天下只是這道理條  八月二十六日  惟秀録
【語釈】
・八月二十六日…寛政7年(1795)8月26日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

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天下只是這道理、終是走不得。如佛老雖是滅人倫、然自是逃不得。如無父子、却拜其師、以其弟子爲子。長者爲師兄、少者爲師弟。但是只護得箇假底。聖賢便是存得箇眞底。語類百二十六下同。
【読み】
天下は只是れ這の道理にして、終に是れ走りて得ず。佛老が如きは是れ人倫を滅すと雖も、然れとも自ら是れ逃げて得ず。父子無きが如きは、却って其の師を拜し、其の弟子を以て子と爲す。長者を師兄と爲し、少者を師弟と爲す。但是れは只箇の假底を護り得。聖賢は便ち是れ箇の眞底を存し得。語類百二十六下同。

此条はやはり前の答陳衛道書の条を此条てとめたもの。天下只是。天下の字、とこへ行てもと云こと。とこへ行ても道理と云より外なしかたのないもの。走不得。とこへ行ても這道理じゃゆへ、外へ出やふのないもの。直方先生の、魚は水を離れてはたらかれぬもの、と。雖是滅人倫、然自是逃不得。佛か人倫を滅すと云ても、思ふやふにははなれられぬもの。爰らは人か不審を云はふ。初め佛老とあるが、老子は人倫を絶ちはせぬ、と。釈氏は表向から滅した。老子は妻子もあるが、老子は人倫を絶ちはせぬ、と。釈氏は表向から滅した。老子は妻子もあるが、無為と云道ゆへすててをけ、あれなり次第と云。そこか滅した処。荘子か天下の大戒二、一は命也、一は義也云云、父子也君子也不可解於心、無所逃於天地之間。老子の意ぞ。あれらかこまりものそ。天倫のない国はない。
【解説】
道理以外の仕方はないから、仏が人倫を滅すると言っても、思う様にはならない。老子は人倫を絶たたないと言うが、老子は無為だから人倫を滅するのである。
【通釈】
この条は、やはり前の答陳衛道書の条をこの条で止めたもの。「天下只是」。天下の字は、何処へ行ってもということ。何処へ行っても道理より外の仕方はない。「走不得」。何処へ行っても「這道理」なので、外の仕方はない。直方先生が、魚は水を離れては動けないものだと言った。「雖是滅人倫、然自是逃不得」。仏が人倫を滅すと言っても、思う様には離れられないもの。ここ等では人が不審を言う。初めに仏老とあるが、老子は人倫を絶ちはしないと言う。釈氏は表向きから滅した。老子は妻子もあり、人倫を絶ちはしないとと言う。釈氏は表向きから滅した。老子は妻子もあるが、無為という道なので、捨てて置け、あれなり次第だと言う。そこが滅した処。荘子が「天下大戒二、一命也、一義也云云、父子也君子也不可解於心、無所逃於天地之間」。これが老子の意である。あれ等が困ったもの。天倫のない国はない。
【語釈】
・天下の大戒二…荘子内篇人間世。「仲尼曰、天下有大戒二。其一、命也。其一、義也。子之愛親、命也。不可解於心。臣之事君、義也。無適而非君也。無所逃於天地之間、是之謂大戒」。

自足逃不得。申生はそこそ知て有無父母之国乎と云た。道理は夜かあけると戸をあける。日かくるる、戸をたてると云たやふなもので、この外の流義な国はない。老佛とありても爰は佛か主た。そこて僧も師匠を親のやふにする。兄弟子を兄のやふにする。先軰からあの方によみに師兄[すひん]師弟[すてい]とよみ来りた。をかしいことて、父母をすてて寺へはいりてこんなことかある。うその兄弟を尊ぶ。眞底。本の兄弟だ。此方て書簡に吾より上なものを老兄と書くは本の兄弟をひろげたのだか、本の兄弟親子はすてて師兄師弟と云。只□かりものだ。本を二つにしたぞ。まだをかしいには、本の兄弟のことをはあれは俗縁の兄弟じゃと云。俗と云字もをかしい。日本人か和様を俗様たと云。俗か吾国たに、これも唐すきゆへのこと。假底は迂斎の、狂言の頼朝公た、と。道てあふてはあたまをさげるに及はぬ。假底、うれしくないもの。
【解説】
仏は本当の親を捨てて、仮底の師匠や兄弟子を親兄の様にする。更に、本当の兄弟を俗縁だと言う。
【通釈】
「自足逃不得」。申生はそこを知ていたので「有無父母之国乎」と言って死んだ。道理は夜が明けると戸を開け、日が暮れると戸を立てるという様なもので、この外の流儀の国はない。老仏とあるが、ここは仏が主である。そこで僧も師匠を親の様にする。兄弟子を兄の様にする。先輩から、あの方では師兄[すひん]師弟[すてい]と読み来た。可笑しいことで、父母を捨てて寺へ入ってもこんなことがある。嘘の兄弟を尊ぶ。「真底」。本当の兄弟。こちらで書簡に自分より上な者を老兄と書くのは本当の兄弟を広げたものだが、本当の兄弟親子を捨てて師兄師弟と言う。それは「只護得箇仮底」である。本を二つにした。まだ可笑しいことには、本当の兄弟のことを、あれは俗縁の兄弟だと言う。俗という字も可笑しい。日本人が和様を俗様だと言う。俗が吾国だと、これも唐好きだからである。迂斎が、仮底は狂言の頼朝公だと言った。道て逢っても頭を下げるには及ばない。仮底は嬉しくないもの。
【語釈】
・申生…春秋晋国。献公は驪姫を寵愛し、驪姫は自分の子の奚斉を太子に立てようとして申生を讒言する。


釈氏更不分善悪の条
25
釋氏更不分善惡。只尊向他底便是好人、背他底便入地獄。若是箇殺人賊、一尊了他、便可生天。大雅云、于頔在傳燈録爲法嗣、可見。曰、然。
【読み】
釋氏は更に善惡を分かたず。只他を向するを尊ぶ底は便ち是れ好人、他に背く底は便ち地獄に入る。是れ箇の人を殺す賊の若きは、一に他を尊了し、便ち天に生ず可し。大雅云う、于頔傳燈録に在る法嗣爲り、見る可し。曰、然り。

更の字、不断のあてかいとちとちがふそ。爰は曽てと云字にまわる。下の語意を廻して見たときかさふぞと、いつも更の字はもふ一つと云こと。欲窮千里目更上一層樓のるいぞ。それとは違ふ。只尊向他底便是好人。あちを尊ふものはよいにまわる。あちを背くは地獄に入る。すれは周茂叔から朱子迠は地獄に入る。人を殺したやつも布施すると奇特なと云。佛を拜するものはたれでもよいにきめたもの。善悪を分たぬか趣向そ。善悪を分つ段はあの方てもきめ手はならぬ。只佛を拜するものはだれでもよいにきめたもの。善悪を分たぬか趣向そ。善悪を分つ段にはあの方てもきめてはならぬか、只佛を拜するものはよいにきめたこと。坊主にさへなれは得道と云。得道心之ない。迂斎の、傾城遊女巾着切ても観音をそこへをいて拜むにしたもの、と。其やふなものに拜さるるはけかれと訶りそうなもの。観音どころではないと云そふなものに、善悪を分たぬか趣向ゆへ、知惠を出さぬから呵られた。
【解説】
「釋氏更不分善惡。只尊向他底便是好人、背他底便入地獄。若是箇殺人賊、一尊了他、便可生天」の説明。仏は、仏を尊ぶ者はよい方に廻り、背く者は地獄に入ると言う。善悪を分かたないのが仏の趣向である。
【通釈】
「更」の字は普段の宛がいとは一寸違う。ここは曾てという字に近い。下の語意を廻して見た時がこうだということ。いつもの更の字はもう一つということで、「欲窮千里目更上一層楼」の類である。それとは違う。「只尊向他底便是好人」。あちらを尊ぶ者はよい方に廻る。あちらに背く者は地獄に入る。それなら周茂叔から朱子までは地獄に入る。人を殺した奴も布施をすると奇特だと言う。仏を拝する者は誰でもよいと決めたもの。善悪を分かたないのが趣向である。善悪を分かつ段は、あちらでは決めない。ただ仏を拝する者は誰でもよいと決めたもの。坊主にさえなれば得道と言うが、得道心はない。迂斎が、傾城遊女巾着切りでも観音をそこへ置いて拝めばよいとしたものだと言った。その様な者に拝されるのは汚れだと訶りそうなもの、観音どころではないと言いそうなものなのに、善悪を分かたないのが趣向なので、知恵を出さないから呵られた。
【語釈】
・欲窮千里目更上一層樓…登鶴雀樓。王之渙。「白日依山盡、黄河入海流。欲窮千里目、更上一層樓」。

于頔。唐のものでけがらわしい男だが、在傳燈録た。近思録にのりたと云ほとのこと。其上のりた計りか法嗣の、これははっすとよむかよい、道統の弟子になることを云。たんてき云へは大德寺帳面に沢菴はたれか法嗣、江羽はたれが法嗣とあるが此こと。曰然。こなた曰く氣かついた。なるほどさうじゃとなり。于頔を大酒のみ、不身持と云ことてはない。七賢は達底なことはきれいなことだ。そんなやつか傳燈録の中に有るは聞へたか、于頔はことの外立身願ひだか、久しく滞りて居た。それてうと々々したをたましたものがある。拙者は内縁ありてとり入らるると云たれは、于頔か賂をつかふたがうそてありた。そこて腹を立てて、于頔か子か其ものの家来を打ころしたかどふかした。それて頔か子は遠嶋され、頔も御咎めにあふた。それかどふかして禅になり、印可になりたのぞ。合点のいかぬ、とほふもないことなり。
【解説】
「大雅云、于頔在傳燈録爲法嗣、可見。曰、然」の説明。頔の子は遠嶋され、頔も御咎めに遭ったのだが、彼は僧になって印可を得た。それは途方もないこと。
【通釈】
于頔。唐の者で汚らわしい男だが、伝灯録にある。それは近思録に載るというほどのこと。その上、載ったばかりか法嗣だと言う。これははっすと読むのがよい、道統の弟子になることを言う。端的に言えば、大徳寺の帳面に沢菴は誰の法嗣、江羽は誰の法嗣とあるのがここのこと。「曰然」。貴方が言うのは、よく気が付いた。なるほどそうだと言う。于頔は大酒飲み、不身持ということではない。七賢は達底なことではきれいなもの。その様な奴が伝灯録の中にあるのはよくわかるが、于頔は殊の外立身願いで、久しく滞っていた。それでうとうととしていたのを騙した者がいた。私には内縁があるので取り入ることができると言うので于頔が賂を使ったが、それは嘘だった。そこで腹を立てて、于頔の子がその者の家来を打ち殺したかどうにかした。それで頔の子は遠嶋され、頔も御咎めに遭った。それがどうかして禅になり、印可を得たのである。合点の行かない、途方もないこと。
【語釈】
・于頔…字允元。河南の人。
・沢菴…江戸初期の臨済宗の僧。名は宗彭。但馬の人。諸大名の招請を断り、大徳寺や堺の南宗寺等に歴住。品川に東海寺を開く。1573~1645
・江羽…


