第六十一 春秋傳序  十一月十六日  慶年録
【語釈】
・十一月十六日…寛政2年庚戌(1790年)11月16日。
・慶年…北田慶年。東金市福俵の人。通称太兵衛。

伊川先生春秋傳序曰、天之生民、必有出類之才、起而君長之。治之而爭奪息、導之而生養遂、敎之而倫理明。然後人道立、天道成、地道平。二帝而上、聖賢世出、隨時有作。順乎風氣之宜、不先天以開人、各因時而立政。曁乎三王迭興、三重既備、子・丑・寅之建正、忠・質・文之更尚、人道備矣、天運周矣。聖王既不復作、有天下者、雖欲倣古之跡、亦私意妄爲而已。事之繆、秦以建亥爲正。道之悖、漢專以智力持世。豈復知先王之道也。夫子當周之末、以聖人不復作也、順天應時之治不復有也。於是作春秋、爲百王不易之大法。所謂考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑者也。先儒之傳曰、游・夏不能贊一辭。辭不待贊也。言不能與於斯耳。斯道也、惟顏子嘗聞之矣。行夏之時、乘殷之輅、服周之冕。樂則韶舞。此其準的也。後世以史視春秋、謂褒善貶惡而已。至於經世之大法、則不知也。春秋大義數十。其義雖大、炳如日星、乃易見也。惟其微辭隱義、時措從宜者、爲難知也。或抑或縦、或與或奪、或進或退、或微或顯。而得乎義理之安、文質之中、寛猛之宜、是非之公、乃制事之權衡、揆道之模範也。夫觀百物、然後識化工之神、聚衆材、然後知作室之用。於一事一義、而欲窺聖人之用心、非上智不能也。故學春秋者、必優游涵泳、默識心通、然後能造其微也。後王知春秋之義、則雖德非禹・湯、尚可以法三代之治。自秦而下、其學不傳。予悼夫聖人之志不明於後世也。故作傳以明之、俾後之人通其文而求其義。得其意而法其用、則三代可復也。是傳也、雖未能極聖人之蘊奧、庶幾學者得其門而入矣。
【読み】
伊川先生の春秋傳序に曰く、天の民を生ずる、必ず類を出ずる才、起こりて之に君長たる有り。之を治むれば爭奪息[や]み、之を導けば生養遂げ、之を敎うれば倫理明らかなり。然る後に人道立ち、天道成り、地道平かなり。二帝より上は、聖賢世々出で、時に隨いて作すこと有り。風氣の宜しきに順い、天に先んじて以て人を開かず、各々時に因りて政を立つ。三王迭[たが]いに興り、三重既に備わるに曁[およ]び、子・丑・寅は正を建て、忠・質・文は更々[こもごも]尚ばれ、人道備わり、天運周し。聖王既に復作らず、天下を有つ者、古の跡に倣わんと欲すと雖も、亦私意妄爲のみ。事の繆[あやま]れる、秦は建亥を以て正と爲すに至る。道の悖[あやま]れる、漢は專ら智力を以て世を持す。豈復先王の道を知らんや。夫子は周の末に當たり、以[おも]えらく聖人復作らず、天に順い時に應ずる治復有らず、と。是に於て春秋を作り、百王不易の大法と爲せり。謂う所の諸を三王に考えて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑い無く、百世以て聖人を俟ちて惑わざる者なり。先儒の傳に曰く、游・夏も一辭を贊すること能ず。辭は贊するを待たず。斯に與ること能わざるを言えるのみ。斯の道や、惟顏子のみ嘗て之を聞けり。夏の時を行い、殷の輅に乘り、周の冕を服す。樂は則ち韶舞なり、と。此れ其の準的なり。後世史を以て春秋を視て、善を褒め惡を貶[けな]すと謂うのみ。經世の大法に至りては、則ち知らざるなり。春秋の大義は數十なり。其の義大なりと雖も、炳[あき]らかなること日星の如く、乃ち見易し。惟其の微辭隱義、時措の宜しきに從う者は、知り難しと爲す。或は抑え或は縦[はな]ち、或は與え或は奪い、或は進め或は退け、或は微かにし或は顯わにす。而して義理の安き、文質の中なる、寛猛の宜しき、是非の公なるを得たるは、乃ち事を制する權衡にして、道を揆[はか]る模範なり。夫れ百物を觀て、然して後に化工の神を識り、衆材を聚めて、然して後に室を作る用を知る。一事一義に於て、聖人の心を用うるを窺わんと欲せば、上智に非ずんば能わざるなり。故に春秋を學ぶ者は、必ず優游涵泳し、默識心通して、然して後に能く其の微に造[いた]るなり。後王春秋の義を知らば、則ち德は禹・湯に非ずと雖も、尚以て三代の治に法[のっと]る可し。秦よりして下、其の學傳わらず。予夫[か]の聖人の志後世に明らかならざるを悼む。故に傳を作りて以て之を明らかにし、後の人をして其の文に通じて其の義を求めしむ。其の意を得て其の用に法らば、則ち三代は復す可し。是の傳や、未だ聖人の蘊奧を極むこと能わずと雖も、學者の其の門を得て入るに庶幾[ちか]からん。
【補足】
・この章は、程氏経説四にある春秋伝序の全文。

天之生民。仁義礼智を天から下さる処は、とんとめりかりなしなり。天から下された中、有出類之才。起て、氣質の格別よいかある。譬て云はば、一年三百六十日にめりかりはないが、其中に云をふやうのない能ひ日よりと云もたまさかある。誰もめりかりなく受ても、大学の序の其氣質之稟或不能齊。さま々々ても平人のは多く似たか々々々のものじゃが、多ひ中には類を出るの格別すぐれたがある。それはどなたとなれば、垩人なり。君長之。これはひとりでになりたことで、づんど往古を云たことなり。朱子の大学の序の一有聰明睿智云々か全ここを云たことなり。直方先生の、大勢子ともがよりて遊ぶに一ち発明なか子ともを引廻す。同し子共で誰を頭にと云こともないか、大勢の中で自らそうなる。天地の開けた始大勢出たか、誰を頭と云こともなかったか、大勢の内で自ら君長ができたなり。
【解説】
「伊川先生春秋傳序曰、天之生民、必有出類之才、起而君長之」の説明。天から生じたものの多くは類を同じくして甲乙はないが、その中に格別に優れた者が出る。それが聖人であり、聖人は自然に君長となる。
【通釈】
「天之生民」。仁義礼智を天から下された処では全く甲乙はない。天から下された中に「有出類之才」で、気質の格別よいものが出て来ることがある。たとえで言えば、一年三百六十日に甲乙はないが、その中に言い様もなくよい日和ということが稀にある。誰もが甲乙なく受けても、大学の序の「其気質之稟或不能斉」である。人は様々でも平人の多くは似たり寄ったりなもの。しかし、数多い中には類を出て格別に優れた者がいる。それはどなたかと言えば聖人である。「君長之」。これは自然になったことで、遥か往古を言ったこと。朱子の大学の序にある「一有聡明睿智云々」が全くここを言ったこと。直方先生が、大勢子供が寄って遊ぶ中で、最も発明な者が子供を引き廻すと言った。子供同士なので誰を頭にするということもないが、大勢の中で自然とそうなる。天地の開けた当初は大勢出たが、誰を頭にするということもなかった。大勢の内で自然と君長ができたのである。
【語釈】
・めりかり…乙甲。音の高低。抑揚。甲乙。
・其氣質之稟或不能齊…大学章句序。「大學之書、古之大學、所以敎人之法也。蓋自天降生民、則既莫不與之以仁義禮智之性矣。然其氣質之稟、或不能齊。是以不能皆有以知其性之所有、而全之也」。
・一有聰明睿智云々…大学章句序。「一有聰明睿智、能盡其性者、出於其閒、則天必命之以爲億兆之君師、使之治而敎之、以復其性」。

治之。この之の字は一つ手を出してすることにつこう文字で、大勢のすることを只見ていられぬによって垩人が手を出す。之と云ふで易傳の序と違ふ塩梅を知べし。易傳は天地自然の道体を語るゆへ、之の字はないぞ。春秋傳は垩人が手を出して人を治ることゆへ、之の字あり。老子が無為自然と云は之の字を知らぬて、果報は寢て待てと仁義か寢ころぶ。垩人の道では天地が開けると最其侭てをかぬ。然らは之の字は人が拵たかと云に、そふ云と作意になる。中庸首章で云へば、この之の字が性道教のをしへなり。手を出すか天なりの姿なり。ぬれ手で粟ではない。垩人か大勢の者を治めるに手を出すゆへ之をと云、之の字を使ふた。治と云は政の全体の名で、大学の治國の治の字もここそ。其分んにすてて置れぬ。懐手せられぬことて世話してよくしてやる。医者の療治の治もそれて、すてて懐手していられぬことて、垩人の政の始めは治ると云ことなり。天生民降す。人は性善じゃと云てもすててをかれぬ。垩人か上に居て掛引せぬと爭がをこる。そこで治める。孟子の無教近禽獣もここで、天地開けて以来人間は性善とは云へとも、兎角肉に引れ樂をしたかり、昼寢をし、甘ひものを喰たかり、吾身を大事に樂をせふと云氣で吾方へ々々々とするで彼爭奪がある。肴の頭を投ると犬が爭ふ様なことで、人はそふまててはなけれとも、自然と其体がある。そこで垩人の御手にかから子は人間らしくならぬ。
【解説】
「治之而爭奪息、導之而生養遂、敎之而倫理明」の説明。易伝は天地自然の道体を語っているので「之」の字はないが、春秋伝は聖人が手を出して人を治めることを語るので之の字を使う。これが中庸首章で言えば、「性道教」の教えである。聖人は天のままに人を治める。また、「治」は政の全体のことで、人は本来性善でも、そのままでは欲に引かれて争奪に至るから、聖人が治めてやらなければならないのである。
【通釈】
「治之」。「之」の字は一つ手を出してするということに使う文字で、大勢の人がすることをただ見てはいられないので聖人が手を出す。之と言うのには、易伝の序と違う塩梅があることを知りなさい。易伝は天地自然の道体を語っているので、之の字はない。春秋伝は聖人が手を出して人を治めることを語るので、之の字がある。老子が無為自然と言うのは之の字を知らないからで、果報は寝て待てと言うので仁義が寝転ぶ。聖人の道では天地が開けると最早そのままにしては置かない。それなら之の字は人が拵えたのかと言えば、そう言えば作意になる。中庸首章で言えば、この之の字が「性道教」の教えであり、手を出すのが天のままの姿である。濡れ手でで粟ではない。聖人が大勢の者を治めるために手を出すので「之」と言って、之の字を使った。「治」は政の全体の名で、大学にある「治国」の治の字もここ。そのままにして捨てては置けない、懐手してはいられないので、世話をしてよくしてやる。医者の療治の治も同じで、それは懐手して捨てては置けないことであって、聖人の政の始めは治めるということなのである。「天降生民」で人は性善だと言っても、捨てては置けない。聖人が上にいて掛け引きをしないと争いが起こる。そこで治める。孟子の「無教近禽獣」もここのことで、天地が開けて以来人間は性善だとは言っても、とかく肉に引かれ楽をしたがり、昼寢をし、甘いものを喰いたがり、我が身を大事に楽をしようといういう気で、自分のためにばかりするのであの「争奪」がある。肴の頭を投げると犬が争うが、人はそうまでではないが、自然とその様なことがある。そこで、聖人の御手に掛からなくては人間らしくならない。
【語釈】
・性道教…中庸章句1。「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂敎」。
・治國…大学章句1。「古之欲明明德於天下者、先治其國」。
・無教近禽獣…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸」。

そこを治めて爭奪をやめ靜にして、導之而生養遂。海邉に居ては磯草や魚を喰ひ、山に入ては禽獣をとり、木の實を喰ふ。后稷教民稼穡高冝黍稷卑冝稲麥。ひだるくさむくなくした。そこで始てのう々々となりて、偖も人間はありかたひことと思ふ。もうそふすると只はをかぬ。教之。そこで親義別序信の道を教へる。教なふても五倫は存してあるものなれとも、教がなけれはをぼろ々々々なり。明と云ふが、戸を開たやうにすっはりと明るくなるなり。爰か之の字を出した処て、則ち之の字のすることなり。性善の人ゆへに手をつけずとも能ひやうなれとも、教て立派な男になる。
【解説】
聖人は飢えや寒さをなくし、その後に人を教化した。人には本来五倫があるが、道を教えなければそれは朧気なもの。人は教えによって立派になる。
【通釈】
そこを治めて争奪を止め、静かにして、「導之而生養遂」。海辺にいれば磯草や魚を喰い、山に入れば禽獣を獲り、木の実を喰う。「后稷教民稼穡」「高宜黍稷卑宜稲麦」。これで飢えや寒さをなくした。そこで初めて心配がなくなり、本当に人間は有難いものだと思う。もうそうなればただでは置かない。「教之」。そこで「親義別序信」の道を教える。教えがなくても五倫は確かに人にあるわけだが、教えがなければ朧気なもの。「明」とは、戸を開けた様にすっぱりと明るくなること。ここが「之」の字を出した処で、則ち之の字のすることである。性善の人なので手を付けなくてもよい様だが、教えで立派な男になる。
【語釈】
・后稷教民稼穡…孟子滕文公章句上4。「后稷敎民稼穡、樹藝五穀。五穀熟而民人育」。
・高冝黍稷卑冝稲麥…周礼夏官司馬。「正東曰青州、…其穀宜稻麥。正西曰雍州、…其穀宜黍稷。河内曰冀州、…其穀宜黍稷」。
・親義別序信…孟子滕文公章句上4。「聖人有憂之。使契爲司徒、敎以人倫。父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」。

