○孟子曰滕文公為世子云々。  庚戌臘月二十八日
【語釈】
・庚戌臘月二十八日…寛政2年庚戌(1790年)12月28日。

5
孟子曰、滕文公爲世子。將之楚、過宋而見孟子。世子、太子也。孟子道性善、言必稱堯舜。道、言也。性者、人所禀於天以生之理也。渾然至善、未嘗有惡、人與堯舜初無少異。但衆人汨於私欲而失之、堯舜則無私欲之蔽、而能充其性爾。故孟子與世子言、毎道性善、而必稱堯舜以實之。欲其知仁義不假外求、聖人可學而至、而不懈於用力也。程子曰、性即理也。天下之理、原其所自、未有不善。喜怒哀樂未發、何嘗不善。發而中節、即無往而不善。發不中節、然後爲不善。故凡言善惡、皆先善而後惡。言吉凶、皆先吉而後凶。言是非、皆先是而後非。世子自楚反、復見孟子。孟子曰、世子疑吾言乎。夫道一而已矣。時人不知性之本善、而以聖賢爲不可企及。故世子於孟子之言不能無疑、而復來求見。葢恐別有卑近易行之説也。孟子知之、故但告之如此。以明古今聖愚本同一性、前言已盡、無復有他説也。成覸謂齊景公曰、彼丈夫也、我丈夫也。吾何畏彼哉。顏淵曰、舜何人也。予何人也。有爲者亦若是。公明儀曰、文王我師也。周公豈欺我哉。成覸、人姓名。彼、謂聖賢也。有爲者亦若是、言人能有爲、則皆如舜也。公明、姓。儀、名。魯賢人也。文王我師也、葢周公之言。公明儀亦以文王爲必可師。故誦周公之言、而歎其不我欺也。孟子既告世子以道無二致、而復引此三言以明之。欲世子篤信力行、以師聖賢、不當復求他説也。
【読み】
孟子曰く、滕文公世子爲り。將に楚に之かんとし、宋を過ぎて孟子を見る。世子は、太子なり。孟子性善を道い、言えば必ず堯舜を稱す。道は、言うなり。性は、人の天に禀け以て生じる所の理なり。渾然たる至善、未だ嘗て惡有らず、人は堯舜と初めより少異無し。但、衆人は私欲に汨みて之を失し、堯舜は則ち私欲の蔽無くして、能く其の性を充たすのみ。故に孟子の世子に與えし言は、毎に性善を道いて、必ず堯舜を稱し以て之を實にす。其れ仁義は外に求むるを假りず、聖人は學んで至る可きを知りて、力を用いるに懈らざるを欲すなり。程子曰く、性は即ち理なり、と。天下の理は、其の自らの所を原るに、未だ不善有らず。喜怒哀樂の未だ發せざる、何ぞ嘗て不善ならん。發して節に中る、即ち往くとして善ならざる無し。發して節に中らずして、然りして後善ならずと爲す。故に凡そ善惡を言えば、皆善を先にして惡を後にす。吉凶を言えば、皆吉を先にして凶を後にす。是非を言えば、皆是を先にして非を後にす。世子楚より反りて、復孟子を見る。孟子曰く、世子吾が言を疑うか。夫れ道は一のみ。時の人は性の本善を知らずして、聖賢を以て企及す可からずと爲す。故に世子は孟子の言に於て疑い無きこと能わずして、復來して見るを求む。葢し恐らくは別に卑近行き易きの説有らん。孟子之を知る、故に但之を告ぐるに此の如し。以て古今聖愚本同一性、前言已に盡き、復他説有る無きを明にす。成覸、齊の景公に謂いて曰く、彼も丈夫なり、我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや、と。顏淵曰く、舜何人ぞや。予何人ぞや。爲す有る者は亦是の若し、と。公明儀曰く、文王は我が師なり。周公豈我を欺かんや、と。成覸は、人の姓名。彼は、聖賢を謂うなり。爲す有る者亦是の若しは、言いこころは人能く爲す有るは、則ち皆舜の如きなり。公明は、姓。儀は、名。魯の賢人なり。文王は我が師なりは、葢し周公の言。公明儀も亦文王を以て必ず師とす可きと爲す。故に周公の言を誦じて、其の我を欺かざるを歎ず。孟子既に世子に告ぐるに道は二致無きを以てして、復此の三言を引いて以て之を明にす。世子、篤信し力行して、以て聖賢を師とし、當に復他説を求めるべからざるを欲するなり。
【補足】
この条は、孟子滕文公章句上1である。

主一が録に曰、昨日よんだ大學中庸が垩學のぎり々々で、あの標的があれば上もない學問であるけれとも、間にはそれは余り高大なことで、我等はまいるまいと云者がある。そこを云はせぬために爰に性善のことを語る。ここで私は々々と云て退くことがならぬ。さて、性善と云が孟子一生の手抦になるぞ。然るに性善の論は道の咄しゆへ工夫になるまい様なれとも、爰が明になると學者のいきごみが違う。そして是性善を知るといかふ何事も仕易ひことで、手があるからとり、足があるから歩むと同く、なんのこともなけれど、知らぬからのこと。是を知るとのりが付てさへ々々しくつよくなる。人の性は善じゃと云は道体なれど、是が學問のそふかぶになる。そこが標的ぞ。伊川の好學論などの大きいことを云も、此性善をうしろ立にするぞ。性悪なれば、何ほど骨折ても瓦を磨て鏡にする様ぞ。性善なるからぞ。大學の明々徳、中庸の尊徳性もここをとぐことぞ。
【解説】
大学中庸は聖学の至極だが、それはあまりに高大なので自分達にはできないと言う者がいる。そこでその様に言わせないために孟子の性善を出した。性善が学問の大本であり、大学の明明徳や中庸の尊徳性も性善を磨ぐことなのである。
【通釈】
主一の録に言う。昨日読んだ大学中庸が聖学の至極で、あの標的があればこの上ない学問となるが、中には、それはあまりに高大なことで、自分達にはできないことだろうと言う者がいる。その様に言わせないためにここに性善のことを語る。ここで、私はできないと言って退くことができなくなる。さて、性善と言うのが孟子一生の手柄である。そこで、性善の論は道の話なので工夫にはならない様だが、ここが明になると学者の意気込みが違って来る。そしてこの性善を知ると何事も大層仕易くなり、手があるから取り、足があるから歩むのと同じく何事もないことになるが、それができないのは性善を知らないからである。これを知ると乗りが付いて冴え冴えしく強くなる。人の性は善だと言うのは道体のことだが、これが学問の大本になる。そこが標的である。伊川が好学論などで大きいことを言うのも、この性善を後ろ楯にしているのである。性悪であれば、何ほど骨を折っても、それは瓦を磨いて鏡にする様なもの。性善だからできるのである。大学の明明徳、中庸の尊徳性もここを磨ぐこと。
【語釈】
・主一…大谷主一。唐津藩士。
・好學論…近思録為学3を指す。

○大中も孟子もとこへ持て行ても合ふがそれぞ。尭舜は圣人、性善の繪姿は尭舜。尭舜の様でないは出来そこないじゃ。そこでばかを尽す。それほど皆尭舜のやふなれば、なぜその様な人がすくないと云に、ここに直方先生の説あり。一疋の猫が鼠をとる様なもの。一疋の猫が鼠をとれば、あとは皆とるなり。尭舜を出して性善があれじゃとさへ云へば、あの通りな筈。あの外な人は皆からくりの違ったのなり。違ふた上はいかふかはりたやふなれとも、なをすとあの通りになる。称尭舜と云ふ云ひやうが面白ひことなり。以下文七録。
【解説】
「孟子道性善、言必稱堯舜」の説明。性善の絵姿が堯舜であり、堯舜の様でないのは出来損ないである。しかし、出来損なってもそれは直せるものなのである。
【通釈】
○大中でも孟子でも、何処へそれを持って行っても合うのは性善だからである。堯舜は聖人で、性善の絵姿は堯舜である。堯舜の様でないのは出来損ないである。そこで馬鹿を尽くす。それほどに皆が堯舜の様であるのなら、何故その様な人が少ないのかと言うが、ここに直方先生の説がある。一匹の猫が鼠を獲る様なもの。一匹の猫が鼠を獲れば、後の鼠は皆獲る。堯舜を出して性善があれだとさえ言えば、あの通りになる筈。あの外の人は皆絡繰が違ったのである。違った上では大層変わった様だが、直すとあの通りになる。「称堯舜」と言う言い方が面白い。以下は文七が録す。
【語釈】
・文七…高宮文七。東金市押堀の人。筆記力に優れる。

根がすむと、どこもをもぶりは違うても三綱領の注と一つぞ。三綱領の注にはない字なれとも、とどあれと一つにをつることを合点すべし。人の天に受て生るるは理のなりなり。天から拜領したものは理計りでなく、あついの寒ひのと云ことあるゆへ理ばかりではない。氣もしゃんとある。渾然はたき立の飯のやうなもの。すへた飯をたいてくれろと云と、君命でもこまる。若しすへた飯が御所望ならば明日迠またれよ、明日はすへんと云。それゆへに、子でも成長すれば勘當と云ことあるが、胎内にあるうち、みとどけられぬとは云はぬ。まっすぐになれば尭舜ができやふも知れぬ。間違ふと熊坂も出来る。未嘗有悪。天にえこひいきはない。梅の花を咲すると同じ。歴々の庭も乞食の庭も同じこと。尭舜へも性善、凡夫へも性善なり。そう云れて、どうも性善らしくないと云。性善らしくないはづ。泥まみれなり。沼の中へ落た人を真黒な人と云ては違ふ。どろでこそまっくろ、洗へば泥はない。ありたけの人に性善をやる。折角傘を借してもぬれます々々々々と云。そのはつ。傘を開かずにすほめて居るゆへなり。尭舜は傘を開かれた。凡夫に性善はあるが傘を棒のやうにして負てをるぞ。充々と云がそのことぞ。同じ月なれとも、三ヶ月と十五夜の月がたをつくことはならぬ。三ヶ月は月のあると云ばかりで明るくも何んともない。十五夜は充たのなり。凡夫と尭舜の様なもの。性善は同ことなれとも、凡夫は性を充ぬ。
【解説】
「渾然至善、未嘗有惡、人與堯舜初無少異。但衆人汨於私欲而失之、堯舜則無私欲之蔽、而能充其性爾」の説明。人は理の通りに生まれるが、人には気もしっかりとあって、真っ直ぐになれば堯舜ができるかも知れず、間違うと熊坂もできる。天に依怙贔屓はなく、堯舜へも凡夫へも同じく性善を与えるが、人が堯舜と違うのは、人が性を充たさないからである。
【通釈】
根が済むと、面振りは違っても何処も三綱領の注と一つになる。性善は三綱領の注にはない字だが、結局はあれと一つに落ちると合点しなさい。人が天に受けて生まれるのは理の通りである。しかし、天から拝領したものは理ばかりではない。暑い寒いということがあるので理ばかりではなく、気もしっかりとある。「渾然」は炊き立ての飯の様なもの。饐えた飯を炊いてくれと言うのは君命でも困る。もしも饐えた飯が御所望ならば明日まで待ちなさい、明日には饐えるだろうと言う。それで、子でも成長すれば勘当ということがあるが、胎内にいる内に、見届けられないとは言わない。真っ直ぐになれば堯舜ができるかも知れない。間違うと熊坂もできる。「未嘗有悪」。天に依怙贔屓はない。梅の花を咲かせるのと同じ。それは歴々の庭でも乞食の庭でも同じこと。堯舜へも性善、凡夫へも性善である。そう言われても、どうも性善らしくないと言う。性善らしくない筈である。泥塗れだからである。沼の中へ落ちた人を真っ黒な人と言うのは違う。泥でこそ真っ黒だが、洗えば泥はない。全ての人に性善を遣る。折角傘を借しても濡れますと言う。その筈で、傘を開かずに窄めているからである。堯舜は傘を開かれた。凡夫にも性善はあるが、傘を棒の様にして背負っているのである。「充々」というのがそのこと。同じ月でも、三日月と十五夜の月がたをつくことはならない。三日月は月があるというばかりで明るくも何ともない。十五夜は充ちたのでる。それは凡夫と堯舜の様なもの。性善は同じだが、凡夫は性を充たさない。
【語釈】
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。奥州に赴く金売吉次を美濃国赤坂の宿に襲い、牛若丸に討たれたという伝説的人物。

必稱尭舜以實之。實の字がいかさま尭舜と云ものができた、をすにをされぬと云こと。性善は理、尭舜は人なり。から理屈と思うな。あの尭舜で見へる。古者婦人妊子は理なり。及其娠文王が實にするなり。不懈於用力。そこでこの性善を標的にするが、さて々々工面のよい標的と合点するがよい。この前の三綱領二十七章目で学問の規摸を出して、こふするものじゃと云。あれもわるふするとたかふゆへ、此性善を標的にする。性善は手短で親切。性善はあり金なり。これでどこへでも行かれぬことはない。その達者な足を持ちながら、何ぞ分のものたつ子て行くことあらんや。あいた口で食ふやうなもの。持合せた性善、そこへ尭舜を出すが、ああ工面のよくなったと云ほどでなければならぬ。非人乞食底になりたと思うたればそうでない。手水を使ふて出ると皆尭舜にはり合ふものが。これ迠は及びもないことで、雲泥の如く違ふと思ふたに、頓とそふではない。それで初てよろこばしくなることぞ。
【解説】
「故孟子與世子言、毎道性善、而必稱堯舜以實之。欲其知仁義不假外求、聖人可學而至、而不懈於用力也」の説明。堯舜によって性善が見える。自分の持ち合わせた性善を標的にするのである。
【通釈】
「必称堯舜以実之」。「実」の字が、いかにも堯舜という者ができたが、それは押すに押されぬことだということ。性善は理で、堯舜は人である。これを空理屈だと思うな。あの堯舜で見える。「古者婦人妊子」は理の通りで、「及其娠文王」がそれを実にすること。「不懈於用力」。そこでこの性善を標的にするのであって、それは実に工面のよい標的だと合点しなさい。この前の三綱領と二十七章目で学問の規模を出して、こうするものだと言う。あれも悪くすると違うので、この性善を標的にする。性善は手短かで親切。性善は有り金である。これで何処でも行けないことはない。その達者な足を持ちながら、何か外のものを尋ねて行く必要があるだろうか。それは開いた口で食う様なもの。持ち合わせた性善、そこへ堯舜を出すのが、ああ工面がよくなったと言うほどでなければならない。非人や乞食の様になったと思えばそうでない。手水を使って出ると皆堯舜に張り合うものがある。これまでは及びもないことで、雲泥の様に違ったものだと思っていたが、全くそうではない。それで初めて喜ばしくなる。
【語釈】
・古者婦人妊子…小学立教。「列女傳曰、古者婦人妊子寢不側坐不邊立不蹕不食邪味割不正不食席不正不坐目不視邪色耳不聽淫聲、夜則令瞽誦詩道正事。如此則生子形容端正才過人矣」。
・及其娠文王…小学内篇稽古。「太任文王之母、摯任氏之中女也。王季娶以爲妃。太任之性端一誠莊惟德之行。及其娠文王目不視惡色耳不聽淫聲口不出敖言。生文王而明聖太任敎之以一而識百。卒爲周宗君子謂太任爲能胎敎」。

