崇安縣學田記之條  九月六日  惟秀録
【語釈】
・九月六日…
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

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崇安縣學田記曰、崇安縣故有學而無田。遭大夫之賢而有意於敎事者、乃能縮取他費之贏、以供養士之費。其或有故而不能繼、則諸生無所仰食、往往散去。以是殿堂傾圯齋館蕪廢、率常更十數年。乃一聞弦誦之聲、然又不一二歳輒復罷去。淳熈七年、今知縣事趙侯始至而有志焉。既葺其宮廬之廢壞而一新之、則又圖所以爲飮食久遠之計者、而未知所出也。一日視境内浮屠之籍、其絶不繼者凡五。曰中山、曰白雲、曰鳳林、曰聖暦、曰曁暦、而其田不耕者以畝計凡若干、乃喟然而嘆曰、吾知所以處之矣。於是悉取而歸之於學。蓋歳入粗米二百二十解、而士之肄業焉者得以優游卒歳而無乏絶之慮。既而學之群士十餘人、相與走予所居之山間、請文以記其事。曰、不則懼夫後之君子莫知其所始、而或至於廢壞也。予惟三代盛時、自家以達於天子諸侯之國、莫不有學、而自天子之元子以至於士庶人之子莫不入焉、則其士之廩於學官者、宜數十倍於今日而考之禮典、未有言其費出之所自者。豈當時爲士者、其家各已受田而其入學也、有時故得以自食其食、而不仰給於縣官也歟。至漢元成間、乃謂孔子布衣養徒三千、而增學官弟子、至不復限以員數。其後遂以用度不足、無以給之、而至於罷。夫謂三千人者、聚而食於孔子之家、則已妄矣。然養士之需、至以天下之力奉之而不足、則亦豈可不謂難哉。蓋自周衰田不井授、人無常産、而爲士者尤厄於貧、反不得與爲農工商者齒。上之人乃欲聚而敎之、則彼又安能終歳裹飯而學於我。是以其費雖多、而或取之經常之外、勢固有所不得已也。况今浮屠氏之説亂君臣之禮、絶父子之親、淫誣鄙詐以敺誘一世之人、而納之於禽獸之域。固先王之法之所必誅而不以聽者也。顧乃肆然蔓衍於中國、豐屋連甍、良疇接畛、以安且飽而莫之域禁。是雖盡逐其人、奪其所據、而悉歸之學、使吾徒之學爲忠孝者、得以無營於外、而益進其業、猶恐未足以勝其邪説。况其荒墜蕪絶偶自至此、又欲封植而永乆之乎。趙侯取之、可謂務一而兩得矣。故特爲之記其本末與其指意所出者。如此以示後之君子、且以警夫學之諸生、使益用力乎予之所謂忠且孝者。七十九。
【読み】
崇安縣學田の記に曰く、崇安縣故と學有りて田無し。大夫の賢にして敎事に意有る者に遭い、乃ち能く他の費の贏を縮取し、以て士を養うの費を供す。其れ或いは故有りて繼ぐ能わざれば、則ち諸生仰食する所無くして、往往散去す。是を以て殿堂傾圯齋館蕪廢、率ね常に十數年更ず。乃ち一たび弦誦の聲を聞くに、然して又一二歳ならず、輒ち復罷去す。淳熈七年、今の知縣事趙侯の始めて至りて志有り。既に其の宮廬の廢壞を葺いて之を一新すれば、則ち又以て飮食久遠の計を爲す所の者を圖りて、未だ出す所を知らざるなり。一日境内浮屠の籍を視れば、其の絶えて繼がざる者凡そ五なり。中山と曰い、白雲と曰い、鳳林と曰い、聖暦と曰い、曁暦と曰いて、其の田耕さざる者は畝を以て計ること凡そ若干、乃ち喟然として嘆じて曰く、吾以て之を處する所を知るなり。是に於て悉く取りて之を學に歸す。蓋し歳入粗米二百二十解にして、士の業を肄う者は以て優游歳を卒えて乏絶の慮無きを得。既にして學の群士十餘人、相與に予の居る所の山間に走り、文を以て其事を記すを請う。曰く、不れば則ち夫れ後の君子は其の始むる所を知ること莫くして、或いは廢壞に至るを懼れん、と。予惟三代盛んなる時、家より以て天子諸侯の國に達し、學有らざること莫くして、天子の元子より以て士庶人の子に至るまで入らざる莫きは、則ち其れ士の學官に廩す者は、宜しく今日に數十倍にして之を禮典に考えるに、未だ其の費出の自する所を言う者有らず。豈當時の士爲る者は、其の家各々已に田を受けて其れ學に入り、時有る故に以て自ら其の食を食して、縣官に仰給せざるを得んや。漢の元成の間に至り、乃ち孔子布衣し徒三千を養うと謂いて、學官の弟子を增し、復限に員數を以てせざるに至る。其の後遂に用度足らず以て之を給すこと無きを以てして、罷むるに至る。夫れ三千人の者、聚めて孔子の家に食すと謂うは、則ち已に妄なり。然して士を養うの需は、天下の力を以て之を奉じて足らざるに至るは、則ち亦豈難と謂わざる可けんや。蓋し周衰え田井授せず、人常産無きよりして、士爲る者尤も貧を厄い、反って農工商爲る者と齒するを得ず。上の人乃ち聚めて之を敎えんと欲すれば、則ち彼又安んぞ能く終歳飯を裹みて我に學ばん。是れを以て其の費多しと雖も、而して或いは之を經常の外に取り、勢固より已むことを得ざる所有るなり。况や今の浮屠氏の説は君臣の禮を亂し、父子の親を絶し、淫誣鄙詐を以て一世の人を敺誘して、之を禽獸の域に納む。固より先王の法の必ず誅して以て聽かざる所の者なり。顧みて乃ち肆然として中國に蔓衍し、屋を豐にし甍を連ね、良疇畛を接し、以て安し。且つ飽きて之を域いは禁ずること莫し。是れ盡く其れ人を逐うと雖も、其の據る所を奪いて、悉く之を學に歸し、吾が徒の忠孝を爲すを學ぶ者、以て外に營すること無くして、益々其の業に進むを得しむと雖も、猶恐らくは未だ以て其の邪説に勝つに足らず。况や其の荒墜蕪絶偶自此に至り、又封植して之を永乆にせんと欲するをや。趙侯之を取り、一を務めて兩得すと謂う可し。故に特に之が爲に其の本末と其の指意の出る所の者とを記す。此の如きを以て後の君子に示し、且つ以て夫れ學の諸生を警し、益々力を予の謂う所の忠且つ孝なる者に用いしむ。七十九。

学挍に田のつくと云が永久の謀ぞ。慰みことでも、まつ物喰て杜若と云。それに若ひ物とも遊んでくらそふと云をつかまへて学問をさせうと云に、喰ひ物なくてなることでない。治而敎之具に又喰ひ物世話まてなり。○縣故有学而無田。これで書生がのりがつかぬ。吾ものを持出して学問せふなら、やはり環堵之室でするがよい。学田あるで、志のものはそこへ行けは喰れて学ばるるてこそ天子諸矦の学挍なれ、田がないなれば学挍の甲斐はない。○有意於敎事者、乃能縮取他費之贏、以供羪士之費。他とは崇安縣をさすぞ。其縣のつかい道のうちをあまして学挍入用にしたもの。有故而不継は、縣の入用か多ければ学挍の費用の取つつきかなくなる筈。そこてそれも多くはつづかぬ。又名高ても、足利学挍のやふになりては無益のこと。思慮なけれはならぬ。つまり手あてがないゆへ、そこへゆくものかない。○十数年。乃一聞弦誦之声。弦誦とは古へを云ぞ。古へ学挍て詩をうたひ管絃に被らした。朱子のときそれはないか、それを学問のことに古雅に云たもの。既に論語に、子之武城聞絃哥之声。古は斯ふぞ。爰は十年ぶりで論語の声がしたか、此ころは又やんだと云のぞ。
【解説】
「崇安縣學田記曰、崇安縣故有學而無田。遭大夫之賢而有意於敎事者、乃能縮取他費之贏、以供養士之費。其或有故而不能繼、則諸生無所仰食、往往散去。以是殿堂傾圯齋館蕪廢、率常更十數年。乃一聞弦誦之聲、然又不一二歳輒復罷去」の説明。学校で学問をするには食い物の世話がなければならない。自分自身で持ち出すのであれば、自室で学問をすべきである。天子諸侯の学校には田がなければならない。崇安縣には学校の田がなかったので県費を抑えて学校の費用に充てたが、県費が増えれば学校へは金が回らない。また、学校があっても足利学校の様では無益であり、思慮がなければならない。
【通釈】
学校に田が付くというのが永久の謀である。慰みごとでも、先ず物喰って杜若と言う。そこで、若い者共が遊んで暮らそうというところを掴まえて学問をさせようとするのだから、それは食い物がなくてはできることではない。「治而教之」の他にまた食い物の世話までをする。○「縣故有学而無田」。これでは書生に乗りが付かない。自分のものを持ち出して学問をするのなら、やはり環堵の室ですべきである。学田があり、志ある者がそこへ行けば食えて学べてこそ天子諸侯の学校であって、田がなければ学校の甲斐はない。○「有意於教事者、乃能縮取他費之贏、以供養士之費」。「他」は崇安縣を指す。その縣の使い道の一部を余して学校の入用にしたもの。「有故而不能継」。縣の入用が多ければ学校の費用に充てることは続かなくなる筈。そこでそれも多くは続かない。また、名高くても、足利学校の様になっては無益なこと。思慮がなければならない。つまり手当がないので、そこへ行く者がない。○「十数年。乃一聞弦誦之声」。「弦誦」は古を言う。古へ学校で詩を歌い管絃に被らせた。朱子の時にそれはなかったが、それを学問のことで古雅に言ったもの。既に論語に、「子之武城聞現弦歌之声」とある。古はこの様だった。ここは、十年振りで論語の声がしたが、この頃はまた止んだということ。
【語釈】
・まつ物喰て杜若…
・治而敎之…大学章句序。「一有聰明睿智能盡其性者出於其閒、則天必命之以爲億兆之君師、使之治而教之、以復其性」。
・環堵…①家のまわりのかきね。②一堵四方の小室の意で、狭い住宅。
・足利学挍…鎌倉初期、足利に創設された学問所。室町時代に上杉憲実が儒書・領田を寄付して再興、以後の約百七十年間が最も隆盛。武士・僧侶の教育に当り、校主は多く僧侶で、儒書を、後には医書をも講述。1872年(明治五)まで存続。
・子之武城聞絃哥之声…論語陽貨4。「子之武城、聞弦歌之聲。夫子莞爾而笑曰、割雞焉用牛刀」。