人道立。仁義を受たにめりかりはないが、教かないと人道立の立がない。教ゆへに立つそ。仁義立と云はことわりのいることて、下された通に立ぬ者そ。譬ば今日の人の引風て声の立ぬやうなものて、痰切や二陳湯を呑んて元との声に漸々なる。人道の教で立つもそれなり。天道成地道平。常は天地人と云て、天か出来て地か出来、人が出来たか、仕上けの処の人から先きへ云たは、人道か立子は天地もひょんなもの。これが丁ど中庸の戒愼恐懼がつまりて天地位すと同ことなり。道体を云ときは天地人、春秋を語るは人天地そ。春秋は人を主にするゆへなり。春秋は天地をあてにせず。人から天地をよくする。堯舜の代には人のよいて五風十雨。そこて五穀も能く出来る。万物育すなり。山川四海をたやかにて、四時の流行寒暑の滞ないか天成地平の処て、そこで四海波靜と謡はるる。譬ば天地は舞臺、人道は能なり。然れば舞臺は先きなれとも、中て能が始らぬ段になると舞臺も入らず、只の坐鋪のやふになって居ては舞臺の甲斐なし。
【解説】
「然後人道立、天道成、地道平」の説明。教えによって人道が立つ。道体を言う時は天地人だが、春秋は人を主にしたものだから、春秋を語る時は人天地と言う。人が立たなければ天地の甲斐はない。
【通釈】
「人道立」。受け取った仁義に甲乙はないが、教えがないと「人道立」の立がない。教えがあるから立つのである。「仁義立」というのは条件のあることで、教えがなければ天から下された通りに立たないもの。たとえば今日の人が風を引いて声が立たない様なもので、痰切り薬や二陳湯を飲んで元の声に漸くなる。人道が教えで立つのもそれと同じ。「天道成地道平」。常には天地人と言い、天ができて地ができ、それから人ができたのだが、その仕上げの処の人から先に言ったのは、人道が立たなければ天地も妙なものになってしまうからである。これが丁度、中庸の「戒慎恐懼」が極まって「天地位焉」となるのと同じこと。道体を言う時は天地人、春秋を語る時は人天地なのである。それは春秋が人を主にするからである。春秋は天地を当てにしない。人が天地をよくする。堯舜の代には人がよかったので五風十雨。そこで五穀もよくできた。「万物育焉」である。山川四海が穏やかで、四時流行して寒暑の滞りのないのが天成地平の処で、そこで四海波静と謡われる。たとえば天地は舞台で人道は能である。それなら舞台は先になるが、中で能が始らなければ舞台も要らず、その様にただの座敷の様になっていては舞台の甲斐はない。
【語釈】
・戒愼恐懼…中庸章句1。「道也者、不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫見乎隱、莫顯乎微。故君子愼其獨也。喜怒哀樂之未發、謂之中、發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉」。
・五風十雨…五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降ること。転じて、風雨その時を得て、農作上好都合で、天下の太平なこと。
・四海波靜…謡曲高砂の一節。「四海波静かにて、国も治まる時つ風」。

二帝而上云々。二帝と云は、伏羲神農と語り出しそふなものを二帝と云が伊川の思召あることで、孔子の書經を序するに堯舜からあり、それを祖述する春秋ゆへ伊川も準しられたか、なれとも天地の開けは其より前なことゆへに二帝とつかまへてをいて、而上と伏羲神農を上みつかたへ入れたことなり。大学は学問の書て道の本を語るゆへ、伏羲神農より語る。春秋は政か主ゆへ、堯舜より語る。大学の序も春秋傳の序も思召のあることてああ書れた。隨時有作。垩人はそう々々沢山ないものなれとも、化と云ものて、垩人の出ぬ間もそれて治る。孟子の末篇に堯舜から段々垩人の生するを書き、又、五百年に王者出るとも。孟子の出處の処にもこのことあり。遠ひ其間も其化て治るは、丁ど朝たひた伽羅の夕方迠も匂ふやふなものなり。二帝の前も伏羲神農と時々出られた。出つづけではないが、折々垩人の出らるる。
【解説】
「二帝而上、聖賢世出、隨時有作」の説明。孔子が書経を序した際に堯舜から出してあり、それを祖述する春秋なので伊川も準じて「二帝」と出し、「而下」で伏羲神農も含めた。大学は道の本を語るので、伏羲神農から語る。折々聖人は現われるが、現われなくても聖人の化によって治まる。
【通釈】
「二帝而上云々」。「二帝」とあり、ここは伏羲神農と語り出しそうなものなのに二帝と言ったのが伊川の思し召しのあることで、孔子が書経を序した際に堯舜から出してあり、それを祖述する春秋なので伊川も準じられたのだが、天地の開けたのはそれより前なことなのでここは二帝と出して置き、「而上」と伏羲神農をその上に入れた語なのである。大学は学問の書で道の本を語るので伏羲神農から語る。春秋は政が主なので堯舜から語る。大学の序も春秋伝の序も思し召しのあることで、あの様に書かれたのである。「随時有作」。聖人はそうそう沢山はいないものだが、「化」というもので、聖人が出ない間もそれで治まる。孟子の末篇に堯舜から段々と聖人が生じたことを書き、また、五百年に王者が出るともあって、孟子の出処の処にもこのことが書かれている。遠いその間も化で治まるのは、丁度朝焚いた伽羅が夕方までも匂う様なもの。二帝の前も伏羲神農と時々出られた。出続けではないが、折々聖人は出られる。
【語釈】
・上みつかた…上つ方。上の方。かみに当たる方。
・堯舜から段々…孟子尽心章句下38。「孟子曰、由堯・舜至於湯、五百有餘歳。若禹・皋陶、則見而知之。若湯、則聞而知之。由湯至於文王、五百有餘歳。若伊尹・萊朱、則見而知之、若文王、則聞而知之。由文王至於孔子、五百有餘歳。若太公望・散宜生、則見而知之、若孔子、則聞而知之。由孔子而來、至於今、百有餘歳。去聖人之世、若此其未遠也。近聖人之居、若此其甚也。然而無有乎爾、則亦無有乎爾」。
・孟子の出處の処…孟子公孫丑章句下13。「彼一時、此一時也。五百年必有王者興。其閒必有名世者。由周而來、七百有餘歳矣。以其數則過矣。以其時考之、則可矣。夫天未欲平治天下也。如欲平治天下、當今之世、舍我其誰也。吾何爲不豫哉」。

順乎風氣之宜。垩人の政に無理はない。医者の脉を見て藥をやる心なり。いつも反魂丹とは云はぬ。政も人をつかまへてすることゆへ、とき々々の丁どがありて、今はこの塲と云がある。垩人は天下中の人を吾子のやうに思へとも、一概にはならぬ。冬は小袖、夏は帷子と云やうに時々相應かあり、不先天以開人云々。天地は段々氣運か違て来るもの。親は子を折角に思へとも、元服もせぬ子に女房もあてかわれぬ。凧や犬追内はならぬことそ。明けぬ内灯燈もけされぬ。東か白んてけす。皆天次第にするなり。各因時而立政。跡から見ると事がふへたやう。跡から出た垩人が持出しをして政をするやうなれとも、そふてない。伏羲のときはずんど事少なて様子も先つは知れぬか、繋辞にあらまし書た通りに伏羲のときは八卦をそこへ釣るしてをくと、易の卦ても見てそれて正しく其通りでいるやうなむざうさなり。堯舜のときは最四岳十二牧から天文暦象五刑五服色々のことありて、手のこんだことなり。然らばこれて政のぎり々々かと思ふにまた々々。
【解説】
「順乎風氣之宜、不先天以開人、各因時而立政」の説明。聖人の政に無理はなく、時や場に適切に対応する。伏羲の時の政は易の卦に従う様な無造作なものだが、堯舜の頃は四岳十二牧から天文暦象五刑五服などがあり、それは、後に出た聖人が新しいものを持って来て政をした様に見えるが、そうではない。
【通釈】
「順乎風気之宜」。聖人の政に無理はない。医者が脈を見て薬を遣る心と同じ。いつも反魂丹を使うとは言わない。政も人を掴まえてすることなので、時々の丁度があって、今はこの場ということがある。聖人は天下中の人を我が子の様に思っているが、それは一通りのことではない。冬は小袖、夏は帷子という様に時々の相応があり、「不先天以開人云々」。天地は段々と気運が違って来るもの。親は子を特別に思うが、元服もしない子に女房をあてがうことはできない。それは凧や犬を追う内はできないこと。明けない内は灯燈も消せない。東が白んで消す。皆天次第にするのである。「各因時而立政」。後から見ると事が増えた様である。後に出た聖人が持ち出しをして政をする様だが、そうではない。伏羲の時はかなり事が少なくて様子も先ずはわからないが、繋辞にあらまし書いた通りで、伏羲の時は八卦をそこへ吊して置き、易の卦でも見て、それで正しくその通りでいる様な無造作なものだった。堯舜の時は既に四岳十二牧から天文暦象五刑五服など、色々なことがあって手が混んでいた。それならこれが政の至極なのかと思えば、まだまだである。
【語釈】
・四岳…書経堯典。「帝曰、咨四岳。湯湯洪水方割。蕩蕩懷山襄陵。浩浩滔天。下民其咨有能俾乂」。
・十二牧…書経舜典。「月正元日。舜格于文祖。詢于四岳。闢四門。明四目。達四聰。咨十有二牧曰。食哉惟時。遠柔能邇。惇德允元。而難任人。蠻夷率服」。
・五刑五服…書経舜典。「帝曰、契。百姓不親。五品不遜。汝作司徒。敬敷五教在寬。帝曰、皋陶。蠻夷猾夏。寇賊姦宄。汝作士。五刑有服。五服三就」。

曁乎三王迭興云々。三王。夏殷周なり。三重は三代ともにあり。中庸廿九章にあり。礼のこと、天下の法度のこと、文字のこと云なり。天下に礼が立子ば好次第なことをする。君へ無礼、親へ不孝、兄弟夫婦の中がめっちゃになるそ。法度は、大名は駕篭て白無垢、旗本は馬て浅黄無垢、町人は一本、武家は二本。それが法度なり。文は文字のきまること。此が天下の大切なり。只今はなれて居るゆへに何とも思はぬが、迂斎の、火と云ても吾國では水のことと云、水のことをこちの國では金のことと云、金拾两をこちらては銭百文とよむと云と天下は大乱じゃ。姉妹や妻と云字も國々で違ふと人道は立ぬ。此三重は、堯舜のときても三代のときても皆三重はあれとも一代ましに備たゆへ、跡をふりかへりてみれば伏羲のときとは遙に違ひ、時々てかわる。子丑寅之建正。武王は天下を保って十一月を正月と立て、湯王は十二月を正月と立、禹王は今の正月を用ひた。建は正月を建立した意なれば建すとよむはわるいゆへ、ての点を加へてあるそ。三代の垩人かそれ々々に訳のあることてたてたそ。天は子に開け、地は丑に開け、人は寅に開らく。どちどうしても天地人に本づくことで、此三ヶ月より外には正月はならぬことなり。
【解説】
「曁乎三王迭興、三重既備、子・丑・寅之建正」の説明。礼と法度、文字の三つが天下にとって大切である。「建正」とは正月を建立する意であり、天は子に開け、地は丑に開け、人は寅に開く。天地人に基づくから、この三月より外に正月があってはならない。
【通釈】
「曁乎三王迭興云々」。三王。夏殷周のこと。三重は三代ともにあった。中庸二十九章にある。礼のこと、天下の法度のこと、文字のことを言う。天下に礼が立たなければ好き放題のことをする。君へ無礼、親へ不孝、兄弟夫婦の関係が滅茶苦茶になる。法度は、大名は駕篭で白無垢、旗本は馬で浅黄無垢、町人は刀を一本、武家は二本。それが法度である。文は文字の決まること。これが天下の大切である。只今は慣れているから何とも思わないが、迂斎が、火と言ってもこちらの国では水のことだと言い、水のことをこちらの国では金のことだと言い、金十両をこちらでは銭百文と読むと言えば天下大乱だと言った。姉妹や妻という字も国々で違えば人道は立たない。この三重は、堯舜の時にも三代の時にも皆あったが一代増しに備わったので、跡を振り返って見れば伏羲の時とは遙かに違ったものとなった。時々で変わる。「子丑寅之建正」。武王は天下を保って十一月を正月と立て、湯王は十二月を正月と立て、禹王は今の正月を用いた。建は正月を建立する意なので建すと読むのは悪いから、そこで「て」の点を加えてある。三代の聖人がそれぞれにわけがあって建てたのである。天は子に開け、地は丑に開け、人は寅に開く。どうしても天地人に基づくことで、この三月より外に正月があってはならないのである。
【語釈】
・三王…夏の禹王、殷の湯王、周の文王と武王。
・三重…中庸章句29。「王天下、有三重焉。其寡過矣乎。上焉者、雖善無徴。無徴不信、不信民弗從。下焉者、雖善不尊。不尊不信、不信民弗從」。
・子丑寅之建正…論語為政23集註。「三統、謂夏正建寅爲人統、商正建丑爲地統、周正建子爲天統」。