程子曰云々。此語、文義のとり様に大切あり。理を引抜て云ことぞ。理を引秡て云ことなれとも、だたい性は理計りでないゆへ、性即理也が面白ひことになる。天道と云ことや太極と云ときは理にまぎれはない。即の字は入ぬ。性は物の上に備りて居るゆへ、人間と云からだをとっつかまへて氣も手傳へとも、性即理也と云。人は氣と云にのがれられぬもので氣の中のもので有れとも、氣にとんじゃくはない。理計り引抜て、そこで性即理也と引抜くもの。氣計りなれば引抜に及ず。此語はをりの上に饅頭と書き、袋に茶をつめて茶と書く様なもの。袋は紙なれとも、紙に入用はない。茶が入用なり。をりに入用はない。中の饅頭が入用。性即理也は中をあけて見せたものなり。性ばかりでは立れず、氣も支て両方で立つが、その氣にはとんとかまはぬ。
【解説】
「程子曰、性即理也」の説明。性は理だけではなくて気の性もあるが、「性即理也」は理だけで言ったこと。気には構わないのである。
【通釈】
「程子曰云々」。この語は文義の取り様が大切である。理を引き抜いて言う。理を引き抜いて言うことなのだが、そもそも性は理ばかりでないので、「性即理也」が面白いことになる。天道や太極と言う時は理に紛れはないから即の字は要らない。性は物の上に備わっているので、人間という体をとっ掴まえて気も手伝うが、ここは性即理也と言う。人は気から逃れられないもので気の中のものだが、気に頓着はしない。理ばかりを引き抜く。そこで性即理也と引き抜いた。気ばかりであれば引き抜くには及ばない。この語は折りの上に饅頭と書き、袋に茶を詰めて茶と書く様なもの。袋は紙だが、紙に入用はない。茶が入用なのである。折りに入用はない。中の饅頭が入用である。性即理也は中を開けて見せたもの。性ばかりでは立たれず、気も支えて両方で立つのだが、ここはその気に全く構わない。

何でも荀子が性悪、揚子が善悪混ず。皆氣にさへられたもの。あの説は皆氣を見て云たものぞ。大事の性善をみなにしたなり。手形を御目にかけ、判をぬいた様なもの。程子の性即理也は孟子の性善と云判の上にもふ一つ判を押たやふなものなり。氣のことは打やれ。性は理也。理にわるいことはとんとない。わるいと云は皆氣のことなり。氣はまいかたから云はれぬものぞ。理は兼てのこと。そこをつかまへて性即理也と云。孝行は理、不孝は氣也。孝行の外にあるものそ。盗人密夫は理が備てをるゆへかくす。性悪なれば盗御見舞申すと云てくるが、性善ゆへ夜るくるなり。氣はむら々々と曇りた様なもの。性善は理の処。固より空に有明の月なり。氣沙汰はない。迂斎の面白ひこと云はれた。大名が乘り物にのりてくる。陸尺迠旦那の様に馳走し、馬を書院へ通すには及ぬと云へり。所謂旦那は理なり。そこをさして性善と云。
【解説】
理に悪いことは全くなく、悪くなるのは皆気からである。理は初めから備わったものであり、性善は気の沙汰はない。そこで性即理也と言う。
【通釈】
何でも荀子が性悪と言い、揚子が善悪混すと言うが、皆気に障えられたのである。あの説は皆気を見て言ったもので、大事な性善を台無しにしたのである。それは、手形を御目に掛けて判を抜いた様なもの。程子の性即理也は孟子の性善という判の上にもう一つ判を押した様なもの。気のことは打ち遣る。性即理也。理に悪いことは全くない。悪いというのは皆気のことである。気は初めから言うものではないが、理は前々からあるもの。そこを掴まえて性即理也と言う。孝行は理だが、不孝は気であって、孝行の外にあるもの。盗人や密夫は理が備わっているので隠す。性悪であれば盗御見舞申すと言って来るが、性善なので夜に来る。気はむらむらと曇った様なもの。性善は理の処。固より空に有明の月である。気沙汰はない。迂斎が面白いことを言われた。大名が乗り物に乗って来ても、陸尺までを旦那の様に馳走し、馬を書院へ通すには及ばないと言った。所謂旦那は理である。そこを指して性善と言う。
【語釈】
・荀子が性悪…荀子性悪篇。「人之性惡、其善者偽也」。
・揚子が善悪混ず…揚雄法言義疏5。「人之性也、善惡混。脩其善則爲善人、脩其惡則爲惡人。氣也者、所以適善惡之馬也與」。
・陸尺…力仕事や雑役に従う人夫。かごかき人足や掃除夫・賄方などにいう。

天下之理云々。ここは手抦に読むべし。細かな吟味に非す。明道先生の性論は細かに吟味するほど味あり、伊川先生の爰に載られた説は粗く云程よいと合点せよ。中庸首章て云れた説なれとも、筋を粗く云れたこと。喜怒哀楽も発らず、音も沙汰もないときは頓と不善はない。発不中節と云段になると然後為不善。然後がらいのあることなり。爰が飯のすへた処。わるいと云にはらいがなけれはならぬ。肴のわるいも二三日過て然後ぞ。なせこの肴はわるいと云に、昨日の南風に逢ふたなり。人のわるくなると云ふも氣質人欲と云南風に逢ふてからじゃ。朱に交れば赤くなるもこちにわるくなるものがそろ々々ある。今川たに、人は善悪の友によると云たが、それもこちがそれになるものあるぞ。三処結のときは見事で、花のさいたやふなり。それが成人すると、なに親父がと云。勘當されるものをこちでこしらへてもって居るぞ。初手からはない。ここを粗く讀むを、語立てを知たと思ふべし。
【解説】
「天下之理、原其所自、未有不善。喜怒哀樂未發、何嘗不善。發而中節、即無往而不善。發不中節、然後爲不善」の説明。喜怒哀楽も発らず、音沙汰もない時に不善はない。「発不中節」になったその後に「為不善」である。最初は善だけで、悪くなるには間があるのである。自分から、気によって悪くなる様に拵えるのである
【通釈】
「天下之理云々」。ここは手柄だと見て読みなさい。ここは細かな吟味ではない。明道先生の性論は細かに吟味するほど味があり、伊川先生のここに載せられた説は粗く言う程よいと合点しなさい。これは中庸首章で言われた説だが、その筋を粗く言われたこと。喜怒哀楽も発らず、音沙汰もない時は頓と不善はない。「発不中節」という段になると「然後為不善」である。「然後」が間のあること。ここが飯の饐えた処。悪くなるには間がなければならない。肴が悪くなるのも二三日過ぎて然る後である。何故この肴は悪いのかと言うと、昨日の南風に逢ったからである。人が悪くなるのも気質人欲という南風に逢ってからのこと。朱に交われば赤くなるのもこちらに悪くなるものがそろそろとあるからである。今川状だったか、人は善悪の友に由るとあったが、それもこちらにそれになるものがあるからである。三処結いの時は見事で花の咲いた様だが、それが成人すると、何、親父がと言う。勘当されるものをこちらで拵えて持っている。初手にはない。ここを粗く読むのを、語立てを知ったと思いなさい。
【語釈】
・性論…近思録道体21を指す。

程子の、初めは善じゃと云ことを人の言ばの上て合点せよと云れたこと。善悪とは云はふが、悪善とは云まい。それでよしか、それでかたをつけやれと云こと。ここて首をかたむけるは語脉を知らざるなり。垩賢の語は細で意を得ることあり、粗くして意を得ることあり。ここは粗ひほどよし。ざっと云はれたことなり。たはけな學者が、はてそうあっても陽隂とは申さぬ、隂陽と申すと云。その様なことを云としっ々々と云こと。粗く喩されたことなり。よいことは皆さきじゃはと云。直方先生の、うつらぬ人と咄すは疝氣の毒と云ふが、此様な処を不審云もののことなり。すべて語脉を合点すると語はさへて出るものぞ。
【解説】
「故凡言善惡、皆先善而後惡。言吉凶、皆先吉而後凶。言是非、皆先是而後非」の説明。ここは程子が、よいことは皆先だと粗く言ったこと。善が先で悪は後なのである。
【通釈】
ここは、程子が初めは善だということを人の言葉の上で合点しなさいと言われたこと。善悪とは言うが、悪善とは言わないだろう。それでよしとして、それで片を付けろということ。ここで首を傾けるのは語脈を知らないのである。聖賢の語は細かで意を得ることもあり、粗くして意を得ることもある。ここは粗いほどよい。雑に言われたこと。戯けな学者が、しかしそうではあっても陽陰とは申さない、陰陽と申すと言う。その様なことを言う者はしっしっと追い払うのである。ここは粗く諭されたこと。よいことは皆先だと言ったのである。直方先生が、わからない人と話すのは疝気の毒だと言ったのが、この様な処で不審を言う者に対してのこと。全て語脈を合点すると語は冴えて出るもの。

さて、此語何れが標的になると云に性善なり。性善を標的にして何にするぞと云に、これでめりこまぬ。性善は明徳なり。明徳は明になるまいと云に、なぜ明にならぬと云ぞ。政宗の刀を以てきられまいと云様なもの。鰹節小刀なればきられぬも尤なれとも、政宗の刀を以て切られぬことはない。性善を以て何んでもならぬことはない。よく性善と見立たなどと云ことではない。夜るが夜中でも性善で通行なることぞ。性善と云手形あれば何れの関所でも通られぬ関所はない。俗學はしやうぶ刀を持たやふなもの。性は善と名を付たに非ず。これで尭舜へも飛ばるることなり。禽獣などがあさましい底ものぞ。あれはさすが禽獣とも思ふが、人間があの様ではならぬ。あれに似た姿をすれば、性善を知たに非ず。犬は肴の頭を投るとかみ合ふ。人間はまづそれへあがれと云。これがまあ性善。されとも凡夫は人欲が立派に見へるぞ。性善と札の付たばかりでは頓と性善らしいことはないなり。そこで性善を知らせることなり。
【解説】
性善は、性を善と名付けただけのことではなく、標的にするものである。性善を標的にすれば何処へでも通じる。
【通釈】
さて、この語は何が標的になるのかと言うと、性善である。性善を標的にしてどうなるのかと言えば、これでめり込まないのである。性善は明徳である。明徳が明にならないと言われれば、何故明にならないのかと言う。それは、政宗の刀を持っていて切れないだろうと言う様なもの。鰹節に小刀であれば切れないのも尤もだが、政宗の刀を持っていて切れないことはない。性善を持っていれば何でもできないことはない。ここは、よく性善と見立てたなどということではない。夜中でも性善で通行することができる。性善という手形があれば何処の関所でも通られない関所はない。俗学は菖蒲刀を持った様なもの。性は善と名を付けたことではない。これで堯舜へも飛ぶことができるのである。禽獣などは浅ましいもの。あれは流石に禽獣とも思うが、人間があの様ではならない。あれに似た姿をすれば、性善を知ったことにはならない。犬は肴の頭を投げると噛み合う。人間は先ずそれを召し上がれと言う。これがまあ性善。しかしながら、凡夫は人欲が立派に見える。性善と札が付いただけでは全く性善らしいことはない。そこで性善を知らせるのである。
【語釈】
・しやうぶ刀…菖蒲刀。五月五日の端午に菖蒲の葉を束ねて作った刀。男児が腰にさした。

世子自楚反云々。今人朱子や程子の世話でわけの済むやふにしてをかるれとも、それでもまだ済ぬぞ。その時の文公が疑はれた。ここが面白ひこと。人が二度聞きに来たとてしからふ筈はない。世子の二度来たにはわけがある。性善と聞て何のことぞとわけが済ぬと云ではあるまいが、臍落がせぬ。性善と聞ても手前の役に立ぬやうに思れた。文公とゆきたけがあわぬ。何ぞやすいことがあろふかと来たもの。孟子が、先日のことを御不審と思召さるるか、道に二つはない。尭舜を手本にするより外に仕方はないとなり。垩賢の相談はするどいにこまる。借金をよこに子る相談はあるまいかと云。借金は返せ、儉約をしろと云。そこでどうもならぬ。ずいぶんよからふがならぬと云。あの玉のやうな孔子にあの才発してきれのよい孟子で世の中の人にきらはるるは道一而已、これをまけてかからぬゆへなり。先生笑て曰、文公も手嶋が有ふかと思はれたものぞ。処が孟子の教は氣質変化せ子ばならぬと云。手嶋家の政のやふなことはとんとない。
【解説】
「世子自楚反、復見孟子。孟子曰、世子疑吾言乎。夫道一而已矣」の説明。文公は性善の他に簡単なことはないだろうがと孟子に尋ねた。孟子は「道一而已」で、これ以外はないと答えた。孟子の教えは気質変化をしなければならないということなのである。
【通釈】
「世子自楚反云々」。今の人は朱子や程子の世話でわけが済む様にして置かれてあっても、それでもまだ済まない。その時の文公が疑われた。ここが面白い。人が二度聞きに来たとしても訶る筈はない。世子が二度来たのにはわけがある。性善と聞いて何のことか、そのわけが済まないというのではないだろうが、臍落ちがしない。性善と聞いても自分には役に立たない様に思われた。文公とは裄丈が合わない。何か外に簡単なことがないだろうかと思って来たのである。孟子が、先日のことを御不審と思し召されるのか、道に二つはなく、堯舜を手本にするより外に仕方はないと言った。聖賢の相談は鋭いので困る。借金を返さなくてよい相談はないだろうがと聞いても、借金は返せ、倹約をしろと言う。そこで、どうにもならない。そうすれば随分とよいだろうが、それはならないと言う。あの玉の様な孔子とあの才発して切れのよい孟子が世の中の人に嫌われるのは「道一而已」で、これを負けて掛からないからである。先生が笑って言った。文公も手島堵庵の様なことがないだろうかと思われたのである。ところが孟子の教えは気質変化をしなければならないというもの。手島家の政の様なことは全くない。
【語釈】
・よこに子る…横に寝る。借財を返さない。借りたものも返さずに居直る。
・手嶋…手島堵庵。江戸中期の心学者。名は信。通称、近江屋嘉左衛門。京都の商人。石田梅岩に学び、心学の普及に努め、広く市民教育に尽力。1718~1786

