第六十二 詩書載道之文の条  十一月廿一日  花澤文録
【語釈】
・十一月廿一日…寛政2年庚戌(1790年)11月21日。
・花澤文…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817

詩・書載道之文、春秋聖人之用。詩・書如藥方、春秋如用藥治病。聖人之用、全在此書。所謂不如載之行事深切著明者也。有重疊言者、如征伐盟會之類。蓋欲成書、勢須如此。不可事事各求異義。但一字有異、或上下文異、則義須別。
【読み】
詩・書は道を載する文にして、春秋は聖人の用なり。詩・書は藥方の如く、春秋は藥を用いて病を治むるが如し。聖人の用は、全く此の書に在り。謂う所の之を行事に載することの深切著明なるに如かざる者なり。重疊して言う者有り、征伐盟會の類の如し。蓋し書を成さんと欲せば、勢い須く此の如くなるべし。事事各々異義を求む可からず。但し一字に異なること有り、或は上下の文異ならば、則ち義は須く別なるべし。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある伊川の語。

載道は大工の道具箱にいろ々々の道具のある如し。七堂伽藍もあの中にあり。春秋垩人之用は、此鋸、あの斧で今普請小屋で音をさするなり。詩書如藥方は、方彙を藥箱の上にをく。そこに何もかもある。春秋如用藥治病。見ん冝がこれでしたの、後藤左市かこれでなをしたのと見せる。ここは眞剣勝負。方彙か爰へ出る。医の巧拙は之用で云こと。いかさまあの老医の傳来なとが春秋の書に似たり。誰がこれで仕てとったと云ことぞ。鴻池やらの娘が大病を諸医か匕をなけたを、原雲菴が不換金に大黄を少し加へてなをしたと云が之用也。所謂不如載之行事深切著明也。孔頴達か疏の文字なり。春秋は事て見せる。詩書と春秋も小学立教に古者婦人姙子と云て、稽古に及其娠文王と云やうなもの。春秋は稽古。善行の如く、令女が耳をきり、鼻をたつの処。料理で云へば、詩書は献立、春秋は料理人が其献立を、今手を下ろして鮟鱇をつるし切り、靎の庖丁もここなり。有重疂言者云々。鄭人伐衞の公。どこに盟の、どこに會すのと一々出てある。勢須如此は右同断と云て仕廻ぬこと。何処迠も同じやふなことを書はづなり。まめな人が日記付に朔日ぎりてよいとは云はぬ。朔日暗、二日晴、三日雨と云やうに記す如し。それで成書なり。
【解説】
「詩・書載道之文、春秋聖人之用。詩・書如藥方、春秋如用藥治病。聖人之用、全在此書。所謂不如載之行事深切著明者也。有重疊言者、如征伐盟會之類。蓋欲成書、勢須如此」の説明。たとえれば、詩書は大工の道具であり、その道具を使うのが春秋である。詩書は聖人の事業が書かれたもので、春秋はそれを稽古するものである。
【通釈】
「載道」は、大工の道具箱に色々な道具がある様なことで、七堂伽藍もその中にある。「春秋聖人之用」は、この鋸やあの斧で、今普請小屋で音を出すこと。「詩書如薬方」は、方彙を薬箱の上に置く様なことで、そこに何もかもがある。「春秋如用薬治病」。見冝がこれで治したとか、後藤左市がこれで治したと見せる。ここは真剣勝負のところで、方彙がここに出る。医の巧拙は「之用」で言うこと。いかにもあの老医の伝来の書などが春秋の書に似たこと。誰がこれで仕て取ったということが書かれている。鴻池やらの娘の大病に医者達が匙を投げたのを、原雲菴が不換金に大黄を少し加えて治したのが「之用也」である。「所謂不如載之行事深切著明也」。孔頴達の疏の文字である。春秋は事で見せる。詩書と春秋も、小学の立教で「古者婦人姙子」と言い、稽古では「及其娠文王」と言う様なもの。春秋は稽古。小学の善行にある様に、令女が耳を切り、鼻を断つ処である。料理で言えば、詩書は献立、春秋は料理人が今その献立に手を下して鮟鱇を吊し切りするところ。靎の庖丁もこれである。「有重畳言者云々」。「鄭人伐衛公」で、どこに盟する、どこに会すると一々出ている。「勢須如此」は右同断と言って終わらせないこと。何処までも同じ様なことを書く筈である。まめな人が日記を付けるのに、一日だけでよいとは言わない。一日は暗く、二日は晴れ、三日は雨という様に記す様なこと。それで「成書」である。
【語釈】
・見ん冝…古林見宜。大阪の医者。1579~1657
・後藤左市…後藤艮山。名は達。字は有成。俗称は左一郎。養庵とも号した。1659~1733
・原雲菴…十八世紀の江戸の医師。
・孔頴達…唐の学者。字は仲達。河北衡水の人。隋末、明経に挙げられ、更に唐の太宗に召されて国子祭酒となり、顔師古と共に「五経正義」「隋書」などを撰。574~648
・古者婦人姙子…小学内篇立教。「列女傳曰、古者婦人妊子寢不側坐不邊立不蹕不食邪味割不正不食席不正不坐目不視邪色耳不聽淫聲、夜則令瞽誦詩道正事。如此則生子形容端正才過人矣」。
・及其娠文王…小学内篇稽古。「太任文王之母、摯任氏之中女也。王季娶以爲妃。太任之性端一誠莊惟德之行。及其娠文王目不視惡色耳不聽淫聲口不出敖言。生文王而明聖太任敎之以一而識百。卒爲周宗君子謂太任爲能胎敎」。
・令女が耳をきり、鼻をたつ…資治通鑑。「爽從弟文叔妻夏侯令女、早寡而無子、其父文寧欲嫁之。令女刀截兩耳以自誓、居常依爽。爽誅、其家上書絶昏、強迎以歸、復將嫁之。令女竊入寢室、引刀自斷其鼻、其家驚惋」。
・靎の庖丁…江戸時代、正月一七日(のち一九日)に将軍から献上した鶴を清涼殿で調理する儀式。御厨子所の料理人が衣冠を着け、鶴の肉を料理し、天皇に供した。
・鄭人伐衞の公…春秋。隠公2年。「鄭人伐衞、討公孫滑之亂也」。

不可事々各求異義。其処々を此方て理屈をつけるがわるい。春秋のむつかしいがそこなり。百王不易之大法ゆへ、吟味せ子はならぬか、此方でかんをつけるがわるい。其訳語類春秋の部にくれ々々云てあり。此方の了簡て間違あり。某もふけて譬て云に、國主を城主あしらいにしてあるなり。そこを見て、國主を城主あしらひにしたは越度かあるに由てとかんを付るか其訳か知れぬ。そこて又かんを附てがあって、いや國主なれとも凶年ゆへ、儉約て城主底の出立にしたかと云。それは春秋者が我方の理屈て、孔子の方がそふか知れぬ。然ればとて、義をつけぬと益がなひやうになる。そこで春秋が六ヶしい。但一字有異或上下文異則義須別。穿鑿のやうなれとも、一字有異上下有異には孔子の思召あることなれば、只は通されぬ。そこが手とりものなり。理屈をつけると異義に落、理屈をつけ子ばやくに立ぬになる。先日も云通り、朱子の手を付られぬか春秋を知たのなり。
【解説】
「不可事事各求異義。但一字有異、或上下文異、則義須別」の説明。春秋には孔子の思し召しがあるから吟味が必要だが、勘を働かせて理屈を付けると異義に落ち、理屈を付けなければ役に立たなくなる。そこが春秋の難しいところである。
【通釈】
「不可事々各求異義」。その処々をこちらで理屈を付けるのが悪い。春秋の難しいところがそこである。「百王不易之大法」だから吟味をしなければならないが、こちらで勘を働かせるのが悪い。そのわけを語類の春秋の部で詳細に言っている。こちらの了簡には間違いがある。敢えて私がたとえを言えば、国主を城主あしらいにしてある。それを見て、国主を城主あしらいにしたのは落度のあることだが、それは何故かと勘を働かせてもそのわけがわからない。そこでまた勘を働かせて、いや国主ではあるが凶年なので、倹約して城主の様な出立ちにしたのだろうと言う。それは春秋を読んだ者が自分の理屈を言っただけで、孔子の方がそれと同じかどうかはわからない。しかしながら、義を付けないと益がない様になる。そこで春秋が難しいのである。「但一字有異或上下文異則義須別」。穿鑿する様だが、「一字有異」と「上下有異」には孔子の思し召しのあることなので、そのままにはしては置けない。そこが難しい。理屈を付けると異義に落ち、理屈を付けなければ役に立たなくなる。先日も言った通り、朱子が春秋に手を付けられなかったのが、春秋を知っていたということ。
【語釈】
・百王不易之大法…致知61の語。


第六十三 五經之春秋有るはの条

五經之有春秋、猶法律之有斷例也。律令唯言其法。至於斷例、則始見其法之用也。
【読み】
五經の春秋有るは、猶法律の斷例有るがごとし。律令は唯其の法を言うのみ。斷例に至れば、則ち始めて其の法の用を見る。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

法律は公儀の御法度。断例は、御法度はきまりて今斯ふ仰付らるる処を云。律令は居りたもの。断例は、今日右の通の御裁許はあの法だと見るなり。直にすめることは古の五刑なり。五つゆへ五刑と云。疑はないなり。之屬三千と云が断例て、五刑を三千ほとに用るを、其三千を断例と云やうなもの。それで此章がすめる。五刑は法律なり。その三千に使ふが断例なり。易も礼も詩も書も垩人の道備れり。法律なり。その通を春秋で片付るは断例なり。
【解説】
易も礼も詩も書も聖人の道が備わったものであり、これ等は法律である。そして、その法律の通りに春秋で捌くのが断例である。
【通釈】
「法律」とは、公儀の御法度。「断例」とは、御法度が決まり、今この様に仰せ付けられる処を言う。「律令」は据わったもの。断例は、今日右の通りの御裁許はあの法に拠るものだと見ること。直にわかることは古の五刑である。五つなので五刑と言う。それで疑いはない。「五刑之属三千」というのが断例で、五刑を三千ほどに用いるが、その三千を断例と言う様なもの。それでこの章が済める。五刑は法律である。それを三千にして使うのが断例である。易も礼も詩も書も聖人の道が備わったもの。これが法律である。その通りを春秋で片付けるのが断例である。
【語釈】
・之屬三千…孝経。「子曰、五刑之屬三千。而莫大於不幸。要君者亡上。非聖人者亡法。非孝者亡親。此大亂之道也」。


第六十四 学春秋亦善の条

學春秋亦善。一句是一事、是非便見於此。此亦窮理之要。然他經豈不可以窮理。但他經論其義、春秋因其行事、是非較著。故窮理爲要。嘗語學者、且先讀論語・孟子、更讀一經、然後看春秋。先識得箇義理、方可看春秋。春秋以何爲準。無如中庸。欲知中庸、無如權。須是時而爲中。若以手足胼胝閉戸不出二者之閒取中、便不是中。若當手足胼胝、則於此爲中。當閉戸不出、則於此爲中。權之爲言、秤錘之義也。何物爲權。義也。時也。只是説得到義。義以上更難説。在人自看如何。
【読み】
春秋を學ぶも亦善し。一句は是れ一事にして、是非は便ち此に見る。此れ亦理を窮むる要なり。然れども他經豈以て理を窮む可からざらん。但他經は其の義を論じ、春秋は其の行事に因りて、是非較[こと]に著らかなり。故に理を窮むるに要と爲す。嘗て學者に語げん、且く先ず論語・孟子を讀み、更に一經を讀みて、然して後に春秋を看よ。先ず箇の義理を識り得て、方[はじ]めて春秋を看る可し、と。春秋は何を以て準と爲す。中庸に如くは無し。中庸を知らんと欲せば、權に如くは無し。須く是れ時にして中を爲すべし。若し手足胼胝[へんてい]すると戸を閉じて出でざるとの二者の閒を以て中を取らば、便ち是れ中ならず。若し當に手足胼胝すべくんば、則ち此に於て中を爲せ。當に戸を閉じて出でざるべくんば、則ち此に於て中を爲せ。權の言爲る、秤錘の義なり。何物をか權と爲す。義なり。時なり。只是れ義に到ると説き得るのみ。義以上は更に説き難し。人の自ら看ること如何に在り。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある伊川の語。

