。
【解説】
「故君子尊德性而道問學」の説明。聖人の道の学び方は「尊徳性而道問学」である。道体では「洋々乎発育万物優々大哉」と揃い、君子の学問は尊徳性而道問学と揃う。天地は二つなので、学問も二つで行う。
【通釈】
「故君子云々」。「故」は、こうしたわけだからという訓義である。それを知らない者はいないが、学問に力のない内は故という綾が済まない。これが道体から為学へと掛かる処。そこで、故と受けることは滅多に済まないこと。道体を踏まえて道体の通りにする為学である。君子は、大学之道はと言う様なこと。「大哉聖人之道」と語り出したことで見なさい。何も傍片なことはない。「故君子」は聖賢から学者までの功夫をする始めで言う。聖人の道はどの様に学ぶのかと言うと、「尊徳性道問学」である。道体の方は「洋々乎発育万物優々大哉」と揃うことで、君子の学問は尊徳性而道問学と揃うことである。「而」の字は両掛の挟箱である。徳性ばかりでもなく、問学ばかりでもなく、二つずつである。車の両輪、鳥の両翼。一方に偏ったことではなく、二つずづである。天地は二つなので、学問も二つである。両掛の挟箱に棒を通して一つにする。どうあっても私は片々がよいと言うのであれば、ともかくそれは異端の方へ持って行って相談しなさい。聖賢の学問は尊徳性而道問学だと言う。
【語釈】
・大學之道は…大学章句経1。「大學之道、在明明德、在親民、在止於至善」。

徳性は行の惣まくり、問學は知惠の惣まくり。知惠が先きへ立て行はあとに立つが順。道中をするにさま々々旅支度をするは知、それから蹈み出すは行で知行なり。時に行の先きへ立つと云は道中をしようと云先に灸をすへ、足を丈夫にして出る。ふるいつくと延引、大和めぐりもならぬ。中庸では徳性を先に立て、問學をあとて云。どうでも自由に云はるるぞ。徳性は明德、学問の根本なり。尊ぶとて、御前と頭を下け拜することではない。大切々とふきなでるのなり。町人がしろものを田舎へやるに、そがさぬやうにする。尊ぶなり。茶人が不断茶器をふく。をがみはせぬ。尊徳性とて、何事も爰にあるとて胷をたたいて明徳々々と云と、明徳たをしになる。陸象山王陽明の問学をきろふが中庸の傳を知らぬ。尊德性だ上に道門學なり。そこが而の字なり。
【解説】
徳性は行の総捲りで、問学は知恵の総捲りである。中庸では徳性を先に立て、問学を後に言う。尊徳性の上に道門学があるのである。また、尊徳性と言っても、拝むことではない。大切に拭き撫でるのである。
【通釈】
徳性は行の総捲りで、問学は知恵の総捲り。知恵が先に立って、行は後に立つのが順。道中をするのに様々な旅支度をするのは知で、それから踏み出すのは行であり、それで知行となる。時に行が先へ立つというのは、道中をしようという前に灸をすえ、足を丈夫にしてから出る。震い付けば延引で、大和巡りもできない。中庸では徳性を先に立て、問学を後に言う。どうでも自由に言うことができる。徳性は明徳のことで、学問の根本である。尊ぶと言っても、御前で頭を下げて拝することではない。大切に思って拭き撫でるのである。町人が代物を田舎へ遣る際には傷めない様にする。尊ぶのである。茶人がいつも茶器を拭く。しかし、拝みはしない。尊徳性と言っても、何事もここにあると胸を叩いて明徳ばかりを言うと明徳倒しになる。陸象山や王陽明が問学を嫌うのが中庸の伝を知らないからである。尊徳性の上に道門学である。そこが而の字のこと。
【語釈】
・延引…時日が予定より延び遅れること。

大學の致知挌物は中庸の道問學なり。天地の間に道理のないものはない。胷が明と云はず、向の物に即て吟味をする。物の理が暗ひと德性もそれだけ明にならぬ。司馬温公の其誠乎と云がす子から揉み出したことではない。氣質なり。それですむと思ふはかた挾み箱なり。陸象山は人の心には明徳と云霊妙なものがある。これですむ。挌物致知は外馳しやと見たもの。儒者か々々々と思ふたれば禅學なり。本来無一物何処若心塵埃、楞嚴経もいらぬと云。朱子が換名號而已と云れた。子思がとうに陸王が様な者が出来やふかと、此様に云てをかれた。問學と云は居ながら名所を知ると云筋ではない。そふすると未来記になる。徳性云々とばかり云のゆるされぬは、親の病氣のとき、薬々と云て飲ませるやふなもの。若し毒にならふかも知れぬ。問學に道らぬと徳に門違ひがある。一物の上に皆理がある。それを問尋子ばならぬ。
【解説】
大学の致知格物は中庸の道問学であり、一物の上には皆理があるから、それを問い尋ねるのである。陸象山は心には明徳という霊妙なものがあるからこれで済む、格物致知は外に馳せるものだと見た。それでは禅学であり、道問学を知らない。
【通釈】
大学の致知格物は中庸の道問学である。天地の間に道理のないものはない。胸を明にするとは言わずに向こうの物に即して吟味をする。物の理が暗いと徳性もそれだけ明にならない。司馬温公の「其誠乎」と言うのが臑から揉み出したことではない。気質である。それで済むと思うのは片挟み箱である。陸象山は人の心には明徳という霊妙なものがあるからこれで済む、格物致知は外に馳せるものだと見た。儒者かと思えば禅学である。本来無一物何処若心塵埃で、楞厳経も要らないと言う。朱子が「換名號而已」と言われた。子思がとっくに陸象山や王陽明の様な者ができるだろうと思って、この様に言って置かれた。問学はいながらに名所を知るという様な筋ではない。そうすると未来記になる。徳性ばかりを言うことが許されないのは、親の病気の時に薬々と言って飲ませる様なもの。もしかすると毒になるかも知れない。問学に道らないと徳に門違いができる。一物の上には皆理がある。それを問い尋ねなければならない。
【語釈】
・本来無一物何処若心塵埃…慧能。「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵埃」。
・楞嚴経…首楞厳三昧経。大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経。
・換名號而已…
・未来記…①未来のことを予言して書いた書。②和歌や連歌で、趣向をこらしすぎて表現の不自然になったものをいう。