○今知縣事趙公。斯ふ云よい人が奉行に来た。学挍の手ぎはにはゆかぬか、此趙公なと云やふな歴々から云立子ばゆかぬ。顧長作田貴藩の集人殿など、此趙公そ。○為飲食久遠之計。館林などではこれは入らぬ。皆御家来の学問所だ。扶持方は兼々やりてある。○一日視境内浮屠之籍。趙公かこれをみたれば無用なものがある。それを取りて学挍の入用にする。つぶれ寺が五ヶ寺ある。文盲なものは寺をつぶすはこはがる。惠林寺をこはしたから、それで信長もあふなりたと云。それは文盲から云が、又、文盲でなしとも、をとなしやけた男は新法のことはせぬことの、有り来りのことは破らぬのと云てさふせぬもの。○絶不継者凡五。此の久しくつぶれてをる、住むものもないと云がかかりの方から知れて来た。これが替ったもので、なまなか小寺はもつものだが、大寺が持あらす。萬壽寺なと五山のうち大寺だ。栄治かかの傘の亭とをほへた高臺寺なども無住てありた。
【解説】
「淳熈七年、今知縣事趙侯始至而有志焉。既葺其宮廬之廢壞而一新之、則又圖所以爲飮食久遠之計者、而未知所出也。一日視境内浮屠之籍、其絕不繼者凡五。曰中山、曰白雲、曰鳳林、曰聖暦、曰曁暦」の説明。趙公が奉行になると、彼は学校の飲食久遠の計を作った。彼は仏の籍を調べ、潰れ寺が五つあるのを確認した。
【通釈】
○「今知縣事趙公」。この様なよい人が奉行に来た。学校の手際ではうまく行かず、この趙公などという様な歴々から言い立てなければうまく行かない。長作を顧みて言った。貴藩の集人殿などがこの趙公である、と。○「為飲食久遠之計」。館林などではこれは要らない。皆御家来の学問所である。扶持方は事前に遣ってある。○「一日視境内浮屠之籍」。趙公がこれを見ると無用なものがある。それを取って学校の入用にする。潰れ寺が五つある。文盲な者は寺を潰すのを恐がる。恵林寺を壊したから、それで信長も危なくなったと言う。文盲なのでその様に言うが、また、文盲でなくても、大人しぶった男は新法のことはしないものだの、在り来たりのことは破らないものだと言ってしないもの。○「絶不継者凡五」。永いこと潰れたままで住む者もいない寺があることが係りの方から知らせられた。これが変わったことで、寧ろ小寺は持つものだが、大寺が持たないもの。万寿寺などは五山の中の大寺である。栄治があの傘の亭と覚えた高台寺なども無住だった。
【語釈】
・長作田…山田長作。館林藩士。
・集人殿…
・惠林寺…乾徳山恵林寺。臨済宗妙心寺派の禅寺。武田信玄の菩提寺で、夢窓国師開山の古刹。天正10年(1582)織田信長の焼き打ちに遭い、その後徳川家康が再興。塩山市にある。
・萬壽寺…京都市東山区の東福寺内にある臨済宗の寺。京都五山の一。1097年(永長二)白河上皇の御願により建立され六条御堂と称。正嘉(1257~1259)年中弁円に帰依して禅宗となり万寿禅寺と改称。天正(1573~1592)年中現在地に移る。
・栄治…幸田栄治郎?幸田子善の父?
・高臺寺…京都市東山区にある臨済宗の寺。初めは曹洞宗。出家した豊臣秀吉の妻高台院の志に基づき、1605年(慶長十)徳川家康が中心となって秀吉の冥福を祈り創建。伏見城の遺構を移したという霊屋などが残る。
・無住…寺院に住職のいないこと。また、その寺。

○不耕者以畝。数く田荒はてた。趙公は奉行だ。此人の手ではとふともなる。蔡之定世話やいた。学校などはつひ寺にされた。奉行は歴々た。動ぬ。又歴々の忝ひと云もそのやふなことぞ。優遊卒歳。家語の字。ゆっくりとくらされること。学者は、ほふづき賣や前栽作りの其日ぐらしの様に、喰ふものにをわるる位で大事業はならぬ。とくと落付子ば出来ぬ。○請文以記其事。奉行で学挍の取つづきもなる。学者ともが大ふ喜んて朱子に其記事をたのみた。此記でもなくば、又後に廃壊に至ろふとなり。○予惟三代盛時、自家以達天子。家は小学挍ぞ。○士之廩於学官者。藏前から取りて喰ふもののこと。自天子之元子庶人之子弟。大学挍で弁當つかふものもいかいこと有ふか、其入用の出し処が周礼にも礼書にもない。朱子も知れぬから、歟の字ぞ。當時為士者、其家各受田。これは兵農のわかれたときのことだ。士は入る。農は田に居る。八歳入小学とても、家に有塾の塾で学ふから喰ひにもなる。すればてん々々喰ひで其役所の世話にはならぬで有ふと、そこて歟の字なり。
【解説】
「而其田不耕者以畝計凡若干、乃喟然而嘆曰、吾知所以處之矣。於是悉取而歸之於學。蓋歳入粗米二百二十解、而士之肄業焉者得以優游卒歳而無乏絕之慮。既而學之群士十餘人、相與走予所居之山間、請文以記其事。曰、不則懼夫後之君子莫知其所始、而或至於廢壞也。予惟三代盛時、自家以達於天子諸侯之國、莫不有學、而自天子之元子以至於士庶人之子莫不入焉、則其士之廩於學官者、宜數十倍於今日而考之禮典、未有言其費出之所自者。豈當時爲士者、其家各已受田而其入學也、有時故得以自食其食、而不仰給於縣官也歟」の説明。趙公は荒れていた田を耕して食い物を確保し、寺に学校を設けた。学者が食う物に終れては大事業をすることはできない。これを学者が喜んで、朱子に記事を頼んだ。三代の盛時には、大学校へ入る士は田を持っており、小学は家にある塾で学んでいたから、それぞれで食うことができ、役所の世話は要らなかっただろう。
【通釈】
○「不耕者以畝」。多くの田は荒れ果てていた。趙公は奉行である。この人の手ならどうにもなる。蔡之定が世話を焼いた。遂に学校は寺に設けられた。奉行は歴々である。動かないもの。また、歴々の忝いというのもその様なこと。「優游卒歳」。家語の字。ゆっくりと暮らされること。学者がほおずき売りや前栽作りのその日暮らしの様に、食う物に追われる様では大事業はできない。しっかりと落ち着かなければできない。○「請文以記其事」。奉行によって学校を続けることもできる。学者共が大分喜んで、朱子にその記事を頼んだ。それは、この記でもなければ、また後に廃壊に至るだろうと思ってのこと。○「予惟三代盛時、自家以達於天子」。「家」は小学校のこと。○「士之廩於学官者」。蔵前から取って食う者のこと。「自天子之元子庶人之子弟」。大学校で弁当を使う者も大層いるだろうが、その入用の出し処が周礼にも礼書にもない。朱子もわからないからここに「歟」の字がある。「当時為士者、其家各受田」。これは兵農の分かれた時分のこと。士は学校に入り、農は田にいる。「八歳入小学」と言っても、家に塾があり、その塾で学ぶから食うことができる。それならそれぞれに食い、役所の世話にはならなかっただろうと、そこで歟の字がある。
【語釈】
・蔡之定…
・優遊卒歳…孔子家語子路初見19。「優哉游哉、聊以卒歲」。
・自天子之元子庶人之子弟…大学章句序。「及其十有五年、則自天子之元子、衆子、以至公、卿、大夫、元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學、而敎之以窮理、正心、修己、治人之道」。
・八歳入小学…大学章句序。「人生八歲、則自王公以下、至於庶人之子弟、皆入小學、而敎之以灑掃、應對、進退之節、禮樂、射御、書數之文」。

○至漢元成間乃云云。これは事体が知れぬが、学田の記の入るも爰のことぞ。物は拍子にのるとあたまかちになるもの。学問所、何よりよいことだ。これも物入りをいとうはずはないと云たがる。又、葬理なとも大切のことた。これに物入りはいとはぬこととあたまかちにする。至極よい。よいなれとも、知慮のないは經済にならぬ。丁と母の喪に身代をつかひきれは親切なやふなれとも、そふ云不筭用では、二三年過て父の葬理のときは早其なりにゆかぬものだ。元服の時も大ふさはいだ。孔子浪人で三千人くわせた。天子の学校だ、いくらでも学者は来ひと云た。それも知慮はない趣向なり。たとへはあの牢内などて咎人のゆきたとき、咎のをもいものか輕ひものかまだ知れぬに、牢内で多くはむごくするさふな。あそこが樂で有ふなら、ふといやつは尻をまくって芋を賣ふより、ちと牢へゆきてかかろふと云になる。とかく何事も經済には勘弁あること。
【解説】
「至漢元成間、乃謂孔子布衣養徒三千、而增學官弟子、至不復限以員數。其後遂以用度不足、無以給之、而至於罷。夫謂三千人者、聚而食於孔子之家、則已妄矣。然養士之需、至以天下之力奉之而不足、則亦豈可不謂難哉」の説明。ものは拍子に乗ると傲慢になるもの。孔子は浪人だったが三千人を食わせたと言い、天子の学校なのだからいくらでも学者は来いと言うのは知慮のない趣向である。経済は知慮がなければならない。
【通釈】
○「至漢元成間乃云云」。これは事体がよくわからないが、学田の記が要るのもここのこと。ものは拍子に乗ると傲慢になるもの。学問所は何よりよいことで、物入りを厭う筈はないと言いたがる。また、葬埋なども大切なことで、これに物入りは厭ってはならないと頭勝ちにする。それは至極よいにはよいことなのだが、知慮がなければ経済にはならない。丁度母の喪に身代を使い切るのは親切な様だが、その様な不算用では、二三年過ぎて父の葬埋の時は既にその様には行かないもの。元服の時も大分騒いだ。孔子は浪人であっても三千人を食わせた。天子の学校なのだから、いくらでも学者は来いと言う。それも知慮のない趣向である。たとえばあの牢内などで咎人の入った時は、咎の重い者か軽い者かはまだわからなくても、牢内では多くは酷くするそうである。あそこが楽であったのなら、図太い奴は尻を巻くって芋を売るより、一寸牢へ行ってみようと言う様になる。とかく何事も経済には勘弁がある。
【語釈】
・あたまかち…頭勝ち。傲慢。
・勘弁…考えわきまえること。

学校の法も嚴密にないはつつかぬ。用度不足限りがないからぞ。老中へ加増をするさへも跡さき考のあること。それでならしてみよ。漢の元成之間、はづみはよいか、じきにやんた。今日も合力をいかいことするやふなもの。あとはつづかぬ。ちとつつやるは恪ひやふだかつつくもの。孔子の家で三千人喰ふたなとと云か乘った拍子の考へなしだ。あまり了簡ないことぞ。文章書などこのいきがある。かさを外から書て考の足らぬことが多ひ。經済はならぬ。石原先生などにはそれがない。あとさき思慮して、いやさまだ々々などと云た。中々輕くをらぬ人なり。宗伯か溝口公で、中間迠新発田へ改葬なさるるかよいと云た。それでは經済はならぬ。本と改葬と云かならぬことだに、それに中間迠とはとほふもないと云へは、はて、大名がならぬことがあるかと云た。かさにかかって考へなしぞ。
【解説】
用度不足は限りがないから、学校の法は厳密でなければ続かない。孔子の家で三千人が食ったなどと言うのが拍子に乗った考えなしのこと。宗伯が中間までをも新発田へ改葬するのがよいと溝口公に言った。嵩にかかって考えなしに言ったのである。
【通釈】
学校の法も厳密でなければ続かない。それは、用度不足は限りがないからである。老中へ加増をすることさえも後先の考えのあること。それで均して見なさい。漢の元成の間は、弾みはよいが直ぐに止んだ。今日で言えば合力を大層する様なもの。後は続かない。少しずつ遣るのは吝い様だが続くもの。孔子の家で三千人が食ったなどと言うのが拍子に乗った考えなしのこと。あまりに了簡がない。文章書きなどにこの意気がある。嵩に着て、考えの足りないことが多い。それでは経済はならない。石原先生などにはそれがない。後先を思慮して、いやまだまだだなどと言った。中々軽くはならない人である。宗伯が溝口公のところで、中間まで新発田へ改葬なさるのがよいと言った。それでは経済にならない。本来、改葬は悪いことなのに、その上、中間までをとは途方もないことだと言うと、大名にできないことがあるかと言った。嵩にかかって考えなしである。
【語釈】
・用度…要する費用。
・石原先生…野田徳勝。剛斎。七右衛門。本所石原町に住んでいたので石原先生と呼ばれる。1690~1768
・宗伯…柳田求馬。明石宗伯。迂斎門下。江戸の人。名は義道。天明4年(1784)7月22日没。47歳。
・溝口公…溝口浩軒。新発田藩主。~寛政9年(1797)

