排釋録講義

佛氏乘虚條  八月廿六日後席 十八丁の方  文録
【語釈】
・八月廿六日…
・十八丁…
・文…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817

31
佛氏乘虚入中國。廣大自勝之説、幻妄寂滅之論、自齋戒變爲義學。如遠法師支道林皆義學。然又只是盜襲莊子之説。今世所傳肇論、云出於肇法師、有四不遷之説。日月歴天而不周、江河兢注而不流、野馬飄鼓而不動、山嶽偃仆而常靜。此四句只是一義、只是動中有靜之意、如適間所説東坡、逝者如斯而未嘗往也之意爾。此是齋戒之學一變、遂又説出這一般道理來。及達磨入來、又翻了許多窠臼、説出禪來、又高妙於義學、以爲可以直超徑悟、而其始者禍福報應之説、又足以鉗制愚俗、以爲資足衣食之計。遂使有國家者割田以贍之、擇地以居之、以相從陷於無父無君之域而不自覺。蓋道釋之敎皆一再傳而浸失其本眞。有國家者雖隆重儒學、而選舉之制、學校之法、施設注措之方、既不出於文字言語之工、而又以道之要妙無越於釋老之中、而崇重隆奉、反在於彼。至於二帝三王述天理、順人心、治世敎民、厚典庸禮之大法、一切不復有行之者。
【読み】
佛氏虚に乘じ中國に入る。廣大自勝の説、幻妄寂滅の論は、齋戒變じ義學と爲すに自る。遠法師支道林が如きは皆義學。然して又只是れ莊子の説を盜襲す。今世傳ずる所の肇論は、肇法師に出ると云い、四不遷の説有り。日月天を歴して周からず、江河兢い注いで流れず、野馬飄鼓して動かず、山嶽偃仆して常に靜なり。此の四句は只是れ一義、只是れ動中靜有りの意、適間説く所の東坡、逝く者は斯くの如くして未だ嘗て往かざるなりの意の如きのみ。此れは是れ齋戒の學一變し、遂に又這の一般の道理を説き出し來。達磨入來に及び、又許多の窠臼を翻了し、禪を説き出し來、又義學より高妙、以て以て直超徑悟す可しと爲して、其の始めは禍福報應の説にして、又以て愚俗を鉗制し、以て衣食を資足するの計と爲すに足る。遂に國家を有する者は田を割り以て之を贍じ、地を擇び以て之を居し、以て相從父を無し君を無するの域に陷って自覺せざらしむ。蓋し道釋の敎は皆一再傳じて浸り其の本眞失す。國家を有する者は儒學を隆重すと雖も、而して選舉の制、學校の法、施設注措の方、既に文字言語の工に出ずして、又道の要妙釋老の中に越えること無きを以てして、崇重隆奉、反って彼に在り。二帝三王の天理を述べ、人心に順じ、世を治め民を敎え、典を厚くし禮を庸るの大法に至り、一切復之を行う者有らず。

佛氏乘虚入中國。廣大自勝之説、幻妄寂滅之論。乘虚が、先軰晝の九つに、大手に化け物はないと云。晝る中大手へ化け物は出られぬ。虚に乘するは淋しくなりてのこと。田舎で雨がしょぼ々々々降りてと云、このとき幽灵が出る処なり。そこで仏氏などが郁々乎文哉の時は出られぬ。あんな者はこちの虚を子ろうて、後世中国へつけこんで来たものなり。廣大自勝が、あちが自然の道でないゆへ、そこて大きくかまへて人を威す。だたい、廣大を吾方から云ものてはなし。こちにあれば、脇から見て云ものなれども、あちがほんのことではないゆへ斯ふぞ。文會にも引てあるが、因果經に釈迦が天上天下唯我獨尊と云、自滿もあるべきに、廣大自勝、あの上はない。これは釈迦が自ら云たことでもなく、あとから附會して云たことで有ふが、古今の大きな自慢なり。幻妄寂滅之説。これをよく迯げた。世の中のこと、何も皆あてにはならぬ。幻妄寂滅ぢゃと云て初手の自慢迠消して仕舞ふ。よいくめんぞ。天上天下も死て仕舞ひ、何もないと云。元来佛が何もわけなく尊いと云て、條理分派でなく、めっちゃに云。廣大自勝も取をさへなく実もないことなり。丁ど賣藥に自勝をしていろ々々能書にするが、それと同ことで、元来をとしを云なり。法蕐經や楞嚴經、何か大きく云てある。
【解説】
「佛氏乘虚入中國。廣大自勝之説、幻妄寂滅之論」の説明。仏氏はこちらの虚に乗じて中国に入って来た。彼等のは自然の道ではないので、広大自勝で人を威す。その上、幻妄寂滅を唱え、死ねば何もないと言う。
【通釈】
「仏氏乗虚入中国。広大自勝之説、幻妄寂滅之論」。「乗虚」のことでは、先輩が昼の九つに、大手に化け物はないと言った。昼中大手へ化け物は出られない。虚に乗ずるのは淋しくなってからのこと。田舎で雨がしょぼしょぼ降ってと言う、この時、幽霊が出る処である。そこで仏氏などは「郁々乎文哉」の時には出られない。あんな者はこちらの虚を狙って、後世中国に付け込んで来たもの。「広大自勝」は、あちらが自然の道ではないので、そこで大きく構えて人を威すのである。そもそも広大は自分の方から言うものではない。こちらにそれがあれば、脇から見て言うものなのに、あちらは本当のことではないのでこの様に言うのである。文会にも引いてあるが、因果経に釈迦が天上天下唯我独尊とあり、自慢もあってのことだが、広大自勝とは、この上はない。これは釈迦が自ら言ったことでもなく、後から付会して言ったことだろうが、古今の大きな自慢である。「幻妄寂滅之説」。これでうまく迯げた。世の中のことは何も皆当てにはならず、幻妄寂滅だと言って初手の自慢までを消してしまう。それはよい工面である。天上天下も死ねば終わって何もないと言う。元来仏が何のわけもなく尊いと言う。それは条理分派からでなくて、滅茶苦茶に言うのであって、広大自勝も、根拠もなく実もないことである。丁度売薬に自勝をして色々な能書にするのがそれと同ことで、そもそも威しを言うのである。法華経や楞厳経は、何か大きなことを言っている。
【語釈】
・郁々乎文哉…論語八佾14。「子曰、周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周」。
・因果經…過去現在因果経。四巻。劉宋の求那跋陀羅の訳。釈尊の前生の善慧仙人の出家から、この世に誕生して迦葉の教化に至るまでの仏伝。
・楞嚴經…大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経。10巻。般剌蜜帝訳。修禅・五根(眼・耳・鼻・舌・身)円通などについて禅法の要義を説いた経。一名、中印度那爛陀大道場経。

○自斉戒変爲義学。如遠法師支道林皆義学。斉戒が佛の初手か斯ふ云ことぢゃ。咒などもあるが、それを何の訳けと云はず、只有難い々々々と經など戴て、これで七難即滅する、斉戒が第一ぢゃ、この戒業が大切ぢゃと云なり。今律宗がこれぞ。義学は天台になりて今の論議などのあるがそれにて、佛法をぎんみする。法花も義学なれども、信せぬものには斉戒なり。初手佛法の中国へわたりたときは皆斉戒でだましたもの。だん々々それではいかぬゆへ義学になりた。義学でなければ人に勝れぬゆへ理屈を付る。これを浄土もするなり。惠遠支道が專らこれで、あれが世話にのり、南郭や熊耳などが友とするもの。これと詩文の贈答などするそ。韓氏もとどこの義を見て高禅をはしらぬ故、大顚にやりつけられた。
【解説】
「自齋戒變爲義學。如遠法師支道林皆義學」の説明。最初に仏法が中国に渡った時は斎戒で騙して入ったが、その後、人に勝つために理屈を付ける様になった。それが義学である。韓退之も義学は知っていたが、高禅を知らなかったので、大顛に遣り込められた。
【通釈】
○「自斎戒変為義学。如遠法師支道林皆義学」。「斎戒」というのが、仏の初手はこういうこと。呪いなどもあるが、それを何のわけだとは言わず、ただ有難いと言い、経などを戴いて、これで七難即滅する、斎戒が第一だ、この戒業が大切だと言う。今の律宗がこれ。「義学」は、天台になって今の論議などのあるのがそれで、仏法を吟味すること。法華も義学だが、それを信じない者には斎戒である。初手に仏法が中国へ渡った時は皆斎戒で騙した。段々それではうまく行かなくなったので義学になった。義学でなければ人に勝てないので理屈を付ける。これで浄土もする。恵遠や支道が専らこれで、あれが世話に乗り、南郭や熊耳などが友とする。これと詩文の贈答などをする。韓氏も結局はこの義を見たが高禅を知らないので、大顛に遣り込められた。
【語釈】
・惠遠…
・支道…東晋の仏教学者。314~366
・南郭…服部南郭。江戸中期の儒学者・詩人。名は元喬。京都の人。柳沢吉保に仕え、荻生徂徠に学び、古文辞を修め、詩文に長じた。1683~1759
・熊耳…大内熊耳。漢学者。奥州三春熊耳村の人。江戸に出て秋元澹園に師事、後に荻生徂徠に学ぶ。その後京都に上り伊藤東涯に会い、長崎で講説し、江戸の戻って服部南郭の指導を受けた。後に肥前唐津藩の儒者となる。元禄10年(1697)~安永5年(1776)
・大顚…韓退之は、潮州に左遷された際、当地の傑僧大顛禅師と交流する。長安に帰って、大顛との交流を質問されるが、積極的には評価しない返答内容であったとのことである。かつて仏教を排斥し、後に熱心な仏教徒となった白居易とは異なり、韓退之は、基本的には排仏を貫いていた。

