第五 伊川先生看詳三学條制条  二月二十四日  文七録
【語釈】
・二月二十四日…寛政3年辛亥(1791年)2月24日。
・文七…高宮文七。東金市押堀の人。筆記力に優れる。

伊川先生看詳三學條制云、舊制公私試補、蓋無虚月。學校、禮義相先之地、而月使之爭、殊非敎養之道。請改試爲課。有所未至、則學官召而敎之、更不考定高下。制尊賢堂、以延天下道徳之士、及置待賓・吏師齋、立檢察士人行檢等法。又云、自元豐後、設利誘之法、增國學解額至五百人。來者奔湊、捨父母之養、忘骨肉之愛、往來道路、旅寓他土。人心日偸、士風日薄。今欲量留一百人、餘四百人、分在州郡解額窄處。自然士人各安鄕土、養其孝愛之心、息其奔趨流浪之志、風俗亦當稍厚。又云、三舍升補之法、皆案文責跡。有司之事、非庠序育材掄秀之道。蓋朝廷授法、必達乎下、長官守法而不得有爲。是以事成於下、而下得以制其上。此後世所以不治也。或曰、長貳得人則善矣。或非其人、不若防閑詳密、可循守也。殊不知先王制法、待人而行。未聞立不得人之法也。苟長貳非人、不知敎育之道、徒守虚文密法、果足以成人材乎。
【読み】
伊川先生三學の條制を看詳して云う、舊制公私の試補は、蓋し虚月無し。學校は禮義の相先んずる地なるに、月ごとに之をして爭わしむるは、殊に敎養の道に非ず。請う試を改めて課と爲せ。未だ至らざる所有らば、則ち學官召して之を敎え、更に高下を考定せざれ。尊賢堂を制して、以て天下道徳の士を延[まね]き、及び待賓・吏師の齋を置き、士人の行檢を檢察する等の法を立てよ。又云う、元豐より後、利誘の法を設け、國學の解額を增して五百人に至る。來る者は奔湊[ほんそう]し、父母の養を捨て、骨肉の愛を忘れ、道路に往來し、他土に旅寓す。人心は日に偸[うす]く、士風は日に薄し。今、一百人を量り留め、餘の四百人は、分かちて州郡の解額窄[せま]き處に在らしめんと欲す。自然に士人各々鄕土に安んじ、其の孝愛の心を養い、其の奔趨流浪の志を息[や]め、風俗も亦當に稍[やや]厚かるべし、と。又云う、三舍升補の法は、皆文を案[かんが]え跡を責む。有司の事にして、庠序にて材を育て秀を掄[えら]ぶ道に非ず。蓋し朝廷の法を授くる、必ず下に達し、長官は法を守りてすること有るを得ず。是を以て事は下に成りて、下は以て其の上を制するを得。此れ後世の治まらざる所以なり。或は曰わん、長貳に人を得ば則ち善し。或は其の人に非ざれば、防閑の詳密にして、循守す可きに若かず、と。殊に先王の法を制するに、人を待ちて行わるるを知らざるなり。未だ人を得ざる法を立つるを聞かず。苟も長貳人に非ずして、敎育の道を知らず、徒らに虚文密法を守るのみならば、果たして以て人材を成すに足らんや、と。
【補足】
・この条は、程氏文集七にある。

舊制公私試補。公は朝廷、私は郷黨なり。試補は学挍の役人が試みてそれ々々に云付る。補はあの方官府文字で役替云付てわきへ出世して出ることを云たものなり。ここは役替のことではなけれとも、それからしてすすむ方は皆補の字を用ゆ。無虚月は毎月々々あるから云。そこで書生競て當月は五番になったが来月はをれが一番になってみせようと云様にさはぎちらかす。以の外なこと。学挍のあがりかたいは礼義を大切にする。時に礼義はなくて慢がちになる。物の弊と云はなげかはしいもの。先日の処にある、古は音樂で人の心をよくしたが、今は音樂を聞て人の心がわるくなる。丁どそのやうに古の学挍は礼義ををもにする塲所じゃに、今は礼義をばわきへをしつけて人をもかきをとして我先へ出よふと云。さて々々不埒なていなり。礼義処はないぞ。だたい試と云がいやな文字。そこで伊川先生の以後は試と云をやめて課とす。為課が靣白ひこと。當月幾日が試の日じゃと云て自分の存寄を書て出す。固り学者は上下はあることなれとも、頓と上下のしらべをせぬ。はりあいのないやうなこと。同じ邑から三人出たときよいわるいはあり、うち処を何邑の何とばかりで上下はつかぬ。学挍は遠いが某の講席や文七あたりの輪講に高下は大きくあること。其日の講釈のよいものを上座に置たらばはげみにもなろふが、それはよくない。やっはり年長を上にをくがよいぞ。公儀の学挍では猶更そふあるべきことなり。是風俗を厚くするの法なり。すこしよければ人の上へのり出る。頓と垩賢の思召は俗人の間で面白くないこと。俗人は人の上へ々々と云をはり合にする。そこが垩賢の教は心のそこを養こむなり。そのやふに仕込む法なり。これが垩人の心から出た法と云。
【解説】
「伊川先生看詳三學條制云、舊制公私試補、蓋無虚月。學校、禮義相先之地、而月使之爭、殊非敎養之道。請改試爲課。有所未至、則學官召而敎之、更不考定高下」の説明。本来、学校は礼義を大切にする所なのに、宋朝では毎月試補があり、書生が競い合っていた。伊川はこの試を課と改める様に請うた。また、学者には上下があり、上下を正しく扱うのが風俗を厚くする法である。できるからといって、その者を上に挙げてはならない。聖賢の教えは心養い込むものなのである。
【通釈】
「旧制公私試補」。「公」は朝廷で、「私」は郷党である。「試補」は学校の役人が試みてそれぞれに言い付ける。補はあの方の官府文字で役替えを言い付けて脇へ出世して出ることを言ったもの。ここは役替えのことではないが、この様に進むことには皆補の字を用いる。「無虚月」は試補が毎月あるから言う。そこで書生が競って当月は五番になったが来月は俺が一番になってみせようと言う様に騒ぎ散らかす。それは以の外のこと。学校の有難いのは礼義を大切にするところだが、この時は礼義がなくて慢心がちになっていた。物の弊というのは嘆かわしいもの。先日の処には、古は音楽で人の心をよくしたが、今は音楽を聴いて人の心が悪くなるとあったが、丁度その様に古の学校は礼義を主にする場所なのに、今は礼義を脇へ押し付けて人をも掻き落として自分が先へ出ようとする。それは実に不埒な姿であって、礼義処ではない。そもそも試というのは嫌な文字なので、伊川先生が以後は「改試為課」と請うた。「為課」が面白いこと。当月の幾日が試の日だと言って自分の知っていることを書いて出す。固より学者には上下があるものなのに、頓と上下の調べをしない。それは張り合いのない様なこと。同じ邑から三人が出た時によい悪いがあるものだが、見る処は何邑の何ばかりであって上下が付かない。学校は遠い話だが、私の講席や文七あたりの輪講に高下は大きくある。その日の講釈のよいものを上座に置けば励みにもなるだろうが、それはよくない。やはり年長を上に置くのがよい。公儀の学校では猶更そうあるべきこと。これが風俗を厚くする法である。少しよければ人の上へ乗り出る。聖賢の思し召しは俗人の間では頓と面白くない。俗人は人の上へ行くというのを張り合いにする。しかし、聖賢の教えは心の底を養い込む。その様に仕込む法なのである。これが聖人の心から出た法と言う。

制尊賢堂云々。賢を尊と云てなければならぬ。賢と云には無調法な人もあって、これはをれかにはよめぬと云人もあり、藝はかいないやうでも一体がちごう。尊道徳で尊賢堂を制し、又待賓吏師齋ををくがよい。これが全く天下はば廣い教のため、天下の治に明なひとなり。これは役人の方の師になる。今の学者が太極をすまして太極でをして通ふと云ふ。そふはならぬ。推されることもあろふが、其事に得手たものがあるものなり。長﨑や松前のこと、情迠知られて役人になるものでなし。ときにその方に明な学者有るぞ。檢察士人行檢。長いことつめて云たもの。学挍にをれば人の身持は知れぬ。その在所ではよくしりてをるもの。学挍では歴々でも、在所では学問はよいかわるいか知れぬが受取られぬと云ふ。学挍ではちからがあり講釈がよければまぎらかすなり。それでは学挍の選挙も覚束ないことなり。そこで身持を檢察するの法を挌別に立るがよいとなり。書生の軽と云文字あると覚ゆ。これにて後世の学挍察すへし。又京師の町人の咄しに遊女があれば書生そふな。なめすぎると云たよし。これ士人の行檢察すべし。
【解説】
「制尊賢堂、以延天下道徳之士、及置待賓・吏師齋、立檢察士人行檢等法」の説明。尊賢堂を作り、待賓斎と吏師斎を置き、役人を教える。学校では身持ちがわからないから、士人の行検を察する法を立てなければならない。
【通釈】
「制尊賢堂云々」。賢を尊ぶというのでなければならない。賢には無調法な人もいて、これは俺には読めないと言う人もあるが、芸は甲斐ない様でも全体が違う。道徳を尊んで尊賢堂を作り、また待賓斎と吏師斎を置くのがよい。天下は本当に幅広く、それを教えるのだから、天下の治めに明な人でなければならない。これは役人の方の師になる。今の学者が太極を済まして太極で推して通ろうと言うが、そうはならない。推すことのできることもあるだろうが、その事に得手の者がいるもの。長崎や松前のこと、情まで知って役人になるのではない。時にその方に明な学者がいるもの。「検察士人行検」。長いことを短く言ったもの。学校にいると人の身持ちはわからないが、在所ではよく知っているもの。学校では歴々でも、在所では、学問がよいのか悪いのか知らないが、請け取れないと言う。学校では力があり講釈がよければ紛らかすことができる。それでは学校の選挙も覚束ない。そこで身持ちを検察する法を格別に立てるのがよいと言った。ここは書生に軽いという文字があるものと思える。これで後世の学校を察しなさい。また、京都の町人の話に遊女があれば書生がいるとある。舐め過ぎだと言った。そこで、士人の行検を察しなければならない。