孔子はあの大圣ゆへ、なにも聞くことはなくすわりて居られそふなものなれとも、夏礼吾能言之杞不足徴也殷礼吾能言之宋不足徴と方々へ問はれた。問學から来子ば、人心之霊無不有知云々と補傳にあり、徳性がありても凡即天下之物究其理と云でなければならぬ。挌物いやと云れぬは、喜世流を筆と云ては、我はともかくもなれとも筆が合点せぬ。問學は細なこと。親へ出す親切を君へ出してはならぬ。なぜその様に細なことを云と云ふに、理か細にわれてをるからなり。尊徳性而道問學が二綱領で、其條目なり。三綱領の次に八条目のある様なもの。これからは上の尊德性て道問學のこわりを云たもの。中庸での條目なり。德性をよごさぬにさま々々しかたがある。掃除はきれいにすることなれとも、さいはいではらふこともあれば帚ではくこともあり、ぞふきんをかけることもありて、何もかも一つにしてきれいにする条目あり。
【解説】
徳性があっても問学がなければならない。問学は細かなことだが、それは理か細かに割れているからである。そこで格物窮理をするのである。
【通釈】
孔子はあの様な大聖なので、何も聞くことはなく座っておられそうなものだが、「夏礼吾能言之杞不足徴也殷礼吾能言之宋不足徴」と方々へ問われた。問学から来なければ、「人心之霊無不有知云々」と補伝にもあり、徳性があっても「凡即天下之物究其理」というのでなければならない。格物を否定することができないのは、煙管を筆と言っては、自分はともかく筆が合点しないもの。問学は細かなこと。親へ出す親切を君へ出してはならない。何故その様に細かなことを言うのかというと、理か細かに割れているからである。尊徳性而道問学が二綱領で、格物はその条目なのである。それは、三綱領の次に八条目のある様なもの。これからは上の尊徳性而道問学の小割を言ったもので、中庸での条目である。徳性を汚さないためには様々な仕方がある。掃除は綺麗にすることだが、叩きで掃うこともあれば箒で掃くこともあり、雑巾をかけることもあるが、何もかも一つにして綺麗にする条目がある。
【語釈】
・夏礼吾能言之杞不足徴也殷礼吾能言之宋不足徴…論語八佾9。「子曰、夏禮、吾能言之、杞不足微也。殷禮、吾能言之、宋不足微也。文獻不足故也。足、則吾能微之矣。」
・人心之霊無不有知…大学章句5補伝。「所謂致知在格物者、言欲致吾之知、在即物而窮其理也。蓋人心之靈莫不有知、而天下之物莫不有理、惟於理有未窮、故其知有不盡也。是以大學始敎、必使學者即凡天下之物、莫不因其已知之理而益窮之、以求至乎其極」。

廣大は心の本体のなり。萬物皆備乎我と云。人間の霊妙なと云は明德と云ものが有て、何もかもこちのからたに備てあるなり。人の心は一寸四方、ちいさくても何もかもあるが、無調法なものずきをして大きい心をちいさくする。致廣大と云は、心の本体なりにはばを廣くすることなり。時に致廣大ていなことを知ると、その高ぶりからこまかあたりがなくなる。それか、かた々々なり。伯夷柳下惠は古之垩人也と云。伯夷柳下惠、皆廣ふ大にづんともぬけたことなれとも、精微を尽さぬゆへ見當の違ふことがある。いつも々々々望々然として去る。又、柳下惠はいつ迠もたはけと長咄をして居らるる。手前の廣大は云ふ様ないが、細かあたりがなし。孔子は精微を尽されたゆへ、去父母之国遲々行。そふかと思ふと、接淅而去と云。伯夷なれば十日まいに去る。柳下惠なれば一月も居る。孔子細かなことを仰せらるるに、あてづほうと云ことはない。職原迠知られて、これも郯子に聞たと云ふ。其後数千年過て、集て大成するの朱子出られて精微を尽されたり。此段は程子ても周子でもとんと朱子に及ふことはならぬ。
【解説】
「致廣大而盡精微」の説明。人間には明徳があり、何もかも備わっているから霊妙なのである。「致広大」は、その心の本体の通りに幅を広くすること。ここで精微を尽くさなければ偏る。
【通釈】
「広大」は心の本体の姿で、「万物皆備乎我」と言う。人間を霊妙だと言うのは明徳というものがあって、何もかも自分の体に備わっているからである。人の心は一寸四方、小さくても何もかもあるが、無調法な物好きをして大きい心を小さくする。「致広大」は、心の本体の通りに幅を広くすること。時に致広大底なことを知ると、その高ぶりから細かに行うことをしなくなる。それが、片々である。「伯夷柳下恵古之賢人也」と言う。伯夷柳下恵は皆広大にづんと抜けているが、精微を尽くさないので見当違いがある。いつも望々然として去る。又、柳下恵はいつまでも戯けと長話をしておられる。自分の広大は言い様もないが、細か当たりがない。孔子は精微を尽くされたので、「去父母之国遅々行」。そうかと思うと、「接淅而去」と言う。伯夷であれば十日前に去る。柳下恵であれば一月もいる。孔子が細かなことを仰せられる際には、当てずっぽうはない。職原まで知られ、これも郯子に聞いたと言う。その後数千年を経て、集めて大成した朱子が出られて精微を尽くされた。この段は程子でも周子でも全く朱子に及ぶことはできない。
【語釈】
・萬物皆備乎我…孟子尽心章句上4。「孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉」。
・伯夷柳下惠は古之垩人也…論語述而14。「伯夷、叔齊何人也。曰、古之賢人也」。
・望々然として去る…孟子公孫丑章句上9。「孟子曰、伯夷、非其君不事、非其友不友。不立於惡人之朝、不與惡人言。立於惡人之朝、與惡人言、如以朝衣朝冠坐於塗炭。推惡惡之心、思與鄕人立、其冠不正、望望然去之、若將浼焉。是故諸侯雖有善其辭命而至者、不受也。不受也者、是亦不屑就已。柳下惠、不羞汙君、不卑小官。進不隱賢、必以其道。遺佚而不怨、阨窮而不憫。故曰、爾爲爾、我為我、雖袒裼裸裎於我側、爾焉能浼我哉。故由由然與之偕而不自失焉、援而止之而止。援而止之而止者、是亦不屑去已。孟子曰、伯夷隘、柳下惠不恭。隘與不恭、君子不由也」。
・去父母之国遲々行…孟子万章章句1。「孔子之去齊、接淅而行。去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。可以速而速、可以久而久、可以處而處、可以仕而仕、孔子也」。同尽心章句下17。「孟子曰、孔子之去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。去齊、接淅而行、去他國之道也」。