この章ふいと出たことでなく、門人の中で此間春秋を讀たと云のあるに付て、程子のそれもよかろふなり。ここにふくむ処あり。春秋よむもよいが讀みやうかあると、其ことを語れり。一句是一事云々。他の書は上の句より下迠説たがある。詩書は一筆より恐惶謹言迠首尾つついてあるか、春秋の文斗はぶつ切なり。一句に一色て、次の句は上と別なり。段令[たとえ]ば日記をつけるに東金から誰が来たと一句に一事を云、又其下に濱より使が来たと一句ですむやふに書けり。延平先生の、春秋は景色を見る如し。川や山か少し歩行と違ふもの。其合点と云るるか面白こと。今松を見たか直には田になり、それから此脇の水神へ出るやうなもの。一つ景とみると違ふ。此亦窮理之要。之要が春秋じゃなり。無極而太極を合点て大本がすんたと見ることてない。春秋は何のことない上にあるゆへ、一句一事で理を究める。理は春秋のことの上も繋辞傳も同しこと。紀の國も四日市の搔柑も一つことなり。理を究るはとこて究めてもすむが、春秋は的切なことあり。そこを下に云。
【解説】
「學春秋亦善。一句是一事、是非便見於此。此亦窮理之要。然他經豈不可以窮理」の説明。詩書は冒頭から最後まで首尾一貫しているが、春秋は一句毎に別なものである。その書かれた一句一事で理を窮めるのである。
【通釈】
この章は偶然に出たのではなく、門人の中でこの間春秋を読んだと言う者がいたので、それで程子がそれもよいだろうと言ったのだが、ここに含む処があって、春秋を読むのもよいが読み方があると、その読み方について語ったのである。「一句是一事云々」。他の書では、上の句より下の句まで同じく説いたものもある。詩書は冒頭から最後まで首尾続いているが、春秋の文だけはぶつ切りである。一句は一色だけで、次の句と上の句とは別なもの。たとえば日記を付けるのに、東金から誰が来たと一句に一事を言い、またその下に濱から使いが来たと言う様に、一句で済む様に書いた。延平先生が、春秋は景色を見る様なものだ、川や山は少し歩き行くと違った景色になる、その合点だと言われたのが面白い。今、松を見たが直ぐに田になり、それからその脇の水神へ出る様なもの。一つの景色と見るのは間違いである。「此亦窮理之要」。「之要」が春秋である。「無極而太極」を合点したので大本が済んだと考えてはならない。春秋は何事もない上にあるので、一句一事で理を窮める。理は春秋の事の上も繋辞伝の上も同じこと。紀伊国屋も四日市の蜜柑も同じこと。理を窮めるのはどこで窮めても済むが、春秋には的切なことがある。そこを下に言う。
【語釈】
・恐惶謹言…候文の手紙の終りに記す挨拶語。

但他經論其義云々。春秋は行事の上に具ってはっきりと見へる。垩学は空理でないを見へし。異端は事を離れたを賞玩する。程子の、事の上に理あるゆへ、是非較著と云。春秋の見やふて理をきはめる要になるか、然れとも、早くかかるはわるい。そこで、且先讀論語孟子云々。初は論孟なり。論と云か程子のきまりた法。扨、四書の始に論孟の讀法あり。学者先と論孟ゆへ、論孟を馳走すると云ことてはないを見よ。ここは春秋ゆへ、春秋を先と大切に云そふなことに、論語孟子と示さるる。然れば論孟を始にするが書を讀の定式なり。更讀一經云々。程子の教の趣向面白こと。論孟を讀でから五經の中でどれても一經と、此方の好てなく、向の望を云。論孟の後は方を出さぬが趣向なり。詩が望なら詩。又、書が望なら書。そふして、それから春秋なり。先識得箇義理云々。公及邾儀父盟て篾とある。何のことないやうなれとも、そこを見るは此方に始義理の本立あっての上のこと。名医が禁好物を云なり。こちに医心があればいかさま尤なことと、下女下男の聞とは違ふ。訓門人、暖淵に訓したもこのこと。春秋は末後のことなり。語類百十六可考。
【解説】
「但他經論其義、春秋因其行事、是非較著。故窮理爲要。嘗語學者、且先讀論語・孟子、更讀一經、然後看春秋。先識得箇義理、方可看春秋」の説明。春秋は理を窮める要にはなるが、それに早く取り掛かるのは悪い。先ず論孟を読み、その後他の一経を読んで義理を理解してから春秋に取り掛かるのである。
【通釈】
「但他経論其義云々」。春秋は行事の上に理が具わっていて、それがはっきりと見える。聖学は空理でないことを理解しなさい。異端は事から離れたことを賞玩する。程子は事の上に理があるので、「是非較著」と言った。春秋は見方次第で理を窮める要になるが、しかし、早く取り掛かるのは悪い。そこで、「且先読論語孟子云々」。最初は論語と孟子である。論語と言うのが程子の決まった法。さて、四書の始めに論孟の読法がある。学者は先ずは論孟だと言うが、これが論孟を馳走するということではないと理解しなさい。ここは春秋なので春秋を先ずと大切に言いそうなのに、論語孟子と示された。そこで、論孟を始めにするのが書を読む定式なのである。「更読一経云々」。程子の教えの趣向が面白い。論孟を読んでから五経の中でどれでも一経と、自分の好みではなく、相手の望みで選んでよいと言った。論孟の後は仕方を出さないのが趣向である。詩が望みなら詩。また、書が望みなら書。そうして、それから春秋である。「先識得箇義理云々」。「公及邾儀父盟于篾」とある。何でもない様だが、そこを見るには始めにこちらで義理の本立てがなくてはならない。名医が禁好物を言う。こちらに医心があれば実に尤もなことだと言い、下女下男が聞くのとは違ったことになる。訓門人で暖淵に訓じたもこのこと。春秋は末後のこと。語類百十六で考えなさい。
【語釈】
・公及邾儀父盟て篾…春秋。隠公元年。「三月、公及邾儀父盟于蔑」。
・暖淵…

春秋以何爲準無如中庸。程子の莫大な眼なり。為準は、春秋を見るに一つここと云規矩がなければならぬが一つあるてやと云るるゆへ、公羊か穀梁か左傳のことて有ふと云に、そこを思ひよらぬ方付なり。春秋と中庸は打て違った書なるに、中へ這入たこと。これでなければ惟顔子嘗聞之矣も移らぬ。春秋の中かの処は中庸と見たもの。今日此を聞てなぜ々々と云は根がすまぬからなり。さて、大略を云に中庸と云が面白ひ。堯舜の政を至治と云。至極に堯舜の外はない。其至極は心と政が別なことなれば有難はない。あの政の至極に治たは允執中の処。天下の授受も中てすみて、此中を忘れるななり。それて禹のときも其中。又、中庸を傳授の心法と云もそのこと。孔子のときは上に天子あれとも允執中の中かなく、法度號令の制札はあれとも中を取らぬゆへ、行燈踏み破たやふなもの。ほ子にはかりありて風があたりて火がとぼされぬ。萬乘の上の御方か堯舜の心を持ぬゆへ春秋の世になりくたり、戦国になり下りたもの。孔子恐れて春秋を作れるも、上に王者ないゆへのこと。乗桴浮海もそれなり。上に垩王かあれは春秋は作らぬ。中庸の德に叶はせるか春秋の甘みなり。
【解説】
「春秋以何爲準。無如中庸」の説明。春秋の基準になるものは中庸である。堯舜は「允執中」で政を治め、禹も中で行った。中庸の徳に叶わせるのが春秋の甘みである。
【通釈】
「春秋以何為準無如中庸」。これが程子の莫大な着眼である。「為準」は、春秋を見るには一つここという規矩がなければならないことがあると言われたのだから、公羊伝か穀梁伝か左伝のことだろうと思えば、そこを思いもよらないものを出した。春秋と中庸とは打って違った書だが、これが中へ這い入って言ったこと。これでなければ「惟顔子嘗聞之矣」も心に響かない。これは、春秋の中の処は中庸と見たもの。今日ここを聞いて何故かと言うのは根が済まないからである。さて、大略を言うのに中庸と言うのが面白い。堯舜の政を至治と言う。至極と言えば堯舜の外はない。その至極は心と政が別なことであれば有難いものではない。あの政が至極に治まったのは「允執中」の処。天下の授受も中で済むのであって、この中を忘れてはならない。それで禹の時もその中で行った。また、中庸を伝授の心法と言うのもそのこと。孔子の時は上に天子がいても允執中の中がなく、法度や号令の制札はあったが中を執らなかったので、行燈を踏み破った様だった。骨があるだけなので、風が当たって火を灯すことができない。万乗の上の御方が堯舜の心を持たないので春秋の世に成り下り、戦国に成り下ったのである。孔子が恐れて春秋を作ったのも、上に王者がいないからである。「乗桴浮海」もそれ。上に聖王がいれば春秋は作らない。中庸の徳に叶わせるのが春秋の甘みである。
【語釈】
・惟顔子嘗聞之矣…致知61の語。
・允執中…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
・傳授の心法…中庸章句子程子説。「子程子曰、不偏之謂中、不易之謂庸。中者天下之正道、庸者天下之定理。此篇乃孔門傳授心法。子思恐其久而差也、故筆之於書以授孟子。其書始言一理、中散爲萬事、末復合爲一理。放之則彌六合、卷之則退藏於密。其味無窮。皆實學也。善讀者玩索而有得焉、則終身用之有不能盡者矣」。
・乗桴浮海…論語公冶長7。「子曰、道不行、乘桴浮于海」。

箕子の武王に洪範を授て皇極有極と云も君の御心のこと。目出度周の盛のときは、無黨無偏王道平々なり。天下の心かよいゆへ、糾々武夫や比屋可封のと云か上一人の御方か建皇極なり。其建たなりは中庸。そこて皇極を建るも中庸も皆心法なり。中庸之為德其至乎民能鮮矣。孔子のなけかれて、今世の中に嘆しいと云も春秋の世ゆへなり。垩人の代てなくては中庸之德と居てとることはならぬ。孔子の天子になりかわりて明德を天下に明にせふとての春秋なり。恐れあることなれとも、顔子とは憚らぬ。去によって、春秋の筆を立るとき、罪我者其唯春秋乎、と。中の処は風俗を直すこと。伯者は、上は直し。膏藥て元日の間に先合せると云療治なり。垩人のは半分直すと云ことはない。偖、春秋か天子のことと云へとも、天下を中庸の德にすること。春秋は事業、中庸は心法ゆへ、中を明て見ぬと中庸は禪めくやふ。春秋は大乎へ出すことのやうなれとも、春秋の々々たるは王道のぎり々々なれば、とど魂へ出すことなり。そこか傳授の心法なり。
【解説】
皇極を建てるのも中庸も心法のこと。中とは風俗を直すこと。春秋は事業で中庸は心法だが、春秋は本来王道の至極であって魂へ出すことなので、つまりは伝授の心法なのである。
【通釈】
箕子が武王に洪範を授けて「皇極有極」と言ったのも君の御心からのこと。周が盛んで目出度い時は、「無党無偏王道平々」だった。天下の心がよいので、「赳赳武夫」や「可比屋而封」などというのが上一人の御方の「建皇極」である。その建った姿は中庸。そこで皇極を建てるのも中庸も皆心法のことなのである。「中庸之為徳其至乎民能鮮矣」と孔子は嘆かれたが、今世の中が嘆かわしいと言うのも春秋の世だからである。聖人の代でなくては、中庸之徳を執ることはできない。孔子が天子に成り代わって、明徳を天下に明らかにしようとしての春秋である。恐れ多いことではあるが、孔子と顔子は憚らない。そこで、春秋の筆を立てる時に、「罪我者其唯春秋乎」、と言った。中の処は風俗を直すこと。伯者は上を直すだけで、膏薬で元日の間に先ずは合わせるという療治である。聖人のは半分直すと言うことはない。さて、春秋が天子のことと言うのは、天下を中庸の徳にすること。春秋は事業、中庸は心法なので、中を明に見なければ中庸は禅めく様になる。春秋は「大乎」へ出すことの様だが、春秋の春秋たるところは王道の至極だから、つまりは魂へ出すことにある。そこが伝授の心法なのである。
【語釈】
・箕子…殷の紂王の叔父。名は胥余。紂王の暴虐を諫めたが用いられず、囚禁され、周の武王が殷を滅ぼしたので朝鮮に入って都を王険城(平壌)に定め、朝鮮王となったと伝える。
・皇極有極…書経洪範。「五。皇極。皇建其有極。斂時五福。用敷錫厥庶民」。
・無黨無偏王道平々…書経洪範。「無偏無黨、王道蕩蕩。無黨無偏、王道平平」。
・糾々武夫…詩経国風周南兔罝。「肅肅兔罝、施于中林。赳赳武夫、公侯腹心」。
・比屋可封…文選。「尚書大傳曰、周民可比屋而封」。
・建皇極…書経洪範。「初一曰、五行。次二曰、敬用五事。次三曰、農用八政。次四曰、協用五紀。次五曰、建用皇極。次六曰、乂用三德。次七曰、明用稽疑。次八曰、念用庶徵。次九曰、嚮用五福。威用六極」。
・中庸之為德其至乎民能鮮矣…中庸章句3。「子曰、中庸其至矣乎。民鮮能久矣」。
・罪我者其唯春秋乎…孟子滕文公章句下9。「春秋天子之事也。是故孔子曰、知我者、其惟春秋乎。罪我者、其惟春秋乎」。
・大乎…

そふして置て中庸を合点するなら權なり。そこて中庸を知んと欲せは無如權と云。中庸は戒懼の功夫。愼獨から中庸になる。それと云も知かさきなり。權は知惠のぎり々々と合点すへし。一束つかまへに守るは權てない。義理の精微のしらべを云て、權は片づらぬもの。然れば左りを右へも直ぬと云は律義て重疂なれとも、それは召使の家来にも聟にもよいか、ほんのことてはない。中々知は一束つかまへてはならぬ。中庸のぎり々々を權と云。中庸はかわらぬことなれは、かわるなりの權てなけれは其かわらぬ中庸にならぬ。かわらぬやうなことて替るか中庸ぞ。ここはさて々々深ひあやなり。其中庸か權とはどふなれは、道理はあがきかなければ中庸のなくなる処。伯夷はいつもきぶい。柳下惠はいつもにこ々々は不自由なり。權は知のはたらくこと。菅笠も傘もある。照ても降てもよい。そこて須時而為中と云て、知はかふはたらくぞ。知欲圓そ。
【解説】
「欲知中庸、無如權。須是時而爲中」の説明。中庸を合点するには「権」がよい。権は知恵の至極である。権は義理の精微を調べた上のことであって偏りはない。中庸の至極を権と言う。替わる権で替わらない中庸となる。それは、権は知が働くことだからである。
【通釈】
そうして置いて、中庸を合点するなら「権」である。そこで中庸を知ろうと欲するのなら「無如權」だと言う。中庸は戒懼の功夫で慎独から中庸になる。それと言うのも知が先だからである。権は知恵の至極だと合点しなさい。一束に掴まえて守るのは権ではない。義理の精微を調べてのことで、権は偏らないもの。そこで、左を右へも直さないと言うのは律儀で重畳だが、それは召使いや家来、婿にしてはよいが、本当のことではない。中々知は一束に掴まえてはいけない。中庸の至極を権と言う。中庸は替わらないことなので、替わることのできる権でなければ、替わらない中庸にならない。替わらない様なことで替るのが中庸である。ここには本当に深い綾がある。その中庸が権とはどうしてなのかと言うと、道理は足掻きがなければ中庸はなくなる。伯夷はいつも厳格で、柳下恵はいつもにこにこしているが、それでは不自由である。権とは知が働くこと。菅笠も傘もある。照っても降ってもよい。そこで「須時而為中」と言い、知はこの様に働くのである。「知欲圓」である。
【語釈】
・戒懼…中庸章句1。「君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫見乎隱、莫顯乎微。故君子愼其獨也」。
・知欲圓…為学40。「孫思邈曰、膽欲大而心欲小。智欲圓而行欲方」。