忠質文之更尚。忠は夏、質は殷、文は周。先夏の世はずんと誠一種でありて、何もかも誠な心から出るで、天下中のことか忠と云一つてすんだ。天下の振合が親と子の愛し合ふ様に心の底から出るやうな誠て、万端誠と云字て片付ひた。又、殷の世の質と云には忠に形のついたことなり。忠を仕巡て質となったと見るはわるい。殷はもう忠はかりては足らぬゆへなり。たとへば夏の忠と云は念頃なものを思ひ出して、久ふ逢ぬ、病氣ではないかと云、はや欠け出して見に、いて庭を掃ているを見て、詞もかけす息才ならよいとて帰る。あからさま、まじりない誠でばかりするを忠と云ふた。又、隣の子の疱瘡をくろふにするに、御見廻申すとて行かすに垣の間から除て遊で居るを見て、さても落付たと悦ふ。其むぞうさの誠か忠じゃか、質と云はもう少々それへかたかつく。彼の見廻に行くに土産ても持て見廻にも行やうになる。周の世の文になりては其上へ見事にあや模様のあるやうに成たなり。殷の世は濱から鯛を、やれ新ひうち持ていけと砂塲へほふり出した侭て持て来たか質なり。それをよう洗ふて苞や篭に入て来たと云を用ず、あたらしいを主にするか質なり。其鯛を、尾を奉書の紙に包て尾と頭とへ糸を引はりりんとさせ、白木の臺へのせる。これか文のもやうて、是て献上道具になりた。祐貞や正宗の銘作へけっこうな鮫をかけ、金目貫と云で歴々の御差料なり。周監二代郁々乎文哉なり。
【解説】
「忠・質・文之更尚」の説明。夏の世は全く誠一種だったので、忠一つで済んだ。殷では、もう忠だけでは足りないので、忠に形が付いて質となった。周の世になると、その上へ見事な綾模様が付いて文となった。それは「周監於二代郁々乎文哉」である。
【通釈】
「忠質文之更尚」。忠は夏、質は殷、文は周。先ず夏の世は全く誠一種であって、何もかも誠な心から出るので、天下中のことが忠という一つで済んだ。天下の成り行きが親と子の愛し合う様に心の底から出る様な誠からで、万端誠という字で片付いた。また、殷の世の質は忠に形の付いたこと。忠を仕舞って質になったと見るのは悪い。殷はもう忠ばかりでは足りないからである。たとえば夏の忠というのは懇ろな者を思い出して、久しく逢わないが病気ではないかと言って直ぐに駆け出して見てみると、そこにいて庭を掃いている。それを見て言葉も掛けずに息災ならよいと思って帰る様なこと。直に混じり気のない誠だけですることを忠と言った。また、隣の子が疱瘡で苦労しているのを見舞いには行かずに垣の間から除き、子が遊んでいるのを見て、本当に落ち着いたと言って悦ぶ。その無造作な誠が忠だが、質はもう少々それに形が付く。見舞いに行くのに土産でも持って行く様になる。周の世の文になると、その上へ見事な綾模様がある様になった。殷の世は、浜から鯛を運んで、さあ新しい内に持って行けと砂場へ放り出されたものを持って来たのが質である。よく洗って苞や篭に入れて持って来たものを用いず、新しいことを主にするのが質である。その鯛を、尾を奉書の紙に包んで尾と頭とへ糸を引っぱり凛とさせ、白木の台へ載せる。これが文の模様で、これで献上道具になった。祐貞や正宗の銘作へ結構な鮫皮を掛け、金目貫を施すので歴々の佩刀になる。これが「周監二代郁々乎文哉」である。
【語釈】
・忠質文…論語為政23集註。「文質、謂夏尚忠、商尚質、周尚文」。
・振合…他との比較または釣合。事のなりゆき。
・苞…わらなどで包んだ品物。つと。あらまき。
・祐貞…長船祐定。
・鮫…鮫皮。刀剣の柄や鞘に用いた。
・目貫…刀剣類の柄にすえる飾り金物。
・周監二代郁々乎文哉…論語八佾14。「子曰、周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周」。

更尚。これは其とき々々て尚をかへることぞ。其れては本を失ふたかと云に、とき々々のもやうのあるものなり。明けに出る日のもようと五つころと昼と夕方とは同し一日の日ても最ふ違。三代の忠質文か此もやうなり。さて、この忠か質になりて忠のなくなるでない。文になりて忠質なくなるてなし。それてはまだと、その上へ々々と文になりたなり。人道備と前の立と云をてり合して見よ。仁義礼智に云分のなくなったか立たのなり。備と云は、其れに装束をして至極の処か備たのなり。天運周矣。天道成地道平を一つにしたことて、周とはここよと云処まて、すっはりと残なく届ひたことなり。周公旦の制作て周禮儀礼も出来、何てもこの上なく仕上り、不娶同姓のことまて行き届きて、三寸の見迯しなくふるひあげたやふにして、此ことはこちてはかかりてないと云ことなくきまった爰を天運とかけたか面白ひ。周矣か人道の備と云は堯舜の世から垩人の制作なれとも、周へ来てへったりとよい処へ届ひて、天かほぎ々々となった。天の氣運か一抔に盛に羽一はいに伸へて、この上なしになったのなり。やっはり日中になりて、これて一はいじゃと日の光りぬいたやふに天運が十分の処へいきわたりたなり。
【解説】
「人道備矣、天運周矣」の説明。忠が質になって忠がなくなったのではなく、文になって忠質がなくなったのでもない。それだけでは足りないので、その上へと重なったのである。「人道備矣」は堯舜の世からあったが、周になってそれが極まり、「天運周矣」となった。
【通釈】
「更尚」。これはその時々で尚ぶものを替えること。それでは本を失うことになるのかと言えば、時々によって模様の違いがあるということ。明けに出る日の模様と五つ頃と昼と夕方とは同じ一日の日でももう違う。三代の忠質文がこの模様である。さて、この忠が質になり、忠がなくなったのではない。文になって忠質がなくなるのでもない。それだけでは足りないので、その上へと重なって文になったのである。「人道備」と前にある「立」とを照り合わせて見なさい。仁義礼智に言い分なく、ぴったりとなったのが立ったということ。備とは、それに装束をした至極の処である。「天運周矣」。「天道成地道平」を一つにしたことで、「周」とは、ここまでという処まですっかりと残りなく届いたこと。周公旦の制作で周礼儀礼もでき、何でもこの上なく仕上がり、「不娶同姓」のことまで行き届いて、三寸の見逃しなく篩い上げた様にして、このことはこちらの関わりではないと言うことなく、極まったここを天運と掛けたのが面白い。周矣を人道の備と言うのは、堯舜の世から聖人が制作したのだが、周へ来てべったりとよい処へ届いて、天がほぎほぎとなった。天の気運が一杯に盛んになり、羽一杯に伸べて、この上なくなったのである。やはり日中になって、これで一杯だと日が光り抜く様に、天運が十分の処へ行き渡った処なのである。
【語釈】
・不娶同姓…礼記曲礼上。「取妻不取同姓」。論語述而30集註に「禮、不娶同姓」とある。

垩王既不復作。是迠は至極のよいことを云て、是からは氣の毒咄なり。春秋を作たか元来目出度ないことて、世の中か宜くない故に作られたか今の世に至りては有難が、其ときには目出度なひことなり。垩王の作らぬて治らぬ。丁ど旦那の見廻らず、奉公人に計かけるやふて天下からりになる。有天下者云々。其時王をさす。天下を保つ御方がどふぞと云心かありて、欲倣古之跡。古のとをりにしたいと思ても出来ぬ。爰へ暴君の桀紂などや幽厲を出さぬが趣向で、悪人を相手にしてすることにあらず。春秋は覇者なとを相手にすることと見よ。武王文王周公の後、周衰へて五伯が起って天下を治めんとはしたれとも、垩人をこひしいと思はぬ人々で、をれかいれは事はかけぬと云心て古の通にして見せふと思ふても、彼大学の序の非後世之所能及で、垩人の治を知らぬ人々なり。
【解説】
「聖王既不復作、有天下者、雖欲倣古之跡」の説明。聖王が世に出ないので、孔子は春秋を作った。「天下者」とは五伯を指して言ったこと。彼等は聖人の治を知らない人々である。
【通釈】
「聖王既不復作」。これまでは至極よいことを言い、これからは気の毒な話となる。春秋を作たのは元来目出度くないことで、世の中が宜しくないので作られたもの。それは今の世に至っては有難いことだが、その時には目出度くないことだった。聖王が出ないので治まらない。丁度旦那が見廻らず、奉公人だけで行う様なことで、それでは天下が台無しになる。「有天下者云々」。これはその時の王を指す。天下を保つ御方がどうか天下を保ちたいとする心で、「欲倣古之跡」。しかし、古の通りにしたいと思ってもできない。爰へ暴君の桀紂などや幽厲を出さないのが趣向で、悪人を相手にしてすることではない。春秋は覇者などを相手にすることだと見なさい。武王や文王、周公の後、周が衰えて五伯が起こって天下を治めようとはしたが、聖人を恋しいと思わない人々だったので、俺がいれば事欠かないという心で古の通りにして見せようと思っても、あの大学の序の「非後世之所能及」である。彼等は聖人の治を知らない人々なのである。
【語釈】
・幽…幽王。周の第12代の王。宣王の子。暗愚な王で、申侯の娘姜氏を妃としたが、褒姒の愛に溺れ、申侯の率いる犬戎の軍に攻められ、驪山の麓で殺された。在位前782~前771
・厲…厲王。周の第10代の王。奢侈を好み、私利を追求する事に熱心。密告制度を設ける。
・五伯…斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王の総称。
・非後世之所能及…大学章句序。「此古昔盛時、所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也」。

亦私意妄爲而已云々。悪筆か筆道を見て、義之かこふ、子昴かどふ、尊圓のはこうと眞似てやって見ても、元と悪筆の私意て骸かゆかぬ。本の政を垩人のするのは治体治法がある。古之欲明々德於天下者と書たは、大学か学問の書と云は、明德を明にするを天下へ出すこと。堯舜三代だたいは天下を治ることて、天下を治んと欲すと書さふなものをそふ書ぬは、天下を治めの本は吾德を明にして、其上て天下の人の明德を明にしてやら子はならぬ。吾德なしに天下をから手で治めんとするのは墨か子曲尺もたぬ大工なり。曲尺も水縄もなく、只小刀てここをそぎ、あそこをきる。根か習のなひて私意妄爲のみになる。
【解説】
「亦私意妄爲而已」の説明。聖人の政には治体と治法がある。天下を治める本は自分の徳を明らかにすることであり、その上で天下の人の明徳を明らかにしてやるのである。自分に徳がなく、それで天下を治めようとするのは、道具を持たない大工と同じである。
【通釈】
「亦私意妄為而已云々」。悪筆が筆道を見て、羲之がこうだ、子昴がどうだ、尊圓のはこうだと真似てやって見ても、元々悪筆の私意なのでうまく手が動かない。聖人が本当の政をするに当たっては治体と治法がある。「古之欲明々徳於天下者」と書き、また、大学が学問の書だと言うのは、明徳を明らかにすることを天下へ出すこと。堯舜三代はそもそも天下を治めることだったのだから、天下を治めんと欲すと書きそうなものをその様に書かなかったのは、天下を治める本は自分の徳を明らかにすることであり、その上で天下の人の明徳を明らかにしてやらなければならないからである。自分に徳がなく、天下を空手で治めようとするのは墨金曲尺を持っていない大工である。曲尺も水縄もなく、ただ小刀でここを削ぎ、あそこを切る。根に習いがないので「私意妄爲而已」になる。
【語釈】
・義之…王羲之。東晋の書家。字は逸少。右軍将軍・会稽内史。
・子昴…陳子昴。初唐の詩人。字は伯玉。四川の人。詩の上で復古を唱え、文もまた時調をしりぞけて素朴。
・尊圓…尊円流。青蓮院流(後の御家流)。和様書道の一派。伏見天皇の皇子青蓮院尊円法親王が創始。
・古之欲明々德於天下者…大学章句1。「古之欲明明德於天下者、先治其國」。

事之繆秦至以建亥爲正云々。秦の事の繆は限りもないことなれとも、大ひことを二つあげて見せた。道之悖と事之繆。事は、一事の上て云。道之悖は、全体て云。建亥爲正するは、秦の始皇かわるいことは限りなけれとも、是を一つ出したが大きなヶ条になるなり。坑儒焚書は暴悪。なにゆへ爰へ出さぬと云ふに、上の私意妄爲を云なり。正月をこうしたのか私意妄爲の至極そ。人の云はぬ左ほど暴逆不仁てもなひことを出してきめるか伊川の見処なり。鄒衍に五德、水火木金土、の説を聞て、周は火德なり。火を消すは水なり。其火德の周に克た秦しゃ。秦は水德じゃとて極隂の十月を正月とした。是て人民の甚難義と云てもないか、道理に悖ると云か大なことなり。天下を持つに是より重ひことはない。春王正月々々々々と春秋に謹んて書てあり。三代に正は三度かわれとも、三度か多いと云てもなく、又、少ひでもない。ああとんと據所なひ。あの外にはならぬことなり。道之悖の先是からか全体なり。秦の正月はあまりたわけたことゆへ、あのときぎりてあったか、道の悖は世々に傳はった。是の悖るは漢から始った。
【解説】
「事之繆、秦以建亥爲正。道之悖」の説明。「事之繆」は一事、「道之悖」は全体を指して言ったこと。「事之繆」の最初は秦で、秦は火徳の周を滅ぼしたので自らを水徳とし、十月を正月とした。
【通釈】
「事之繆秦至以建亥為正云々」。秦の事業の繆りは限りもないが、その中で大きなものを二つ挙げて見せた。「道之悖」と「事之繆」である。事は、一事の上で言う。道之悖は、全体で言う。秦の始皇帝は悪いことを限りなくしたが、「建亥為正」とこれを一つ出したのでこの条が大きな箇条となる。坑儒焚書は暴悪。何故それをここへ出さないのかと言うと、上の「私意妄為」のことを言うためである。正月をこうしたのが私意妄為の至極。人が何も言わないさほど暴逆不仁でもないことを出して決めるのが伊川の見処である。鄒衍から五徳、水火木金土、の説を聞き、周は火徳で火を消すのは水。その火徳の周に勝った秦だから秦は水徳だとして極陰の十月を正月とした。これが人民に対して甚だ難儀なことだということでもないが、道理に悖るということが大きなこと。天下を持つ際にこれより重いことはない。「春王正月」と春秋に謹んで書いてある。三代の間に正は三度替わったが、三度が多いと言うのでもなく、また、少ないというわけでもない。ああ全く拠所ないことで、あの外ではならないことなのである。道之悖は、先ずここから全体の話になる。秦の正月はあまり戯けたことなのであの時だけのことだったが、道之悖は世々に伝わった。この悖るは漢から始まった。
【語釈】
・鄒衍…中国、戦国時代の斉の人。五行相剋説を唱えた。漢代の讖緯説の基礎となる。前305~前240
・春王正月…春秋に多く出ている語。