○然又只是盗襲荘子之説。ここて荘子之説と云も面白い。老子では聞が遠い。芭蕉は老子なれども、其角は荘子で口が利ける。それでなければ勝れぬからぞ。今世所傳肇論、云出於肇法師、有四不遷之説云々。僧肇は惠遠と幷ふ歴々なり。これは涅槃無名論の中にある説なり。文會にあるもここへ合せる爲なり。日月歴天不周。義学を人が感ずる筈。こんなことゆへぞ。四不遷之説。今日の訓詁の学者は中々云ことならぬ。道体をさとりたやふじゃ。先つこの一つは、日月が周けれどもめぐらぬ処が一つあるてや。はてなと人に驚かせる。法蕐經にこんなことはないが、義学からなり。江河競注而不流。これも江河は萬古流れるが、中に流れぬものがあると云。野馬飄鼓而不動。これは糸と遊なり。日本で歌によくよむぞ。春の長閑かな日に気の立なり。これがもと荘子に遊糸を野馬と云てある。荘子の説を盗襲と云が尤で、これ皆荘子なり。今日はほんの春ぢゃか糸遊が立てとも、あれも中に眞柱の動かぬものがありと云。山嶽偃仆而常靜。山はもとより動かず偃して居て、地震ても上総が下総にはならぬ。靜なものなり。上の三句で動かぬものを云が、これは眼に見へる処ていつもかはらず靜で居るが、それも中に眞柱があるゆへ、腐らずにいつもあると云ことなり。
【解説】
「然又只是盜襲莊子之説。今世所傳肇論、云出於肇法師、有四不遷之説。日月歴天而不周、江河兢注而不流、野馬飄鼓而不動、山嶽偃仆而常靜」の説明。肇論では、日月にも周らないところがあり、江河にも流れないところがあり、野馬にも動かないところがあると言い、また、山嶽も真柱があるので腐らずにいつもあると言う。それは荘子の説を盗んだのである。
【通釈】
○「然又只是盗襲荘子之説」。ここで「荘子之説」と言うのも面白い。老子では聞こえが遠い。芭蕉は老子だが、其角は荘子なので口が利ける。それでなければ勝てないからである。「今世所伝肇論、云出於肇法師、有四不遷之説云々」。僧肇は恵遠と並ぶ歴々である。これは涅槃無名論の中にある説である。文会にあるのもここへ合わせるためである。「日月歴天不周」。義学を人が感じる筈。こんなことだからである。「四不遷之説」。今日の訓詁の学者では中々これを言うことはできない。それは道体を悟った様なこと。先ずこの一つは、日月は周るれども周らない処が一つあるが、それはどうしたことかと人を驚かせる。法華経にこんなことはないが、これが義学からのこと。「江河競注而不流」。これも江河は万古流れるものだが、中に流れないものがあると言う。「野馬飄鼓而不動」。これは糸遊のことで、日本で歌にこれをよく読む。春の長閑かな日に気が立つ。これは元荘子が遊糸を野馬と言ったこと。荘子の説を盗襲すると言うのが尤もなことで、これが皆荘子である。今日は実に春らしくて糸遊が立っているが、あれも中に真柱の動かないものがあると言う。「山嶽偃仆而常静」。山は固より動かず偃していて、地震があっても上総が下総にはなることはなく、静かなものである。上の三句では動かないものを言い、これは眼に見える処でいつも変わらずに静かでいることを言うが、それも中に真柱があるので腐らずにいつもあるということなのである。
【語釈】
・其角…宝井其角。江戸前期の俳人。本姓竹下、母方の姓は榎本。号は宝晋斎など。近江の人。江戸に来て蕉門に入り、派手な句風で、芭蕉の没後洒落風を興し、江戸座を開いた。蕉門十哲の一。1661~1707
・肇法師…
・糸と遊…糸遊。陽炎。
・荘子に遊糸を野馬…荘子逍遥遊。「野馬也、塵埃也、生物之以息相吹也」。野馬は陽炎。陽炎が奔馬に似ているのでそう言う。

○此四句只是一義、動中有靜之意。向の出ほうだいを朱子の一口に只是一義と云へり。儒佛の論が違ふても天地だたい理は一ゆへ、肇法師か荘子を見て云へどもなんのことなく、中は動中有靜のことなり。○如適間所説東坡、逝者如斯而未嘗往也之意爾。朱子のこの間説いた、酒のあとてかの赤壁の賦じゃとなり。朱子酒後には出師の表や歸去來の辞なとを歌はるる。それを勝手通りの者は知ているか、あの歌ふた赤壁の賦ぞや、と。これはたしか歌ふたと見へる。手もない月見の時のことぢゃか、東坡ゆへ只の者の見たとは違い、逝者もゆくとみるばかりでない、眞木があるゆへ往かぬ所があると云。天に北極の動かぬと同しことぞ。なるほとをもかげも替り、人に小児のときと違うて白髪もあれども、こちの眞柱はいつも動かぬ。東坡もあの筋なり。
【解説】
「此四句只是一義、只是動中有靜之意、如適間所説東坡、逝者如斯而未嘗往也之意爾」の説明。理は一つであり、肇法師が荘子を借りて言ったことも、実は「中有動中有静」の一義である。東坡も「逝者」も逝くだけではなく、真木があるので逝かない所があると言ったが、それは仏と同じ筋である。
【通釈】
○「此四句只是一義、動中有静之意」。向こうが出放題に言ったことを、朱子が一口に「只是一義」と言った。儒仏の論は違っていても、そもそも天地に理は一つなので、肇法師が荘子を見て言ったのも何のこともないことで、「中有動中有静」のこと。○「如適間所説東坡、逝者如斯而未嘗往也之意爾」。朱子がこの間説いた、酒の後にあの赤壁の賦だということ。朱子は酒後に出師の表や帰去来の辞などを歌われた。それは勝手をわかっている者は知っていることで、あの歌った赤壁の賦のことだと言った。これは確かに歌ったものと見える。わけもない月見の時のことだが、東坡なので普通の者が見るのとは違い、「逝者」も逝くと見るだけではなく、真木があるので逝かない所があると言った。天の北極が動かないのと同じこと。なるほど、人も面影が替わり、小児の時とは違って白髪もあるが、こちらの真柱はいつも動かない。東坡もあの仏の筋である。
【語釈】
・東坡…蘇東坡。蘇軾。北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一。洵の子。轍の兄。字は子瞻、号は東坡。大蘇と称される。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画をも能くした。諡は文忠。1036~1101。「赤壁賦」は彼の作。
・逝者如斯…論語子罕16。「子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜」。

○此是斉戒之學一変、遂又説出這一般道理來。斉戒の学が浄土や法蕐の七字六字を唱へて有難と云。あれが斉戒なれども流義はそふでない。然るにほんの斉戒は中々今日の佛を信ずる軰の念佛題目の有難いと云やうなことでない。我方を斉戒して問は子ば答へぬと云類でも、貴様はどふした、をかしい顔むきぢゃと問へば、虫がと云が、そうなければ死ぬとも云はぬ。食事も食わぬと云は子ば、こちからはひたるいとは云はぬ。あの腕香からして、あれほど功夫して釋迦にそむくまいと云。今病人が藥をいたたいて飲むやふなも斉戒にて、其尊ふて藥も利く。佛が中国へわたりたときそうなれども、それては後はいかぬゆへ、義学と云が流行り出して一変したものぞ。四不遷などの説は高いことで、一般の道理を説出したなれども、まだ魂がない。それもこれも、俗と見て達磨が掃除なり。
【解説】
「此是齋戒之學一變、遂又説出這一般道理來」の説明。仏が中国に入った頃は斎戒によって広めたが、後に義学が流行って一変した。しかし、それにはまだ魂が入っていなかった。それは達磨が全てを俗と見て一掃したからである。
【通釈】
○「此是斎戒之学一変、遂又説出這一般道理来」。斎戒の学は浄土や法華が七字や六字を唱えて有難いと言うことで、あれが斎戒なのだが、流儀はそういうことではない。本当の斎戒は中々今日の仏を信じる輩の念仏や題目を有難いと言う様なことではない。自分を斎戒して、問われなければ答えないという類でも、貴様はどうした、可笑しい顔向きだと問えば、虫がと言うが、そうでなければ死んでも言わない。食事も食わないかと言われなければ、こちらからは空腹だと言わない。あの腕香からして、あれほど功夫をして釈迦に背かない様にすると言う。今病人が薬を頂いて飲む様なことも斉戒であって、尊ぶので薬も効く。仏が中国に渡った時はそれだったが、これでは後にはうまく行かなくなったので、義学が流行り出して一変したのである。「四不遷」などの説は高いことで、一般の道理を説出したものなのだが、まだ魂がない。それもこれも、俗と見て達磨が掃除をしたからである。
【語釈】
・腕香…僧や修験者などの荒行の一。腕の皮膚の上で香をたき、熱さをこらえること。