手足胼胝。孟子。禹稷顔回、老中と隠者なり。それかどちもよい。胼胝。いろ々々訳もあれとも、わらじたこのことと云がよい。子莫が出て、两人の中よきほどと云が中てない。中無定体。禹稷の身分なら夜か夜中てもかけあるき、顔子は門を閉て居る。某と寛喜なり。医者は夜中に乗てあるく。儒者か一番鷄に太極圖説の講釈はたわけなり。人の身分のつり合か違ふ。そこか權なり。秤によいかけんと云はない。一匁は々々、百匁は々々なり。秤の方にあかきがある。道理もそれ。きぶい顔をして年来存つめたのと云はづはないこと。物さしか一尺と存つめたと云と、又きわまりないか尺度權衡の御影なり。然に学者かをれも少と学問始めやふと云。少とては間にあわぬ。たっふりてなければならぬは天下の道理を掛て見ること。それか春秋の秤て、臣弑其君弑其父と云ときに、春秋を作って鑑か權なり。それゆへ春秋と中庸か喰ひ合せにならずにひったりと一つなり。
【解説】
「若以手足胼胝閉戸不出二者之閒取中、便不是中。若當手足胼胝、則於此爲中。當閉戸不出、則於此爲中。權之爲言、秤錘之義也」の説明。禹稷と顔回の中間を中と言うのではなく、権でもない。禹稷が夜中でも駆け歩き、顔子はいつも門を閉じているのが中である。権は天下の道理を見る秤だから、たっぷりとなければならない。
【通釈】
「手足胼胝」。孟子の語。禹稷と顔回のことで、老中と隠者のこと。それがどちらもよい。「胼胝」。色々な訳もあるが、草鞋蛸のことと言うのがよい。子莫が出て、両人の間のよいほどと言うのは中ではない。「中無定体」である。禹稷の身分なら夜中でも駆け歩き、顔子は門を閉じている。それは私と寛喜である。医者は夜中に乗って歩く。儒者が一番鶏に太極図説の講釈をするのは戯けたこと。人の身分の釣り合いが違う。そこが権である。秤によい加減ということはない。一匁は一匁、百匁は百匁である。秤の方に足掻きがある。道理もそれと同じ。厳しい顔をして年来より知り詰めたと言う筈はない。物差しが一尺と存じ詰めたとは言わない。極まりないのが尺度権衡のお影である。それなのに、学者が俺も少し学問を始めようと言う。しかし、少しでは間に合わない。たっぷりでなければならないのは、天下の道理を掛けて見ることだからである。それが春秋の秤であって、「臣弑其君弑其父」と言う時に、春秋を作って鑑とするのが権である。それで春秋と中庸に齟齬が生じず、ぴったりと一つになるのである。
【語釈】
・孟子…孟子離婁章句下29。「禹・稷當平世、三過其門而不入。孔子賢之。顏子當亂世、居於陋巷、一簞食、一瓢飮。人不堪其憂、顏子不改其樂。孔子賢之」。
・子莫…孟子尽心章句上26。「孟子曰、楊子取爲我。拔一毛而利天下、不爲也。墨子兼愛。摩頂放踵、利天下爲之。子莫執中。執中爲近之、執中無權、猶執一也。所惡執一者、爲其賊道也。舉一而廢百也」。
・中無定体…中庸章句2集註。「蓋中無定體、隨時而在。是乃平常之理也」。
・寛喜…
・臣弑其君弑其父…孟子滕文公章句下9。「世衰道微、邪説暴行有作。臣弑其君者有之。子弑其父者有之。孔子懼作春秋」。

中庸を心法と云へは事てないやうなれとも、其事は心てなけれはさばけぬ。伊川のやふにすますて春秋なり。後世以天祖春秋と序にあるも、史傳の氣て、あいらか見るてやと云語意か大ふ伊川の卑く見られたなり。いかさま今左氏自慢が無如中庸と云ことなど夢にも知ぬこと。左傳の正義がうるさいほど説て有ても、この章のやうにちらりと奥旨を云ことはならぬ。俗儒のは一日抹香をたくやうなもの。伊川のは一寸でも蘭麝待なり。偖、たん々々權を説と權好がある。漢の世、權変權術かそれ。謀叛人か湯武を假りて大逆無道をする。それで權に用心か入る。手水瓶には用心はいらぬか、火打箱には用心入るなり。若林が、権道を尤といふ其人はなににつけても心元なしと云も尤なこと。
【解説】
事は心でなければ捌けないから春秋を中庸で捌く。但し、世の中には権好きがいて、謀叛人が湯武を借りて大逆無道をするから、権には用心が要る。
【通釈】
中庸を心法と言えば事に関したことでない様だが、事は心でなければ捌けない。伊川の様に済ますのが春秋である。「後世以史視春秋」と春秋伝の序にあるのも、史伝の気で奴等が見ているという語意で、伊川が彼等を大分卑く見られたもの。いかにも、今左氏自慢の者には「無如中庸」ということなどは夢にもわからないこと。左伝の正義が煩いほど説いてあっても、この章の様にちらりと奥旨を言うことができない。俗儒のは一日中抹香を焚く様なもの。伊川のは一寸でも蘭奢待である。さて、段々と権を説けば権好きがいる。漢の世の権変権術がそれ。謀叛人が湯武を借りて大逆無道をする。それで権には用心が要る。手水瓶に用心は要らないが、火打箱には用心が要る。若林が、権道を尤もと言うその人は、何につけても心元なしと言うのも尤もなこと。
【語釈】
・後世以天祖春秋…致知61。「後世以史視春秋」。
・蘭麝待…聖武天皇の時代、中国から渡来したという名香。

そこで、何者為權義也時也と云て釘を打つ。義なりは精義入神の義ぎり々々を云、時世か義の上にあるか面白。義と云へとも時かある。湯武の放伐へあてて見へし。湯武ほとても上に桀紂かなけれはならぬ。そこか義なり。垩人に分上になら子ばならぬこと。義か誰上にもあれとも、古今垩人はたまさか。又、桀紂ほどな悪王もないを見よ。時と云かそこなり。善の至極と悪の至極の出てくはしたか時也。義かありても時かなければならぬ。そこで孔子もならぬ。春秋の天子に桀紂のやふなはない。それて天も孔子へ放伐は云付ぬ。孔子は上に桀紂なく放伐せす。只御馳走に麒麟なり。あのきりんは天下の為には何の役にたたぬ。それよりは孔子を天子にするかよけれとも、春秋の天子か桀紂でないゆへ放伐を天から命せられぬ。そこを時也と云、これか序にある順天應時之治不復有之なりはそこなり。
【解説】
「何物爲權。義也。時也」の説明。権をするのは義と時に由る。義とは「精義入神」の義の至極を言う。湯武という善の至極と桀紂という悪の至極がいたから放伐ができたが、孔子の場合には悪の至極がいなかったので放伐ができなかった。
【通釈】
そこで、「何者為権義也時也」と言って釘を刺す。「義也」は「精義入神」の義の至極を言う。時世が義の上にあるのが面白い。義と言っても時がある。湯武の放伐へ当てて見なさい。湯武ほどでも上に桀紂がいなければ放伐はできない。そこが義である。聖人は分上にならなければならない。義は誰の上にもあるが、古今聖人は滅多に出ない。また、桀紂ほどの悪王も滅多にいないのを見なさい。時と言うのがそこのこと。善の至極と悪の至極の出会ったのが時である。義があっても時がなければならない。そこで孔子も放伐ができない。春秋の天子に桀紂の様な者はいない。それで天も孔子へ放伐を言い付けない。孔子は上に桀紂がいないので放伐をしない。ただその御馳走に麒麟である。あの麒麟は天下のためには何の役にも立たない。それよりは孔子を天子にする方がよいが、春秋の天子が桀紂ほどでないので放伐を天から命ぜられない。そこを「時也」と言う。春秋伝序にある「順天応時之治不復有也」はそのことを指すものである。
【語釈】
・精義入神…易経繋辞伝下5。「精義入神、以致用也」。
・麒麟…春秋。「西狩獲麟」。

只是説得到義云々。学者の咄は義なりきり々々のこと。それゆへ義の上は相談ならぬなり。在人自看如何は權道を斯云あやと知てをるはかり、仕舞てをく計りなり。平人も權はなれとも、某前に云、知に有多少般數と云ごとく、權にも少との權は我々もする。不断は親の前てあたまを下けるか、親の目を廻したとき、親をまたいて藥箱の延齡丹を取てもよい。孟子嫂溺るに救ふに手を以てなり。不埒と云ことてない。看如何か二つの者の中をとるか中てないもここなり。春秋中庸の两方て見たらすめよふなり。
【解説】
「只是説得到義。義以上更難説。在人自看如何」の説明。学者へは義の極致を説くだけである。春秋と中庸の両方で見れば済める。
【通釈】
「只是説得到義云々」。学者への話は「義也」の極致のこと。それで、義の上は説き難い。「在人自看如何」は、権道をこの様な綾だと知り、仕舞って置くだけのこと。平人も権はでき、私が前に「知有多少般数」と言った様に、一寸の権は我々もする。普段は親の前で頭を下げるが、親が目を回した時は親を跨いで薬箱の延齢丹を取っても構わない。孟子が言った、嫂が溺れれば手を使って救うである。それは不埒と言うことではない。「看如何」で、二つの者の中を執るのが中でないのもここのこと。春秋と中庸の両方で見たら済めることだろう。
【語釈】
・知に有多少般數…致知8。「知有多少般數、煞有深淺」
・嫂溺るに救ふに手を以て…孟子離婁章句上17。「嫂溺不援、是豺狼也。男女授受不親、禮也。嫂溺援之以手者、權也」。


第六十五 春秋傳爲按条

春秋、傳爲按、經爲斷。又云、某年二十時看春秋。黄聱隅問某如何看。某答曰、以傳考經之事迹、以經別傳之眞僞。
【読み】
春秋は、傳を按と爲し、經を斷と爲す。又云う、某年二十の時に春秋を看る。黄聱隅某に如何にして看るかを問う。某答えて曰く、傳を以て經の事迹を考え、經を以て傳の眞僞を別く、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある伊川の語。

断按つついた文字と合点すべし。决断の断なり。按。相よみにするを云。断は表向、按は後にをいて見合にする。孔子の春秋何々は断なり。左丘明か長ひことは按にする。この訳ゆへ左傳かすてられぬ。柳橋の老人か錢もなくて左傳を買たか尤なり。左傳かないと春秋は何じゃと思ふ。とかく相よみがなければ其意は知れぬ。断は進物なり。金百疋と書てをくなり。歴々にこれは少ひと思ひ左傳を見ると、あの國近年殊の外凶年なり。そこで相よみになりて大きな手抦有ものなり。細字。以傳考經之事跡云々。經のあやか左傳ですむ。そこで調法なり。以經別傳之眞偽。直方先生、左傳があてにならぬと云。又、あてにならぬは左傳の君子となり。家語も礼記も孔子めかぬことあり。老子の氣に入ことを孔子にしてある。そこで此心得が家語や礼記にも入る。左傳は出来過る。春秋は大名のやふなもの。左傳は留主居や御城の坊主のやふなもの。御坊主がなければならぬが、取持が出来過るとわるい。左氏が十方もないことを孔子の領分へ入れたが、それが經で眞偽がわかる。
【解説】
「断」は決断の断で、「按」は読み合わせること。左丘明が左氏伝を書いたので、春秋を読む際にはそれで突き合わせることで意がわかる様になる。直方が左伝は当てにならないと言ったが、それは左伝が出来過ぎているからである。そこで、経によってその真偽を量るのである。
【通釈】
「断」と「按」は続いた文字だと合点しなさい。決断の断である。按。読み合わせをすることを言う。断は表向きで、按は後ろに置いて見合いにする。孔子の春秋に書かれているのは断である。左丘明が長々と書いた左氏伝は按でなる。このわけなので左伝が捨てられない。柳橋の老人が銭もなくて左伝を買ったのが尤もなこと。左伝がないと春秋は何のことかと思う。とかく読み合わせをしなければその意は知れない。断は進物である。金百疋と書いて置く。歴々に対してこれでは少ないと思って左伝を見ると、あの国は近年殊の外凶年だった。そこで、読み合わせることで大きな手柄となることもある。細字。「以傳考経之事跡云々」。経の綾が左伝で済む。そこで調法なのである。「以経別伝之真偽」。直方先生が、左伝は当てにならないと言った。また、当てにならないのは左伝にある君子だとも言った。家語にも礼記にも孔子らしくないことがある。老子が気に入ることを孔子のことにして載せている。そこで、この心得が家語や礼記にも要る。左伝は出来過ぎている。春秋は大名の様なもので、左伝は留守居やお城坊主の様なもの。御坊主はいなければならないが、取持ちが出来過ぎると悪い。左氏が途方もないことを孔子の領分へ入れたが、経によってその真偽がわかる。
【語釈】
・左丘明…春秋時代、魯の太史。学を孔子に受けた。「春秋左氏伝」「国語」の著者と伝える。
・柳橋の老人…大原要助。大網柳橋の人。