漢專以智力云々。春秋の乱れ、戦國の騒かしさ、始皇の暴逆を打をとし舞納めたは手抦のあることなれとも、漢で治てから垩賢の道をよこたをしにしたは漢が手始で、仁義礼智をは棚へあげて專智力と云は、そこばかりになったことなり。政は糺すことなれば、義政とも云べきを仁政と云も爲人君止於仁じゃに、然るを智かさま々々の謀こと。知惠て天下をたたきつけた。持の字はほんとふに保たでなく、術て世をたもち、智惠て天下を引張て持ている。譬ば畠へ山案子を立て、鳴子をさけるて鳥か来ぬ。付ひて居るでもなし、よい工面と云もの。そこが知惠なり。人が鳥をばかにしてあのやうなことを拵へるやうに、漢の政かそれて、知惠て天下をぐっとも云はさぬやふにした。百年近くほど立たれば、刑を置くと云ほとに治たか重疂なことなれとも、豈復知先王之道也。
【解説】
「漢專以智力持世」の説明。「道之悖」の最初は漢で、仁政とも言うべき政なのに、漢は仁義礼智を棚へ上げて知力ばかりでそれを行った。漢は術で世を持ち、知恵で天下を引っ張って持ったのである。
【通釈】
「漢専以智力云々」。春秋の乱れや戦国の騒がしさ、始皇帝の暴逆を打ち落として舞納めたのは手柄だが、聖賢の道を横倒しにしたのは漢が手始である。仁義礼智を棚へ上げた。「専智力」と言うのは、知力ばかりになったこと。政は糺すことであって義政とも言うべきものだが、それを仁政と言うのも「為人君止於仁」だからである。しかし、智は様々な謀であり、その知恵で天下を叩き付けた。「持」の字は本当に保ったのではなく、術で世を持ち、知恵で天下を引っ張って持っていること。たとえば畠へ案山子を立て、鳴子を下げるので鳥が来ない。人がついている必要もなく、よい工面というもの。そこが知恵である。人が鳥を馬鹿にしてあの様なものを拵える様に、漢の政も同じで、知恵で天下を何も言わせない様にした。百年近く続き、刑がなくなると言うほどに治まったのは重畳なことだが、「豈復知先王之道也」。
【語釈】
・爲人君止於仁…大学章句3。「爲人君、止於仁、爲人臣、止於敬、爲人子、止於孝、爲人父、止於慈、與國人交、止於信」。

先王の政とは大違なり。知力はきれるもののきくものて、丁と利口なものの金もったやうて、何所ても通用はよいか旨みがなく、どふかつめたく他人根情なり。漢の政かそれて、下をかわいてなく、上手て治たなり。旅篭屋の女の蚊屋や夜着を出すやうて、蚊にくはさぬやうに風引さぬやうにと云心はない。宿屋の役分あるべかかりなり。先王之道は如保赤子て、是ては暑かろ寒かろふと母親が兒を子せつける様に手あてを厚くする。王者も伯者も治めた処は同じやうに見へても、どうも細工でつめたい。其上を張良や陳平のと云知惠者ともか漢高へちょこ々々々ふきこんで、そくらをかった。さりとは手のとどいたことともなり。ただあたたまりがない。上手ごかしをするなり。天運周矣は二帝三王の化にて、周に至て段々とああ成たを漢がらりにして、先王の本との鞘へは治らぬ。
【解説】
「豈復知先王之道也」の説明。漢は民を可愛く思っての政ではなく、細工で民を治めた。それは上手ごかしであって温まりがないものである。
【通釈】
漢は先王の政とは大違いである。知力は切れ者が使うと効くもので、丁度利口な者が金を持った様で、どこでも通用はよいが旨みがなく、どうも冷たくて他人根性である。漢の政がそれで、下が可愛いのではなく、上手で治めたのである。これは、旅籠屋の女が蚊帳や夜着を出す様なもので、蚊に喰われない様に、風を引かさない様にという心はない。宿屋の役分としてそれをするのである。「先王之道」は「如保赤子」で、これでは暑かろう寒かろうと、母親が児を寝かせ付ける様に手当てを厚くする。王者も伯者も治めた処は同じ様に見えても、どうも細工なので冷たい。その上、張良や陳平などという知恵者共が漢高へちょこちょこと吹き込んでけしかけた。全く手の行き届いたことではあるが、ただ温まりがない。上手ごかしをしたのである。「天運周矣」は二帝三王の化で成り、周に至って段々とあの様になったが、それを漢が台無しにしたので、もう先王の本の鞘には納まらなくなった。
【語釈】
・如保赤子…書経康誥。「若有疾、惟民其畢棄咎。若保赤子、惟民其康乂」。孟子滕文公章句上5には「夷子曰、儒者之道、古之人若保赤子、此言何謂也」とある。大学章句9にもある。
・張良…前漢創業の功臣。字は子房。韓の人。~前168
・陳平…前漢の政治家。河南陽武の人。周勃と共に呂氏一族を誅して漢室復興に功があった。~前178
・漢高…漢の高祖。劉邦。前247~前195
・そくらをかった…けしかける。おだてる。煽動する。
・上手ごかし…口のききかたなど如才なく、人のためにするようにみせかけること。おためごかし。

夫子當周之末。たたい孔子は誂い向て云はば天子にもなるはづ。天子にならずとも、伊尹太公の様にも成はづの人なれとも、一生浪人したはわるひ世に出たなり。順天應時之治云々。易の革の卦の文字なり。垩王不作でらりになったゆへ捨て置れぬことなれとも、湯武のやうな君がなひて、放伐の改革する君がない。放伐かあると孔子は伊尹太公のやうになるなれとも、上に湯武のやうな君のないて浪人じゃ。今の学者は人欲が多く、心のきたなさに湯武の放伐は臭ひものに蓋をする様にしてをくは尤なり。いかさま立身かせぎするやうな私欲だらけな者が湯武の噂を云たら、尚覚束なく思はりゃうの、かたんするやうに云はりゃふのと欲の深ひて浮雲かる。伊川なとは少とも私欲の蔽がないゆへ春秋の序に革の卦を引て、武王湯王のやうな垩人かあらば放伐をするてあろふに、それがないと云はるる。此論などは、伊川より外は云へぬ。孔子が門人衆と文行忠信博文約礼で浪人ではござらぬはづなれとも、垩王のなさになり。世界中がまっくらで乱臣賊子。あそこても主弑しよ、爰ても親弑と云をどふも聞て居られぬによって、春秋を作って放伐のかわりをするなり。
【解説】
「夫子當周之末、以聖人不復作也、順天應時之治不復有也」の説明。孔子の時は湯武の様な放伐の改革をする君がいなかった。放伐があれば孔子も伊尹や太公の様になることができるが、上に湯武の様な君がいないので浪人なのである。孔子は放伐の代わりに春秋を作った。
【通釈】
「夫子当周之末」。孔子は本来であれば天子にもなる筈の人。また、天子にならなくとも、伊尹や太公の様にはなる筈の人だが、一生浪人をしたのは悪い世に出たからである。「順天応時之治云々」。易の革卦の文字である。「聖王不作」で台無しになったので捨てては置けないことだが、湯武の様な君がないので放伐の改革をする君がいない。放伐があると孔子は伊尹や太公の様になるが、上に湯武の様な君がいないので浪人なのである。今の学者は人欲が多くて心が汚いので、彼等が湯武の放伐を臭いものに蓋をする様にして置くのは尤もなこと。いかにも立身稼ぎをする様な私欲だらけな者が湯武の噂を言えば、おぼつかなく思われるだろうか、加担する様に言われるだろうかと、欲が深いので浮き足立つ。伊川などは少しも私欲の蔽がないので春秋の序に革の卦を引いて、武王や湯王の様な聖人があれば放伐をするだろうが、それがないと言われた。この論などは、伊川より外は言えない。孔子は門人衆と「文行忠信博文約礼」をした。浪人ではない筈だが、聖王がいないので浪人なのである。世界中が真っ暗で乱臣賊子ばかり。あそこでも主殺し、ここでも親殺しと言うのをどうしても聞いていられないので、春秋を作って放伐の代わりとした。
【語釈】
・順天應…易経革卦彖伝。「天地革而四時成、湯武革命、順乎天而應乎人」。
・文行忠信…論語述而24。「子以四敎、文・行・忠・信」。
・博文約礼…論語雍也25。「子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫」。

放伐は權道、春秋は常道。常道を出すて、乱臣賊子懼。それを懼れさせるは浪人の仕事ではない。天子のなさることぞ。春秋天子之事なり。放伐に継た細工なり。常道てなければ万世の為にならぬ。其常道が学而時習の論語でない。春秋の筆ぞ。其あやを知たは孟子なり。知我者其惟春秋乎罪我者其惟春秋乎と云た。浪人て居て天子のなさるほどのことをした。脇からはいらさることと云はりゃうほどのこと。これが萬世のためなり。只御身の出處進退のことは、委吏や司職吏を勤めて非其位不謀其政と云てだまってござられたが、万世のためにすると云日には、こんなことなり。
【解説】
「於是作春秋」の説明。乱臣賊子が懼れることをするのは天子の領分だが、孔子は春秋を作ってそれを行った。普段孔子は委吏や司職吏を勤めて「非其位不謀其政」と黙っていたが、万世のためには動く。
【通釈】
放伐は権道、春秋は常道。常道を出すので、「乱臣賊子懼」。それを懼れさせるのは浪人の仕事ではなく、天子のなさること。「春秋天子之事也」で、これが放伐に継ぐ方法である。常道でなければ万世のためにはならない。その常道が「学而時習」の論語でなく、春秋の筆である。その綾を知ったのは孟子で、「知我者其惟春秋乎罪我者其惟春秋乎」と言った。浪人でいながら天子のなさるほどのことをした。脇からは不要なことだと言われるほどのことだが、これが万世のためである。ただ御身の出処進退のことは、委吏や司職吏を勤めて「非其位不謀其政」と言って黙っておられたが、万世のためにするという日には、こんなことをする。
【語釈】
・乱臣賊子懼…孟子滕文公章句下9。「孔子成春秋、而亂臣賊子懼」。
・春秋天子之事なり…孟子滕文公章句下9。「世衰道微、邪説暴行有作。臣弑其君者有之。子弑其父者有之。孔子懼作春秋。春秋天子之事也。是故孔子曰、知我者、其惟春秋乎。罪我者、其惟春秋乎」。
・非其位不謀其政…論語泰伯14。「子曰、不在其位、不謀其政」。

百王不易之大法云々。天下の政の作法はこふと大ひことなり。左傳の序に仲尼を素王と云もここのことでなり。平生は謙退なれとも、春秋は天子のことをなされ、伊尹太公の當時にすることを万世へかけて作られたは偖も々々なり。所謂考諸三王而不謬云々。垩人の事業を中庸にかふ云た。考三王。後ろの方をふりかへりて昔を見るに、昔の垩人に少とも違はぬ。不謬なり。建天地は、上は天、下は地と推出して云字なり。質諸鬼神云々。鬼神は幽明の理なり。理なれとも、凡そ此鬼神と名乗るときは肉を付けて云氣味そ。惣体理にそむくとぞっとするやうにこわい。悪人はこわがる。鬼神をこわがる。その鬼神も太極の理で云ことにて、獲罪於天無所禱也。天則理也と理なれば、さび々々とひやして語るなれとも、爰はそふ云はぬも精彩そ。今平人か天道も昭覧。あれか肉へかかりて誓て云ほどのことなり。本と鬼神を云ふは皆このやふに云ことなり。無疑と云も、爰と後ろを見らるることはない。無疑。誠のないことは二の足なものなり。親か子へ喰すは、疑はない。他人の子へは、このやうなものもしあたれはと疑へば二の足がある。これも他人根性なり。
【解説】
「爲百王不易之大法。所謂考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑」の説明。昔の聖人と少しも違わないのが「不繆」である。「鬼神」は幽明の理だが、鬼神と名乗る場合は肉を付けて言うのがよい。「無疑」は誠を持ってためらわないこと。
【通釈】
「百王不易之大法云々」。天下の政の作法はこの様に大きい。左伝の序で仲尼を素王と言うのもこれによってである。平生は謙退だが、春秋は天子のすることをなされたもので、伊尹や太公の当時の様にすることを万世へ掛けて作られたのは流石である。「所謂考諸三王而不謬云々」。聖人の事業を中庸でこの様に言った。「考三王」。後ろの方を振り返って昔を見ると、昔の聖人と少しも違わない。それが不繆である。「建天地」は、上は天、下は地と推し出して言う字。「質諸鬼神云々」。鬼神は幽明の理である。理ではあるが、凡そ鬼神と名乗る時は肉を付けて言う気味がよい。総体、理に背くとぞっとする様に怖い。悪人は怖がる。鬼神を怖がる。その鬼神も太極の理で言うことであって、「獲罪於天無所禱也」。「天則理也」の理なのだから、寂々と冷やして語るものなのだが、ここはその様に言わなくても精彩が出ている。今平人が天道も照覧と言うが、あれが肉へ掛かって誓って言うほどのこと。元々、鬼神を言う場合は皆この様に言った。「無疑」は、後ろを見ることがないこと。無疑。誠がなければ、ためらいがあるもの。親が子を喰わすのに疑いはない。他人の子へは、この様なものを与えて大丈夫だろうかと疑いが出てためらう。これも他人根性である。
【語釈】
・考諸三王而不謬…中庸章句29。「考諸三王而不繆。建諸天地而不悖。質諸鬼神而無疑。百世以俟聖人而不惑。質鬼神而無疑、知天也。百世以俟聖人而不惑、知人也」。
・獲罪於天無所禱也…論語八佾13。「孫賈問曰、與其媚於奧、寧媚於竈。何謂也。子曰、不然。獲罪於天、無所禱也」。
・昭覧…あきらかに見ること。神仏がごらんになること。