○周衰田不井授、人無常産。学校の方の六ヶしいことはこれぞ。井田の法はをごりのない均いよいこと。宋朝なと井田の法か立ぬによって、民常産あるやふでないから尻がをちつかぬ。三代の世は四十而始仕が七十致事で、奉行をも勤めた衆か在所へ引込で学挍の師になる。よいはづた。只の手習師匠のやふなが講釈したとてどうしてゆくものぞ。○士農は一寸わかれて跡であふものだに、今は士は士、農は農家になりた。京都などに書生々々と云て書生が多ひが、人がらのわるいもののことを皆書生々々と云。町人の番頭か何ぞかしたたか口をきひてさはいたれば、踊り子か、さて人からのわるひ書生のやふだと云た、と。五六十年あとのこと。彦明の咄しなり。其筈じゃは。朱子の文にも書生之輕と云字を書れたことある。あの厚重な尚斎先生の息子か密柑を盗んで追れた処の狂詩をつくりた。或は包む特鼻禪と、いかいたわけだ。一平殿々々々と云て有がたかることはない。顧左右曰、さま々々のことのこと云て排釈録はついわきへなりた。さて、古今の書生他国からより、そのやふなものとも大方貧だ。それら仕立てるには粮がなくてはならぬと云こと。
【解説】
「蓋自周衰田不井授、人無常産、而爲士者尤厄於貧、反不得與爲農工商者齒。上之人乃欲聚而敎之、則彼又安能終歳裹飯而學於我」の説明。三代の世には井田の法があったが、宋朝ではそれがないので民の常産がない。また、三代の世では歴々が学校の師となったのだからよい筈である。書生には人柄の悪い者が多くいるが、彼等は他国から来た貧しい者である。彼等には糧がなければならない。
【通釈】
○「周衰田不井授、人無常産」。学校の方の難しいことはこれ。井田の法は驕りのない均しいよいこと。宋朝などでは井田の法が立たないので、民の常産がある様でないから尻が落ち着かない。三代の世は「四十而始仕」が「七十致事」で、奉行をも勤めた衆が在所へ引っ込んで学校の師になる。よい筈である。ただの手習師匠の様な者が講釈したとして、どうしてうまく行くものか。○士農は一寸分かれて後で合うものなのに、今は士は士、農は農家になった。京都などには書生が多いが、人柄の悪い者のことを皆書生と言う。町人の番頭が何かしたたか口をきいて騒いでいると、踊り子が、さて、人柄の悪い書生の様だと言った、と。五六十年前のこと。彦明の話である。その筈で、朱子も文に「書生之軽」という字を書かれたことがある。あの厚重な尚斎先生の息子が蜜柑を盗んで追われた時のことで狂詩を作った。或は包む犢鼻褌と、大層な戯けである。一平殿と言って有難がることはない。左右を顧みて言う。様々なことを言って排釈録がつい脇に逸れた。さて、古今の書生は他国から来る。その様な者共は大方貧である。それ等を仕立てるには粮がなくてはならないということ。
【語釈】
・四十而始仕が七十致事…小学内篇立教。「四十始仕方物出謀發慮道合則服從不可則去。五十命爲大夫服官政。七十致事」。礼記曲礼上。「人生十年曰幼、學。二十曰弱、冠。三十曰壯、有室。四十曰強、而仕。五十曰艾、服官政。六十曰耆、指使。七十曰老、而傳。八十九十曰耄。七年曰悼。悼與耄、雖有罪、不加刑焉。百年曰期頤。大夫七十而致事」。
・彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。なお竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758。
・書生之輕…
・尚斎先生…三宅尚斎。三宅尚斎。諱は重固。幼名は小次郎。丹治。
・特鼻禪…犢鼻褌。ふんどし。

○或取經之外、勢固有所不得已。前に他費之贏を縮して取るとあるが、たとへ定式の入用の外に取ろふとも、学校の入用はやむことを得ぬことだに、ましてつぶれ寺のはよいと云こと。○况今浮屠氏之説乱君臣之礼、絶父子之親。これからの朱子の書れやふなぞか今ならぬことぞ。寺の朱印をぐっと取て学挍へつけることだ。云へば氣の毒なことだか、もそっと勢があらば、あいらは遠嶋にでもせふにと云ほどのこと。周公の政には造言乱民とある。どふ仰せ付られうもしれぬに、これはをなさけなことなり。此て田地まて歸正したと云もの。大きな皃をして上坐にいると云た。足がると仲間は知惠は同格なものだが、足がるとなれば二本でさきへ立つ。仲間は一本であとにをる。これまでか垩人の礼た。浮屠は乱君臣絶父子之親。礼の本根からをなくする。
【解説】
「是以其費雖多、而或取之經常之外、勢固有所不得已也。况今浮屠氏之説亂君臣之禮、絕父子之親」の説明。学校の入用は已むを得ないことだが、潰れ寺を使うのなら尚更よい。潰れ寺を学校にするのは仏には気の毒な様だが、浮屠は「説乱君臣絶父子之親」なのだから、遠島にならないだけ、情けあることなのである。
【通釈】
○「或取之経常之外、勢固有所不得已」。前に他費之贏を縮して取るとあるが、たとえ決まった入用の外に取ろうとも、学校の入用は已むを得ないことであって、潰れ寺なら尚更よい。○「况今浮屠氏之説乱君臣之礼、絶父子之親」。これからの朱子の書かれ様などが今の者ではできないこと。寺の朱印をぐっと取って学校へ授けること。それは仏には気の毒なことだか、もう少し勢いがあれば、彼等は遠島にでもなるだろうというほどのこと。周公の政に「造言乱民」とある。どの様に仰せ付けられるのかも知れないのだから、これはお情けあることである。これで田地までが正しく帰したというもの。仏が大きな顔をして上座にいると言った。足軽と中間は知恵は同格なものだが、足軽となれば二本差しで先へ立つ。仲間は一本差しで後ろにいる。これまでが聖人の礼である。浮屠は「乱君臣絶父子之親」。礼の本根からなくす。
【語釈】
・造言乱民…周礼地官司徒。「以郷八刑糾萬民。一曰不孝之刑、二曰不睦之刑、三曰不姻之刑、四曰不弟之刑、五曰不任之刑、六曰不恤之刑、七曰造言之刑、八曰亂民之刑」。

○淫誣鄙以敺誘一世之人。佛が人をしいるはちっとした誣ひやふではない。そこで淫の字ぞ。有りもせぬ地獄極楽を云ふ。鄙詐と云はうそのつきやふか下卑てきめこまかでこせ々々と、うばかか子守丁稚をたますのぞ。敺誘一世人。天下の人を禽獣の方へ追込む。こちへ々々々と手引きをする。周公旦の世なれば、どふして其ままになされやふそ。顧乃肆然云々。大あぐらて上坐になりてを任叔が、十左ござったかもにくひ。七右は酒呑さふな、と。東海寺の紫衣僧に先生あしろふ。あちは格式がよいからなり。とくと思へは今日佛に益は一つもないが、上総でも只時の鐘つく計りが調法ぞ。江戸寺はまた墓守りをすると云益がある。田舎の寺□三文もよいことはない。それがめったむせうに豊屋連甍。大きな屋つくりて七堂伽藍。三ヶ津良疇連畛、よい処はこれも寺領々々。をひたたしいこと。笑曰、此村の妙本寺でからが、黙斎からみれはよほどなこと。
【解説】
「淫誣鄙詐以敺誘一世之人、而納之於禽獸之域。固先王之法之所必誅而不以聽者也。顧乃肆然蔓衍於中國、豐屋連甍、良疇接畛、以安且飽而莫之域禁」。仏は「淫誣」で嘘を吐いて人を禽獣の方へ追い込む。仏は何の益もないのに大きな屋を造り、よい地を寺領とする。
【通釈】
○「淫誣鄙以敺誘一世之人」。仏が人を誣いるのは、一寸した誣い様ではない。そこで「淫」の字が付く。ありもしない地獄極楽を言う。「鄙詐」は嘘の吐き方が下卑できめ細やかでこせこせとしていて、それで姥嬶子守丁稚を騙すこと。「敺誘一世人」。天下の人を禽獣の方へ追い込む。こちらへこちらへと手引きをする。周公旦の世であれば、どうしてそのままになされるものか。「顧乃肆然云々」。大胡座で上座になって、任叔が、十左が来られたかと言うのも憎いこと。七右は酒飲みだそうだがと言った。東海寺の紫衣僧に先生があしらわれた。あちらは格式がよいからである。深く思えば今日仏に益は一つもない。上総でもただ時の鐘を撞くだけが調法である。江戸の寺はまだ墓守りをするという益がある。田舎の寺は三文もよいことはない。それが滅多無性に「豊屋連甍」で、大きな屋を造って七堂伽藍。三都では「良疇接畛」で、よい処は寺領とする。それが夥しいこと。微笑んで言う。この村の妙本寺でからが、黙斎から見れば余程なこと、と。
【語釈】
・任叔…
・十左…稲葉迂斎。
・七右…野田剛斎。
・東海寺…万松山東海寺。臨済宗京都紫野大徳寺の末寺。寛永14年(1637),三代将軍家光の命により沢庵のために創建された寺。寛永6年(1629),朝廷が大徳寺の正隠らに下付した紫衣を幕府が否定、これを没収するという事件が起きた(紫衣事件)。
・三ヶ津…三都。江戸・京都・大阪。