第六十六 凡讀史云々条

凡讀史、不徒要記事迹、須要識其治亂安危・興廢存亡之理。且如讀高帝紀、便須識得漢家四百年終始治亂當如何。是亦學也。
【読み】
凡そ史を讀むには、徒[ただ]に事迹を記するを要するのみならず、須く其の治亂安危・興廢存亡の理を識るを要すべし。且く高帝紀を讀むが如き、便ち須く漢家四百年の終始治亂は當に如何なるべきかを識り得べし。是も亦學なり。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

春秋から廣く史傳へかける。上の眞偽の字から廣く云。史を見る人か事跡はかり覺たがるもの。俗人が今日三國誌や軍談もの見るも事跡を覺るからのこと。芝居を見るやうなもの。そこで辻講釈を聞くも只面白ひからそ。道理沙汰はなし。其やうなよみやうはわるい。之理は、史傳に治乱安危云々の、世のかわりてああなるか皆理のあること。病人の皃を見て病を知るやふなもの。さま々々史傳を讀も、斯なるはつと云処のこと。あの大酒ては吐血せふと理を知る。こふなる筈々々々々々の筈を見るへし。三代をのけては漢唐なり。高祖が豪傑て天下を切開て、春秋から戦國につついてあの乱逆の靜りたは先漢なり。高祖本義を見ても、あの四百年を見てとること。こまかに勘定すれは四百十年ほとなり。然るに三代の通に行ぬ筈かある。そこが見とりの大切なり。
【解説】
史を見る人が事跡ばかり覚えたがるが、それでは道理の沙汰はなく、悪い。史を見るのも、こうなる筈という理を知るためであり、それには三代の外では漢唐で知るのがよい。高祖本義を見るのもあの四百年の理を見て取ることだが、それが三代と違うことを知るのが大切である。
【通釈】
春秋から広げて史伝について語る。前条の「真偽」の字から広く言う。史を見る人が事跡ばかり覚えたがるもの。俗人が今日三国志や軍談ものを見るのも事跡を覚えるためのことで、それは芝居を見る様なもの。そこで、辻講釈を聞くのもただ面白いからであって、道理の沙汰はない。その様な読み方は悪い。「之理」とは、史伝には「治乱安危云々」があるが、世が変わってあの様になるのは皆理があるということ。病人の顔を見て病を知る様なもの。様々な史伝を読むのも、こうなる筈という処を知ること。あの大酒では吐血するだろうと理を知る。こうなる筈の筈を見なさい。三代を除いては漢唐で理を知るのがよい。高祖が豪傑で天下を切り開き、春秋から戦国へと続いたあの乱逆が静まったのは先ず漢である。高祖本義を見るのも、あの四百年を見て取ること。細かく勘定すれば四百十年ほどのこと。しかし、三代の通りに行かない筈がある。そこが見取りの大切なところ。

周の天下は詩の始の關雎なり。あれは夫婦中のことなれとも、あれて周の治の蹴出しになる。高祖が三尺の劔を引提て、手抦は大いか周とはあたまからか違ふ。戚夫人とたわむる。周昌か見付たか、そふしたことか三代にあらんや。そこで漢か治りたやふても、いつもぶつくさ々々々々している。執其中てない。あのとき底のよい分で、知は張良、事功の上は陳平。いつも々々々上手をした切れものともなり。迂詐はかりつくなり。あの韓信を手もなくつかまへた。あれを使ふほと使て呂后の刑罸、さて々々むごいこと。なるほと周とは大に違ふは云もをろかなことぞ。漢唐の間は皆覇王で、大学の序、非後世之所能及が、いかほど太平でもほんのことてはないは高祖から見へてあり。是もまた学也。目の付け処。致知のことを云。佐々木四即が浦人を殺し、信玄が信虎を逐ふたも一大事ありと思ふが、垩賢は殺一不辜得天下不爲と云。そこのこと。管仲も人欲をふせくことはせす、只天下を平治せふとかかる。桓公か云ことをあい々々と云てをる。三公の居て道を談するとは雲泥そ。
【解説】
漢唐の間は皆覇王で、どんなに太平でも本当のことではない。それは高祖の時から見えていて、周の時とは大きく違ったものである。
【通釈】
周の天下は詩の始めにある關雎である。あれは夫婦仲のことだが、あれで周の治の始まりになる。高祖が三尺の剣を引提げて、手柄は大きいが周とは出だしからが違う。戚夫人と戯れ、それを周昌が見付けたが、そうしたことが三代にあっただろうか。そこで漢は治った様でも、いつもぶつくさとしていて、「執其中」でない。あの時節に体のよかった者は、知は張良、事功の上は陳平で、彼等はいつも上手く捌いた切れ者共である。嘘ばかり吐く。あの韓信を簡単に捕まえた。あれを使いたいほど使って置いて呂后の刑罰、本当に酷いこと。なるほど周とは大いに違うのは言うも愚かなことである。漢唐の間は皆覇王で、大学の序に「非後世之所能及」とあるが、どんなに太平でも本当のことでないことは高祖の時から見えてある。「是亦学也」。目の付け処で、致知のことを言う。佐々木四郎が浦人を殺し、信玄が信虎を逐ったのも一大事があってのことだとは思うが、聖賢なら「殺一不辜得天下不爲」と言う。そのことである。管仲も人欲を防ぐことはせずに、ただ天下を平治しようと掛かる。桓公が言うことをはいはいと言っている。三公がいて道を談ずるのとは雲泥の違いである。
【語釈】
・關雎…詩経国風周南。「關關雎鳩、在河之洲窈窕淑女、君子好逑」。
・戚夫人…戚姫。高祖の側室。呂后によって人豚にされる。
・周昌…高祖の臣。高祖と戚姫との抱擁を見てしまう。また、高祖が呂后の子を廃して戚姫の子を太子にしようとしたのを諫めた。
・佐々木四即…佐々木高綱。鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。近江源氏の一族。四郎と称。1180年(治承四)石橋山の戦に殊功を立て、宇治川の戦に梶原景季と先陣を争い、第一となる。のち剃髪して高野に入り、西入と号したという。~1214
・殺一不辜得天下不爲…孟子公孫丑章句上2。「伯夷・伊尹於孔子、若是班乎。曰、否。自有生民以來、未有孔子也。曰、然則有同與。曰、有。得百里之地而君之、皆能以朝諸侯、有天下。行一不義、殺一不辜、而得天下、皆不爲也。是則同」。
・三公…中国で最高の位にある三つの官職。周の太師・太傅・太保。


第六十七 先生毎讀史の条

先生毎讀史到一半、便掩卷思量、料其成敗、然後卻看。有不合處、又更精思。其閒多有幸而成、不幸而敗。今人只見成者、便以爲是、敗者便以爲非。不知成者煞有不是、敗者煞有是底。
【読み】
先生史を讀みて一半に到る毎に、便ち卷を掩いて思量し、其の成敗を料りて、然して後卻って看る。合わざる處有れば、又更に精思す。其の閒に多く幸にして成り、不幸にして敗るる有り。今人は只成る者を見れば、便ち以て是と爲し、敗るる者は便ち以て非と爲す。成る者に煞[はなは]だ是ならざる有り、敗るる者に煞だ是なる底[もの]有るを知らざるなり。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある伊川の語。

これらは面白ひこと。今日の人の思ひよらぬ手段なり。史傳を半分見て巻を掩て置て、これては此國は長くつつくまいの、斯云仕かけては天下を治めやふなとと見る。とのやふなことなれば、以誰為相とあるを、これは跡かわるかろふと考て見るに、果してわるい。又賢宰相を挙てよいことあり。さてこそと云。或はわるいこともある。それもこれゆへと知る。又更精思。賢者が出てわるいは理外のことなれは、又わけか有ふと見る。幸而成不幸敗。ここか理外なり。下手の医の活すことあり。上手か十分の療治てころすことあり。成敗て理のつけられぬかそこなり。只の人の史傳を見るは定て博奕打の詞てあろふか、俗語に勝方守と云ことあり。平人の通情は、事の成就したことは理にそむいてもよいと思ふか情けないことて、とかく成敗て見るゆへ、よけれはこそ、あの人の代に金かたまったと云。それは下人の何知らぬもののことゆへ余義もないか、学者も兎角皆それか出たがる。成就をはよいと思ふ。孔子の成たことなし。圍之不克と云、陳恒弑其君沐浴而朝すと云ても成就はせぬか、垩人のことゆへ皆よい。司馬懿は成、孔明は間もなく死た。魏は成、漢は潰れたか、然れとも蜀が正統なり。日本で楠は孔明と同格の人なれとも、湊川て討死せり。然れは敗れたかわるいてはない。朱子の左丘明を呵り、利害を顧る男と云はるる。利害を主にし、羽ぶりのよい方へついて義理にかからぬ。公羊穀梁は事を曉らぬがとふしても儒者じゃと誉てあるもそこなり。
【解説】
普通の人は事が成就すれば理に背いてもよいと思うが、学者にもそれがある。孔子は成ったことがないが、それでも皆よい。成敗は理とは別なことである。左伝を書いた左丘明は利害を主にし過ぎる。
【通釈】
これ等が面白いこと。今日の人には思いも寄らない手段である。史伝を半分見て巻を掩って置き、これではこの国も長くは続かないだろうとか、この様な仕掛なら天下を治められるだろうなどと見る。それはどの様なことかと言うと、誰を宰相にしようとあれば、これでは跡が悪いだろうと考えて見ると、果たして悪い。また、賢い宰相を挙げてよいことがある。全くその通りだと言う。或いはそれで悪いこともある。しかし、それもこのわけがあるからだとわかる。「又更精思」。賢者が出て悪くなるのは理の外のことなので、またわけがあるのだろうと見る。「幸而成不幸敗」。ここが理の外のこと。下手な医者が活かすこともある。上手な医者が十分な療治で殺すこともある。成敗で理を量れないのがそこのこと。普通の人が史伝を見るのは、きっと博奕打ちの詞だろうが、俗語に「勝方守」ということがあるが、それである。平人の通情では、事が成就すれば理に背いてもよいと思うが、それが情けないことで、とかく成敗で見るので、成ればこそ、あの人の代に金が貯まったと言う。それは何も知らない下人だから余儀もないが、学者もとかく皆それが出たがる。成就をよいと思う。孔子は成ったことがない。「圍之不克」や「陳恒弑其君沐浴而朝」とあっても成就はしなかったが、聖人のことなのでそれが皆よい。司馬懿仲達は成り、諸葛亮孔明は間もなく死んだ。魏は成って漢は潰れたが、しかし蜀が正統である。日本で楠は孔明と同格の人だが湊川で討死した。そこで、敗れたのが悪いということではないのである。朱子が左丘明を呵り、利害を顧みる男だと言われた。利害を主にして、羽振りがよい方へ就いて義理に掛からない。公羊や穀梁は事を明らかにしないところが、どう見ても儒者だと褒めてあるのもそこのこと。
【語釈】
・勝方守…
・圍之不克…論語序説。「十二年癸卯、使仲由爲季氏宰。墮三都、收其甲兵。孟氏不肯墮成。圍之不克」。
・陳恒弑其君沐浴而朝す…論語憲問22。「陳成子弑簡公。孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆弑其君。請討之」。


第六十八 讀史須見垩賢所存治乱之機条

讀史、須見聖賢所存治亂之機、賢人君子出處進退。便是格物。
【読み】
史を讀むには、須く聖賢存する所の治亂の機、賢人君子の出處進退を見るべし。便ち是れ格物なり。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある伊川の語。