百世以俟垩人云々。垩人か出まいものでもない。前垩後世其揆一也て、孔子が湯武の跡へ出て、湯武をわるいと云はず。放伐の請人にはなられぬと云ぬが証拠なり。丁ど其如く、孔子のあとへ孔子の様な垩人出らるる。春秋なるほどと云。不惑は心使ひはなく、誰も何とも云はぬ。何とかと云ふと思ふはかいないゆへなり。分ん廻しで丸を書様に云分はなし。あとからたれぞ批点を打ふかと氣づかわぬ。指て書た丸は心つかいあり。又、秤て匁をかけたで不惑なり。もふ一篇と云ことはなし。孔子か尤と云た此上へ垩人が出やふか誰そか何とも云かと云心つかいはなく、跡先き見ることはなひと伊川の春秋を見たは大ひ眼なり。
【解説】
「百世以俟聖人而不惑者也」の説明。孔子は湯武の放伐を非としなかった。それと同様に、孔子の後に聖人が出られても、春秋はなるほどのものだと言うだろう。「不惑」は心使いをすることがなく、言い分のないこと。
【通釈】
「百世以俟聖人云々」。聖人が出ないとも言えない。「前聖後世其揆一也」で、孔子は湯武の後に出て、湯武を悪かったとは言わない。放伐の請人にはなれないと言わなかったのがその証拠である。丁度その様に、孔子の後に孔子の様な聖人が出られても、春秋はなるほどのものだと言う。「不惑」は心使いがなく、誰も何とも言わないこと。何か言おうと思うのは甲斐がないからである。規で丸を書く様で、言い分はない。誰かが後で批点を打つだろうかなどという気遣いはない。指で書いた丸には心遣いがある。また、秤で匁を架けるので不惑なのである。もう一篇欲しいと言うことはない。孔子が尤もだと言った上に、聖人が出たとしても、誰かが何か言うだろうかという心遣いはなく、それを心配することはないと、伊川がこの様に春秋を見たのは大きな眼力である。
【語釈】
・前垩後世其揆一也…孟子離婁章句下1。「孟子曰、舜生於諸馮、遷於負夏、卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周、卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也、千有餘里。世之相後也、千有餘歳。得志行乎中國、若合符節。先聖後聖、其揆一也」。

先儒之傳曰游夏云々。左傳正義にある字なり。史記にもとづく。さていやはや及もないことと云は伊川の爰等の見やふなり。情ないもので、二三日かかって考へつけることもあろふが、何日かかっても根の違たことは考つけられぬ。爰等は、見処かやかて孔子ほとになら子は考へつけられぬことぞ。春秋は左氏傳公羊傳穀梁傳。左傳には杜豫が註の中にも説とももあり、杜豫は一生かかったが、伊川ほどの様な、こんなことは知らぬ。此様な発明は似たこともない。爰を顔子とかけたか及もなひことなり。文字には子游子夏とあれは、春秋作るにはそれと云て手傳せそふなものなるに、春秋のことについては不能賛一辞。游夏か手は出されなんたと云ふたか辞はたすけぬ筈のことてあり、却て易の十翼なとなら賛けられもせふが、春秋は魯の日記なれは辞の上はいかにももとのなりを書き出されたからは不待賛はづじゃは知れてある。
【解説】
「先儒之傳曰、游・夏不能贊一辭。辭不待贊也。言不能與於斯耳」の説明。文字には子游と子夏が優れていたが、春秋には彼等も「不能賛一辞」であり、顔子のみがこれを聞いたと言うのが伊川の優れた見所である。また、そもそも春秋は魯の日記だから、賛けないのが当然のことなのである。
【通釈】
「先儒之伝曰游夏云々」。左伝正義にある字で史記に基づいたもの。さてもいやはや及びもないことと言うのは伊川のここ等の見方を指す。二三日掛かって考え付くこともあるだろうが、情けないもので、根本が違っていれば何日掛かっても考え付くことはできない。ここ等のことは、見処がやがて孔子ほどにならなければ考え付けないこと。春秋は左氏伝、公羊伝、穀梁伝である。左伝では、杜豫が作った註の中にも説が色々とあるが、杜豫はそれに一生掛かったが、伊川言った様なことは知らなかった。また、この様な発明に似たこともない。ここを顔子と掛けたのが及びもないこと。文字では子游と子夏とあれば、春秋を作るに当たっては、それと言って手伝わせそうなものなのに、春秋のことについては「不能賛一辞」。游夏は手を出されなかったと言ったが、辞は賛けない筈のことであって、却って易の十翼などなら賛けられもしようが、春秋は魯の日記なので、辞の上にはいかにも元の通りを書き出されたのだから、不待賛の筈なのは知れたこと。
【語釈】
・先儒之傳曰…史記孔子世家。「孔子在位聽訟、文辭有可與人共者、弗獨有也。至於爲春秋、筆則筆、削則削、子夏之徒不能贊一辭」。
・杜豫…晋の人。字は元凱。諡は成。用兵に優れ、杜征南とも呼ばれる。「左伝経伝集解」を著す。
・文字には子游子夏…論語先進2。「德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。

するに、不能賛一辞と先儒の云たはどふなれば、言不能與於斯耳。ここは至極の上にあることて、筆を揮ふて書ことてなく、記録の中を秡出した迠て、そこに思召のあることなれは、游夏のにはとふも胷か知れぬ。そこへつら出しが得ならす、次へさがりて多葉粉を吸ふているのなり。先儒がそこを云たと云こと。先儒を批したではなし。茶人か利休の前ても茶は誰も立るか、とふも與られぬことかある。春秋は何月何日何のことありとのみて、其れに孔子の全体の思召あやのあることなれとも、外からは知れぬ。何をなさるるやらと思ふ。利休の献立か常の料理人のにはどふも知れぬ。
【解説】
利休の献立を並の料理人がわからない様に、游夏などには春秋の意味がわからないから、「不能賛一辞」なのである。
【通釈】
そこで、「不能賛一辞」と先儒が言ったのはどうしたことかと言うと、「言不能与於斯耳」。ここは至極の上にあることで、筆を揮って書くことでなく、記録の中を抜き出すまでのこと。そこに思し召しがあるのだが、游夏などの者にはどうも意味がわからない。そこへ顔出しすることがならず、次へ下がって煙草を吸っている。先儒はそのことを言ったのであって、批判したわけではない。茶人であれば、誰もが利休の前でも茶を立てられるが、どうも与れないことがある。春秋は何月何日何の事有りと言うのみで、それに孔子全体の思し召しの綾があるのだが、外の者には知れない。何をなされるのやらと思う。利休の献立が並の料理人にはどうもわからない。

斯道也惟顔子云々。ここを見て取たが伊川なり。丁度知易者無如於孟子と同じことて、孟子に易は云はぬか知たと見たが眼なり。春秋は孔子の晩年獲麟にをこり、御死去の二年前に出来た。文會にも云通、顔子のときに春秋沙汰はなく其以前とふに顔子は死れたに、是を知れたと見て取たぞ。游夏は筆取の得手ゆへ春秋らしく、顔子はそふないやうなれとも、とふに知たと云は伊川の眼なり。なせなれば、春秋天子之事也と孟子にあり、是に四代の礼樂をひいて、孟子を根にして論語て云たのなり。四代の礼樂は孔顔の天下を治るの体制なり。顔子は簞瓢陋巷なれとも王佐の才とありて、季氏が処などへは入ぬ人ぞ。邦の政を問たに天下のことを以て告けた。いや、私儀は國のことでごさると云ず、顔子も亦のろりと聞れた。知た同士は涼ひかここなり。呑人が呑人ゆへ、直に大盃を出された。先つ此殷の車の、周の冠の、舜の舞のと云。打て違たことを春秋と見るか伊川の眼力で、即天子之事なりを云そ。
【解説】
「斯道也、惟顏子嘗聞之矣」の説明。孟子は「春秋天子之事也」と言った。顔子は春秋ができる前には死んでいたが、顔子には王佐の才があったので、孔子も彼には天下の事を告げたのである。孟子の天子之事と論語の四代の礼楽で春秋を説くのが伊川の着眼である。
【通釈】
「斯道也惟顔子云々」。ここを見て取ったのが伊川である。丁度、「知易者無如於孟子」と同じことで、孟子は易を言わないが易を知っていたと見るのが着眼である。春秋は孔子の晩年の獲麟に起こり、御死去の二年前にできた。文会にも言う通り、顔子の時に春秋沙汰はなく、それよりかなり前に顔子は死なれたが、これを知られたと見て取った。游夏は筆を執るのが得手なので春秋らしく、顔子はそうでない様だが、既に知っていたと言うのが伊川の眼である。それは何故かと言うと、「春秋天子之事也」と孟子にあり、これに四代の礼楽を引き、孟子を根にして論語で言ったからである。四代の礼楽は孔顔の天下を治める体制である。顔子は簞瓢陋巷だが王佐の才があり、季氏の処などへは入らない人である。邦の政を問うと天下の事で告げた。いや、私儀は邦のことですと言わずに、顔子もまたのろりと聞かれた。知った同士は涼しいと言うのがここのこと。飲み手が飲み手なので、直に大盃を出された。先ずは殷の車、周の冠、舜の舞と言った。打って違ったことを春秋と見るのが伊川の眼力で、それは即、「天子之事也」を言ったこと。
【語釈】
・知易者無如於孟子…孟子序説。「程子曰、孟子曰、可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速。孔子聖之時者也。故知易者莫如孟子」。
・獲麟…「西狩獲麟」。
・簞瓢陋巷…論語雍也9。「子曰、賢哉囘也。一簞食、一瓢飮、在陋巷。人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉囘也」。
・王佐の才…論語衛霊公10集註。「顏子王佐之才。故問治天下之道。曰爲邦者、謙辭」。
・邦の政を問た…論語衛霊公10。「顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅、服周之冕、樂則韶舞。放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆」。

行夏之時。正月は、夏の世の寅の正が天地あらんかぎりよいそ。孔子の四代をよりどりになされた。乘殷之輅。車は丈夫が第一なり。殷の世の車はいこう丈夫てあった。車はもやうはいらぬそ。丈夫をとりえにせよ。これてみれば、孔子か日本へ来られたらば、武器も手強がよいと云。金目貫はいらぬ。銅ても丈夫にせよと云をふ。常々は吾從周と公儀次第と仰せらるるなれとも、すわ改めると云段なれはこふぞ、と。服周之冕。冠は周の立派なかよい、と。孔子は何事も吾從先進。質がよいと常々仰せらるるが、まつ人は天地人三才と云て、天地に幷ふは人なりなり。その人と云ものの一ち上にをくものなれは、冠は花美がよいとなり。禽獣にさへ色々の見ことな毛色とさかがある。人の冠はかさりのあるてよい、と。これ垩人の思召に一方付たことはなひぞ。樂則韶舞の樂のことは、論語にも盡善矣盡美也とあり。
【解説】
「行夏之時、乘殷之輅、服周之冕。樂則韶舞」の説明。孔子はいつも「吾従周」と言っていたが、正月は夏の寅の正、車は殷の丈夫なものがよいと言う。また、人の冠は飾りがあるのがよいとして「服周之冕」と言い、楽は善美を尽くした韶舞がよいと言う。
【通釈】
「行夏之時」。正月は、夏の世の寅の正が天地あらん限りよい。孔子が四代を選り取りになされた。「乗殷之輅」。車は丈夫が第一。殷の世の車は大層丈夫だった。車に模様は要らない。丈夫を取柄にしなさい。これで見れば、孔子が日本へ来られたならば、武器も手強いのがよいと言う。金目貫は要らない。銅でも良いから丈夫にしなさいと言うだろう。常々は「吾従周」と、公儀次第と仰せられるが、改めるという段になれはこの様だと言う。「服周之冕」。冠は周の立派なものがよいと言う。孔子は何事も「吾従先進」。質がよいと常々仰せられるが、先ず人は天地人三才と言い、天地に並ぶのは人である。その人というものの一番上に置くものなのだから、冠は華美なものがよいと言う。禽獣にさえ色々と見事な毛色や鶏冠がある。人の冠は飾りがあるのでよいと言う。聖人の思し召しに偏ったことはない。「楽則韶舞」の楽のことは、論語にも「尽善矣尽美也」とある。
【語釈】
・吾從周…論語八佾14。「子曰、周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周」。
・吾從先進…論語先進1。「子曰、先進於禮樂、野人也。後進於禮樂、君子也。如用之、則吾從先進」。
・盡善矣盡美也…論語八佾25。「子謂韶、盡美矣。又盡善也。謂武、盡美矣。未盡善也」。