元豊は神宗のときて、かの王荊公時分なり。設利誘之法は謀計者の始めたこと。利て誘と人の心にのりがつく。どふで凡夫に道理では動かぬ。今も理でうごかしても、つまり道理さへ合点すればをなじことしゃと云。いかさまよい仕むけと云。世渡りのはしと思ふて蹈み見しわ誠の道に入ぞうれしきの哥のやうに仕むけたもの。皆ものしの云ふこと。王荊公などがこれなり。口では堯舜々々と称して利誘なり。この仕向けからしては金のつるを見付たやうに、とかく学問の世の中とて我も々々と都へゆき、春むきになると田舎から伊勢参詣の出るやうに都の学挍へ出る。孔子の弟子出則弟入則孝行有餘力以学文と云。学問は孝弟の餘暇にすること。然るに孝弟は捨て、学問を精出す。精出せば精を出すほどわるいは利誘ゆへぞ。学者の口から学問精出をわるいと云からは大切にきくがよい。今日本に挙業がなくて何より学者の人欲の數がへりてよいなり。人心日偷は医者の流行たがる様なもの。仁の術じゃの司命じゃの何のと云ても四牧肩であるくがうれしい。学問は我がたましいをきたいこむこと。精神をばきたいこまずに出世の為に精を出す。
【解説】
「又云、自元豐後、設利誘之法、增國學解額至五百人。來者奔湊、捨父母之養、忘骨肉之愛、往來道路、旅寓他土。人心日偸、士風日薄」の説明。孔子は孝弟の余暇に学問をすると言った。学問は自分の魂を鍛え込むことだが、今は魂を鍛え込まずに出世のために精を出している。利から学問をしているのである。
【通釈】
「元豊」は神宗の時の年号で、あの王荊公の時分である。「設利誘之法」は謀計者の始めたこと。利て誘うと人の心に乗りが付く。どうも凡夫は道理では動かない。今も理で動かそうとしても、つまり道理さえ合点すればを同じことだと言う。全くよい仕向けだと言う。世渡りの橋と思うて踏み見しは誠の道に入るぞうれしきの歌の様に仕向けたもの。それは皆物師の言うこと。王荊公などがこれである。口では堯舜と称して利誘である。この仕向けからは金蔓を見付けた様に、とかく学問の世の中と言って我も我もと都へ行き、春向きになると田舎から伊勢参詣の出る様に都の学校へ出る。孔子が「弟子出則弟入則孝行有余力以学文」と言う。学問は孝弟の余暇にすること。それなのに孝弟は捨てて、学問に精を出す。精を出せば出すほど悪いのは利誘だからである。学者の口から学問に精を出すのは悪いと言うのだから、大切に聞きなさい。今日本に挙業がないのは何よりのことで、学者の人欲の数が減ってよい。「人心日偸」は、医者が流行りたがる様なもの。仁術だの使命だの何のと言っても四枚肩で歩くのが嬉しい。学問は自分の魂を鍛え込むこと。しかし、精神を鍛え込まずに出世のために精を出している。
【語釈】
・王荊公…王安石。
・弟子出則弟入則孝行有餘力以学文…論語学而6。「子曰、弟子入則孝。出則弟。謹而信。凡愛衆而親仁、行有餘力、則以學文」。
・四牧肩…普通は二人のところを、四人で駕籠を舁くこと。

窄は狹窄とつづき、せまい処のこと。せまい処は人もすくないゆへ解額もちいさい。人が多ければ看板も大きい。江戸々々と出る処を上総にでも下総にでも置く。人は郷土に安が至てよいこと。欠出したがるは悪い。いかやふなわけても他国へはいかぬと云にしこんでをくこと。なぜその様に世話をやくと云に、たとへ一萬人二萬人の解額になってもそれに役に立ものあらふはづはない。利心から出るに本によくならふと云ものはない。今日は勤学も親も合点で京へ出し、志ありてひとしゅぎゃうしたらよからふとて他国へゆき、孔子の処へ七十子のくるやうなことでないゆへ、よし宋朝は何にもかも打捨て置く。鹿を逐ふ猟師山を見ずで、このやふなことでは国から急用の手紙が來ても來月迠居て兎角試にあをふと云ひ、国から親が病氣じゃと云てきてもわつかな一寸したことでござるなどと云であろふ。しかれば学が不孝のもとにもなれば、にが々々しい。兎角出世に心ありてすることにろくなことはないことなり。
【解説】
「今欲量留一百人、餘四百人、分在州郡解額窄處。自然士人各安鄕土、養其孝愛之心、息其奔趨流浪之志、風俗亦當稍厚」の説明。人は郷土に安んじるのがよく、駆け出したがるのが悪い。出世のために精を出す者に本当によくなろうと思う者はいない。
【通釈】
「窄」は狹窄と続き、狭い処のこと。狭い処は人も少ないので解額も小さい。人が多ければ看板も大きい。江戸へと出る処を上総にも下総にも置いておく。人は郷土に安んじるのが至ってよい。駆け出したがるのが悪い。どの様なわけがあっても他国へは行かないと言う様に仕込んで置く。何故その様に世話を焼くのかと言えば、たとえ一万人二万人の解額となってもそれに役に立つ者がいる筈はない。利心から出る者に本当によくなろうと言う者はいない。今日は勤学に親も理解があり、京へ出して志を持って一修行したらよいだろうと思って他国へ行くが、それは孔子の処へ七十子が来る様なことではない。全く宋朝は何もかも打ち捨てて置く。鹿を逐う猟師山を見ずで、この様なことでは国から急用の手紙が来ても、来月までいてとかく試を受けようと言い、国から親が病気だと言って来ても、僅かな一寸したことだなどと言うだろう。それで、学が不孝の元にもなるのであって、それは苦々しいこと。とかく出世に心があってすることに祿なことはない。
【語釈】
・解額…地方から太学に推薦してくる学生(貢生)の数。

三舎は三つにわけてをく。月々の吟味で出世をするに、まつ他国からきたものは外舎にをく。外舎にをるものが何人と云かぎりはない。これから出世をすると内舎へ入る。内舎は二百人とあてる。内舎から出世をすると上舎へいる。上舎へいると一ちの歴々。上舎は百人といれるやふにきめたもの。外補は御吟味にて外舎のものが内舎へゆき、内舎のものが上舎へ行くことなり。責跡。上代から夏楚二物とてある。学挍の法度を犯すものがあると打擲する。法度を敗ら子ば咎はない。法度をやふるが敗らぬかの吟味をする。学挍の師匠の役がわるそふなことではないが、是を学問の本道のことと思ふか、あれは役人のこと。役人はわざですること。役人のしうちじゃ。学者の方の吟味は文章などで知れることではない。我黨の諸先生でも道徳はあれとも文が下手。学者の善悪は文章では知れぬ。文章では韓退之や柳子厚が明道伊川の上へゆく。王勃揚烱虞照隣駱賓王謂之四傑があの人品案文で天下の士をしこまふと云ことはならぬ。跡は行跡のことゆへよさそふなものなれともこれがわるい。なぜわるいなれば、学問は心へ本づくこと。盤坐[あぐら]もかかず夜る寐るに帯も解ぬと云、わざの上がよくても心がわるくては何の役に立ぬ。法に背くなと呵るは役人一通のこと。尤役義の上からはせむべきことなれども、学者などがそんなことでほんの人材の高下を定ることはならぬ筈のことなり。藝術の吟味のやうにして圣人の人材を仕立ることがなろふかなり。
【解説】
「又云、三舍升補之法、皆案文責跡。有司之事、非庠序育材掄秀之道」の説明。宋朝では三舎を設け、升補を行って上に上がって行った。学校の師は法が守られているか否かの吟味をする。しかし、それは役人のすることで、学問ではない。学者を文章などで吟味するものではない。また、行跡で吟味するものでもない。心のことなのである。
【通釈】
「三舎」は三つに分けて置くこと。月々の吟味で出世をする際に、先ず他国から来た者は外舎に置く。外舎にいる者は何人限りということはない。それから出世をすると内舎へ入る。内舎は二百人と決める。内舎から出世をすると上舎へ入る。上舎へ入ると一番の歴々となる。上舎は百人を入れる様に決めたもの。「升補」は御吟味のことで、外舎の者が内舎へ行き、内舎の者が上舎へ行くこと。「責跡」。上代から夏楚二物とある。学校の法度を犯す者があれば打ち擲る。法度を破らなければ咎はない。法度を破るか破らないかの吟味をする。学校の師匠の役は悪そうなことではないが、これを学問の本道と思うのが悪く、それは役人のすること。役人は業でする。それは役人の仕方である。学者の方の吟味は文章などで知れることではない。我が党の諸先生も道徳はあるが文が下手である。学者の善悪は文章ではわからない。文章では韓退之や柳子厚が明道伊川の上へ行く。四傑と言われる王勃・揚烱・虞照隣・駱賓王は、あの人品や案文でも天下の士を仕込もうとすることはできない。「跡」は行跡のことなのでよさそうなものだが、これが悪い。何故悪いのかと言うと、学問は心に基づくこと。胡座もかかず夜寝るのに帯も解かない。その様に業の上がよくても、心が悪くては何の役にも立たない。法に背くなと呵るのは役人一般のこと。尤も役儀の上からは責めるべきことではあるが、学者などがそんなことでは本当の人材の高下を定めることができる筈はない。芸術の吟味の様にして聖人の人材を仕立てることはできる筈がない。
【語釈】
・夏楚二物…礼記学記。「夏楚二物、收其威也」。