所存の字が見にくい。治乱の上なれとも垩賢を出してみよと云こと。迂斎の説に、史傳のことてなく論孟の上て、孔孟の云たことを史傳へかけて見よとなり。史傳ぎりて見ずに垩賢の機をかけて見よと云こと。垩賢に叛ひたことは乱れ、守りたは治る。一家仁則一国興仁と云、あれも史へあてて見ると所存治乱之機なり。史記や左傳へかけるとそふなり。なるほとすむなり。之機はちらりとした処から云。天下は乱る。唐の代の乱れか即天が大の美人。其上に楊貴妃なり。唐の乱初めは一人の娘なれとも、あの通なり。ちらりなり。そこへ太宗が氣がつかぬ。武氏か天下をつふすと云太史の占からして、情けないことには武と云字のせんぎあり、武安李君羨を不軌て謀ると奏したれは、直に殺したはあまり太宗も埒もないことなり。天下を潰すもの宮中にありと云ても、武后はまた振袖て三味線なり。昨日も靎林玉露で感嘆したが、太宗の獅子驄と云悪馬を、即天がこしもとのときに、あれに騎やふかある、初は鐡の鞭、それてゆかすは鐡撾[てこ]、それてもゆかずは匕首て其喉をえくると云。あのときもふ、即天か首をきる筈なり。あそこに唐をつぶすものを持ているに、太宗は娘と思ふて居る。そこで機の処か史を見るの大切なり。賢人君子出處云々。あの人の御役願いを出したは只偏屈とはかり思ふが、そふてない。もう風か替りた。只荷を仕廻子ばならぬと云へきはつなり。孔孟などの去るほどなれば、跡にろくなことないと、ここか史傳の見やうなり。
【解説】
迂斎は論孟で言うことを史伝へ掛けて見ないさいと言ったが、それは聖賢の機を史伝へ掛けて見なさいということ。「之機」はちらりとしたこと。唐が滅んだのも、太宗が武則天をただの娘とばかり見て、機を見なかったからである。「賢人君子出処」も、孔孟が去るほどのことなら、その跡には碌な事はないと見ること。
【通釈】
「所存」という字がわかり難い。治乱の上のことだが聖賢を出して見なさいということ。迂斎の説に、史伝のことでなく論孟の上から、孔孟の言ったことを史伝へ掛けて見ないさいとある。史伝とだけ見ないで聖賢の機を掛けて見なさいということ。聖賢の言に叛くのは乱れで、聖賢の言を守れば治まる。「一家仁則一国興仁」とあるが、あれも史へ当てて見ると「所存治乱之機」である。史記や左伝へ掛けるとそうなる。なるほど、済む。「之機」はちらりとした処から言う。天下は乱れる。唐の代の乱れも武則天が大の美人で、その上に楊貴妃がいたからである。唐の乱の初めは一人の娘からであって、それもあの通り、ちらりとしたことから。そこに太宗が気が付かない。武氏が天下を潰すと言った太史の占いからして情けないことで、武という字の詮議をして、武安李君羨が謀叛をすると上奏したので直ぐに殺したが、太宗もあまりに埒もないことをしたものである。天下を潰す者が宮中にいると言っても、武后はまだ振袖で三味線をしている歳。昨日も靎林玉露を読んで感嘆したが、太宗の獅子驄という悪馬を、武則天が腰元の時に、あれにも騎り様があると言った。初めは鐡の鞭、それで駄目なら鐡撾、それでも駄目なら匕首でその喉をえぐると言った。あの時既に則天の首を切るべきだった。そこに唐を潰すものを持っているのに、太宗は娘と思っている。そこで機の処が史を見る大切なところとなる。「賢人君子出処云々」。あの人が御役願いを出したのはただ偏屈だからとばかり思うが、そうではない。もう風か変わった。それならもう荷を仕舞わなければならないと言うべき筈である。孔孟が去るほどのことなら、その跡には碌な事はない。ここが史伝の見方である。
【語釈】
・一家仁則一国興仁…大学章句9。「一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓。一人貪戻、一國作亂。其機如此。此謂一言僨事、一人定國」。
・即天…武則天。唐の高宗の皇后。姓は武。中宗・睿宗を廃立、690年自ら即位、則天大聖皇帝と称し、国号を周と改めた(武周)。624頃~705
・太宗…李世民。唐の第二代皇帝。高祖李淵の次子。玄武門の変で兄弟を殺し、父高祖に迫り譲位させて即位。天下統一を完成し、律令を制定、軍制を整備、いわゆる貞観の治をしいた。598~649
・太史…中国古代の官名。記録をつかさどった史官。
・武安李君羨…武安の李君羨。「唐三代後有女王武氏滅唐」という預言によって、何の罪もないのに太宗に殺される。
・不軌…謀叛を企てること。反逆。
・靎林玉露…詩話・語録・小説の体で、文人・道学者・山人の語をのせ、朱熹・張栻などの語を引き、欧陽修・蘇軾の文を称揚した書。天地人の三集に分ち、一八巻。宋の羅大経の著。1251年成る。


第六十九 元祐中客見伊川条

元祐中、客見伊川者。几案閒無他書、惟印行唐鑑一部。先生曰、近方見此書。三代以後、無此議論。
【読み】
元祐中、客に伊川に見ゆる者有り。几案の閒他書無く、惟印行の唐鑑一部のみ。先生曰く、近ごろ方[はじ]めて此の書を見たり。三代以後、此の議論無し、と。
【補足】
・この条は、程氏外書一二にある伊川の語。

誰かまいりてのこと。几の上に論孟も詩書もなく、板行ものは唐鑑ばかりなり。それが我弟子の范淳夫の書なり。其上に客へ對して云に三代以後無此義論と、きつい御稱美なり。これは上の成者煞有不是云々へ持て行て見るがよひ。范淳夫は道理が主なり。利害にかまわぬ。左傳を始め史記漢書は義理がさへぬ。殺一不辜不爲の立かはぜぬ事はかりて義理を正面にせぬ。三代以後無此議論は義理が主ゆへ誉らるる。孟子七篇の始に義利の弁もここなり。范淳夫は才力のたぎりたではないか、義理を主にする人なり。朱子も唐漢を足りぬと云たこともあり、只今某が見ても眞西山の大学衍義などはさへぬ。この条、それを云たことでなく、義理のことを云が三代垩賢の意に叶ふたゆへなり。利害にまみれぬ論で、其上又のっしりと三代名王のときの賢臣が云たやふな氣象ぞ。唐鑑を見ればよく見へるなり。平正な文字なり。
【解説】
唐鑑は弟子の范淳夫が著した書で、范淳夫は道理を主とし、利害に構わない人だった。「三代以後無此議論」は、義理が主となっていることを褒められたものである。
【通釈】
誰かが来てのこと。几の上に論孟も詩書もなく、印刷本は唐鑑だけだった。それが自分の弟子の范淳夫の書である。その上、客に対して「三代以後無此議論」と言ったのは、かなりの称美である。これは上にある「成者煞有不是云々」へ持って行って見るのがよい。范淳夫は道理を主とし、利害に構わない人である。左伝を始め、史記や漢書は義理が冴えない。「殺一不辜不為」をする筈がつまらない事ばかりで義理を正面にしていない。「三代以後無此議論」は義理が主なので褒められたのである。孟子七篇の始まりに義利の弁があるのもここのこと。范淳夫は才力の滾った人ではないが、義理を主にする人である。朱子も唐鑑を足りないと言ったこともある。只今私が見ても真西山の大学衍義ほどには冴えない。しかし、この条はそれを言ったのではなく、義理のことを言ったのであって、これが三代の聖賢の意に叶っているから載せたのである。利害にまみれない論で、その上またのっしりと三代名王の時の賢臣が言った様な気象である。唐鑑を見れば、それがよく見える。ここは、平正な文章である。
【語釈】
・唐鑑…宋の范淳夫著。唐の高宗から宣宗までの大綱を取り、論評を加えた。24巻。
・范淳夫…范祖禹。司馬光の門人。1041~1098
・成者煞有不是云々…致知67の語。
・殺一不辜不爲…孟子公孫丑章句上2。「伯夷・伊尹於孔子、若是班乎。曰、否。自有生民以來、未有孔子也。曰、然則有同與。曰、有。得百里之地而君之、皆能以朝諸侯、有天下。行一不義、殺一不辜、而得天下、皆不爲也。是則同」。
・義利の弁…孟子梁恵上章句1。「孟子見梁惠王。王曰、叟、不遠千里而來。亦將有以利吾國乎。孟子對曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣」。


第七十 横渠先生曰序卦云々の条。

横渠先生曰、序卦不可謂非聖人之蘊。今欲安置一物、猶求審處。況聖人之於易。其閒雖無極至精義、大概皆有意思。觀聖人之書、須遍布細密如是。大匠豈以一斧可知哉。
【読み】
横渠先生曰く、序卦は聖人の蘊に非ずと謂う可からず。今一物を安置せんと欲するも、猶審らかに處せんことを求む。況や聖人の易に於るや。其の閒極至の精義無しと雖も、大概皆意思有り。聖人の書を觀るには、須く遍布細密なること是の如くなるべし。大匠は豈一斧を以て知る可けんや。
【補足】
・この条は、張横渠の易説下序卦にある。

十翼の内の序卦傳の論と方をつけへし。十翼の終りに序卦がある。それを先儒が、垩人にあのやうな一寸したことてはあるまいと云た。それを不可謂か横渠なり。今欲安置一物云々。序卦傳は易の卦の幷へやうの順の理屈なり。有天地然後萬物生焉と乾坤より段々上下經の次第を書けり。今一寸道具を幷べるさへそれ々々幷べやうがあるに、まして垩人の易となり。土用干でも、せいろふが酒樽のわきへ掛物や目貫はをかぬか、刀の脇へ印篭。それから衣類と云やふに幷へて、そこへからくた道具は出さぬ。然るに垩人の易の幷べやふにどふてもよいと云はづはない。乾坤より坎離、咸恒より既済未済と斯ふあるべき自然なり。序卦傳か説らしく面白ふもないゆへ垩人の蘊てないと云へとも、をもあくあること。然し大ふ訳のあることてもない。偖、ものは幷へやふなり。司馬選が道既通と孟子をよく見たれとも、日光膳で食せる客なみにした。屈原が脇へ呂不韋は取合ぬ相客なり。
【解説】
「横渠先生曰、序卦不可謂非聖人之蘊。今欲安置一物、猶求審處。況聖人之於易。其閒雖無極至精義、大概皆有意思」の説明。これは、序卦伝が聖人の書ではないとする意見に対しての横渠の反論である。序卦伝は易の卦の並べ順を説いたもので、大したわけがあるのではないが、並べ様がどうでもよい筈はない。
【通釈】
易の十翼にある序卦伝の論だと捉えなさい。十翼の終わりに序卦がある。それを先儒が、あの様な一寸のことは聖人が書いたのではないだろうと言った。それを「不可謂」と言ったのが横渠である。「今欲安置一物云々」。序卦伝は易の卦の並べ順に関しての理屈である。「有天地然後万物生焉」と乾坤より段々と上下に経の次第を書いたもの。今一寸道具を並べるのにさえそれぞれの並べ様があるのに、ましてや聖人の易だからだと言う。土用干でも、蒸籠は酒樽の脇へ、掛物や目貫は置かない。刀の脇へ印籠。それから衣類という様に並べて、そこへがらくた道具は出さない。そこで、聖人の易の並べ方がどうでもよいと言う筈はない。乾坤より坎離、咸恒より既済未済とこの様にあるべきであって、それが自然である。序卦伝が説らしくなく、面白くもないので聖人の蘊ではないと言うが、それには思惑がある。しかし大きなわけがあるのでもない。さて、ものは並べ様である。司馬遷が「道既通」と孟子をよく見たが、日光膳で食わせる様な客扱いをした。屈原の脇へ呂不韋は、取り合わない相客である。
【語釈】
・有天地然後萬物生焉…易経序卦伝。「有天地然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物」。
・道既通…史記孟子荀卿列伝。「孟軻、騶人也。受業子思之門人。道既通、游事齊宣王、宣王不能用」。孟子序説にもある。

觀垩人之書須遍布細密如是。爰の点、如此より觀の字へかえりてよかろふ。然しあの点ても通するやうなり。序卦傳は垩人の蘊てないと云にたたりた語なり。繋辞傳から十翼を段々讀て、序卦傳ではこの位と見べきことなり。本膳後段も取れ、跡で煎餅出し、茶と云やふなもの。朝からのこと見子ば知れぬ。三汁五菜のあとでせんべいや梨子を見るなり。孔子か序卦傳はかりをなされて外の傳かなくは、いかさま不馳走なり。大匠豈以一斧可知哉。棟梁が斧て一つ切たてはしれぬが、七堂伽藍を立た手際てしるる。遍布細密を繋辞から段々へ當て、一斧を序卦へあてる。序卦傳はかりてはそしるはつ。遍布すると序卦も尤と見へて来ると云の譬なり。
【解説】
「觀聖人之書、須遍布細密如是。大匠豈以一斧可知哉」の説明。序卦伝だけでは譏るのも当然だが、繋辞伝から遍布細密に吟味すれば、序卦伝のあるのも尤もなことだとわかる。
【通釈】
「観聖人之書須遍布細密如是」。ここの点は「如是」から「観」の字へ返るのがよいだろう。しかし、あの点でも通じる様である。序卦伝は聖人の蘊ではないと言ったことに対して祟って言った語である。繋辞伝から十翼を段々と読んで、序卦伝はこの位のことだと見るべきである。本膳や後段も終わり、その後で煎餅を出して茶と言う様なもの。朝からのことは見なければわからない。三汁五菜の後で煎餅や梨子羹を見る。孔子が序卦伝ばかりをなされて他の伝がなければ、いかにも馳走とはならない。「大匠豈以一斧可知哉」。棟梁が斧で一つ切っただけではわからないが、七堂伽藍を建てた手際でその腕前を知ることができる。遍布細密を繋辞からの段々へ当てて、一斧を序卦へ当てる。序卦伝ばかりでは譏るのも当然である。遍布すると序卦も尤もなことと見えて来るというたとえである。
【語釈】
・後段…江戸時代、饗応の時に飯の後に他の飲食物を出したこと。


第七十一 天官之職の条

天官之職、須襟懷洪大、方看得。蓋其規模至大。若不得此心、欲事事上致曲窮究、湊合此心如是之大、必不能得也。釋氏錙銖天地、可謂至大。然不嘗爲大、則爲事不得。若畀之一錢、則必亂矣。又曰、太宰之職難看。蓋無許大心胸包羅、記得此、復忘彼。其混混天下之事、當如捕龍蛇搏虎豹。用心力看、方可。其他五官便易看。止一職也。
【読み】
天官の職は、須く襟懷の洪大なるべくして、方[はじ]めて看得。蓋し其の規模至大なればなり。若し此の心を得ず、事事上に曲を致して窮究し、此の心に湊合して是の如く大ならしめんと欲せば、必ず得ること能わざるなり。釋氏の天地を錙銖とするは、至って大なりと謂う可し。然れども嘗て大なることを爲さざれば、則ち事を爲し得ず。若し之に一錢を畀[あた]えば、則ち必ず亂れん。又曰く、太宰の職は看難し。蓋し許大なる心胸の包羅無くんば、此を記し得て、復彼を忘るればなり。其の混混たる天下の事は、當に龍蛇を捕え虎豹を搏[う]つが如くなるべし。心力を用いて看ば、方めて可なり。其の他の五官は便ち看易し。一職に止まればなり。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟一の周礼の条にある。

