第三 明道先生論十事条  二月廿一日  惟秀録
【語釈】
・二月廿一日…寛政3年辛亥(1791年)2月21日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

明道先生論十事。一曰師傅、二曰六官、三曰經界、四曰鄕黨、五曰貢士、六曰兵役、七曰民食、八曰四民、九曰山澤、脩虞衡之職。十曰分數。冠婚喪祭車服器用等差。其言曰、無古今、無治亂、如生民之理有窮、則聖王之法可改。後世能盡其道則大治、或用其偏則小康。此歴代彰灼著明之效也。苟或徒知泥古而不能施之於今、姑欲徇名而遂廢其實、此則陋儒之見、何足以論治道哉。然儻謂今人之情、皆已異於古、先王之迹、不可復於今、趣便目前、不務高遠、則亦恐非大有爲之論、而未足以濟當今之極弊也。
【読み】
明道先生、十事を論ず。一に曰く師傅、二に曰く六官、三に曰く經界、四に曰く鄕黨、五に曰く貢士、六に曰く兵役、七に曰く民食、八に曰く四民、九に曰く山澤、虞衡の職を脩む。十に曰く分數。冠婚喪祭車服器用の等差。其の言に曰く、古今と無く、治亂と無く、如し生民の理に窮むること有らば、則ち聖王の法改む可し。後世能く其の道を盡くさば則ち大いに治り、或は其の偏を用いば則ち小しく康んず。此れ歴代彰灼著明の效[しるし]なり。苟も或は徒に古に泥むを知りて之を今に施くこと能わず、姑く名に徇わんと欲して遂に其の實を廢せば、此れ則ち陋儒の見にして、何ぞ以て治道を論ずるに足らん。然れども儻[も]し今人の情は皆已に古に異なり、先王の迹は今に復す可からずと謂い、便に目前に趣き、高遠を努めざれば、則ち亦恐らくは大いにすること有るの論に非ずして、未だ以て當今の極弊を濟うに足らざるなり、と。
【補足】
・この条は、程氏文集一にある。

治体のあんばいと治法の塩梅にはそれ々々に靣白ことがある。治体を論ずるには急な間に合ぬと云が、いよ々々治体の治体たる処ぞ。治法のときは今直に間に合ふと云が治法の治法たる処。垩人のした法ゆへ、形についてすれば誰がしてもよいと云がいよ々々治法なり。湯をあつくわかして初昔を入れて飲めば、誰がしても利休とかわることはない。名医のした藥法灸穴、誰がしてもよい。治体では人君の德なくてはならぬと語ること。法と云には誰かしてもよいとかたる。これで治体と法が連立並ぶことになる。法は忝いもの。其上に治体の德ある人が治法をすれば鬼に金棒なり。其動ぬ法が十ある。そんなら法は直になるかと云に、明道などの云出す法は家傳反魂丹とはちごふ。一寸なる法ではない。治体を取立る法なり。そこで眞初に師傅と出た。
【解説】
「明道先生論十事」の説明。治体は人君の徳がなければならず、また、急な間には合わないが、治法は今直に間に合うものであり、形に添って行えば誰もができるものである。しかし、明道の治道は治体を取り立てる法であって、簡単にできるものではない。その法は十ある。
【通釈】
治体の塩梅と治法の塩梅にはそれぞれに面白いことがある。治体を論じるには急な間には合わないと言うのが将に治体の治体たる処。治法の時は今直に間に合うと言うのが治法の治法たる処。聖人の行った法なので、形に添ってすれば誰がしてもよいというのが将に治法である。湯を熱く沸かして初昔を入れて飲めば、誰がしても利休と変わることはない。名医のした薬方や灸穴は誰がしてもよい。治体では人君の徳がなくてはならないと語るが、法では誰がしてもよいと語る。これで治体と法が連れ立って並ぶことになる。法は忝いもの。その上、治体の徳のある人が治法をすれば鬼に金棒である。不動の法が十ある。それで法は直にできるかと言うと、明道などの言い出す法は家伝の反魂丹とは違う。簡単にできる法ではなく、治体を取り立てる法なのである。そこで真っ先に師傅と出した。
【語釈】
・初昔…茶の銘。江戸時代、将軍家使用の極上の宇治茶で、古来の製法による白色系のもの。
・反魂丹…反魂香が、漢の孝武帝が李夫人の死後、香をたいてその面影を見たという故事から、たけば死者の姿を煙の中に現すという香。ここは気付け薬か?

一曰師傅。自天子至庶人、教なければならぬ。上一人を教てよい君にするが法のまつ初なり。師傅は何の役と云ことはない。古者三公坐而談道。天子の御前に大々とすわりて人君に徳義の話をする。これが差當り急務に見へぬことなれとも、これが一つかけると天下の法に穴のあいたなり。成王の時は周公旦召公奭が此役なり。伊尹太公と云も湯武の補佐なり。堯舜其君が師傅の任なり。某が今自天子至庶人とよみたはすぐに明道の本文なり。上天子から下庶人迠師傅なくてはならぬ。小学にも十年出就外傅とある。これが何の為なら治体の為なり。三公の道を論ずるが端的の用に立つことはないが、よい君にする。治体の為ぞ。それを立るが法ぞ。
【解説】
「一曰師傅」の説明。人君をよい君にするのが法の最初であり、それが師傅の任であって、治体のためにすることなのである。
【通釈】
「一曰師傅」。天子より庶人に至るまで、教えがなければならない。上一人の方を教えてよい君にするのが法の最初である。師傅は何の役ということはない。古は三公が座して道を談じた。天子の御前に威厳を持って座って人君に徳義の話をする。これが差し当たりの急務とは見えないが、一つこれが欠けると天下の法に穴が開く。成王の時は周公旦や召公奭がこの役だった。伊尹や太公も湯武を補佐した。君を堯舜の様にするのが師傅の任である。私が今天子より庶人と読んだのは直に明道の本文にあること。上天子から下庶人までに師傅がなくてはならない。小学にも「十年出就外伝」とある。これが何のためかと言うと治体のためである。三公が道を論じるのは当座の用に立つものではないが、よい君にする。治体のためなのである。それを立てるのが法である。
【語釈】
・十年出就外傅…小学立教。「十年出就外傳居宿於外」。

二曰六官。周礼の天官地官春官夏官秋官冬官合せて六なり。堯舜から夏殷周、このない代はない。堯舜の時に六官は備らぬ様だが、やはり六官なり。これがそれ々々にないと歯のぬけた様なもの。一つかけると五徳の足のかけた様でわるい。六つとしわけた処が自然なり。栄耀らしく多いと云ことでもなく、すくないと云ことでもない。浅見先生の、舜臣有五人天下治と云がすくないと云ことでもなく、又、多いと云ことでもない。ありなり五人じゃと云たが、此六官は有りなりと云でなく、六つてなければならぬと立てたこと。そこで法なり。二三人でよかろふの、をれが八天狗はたらくのと云ことはならぬ。六官、六のすじでなければならぬときめたもの。此六がたたぬと職任があちらでもし、こちらでもし、取手方角ない様になり、をれは知らぬのどふのと云ことのならぬ様に、職掌が六にわれてそれ々々の下役が有ることなり。
【解説】
「二曰六官」の説明。六官は周礼の六官のことだが、これは六つでなければならず、その一つが欠けても悪い。
【通釈】
「二曰六官」。周礼の天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官を合わせての六官である。堯舜から夏殷周まで、これのない代はない。堯舜の時には六官が備わっていない様だが、やはり六官である。これがそれぞれにないと歯の抜けた様になる。一つ欠けると五徳が足の欠けた様で悪い。六つと仕分けた処が自然の通りである。栄耀らしく多いということもなく、少ないということもない。浅見先生が、「舜臣有五人天下治」というのが少ないということでもなく、また、多いということでもない。あるがままの五人だと言ったが、この六官はあるがままということではなく、六つでなければならないと立てたこと。そこで法なのである。二三人でよいだろうとか、俺が八天狗分働くなどと言うのは悪い。六官は六の筋でなければならないと決めたもの。この六つが立たないと職任があちらこちらで行われて収拾がつかない様になるので、俺は知らないの何のということにならない様、職掌が六つに分かれ、そこにそれぞれの下役があるのである。
【語釈】
・周礼…天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官考工記。
・舜臣有五人天下治…論語泰伯20。「舜有臣五人、而天下治。武王曰、予有亂臣十人」。
・八天狗…愛宕・比良・大山・大峰・鞍馬・飯縄・彦山・白峰の八山にすむという天狗の総称。