盖朝廷授法云々。一寸見ると見にくい。文義上の有司之事と云のわけを書たもの。下へ法を授るがわるいことではない。上から学挍をこの通りと云。御書付の通りのこと。学挍の師匠は、法は法であれとも、法ぎりではないはづ。経理などが知見をひらくことなれば、訓詁文辞のやふにつぢつまの合ぬことはあれども、経理に器用と云があるもの。学問は藝をしこむやふなことではない。今某が方へくる学生でも、これはものになるべきものと云がある。ずんとたのもしい男と云ても上からの法ありて、其法については教られぬ。此者に於てはと云ことがあるものじゃに、上からさづかった法がありて其法の通りなればしそこないはない、気遺はないと云ふことなれば、形を出してそこへはめるになる。又ををちゃくものも御法通りが知れている。太やつの心になって見るがよい。はてさて法にそむきさへせ子ばしばることはなるまいと云様なもの。学者にそふした氣のやつもあるまいものでもない。これ、法の害なり。学挍の御法度を守りさへすればよいと云と御法度の外はさま々々な人欲をするぞ。学挍では存の外な英才特異の人が出来そふなものなれども、どれも々々も板行で押したやふな四六對の文章を書てとんと法と紋切かたに合せる。越後屋や冨山で啇人をしこむやふなもの。いつも々々々同じ若者ができる。ただ夏楚二物をくふまいとしてをる。中々この様な仕方でよい人が出来ることではない。どふしても法外の意で人をしこむと云でなければ出来ぬ。孔門でも程門でも見よ。法ぎりてはたのもしくない。胡安定などもそれ々々にぶんのしこみやうありたであろふ。そこで伊川の好学論もそれ。学以至垩人之道と云はれた。幼年の時なれとも、伊川先生の伊川先生たる処はあの時にある。そふかと思へば稽古治民治兵のやうなことなり。案文責跡ではないぞ。
【解説】
「蓋朝廷授法、必達乎下、長官守法而不得有爲。是以事成於下、而下得以制其上。此後世所以不治也」の説明。学校は法ばかりではない。法ばかりで行えば、法に背きさえしなければよいということにもなる。また、法を押し付ければ誰もが紋切型となる。そこで、法外の意で人を仕込まなければならない。
【通釈】
「蓋朝廷授法云々」。一寸見ると見難い。文義上の「有司之事」のわけを書いたもの。下へ法を授けるのは悪いことではない。上から学校をこの通りにしなさいと言う。その御書付の通りにすること。しかし、学校の師匠は、法は法であっても、法だけではない筈。経理などは知見を開くことなので、訓詁文辞の様には辻褄の合わないことはあっても、経理に器用ということがあるもの。学問は芸を仕込む様なことではない。今私の方へ来る学生でも、これはものになるだろうという者がいる。かなり頼もしい男だと言っても、上からの法があって、その法によって教えられないと言う。この者には教えてもよいということがあるものだが、上から授かった法があって、その法の通りであればし損ないはない、気遣いはないということであれば、形を出してそこへ嵌めることになる。また、横着者も御法通りにするのはわかり切ったこと。太い奴の心になって見なさい。はてさて法に背きさえしなければ縛られることはないだろうと言う様なもの。学者にも、そうした気の奴がいないものでもない。これが法の害である。学校の御法度を守りさえすればよいと言えば、御法度の外は様々な人欲をする。学校では思いの外の英才や特異な人ができそうなものだが、どれもこれも板行で押した様な四六対の文章を書いて、すっかり法と紋切型に合わせる。それは、越後屋や富山で商人を仕込む様なもので、いつも同じ若者ができる。ただ夏楚二物を喰わない様にしようとする。中々この様な仕方でよい人ができることはない。どうしても法外の意で人を仕込むというのでなければできないこと。孔門でも程門でも見てみなさい。法だけでは頼もしくない。胡安定などもそれぞれに合った仕込があったことだろう。そこで、伊川の好学論も同じ。「学以至聖人之道」と言われた。幼年の時の文だが、伊川先生の伊川先生たる処はあの時にある。そうかと思えば稽古治民治兵の様なこともある。それは、「案文責跡」ではない。
【語釈】
・有司…役人。主として実務を取る者。
・胡安定…胡瑗。字は翼之。993~1059
・好学論…為学3。

或曰云々。上に長宦が法を守るが目玉ですればよいが目がないと云へり。そこで或人が長官がよくはよかろふが、貳はそへ役のこと。あるべかかりな人が出たらやっはり上の法の通りを守が一理ありはある。或人の料理は本のことを知らぬ。料理人と云から料理はよいにしたもの。先王のは人を待て行はれる。楃機八陳があれば誰でもなるではない。あの法さへあれば比丘尼にでも軍大將がなると云ことはないはづ。軍太將になる人でなければならぬ。古人の方組があればこの通りでよいと云ことではない。醫者の尊ひも段々巧者になるでよい。誰でも方さへあればなると云と、藥屋の番頭が療治をするやふになる。長貳にわるい長貳はないはづ。よいものを長貳に立る。長貳がよい人でなければよかろふはづはない。後世はあたま數て通す。こまりたもの。大井川も川越しが居ぬとて水心のないものが渡すことはならぬ。舟頭がないとて舟に心のないものが舟を出すと死より外はない。人を殺すの道なり。学挍の師はぢきに害はないゆへ舟數ですることが始て出来た。
【解説】
「或曰、長貳得人則善矣。或非其人、不若防閑詳密、可循守也。殊不知先王制法、待人而行。未聞立不得人之法也。苟長貳非人、不知敎育之道」の説明。或る人が長貳が役不足であれば、先王の法の通りをすればよいと言ったが、それは間違いであり、先王の法は人によって行われるものなのである。長貳が悪くてはならない。
【通釈】
「或曰云々」。上にいる長官が法を守るのにしっかりとした目があって行えばよいが、その目がないと言った。そこで或る人が、長官がよければそれはよいだろうが、貳は添え役のこと、役不足の人が出たのであれば、やはり上の法の通りを守るのが一番よいと言った。或る人の料理は本来のことを知らない。料理人と言うからには料理はよくするもの。先王の料理は人を待って行われる。楃機八陣があれば誰でもできるということではない。法さえあれば比丘尼にでも軍大将ができるということはない筈。軍大将になる人でなければできないこと。そこで、古人の方組があればその通りでよいと言うことはない。医者が尊いのも段々と巧者になるからである。誰でも処方さえあればできると言えば、薬屋の番頭が療治をする様にもなる。長貳に悪い長貳はない筈。よい者を長貳に立てる。長貳がよい人でなければよい筈はない。後世は頭数で通す。それは困ったもの。大井川も川越しがいないからといって水心のない者が渡すことはできない。船頭がいないといっても舟の心得のない者が舟を出すと死ぬより外はない。それは人を殺す道である。学校の師は直ぐに害はないので、舟数ですることが初めてできた。
【語釈】
・楃機…
・八陳…八陣。中国の兵法で、八種類の陣立。
・比丘尼…①出家して具足戒を受けた女子。尼僧。あま。②鎌倉・室町時代以降、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。熊野比丘尼・歌比丘尼など。次第に定住し、江戸時代には尼の姿で売色した私娼をもいう。