極高明而道中庸。これは人欲にまみれぬことなり。廣大は心の本体なりを云、こしらへのないを云。高明は欲を相手に云。欲があるとひくくなる。あの人も酒になると埒はない。惣体に似合ぬと云ふ。酒と云欲でひくくなる。高明を極た人はわるふするとそげものになると迂斎云へり。甲斐の徳本は欲がないゆへ膏藥を献じて十六文とろふと云た。誰れだとて膏藥にかわることはない。上様でも十六文じゃとそげる。孔子は陽虎の処へ礼にゆかるるぞ。大夫賜行拜すと肩絹を引かけてゆかれた。道中庸なり。郷黨では取上け婆々も居るぞ。それを相応にあしらへり。はぜたことはなし。そこで、魯国の人に魯に垩人があるさふなと聞たれば、知らぬ、それ、東家の丘がことかとなり。孔子の高い処はよってもつかれぬことなれとも、中庸によるで目に立ぬ。
【解説】
「極高明而道中庸」の説明。「高明」は欲を相手にして言ったことで、人欲に塗れないこと。高明を極めるだけだと偏るからから、中庸に道らなければならない。孔子は高明であっても目立つ人ではなかった。
【通釈】
「極高明而道中庸」。これは人欲に塗れないこと。広大は心の本体の姿を言い、拵えのないことを言う。高明は欲を相手にして言う。欲があると卑くなる。あの人も酒になると埒はない、総体に似合わないと言う。酒という欲で卑くなる。高明を極めた人は悪くすると削げ者になると迂斎が言った。甲斐の徳本は欲がないので膏薬を献じて十六文頂くと言った。誰でも膏薬に変わることはない。上様でも十六文だと削げる。孔子は陽虎の処へ礼に行かれた。「大夫賜行拝」と言って肩衣を引っ掛けて行かれた。道中庸である。郷党では取り上け婆もいる。それを相応にあしらった。孔子に馳せたことはない。そこで、魯国の人に魯に聖人がいるそうだがと聞くと、それは知らない、それは東家の丘のことかと答える。孔子の高い処は寄り付くこともできないことだが、中庸に道るので目立たない。
【語釈】
・そげもの…削げ者。変人。奇行ある者。かわりもの。
・甲斐の徳本…室町時代末期の永正10年(1513年)に三河国に生まれ、乾室または知足斎と号し、医を業とし、駿河・甲斐・相模・武蔵の諸国を巡り、甲斐にあっては武田氏に仕えた。
・大夫賜行拜す…論語陽貨1。「陽貨欲見孔子。孔子不見。歸孔子豚。孔子時其亡也、而往拜之」。
・東家の丘…三国誌魏書邴原。「崧曰、鄭君學覽古今、博聞彊識、鉤深致遠、誠學者之師模也。君乃舍之、躡屣千里、所謂以鄭爲東家丘者也。君似不知而曰然者、何。原曰、先生之説、誠可謂苦藥良鍼矣。然猶未達僕之微趣也。人各有志、所規不同、故乃有登山而採玉者、有入海而採珠者、豈可謂登山者不知海之深、入海者不知山之高哉。君謂僕以鄭爲東家丘、君以僕爲西家愚夫邪」。

温故而知新。この一句、ここの内で一ち見にくひ文義なり。論語では知惠を磨くこと。ここは徳性を尊ぶことなり。此様なことは中へ入ら子ばとんと知れぬこと。論語で知惠にしたことが徳性を尊ぶ存養になる。故は、これ迠吟味した知惠なり。かびのはへたと云ことあり。茶を知らぬものの処に茶湯道具があるとかびがはへる。下戸の処の銚子はかなけがつく。上戸は毎日飲むゆへ酒の匂ひがはなれぬ。學問も一度聞たにするとかびがつく。もと聞たをひたと熟すゆへ、あたためると云。知に存養あること、面白ひことなり。直方先生二十七八の時か、浅見先生と中庸二十五章を廿五會いたされたるとなり。それかまえ知たのなり。それが存養になると、それをむ子にあたためるぞ。それから又今まてないことを知る。そこを知新と云。俗儒はふへるあんばいを知らぬと直方先生云へり。十両が百両になるやうなもの。もとの知惠をあたためると知らぬことも知れてくる。朱子の、四書の注をなされて、細工をして棚へあげてをく様なことではない。あたためらるるゆへ、死なっしゃる三日前に大學誠意の章を注を御改なされた。本と聞たことをたん々々とすれば知行に利足がついてくる。
【解説】
「温故而知新」の説明。「温故知新」は論語では知恵を磨くことだが、ここは徳性を尊ぶことを言う。始めの知を存養して温めると今までに知らなかったことまでが知れて来る。
【通釈】
「温故而知新」。この一句、ここの内で一番見難い文義である。論語では知恵を磨くことを言い、ここは徳性を尊ぶことを言う。この様なことは中へ入らなければ全くわからないこと。論語で知恵と言ったことが徳性を尊ぶ存養になる。「故」は、これまでに吟味した知恵のこと。黴の生えたということがある。茶を知らない者の処に茶湯道具があると黴が生える。下戸の処の銚子は鉄気が付く。上戸は毎日飲むので酒の匂いが離れない。学問も一度聞いただけで終えると黴が付く。聞いたことをじっくりと熟すので温めると言う。知に存養があると言うのが面白い。直方先生の二十七八の時だったか、浅見先生と中庸二十五章を二十五回会したと言う。それが前に知ることであり、これが存養になると、それを胸に温めるのである。それからまた今までに知らないことを知ることになる。そこを「知新」と言う。俗儒は増える塩梅を知らないと直方先生が言った。十両が百両になる様なもの。元の知恵を温めると知らないことも知れて来る。朱子は四書の注をなされたが、それは細工をして棚へ上げて置く様なことではない。温められたので、死なれる三日前に大学誠意の章の注を御改められた。始めに聞いたことを段々にすれば知行に利息が付いて来る。