○雖盡逐其人云云。ありたけを奪ふて無住でない。きっとある。寺を追立てて見てもあれらか邪説には津々浦々まてのこと、中々かたれぬ。趙公のなされ方が尤なことだ。浮屠を残らず追っても、ひり々々そこらて邪説を倡へるには叶ぬ。吾徒之忠孝をはけむものの入用に入れて手あての苦労なしに学問を成就させるは仁の術ぞ。をいつぶしにくひものは佛だとなり。况其荒墜蕪絶。荒寺の田取り立てて国家名教の永久にせふと云ふはをんてもないこと。○務一而两得。寺の田、寺をひったくったで两得とは、学校の取つつきのためにも佛を弁ずる為にもよいと云こと。
【解説】
「是雖盡逐其人、奪其所據、而悉歸之學、使吾徒之學爲忠孝者、得以無營於外、而益進其業、猶恐未足以勝其邪説。况其荒墜蕪絕偶自至此、又欲封植而永乆之乎。趙侯取之、可謂務一而兩得矣。故特爲之記其本末與其指意所出者。如此以示後之君子」。仏の有りっ丈を奪おうとしても、彼等は何処かで邪説を倡える。寺やその田を引っ手繰るのを両得と言うのは、学校を続けるためにも仏を弁ずるためにもよいということ。
【通釈】
○「雖尽逐其人云云」。有りっ丈を奪っても無住ではない。きっといる。寺を追い立てて見てもあれ等の邪説には津々浦々までのことがあって、中々語ることはできない。趙公のなされ方が尤もなこと。浮屠を残らず追っても、そこ等で色々と邪説を倡えるのには敵わない。我が徒で忠孝を励む者の入用を図り、手当を苦労せずに学問を成就させるには仁の術でする。追い潰し難いものは仏だと言う。「况其荒墜蕪絶」。荒れ寺の田を取り立てて国家名教を永久にしようとするのは言うまでもないこと。○「務一而両得」。寺の田や寺を引っ手繰て両得と言うのは、学校を続けるためにも仏を弁ずるためにもよいということ。
【語釈】
・をんてもない…言うまでもない。もちろん。

○且以警夫学之諸生、使益用力乎予之所謂忠且孝者。向のことを客氣で一旦とやかく排しても、此方かわるくてはならぬ。人倫を廃するものの朱印を取ってやったことじゃに、其学挍で喰ふて居て不忠不孝な心なら、坊主のもったも同しことじゃ。此方の忠孝のみがきが專一ぞとなり。爰等の編集が、直方の經済の意でのせたもの。淫乱無道と佛法の盛なうちに平天下の事業の行れやふはない。今の学者かめったに伯者か々々々と云か、高祖や太宗は吾か力ら一はい三代の真似をしたが、今の学者は只の書物いじりぞ。中々天下の心をよくすることはならぬ。それに佛がはやりてはなを々々ゆかぬ。垩言を經と云ふ。放鄭声遠佞人。うごかぬこと。其佞人を伊川の他一邊の佞耳と云はるる。佛は人の心にしみこむ。佞人のやふなことではない。これをのけ子は經済はならぬ。經済はこれほどてなくてはならぬ。それを知ると出処進退に出る氣はないもの。
【解説】
「且以警夫學之諸生、使益用力乎予之所謂忠且孝者」の説明。仏を排しても、こちらが不忠不孝では悪い。忠孝を専一にするのである。天下の心をよくするのは難しいが、仏が流行っていては尚更である。仏を除けなければ経済はできない。
【通釈】
○「且以警夫学之諸生、使益用力乎予之所謂忠且孝者」。向こうのことを客気で一旦とやかく排しても、こちらが悪くてはならない。人倫を廃する者の朱印を取って遣ったことなのに、その学校で食っていて不忠不孝な心なら、坊主を持ったのと同じこと。こちらの忠孝の磨きが専一でなければならないと言った。ここ等の編集が、直方が経済の意で載せたもの。淫乱無道で仏法の盛んな中では平天下の事業が行なわれる筈がない。今の学者は滅多矢鱈に伯者がと言うが、高祖や太宗は自ら力一杯三代の真似をした。今の学者はただの書物弄りである。天下の心をよくすることは中々できない。それに仏が流行っては尚更うまく行かない。聖言を経と言う。「放鄭声遠佞人」は確かなこと。その佞人を伊川が「他一辺佞耳」と言われた。仏は人の心に染み込む。それは佞人の様なことではない。これを除けなければ経済はできない。経済はこれほどでなくてはならない。それを知ると出処進退に気は出ないもの。
【語釈】
・放鄭声遠佞人…論語衛霊公10。「顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅。服周之冕。樂則韶舞。放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆」。
・他一邊の佞耳…近思録異端5。「彼佞人者、是他一邊佞耳」。

徂来が問答書に、御親父様佛法御信向くるしやらぬことと云ひ、太宰か、芝居もなけれは道樂もののはき塲がないと云ふ。佛もよく、芝居哥舞妓もありてよいなれば、只の經済た。やっはり伯者にをとる。尾藤殿か、あいらが礼樂を主張するは覇者の假仁義のじゃとはよく云へり。幸田子の、直方の經済の書はと或諸矦から問たにないと答へたか、よく思へは鞭策排釈鬼神、此三部が直方の經済の書だと云へはよかったと、跡て氣がついたと云へり。よい氣のつきよふぞ。排釈録向伯元遺戒の条以下粗ひ処は皆經済の上へついた排釈録ぞ。朱子の伊尹周公になりかわりて云ことじゃ。そこを知て直方先生の出されたぞ。さてそのあとか感興の詩だ。某若ひ特自滿て云た説に、詩を排釈のしまいに引くは学庸孟子に詩を引てさとすやふに、詩では客氣で爭ふやふなことはなくなるからこれを載た、と。まあ通る説だが、これは短ひうちに何もかもあるから一ちしまいにしめにひいたと見ることぞ。
【解説】
徂徠が、親父が仏を信仰するのもよいと言い、太宰は芝居もあってよいと言う。それはただの経済であって覇者にも劣る。排釈録中、向伯元遺戒の条以下は経済に関わるものであり、直方の経済の書は鞭策排釈鬼神の三部である。
【通釈】
荻生徂徠の問答書に、御親父様の仏法の御信向は苦しくないことと言い、太宰春台が、芝居もなければ道楽の捌け場がないと言う。仏もよく、芝居歌舞伎もあってよいのなら、ただの経済である。やはり伯者に劣る。尾藤殿が、彼等が礼樂を主張するのは覇者が仁義を仮りるのと同じだとはよく言った。幸田子が、直方の経済の書はと或る諸侯から問われ、それはないと答えたが、よく思えば鞭策排釈鬼神、この三部が直方の経済の書だと言えばよかったと、後で気が付いたと言った。よい気付き様である。排釈録では、向伯元遺戒の条以下の粗い処は皆経済の上に付いた排釈録である。それは、朱子が伊尹周公になり代わって言ったこと。そこを知って直方先生が出されたのである。さてその後が感興の詩である。私が若い時に自慢して言った説に、詩を排釈の最後に引いたのは、大学中庸孟子が詩を引いて諭す様に、詩は客気で争う様なことがなくなるからだとある。まあ通る説だが、詩は短い内に何もかもあるから最後の結びに引いたものと見なさい。
【語釈】
・尾藤殿…尾藤二洲。江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一。名は孝肇。伊予の人。片山北海に学び、のち朱子学を正学として尊び、昌平黌の教官。1747~1813
・幸田子…幸田子善。迂斎門下。1720~1792
・向伯元遺戒の条…朱子文集83。


感興詩曰之條
53
感興詩曰、西方論縁業卑卑喩羣愚。流傳世代乆。梯接凌空虚、顧盻指心性、名言超有無。捷徑一以開、靡然世爭趨、號空不踐實、躓彼榛棘途。誰哉、繼三聖爲我焚其書。四。
【読み】
感興の詩に曰く、西方縁業を論し卑卑として羣愚を喩す。流傳世代乆し。梯接して空虚を凌ぎ、顧盻して心性を指し、名じ有無を超ずと言う。捷徑一たび以て開けば、靡然として世は爭趨し、空を號して實を踐まず、彼の榛棘の途を躓く。誰かな、三聖に繼ぎ我が爲に其の書を焚かん。四。

西方論縁業卑々喩羣愚。西方に垩人ありと云は釈迦のこと。それほどのことしゃ。西のはての国に古今未曽有な人か出て来てあちの天地をひっくりかへした。縁業は因果と云こと。因果と云字を敎の惣名に立てた。因果と云もないことではない。昨日うすぎをしたは因、それて今日風をひいた、果ぞ。あまり大食をする、因。食傷したは果ぞ。あの人に斯ふ云仕合はあるまいこと、此人に斯ふ云不幸はあるまいことと云にある。それを因果、こちの作り出した報応と論じたもの。わるいことすると地獄で呵責にあふ。阿鼻地獄とだます。そこて偽敎と云。天地は実じゃうはないはづ。うそをすれば舌をぬかるると云。そこでうそつかぬ。ここは調法此上はないこと。古今獨歩のうその名人が釈迦だ。死んたさきに斯ふしたことあると云。皆死んで皈りたものがないからばけがあらはれぬ。そこで愚人をだましたもの。
【解説】
「感興詩曰、西方論縁業卑卑喩羣愚」の説明。釈迦は因果を教えの総名に立てた。因果はないことではないが、応報を論じ、悪いことをすると地獄へ落ちると言って愚人を騙す。死んで還った者はいないから化けの皮が剥がれないが、釈迦は嘘の名人である。
【通釈】
「西方論縁業卑々喩群愚」。西方に聖人ありとは釈迦のこと。それほどのこと。西の果ての国に古今未曾有な人が出て来てあちらの天地を引っくり返した。「縁業」は因果ということ。因果という字を教えの総名に立てた。因果ということもないことではない。昨日薄着をしたのは因、それで今日風邪を引いたのは果である。あまりに大食をするのが因。食傷したのは果。あの人にこの様な幸せはないことだろう、この人にこの様な不幸はないだろうと言ってもある。それが因果で、こちらで作り出した報応で論じる。悪いことをすると地獄で呵責に遭う。阿鼻地獄だと騙す。そこで偽教と言う。天地に実情はない筈。嘘を吐けば舌を抜かれると言う。そこで嘘を吐かない。ここは調法この上ないこと。古今独歩の嘘の名人が釈迦だ。死んだ先にこうしたことがあると言う。皆、死んで還った者はいないから化けの皮が剥がれない。そこで愚人を騙す。
【語釈】
・阿鼻地獄…阿鼻。八大地獄の第八。五逆・謗法の大悪を犯した者が、ここに生れ、間断なく剣樹・刀山・鑊湯などの苦しみを受ける、諸地獄中で最も苦しい地獄。阿鼻地獄。無間地獄。阿鼻叫喚地獄。阿鼻大城。
・古今獨歩…昔から今まで並ぶもののないこと。たぐいなくすぐれていること。古今無双。