虚文密法。法がこまかにある。暮六つ前は入れる、暮六つすぎは入れることはならぬなどと云ことあろふ。御定り通りの法を行たとてたのもしいことではない。中間が中間頭の云通りを守るぞ。されとも中間なり。たのもしいと云ことではない。あれらさへ法は守る。学者が法を守たとてその分では何の役にたたぬ。明道先生や伊川先生の学挍のことに付き、御世話をなさる筈なり。後々御老中にも若年寄にもなるは人才なり。それをめったによいとあけるは、さりとはあらいこと。経済を任ずる人も此条の看詳の字を太切に見るがよい。今日の学者は我に才力がなく古今に通せすして、ちょっとすると切てはなれてものを改めたがる。ものを改ると云は人心に歒せぬこと。日本人は改めることは別して国風にあわぬ。その上これ迠の法があまりわるくはないもの。今迠の法へさし引するが看詳なり。そふすると今迠のへ元氣がついて益がある。是も役にたたぬ、あれも役にたたぬと臺所の肴や野菜を皆買ひ直すことてはない。ただありなりの肴や野菜て献立を直すこと。献立を直すと今ある肴や野菜でけっこふな料理ができる。明道伊川の格別なと云もここをこふするとよいの、あそこをこふするがよいのと云までのこと。根から丸に周の世へかへそふでなく、今の看詳学制するなり。そふすると改めずに周の世のやふになる。王荊公などが知惠ありげに法を直してそこら中かきむしりてしもふた。今の通りを直すことではない。一寸するでよくなるもの。思ひもよらず一寸青蕃椒を入れたで食へると云。虚文密法なとと云ふ、そのやふなことで人才がとり立られるものではない。学者は精神を入れること。よい法ても虚文密法では精神がたきらぬゆへ、よい人は出来ぬはづなり。
【解説】
「徒守虚文密法、果足以成人材乎」の説明。法を守るだけの学者では何の役にも立たないが、法を改めたがるのは悪い。法は一寸直すことでよくなる。よい法でも虚文密法では精神が滾らないからよい人はできない。
【通釈】
「虚文密法」。法が細かにある。暮六つ前は入れるが、暮六つ過ぎは入れることはならないなどということがあるだろう。御定り通りの法を行なったとしても頼もしいことではない。中間が中間頭の言う通りを守る。しかし中間は中間であって、頼もしいということではない。あれ等でさえ法は守る。学者が法を守ったとしてもそれだけでは何の役にも立たない。そこで、明道先生や伊川先生が学校のことに付いて御世話をなさる筈である。後々御老中にも若年寄にもなるのは人才である。それを滅多矢鱈によい者だとして挙げるのは実に粗いこと。経済を任じる人もこの条の看詳の字を大切に見なさい。今日の学者は自分に才力がなく、古今に通じることがなく、一寸すると切って離してものを改めたがる。ものを改めるのは人心に適さないこと。改めることは、日本人にとっては特に国風に合わない。その上これまでの法があまり悪くはないもの。今までの法へ差し引きをするのが看詳である。そうすると今までのに元気が付いて益がある。これも役に立たない、あれも役に立たないと台所の肴や野菜を皆買い直すことではない。ただあるがままの肴や野菜で献立を直すこと。献立を直すと今ある肴や野菜で結構な料理ができる。明道や伊川が格別だと言うのも、ここをこうするとよいとか、あそこをこうするのがよいと言うまでのことだからである。根から丸々周の世へ返そうとするのではなく、今の学制を看詳するのである。そうすると改めずに周の世の様になる。王荊公などが知恵あり気で法を直してそこ等中を掻きむしってしまった。今の通りを丸々直すのではない。一寸直すのでよくなる。思いも寄らず一寸青蕃椒を入れたので食えると言う。虚文密法などと言う、その様なことで人才が取り立てられるものではない。学者は精神を入れること。よい法でも虚文密法では精神が滾らないからよい人はできない筈である。


第六 明道先生行状云の条

明道先生行状云、先生爲澤州晉城令、民以事至邑者、必告之以孝悌忠信、入所以事父兄、出所以事長上。度鄕村遠近爲伍保、使之力役相助、患難相恤、而姦僞無所容。凡孤煢殘廢者、責之親戚鄕黨、使無失所。行旅出於其塗者、疾病皆有所養。諸鄕皆有校、暇時親至、召父老與之語。兒童所讀書、親爲正句讀。敎者不善、則爲易置、擇子弟之秀者、聚而敎之。鄕民爲社會、爲立科條、旌別善惡、使有勸有恥。
【読み】
明道先生行状に云う、先生澤州晉城の令爲りしとき、民事を以て邑に至る者あらば、必ず之に告ぐるに孝悌忠信、入りては父兄に事うる所以、出でては長上に事うる所以を以てす。鄕村の遠近を度りて伍保を爲し、之をして力役には相助け、患難には相恤[うれ]えて、姦僞の容るる所無からしむ。凡そ孤煢殘廢[こけいざんぱい]なる者は、之を親戚鄕黨に責め、所を失うこと無からしむ。行旅の其の塗に出ずる者は、疾病皆養う所有り。諸鄕には皆校有り、暇時に親[みずか]ら至り、父老を召して之と語る。兒童讀む所の書は、親ら爲に句讀を正す。敎うる者善からざれば、則ち爲に易置し、子弟の秀れし者を擇び、聚めて之を敎う。鄕民社會を爲[つく]るときは、爲に科條を立て、善惡を旌別[せいべつ]し、勸むること有り恥ずること有らしむ、と。
【補足】
・この条は、程氏文集一一にある。

明道先生の御心などが密細なこと。御用筋で百姓がくると、御用のついでに孝弟忠信をしこむなり。澤州晉城令を太切に心得て見ること。晉城は所の御奉行なり。奉行がこふするゆへ先王の世のやうになること。今手嶋流なとがかれこれ親切らしく教をするは我身分を知らぬ。孟子は天下の英才を得て教育す。そのやうなものと咄をするが浪人の役。明道先生は晉城の奉行ゆへこの通りにしたもの。度郷村遠近。人の居る処に遠近にあんばいがある。遠近で伍保を立るが明道先生の思召。組合を立ること。そのかかりの伍保はあるが、明道先生の伍保を立るは都合のよいやふにしたもの。隣邑へは近く、同邑へは遠いと云こともある。そこで組を合せるに仕方がある。遠近と云ことに思入あること。これが明道先生の行とどいたこと。伍保のしようがわるいとうちこしてわるい。伍は五家、保はその五軒を五つ合せ、廿五軒のことを伍保と云。これ、組々と立るなり。新く初めるとき、これとこれを組合せてよいと云かあるもの。才力のない人が組合せをすると、組合せやふにわるいことがあるもの。ゆきとどいた明道先生ゆへ組合せやうが格別であろふ。経済は隅みから隅迠ゆきとといた人でなければならぬ。書物のことは得手たろふがこのことはなるまいと云と、学者がこまる。鳩巣先生の、人に諱まれるはよいが人にあなどられるがわるいと云はれた。さて々々左様なり。今の学者は俗人から、あああれがどふしてと云はれる。それではならぬ。明道先生などは奉行になると旅の都合から何から何迠ずっと見てとられた。
【解説】
「明道先生行状云、先生爲澤州晉城令、民以事至邑者、必告之以孝悌忠信、入所以事父兄、出所以事長上。度鄕村遠近爲伍保」の説明。明道先生は晋城の奉行だった時、百姓にまで孝弟忠信を仕込んだ。それは職分を大切に心得ていたからである。また、伍保をうまく組み合わせた。経済は隅から隅まで行き届いた人でなければうまく行かないのであって、先生はその様な人なのである。
【通釈】
明道先生の御心は細密である。御用の筋で百姓が来ると、御用のついでに孝弟忠信を仕込む。沢州の晋城の令を大切に心得てそれを行う。晋城は田舎の御奉行である。奉行がこの様にするので先王の世の様になる。今手嶋流などがかれこれ親切らしく教えをするのは自分の身分を知らないのである。孟子は天下の英才を得て教育する。その様な者と話をするのが浪人の役。明道先生は晋城の奉行なのでこの通りにしたのである。「度郷村遠近」。人のいる処では遠近に塩梅が必要である。遠近で伍保を立てるのが明道先生の思し召し。それは組合を立てること。その様な伍保はあったが、明道先生の伍保を立るとは、それを都合のよい様にしたもの。隣邑へは近く、同邑へは遠いということもある。そこで組を合わせるのには仕方があり、遠近に思い入れがあるのである。これが明道先生の行き届いたこと。伍保の仕方が悪いと打ち越して悪い。伍は五家、保はその五軒を五つ合わせたことで、二十五軒のことを伍保と言う。これを組々に立てる。新しく始める時に、これとこれを組み合わせてよいということがあるもの。才力のない人が組み合わせをすると、組み合わせ方に悪いことがあるもの。行き届いた明道先生なので組み合わせ方が格別だっただろう。経済は隅から隅まで行き届いた人でなければうまく行かない。書物のことは得手だろうがこのことはできないだろうと言うと、学者が困る。鳩巣先生が、人に嫌われるのはよいが人に侮られるのが悪いと言われた。全くその通りである。今の学者は俗人から、あああれができるものかと言われる。それでは悪い。明道先生などは奉行になると、旅の都合から何から何まで全て見て取られた。
【語釈】
・天下の英才を得て教育す…孟子尽心章句上20。「得天下英才而敎育之、三樂也」。