○及達磨入來、翻了許多窠臼、説出禅來、又高妙於義學云々。窠。穴は彼の穴と云ことなり。窠は虫の巢、臼は戸のくろろのやふな所なり。義学のここと云処を、引くりかへた人が穴を云と云が、穴はここときまりた処。ここときまりた処。そこをとらへると放下がならぬものぞ。達磨義学を軽く見て、それを翻了して禅なり。これで始て禅が出來た。達磨は、釈迦の爲には子思の未発の中を発明せられた同ことなり。四十二章經にも禅意はみへても、誰も知者なく達磨が見出し、義学は只の物知りゆへ、それ迠も打つぶした。物しりと云はいやなこと。文法の平仄のと云やふななり。達磨は其くわしくなった所を洗ふ。いかさま心法を云には平仄は入らぬはづ。そこで不立文字で眼をはっちりとして居る。
【解説】
「及達磨入來、又翻了許多窠臼、説出禪來、又高妙於義學」の説明。達磨が義学を軽く見て、それを翻了して禅ができた。義学はただの物知りだとしてそれを洗い捨てた。
【通釈】
○「及達磨入来、翻了許多窠臼、説出禅来、又高妙於義学云々」。「窠」。穴はあの穴ということ。窠は虫の巣で、臼は戸の枢の様な所。義学のここという処で、引っくり返った人が穴を言うというが、穴はここと決まった処。ここと決まった処を捉えると放下することはできないもの。達磨が義学を軽く見て、それを翻了して禅をした。これで初めて禅ができた。釈迦のためには、達磨は子思が未発の中を発明されたのと同じである。四十二章経にも禅意は見えるが、それを知る者は誰もなく、達磨が見出して、義学はただの物知りなので、それまでも打ち潰した。物知りということは嫌なこと。それは、文法が、平仄がと言う様なこと。達磨はその精しくなった所を洗う。いかにも心法を言うのに平仄は要らない筈である。そこで不立文字で眼をぱっちりとしている。
【語釈】
・くろろ…枢。くるる。戸を開閉するために装置した、とぼそ。
・子思の未発の中…中庸章句1。「喜怒哀樂之未發、謂之中」。
・四十二章經…仏典の一。一巻。仏教を初めて中国に伝えた中インドの迦葉摩騰・竺法蘭の二人が洛陽白馬寺で訳したと伝えられるが、実は五世紀ごろの編纂と推定される。出家学道の要と日常生活の教訓とを説き、四二章から成る。
・平仄…平と仄。平字と仄字。また、漢詩作法における平字・仄字の韻律に基づく排列のきまり。

○以爲可以直超徑悟、而其始者禍福報應之説、又足以鉗制愚俗、以爲資足衣食之計。直超徑悟は胸からすっとゆくので即身成仏なり。祖師と云ことは達磨が本なれども、あの翻了を得て、其手はふるいと後々は又達磨をも一変するぞ。段々新らしくして見やうと云が、新らしいこと云で禅がわるくなる。儒者の方では垩人の古きを尊ぶ。大きな違なり。そこてこの直超徑悟が工夫も入らぬやうなことを云、達磨が後の翻了は馬祖が即心即佛と云ひ、動した初手は即心即佛で居たが、それではそれではそれに烹へかたまるとて、後は非心非佛と云。はや非心非心にきまるのを、大梅はそれて我は只管即心即心と云。皆あの翻了を聞たものなり。そこて又非心非佛のなんのと心にこげつくゆへ、麻三斤ささげ三杷と云。翻了をさま々々ゆへども、高く云が低く云かこの二つで人を化すなり。
【解説】
「以爲可以直超徑悟」の説明。「直超径悟」で即身成仏となる。その祖師は達磨だが、後にはその達磨をも一変する。馬祖は即心即仏と言い、後には非心非仏と言った。この様に新しいことを言うので禅が悪くなる。逆に、儒者は古き聖人を尊ぶ。
【通釈】
○「以為可以直超径悟、而其始者禍福報応之説、又足以鉗制愚俗、以為資足衣食之計」。「直超径悟」で胸からすっと行くのから即身成仏となる。その祖師は達磨だが、あの翻了を得て、その手は古いと言って、後々はまた達磨をも一変する。段々と新しくしてみようと言うが、新しいことを言うので禅が悪くなる。儒者の方では聖人の古きを尊ぶ。そこが大きな違いである。そこでこの直超径悟が工夫も要らない様なことを言って、達磨の後の翻了は馬祖が即心即仏と言い、動じた初手は即心即仏でいたが、それではそれに烹え固まるとして、後は非心非仏と言った。非心非仏に決まるところを、早くも大梅はそれでも私は只管即心即仏だと言った。それは皆あの翻了を聞いてのこと。そこでまた非心非仏の何のと心に焦げ付くので、麻三斤ささげ三杷と言う。様々に翻了を言っても、高く言うか低く言うかの二つで人を化すのである。
【語釈】
・馬祖…中国唐代の禅宗の一派、洪州宗の派祖。四川省の人。六祖慧能の弟子南岳懐譲に師事。「即心即仏」「平常心是道」などの句を残す。大寂禅師。709~788
・大梅…大梅法常。天台山中の大梅山の庵に居して修行を重ねた。馬祖の弟子。752~839
・麻三斤…禅語。三斤の麻。僧衣一着分に当る。

○禍福報應の説は、初手威しを云たもの。これは釈迦が云て達磨は云はぬこと。これで極樂へ行き、これで地獄へ落ると云ゆへ、洗濯婆々迠か駈け出し、洗濯でわつか取た銭を盆に投る。可愛そうに、□れが物迠も竒特と云て取こみ、それがこちの爲でなくそちの爲になる、と。それぐるみ化したもので、何がわけは知れぬことぞ。周公の三百官、わけのないことはない。そうして民には百畝の田、こまかな筭用ぞ。二十而冠三十而有室。そこで餘夫は二十五畝と云て初手の百畝の中から渡して圣人万民の食はれるやふにする。五畝の宅樹之以桑がそれぞ。その筭盤ゆへ、外に坊主が出てはあれらもわけなく取ら子ばならぬはづ。それゆへ元來は釈迦が乞食に出た。今日佛を乞食と云と腹立つが、乞食があちの高いこと。衣鉢と云鉢がそのこと。だたい乞食たからぞ。乞食と云は高し。後木犀や六尺四人唐めかずと其角が云。六尺は俗なきたないこと。坊主がそれではひくいことなり。資足衣食之計が迂詐を云と舌をぬかれるの、娵をいじるなと云が、どふても米や銀をとる。その計ぞ。
【解説】
「而其始者禍福報應之説、又足以鉗制愚俗、以爲資足衣食之計」の説明。初めは威しのために「禍福報応」を言ったのであって、それにはわけなどなかった。逆に、儒者の方にはわけのないことなどはなく、細かな算用がある。仏は色々なことを言っても、米や銀を取ろうとする。
【通釈】
○「禍福報応」の説は、初手威しを言ったこと。これは釈迦が言ったことで、達磨は言わなかった。これで極樂へ行き、これで地獄へ落ちると言うので、洗濯婆までが駈け出し、洗濯で得た僅かな銭を盆に投げる。可愛そうに、□れの物までも奇特と言って取り込み、それは自分のためでなくお前のためになると言う。それぐるみ化したことであって、どの様なわけがあるのかは知らずにいる。周公の三百官にわけのないことはない。そうして民には百畝の田、それは細かな算用である。「二十而冠三十而有室」。そこで、「余夫二十五畝」と言って初手の百畝の中から渡して、聖人は万民を食える様にする。「五畝宅樹之以桑」がそれ。その算盤なので、外に坊主が出れば、あれ等もわけなく取らなければならない筈。そこで始めに釈迦が乞食に出た。今日仏のことを乞食と言うと腹を立てるが、乞食と言うのがあちらの高いことを指す。衣鉢の鉢がそのこと。そもそも乞食だからその様に言うのである。乞食と言うのが高いこと。後に木犀や六尺四人唐めかずと其角が言った。六尺は俗な汚いこと。坊主がそれでは卑い。「資足衣食之計」は、嘘を言うと舌を抜かれるとか、娵を虐めるなと言っても、どうしても米や銀を取る。その「計」のこと。
【語釈】
・百畝の田…周礼地官司徒。「上地、夫一廛、田百畝、萊五十畝、餘夫亦如之。中地、夫一廛、田百畝、萊百畝、餘夫亦如之。下地、夫一廛、田百畝、萊二百畝、餘夫亦如之」。
・二十而冠三十而有室…礼記内則。「二十而冠。始學禮。可以衣裘帛、舞大夏。惇行孝弟、博學不敎、内而不出。三十而有室。始理男事。博學無方、孫友視志」。
・餘夫は二十五畝…孟子滕文公章句上3。「卿以下、必有圭田。圭田五十畝。餘夫二十五畝」。同集註。「程子曰、一夫上父母、下妻子、以五口八口爲率、受田百畝。如有弟、是餘夫也。年十六、別受田二十五畝。俟其壯而有室、然後更受百畝之田」。
・五畝の宅樹之以桑…孟子梁恵王章句上3。「五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣。雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣」。