周礼の冢宰を云。下の大宰も一つ職なり。胷が大くなくては天官の職は見られまいなり。天下に宰相のあらぬことなし。そこて規模至大と云。周礼の天官をよむ人のことを云。今日の人の少のことにもあくむやうては、天官職は合点ゆかぬ。宰相は天下のこと。人を頼みにして、人になすることはならぬ。古今青雲の志は通情のぼりつめて一人になるを悦ぶ。めったに勤められぬこと。一統に官位に登るを只目出度恐悦なことと云へとも、襟懐洪大でなければ讀ことさへならぬなれば大なことそ。大名衆の家中の老職なと、君の昇進はかりを祈るは心得難ことなり。水心なく舟に乗ふと云、こわいことなり。
【解説】
「天官之職、須襟懷洪大、方看得。蓋其規模至大」の説明。天下に宰相が関わらないことはない。そして宰相はそれを自らの責任で行うのである。そこで「規模至大」と言う。
【通釈】
周礼にある冢宰を言う。下にある大宰も同じ職である。胸が大きくなくては天官の職は理解することができないだろう。天下に宰相が関わらないことはない。そこで「規模至大」と言う。ここは周礼の天官を読む人のことを言ったこと。今日の人が少しのことにも倦む様では、天官職は合点できない。宰相は天下のことをするが、それは人頼みにしたり、人のせいにすることはならない。古今青雲の志を持った者は通情で登り詰めて天下一の人になることを悦ぶが、宰相は滅多に勤められない。皆が官位に登るのをただ目出度い恐悦なことだと言うが、「襟懐洪大」でなければ読むことさえならないのだから大きなことである。大名衆の家中の老職などが君の昇進ばかりを祈るのは心得難きこと。水心なく舟に乗ろうと言えば、それでは怖い。
【語釈】
・冢宰…中国の官名。周代、天子を補佐し百官を統率した。天官の長。宰相。
・大宰…百官の長の意。古来、官名は「大」、地名は「太」と使い分ける。
・天官…周の六官の一。国政を総轄した。
・青雲の志…高位・高官の地位に到ろうとする志。立身出世しようとする功名心。

事々上致曲云々。天官を讀と巨細なことあり。細に一つ々々を皆合点と云が湊合なり。今一つ事を出して云に、天下の事と云ふと器量出すことと思が、それは後世の英雄豪傑、高祖や太閤めいた人がどふでもよいと器量て呑込。其様なことてなし。周礼は銘細なことて、天下の表向も、奥の女中も、朝夕の御膳部も皆こちのかかり。上一人の御心のこと。御德御行儀は勿論のこと、それを補佐するはかりてなく、ささいな君の一言一行も、起居飲食も、全体御養生の筋も皆こちへかかる。誠以夜の目も寢られぬこと。周公以夜継日と、六ヶしい公事てもさばくことのやふに思ふは、三代のことしらぬなり。大膽不歒、高祖太閤はそこをなくる。それを英雄の伯王と智巧の謀臣の術と云。周礼天官の職分が後世には似よらぬゆへ、經筵官の時にこまかを尽す。伊川、天子の御動靜日々のこと、經筵官一々承るやうになされ、可然と申立られた。いかさま君を堯舜にする心からは左もあるべきこと。一日哲宗御不例のとき、各々方にはそれを知ぬかと宰相へ伝たか不首尾の一つなり。冢宰の官は女中が一人奥へ出ても、それを瑣細なことと聞ぬふりせぬ。御德のかけになるを抑ること。それを何も知ずに變理阴阳の不親細事とはかり心得て、英雄豪傑と寛大弘量の職度あると思ふか、天官は大小巨細をこめて、さてそこに云へぬあんはいある掛引をする職ゆへ、垩賢の量がなければならぬ。孔明もあまり細過るやふなれとも、そこが前漢の初智謀の士と違ふ処なり。王佐の心の礼樂にちかしと云はそこなり。
【解説】
「若不得此心、欲事事上致曲窮究、湊合此心如是之大、必不能得也」の説明。天下の事と言えば器量のことで、英雄豪傑、高祖や太閤の様な人がしたことだと思うのは間違いである。天下の事とは君に対してのことを言う。宰相は君に関した大小巨細全てのことを行う。
【通釈】
「事々上致曲云々」。天官を読むと巨細なことがある。細かに一つ一つを皆合点すると言うのが「湊合」である。今一つ事を出して言えば、天下の事と言うと器量を出すことと思い、後世の英雄豪傑、高祖や太閤めいた人がどうしてもよいと器量のこととして呑み込むが、その様なことではない。周礼は明細なことで、天下の表向きも、奥の女中も、朝夕の御膳部も皆こちらの関わりである。上一人の御心に対してのことも、御徳御行儀は勿論のこと、君を補佐するだけでなく、些細な君の一言一行も、起居飲食も、全体御養生の筋も皆こちらの関わりである。誠に夜を以てで寝ている間はない。「周公以夜継日」を難しい公事でも捌くことの様に思うのは、三代のことを知らないのである。大胆不敵にも、高祖や太閤はそこを殴り捨てる。それを英雄の伯王と智巧の謀臣の術と言う。周礼天官の職分は後世では似通ったものがないので、経筵官の時に細かを尽くす。伊川が天子の御動静や日々のことについて、経筵官となって一々承る様になされ、然る可しと申し立てられた。いかにも君を堯舜にする心があるから、そうあるべきことである。ある日哲宗が御不例の時、各々方はそれを知らないのかと宰相に言ったのが不首尾となった原因の一つである。冢宰の官は女中が一人奥へ出ても、それを瑣細なこととして聞かない振りなどはしない。御徳の欠けになるのを抑えること。それを何も知らずに「変理陰陽」や「不親細事」とばかり心得て、英雄豪傑を寛大弘量の職度があると思うが、天官は大小巨細を込めて、さてそこに言うに言えない塩梅ある掛け引きをする職なので、聖賢の量がなければならない。孔明もあまりに細か過ぎる様だが、そこが前漢の初めの智謀の士と違う処である。王佐の心が礼楽に近いと言うのはそこのこと。
【語釈】
・膳部…調理を扱う人。料理人。膳部人。
・周公以夜継日…孟子離婁章句下20。「孟子曰、禹惡旨酒、而好善言。湯執中、立賢無方。文王視民如傷、望道而未之見。武王不泄邇、不忘遠。周公思兼三王、以施四事。其有不合者、仰而思之、夜以繼日。幸而得之、坐以待旦」。
・經筵…天子が経書の講義をきく席。また、経書を講ずる席。
・君を堯舜にする…為学1。「伊尹恥其君不爲尭舜」。
・變理阴阳…書経周書周官。「燮理陰陽、官不必備」。
・不親細事…漢書。「宰相不親細事」。
・王佐の心の礼樂にちかし…聖賢10。「孔明有王佐之心」。聖賢12。「孔明庶幾禮樂」。

釋氏錙銖天地云々若畀之一錢必乱矣。ここか靣白い。佛は天地を三分五厘にする見処なり。それを吾儒ては大と取らぬはなぜなれは、事をつかまへてすることかならぬ。天下の事はさてをけ、銭一文も使ふことは得なるまいと云。あまりな口上のやうなれとも、仏のぎり々々の内甲とを見ぬいたこと。あれか高大を云へとも、空理ゆへ云はるる。荘子か妄言も、事を捨るゆへ云れる。偖、一ち小く云ふとて一銭と云。これか譬諭なれとも、実事に云はは銭は空てないもの。そこで実事にはたらいて云ても聞へる。あの大な公義で上納のことに、銭百文はかり不足してもよいではない。米一舛もして上る。一舛はすてろとは云はぬ。天下ては一度に十万石も人に玉はるほどな大なことなれとも、筭用は銭百文ても実理できめる。政は碁盤の目をもると云かここなり。ここて仏は取みだして伸をして迯る。天下処てなく、家内さへあくむ。朱子の不堪煩の人と云へり。大なことを云、まぎらかしを云が空理ゆへ、大宰の職はならぬ。
【解説】
「釋氏錙銖天地、可謂至大。然不嘗爲大、則爲事不得。若畀之一錢、則必亂矣。又曰、太宰之職難看。蓋無許大心胸包羅、記得此、復忘彼」の説明。仏は天地を細に見て高大なことを言うが実事でない。彼等の言は空論なので、それでは銭一文も使うことはできない。
【通釈】
「釈氏錙銖天地云々若畀之一銭必乱矣」。ここが面白い。仏は天地を三分五厘にするのが見処である。それを我が儒では大きなこととして取らないのは何故かと言うと、彼等は事を掴まえてすることができないからである。それでは天下の事はさて置いて、銭一文も使うことはできないだろうと横渠は言った。それはあまりな口上の様だが、仏のぎりぎりの内冑を見抜いたこと。仏は高大なことを言うが、空理だから言うこともできる。荘子の妄言も、事を捨てるので言うことができる。さて、一番小さく言うので一銭と言う。これはたとえだが、実事で言えば銭は空ではないもの。そこで実事として言うのがよくわかる。あの大きな公儀でも、上納のことで銭百文ばかり不足してもよいということはない。米一升でもその通りに上納する。一升は捨てろとは言わない。天下では一度に十万石も人に賜わるほど大きなことがあるが、算用は銭百文でも実理で決める。政は碁盤の目を盛ると言うのがここのこと。ここで仏は取り乱して伸びをして逃げる。天下処の話ではなく、家内でさえ倦む。朱子が不堪煩の人と言った。大きなことを言い、まぎらかしを言うが、それは空理なので大宰の職はできない。
【語釈】
・内甲と…内冑。人に知られたくない内情。弱味。
・錙銖…錙・銖ともに重さの小さい単位。
・不堪煩の人…煩に堪えざるの人?

其混々天下之事當如捕龍虵搏虎豹。天下の事、一日二日有万機。跡からは々々々々と汲出す。龍虵虎豹は捕へにくい譬に云ふ。雉子や兎はとりよい。天下のことは龍や虎をとるやふな大にしにくいことなり。冢宰と云天下の一人はこんなものと云ことなり。其他五官。地官春夏秋官考工なり。これは一職ゆへ見よい。只今御役人つけを見よ。をびたたしきことなれとも、皆各々一職なり。冢宰は諸職を統るゆへ、のがれることはない。今日服忌令迠もあれへこもるそ。そこで、見にくい春秋を中庸て見ると程子の云るると、横渠の天官を如此に云るるか只の眼て見られぬ。漢唐注疎の軰の云はれぬことなり。
【解説】
「其混混天下之事、當如捕龍蛇搏虎豹。用心力看、方可。其他五官便易看。止一職也」の説明。冢宰は天下に一人で全てを統べるから、龍や虎を捕まえる様に難しい職務である。しかし、五官の職務はそれぞれ一職だからわかり易い。
【通釈】
「其混々天下之事當如捕龍虵搏虎豹」。天下の事は、「一日二日有万機」だから、後からどんどんと汲み出すのである。龍虵虎豹は捕まえ難いたとえで言う。雉や兔は捕まえ易い。天下のことは龍や虎を捕まえる様な大いにし難いこと。冢宰という天下ただ一人の者はこんなものだということ。「其他五官」。地官春夏秋官考工のこと。これは一職だけなので見易い。只今の御役人の役名を見なさい。それは夥しいものだが、皆各々一職である。冢宰は諸職を統べるので、それから漏れるものはない。今日の服忌令までもあれにこもっている。そこで、見難い春秋を中庸で見ると程子が言われたのと横渠が天官をこの様に言われたのが、ただの眼では見られないこと。漢唐注疎の輩には言えないことなのである。
【語釈】
・一日二日有万機…書経皋陶謨。「兢兢業業。一日二日萬幾」。
・五官…地官と春夏秋冬の官。冬官には考工記が当てられる。
・見にくい春秋を中庸て見る…致知64。「春秋以何爲準。無如中庸」。


第七十二 古人能知詩者条

古人能知詩者惟孟子。爲其以意逆志也。夫詩人之志至平易、不必爲艱險求之。今以艱險求詩、則已喪其本心。何由見詩人之志。詩人之性情、温厚平易老成。本平地上道著言語。今須以崎嶇求之、先其心已狭隘了。則無由見得。詩人之情本樂易。只爲時事拂著他樂易之性、故以詩道其志。
【読み】
古人能く詩を知る者は惟孟子のみ。其の意を以て志を逆[むか]えるが爲なり。夫れ詩人の志は至って平易なれば、艱險を爲して之を求むるを必とせず。今艱險を以て詩を求めば、則ち已に其の本心を喪えり。何に由りてか詩人の志を見ん。詩人の性情は、温厚平易老成なり。本平地上に言語を道著す。今須[しばら]く崎嶇を以て之を求めば、先ず其の心已に狭隘なり。則ち見得るに由無し。詩人の情は本樂易なり。只時事の他[かれ]の樂易の性に拂著するが爲に、故に詩を以て其の志を道[い]う。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟一の詩書の条にある。