相助。助け合ふで成就するもの。これも組合の立やうがわるくてはならぬ。患難相恤孤煢殘癈云々。これで親切なことと見ることではない。是が道体の法なり。心の親切から出たらば何にもかもよかろふと云。親切は治体なり。治法はこれを法にすることなり。盗人のやうなものも法を出して法の立つやうにする。心の親切ほどよいことはないが、ひょっと親切でないものの手に合ふと出か子る。法のけっこうなは、親切有もそふないものも如此するに立たもの。姦偽はわるいもののこと。わるもののそこらに居らぬやうにする。とうすると云に、伍保が立とたがいにこのなかまと云て、わるいものがあると身の難義になるゆへをかぬ。又、力役相助云々のことに付て、姦偽がならぬと云文義に見てもよい。姦偽が伍保の内に逗留して居ることのならぬに見てもよい。田舎を治めるには心得のあらふこと。三ヶ津では人を珎しからぬゆへ、めったに人を止たてをくことはせぬが、田舎は男立もありて、頼むと云と何やら知れぬものを逗留させる。他国からくるものには得知れぬものがあり、それを置くことを何とも思はぬ。あまり姦偽なものもないからすむが、めったに知れもせぬものを置てどのやうなことが出来やふもしれぬ。わるいやつでなくてもいろ々々なものが居れば風俗がわるくなる。古風に実底なと云がよいこと。道落者遠くからきてをると村の風わるくなるものなり。所の世話をする人の伍保のしやうのわるいと云もの。他国からにげかくれてきたものの其邑のためになると云ことは頓とないもの。兎角わるい方へは流れやすいもの。こふして見れば、姦偽をわきからくることと見てもよい。孤煢殘廃の親類あるものは親類へ責め、親類のないは郷黨にせむ。これはそのやうに沢山あるものではない。今貧乏人の多さ、それは身上もってをってわるいのなり。これは無調法ものなり。一休や西行がやふ無欲なればよいが、そふてはない。人欲もしたたかありて身上がわるいは不調法なり。そのやうなものは呵るがよい。孤煢殘廃は沢山はないものなり。それは世話をするがよい。
【解説】
「使之力役相助、患難相恤、而姦僞無所容。凡孤煢殘廢者、責之親戚鄕黨」の説明。親切は治体であり、治法はそれを法にすること。それで親切でない者も親切をする様になる。「姦偽」によって村の風俗が悪くなるから、「相助」によって姦偽をそのままにして置かず、その一方で「孤煢残廃」の世話をする。但し、身上を持っていて貧乏なのはただの不調法者である。
【通釈】
「相助」。助け合うので成就する。これも組合の立て方が悪くてはうまく行かない。「患難相恤孤煢残廃云々」。これを親切なことだと見てはならない。これが道体の法である。心の親切から出たのなら何もかもよいだろうと言う。親切は治体である。治法はこれを法にすること。盗人の様な者にも法を出して法の立つ様にする。心の親切ほどよいことはないが、偶に親切でない者の手に合うとそれが出難くなる。法の結構なところは、親切でなさそうな者に対してもその様にさせること。「姦偽」は悪い者のこと。悪者がそこ等にいない様にする。それはどうするのかと言えば、伍保が立つと互いに仲間だと言い、悪い者がいると自分の難儀になるのでそこに置かない。また、「力役相助云々」だから姦偽はならないという文義に見てもよいし、姦偽が伍保の内に逗留していることはならないと見てもよい。田舎を治めるには心得があるだろう。都では人を珍しがらないので、滅多に人を逗留させて置くことはしないが、田舎は男伊達もあって、頼むと言われるとよくわからない者をも逗留させる。他国から来る者には得知れない者もいるが、それを置くことを何とも思わない。あまり姦偽な者もいないからそれで済むが、矢鱈によくわからない者を置くので、どの様なことが起るかも知れない。悪い奴でなくても色々な者がいれば風俗が悪くなる。古風に実底なのがよい。道楽者が遠くから来ていると村の風が悪くなるもの。それは、その場の世話をする人の伍保の仕方が悪いということ。他国から逃げ隠れて来た者がその邑のためになるということは全くないもの。とかく悪い方へは流れ易い。こうして見れば、姦偽を脇から来るものと見てもよい。「孤煢残廃」に親類があれば親類に面倒を見させ、親類がなければ郷党に面倒を見させる。これは沢山あるものではない。今は貧乏人が多いが、それは身上を持っていて悪いのであって、それは無調法者である。一休や西行の様に無欲であればよいが、そうではない。人欲も沢山あって身上が悪いのは不調法なのである。その様な者は呵るのがよい。孤煢残廃は沢山はないものであって、それは世話をするのがよい。
【語釈】
・孤煢…孤は孤児。煢は妻を失った男。
・殘癈…病気で仕事のできない者。
・三ヶ津…三箇都。江戸時代、京都・江戸・大坂の総称。三都。

使無失所は上の十事に民食分數と云ことがある。あれへあててみよ。民食分數が立つとこのやふなものに所は失なはせぬもの。民食分數がないゆへ所を失ふ。今田舎の風で、親類にをびときがあるとをびたたしいもの入りそ。あれは習はしてすることぢゃと思ふて、常は不仁な男も物入をする。邑内に食か子るものなどへ决して何もやらず鰹節一つもやりか子るぞ。民食分數がないゆへ、兎角古椀をもってじたり々々々とあるくぞ。不便なものぞ。あれも天からふったものではあるまい。所でをかぬからああしてあるくぞ。さて旅人はあわれむべきもの。身上もよく懷中に金もあると云ても、わつらい出して中間小者よりわるいもの。施藥院の悲田院のと云。王代に建られたと云もこれ。旅先で煩ならばあの国がよい、古郷よりよいと云はさて々々良法なり。是をただ親切と思ふでは違ふ。親切と云ことは治法で云ことではない。親切は治体で云こと。煩と直に医者にもかけられるやふに仕向けをしてをいたのなり。親切を口で云ても向の役に立ぬ。其役所では人参も買ひこんでをくやふにするが法なり。
【解説】
「使無失所。行旅出於其塗者、疾病皆有所養」の説明。民食分数がないので給養を失う。また、旅人は哀れむべきものだが、その疾病者のための施設を設ける。それが治法であり、口で親切を言うだけでは役に立たない。
【通釈】
「使無失所」は、上の十事に「民食分数」とあり、あれに当てて見なさい。民食分数が立つとこの様な者に給養を失わせないもの。民食分数がないので給養を失う。今田舎の風習で、親類に帯解きがあると夥しい物入りである。あれは習慣ですることだと思うので、日頃は不仁な男も物入りをする。しかし、邑内に食べ物のない者がいても決して何も遣らず、鰹節一つも遣りたがらない。民食分数がないので、とかく古椀を持ってだらだらと歩く。それは不便なもの。あれも天から降ったものではないだろう。在所で世話をしないからあの様にして歩く。さて、旅人は哀れむべきもの。身上もよく懐中に金もあると言っても、患い出しては中間小者より酷いもの。「所養」とは、施薬院や悲田院と言う様なことで、王代に建てられたというのもこれ。旅先で患うのであればあの国がよい、故郷よりよいと言われるのは本当に良法である。これをただ親切と思っては違う。親切は治法で言うことではない。親切は治体で言うこと。患うと直に医者にも掛かれる様に仕向けをして置くのである。親切を口で言っても向こうの役には立たない。その役所では人参も買い込んで置く様にするのが法である。
【語釈】
・十事…治法3。「七曰民食、八曰四民、九曰山澤、十曰分數」。
・施藥院…貧しい病人に施薬・施療した施設。孤独な老人や幼児も収容。730年(天平二)光明皇后創設、中世に衰亡、豊臣秀吉再興、江戸幕府が受け継ぎ明治まで存続。
・悲田院…貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく、723年(養老七)興福寺に、また、730年(天平二)光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。その後平安京や諸国にも置かれたらしく、10世紀ごろまで存続した。鎌倉時代に忍性が復活。