敦厚云々。きこへやすい字なり。今迠なること。今迠なることと云は、たとへは孝行をする。もふよいは、孝行じゃと思ふと不孝になるゆへ、今迠の孝行のやが上へ々々々々とする。敦厚なり。これで徳性の薬になる。以崇礼は知惠めかぬことで、これが知惠になる。其発明あり。曽子の死ぎはに季孫が簀かと云て簀を易られたは、行のやうで知見なり。今にも知れぬ大病、どうでもよいと云に簀をかへられた。礼を崇ふしたが知見。これは氣が付ぬの、それはそれじゃのと云は知惠のないのぞ。今の學者が済ぬことををし付るが、礼を崇ふせぬのじゃ。男子は死ぬるとき婦人之手に絶ずと云ふも知見なり。そこに居るべきものでないゆへむづ痒ひやうになる。訂斎先生、八十に近ふして婦人にをくれ、藤波一位様が老衰しては女の手でなければならぬ、妾をかかへたらばよからんと進められたれば、いや、朱子も門人の手で死なれた。妾をかかへまいと云たが知見なり。これが鐙ふんばって身持よくするのなんのと云ことではないぞ。
【解説】
「敦厚以崇禮」の説明。今までして来たことをより厚くするのが「敦厚」であり、これが徳性の薬になる。「以崇礼」は知恵のこと。曾子の易簀も知見からのことである。
【通釈】
「敦厚云々」。わかり易い字である。今まででできること。今まででできることと言うのは、たとえば孝行をする。もうそれはよい、孝行は十分だと思うと不孝になるので、今までの孝行のその上へ上へとすること。これが「敦厚」である。これで徳性の薬になる。「以崇礼」は知恵めかないことだが、これが知恵になる。そのことで発明がある。曾子が死際に季孫の簀かと聞いて簀を易えられたのは、行の様で知見である。今にも知れない大病、どうでもよいと思える簀を易えられた。礼を崇くしたのが知見である。これは気が付かなかったとか、それはそれだと言うのでは知恵がない。今の学者が済まないことを押し付けるが、それは礼を崇くしないのである。男子が死ぬ時は婦人の手に絶えずと言うのも知見である。そこにいるべき者でないのでむず痒い様になる。訂斎先生が八十に近くになって婦人に先立たれ、藤波一位様が老衰しては女の手がなければならない、妾を抱えたらよいだろうと勧めると、いや、朱子も門人の手で死なれた。妾は抱えないと言ったのが知見である。これが鐙を踏ん張って身持ちをよくするの何のということではない。
【語釈】
・簀を易られた…礼記檀弓上。「曾子寢疾、病。樂正子春坐於床下。曾元・曾申坐於足。童子隅坐而執燭。童子曰、華而睆、大夫之簀與。子春曰、止。曾子聞之瞿然曰、呼。曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然。斯季孫之賜也。我未之能易也。元起易簀。曾元曰、夫子之病革矣。不可以變。幸而至於旦、請敬易之。曾子曰、爾之愛我也不如彼、君子之愛人也以德。細人之愛人也以姑息。吾何求哉。吾得正而斃焉。斯已矣。舉扶而易之、反席未安而沒」。
藤波一位

さて、非礼を非礼でないと云は知惠の甲斐ないなり。歒でもないを歒と云てはならぬ。これはかどちがいと思ふ筈。浅野浪人は歒を打そこなったものなり。知見がなければ頓と知れぬこと。晏平仲の薄ひやうなことを朱子の経傳通解に取られた。知見がなければ歒討の方角迠違う。もののきり々々をつめる処でこの様なことを引く。いかがの様なれとも啇量するに好し。十方もないことを引が揚龜山の癖で、朱子もか子々々呵りてをかれたことなれとも、道學標的では世間なみの講論では足らず、俗人の云歒を歒でないと知るが以崇礼なり。浅野殿は無学ゆへ生てをるときは埒はないが、死んでは天地一まい神霊なれば、あの家来とも、かど違へしゃと云ふ筈。熊坂でも死ぬと孔子の神と同じ。不埒で祭るとかどちかへをしたと云。敦厚以崇礼なり。
【解説】
浅野浪士は知見がない。浅野長矩は無学なので生きていた時は埒もない人だった。それを祭って吉良を敵とするのは門違いである。
【通釈】
さて、非礼を非礼でないと言うのでは知恵の甲斐がない。敵でもないのに敵と言ってはならない。これは門違いと思う筈。浅野の浪人は敵を打ち損なったのである。それは知見がなければ全くわからないこと。晏平仲の薄い様なことを朱子が経伝通解に取られた。知見がなければ敵討ちの方角までが違う。ものの至極を詰める処でこの様なことを引くのはどうしたものかと思えるが、商量するのにはよい。途方もないことを引くのが楊亀山の癖で、朱子も普段呵っておられたが、道学標的では世間並の講論では足らず、俗人の言う敵を敵でないと知るのが以崇礼である。浅野殿は無学なので生きていた時は埒もなかったが、死んでは天地一枚の神霊である。そこで、あの家来共は門違いだと言われる筈。熊坂でも死ぬと孔子の神と同じだが、不埒を祭るのを門違いをしたと言う。これが敦厚以崇礼である。
【語釈】
・晏平仲…晏嬰。斉の宰相。名は嬰、字は平仲。晏弱の子。萊の夷維の人。~前500。
・揚龜山…楊時。北宋の儒者。字は中立。1053~1135
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。奥州に赴く金売吉次を美濃国赤坂の宿に襲い、牛若丸に討たれたという伝説的人物。