三曰經界。これらも明道先生のきめなり。冢宰や六官の跡だからをもいことかと云に田地堺のこと。これが三番目に出さ子ばならぬと云がどふなれば、萬民の治めは經界からわり渡す。經界正ければ民財がよく生ずる。天下大勢の人を受取て治るに、天下の人が餒へ凍へてはならぬ。そこで經界を正す。垩人の治は經界からなり。大学が治法を説たではないが、生財有大道。經界が治らぬと天下の民が食用が足らぬ。そこで禹王の徳をほめるにも盡力於溝洫と云た。田地のすぢが立つこと、かるいことのやふでかかる処の重いこと。そこで三番目なり。孟子が滕文公へ、暴君汚吏必慢經界經界既正分田制禄可坐而定也と云た。經界が立子ば私の根になる。棋盤將棋盤目をもら子ば本因坊でも宗桂でもうてぬ。經界はかるいことなれども、これを重く取扱ふことは異端などの知らぬこと。天下の治めゆへこれが第一になる。經界が正くなければ騒動になる。今公事のおこるも多くこれなり。英雄豪傑がどふでもよい器量で治めよふと云が、さうゆかぬものは經界なり。これが正くないと天下の民が片落になりて、地頭より大きひ百姓があるの、古来の百姓は小くなりて奉公に出るの、水呑百姓は大くなるのと云。片落な方から困穹して騒動もをこる。此經界が六ヶしいことで、井田の行れぬ世ではしにくいこと。横渠なども井田のことを程子へ相談ありた。程子御兄弟も度々御咄ありて、政をするには經界じゃが、今は井田は行はれぬと云てなげかれたこともある。禹王の尽力乎溝洫と云たが水のかけ引の大切なこと。だたい百姓の損亡は皆水にある。水損は水の引きのわるい方からなり。旱損は水がかりのわるいゆへなり。あの一色の溝洫が天下を安泰にすることなり。今人の口上に我が田へ水を引と云が、聖賢の世にそんな不調法なことはない。溝洫は吾田へすぐに来る様にすみからすみ迠行渡たもの。そこで大水には又これからをとすこともある。これが正くないからよくゆきとどかぬ。そこで心の外なこともおし付ておくことになるなり。
【解説】
「三曰經界」の説明。天下を治めるには、人を餓えさせてはならないが、経界が治まらないと天下の民の食用が足りなくなる。また、公事が治まらないのもこれからである。禹王の徳を褒めて「尽力於溝洫」とあるのも、孟子が「暴君汚吏必慢経界」と言ったのもこのことである。しかし、経界を立てるのは井田制の行なわれない世ではし難いことであり、程子もそれを歎かれた。
【通釈】
「三曰経界」。これも明道先生の決めである。冢宰や六官の後だから重いことを言うのかと思えば田地界のことである。これを三番目に出さなければならないというのはどうしてかと言うと、万民を治めるには経界から割り渡す。経界が正しければ民財がよく生じる。天下の大勢の人を受け取って治めるには、天下の人が餒[う]え凍えてはならない。そこで経界を正す。聖人の治は経界からである。大学は治法を説いたものではないが、「生財有大道」とある。経界が治まらないと天下の民の食用が足りなくなる。そこで、禹王の徳を褒めるのにも「尽力於溝洫」とある。田地の筋が立つことは軽いことの様で、治法にとっては重要なこと。そこで三番目にある。孟子が滕文公へ、「暴君汚吏必慢経界経界既正分田制禄可座而定也」と言った。経界が立たなければ私の本になる。碁盤や将棋盤に目を盛らなければ本因坊でも宗桂でも打てない。経界は軽いことだが、これを重く取り扱うことは異端などの知らないこと。天下を治めることなのでこれが第一になる。経界が正しくなければ騒動になる。今公事が起こるのも多くはこれからである。英雄豪傑がいい加減に器量で治めようとしても、うまく行かないのは経界である。これが正しくないと天下の民が片落ちになる。地頭より大きい百姓がいたり、古来からの百姓が小くなって奉公に出たり、水呑百姓が大きくなったりする。片落ちな方から困窮して騒動も起こる。この経界が難しいことで、井田制の行なわれない世ではし難いこと。横渠なども井田のことを程子に相談した。程子御兄弟も度々その御話をして、政をするには経界が大切だが、今は井田が行なわれないと言って歎かれたこともある。禹王を尽力乎溝洫と言ったが、それは水の掛け引きが大切だということ。そもそも百姓の損亡は皆水による。水損は水の引きの悪い方からで、旱損は水掛かりの悪い方からである。あの溝洫一つで天下を安泰にするのである。今人の口上に我田引水とあるが、聖賢の世にそんな不調法なことはない。溝洫は自分の田へ直ぐに水が来る様に隅から隅まで行き渡ったもの。そこで大水にはまたこれから水を落とすこともある。これが正しくないからよく行き届かない。そこで、心の外のことも押し付けて置くことになる。
【語釈】
・生財有大道…大学章句10。「生財有大道、生之者衆、食之者寡。爲之者疾、用之者舒。則財恆足矣。仁者、以財發身。不仁者、以身發財」。
・盡力於溝洫…論語泰伯21。「子曰、禹、吾無間然矣。菲飲食、而致孝乎鬼神。惡衣服、而致美乎黻冕。卑宮室、而盡力乎溝洫。禹、吾無間然矣」。
・暴君汚吏必慢經界經界既正分田制禄可坐而定也…孟子滕文公章句上3。「孟子曰、子之君將行仁政、選擇而使子、子必勉之。夫仁政、必自經界始。經界不正、井地不鈞、穀祿不平。是故暴君汙吏必慢其經界。經界既正、分田制祿可坐而定也」。

四曰郷黨。經界がよく立てからは教にかかる。郷黨の治めが法の本なり。本はここから固めて廣げる。上の經界を治の法と云は衣食のことなり。これは治の法の名教なり。賑かに家のこみた村がありて建つづいた町があろふとも、それがあてにはならぬ。治るの法をするが郷黨のことなり。大学の序に治而教と云がここのことで、治るも教るもすぐに近思の治法なり。とかく此郷黨と云法が立てからでなくてはゆかぬ。上にある人が、あいらはどふでもよい、不身持でも其はづよ々々々々と云は、人を人間あしらいにせぬ口上なり。人は天地の子。歴々もかるいものもそこにかはりはない。天地人三才と云から何も其筈と云ことはない。舩頭に夫婦中のわるいもあり、駕舁に親子中のわるいもある。そのとき、あいらは其筈のことよとは云れぬ。めったにあいらは其筈よと云ては三代の学人倫を明にすとは云れぬ。それでは只山に草木のはへた様なり。人あしらいでない。あんまりなことぞ。今村里に名主と云があるて、それ々々に支配が立ておる。其村に父子兄弟のことに付てわるいことがあれば其役人の耻じゃ。これらは皆大切に聞ふこと。をれは納め物も滞りはない、役を無事に勤めたと心得るはかいないことなり。其村に不孝不弟な者もなく、廉耻の心を存して公儀の法度を犯さず人間らしくさせるが郷黨の吟味なり。これと云も經界からなり。
【解説】
「四曰鄕黨」の説明。「経界」は衣食の治法であり、「郷党」は名教の治法である。人君が民を見下し、放って置くのは悪い。人は三才の一であり、人倫を明にしなければならない。不孝不弟な者もなく、廉恥の心を持ち、公儀の法度を犯さず人間らしくさせるのが郷党であり、これも経界からのことなのである。
【通釈】
「四曰郷党」。経界がよく立ってから教えに取り掛かる。郷党を治めるのが法の本であり、ここから固めて広げるのである。上の経界を治の法と言うのは衣食のことで、これは治の法の名教である。賑やかに家が混んだ村があり、建て続いた町があるとしても、それは当てにはならない。治める法をするのが郷党のこと。大学の序に「治而教」とあるのがこのことで、治めるのも教えるのも直に近思の治法である。とかくこの郷党という法が立ってからでなくてはうまく行かない。上にある人が、あいつ等はどうでもよい、不身持なのもその筈のことと言うのは、人を人間あしらいにしない口上である。人は天地の子であって、歴々でも軽い者でもそれに変わりはない。天地人三才と言うのだから、何もその筈ということはない。船頭に夫婦仲の悪い者もあり、駕籠舁きに親子仲の悪い者もある。その時、あいつ等はその筈のことだとは言えない。滅多矢鱈にあいつ等はその筈だと言うのでは、「三代之学明人倫」とは言えない。それではただ山に草木の生えた様であって人あしらいではない。それはあんまりなこと。今村里に名主がいて、それぞれに支配が立っている。その村に父子兄弟のことについて悪いことがあればそこの役人の恥である。これ等のことは皆大切に聞かなければならないこと。俺は納め物も滞りはない、役を無事に勤めたと心得るのは甲斐無いこと。その村に不孝不弟な者もなく、廉恥の心を持って公儀の法度を犯さず人間らしくさせるのが郷党の吟味である。これというのも経界からのこと。
【語釈】
・治而教…大学章句序。「一有聰明睿智能盡其性者出於其閒、則天必命之以爲億兆之君師、使之治而敎之、以復其性」。
・天地人三才…易経説卦伝2。「立人之道、曰仁與義。兼三才而兩之」。
・三代の学人倫を明にす…論語学而7集註。「游氏曰、三代之學、皆所以明人倫也」。