○流傳世代久梯接凌空虚。今も云た、ざっかけない世代久ひうちには上品になりたもの。昔田舎は藁で髪をたば子たものか小よりになり、それから江戸便りに元結を買ふやふになりたは奢のつまりたもの。論縁業。因果を云て愚人を引入れたものがそろ々々上品になりた。これはそうなりうちのことて、釈迦から達磨か廿八代目に出てさま々々玄妙を云たか、達磨か釈迦の外ではない。梯接は空につぎはしはならぬことだに、かけはしした。釈迦の卑々、それをこちから朱子が見て云はるる。後にはかけはして空虚をしのくかけはしにしたなり。因果喩群愚の上へつきはしをした。地獄こはかるものにはそれでこはからせ、それでゆかぬものには空虚と云。とふしても明道の云はるる通りの二つなり。今此やふでもたしかにはない。空なものと見たか釈迦なり。空虚と云字は爰ではそらと云ことだか、その空虚かもとあの方の敎ぞ。
【解説】
「流傳世代乆。梯接凌空虚」の説明。粗野な仏が長い間には上品になり、因果に空虚の接ぎ橋をした。地獄を言っても恐がらない者には空虚を言う。
【通釈】
○「流伝世代久梯接凌空虚」。今も言った、ざっかけない世代が長い間には上品になった。昔、田舎では藁で髪を束ねたものだが、それが紙縒りになり、それから江戸便りに元結を買う様になったのは奢が極まったから。「論縁業」。因果を言って愚人を引き入れていたのが次第に上品になった。これは当然のことで、達磨は釈迦から二十八代目に出て様々な玄妙を言ったが、達磨は釈迦の外ではない。「梯接」は、空に接ぎ橋はできないことなのに、架け橋をした。釈迦が卑卑だとは、朱子がこちらから見て言われたもの。後には架け橋で、空虚を凌ぐ架け橋になった。「縁業喩群愚」の上へ接ぎ橋をした。地獄を恐がる者にはそれで恐がらせ、それでうまく行かない者には空虚と言う。どうしても明道の言われた通りの二つとなる。今この様にあっても確かではない、空なものと見たのが釈迦である。空虚という字はここではそらということだか、その空虚が元あの方の敎えである。
【語釈】
・ざっかけない…荒っぽく粗野である。ざっくばらんである。
・元結…髻を結ぶ細い緒。昔は組紐または麻糸を、近世は髷に趣向をこらして水引元結と称する紙縒製のものを用いた。紙捻。
・明道の云はるる通りの二つ…

○顧盻指心性、名言超有無。顧盻と云字はだたい釈迦のことにして云ことだか、これを釈迦のことにして云てはわるひ。これは禅僧が手前に勝手にせふとして釈迦のことで云たもの。釈迦か加葉をじろりと見て正法眼藏を示したと云か顧盻底なことだか、あれは一切經にないことだと埀加云へり。達磨以来後の禅者のことに云がよい。馬祖が揚眉瞬眼などかこれぞ。釈迦以来した分んにしたは佛者の作ぞ。眉をあけ、目をはちとしてちらりとみる処で示すなり。僧官の法眼と云字もここからの元祖ぞ。顧盻指心性は用力之久而一旦豁然も何もない。ちょいとした処でみると云。曽子は真積力久。あれほど骨折ったに、佛は一寸とした処でみると云。六祖がぱたり々々々ふみ臼ついてをりたものたか、どふかして見て取た。不渉理路不墜言線。云にも云へぬ処を見て取る。
【解説】
「顧盻指心性」の説明。これは達磨以後の禅者のこと。儒は「用力之久而一旦豁然」だが、仏は一寸した処で見ると言う。
【通釈】
○「顧盻指心性、名言超有無」。「顧盻」はそもそも釈迦のことで言うことだか、これを釈迦のことにして言っては悪い。これは禅僧が自分勝手にしようとして釈迦のことで言ったもの。釈迦が迦葉をじろりと見て正法眼蔵を示したというのが顧盻風なことだか、あれは一切経にはないことだと垂加が言った。達磨以来、後の禅者のことで言うのがよい。馬祖の「揚眉瞬目」などがこれ。釈迦以来のこととしたのが仏者の作である。眉を揚げ、目をぱっちりとしてちらりと見る処で示す。僧官の法眼という字もここが元祖である。顧盻指心性は「用力之久而一旦豁然」も何もない。一寸した処で見ると言う。曾子は「真積力久」で、あれほど骨折ったのに、仏は一寸した処で見ると言う。六祖はぱたりぱたりと踏臼を搗いていたのだが、どうしてか見て取った。「不渉理路不墜言線」。言うにも言えない処を見て取った。
【語釈】
・加葉…摩訶迦葉。釈尊十大弟子の一。頭陀第一。十六羅漢の一。釈尊の滅後教団の統率者となり、王舎城の第一回仏典結集の主任となってこれを大成。特に禅宗では尊信される。
・埀加…山崎闇斎。
・馬祖…中国唐代の禅宗の一派、洪州宗の派祖。四川省の人。六祖慧能の弟子南岳懐譲に師事。「即心即仏」「平常心是道」などの句を残す。大寂禅師。709~788
・揚眉瞬眼…正法眼蔵。「有時敎伊揚眉瞬目、有時不敎伊揚眉瞬目。有時敎伊揚眉瞬目者是、有時敎伊揚眉瞬目者不是」。「敎伊揚眉瞬目也半有時、敎伊揚眉瞬目也錯有時。不敎伊揚眉瞬目也半有時、不敎伊揚眉瞬目也錯有時」。
・用力之久而一旦豁然…大学章句5註。「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗無不到、而吾心之全體大用無不明矣」。
・真積力久…論語里仁15集註。「夫子知其眞積力久、將有所得、是以呼而告之。曾子果能默契其指、即應之速而無疑也」。
・六祖…中国禅宗の第六祖、慧能。
・ふみ臼…踏臼。唐臼。臼を地に埋め、横木にのせた杵の一端をふみ、放すと他の端が落ちて臼の中の穀類などをつく装置。
・不渉理路不墜言線…

名言とは名つけて云ふことなれとも、それかかふ云流義と云になりてめいげんと云。なつけていふと云点なれは、我方から名乘りて有無てこたへたと云ふになる。顧盻指心性のことが中々有ふ無のと云ことではなく、有無を超ゆと云ことなり。超有無は寂滅為楽のこと。大きひことで云へば死生。その外何ても天地のうちに有たものは無くなる。花の咲て散るでも、たばこの吹からになるでも有無があるが、面目を見て有無を超たものは不生不滅になると云。世の中にさま々々あるを有無のとそろばんに入れたが超ゆなり。こちが悟ると、形骸は有無しても本来に有無せぬものがあると云。これほどのことたが、横渠なとの手からと云が言有無者諸子之陋也と一言に云た。寂滅為樂になりた。有の無のと云だけ有無を世話にするのだ。こちでは有ても無でも皆太極のをどりはだ。
【解説】
「名言超有無」の説明。「顧盻指心性」は有無を超えるということ。形骸には有無があるが、有無を超えたところに本来があると仏は言う。しかし、有や無と言うだけ有無を世話することになる。横渠は「言有無者諸子之陋也」と言い切った。儒は全て太極の通りである。
【通釈】
「名言」とは名付けて言うことだが、それがこういう流儀だと言う様になって名言と言う。名付けて言うとする点であれば、我が方から名乗って有無で超えるということになる。「顧盻指心性」のことは有る無しということではなく、有無を超えるということ。「超有無」は「寂滅為楽」のこと。大きいことで言えば死生。その外何でも天地の内に有ったものは無くなる。花が咲いて散るのにも、煙草が吸殻になるのにも有無があるが、面目を見て有無を超えたものは不生不滅になると言う。世の中には様々あるのを有無と算盤に入れたのが「超」である。こちらが悟ると、形骸は有無であっても本来に有無でないものがあると言う。これほどのことだが、横渠などの手柄というのが「言有無者諸子之陋也」と一言に言ったこと。寂滅為楽になった。有や無と言うだけ有無を世話することになる。こちらでは有っても無くても皆太極の踊り場である。
【語釈】
・寂滅為楽…生死の苦に対して涅槃の境地を真の楽とする意。
・言有無者諸子之陋也…近思録異端13。「大易不言有無。言有無、諸子之陋也」。

周子が太極動而生陽と云に、朱子の太極者動靜天命流行なり。それに形ちないが無声無臭。有無のとんぢゃくはない。あちて有無を下卑たものと云は有無くさい。武士の武士くさいわるいと云も、何そと云と武士に向ってと云ふくせをやめようと云にかかってやめたと云ふ。それでは武士でもない。何の手からにもならぬことだ。垩賢は武士なりをして武士くさくない。町人が下卑たと云れてそろばん手に取らぬと云ふは町人をこへたかる。無理に上品になりたかる。下卑なり。そこて言有無者諸子之陋なり。手からなこと。有も無も道理たから超へるには及はぬ。當然さへすればいつも心もちはよいこと。顔子の陋巷何にも寂滅為樂と云ことではない。づしりとしたことを其樂と云ぞ。
【解説】
太極は天命の流行であり、無声無臭である。仏が有無を下卑たものと言うのは有無臭い。有も無も道理だから超えるには及ばず、有無を超えると言うこと自体が下卑たことなのである。また、仏は寂滅為楽と言うが、顔子の楽はその様なものではない。
【通釈】
周子が「太極動而生陽」と言うと、朱子が「太極者動静天命流行」と言った。それに形はないが「無声無臭」。有無の頓着はない。あちらで有無を下卑たものと言うのは有無臭い。武士の武士臭いのが悪いと言っても、何ぞというと武士に向かってと言う癖を止めようと思って止めたと言う。それでは武士ではない。それは何の手柄にもならないこと。聖賢は武士の通りをして武士臭くない。町人が下卑だと言われて算盤を手に取らないと言うのは町人を超えたがり、無理に上品になりたがるもの。それが下卑である。そこで「言有無者諸子之陋」が手柄なこと。有も無も道理だから超えるには及ばない。当然さえすればいつも心持ちはよい。顔子の陋巷は何も寂滅為楽ということではない。ずっしりとしたことを楽と言う。
【語釈】
・太極動而生陽…太極図説。近思録道体1。「濂渓先生曰、無極而太極。太極動而生陽、動極而靜」。
・太極者動靜天命流行…太極図説朱解。「太極之有動靜、是天命之流行也」。
・無声無臭…中庸章句33。「上天之載、無聲無臭。至矣」。詩経大雅文王。「上天之載、無聲無臭」。
・顔子の陋巷…論語雍也9。「子曰、賢哉、囘也。一簞食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉、囘也」。

○捷徑一以開、靡然世爭趨。有無を超ると佛心佛性だと云。近路そと云て、寂滅為樂も面目も急に見ることはならぬものだか、そこをするとよいと云か、それを目あてにかけこむ。垩人の道に捷徑あらは儀封人などか一度でしめるはつ。そふない。曽子はかりの一貫そ。さて又こすさもこすいは寂滅為樂と本来の面目は爺々婆々の手にはゆかぬ。そこて只一心に題目、それきりてすむと云。その拍子から四万六千日。こしらへも捷徑をふるまうた。とかく念佛して娵をいしらしゃるなと云。いかさま早道だ。女の敎は惕斎か姫かかみと云ても、稲生若水のいなご草姙の娵にみせろと云ても、どれも相応にかさがいかいことある。あちはたた十念題目のみじかい。
【解説】
「捷徑一以開、靡然世爭趨」の説明。仏は有無を超えれば仏心仏性だとして、それには題目を唱えればよいと言う。儒ではすることが色々とあって、近道はない。
【通釈】
○「捷径一以開、靡然世争趨」。有無を超えると仏心仏性だと言う。寂滅為楽も面目も急に見ることはならないものだが、これが近路だと言い、そこをするとよいと言うので、それを目当てに駆け込む。聖人の道に捷径があれば儀封人などが一度会うだけで止める筈だがそうでない。曾子通りの一貫である。さてまた実に狡いところは寂滅為楽と本来の面目は爺婆の手ではできないこと。そこでただ一心に題目を唱えるだけで済むと言う。その拍子から四万六千日。拵えたことでも捷径を振舞う。とかく念仏して娵を虐めるなと言う。いかに早道である。女の教えは惕斎が姫鑑を言い、稲生若水はいなご草を妊娠した娵に見せろと言う。どれも相応にすることが色々とある。あちらはただ十念題目で短い。
【語釈】
・儀封人…論語八佾24。「儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也。從者見之。出曰、二三子何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸」。
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。
・四万六千日…この日に参詣すれば四万六千日参詣したと同じ功徳があるという縁日。東京の浅草観音などでは七月十日とされ、ほおずき市でにぎわう。享保の頃より始まる。十日まいり。
・惕斎…
・稲生若水…江戸中期の本草学者・医師。名は宣義。のち稲若水と改名。江戸生れ。京都で活躍。加賀藩主前田綱紀に仕え、本草学を研究。1655~1715
・十念題目…十念称名。南無阿弥陀仏の名号を十回唱えること。十度の御名。