時人と書れたはよい手づまなり。方々の人のわるいを見て、あれが人間のありさまじゃと思う。左傳などて見るは知るることぞ。そこて圣賢を見ると天人や仙人の様に思ひ、あれあの様なものがあると云。垩人と云ものもあるものかと云くらいなこと。とんと分のものと思てをるなり。その筈よ。性善と云ことを知らぬゆへなり。圣賢は分のものを持て居らるるで有ふ、なに程子思子がああ云はれても疑ふなり。蓋恐別有云々。性善と云ことも尭舜と云ことも云たが、有卑近易行之説也。卑近易行は行儀をよくせよと云様なもの。卑近易行がむりなことではない。至極尤なことなり。処へ持てゆきて、人間はあの尭舜のやうでなくてはならぬと云。さて、迂斎の言に、流行と云ことに至極したことはないもの。流行たがる了簡では浅間しいこと。はやると云は俗な了簡なり。流行が垩賢なれば、孔子孟子が流行る筈。
【解説】
「時人不知性之本善、而以聖賢爲不可企及。故世子於孟子之言不能無疑、而復來求見。葢恐別有卑近易行之説也。孟子知之、故但告之如此」の説明。人は性善を知らないので、聖人を全く別なものだと思っている。性善や堯舜を出しても、もっと「卑近易行之説」があると思っている。
【通釈】
「時人」と書かれたのはよい手際である。方々の人の悪いのを見て、あれが人間の有様だと思う。左伝などで見ればそれは知れること。そこで聖賢を見ると天人や仙人の様に思い、あれ、あの様な者がいると言うが、それは聖人という者もあるものかと言う位なこと。全く別なものと思っているのである。その筈で、性善ということを知らないからである。聖賢は別なものを持っておられるのだろうと、どれほど子思子があの様に言われても疑う。「蓋恐別有云々」。性善ということも堯舜ということも言ったが、「有卑近易行之説也」である。卑近易行は行儀をよくしなさいと言う様なもの。卑近易行は無理なことではなく、至極尤もなこと。そこへ持って来て、人間はあの堯舜の様でなくてはならないと言う。さて、迂斎の言に、流行るということに至極なことはないものとある。流行りたがる了簡では浅ましい。流行るというのは俗な了簡である。流行るのが聖賢であれば、孔子孟子が流行る筈である。
【語釈】
・手づま…手爪。手妻。手先。また、手先の仕事やわざ。

孔子の我東西南北之人と云はれた。孔子の方に卑近易行はない。仁と云看板を出して仁になれ々々々々と云。孟子は定て講釈も上手、勇弁動人。それて世の中に合ぬは卑近易行を云れぬゆへなり。御題目が大切でござると云は老女などのかしこまること。此様なものへ明德を明にすると云ては知れぬ。學問の流行は重疂なれとも、それをうれしがるは俗情なり。流行をうれしがるは、はや卑近易行をする。性善を標的にする志がない。ちっと計なことを聞てをろふと云氣なり。奉公人を大事につかわれよの、今迠のやうに近習番を呵らるるなと云。その様なこさいなことには孟子はかまはぬ。性善からでなければならぬと云。その性善は尭舜じゃ。あの通りでなふては人間の本分でないと云。そこて文公がいかいこまりなり。もちとまけることはないかと云に、まけることはない。木で鼻をこくりたやふに、とんと外にはないと云。
【解説】
孔子も孟子も卑近易行を言わなかった。卑近易行をする者には性善を標的にする志はない。小さなことには構わず、性善からするのである。
【通釈】
孔子は、自分は東西南北の人だと言われた。孔子の方に卑近易行はない。仁という看板を出して仁になれと言う。孟子は確かに講釈も上手で勇弁で人を動かす人。それでも世の中に合わないのは卑近易行を言われなかったからである。御題目が大切ですと言うのは老女などが畏まるためのこと。この様な者に明徳を明にすると言ってもわからない。学問が流行るのは重畳だが、それを嬉しがる俗情である。流行るのを嬉しがるのは、早くも卑近易行をすること。それでは性善を標的にする志はない。一寸ばかりのことを聞いていようという気である。奉公人を大事に使いなさいとか、今までの様に近習番を呵られるなと言う。その様な小才なことには孟子は構わない。性善からでなければならないと言う。その性善は堯舜である。あの通りでなくては人間の本分でないと言う。そこで文公が大層困った。もう少し負けることはできないかと聞いても、負けることはない。木で鼻を括った様に、全くこの外はないと言った。
【語釈】
・我東西南北之人…孔子家語曲礼子夏問43。「孔子曰、今丘也、東西南北之人、不可以弗識也。吾見封之若堂者矣、又見若坊者矣、又見履夏屋者矣、又見若斧形者矣。吾從斧者焉」。

古今賢愚云々。爰の注のしやうがさて々々なり。ただ鼻をこくりては無礼を云たのなり。ただ氣隨ではない。まけてやりたいがまけられぬ。越後屋へ行て見るに張紙に金壹両銀六十匁とある。壹両には銀が何程するとたび々々聞と、あの書付の通りと云。二十匁三十匁持ち行て壹両とる相談はならぬ。垩学は性善へ帰すること。そこでまけてくれよと云と、わきをきけと云。道は一而已が尤なこと。一而已を朱子と云用人が出られて取なし、盖古今云々。成程そふでござると云。文公は俗人、尭舜は垩人なり。あの尭舜の仁義礼智も御前の仁義礼智もかけめに不足はないと云。何のことはない。十五夜にあるくやふなもの。大名が通るゆへあかるくしやうと云ことはない。誰にも皆同しものをあてがふてやるが、此方がいばらからたちの中にいる。えんのしたをくぐるゆへ暗ひ。性善と云ことがすむと、いかさまはや尭舜はこれでござると云。これがぎり々々の藥なり。これがいやならわきへ見せろと云なり。孟子療治御断なり。
【解説】
「以明古今聖愚本同一性、前言已盡、無復有他説也」の説明。聖学は性善へ帰すことであり、その他の相談はできない。文公は俗人で堯舜は聖人だが、仁義礼智の重さに違いはない。それでも性善ができないと言うのは、自分が暗んでいるからである。
【通釈】
「古今賢愚云々」。ここの注の仕様が実によい。ただ鼻を括っては無礼を言ったことになる。ただ気随に言ったのではない。負けて遣りたいが負けられない。越後屋へ行って見ると張り紙に金一両銀六十匁とある。一両には銀がどれほど要ると度々聞くと、あの書き付けの通りだと言う。二十匁や三十匁を持って行って一両に替える相談はできない。聖学は性善へ帰すこと。そこで負けてくれと言えば、他へ行けと言われる。「道一而已」が尤もなこと。一而已を朱子という用人が出られて取り成し、「蓋古今云々」。なるほどそうだと言う。文公は俗人で堯舜は聖人である。あの堯舜の仁義礼智も御前の仁義礼智も掛け目に不足はないと言う。何の事はない。それは十五夜に歩く様なもの。大名が通るので明るくしようということはない。誰にも皆同じものを宛がって遣るのだが、こちらが棘枳殻の中にいる。縁の下を潜るので暗い。性善ということが済むと、いかにも堯舜はこれでござると言う。これがぎりぎりの薬である。これが嫌なら他へ見せろと言う。孟子が療治を御断りする。

成覸謂斉景公曰云々。垩賢の御心は人を教るにどこからどこ迠もゆきとどいたと云がこれなり。道一而已と木て鼻をこくりたやうに云て、あとでこのことを云はれた。樊遲請学稼、そのあとで小人哉樊須也と云も、宰我欲短喪、そのあとて予也不仁也。これで人のためになる。孟子も其通りのこと。もそっと云てきかせやふがある。性善を云、道一而已と聞せ、其の上に勇のことを物語る。きつい御親切と云ものなり。勇氣がなければならぬ。直方先生幼年のとき、大職冠の人形が玉をとり返す則劇[あやつり]を見られて学の道を喩られたと云ふ。あのひらりと玉を取返すが勇なり。越王が會稽の耻を雪んとして薪に伏し膽を嘗めて思を凝らすは勇ぞ。上に道体と尭舜のことを云、爰に勇のことを云。性善と尭舜を我が役に立るには弘毅でなければならぬ。尭舜の通りと云は大抵な了簡ではならぬぞ。
【解説】
「成覸謂齊景公曰、彼丈夫也、我丈夫也。吾何畏彼哉」の説明。「道一而已」と言った後で勇気のことを言う。これが親切なこと。堯舜の通りには、大抵な了簡ではなれない。
【通釈】
「成覸謂斉景公曰云々」。聖賢の御心は、人を教えるために何処から何処までも行き届いていると言うのがこれ。「道一而已」と木て鼻を括った様に言って、後でこのことを言われた。「樊遅請学稼」、その後で「小人哉樊須也」と言ったのも、「宰我欲短喪」、その後て「予之不仁也」と言ったのも、これで人のためになるからである。孟子もその通りである。もう少し言って聞かせる仕方がある。性善を言い、道一而已と聞かせ、その上に勇のことを物語る。これがきつい御親切というもの。勇気がなければならない。直方先生が幼年のとき、大職冠の人形が玉を取り返す操り劇を見られて学の道を覚られたと言う。あのひらりと玉を取り返すのが勇である。越王が会稽の恥を雪ごうとして薪に伏し胆を嘗めて思いを凝らしたのは勇である。上に道体と堯舜のことを言い、ここに勇のことを言う。性善と堯舜を自分の役に立てるには弘毅でなければならない。堯舜の通りには、大抵な了簡ではなれないこと。
【語釈】
・樊遲請学稼…論語子路4。「樊遲請學稼。子曰、吾不如老農。請學爲圃、曰、吾不如老圃。樊遲出。子曰、小人哉、樊須也。上好禮、則民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情。夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣。焉用稼」。
・宰我欲短喪…論語陽貨21。「宰我問、三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壞。三年不爲樂、樂必崩。舊穀既沒、新穀既升、鑽燧改火、期可已矣。子曰、食夫稻、衣夫錦、於女安乎。曰、安。女安、則爲之。夫君子之居喪、食旨不甘、聞樂不樂、居處不安。故不爲也。今女安、則爲之。宰我出。子曰、予之不仁也。子生三年、然後免於父母之懷。夫三年之喪、天下之通喪也。予也、有三年之愛於其父母乎」。
・大職冠…浄瑠璃の一。近松門左衛門作の時代物。1711年(正徳一)初演。能の「海士」や幸若舞の「大織冠」などをもとに、蘇我入鹿と藤原鎌足のことを脚色。

成覸顔淵公明儀三人の咄をして、如此勇氣でなければとげられないとなり。爰に三つある語何れも勇氣のことなり。そこへふみきって出るときの口上じゃ。勇氣がないと陳不占が覚悟を定て出た様なもの。出は出てもらちはない。勇氣あれば親の歒を討つ計りではない。曽我兄弟は若けれとも、あゆみの板迠切りつけた。勇がないと炬燵から出るも太義になる。さむい々々々と思うと火燵からも出られぬぞ。勇氣のつっはる処から数万の歒中へも欠入る。勇がないと手を引てくれよと云になる。彼は相手を出して云ことなり。あちも男なればこちも男と向みすにかかること。人が禁酒したひ。我計り禁酒のならぬことはないと云て酒を止める。これを一世一代の歒を討やふに思ことに非ず。二六時中此様なことなり。尭舜をさへ手本にすること。況やすこしのくせや欲のやめられぬ皆式、勇のないのなり。
【解説】
成覸顔淵公明儀の様な勇気でなければ遂げられない。彼等も丈夫なら私も丈夫だと言って出るのである。一寸の癖や欲も止められない様では勇がない。
【通釈】
成覸顔淵公明儀。この三人の話をして、この様な勇気でなければ遂げられないと言う。ここに三つある語は何れも勇気のことで、そこへ踏み切って出る時の口上である。勇気がないと陳不占が覚悟を決めて出た様なもの。出るには出ても埒はない。勇気があれば親の敵を討つだけではない。曾我兄弟は若かったが、歩みの板まで切りつけた。勇がないと炬燵から出るのも大儀になる。寒い寒いと思うと炬燵からも出られない。勇気の突っ張る処から数万の敵中へも駆け入る。勇がないと手を引いてくれと言う様になる。「彼」は相手を出して言うこと。あちらも男ならこちらも男だと、向こう見ずに掛かること。人が禁酒したい。私だけが禁酒をできないことはないと言って酒を止める。これを一世一代の敵を討つ様に思うことに非ず。二六時中この様なことをする。堯舜を手本にすることだがら、一寸の癖や欲も止められない皆の様では、勇がないのである。
【語釈】
・陳不占…新序義勇。「齊崔杼弒莊公也。有陳不占者、聞君難、將赴之、比去、餐則失匕、上車失軾。御者曰、怯如是、去有益乎。不占曰、死君、義也。無勇、私也。不以私害公。遂往、聞戰鬥之聲、恐駭而死。人曰、不占可謂仁者之勇也」。
・あゆみの板…①歩みの板。船から船へ、または船から岸へかける橋板。②平安時代の木材規格。長さ二丈、厚さ二寸五分以上のもの。