經界が治ら子ば民食が足らぬ。食用足らぬと百姓が心がうは々々して、なんぞ外の者にでもなろふと云心根になる。惟救死而恐不瞻奚暇礼義哉と孟子の云れた。さても々々々百姓と云ものはよいものだと思でなくてはゆかぬこと。此郷黨と云吟味が、あたま数で何十軒あるの、村は何と云などと云ことではない。村数を多く支配するものなどは、あの村にはわるいものがあるのなんのとばかり見て居てはならぬ。急度糺すことなり。わるものか出たら耻と思ふことぞ。地頭も遠くからは手が届ぬ。郷黨に役人と云があるから、上からをもい人民をあづけて治めさする。よく治めれば役人の鼻を高くすること。只をれはこの村の長とばかりて鼻を高くしてはつまらぬ。田舎の役人は任のをもいこととをもへ。大名の家来には八百石取ても茶の給仕をする人もある。身分は重くても任はかるい。田舎の名主は木綿布子で股引なれども、一村の人を治るから任は重い。この郷黨の目などか今日ではここらの名主からして天下を安泰にするの目なり。然れは大切にあづかることなり。今は名主は中に立て年貢を取立て用金などを世話するばかり。ここの郷黨の意に非す。
【解説】
郷党では、悪者が出たら恥だと思い、それを厳しく糾弾する。郷党が治まることで天下が安泰になるのだから、村の役人の任は重い。年貢を取り立て、用金などを世話するだけのことではない。
【通釈】
経界が治まらなければ民食が不足する。食用が足りないと百姓の心が浮き立って、何か外の者にでもなろうという心根になる。「惟救死而恐不瞻奚暇礼義哉」と孟子が言われた。百姓というものは本当によいものだと思うのでなくてはうまく行かない。この郷党の吟味は、頭数で何十軒あるとか、村は何と言うなどということではない。村数を多く支配する者などは、あの村には悪い者がいるの何のと見ているだけでは悪い。それを厳しく糺すのである。悪者が出たら恥だと思わなければならない。地頭も遠くにいるので手が届かない。郷党に役人がいるから、上が重い人民を預けて治めさせる。よく治めれば、それは役人の鼻を高くすることとなるが、ただ俺はこの村の長とばかり思って鼻を高くするのでは詰まらない。田舎の役人は任が重いと思いなさい。大名の家来には八百石を取っても茶の給仕をする人もいる。身分は重くても任は軽い。田舎の名主は木綿布子で股引だが、一村の人を治めるのだから任は重い。この郷党の目などが、今日ここ等の名主からして天下を安泰にする目である。そこで、これは大切に預からなければならない。今の名主は中に立って年貢を取り立て、用金などを世話するばかりで、それはここの郷党の意ではない。
【語釈】
・惟救死而恐不瞻奚暇礼義哉…孟子梁恵王章句上7。「今也制民之産、仰不足以事父母、俯不足以畜妻子、樂歳終身苦、凶年不免於死亡。此惟救死而恐不贍。奚暇治禮義哉」。

五曰貢士。これは郷黨の風俗のよくなると云ふから、上に一つ貢士と云こと出た。下から上へ人を取り上るなり。そこで郷黨と云目からは此貢士と云人は少ひとがてんすること。凡民の俊秀を見出すこと。大学の序に、凡民之俊秀皆入大学とあり、そこで少いと云がここの眼目なり。多あるは望ましくないこと。ここを少いと云が某が見取なり。それを上へあげること。役に立ぬは農圃にかへすと云ことある。皈りたを治るは郷黨なり。貢士から取上られたは致知挌物して垩賢の域に至ること。どこ迠ゆかふも知れぬをもいこと。然れば垩代にも多くはない筈なり。後世は科挙でそっちへいじりこっちへいじり、講釈をし文章を書て出たがる。そんなものが何の役に立ふ。学者は身分はかるくても、歴々の上に立た子ばならぬものを持ておると云人がある。それを取出すこと。いかふ十分に云ふと伊尹なぞがそれなり。それて郷黨の目は、全体貢士と云は数は少ひものと云ふことぞ。千万人にすぐれた器量の上に学問の成就したものをあげること。ただぞよ々々と上へ出ることではない。講釈や文章、業で出るは藝なり。鞁打も同こと。そんなものは一つも治道の役には立ぬ。何が宋朝が科挙ゆへ、農工もそれゆけ々々々々と云て鍬も鎌もすてて出たが、字はよめても心は赤の凡夫なり。垩賢の世には大学挍で吟味して君子の学徳を持たものを取上ることゆへ、歴々もあり、成りあがりものがと云て侮ることはならぬ。貢士はいかいことはない筈。いかいことあるにろくなことはない。某が貢士は数は少ひとよみたもここのことぞ。
【解説】
「五曰貢士」の説明。「貢士」は、凡民の中から俊秀で見出された者で、致知格物して聖賢の域に至る者なのでその数は少ない。聖賢の世では大学校で吟味をして君子の学徳を持った者を採り上げたが、宋朝は科挙制なので、農工も鍬や鎌を捨てて出た。それでは、心は真っ赤な凡夫である。講釈や文章、業で出るのは芸であり、治道の役に立つものではない。
【通釈】
「五曰貢士」。郷党の風俗がよくなるから、その上に一つ貢士ということを出した。これは、下から上へ人を採り上げること。そこで、郷党という目からはこの貢士という人は少ないものと合点しなさい。凡民の中から俊秀を見出すこと。大学の序に、「凡民之俊秀皆入大学」とあり、そこで貢士は少ないと言うのがここの眼目である。多くあるのは望ましくない。ここを少ないと言うのが私の見取りである。それを上へ挙げ、役に立たない者は農圃に帰す。帰った者を治めるのは郷党である。貢士として採り上げられた者は致知格物して聖賢の域に至るのであって、何処まで行くかもわからない重いこと。それで、聖代にも多くはない筈である。後世は科挙でそっちこっちを弄り、講釈をしたり文章を書いたりして出たがる。そんな者が何の役に立つものか。学者で、身分は軽くても歴々の上に立たなければならないものを持っている人がいる。それを取り出すこと。大層念を入れて言えば伊尹などがそれである。それで郷党の目は、全体貢士という者の数は少ないということ。千万人にも優れる器量の上に学問の成就した者を挙げることで、ただぞろぞろと上へ出ることではない。講釈や文章、業で出るのは芸である。それは鞁打も同じこと。そんなものは一つも治道の役には立たない。何しろ宋朝は科挙制だったので、農工もそれ行けそれ行けと言って鍬も鎌も捨てて出たが、字は読めでも心は真っ赤な凡夫である。聖賢の世では大学校で吟味をして君子の学徳を持った者を採り上げるので歴々もいて、成り上がり者がと言って侮ることはできなかった。貢士は多くはいない筈。大層あることに碌なことはない。私が貢士は数が少ないと読んだのもここのこと。
【語釈】
・凡民之俊秀皆入大学…大学章句序。「及其十有五年、自天子之元子・眾子、以至公卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學。而敎之以窮理正心、修己治人之道。此又學校之敎、大小之節、所以分也」。
・鞁打…太鼓叩き?太鼓持?

六曰兵役。軍のそなへなり。いかほど火の用心よくしても火事の出来ることもある。垩賢の代には夷に侵されぬ様にしてはあるが、ひょっとそんなことの有たときに大学の致知挌物や書經の曰稽古之帝堯てはゆかぬ。治世に乱を忘れずと云は心へたたみこむこと。それとはちごふ。これはきっと備ておくこと。宋朝なとにも備はありた。処々にあるから道樂ものがむせふにかけこむ。去に依て、范文正公が元昊が乱のとき、義勇軍などのことにてもみるべし。それへわるものをうけこみ用たことある。今度の軍は軍兵も少ひこと。あいらをつかへと云てつかふた。火事さへわるものがよく骨折る。軍につかふもよいことなれとも、垩賢の方で兼てわるものををけと云ことではないが、それは時に取ての権冝の法ぞ。此兵役は仕込でをくこと。天子の御膝元に兵ををく。夫から夷狄ざかいは一大事の防きだからどこにも彼こにもありたが、後には役にも立ぬわるものが来て扶持を喰てをるから、粮米が多くついへて上の御藏がすくから百姓の取箇が上ら子ば間に合ぬ。夫れで民の苦になりた。されとも兵役なくては一大事の時にこまる。宋朝では甚た兵か民の害なり。
【解説】
「六曰兵役」の説明。「兵役」とは軍の備えである。范文正公が軍に悪者を使ったのは権冝の法であって、ここの兵役の意ではない。宋朝でも天子の御膝元や夷狄境に兵を置いたが、後には悪者がそこに入って扶持を喰うので百姓の取箇を上げなければならなくなった。兵役がなくては一大事の時に困るが、宋朝では甚だ兵が民の害となった。
【通釈】
「六曰兵役」。これは軍の備えのこと。どれほど火の用心をしても火事が起こることもある。聖賢の代では夷狄に侵されない様にしてはあったが、ひょっとそんなことのあった時は、大学の致知格物や書経の「曰稽古之帝堯」ではうまく行かない。治世に乱を忘れずというのは心へ畳み込むことであって、それとは違い、これはしっかりと備えて置くこと。宋朝などにも備えはあった。備えが処々にあるから道楽者が無性に駆け込む。それについては、范文正公が元昊の乱の時に用いた義勇軍などのことを見てみなさい。それへ悪者を受け込んで用いたことがある。今度の軍は軍兵も少ないから、あいつ等を使えと言って使った。火事でさえ悪者がよく骨を折る。そこで悪者を軍に使うのもよいことではあるが、聖賢の方では予め悪者を置いておけと言うことはなく、それはその場に当たっての権冝の法である。ここの兵役は仕込んで置くこと。天子の御膝元に兵を置く。それから夷狄境は一大事となる防ぎ場だから何処にでも兵がいた、後には役にも立たない悪者が来て扶持を喰うこととなり、粮米が多く費えて上の御蔵が空き、百姓の取箇を上げなければ間に合わなくなった。それで兵役が民の苦労になった。しかしながら、兵役がなくては一大事の時に困る。宋朝では甚だ兵が民の害となった。
【語釈】
・曰稽古之帝堯…書経堯典。「曰、若稽古帝堯」。
・范文正公…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。989~1052
・元昊が乱…1028年、李元昊が甘州を占領。1038年、李元昊が国号を大夏とし、西夏を建国する。
・時に取て…その場に当たって。その当座。
・権冝…臨機に事を取りはからうこと。便宜の処置。機宜。
・取箇…江戸時代、田畑に課した年貢のこと。また、収入高。