德粹問人生即是氣の条
26
德粹問、人生即是氣。死則氣散。浮屠氏不足信。然世間人爲惡死、若無地獄治之、彼何所懲。曰、吾友且説。堯舜三代之世無浮屠氏、乃比屋可封、天下太平。及其後有浮屠、而爲惡者滿天下。若爲惡者必待死然後治之、則生人立君又焉用。滕云、嘗記前軰説。除却浮屠祠廟、天下便知向善。莫是此意。曰、自浮屠氏入中國、善之名便錯了。渠把奉佛為善。如脩橋道造路、猶有益於人。以齋僧立寺爲善、善安在。所謂除浮屠祠廟便向善者、天下之人既不溺於彼、自然孝父母、悌長上、做一好人。便是善。
【読み】
德粹問う、人の生れくるは即ち是れ氣なり。死すれば則ち氣散ず。浮屠氏は信ずるに足らず。然して世間の人は惡を爲るが死して、若し地獄に之を治むる無くば、彼何の懲らす所あらん、と。曰く、吾が友且つ説く。堯舜三代の世に浮屠氏無く、乃ち比の屋封す可く、天下太平なり。其の後浮屠有るに及んで、惡を爲る者天下に滿つ。若し惡を爲る者必ず死することを待ちて然る後之を治めば、則ち生人君を立つるを又焉んぞ用いん、と。滕云う、嘗て前軰の説を記す。浮屠が祠廟を除却し、天下便ち善に向くを知る、と。是れ此の意なること莫きや。曰く、浮屠氏の中國に入りてより、善の名便ち錯了す。渠は佛を奉ずるを把まえて善と爲す。橋道を脩めて路を造るが如きは、猶人に益有り。僧に齋し寺を立つを善と爲さば、善安くにか在る。謂う所の浮屠が祠廟を除いて便ち善に向くとは、天下の人既に彼に溺れず、自然に父母に孝し、長上に悌し、一好人と做る。便ち是れ善なり。

人生是氣。死則氣散。浮屠氏不足信。勝德粹がこちですましたことを云た。爰かすまぬゆへ佛に迷ふが、生た氣か散りたとをもへはそれきりのこと。佛に迷ふことはない。学問てもするものには用心はいらぬと云た。このあとか替ったことを云たぞ。これは合点した以上のことだか、柏子木打や番太郎、かるいもののわるいことをするに地獄て大きな目にあふぞと云もよからふぞとなり。こんなこと云が物に行き届くから出ることたが、大の欲見だ。太宰なとが先王の礼楽を尊んて往古々々と云なから、芝居も立子は放蕩無頼の者のゆき路ちはき塲かないと云た。さりとは丁寧千万なことだ。放鄭声遠佞人ですんだことじゃに、あぢな世話をしたもの。德粹もそれに似た。佛法も又仲間小ものの樂しにはよかろふとなり。且説とは、きさまのやふに云はずとこふ云やれなり。
【解説】
「德粹問、人生即是氣。死則氣散。浮屠氏不足信。然世間人爲惡死、若無地獄治之、彼何所懲。曰、吾友且説」の説明。徳粋が、軽い者には、仏が悪いことをすると地獄で大きな目に遭うと言うのもよいだろうと言った。
【通釈】
「人生是気。死則気散。浮屠氏不足信」。勝徳粋がこちらで澄ましたことを言った。ここが済まないので仏に迷ったが、生きた気が散ったと思えばそれだけのことで、仏に迷うことはない。学問でもする者には用心は要らないと言った。この後で変わったことを言った。これは合点した以上のことだか、拍子木打ちや番太郎などの軽い者に悪いことをすると地獄で大きな目に遭うぞと言うのもよいだろうと言う。こんなことを言うのは物に行き届くことから出たことだが、大の欲見である。太宰なとも先王の礼楽を尊んでよく往古と言うが、芝居もなければ放蕩無頼の者の行き路、掃き場がないと言った。実にそれは丁寧千万なこと。「放鄭声遠佞人」で済むことなのに、変な世話をした。徳粋もそれに似ている。仏法もまた中間や小者の楽しみにはよいだろうと言うのである。「且説」は、貴様の様に言わずに、この様に言いなさいということ。
【語釈】
・放鄭声遠佞人…論語衛霊公10。「顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅。服周之冕。樂則韶舞。放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆」。

尭舜三代之世無浮屠氏。佛法はわたらぬか、比屋可封。本町の新道、彼先日の弓町あたりのものても大名にしてもよいと云こと。三代の時は悪人は無ったか、佛法か渡って後悪人か多い。必待死然後治之、則生人立君又焉用。人て治めるは垩人だ。六行、孝友睦婣任恤。郷の八刑、これにそむくものは生人立居だ。皋陶と云役人かある。ぬるけた男はない。東金の誾斎が神道になる氣はないが、又君臣の義には足りになると云。そふ云と小学の君臣の義は半分て、神道を足すで丁どになると云のぞ。それは俗見だ。德粹と太宰誾斎三人同挌の云分なり。除却浮屠祠廟、天下便知向善。爰て天下中の寺を打こわしたらばよくならふと云。あちて善々と云ゆへ、こちは知惠のあかるくなるを云。あちはそふない。こちは道理の名なり。中庸にも明善、大学の至善。善はこちの字だか、あいらが取りて、佛を信するものを善知識と云。ここの先軰は伊川なり。
【解説】
「堯舜三代之世無浮屠氏、乃比屋可封、天下太平。及其後有浮屠、而爲惡者滿天下。若爲惡者必待死然後治之、則生人立君又焉用。滕云、嘗記前軰説。除却浮屠祠廟、天下便知向善。莫是此意。曰、自浮屠氏入中國、善之名便錯了。渠把奉佛為善」の説明。仏教が渡る前に悪人はいなかった。人で治めるのが聖人であり、皋陶の様な役人がいたから悪人はいなかったのである。誾斎が神道が君臣の義の足しになると言った。それは徳粋や太宰と同じ言い分である。
【通釈】
「堯舜三代之世無浮屠氏」。仏法の渡って来ない時が、「比屋可封」。本町の新道や、あの先日の弓町辺りの者でも大名にしてもよいということ。三代の時は悪人はなかったが、仏法が渡って後は悪人が多い。「必待死然後治之、則生人立君又焉用」。人で治めるのが聖人。六行の孝友睦婣任恤があり、郷の八刑に背く者は糾す。これが生人立居である。皋陶という役人がいたから温けた男はいない。東金の誾斎は神道になる気はないが、また君臣の義には足しになると言う。その様に言うと小学の君臣の義は半分で、神道を足すので丁度になるということになる。それは俗見である。徳粋と太宰、誾斎の三人は同格の言い分である。「除却浮屠祠廟、天下便知向善」。ここで天下中の寺を打ち壊せばよくなるだろうと言った。あちらで善と言うが、こちらは知恵が明るくなることを言う。あちらはそうではない。善はこちらでは道理の名である。中庸にも明善、大学の至善とあり、善はこちらの字だか、彼等が取って、仏を信ずる者を善知識と言う。ここの先輩は伊川である。
【語釈】
・六行…周礼地官司徒。「以鄕三物敎萬民、而賓興之。一曰六德、知・仁・聖・義・忠・和。二曰六行、孝・友・睦・姻・任・恤。三曰六藝、禮・樂・射・御・書・數」。
・郷の八刑…周礼地官司徒。以鄕八刑糾萬民。一曰不孝之刑、二曰不睦之刑、三曰不姻之刑、四曰不弟之刑、五曰不任之刑、六曰不恤之刑、七曰造言之刑、八曰亂民之刑」。
・誾斎…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。友部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)

脩橋。道橋や路の脩覆するは益はある。これを公儀へかけて云ずに佛へかけて云こと。寺について路の出来たことじゃ。寺て橋をかけたこと。こんなことは一つ人の益にもなるから善とも云へきが、以斎僧立寺為善。坊主に飯をくわせたり寺を立たり、何の益に立ぬ。其上あちでもあまり寺を立るは不經済だ。日蓮なと寺をさふな僧てはないが、天台の義学から出たものゆへ檀所の多ひがよいと見たもの。そふではない。学問をすると僧も浮靡になり、人の信向がうすくなる。寺も少ひかよい。寺か少なけれは老僧はかりなをる。今寺か多ひからよい僧か多くあるものではない。皆凡僧か寺をもつ、佛道をひくくする。某なと、大名衆て学校を立たり家中へ書物々々と世話のある方もあるが、某か書物々々と急がぬがそこの処ぞ。
【解説】
「如脩橋道造路、猶有益於人。以齋僧立寺爲善、善安在。所謂除浮屠祠廟便向善者、天下之人既不溺於彼、自然孝父母、悌長上、做一好人。便是善」の説明。坊主に飯を食わせたり寺を建てたりするのは何の益もない。凡僧が寺を持つから仏道が卑くなる。黙斎が書物の世話を急がないのもそのためである。
【通釈】
「修橋」。道橋や路の修復をするのは益がある。これは公儀へ掛けて言わずに仏へ掛けて言うこと。寺に付いて路ができた。寺で橋を掛けたのである。こんなことは一つ人の益にもなるから善とも言うべきだが、「以斎僧立寺為善」。坊主に飯を食わせたり寺を建てたりするのは何の益にもならない。その上、あちらでもあまり寺を建てるのは不経済である。日蓮など寺を建てる僧ではないが、天台の義学から出た者なので檀所が多い方がよいと見た。そうではない。学問をすると僧も浮靡になり、人の信向が薄くなる。寺も少ないのがよい。寺が少なけれは老僧ばかりとなる。今寺が多いからよい僧が多いというわけではない。凡僧が皆寺を持つことで仏道を卑くする。大名衆で学校を建てたり家中に書物の世話をする者もいるが、私が書物を急がないのはそこの処。