謝上蔡二十年色欲をたたれたぞ。ただめったにとり乱したることなければ、もはや人欲のないと思うは違たることなり。それなれば、山奥の出□一人淋しくして居るもいらぬことぞ。今日の人皆好色に耽り、人欲に緇れ、かり々々となってをる。しわい者は金をにぎりつめる。それを皆勇氣で張り出すことなり。垩賢の勇は中々武藏坊弁慶が様なことではない。知と仁のひびくれる処をはり出すことじゃ。ここの語、尭舜を向に置てをがむやうにすることではない。尭も男、をれも男と云。香を焼てをがむことではない。大平なことなり。出家も香を焼てをがむより、仏になってみせやふと云がよい筈なり。尭舜も四肢百骸あれば、をれも四肢百骸があると云ふ。家来や女房を呵るときは其様なざまてと尤なことを云ふが、吾が圣賢を子ろふ心はなく、このままている心なり。
【解説】
勇気とは武蔵坊弁慶の様なことではなく、人欲を切り捨てることである。ここは堯舜を拝む様なことではなく、堯舜を目掛けることである。
【通釈】
謝上蔡は二十年色欲を絶たれた。ただ滅多に取り乱すことがなければ、最早人欲はないと思うのは違う。それであれば、山奥に隠れ、一人淋しくしていることも不要である。今日の人は皆好色に耽り、人欲に蔽われて、がりがりになっている。吝い者は金を握りしめる。それを皆勇気で張り出すのである。聖賢の勇は武蔵坊弁慶の様なことでは中々ない。知と仁で、悪くなっている処を張り出すこと。ここの語は、堯舜を向こうに置いて拝む様にすることではない。堯も男、俺も男だと言う。香を焚いて拝むことではなく、大柄なこと。出家も香を焚いて拝むより、仏になってみせようと言う方がよい筈。堯舜にも四肢百骸があれば、俺にも四肢百骸があると言う。家来や女房を呵る時はその様な様でと尤もなことを言うが、自分は聖賢を狙う心もなく、このままでいようとする心である。
【語釈】
・謝上蔡…謝上蔡。顕道。良佐。程氏門人。1050~1103

成覸は日比子んごろでないゆへ□此様なことを云と思ふと思ふが、顔子が出たて目がさめる。顔子は玉の様な御方なり。そこで顔子を温潤含蓄氣象とも云。その玉の様なは惣体の持た処、志は顔子も奴なり。舜様と云て頭を下けぬ。舜にも仁義礼智があれば、われにも仁義礼智があると大平を云れた。吾與問言終日不違如愚。殊の外和にきこへるが、退而省其私と孔子の仰られたは定て此様な語を指して仰せられたで有ふと合点するがよい。孔子の顔囘を見て、あれが笑てにこ々々してをるが柔和で如愚。役に立ずかと思たればそふではない。内では大きなことを云てりきむはと云れた。ただあい々々と云てをれば顔子ではない。志は奴に出る。衆人愛敬何の役に立ものではない。垩學を任する者が後生願の老女の竒り合たやふではならぬ。さて、李延平はいこふ温和に見へるが、あれは存養の功夫をなされてあの様に温和になられたこと。御若ひ時は朝馬を数十里馳せられたと云。如此元氣でなふてはならぬ。
【解説】
「顏淵曰、舜何人也。予何人也。有爲者亦若是」の説明。孔子は顔子を愚の様で愚ではないと言った。それは、顔子が柔和でありながらも「舜何人也」と言う様なところからである。顔子には勇がある。
【通釈】
成覸は日頃馴染みでないのでこの様なことを言うのだと思うところへ顔子が出たので目が醒める。顔子は玉の様な御方である。そこで顔子を温潤含蓄の気象とも言う。その玉の様なところは総体の持った処で、志は顔子も奴と同じである。舜様と言って頭を下げることはない。舜にも仁義礼智があれば、自分にも仁義礼智があると大柄なことを言われた。「吾与問言終日不違如愚」。殊の外和らに見えるが、「退而省其私」と孔子の仰せられたのはきっとこの様な語を指して仰せられたのだろうと合点するのがよい。孔子が顔回を見ると、あれが笑ってにこにこしているのが柔和で愚の様である。役立たずかと思えばそうではない。内では大きなことを言って力んでいると言われた。ただはいはいと言っているのは顔子ではない。志は奴に出る。衆人愛敬は何も役には立たない。聖学を任ずる者が後生願いの老女の寄り合った様ではならない。さて、李延平は大層温和に見えるが、あれは存養の功夫をなされてあの様に温和になられたのである。御若い時は朝馬を数十里馳せられたと言う。この様な元気でなくてはならない。
【語釈】
・吾與問言終日不違如愚…論語為政9。「子曰、吾與囘言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發、囘也不愚」。
・李延平…字は愿中。羅豫章の門に程氏学を学ぶ。朱子も22歳の時に李延平の門を叩く。1093~1163。

文王は我師也は周公の云はれたこと。ここを學問と合点するがよい。家傳の反魂丹にあらず。文王周公はただの父子ではないぞ。文王所以為文王を周公の師とする合点なり。あの及びもない文王を我が師にする了簡、さて々々これが面白ひことぞ。周公などの了簡は大概なことですまさふとはせぬ。さて又尭舜とは出ずに手前の方にある親を師とするがきれたことなり。一通のこふきを云たことに非す。周公の親のことを斯ふ云は峻ひことぞ。此様にするどくなふてはならぬ。きり々々になったと云が文王を目當にする。道學標的で目當てを付ると云が、とふに顔子が舜を標的にし、周公が文王を標的になされたぞ。性善の姿は尭舜云々の様でなければならぬ。さて、長者に二代なしで、子を持れて目出度と云が、目出度も此様に志の立たでなふては賞翫はならぬこと。とかくぬれ手で粟はないものなり。仁斎が子が五人、學者とて堀川五藏とてうれしがるが、仁斎が五人の子は不可継之志は継た。あの師也。さんざんなことなり。親の學問の門違ひを本道にすればよい。とかく俗儒が氣質をほめて古今未曽有なことと云。道學標的にはふっつりばったりないこと。禹王が親の通りとはせぬ。此方では何に程身持がよかろふと、標的が違うてはかつて珎重なこととはせぬ。標的の立と云でなふてはならぬことなり。
【解説】
「公明儀曰、文王我師也。周公豈欺我哉」の説明。周公は堯舜ではなく、自分の父である文王を標的にした。及びもない文王を自分の師とするのが鋭いこと。仁斎には子が五人いて皆学者だが、散々な父を師として、それを継いでいる。標的が違っては悪い。
【通釈】
「文王我師也」は周公の言われたこと。ここが学問だと合点しなさい。家伝の反魂丹などではない。文王と周公はただの父子ではない。文王の文王たる所以を周公が師とする合点なのである。あの及びもない文王を自分の師とする了簡が実に面白い。周公などの了簡は、よい加減なことで済まそうとはしないもの。さてまた堯舜とは出さずに自分の方にある親を師とするのが鋭いこと。一通りの弘毅を言ったのではない。周公が親のことをこの様に言うのは峻いこと。この様に鋭くなくてはならない。至極になると言うのが文王を目当てにすること。道学標的で目当てを付けるというのが、既に顔子が舜を標的にしてあり、ここでは周公が文王を標的になされたのである。性善の姿は堯舜云々の様でなければならない。さて、長者に二代なしで、子を持たれて目出度いと言うが、目出度いこともこの様に志が立つのでなくては賞翫することはできない。とかく濡れ手で粟はないもの。仁斎に子が五人いて、学者として堀川五蔵と言われて嬉しがっているが、仁斎の五人の子は継ぐべきではない志を継いだ。あれ等の師匠が散々なこと。親の学問の門違いを本道にすればよい。とかく俗儒が気質を褒めて古今未曾有なことと言うが、道学標的にそれは全くない。禹王は親の通りにはしない。自分はどれほど身持がよいとしても、標的が違っては一つも珍重なこととはしない。標的が立つのでなければならない。
【語釈】
・仁斎…伊藤仁斎。江戸前期の儒学者。名は維楨。通称、源佐。京都の人。初め朱子学を修め、のち古学を京都堀川の塾(古義堂)に教授。門弟三千。著「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」「童子問」など。諡して古学先生。1627~1705
・禹王が親の通りとはせぬ…書経洪範。「箕子乃言曰、我聞在昔、鯀塞洪水、汨陳其五行。帝乃震怒、不畀洪範九疇、彝倫攸斁、鯀則殛死。禹乃嗣興。天乃錫禹洪範九疇、彝倫攸敘」。鯀は禹の父。

舜を置て第二段をせぬことぞ。卑近易行と云ことをすることではない。舜の通りでなければ本んのことをせぬのなり。道一而已をここて見せたもの。理のなりなり。とくと御聞なされ。成覸もこう云ひ顔子も周公も云れた。とんと篤信でなければこの旅はならぬこと。一里二里は出られるが、百里二百里は出られぬ。若學問で旅をすると云か利欲なら、利欲で旅をするか、わけなしには旅はならぬ。江の嶋鎌倉とは違う。尭舜と云旅は大ごとなり。苦ひ藥にあつい灸、篤く信するゆへするぞ。病を直そうと云に親切ゆへ、それはする。學問もその通りにするがよい。性善より外にとんとない。彼れ此れと二番目に御心を付らるるなと云ことなり。
【解説】
「道一而已」であり、性善を篤信しなければならない。第二段なことや卑近易行をしてはならない。
【通釈】
舜を外に置いて第二段をしてはならない。卑近易行をしてはならない。舜の通りでなければ本当のことをしていないのである。「道一而已」をここで見せたもの。理の通りである。じっくりと御聞きなさい。成覸もこの様に言い、顔子も周公も同じことを言われた。すっかりと篤信するのでなければこの旅はならない。一里二里は出られるが、百里二百里は出られない。もしも学問で旅をするというのが利欲であれば、利欲で旅をすることになるが、わけもなく旅はしない。江の島や鎌倉とは違う。堯舜という旅は大事である。苦い薬に熱い灸、篤く信じるからするのである。病を治そうというのに親切なので、それはする。学問もその通りにするのがよい。性善より外は全くない。彼れこれと二番目に御心を付けられるなということ。

講後話
先生再三稱嘆溝口公所録迂斎先生之道學標的筆記曰、迂斎のあの筆記が三十年になるが、是れ迠某しろくに見ぬ。粗麁なことなり。今度見れはとんとあの上はないこと。あの筆記を見るがよい。因て云、あの中にこれは迂斎ではあるまい、黙斎が説てあらふと云やうながある。先生即ち側なる書箱より彼の筆記を出し読めり。曰、御老中が講釈を聞たいの、誰殿かあはふの、近衞殿の前で講釈をしたのと、それを本望がるやうでは道學は語られぬ。迂斎などの頓と云ひそうもないこと。もはや三十五六年前で學問流行たときなり。然とも俗學の玉しい見ぬいた口上なり。迂斎などのあのやうに丸ひやうでも、道を任するときはあの様なり。謙退はない。因て唐津の諸生を呼て曰、知見あれば俗人の羨むことにうれしいことはなし。卓越の志ある人は別なり。この方の家の宗旨はりきみつけぬ家なり。世間めかぬ宗旨と知るべし。
【解説】
迂斎は丸い人だったが、道を任じる時に謙退はしなかった。御老中が講釈を聞きたいとか、誰殿が会おうとか、近衛殿の前で講釈をしたとか、それを本望がる様では道学を語ることはできないと迂斎は言った。
【通釈】
先生が再三溝口公の録する所の迂斎先生の道学標的筆記を称嘆して言った。迂斎のあの筆記は三十年になるが、これまで私はそれを碌に見ることはなかった。それは粗相なこと。今度それを見ると、全くあの上はない。あの筆記を見なさい、と。そこで言った。あの中に、これは迂斎ではないだろう、黙斎の説だろうという様なところがある、と。先生は側にある書箱からあの筆記を出して読んで言った。御老中が講釈を聞きたいとか、誰殿が会おうとか、近衛殿の前で講釈をしたとか、それを本望がる様では道学を語ることはできない、と。これは迂斎などが頓と言いそうもないこと。最早三十五六年前の学問が流行った時のこと。しかしながら、俗学の魂を見抜いた口上である。迂斎などがあの様に丸い様でも、道を任ずる時はあの様のことで、謙退はない。そこで唐津の諸生を呼んで言った。知見があれば俗人の羨むことに嬉しがることはない。卓越の志ある人は別なこと。こちらの家の宗旨は力みを付けること。それは世間めかない宗旨だと知りなさい。
【語釈】
・溝口公…溝口浩軒。越後新発田藩主。

6
近思録曰、聖希天、賢希聖、士希賢。伊尹顏淵、大賢也。伊尹恥其君不爲堯舜、一夫不得其所、若撻于市。顏淵不遷怒、不貳過、三月不違仁。志伊尹之所志、學顏子之所學、過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名。
【読み】
近思録に曰く、聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う。伊尹顏淵は大賢なり。伊尹は其の君の堯舜と爲らざるを恥じ、一夫も其の所を得ざれば、市に撻るるが若し。顏淵は怒を遷さず、過を貳びせず、三月仁に違わず。伊尹の志せし所を志し、顏子の学びし所を学ぶとき、過ぎなば則ち聖、及ばば則ち賢、及ばざるも則ち亦令名を失わざらん。
【補足】
この条は、近思録為学1にある周濂渓の語。

○近思録曰垩希天云々。希々と云が學問なり。学問をいつも道中にたとへるが、それで向へすすむことじゃ。駿河の清見寺がよいとて、いつ迠もそこに居ては道中ではない。學問もそれぞ。向へ進ま子ば役に立ぬ。行くを勝ちにするが道中なり。希々と云もこれでよいと落付ぬこと。このつらではをりますまいじゃと云。俗學は皆いつ迠もこのつらでいる合点なり。我がすこしよいに腰をかけぬことなり。我がもちあはせのよいをこれてよいと云ふては居らぬ。ここが道學標的の所以為道學標的也。忠信如丘ぎりなればじっとしてをるが、好學ゆへじっとしては居らぬ。わるいことなれとも、希と云は奉公人の立身願ひをする様なもの。そこで朱子の如士人応挙念々不忘と云へり。鞭策開巻の意なり。わるいたとへと云はぬこと。希々が向へゆき、じっとして居らぬこと。それも氣質を学ばず垩賢の道を學ぶぞ。
【解説】
「近思録曰、聖希天、賢希聖、士希賢」の説明。希うのが学問であり、それは進み続けることである。孔子も好学で進み続けた。その学とは、気質を学ぶことではなく、聖賢の道を学ぶことである。
【通釈】
○「近思録曰聖希天云々」。希々と言うのが学問である。学問をいつも道中にたとえるが、それで向へ進むことなのである。駿河の清見寺がよいと言って、いつまでもそこにいては道中ではない。学問もそれ。向こうへ進まなければ役には立たない。行くを勝ちにするのが道中である。希々もこれでよいと落ち着かない。この面ではいられないと言う。俗学は皆いつまでもこの面でいる合点。自分が少しよいと思ってそこに腰を掛けてはならないのである。自分の持ち合わせがよいことを、これでよいと言いはしない。ここが道学標的の道学標的たる所以である。「忠信如丘」だけであればじっとしているが、好学なのでじっとしてはいない。たとえが悪いが、希は奉公人の立身願いをする様なもの。そこで朱子が「如士人応挙念々不忘」と言った。これが鞭策開巻の意である。これを悪いたとえだと言ってはならない。希々が向こうへ行き、じっとしていないこと。それも気質を学ぶことではなく、聖賢の道を学ぶことなのである。
【語釈】
・清見寺…静岡県清水市興津にある臨済宗妙心寺派の寺。天武天皇の時、清見関の関寺として創建。1261年(弘長一)円爾の法弟関聖上人が再興。三保の松原を望む観光地としても栄えた。
・忠信如丘…論語公冶長28。「子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也」。
・如士人応挙念々不忘…朱子語類訓門人6。「問爲學大端。曰、且如士人應舉、是要做官。故其功夫勇猛、念念不忘、竟能有成」。