此其準的也。孔子の春秋を作たかやはりこのことなりと、ここがあてどになると云こと。それは春秋にはないことと云をふか、孔子が天下を治るとこの通りになさるとなり。其思召は春秋の業なり。孔子は天下を治めぬ名代に春秋を作られた。後世以史視春秋。史記左傳と幷ぶやうにをもふて太平記を見る心で見る。孔子の思召の大切あることを知らぬ。しばらく御免と云て天下のことをかかれた。太平記の評を書たとて、吾を罪するとは云まいそ。天子のかわりをつとめられた心で罪我と云へり。さて、其史となして見る者の上で謂褒善貶悪而已のことと見て善と云へは弥平兵衛か、悪と云と長田と云位のことと知るのみて、其れは辻講釈もしっているに、孔子の筆をとったあの事業の至於經世之大法則不知なり。あの春秋の時のことでこそあると見て万世之大法と云を知ぬと、晋書や漢書と一つにして、天下を治る書になるを知らぬ。朱子の綱目か春秋の筆についたことで、經世之大法て書たものぞ。
【解説】
「此其準的也。後世以史視春秋、謂褒善貶惡而已。至於經世之大法、則不知也」の説明。天下を治めるには三代を基準にすると孔子は言う。しかし、後世では春秋を史記や左伝と並ぶ様に思い、太平記を見る様な心で見ている。彼等は春秋を「褒善貶悪」としか見ず、これが「至経世之大法」であることを知らない。
【通釈】
「此其準的也」。孔子が春秋を作ったのがやはりこのためで、ここが目当てになるということ。それは春秋にはないことだと言われようが、孔子が天下を治めるとこの通りになさると言う。その思し召しは春秋の業である。孔子は天下を治めなかったが、その代わりに春秋を作られた。「後世以史視春秋」。史記左伝と並ぶ様に思い、太平記を見る様な心で見るだけで、孔子の大切な思し召しがあることを知らない。暫く御免と言って、孔子は天下の事を書かれた。太平記の評を書いたとしても、我を罪するとは言わないだろう。天子の代わりを務められる心で「罪我」と言った。さて、春秋を史と見なす者の上ではこれを「謂褒善貶悪而已」と見て、善と言えば弥平兵衛、悪と言えば長田と言う位のことと知るのみで、それは辻講釈でも知っているが、孔子の筆を執ったあの事業の「至於経世之大法則不知」である。あの春秋の時ならではのことだと見て万世の大法であることを知らないのは、晋書や漢書と一緒にして、これが天下を治める書になることを知らないのである。朱子の綱目は春秋の筆に由ったもので、経世の大法で書いたものである。
【語釈】
・弥平兵衛…弥平兵衛宗清。尾張国を賜った平頼盛は、部下の弥平兵衛宗清を名代として派遣。青墓宿に到着したとき、頼朝が隠れていることを聞きつけ捕縛する。
・長田…長田庄司忠致。平治の乱(1159)で一敗地にまみれた源氏の総大将義朝が長田を頼ったが、逆に長田に謀殺される。

春秋大義數十。葉解大概よい。尊君而卑臣貴仁義而賤詐力内中國而外夷狄。此六つを出してある。これを廣けて小割すると動かぬ処が十あると見ることなり。雖大炳如日星。たしかに見よいこと故大義ても知れよいか、惟其微辞隠義。一寸書れた詞の中に隠微かありて、少の処に何やら思召ありて、書れたことは孔子と同腹中な程でなければ知れず、どふも伺はれぬ。隠微は子が親のことても知れにくい。今日は行ぬかよいと云。皆か行くになぜそふ云やら心か知れぬなり。医者か病人を見て、隨分あまりのことには見へ子とも、私はとて請取ぬ。そこを見て云か醫者の心。たたの人はしれぬ。大義は間違はなけれとも、隠微はこんなものであろふと伺はれぬ。
【解説】
「春秋大義數十。其義雖大、炳如日星、乃易見也。惟其微辭隱義」の説明。春秋には大義が数十あり、それ等ははっきりと見易いが、一寸書かれた詞の中に隠微があって、これは孔子に匹敵するほどの者でなければわからないことである。
【通釈】
「春秋大義数十」。葉解が大概よい。「尊君而卑臣貴仁義而賎詐力内中国而外夷狄」。この六つを出してある。これを広げて小割にすると動かない処が数十あると見ること。「雖大炳如日星」。確かに見よいことなので大義でもわかり易いが、「惟其微辞隠義」。一寸書かれた詞の中に隠微があり、僅かな処に何やら思し召しがあるので、孔子と同腹中なほどの者でなければ書かれたことがわからず、どうも窺うことができない。隠微とは、子でも親のことを知り難いということ。今日は行かない方がよいと言う。皆が行くのに何故そう言うのか、その心を知ることができない。医者が病人を見て、それほど酷くは見えないが、私は請け合わないと言う。そこを見て言うのが医者の心。普通の人にはわからない。大義は間違えはないが、隠微は、こんなものだろうとは窺えないものである。
【語釈】
・尊君而卑臣貴仁義而賤詐力内中國而外夷狄…

時措從宜者云々。春秋の本文は魯の日記なり。春秋の文面では只能いわるいを云ずに書てあるか、これて丁どよいかわるいかと時日を考合て、そこて是は尤と見へる。易は吉也凶也て知れるか春秋は爲難知なり。今日記をして置にも、去年も旱損、又當年も續て旱魃と書てあるに、そこへ立派な家を建たとある。これで普請したは不埒とはっきりと知るるが、そふ見へぬことがありて、此はどふ云訳でかと、どふも伺ひにくい所ある。伊川は、隠微は知りかたしとはよく云たことなり。胡氏傳なとの実にわるいと云ふも、孔子の意を知って書たでもあろふが、たしかに證拠ないことを理づめに云ひ過るゆへ作説あり。朱子は世を治める大法の見易ひ処から通鑑綱目を作られて春秋についで、さて、春秋の書には手はつけられぬ。なせなれば、難知とする処てめったに思召かさっしられぬて春秋に注をせぬ。通鑑綱目は炳如日星の綱目は作たなれとも、直に春秋の注と云はせぬ。皆が春秋に手をつけるか、をっと持てこいとは云はぬ。能ある鷹は爪をかくすなり。
【解説】
「時措從宜者、爲難知也」の説明。易は吉凶で直ぐにわかるが、春秋は隠微なところがあって「為難知」である。そこで朱子も通鑑綱目は作ったが、春秋には手を付けなかった。
【通釈】
「時措従宜者云々」。春秋の本文は魯の日記である。春秋の文面は、善悪を言わずにただ書いてあるが、これで善いか悪いかと時日を考え合わせると、そこで丁度これは尤もなことだわかる。易は吉也凶也でわかるが春秋は「為難知」である。今、日記をして置くにも、去年も旱損、また当年も続いて旱魃と書いてあるのに、そこへ立派な家を建てたとある。この様な時に普請をしたのは不埒なことだとはっきりとわかるが、その様に見えないことがあって、これはどういうわけなのかと、どうも窺い難い所がある。隠微は知り難しとは、伊川もうまく言ったもの。胡氏伝などが実に悪いと言うのも、孔子の意を知って書いたのだろうが、確かな証拠もないことを理詰めに言い過ぎ、作説がある。朱子は世を治める大法の見易い処から通鑑綱目を作られて春秋に継いだが、さて、春秋の書に手は付けられない。それは何故かと言うと、難知とする処で滅多に思し召しを察することができないので春秋に注をしなかった。通鑑綱目では炳如日星の綱目は作ったが、それを直に春秋の注とは言わない。皆が春秋に手を付けるが、それを持って来いとは言わない。能ある鷹は爪を隠すである。

或抑或縦或與或奪。葉解がよう云てあり。或抑は其内で云はば十分な手抦もほめずに抑へてをく。誉そふなをほめぬ。頼朝か手抦あれとも、あの手抦を誉めず、やはり抑るか春秋の心なり。縦は又罪あるものなれとも、甚其れを憎まぬ。不埒はしたれとも、親の為めの不埒と云へば外のこととは違ひ、ゆるすことそ。俗人は首をきるほとのことであろふと思ふにゆるすのも、やはり論語の見過知仁の類なり。難有思召ぞ。刑の意も二典三謨のなりぞ。これ、春秋の三王に考へるのぞ。與は、功は十分でなくても功とあたへ誉る。孔明や楠は本望は届ぬなれとも、あれては功を與ふ。成敗利頓に抱はらぬか垩人の意ぞ。豫譲はかへり打に逢ふても、あれが手抦ぞ。奪は、罪は其やふでもなけれとも、やがて事を成そふとし、捨てをくとこうなると云が奪なり。爰らは垩人の仁から出る義て、丁ど親が子を勘當するを、脇からはまた其れに及ひそもないと思ふに、挌段の親は目が利ひて、勘當したてあいつも刑をのがれ難義せぬと云ことあり。垩人はなさけないやうな慈悲ある。ちらりとみらるる。そこををそく見とるか俗人。名医は、あいつ床につくともふいかぬととっくに見ておる。奪と云は油断ならぬやつと功をもとりあげぬ。はたらきだてをしても請取ぬ。
【解説】
「或抑或縦、或與或奪」の説明。「或抑」とは、十分な手柄でも誉めずに抑えて置くこと。「縦」とは、罪のある者でも甚だしくはそれを憎まないこと。「与」とは、功は十分でなくても功があったと与えて誉めること。「奪」は、放って置くと悪くなるので、功があっても採り上げないこと。聖人はちらっとしたところでそれを見る。
【通釈】
「或抑或縦或与或奪」。葉解がうまく言っている。「或抑」とは、十分な手柄でも誉めずに抑えて置くこと。誉めそうなことを誉めない。頼朝は手柄があっても、その手柄を誉めず、やはり抑えるのが春秋の心である。「縦」はまた、罪のある者でも甚だしくはそれを憎まないこと。不埒なことはしたが親のための不埒だと言えば、外のこととは違って赦すもの。俗人は首を切るほどのことだと思うが、それを赦すのもやはり論語の「見過知仁」の類であって、有難い思し召しである。刑の意も二典三謨の通りである。これは春秋の三王になぞって考えること。「与」は、功は十分でなくても功があったと与えて誉めること。孔明や楠は本望は届かなかったが、あれなら功を与える。成敗利鈍に拘らないのが聖人の意である。豫譲は返り討ちに逢っても、それが手柄である。「奪」は、罪はそれほどでもないが、やがて事を成そうとするので捨てて置くとこうなるという時が奪である。ここ等は聖人の仁から出る義で、丁度親が子を勘当するのを、脇からはまだそれには及びそうもないことだと思っても、親は格段の目が利いて、勘当したのであいつも刑を逃れて難儀もしないと言うことがある。聖人には情けない様な慈悲がある。聖人はちらりと見られる。そこを遅くなって見取るのが俗人。名医は、あいつは床につくともう駄目だととっくに見ている。奪とは、油断のならない奴と功をも採り上げないこと。働きはあってもそれは請け取らない。
【語釈】
・見過知仁…論語里仁7。「子曰、人之過也、各於其黨。觀過斯知仁矣」。
・成敗利頓…後出師之表。「至於成敗利鈍非臣之明所能逆覩也」。
・豫譲…紀元前五世紀、中国戦国時代の晋の人。仕えていた智伯が趙襄子に殺されたので主人の復讐を謀るが、一度は捕らえられ、釈放される。その後、体に漆を塗り、癩病のふりをし、墨を飲んで声を失い、乞食に身をやつして仇討ちをするが失敗して果てる。

進は輕ひ身分ても進め、退は重ひ人ても頭をさけさすることあり。中間足輕にもけなげなは進める。代々家老でもあさまにする。をそろしきことなり。微顕は手もなく見安く云たこともあり、又、中へ這入て吟味せ子ば知れぬこともあり、そこが孔子の思召の処ぞ。譬ば莒人滅鄶と云を軍のことかと思ふに、中をあけて見れば養子のあやて、莒から鄶へ養子をやりて、鄶の姓はいつか滅ひて莒の姓に成て居たことなり。許世子弑其父。此世子はかわいそふに孝行ものてあったが、藥の不吟味て親御の死れたを、罪を正してきびしく弑すと書れたが春秋の文法なり。晋趙盾を弑其君。これも趙盾が從弟が弑たことなれとも、趙盾か上郷てありて見のがしたを云。天王狩河陽。天子が晋の文公に呼つけられたと云を忌んで、鷹野にござったと書れた。此筋などが皆微で、さて々々かきりもない孔子の思召あることなり。そこのあらましを伊川のここに挙げて示された。
【解説】
「或進或退、或微或顯」の説明。春秋には進退微顕がある。微は、中へ這い入って吟味しなければわからないが、そこには孔子の思し召しがある。
【通釈】
「進」では軽い身分でも進め、「退」では重い人でも頭を下げさせることがある。中間や足軽でも勇ましい者は進めて、代々の家老でも悪し様にする。それは恐ろしいことである。「微顕」は、簡単に見易く言うこともあり、また、中へ這い入って吟味しなければわからないこともあり、そこが孔子の思し召しの処である。たとえば「莒人滅鄫」は軍のことかと思うと、中を開けて見れば養子の綾のことで、莒から鄫へ養子を遣って、鄫の姓はいつか滅んで莒の姓になっていたこと。「許世子弑其父」。この世子は可哀相に孝行者だったが、薬の不吟味で親御が死なれたのを、罪を正して厳しく弑すと書かれたのが春秋の文法である。「晋趙盾弑其君」。これも趙盾の従弟が弑したことだが、趙盾が上卿であって見逃したことを言う。「天王狩河陽」。天子が晋の文公に呼びつけられたことを忌んで、鷹野におられたと書かれた。この筋などが皆微で、実に限りもない孔子の思し召しがあること。そこの概略を伊川がここに挙げて示された。
【語釈】
・莒人滅鄶…春秋左氏伝。襄公6年。「莒人滅鄫」。
・許世子弑其父…春秋。昭公19年。「夏五月戊辰、許世子止弑其君買」。
・晋趙盾を弑其君…春秋。宣公2年。「秋九月乙丑、趙盾弑其君夷皋」。夷皋は霊公(晋)。
・天王狩河陽…春秋。僖公28年。「冬。公會晉侯、宋公、蔡侯、鄭伯、陳子、莒子、邾子、秦人于温。天王狩于河陽。壬申、公朝于王所」。