僧□飯する、何の為ぞ。給仕をする娘なとを小僧とも見てをる。それても功德になると云か善悪をかわたぬ趣向だ。だん々々と不行作の始るも多ひからのことなり。一日の作りし罪はちり埃、南無阿弥陀仏は箒なりけり。佛さへ念ずれはどのやふなものもすくひ取てやろふとなり。千住品川の御仕置塲に題目の碑かある。あれは上ては得其情、則哀矜而無悦の意からで、御免て有ふか、あの大罪を犯したものてもあれを見て一遍唱へると後生はよいと云。あてにしたもの。さふたい向にあてのあると云かわるいことて、母の銭をやるて子ともははや銭をあてにする。仕舞に佛を拜すれはよいと云から火付巾着切か多くなる。
【解説】
仏は、仏さえ念じればどの様な者でも救い取って遣ろうと言う。それで悪人が増える。
【通釈】
僧に飯を食わせるのは何のためか。給仕をする娘などを小僧とも見ている。それでも功徳になると言うのが善悪を分けない趣向である。段々と不行作が始まるのも多いから。一日の作りし罪は塵埃、南無阿弥陀仏は箒なりけり。仏さえ念じればどの様な者でも救い取って遣ろうと言う。千住品川の御仕置場に題目の碑がある。あれは上では「得其情、則哀矜而勿喜」の意からで、嫌なことだろうが、あの大罪を犯した者でもあれを見て一遍唱えると後生はよいと言う。当てにしたもの。総体、向こうに当てがあるというのが悪いことで、母が銭を遣るので子供が早くも銭を当てにする。遂には仏を拝みさえすればよいと言うから火付や巾着切りが多くなる。
【語釈】
・得其情、則哀矜而無悦…論語子張19。「孟氏使陽膚爲士師。問於曾子。曾子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜」。


後漢明帝時の条
27
後漢明帝時、佛始入中國。當時楚王英最好之。然都不曉其説。直至晉宋間、其敎漸盛。然當時文字亦只是將莊老之説來鋪張。如遠師諸論、皆成片盡是老莊意思。直至梁會通間、達磨入來、然後一切被他掃蕩、不立文字、直指人心。蓋當時儒者之學、既廢絶不講。老佛之説、又如此淺陋。被他窺見這箇罅隙了。故橫説堅説、如是張王、沒柰他何。會當作晋。
【読み】
後漢の明帝の時、佛始めて中國に入る。當時楚王英最も之を好む。然して都て其の説を曉らず。直に晉宋の間に至り、其の敎漸く盛んなり。然して當時の文字は亦只是れ莊老の説を將って來て鋪張す。遠師が諸論の如きは、皆成片盡是老莊が意思なり。直に梁の會通の間に至り、達磨入來し、然る後一切他に掃蕩せられ、文字を立てず、直に人心を指す。蓋し當時の儒者の學は、既に廢絶して講ぜず。老佛の説も又此の如く淺陋なり。他に這箇の罅隙を窺見し了る。故に橫説堅説、是の如く張王し、他を柰何する沒し。會は當に晋と作すべし。

佛かさま々々云て古ひことにしてをくが、中国では遥か後のこと。むほん人の王莽も馬援と云奴も死たあとだ。楚王英最好之。物の機會と云はかるいものか好んてもはやらぬもの。歴々の親王家か好た天本がこちの垩德太子だと云た。他国から淨るり太夫か来ても、其村の名主や大身か好むとはやる。日やふ取の処へ落付ては、早く立ててやれと云はるる。佛かすきを見てわり込んた。他国ものにわり込ると村の風俗かわるくなるもの。管仲か見豊物而不移と云か斎の国の柱になるもこの意なり。都不暁其説。をかしいことで、わけも知らすに只有難い々々々と云。拜んた。上総の七里法花のいきぞ。ありかたいの推すにをされぬのとわけなしに拜みた。
【解説】
「後漢明帝時、佛始入中國。當時楚王英最好之。然都不曉其説」の説明。中国で仏が流行ったのは古くからのことではない。流行るのは、上の者が好むからそうなるのである。
【通釈】
仏が様々に言って、それが古くからのことだと言うが、それは中国では遥かに後のこと。謀叛人の王莽も馬援という奴も死んだ後のこと。「楚王英最好之」。物の機会というのは軽い者が好んでも流行らないもの。歴々の親王家が好んだ大本はこちらの聖徳太子だと言う。他国から浄瑠璃太夫か来ても、その村の名主や大身が好むと流行る。日雇取りの処へ落ち着いていると、早く発てと言われる。仏が隙を見て割り込んだ。他国者に割り込まれると村の風俗が悪くなるもの。管仲は見豊物而不移であって、斉の国の柱になったのもこの意からである。「都不曉其説」。可笑しいことで、わけも知らずにただ有難いと言う。拝む。上総の七里法華の域である。有難いとか、推すに推されないとわけなしに拝む。
【語釈】
・王莽…前漢末の簒立者。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を収攬、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位におり、ついで真皇帝と称し国を奪い新と号した。劉秀に敗死。前45~後23
・馬援…字は文淵。諡は忠成侯。扶風郡茂陵の人。王莽の末年、召されて新成大尹に任ぜられた。後に光武帝に仕える。前14~後49

至晋宗間。晋は彼渕明などかころだ。宋は南北朝の劉宋ぞ。當時文字亦只是將荘老之説来鋪張。中蕐の山師かせわをやく。梵僧か来てあちこちしても詞はわからぬ。其やふにはやるものはないが、こちのものかせわをした。今日本て唐人の子ごと云は外にした口上。佛も渡った當座は天竺の子ごとと云やふだか、土地のものか世話をしたで人か向ふた。それはかりでは盛んてもないが、老荘て鋪張した。そこて面白くなりた。鋪張はそこらへならべるのそ。道具やの手代か店の持始に道具かずかすくない。そこて親方か見ては、これては淋ひとて道具をかす。さま々々ならべてこちらは探幽の掛物、こちらを見れは臺子と云やふに立派て賣廣める。はやらせたかる。ものは鋪張かなくてははやらぬ。手嶋か教はただい銭をつかふて親父を大事にせよ。堪忍三百两なぞと云こと。それでは流行ぬから尊ひことをかりて本心會得と出す。茶碗を打たかなるか、茶碗かなるかなとと鋪張した。
【解説】
「直至晉宋間、其敎漸盛。然當時文字亦只是將莊老之説來鋪張」の説明。晋宋の頃に仏が盛んになり始めた。仏は言葉も通じないから流行るわけはなかったが、こちらが世話をしたので流行ったのであり、また、老荘で鋪張したから流行ったのである。
【通釈】
「至晋宋間」。晋はあの陶淵明などの頃。宋は南北朝の劉宋の頃のこと。「当時文字亦只是将荘老之説来鋪張」。中華の山師が世話を焼く。梵僧が来てあちこちしても言葉はわからない。それで流行るものはないが、こちらのものが世話をした。今日本で唐人の寝言を言うとは外にした口上である。仏も渡った当座は天竺の寝言という様なものだったが、土地の者が世話をしたので人がそれに向かった。そればかりでは盛んでもないが、老荘で鋪張した。そこで面白くなった。鋪張はそこ等に並べること。道具屋の手代が店を持ち始めた頃は道具数が少ない。そこを親方が見て、これでは淋しいと道具を貸す。様々に並べて、こちらは探幽の掛物、こちらを見れば台子という様に立派にして売り広める。流行らせたがる。ものは鋪張がなくては流行らない。手嶋の教えは銭を使って親父を大事にしろというもの。堪忍三百両などということ。それでは流行らないから尊いことを借りて本心会得と出す。茶碗を打ったが鳴るか、茶碗が鳴るかなどと鋪張した。
【語釈】
・手嶋…手島堵庵。江戸中期の心学者。名は信。通称、近江屋嘉左衛門。京都の商人。石田梅岩に学び、心学の普及に努め、広く市民教育に尽力。1718~1786

遠師は惠遠そ。渕明など出合たと繪にもかくが、時代は違ふたてあらふ。晋の世て名高ひ僧そ。成片は盡く是老荘。打成一片をつめたこと。つまる処かと云こと。長谷川克明の弁かまん丸にとあるか、そふではあるまい。しあけ、つまりの処か老荘だと云こと。一切被他掃蕩。達磨か来て、かふ掃除して、歯がゆいや氣味のわるいことや何もかもはきのけ、人にかるく見らるることやあまひことをははらひ除けた。あれか不立文字と云か、儒者をたたき轉すことじゃ。文字と云は尭舜の政をかいたか尚書、それから太公望か丹書、孔子の春秋、子思は中庸、皆書物だか、それをけちらかしたもの。文字は入らぬ。直指人心。佛道は胸たと云こと。これはあちの文字たから直に指人心。ここの板点平かに聞へるか、不立文字直指人心とすと点すへきことそ。とすの点、よし。
【解説】
「如遠師諸論、皆成片盡是老莊意思。直至梁會通間、達磨入來、然後一切被他掃蕩、不立文字、直指人心」の説明。仏の仕上げの処は老荘である。達磨が来て「不立文字、直指人心」と言い、儒者の書物を蹴散らかした。
【通釈】
遠師は慧遠である。陶淵明などと出合った絵もあるが、時代は違っていただろう。晋の世で名高い僧である。「成片尽是老荘」。「打成一片」を詰めたもの。詰まる処がということ。長谷川克明の弁に真ん丸にとあるが、そうではないだろう。仕上げ、詰まりの処が老荘だということ。「一切被他掃蕩」。達磨が来て、この様に掃除をして、歯痒いことや気味の悪いことや何もかも掃き除け、人に軽く見られることや甘いことを払い除けた。あれが不立文字と言うが、それは儒者を叩き転がすこと。文字というのは、堯舜の政を書いたものが尚書、それから太公望の丹書、孔子の春秋、子思は中庸、それは皆書物だか、それを蹴散らかしたもの。文字は要らない、「直指人心」だと言う。仏道は胸だということ。これはあちらの文字だから、直に指人心と、ここの板点は平らかに聞こえるが、不立文字直に指して人心とすと点をすべきこと。とすの点がよい。
【語釈】
・遠師…東晋の僧。雁門の人。道安に学び、中国仏教の基礎を築いた。のち廬山に同志と白蓮社を結び浄土念仏を行い、30年間山を出なかった。沙門不敬王者論、請雨伝説、虎渓三笑の故事などが有名。廬山の慧遠。334~416
・打成一片…坐禅に徹底して差別対立を離れること。転じて、一切を忘れて専心すること。
・長谷川克明…源右衛門。観水。