○號空不踐実、躓彼榛棘途。高ひ処を云も空、ひくひ処て云も空。とかく空と云字、名号ぞ。そこか号空なり。文武忠孝を励し可守礼義と云御法度は皆実だ。すっきとそれはせぬ。躓彼榛棘途。やはり明道行状の意なれとも、ちとあたりちがふ。天道自然でない。いばらからたちの中をとをる。東海道てないことなり。○誰哉、継三垩。三垩者、孟子て云ふ。焚其書は佛骨表で云。佛者かひくひも高ひも一つにして天下の知愚賢不肖をまよはせる。中々手に及ぬゆへ韓退之をよびにやってやいてもらをとなり。はびこりたことはこまったもの。高ひことでも迷ひにくいことでも迷ふ。こまったことじゃ。焚より外ないとなり。あらいとめじゃか面白ことなり。焚と云へば理非をわけずにすることのやふなり。直方の、四十六士のことを老中方の御裁許じゃものと云は、却てわけあることなり。
【解説】
「號空不踐實、躓彼榛棘途。誰哉、繼三聖爲我焚其書」の説明。仏は何処でも空だが、儒は皆実である。仏がはびこって、人が高いことでも卑いことでも迷う。それは困ったことで、焚くより外はない。
【通釈】
○「號空不踐実、躓彼榛棘途」。高い処を言うのにも空、卑い処を言うにも空。とかく空という字が名号である。そこが「号空」である。文武忠孝を励し可守礼義という御法度は皆実である。しかし、全くそれはしない。「躓彼榛棘途」。やはり明道の行状の意だが、少々当たりが違う。天道自然でない。棘枳殻の中を通る。東海道ではない。○「誰哉、継三聖」。三聖は孟子で言う。「焚其書」は仏骨の表で言う。仏者が卑いも高いも一つにして天下の知愚賢不肖を迷わせる。中々手に及ばないので韓退之を呼びに遣って焚いてもらおうと言う。はびこったことには困ったもの。高いことでも迷い、卑いことでも迷う。困ったことだ。焚くより外ないと言う。粗い結びだが面白いこと。焚くと言えば理非を分けずにする様だが、直方が、四十六士のことを老中方の御裁許だからと言うのにも、却ってわけのあること。
【語釈】
・文武忠孝を励し可守礼義…武家諸法度1条(綱吉)。
・三垩…孟子滕文公章句下9。「昔者禹抑洪水而天下平、周公兼夷狄驅猛獸而百姓寧、孔子成春秋而亂臣賊子懼。詩云、戎狄是膺、荊舒是懲、則莫我敢承。無父無君、是周公所膺也。我亦欲正人心、息邪説、距詖行、放淫辭、以承三聖者。豈好辯哉。予不得已也」。
・佛骨表…韓愈著。


答呂伯恭書之條
54
與呂伯恭書曰、向來見人陷於異端者、毎以攻之爲樂、勝之爲喜。近來唯覺彼之迷昧爲可憐、而吾道不振之可憂、誠實痛傷不能自已耳。此不知、年老氣衰而然耶。抑亦漸得情性之正也。向見吾兄、於儒釋之辨不甚痛説。此固爲深厚。然不知者便謂、高明有意隂主之。此利害不小。熹近日見得、學者若於此處見得不分明、便使忠誠孝友有大過人之行、亦須有病痛處。其爲正道之害益深。正當共推血誠力救此弊、乃是吾黨之責耳。二十五。
【読み】
呂伯恭に與えし書に曰く、向來人の異端に陷る者見るに、毎に之を攻むるを以て樂と爲し、之を勝つを喜びと爲す。近來唯彼の迷昧憐れむ可きと爲して、吾が道の振わざる、之を憂う可く、誠實痛傷して自ら已むこと能わざるを覺えるのみ。此れ知らず、年老いて氣衰えて然るや。抑々亦漸く情性の正を得るなり。向こうに吾が兄を見て、儒釋の辨に於て甚だしくは痛説せず。此れ固より深厚爲り。然して知らざる者は便ち謂う、高明隂に之を主とするに意有り、と。此れ利害小ならず。熹近日見得、學者若し此の處に於て見得て分明ならざれば、便ち忠誠孝友大いに人に過ぐの行有らしむも、亦須らく病痛の處有るべし。其の正道の害爲るや益々深し。正に當に共に血誠を推し力めて此の弊を救うべく、乃ち是れ吾が黨の責のみ。二十五。

しまいに呂伯恭の條をあげたは、とど排釈は学者の任だ。以身任道者安得不弁之乎と開巻にある。排釈は学者の任だ。そこで此條かのりたもの。○以攻之為楽、勝之為喜。朱子に有りそもないだが、御若ひ時道を任する勢と云がこふした筈ぞ。陷異端たもの一人つつつかまへてひしきつける心もちがよかったと云の、今の同心も主殺し親殺しつかまへたを心もちがよかろふ。斯ふも有つろふぞ。○近来唯覚彼之迷昧為可憐。若ひ時氣味よかったか、今思へはかわいいことじゃ。親の子を勘當するも可愛からふぞ。よくもなれかしと。○吾道不振之可憂、誠実痛傷不能自已耳。前の若ひ時、以攻之為楽、勝之為喜、ひっかけて見ること。昔はさふだか今は誠実になけかわしい。そのやふなものの多ひてこちの道理かふるわぬ。そこて迷ふたものの方もいたましいとなり。云へは服を立ってよい処を、若ひとき氣味よいと思ふたことが斯ふなりたは年よりて元氣の衰へたのか、又は数年の学問だから血氣の方がなれて正しくなりたのか、吾身でも知れぬと云こと。それに付て心かかりなことがあるから申進する。
【解説】
「與呂伯恭書曰、向來見人陷於異端者、毎以攻之爲樂、勝之爲喜。近來唯覺彼之迷昧爲可憐、而吾道不振之可憂、誠實痛傷不能自已耳。此不知、年老氣衰而然耶。抑亦漸得情性之正也」の説明。若い時は異端を攻めるのを楽しみ、これに勝つことを喜んだが、年老いた今は自分の道理が奮わず、仏をも痛ましいと思う様になった。それは元気が衰えたのか、学問によって血気の方が馴れて正しくなったのか、どうもわからないと呂伯恭が言った。
【通釈】
最後に呂伯恭の条を挙げたのは、つまり排釈は学者の任だからである。「以身任道者安得不弁之乎」と開巻にある。排釈は学者の任である。そこでこの条が載ったのである。○「以攻之為楽、勝之為喜」。朱子にありそうもないことだが、御若い時の道を任ずる勢いというのがこうしたものの筈。「陥異端」の者を一人ずつ掴まえて拉ぎ付ける心持ちがよかったというが、今の同心も主殺し親殺しを掴まえた時は心持ちがよいだろう。そうでもあるだろう。○「近来唯覚彼之迷昧為可憐」。若い時は気味がよかったが、今思えば可愛いこと。親が子を勘当するのも可愛いから。それでよくもなるだろうと思ってのこと。○「吾道不振之可憂、誠実痛傷不能自已耳」。前の若い時の「以攻之為楽、勝之為喜」に引っ掛けて見なさい。昔はそうだったが今は誠実に嘆かわしいことで、その様な者が多くてこちらの道理か奮わない。そこで迷った者も痛ましいと言う。その様に言えば腹を立ててもよい処だが、若い時に気味よいと思ったことがこの様になったのは年寄って元気が衰えたのか、または数年の学問から血気の方が馴れて正しくなったのか、自分でもわからないと言う。それについて心掛かりなことがあるから申進した。
【語釈】
・呂伯恭…呂祖謙。南宋の儒者。字は伯恭。号は東莱。浙江金華の人。呂本中に対して小東莱と称。程朱の学に通じ、朱熹と並称。1137~1181
・以身任道者安得不弁之乎…朱子語類126。「以身任道者、安得不辯之乎」。

向見吾兄、於儒釈之辨不甚痛説。前々貴様の議論の立てやふが佛法すててをけと云やふで、此方の若ひ時とはちがふ。それは生れの深厚からでも有ふが、然不知者便謂、高明有意隂主之。ちと嫌をさけるもよい。南軒や朱子は佛を弁ずるが、呂氏は弁ぜぬは深厚な人がらゆへ□云へばよいが、さふとらぬものは朱子や南軒とちごふて、内□佛をひいきそふなと云れては一分が立まいとなり。ここらても皆脊梁骨を立てやふことぞ。鞭策録にも、答子約書の仰屋浩歎も達磨遷固賢於仲尾も舎弟はかりのことではない。伯恭へもかかりてある。鞭策がはきとないと排釈もはきとない。そこを鞭策録にもしまいの方に雜学を戒る処へ子約を出して、此書の仕舞には伯恭を出した。呂氏の学の朱子の思召にあわぬを見るべし。直方の編述、さて々々俗学伺はれぬことなり。さて又深厚はふかくあついと云字、よいことだ。道を任するにはよくないことじゃと思ふがよい。鳩巢の藤樹をよいと云ひ、俗儒の仁斎をうれしかる。深厚をうれしかる。深厚を尊ふのぞ。深厚は郷原に似るもの。藤樹も仁斎も郷原ではないか、あれをうれしいと思ふものは徳之賊と云方の間違出来るすきと云ことありて、そのすきから学術のゆがみになるものぞ。これからが目のつけ処ぞ。
【解説】
「向見吾兄、於儒釋之辨不甚痛説。此固爲深厚。然不知者便謂、高明有意隂主之。此利害不小。熹近日見得、學者若於此處見得不分明」の説明。呂伯恭は深厚な人だからその様に思うのである。深厚はよい字だが、道を任ずるには悪い。深厚から隙ができ、それで学術が歪むことになる。
【通釈】
「向見吾兄、於儒釈之弁不甚痛説」。先の貴様の議論の立て方は、仏法は放って置けと言う様で、私の若い時とは違う。それは生まれの深厚からかもしれないが、「然不知者便謂、高明有意陰主之」。少し嫌を避けるのもよい。南軒や朱子は仏を弁ずるが、呂氏が弁じないのは深厚な人柄だからと言えばよいが、その様に取らない者からは、朱子や南軒とは違って内に仏を贔屓するからだと、その様に言われては一分が立たないだろうと言う。ここ等でも皆脊梁骨を立てなければならない。鞭策録にも、答子約書の「仰屋浩歎」も「達磨遷固賢於仲尾」も舎弟だけのことではない。伯恭へも関わること。鞭策がはっきりとしないと排釈もはっきりとしない。そこで鞭策録でも最後の方に雑学を戒める処へ子約を出し、この書の最後に伯恭を出した。呂氏の学が朱子の思し召しに合わないところを見なさい。直方の編述は、実に俗学には窺えないこと。さてまた深厚は深く厚いという字でよいことだが、道を任ずるにはよくないことだと思いなさい。鳩巣が藤樹をよいと言い、俗儒の仁斎を嬉しがる。深厚を嬉しがる。深厚を尊ぶのである。深厚は郷原に似たもの。藤樹も仁斎も郷原ではないが、あれを嬉しいと思う者は徳之賊という方の間違いができる隙があって、その隙から学術の歪みとなるもの。これからが目の付け処である。
【語釈】
・答子約書の仰屋浩歎…
・達磨遷固賢於仲尾…
・鳩巢…江戸中期の儒学者。名は直清。江戸の人。木下順庵に朱子学を学び、加賀藩の儒官、のち新井白石の推薦で幕府の儒官となり、将軍吉宗の侍講。1658~1734
・藤樹…江戸初期の儒学者。わが国陽明学派の祖。名は原。近江の人。初め朱子学を修め、伊予の大洲藩に仕え、のち故郷に帰り、王陽明の致良知説を唱道。近江聖人と呼ばれた。門人に熊沢蕃山らがいる。1608~1648
・仁斎…江戸前期の儒学者。名は維楨。通称、源佐。京都の人。初め朱子学を修め、のち古学を京都堀川の塾(古義堂)に教授。門弟三千。諡して古学先生。1627~1705
・徳之賊…論語陽貨13。「子曰、鄕原、德之賊也」。