明道の此兵役のことはあてのありてかいたこと。只今のぶんではすまぬこと、御心を付られてよかろふとなり。只今の吾国はいつとなく封建になりて兵役のことは武家の役なり。皆それ々々に大名衆の備へてあることゆへ、上の領地の民のなやみにはならぬ。三代にもない結搆なこと。尤一大事のとき、人夫は出ても兼て兵役に食つぶされぬなり。されとも明道の爰へ云た兵役の為になるほどのしこみがないもの。鑓の鉄炮のと一と通り武藝をよくしても、ためしたことがなければ一大事の時の役に立ぬもの。唐では人も具足、馬も馬具足をつけて軍の摸様をして折々武のならしをすることなり。今武藝のけいこよりは別段なそふなぞ。そこで此方でも火消を云付れば馬に纏を見せ、ながへを見せてならす。馬さへもそふ仕こむにてみよ。此の兵役の筋のことには太宰が云たことによいことあるぞ。兵役にはいかふ仕方もあれとも、この一目は當時のを明道氣の毒に思ふて出た目なり。委曲の指圖は云れず。
【解説】
日本では封建になってから兵役は武家の役となったので、兵役が民を害することはない。しかし、実戦がないので一大事の時には役には立たない。宋代は金の脅威があったので、明道は兵役をここに挙げたのである。
【通釈】
この兵役のことは明道に当てがあって書いたこと。今のままでは済まない、気を付けた方がよいだろうと言ったのである。只今我が国では封建になり、兵役のことはいつとなく武家の役となった。皆それぞれに大名衆が備えているので、先にあった様な領地の民の悩みはなく、三代にもないほど結構なことである。尤も一大事の時には人夫として出ることはあっても、兵役に食い潰されることはない。しかしながら、明道がここで言った兵役のためになるほどには仕込みがないもの。鑓や鉄砲などと一通り武芸をよくしても、試したことがなければ一大事の時には役に立たないもの。唐では人も具足、馬も馬具足を付けて軍の模擬をして、折々武の練習をした。それは今の武芸の稽古とは別段なことだそうである。それと同じで、こちらでも火消しを言い付ければ馬に纏を見せ、長柄を見せて馴らす。馬でさえもその様に仕込むことで見なさい。ここの兵役の筋については太宰春台によい言がある。兵役には大層仕方があるが、この一目は当時の状況を明道が気の毒に思って出した目である。委曲の指図を言うことはできない。

七曰民食。先つ一日々々と人がものを喰てとをる。喰ふことには人は如在のないもの。それは誰もなるから上の世話入ぬやうなが、凶年と云ことがあるから、そのとき何ともなく喰でなくては民食が民食にたたぬ。礼記に九年耕則有三年之蓄と云た。これが暮しの仕方なり。三年耕則有一年之食。少しつつを溜ること。三分一づつ残す仕方なり。只今にも上から儲へものをせよと法が出たらいかさま々々々々と云てさうすることぞ。百姓大小の差別なく、皆身上を四分にわりて一分づつ残し々々すれば、九年に三年ほどの物がうき物になる。堯の時の七年の洪水はめったにないこと。九年に三年の食があまりてあらば、中々餓死はない。これがないから一年の飢饉にもはっ々々と云ことになる。そこで大学にも生之者多食之者寡。これでは財がふへる。遊民多くてはならぬ。懐手をするものは上から咎めることぞ。人家一年々々のくらしはそれても可なりによかろふが、天下中くるめた時に、懷手のやつらを惣体でくくってみれば穴があくことなり。そこで大学の註にも国無遊民則生者多矣朝無幸位則食者寡矣とあり、粒々皆辛苦と云ことをば夢にも思はず度法もないやつらがごろ々々寐て居て喰ふは、惣つか子で見れば国のついへ。さて々々筭用の合ぬことなり。直方先生が、この江戸中の裏店にみち々々と人がをるをただ盤昌とばかり心得るはくらいことと云へり。
【解説】
「七曰民食」の説明。これは、凶年でも食を絶やさないこと。それには少しずつ蓄えて置くことである。また、遊民が多いのは国の費えであり、人が多いことだけで繁昌していると心得るのは間違えである。
【通釈】
「七曰民食」。先ずは毎日人が物を喰って暮している。喰うことに人は抜け目がないもの。それは誰でもできるから上の世話は要らない様だが、凶年ということがあるから、その時も何ともなく喰うのでなくては民食が民食として立たない。礼記に「九年耕則有三年之蓄」とあり、これが暮しの仕方である。「三年耕則有一年之食」で、少しずつ溜める。それは三分の一ずつ残す仕方である。只今でも、上から蓄え物をせよとの法が出たら、その通りだと言ってそれをしなければならない。百姓大小の差別なく、皆身上を四分に割ってその一分を残し続ければ、九年に三年ほどの物を蓄えることができる。堯の時にあった七年の洪水は滅多にないことであって、九年に三年の食が余ってあれば、中々餓死はしない。しかし、これがないから一年の飢饉にも困ることになる。そこで大学にも「生之者衆食之者寡」とある。これなら財が増える。遊民が多くては悪い。懐手をする者は上から咎められること。人家の一年毎の暮しならそれでよいとしてもよいだろうが、天下中を包めた時に、懐手のやつ等を総体で括ってみれば穴が開く。そこで大学の註にも「国無遊民則生者多矣朝無幸位則食者寡矣」とあるが、粒々皆辛苦ということを夢にも思わず法を度ることもしないやつ等がごろごろ寝ていて喰らうのは、全体で見れば国の費えであって、実に算用の合わないことである。直方先生が、この江戸中の裏店に人が満ち満ちているのを、ただ繁昌とばかり心得るのでは暗いと言った。
【語釈】
・九年耕則有三年之蓄…礼記王制。「三年耕、必有一年之食。九年耕、必有三年之食。以三十年之通、雖有凶旱水溢、民無菜色」。
・生之者多食之者寡…大学章句10。「生財有大道、生之者衆、食之者寡」。
・国無遊民則生者多矣朝無幸位則食者寡矣…大学章句10集註。「呂氏曰、國無遊民、則生者衆矣。朝無幸位、則食者寡矣」。
・粒々皆辛苦…粒々辛苦。米を作る農民の辛苦のひととおりでないこと。転じて、ある仕事の成就にこつこつと苦労を重ねて努力すること。

八曰四民。士農工商と天下の人を割たときに、上一人をのけて歴々迠も士なり。あとの三つの中で云内に農本と云て百姓が本に立つ。そんなら工商はやめにしたいと云はふが、百姓に入用なものをこしらへ出す職人もなくてはならぬ。商は交易なり。これで天下の貨利が通ずる。許行が孟子に難問を云れてこまりた。一人ではならぬことなり。農工啇の三つがのがれられぬもの。此四民の目も上の兵役と同ことで、當時へかけて見ること。古は十のもの八九農ぞ。あのときには四民の外のむたものがありた。道具にむたな物があれば掃き溜へすてべきものぞ。いかに天下は廣ひものなればとて、あるまいもののあると云ことはない筈。それにさま々々むたなものがあるべきものの様にをもふてをる。泰平の世にはそふしたものなり。そこで、これはきっと仰付られたらよかろふとなり。四民と調へることなり。四民でないものはない筈。その中にも百姓は十分に八九分あるべきに、これが段々と少くなる勢ではとふも安堵ならぬことぞ。ここも上の民食の根をただすことなり。
【解説】
「八曰四民」の説明。人は人君を除き士農工商の四つのみであって、それ以外のものがあってはならない。しかし、泰平の世ではその様になっていない。また、民食を確保するには四民の内の八九割が農民でなければならず、それが少なくなる様では安堵することはできない。
【通釈】
「八曰四民」。士農工商と天下の人を割った時に、上一人を除き、歴々までもが士である。あとの三つの中では農本と言って百姓が本に立つ。それなら工商は止めたいと言い張るだろうが、百姓に入用なものを拵え出す職人もなくてはならない。商は交易をする者である。これで天下の貨利が通じる。許行が孟子に難問を言われて困った。一人だけではできないのであって、農工商の三つが逃れられないもの。この四民の目も上の兵役と同じことで、当時へ掛けて見なさい。古は十の内の八九が農だった。あの時には四民の外に無駄なものがあった。道具に無駄な物があれば、それは掃き溜めへ捨てるべきもの。いかに天下が広いものだと言っても、あってはならないものがあるということはない筈。それなのに様々な無駄なものをあるべきものの様に思っている。泰平の世とはそうしたもの。そこで、これはしっかりと仰せ付けるのがよいだろうと思ったのである。四民と調える。四民でないものはない筈。その中でも百姓は十分に八九分あるべきなのに、これが段々と少なくなる様ではどうも安堵はできない。ここも上の民食の根を糺すこと。
【語釈】
・許行が孟子に難問を云れてこまりた…孟子滕文公章句上4にある話。