當時儒者之学既に廢絶。そのとき儒者か絶へきりた。杜豫なとか左傳の僻、呉冠始乎てのなんのと云位なことじゃもの。あたまかあからなんた。達磨かはっちりとした目て無得道めがと睨らのまわすから、論語をはそっと懐中の巡り道をしてありたやふな底て有たぞ。老佛之説又如此浅陋。爰は程朱の荘周浅近と云たとは違ふ。このときは儒佛もたへ、惠遠くらいの佛や浅い老子などか達磨にすかしてみられたと云ことなり。故横説堅説。天下に横行の横てはない。そのやふに元氣をつけて云ことに見るはわるい。横説堅説とはあちへ説き、こちへ説き、たてにもよこにもといたと云こと。下の張王は元氣のつよいことだ。そこてちかつけられぬ。
【解説】
「蓋當時儒者之學、既廢絕不講。老佛之説、又如此淺陋。被他窺見這箇罅隙了。故橫説堅説、如是張王、沒柰他何」の説明。達磨が来た頃は、既に儒学は廃絶していた。そこ等中に仏がいた。
【通釈】
「当時儒者之学既廃絶」。その時は儒者が絶え切った。杜豫などには左伝の僻があり、「吾冠始乎」の何のと言う位なことだから、頭が上がらなかった。達磨がぱっちりとした目て無得道めがと睨み回すから、論語をそっと懐中に入れて回り道をして歩く様な底であった。「老仏之説又如此浅陋」。ここは程朱が荘周浅近と言ったのとは違う。この時は儒仏も絶え、慧遠位の仏や浅い老子などが達磨に透かして見られたということ。「故横説堅説」。天下に横行の横ではない。その様に元気を付けていうことと見るのは悪い。横説堅説とはあちらに説き、こちらに説き、縦にも横にもいたということ。下の「張王」は元気の強いこと。そこで近付くことができない。
【語釈】
・杜豫…字は元凱。京兆郡杜陵の人。春秋左氏伝を好み、集解を作る。222~284
・呉冠始乎…
・程朱の荘周浅近…


論釈氏之説之条
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論釋氏之説、如明道數語闢得極善。見行状中者。他只要理會箇寂滅。不知須強要寂滅他做甚。既寂滅後、却作何用何。況號爲尊宿禪和者、亦何曾寂滅得。近世如宗杲、做事全不通點檢、喜怒更不中節。晉宋以前遠法師之類、所談只是莊列、今其集中可見。其後要自立門戸、方脫去莊列之談。然實剽竊其説。傅奕亦嘗如此説論。佛只是説箇大話謾人。可憐人都被他謾、更不省悟。試將法華經看、便見其誕。開口便説恒河沙數幾萬幾千幾劫、更無近底年代。又如佛授記某甲幾劫後方成佛。佛有神通。何不便成就他做佛。何以待闕許久。又如往世羅漢猶未成佛、何故許多時修行都無長進。今被他撰成一藏説話、遍滿天下、惑了多少人。勢須用退之盡焚去乃可絶。今其徒若聞此説、必曰此正是爲佛敎者。然實繆爲此説、其心豈肯如此。此便是言行不相應處。今世俗有一等卑下底人、平日所爲不善。一旦因讀佛書、稍稍收斂。人便指爲學佛之效、不知此特粗勝於庸俗之人耳。士大夫學佛者、全不曾見得力。近世李德遠輩皆是也。今其徒見吾儒所以攻排之説、必曰、此吾之跡耳。皆我自不以爲然者。如果是不以爲然、當初如何却恁地撰下。
【読み】
釋氏を論ずる説は、明道の數語の如きは得るを闢きて極めて善し。行状の中に見る者。他は只箇の寂滅を理會するを要す。知らず、強いて寂滅を要するを須いず、他は甚しきを做すを。既に寂滅の後、却って何を作し何を用いん。況んや號して尊宿禪和と爲す者、亦何ぞ曾て寂滅にし得ん。近世宗杲が如き、事を做すに全く點檢を通さず、喜怒は更に節に中らず。晉宋以前の遠法師の類は、談ずる所只是れ莊列、今其の集中を見る可し。其の後自ら門戸を立つを要し、方に莊列の談を脫去す。然して實は其の説を剽竊す。傅奕も亦嘗て此の如く説論す。佛は只是れ箇の大話を説き人を謾す。憐れむ可き人は都て他に謾せられ、更に省悟せず。試みに法華經を將って看れば、便ち其の誕を見る。口を開けば便ち恒河沙數幾萬幾千幾劫と説き、更に近底の年代無し。又佛が授記の如きは某の甲幾劫の後方に成佛す、と。佛に神通有り。何ぞ便ち他を成就し佛と做さざるや。何を以て闕を待って許久しきや。又往世羅漢の如きは猶未だ成佛せず、何の故に許多の時修行して都て長進無きや。今他に一藏説話を撰成され、天下に遍滿し、多少の人を惑わし了る。勢は須らく退之の盡焚を用いて去るべく乃ち絶つ可し。今其の徒若し此の説を聞かは、必ず此れ正に是れ佛敎爲る者と曰ん。然して實は繆ちて此の説を爲し、其の心豈此の如く肯ぜん。此れ便ち是れ言行相應ぜざる處なり。今の世俗に一等卑下底の人有り、平日爲す所善ならず。一旦佛書を讀むに因りて、稍稍收斂す。人は便ち指して佛を學ぶの效と爲し、知らず、此れ特に粗々庸俗の人に勝るのみを。士大夫の佛を學ぶ者は、全て曾て力を得るを見ず。近世李德遠の輩は皆是れなり。今其の徒の吾儒の攻排する所以の説を見れば、必ず曰う、此れ吾の跡のみ、と。皆我自ら以て然りと爲さざる者なり。如し果して是れ以て然りと爲さば、當初如何ぞ却って恁地撰下す。

釈氏を論するに、明道の語はあの方の空をついてきり々々な語があるが、嘉言之、道不明也、異端害之の条のことだ。あれか佛を論するに本間てよいとなり。其外通快な語も多ひ。道外無物物外無道の条、近思異端、なとかよい。それより仏を論するにはまていて嘉言に載たか一ちたてにとらるると云たきりて、爰はそれきりのことだ。他只要理會箇寂滅云云。これからか朱子を云たこと。たたい寂滅為楽と云も死かうれしいとあら々々しく云ことてはない。寂滅を得ると為楽と云ことと知止か寂滅慮而能得か為楽た。寂滅を合点すれは不生不滅。そこか為楽そ。不知須強要寂滅他做。何、世の中は花かさき実かなり娵とり誕生。さりとは寂滅とはかり云へぬ。そちてはとらほど寂滅と説て何にするそとなり。
【解説】
「論釋氏之説、如明道數語闢得極善。見行状中者。他只要理會箇寂滅。不知須強要寂滅他做甚」の説明。釈氏を論ずるには明道の語がよい。仏は寂滅を合点すれば不生不滅で、そこが為楽だと言う。しかし、世の中とは花が咲き実がなり娵を娶って誕生するものである。
【通釈】
釈氏を論ずるのに、明道の語にはあの方の空を突く至極な語があるが、それは嘉言で、「道不明也、異端害之」の条のこと。あれが仏を論ずるには実底でよいと言う。その外にも痛快な語も多い。「道之外無物、物之外無道」の条、近思録異端、などがよい。それよりも仏を論ずるには嘉言に載せたのが実底で一番楯に取ることができると言っただけで、ここはそれだけこと。「他只要理会箇寂滅云云」。これからが朱子の言ったこと。そもそも寂滅為楽も死が嬉しいと荒々しく言うことではない。寂滅を得ると為楽だと知るのであって、寂滅慮而能得が為楽である。寂滅を合点すれば不生不滅。そこが為楽である。「不知須強要寂滅他做」。何でも世の中では花が咲き実がなり娵を娶って誕生する。それなら寂滅ばかりとは言えない。そちらではどれほども寂滅と説くが何にするのかと言った。
【語釈】
・道不明也、異端害之…近思録聖賢17。「其言曰、道之不明、異端害之也」。
・道外無物物外無道…近思録異端3。「明道先生曰、道之外無物、物之外無道。是天地之閒、無適而非道也」。

既寂滅後、却作何用。とど寂滅にもせよ、それか何になると、俗に云はぐらかしたのなり。此方は天地のなりと云ふで何も流義はないに、そちの寂滅と云流義を立たはどふしたものぞ。況號為尊宿禅和者、亦何曽寂滅得。寂滅々々と云から何もないかと云に尊宿禅和。和尚さまの上人のと云て拜む。それては寂滅せぬ仕法だ。さりとは寂滅やふてないと云こと。爰を尊宿禅和か悟道したら寂滅とも云はふが、尊宿禅和か悟りはせまい、寂滅とは云はれぬと云たことにみるはよくない。尊宿禅和和尚さま々々と云て、けらいも弟子もさま々々な道具もある。寂滅めかぬとあらく云ことぞ。其角か弘福寺て、木犀や陸尺四人□めかずと云た。消息に見ることそ。
【解説】
「既寂滅後、却作何用何。況號爲尊宿禪和者、亦何曾寂滅得」の説明。仏は寂滅と言うが、「尊宿禅和」で、和尚様も、家来も弟子も様々な道具もある。
【通釈】
「既寂滅後、却何作何用」。つまりは寂滅にしたとしてもそれか何になるのかと、俗に言うはぐらかしたのである。こちらは天地の通りと言って何も流儀はないが、そちらが寂滅という流儀を立てたのはどうしたものか。「況號為尊宿禅和者、亦何曾寂滅得」。寂滅と言うから何もないかと言えば「尊宿禅和」である。和尚様や上人と言って拝む。それでは寂滅せぬ仕法である。それでは寂滅の様ではないということ。ここを、尊宿禅和が悟道したら寂滅とも言えるだろうが、尊宿禅和が悟りはしないだろう、寂滅とはいえないということに見るのはよくない。尊宿禅和で和尚様と言って、家来も弟子も様々な道具もある。寂滅めかないと粗く言ったこと。其角が弘福寺で、木犀や陸尺四人□めかずと言った。消息で見なさい。
【語釈】
・其角…宝井其角。江戸前期の俳人。本姓竹下、母方の姓は榎本。号は宝晋斎など。近江の人。江戸に来て蕉門に入り、派手な句風で、芭蕉の没後洒落風をおこし、江戸座を開いた。蕉門十哲の一。1661~1707
・弘福寺…川原寺。奈良県明日香村川原にある真言宗の寺。ここは向島の弘福寺。
・木犀や陸尺四人□めかず…