知見がさへぬと爰に目がつかぬ。其鬼でないものの祭をするの謟になると云を、知見のないにをちるもここぞ。其れを祭るべき人でなく祭たとて、何鬼神かうけやふぞ。呉の季札が墓所へ劔をつるした。感通する。二汁五菜の料理をそなへては受ぬはづぞ。子孫でないからなり。これを知るは問學でなふてはならぬ。崇礼が知になるは、さても々々々なり。四十六士も問学知らぬ。浅見先生の四十六士を義と云やるは、其過也君子也で、か子て君臣の義を任じられやうがつよいゆへ、君に命にすてる者を見るとひびくはづ。それでもあれを復讐とすれば補傳の筆記もめったになる。爰に目が付ぬ。舜が瞽叟をわるいと思はぬ様なものなり。然れとも、天下を治めるとき、天下の者に瞽叟の様になれとは云ぬなれは、垩人はむせうによいにはせぬ。さて、礼は天理の節文で三千三百に合せるゆへ、無星の秤、無寸の尺はないことぞ。礼を崇ふするを知と云こと、とくと合点すべし。
【解説】
知見を高くするには門学に由らなければならない。浅見先生は君臣の義を任じられていたから、彼等の行動が心に響いて四十六士を義と言ったが、それは舜が瞽叟を悪いと思わない様なものであって、政の上では瞽叟を悪いと言わなければならないのである。
【通釈】
知見が冴えないとここに目が付かない。鬼でないものを祭ると諂いになると言い、知見がないに落ちるのもここのこと。祭るべきでない人を祭っても、何で鬼神かそれを受けるだろうか。呉の季札が墓所へ剣を吊るした。感通する。二汁五菜の料理を供えては受けない筈。それは子孫でないからである。これを知るには問学でなくてはならない。崇礼が知になるとは、大したことである。四十六士も問学を知らない。浅見先生が四十六士を義と言うのは、その過ちは君子にあり、前から君臣の義の任じられ様が強かったので、君のために命を捨てる者を見ると響く筈のこと。それでもあれを復讐とすれば補伝の筆記も台無しになる。ここに目が付かない。それは舜が瞽叟を悪いと思わない様なもの。しかしながら、天下を治める時には、天下の者に瞽叟の様になれとは言えない。聖人は何でもよいとはしない。さて、礼は天理の節文で三千三百に合わせることなので、無星の秤、無寸の尺はない。礼を崇くするのは知のことだということを、しっかりと合点しなさい。
【語釈】
・季札…呉の19代目の王寿夢には四人の子があり、末子が李札である。王は李札に位を譲ろうとしたが李札はそれを辞退したので、長男の諸樊が後を継いだ。諸樊の死後、余祭、余昧が継ぎ、李札に帝位が廻って来るが、そこで李札は姿をくらまして帝位から逃れた。ちなみに諸樊の長子が闔閭である。

尊者恭敬云々。ただ敬ふではない。大切な玉に疵を付まいと云のなり。正理は肉氣のないこと。吾と云からは此身なれば、すこしあたたまると云ことゆへすこしは氣が手傳ふかと云と、ちっとも氣が手傳はぬ。正理は天よりの拜領で刺刀の刄の様なり。これを大切にせ子ばならぬこと。これを麁末にするは關白殿に味噌をすらせる様なもの。今日の人は人欲のため徳性をつかふ。其元の知惠では當暮五両はだまされやうと云。故學之矣の矣の字はなさそうなものなれとも、これが中蕐人の文字のつかい様なり。これではっきりとなるぞ。温故は知のことで徳性を尊ぶことではあるまいと云に、習と云字が西国に居て道中記を見るは知惠なり。はて遠処へ来たと云が行なり。これが知惠の様で温めると云で存養になる。加敦と云てよい。敦厚するゆへ加と云なり。その上をなり。加礼於近貴もこの字なり。尊徳性云々。道体為学の一と云がこれにて、功夫の名をこちて付たと云が天なりなこと。道体は天の方でこそ道体なれ、人に道体はあるまいと云が、天の道体なりがこちにある。それゆへ中庸も易も天のことがじきに人のことなり。細と云がすぐに道体のなりぞ。よくみればなつな花さく垣かな。あのなつななどは花は咲まいと思ふたに、私も相応にと云。道体の細なり。
【解説】
「尊者、恭敬奉持之意。德性者、吾所受於天之正理。道、由也。温、猶燖温之温。謂故學之矣。復時習之也。敦、加厚也。尊德性、所以存心而極乎道體之大也。道問學、所以致知而盡乎道體之細也。二者脩德凝道之大端也」の説明。徳性は天から拝領の正理だが、今日の人は人欲のために徳性を使う。道体と為学は一つであり、天のことが直に人のこととなる。
【通釈】
「尊者恭敬云々」。ただ敬うのではない。大切な玉に疵を付けない様にしようとするのである。「正理」は肉気のないこと。「吾」と言うからは、この身があるから少し温まるということなので、少しは気が手伝うのかというと、一寸も気は手伝わない。正理は天からの拝領のもので、刺刀の刃の様なもの。これを大切にしなければならない。これを粗末にするのは関白殿に味噌を擂らせる様なもの。今日の人は人欲のために徳性を使う。貴方の知恵なら当暮五両は騙せるだろうと言う。「故学之矣」の矣の字はなさそうなものだが、これが中華人の文字の使い様である。これではっきりとなる。「温故」は知のことであって徳性を尊ぶことではないだろうと言うが、習という字があって、西国にいて道中記を見るのは知恵である。さて遠い処へ来たと言うのが行である。これが知恵の様で、温めることで存養になる。「加敦」と言うのがよい言い方。「敦厚」するので加と言う。その上をするのである。「加礼於近貴」もこの字のこと。「尊徳性云々」。道体と為学が一つと言うのがこのことで、功夫の名をこちらで付けたと言うのが天の通りなこと。道体は天の方でこそ道体で、人に道体はないだろうと言うが、天の道体の通りがこちらにある。それで、中庸も易も天のことが直に人のことなのである。「細」と言うのが直に道体の姿である。よく見ればなずな花さく垣かな。あのなずななどは花は咲かないだろうと思ったのに、私も相応に花を咲かすと言う。これが道体の細である。
【語釈】
・味噌をすらせる…お世辞を言う。諂う。
・加礼於近貴…