○遂使有国家者割田以贍之、擇地以居之、以相從陷於無父無君之域而不自覚。ここまでは学者をさとすため魂を云て、ここで一寸と經済へ落す。尤全く經済のことはあとにあるぞ。割田以贍之が御朱印などが始り。立派なこと。大名も及ぬ。さりとはどふ云様子かあのやうになり、中々一人二人信仰する勢ではゆかぬ。天下皆化かされたと云も、こちの虚へわりこまれたもの。仕舞には軍迠するやうになりた。叡山の衆徒などあの勢いぞ。近代迠僧が軍にでたが、あちにはあるまいことなれども、なんのことか知れたことなり。無父無君は父をやりばなしにして仏を尊び、君を蔑にして僧を信ずる。なるほどこれでは又親や君のふへたことなり。上総でも百姓が住持を御前様々々々とて地頭の外に一つ出来た。其御前様が檀家の酢くなった酒そ。のむがつまり常祿ない身ゆへそ。それも尤もと云はば、あああきたないことじゃ。
【解説】
「遂使有國家者割田以贍之、擇地以居之、以相從陷於無父無君之域而不自覺」の説明。仏によって天下が皆化かされた。仏は「無父無君」で、もう一つ別に父君を立てる。
【通釈】
○「遂使有国家者割田以贍之、擇地以居之、以相従陥於無父無君之域而不自覚」。ここまでは学者を諭すために魂のことを言い、ここで一寸経済へ落とす。尤も全く経済のことは後にあること。「割田以贍之」は御朱印などが始りで、立派なこと。それは大名でも及ばないこと。さてはどういう様子でかあの様になって、一人や二人が信仰する様な勢では中々ない。天下が皆化かされたと言うのも、こちらの虚へ割り込まれたからである。遂には軍までする様になった。叡山の衆徒などはあの勢いである。近代まで僧が軍に出た。それは中国にはないことだろうが、それは何故なのかは知れたこと。「無父無君」は父を遣りっ放しにして仏を尊び、君を蔑ろにして僧を信じる。なるほどこれではまた親や君が増えたことになる。上総でも百姓が住持を御前様と言うが、それは地頭が外にもう一つできたのと同じこと。その御前様が檀家の酢くなった酒である。それを飲むのがつまりは常禄のない身だからである。それも尤もなことだと言うのであれば、汚いことである。

○蓋道釈敎皆一再傳而浸失其本眞。道釈。初手の塩梅は遠く行かぬ勢なれども、一再傳で替って来て遠く行くやうになったか、老荘はやはりはびこらぬ。同じ異端なれども、仏はどふしたことかはびこる。老子や道家は只延年のことゆへそふなく、釈氏は地獄極樂の低へ方と、禅などの高い方で、賢愚ともに信ずる方でも有ふ。然るに段々替って來て仏の本眞は失ふたぞ。有国家者雖隆重儒学、而選挙之制、学校之法、施設注措之方、不出於文字言語之工、而又以道之要妙無越於釈老之中、而崇重隆奉、反在於彼。宋朝などでも上で儒を尊ぶとは云へども、根は上でも皆佛を尊ぶからのこと。そこに又當時はあのころなり。学校で人倫の名教を立にせず、施設注措する。学校で居ながら文辞言語の上ばかりで、心術のことも道体性命のことにもかまはぬゆへ、仏よりかるくしらるるはづ。日本で儒を外典と云はれると同ことなり。某なども迂斉宅を出て町に居るとき、外典にせられた。夜盗ふせぎの御觸書などを持て来て読でくれろと云に、町の御觸には中に某など読ぬことがある、よめぬと云と、それ□も儒者かと云。後には家主なども、あの読めてもよめぬと□がをそいことじゃと云たと云。唐でも當時、儒者外典あしらいにしたものぞ。
【解説】
「蓋道釋之敎皆一再傳而浸失其本眞。有國家者雖隆重儒學、而選舉之制、學校之法、施設注措之方、既不出於文字言語之工、而又以道之要妙無越於釋老之中、而崇重隆奉、反在於彼」の説明。仏は「一再伝」で世にはびこる様になり、段々と変わって来て本真を失った。宋朝でも儒を尊ぶと言いながら、根は仏を尊んだ。それは、当時の儒者が文辞言語ばかりをして、心術や道体性命のことを構わなかったからで、当然のことである。
【通釈】
○「蓋道釈教皆一再伝而浸失其本真」。「道釈」。初手の塩梅は遠くへは行けない勢いだったが、「一再伝」で変わって来て遠く行く様になった。しかし、老荘はやはりはびこらなかった。彼等も同じ異端だが、仏はどうしたことかはびこる。老子や道家はただ延年のことなのでそうはならないが、釈氏は地獄極楽の低い方と、禅などの高い方で、賢愚共に信じることからそうなるのだろう。そこで段々と変わって来て仏の本真を失った。「有国家者雖隆重儒学、而選挙之制、学校之法、施設注措之方、不出於文字言語之工、而又以道之要妙無越於釈老之中、而崇重隆奉、反在於彼」。宋朝などでも上が儒を尊ぶとは言っても、上でも皆根は仏を尊ぶのである。それにまた、当時はあの頃だった。学校で人倫の名教を立てず、「施設注措」する。学校にいながら文辞言語の上ばかりをして、心術のことも道体性命のことにも構わなかったので、それでは仏よりも軽く見られる筈である。それは、日本で儒が外典と言われるのと同じこと。私なども迂斎宅を出て町にいる時、外典にされた。夜盗防ぎの御触書などを持って来て読でくれと言われ、町の御触には中に私などでは読めないことがあるから読めないと言うと、それでも儒者かと言う。後には家主なども、あの読めても読めないと言うのは頭が悪いからだと言ったそうである。唐でも当時は儒者を外典あしらいにした。
【語釈】
・外典…仏教で、仏教経典以外の書籍。

○道之要妙無越於釈老之中と云か学者そ。皆漢唐之間ゆへなり。南郭門などの心術を探り見るに至て俗ゆへ、そこで郭注荘子を假りる。あの徒は文章のため計りでない。文章に小心文放膽文と云が、それは文をつくる小心文放膽文。荘子を入れると我一体が高いやふなり。迂斎の同年の南郭ゆへ、あの社中のこと某皆知っておる。仲英でも鵜士寧ても、詞章の低い処へ荘子を假りて我身を上品にする。宋朝の理学をいやがりても、あの徒が只の人物で俗を脱しやふがないゆへ、郭注と來子はならぬ。なるほど俗儒が釈老を越へることはならぬ。どふして達磨には叶はぬ。軍学でさへ儒を軽くして、山鹿が儒者も使ふがよい、唐から書翰のとき入ると云。武教全書に儒者一人金堀一人とある。笑顧一扁曰、そふで有ふ。曰然り。
【解説】
漢唐の間の学者は俗儒だったので、釈迦や荘子を越えることができなかった。南郭も荘子を借り、山鹿も軍に儒者を使うのがよいと言って、儒を軽くした。
【通釈】
○「道之要妙無越於釈老之中」と言うのが学者のこと。皆漢唐の間のことだからである。南郭の門などは心術を探り見るのが至って俗なので、そこで郭注で荘子を借りる。あの徒が荘子を借りるのは文章のためだけではない。文章に小心文放膽文と言うが、それは文を作ることの小心文放膽文で、荘子を入れると一体が高い様に思う。迂斎と同年の南郭なので、私はあの社中のことを皆知っている。仲英でも鵜士寧でも、詞章の低い処へ荘子を借りて我が身を上品にする。宋朝の理学を嫌がっても、あの徒は普通の人物で俗を脱することができないので、郭注としなければならない。なるほど俗儒は釈老を越えることはできない。どうしても達磨には敵わない。軍学でさえ儒を軽くして、山鹿が儒者も使うのがよい、唐から書翰が来た時に必要だと言う。武教全書に儒者一人金堀一人とある。笑顧一遍して言った。そうでもあろう。その通りである。
【語釈】
・仲英…服部仲英。服元雄、字は仲英、小字は多門、南郭の義子、攝津の人。
・鵜士寧…名は孟一、字は士寧、鵜殿氏、通称は左膳、本荘に居たので本荘先生と呼ぶ。幕府に仕える。
・山鹿…山鹿素行。江戸前期の儒学者・兵学者。古学の開祖。名は高興・高祐。会津に生れ、江戸に育ち、儒学を林羅山に、兵学を北条氏長らに学ぶ。「聖教要録」を著して朱子学を排し、幕府の怒りを受けて赤穂に配流。のち赦免されて江戸に帰る。1622~1685