方々に学挍があって暇時には年寄ともをよせて明道の話をなさるる。処年寄は示をするものゆへなり。又子ともはぐわんぜないもの。小学を覚へたが竒特なと云てよませてきく。奉行の御前、ふるへ声でそこへ出て読む。正句讀は、それじゃちがったぞと改めて下さるる。奉行職でこれをするは至て下へひびくことなり。尤学挍の師もあるが、奉行がこれをするでききみちが違ふ。教者不善易へ置く。この前の伊川先生の思召とをふこと。長貳の教へのしようがよくないとよい人が出来ぬぞ。易置と云は、人抦がわるいとて易置てはない。教へやうのわるいこと。上総などか久しく学問を教ゆるものもあるが、教へようがわるいゆへ人が出来ぬ。先日三宅先生のことを云たが、これ教やうがよいゆへ、三宅先生めかぬ人が三宅先生の手先きで出きたなり。雄弁や活論でもすると直方先生の手先きで出きたと思ひ、丁寧に虫も蹈みころさぬと云と三宅先生の手先て出きたと思ふ。そふゆくものではない。不問可知為胡公、俗なことじゃと直方先生の笑はれた。直方先生の弟子に迂斎や剛斎先生あり、又隠求先生のやうな篤厚な御方が出来、三宅先生の弟子に訂斎先生のやうな御方が出来た。然らば教る者不善がただものの目利になることではない。教様に色々あること。孔子の教やうがさま々々なり。徳行には顔淵閔子騫冉伯牛仲弓、言語には宰我子貢とさま々々ある。有成徳者有達財者有答問者と孟子云へり。そのやうなことなり。筭盤の師匠のやうにいつも々々々をなじに丁どのつほしへゆくやうでは役に立ぬ。邑の師の教は秀たものでなくてもよい。秀たはただをくものではない。こちへよこせ、あとはそちでしこめと云ふ。
【解説】
「諸鄕皆有校、暇時親至、召父老與之語。兒童所讀書、親爲正句讀。敎者不善、則爲易置、擇子弟之秀者、聚而敎之」の説明。明道は直接年寄りと話をし、子供には読書をさせて誤りを正した。師の教え方が悪ければその者を替えた。師の教え方は人によって様々であって、それが一様では役に立たない。また、秀た者が師となる必要はない。秀た者はそれより上の段階に進ませる。
【通釈】
方々に学校があり、「暇時」には年寄り共を寄せて明道が話をなさる。それは、田舎の年寄は示教をするものだからである。また、子供は頑是ないもの。小学を覚えたのは奇特なことだと言って読ませて聞く。奉行の御前に出て、震え声で読む。「正句読」は、それでは違っていると改めて下さること。奉行職でこれをすれば至って下へ響く。尤も学校には師もいるが、奉行がこれをするので効き方が違う。「教者不善易置」。この前の伊川先生の思し召しの流れである。「長貳」の教え方がよくなければよい人ができない。易置とは、人柄が悪いと言っての易置ではない。教え方が悪いことでの易置である。上総などでは久しく学問を教える者がいるが、教え方が悪いので人ができない。先日三宅先生のことを言ったが、先生は教え方がよいので、三宅先生めかない人が三宅先生の手先でできた。雄弁や活論でもすると直方先生の手先でできたと思い、丁寧に虫も踏み殺さないと言えば三宅先生の手先でできたと思うが、そうなるものではない。それは「不問可知胡公」で俗なことだと直方先生が笑われた。直方先生の弟子に迂斎や剛斎先生がいて、また、隠求先生の様な篤厚な御方ができ、三宅先生の弟子に訂斎先生の様な御方ができた。そこで、「教者不善」は普通の者の目利でできることではない。教え様は色々とある。孔子の教え方は様々である。徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我・子貢と様々である。「有成徳者有達財者有答問者」と孟子が言った。その様なこと。算盤の師匠の様に、いつも同じに丁度の図星へ行く様では役に立たない。邑の師の教えは秀でたものでなくてもよい。秀でた者はそのままにして置くものではない。こちらへ遣せ、あとはそちらで仕込めと言う。
【語釈】
・長貳…治法5。「苟長貳非人、不知敎育之道、徒守虚文密法、果足以成人材乎」。長貳は長官と副官。
・不問可知為胡公…朱子太極通書後序に、「皆舍法時擧子葺綴緒餘、與圖説、通書絶不相似、不問可知其偽。…然胡公所論通書之指曰、人見其書之約、而不知其道之大也。見其文之質、而不知其義之精也。見其言之淡、而不知其味之長也。人有真能立伊尹之志、修顏子之學、則知此書之言包括至大、而聖門之事業無窮矣。此則不可易之至論、讀是書者所宜知也」とあるが…
・徳行には顔淵閔子騫冉伯牛仲弓…論語先進2。「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏。」。
・有成徳者有達財者有答問者…孟子尽心章句上40。「孟子曰、君子之所以教者五。有如時雨化之者、有成德者、有達財者、有答問者、有私淑艾者。此五者、君子之所以教也」。

郷民爲社會。古には違へとも、今此邉の仏師屋の待のと云が古風なこと。これわるいことではない。隨分よいこと。建丑秡もこの中なり。晉城の民が昔からする社會なり。それをするなではない。そのときの仕むけをしてやること。そこで今迠のぶしやとはちごふてきた。社會のときでも善悪が分る。酒を呑こととばかり思ふ。酒を呑中に一寸したことでよくなるもの。今は何もかもめっちゃくちゃ。己が勝手を云ものがよくなり横に車を推してもだまりをる。これを旌別して勸懲せ子はならぬ。當村では前々からこふと云とよってつかれぬ。餘のものの手際にはならぬこと。そこは令なり。今はそれなり々々々々にとをし、又、変革する人はぐっと直す。明道先生などのやうな徳のある御方は一寸したことでよくする。治法にあるゆへ、経済をするにはこれを手本にすること。
【解説】
「鄕民爲社會、爲立科條、旌別善惡、使有勸有恥」の説明。奉行の立場から社会の場の仕向けをする。善悪を旌別して、勧善懲悪する。
【通釈】
「郷民為社会」。古とは違うが、今この辺りの仏師屋の待のというのが古風なこと。これは悪いことではなく、随分とよいこと。建丑祓もこの中に入る。晋城の民が昔からする社会である。それをしてはならないと言うのではない。その時の仕向けをしてやること。そこで今までの仏師屋とは違ってきた。社会の時でも善悪が分かれる。酒を飲むこととばかり思うが、酒を飲む内に一寸したことでよくなるもの。今は何もかも目茶苦茶で、自分勝手を言う者が強く、横車を押しても他の人は黙っている。これを旌別して勧善懲悪しなければならない。当村では前々からこうだと言われれば寄り付くことができない。他の者の手際ではできないことだが、そこは令である。今はそれなりに通すが、変革する人はぐっと直す。明道先生などの様な徳のある御方は一寸したことでよくする。これが治法にあるので、経済をするにはこれを手本にしなさい。
【語釈】
・建丑秡…建丑は陰暦の十二月。商ではこれが正月。
・旌別…善悪の区分を立てること。


第七 萃王假有廟条

萃、王假有廟。傳曰、羣生至衆也、而可一其歸仰。人心莫知其鄕也、而能致其誠敬。鬼神之不可度也、而能致其來格。天下萃合人心、總攝衆志之道非一。其至大莫過於宗廟。故王者萃天下之道、至於有廟、則萃道之至也。祭祀之報、本於人心。聖人制禮以成其德耳。故豺獺能祭、其性然也。
【読み】
萃[すい]、王、廟を有するに假[いた]る。傳に曰く、羣生は至って衆[おお]きも、其の歸仰を一にす可し。人心は其の鄕を知ること莫きも、能く其の誠敬を致す。鬼神は度る可からざるも、能く其の來格を致す。天下、人心を萃合し、衆志を總攝する道は一に非ず。其の至大なるは宗廟に過ぐるは莫し。故に王者天下を萃[あつ]むる道、廟有るに至れば、則ち萃道の至りなり。祭祀の報は、人心に本づく。聖人は禮を制[さだ]めて以て其の德を成すのみ。故に豺獺[さいだつ]能く祭るは、其の性然るなり、と。
【補足】
・この条は、萃卦卦辞の程伝にある。萃卦は、「萃、亨。王假有廟。利見大人。亨。利貞。用大牲吉。利有攸往」。

萃はあつまると云こと。あつまるは物の散ったをあつめること。散ったものを聚ると云で、そこで先祖の祭のことに辞を繋けた。先祖の精神は散でない。天下を方が廟へゆくと先祖の散た氣があつまる。それで上たる人は天下の人心を聚る。天下の治乱は人心のちるとあつまるとのことなり。至衆云々。祭のこと計り云ことてはないが、鬼神をあつめるより外に云ことはない。天下の心、天下の万民數多くかぎりもないあたまかず。そのさんな心が一致するは治体なり。そふするやうにするは治法なり。天下の萬民がをぬしはそちへゆけ、これはこちへと云様では安堵ならぬことなり。上一人を載は誰も彼も一つ。たった二字の年号を天下中の者が用てをる。歸仰を一にしたていなり。大事ない、をれが方でこしらへやふと云ふものはない。上を尊ぶ心が一つ先王の世が治て天下中の心が一致したゆへよい。作為も安排もない。鬼神へ通ずるやうな心ゆへ一致する。人の心は居処のしれぬもの。馬や牛をつないだやうなものではない。それと云と飛で出るは人心なり。鬼神へものを具へるは客に食はせるやふなことではない。心が誠なれば彼の度られぬ鬼神が感通する。垩人の天下を治めるか天下の人の心を一にすること。天下の人の心が乱の本と。人君の上にあって誠の一心なれば御恩が深いと感服するものなり。天下の人に離れさせぬものがある。是が一色ではない。大名衆の家中でも無理をすると上から手當が一通ではない。中庸の九経も九つあるでよい。これで天下が一致する。
【解説】
「萃、王假有廟。傳曰、羣生至衆也、而可一其歸仰。人心莫知其鄕也、而能致其誠敬。鬼神之不可度也、而能致其來格。天下萃合人心、總攝衆志之道非一」の説明。天下の治乱は人心の散聚による。聖人の天下を治める方法は天下の人の心を一にすること。天下万民の心が一致するのが治体であり、その様にするのが治法である。人君が誠の一心であれば民がそれに感通する。そして、人心を聚める方法は一様ではない。
【通釈】
「萃」は聚まるということ。聚まるとは散った物を聚めること。散った物を聚めるので、そこで先祖の祭のことに辞を繋けた。先祖の精神は散ってはいない。天下の御方が廟へ行くと先祖の散った気が聚まる。それで、上にある人は天下の人心を聚める。天下の治乱は人心の散ることと聚まることによる。「至衆云々」。祭のことばかりを言うのではないが、鬼神を聚めるより外に言うことはない。天下の心や天下の万民は数多くて限りない頭数だが、その散っている心が一致するのが治体であり、その様にするのは治法である。天下の万民がお前はそちらへ行け、これはこちらへと言う様なことでは安堵することはできない。上一人を載せるのは誰も彼も一つである。たった二字の年号を天下中の者が用いている。それが「一其帰仰」の形である。大丈夫だ、俺の方で拵えようと言う者はいない。上を尊ぶ心が一つになるので先王の世が治まるのであって、天下中の心が一致するのでよい。作為も按排もない。鬼神へ通じる様な心なので一致する。人の心は居処のわからないもの。馬や牛を繋いだ様なものではない。それと言えば飛んで出るのが人心である。鬼神へものを具えるのは客に食わせる様なことではない。心が誠であればあの度ることのできない鬼神が感通する。聖人の天下を治める方法は天下の人の心を一にすること。天下の人の心が乱の本。人君が上にいて誠の一心であれば御恩が深いと感服するもの。天下の人に離れさせないものがあるが、それは一色ではない。大名衆の家中でも無理をすれば、上からの手当は一通りでなくなる。中庸の九経も九つあるのでよい。これで天下が一致する。
【語釈】
・歸仰…君主に帰一し、君主を尊ぶこと。
・九経…中庸章句20。「凡爲天下國家有九經、曰、脩身也、尊賢也、親親也、敬大臣也、體羣臣也、子庶民也、來百工也、柔遠人也、懷諸侯也。…凡爲天下國家有九經、所以行之者一也」。
・人心莫知其鄕…孟子告子章句上8。「出入無時、莫知其鄕。惟心之謂與」。