近世如宗杲、做事全不通點檢。どこからどふ見ても仏はつまらぬことだらけた。大惠などか尊宿禅和だか、あれらかとほふもない底だ。点檢はぎんみと云こと。すべ作法に合せることを点檢を通ずと云か、不通点檢とはどふでもよいはとあらく云こと。これがやはり告子流て、だたい言に得たは心に求るはづたに、勿求於心。すててをけと云。これか朱子の、大惠か心をよく見取て云のじゃ。さて不通点檢をと点は直方のよく知りた点た。点檢に通せずとつければぎんみの仕様に通せぬと云ことになりて格致のたらぬやふなことになる。さうするはわるい。迂斎の不通点檢と云はそこへ吟味をうけとらぬことじゃと云た。殺人にも主殺にも衣をかける。点檢を通さぬのそ。
【解説】
「近世如宗杲、做事全不通點檢」の説明。近世の仏は「不通点検」である。「不通点検」は吟味を受取らないこと。
【通釈】
「近世如宗杲、做事全不通点検」。何処からどう見ても仏はつまらないことだらけである。大慧などは尊宿禅和だか、あれ等は途方もない風である。「点検」は吟味ということ。全て作法に合わせることを点検を通ずと言うが、「不通点検」とはどうでもよいと粗く言うこと。これがやはり告子流で、そもそも言に得たものは心に求める筈なのに、「勿求於心」で、捨てて置けと言う。これは朱子が大慧の心をよく見取って言ったもの。さて不通点検をとの点は、直方のよく知った点の付け方である。点検に通ぜずと付ければ吟味の仕様に通じないということになって格致が足りない様なことになる。そうすると悪い。迂斎が、不通点検はそこへ吟味を受取らないことだと言った。殺人にも主殺しにも衣を掛ける。点検を通さないのである。
【語釈】
・大惠…大慧。南岳懐譲。六祖慧能の法を嗣ぐ。677~744
・勿求於心…孟子公孫丑章句上2。「告子曰、不得於言、勿求於心。不得於心、勿求於氣。不得於心、勿求於氣、可。不得於言、勿求於心、不可」。

喜怒更不中節。喜怒も出まかせ、心くばりをこまかにせぬを手抦にする流義た。心の働しだいをする。禅僧乱心するはづた。市良などかやふな丁寧ものが大恵か前へ袴ても着てとふ々々と出ると、畜生をそちへのけろと云やふに思ふ。そこをくっと尻をまくって出すと、いかひたわけがと云てきげんかよい。そふ云流義ゆへ、大惠か弟子か、こなたの禅は右の脇はらにあるか左の脇はらにあるかとこそくりちらした。これか彼達磨か眼はっちりに合ふことが。誾斎か幸子善に佛を問たれは、とんと何もないことじゃと答へた。佛学もよくはないと云た。これは法蕐なとと取合た見からぞ。それか知らぬのぞ。あちは本来無一物、形骸の上も今日の道理もはては皆なくなると見たこと。大惠なとをかるく思はぬことだ。達磨をとめた男じゃ。大惠をこのやふに云もさきの答連崇郷書そ。合廖子晦書なとのつり合にちとここで出して置ふことじゃ。
【解説】
「喜怒更不中節」の説明。仏は心の働き次第をする。本来無一物で、形骸の上も今日の道理も果てには皆なくなると見る。
【通釈】
「喜怒更不中節」。喜怒も出任せ、心配りを細かにしないのを手柄にする流儀である。心の働き次第をする。それでは禅僧が乱心する筈である。市郎などの様な丁寧者が大慧の前へ袴でも着て堂々と出ると、畜生はそちらへ除けろという様に思う。そこをぐっと尻をまくって出ると、大層な戯けだと言って機嫌がよい。その様な流儀なので、大慧の弟子が、貴方の禅は右の脇腹にあるのか左の脇腹にあるのかとこそくり散らした。これがあの達磨の眼のぱっちりとしたことに合うことだろうか。誾斎が幸田子善に仏のことを問うと、全く何もないことだと答えた。仏学も欲はないと言った。これは法華などと取合った見からのこと。それが知らないということ。あちらは本来無一物、形骸の上も今日の道理も果てには皆なくなると見る。大慧などを軽く思ってはならない。達磨を受けた男である。大慧をこの様に言うのも、先にある答連崇卿書や答廖子晦書などの吊り合いに一寸ここで出して置くのである。
【語釈】
・市良…
・誾斎…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。友部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・幸子善…幸田子善。迂斎門下。1720~1792

晋宋以前遠法師之類、談只是莊列。惠連や何かか七賢八達の類によって話してをる。其後は自立門戸。老荘とみへたやふに家つくりをかまへた。実剽切其説。傅奕はこの筋を云た。文會十六困学記聞を引。佛經のはひくいことだが、老荘をきりとりにかりて高くしたものと云た。其外にも傅奕は佛に手抦のある男た。竺僧か人を咒ひ殺したをは、さあ□れと云て睨みつけたれは、却て僵仆した。佛骨の表ばかり手からに云か、傅奕□方は人々知らぬ。説箇大話謾人、皆だました。本の趨向か根入のないこと、さま々々なことを云が、子ともに飯を喰てじきに子ると牛になると云の類ぞ。をとなは受取ぬことた。これ迠を段落に見ることだ。
【解説】
「晉宋以前遠法師之類、所談只是莊列、今其集中可見。其後要自立門戸、方脫去莊列之談。然實剽竊其説。傅奕亦嘗如此説論。佛只是説箇大話謾人」の説明。晋宋以前の仏は荘子を語ったが、その後は老荘と見えない様に家造りを構えた。傅奕は、仏経は卑いものだが、老荘を切り取って借りて高くしたものだと言った。
【通釈】
「晋宋以前遠法師之類、所談只是荘列」。慧遠や何かが七賢八達の類によって話をしている。その後は「自立門戸」で、老荘と見えない様に家造りを構えた。「実剽竊其説」。傅奕はこの筋を言った。文会十六困学記聞を引く。仏経は卑いものだが、老荘を切り取って借りて高くしたものだと言った。その外にも傅奕は仏に対して手柄のある男である。竺僧が人を呪い殺したのを、さあ□れと言って睨みつけると、却って僵仆した。仏骨の表ばかりを手柄に言うが、傅奕の方は人々が知らない。「説箇大話謾人」で、皆騙した。本の趨向に根入れがないので、様々なことを言っても、それは子供に飯を食って直に寝ると牛になると言う類である。大人は受け取らない。これまでを段落に見なさい。
【語釈】
・七賢…竹林七賢。阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉伶・阮咸・王戎の称。
・八達…南朝で、生の本義に徹した八人。胡母輔之・謝鯤・阮放・阮孚・畢卓・羊曼・桓彝・光逸。
・傅奕…唐代初期の仏道論争で活躍した道士。
・佛骨の表…韓愈作。

可憐人都被他謾、更不省悟。法花經をあけて見るとうそが知れる。あけて見たのぞ。恒河は天竺の河の名て、其沙の敉と云こと。世か何か何億と遠ひことに云。無近底年代。百年すぎて斯ふと云ふと、百年の後ばけがあらはるるか、恒河沙敉、すごいことだ。子ともを子かしつけるにも、朝人形買てと云ては母親にはたる、正月着物をと来年のことを云て子せつける。佛にも此手でだまさる。佛授記と云か、たれはいつの時分佛になると云ことを書たもの。談義參、婆々も佛になりたいからゆく。そこてこれかなくては悦はぬから作りたもの。某甲。先軰の甲をえとのことに云た。よくない。某甲と云はだん々々はと云こと。近底の年代なしはそのこと。曽孫のとき成仏と云ではない。幾劫の劫の字、なかいことだ。成佛の期を見せぬ趣向そ。
【解説】
「可憐人都被他謾、更不省悟。試將法華經看、便見其誕。開口便説恒河沙數幾萬幾千幾劫、更無近底年代。又如佛授記某甲幾劫後方成佛」の説明。仏は「無近底年代」で、遥かに遠いことで言うので人が騙される。仏授記もあるが、曾孫の時に成仏するというわけではない。成仏の時を見せないのが趣向である。
【通釈】
「可憐人都被他謾、更不省悟」。法華経を開けて見ると嘘が知れる。ここは開けて見たのである。「恒河」は天竺の河の名で、その沙の数ということ。世を何億と遠いことで言う。「無近底年代」。百年過ぎるとこうだと言えば百年の後に化けの皮が剥がれるが、「恒河沙数」は凄いこと。子供を寝かし付けるにも、朝人形を買ってと言って母親に強請るのを、正月に着物を買うと来年のことを言って寝かし付ける。仏にもこの手で騙される。仏授記というのが、誰はいつの時分に仏になるということを書いたもの。談義参りは、婆も仏になりたいから行く。そこでこれがなくては悦ばないから作ったもの。「某甲」。先輩が甲を干支のことで言ったが、それはよくない。某甲とは段々にということ。近底の年代なしとはそのこと。曾孫の時に成仏ということではない。「幾劫」の劫の字は永いこと。成仏の期を見せない趣向である。

佛有神通。何不便成就他做佛。神通と云はじきにすることがなるさうなが、何以待闕許久。闕は官府の詞。これか日本の役かへのあやでは知れぬ。あの方ては十人目附か今十人ある外に四五人も云付けるた□計りで、ただをれが其十人のうちに闕かあるとそこて出る。それを待闕と云。佛の神力てさて々々そのやふに久しくをるは人間の役かへのやふだ。神通に似合はぬことたとなり。如往世羅漢猶未成佛。十六羅漢の五百羅漢のいつ迠も羅漢々々と云れてをる。あれらも此ころは佛になりそうなものとなぐされて云たこと。羅漢と云は、儒者て云へは克己の功の出きた人。人欲障礙をつかみつぶした羅漢だ。孔門て子路、程門て上蔡の様な人だ。それがいつ迠も御役の替らぬはらちのあかぬ神通たとなり。
【解説】
「佛有神通。何不便成就他做佛。何以待闕許久。又如往世羅漢猶未成佛、何故許多時修行都無長進」の説明。仏は神通と言うが、何故仏になることができないのか。羅漢の様な者でも未だに成仏してはいない。
【通釈】
「仏有神通。何不便成就他做仏」。神通は直にすることが成るそうだが、「何以待闕許久」。闕は官府の言葉で、これは日本の役替えの綾ではわからない。中国では十人目付が今十人いるその外に、四五人もそれを言い付けるだけにして、その十人の内に闕があるとそこで出る。それを待闕と言う。仏の神力がありながら、さてもその様に久しくいるのは人間の役替えの様である。神通に似合わないことだと言う。「如往世羅漢猶未成仏」。十六羅漢や五百羅漢がいつまでも羅漢と言われている。あれ等もこの頃は仏になりそうなものだと慰んで言われた。羅漢は、儒者で言えば克己の功のできた人。人欲障礙を掴み潰したのが羅漢で、孔門では子路、程門では上蔡の様な人。それがいつまでも御役が替わらないのでは、埒の明かない神通だと言ったのである。