○至於二帝三王述天理、順人心、治世教民、厚典庸礼之大法、一切不復有行之者。二帝三王之ことが上品にこの上はない。これが動かぬことなり。今日よんだ初條に天下只是這道理終是走不得なり。天理人心の二つでするより外はない。祖述尭舜憲章文武もこのこと。人心道心もこのことなり。絜矩で平天下がなる。これほど氣高いことはないに、後世の学者、荘子を假る。厚典は皐陶謨に勑五典五惇乎とあり、庸礼は自五礼有庸と云。これはあれを逆さに書たもの。点は厚典庸礼と棒よみがよい。厚典は道理、庸礼は事物を云。こふなければ仏が自由自在してはびこると云ことなり。某感發して治教録を尊ぶもここなり。會津中將公、山崎先生に合てあの書が出來たが、公儀への忠にあの上はない。あれは三王の治になる。確い儒者が、あの衆は神道に迷ふたと云がわるい。迷ふたぐるみかまわぬ。それが厚典庸礼の邪魔にはならぬぞ。
【解説】
「至於二帝三王述天理、順人心、治世敎民、厚典庸禮之大法、一切不復有行之者」の説明。天理人心の二つでするより外はないのに、後世の学者は荘子を借りる。「厚典」は道理、「庸礼」は事物を言う。これがないと仏がはびこる。
【通釈】
○「至於二帝三王述天理、順人心、治世教民、厚典庸礼之大法、一切不復有行之者」。二帝三王のことは上品この上ない。これは確かなこと。今日読んだ初条に「天下只是這道理終是走不得」とあり、天理人心の二つでするより外はない。「祖述堯舜憲章文武」もこのこと。人心道心もこのこと。「絜矩」で平天下が成る。これほど気高いことはないのに、後世の学者は荘子を借りる。「厚典」は皋陶謨に「敕五典五惇乎」とあり、「庸礼」は「自五礼有庸」とあって、これはあれを逆さに書いたもの。点は厚典庸礼と棒読みがよい。厚典は道理、庸礼は事物を言う。こうでなければ仏が自由自在にはびこるということ。私が感発して治教録を尊ぶのもこのためである。会津中将公が山崎先生に合ってあの書ができたのだが、公儀への忠ではあの上はない。あれは三王の治になる。固い儒者が、あの衆は神道に迷ったと言うのは悪い。迷ったぐるみ構うことはない。それは厚典庸礼の邪魔にはならない。
【語釈】
・天下只是這道理終是走不得…朱子語類126。
・祖述尭舜憲章文武…中庸章句30。「仲尼祖述堯舜、憲章文武。上律天時、下襲水土」。
・絜矩…大学章句10。「所謂平天下在治其國者。上老老而民興孝、上長長而民興弟、上恤孤而民不倍、是以君子有絜矩之道也。所惡於上、毋以使下。所惡於下、毋以事上。所惡於前、毋以先後。所惡於後、毋以從前。所惡於右、毋以交於左。所惡於左、毋以交於右。此之謂絜矩之道」。
・勑五典五惇乎…書経皋陶謨。「天敘有典。敕我五典五惇哉」。
・自五礼有庸…書経皋陶謨。「天秩有禮。自我五禮有庸哉」。
・會津中將公…保科正之。

○その上今日学文では人が却て軽薄になる。某用心深いゆへ武藝云がよいと云。犱行して武藝奮ふものは弓馬で君の御用に立ふと云ゆへ、そこへ靖献遺言、それからしこむと善けれども、学校に置て詩も作り文も書と云やふなことでは士氣武風がぬるけて爲にはならぬ。こふ読ではあたりさはりがあるかは知ら子ども、大切のこと。中將様大抵の御方でない。学校のことも山崎先生へ相談せられたるに、先生の、師があるまいと云はれて、とふ々々は止められたと云が、あの治教録が教やうの立の違ふことなり。某一昨年講じたが、あれを信ずるが又は辨をつくもの。あれはよいが誉もそしりもせずに仕舞ふてをく。經済が明でないからぞ。經済が明らかでないと仏が自由自在する。あれは某云過ぎかこの言。我今六十四になれば置き土産なり。迂斉石原もこれほどは読まぬ。ゆるいぞ。某治教録は命をかけて講したことなれども、嗚呼見てもない。一切不復有行之者が上文に佛を崇重隆奉とありて、二帝三王の天理人心厚典庸礼を行はぬは合点ゆかぬが、なんのことなく、當時心法は禅にあつけて置てこまりたこと。とど云へば、坊主にやりつけられたのなり。
【解説】
今の学文は詩も作り文も書くという様なことであって、士気武風が温ける。会津中将の治教録が教え方の立ったものだが、経済が明でないとそれはわからない。経済が明でないと仏が自由自在をする。「一切不復有行之者」は、当時、心法は禅に預けて置いたということである。
【通釈】
○その上今日の学文では却って人が軽薄になる。私は用心深いので武芸でたとえるのがよいと言う。修行して武芸を奮う者は弓馬で君の御用に立とうと言うのだから、そこで靖献遺言から仕込むとよいのだが、学校にいて詩も作り文も書くという様なことでは士気武風が温け、ためにはならない。この様に読んでは当たり障りがあるかも知れないが、大切なこと。中将様は大抵の御方ではない。学校のことも山崎先生へ相談されたが、先生が、師がいないだろうと言われたので、終には止められたそうだが、あの治教録が教え様の立て方の違ったこと。私が一昨年にこれを講じたが、あれは信じるか、または弁じるかの二通りである。あれはよいが誉めも誹りもせずにそのままにして置くのは経済が明でないからである。経済が明らかでないと仏が自由自在をする。あれを私が言い過ぎるのがこの言からのこと。今私は六十四にもなったので、これが置き土産である。迂斎や石原もこれほどには読まなかった。緩い。治教録は私が命を懸けて講じたものだが、それを見る人もいない。「一切不復有行之者」は上文に仏を崇重隆奉とあり、二帝三王の天理人心厚典庸礼を行わないのは妙な様だが、それは何の事でもなく、当時、心法は禅に預けて置いたのである。それは困ったこと。結局は、坊主に遣り込められたのである。


問佛氏所以差條
32
問佛氏所以差。曰、從劈初頭便錯了。如天命之謂性、他把做空虚説了。吾儒見得都是實。若見得到自家底從頭到尾小事大事都是實、他底從頭到尾都是空。恁地見得破、如何解説不通。又如實際理地不受一塵、萬行叢中不捨一法等語、這是他後來桀黠底又撰出這一話來倚傍吾儒道理。正所謂遁辭知其所窮。
【読み】
佛氏の以て差う所を問う。曰く、劈初頭に從い便ち錯了す。天の命ずるを之を性と謂うが如きを、他は把えて空虚と做し説了す。吾儒の見得るは都て是れ實。若し見得到れば自家底の從頭到尾小事大事は都て是れ實、他の底の從頭到尾は都て是れ空。恁地見得破れば、如何ぞ解説し通じざらん。又實際理地不受一塵、萬行叢中不捨一法等の語の如きは、這れは是れ他の後來桀黠の底は又這の一話を撰出し來、吾儒の道理に倚傍す。正に謂う所の遁辭は其の窮むる所を知る。

曰從劈初頭便錯了。さて々々この条丈夫な章なり。どこが違ふたと問を、朱子手ごはい挨拶で、あたまから皆違ったとなり。と聞て、あたまから違うは女房かきらいか圣人かいやかと云に、いや道体を見そこなったなり。如天命之謂性、他把做空虚説了。吾儒見得都是實。天命性は至てたしかなこと。そこを大きな腹の犬が通る。やがて子を生むに、犬の子は犬の子、猿の子は生れぬ。かるいことでもこれで実な慥かなことに、それをあちでは空と云。そこを又あちの空虚と見るは、形体は実でも元来は形なく見へぬもの。犬が犬の子を生んでもやかて死ぬ。生れたが生れたにたたぬ。寂滅じゃ。無が本で出たなれども、出たのは虚で、出ぬ処と云。
【解説】
「問佛氏所以差。曰、從劈初頭便錯了。如天命之謂性、他把做空虚説了。吾儒見得都是實」の説明。仏との違いは最初からのことで、仏は道体を見損なっている。儒は道を実で確かなものと捉えるが、仏はそれを空虚と見る。
【通釈】
「曰従劈初頭便錯了」。実にこの条は丈夫な章である。何処が違っているのかとの問いに、朱子は手強い挨拶で、最初から皆違っていると答えた。その様に聞くと、最初から違うとは、女房が嫌いだとか聖人が嫌だということかと思えば、いや道体を見損なったのである。「如天命之謂性、他把做空虚説了。吾儒見得都是実」。天命性は至って確かなこと。そこへ大きな腹の犬が通る。やがて子を産むが、犬の子は犬の子で、猿の子は産まれない。軽いことで言ってもこの様に実で確かなことなのに、それをあちらでは空と言う。そこをあちらが空虚と見るのは、形体は実でも元来は形がなくて見えないものであり、犬が犬の子を産んでもやがて死ぬのであって、産まれたことが産まれたことにならない。寂滅である。無が本であって、出ても出たのは虚で、出たことにならないと言う。
【語釈】
・天命之謂性…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎」。