時に圣人はそれに及びそもないもの。希天と云ふが圣人の學問なり。即ち不如丘之好學なり。丁ど金持の隱居が世話をやく様なもの。手前の家督は忰に渡しましたと云ながら、ふやしたい々々々々々と子がふ。又、金がない々々々々と云ふ。それは御挨拶でござらふと云に挨拶ではない。どこ迠もふやす心からなり。垩人にも希と云ことがある。それは如何んと云に、どうも垩人が天の通りにならぬ。垩人は形体のあるだけひだるいこともあれば、顔子が死すと大泣に泣きすぎることもある。そこをうか々々すると子夏が目を泣きつぶした様にもなる。天には異見を云ことはとんとない。そこで圣人があの天を見て、あれには叶はぬと云。五尺のからだのあるだけ圣人は天に及れぬ。まま子をほんの子のやうに可愛いがるゆへ、本のことにはならぬ。ときにまま子を本んの子のやふなが圣人。天は心なく皆實子なり。これは斯ふ云様なものの、圣人が希とて向を見てさわぐことはない。垩人は誠な心で手前をよいと思はぬ。天の通りなれとも、天を々々と希ふなれとも、違ふものがあるから希ふとは云なり。
【解説】
聖人は天の通りだが、体がある分だけ天に及ぶことができない。そこで聖人は天を希うのである。
【通釈】
時に聖人はそれには及びそうもないものだが、「希天」が聖人の学問である。それが「不如丘之好学」である。丁度金持の隠居が世話を焼く様なもの。自分の家督は忰に渡しましたと言いながら、増やしたいと願う。また、金がない金がないと言う。それは御挨拶で言うのだろうと思えば挨拶ではない。何処までも増やす心からである。聖人にも希ということがある。それはどの様なものかと言うと、どうも聖人が天の通りにならない。聖人は形体があるだけに空腹になることもあれば、顔子が死ぬと大泣きに泣き過ぎることもある。そこをうかうかすると子夏が目を泣き潰した様にもなる。天には異見を言うことは全くない。そこで聖人があの天を見て、あれには叶わないと言う。五尺の体があるだけ聖人は天に及ぶことができない。継子を本当の子の様に可愛いがるのは本当のことであはないが、継子を実子の様にするのが聖人。天にはその心はなくて皆実子である。こういう様なものであって、聖人が希と言っても向こうを見て騒ぐことはない。聖人は誠な心で自分をよいとは思わず、天の通りである。しかし、天を希うのは、天とは違うものがあるから希うと言うのである。
【語釈】
・顔子が死すと大泣に泣きすぎる…論語先進9。「顏淵死、子哭之慟。從者曰、子慟矣。曰、有慟乎。非夫人之爲慟而誰爲。」

一杯飲で夜をふかすと垩人も子むい筈。天は明六つには明六つの通りに夜が明るが、垩人は肉だけ夜番に起してくれろと云ことがある。孔子も馳走に成たときは腹もはらるることもあるべし。天にはないことなり。そこが天の方が上坐。その様なことも一つにして、鳴呼穆不已とかけて、文王も純亦不已のと云ふで合点すべし。道學標的と云世界へこぬ内はあんばいは知れぬ。俗學の知らぬこと。ををきい咄ぞ。そふなければ道學標的にならぬ。圣と賢と士は挌式は違うが希々と云。學問は同じこと。御老中と二百石とる御簱本のやふなもの。御奉公精を出すは同じこと。西銘は天に事ること希ふなり。學如不及も希ふ。あの人にをくれたをあとから追つかふはと云はぬこと。をくれぬやうに希々とする合点なり。
【解説】
聖人には肉があるので天が上座になる。聖と賢と士は格式は違うが、学問をするのは同じなので皆希々と言うのである。
【通釈】
一杯飲んで夜を更かすと聖人も眠い筈。天は明六つには明六つの通りに夜が明るが、聖人は肉だけ夜番に起こしてくれと言うことがある。孔子も馳走になった時は腹も張ることもあるだろう。それは天にはないことで、そこで天の方が上座になるのである。その様なことも一つにして、「鳴呼穆不已」と繋けて、文王も「純亦不已」と言ったことで合点しなさい。道学標的という世界へ来ない内はその塩梅は知れない。俗学の知らないこと。大きい話である。そうでなければ道学標的にならない。聖と賢と士は格式は違うが希々と言う。学問は同じなのである。それは御老中と二百石をとる御旗本の様なもの。御奉公に精を出すのは同じこと。西銘は天に事えることを希うもの。「学如不及」も希うこと。人に遅れて、後から追い付こうとは言わないこと。遅れない様に希うのである。
【語釈】
・鳴呼穆不已…中庸章句26。「詩云、維天之命、於穆不已。蓋曰天之所以爲天也。於乎不顯。文王之德之純。蓋曰文王之所以爲文也、純亦不已」。詩は詩経周頌維天之命篇。

たた斯ふ云てはなる程違ふたとけっこふごかしにまきらをくらはせるゆへ、云ひちらしにせぬ様に、伊尹顔淵大賢也と出す。伊尹顔淵が標的なり。大きい標的ぞ。浪人儒者が講釈もなり文字も読め、三十人扶持にはなると云。さて々々其の様なやすくきたない根性を持て何になる。そこで三綱領のわたもちを出す。三綱領のわたもちは誰と云へば伊尹顔淵。さて々々高大なこと。先年京師にて一名家の子にあふ。何を講ずると問たれば、月幷の講釈に貞観政要を読と云からくつをかしくなった。左こそあるべきことなり。
【解説】
「伊尹顏淵、大賢也」の説明。紛らかしをさせないために三綱領の腸持である伊尹と顔淵を出した。伊尹と顔淵が標的である。
【通釈】
ただこの様に言っては、なるほど違ったことだと結構ごかしを言って紛らかしをするので、言い切りにしない様に、「伊尹顔淵大賢也」と出した。伊尹顔淵が標的である。大きい標的である。浪人儒者が講釈もできて文字も読めるから三十人扶持にはなると言う。さてもその様な安く汚い根性を持って何になる。そこで三綱領の腸持を出す。三綱領の腸持は誰かと言えば伊尹と顔淵であり、それは実に高大なこと。先年京師で一名家の子に逢った。何を講じるのかと問うと、月並の講釈に貞観政要を読むと言ったので一寸可笑しくなった。そんなことだろう。
【語釈】
・京師…「京」は大、「師」は衆の意。みやこ。京都。帝都。帝京。

耻其君不為尭舜と云。標的に貞観政要と出れは志のほど見へることなり。尭舜は人倫之至り。瞽叟底豫象喜亦喜。そこへあの太宗。あたまで肴がくさっているなり。そこらにはをかれぬことなり。あれを學んで天下を平にするは、泥水で面を洗ふやふなもの。孟子の言必稱尭舜。その尭舜のこと。君をその尭舜にせうと云。伊尹の玉しいなり。指を廣けで、これで三尺と云は標的にならぬ。ぶんまはしを出す。尭舜の通りにならぬ位なれば甲斐ないこと。志はするどく云がよい。氣短に云でたぎる。たとへば忠がならずは腹を切て死ぬがよいと云ほどなこと。浅見先生の弁に、鳫はうじになっても北へ飛ぶと云れた。鳫のうぢゆへ北の方へ飛ぶ。伊尹が、私が自ではない、あの大切の若旦那をと云て其君を尭舜にせうと云。どうまわりて見ても利口な沙汰ではないが、標的。誰でも道學標的では尭舜のやふになれと云。尭舜の様になるものがある。性善ゆへなり。この藥てなをらぬ病人はないと云。
【解説】
「伊尹恥其君不爲堯舜」の説明。堯舜を標的にするのであって、貞観政要などを標的にするのは悪い。伊尹は君を堯舜の様にしようとした。それは誰にでも性善があるからである。
【通釈】
「恥其君不為堯舜」と言う。標的に貞観政要と出れば志のほどが見える。堯舜は人倫の至り。「瞽瞍厎豫」「象喜亦喜」。そこへあの太宗である。最初から肴が腐っている。そこ等に置いてはおけない。あれを学んで天下を平にするのは、泥水で面を洗う様なもの。ここは「孟子言必称堯舜」の堯舜のこと。君をその堯舜にしようと言う。それが伊尹の魂である。指を広げて、これで三尺だと言うのでは標的にならない。コンパスを出す。堯舜の通りにならない位では甲斐がない。志は鋭く言うのがよい。気短に言うので滾る。たとえば忠がならなければ腹を切って死ぬ方がよいと言うほどのこと。浅見先生の弁に、雁は蛆になっても北へ飛ぶと言われた。雁の蛆なので北の方へ飛ぶ。伊尹が、私自信の事ではなく、あの大切な若旦那をと言ってその君を堯舜にしようと言う。どう見ても利口な沙汰ではないが、これが標的である。誰でも道学標的では堯舜の様になれと言う。堯舜の様になるものがある。それは性善だからである。この薬で治らない病人はないと言う。
【語釈】
・瞽叟底豫…孟子離婁章句上28。「舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化。瞽瞍厎豫而天下之爲父子者定。此之謂大孝」。
・象喜亦喜……孟子万章章句上2。「象憂亦憂、象喜亦喜」。
・言必稱尭舜…孟子滕文公章句上1。「孟子道性善、言必稱堯舜」。

一夫不得其所がゆきとどいたこと。津々浦々でも不得其所也。橋の上にこもを着て居るは不覚悟ものなり。結搆な世でもこれはある。其不覚悟者を耻るが大きな志ぞ。あいつがたわけゆへとは云はぬ。死ぬ筈の病人の死たは死生有命なり。それをも命にせず、をれが殺したと云へば医者の志と云もの。若撻于市が志の立たのなり。志の標的にこれより上はない。顔淵のながいことを一口に迂斎の云れた。心の功夫に效あることじゃ。不貳過不遷怒の效は仁より外はない。百日藥を飲んだがつんぼ程もきかぬと云ふは效のないじゃ。學者が一生骨を折てもよくならぬのは、つんほ程もきかぬのなり。三つ子の魂百迠で、幼年のときはりこの虎をつかみつぶしたが七十迠腹を立つ。とかくやまぬもの。なにもかも過だらけ。どうぞちと来て見て下されと云と、医者が笑ひながら、ああまた例の酒がすぎたて有ふと云。葛花解醒湯てよからふと云。過の貳ゆへなり。此様な咄を聞と、今の学者は昔の伊尹は斯ふした人、昔の顔子は斯ふした人と云ことて役に立ぬ。益氣湯と云藥があるげなとて、飲ま子ば役に立ぬ。伊尹顔淵の一はいなことを云ひ、周茂叔も味噌を上けやった。こちの學問をして見ろ、これじゃとなり。
【解説】
「一夫不得其所、若撻于市。顏淵不遷怒、不貳過、三月不違仁」の説明。「若撻于市」が志の立ったこと。顔淵の語は心の功夫に効があることだと迂斎が言った。
【通釈】
「一夫不得其所」が行き届いたこと。津々浦々で不得其所である。橋の上に薦を着ているのは不覚悟者で、結構な世でもこれはある。その不覚悟者を恥じるのが大きな志である。あいつが戯けだからとは言わない。死ぬ筈の病人が死んだのは「死生有命」である。それをも命とはせず、俺が殺したと言えば医者の志というもの。「若撻于市」が志の立ったこと。志の標的にこれより上はない。顔淵の長い語を一口に迂斎が言われた。心の功夫に効があることだ、と。「不二過不遷怒」の効は仁より外はない。百日薬を飲んだが少しも効かないと言うのは効がないのである。学者が一生骨を折ってもよくならないのは、少しも効かないのである。三つ子の魂百までで、幼年の時に張り子の虎を掴み潰した者が七十まで腹を立てる。とかく止まないもの。何もかも過ちだらけ。どうぞ一寸来て見て下さいと言うと、医者が笑いながら、ああまた例の酒が過ぎたのだろうと言う。それなら葛花解醒湯でよいだろうと言う。過を再びしたからである。この様な話を聞くと、今の学者は昔の伊尹はこうした人、昔の顔子はこうした人と言うだけで役に立たない。益気湯という薬があるそうだと言っても、飲まなければ役に立たない。伊尹顔淵の大きなことを言い、周茂叔も自慢をして、こちらの学問をして見ろ、それはこれだと言った。
【語釈】
・死生有命…論語顔淵5。「子夏曰、商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也」。
・周茂叔…周敦頤。北宋の儒者。宋学の大家の一。字は茂叔。濂渓先生と称。湖南道州の人。太極説を唱えて、宋学の宇宙論の確立に寄与した。著「太極図説」「通書」など。1017~1073
・味噌を上けやった…自分のことを自慢する。手前味噌をならべる。