今被他撰成一藏説話。これからが大段落だ。以下は佛の天下後世の害を云たもの。一切經なとと云てはしたたかなことだ。その上方々に禅録か家々にある。をびたたしいことて、惑了多少人。顧文二曰、日本ても一ち書物屋て多ひが佛書だと云。さふあればこそ、あの三升艾の紙か多く佛書なものだ。佛書かそふひろかりては中々理屈を云ては間に合はぬ。韓退子をつれて来てやかせる外ない。今其徒若聞此説云云。又小段落た。古の佛授記云云以下の朱説を佛者か聞たら必曰此正是為佛教者。羅漢ていて佛は又別のことと云はふ。其やふなことを云ふが、貴様たちの佛を知らぬのだといふであらうが、何にもせよ羅漢も其やふにをそくなるか好きな筈てはあるまいとなり。
【解説】
「今被他撰成一藏説話、遍滿天下、惑了多少人。勢須用退之盡焚去乃可絕。今其徒若聞此説、必曰此正是爲佛敎者」の説明。仏には一切経もあり、禅録などもあって、仏の書物は夥しい。その書物で人を惑わす。
【通釈】
「今被他撰成一蔵説話」。これからが大段落である。以下は仏の天下後世の害を言ったもの。一切経などというのはしたたかなもの。その上方々の家に禅録がある。夥しい書で、「惑了多少人」。文二を顧みて言った。日本でも書物屋で一番多いのが仏書だという。それであればこそ、あの三升艾の紙の多くが仏書なのである。仏書がその様に広がっては中々理屈を言っても間に合わない。韓退之を連れて来て焚かせる外はない。「今其徒若聞此説云云」。また小段落である。古の仏授記云云以下の朱説を仏者が聞いたら「必曰此正是為仏教者」である。羅漢底と仏とはまた別のことだと言う。その様なことを言うが、貴様達は仏を知らないのだと言うだろうが、何にもせよ羅漢もその様に遅くなるのが好きな筈ではないだろうと言った。
【語釈】
・文二…花沢文二。林潜斎。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)
・三升艾…

繆為此説、其心の豈肯如此。佛授記のやふなことを云出したは、ちょっと云だしたこと。実はさふは思はぬて有ふ。言行不相応。久しくかかるでなければこそ直指人心見性為佛と云。すくに即身即佛たに、それか次第を經ると云ては達磨やなにかと釈迦とか合はぬ。それか実は繆為此説。ばけがあらはれた。さま々々云やふのちがふと云も空理ゆへのこと。今有世俗一等卑下底人。道樂をすると云計ではない。人に對し欲をかわかし、家内の治めもわるし。さま々々人にせわをやかる男のこと。それかどふして佛書をよんて此れまての山師めいたことも彼是わるさのこともやめて、それたけよいと云てもただの不埒ものよりましと云のみのこと。士大夫学佛者、全曽不見得力。今世俗はかるいものの上のこと。これか歴々へかけたこと。宋朝は士大夫はをろか宰相にも禅かありた。按呂正献公作相好佛。士大夫竸往參禅當時号称禅鑚。朱公掞上疏乞禁止。見渕源録。
【解説】
「然實繆爲此説、其心豈肯如此。此便是言行不相應處。今世俗有一等卑下底人、平日所爲不善。一旦因讀佛書、稍稍收斂。人便指爲學佛之效、不知此特粗勝於庸俗之人耳。士大夫學佛者、全不曾見得力」の説明。仏は即身即仏と言いながら、次第を経ると言う。それは空理だからである。世俗の卑下た人が仏書を読んでよくなっても、それは不埒者よりはましだというだけのこと。
【通釈】
「繆為此説、其心豈肯如此」。仏授記の様なことを言い出したのは、一寸したこと。実はその様には思っていないのだろう。「言行不相応」。久しく掛かるのでないからこそ「直指人心見性為仏」と言い、直に即身即仏なのに、次第を経ると言っては達磨や何かと釈迦とが合わない。それが実は「繆為此説」。化けの皮が剥がれた。様々と言い様が違うというのも空理だからである。「今有世俗一等卑下底人」。道楽をするというだけではない。人に対して欲を出し、家内の治めも悪い。様々と人に世話を焼かれる男のこと。それがどうして仏書を読んで、これまでの山師めいたことも、かれこれとした悪さも止め、それだけでよいと言ってもただの不埒者よりはましだというだけのこと。「士大夫学仏者、全不曾見得力」。今世俗は軽い者の上のことで、これは歴々へ掛けたこと。宋朝は、士大夫はおろか宰相にも禅があった。按ずるに、呂正献公は相と作り仏を好む。士大夫競往は參禅し當時号して禅鑚と称す。朱公掞は上疏して乞うて禁止す。渕源録に見る。
【語釈】
・呂正献公…朱子語類107。「時呂正獻公作相、好佛、士大夫競往參禪、寺院中入室陞堂者皆滿。當時號爲禪鑽。故公掞上疏乞禁止之」。

近世李德遠軰皆是也。唐の人か宋とは知らぬか、この人かよほどかさのありたものとみへた。佛を学ぶにも一疋、男も一疋だか、どふも禅をしてもよいこともなかりた。今其従見吾儒所以攻排之説、必曰、此吾之迹耳。をらなとか近年議論かさきへまわりてさきのものには口をあかせぬやふに云か、をれらがのは心術の病だか、朱子のはよくつめたもの。さきへまわりて口をあかせぬのそ。あちか此方へ攻排の説を見たときに迹耳。それはづんと末なことじゃと云はふがと云て、あとを出したもの。迹耳。あとと云はせふこともないもの。こちの本来の処と大事の処はそふしたことてはないと云。皆我自不以為然。佛者かこちてもそんなそちの呵る様なことはわるいに立たこと、それをひろふてわるく云はは、あれは迹耳じゃ、かいないことじゃと云はふが、果以不為然、當時如何却恁地撰下。そのやふなことは迹た、やくにたたぬと云はは、恒河沙でも佛授記ても、その時よいと思ふてこそ書たて有ふ。此方は孟子七篇論語廿篇中庸一ち巻をまあこれてよいと云ことで書たことはない。一寸まああれて五匁と云ことはない。孔門かまあ斯ふかいた、程門かまあ斯ふ録したのと云ことはないことじゃに。
【解説】
「近世李德遠輩皆是也。今其徒見吾儒所以攻排之説、必曰、此吾之跡耳。皆我自不以爲然者。如果是不以爲然、當初如何却恁地撰下」の説明。儒は仏の跡だと仏が言う。跡だ、役に立たないと言えば、恒河沙も仏授記も跡になる。
【通釈】
「近世李徳遠輩皆是也」。唐の人か宋の人かは知らないが、この人は余程力のあったものと見える。仏を学ぶにも一疋、男も一疋だか、どうも禅をしてもよいこともなかった。「今其徒見吾儒所以攻排之説、必曰、此吾之跡耳」。俺などの近年の議論が先に回って相手には口を開かせない様に言う。俺等のは心術の病だが、朱子のはよく詰めたもの。先へ回って口を開かせない。仏がこちらの攻排の説を見た時、それは跡耳で、それは実に末なことだと主張すると言って、跡を出したもの。跡耳の跡というのは仕方のないもの。こちらの本来の処と大事な処はそうしたことではないと言う。「皆我自不以為然」。仏者が、こちらでもそんなお前の呵る様なことは悪いことだとしており、それを拾って悪く言い、あれは迹耳だ、甲斐ないことだと言うが、「果不以為然、当時如何却恁地撰下」。その様なことは跡である、役に立たないと言えば、恒河沙でも仏授記でも、その時よいと思ってこそ書いたのだろう。こちらは孟子七篇論語二十篇中庸一巻をまあこれでよいと言うことで書いたのではない。一寸まああれで五匁ということはない。孔門がまあこう書いた、程門がまあこう録したということはない。


釈氏之学只是定靜の条
29
釋氏之學、只是定靜。少間亦自有明識處。或問、他有靈怪處、是如何。曰、多是眞僞相雜。人都貪財好色、都重死生。却被他不貪財、不好色、不重死生。這般處也可以降服得鬼神。如六祖衣鉢、説移不動底。這只是胡説。果然如此、何不鳴鼓集衆、白晝發去、却夜間發去做甚麼。曰、如今賢者都信他向上底説。下愚人都信他禍福之説。曰、最苦是世間所謂聰明之人、却去推演其説、説到神妙處。如王介甫蘇東坡、一世所尊尚、且爲之推波助瀾多矣。今若得士大夫間把得論定、猶可耳。四十七。
【読み】
釋氏の學は、只是れ定靜。少間に亦自ら明識の處有り。或るひと問う、他の靈怪の處有り、是れ如何、と。曰く、多くは是れ眞僞相雜す。人は都て財を貪り色を好み、都て死生を重んず。却って他に財を貪らず、色を好まず、死生を重んじず。這般の處は也た以て鬼神を降服得可し。六祖衣鉢、移して動かずと説く底の如し。這れは只是れ胡説なり。果然として此の如きならば、何ぞ鼓を鳴らし衆を集め、白晝に發し去かず、却って夜間に發し去き甚麼を做すや。曰く、如今賢者は都て他の向上底の説を信ず。下愚の人は都て他の禍福の説を信ず。曰く、最も苦しむは是れ世間の謂う所の聰明の人、却って其の説を推演し去き、神妙の處に説到す。王介甫蘇東坡が如き、一世の尊尚する所、且つ之が爲に波を推し瀾を助けること多し。今若し士大夫の間把み得論じ定むを得ば、猶可なるべきのみ。四十七。

全体寂滅があの方の道体にないてをり、天地の間にあるものは滅するものた。それをみて有難かるうちは本のことはない。滅するものは假た。滅せぬものかある。それか眞た。とかく其眞をつかまへることたと云。すわそふ見かつくと、何もかもやめて靜になるより外ないと云。靜と云は大学をも定而靜、知の方に用る字だ。あちの定靜と云は何もかもすてて、後ろて雷か鳴ふともかまわぬ。靜と云こと、九年面壁。そこをするのじゃ。今日も明日も靜々とすると自有明識。坐禅するうちにとこともなく明なものかくると云。そこで佛けを明覚と云。これ迠は是非を付けすにあちのことて云。あちのことを知らずには弁せられぬ。此方の道をはきと知さへすれはよいと云ふが、さふもゆかぬと云か爰らて知れるそ。定靜をすれは明識かくると云へは、小学の涵養から大学の挌致へゆくと云やふなそ。近理而大乱眞と云はづそ。
【解説】
「釋氏之學、只是定靜。少間亦自有明識處」の説明。滅するものは仮であり、滅しないものがある。それが真であり、これを得るには静になるより外はない。静になれば明識があると仏が言う。
【通釈】
全体寂滅はあの方の道体にはないことで、天地の間にあるものは滅するもの。それを見て有難がる内は本当のことではない。滅するものは仮であり、滅しないものがある。それが真で、とかくその真を掴まえることだと言う。その様に見が付くと、何もかも止めて静になるより外はないと言う。静とは大学にも「定而静」とあり、知の方に用いる字である。あちらの定静とは何もかも捨ててて、後ろで雷が鳴ったとしても構わない。静とは九年面壁で、それをすること。今日も明日も静々とすると「自有明識」。座禅をする内に何処ともなく明なものが来ると言う。そこで仏を明覚と言う。これまでは是非を付けずにあちらのことで言う。あちらのことを知らずには弁じられない。こちらの道をはっきりと知りさえすればよいと言うが、そうも行かないというのがここ等で知れる。定静をすれば明識が来ると言うと、それは小学の涵養から大学の格致へ行くと言う様なもの。「近理而大乱真」と言う筈である。
【語釈】
・定而靜…大学章句1。「知止而后有定、定而后能靜、靜而后能安、安而后能慮、慮而后能得」。
・近理而大乱眞…中庸章句序。「則吾道之所寄不越乎言語文字之閒、而異端之説日新月盛、以至於老佛之徒出、則彌近理而大亂眞矣」。