我儒見得都是実は、何んにも深い思を入れぬこと。牛が牛をうむを実と見たもの。あちであぢきないと云へども、この席の皆が一昨日の約束の通りここへ来て弁當を使ふ。釈氏はそれを一昨日帰りがけに死ふも知れぬ、空虚じゃと云。空虚じゃと云が惣体でも皆実が多いぞ。あちで生死事大無常迅速と一つ取上けて云へども、大小ともに皆実ぞ。生も死も皆実ぞ。そこで從頭到尾小実大事都是実と云。先軰の、けしとしんぎくを蒔くなり。あれが畑で一つになりてもよいが、けしはけし、しんぎくはしんぎくで、それ々々分りて少のことでも実なり。德助は知るまいが、染井で伊兵衛が百種の種を賣が、あれが百種もなく六七十は生へやふが、なるほど一つにかきまぜても、それ々々こちは石竹、こちは撫子と、理が実ゆへ理なりの顔を出す。同じ種類の櫻を植へても、初櫻と遲櫻がある。来年も其通り。皆それが実ゆへぞ。釈迦も知らぬ人ではないが、何もかも一つに空にして、劈初頭か違うからぞ。所以差を論ずれば長いことじゃが、要を挙て云へば、あちは虚、こちは実と見ると手もなく埒があいて、どこでも違はない。それで虚と実とて、どちが差ったか差はぬかが見へる。空と実との弁になったとき、他把做空虚説了吾儒云々なり。これで儒仏はきとなる。
【解説】
「若見得到自家底從頭到尾小事大事都是實、他底從頭到尾都是空。恁地見得破、如何解説不通」の説明。仏は空虚だと言うが、そこには実が多く、生も死も皆実なのである。小さな種でも、それぞれが理の通りに芽生える。
【通釈】
「我儒見得都是実」は、何も深い思いを入れないこと。牛が牛を産むのを実と見たもの。あちらでは味気ないと言うが、この席の皆が一昨日の約束の通りここへ来て弁当を使う。釈氏はそれを一昨日の帰り掛けに死ぬかも知れない、空虚だと言う。空虚だと言うが、総体として皆実が多い。あちらで生死事大無常迅速と一つ取り上げて言うが、大小共に皆実である。生も死も皆実である。そこで「従頭到尾小実大事都是実」と言う。先輩の言う、芥子と新菊を蒔くということ。あれが畑で一つになってもよいが、芥子は芥子、新菊は新菊で、それぞれに分れていて、小さなことでも実である。徳助は知らないだろうが、染井で伊兵衛が百種の種を売ると言うが、あれが百種でなくても六七十は生えるだろうが、なるほど一つに掻き混ぜても、それぞれこちらは石竹、こちらは撫子と、理が実なので理の通りの顔を出す。同じ種類の桜を植えても、初桜と遅桜がある。来年もその通り。それは皆実だからである。釈迦もわからない人ではないが、何もかも一つに空とし、劈初頭が違うからである。「所以差」を論じれば長いことになるが、要を挙げて言えば、あちらは虚、こちらは実と見ると簡単に埒が明いて、何処でも違いはない。それで虚と実とで、どちらが差ったか差わないかが見える。空と実との弁になった時に、「他把做空虚説了吾儒云々」である。これで儒仏の差がはっきりとする。
【語釈】
・德助…弓削徳助。大洲藩。
・染井で伊兵衛…伊藤伊兵衛。江戸で一番の植木屋と言われた。染井に住む。伊兵衛は代々世襲の名前。

又如実際理地不受一塵、万行叢中不捨一法等語、這是他後來桀黠底又撰出這一話來倚傍吾儒道理。正所謂遁辭知其所窮。直方の、犬も傍軰、鷹も傍軰と云は犬の方から云たとなり。佛の方では儒を仲ヶ間にしたい。三教一致と云もあちから云たこと。そこでここも儒を仲ヶ間にして空々と云はれまいと、実際理地不受一塵、万行叢中不捨一法なり。不捨一法は偽山が語なり。偽山、五家八宗の五家の中で唐朝の名高い僧なり。これを云と儒者も口がきけとて出したものなり。不受一塵は無声無臭と云やふなもの。塵も灰もつけぬ六祖か、実際理地不受一塵がだたい空なれども、眞如の実相とみたもの。今も禅坊主が塵がつく々々と云。無言の処ぞ。本体は空寂じゃが、万行叢中不捨一法と云は、前に六度万行とあるも同こと。幡天蓋から人を恵み、舌たるいことも不捨一法なり。この段は何もすてぬ。これが段々利口もののしたこと。こう見ると垩人の道にも違はぬやうなり。
【解説】
「又如實際理地不受一塵、萬行叢中不捨一法等語、這是他後來桀黠底又撰出這一話來倚傍吾儒道理。正所謂遁辭知其所窮」の説明。仏は儒を仲間にしたくて「不捨一法」と言う。「実際理地不受一塵」は空だが、それを実相と見て捨てない。
【通釈】
「又如実際理地不受一塵、万行叢中不捨一法等語、這是他後来桀黠底又撰出這一話来倚傍吾儒道理。正所謂遁辞知其所窮」。直方が、犬も傍輩、鷹も傍輩と言うのは犬の方から言ったことだと言った。仏の方では儒を仲間にしたいのであって、三教一致と言うのもあちらが言ったこと。そこでここも儒を仲間にして空々とは言えないだろうと、「実際理地不受一塵、万行叢中不捨一法」である。不捨一法は潙山の語である。潙山は五家八宗の五家の一人で唐朝の名高い僧である。これを言えば儒者とも口を利けるとして出したもの。不受一塵は無声無臭と言う様なもの。塵も灰も付けない六祖が、実際理地不受一塵がそもそも空なことだが、それを真如の実相と見た。今も禅坊主が塵が付くと言う。無言の処である。本体は空寂だが、万行叢中不捨一法は、前に六度万行とあるのと同じこと。幡天蓋から人を恵み、舌たるいことをするのも不捨一法である。この段では何も捨てない。これが段々に利口者がしたこと。こうして見ると聖人の道にも違わない様である。
【語釈】
・偽山…潙山。潭州潙山霊祐禅師。
・五家…臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼。
・八宗…
・無声無臭…中庸章句33。「上天之載、無聲無臭。至矣」。詩経大雅文王。「上天之載、無聲無臭」。
・六祖…中国禅宗の第六祖、慧能。
・眞如…ものの真実のすがた。あるがままの真理。
・六度万行…朱子文集44。
・幡天蓋…幢幡と天蓋。堂内の荘厳具の一。

黄糵が身で云はば、母を尋子たが萬行叢中不捨一法、母が我子ではないかと追かけ趺て死をふりかへり見ぬは実際理地不受一塵になる。日本で一向宗の肉食妻帯を、隱元禅師があれも尤と云は不捨一法□見て云なり。窠臼を翻了が偽山などか云と斯ふなる。桀黠はをへぬ坊主と云こと。倚傍は儒者へよるとはちかはたらきよい。覇者の仁義を假るもそれと同こと。仁義で通用がよい。不捨一法も、あれが人倫を去ながらつまら子ども、そこを孟子のよいこと云てあり。遁辞知其所窮と云。寂滅とて父母をすてて不捨一法を云はづはない。父母經もつまらぬ。皆遁辞也。
【解説】
「這是他後來桀黠底又撰出這一話來倚傍吾儒道理。正所謂遁辭知其所窮」の説明。仏が寂滅と言って人倫を去るのに不捨一法も言う。それは遁辞である。
【通釈】
黄糵の身で言えば、母を尋ねたのが万行叢中不捨一法で、母が我が子ではないかと追い駆けて躓いて死んだのを振り返って見なかったのは実際理地不受一塵である。日本で一向宗の肉食妻帯を、隠元禅師があれも尤もだと言うのは不捨一法と見てのこと。「翻了窠臼」を潙山などが言うとこうなる。「桀黠」は手に負えない坊主ということ。「倚傍」は儒者へ倚ると仕易い。覇者が仁義を借りるのもそれと同じこと。仁義で通用がよい。不捨一法も、仏は人倫を去るからつまらないものなのだが、そこを孟子がうまいことを言った。「遁辞知其所窮」と言った。寂滅と言って父母を捨てて不捨一法を言う筈はない。父母経もつまらない。皆遁辞である。
【語釈】
・黄糵…黄糵希運。中国唐代の禅僧。福州閩県の人。百丈懐海に師事した。弟子に臨済義玄がいる。断際禅師。~850頃
・隱元禅師…日本黄檗宗の開祖。明の福建省福清の人。名は隆琦。1654年(承応三)日本に渡来。山城国宇治に黄檗山万福寺を創建。諡号は大光普照国師など。1592~1673
・窠臼を翻了…朱子語類126。「翻了許多窠臼」。
・遁辞知其所窮…孟子公孫丑章句上2。「詖辭知其所蔽、淫辭知其所陷、邪辭知其所離、遁辭知其所窮」。
・父母經…父母恩重経。


因説條
33
因説、曾有學佛者王天順、與陸子靜辨論。云、我這佛法、和耳目鼻口髓腦、皆不愛惜。要度天下人、各成佛法、豈得是自私。先生笑曰、待度得天下人各成佛法、却是敎得他各各自私。陸子靜從初亦學佛、嘗言、儒佛差處是義利之間。某應曰、此猶是第二著、只他根本處便不是。當初釋迦爲太子時、出遊、見生老病死苦、遂厭惡之、入雪山脩行。從上一念、便一切作空看、惟恐割棄之不猛、屏除之不盡。吾儒却不然。蓋見得無一物不具此理、無一理可違於物。佛説萬理倶空、吾儒説萬理倶實。從此一差、方有公私義利之不同。今學佛者云、識心見性。不知是識何心、是見何性。十七。
【読み】
因りて説く、曾て佛を學ぶ者に王天順有り、陸子靜と辨論す。云う、我が這の佛法は、耳目鼻口髓腦を和し、皆愛惜せず。天下の人を度し、各々成佛するを要するの法、豈是れ自私に得ん。先生笑って曰く、天下の人を度し得て各々成佛する法を待つは、却って是れ他の各各自私するを敎え得。陸子靜從初亦佛を學び、嘗て言う、儒佛の差う處は是れ義利の間、と。某應じて曰く、此れは猶是れ第二著、只他の根本の處は便ち是ならず。當初釋迦の太子と爲る時、出遊して、生老病死苦を見て、遂に之を厭惡し、雪山に入りて脩行す。從上の一念、便ち一切空と作し看、惟割棄の猛ならず、屏除の盡さざるを恐る。吾儒は却って然らず。蓋し一物として此の理を具わざる無く、一理として物に違う可き無きを見得。佛は萬理倶に空と説き、吾儒は萬理倶に實と説く。此れに從い一とたび差えば、方に公私義利の同じからざる有り。今佛を學ぶ者は云う、識心見性、と。知らず、是れ何の心を識り、是れ何の性を見るかを。十七。