義理之安。これが道理の爛熟でなければ出来ぬこと。安と云は、今道理をするとても一通ばかりで一行一節のことをするは齒ぎしりかむやうで、安とは云はれず。東漢の名節がたのもしいものて、りきんで騒では見たがどうも義理之安にならぬ。屈原が汨羅も中庸てはない。白刃可蹈也中庸不可能也で春秋のか子に合ぬ。義理の安とは道理の至善の処へとっくと落付た処を云。垩人の春秋の名教が中庸の心法の甘みに叶ふと見たものは伊川なり。文質之中。先つ魯君の普請のことて云はは、丹桓宮楹と云ことのあるも、あれに思召あることそ。又は國々の諸侯からの使者をとりあつかふことや、旅館料理音樂進物の上まで様々のことに文質のほとあることを云。九十九里の舟人が何ほど質扑てよいとても、裸でするやふな躰のことか大名の屋形へ出さるることにあらず。又、文過るとめったにをごる。直方の、椽の下迠上手鋸[しこ]でかけるには及はぬこと、と。何にも之中と云ありて、文質丁どに往なり。
【解説】
「而得乎義理之安、文質之中」の説明。「義理之安」とは、道理の至善へとっくりと落ち付いた処を言う。また、質朴過ぎては公の場に出せず、文過ぎると驕る。「文質之中」でなければならない。
【通釈】
「義理之安」。これが道理が爛熟していなければできないこと。「安」は、今道理をするとしても、一通りで一行一節のことをするのでは歯ぎしり噛む様で安とは言えない。東漢の名節が頼もしいものだが、力んで騒いではみたがどうも義理之安にならない。屈原が汨羅に身を投じたのも中庸ではない。「白刃可踏也中庸不可能也」で春秋に兼ね合わない。義理の安とは道理の至善の処へとっくりと落ち付いた処を言う。聖人の春秋の名教が中庸の心法の甘みに叶うと見た者は伊川である。「文質之中」。先ず魯君の普請のことで言えば、「丹桓宮楹」とあるのも、あれに思し召しのあること。また、国々の諸侯からの使者を取り扱うことや旅館料理音楽進物の上まで様々なことに文質のほどがあることを文質の中と言う。九十九里の舟人が何ほど質朴でよいとしても、裸でする様なことは大名の屋形へ出せるものではない。また、文過ぎると滅多矢鱈に驕る。直方が、縁の下まで上手鋸を使うには及ばないと言った。何にも「之中」ということがあって、文質丁度に往く。
【語釈】
・東漢の名節…宋代に劉安節の名節などが出た。西漢の士は義を好まず、名節を挺ずる者少なく、東漢の士は義を尚び名節を挺ずる者が多い。東漢は後漢。西漢は前漢。
・白刃可蹈也中庸不可能也…中庸章句9。「子曰、天下國家可均也。爵祿可辭也。白刃可蹈也。中庸不可能也」。
・丹桓宮楹…春秋。荘公23年。「秋、丹桓宮楹」。

寛猛之宜。政は寛と仁とにして、百姓なとにはそふしたこともあろふ々々々と胷をひろくすることあれとも、寛すぎると漢の武帝か喪を短くしたやふなものになる。下のものが鳴物停止か永くてはこまるで有ふと、天子は七月にして葬すを七日にした。あまりなことを仕出された。いこう賢君てありたが以の外なことぞ。寛過ると天下はらりになる。天下を冨士の山形りにするの、乗り掛合羽のやふにするかよいとは云が、然し折々猛かなくてはならぬ。甘いもの食はせると、子とも疳をやむそ。さて、寛猛の字は家語にもあり、とかく鄭の子産が出處と見よ。子産は國政を嚴にしたわけあることなり。名を好むものは猫撫声てかかる。此が他人根性なり。民を嚴にするは吾子を取立てやうとて。しをきするときは母をやさへあざのつくほどつめることもあり。ほんに下ををもへばきびしくせ子ばならぬ。結搆な御役人と愛敬されたがるは人欲なり。百姓惰農になると昼寢はかりしたかる。此れか過ると博奕打になり、それからは盗人にもなる。よって子産は嚴に政をした。子産が跡を余向叔かした。子産が死ぬときに向叔が國政のことを問たに、猛がよいと云たを向叔が寛にしたれば國中が盗人だらけになりて大こまりをした。これ、甘物をくはせたゆへなり。是を孔子の聞れて、子産は古之遺愛なりと云れた。論語に惠人と云たもここなり。愛の惠のと云が猛からなり。朱子の經傳通解は通鑑と幷ふ書なるに、末に古之遺愛なりを巻尾に書たは朱子の思召あることなり。寛猛之中から出た。
【解説】
「寛猛之宜」の説明。「寛猛」は家語にもある字で、鄭の子産が出處である。子産は厳に政をしたが、それは民を思ってのことである。そこで孔子は子産のことを「古之遺愛」とも「恵人」とも言ったのである。
【通釈】
「寛猛之宜」。政は寛と仁とで行い、百姓などにはそうしたこともあるだろうなどと胸を広くすることがあるが、寛過ぎると漢の武帝が喪を短くした様なものになる。下の者が鳴物停止が永くては困るだろうと、天子は七月にして葬すところを七日にした。あまりなことをされた。大層な賢君だったが以の外のこと。寛過ぎると天下は台無しになる。天下を富士の山の形にするとか、乗り掛合羽の様にするのがよいとは言うが、しかし、折々猛がなくてはならない。甘いものを食わせると子供は疳を病む。さて、寛猛の字は家語にもあり、先ずは鄭の子産が出処だと見なさい。子産は国政を厳にしたが、それにはわけのあること。名を好む者は猫撫で声で掛かる。これが他人根性である。民を厳にするのは我が子を取り立てようとするのと同じで、仕置きをする時には、母親さえも痣の付くほど詰めることがある。本当に下を思えば厳しくしなければならない。結構な御役人だと愛敬されたがるのは人欲である。百姓が惰農になると昼寝ばかりをしたがる。これが過ぎると博奕打ちになり、それからは盗人にもなる。そこで子産は厳に政をした。子産の後を余向叔が行った。子産が死ぬ時に向叔が国政のことを問うと、猛がよいと子産が言ったのに、向叔が寛にしたので国中が盗人だらけになって大困りとなった。これは甘物を食わせたからである。これを孔子が聞かれて、子産のことを「古之遺愛」と言われた。論語に「恵人」と言ったのもここのこと。愛や恵というのは猛から出る。朱子の経伝通解は通鑑と並ぶ書だが、古之遺愛を巻尾に書いたのが朱子の思し召しのあることで、寛猛の中から出た語である。
【語釈】
・鳴物停止…大葬・国葬の際などに、楽器の演奏を禁止すること。
・天子は七月にして葬す…春秋。隠公元年。「天子七月而葬」。
・乗り掛…①中世・近世、宿駅の駄馬一頭に人が一人乗り、二十貫目の荷物をつけて運んだこと。②乗掛馬の略。
・家語…「鄭子産有疾。謂子太叔曰、我死。子必爲政。唯有德者能以寬服民、其次莫如猛。夫火烈民望而畏之。故鮮死焉。水濡弱、民狎而翫之、狎易翫習則多死焉。故寬難。子産卒。子太叔爲政、不忍猛而寬。鄭國多掠盜」。
・古之遺愛…孔子家語。「子産之卒也、孔子聞之出涕曰、古之遺愛」。
・惠人…論語憲問10。「或問子産。子曰、惠人也」。

是非之公。是非に公けでないことあり。日本で垩德太子をはよいと云、守屋を悪いとをもふは是非の公てない。判官贔屓と云も公てない。義經は大功ある人なれともつめたい塲はあろふぞ。しかれば頼朝の用心せらるることもあらふ。ただゆいがいなき者の讒言によってとばかり心得るも。是非の吟味つまりてのことか春秋なれば見どふしなり。乃制事之權衡。此方の權衡に春秋をして、これを以て急度をさへることなり。垩人の春秋魯の記録と云ても、中は易も中庸もある。爰が垩人之幅と見ることなり。中々春秋がなみ大躰で得られることにあらず。亦是れを合点すると、其代りに今日何をせふとも是てすっかりとさばかるる。胡安定が春秋を一生の学問にしたも聞へた。今百姓で役人になろふか、輕ひ奉公から家老になろふか、炳如日星大義から微隠迠知れると、何ても事は制る。誠に權衡模範になれとも、中々春秋を吾ものにすることは及ひかたきことなり。
【解説】
「是非之公、乃制事之權衡、揆道之模範也」の説明。是非に公でないことがあるが、春秋は全てお見通しである。権衡に春秋を用い、これでしっかりと制えれば、全てをうまく捌くことができる。しかし、春秋を自分のものにするのは難しい。
【通釈】
「是非之公」。是非に公でないことがある。日本で聖徳太子をよいと言い、守屋を悪いと思うのは是非の公ではない。判官贔屓というのも公でない。義経は大功ある人だが冷たい場もあっただろう。そこで、頼朝が用心されたこともあっただろう。ただつまらない者の讒言によってそうなったとばかり心得るのも公でない。是非の吟味の詰まったことが春秋にはあって、春秋であれば全てお見通しである。「乃制事之権衡」。こちらの権衡に春秋を用い、これでしっかりと制える。聖人の春秋は魯の記録だと言っても、中には易も中庸もある。ここが聖人の幅だと見なさい。春秋は並大抵なことでは中々得られるものではない。またこれを合点すれば、その代わりに今日何をしようとも、これですっかりと捌くことができる。胡安定が春秋を一生の学問にしたのもよくわかる。今、百姓から役人になろうが、軽い奉公から家老になろうが、炳如日星で大義から微隠までを知れば、何でも事を制えることができる。誠に権衡で模範にはなるが、中々春秋を自分のものにすることは及び難いことである。
【語釈】
・守屋…物部守屋。敏達・用明天皇朝の大連。尾輿の子。仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼く。用明天皇の没後、穴穂部皇子を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために滅ぼされた。~587

夫觀百物。譬をもうふけて春秋を云。爰が申さば春秋を見るの道体なり。化工之神は、鬼神は造化の跡と同じ。松は青く楓は紅葉し、牡丹か咲、せきちくのしぼりのもよふも雉子の美しく、又鴨などはちとそきらの方なれども、羽の内にほち々々のある迠が百物色々なぞ。あの百物を見れば、化工の神ですることが見へる。天地はさてもよく手が廻ると見ゆるなり。聚衆材云々。堂塔を建るに山林に入て木を伐る。色々と細いも曲たも小大もあるが、それ々々に見繕て使ふ。細ひは垂木、曲ったは梁、大ひは大墨柱と云やふにつかふ。色々あるで堂も出来る。春秋のなりもそれなり。一事一義で孔子の思召がしるる。鄭伯克段干鄢。弟にやう々々勝た。これ根のあることなり。歸惠公仲子之賵。あの中にも孔子の心を用らるる処がある。非上智不能也。只のもののに知れやふ筈はないと、ふりかへりて見れば顔子へかけて云たことなれとも、孟子も入れてよい筋そ。此の跡に秦而下其学不傳とあれば、孟子をここへこめて見るがよし。
【解説】
「夫觀百物、然後識化工之神、聚衆材、然後知作室之用。於一事一義、而欲窺聖人之用心、非上智不能也」の説明。百物は色々だが、それ等を見れば化工の神がそれを行っていることを知ることができる。それと同じく、孔子は春秋の「一事一義」に心を用いられた。
【通釈】
「夫観百物」。たとえを設けて春秋を言う。敢えて言えばここが春秋を見るところの道体である。「化工之神」は、「鬼神者造化之迹也」と同じこと。松は青く楓は紅葉し、牡丹が咲き、石竹の絞りの模様も雉子も美しく、また、鴨などは少しそきらの方だが、羽の内にぼちぼちのあるところまでが百物色々なこと。あの百物を見れば、化工の神がすることが見える。天地は本当によく手が廻るものと見える。「聚衆材云々」。堂塔を建てるのに山林に入って木を伐る。色々と細いのも曲がったのも小大もあるが、それぞれに見繕って使う。細いの垂木、曲がったはの梁、大きいのは大黒柱という様に使う。色々とあるので堂もできる。春秋の姿もそれ。「一事一義」で孔子の思し召しが知れる。「鄭伯克段干鄢」。弟に漸く勝った。これは根のあること。「帰恵公仲子之賵」。あの中にも孔子が心を用いられた処がある。「非上智不能也」。普通の者達にわかる筈はないと言った。振り返って見れば顔子へ掛けて言ったことだが、孟子も入れてもよい筋である。この後に「秦而下其学不伝」とあるので、孟子をここへ込めて見るのがよい。
【語釈】
・鬼神は造化の跡…道体8。「鬼神者、造化之迹也」。
・そきら…
・鄭伯克段干鄢…春秋。隠公元年。「夏五月、鄭伯克段于鄢」。
・歸惠公仲子之賵…春秋。隠公元年。「秋七月、天王使宰咺來歸惠公仲子之賵」。