不以一毫私欲云々。爰が大切の吟味じゃ。私意と私欲を分け子ばならぬ。私意無調法、私欲は悪むべきものぞ。揚子は抜一毛而利天下不為。わる心ではない。義を見そこなふたもの。墨子兼愛す摩頂放踵利天下為之は仁を見そこなふたものなり。そこを私意と云。自蔽は小児の暗みをこはがるやうなもの。わる心はないなり。仁と義の見そこない、ををはれたものなり。一毫私意の蔽がないと高大になる。不以一毫私欲云々。上で異端で云たゆへ、私欲をばけば々々しけれとも、伯者などを云かよい。名聞の欲でも金銀の欲でも皆こめて私欲と云。清濁雖不同其利心則一也。私意は揚墨から今日の學者迠にある。私欲は斉桓晉文から今日啇人迠が此こふじたのなり。人欲をよい目にあはせやうとてさま々々な権謀をする。人欲がないと高明になる。人欲があると高明がなくなる。龍も欲で醤にもなると云。古から名ある歴々、私意と私欲とてべた々々となる。已知云々敦厚なり。今迠のことを敦篤する。そこで知惠めいたことで存養になる。これが徳性をふきさすることなり。
【解説】
「不以一毫私意自蔽、不以一毫私欲自累、涵泳乎其所已知、敦篤乎其所已能。此皆存心之屬也」の説明。私意は無調法なもので、私欲は悪むべきもの。楊子は義を見損ない、墨子は仁を見損なったが私欲はなかった。覇者から今日の商人までに私欲がある。人欲を可愛がって様々な権謀をする。人欲をなくすと高明になる。
【通釈】
「不以一毫私欲云々」。ここが大切な吟味である。私意と私欲は分けなければならない。私意は無調法なもので、私欲は悪むべきもの。楊子は「抜一毛而利天下不為」だが、悪心ではない。義を見損なったのである。「墨子兼愛摩頂放踵利天下為之」は仁を見損なったのである。そこを私意と言う。「自蔽」は小児が暗闇を恐がる様なもので、悪心はない。仁と義の見損ないで、蔽われたのである。一毫も私意の蔽がなければ高大になる。「不以一毫私欲云々」。上は異端で言ったので、私欲はけばけばしいものだから、伯者などで言うのがよい。名聞の欲でも金銀の欲でも皆込めて私欲と言う。「清濁雖不同其利心則一也」である。私意は楊墨から今日の学者までにある。私欲は斉桓晋文から今日の商人まで、これが高じたもの。人欲をよい目に遭わせようとして様々な権謀をする。人欲がないと高明になる。人欲があると高明がなくなる。龍も欲で醤にもなると言う。古から名のある歴々が私意と私欲とてべたべたになる。「已知云々敦厚」で、今までのことを敦篤する。そこで、知恵めいたことで存養になる。これが徳性を拭き摩ることなのである。
【語釈】
・抜一毛而利天下不為…孟子尽心章句上26。「孟子曰、楊子取、爲我。拔一毛而利天下、不爲也。墨子兼愛、摩頂放踵利天下、爲之」。
・清濁雖不同其利心則一也…論語顔淵20。「今之學者、大抵爲名。爲名與爲利雖清濁不同、然其利心則一也」。
・斉桓晉文…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。