因説、曾有学佛者王天順、與陸子靜辨論。云、我這佛法、和耳目鼻口髓腦、皆不愛惜。要度天下人、各成佛法、豈得是自私。これはどふ云直方先生の□べなれば、上の條、佛の不捨一法も儒者の実と云も同こと、佛の方にもあると云が、儒は天理一牧、佛は人倫を去るゆへ自私と云へ來るぞ。王天順が私と云はれるをいやがりて、陸象山どこの論なり。これも陸象山が佛ゆへのこと。王天順はへったりと仏なり。然れども陸象山、我は仏の氣ではない。偖て王天順が仏を儒者から私々と云が、自私はない云々ぞと云。儒者はちとのこともさはぐか、仏はからだをすてて髓腦迠ほかしと出して置く。その心ゆへ天下の人を済度する。儒者がそれをば知らずに仏を自私とはつまらぬと云なり。
【解説】
「因説、曾有學佛者王天順、與陸子靜辨論。云、我這佛法、和耳目鼻口髓腦、皆不愛惜。要度天下人、各成佛法、豈得是自私」の説明。仏が儒者から私と言われることについて、王天順が仏に自私はないと言った。仏は体を捨てて髄脳までも放下し、その心で天下の人を済度するから自私はないと言ったのである。
【通釈】
「因説、曾有学仏者王天順、与陸子静弁論。云、我這仏法、和耳目鼻口髄脳、皆不愛惜。要度天下人、各成仏法、豈得是自私」。これはどういう直方先生の並べ方かと言うと、上の条は、仏の「不捨一法」も儒者の実と言うのも同じことで、仏の方にも実があると言うが、儒は天理一枚、仏は人倫を去るので「自私」ということになる。王天順が私と言われるのを嫌がって、陸象山とこの論をした。これも陸象山が仏だからしたのである。王天順はべったりと仏である。しかしながら、陸象山自身は仏の気ではない。さて王天順が、仏は儒者から私々と言われるが、自私はない云々と言った。儒者は小さなことでも騒ぐが、仏は体を捨てて髄脳までも放下して出して置く。その心だから天下の人を済度する。儒者がそれを知らずに仏を自私と言うのはつまらないことだと言った。
【語釈】
・王天順…

○先生笑曰、待度得天下人各成佛法、都是敎得他各々自私。朱子のこれはぐっと笑はれたこと。記録の塩梅がよい。王天順が論のをもいをくっと吹出したもの。笑はこちの丈夫なことにあるものなり。それゆへ力のつをい人が、弱いものがかかると笑っているぞ。この待の字はいろ々々つかふて、わけのある俗語の文字なれども、ここは字の通りそれを待と云ことでよい。天下の人を済度し成佛を遂けさせるは結構と云問はない。あたまで私で、私を敎るとなり。他は佛のこと。やがて各々成仏せふが、父母を遠くる。そこをはや私と責むることぞ。講後惟秀成佛報を待の一節を問。曰、賄をすればあとて斯ふ云よいことがあると云。後によいことあろふとも、あたまで私なり。永平寺御見舞と云に忰留主と云。親を棄たならどふもならぬ。私と云がいやと云はれぬ。佛は女房を持たぬが、ものに遠慮だけが私なり。
【解説】
「先生笑曰、待度得天下人各成佛法、却是敎得他各各自私」の説明。仏が天下の人を済度し成仏を遂げさせると言っても、父母を棄てている。仏は最初から自私であり、自私を教えているのである。
【通釈】
○「先生笑曰、待度得天下人各成仏法、都是教得他各々自私」。これは朱子がくっと笑われたこと。記録の塩梅がよい。王天順の論の思いをくっと吹き出したもの。笑いはこちらが丈夫な時にあるもの。それで、弱い者が掛かって来ると、力の強い人は笑っているもの。この「待」の字は色々に使いわけのある俗語の文字だが、ここは字の通りそれを待つということでよい。天下の人を済度し成仏を遂げさせるのが結構だという問答はない。最初から私で、私を教えると言った。「他」は仏のこと。やがて各々成仏するだろうが、父母を遠くする。そこを早くも私と責めるのである。講後、惟秀が成仏の報を待つの一節を問う。曰く、賄をすれば後にこの様によいことがあると言う。後によいことがあるとしても、最初から私である。永平寺御見舞で忰は留守だと言う。親を棄てるのではどうにもならない。私というのが違うと言えないこと。仏は女房を持たないが、ものに遠慮するだけ私である。
【語釈】
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

○此邉百姓の家へ坐頭が泊れば亭主の処へ寐せ、瞽女なれば女房処に寐せる。これ自然の理勢なり。佛は五倫を立てば女房の処へやって寐せそうなものに、それはならぬ。然れは人倫を去ると云は我方で無理にしたもので、私にはきはまる。這道理走不得ぞ。仏が何んぞのときつぢつま合せても合はぬ。人倫を絶つでも遠慮は私なり。そこでどふして見ても私と云事が遁れられぬ。あちも云わけをすれども、黄蘖がそう々々ならぬゆへ、炬を投けたら大焔の中より母が男のからだになって天上した、と。芝居のやふなことなれども、そふ云は子ばまとまらぬ。又、黄蘖が母へ一言の言葉もかけず、尤金銀もやらず。或る夜黄蘖が夢に母が來て、若受汝一粒米、當隋地獄、寧有今日哉と、御ぬしがむごくしたで天上したと云が御臺でしたもの。どふしても私なことゆへ、私のことが斯ふ長くなる。
【解説】
自然の理勢があるのであって、仏が人倫を去るのは自らが無理にしたもので、それは私に極まる。道理に合わないので、妙なことを言わなければ話がまとまらなくなる。
【通釈】
○この辺の百姓の家に坐頭が泊まれば亭主の処で寝かせ、瞽女であれば女房の処に寝かせる。これが自然の理勢である。仏は五倫を絶っているので女房の処へ遣って寝かせてもよさそうなものだが、それはならない。それなら、人倫を去るというのは自分の方で無理にしたもので、私に極まる。「這道理走不得」である。仏は色々と辻褄を合わせても合わない。人倫を絶っても遠慮するのは私である。そこでどう見ても私ということから遁れられない。あちらも言い訳をするが、そうそううまくは行かないので、黄蘖が松明を投げたら大焔の中から母が男の体になって天上したと言う。それは芝居の様なことだが、その様に言わなければまとまらない。また、黄蘖は母へ一言の言葉も掛けず、尤も金銀も遣らなかった。或る夜黄蘖の夢に母が来て、「若受汝一粒米、当随地獄、寧有今日哉」、と。御主が酷くしたので天上したと言うのが飯のためにしたもの。どうしても私なので、私のことがこの様に長くなる。
【語釈】
・這道理走不得…朱子語類126。「天下只是這道理、終是走不得」。
・御臺…食膳。

○陸子靜従初亦学佛、嘗言、儒仏差處是義利之間。某應曰、此猶是第二著、只他根本處便不是。朱子の王天順などが、をらが前で私ないなどと云ことはならぬが、陸象山をば佛仲ヶ間と見てのことと思はるるのぞ。時に陸象山が方からもをれが方へ行て來たに、儒仏の差は義理の間と云が、それは通用のこと。二段の処となり。前条の劈初頭へ返へして見るとそんなこと云はれぬ。衆生済度の前にはや違っている。
【解説】
「陸子靜從初亦學佛、嘗言、儒佛差處是義利之間。某應曰、此猶是第二著、只他根本處便不是」の説明。陸象山は儒仏の差は義理のところだと言ったのに対し、朱子はそれは第二着で、根本が違うと答えた。
【通釈】
○「陸子静従初亦学仏、嘗言、儒仏差処是義利之間。某応曰、此猶是第二著、只他根本処便不是」。朱子が、王天順などは、俺の前で私ではないなどと言うことはできないが、陸象山は仏仲間だと見て論じたことと思われたのである。時に陸象山の方からも朱子の所へ来た時に、儒仏の差は義理の間と言ったが、それは通用のことで、二段の処だと答えた。前条の「劈初頭」へ返して見るとその様なことは言えない。衆生済度の前に早くも違っている。