九曰山澤。周礼にも国語にも虞衡と云ことがある。山沢で天下の用が足る。山からは凡そ材木から禽獣玉石藥石迠が出る。川から出るものもさま々々なり。それを沢と云。川海こもるなり。それにそれ々々の役人あるで天下の用をなす。斧斤以時入山林材木不可勝用也數罟不入洿池魚鼈不可勝食也。今江戸で度々火事があれば材木が高くなるものなれとも、それは只一旦のことで、天地は廣ひからうみ出す。天地の方のへりたことではない。一旦の高直は不通用で片をちになりたからなり。海邉でも肴が不自由で却て遠方へ買にやって下直につくと云ことのあるは片をちになりたゆへぞ。古は山澤に役人があるから價の高下とても融通のよい。仕方あるゆへぞ。このことが吟味がなれければ天下の用は通せぬ。山沢はそんな役の中の大きいをあげたもの。此様な瑣細な禁までが垩人の條理分派なり。初物々々と云て賞玩するやふなは垩代になきことなり。
【解説】
「九曰山澤、脩虞衡之職」の説明。天地は様々なものを生み出すが、役人がいることで天下の用が果たされる。その役の大きいものが山沢である。山沢に役人がいるから値が高下するとしても物が流通する。
【通釈】
「九曰山沢」。周礼にも国語にも「虞衡」ということが載っている。山沢で天下の用が足りる。山からは凡そ材木から禽獣、玉石や薬石までが出る。川から出る物も様々とあって、それを沢と言い、川海も含めて言う。それにそれぞれの役人がいるので天下の用を成す。「斧斤以時入山林材木不可勝用也數罟不入洿池魚鼈不可勝食也」。今江戸で度々火事があれば材木が高くなるものだが、それはただ一時のことで、天地は広いから生み出す。天地の方で減ることはない。一旦の高値は材木が間に合わなくて片落ちになったからである。海辺でも、魚が少なく、却って遠方へ買いに遣った方が安く付くということがあるのは片落ちになったからである。古は山沢に役人がいるから値が高下したとしても融通はよい。それは仕方があるからである。この吟味がなれければ天下の用は通じない。山沢はその様な役の中で大きいものを挙げたもの。この様な瑣細な禁までが聖人の条理分派である。初物を賞玩する様なことは聖代にはない。
【語釈】
・周礼…周礼天官冢宰。「以九職任萬民。一曰三農、生九穀。二曰園圃、毓草木。三曰虞衡、作山澤之材。四曰藪牧、養蕃鳥獸。五曰百工、飭化八材。六曰商賈、阜通貨賄。七曰嬪婦、化治絲枲。八曰臣妾、聚斂疏材。九曰閒民、無常職、轉移執事」。
・国語…国語斉語管仲対桓公以霸術。「桓公曰、定民之居若何。管子對曰、制國以爲二十一鄕。桓公曰、善。管子於是制國以爲二十一鄕。工商之鄕六、士鄕十五。公帥五鄕焉、國子帥五鄕焉、高子帥五鄕焉。參國起案、以爲三官。臣立三宰、工立三族、市立三鄕、澤立三虞、山立三衡」。
・斧斤以時入山林材木不可勝用也數罟不入洿池魚鼈不可勝食也…孟子梁恵王章句上3。「不違農時、穀不可勝食也。數罟不入洿池、魚鱉不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀與魚鱉不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也」。
・高直[こうじき]…価格の高いこと。逆が下直[げじき]。

十曰分数。歴々だが身帯がわるいから立派でないの、身分はかるいか身帯よいから立派だのと云ことはない。それ々々の挌式作法勝手次第と云ことはならぬ。冠昏喪祭、これが礼の大きいことで、吾まま次第はさせぬ。冠礼は別して重ひことで、此方の子共はいつ迠も坊主あたまにしてをくの、すぐさま野老あたまでよいのと云ことはわるい。元服はきっとするがよいと云と、又、富豪はかるい身分でも歴々のま子をしたり、不身上なものは隣知らずにごそと剃たり、どちしても礼にはづれた。あまりと云へば人の人たるさまでない。昏は昏礼。きっとすべきことじゃに下々などは、をぬしのすきなものにせいと云、大腹中な親とも云はふが、それでは吾とわがでに禽獣のざまをするになる。さっきも云た、あいらは其筈と云ことはないこと。礼法がないと勝手次第をする。上歴々から庶人までに分數あることなり。されとも上に近さに士人はまだよし。農工啇はめったをしたがるぞ。喪祭。今も少し氣のあるものは礼をもする。又、佛法すきは僧に任せておく。今法事をしたなぞと云が、あれがとんとないことなり。祭也者夫婦親之と云て夫婦から出来た子孫ゆへ、夫婦で祭る。だたい墨の衣と云ことはないこと。後世でも中蕐では天下中ならして礼がある。只今は丸で出家まかせなり。歴々とかるいもの、挌式はちがふ。かるいものはなんぼ親切でも次第がある。歴々のま子はならぬ。これが郷黨の吟味の内にあること。上下のことゆへ別に出す。大名小路から市井までのことなり。かるいものはちごふ。そこが分と数なり。車服器用。大名は駕、旗本衆は馬、仲間は紺の大なし。諸太夫でなければ白無垢は着られぬ。以下は淺黄無垢、倍臣は八千石取ても御直参とちがふ。皆分數なり。乘輿と馬と云、それ々々のある。それが車服なり。さて十事のよみやうはやはり葉解でよい。あれが註をしたではなくて、明道の十事の細目を書て置れた。本文をすぐに出したからあれでよいぞ。今日某が講釈も明道の本文のままをよむのぞ。
【解説】
「十曰分數。冠婚喪祭車服器用等差」の説明。上歴々から庶人までに分数あり、歴々と軽い者とでは格式が違う。軽い者が歴々の真似をしてはならない。
【通釈】
「十曰分数」。歴々なのだが身帯が悪くて立派でないとか、身分は軽いが身帯がよいから立派だなどということはない。それぞれに格式作法があり、勝手次第ということはない。「冠婚喪祭」、これが礼の大きいことで、我侭次第はさせない。「冠礼」は特に重いことで、自分の子供はいつまでも坊主頭にして置くとか、すぐさま野老頭にするのがよいのと言うのは悪い。元服は厳格にするのがよいと言えば、また、富豪が軽い身分であっても歴々の真似をしたり、不身上な者は安易にごっそりと剃ったりするが、どちらにしてもそれは礼に外れ、あまりと言えばあまりなことで、人たる姿ではない。「婚」は婚礼のこと。婚礼は厳格にすべきことなのに、下々などではお前の好きな様にしなさいと言う。それは太っ腹な親とも言おうが、それでは自分自身で禽獣の様をすることになる。先ほども言ったが、奴等はその筈だということはない。礼法がないと勝手次第をする。上歴々から庶人までに分数ある。しかし、上に近いだけ士人はまだよい。農工商は滅多矢鱈なことをしたがる。「喪祭」。今も少し気のある者は礼をもする。また、仏法好きは僧に任せて置く。今法事をしたなどと言うが、喪祭は全くない。「祭也者夫婦親之」と言って、夫婦から出来た子孫なので夫婦で祭る。そもそも墨染衣というものはないこと。後世でも中華では天下中に押し並べて礼があるが、只今は丸で出家任せである。歴々と軽い者とでは格式が違う。軽い者はいかに親切でも次第があって、歴々の真似はならない。これが郷党の吟味の内にあることで、上下のことなので別に出す。それは大名小路から市井までのことで、軽い者は違う。そこが分と数である。「車服器用」。大名は駕籠、旗本衆は馬、中間は紺のだいなし。諸大夫でなければ白無垢を着ることはならない。それ以下は浅黄無垢、陪臣は八千石を取っても御直参とは違う。皆分数である。乗輿と馬と言ってそれぞれの分数ある、それが車服である。さて十事の読み方はやはり葉解でよい。彼は註をするのではなく、明道の十事の細目を書いて置かれた。本文を直に出したからあれでよい。今日私の講釈も明道の本文のままを読んだものである。
【語釈】
・野老あたま…男の、前髪を取り去った頭。若衆歌舞伎の役者の前髪を除いたのに始まり、普通の成人男子の髪型の呼び名となる。
・隣知らず…手軽に婚礼をととのえること。
・わがでに…自分自身に。自分で。
・祭也者夫婦親之…礼記祭統。「夫祭也者、必夫婦親之、所以備外内之官也。官備則具備」。小学内篇明倫にもある。
・墨の衣…墨染衣。黒色の僧衣。また、鼠色に染めた喪服。墨染の衣。
・大なし…だいなし。近世、奴僕などの着る筒袖の着物。多く、紺無地。
・乘輿…天子の乗る車馬。天子の乗物。転じて、天子を直接指すのをはばかっていう語。

其言曰無古今無治乱。世には治乱があろふとも、時には古今があろふとも、法の忝さには治世でも乱世でも古ても今でもこの通用のないことはない。如生民之理有窮則聖王之法可改。法を丈夫に云はふとて、ないことを設けて云た。生民之理一寸一つ云はば、親は大切、子は可愛。極天無墜人さへ出れば斯ふしたもの。若し又天地でもつぶるる時になって、親が大切でなく子が可愛くなく畜生の様になったこともあろふか、もし左様なときは生民之理窮りたと云もの。そのときはどふあろふかしらぬが、理のあらんかぎりは垩王の法にかはりはなし。これが理なりゆへ、どふもかわられぬ。水の流れず火のやけぬ世界になりたら知らぬこととなり。春秋傳の序に雖徳非禹湯曰可以法三代之治。これがさかさまな云様のやうなり。德禹湯でなくては三代の治に法ることはならぬと云へきことを、春秋万代之法の丈夫を云はふとてのこと。ここも天地あらん限り法の改ることはないとのことそ。なぜなれば、理のなりの法ゆへ、理さへ窮りなくは法も窮りなし。ひたるくは飯、かはかば湯をのめと云法なり。二百年もすぎたらは心元ないと云ことはなし。
【解説】
「其言曰、無古今、無治亂、如生民之理有窮、則聖王之法可改」の説明。理のある限り聖王の法が変わることはない。理の通りの法だから、理さえ窮まることがなければ法も窮まることはない。
【通釈】
「其言曰無古今無治乱」。世に治乱があろうとも、時に古今があろうとも、法の忝さには治世でも乱世でも古でも今でもこの通用のないことはない。「如生民之理有窮則聖王之法可改」。法を丈夫に言おうとして、ないことを設けて言った。「生民之理」を一寸一つ言ってみれば、親は大切、子は可愛い。極天無墜の人さえ出ればこうしたもの。若しまた天地でも潰れる時になって、親が大切でなく子が可愛くなく、畜生の様になることもあるかもしれないが、もしもその様な時は「生民之理窮」というもの。その時はどうすべきかは知らないが、理のある限りは聖王の法が変わることはない。これが理の通りなのでどうも変えることはできない。水が流れず火の焼けない世界になれば、そんなことは知らないと言った。春秋伝の序に「雖徳非禹湯尚可以法三代之治」とあり、これが逆様に言ったこと。徳が禹湯の様でなくては三代の治に法ることはできないと言うべきところだが、春秋万代の法の丈夫を言おうとしてのこと。ここも天地のある限りは法が改ることはないということ。それは何故かと言うと、理の通りの法なので、理さえ窮まりなければ法も窮まりない。それは、空腹であれば飯、渇けば湯を飲めという法である。二百年も過ぎると心許なくなるなどということはない。
【語釈】
・極天無墜…
・雖徳非禹湯曰可以法三代之治…致知61。「後王知春秋之義、則雖德非禹・湯、尚可以法三代之治」。