析理則云々。精微を尽すの注なり。道理のわけやふがすこし違ふとををきく違ふてくるゆへ、一厘の処をつめること。處事則云々。中庸によるの注なり。これが行についたやふで知見ぞ。中庸によらぬと、その不吟味から、するほどのことがよいやうでも、皆門違ひをする。そこで過不及のないやうに問學による。郷黨篇を見よ。あのすこしのことか妙道玄理ぞ。今學者は知惠があらい。私も先年中庸はすましたと云。とかくやが上々とすると、云に云へぬ処が出てくる。世の中をわたりくらべるを存養、今そ知るは知新なり。但覚意味之深長が知新なり。節文が行の様で知惠になる。行と見ると大きく違ふ。なぜと云に、若ひときやりばなしをしてあぐらをかいたが、晩年にはかしこまると云ふが知惠の高くなりたのじゃ。そこで斯ふはあるまいことと云。田舎から江戸へ奉公に出るとぎゃうぎのよくなるやふなもの。行義は行なれとも、そふなりたは知惠の上りたのなり。知見が出ると細かあたりがでてくるものなり。某幼年のとき、人にそれたことが好きにて、しゃれ頭を元日の書き初に書たれば、迂斎のこれを見られていこう笑れた。まだ々々其様なことをするかと云へり。をとなしくなって小笠原になったと云が、それが行ではない。知惠のあかりなり。一休が元日しゃれ頭を引て御用心々と云は衆生済度なり。知惠ではない。死に及ぶとき衆生とわかれかをしいとて云たいたづらものぞ。子供成人してさりとはをとなしくなったと云が、をとなしくなったは行のやうて行に非ず、知惠と云ものぞ。
【解説】
「析理則不使有毫釐之差、處事則不使有過不及之謬、理義則日知其所未知、節文則日謹其所未謹。此皆致知之屬也」の説明。少しでも道理の分け方を違えてはならず、事を処すには過不及のない様に門学に道る。節文は知恵のことであり、成長して大人しくなるのは行ではなく、知恵が上がったのである。
【通釈】
「析理則云々」。精微を尽くすことの注である。道理の分け方が少しでも違うと大きく違って来るので、一厘の処を詰めること。「処事則云々」。中庸に由った注である。これが行のことの様で知見のこと。中庸に由らなければ、その不吟味から、すること全てがよい様でも皆門違いとなる。そこで過不及のない様に問学に道る。郷党篇を見なさい。あの少しのことか妙道玄理である。今の学者は知恵が粗い。私も先年中庸は済ましたと言う。とかくやが上にとすると、言うに言えない処が出て来る。世の中を渡り比べるのが存養、今ぞ知るは知新である。「但覚意味深長」が知新である。「節文」が行の様で知恵になる。行と見るのは大きく違う。それは何故かと言うと、若い時は遣りっ放しをして胡座をかいたが、晩年には畏まるというのが知恵の高くなったからのこと。そこでこれでは悪いだろうと言う。田舎から江戸へ奉公に出ると行儀のよくなる様なもの。行儀は行だが、そうなったのは知恵が上がったからである。知見が出ると細か当たりが出て来るもの。私が幼年の時、人に外れたことが好きで、髑髏を元日の書初めに書くと、迂斎がこれを見られて大層笑われた。まだまだその様なことをするのかと言った。大人しくなって小笠原になったと言うのが行ではない。それは知恵が上がること。一休が元日に髑髏を引いて御用心と言ったのは衆生済度であって知恵ではない。死に及ぶ時に衆生との別れが惜しいので言ったのであって、悪戯者である。子供が成人して実に大人しくなったと言うが、大人しくなったは行の様で行ではない。知恵が上がったからである。
【語釈】
・世の中をわたりくらべる…道歌。世の中を渡り比べて今ぞ知る阿波の鳴門は波風もなし
・但覚意味之深長…論語序説。「程子曰、頤自十七八讀論語、當時已曉文義。讀之愈久、但覺意味深長」。
・一休が元日しゃれ頭を引て御用心…一休は正月、杖の先に髑髏を掲げて、「門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と歌いながら市中を闊歩した。そして、男も女も、老いも若きも一皮むけば同じ骨に過ぎないと説いて、「やけば灰埋めば土となるものを何か残りて罪となるらん」と詠んだ。

又不可以不致知云々。かた々々ではない。かた々々でならぬと云はいかかなれば、直方先生の、一本の足てすむと思ふが屋根へ登られまいとなり。垩人の學を半分つつつかいたがるは本んのことを知らぬのぞ。存心でのふては致知はならぬ。又、存養は致知をするでなければ何の存養せふぞ。致知なしの存養はくらやみにだまりて寐て居るやうなもの。なんぼかれてもごずみのかれたは役に立ぬ。徳性が大で道問學が小なり。蕭何が関中を守るは大で、韓信が軍法は小なり。さて徳性と問學は二つで中は一つ。今日参らふと存じたれとも、腹にやうが出来て行れぬと云。足ならば聞へたが、腹にやうが出来たとて行れぬことはあるまいと云が、腹に云分あれば足も働かぬ。相資相応するとは云なり。詳は千両箱を見せるではない。千両箱をあけて一両づつかぞへる様なもの。これてないと滑輪呑束束になる。冝尽心焉。心を尽して、さて好學と朝聞道の処へやること。一生大切な処を読でも好學朝聞道へふりかへら子ば標的にはならぬ。
【解説】
「葢非存心無以致知、而存心者又不可以不致知。故此五句、大小相資、首尾相應。聖賢所示入德之方、莫詳於此。學者宜盡心焉」の説明。存心でなくては致知はならじ、致知でなければ存養はならない。尊徳性と道問学を尽くして好学と朝聞道に振り返るのが標的である。
【通釈】
「又不可以不致知云々」。片々ではない。片々では悪いと言うのはどうしてかと言うと、直方先生が、一本の足で済むと思っても屋根へ登ることはできないだろうと言った。聖人の学を半分ずつ使いたがるのは本当のことを知らないのである。存心でなくては致知はならない。また、致知をするのでなければどうして存養したと言えるだろうか。致知のないの存養は暗闇で黙って寝ている様なもの。どれほど枯れた方がよいと言っても、後炭の枯れたのでは役に立たない。徳性が大で道問学が小である。蕭何が関中を守るのは大で、韓信の軍法は小である。さて徳性と問学は二つで中は一つ。今日参ろうと思ったが、腹に癰ができたので行けないと言う。足に癰ができたのならわかるが、腹に癰ができても行けないことはないだろうと言っても、腹に言い分があれば足も働かない。「相資相応」すると言った。「詳」は千両箱を見せることではない。千両箱を開けて一両ずつ数える様なもの。これでないと「滑輪呑束束」になる。「宜尽心焉」。心を尽くして、さて、好学と朝聞道の処へ遣る。一生大切な処を読でも好学朝聞道へ振り返らなければ標的にはならない。
【語釈】
・滑輪呑束束…