○當初釋迦爲太子時、出遊、見生老病死苦、遂厭悪之、入雪山脩行。從上一念、作空看、惟恐割棄之不猛、屏除之不尽。釈迦の初一念がこふなり。なぜ出遊して厭いにくむなれば、こちからは子が生れて取あげ婆々、向からは葬礼。ここでは親父が中風で倒れた、あそこでは脚氣と、生老病死、ををうるさい、いやなことと云が惣雪隱のやうに厭い悪くむ。德助もかの弓町でこまりた。そこでぐっと雪山なり。ここが自身を利することぢゃが、義か利かを弁ぜぬぞ。従上の一念が、従は初手のつっかけの処。一念が胸にかふなった処。そこを初手の厭い悪むは只の隱者のこと。釈迦は後は不堪煩の利ばかりでなく、生老病死の苦もあれども、とどの仕舞は寂滅じゃ、空と見たものぞ。そこで割棄の不猛と我利ばかりでなく、あんなものに世話をし、寂滅のものに藥をやるもをかしいと云のぞ。
【解説】
「當初釋迦爲太子時、出遊、見生老病死苦、遂厭惡之、入雪山脩行。從上一念、便一切作空看、惟恐割棄之不猛、屏除之不盡」の説明。釈迦は生老病死を厭い悪んで雪山へ逃れた。これは義理を弁じたことではない。釈迦は、結局は寂滅だ、空だと見た。
【通釈】
○「当初釈迦為太子時、出遊、見生老病死苦、遂厭悪之、入雪山修行。従上一念、作空看、惟恐割棄之不猛、屏除之不尽」。釈迦の初一念がこれ。何故出遊して厭い悪むのかと言うと、こちらでは子が生まれて取上げ婆、向こうでは葬礼。ここでは親父が中風で倒れ、あそこでは脚気と、生老病死が大層煩く嫌なことだと言い、惣雪隠の様に厭い悪む。徳助もあの弓町で困った。そこでぐっと雪山である。ここは自身を利することだが、義か利かを弁じたことではない。「従上一念」が、従は初手の突っ掛けの処。一念が胸にこうなった処。そこを初手で厭い悪むのはただの隠者のすること。釈迦は、「不堪煩之利」ばかりでなく、生老病死の苦もあるが、結局は寂滅だ、空だと見たもの。そこで「割棄之不猛」と、自分の利ばかりでなく、あんなものに世話をして、寂滅の者に薬を遣るのも可笑しいことだと言った。
【語釈】
・惣雪隱…共同便所。長屋では便所を兼用するのが常で、これを江戸では惣後架、上方では惣雪隠と言う。

○然るに圣人は九十の親に有り木の文意呼ぶと云。こちは実、あちは空ゆへ早く片はついている。それは直か假かと云に、生老病死は假なり。そこであちが假に滞りてはならぬと、肉身は道の草や兎の糞のやうに筭用に入れぬ。それにかかはると本來の光明赫爍に疵がつくじゃ。さて割棄は五倫へかけ、屏除は肉身へかけて云がよし。割棄不猛がそこに孟子の惻隱がありて、女房が取り付き、淨梵王がをのしはどふしたものと云ても叶はぬ。そこが樹下に不爲三宿の処なり。椎の下が寐よいと云が、はや執着なり。そこは道に寐るがよい。飯もうまいと云とわるい。只身つかいに食う。いやはや何んとしてあちにはたまらぬ。学者がどうして叶はぬ。今日酒を眼を赤くして飲む。克己々々と云ながら、よい初茸があると云。それで釈迦と太刀打はならぬ。釈迦はそう飯食うとにやけると云。今の出家は上段に居て油上けか上手、鰹節は入れぬと云ても干鯛箱からよい椎茸でする。それでどうなるものぞ。割棄屏除が斯ふ工夫して何もこちへよりつかせぬ。
【解説】
「割棄」は五倫へ掛け、「屏除」は肉身へ掛けて言うのがよい。釈迦は、生老病死は仮であるとして、五倫や肉身に執着はしない。それは今の学者や出家が敵うものではない。
【通釈】
○しかしながら、聖人は九十の親に有木の文意を呼ぶと言う。こちらは実、あちらは空なので、早くも片は付いている。それは直か仮かと言えば、生老病死は仮である。そこであちらは仮に滞ってはならないと、肉身は道の草や兎の糞の様に算用に入れない。それに関わると本来の光明赫爍に疵が付くと言う。さて「割棄」は五倫へ掛け、「屏除」は肉身へ掛けて言うのがよい。割棄不猛はそこに孟子の惻隠があって、女房が取り付き、淨梵王がお前はどうしたのかと言っても叶わない。そこが樹下に三宿せずの処である。椎の下が寝よいと言うのは、早くも執着である。そこは道に寝るのがよい。飯も美味いと言うと悪い。ただ身を使うために食う。いやはや何としてもあちらには堪らない。学者はどうしても敵わない。今日、眼を赤くして酒を飲む。克己と言いながら、よい初茸があると言う。それでは釈迦と太刀打ちはできない。釈迦はその様に飯を食うとにやけると言う。今の出家は上段にいて油揚げが上手。鰹節は入れないと言っても干鯛箱からよい椎茸を出して入れる。それでどうなるものか。割棄屏除は、この様に工夫をして何もこちらへ寄り付かせないこと。
【語釈】
・九十の親に有り木の文意呼ぶ…
・淨梵王…
・樹下に不爲三宿…

○吾儒却不然。蓋見得無一物不具此理、無一理可違於物。佛説万理倶空、吾儒説万理倶実。従此一差、方有公私義利之不同。格物の或問もきこへた。一草一木理なりをすること。團扇はどこ迠も風。それをあちは寒いときにあふげはあつくなるに云。鳶を川、魚をそらなり。これで浅見先生の物の説が動かぬ。一物は蹈んでもどふしてもよいが、理がある。その一草一木の理さへ大切にするゆへ、父子之親、君臣之義云にや及ぶ。不仕無義と云てにげはせぬ。五倫がどうも離られぬ。一理のどふでもよいと云ことはなし。理に差ふことのならぬは、迂斉の猫に鼠を取らせると云。犬がからだ大きくても鼠取ることはならぬ。物に差はれぬ。筆でもきせるでも物だけのことをする。有物有則が微物から父子君臣の大いこと迠動かぬ。
【解説】
「吾儒却不然。蓋見得無一物不具此理、無一理可違於物。佛説萬理倶空、吾儒説萬理倶實。從此一差、方有公私義利之不同」の説明。仏は万理が空だと言うが、儒は「有物有則」で一物にも理があり、実であるとする。この理に差うことはならない。
【通釈】
○「吾儒却不然。蓋見得無一物不具此理、無一理可違於物。佛説万理倶空、吾儒説万理倶実。従此一差、方有公私義利之不同」。格物の或問もよくわかる。一草一木の理の通りをすること。団扇は何処までも風。それをあちらは寒い時に扇げば暑くなると言い、鳶を川、魚を空と言う。これで浅見先生の物の説が確かなものとなる。一物は踏んでもどうしてもよいが、理がある。その一草一木の理さえ大切にするのだから、父子之親や君臣之義は言うに及ばないこと。「不仕無義」と言い、逃げはしない。五倫がどうも離れられない。一理はどうでもよいということはない。理に差うことができないというのを、迂斎が、猫に鼠を取らせると言う。犬は体が大きくても鼠を取ることはできない。物に差うことはできない。筆でも煙管でも物だけのことをする。「有物有則」が、微物から父子君臣の大きいことまで確かである。
【語釈】
・不仕無義…論語微子7。「子路曰、不仕無義。長幼之節、不可廢也。君臣之義、如之何其廢之。欲潔其身、而亂大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣」。
・有物有則…孟子告子上6。「詩曰、天生蒸民、有物有則。民之秉夷、好是懿德。孔子曰、爲此詩者、其知道乎。故有物必有則。民之秉夷也、故好是懿德」。詩は詩経大雅烝民。

○あちで万理倶空と云ても、鞠さへ理がある。空ならばむせふに蹴て高足御免になるが、そうはならぬ。そこで飛井様で習うぞ。こちは物に理がありて寂滅までやりたてず。子のない前に慈があり、奉公せぬ前に義がありて、実理が備っている。そこで今日、物に即て巨細吟味することなり。因て、ここで朱子の今の僧が何に知ってと云ことなり。朱子の自ら禅を学び、あちは膓を見秡ているに、只識心見性と云へばよいと思て、俗に云、正月と思うかなり。今の村僧などは彼岸はなんのこと、立春大吉は何のことと云と、直きに答へることはならぬ。それで識心見性は、何が誠心、何見性と云ことを知ふぞ。未發の中が文字言語で云はれぬ。某言、未發の中は戒謹恐懼どこにあるは知らぬ。何にしても上の條の劈初頭をつかまへられては、あちで蹴ることはならぬ。
【解説】
「今學佛者云、識心見性。不知是識何心、是見何性」の説明。「識心見性」と言うが、今の僧は何も知らない。何が誠心で何が見性なのかを知らなければならない。
【通釈】
○あちらが「万理倶空」と言っても、鞠にさえ理がある。空であれば、無性に蹴れば高足御免になるが、そうはならない。そこで飛鳥井様に習う。こちらには物に理があって寂滅まで遣り立てることはない。子の生まれる前に慈があり、奉公をする前に義があって、実理が備わっている。そこで今日、物に即して巨細を吟味するのである。そこで、ここは朱子が今の僧は何も知らないと言ったこと。朱子は自ら禅を学び、あちらの腹を見抜いているのに、仏はただ「識心見性」と言えばよいと言う。それは俗に言う、正月と思うのである。今の村の僧などに彼岸は何のこと、立春大吉は何のことと聞くと、直ぐに答えることができない。そこで、識心見性とは、何が誠心で何が見性なのかを知らなければならない。未発の中は文字言語では言えない。私は、未発の中は戒謹恐懼でそれは何処にあるのかは知らないと言う。何にしても、上の条の劈初頭を掴まえられては、あちらで蹴ることはできない。
【語釈】
・高足御免…
・飛井様…飛鳥井。蹴鞠の師範。
・未發の中…中庸章句1。「喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也」。
・戒謹恐懼…中庸章句1。「道也者、不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞」。