能盡其道則大治。法が一はいにつくせば本に治り、或用其偏則小康。治体にある依仁義之偏の偏の字もここでよくすむ。法を受合たことなり。五覇が只の人でないからちっと用て天下を平にした。漢唐もちっとつつつかふて治めた。三代の美は尽其道大治たなり。其外の治世泰平皆小しつつ用て治た。以後万歳この通りしれたことなり。ほんのてないのまでが垩王のかげてをさまりたは法を用たゆへなり。或徒知泥古而不能施之於今。明道の今の学者を云こと。堯舜でなくてはならぬと云が、それでは医者が扁鵲仲景にならぬ内は療治がならぬと云様なもの。そんなこと云はずに、隣の老爺が目をまわしたらかけてゆくがよい。泥むものは却て礼の末へかかるからなり。堯舜々々と云とよいやふなが、それが古に泥むのなり。堯舜の昔を云ずと堯舜の法を今するがよし。
【解説】
「後世能盡其道則大治、或用其偏則小康。此歴代彰灼著明之效也。苟或徒知泥古而不能施之於今」の説明。三代は「尽其道大治」だが、その外の治世泰平は皆、この法を少しずつ用いて治めたもの。今は堯舜に泥むよりも、堯舜の法を行うのがよい。
【通釈】
「能尽其道則大治」。法が一杯に尽くされれば本に治まり、「或用其偏則小康」である。治体にある「依仁義之偏」の偏の字もここでよく済む。法を請け合ったこと。五覇はただの人でないからちょっと法を用いて天下を平にした。漢唐もちょっとずつ使って治めた。三代の美は、尽其道大治である。その外の治世泰平は皆少しずつ用いて治めたもの。以後の歳月がこの通りで知れたこと。本物でない者までが聖王の御蔭で治めることができたが、それは法を用いたからである。「或徒知泥古而不能施之於今」。これは、明道が今の学者を言ったこと。堯舜でなくてはならないと言うのは、医者が扁鵲や仲景の様にならない内は療治ができないと言う様なもの。そんなことは言わずに、隣の老爺が目を回したら駆けて行きなさい。泥むのは、却って礼の末へ執着しているからである。堯舜と言っていればよい様だが、それが古に泥むこと。堯舜の昔を言わずに、今、堯舜の法をするのがよい。
【語釈】
・依仁義之偏…治体2。「用其私心、依仁義之偏者、覇者之事也」。

遂廃其實。兎角喪服をこしらへ子ば喪はならぬと云が欲徇名なり。喪服がなくば麻上下でもよい。簠簋邉豆でなくては祭はならぬと云ておるは廃其実なり。今日の人に一つ了簡違がある。古法の今に合を知らぬ。五臟六腑は古も今も一つだから、醫者は古の方を用る。垩賢の法、今は行れぬと云は手づつなり。又、そふでないのは趣便目前。をいらはならぬ、今時はこれでもよいと云。今川でしまふのぞ。非大有為之論。明道のつく々々と見て云れた。今度の役人はちとよい位のことでは當時の極弊は救はれぬ。さて明道先生の此十事が新いことはなし。垩賢の法をぬいて爰へ云たこと。古書を見れば知るることなり。明道は政をあづける。直にこれがなる人なり。これで見れば治体を身にもった人と云が見へる。あつける、じきに此通を出すなり。先日の言神宗曰の条と爰の十事を合せて見れば、伊尹周公の才を持た人と云が見へる。治体治法揃たなり。よく合点すれは言於神宗曰の条を明道の治体、此十事を明道の治法とも云べし。
【解説】
「姑欲徇名而遂廢其實、此則陋儒之見、何足以論治道哉。然儻謂今人之情、皆已異於古、先王之迹、不可復於今、趣便目前、不務高遠、則亦恐非大有爲之論、而未足以濟當今之極弊也」の説明。喪服や祭器がなければ喪や祭りができないと言うのは「欲徇名而遂廃其実」であり、堯舜の法は行えない、今のままでよいと言うのは「趣便目前不務高遠」である。それでは当時の極弊を救うことはできない。この十事は明道の治法であり、言於神宗曰の条は明道の治体である。
【通釈】
「遂廃其実」。とかく喪服を拵えなければ喪はできないと言うのが「欲徇名」である。喪服がなければ麻裃でもよい。簠簋邉豆でなくては祭はできないと言っているのは「廃其実」である。今日の人に一つ了簡違いがあり、古法が今に合うことを知らない。五臓六腑は古も今も同じだから、医者は古の方を用いる。聖賢の法は今行えないと言うのは拙劣である。また、そうでない者も「趣便目前」で、俺はできない、今時はこれでもよいと言う。今川状で済ますのである。「非大有為之論」。明道がつくづくと見て言われた。今度の役人が少しよい位のことでは当時の極弊を救うことはできない、と。さて明道先生のこの十事に新しいことはなく、聖賢の法を抜き出してここで言ったのである。古書を見ればそれはわかること。明道は政を預けられれば直にそれができる人であって、これで見れば治体を身に持った人ということがわかる。預ければ直にこの通りのことをする。先日の言神宗曰の条とここの十事とを合わせて見れば、伊尹や周公の才を持った人ということが見える。治体と治法が揃っている。よく合点すれは言於神宗曰の条を明道の治体、この十事を明道の治法とも言うことができる。
【語釈】
・簠簋邉豆…簠簋は、中国の祭典で神に供える穀物を盛る器。籩豆は、中国で祭祀・宴会に用いた供物を盛る器。籩は竹製で果実類を盛り、豆は木製で魚介・禽獣の肉を盛る。
・言神宗曰の条…治体2を指す。


第四 伊川先生上疏曰の条

伊川先生上疏曰、三代之時、人君必有師・傅・保之官。師、道之敎訓、傅、傅之德義、保、保其身體。後世作事無本、知求治而不知正君、知規過而不知養德。傅德義之道、固已疎矣。保身體之法、復無聞焉。臣以爲傅德義者、在乎防見聞之非、節嗜好之過。保身體者、在乎適起居之宜、存畏愼之心。今既不設保傅之官、則此責皆在經筵。欲乞皇帝在宮中、言動服食、皆使經筵官知之。有翦桐之戲、則隨事箴規、違持養之方、則應時諫止。遺書云、某嘗進説、欲令人主於一日之中、親賢士大夫之時多、親宦官宮人之時少。所以涵養氣質、薰陶德性。
【読み】
伊川先生上疏して曰く、三代の時、人君には必ず師・傅・保の官有り。師は之を道きて敎訓し、傅は之が德義を傅し、保は、其の身體を保んず。後世は事を作すに本無く、治を求むるを知るも君を正すを知らず、過を規[ただ]すを知るも德を養うを知らず。德義を傅する道、固より已に疎なり。身體を保んずる法、復聞く無し。臣以爲[おも]えらく、德義を傅す者は、見聞の非を防ぎ、嗜好の過ぎたるを節するに在り。身體を保んずる者は、起居の宜しきに適[かな]い、畏愼の心を存するに在り。今既に保傅の官を設けざれば、則ち此の責は皆經筵に在り。欲乞[ねが]わくは、皇帝宮中に在るときは、言動服食、皆經筵官をして之を知らしめよ。翦桐の戲有らば、則ち事に隨いて箴規し、持養の方に違わば、則ち時に應じて諫止せん、と。遺書に云う、某嘗て説を進めて、人主をして一日の中に、賢士大夫に親しむの時多く、宦官宮人に親しむの時少なからしめんと欲す。氣質を涵養し、德性を薰陶する所以なり。
【補足】
・この条は、程氏文集六にある。