今日の学者も、吾黨の諸老の大過高邁な処を全備せぬと軽んじて、深厚なをうれしがり手本にする。深厚を手本にするといつのまにか郷原になる。こんな火の用心を觸れるものが今日某しより外あるまい。火の用心と鉄棒ひくで火事はないと云ことでもないが、あの足軽か火の用心々々々々と云て為めにもなるもの。をらがやふな儒者が云てはききもすまいが、ちと云ふもよいさ。よらずさわらずの藥をもるは役に立たぬ。はきとない。儒者が佛者も吾同胞じゃと替った処へ西銘を出す。出そこないぞ。東萊などを有意隂主之とは、朱子より外云人はない。もし世俗儒から云はば、呂原明の子孫たから佛のかぶれか有ふと云はふか、それは俗儒なり。朱子の如此、ちと御ひいきに見へると云ふ者あらは、氣の毒とは朱子の外云ことはならぬ。○熹近日見得、学者若於此處見得不分明。見得は丈夫に云こと。私などははきと爰の処じゃと見得なり。学者が見事をして、たたてざはりよく明道狐といふやふでも、儒釈の弁のはきとないは役にたたぬ。
【解説】
深厚を手本にするといつの間にか郷原になる。呂伯恭などを「有意陰主之」とは、朱子より外に言う人はいない。
【通釈】
今日の学者も、我が党の諸老の大過高邁な処を見て全備しないと軽んじて、深厚なことを嬉しがり手本にする。深厚を手本にするといつの間にか郷原になる。この様な火の用心を触れる者は今日では私より外にはいないだろう。火の用心と鉄棒を曳くから火事はないというわけでもないが、あの足軽が火の用心と言うのでためにもなるもの。俺の様な儒者が言っては効きもしないだろうが、一寸言うのもよい。よらず障らず薬を盛るのでは役に立たない。はっきりとしない。儒者が仏者も我が同胞だと、変な処へ西銘を出す。それは出損ないである。東萊などを有意陰主之とは、朱子より外に言う人はいない。もしも世俗儒から言うとすれば、呂原明の子孫だから仏の被れがあるのだろうと言うだろうが、それは俗儒である。朱子のこの様な言い様が少し御贔屓に見えると言う者がいるとしても、気の毒とは朱子の外に言うことはできないこと。○「熹近日見得、学者若於此処見得不分明」。「見得」は丈夫に言うこと。私などははっきりとここの処だと見得。学者が見事をして、たた手触りよく明道狐という様であっても、儒釈の弁がはっきりとしないのでは役に立たない。
【語釈】
・鉄棒ひく…鉄棒曳き。鉄棒を突き鳴らして警固、夜番をすること。また、その人。
・西銘…趙横渠著。近思録為学89。
・呂原明…

○使忠誠孝友有大過人之行、亦須有病痛處。忠誠は君の方へのこと。孝友は、父兄へのこと。云はふやふかないと云ても、そのうらが不忠不孝ぞ。佛を弁することのはきとないからは、あとかくらひぞ。ここへ忠孝の字を出たはさて々々なり。去に由て、許世子か藥か不吟味で父の死なれたを、孔子の殺其君となり。藥ちがひて殺すは、私なくとも不吟味な段か知がないなり。ここをまつさかさまにしたから、尹彦明の光明經よみたは密夫したよりわるいと云はるる。親に孝、君に忠、上ないことでも儒佛の弁にはきとないはあとに病痛がある。其病痛をいつ何時親や君へ嘗めさせふも知れぬ。
【解説】
「便使忠誠孝友有大過人之行、亦須有病痛處。其爲正道之害益深」の説明。忠孝はこの上ないことだが、その逆が不忠不孝である。許世子は薬をよく知らなかったので、それで父が死んだが、これを孔子が「弑其君」と言った。儒仏の弁がはっきりとしないと、知らずに不忠不孝をするかもしれない。
【通釈】
○「使忠誠孝友有大過人之行、亦須有病痛処」。「忠誠」は君の方へのこと。「孝友」は、父兄へのこと。それは言い様のないことだと言っても、その裏が不忠不孝である。仏を弁ずることがはっきりとしないから後が暗い。ここへ忠孝の字を出したのは流石である。そこで、許世子は薬が不吟味だったので父が死なれたのを、孔子が「弑其君」と言った。薬違いで殺すのは、私ではなくても不吟味な段が知がないのである。ここを先ず逆様にしたから、尹彦明が光明経を読んだのは密夫をするより悪いと言われる。親に孝、君に忠はこの上ないことだが、儒仏の弁がはっきりとしないと後に病痛が出る。その病痛をいつ何時親や君へ嘗めさるかもしれない。
【語釈】
・許世子…春秋繁露王道。「許世子止不嘗藥、而誅爲弑父」。
・殺其君…春秋左氏伝昭公。「夏、五月、戊辰。許世子止弑其君買」。
・尹彦明…尹和靖。名は焞。程伊川の高弟。紹興の初め祟政殿説書兼侍講。当時金との和議に反対し、学問は伊川の敬を継承して著しく主体的。1071~1142

天地の中に密夫ほとわるいことはないが、其の身の首のをちるまでの□。他人から密夫を尤な、あれを手本にとはせぬ。佛経を尹彦明の誦するをは人が各別なと感心する。それ火葬、天地にもない。只の学者の深厚あてにならぬ。迂斎の、深厚よいことだが、格物を経ぬ深厚はちさふされぬことと云れた。温公あれほど誠でも、挌物の足らぬ処て孟子をわるいと云。あのとき老中だか、あそこへ孟子が出ても同役にせふとは云ぬ。田舎の名主にでもするで有ふ。それでは孔子へ對して大それたことそ。佛を弁ずるなど、一寸したことではない。こちの知見が立ぬとならぬこと。
【解説】
迂斎が、深厚はよいことだが、格物を経ない深厚は褒められたものではないと言った。温公はあれほど誠でも、格物が足りないから孟子を悪いと言った。知見が立たなければならない。
【通釈】
天地の中に密夫ほど悪いことはないが、その身の首が落ちるまでのこと。他人が密夫を尤もだ、あれを手本にしようとはしない。仏経を尹彦明が誦ずるのを人が格別なことだと感心する。火葬は天地にないこと。ただの学者の深厚は当てにならない。迂斎が、深厚はよいことだが、格物を経ない深厚は馳走することはできないと言われた。温公はあれほど誠でも、格物が足りないから孟子を悪いと言う。あの時は老中だったが、あそこへ孟子が出ても同役にしようとは言わない。田舎の名主にでもするのだろう。それでは孔子に対して大それたことである。仏を弁ずるなどは、一寸したことではない。こちらの知見が立たないとできないこと。

○正當共推血誠力救此弊。若ひ時とは段々思入がちがふて深くなる。拙者斯ふ見すへたから、正に共には御互に排釈せふとなり。血誠は血の誠と云こと。朱子の愞復のことを申上るに濺血涙と云字もあり、それほどのをも入れにと云心て爰へ血の字を用ひたもの。佛て天下中まっくらになる。一人や二人のことではない。やはり君父の金へとられたのそ。これをつぶすて天下の為になる。乃是吾黨之責耳。乃の字は血誠からあいのあること。血誠になりてから乃なり。御手前の深厚から川向ひの喧嘩のやふに思ふてはわるい。吾黨之責耳、と。
【解説】
「正當共推血誠力救此弊、乃是吾黨之責耳」の説明。仏で天下中が真っ暗になるから、仏を潰すことが天下のためになる。深厚から、仏を川向いの喧嘩の様に思っては悪い。我が党の責務である。
【通釈】
○「正当共推血誠力救此弊」。若い時とは段々思い入れが違って来て深くなる。私がこの様に見据えたから、まさに共に御互いに排釈しようと言った。「血誠」は血の誠ということ。朱子の愞復のことを申し上げるのに「濺血涙」という字もあり、それほどの思い入れでという心で、ここに血の字を用いたもの。仏で天下中が真っ暗になる。一人や二人のことではない。やはり君父が金に捕らえられたのと同じこと。これを潰すので天下のためになる。「乃是吾党之責耳」。「乃」の字は血誠から間のあること。血誠になってから「乃」である。貴方は深厚から、仏を川向いの喧嘩の様に思っては悪い。吾党之責耳と言った。
【語釈】
・濺血涙…


跋排釈録

朱子解孟子能言距楊墨之説曰、邪説害正、人人得攻之。不必聖賢。如春秋之法、亂臣賊子、人人得而誅之。不必士師也。聖人救世立法之意、其切如此。若以此意推之、則不能攻討、而又唱爲不必攻討之説者、其爲邪説之徒、亂賊之黨可知矣。嗚呼孟朱之言、如是之嚴且切、而程子又曰、佛老之害甚於楊墨、則學者之於佛氏也、豈可不痛辯而猛距哉。此予所以不敢自量、集是編、以欲與天下後世植正排邪者共之也。
貞享乙丑夏至日 佐藤直方謹識。
【読み】
朱子、孟子能く楊墨を距ぐを言うの説を解して曰く、邪説の正を害するは、人人得て之を攻む。必ずしも聖賢のみならず。春秋の法の、亂臣賊子は、人人得て之を誅す。必ずしも士師ならざるが如きなり。聖人の世を救い法を立つるの意、其の切なる此の如し。若し此の意を以て之を推せば、則ち攻討すること能わずして、又必ずしも攻討せずの説を唱え爲す者は、其の爲邪説の徒、亂賊の黨たるを知る可し。嗚呼孟朱の言、是の如く之れ嚴且切にして、程子又、佛老の害は楊墨より甚だしと曰えば、則ち學者の佛氏に於るや、豈痛辯して猛距せざる可けんや。此れ予が敢て自ら量らず、是の編を集して、以て天下後世の正を植て邪を排する者と之を共にせんと欲する所以なり。
貞享乙丑夏至日 佐藤直方謹識。