其至大云々。人の心を聚は宗廟、これが殊の外天下の心を聚る本になる。鬼神と云ものは打すてても催促のないもの。子ともに飯を食せぬと催促をする。奉公人へ給金を渡さぬと合点せぬ。催促のないものへ事へるゆへ、これほど誠でなくてはならぬことはない。どうてもよいと打すててをかれぬもの。萃道を非一へかけて見るがよい。一色ではないなれとも、祭をするが萃道の第一のしことなり。聖人の謀かと云に、いやそふてはない。本於人心でなければ天下の法にならぬ。これ、治体の体から出る。小学に春雨露既濡履之有怵惕之心。何がものにそづとものに感して先祖のことを思ひ出した。これは祭と云ふことの始まらぬまいに書たこと。祭のはじまったと云は我が心から始ったもの。どのやふな文盲なものでも、親の存生の中牡丹が好で、今牡丹がさいてをると持仏堂へもさし、墓へももってゆく。存生な不孝な子でも死後に親が酒を好と云と墓へ酒をもってゆく。皆心から出ること。ただをられぬものがある。そこからの法なり。法と云たとて木に竹をつぐやふなことではない。祭礼の始たが人心に本づくこと。ただ垩人のそうせよと云付た礼かと云に、それはかりではない。徳を成す。先祖を祭が徳の成就になり、先祖にかまわぬが徳のかけなり。
【解説】
「其至大莫過於宗廟。故王者萃天下之道、至於有廟、則萃道之至也。祭祀之報、本於人心。聖人制禮以成其德耳」の説明。祭をするのが萃道の第一である。その祭りは心から始める。先祖を祭るのが徳の成就となる。
【通釈】
「其至大云々」。人の心を聚めるのは宗廟による。これが殊の外天下の心を聚める本になる。鬼神というものは打ち捨てて置いても催促をしないもの。子供に飯を食わせなければ催促をする。奉公人へ給金を渡さなければ合点しない。催促のないものへ事えるので、これほど誠でなければならないことはない。どうでもよいと打ち捨てて置かれないもの。「萃道」を「非一」へ掛けて見なさい。一色ではないが、祭をするのが萃道の第一の仕事である。それは聖人の謀かと言えば、いやそうではない。「本於人心」でなければ天下の法にはならない。これが治体の体から出ること。小学に「春雨露既濡履之有怵惕之心」とある。何かぞっとものに感じて先祖のことを思い出した。これは祭の始まる前に書いたこと。祭が始まったと言うのは自分の心から始まったこと。どの様な文盲な者でも、親が存生の内は牡丹が好きだと、今牡丹が咲いていれば持仏堂にも差し、墓へも持って行く。存生では不孝な子でも死後に親が酒を好きだったとあれば墓へ酒を持って行く。それは皆心から出ること。何もしないでいられないものがある。そこからの法である。法と言っても木に竹を接ぐ様なことではない。祭礼の始まりは人心に基づくこと。ただ聖人がそうしなさいと言い付けた礼かと言えば、そればかりではない。「成其徳」。先祖を祭るのが徳の成就になり、先祖に構わないのが徳の欠けとなる。
【語釈】
・春雨露既濡履之有怵惕之心…小学内篇明倫。「祭義曰、霜露既降君子履之必有悽愴之心非其寒之謂也。春雨露既濡君子履之必有怵惕之心如將見之」。

故と受たは、先祖の祭は天地自然。豺は中にも勝れたもので、虎につづいて至ての猛獣で人をも食ふもの。獺も人近くないあら々々しいもので、あれが祭をする。是は礼記にあることなり。天地自然に祭と云ものがあるから、あれらもその氣にあやかる。これがもちまいで天性備たもの。それを治法に出された。これが天下を治るの大法なり。治法の内に冠昏喪祭の礼のこと、この先きにでてをる。迂斎云、近思録の幷やうが手のとどかぬこともあらふゆへここへ載てをるが、これはこの先きの冠昏喪祭の処へかけるがよい、と。平な考なり。然るに某やっはりここでよいと思ふ。王假有廟は祭へ説きをとしたものではあるけれとも、祭のことから實は天下人心のはなれぬことを云たもの。天下の乱は人心のはなれぬ処から起る。祭は天下の心を一致させる治法なり。この条を冠昏喪祭へかけるは順なやうなれとも、天下の風俗に祭をさせると云でよくなる。そふなければ人心をつないたぞ。天下の人心をあつむれば、天下は治体万々なりと云ふ法をこの萃の卦で見せ、それから次のの夷狄へかけ、誠が本とになり天下の人が一になれば、外国から侵すことはならぬ。迂斎の説はすらりとはするが、朱子の本書のなりを改めること。某の説は六ヶ鋪やうなれとも、ここに置てすることゆへよかろふかと思ふ。古今の乱は人の心の思ひはなれる。保元平治以来の乱も人心のはなれたであの通り。當時この通り治ったも權現様へ思ひついたものゆへ一統したもの。天下の一になる一にならぬは人心のはなれるはなれぬとにきしたこと。されとも是非はなすまいとすれば、やっはり伯者になる。そんなら捨て置かと云にそふでない。人々祭礼と云人道の一大事を靣々にして誠をつくすなれば、天下億兆の心一致して人心がはなれぬ。この心を以て夷狄をなでて外国までもよくするが法のきまりたこと。
【解説】
「故豺獺能祭、其性然也」の説明。先祖の祭は天地自然なものであり、天下を治める大法である。人心が離れなければ天下が治まる。しかし、是非離さない様にとすれば伯者になる。人々が祭礼という人道の一大事を誠を尽くして行えば、万民の心が一致して人心が離れることはない。迂斎はこの条が治法15の冠婚喪祭に掛かるものだと言ったが、この条は祭のことで天下人心の離れない仕方を言ったものであるから、ここにあってよいと黙斎は言う。
【通釈】
「故」と受けたのは、先祖の祭は天地自然だからである。「豺」はその中でも勝れたもので、虎に続くかなりの猛獣で人をも食うもの。「獺」も人慣れせず荒々しいものだが、あれが祭をする。これは礼記にあること。天地自然に祭というものがあるから、あれ等もその気にあやかる。これは持ち前で天性に備わったもの。それを治法に出された。これが天下を治める大法である。治法の内で冠婚喪祭の礼のことがこの先にある。迂斎が、近思録の並べ方に手の届かないこともあってここへ載せてはいるが、これはこの先の冠婚喪祭の処へ掛けるのがよいと言った。それは平らな考えだが、しかし私はやはりここでよいと思う。「王假有廟」は祭へ説き落としたものではあるが、実は祭のことで天下人心の離れない仕方を言ったもの。天下の乱は人心の離れる処から起こる。祭は天下の心を一致させる治法である。この条を冠婚喪祭へ掛けるのは順当な様だが、天下の風俗に祭をさせることを言うのでよくなる。そうでなければ人心を繋ぐだけのことになる。天下の人心を聚めれば天下は治体万々だという法を萃の卦で見せ、それから次条の夷狄へ掛け、誠が元になって天下の人が一になれば、外国は侵すことはできないと言う。迂斎の説はすらりとしてはいるが、それでは朱子の本書の形を改めることになる。私の説は難しい様だが、ここに置いてよいだろうと思う。古今の乱は人の心の思いが離れることから起こる。保元平治以来の乱も人心が離れたのであの通りである。今この通りに治まっているのも権現様へ思い付いたからで、一統となったからである。天下が一になるかならないかは、人心が離れるか離れないかに帰着する。しかし、是非離さない様にとすれば、やはり伯者になる。それなら捨てて置くかと言えばそうではない。人々が皆祭礼という人道の一大事を誠を尽くして行えば、天下億兆の心が一致して人心が離れない。この心によって夷狄を一掃して外国までもよくするのが法のお決まりである。
【語釈】
・人近く…人に慣れている。
・礼記…礼記月令。「季秋之月…豺乃祭獸戮禽」「孟春之月…獺祭魚」。