師傅保は書經周官にもある周礼の三公のこと。師道之教訓。天子は御幼年から九重の奧深ひ内にそだたせられても別に人とちごふことはあるまい。教なくて何の御わきまへがあろふ筈はない。それを下から只拜み奉るばかりではない筈。あなた方はどふても別段なことと云訳はなし。教は人の人たるあしらい、上下の別はないことなり。古は天子の元子より皆入大学。大学挍で学んで、それから登祚の後も大師と云がある。道理の話より外は上御一人の耳へ入れぬこと。かるいものさへ師と云ことはある。歴々衆の幼君より下々まてが乳母そだてで、幼年から日月をののさまと云ひ、江戸の市井、田舎の在々、むかしから小児あそばせる謡にも御月さまいくつと云ては教訓になろふやうはない。傅と云が似たことでちがいがある。師は知識を開導したすける方。傅は徳義をたすける行の方なり。保は氣の上のこと。御身の御養生の方なり。
【解説】
「伊川先生上疏曰、三代之時、人君必有師・傅・保之官。師、道之敎訓、傅、傅之德義、保、保其身體」の説明。天子も人だから、教えがなければならない。師は知識を開導して輔けるもので、傅は徳義を輔ける行、保は養生のことである。
【通釈】
師傅保は書経周官にもある周礼の三公のこと。「師道之教訓」。天子は御幼年から九重の奥深い内に育てられてはいるが、別に人と違ったことはないだろうから、教えがなければどうして御わきまえがある筈があろうか。その人を下からただ拝み奉るばかりではない筈。貴方とはどうしても別段だというわけはない。教えは人が人たるためにあるもので、それに上下の別はない。古は天子の元子より皆大学に入る。大学校で学び、それから登祚の後も太師ということがある。それは、道理の話以外は上御一人の耳へ入れないこと。軽い者にさえ師ということはある。歴々衆の幼君から下々まてが乳母に育てられ、幼年から日月をののさまと言い、江戸の市井や田舎の在々でも、昔から小児を遊ばせる歌にも御月様いくつなどと言っているのでは教訓になる筈がない。傅は師と似ているが、違いがある。師は知識を開導して輔ける方で、傅は徳義を輔ける行の方のこと。保は気の上のこと。御身の御養生の方のことである。
【語釈】
・三公…書経周官。「立太師・太傅・太保。茲惟三公」。
・天子の元子より皆入大学…大学章句序。「及其十有五年、則自天子之元子・衆子、以至公卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學」。
・登祚…天子の位に登ること。即位。
・ののさま…日月・神仏などにいう幼児語。
・在々…①あちこちの村里。②到る所。所々。

後世作事無本。三代をのけては皆これじゃ。氣の上計りで本根がない。料理人庖丁を研ず大工道具をとがぬ。よい細工よい料理ならぬ筈。不知正君。天下を泰平々々と祈ぬものはなけれとも、向の方へは手を出すが、泰平の根は君の方にあることを知たものはない。又、君の方の事が大切と知ても、それは上の過を規すことをたま々々知てすることもあろふが、全体の大根の徳を羪ふことは知らぬ。迂斎曰、食膓のとき藥を呑せることは知たが、全体の羪生をすると云ことは知らぬ。古の教は全体からゆく。所以後世之非所能及也。なんと師傅保は無ふて叶はぬものではあるまいかやなり。保身躰之法復無聞焉。これは申上けよいことじゃありそうなものに無聞。上の句の傅徳義者もなく、御身の不羪生のことを申上す、なされたいまま御勝手次第にと云てはあんまり君を不敬にしたのしゃ。防見聞之非。かるいものでも其家の一人となりては下から云にくい。まして人君は誰も々々いただき奉ることゆへ、奧向などではさま々々なあるまいことがあろふ。宦宦宮妾なと云ものあるで、えしれぬこと御耳に入る。宋朝など定て俗樂なども御前ですることもあろふ。耳目によふないことのふるる。それが不徳の基になる。
【解説】
「後世作事無本、知求治而不知正君、知規過而不知養德。傅德義之道、固已疎矣。保身體之法、復無聞焉。臣以爲傅德義者、在乎防見聞之非、節嗜好之過」の説明。後世は気上のことばかりで本がない。泰平の根本は君にあることを知らない。たとえそれを知っていても、君を正す者や徳を養う者がいない。宋朝では宦官や宮妾などがいて、君の耳目に悪いことが入って来る。それが不徳の基になる。
【通釈】
「後世作事無本」。三代を除けば皆これである。気の上ばかりで本根がない。料理人が庖丁を研がず大工が道具を研がなければ、よい細工やよい料理はできない筈。「不知正君」。天下を泰平にと祈らない者はないが、向こうの方へは手を出すが、泰平の根は君の方にあることを知る者がいない。また、君の方の事が大切だとは知っていても、上の過ちを規さなければならないことを偶々知ってすることもあるだろうが、全体の大根の徳を養うことは知らない。迂斎が、食傷の時に薬を飲ませることは知っているが、全体の養生をするということは知らないと言った。古の教えは全体から行く。「所以後世之非所能及也」。実に師傅保はなくてはならないものではないかと言った。「保身体之法復無聞焉」。これは申し上げてよいことでありそうなものなのに「無聞」。上の句の傅徳義の者もなく、御身の不養生のことも申し上げず、なされたいまま御勝手次第にと言うのではあまりに君を不敬にしたこと。「防見聞之非」。軽い者でもその家の長となれば下からは言い難い。まして人君は誰もが拝み奉る者なので、奥向きなどでは様々なあってはならないことがあるだろう。宦官や宮妾などという者がいるので、とんでもないことが御耳に入る。宋朝などではきっと俗楽なども御前ですることがあっただろう。耳目によくないことが入る。それが不徳の基になる。
【語釈】
・所以後世之非所能及也…大学章句序。「此古昔盛時所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也」。

適起居之冝。召物から召上り物まで御好きしだいのない様にとなり。超居はかるく云へは寐たり起たりと云字なり。平生のことを起居と云。一日内にすわりて計りは御羪生にはならぬ。後菀を散歩したり習ふ業に御身のこなしが大事じゃ。存畏愼之心。迂斎曰、煩ってはなるまいと畏愼すること。これは隱微に云たこと。女中計りの奧向に御坐りて好色などの御不羪生のない様にとなり。飲食は結搆ずくめ、起居は出則輦玉のこし手ぐるまで美人の中に計りこさる。自ら不羪生があらせられよう。こうしゅこうみは爛膓之具皓歯蛾眉伐性之斧。やわらかな結搆ずくめでは御身がなまける。これでは御短命になる。書経にだん々々と或は々々と歯ひのことならべあるをみよ。木曽の山家は手あらいもの喰ふて立派なことに交らぬから長命がある。さて伊川のこれを申上たが即哲宗なり。御幼君で彼女中の堯舜と云るる御祖母さまのついてごさりてそだたせられた。まだ好色の情などはない時分、その警戒には及ぬと云時分に申上けたことなれとも、はや宮女の内に懐姙したがありた。それみたかと云ほどのこと。あの時分、歴々衆もありたれとも、此様な親切を申上けたものがない。伊川は一途の誠心で一はいを申上けられた。上へ申上ることは誠でなければひびかぬ。此章の治法になるは、師傅保の宦のないがかけと云が主なれとも、保身体の存畏愼之心と云一途の誠心が萬世へひびいて萬代の賜になる。今日ここをよむにもいこふ人心に感ずるは伊川の誠心からなり。
【解説】
「保身體者、在乎適起居之宜、存畏愼之心」の説明。人君が好き勝手をしては不養生となり、短命になる。これは伊川が誠心から言ったことで、この様な親切を言う者は当時の歴々にもいなかった。
【通釈】
「適起居之冝」。召し物から召上り物まで御好き次第ということのない様にと言った。「起居」は軽く言えば寝たり起きたりという字であり、平生のことを起居と言う。一日中家に座ってばかりでは御養生にはならない。後苑を散歩したり習う業に御身のこなしが大事なのである。「存畏慎之心」。迂斎が、煩ってはならないと畏慎することだと言った。これは隠微に言ったこと。女中ばかりの奥向きに御座り、好色などの御不養生のない様にと言う。飲食は結構ずくめ、起居は出則玉輦で、輿手車で美人の中にばかりいるのでは、自ら不養生となることだろう。好酒好味は爛腹之具、「皓歯蛾眉伐性之斧」。柔らかな結構ずくめでは御身が怠ける。これでは御短命になる。書経に順序良く或いは或いはと齢のことを並べてあるのを見なさい。木曾の山家は手荒いものを喰って立派なことに交わらないから長命である。さて、伊川がこれを申し上げた相手は即ち哲宗である。御幼君であの女中の堯舜と言われる御祖母様が付いておられて育てられた。まだ好色の情などはない時分で、それを警戒するには及ばないという時にこれを申し上げたわけだが、早くも宮女の内に懐妊した者がいて、それ見たことかと言うほどのこと。あの時分に歴々衆もいたが、この様な親切を申し上げた者はいない。伊川は一途の誠心で一杯に申し上げられた。上へ申し上げることは誠でなければ響かない。この章が治法になるのは、師傅保の官のないのが欠けとなることを主とするからだが、「保身体」や「存畏慎之心」という一途の誠心が万世へ響いて万代の賜になる。今日ここを読むにも大層人心に感じるのは、伊川の誠心が響くのである。
【語釈】
・輦玉…玉輦。天子や貴人の乗る車。輦の美称。
・こうしゅこうみは爛膓之具…
・皓歯蛾眉伐性之斧…後漢枚乗の七発に「皓齒蛾眉、命曰伐性之斧」とある。
・或は々々…書経無逸?「自時厥後、亦罔或克壽。或十年、或七八年、或五六年、或四三年」。