過ぐると云こともあるか。あるなり。すぐれは圣ぞ。垩人になられぬと云証拠はない。過則圣。圣人へ屏を立てはをかぬ。そこで伊尹顔淵を學ぶ、あの上へ至こともあらふ。それは至て結搆なこと。垩人になるまいとかたはつけられぬこと。町人が三百両設ける氣て千両設けることがある。ただ學問にはそれがない。及が兼ての希ひ。よしや及ぬことが有ふとも、不失於令名。ただの學者ではないと云こと。吾黨の學者もここで色のついてくることなり。吾黨の者とて何も違ふたことはないが、目指す処が違う。先年養子のことでたのまれた迚あるく先生があった。世間が皆斯ふなり。さて及ばれぬと云程面白くないことはないが、不失於令名と云ことを云がよく々々よい標的じゃと知らすることなり。標的のよいは及ずとも、これなり。これからとこ迠も標的を云たことなり。
【解説】
「志伊尹之所志、學顏子之所學、過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名」の説明。過ぎれば聖である。もしもそこに及べなくても「不失於令名」である。
【通釈】
過ぎるということもあるのか。ある。過ぎれば聖である。聖人になれないという証拠はない。「過則聖」。聖人へ屏風を立ては置かない。そこで伊尹顔淵を学べば、あの上へ至ることもあるだろう。それは至って結構なこと。聖人にはなれないと片を付けることはできない。町人が三百両儲ける気で千両儲けることがある。ただ学問にはそれがない。及ぶのが前からの希い。もしも及ばないことがあったとしても、「不失於令名」である。ただの学者ではないということ。我が党の学者もここで色が付いて来る。我が党の者でも何も違ったことではないが、目指す処が違う。先年養子のことで頼まれたと言って歩く先生がいた。世間が皆こうである。さて及べないというほど面白くないことはないが、不失於令名が実によい標的であると知らしたのである。標的のよいところへは及ばなくても、これがある。これから何処までも標的を言う。

7
又曰、莫説道將第一等讓與別人、且做第二等。才如此説、便是自棄。雖與不能居仁由義者差等不同、其自小一也。言學便以道爲志、言人便以聖爲志。
【読み】
又曰く、第一等を將て別人に讓與し、且く第二等を做[な]すと説道する莫かれ。才[わずか]に此の如く説けば、便ち是れ自棄なり。仁に居り義に由ること能ざる者と差等同じからずと雖も、其の自ら小にするは一なり。學を言えば便ち道を以て志と爲し、人を言えば便ち聖を以て志と爲せ。
【補足】
この条は、近思録為学59にある伊川の語。

又曰莫説云々。近思の語の標的になる手抦と、直方先生の標的に幷べられた手抦がをさ々々をとらぬ程に見子ば標的の見やうでない。周子程子の語の標的になるはもとより、近思録の中からずっとすぐれたことを引てこられた。莫説道云々。此様な學者がいかいことある。それはをきやれと云。あぢなことにじきをする。王義之などが見たらば、そこらの師匠の処で手習はさぞ笑で有ふ。伊尹顔淵のわきへは出さぬこと。第二等はらくなもの。五臟六腑を仕直さ子ばならぬ程なことあるに、第二等間尺にあはぬ。今の學者心にしきりをする。こちは天理、こちは人欲と云て、天理と人欲を一日はさみにしやうとかかる。そこで第二等へ手を出したがる。世間にて此様な學者が多ひ。それをつかまへて云ことなり。
【解説】
「又曰、莫説道將第一等讓與別人、且做第二等。才如此説、便是自棄」の説明。今の学者は天理と人欲とを分けて使いたがる。そこで第二等に手を出したがる。第二等は楽なもの。
【通釈】
「又曰莫説云々」。近思の語が標的となる手柄と、直方先生が標的に並べられた手柄とが中々劣らないことだと見なければ標的の見様ではない。周子や程子の語が標的になるは固よりのことで、近思録の中からずっと優れたことを引いて来られた。「莫説道云々」。この様な学者が大層いる。それは止めろと言う。悪いことにお辞儀をする。王義之などが見れば、そこ等の師匠の処での手習をさぞ笑うことだろう。伊尹顔淵の脇へは出さないこと。第二等は楽なもの。五臓六腑を仕直さなければならないほどのことがあるであって、第二等では間尺に合わない。今の学者は心に仕切りをする。こちらは天理、こちらは人欲と言って、天理と人欲を一日互いにしようと掛かる。そこで第二等へ手を出したがる。世間にはこの様な学者が多い。それを掴まえて言ったこと。

朱子の劉子澄を呵られたことあり。劉子澄が小學の編集の相手になられて、朱子のもたけた程子の四箴や濂渓先生の語を載したれば、これはあまりよすぎて小児のためになるまいと云れた。古今手嶋があるぞ。子澄が朱子へあまり程子を主張しすぎると云たれば、いや、主張しすぎやふとも、ぬけたことを出さ子ば何んの役に立ぬこと。第二段なことですむことなれば、符讀書城南一篇ですむと云れた。符讀書城南は小僧儒者を文章書にしこまうとてのこと。小學は三代小學挍の闕を補ふことなれば、大切なる語を出さ子ばならぬことなり。劉子澄が上の一着がならずは下の一着をしろと云た。衆人愛敬之語なり。烟草屋の番頭のする様なことを垩學の標的で云ことではない。山﨑先生謂高田未伯曰、汝は経學より神道を學べと云れた。これはどうで経學はならぬと見たもの。これで見れば先生神道を尊んでも、實はたるいことに見られたかなり。第一等ならずは第二等と云は標的で云ことに非ず。世間の學者が兎角温和底を愛して何事も大事々々と云。それも人によりて尤なこと。されとも標的と云とき、その様なことでは間に合ぬ。御法度そ。背くなと云は村の名主の云こと。道學者には足りぬこと。
【解説】
劉子澄が、程子の四箴や濂渓先生の語は良過ぎて小学に載せても小児のためにはならないと言った。それを朱子が呵った。小学は三代小学校の欠を補うものだから、第一等を載せなければならないのである。また、劉子澄が上の一着ができなければ下の一着をしろと言った。それでは衆人愛敬あり、第二等である。
【通釈】
朱子が劉子澄を呵られたことがある。劉子澄が小学の編集の相手になられ、朱子が程子の四箴や濂渓先生の語を載せると、これはあまりに良過ぎて小児のためにはならないだろうと言われた。古今手島堵庵の様な者がいるもの。子澄が朱子へあまりに程子を主張し過ぎると言うと、いや、主張し過ぎたとしても、優れたことを出さなければ何の役にも立たない、第二段なことで済むのであれば、「符読書城南一篇」で済むと言われた。符読書城南は小僧儒者を文章書きに仕込もうとしてのこと。小学は三代小学校の欠を補うものなのだから、大切な語を出さなければならないこと。劉子澄が上の一着ができなければ下の一着をしろと言った。それは衆人愛敬の語である。煙草屋の番頭のする様なことを聖学の標的で言ってはならない。山崎先生高田未伯に言った。貴方は経学よりも神道を学べと言われた。これはどうしても経学はできないと見たもの。これで見れば先生は神道を尊んでも、実はその方が簡単だと見られたのかも知れない。第一等ができなければ第二等をとは標的で言うことではない。世間の学者がとかく温和底を愛して何事も大事だと言う。それも人によっては尤もなこと。しかしながら標的と言う時はその様なことでは間に合わない。御法度である。背くなと言うのは村の名主の言うこと。それでは道学者には足りない。
【語釈】
・朱子の劉子澄を呵られたことあり…朱子文集35。「答劉子澄書曰、来喩又有避主張程氏之嫌。若只欲其合於世俗而使庸人愛之則符読書城南一篇足矣。何事労吾人桾摭之功哉」。劉子澄は朱子の門人。劉清之。
・符讀書城南…韓愈。符読書城南詩。符は韓愈の子。城南は別荘のあった所。韓愈が符に勤学を勧めた詩。
・劉子澄が上の一着がならずは下の一着をしろと云た…朱子語類巻66。孟子「孔子登東山而小魯」章。「舊見劉子澄作某處學記、其中有雖不能爲向上事、亦可以做向下一等之意。大概是要退。如此便不得」。
・高田未伯…

不能居仁由義は、學問をせず横道へきれる狼藉者のことなり。孔子が四方を周流さるると、今時そのやうなことは流行らぬ。石部金吉、ああかたい々々々と云。それが不能居仁由義者なり。これは全体が學者ゆへ、そんないたつら者とは違ふが、つめて見ればとど一つことになる。人が京都へ行と云。をれは炬達にをると云。それは言語道断。學者は道中へ蹈み出したゆへ、品川か川﨑まで出は出たなり。出は出ても七里行て帰ればやっはり炬燵にをったと同前。さて楠を武士の鑑と云。成る程武士の鑑にもなること。尊氏が様な不埒者へかたんするものもあるのに、あの忠節、いかさま武士の鑑なり。然れとも、楠を知仁勇の士と云ふは中庸を読み知さるにやと云はるるがそのことなり。青砥左衞門もたたならぬもの。佐野源左衞門、やせ馬を繋たもたたならぬことなり。但學者のあれを手本として向ひ望むはあまりなことなり。言学便以道云々。言學は性善、言人は尭舜と云様なもの。それは其元の思召かと云と、そうでない。顔子が舜何人我何人ぞと云た。以舜志とするでなふては標的にならぬ。世の中にしたたか學者はあるが、以圣為志ものはない。世間の學者をなぜ俗學と云へば、以圣為心とせぬ。そこで標的がない。道學の標的はどこ迠も此様に志を立てゆくことなり。
【解説】
「雖與不能居仁由義者差等不同、其自小一也。言學便以道爲志、言人便以聖爲志」の説明。第二等をする者は、結局は「不能居仁由義」と同じである。楠木正成を武士の鑑と言うのも尤もなことで、青砥左衛門や佐野源左衛門もただならない者である。しかし学者が彼等を標的にするのは間違いである。学で言えば性善、人で言えば堯舜で、学者はこれを目指すのである。
【通釈】
「不能居仁由義」は、学問をせずに横道へ切れる狼藉者のこと。孔子が四方を周流されると言えば、今時その様なことは流行らない、石部金吉だ、ああ硬いと言う。それが「不能居仁由義者」である。これは全体が学者のことなので、この様な悪戯者とは違うが、詰めて見ればつまりは一つになる。人が京都へ行くと言う。俺は炬燵にいると言う。それは言語道断である。学者は道中へ踏み出すので、品川か川崎まで出ることは出る。出るには出ても七里行って帰ればやはり炬燵にいたのと同然。さて楠木正成を武士の鑑と言う。なるほど武士の鑑にもなる。尊氏の様な不埒者へ加担する者もあるのに、あの忠節である。いかにも武士の鑑である。しかしながら、楠木を知仁勇の士と言うのでは、中庸を読み知っていないのかと言われてしまう。青砥左衛門もただならない者。佐野源左衛門が痩せ馬を繋いだのもただならないこと。但し学者があれを手本として向かい望むのはあまりなこと。「言学便以道云々」。「言学」は性善、「言人」は堯舜という様なもの。それは貴方の思し召しかと言うと、そうでない。顔子が「舜何人我何人」と言った。舜を以って志とするのでなくては標的にならない。世の中に学者は沢山いるが、「以聖為志」の者はいない。世間の学者を何故俗学と言うのかというと、以聖為心をしない。そこで標的がない。道学の標的は何処までもこの様に志を立てて行くことなのである。
【語釈】
・青砥左衞門…青砥藤綱。鎌倉中期の武士。上総の人。北条時頼に仕え、引付衆となる。性廉潔。鎌倉滑川に銭十文を落し、天下の財の喪失を惜しみ、五十文の費用を使ってこれを探させたという。
・佐野源左衞門…佐野源左衛門尉常世。鎌倉武士。上州佐野に住したといい、謡曲「鉢木」の主人公として名高く、歌舞伎にも脚色。
・舜何人我何人…孟子滕文公章句上1。「顏淵曰、舜何人也。予何人也。有爲者亦若是」。

8
又曰、有求爲聖人之志、然後可與共學。學而善思、然後可與適道。思而有所得、則可與立。立而化之、則可與權。
【読み】
又曰く、聖人と爲るを求むる志有りて、然る後に與に共に學ぶ可し。學びて善く思いて、然る後に與に道に適く可し。思いて得る所有れば、則ち與に立つ可し。立ちて之に化すれば、則ち與に權る可し。
【補足】
この条は、近思録為学65にある伊川の語。

又曰有求為垩人之志。直に上をうけたものなり。志と云に段々があり、さて學問も志があればこそする。志がなくは寐ころんで酒を飲んで居る筈。時に垩人にならんと云志でなうてはほんの志にあらず。可與共學は孔子の云はれたこと。今此方が圣人に志せば孔子と連になる。これで官位が升たなり。ただの伊勢参詣ではないぞ。垩人は学ぶ氣なれとも、中々及ぬこと。をきやれと云ふ。それではいかほどよからふとも役に立ぬのなり。丘の好學を第一の本尊にする。垩人にならふとすれば、好學のさあゆかふと云。可與共學也。これがいかう廣大なることで、博学審問愼思明辨、あれをすることなり。志が有て草鞋をはいて出れは相談はきまる。草鞋をはいて、それから段々が済で、可與適道也。道中へ出たゆへそれてしてとるかと云に、思而有所得なり。思而有所得は、こちのものになったこと。知惠はしめたが知惠にもかりものがある。學問はそれを丈夫にこちのものにすること。有所得か又不悦乎と同しこと。可與立かもう請合なり。立つになれば、ここに至ては磐石の如くに丈夫なことなり。今若ひ者のことを、まだひよめきがかたまらぬと云ふ。學問もひよめきのかたまらぬ内は役に立ぬ。この段に至ては中々ま子いてもくすぐりても動くことはない。根は丈夫なことなり。
【解説】
「又曰、有求爲聖人之志、然後可與共學。學而善思、然後可與適道。思而有所得、則可與立」の説明。丘之好学」を本尊にして志を立て、博学審問慎思明弁をして行く。そして知恵を丈夫にすると「可与立」という人になる。
【通釈】
「又曰有求為聖人之志」。これは直に上を受けたもの。志にも段階がある。学問も志があればこそするのであって、志がなければ寝転んで酒を飲んでいる筈。時に聖人になろうという志でなくては本当の志ではない。「可与共学」は孔子の言われたこと。今自分が聖人を志せば孔子と連れになる。これで官位が上ったのである。ただの伊勢参詣ではない。聖人は学ぶ気があっても中々及ばないことだから止めにしようと言う。それではどれほどよくても役に立たない。「丘之好学」を第一の本尊にする。聖人になろうとすれば、好学でさあ行こうと言う。「可与共学」である。これが大層広大なことで、博学審問慎思明弁、あれをすること。志があって草鞋を履いて出れば相談は決まる。草鞋を履いて、それから段々が済んで、「可与適道」である。道中へ出たのでそれて成し遂げたかと言うと、「思而有所得」である。思而有所得は、こちらのものになったこと。知恵は得ても、知恵にも借り物がある。学問はそれを丈夫にこちらのものにすること。有所得が「不亦説乎」と同じこと。「可与立」がもう請け合えること。立つという、ここに至っては磐石の如く丈夫である。今若い者のことを、まだ顋門が固まらないと言う。学問も顋門の固まらない内は役に立たない。この段に至っては中々招いてもくすぐっても動くことはない。根が丈夫なのである。
【語釈】
・可與共學…論語子罕29。「子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權」。
・丘の好學…論語公冶長28。「子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也」。
・博学審問愼思明辨…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也。博學之、審問之、愼思之、明辨之、篤行之」。
・又不悦乎…論語学而1。「子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。
・ひよめき…顋門。幼児の頭蓋骨がまだ完全に縫合し終らない時、脈搏につれて動いて見える前頭および後頭の一部。泉門。