程朱の佛をこわかるもここらの処。儒佛の弁を知たゆへのことそ。程朱はいこふこはかると云は、たとへは吾か一生道樂したことのない親父か息子に堺町も見ろ、つれがよくはあんどもと云か、それが本になりて芝居すきになると云ことを知らぬ。程朱は知たから、如淫声美色遠之なり。されはとてそれを知らぬとてあまり佛書を見るも、攻異端者害而已だ。そこのあんばいか大事なことそ。誾斎か佛書を知ったと見て、黙斎か佛を弁するは衣通姫の繪を見て咄すやふな、衣通姫をは見たと云た。よい弁だか繪の方もよかろふぞ。あまり知るも害になるぞ。直方の編次か前条か迹耳あてて、それは迹たと云て合点せぬあとへ定靜から明識か出る。あとの方の大事の処のある条を出した。かふつめることそ。何んと徳助きまったことて有ふ。
【解説】
程朱が仏を恐がるのも、それを知ると悪くなるからである。しかし、あまりに仏書を見るのも、「攻異端者害而已」で害になる。
【通釈】
程朱が仏を恐がるのもここ等の処から。儒仏の弁を知ったからのこと。程朱は大層恐がると言うのは、たとえば一生道楽をしたことのない親父が息子に堺町も見ろ、連れがよければ行灯もと言うが、それが本になって芝居好きになるということを知らない。程朱は知っているから、「如淫声美色遠之」なのである。しかし、それを知らないからとしてあまりに仏書を見るのも、「攻異端者害而已」である。そこの塩梅が大事である。誾斎は仏書を知っていたと見え、黙斎が仏を弁ずるのは衣通姫の絵を見て話す様なことで、衣通姫を見ているのだと言った。よい弁だか絵でもよいことだろう。あまり知り過ぎるのも害になる。直方の編次が前条は「跡耳」と当てて、それは跡だと言って合点しない、その後に定静から明識が出る。後の方に大事な処があるとする条を出した。この様に詰めるのである。何と徳助きまったことて有ふ。
【語釈】
・如淫声美色遠之…論語為政16集註。「程子曰、佛氏之言、比之楊墨、尤爲近理、所以其害爲尤甚。學者當如淫聲美色以遠之。不爾、則駸駸然入於其中矣」。
・攻異端者害而已…論語為政16。「子曰、攻乎異端、斯害也已」。
・誾斎…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。友部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・衣通姫…日本書紀で允恭天皇の妃。美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという。
・徳助…

或問、他有灵怪處。あの方で明識からしては竒妙なことがある。其からかけて灵怪と見たもの。此方の明識と云は知のことだか、一旦豁然には灵怪はない。貫通と云なれは只今迠の大義なことか大義にないはかりのこと。あの方の明識の処にはどふも異端の悲しさ、灵怪なことかある。三尊の弥陀来迎竒妙かある。知のことに灵はないか、怪はいかかそ。怪は狐た。弘法か子し岩、火の因、水の因と云。此問、朱門たからよく問ふた。怪の字もよく付た。あちをあしろふによい字なり。されとも心にをちぬ処あるとみへる。多是眞偽相雜。いや々々うそかある。こちは実理た。飯くふて腹のはる。あちはまじないて腹のはると云こと。どふもとられぬ。
【解説】
「或問、他有靈怪處、是如何。曰、多是眞僞相雜」の説明。仏の言う明識には霊怪なところがある。怪という字は狐と同じで、嘘があるということ。
【通釈】
「或問、他有霊怪処」。あの方の明識には奇妙なことがある。そこで霊怪と見た。こちらの明識とは知のことだが、一旦豁然に霊怪はない。貫通などはただ、今までの大儀なことが大儀でなくなるだけのこと。あの方の明識の処にはどうも異端の悲しさで、霊怪なことがある。三尊の弥陀来迎にも奇妙がある。知のことに霊はないが、怪はどうしたものか。怪は狐である。弘法が寝た岩、火の因、水の因と言う。この問いは朱門なのでよく問うたもの。怪の字もよく付けた。あちらをあしらうのによい字である。しかしながら、心に落ちない処があるものと見える。「多是真偽相雑」。いやいや嘘がある。こちらは実理である。飯を食うから腹が張る。あちらは呪いで腹が張るということ。どうも違う。

人都貪財好色。その上常人は死生と云とふる々々する。當年疫病か多ひと云と土氣色になるに、あいらか何ともをもわぬ。不貪財、不好色、不重死生。本の坊主はそふた。即天いだつらかこうして僧と美人とを一つに浴させた。只の坊主はいこふよわりたに、中に一人何とも皃て洗ふたのがある。そこて婆々が我を折りて水に入て長人あるを見ると云てほめた。只者てない。多田先生の咄になんとか云坊主、盗人の千两箱捨てにげたあとへゆきかかりて、誰か爰へをもいものをもて来たと云て通りた、と。つんと千两箱か心にかからず人の迷ふ好色にもその通りた。そこて凡夫かたまげる。なるほとそこは可以降服得鬼神。これか文章て云、抑揚の揚の字の処だ。財色に迷はぬ。達磨臨済黄蘗など皆これだ。豊干か処へ虎か来て寐てをるはづた。この方に機心かない。三宅先生の、硯箱に糊のあるで萑が來た。財色をぬけたほとこわいものはない。萑の來た先生た。そこて狐狩をせふと云と狐か恐れた。其玉しいか君臣の義に出る。これか吾黨の先軰の尊ひ処だ。そんなことをば知らずに只三宅先生の筆記を写して講釈をよくせふと云。それか何になるものそ。
【解説】
「人都貪財好色、都重死生。却被他不貪財、不好色、不重死生。這般處也可以降服得鬼神」の説明。常人は死生を恐がるが、仏は財色死生に構わない。それが本来の坊主である。
【通釈】
「人都貪財好色」。その上常人は死生と言うとぶるぶるとする。当年疫病が多いと言えば土気色になるものだが、彼等は何とも思わない。「不貪財、不好色、不重死生」。本来の坊主はこうである。即天が悪戯が高じて僧と美人とを一緒に浴びさせた。ただの坊主は大層困ったが、中に一人何ともない顔で洗っていた者がいた。そこをあの婆々が我を折り、水に入っている長人を見たと言って褒めた。ただ者ではない。多田先生の話に何とかいう坊主が、盗人が千両箱を捨てて逃げた後へ行きかかって、誰かがここに重い物を持って来たと言って通ったとある。全く千両箱が心に掛からない。人の迷う好色にもその通りのこと。そこで凡夫がたまげる。なるほどそこは「可以降服得鬼神」である。これが文章で言う、抑揚の揚の字の処である。財色には迷わない。達磨臨済黄蘗などがこれ。豊干の処に虎が来て寝ている筈である。こちらに機心がない。三宅先生が、硯箱に糊があるので雀が来たと言う。財色を抜けるほど恐いものはない。雀が来た先生である。そこで狐狩りをしようと言えば狐が恐れる。その魂が君臣の義に出る。これが我が党の先輩の尊い処である。そんなことを知らずに、ただ三宅先生の筆記を写して講釈をよくしようと言う。それか何になるものか。
【語釈】
・多田先生…多田維則。多田儀八郎。
・豊干…中国唐時代。豊干禅師。天台宗国清寺に住み、虎に乗って衆僧を驚かすという奇行で知られる。

さて、其あの方てさま々々灵怪を云がうそもあると云て、如六祖衣鉢、説移不動底と出したもの。六祖は惠能ぞ。五祖から六祖が衣鉢をもらうた。大衆か追、かくるかよいと云て五祖も渡し塲迠をくりた。案の如く三百人の大衆かそれをやってはならぬと云て追つめた。そこて岩の上へをいて藪の中へ迯たか、やれと云て大衆か取らふとしたか、衣鉢か動かなんたとなり。これかうそたは、妙用かあらは夜迯には及はぬ。鐘太皷をならして大衆をあつめて、今わたすそと觸れて昼中にわたしてもよいに、鶏鳴ぬ前三更にのと相図をして夜渡して迯して、あとて衣鉢かうこかぬとはうそはしれた。地獄と云ことを立るは人を助る為め云うそだか、その次手に佛者は少とつつはうそをせ子は氣かすまぬさふな。寒山拾得あれほと尊ひものだ。前生にわるいことした坊主か牛になりた。何に坊とやら云とそこへのろりと牛か出た。日本て近年の白隱高い僧た。佐倉や備前なとへゆき、大名衆の前でもしたたかなうそを云た。あれか人をやすく見て丁とこれてよい位と見て云たことじゃが、どふもうそを云は子は心持がわるいそふな。一休か、やかてをれも死ぬか一切衆生がのこりをしいと云て泣た。中々一休なく人でない。これもうそだか、それか習になりた。武士か柔かをしてもこしり咎めをすると云やふなもの。それも氣習た。
【解説】
「如六祖衣鉢、説移不動底。這只是胡説。果然如此、何不鳴鼓集衆、白晝發去、却夜間發去做甚麼」の説明。仏には嘘がある。六祖へ衣鉢を渡すのは昼間でもよかった筈である。それを夜更けに行って六祖を逃がす。また、衣鉢を見つけた大衆にはそれを動かすことができなかったと言う。それは嘘である。
【通釈】
さて、あの方では様々な霊怪を言うが。嘘もあると言って、「如六祖衣鉢、説移不動底」と出した。六祖は慧能である。五祖から六祖が衣鉢を貰った。大衆が追うから隠れるのがよいと言って、五祖も渡し場まで送った。案の如く三百人の大衆がそれを遣ってはならないと言って追い詰めた。そこで岩の上にそれを置いて藪の中に逃げた。それと言って大衆が衣鉢を取ろうとしたが、衣鉢が動かなかったという。これが嘘なのは、妙用があれば夜逃げには及ばないからである。鐘太鼓を鳴らして大衆を集めて、今渡すぞと触れて昼中に渡してもよいのに、鶏の鳴かない前の三更にと合図をして、夜に渡して逃がして、後で衣鉢が動かないと言うのでは嘘が知れる。地獄ということを立てるのは人を助けるために言う嘘だが、その序でに仏者は一寸ずつは嘘をしなければ気が済まない様である。寒山拾得はあれほどに尊い者。前生に悪いことをした坊主が牛になった。何坊とやら言うとそこへのろりと牛が出た。日本では近年の白隠が高い僧である。佐倉や備前などへ行き、大名衆の前でも大層嘘を言った。あれが人を安く見て、丁度これでよい位だと見て言ったことだが、どうも嘘を言わなければ心持ち悪いそうである。一休が、やがて俺も死ぬが一切衆生が残り惜しいと言って泣いた。一休は中々泣く様な人ではない。これも嘘だが、それが習いになった。武士が柔らをしても鐺咎めをする様なもの。それも気習である。
【語釈】
・寒山…唐代の僧。天台山の近くに拾得と共に住み、奇行が多く、豊干に師事したと伝える。その詩は「寒山詩」中に収載。文殊の化身と称せられ、画題にされる。
・拾得…唐代の僧。天台山の近くに寒山と共に住み、奇行が多く、豊干に師事したと伝える。その詩は「寒山詩」中に収載。普賢の化身と称せられ、画題にされる。
・白隱…江戸中期の臨済宗の僧。名は慧鶴、号は鵠林。駿河の人。若くして各地で修行、京都妙心寺第一座となった後も諸国を遍歴教化、駿河の松蔭寺などを復興したほか多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称された。気魄ある禅画をよくした。諡号は神機独妙禅師・正宗国師。1685~1768