故学者春秋者云々。ここは春秋の為学ぞ。致知の篇へ此序をのせたも爰を知ることなり。春秋は上智で無ては知れぬことなれとも、上智でなければ学はぬてはてない。春秋を学ぶに学びやうあり、今の学者は此学びやうを知らぬ。左傳の會史漢の會などと云て博識じまんのやうにたてるぞ。必優游涵泳。やはり優柔厭飫のことなり。杜豫が序にこの筋を云た。春秋を見るにはそこへ落付て見ることて、西行の冨士山を見る躰にとっくとすわって見よ。腰かけにすることてなし。李延平の春秋を見られたがやはり優游涵泳であろふ。体認喜怒哀樂未発之前と云人が黙坐澄心から。左氏傳とはさて々々別なことなり。さふ見ると、そこで黙識心通するなり。左傳を見るは何そと云に春秋の事の始末を見るためを、今は左傳を主にする。經をばざっとする。これ買櫃還玉のぞ。どふでも傳がにぎやかなり。左傳を見て俗儒がはや食指が動たなぞと云ことを覚へ、初鰹と云へは、今朝食指が動たなどと云ふ。氣短な人が、家来が水を打つをなぜに打つと怒るを、いや今たれそれが小便したから打つと云を、尚々腹立て忿激して死だなとと云ことあると覚へた。其様なことが何になるぞ。唐の狂言にでもせふは知らぬこと。それを覚へて孔子の微意が知れやうや。孔子の春秋と云屋敷に左氏が孫店を借りておるゆへ、あほふなことまでが孔子の屋敷内になるぞ。そこで直方の、左傳は留主居廻状を見るやうなものと云れた。
【解説】
「故學春秋者、必優游涵泳、默識心通、然後能造其微也」の説明。春秋は上智でなくてはわからないものだが、上智でなければ学ばないということではない。そこには学び方があって、それが「必優游涵泳、黙識心通」である。春秋はとっくりと読まなければならい。また、今は左伝を主にして経を雑に扱っているが、それは本末転倒なことである。
【通釈】
「故学者春秋者云々」。ここは春秋の為学であって、致知の篇にこの序を載せたのも、ここを知ることにある。春秋は上智でなくてはわからないものだが、上智でなければ学ばないということではない。春秋を学ぶにはその学び方があって、今の学者はこの学び方を知らない。彼等は左伝の会や史漢の会などと言って、博識自慢をする様な学び方である。「必優游涵泳」。やはり優柔厭飫のこと。杜豫が序でこの筋のことを言った。春秋を見るには、そこへ落ち付いて見なければならないから、西行が富士山を見る様にとっくりと座って見なさい。腰掛けてすることではない。李延平が春秋を見られた方法はやはり優游涵泳であっただろう。「体認喜怒哀楽未発之前」と言う人が黙座澄心で見た。春秋は左氏伝とは全く別なものなのである。その様に見ると、そこで「黙識心通」する。左伝を見るのは何のためかと言えば、春秋の事の始末を見るためなのに、今は左伝を主にして経は雑に扱う。これでは「買櫃還玉」である。どうも伝が賑やかである。左伝を見て、俗儒が早くも食指が動いたなどということを覚え、初鰹と言えば今朝食指が動いたなどと言う。気短かな人が、家来が水を打つのを何故打つのかと怒ると、いや今誰某が小便をしたから打つと答えると、尚更腹を立てて忿激して死んだなどということがあるなどと覚える。その様なことが何になるのか。唐の狂言にでもしようとするのなら構わないが、それを覚えたとして、孔子の微意を知ることができる筈はない。孔子の春秋という屋敷に左氏が孫店を借りているので、阿呆なことまでが孔子の屋敷内のことになる。そこで直方が、左伝は留主居が廻状を見る様なものだと言われた。
【語釈】
・体認喜怒哀樂未発之前…喜怒哀楽未だ発せざるの前を体認する。
・買櫃還玉…韓非子。「買櫝而還其珠」。

後王知春秋之義云々。これは春秋を活して使ひやうなり。活す殺すと云が面白ひ。医者も下手なれば、名方もころしてつかふ。春秋を活して見ると直に今のためになる。雖德非禹湯云々。爰がつ子々々の王道を語る御定りとは違ふ。王道と云は垩人の德ありて、德なりに出ることて、德なしに手先ですれば覇者と云。これが定りた説なり。ここはどこ迠も春秋の妙を語る処ゆへ、逆まに説ひた。春秋の義をよく知ると、德が禹湯程になくともいくとは耳よりなことぞとはどふなれば、春秋の意を得ると彼制事之權衡揆道之模範があるゆへ、禹湯の德なくとも三代の治に法るとは春秋と云手抦の処ぞ。則是が前の百王不易之法と云をつめて云たことで、德が禹湯ほどでなふても治めらるべしと云は異なことを云はるる様なれとも、春秋の鼻が高くなる。扁鵲仲景ほどになくても、あの方組を能く手に入れ吾ものにしてつかふと、どの病人もなをる。すればよく々々よい方剤と云べし。益安灸をすへるやうで、今益安はないが彼がすへた丁どの処へすへると竒妙にきく。茶も利休に及ばずとも、湯をあつくわかして初昔をたてると利休の通りにのめる。淺見先生の靖献遺言も垩人の春秋を小ぶりに得られて、君臣の義のぎり々々に至ては春秋に継ぐことなり。許魯斎や眞西山かあれほどの大儒。殊に西山はがかひの大い学問なれとも、遺言の書にては二賢をもあれほどに吟味しつめ、動きをとらせぬ。春秋之大義炳如日星と云大義を極々につめたなり。さて、ここの三代の治に法とるべしと云も君臣父子の道が明にならば、いかさま德禹湯て無ふても三代の治に法たと云ものぞ。然れとも、ここには爭のもあること。文會可考。
【解説】
「後王知春秋之義、則雖德非禹・湯、尚可以法三代之治」の説明。春秋を活かして見ると、直に今のためになる。春秋の義をよく知ると、徳が禹湯ほどにはなくても三代の治に法るのでうまく行く。尚、王道とは聖人の徳があって、徳の通りに出ることで、徳なしに手先でするのを覇者と言う。
【通釈】
「後王知春秋之義云々」。これは春秋を活かした使い方である。活かす殺すと言うのが面白い。医者も下手だと、名方も殺して使う。春秋を活かして見ると、直に今のためになる。「雖徳非禹湯云々」。ここはいつもの王道を語る御定りとは違ったこと。王道とは聖人の徳があって、徳の通りに出ることで、徳なしに手先でするのは覇者と言う。これが定まった説である。ここは何処までも春秋の妙を語る処なので、逆さまに説いた。春秋の義をよく知ると、徳が禹湯ほどにはなくてもうまく行くとは耳寄りなことだとはどういうことかと言うと、春秋の意を得ると、あの「制事之権衡揆道之模範」があるので、禹湯の徳がなくても三代の治に法る。これが春秋の手柄の処である。則ちこれが前にあった「百王不易之法」を言い詰めて言ったことで、徳が禹湯ほどでなくても治められるとは妙なことを言われた様だが、これで春秋の鼻が高くなる。扁鵲や仲景ほどでなくても、あの方組をよく手に入れ、自分のものにして使えばどの病人も治せる。そこで、よくよくよい方剤だと言うのである。今益安はいないが、益安が灸をすえる様に彼がすえた丁度の処へすえると奇妙に効く。茶も、利休に及ばなくても、湯を熱く沸かして初昔を立てると利休の通りに飲める。浅見先生の靖献遺言も聖人の春秋を小振りに得られ、君臣の義の極致に至っては春秋に継ぐものである。許魯斎や真西山はあれほどの大儒で、殊に西山は規模の大きい学問だったが、遺言の書では二賢をもあれほどに吟味し詰め、動きをとらせない。「春秋之大義炳如日星」という大義を極々に詰めたのである。さて、ここの「法三代之治」と言うのも、君臣父子の道が明になれば、まさに徳は禹湯でなくても三代の治に法ったというもの。しかし、ここには争うこともある。文会で考えなさい。
【語釈】
・名方…名高い処方。
・扁鵲…中国、戦国時代の名医。渤海郡鄭の人。姓は秦、名は越人。
・仲景…張仲景。河南省南陽県の人。長沙の太守を勤める。「傷寒雑病論」を著した。
・方組…薬の調合法。処方。また、処方箋。
・益安…江戸時代の医者。
・初昔…茶の銘。江戸時代、将軍家使用の極上の宇治茶で、古来の製法による白色系のもの。
・許魯斎…
・眞西山…

自秦而下其学不傳云々。易傳でも云へり。いつも々々々の御歎きなり。予悼夫垩人之志不明於後世也。前に云とをり、善を褒、悪を貶すと云はかりに一通の史傳と同格にざっと一返に見らるることを痛み、故作傳以明之。垩人のあの大事業が一行一節のことを評した様に思ては中々益にたたぬ。通其文而求其義。ここは春秋の書についたことなり。得其意而法其。用意を得ては春秋を吾役に立ること。法其用は吾受用にして功業に出る位なれば、そこで三代復すそ。復すと云も三代に法るは復すの下地なり。是傳也未能極云々。垩人の蘊奥を是て極めたと云ては無れとも、庶幾学者得其門而入矣。入口になろふと云処を見て、門ををれが明てをくによって、これより這入となり。
【解説】
「自秦而下、其學不傳。予悼夫聖人之志不明於後世也。故作傳以明之、俾後之人通其文而求其義。得其意而法其用、則三代可復也。是傳也、雖未能極聖人之蘊奧、庶幾學者得其門而入矣」の説明。伊川は春秋が史伝と同格に扱われるのを悼んで春秋伝を作り、この門から春秋に這い入りなさいと言ったのである。
【通釈】
「自秦而下其学不伝云々」。易伝でも言ったこと。いつもの御歎きである。「予悼夫聖人之志不明於後世也」。前に言った通り、「褒善貶悪」ということだけで普通の史伝と同格に扱い、ざっと一通り見られることを悼み、「故作伝以明之」。聖人のあの大事業を一行一節のことを評した様に思っては中々益にならない。「通其文而求其義」。ここは春秋の書を読むに際してのこと。「得其意而法其用」。意を得れば春秋を自分の役に立てる。法其用は自分の受用にして功業に出るほどであれば、そこで「三代復」。復すと言うのも三代に法るのは復す下地である。「是伝也未能極云々」。聖人の蘊奥をこれで極めたと言うのではないが、「庶幾学者得其門而入矣」。入口になる処を見て、門を俺が開けて置くので、これより這い入りなさいと言った。

易傳の序と春秋傳の序とは違ふ。易傳の序は、辞を得れば、それから意を得るは在於人と知見へ投げかけた。春秋傳の序は、義理を得て垩人の思召を合点すると三代可復と、事業經世にをとしたなり。易は天地の合紋、自然の書なり。春秋は垩人の大用なればなり。兎角春秋の取扱を知ぬゆへ、目のつけ処を知ぬなり。さて、易傳は傳が出来て後序を書れ、春秋傳は傳をなさる御工夫は定てきまったろふが、傳のならぬ前に序を書れた。偖、伊川の春秋傳は少ひ。桓公迠が書たはつかあるで残念なり。初の内ばかりを傳してあり、劉質夫に命しられたが、やがてあれが処から来る々々と云てあるか、終に傳はらぬはあれぎりか、又有たが傳はらぬか知れぬことぞ。居業録に伊川の春秋傳が胡氏傳よりは各別なことじゃとあれば、伊川のも全くあったやうにも見へるが失たかもしれぬ。そんなことのあるで、今の二程全書の疑はしひは此序が經説の部にある。爰には文集にあるとなり。朱子のときの伊川文集と今のはちがふかなり。伊川の書も紛失したかも知れぬ。中庸の解も、程子でもないものを程子のにして二程全書に載す。粹言も、楊亀山の手でないものをそれにしてある。只今日本の本屋が程傳をぬき出して別に賣は姦巧なり。二程全書のを別にしてうるなり。誰かにもしるること。此篇致知の篇で書籍の吟味もいることゆへと餘論に云へり。
【解説】
易は天地の合紋、自然の書だが、春秋は聖人の大用を記した書である。そこで、易伝序は知見に落とし、春秋伝は事業経世に落とす。また、易伝は伝ができた後に序を書かれ、春秋伝は伝ができる前に序を書かれたものである。今ある伊川の春秋伝は完備したものではないが、それは最初から完備していなかったのか、途中で紛失したためなのかは不明である。それと言うのも、二程全書にある中庸解も粹言も、作者は違うのに程子や楊亀山のものとしており、書籍自体にも吟味が要るからである。
【通釈】
易伝の序と春秋伝の序とは違う。易伝の序は、辞を得て、それから後に意を得るのは「在於人」と、知見へ投げ掛けたもの。春秋伝の序は、義理を得て聖人の思し召しを合点すれば「三代可復」と、事業経世に落としたもの。これは、易は天地の合紋、自然の書であって、春秋は聖人の大用だからである。とかく春秋の取り扱いを知らないので目の付け処がわからない。さて、易伝は伝ができた後に序を書かれ、春秋伝は、伝をなさる工夫はきっと決まっていたのだろうが、伝ができる前に序を書かれた。さて、伊川の春秋伝は少ない。桓公までを書いたものがある筈だが、それは残念なことである。初めのところばかりを伝にしてある。劉質夫に命じられ、やがてあれの処から来ると言ってはいるが、遂に伝わらなかったのはあれでお仕舞いなのか、またはあったが伝わらないのか、それはわからないこと。居業録に伊川の春秋伝は胡氏伝よりも格別によいとあるので、伊川の完全な伝もあった様にも見え、失ったのかも知れない。そんなこともあって、今の二程全書が疑わしいと言うのは、この序が経説の部にあるからである。ここには文集にあるとある。朱子の時の伊川文集と今のは違うのかも知れない。伊川の書も紛失したのかも知れない。中庸の解も、程子のものでないものを程子のものとして二程全書に載せている。粹言も楊亀山の手によるものではないのに、そうなっている。只今日本の本屋が程伝を抜き出して別に売るのは姦巧である。二程全書にあるものを別にして売る。それは誰でもわかること。この篇は致知の篇で書籍の吟味も要ることなので、余論で言う。
【語釈】
・劉質夫…
・居業録…