さて、いっち仕舞に至善を出して見せるぞ。立てばもうしてとったもの。其上に化するは學問でかどのとれることなり。垩人も賢人もかずでは同じこと。化と化せぬの違ひぞ。立た上にかどのとれると云ことなれば、至極の圣域に至たものなり。化と云が知行の至極になったこと。段々これまで数多く語るが此章の大切。化と云は至善につまるときのこと。ただのなることではない。ただのものが化めいたことをするとしそこなふ。上手得分下手の損と云も此様なことなり。化と云になっては圣人の域へ進んたゆへ、これからさきは頓とすき次第。御法差合の筆法にはかまはぬ。頓放這邉也是頓放那邉也是七顚八倒無不是。ころんでも倒れても皆道理のなり。時に學者の標的に何の故に權道を云と云に、學者の学問も權道もなる程にまでするでなければ本のことでない。叩馬而諌は権を出さぬなり。化すれば出るなり。そこで中庸或問にあるぞ。或る諸候問會津正之君曰、湯武之放伐はどうも疑はしく存すると云たれば、君答曰、其元は遠国役も勤めらるるゆへ湯武の放伐はすまぬがよしとなり。それ相応に云へばこれなり。孔門子路も化と云ことを知らぬゆへ、孔子が南子に出會はるると御無用々と云。赤心のはだかでとめたことなれとも、何に孔子にその氣遺がいるものぞ。化と云塲に至ては頓と苦労をするに及ぬ。
【解説】
「立而化之、則可與權」の説明。「化」とは、学問で角が取れることで知行の至極である。化すと権ができる。学問を窮めれば権もできるにまで至る。
【通釈】
さて、最後に至善を出して見せる。立てばもう成し遂げたもの。その上に化するのは学問で角が取れること。聖人も賢人も数は同じだが、化すか化さないかの違いがある。立った上に角が取れるということなので、それは至極の聖域に至ったのである。化すというのが知行の至極になったこと。これまでに段々と数多く語るのがこの章の大切。化は至善に詰まる時のこと。ただで成ることはない。ただの者が化めいたことをするとし損なう。上手の得分下手の損と言うのもこの様なこと。化になっては聖人の域へ進んだことなので、これから先は全くの好き次第である。御法差し合い筆法には構わない。「頓放這辺也是頓放那辺也是七転八倒無不是」。転んでも倒れても皆道理の通りである。時に学者の標的に何故権道を言うのかというと、学者の学問も権道もできるほどにまでするのでなければ本物ではないからである。馬を叩いて諌めるのでは権ではない。化すれば権が出る。そこでこのことが中庸或問にある。或る諸侯が会津正之君に、湯武の放伐はどうも疑わしく思うと言うと、君が答えて、貴方は遠国役も勤められるので、湯武の放伐はわからなくてよいと言った。それ相応に言うのであればこうなる。孔門の子路も化ということを知らないので、孔子が南子に出会われるのを御無用なことだと言った。赤心の裸の心で行くのを止めたのだが、何で孔子にその様な気遣いが要るものか。化という場に至っては全く苦労をするには及ばない。
【語釈】
・頓放這邉也是頓放那邉也是七顚八倒無不是…
・會津正之君…保科正之。江戸前期の大名。会津の藩祖。徳川秀忠の庶子。保科氏の養子。会津23万石に封ぜられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を保護。儒学を好み山崎闇斎を聘し、また吉川惟足の神道説を学び、その伝授を得た。諡号は土津霊神。1611~1672
・孔子が南子に出會はるる…論語雍也26。「子見南子、子路不説。夫子矢之曰、予所否者、天厭之。天厭之」。

桀紂のないが仕合せ。もし桀紂があれば孔子は放伐をなさるべし。若林が、放伐を尤といふその人は何に付ても心もとなしと云が、あれを又ただの者のすることではない。あれを尤と云てすることなれば、天下中の學者ははっけ道具なり。そうではない。放伐も湯武のするでよい。尭舜の禅受も尭舜のするでよし。燕の會がすると尤でない。今あれをせよではない。身に体するは放伐より外にまだいかいことあるべし。ここで權道を語るは圣賢の極を知ることなり。太極もすんだ、隂陽もすんだと云そのあとで鬼神の吟味迠する。權道の吟味をするは鬼神の吟味をすると同ことなり。先天天不違。このばに成ては鬼神の様なもの。極々につまったものゆへ何んでも知れぬことはない。権道迠合点すれば道を聞た列になることなり。これまですむと何もかも疑はなくなってくる。何程博識の達才でも、根にすまぬことがあると小兒の暗みを帕了[こはがり]、猫のをきをせせるやうなことあって、くっつりとない塲がある。道學標的でその様な塲迠知ることなり。
【解説】
放伐は普通の者のすることではなく、湯武がするからよいのである。ここで権道を語るのは聖賢の極を知るためであり、権道をしろということではない。
【通釈】
桀紂がいないのは幸せなこと。もしも桀紂がいれば孔子は放伐をなさっただろう。若林が、放伐を尤もと言うその人は何に付けても心元なしと言ったが、放伐は普通の者のすることではない。あれを尤もと言ってするのであれば、天下中の学者は八卦道具である。そうではない。放伐も湯武がするのでよい。堯舜の禅受も堯舜がするでよい。燕の会がすると尤もなことではない。今あれをしなさいと言うのではない。身に体することは放伐より外にまだ大層ある。ここで権道を語るのは聖賢の極を知るためである。太極も済んだ、陰陽も済んだと言うその後で鬼神の吟味までをする。権道の吟味をするのは鬼神の吟味をするのと同じこと。「先天而天弗違」。この場になっては鬼神の様なもの。極々に詰まったものなので何もわからないことはない。権道まで合点すれば道を聞いた列になる。これまでが済むと何もかも疑いはなくなって来る。どれほど博識の達才でも、根に済まないことがあると、小児が暗闇が恐がり、猫が荻をせせる様なことがあって、しっとりとしない場がある。道学標的では、この様な場までを知るのである。
【語釈】
・燕の會…
・先天天不違…易経乾卦文言伝6。「夫大人者、與天地合其德、與日月合其明、與四時合其序、與鬼神合其吉凶。先天而天弗違、後天而奉天時。天且弗違、而況於人乎、況於鬼神乎」。

9
又曰、爲天地立心、爲生民立道、爲去聖繼絶學、爲萬世開太平。
【読み】
又曰く、天地の爲に心を立て、生民の爲に道を立て、去聖の爲に絶學を繼ぎ、萬世の爲に太平を開く。
【補足】
この条は、近思録為学95にある張横渠の語。

又曰為天地云々。天へさしむいた処じゃと合点すべし。天地は向ふのもの。心は我が心ぞ。天地の方へさしむいて立心なり。この心は天地から下されたゆへ天地へさしむいて立心と云が、客に招れて亭主へむいて御馳走と云様なもの。去によって、客がよく食て仕舞と亭主がああよう食て下されたと云。天地から拜領の心、それを立たゆへ天地も悦ぶ筈なり。今日は何か旦那がづんと機嫌がよふごさると云。其筈なり。客が馳走に出したものをよく喰たゆへじゃ。そこでにこはこする。客を招は食はせうとてのこと。そこでよく食へばきげんも好るべきことぞ。人の心は天地からの馳走なり。凡夫はその心をつつきちらかして、しまいには犬の穀器へ入るやふにする。
【解説】
「又曰、爲天地立心」の説明。心は天から下されたものだから、天に向かって立心をすれば天が悦ぶ。凡夫はその心を散らかして台無しにする。
【通釈】
「又曰為天地云々」。天へ差し向いた処と合点しなさい。天地は向こうのもの。心は我が心である。天地の方へ差し向いての立心である。この心は天地から下されたものだから、天地へ差し向いて立心と言うのが、客に招かれて亭主へ向かって御馳走と言う様なもの。そこで、客がよく食ってくれると亭主がああよく食て下されたと言う。天地から拝領の心、それを立てたので天地も悦ぶ筈である。今日は何か旦那がとても機嫌がよいと言う。その筈で、客が馳走に出したものをよく喰ったからである。そこでにこにこする。客を招くのは食わせようとしてのこと。そこで、よく食えば機嫌もよい筈である。人の心は天地からの馳走である。凡夫はその心を突き散らかして、最後には犬の穀器へ入れる様にする。

何もかもじゃ。中庸戒慎恐懼謹、大學に慎獨とある。あれか為天地立心なり。これはぶんなことのやうて、中庸の尊德性、大學の明々德もこのことなり。明にすとは鏡を磨くやうなこと。立は的居を立る様なことなれとも、明徳を明にした処がすぐにこの立のじゃ。この立の字は洪範の有極を建と同し。人間の尊は心なり。手足は禽獣にもある。からだは鯨にまけ、かけることは馬に及ず。然る処、天が人間の方へむいてきさま々々々と云てをるは、心をあてにしたものなり。その心をはきだめへ捨て、鳫につつかせる様なことにする。垩希天も、圣人何をも希ふと考へ見よ。心を立てやうとするなり。そこで中庸章句、垩人能事學問の極功とあり、立ずにをる心を立んとするが明徳を明にするのぞ。
【解説】
中庸の尊徳性、大学の明明徳が立心である。立たずにいる心を立てようとするのが明徳を明にすることである。
【通釈】
何もかもである。中庸に戒慎恐懼謹、大学に慎独とある。あれか為天地立心である。これは特別なことの様だが、中庸の尊徳性、大学の明明徳もこのこと。明にすとは鏡を磨く様なこと。立は的を立てる様なことだが、明徳を明にした処が直にこの立のこと。この立の字は洪範の有極を建てるのと同じ。人間が尊いのは心である。手足は禽獣にもある。体では鯨に負け、駆けることでは馬に及ばない。それなのに、天が人間の方へ向いて貴様々々と言うのは、心を当てにしたもの。その心を掃き溜めへ捨て、鳶に突かせる様なことにする。「聖希天」も、聖人は何を希うのかを考えて見なさい。心を立てようとするのである。そこで中庸章句に「聖人能事学問之極功」とあり、立たずにいる心を立てようとするのが明徳を明にすること。
【語釈】
・戒慎恐懼謹…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎。道也者、不可須臾離也。可離、非道也。是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫見乎隱、莫顯乎微。故君子愼其獨也」。
・慎獨…大学章句6。「所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必愼其獨也」。
・中庸の尊德性、大學の明々德…中庸章句27と大学章句経1の語。
・有極を建…書経洪範。「五。皇極。皇建其有極。斂時五福。用敷錫厥庶民」。
・垩希天…近思録為学1の語。
・垩人能事學問の極功…中庸章句1集註。「此學問之極功、聖人之能事、初非有待於外、而脩道之敎亦在其中矣」。

為生民立道は大學の新民にあたるなり。立道とて向の方へ手本を書てやることではない。こちをよくするで向がよくなる。こちの飲んでよくなった藥を人にもやること。こちのした通りを向へさせる。五倫を始め毎日行た通りをやるなり。舜為法於天下可傳於後世も向へ手本を書て出すに非ず。舜の孝行であのひびきのない瞽叟が底豫なり。これで天下の孝行の相塲が立ったぞ。このことを羅仲素、天下の為父子者定と云へり。為去垩継絶學。さて々々どれも大きなことともなり。垩人は萬世を思はるるゆへ精一から固執中の訓、それから大學にあること皆天下萬世の人をよくしやふとの思召なり。今のことをよくするは今の人にもあること。垩賢のすることは万世へ傳ることなり。一寸それぎりのことに非ず。垩賢はあれがどうのこれがこうのと云ことはない。親炙するものはもとよりのこと。尭舜の道を孔孟が継れ、孔孟の後は程朱が継れた。直方先生の道學標的を編るるも継れたのなり。
【解説】
「爲生民立道、爲去聖繼絶學」の説明。「為生民立道」は大学の新民であり、自分をよくするのが民に及ぶのである。堯舜の道を孔孟が継がれ、孔孟の後は程朱が継がれた。
【通釈】
「為生民立道」は大学の新民に当たる。立道と言っても向こうの方へ手本を書いて遣ることではない。こちらをよくするので向こうがよくなる。自分が飲んでよくなった薬を人にも遣ること。こちらのした通りを向こうにさせる。五倫を始め、毎日行った通りを人にする。「舜為法於天下可伝於後世」も向こうへ手本を書いて出したのではない。舜の孝行であの響きのない瞽瞍が厎豫である。これで天下の孝行の相場が立った。このことを羅仲素が、天下の父子たる者を定むと言った。「為去聖継絶学」。実にどれも大きなことである。聖人は万世を思われるので精一から固執中の訓、それから大学にあることが皆天下万世の人をよくしようとの思し召しなのである。今のことをよくするのは今の人にもあることだが、聖賢のすることは万世へ伝えることであって、一寸それだけで済む様なことではない。聖賢にあれがどうのこれがこうのということはない。親炙する者は固よりのことで、堯舜の道を孔孟が継がれ、孔孟の後は程朱が継がれた。直方先生が道学標的を編まれたのも継がれたのである。
【語釈】
・舜為法於天下可傳於後世…孟子離婁章句下28。「舜爲法於天下、可傳於後世。我由未免爲鄕人也。是則可憂也」。
・瞽叟が底豫…孟子離婁章句上28。「舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化。瞽瞍厎豫而天下之爲父子者定。此之謂大孝」。
・羅仲素…
・精一から固執中…中庸章句序。「其曰、擇善固執、則精一之謂也。其曰、君子時中、則執中之謂也」。