邪説害正、人人得而攻之。人人と云字が甚任底な語ぞ。人々と云字の出るは吾任ずることだか、任してもよいものかまあ此方のにはと云かなまける本ぞ。俗儒が六藝の註がまたすまぬと云て苦労がる。大の俗見そ。車に乗れば馬動く。馬動即亦鳥鳴。道学の任は軽重のあることなり。○如春秋之法。浪人儒者か講釈でひそ々々排釈するが何んにもきつひことではないか、人人得而誅之春秋の法ぞ。親殺し主殺し人がた出てをる。誰でもつかまへ子ばならぬ。をらが任ではないと云れぬことぞ。○垩人救世彦立法之意。佛に迷ふと人々の心をらりにする。距くものは垩人組と孟子の云れた。学者も程朱の法被をと云。兎角旦那の法被がよい。長作が迎の小者も琴柱の法被をきた。あれでははや問屋塲て氣分がちがふ。吾黨のものを人のわるく云も程朱から先輩の諸老を法被に着るからなり。垩人立法之意を法被にきると云が任底なことなり。
【解説】
「朱子解孟子能言距楊墨之説曰、邪説害正、人人得攻之。不必聖賢。如春秋之法、亂臣賊子、人人得而誅之。不必士師也。聖人救世立法之意、其切如此」の説明。楊墨を距ぐのは聖人の徒であると孟子は言った。孔子も春秋の法で乱臣賊子を誅した。学者はそれに倣って任じなければならない。
【通釈】
「邪説害正、人人得而攻之」。「人人」という字が甚だ任底な語である。人々という字が出るのは自分が任ずることだか、任じてもよいが、自分はまあと言うのが怠ける本である。俗儒が六芸の註がまだ済まないと言って苦労がる。それは大の俗見である。車に乗れば馬が動く。馬が動けば即、亦鳥が鳴く。道学の任には軽重がある。○「如春秋之法」。浪人儒者が講釈でひそひそと排釈をするのは何も厳しいことはないが、「人人得而誅之」が春秋の法である。親殺しや主殺しの人が多く出ている。誰でも掴まえなければならない。それは、俺の任ではないとは言えないこと。○「聖人救世立法之意」。仏に迷うと人々の心を台無しにする。楊墨を距ぐ者は聖人組だと孟子が言われた。学者も程朱の法被を着たいと言う。とかく旦那の法被がよい。長作の迎えの小者も琴柱の法被を着ている。あれで早くも問屋場で気分が違う。我が党の者を人が悪く言うのも程朱から先輩の諸老を法被として着るからである。聖人立法之意を法被に着るというのが任底なこと。
【語釈】
・距くものは垩人組…孟子滕文公章句下9。「能言距楊墨者、聖人之徒也」。
・長作…山田長作。館林藩士。

○以此意推之則。呂氏の書で直方のつよく攻るが此意を推したなり。乱賊は人々得而誅之。異端は口ちばしの青ひ学者も弁ずることだに、若又排すへき学か、年老のれき々々の儒者が不必攻討之説をするならあち組だ。あれは異端と立てあるからすててをけと云ては孔孟の道を倡へても、邪説之徒なり。似せ金□そろへもてきたに、それでとをすは似せ金つかひ仲ヶ間入りしたのぞ。あれはたしかに先日人がたの主殺したが、をれ一人のかかりでもないと云てすててをくは、やはり主殺之組ぞ。○孟朱之言、如是之嚴且切。嚴とはきびしいこと。切は胸へきっはりと来ぬことは切と云れぬ。さてもさふじゃとひびくこと。嚴とにがひ藥を呑む、きゃりと届く。そこか切なり。○又曰、佛老之害甚於揚墨、則學者之於佛氏也、豈可不痛辯而猛距哉。佛害は揚墨よりきつひ。佛は開巻にある火之焚將及身。揚墨は今やけついては来ぬそ。心地を害する処はどちも同ことだか、佛は甚しい。わけても日本などては老子の用心あまり家々には入らぬ。
【解説】
「若以此意推之、則不能攻討、而又唱爲不必攻討之説者、其爲邪説之徒、亂賊之黨可知矣。嗚呼孟朱之言、如是之嚴且切、而程子又曰、佛老之害甚於楊墨、則學者之於佛氏也、豈可不痛辯而猛距哉」の説明。異端を放って置くのは異端の仲間である。異端の中でも仏の害が酷い。逆に、日本では老子の用心はあまり要らない。
【通釈】
○「以此意推之則」。呂氏の書で直方が強く攻めるのが「此意推」である。乱賊は「人々得而誅之」。異端は嘴の青い学者でも弁じなければならないものなのに、もしもまた排すべき学に対して、年老の歴々の儒者が「不必攻討之説」を唱えるのであればあちらの組である。あれは異端と立ててあるから放って置けと言っては孔孟の道を唱えても、邪説の徒である。贋金を揃えて持って来たのに、そのままそれを通すのは贋金使いの仲間入りをしたのである。あれは確かに先日の人敵の主殺しだが、俺一人の係りでもないと言って棄てて置くのは、やはり主殺の組である。○「孟朱之言、如是之厳且切」。「厳」は厳しいこと。「切」。胸へきっぱりと来ないことは切とは言えない。実にその通りだと響くこと。厳と苦い薬を飲むと、きりっと届く。そこが切である。○「又曰、仏老之害甚於楊墨、則学者之於仏氏也、豈可不痛弁而猛距哉」。仏害は揚墨より酷い。仏は開巻にある「火之焚將及身」で、楊墨は今焼け付いては来ない。心地を害する処はどちらも同じだが、仏は甚だしい。特に日本などでは、老子の用心はあまり家々には要らない。
【語釈】
・火之焚將及身…朱子語類126。「譬如火之焚將及身」。

○此予所以敢不自量云云。異端を弁するは此方のにはまだはやい、天下の世話するは自分にすぎたのと云ぬ。集是編、以天下後世の学者へ見せて垩人の道を植て、異端を距くものと共にせふとなり。直方先生、物のふえることはきらひだ。編集きらひだ。やむことを得ぬことじゃ。語類文集よめば此書にのりたはのこらずあるが、直方の、をれが一編にしたはにくひやつと云やふなもの。語類文集でよんでは、昨日にくひと云て、翌日やつと云やふでひびかぬと云て笑れたとなり。近思録の辨異端は、程子横渠で朱子のあまれた辨異端ぞ。これは又朱子の辨異端の後編を朱子の語で編れた直方の排釈ぞ。然れば此書は近思の辨異端の後編としることそ。先生以後更無先生、則註解之眼続編之手、果望於誰哉と、柯先生の書とめた近思だ。其後編、朱子ならではなり。そこを知たは直方先生なり。○夏至の日。先日鞭策録の跋でも云たか、夏至から隂かちになる。段々くらやみに這入る様なもの。そろ々々目には見へずと日もつまる。なげきの意でかきたもの。
【解説】
「此予所以不敢自量、集是編、以欲與天下後世植正排邪者共之也。貞享乙丑夏至日 佐藤直方謹識」の説明。近思録の弁異端は、程子と横渠の語で朱子が編まれたもの。排釈録は朱子の弁異端の後編を朱子の語で直方が編んだもの。
【通釈】
○「此予所以敢不自量云云」。異端を弁ずるのは自分にはまだ早い、天下の世話をするのは自分には過ぎたことだと言わない。この編を集して天下後世の学者へ見せて聖人の道を植え、異端を距ぐ者と共にしようと言った。直方先生は物が増えることは嫌いである。編集嫌いである。これは止むを得なかったのである。語類文集を読めばこの書にあるものは残らずあるが、直方が、俺がそれを一編にしたのは仏を憎い奴と思ったからで、語類文集を読むのでは、昨日憎いと思って、翌日あの奴めと言う様で響かないと言って笑われたという。近思録の弁異端は、程子と横渠で朱子が編まれた弁異端である。これはまた朱子の弁異端の後編を朱子の語で編まれた直方の排釈である。それならこの書は近思の弁異端の後編だと知らなければならない。「先生以後更無先生、則註解之眼続編之手、果望於誰哉」と、柯先生が書き留めた近思である。その後編なのだから、朱子ならではである。そこを知ったのは直方先生である。○「夏至日」。先日鞭策録の跋でも言ったが、夏至から陰がちになる。段々と暗闇に這い入る様なもの。ゆっくりなので目には見えないが日も詰まる。これは嘆きの意で書いたもの。
【語釈】
・先生以後更無先生、則註解之眼続編之手、果望於誰哉…山崎闇斎近思録序末文。
・貞享乙丑…貞享2年(1685)。

此日、講後館林の山田長作、大洲の弓削德助別を告け、明日各藩へ皈る。先生謂市良云、賢誾斎をすめて江戸へ行たらよかろふ。幸ひ普請も出来たそふな。あの娘の大病のことも少し快方ならばなれてゆくか誾老のためによい。娘難治の症。それに大老の身てそばに付て居てまのあたり愛子の難治を見るより、江戸てはたとひ死を聞くとも、同じものでもいたみかうすいものそ。見ると聞くとのちがいと云こともある。此表のことは大勢の兄弟もついている。ぬけめはない。市郎云、中々病勢はなれかたき底と見へました。勝間龍水と云手習の師は佐文山と池永道運か弟子なり。七十の年に娘大病にて息の絶るを見て、弟子に二十ばかりのあほふなるやつあり。それを召ひてなにやら云ふと、やがてやがて草鞋を二足かふてくる。師弟二人草鞋をはく。なにをするかとをもへば、家内をよび行德あたりへゆき、二三日逗留すると云て出た。これは老荘の見なり。老荘だけ保養にはよい筈そ。これらのことも外から老人を養ふには心得の一つなり。
【解説】
黙斎が市郎に、誾斎が江戸へ行くことを勧めた。誾斎の娘は大病なので、側に付き添うよりも江戸で死を聞く方が痛みは薄い。勝間龍水は彼の娘が死んだ時、行徳辺りに行って逗留すると言って出た。これは老荘の見だが、老荘なだけ保養にはよい筈である。
【通釈】
この日、講後館林の山田長作、大洲の弓削徳助が別れを告げ、明日各藩へ帰る。先生が市郎に言った。貴方は誾斎に江戸へ行ったよいだろうと勧めなさい。幸い普請も出来たそうだ。あの娘の大病のことも少し快方であれば敢て行くのが誾老のためによい。娘が難治の症で、それに大老の身で側に付いていて目の当たりに愛子の難治を見るより、たとえ江戸で死を聞くとしても、同じことでも痛みが薄いもの。見ると聞くとの違いということもある。こちらでは大勢の兄弟も付いている。抜け目はない。市郎が言う。中々病勢が離れ難い様だと見えました。勝間龍水という手習の師は佐文山と池永道運の弟子である。七十の年に娘が大病で息の絶えるのを見て、弟子に二十ばかりの阿呆な奴がいたので、それを呼んで何やら言うと、やがて草鞋を二足買って来た。師弟二人が草鞋を履く。何をするかと思えば、家内を呼んで行徳辺りへ行き、二三日逗留すると言って出た。これは老荘の見である。老荘なだけ保養にはよい筈。これ等のことも、外から老人を養うことでは心得の一つになる。
【語釈】
・市良…
・誾斎…桜木誾斎。名は千之。長崎聖堂教授となる。友部安崇の感化で神道に傾く。享保10年(1725)~文化元年(1804)
・勝間龍水…
・佐文山…
・池永道運…