今賢者都信他向上底説。話下愚人都信他禍福之説。上れき々々の方ては向上底を信じ、下のものは地獄極樂の説を信する。上へ下たでもてはやすから佛法か目出たい。仏法か大はやりたなり。曰、最苦。一ちにが々々しいが聰明な人の迷ふた。程子以来これを程門中庸をといて佛を弁する氣だか、やっはりかぶれた。陸象山もくわへてをる。佛のをかげを蒙たのた。去推演其説、説到神妙處。ここの神妙の字はあちの神妙の、こちの神妙のと云ことではないか、実はあちの神妙に説きをとすのそ。
【解説】
「曰、如今賢者都信他向上底説。下愚人都信他禍福之説。曰、最苦是世間所謂聰明之人、却去推演其説、説到神妙處」の説明。歴々は向上底を信じ、下の者は地獄極楽の説を信じる。そこで、仏法が大いに流行った。中でも一番苦々しいのは聡明な儒者がそれに被れたことである。
【通釈】
「今賢者都信他向上底説。下愚人都信他禍福之説」。上歴々の方では向上底を信じ、下の者は地獄極楽の説を信じる。上下でもてはやすから仏法には目出度いこと。仏法が大いに流行った。「曰、最苦」。一番苦々しいのが聡明な人が迷ったこと。程子以来の程門が中庸を説いて仏を弁ずる気だったが、やはり被れた。陸象山もそれ。佛の御蔭を蒙った。「去推演其説、説到神妙処」。ここの神妙の字はあちらの神妙、こちらの神妙ということではないが、実はあちらの神妙に説き落とすもの。

如王介甫蘇東坡、一世所尊尚。小段落そ。向上底を信する人はあたま敉か多ひか、中にも最苦、にが々々しいはと上に云て、その中名高きれき々々は此の人となり。王荊公子か早く死てから仏に迷ふた。いやはやあの平生らしくない。見苦しいことた。東波か大悲閣中和院の記なそも観音のことを書た。あちの工面のよいやふにかいた。靎林玉露にある。推波助瀾。だたい佛の浪にしつめ靜謐にせふことだに、あちの方の浪を推す。このこと汪張問答でみへた。汪瑞明か王荊公は尊はぬか蘇東波をは尊ぶ。それを朱子の訶りたこと。文集てみへる。東波か弟子の山谷なぞは丸で坊主くさい。木犀の話もそれぞ。今若得士大夫間把得論定、猶可耳。把得は儒者の把得、論定は佛を弁じきめると二句をわけてとるやふにみへるか、そうてない。把得は鱣屋の鱣をつかむやふに佛のつかまへ処つかまへて弁しさせたいと、皆あちへ掛て云かよい。それなれはまあ圣人の徒の云はるるとなり。
【解説】
「如王介甫蘇東坡、一世所尊尚、且爲之推波助瀾多矣。今若得士大夫間把得論定、猶可耳」の説明。仏に被れた中で名高い人を挙げれば王安石と蘇東坡である。仏の掴まえ処を掴まえて弁じれば、それが聖人の徒である。
【通釈】
「如王介甫蘇東坡、一世所尊尚」。小段落である。向上底を信ずる人は頭数が多いが、中にも「最苦」で、苦々しいのはと上で言って、その中で名高い歴々はこの人だと挙げた。王荊公は、子が早く死んでから仏に迷った。いやはやそれはあの平生らしくなく見苦しいこと。東坡の大悲閣中和院の記なども観音のことが書かれている。それは、あちらの工面のよい様に書いたもの。靎林玉露にある。「推波助瀾」。そもそも仏は波に沈め静謐にするものなのに、あちらの方の波を推す。これは汪張問答に見える。汪瑞明は王荊公を尊ばないが蘇東坡を尊ぶ。それを朱子の訶ったもの。文集に見える。東坡の弟子の山谷などは丸で坊主臭い。木犀の話もそれ。「今若得士大夫間把得論定、猶可耳」。把得は儒者の把得で、論定は仏を弁じ決めると二句を分けて取る様に見えるが、そうではない。把得は鰻屋が鰻を掴む様に仏の掴まえ処を掴まえて弁じさせたいと、皆あちらへ掛けて言うのがよい。それであれば、まあ聖人の徒の言うことができる。
【語釈】
・王介甫…王安石。
・汪瑞明…
・山谷…黄庭堅。江西の人。字は魯直、号は山谷または諸翁。1045~1105


因論釈氏多有神異条
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因論釋氏多有神異、疑其有之。曰、此未必有。便有、亦只是妖怪。百二十六下同。
【読み】
因りて釋氏多く神異有るを論じ、其の之有るを疑う。曰く、此れ未だ必しも有らず。便ち有るも、亦只是れ妖怪なり。百二十六下同。

やっはり上の段の処。あれと同しこと。有神異。をすにをされたと云もの。あなかちあち勝手に計り云ことでもない。信せぬものかゆきてもあることた。其筈だは、あの方ても仕ふせた道かあるからぞ。火は一寸手にあててもあついに腕香もたく。これらも神異の木口だ。そのやふなこともする。断食もそれなり。学者なとと違たことの脩行をすると、火かあつくないのひたるくないのと段々あること。これは鬼神の論と同じこと。神異のすじを、伊川はそれは見たものの眼病と云。朱子は一つ眼も有ふと云。此がこのことを論ずるとて論弁して論じたてはない。其咄に因て云こと。疑其有之と云は、そこにいたもの云たこと。太極からは有りそもないことと疑ふた。曰未必有。大根種をうへたれは大根かはへると云のるいではない。たまさかは有りも有ふが、それは怪妖た。妖怪ないはづのものだか、天地か廣ひから出ることかある。伯有為厲、あることもある。それなら幽灵の種をまいて出るかと云に、それては出ぬ。盗人の来たやふに幽灵を出した□調法て有ふが、どふもそれはならぬ。
【解説】
「因論釋氏多有神異、疑其有之。曰、此未必有」の説明。伊川が、神異の筋は見た者の眼病だと言った。朱子はそれもあることだろうと言った。天地は広いから、妖怪が出ることもある。しかしそれは、種から生える様なことではない。
【通釈】
やはり上の段の処と同じこと。「有神異」。押すに押せないというもの。あながちあちらが勝手に言ったことでもない。信じない者が行ってもあること。その筈で、あの方でもし遂げた道があるからである。火は一寸手に当てても熱いのに腕香も焚く。これ等も神異の一つである。その様なこともする。断食もそれ。学者などとは違うことを修行すると、火が熱くなく、空腹でないという様な段々がある。これは鬼神の論と同じこと。神異の筋を、伊川がそれは見た者の眼病だと言った。朱子は一つ眼もあるだろうと言う。これがこのことを論じようと論弁して論じたことではない。釈氏の論に因っていうこと。「疑其有之」とは、そこにいたものということ。太極からはありそうもないことだと疑った。「曰未必有」。大根の種を植えれば大根が生えるという類ではない。偶にはあるだろうが、それは怪妖である。妖怪はない筈のものだが、天地は広いから出ることもある。「伯有為厲」で、あることもある。それなら幽霊の種を蒔けば出るかというと、それでは出ない。盗人が来た様に幽霊を出すのは調法なことだろうが、どうもそれは悪い。

只是妖怪と云は殊の外下さげに云たこと。八丈嶋着た男を哥無妓ものた、河原者じゃと云やふなもの。其妖怪もあの方て神異灵妙と云ことだに、只是妖怪となり。迂斎の若ひとき、妙の字の説と云を書れた。こちは学問すると知がひらく。飯をくへばひだるいがやむと云こと。あちの妙と云は笹の葉が虵のすじぞ。そこて佛は偏則為夷狄禽獣胡国の道そ。こちは実理て中庸の道だ。あいらか学者はをし言をすると言か、あちに神異があると云からないとは云はぬ。有ふと云。有た処か妖怪と云ことなり。この方のをし言はせぬか、却てそれにこまろふ。をしことした方があちの工面によかろふ。
【解説】
「便有、亦只是妖怪」の説明。神異はあるだろうが、それは妖怪であると朱子が言った。こちらは実理で中庸の道なのである。
【通釈】
「只是妖怪」は殊の外卑く言ったこと。八丈島に着いた男を歌舞伎者だ、河原者だと言う様なもの。その妖怪もあの方では神異霊妙と言うことなのに、只是妖怪と言う。迂斎が若い時、妙の字の説を書かれた。こちらは学問をすると知が啓く。飯を食えば空腹が止むということ。あちらが妙と言うのは笹の葉の蛇という筋である。そこで仏は「偏則為夷狄禽獣胡国之道」である。こちらは実理で中庸の道である。仏が学者は押し事を言うと言うか、あちらは神異があると言うから、それはないとは言わず、あるだろうと言う。しかし、ある処が妖怪だということである。こちらは押し事は言わないが、却ってそれには困ることだろう。押し事をした方があちらの工面にはよい筈である。
【語釈】
・河原者…江戸時代、歌舞伎役者の賤称。
・偏則為夷狄禽獣胡国の道…
・をし言…押し事。無理におしつけること。特に、神仏の奇特を信ぜず、それを否定するようなことを言うこと。