ここで去垩の方へむくことなり。さて、自ら重んずへきことぞ。一日かせぎの啇ひことをするやうなことではならぬ。たをした道をその分ではをかぬことなり。漢唐の間の絶學を継れたがすぐに万世の為めに開太平なり。道理を合点して道理の通りを述るが開太平になる。西銘や東銘を讀で見よ。仁の種をまく、仁者がはへてくる。仁者がはへれば自ら天下は太平になることなり。川邑ずいけんが神田川を開き、角倉こういが高瀬川を開て後代迠人々よろこふが、ここの開太平は中々その様なことではない。直方先生の道學標的を作たが為万世開太平なり。
【解説】
「爲萬世開太平」の説明。道理を合点して道理の通りを述べると開太平になる。漢唐の間の絶学を継れたのが「為万世開太平」である。
【通釈】
ここで去聖の方へ向いた。さて、自ら重んじなければならない。一日稼ぎの商い事をする様なことではならない。倒れた道をそのままでは置かないこと。漢唐の間の絶学を継れたのが直に万世のために太平を開くこと。道理を合点して道理の通りを述べるのが開太平になる。西銘や東銘を読んで見なさい。仁の種を蒔くと仁者が生えて来る。仁者が生えれば自ら天下は太平になる。河村瑞賢が神田川を開き、角倉了以が高瀬川を開いたのは後代までの人々が喜ぶことだが、ここの開太平は中々その様なことではない。直方先生が道学標的を作たことなどが「為万世開太平」である。
【語釈】
・西銘や東銘…近思録為学89。張横渠著。
・川邑ずいけん…河村瑞賢。江戸前期の商人・土木家。瑞見・瑞軒とも書く。十右衛門・平太夫と称。伊勢の人。地理・土木の術に長じ、安治川・淀川・中津川の治水工事、また東回り・西回り航路を完成。これらの功で旗本に登用された。1618~1699
・角倉こうい…角倉了以。江戸初期の豪商・土木家。名は光好。洛西嵯峨に住む。算数・地理を学び、1604年(慶長九)頃より安南国に朱印船(角倉船)を派遣して貿易を営む。嵯峨の大堰川・富士川・天竜川の水路を開き、また、京都に高瀬川を開削。1554~1614

きっとした學者が朱子をして朝鮮人と筆談をして喜び、又、明朝の乱で唐人が長﨑へ来て居た。そこへ詩文遺り唐人が譽たれば喜だ學者もあるが、いかいたはけぞ。唐も馬鹿が多いに日本のばかが沢山なり。道を聞子ばあほうどしの寄合なり。唐人が誉めたとて何に役に立つものぞ。それをうれしがるは心が小さい。ずんと初心なことなり。學者も、急度した先生がぶになりてもくっと吹き出すやうなをかしきことを眞顔になりてしてをる。その様なことがあっては、何程學問しても為去垩継絶學の、為萬世開太平のと云望はかけられぬことなり。四つの為と云字をよく見よ。標的はここに見ことそ。みなしてとることなり。吾黨の尊ひがここの処ぞ。家中者が何程供をつれても御直参は、あれは倍臣じゃと軽んずる。爰の事業は去垩萬世とくるゆへ、いこふ大ひことなれとも、これ程なことのなるを道學標的と云。これがならぬなれば識趣卑陋と云。さま々々のことを知りても、とんと役に立ぬこと。
【解説】
ここに四つある為という字が標的である。「去聖万世」ほど大きなことをするのが道学標的であり、これができなければ「識趣卑陋」である。
【通釈】
大層な学者が朱子学をして朝鮮人と筆談をしたことを喜び、また、明朝の乱で唐人が長崎へ来ていたのでそこへ詩文を遣って、唐人が誉めたのを喜んだ学者もいるが、大層な戯けである。唐も馬鹿が多いが日本にも馬鹿が沢山いる。道を聞かなければ阿呆同士の寄り合いである。唐人が誉めたとして何の役に立つものか。それを嬉しがるのでは心が小さい。それはかなり初心なこと。学者も、大層な先生株になってもぐっと吹き出す様な可笑しいことを真顔になってしている。その様なことがあっては、どれほど学問をしても「為去聖継絶学」や「為万世開太平」という望みは掛けられない。四つの為という字をよく見なさい。標的はこれと見ること。皆し遂げること。我が党の尊いのがここの処。家中の者がどれほど供を連れても御直参は、あれは陪臣だと軽んじる。ここの事業は「去聖万世」と来るので大層大きいことなのだが、これほどのことの成ることを道学標的と言う。これができなければ「識趣卑陋」と言う。様々なことを知っても、それでは全く役に立たたない。

娘子ともが袖を通さぬ小袖が十あると云ひ、またあるとて笄を出す。男子は笑ふことなり。大儒と云が十方もないことをするぞ。舜水と云者先年水戸様へ来たが、何んに道學の役に立つものではあるまい。朱子の後とて貴ぶは俗見なり。それから上は漢の孔安国、道理沙汰はとんとない。直方先生が、為と云字四つあるが肉身の為はないと云れた。垩賢をかさに着て肉身の田へ水を引きたがる。三綱領の注でも中庸徳性の注でも人欲と云字出てをる。學問はとかく人欲をなくすこと。ここの段になって學問のあたになる欲げはない。肉身をけて理のなりなり。それを明々德と云ひ、又、尊德性とも云ふ。餘のことはひまがあらばするがよい。
【解説】
直方先生が、為という字が四つあるが肉身の為はないと言われた。学問は人欲をなくすことであり、そこで明明徳と言い、尊徳性とも言う。
【通釈】
娘子供が袖を通さない小袖が十あると言い、まだあると言って簪を出す。それは男子なら笑うこと。大儒という者が途方もないことをする。舜水という者が先年水戸様のところへ来たが、道学の役に立つ者ではないだろう。朱子の後と言って貴ぶのは俗見である。それから上は漢の孔安国で、道理沙汰は全くない。直方先生が、為という字が四つあるが肉身の為はないと言われた。聖賢を笠に着て肉身の田へ水を引きたがる。三綱領の注でも中庸徳性の注でも人欲という字が出ている。学問はとかく人欲をなくすこと。ここの段になれば学問の仇になる欲気はない。肉身を置いて理の通りである。それを明明徳と言い、また、尊徳性とも言う。他のことは暇があればすればよい。
【語釈】
・舜水…朱舜水。明末(江戸前期)の儒学者。名は之瑜、舜水は号。浙江省余姚の人。実学を重んじ、礼法や建築にも精通。明の再興を企てて成らず、1659年(万治二)日本に亡命・帰化し、徳川光圀に聘せられた。諡して文恭先生。著「舜水先生文集」など。1600~1682
・孔安国…前漢の儒者。字は子国。孔子12世の孫。武帝の初年、孔子の旧宅から得た蝌蚪文字で記された古文尚書・礼記・論語・孝経を、当時通用の文字と校合して解読し、その学を伝えた。また、これらの書の伝を作った。

世間の學問たはいはない。中原還逐鹿と云。几の上で三味線を引くも同じこと。それから五雜葅などが無極と云は蛇に足をそへたと云ひ、そのあとには十方もないことがある。それが何の役に立こと。それも書之論語と一つに几案の上にあれはもう一へん見たいなどと云ひ、又、新板ものはないかと云。新板ものを尋るひまに大學を熟したら學問が上るで有ふ。さて銭をもってつかはぬものを守銭奴と云。今の學者は書物を土用干をしては仕舞てをく。書物の番をする様なもの。守銭奴の筋なり。又、たま々々書物を見るものは役に立ぬことに骨を折る。李伯戯杜子美云、借問す、別来太痩生、總て為從来作詩苦。此様なものて、書籍にのみくったくしてはならぬことなり。今日の学者は章句の區々として白髪になるまで書物にくっついて役に立ぬ。朱子の詩に川源の紅緑一時新なり、暮而朝晴れて更可人書冊埋頭何日了とあり、この詩をゆさんのことと見ては違う。ただ書を読では役に立ぬなり。兎角朝聞道と云処に見処のないうちは垩學の話はならぬことなり。
【解説】
今の学者は書物の番をする様なもので、守銭奴の筋である。また、たまに書物を見る者は役に立たないことに骨を折る。書籍にのみ屈託してはならない。朝聞道という処に見処のない内は聖学の話はできない。
【通釈】
世間の学問は他愛ない。「中原還逐鹿」と言う。それは机の上で三味線を引くのも同じこと。それから五雑俎などが、無極とは蛇に足を添えたものだと言い、その後には途方もないことがある。それが何の役に立つのか。それも書として論語と一所に机案の上にあればもう一遍見たいなどと言い、また、新板物はないかと言う。新板物を尋ねる暇に大学を熟せば学問が上がることだろう。さて銭を持って使わない者を守銭奴と言う。今の学者は書物を土用干しては仕舞って置く。それは書物の番をする様なもので、守銭奴の筋である。また、偶々書物を見る者は役に立たないことに骨を折る。李白が杜子美に戯れて言った。「借問、別来太痩生、総為従来作詩苦」。この様なもので、書籍にのみ屈託してはならない。今日の学者は章句に区々として白髪になるまで書物にくっ付いて役に立たない。朱子の詩に「川源紅緑一時新、暮而朝晴更可人書冊埋頭何日了」とあり、この詩を遊山のことと見ては違う。ただ書を読むだけでは役に立たない。とかく朝聞道という処に見処のない内は聖学の話はできない。
【語釈】
・中原還逐鹿…魏徴の述懐詩。
・五雜葅…五雑俎。随筆。一六巻。明の謝肇淛著。天・地・人・物・事の五部門に分けて記す。1619年成る。
・借問す、別来太痩生、總て為從来作詩苦…
・川源の紅緑一時新なり、暮而朝晴れて更可人書冊埋頭何日了…

10
又曰、二程從十四五時、便鋭然欲學聖人。
【読み】
又曰く、二程は十四五の時より、便ち鋭然として聖人を學ばんと欲せり。
【補足】
この条は、近思録聖賢26にある張横渠の語。

又曰二程云々。迂斎先生が不筭用なことと云れた。垩人のことはさてをき、若ひ時は朝起もなりか子、一寸した癖もなをされぬものなり。二程の十四五で垩人にならふと思召たが、御二人とも圣人になられぬ。然れば役に立ぬかと云に、道學標的ではその不筭用を手本にすることなり。既に孟子が尭舜を稱して尭舜の様にならずに仕舞れた。標的と云からは何んで有ふと圣人を學ぶことなり。何にをあてどに、圣人を學ぶことと云て合点せよ。圣人を希ふと云へば性善合点したもの。性善を合点すればあれほど遠大な垩人でも行かるると云。此を合点したものなり。小兒のときは母の側に居る。それが成人すると長﨑迠もゆくぞ。あれほど遠ひ道なれとも、行く理があるゆへ行かるるなり。空へはとんと行れぬ。あそこの雀のをる処へも行かれぬなり。なぜ行れぬなれば、行く理がないゆへなり。
【解説】
二程は十四五の時に聖人になろうと志し、結局は聖人にはなれなかった。孟子も堯舜を目指したものの、同じく、堯舜に至ることはできなかった。しかし、どれほど遠くても、そこには行ける理があるのである。
【通釈】
「又曰二程云々」。迂斎先生が不算用なことだと言われた。聖人のことはさて置き、若い時は朝起きもしかねて、一寸した癖も直せないもの。二程は十四五で聖人になろうと思し召したが、御二人共聖人にはなれなかった。それなら役に立たないかと言うと、道学標的ではその不算用を手本にする。既に孟子が堯舜を称しながらも堯舜の様にならずに終えた。標的と言うからは、何があっても聖人を学ぶのである。何を当てにするのか、それは聖人を学ぶことだと合点しなさい。聖人を希うと言うのは性善を合点したこと。性善を合点すれば、あれほど遠大な聖人へでも行くことができると言う。これを合点したのである。小児の時は母の側にいる。それが成人すると長崎までも行く。あれほど遠い道であっても、行く理があるので行くことができる。空へは全く行くことができない。あそこの雀がいる処へも行けない。何故行けないのかと言うと、行く理がないからである。

二程は理なりを行んとして従十四五時脱然としてかかりたもの。今日の學者は脱然の氣象がないと郷愿徳之賊也になる。あとさきなしにつっと出る。横渠などがつっと出られた。あれも不筭用なことなり。今日生れ付の甲斐ない人はたをれもしようが、たをれふとも出る□□が脱然ぞ。今日の人も道中へ出る時は脱然なものなり。この脱然と云でしてとることぞ。虎と見て石に立つ矢がこれなり。こちの心が脱然ゆへ、をれぐらいな劔術で人を殺すことはなるまいの、ためしてなんのと云ことはない。ずっと歒討に出る。この段はその脱然を標的にすること。とかくに脱然でないもの□□。脱然らしふ見へても、人の居ぬとき脱然が脱然でないかと思ふて筭用して見ると、脱然はない。直方先生壮年鞭策録を編集なされて、あれてすむ思召なれとも、世の中の學者のていを見られて、ああではあるまいと此書を編む。これ、仁の氣象なり。道學標的の編集、道を任ずるの深きなり。
【解説】
脱然であればずっと出るもの。脱然がここの標的である。直方先生は壮年の時に鞭策録を編んだが、今の学者のことを考えて道学標的を編んだ。これは直方の仁の気象からのこと。
【通釈】
二程は理の通りを行おうとして「従十四五時脱然」として掛かった。今日の学者は脱然の気象がないので「郷愿徳之賊也」になる。後先なしにずっと出なければならない。横渠などがずっと出られたが、あれも不算用なこと。今日生まれ付きの甲斐ない人は倒れもしようが、倒れるとしても出るのが脱然である。今日の人も道中へ出る時は脱然とする。この脱然でして取るのである。虎と見て石に立つ矢がこれである。こちらの心が脱然なので、俺程度の剣術で人を殺すことはできないだろうとか、試しで何のと言うことはない。ずっと敵討ちに出る。この段はその脱然を標的にすること。とかくに脱然でないもの。脱然らしく見えても、人がいない時に脱然か脱然でないかと思って算用して見ると、脱然ではない。直方先生が壮年の時に鞭策録を編集なされたので、あれで済む思し召しなのだが、世の中の学者の姿を見られて、ああではないだろうと思ってこの書を編んだ。これが仁の気象である。道学標的の編集は道を任ずることが深いからできたもの。
【語釈】
・郷愿徳之賊也…論語陽貨13。「子曰、鄕原、德之賊也」。