東海道て馬方か唄に酒井雅樂頭と呼ずてにするとて、不届と云てない。それゆへ、跡でそれで姫路が繁昌すると云て、姫路侯を賞美する。然ればにくひやつとは云へぬ。そこを、以意逆志なり。詩人之志至平易。人はすらり々々々。迂斎の三夕の歌のやうなり。不可必爲艱險求之。細字。詩人の心老成はけば々々しくないことなり。阿房宮の賦のやうなはけば々々しいかきやうなり。何のことないを云。老人の髪月代したやうなり。をどりは子るやうなことはない。今須以﨑嶇求之。詩を六ヶしく解く。小序なとがそれなり。横渠のとき、それがあったゆへ云なり。其心既狭隘。詩を見るもの、此方の心がすらりとせぬゆへ古人の詩を六ヶしくする。樂易。すらりとしたを云。小児のやにを云のなり。やにぐるみすらりとしたこと。柿を食たいと云まてなり。詩の淫奔ぐるみに樂易にて志を述るに違はない。迂斎云、今は詩を作るに三重韻の入たけか樂易てない、と。詩人は今てもはりひじてはないと自然とよし。されとも巧拙をはかり詩評なとと云。すらりとないことなり。
【解説】
詩人の心はけばけばしくなく、すらりとしたものだから、読み手もすらりとした心で読まなければならない。詩を見る者の心がすらりとしないので、古人の詩を難しくする。
【通釈】
東海道で馬方が唄で酒井雅楽頭と呼び捨てるからと言って、不届きということではない。後に姫路が繁昌すると言って姫路侯を賞美する。それなら憎い奴とは言えない。そこが、「以意逆志」である。「詩人之志至平易」。詩人はすらりすらりで、迂斎の三夕の歌の様である。「不必為艱険求之」。細字。詩人の心の老成は、けばけばしくない。阿房宮の賦の様なものはけばけばしい書き様である。これは何事もないことを言う。老人が髪月代をした様なこと。踊り跳ねる様なことはない。「今須以崎嶇求之」。詩を難しく解く。小序などがそれで、横渠の時にそれがあったので言ったのである。「其心既狭隘」。詩を見る者の心がすらりとしないので、古人の詩を難しくする。「樂易」。すらりとしたことを言う。小児が駄々を捏ねるが、駄々をも含めてすらりとしている。それは柿を食いたいと言ったまでのこと。詩は淫奔までが楽易であって、それも志を述べたものには違いない。迂斎が、今詩を作るのに、三重韻の入る分だけ楽易ではないと言った。詩人は張り肘でなければ今でも自然とよくなる。しかし巧拙ばかりをして、詩評などと言っている。すらりとしていない。
【語釈】
・酒井雅樂頭…酒井忠世(1572~1636)と酒井忠清(1624~1681)などが雅楽頭。酒井家は姫路城主。
・三夕の歌…「三夕の和歌」が、「秋の夕暮」と結んだ三首の名歌のこと。定家の「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮」、西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」。
・阿房宮の賦…杜牧の詩。
・小序…詩経の毎編の初めにその編の意を明らかにした小文。全体にわたる長い序を大序という。
・淫奔…性関係のみだらなこと。多情。


第七十三 尚書難看条

尚書難看。蓋難得胸臆如此之大。只欲解義、則無難也。
【読み】
尚書は看難し。蓋し胸臆の此の如く大なるを得難ければなり。只義を解かんと欲するのみならば、則ち難きこと無し。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟一の詩書の条にある。

二帝三王から打立て皆垩人の御心のことなり。道理と云ものは学者も歯ぎしりをすると道に合ふか、堯舜から三王は根か違ふ。金持て、さて吝くないやふなもの。胸かちごふ。しばられたやふなことてはない。書經の々々たるは胸臆如此之大なり。天下一家中國一人の意と迂斎の云へり。道理の尤は学者もなれとも、垩心ゆへふっくりなり。書經の政と云ふは心てのことなり。九峯の序に心の字の多ひはそれなり。凡人は胸臆のせまい方から見難ひ。天下の人を洗濯してなる。於變惟協なり。只欲解義則無難也は、文字の吟味は六ヶしいことないか、垩人の胸中の意を得ることなり。凡夫のあのきたないさまで垩人の胸はしれぬ。駕篭羿が大名と云ものはと云ても、をしつけ推量なり。尾張の百姓が、殿様は毎日赤飯を上ふと云た咄しあり。今經済者か先王々々と云か二本道具を見覺へたやふなもの。大名の心は知らぬ。
【解説】
尚書は二帝三王の心が書かれたものである。二帝三王の心は大きく、凡人の狭い心でそれを見ることはできない。それは、駕篭舁きや尾張の百姓に大名の心がわからないのと同じである。
【通釈】
尚書は二帝三王から打ち立てたもので、皆聖人の御心のことである。道理というものは学者も歯ぎしりをすれば道に合うこともできるが、堯舜から三王までは根の違うこと。金持ちで、さて吝くない様なもので、胸が違う。縛られた様なことではない。書経の書経たるところは「胸臆如此之大」である。それは「天下一家中国一人」の意だと迂斎が言った。道理の尤もなところには学者もなれるが、尚書は聖人の心なのでふっくりとしている。書経の政は心でのこと。蔡九峯の序に心の字が多いのはそれでである。凡人は胸臆が狭いので見難い。天下の人を洗濯して、「於変時雍」となる。「只欲解義則無難也」は、文字の吟味は難しくないが、これは聖人の胸中の意を得ること。凡夫のあの汚い様では聖人の胸は知れない。駕篭舁きが大名というものはと言っても、当て推量である。尾張の百姓が、殿様は毎日赤飯を上がっているだろうと言った話がある。今経済者がよく先王のことを言うが、それは二本道具を見覚えた様なもの。大名の心は知らない。
【語釈】
・天下一家中國一人…論語憲問42集註。「聖人心同天地、視天下猶一家、中國猶一人、不能一日忘也」。
・於變惟協…書経堯典。「曰、若稽古帝堯。曰、放勳。欽明文思、安安、允恭克讓、光被四表、格于上下、克明俊德。以親九族、九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和萬邦、黎民於變、時雍」。


第七十四 讀書少則の条

讀書少、則無由考校得義精。蓋書以維持此心。一時放下、則一時德性有懈。讀書則此心常在、不讀書則終看義理不見。
【読み】
書を讀むこと少なくんば、則ち由りて義を考校し得ること精しき無し。蓋し書は以て此の心を維持するなり。一時放下すれば、則ち一時德性懈ること有り。書を讀めば則ち此の心常に在り、書を讀まざれば則ち終に義理を看見[あらわ]さず。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟三の義理の条にある。

是も面白ことなり。大切の処を合点すれば、小学近思四書でよけれとも、それはかり讀ては其四書小学近思録がすめぬ。博く讀は四書小学近思の翼にする。博識の医は一つの療治の処へ落しやうか違ふ。入門や方彙計てよいてない。書以維持此心。これからはもうふけ咄なり。書は知をみかくことなれとも、こちらでも又もうかること。書をよむと心がしまる。書の文義を考るて、うか々々なる心か居處にいる。切問近思仁在其中の語と同こと。書て心が落ついて、物にそわ々々かない。一時放下云々。書の間断計てなく、德性の懈になる。山谷が士太夫三日不讀書則覺面貌可悪語言無味と云が面白こと。顔も俗のやうになる。杦森養德が腹に墨気かないと云た。逐十露盤めいた皃になる。書は角力や釼術のやうなことてなく、心へ得る仕事なり。子ともの素讀とは違ふか、それとても忘れまいとすれは、うかとならぬ。看義理不見。鼻の先きへ來た義理を見ぬ。それは書に遠ひからなり。不断書に離れずに居ら子は見へぬ。書になる道理と我知識か光り合ひ、りん々々としてをるから義理がうつるなり。
【解説】
四書小学近思だけを読んでいては、その意は得られない。博く書を読んで四書小学近思の助けにする。書は知を磨くだけでなく、人の心を引き締める。書の道理と自分の知識が光り合うので、義理を心に得ることができる。
【通釈】
ここも面白いこと。大切な処を合点するには小学近思四書だけでよい筈だが、それだけを読んでは四書小学近思録が済めない。博く書を読んで四書小学近思の助けにする。博識な医は一つの療治の処へ落す、その落し方が違う。入門書や処方箋だけでよい筈はない。「書以維持此心」。これからは儲け話である。書は知を磨くためのものだが、人もまた儲かる。書を読むと心が引き締まる。書の文義を考えるので、うかうかする心が居処にいる。「切問近思仁在其中」の語と同じこと。書で心が落ち着いて、物に対してそわそわすることがない。「一時放下云々」。これは書の間断だけでなく、徳性の懈りにもなる。山谷が「士太夫三日不読書則覚面貌可悪語言無味」と言ったのが面白い。顔も俗人の様になる。杦森養徳が腹に墨気がないと言った。つい、算盤めいた顔になる。書は角力や剣術の様なことではなく、心に得る仕事である。それは子供の素読とは違うが、それも忘れない様にしようとすれば、うっかりとはならない。「看義理不見」。鼻の先へ来た義理を見ない。それは書に遠いからである。絶えず書から離れずにいなければ見えない。書の道理と自分の知識が光り合い、凛々としているから義理が映る。
【語釈】
・切問近思仁在其中…論語子張6。「子夏曰、博學而篤志、切問而近思。仁在其中矣」。
・士太夫三日不讀書則覺面貌可悪語言無味…黄山谷の語。「三日不讀書、便覺面目可憎、語言無味」。
・杦森養德…


第七十五 書須成誦条

書須成誦。精思多在夜中。或靜坐得之。不記則思不起。但通貫得大原後、書亦易記。所以觀書者、釋己之疑、明己之未達。毎見毎知新益、則學進矣。於不疑處有疑、方是進。
【読み】
書は須く誦を成すべし。精思するは多く夜中に在り。或は靜坐して之を得。記せずんば則ち思い起さず。但大原を通貫し得て後、書も亦記し易し。書を觀る所以の者は、己の疑いを釋[と]き、己の未だ達せざるを明らかにするなり。見る毎に毎[つね]に新たに益すを知らば、則ち學進まん。疑わしからざる處に於て疑い有りて、方[はじ]めて是れ進むなり。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟三の義理の条にある。

声を上てよむは子とものやふなれとも、声を上けるか益になる。迂斎七十七迠大な声てよまれた。一六の日なと昼講釈の処を朝々誦せり。精思多在夜中或靜坐。塲所ありて、全書皆のことてはない。我心に記しかついてあるもの。此処かと云ふを精思する。靜坐は、書をはなれて座しているときを云。人を訪ふたとき、亭主の出ぬ内かひまなもの。其時に体用一源顕微無間なとを靜坐の塲なり。几案よりよいもの。不記則思不起。これは上の成誦へかけて見へし。暗に覺へ子は役に立ぬ。但通貫得太原後書亦易記云々。大ふ根かすむと覚へる。某前にも云、兼て知居るは覚よい。すっと始て江戸へ出ても仙臺の、薩摩のと云は、江戸へ出ぬ前に仙臺の太守と知ているゆへ、途中てあの太守の通らるるを見るとわすれぬ。それから二度めには、どなたで有たかとは云はぬ。大ふ根を知るとよく覚へるものなり。聞及んた大名衆ては一度見て忘れぬ。大原を知ると云は、東金の御地頭はどなたと知るやふなもの。於不疑處有疑是進矣。すら々々すめるやふにすると役にたたぬ。於不疑有疑とは、どふやらわるくなったやうで進むしるし。調子の違ふが上り目なり。白川夜舟、すか々々行くはやくにたたぬ。某なと道中を駕篭て計したゆへ覚へぬか、丈夫であるくと道中もよく覚へるもの。有疑方が是進矣のあんばいなり。ふたん路も右か左か考へる処から覚へる。
【解説】
迂斎は七十七歳まで声を出して書を読まれた。書は暗唱するほどに覚えなければ役に立たない。「精思」は心でするものであり、「静座」は間の空いた時でもできる。前から知っていたことは覚えよいものであり、疑を考えることで学問が進む。
【通釈】
声を上げて読むのは子供の様だが、声を上げるのが益になる。迂斎は七十七歳まで大きな声で読まれた。一六の日などは昼に講釈する処を毎朝誦じた。「精思多在夜中或静座」。場所があって、全書を皆思うことではない。自分の心に記しがついてあるもの。ここの処がという処を精思する。静座は、書を離れて座している時を言う。人を訪ねた時に、亭主の出て来ない内が暇なもの。その時に「体用一源顕微無間」などを思うのが静座の場である。それは机前よりもよいもの。「不記則思不起」。これは上の成誦へ掛けて見なさい。暗唱するほどに覚えなければ役に立たない。「但通貫得太原後書亦易記云々」。大分根が済むと覚える。私が前にも言ったことだが、前から知っていたことは覚えがよい。初めて急に江戸へ出るにしても、仙台の、薩摩のと言うのは、江戸へ出る前は仙台の太守だったと知っているから、途中であの太守が通られるのを見れば、それが誰なのかを忘れない。それから二度目には、どなただっただろうとは言わない。大分根を知るとよく覚えるものである。聞き及んだ大名衆なら、一度見ただけで忘れない。大原を知るとは、東金の御地頭はどなたかと知る様なもの。「於不疑処有疑是進矣」。すらすら済める様にするのは役に立たない。「於不疑有疑」はどうやら悪くなった様だが、それが進む兆しである。調子の違ったところが上り目である。白川夜舟の様にずかずかと行くのは役に立たない。私などは道中を駕篭でばかりしたので覚えないが、丈夫で歩けば道中もよく覚えるもの。「有疑方」が「是進矣」の塩梅である。普段通る路も、右か左かと考える処から覚える。
【語釈】
・一六…毎月一と六のつく日。講釈日。
・体用一源顕微無間…致知49の語。
・白川夜舟…実際には見ないのに、見たふりをすること。京を見たふりをした者が、京の白川のことを問われ、川の名と思って、夜船で通ったから知らぬと答えたことからという。