此責皆在經莚。これが伊川の命を的にかけた云分なり。保傅の官がないからは是非もない。某抔がのっひきならぬとなり。此時崇政殿の説書なり。私共の御役じゃと云た。これが内へかへりて早く休足がしたいの、首尾のよい内君前を下りたいの、知行を取はづさず子孫へ傳へたいのと云心で中々云るることでない。云へば云ほど奧向の首尾はわるくなることで、御氣に入女中などがあの老爺が又いらざることを云と、口々にそしられれ忌まるることなり。これが經莚でなければまだしも云よいが、吾經莚でこれを云が金石を貫く誠なり。天子の奧深く御坐ありて、どのやうなものを召上けらるるか、どのやうなものを召すか、どの様な事の御咄し合あるか此方へ御きかせ下されたいと命かけて云たことぞ。忠臣と云と一番鎗つく馬先のことと計り思ふが、それははり合を頼にしよいもの。却て疂の上のことがならぬ。そこで学者は一寸講釈を御前でせふとも、死に身ですることぞ。さなければひびかぬ。爰は伊川の命がけて云たから今よんでもひびく。翦桐之戯。天子の戯れの古事なり。うそか本かは知らぬが成王の幼時に桐の葉を圭にして弟の叔虞に與へられて、後周公の叔虞を唐に封せられたと云ことが雜書にある。このやうなことがあらば急度御諫を申上んとなり。隨事箴規。此句は徳義のこと。違持羪之方則は保身躰のことなり。飲食男女から器用のことまで御わるい筋のことを見てききのがしには仕るまい。斯ふ申上る上は急度此方へ申聞へ下されよとなり。
【解説】
「今既不設保傅之官、則此責皆在經筵。欲乞皇帝在宮中、言動服食、皆使經筵官知之。有翦桐之戲、則隨事箴規、違持養之方、則應時諫止」の説明。傅保の官がないのだから、それに代わるのが自分の役だと命を懸けて伊川が言った。天子の言行を聞かせて欲しい、悪いところがあれば御諌めすると言ったのである。
【通釈】
「此責皆在経莚」。これが、伊川が命を的に懸けた言い分である。保傅の官がないのだから是非もない。私などがのっぴきならない立場だと言った。この時伊川は崇政殿の説書であり、私共の御役目だと言ったのである。これが家に帰って早く休息がしたいとか、首尾のよい内に君前を下りたいとか、知行を取り外さず子孫へ伝えたいなどという心では中々言えることでない。言えば言うほど奥向きへの首尾は悪くなるのであって、御気に入りの女中などが、あの老爺がまた要らざることを言っていると口々に誹られて忌まれることになる。これが経莚でなければまだしも言い易いが、自分の経莚でこれを言うのが金石を貫く誠である。天子が奥深く御座していて、どの様なものを召し上がられるのか、どの様なものを召すのか、どの様な事の御話し合いがあるのかをこちらへ御聞かせ下されたいと、命懸けで言ったのである。忠臣と言えば一番鎗を突く馬先のこととばかり思うが、それは張り合いを頼りにしてもし易いもの。却って畳の上のことがうまくできない。そこで、学者は一寸講釈を御前でするにも、死ぬ気でしなければならない。それでなければ響かない。ここは伊川の命懸けで言ったことだから、今読んでも響く。「翦桐之戯」。これは天子の戯れの古事である。嘘か本当かは知らないが、周の成王が幼い時に桐の葉を圭の形に切って弟の叔虞に与えられたので、後に周公が叔虞を唐に封じられたという話が雑書にある。この様なことがあればしっかりと御諌めを申し上げると言ったのである。「随事箴規」。この句は徳義のこと。「違持養之方則」は「保身体」のこと。飲食男女から器用のことまで御悪い筋のことを見て聞き逃しはしない。この様に申し上げる上は、必ず自分に申し聞かせ下さいと言ったのである。
【語釈】
・崇政殿の説書…元祐元年(1086)に伊川は高太后の命によって崇政殿説書になる。
・圭…上部がとがって下方が四角の玉。中国古代、天子から封侯のしるしとして諸侯に賜ったもの。

遺書云。これは朱子の遺書を見てから補れたもの。賢士太夫は宰相から御側、それから表役人のこと。宦官はようないもの。これが日本にはなくてよい。宮妾。これが大毒なり。賢士太夫は中々不埒は申さぬ。奧向のものもさぞ々々上へ親切はあろふが、よいことはならぬ筈の者ともなり。今日大名衆の若殿へ局や婆々が加持の咒咀の、ちとあなたも御信心なさるがよいのと云。夫から若ひ女などがやぶいりから皈りての芝居咄しをも幼君の耳ふれべし。其外いやはやよひないことたらけがあろふぞ。左様な瑣細なこと、表へは知れず、又さのみ急にわるいこともないやふなれとも、いかう損のたつことなり。そこで先年此筋のことを迂斎の書て棚倉侯の御若ひ時に進せられたことあり。即館林公の幼年のときなり。大名の若殿などが此頃のはやり物と云ことも知らずにごさるもの。それらも女中などから目にふれることあるべし。兎角女そだてはよくない。徳義の上にも羪生の方にも女中がきつい人君の毒なり。賢士でなしとも表の諸士でさへあれば、あまりわるいことはないもの。大名の奧這入りろくなことはない。とかく男の方がくすりになる。涵羪氣質。生れつきのこやしになる。
【解説】
遺書云、某嘗進説欲令人主於一日之中、親賢士大夫之時多、親宦官宮人之時少。所以涵養氣質」の説明。人君に宦官は用がない。また、宮妾は徳義や養生の上でも大毒である。とかく女が育てるのはよくない。
【通釈】
「遺書云」。これは朱子が遺書を見てから補われたもの。賢士大夫は宰相から御側、それから表役人のことで、宦官に用はない。これが日本にはなくてよい。「宮妾」。これが大毒である。賢士大夫は中々不埒は申さない。奥向きの者もさぞ上へ親切ではあろうが、よいことはできない筈の者共である。今日大名衆の若殿へ、局や婆々が加持や咒咀などをして、少し貴方も御信心なさいなどと言う。それから若い女などが薮入りから帰った後で芝居話をするのも幼君の耳に触れるだろう。いやはや、その外よくないことだらけがあるだろう。左様な瑣細なことは表へは知れず、また、それほど急に悪くなることでもない様だが、大層損の立つことである。そこで先年この筋のことを迂斎が書いて棚倉侯の御若い時に進ぜられたことがある。即ち館林公の幼年の時のことである。大名の若殿などはこの頃の流行り物も知らずにおられるものだが、それ等も女中などによって目に触れることもあるだろう。とかく女が育てるのはよくない。徳義の上にも養生の方にも女中が大きな人君の毒である。賢士でないとしても、表の諸士でさえあれば、あまり悪いことはないもの。大名の奥へ這い入ると祿なことはない。とかく男の方が薬になる。「涵養気質」。気質の肥やしになる。
【語釈】
・棚倉侯…松平武元。常陸府中藩三代藩主松平頼明の子。上野館林藩主の松平武雅の養子。常陸棚倉藩主(1728~1746)。上野館林藩主(1746~1779)。1713~1779

薫陶徳性。不断つよい語をきけば自然とつよみも出る。屋鋪で武藝がはやればいつとなく氣質もつっ立てよいもの。大名の若殿などと云ものが多くはすなをではあり、どの様にもよくなるものなれとも、とかく奥向の女と云がよこの方から出て形儀のくづれることありて、思ひよらずわるくする。その上を琴三味練でそやす。たまることではない。迂斎曰、若殿が大事なものと云を知らぬ君はないが、主人の知慮がくらいから手前の氣に入の家来を若殿の守役につける。それは十分にない人参をこれでもよいとて飲むと同こと。手前が一生それに迷わされて、人欲にさわらぬあたりのよいを嬉しがりて二代目を又わるくするになる。あんまりなことじゃ。さて此章、治体のやうなれとも、師傅保の官と云たで治法になる。師傅保がなくばそれを補ふ様にすること。伊川の某在經莚の句は身をそんでんに出して補ったこと。夫からみれば上の十事の内の貢士と云も氣を付て重くみることぞ。今日の学者も講官にはなることなり。伊川の意て見れは講官はすぐに師傅保の代りにもなるものだから、吾身を軽く思ふことではない。四書の吟味がすみたの、講釈の弁がよいのと云位で中々なることでない。学者も一本つかいになる位でなくて出たがるは尻のかるいになる。それでは藝にをちた処ぞ。本の知もなく我に実行もなくて出ると云ことはない筈。師傅保の官のかけをも補ふことじゃに、これを覚たからの、あれがすんだからよいなぞと云位でやくに立ことではない。
【解説】
薰陶德性」の説明。宮中の女が若殿を悪くする。迂斎も、主人の知慮が暗くて自分のお気に入りを若殿の守役に付けると言った。今の講官は師傅保に代わるものである。そこで、学者が一人前になっていないのに出たがるのは悪く、それでは役に立たない。
【通釈】
「薫陶徳性」。普段から強い語を聞けば自然と強みも出る。屋敷で武芸が流行ればいつともなく気質もつっ立ってよいもの。大名の若殿などという者は、多くは素直であり、どの様にもよくなるものだが、とかく奥向きの女というのが横の方から出るので形儀の崩れることがあり、思いも寄らず悪くする。その上、琴や三味練でそそのかす。それで、黙ってはいられない。迂斎が、若殿が大事なものだということを知らない君はいないが、主人の知慮が暗いから自分のお気に入りの家来を若殿の守役に付けると言った。それは十分でない人参をこれでもよいと言って飲むのと同じこと。自分が一生それに迷わされて、人欲に障らない当たりのよいことを嬉しがり、二代目をまた悪くすることになる。それはあまりのこと。さて、この章は治体の様だが、師傅保の官と言うので治法になる。師傅保がなければそれを補う様にするのである。伊川の某在経莚の句は身をそんでんに出して補ったこと。それから見れば、上の十事にある貢士というのも気を付けて重く見なければならないこと。今日の学者も講官にもなるが、伊川の意で見れば講官は直に師傅保の代わりにもなるものだから、我が身を軽く思ってはならない。四書の吟味が済んだとか、講釈の弁がよいなどという位では中々できることではない。学者も一人前になる位でなくて出たがるのは尻の軽いことであって、それでは芸に落ちる処である。本当の知もなく自分に実行もなくて出るということはない筈。師傅保の官の欠けをも補うことなのに、これを覚えたからとか、あれが済んだからよいなどと言う位では役に立ちはしない。
【語釈】
・そんでん…
・十事…治法2を指す。