講後話録
謂諸生曰、迂斎の靣白ひことを云れた。とかく學問が大事じゃ。氣質はあてにならぬもの。學問がないと孟子は荘子の様になる御方じゃ。孟母の教大抵なことにあらすとなり。或云、尊徳性而道問學みな一句々々に而の字のつなぎあって、敦厚以崇礼の一句の字のつなぎは如何。曰、而の字のつなぎがなくてもあるとをなじ。上と同じ例にせぬは古文のなりなり。文會筆録にこれについて云た説あり。可考。謂唐津二生曰、其元衆爰で講釈を聞て一生の益になることあるべし。迂斎二十七八のとき浅見先生へ見へ、二十五會講釈をきき、迂斎一生あれほど浅見先生の語を引き受用になりた。某なども今日浅見先生の言を咄すは、かの二十五會のなり。わつが二十五會でも、それしゃのは違ったものぞ。某も浅見先生直方先生の後に生れて其宗旨を継てをるが、残念なことには年がよりてあぢにをとなしくなり、人抦もよくなりた。徳の熟したてはなく、衰へなり。昔しは放蕩、今はかがとで巾着を切るなれば、昔しよりわるくなりたなり。
【解説】
迂斎が、学問が大事で、気質は当てにならないもの、学問がないと孟子は荘子になると言った。黙斎は、自分は歳を取って大人しくなり、人柄もよくなったが、それは徳が熟したのではなく、衰えたのだと言った。
【通釈】
諸生に言った。迂斎が面白いことを言われた。とかく学問が大事で、気質は当てにならないものである。学問がないと孟子は荘子の様になる御方だ。孟母の教えは大抵なことではないと言った。或る人が、尊徳性而道問学は皆一句一句に而の字の繋ぎがあるが、敦厚以崇礼の一句の繋ぎはどうしたのかと言った。而の字の繋ぎがなくても、それはあるのと同じである。上と例を同じにしないのは古文の形である。文会筆録にこれについての説がある。考えなさい。唐津の二生に言った。貴方衆にはここで講釈を聞いて一生の益になることがあるだろう。迂斎が二十七八の時に浅見先生に見え、二十五会講釈を聞いたので、迂斎は一生あれほどに浅見先生の語を引き受用になった。私なども今日浅見先生の言を話すのは、あの二十五会のこと。僅か二十五会でも、優れ者の言うことは違ったもの。私も浅見先生や直方先生の後に生まれてその宗旨を継いでいるが、残念なことには年が寄って変に大人しくなり、人柄もよくなった。徳が熟したのではなく、衰えである。昔は放蕩、今は踵で巾着を切るのだから、昔より悪くなったのである。
【語釈】
・孟母の教…古列女伝母儀鄒孟軻母。孟母断機の教え。

迂斎始めて浅見先生に謁するとき、三宅先生の引合せなり。浅見先生は同門のていかと思たれば殊の外違ひて、三宅先生はやっと其席へ出て弟子のていでありたとなり。浅見先生のは尚斎をじやつかと云はれて、漸く尚斎は浅見先生の側によりて咄された。其日少し議論あって、江戸より直方の手紙にて申し参たなどと云こと咄ありたれば、浅見先生の、五郎左ェ門も折節無理云てやと云れた。浅見の講席、先生出らるると門人墨をすることならず。一句々にそふ思へと云はるれば、その度に門人頭を下けたと云。京都ではなるが江戸ではなんとならぬことなり。
【解説】
迂斎が始めて浅見先生に謁した時、三宅先生は浅見先生の弟子の様だった。浅見先生の講席では、一句ごとにそう思えと先生が言うので、門人はその度に頭を下げた。その様な講義は江戸ではできないこと。
【通釈】
迂斎が初めて浅見先生に謁したのは三宅先生の引き合わせだった。浅見先生は三宅先生の同門かと思っていたが、それは殊の外違ったことで、三宅先生はやっとその席へ出て弟子の様だったそうである。浅見先生が尚斎叔父奴かと言われて、漸く尚斎は浅見先生の側に寄って行って話された。その日は少し議論があって、江戸から直方が手紙で申して参ったなどという話があって、浅見先生が、五郎左衛門も折節は無理を言うと言われた。浅見の講席では先生が出られると門人が墨をすることはできなかった。一句一句にそう思えと言われるので、その度に門人は頭を下げたと言う。それは、京都ではできるが江戸では全くできないことである。

直方先生へ或人謂ふ。京都には師弟の礼嚴なるに、何ぞ先生は左様になきや、と。先生曰、をれに弟子と云はない。ききに来る人は朋友じゃ。中にをれがををへいにするものを弟子と思へとなり。村士行藏、舎約に泛々として學ぶものは彼此に益なし、取次をするなと云が、某などその様な筋とんときらいなことなり。その様な人を教てよくするがよい。町人でも其日の講釈でそれからよくなればこれほどよいことはない。知見なければ何事もやかましきなり。文謂、互郷難與言童子見門人惑子曰與其進也不與其退とあるにて見るべし。先生曰、然り。
【解説】
直方先生は、自分に弟子はなく、聞きに来る者は朋友であると言った。村士行蔵が、舎約に泛々として学ぶ者は役に立たないから相手にしないと言ったが、その様な者をよくする方がよいことである。
【通釈】
直方先生に或る人が、京都では師弟が礼厳だが、どうして先生はその様ではないのかと尋ねた。先生は、俺に弟子はいない。聞きに来る人は朋友だ。その中で俺が大柄にするものを弟子と思えと答えた。村士行蔵が、舎約に泛々として学ぶ者はかれこれ益なし、取次ぎをするなと言ったが、私などはその様な筋は実に嫌いである。その様な人を教えてよくするのがよい。町人でもその日の講釈でそれからよくなればこれほどよいことはない。知見のことだから何事も喧しい。文二が言った。「互郷難与言童子見門人惑子曰与其進也不与其退」とあることで考えなさい、と。先生が言った。然り、と。
【語釈】
・村士行藏…村士玉水。江戸の人。名は宗章。別号は一斎。門下に寛政三博士の一人である岡田寒泉がいる。享保14年(1729)~安永5年(1776)
・文…林潜斎?初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。黙斎門下。
・互郷難與言童子見門人惑子曰與其進也不與其退…論語述而28。「互鄕難與言。童子見。門人惑。子曰、與其進也。不與其退也。唯何甚。人潔己以進、與其潔也。不保其往也」。