第七十六 六經須循環理會条

六經須循環理會。義理儘無窮。待自家長得一格、則又見得別。
【読み】
六經は須く循環して理會すべし。義理は儘[まった]く窮まり無し。自家長じ得ること一格なるを待たば、則ち又見得ること別ならん。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟三の義理の条にある。

一度見て片のついたでなく、ぐる々々見て理會する。たま々々珎らいしいを見るてない。史傳は全体の業に見るものでなく、昨日は蕎麥を食たと云のなり。六經は朝夕の食なり。信者は元日の雜煮の上ても題目を唱る。順礼の札は一度てよい。待自家長得一格云々。こちの上るて書上の靣目もすむ。一格上ると今迠の詩書とは違ふ。ここはあとへかへす文意なり。それゆへ循環して見るかよいと云ことなり。年始の礼に二度行ことはなく、碁打には毎日行く。葦野山去年の志をりの路と見てまた見ぬ奥のでない。朝夕に見ればこそなれ住吉の。そこで西行も冨士を度々見る。山水、そこへ腰をかけをちつひて見る。君命の序でに見た景色とわざ々々遊歴のときは、又見得別なり。
【解説】
史伝は一回読めばそれでよいが、六経は何度も見て理会をする。そこで読み手も一格上がり、更に見て得ることにも違いが出て来る。
【通釈】
一度見て片が付くのではなく、ぐるぐる見て理会する。偶々珍しいものを見るのではない。史伝は全体の業として見るものではなく、昨日は蕎麦を食ったと言うのと同じ。六経は朝夕の食事である。信者は元日の雑煮の上にも題目を唱える。しかし、順礼の札は一度でよい。「待自家長得一格云々」。こちらが上がるので書上の面目も済む。一格上がると今までの詩書とは違って来る。ここは前に返す文意である。そこで循環して見るのがよいということ。年始の礼に二度行ことはないが、碁打ちには毎日行く。吉野山去年の枝折の路と見てまだ見ぬ奥のではない。朝夕に見ればこそあれ住吉の。そこで西行も富士を度々見る。そこへ腰を掛けて落ち着いて山水を見る。君命のついでに見た景色とわざわざ遊歴した時の景色とは、また「見得別」である。
【語釈】
・葦野山去年の志をりの路と見てまた見ぬ奥の…西行法師。新古今集。「吉野山去年[こぞ]のしをりの道かへてまだ見ぬ方の花をたずねむ」。
・朝夕に見ればこそなれ住吉の…仮名手本忠臣蔵。「朝夕に見ればこそあれ住吉の、岸の向ひの淡路島山」。元は津守国冬の歌。「朝夕に見ればこそ有れ住吉の浦よりをちの淡路しまやま」。


第七十七 中庸文字輩の条

如中庸文字輩、直須句句理會過、使其言互相發明。
【読み】
中庸の文字輩[など]の如き、直[ただ]須く句句理會し過ぎ、其の言をして互いに相發明せしむべし。
【補足】
・この条は、張横渠の経学理窟四の学大原下の条にある。

横渠初め軍学をして、彼の元旻が事の起ったときに軍学をかさにかけて、范文正公も器量あるものと見て、未た々々其やふなことでないと中庸を授けり。是、横渠の手始なり。軰。なそと云と。句々理會過。ここが横渠の道統の処なり。中庸を得るは、をっかぶせて全体て胡椒丸呑てなく、こまかで得たなり。朱子の後は章句ある。前は赤壁の賦のやうに、天命から上天之載が一とつづきなり。それをこのやふに句々から發明せしむとは大なことなり。そのかみ中庸をよむ人が皆表側て見て、中のからくりを知らぬ。横渠初手斯ふなり。今章句が出来ては何を受て々々々々と右第何章大筋をわけ、互に相発明はよくしるる。横渠は中庸一文字に書てあるを、中にぶわけかあると見出した。此章、朱子の後に聞てはさほどに思はぬが、張子の朱子以前に斯云が中庸を合点の処なり。
【解説】
横渠は軍学をしていたが、范文正公が中庸を授けたことによって、聖学を学ぶことになった。朱子の中庸章句が成る前は中庸が一本に繋がっていたが、横渠は中庸に部分けのあることを見抜いた。中庸は細かく分け、互いに照らして理解するものである。
【通釈】
横渠は初め軍学をしていて、あの李元昊の事件が起こった時には軍学を笠に掛けていたが、范文正公も彼を器量ある者だと見て、未熟だがこのままでは終わらないと思って中庸を授けた。これが横渠の学問をする手始めである。「輩」。などということ。「句々理会過」。ここが横渠の道統の処。横渠は、おっ被せて全体を胡椒丸呑みでしたのではなく、細かにして中庸を得たのである。朱子の後は章句がある。その前は赤壁の賦の様に、一章の「天命」から末章の「上天之載」までが一続きだった。それをこの様に句々から発明するというのは大きなこと。その頃、中庸を読む人は皆表側だけを見て、中のからくりを知らなかった。横渠の初手はこの様だった。今章句ができた後は何を受けたことだと、右第何章の大筋を分けたので、「互相発明」でよくわかる。横渠は中庸が一文字に書てあるのを見て、中に部分けがあることを見出した。この章、朱子の出た後に聞けばさほどに思わないが、張子が朱子以前にこの様に言ったのが、中庸を合点した処である。
【語釈】
・元旻…李元昊。西夏の皇帝。1038年皇帝を称し,国号を大夏とした。
・范文正公…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。仁宗に仕え辺境を守り、羌人から竜図老子と尊ばれた。989~1052
・胡椒丸呑…胡椒を丸呑みにしてはその味が分らないように、物事は咀嚼・玩味しなければ真義を知り得ないというたとえ。
・赤壁の賦…宋の蘇軾の文。1082年7月既望、友人楊世昌と一夜赤壁に遊び、さらにその冬、郭遘・古耕道の二人と再遊した時の作。前者を「前赤壁賦」、後者を「後赤壁賦」という。


第七十八 末条

春秋之書、在古無有。乃仲尼所自作。惟孟子能知之。非理明義精、殆未可學。先儒未及此而治之。故其説多鑿。
【読み】
春秋の書は、古に在りては有ること無し。乃ち仲尼の自ら作る所なり。惟孟子のみ能く之を知る。理明らかに義精しきに非ずんば、殆ど未だ學ぶ可からず。先儒未だ此に及ばずして之を治む。故に其の説多く鑿す。

春秋之書在古無有は、あのたての書はもとないと云ことなり。ふり合の違ったは、余の經、關々雎鳩の、乾元亨利貞のと云に、春秋は春王正月何年何日と、何のことないことなり。惟孟子能知之。知たものは孟子計なり。魯の記録を書秡にして表に深き意はないが、中の処は非理明義精殆未可学なり。それか天子のこと。百王不易の大法ゆへ見手にある。悲ひことに、知らぬものはあいさつの仕やうがない。孟子の外には知らぬ。先儒不及此而治之故に其説多鑿。先儒は理明義精の根なしにした注なり。多く鑿は、ただあの分にしては何のことないになるから斯ふであろふと理屈を付る。ここがこまりたもの。春秋の注は我知らす鑿つ筈なり。このことは此わけと書けとも、何か證拠が知れぬ。道理は推てしれる。人不知而不慍不亦君子乎は文で推せば孔子の処へ行て聞にも及はぬ。春秋は事て帳面故何のことなけれとも、理屈を付ると孔子の思召に叶ふかしれぬ。程子の序にある通百王不易の法は昞如日星。今日春秋の吟味はそこのこと。通鑑綱目がそれなり。孔子の思召の知れぬことは、今日は申されぬ。朱子の手をつけぬが能ある鷹は爪をかくすなり。扨、義理は胡文定を取れとも、胡文定も張子のここを見られたか知らぬが、鑿ことがあるにこまる。そこで朱子も事は左傳できめ、義理は胡子傳としてをかれたれとも、實は胡氏傳をよいにはせぬ。されとも程傳の意を得たれは義論の正いは云に及ぬことなり。
【解説】
春秋は魯の記録を書き抜きにしたもので、表に深い意はないが、中の処は天子の事であり、「非理明義精殆未可学」である。そこで、孟子以外に知る者がいないと言ったのである。先儒は理明義精でなくて注をしたので穿鑿がある。それは、その理屈が孔子の意に添うのかどうかが知れないからである。朱子も事は左伝で決め、義理は胡子伝を採った。
【通釈】
「春秋之書在古無有」は、あの筋の書は元はなかったということ。釣り合いの違うところは、他の経は「関々雎鳩」や「乾元亨利貞」のと言うのに、春秋は「春王正月何年何日」と言うだけで何の事もない。「惟孟子能知之」。春秋を知る者は孟子だけである。春秋は魯の記録を書き抜きにしたもので、表に深い意はないが、中の処は「非理明義精殆未可学」である。それは天子のすること。春秋は「百王不易之大法」なので、それを知るのは見手に掛かったこと。悲しいことに、知らない者には挨拶の仕様がない。孟子の外は、それを知らない。「先儒不及此而治之故其説多鑿」。先儒は理明義精の根がなくて注をした。「多鑿」は、ただあのままにして置いては何の事もないことになるからこういうことだろうと理屈を付ける。ここが困ったもの。春秋の注は自分の知らない内に鑿つ筈のもの。これはこの様なわけだと書いても、その証拠は何なのか知れない。しかし、道理は推して知ることができる。「人不知而不慍不亦君子乎」は文で推せばよく、孔子の処へ行って聞くにも及ばない。しかし、春秋は事で帳面上のことなので何事もないものだが、それに理屈を付けるのは、孔子の思し召しに叶うかどうかは知れないこと。程子の序にある通り、百王不易の法は「昞如日星」。今日、春秋の吟味とはそこのことで、通鑑綱目がそれである。孔子の思し召しの知れないことは、今日は申すことはできない。朱子が手を付けないのは、能ある鷹は爪を隠すである。さて、義理に関しては胡文定の意を採ったが、胡文定も張子のここを見られたかどうかは知らないが、鑿つことがあるのには困る。そこで朱子も事は左伝で決め、義理は胡子伝を採ったが、実は胡子伝をよいとはしていない。しかし、程伝の意を得たものだから、その議論の正しいことは言うに及ばないことである。
【補足】
・關々雎鳩…詩経国風周南。「關關雎鳩、在河之洲窈窕淑女、君子好逑」。
・乾元亨利貞…易経乾卦。「乾、元亨利貞」。
・天子のこと…孟子滕文公章句下9。「世衰道微、邪説暴行有作。臣弑其君者有之。子弑其父者有之。孔子懼作春秋。春秋天子之事也。是故孔子曰、知我者、其惟春秋乎。罪我者、其惟春秋乎」。
・百王不易の大法…致知61。春秋伝序。「百王不易之大法」。
・人不知而不慍不亦君子乎…論語学而1の語。
・胡文定…胡安国。宋、崇安の人。字は康侯。号は武夷先生。1074~1138

さて、致知篇の編次、春秋傳の序迠の例で推せば、横渠の段にも詩がすみ、尚書難看から中庸文字軰、それから春秋の書とうけ、諸經をしめては六經須循環とうけ、それから書須成誦とそふたいへかけ、其次へ讀書少則の条を以て篇末にをきたもの。維持此心から存養へのうつりがよし。朱子の御手の廻ぬでもあるまいか、先軰の説もなし。只如此氣のついたを云まてのことなり。致知の次第なれば云ても見よふことなり。されとも云ぬがよし。其上程子の部も春秋てすみ、そこへ看史の二条と唐鑑の条をこめたから、張子のも春秋でとめるが朱子の主意かも知れぬなり。そふして見れは六經循環、中庸などは句々理會。さて春秋なり。書は又別段のことと最ふ後の業ときめれは又一意趣向面白けれとも、次の篇にかけるに維持此心の条を出した。きままの詮義なり。つまり入らざることなれとも、道体も篇尾に爲学へかかることをとき、爲学も以未知為己知として致知へかけ、存養の篇末のも仁の条て終て克己にかかる。克己の終も未嘗為子弟之事から家道へかかる類にて見れば、致知から存養へかかるのも春秋ては他の篇とあわぬやうなり。
【解説】
致知篇の編次に関しては先輩の説もないが、それを気侭に詮議すれば、程子の部が春秋で締めているので、横渠の部も春秋で締めたのが朱子の主意なのかもしれない。しかし、他の篇が次の篇に移る流れからみると、致知の最後に春秋は合わない様に思われる。
【通釈】
さて、致知篇の編次は、春秋伝の序までの例で推せば、横渠の段でも詩が済んで、「尚書難看」から「中庸文字輩」、それから春秋の書と受け、諸経をまとめて「六経須循環」と受け、それから「書須成誦」と全体へ掛け、その次へ「読書少則」の条をもって篇末に置いたもの。「維持此心」から存養への移り方がよい。朱子の御手が廻らないのでもないだろうが、ここに先輩の説もない。ただこの様に気が付いたことを言うまでのこと。致知の次第のことだから言っても見ようということだが、しかし、言わない方がよい。ここは程子の部も春秋で済んで、そこへ「読史」の二条と唐鑑の条を込めたのだから、張子のところも春秋で締めるのが朱子の主意かも知れない。その様に見れば「六経循環」、中庸などは「句々理會」、そして春秋である。書はまた別段なことだと、もう後の業と決めれば一意の趣向で面白いことだが、次の篇に掛けるために「維持此心」の条を出したのである。ここは私の気侭な詮議である。つまり要らざることではあるが、道体も篇尾に為学へ掛かることを説き、為学も「以未知為己知」として致知へ掛け、存養の篇末も仁の条で終わって克己に掛かる。克己の終わりも「未嘗為子弟之事」から家道へ掛かる。その流れで見れば、致知から存養へ掛かるのも、致知の終わりが春秋では他の篇と合わない様に思われる。