第八 古者戍役云々の条

古者戍役、再期而還。今年春莫行、明年夏代者至。復留備秋、至過十一月而歸。又明年仲春遺次戍者。毎秋與冬初、兩番戍者皆在疆圉。乃今之防秋也。
【読み】
古は戍役[じゅえき]、再期して還る。今年の春莫に行き、明年の夏に代わる者至る。復留りて秋に備え、十一月を過ぐるに至りて歸る。又明年の仲春に次に戍[まも]る者を遣わす。毎[つね]に秋と冬初とには、兩番の戍者皆疆圉[きょうぎょ]に在り。乃ち今の防秋なり。
【補足】
・この条は、程氏経説三にある詩解の采薇の条にある。

経説とは五経の説なり。詩経の菜薇の詩で、采薇々々薇又剛。夷狄境へ番にゆく者のことを作りた詩。つまる処、外を防くこと。夷狄境の守りにゆくは在番の内でも命を的にかけたことで、周公などのいたわらっしゃるもこのこと。一年勤めたらそれでかへりそふなものなれとも、丸年立てもかへらぬ。丸二年か或は三年ごしかへる。どう云ふ帰りやうなれば、今年三月に出立して當年の在番し、來年の春は交代のもの出立して我在番は交代のものへわたすゆへ、夏は我はかへるべきにそこを帰らず秋迠止ているは秋の用心なり。そへ役をつとめて居て極月の頃帰へる。一年の交と云ても二年宛居るなり。
【解説】
一回の在番は二年に亘る。それは秋の用心のためである。
【通釈】
経説とは五経の説である。ここは詩経の菜薇の詩のことで、「采薇采薇薇又剛」。夷狄境へ番に行く者のことを作った詩。詰まる処、外を防ぐこと。夷狄境の守りに行くのは在番の内でも命を的に懸けたことで、周公などの労わられたのもこのこと。一年勤めればそれで帰りそうなものだが、丸一年経っても帰ることはできない。丸二年か或いは三年越しで帰る。それはどの様にして帰るのかと言うと、今年の三月に出立して当年の在番をし、来年の春は交代の者が出立し、それで自分の在番の任は交代の者へ渡すことになって自分は帰るべき筈だが、そこを帰らず秋まで留まっている。それは秋の用心からである。添役を勤めて十二月頃に帰る。一年の交と言っても二年程いるのである。
【語釈】
・菜薇の詩…詩経小雅采薇。「采薇、遣戍役也。文王之時、西有昆夷之患、北有玁狁之難。以天子之命。命將率、遣戍役、以守衛中國。故歌采薇以遣之。出車以勞還、杕杜以勤歸也…采薇采薇、薇亦剛止。曰歸曰歸、歲亦陽止」。

在疆圉は夷狄境のふせぎをする番小屋がありて一年替りなものなれとも、そへ役して居は秋の用心なり。このことを防秋と云。秋が六ヶ鋪ゆへ代番のものを止めて用心をする。このやうに法を立るも、中蕐と夷狄が土地つづきゆへ中国を侵す。周の世の頃からありて、宋朝などで防秋と名づけた。北狄の人は暑を恐れるゆへ夏は動き得ぬ。軍処ではない。しゃがんでをる。秋氣が立つと膠などでためし、膠のほき々々として弓や矢などでもためし、もうよいはへと涼しくなりてからくる。こちもそれが合点ゆへ防秋と云。法を立られた垩人は誠な御心で天下をなづけるゆへ、四夷の襟を左にして居るものも服す。然れども誠ばかりてたたぬゆへ、誠の上に夷狄を防く方を立る。法がないとばた々々となる。上のつづきにあるが面白し。誠がありても手當がないと綻ひがきれる。綻がきれると乱が起るとなり。周の世の玁狁が匈奴になり、其後は金の何のと云て皆北夷なり。宋朝などもここの処から破れた。欽宗などもここへとらはれた。兎角この方を目がける。これは人のよくしりたこと。時に人の心が替りてくると、瑣細なことから莫大な禍がてきるもの。軍はたれも大切と思ひ、夷国からこちへしかけてくることを等閑に心得るものはなし。
【解説】
宋朝になって、秋の用心を「防秋」と名付けた。誠心には夷狄も服すが、それだけではうまく行かないので夷狄を防ぐ法を立てた。誠があっても手当がなければ綻びが切れ、綻びが切れると乱が起こる。
【通釈】
「強圉」は夷狄境で、そこに防ぎをする番小屋があり一年交替のものだが、添役をしているのは秋の用心のためである。このことを「防秋」と言う。秋が難しいので代番の者を留めて用心をする。この様に法を立てるのも、中華と夷狄が土地続きなので中国を侵すからである。それは周の世の頃からあって、宋朝などで防秋と名付けた。北狄の人は暑さを恐れるので夏は動くことができず、軍どころではない。しゃがんでいる。秋気が立つと膠などで試し、膠がほきほきとなり、弓や矢などでも試し、もうよいと言う様になって涼しくなってから来る。こちらもそれを合点しているので防秋と言う。法を立てられた聖人は誠の御心で天下を懐けるので、四夷などの襟を左にしている者も服す。しかし、誠だけではうまく行かないので、誠の上に夷狄を防ぐ仕方を立てる。法がないとばたばたとなる。これが上の続きにあるのが面白いこと。誠があっても手当がないと綻びが切れる。綻びが切れると乱が起こると言う。周の世の玁狁が匈奴になり、その後は金や何のと言うが皆北夷のことである。宋朝などもここの処から破れた。欽宗などもここへ捕らわれた。とかくこちらを目掛ける。これは人のよく知ったこと。時に人の心が替って来ると、瑣細なことから莫大な禍ができるもの。軍は誰もが大切と思っていて、夷国からこちらへ仕掛けて来ることを等閑に心得る者はいない。
【語釈】
・疆圉…国境。
・玁狁…詩経小雅采薇。「采薇、遣戍役也。文王之時、西有昆夷之患、北有玁狁之難。以天子之命、命將率、遣戍役、以守衛中國。故歌采薇以遣之、出車以勞還、杕杜以勤歸也」。
・欽宗…趙桓。北宋第九代の皇帝。1100~1161
・等閑…なおざり。おろそか。

但しささいなことはどふしてもよいと思ふが面前の知惠なり。年貢の取箇は民百姓のこと。手の下のことと思へども、それからもそふどふにもなり、商からもそふどふにもなる。王刑公なとも新法を出して隅から隅迠仕直そふとした。あの時節ものの改るからさま々々なことがでるもの。それ、ここが改めときと瑣細なこと迠改めて、劉彜なども口を入れたかと思た。慥には覚へぬが、劉彜なれば胡安定の門人で水理に明な人で経済者なり。経済を覚へたからさま々々のことをする。経済者にはとかく上を逢迎して功をなしたがる弊あるものなり。王荊公の時交趾の商をするものに竿を入れ、それから大事に及ぶ。これも初から大軍かなどなればたれでも用心もするが、高が商ひゆへ軽いことと思ひ手を出し、それから騒動が起りた。王荊公が腹を立て、やつきゃつと云たが、交趾の商人から乱がをこりて宋朝の邉軍の者も十のものが六分通り死たとあり、このやふな軍などと云もひょいとくるものてはない。劉彜なれば不問而安定の弟子たれば、をとなしい厚徳な人なるべし。それでも功業を立んとするとこれなり。別に劉彜と云同名あるか知らず。市右門の通鑑見るべし。人心が聚らぬと、そこへはへるものがある。わつか商ひのことからあれほどのことも起った。功業を立て手柄をしよふと思と莫大な禍もま子くことあるもの。
【解説】
瑣細なことは安易に思い勝ちだが、それから騒動にもなる。王安石は新法を作り瑣細なことまで改めようとした。しかし、交趾の商いという瑣細なことから大騒動となった。功業を立てようと思うと莫大な禍も招くことがあるもの。
【通釈】
ただ、瑣細なことはどう対応してもよいと思うのが面前の知恵である。年貢の取箇は民百姓のことで、卑近なことと思うが、それから騒動にもなり、商いからも騒動にもなる。王荊公なども新法を出して隅から隅まで仕直そうとした。あの時節はものを改めるから様々なことが出た。それ、ここが改め時と瑣細なことまで改めて、劉彜なども口添えをしたかと思う。それは確かな覚えではないが、劉彜は胡安定の門人で水理に明らかな人で経済者である。経済を覚えたから様々のことをする。経済者にはとかく上を逢迎して功を成したがる弊があるもの。王荊公の時、交趾の商いをする者を取り調べ、それから大事に及んだ。これも初めから大軍などであれば誰でも用心もするが、高が商いなので軽いことと思って手を出し、それから騒動が起こった。王荊公が腹を立て躍起になったが、交趾の商人から乱が起こって宋朝の辺軍の者も十の内六分通りが死んだとあるが、この様な軍などというのもひょいと来るものではない。劉彜であれば当然安定の弟子なのだから大人しい厚徳な人だっただろう。それでも功業を立てようとするとこの様になる。別に劉彜と言う同名があるのかは知らない。市右衛門の通鑑を見なさい。人心が聚まらないと、そこへ入るものがある。僅かな商いのことからあれほどのことも起こった。功業を立てて手柄を得ようと思うと莫大な禍も招くことがあるもの。
【語釈】
・劉彜…
・交趾…現在のベトナム北部トンキン・ハノイ地方の古名。前漢の武帝が南越を滅ぼして交趾郡を設置。
・竿を入れ…間竿で地積を測量すること。また、検地のこと。竿打ち。
・市右門…市右衛門。小川省義。幼名は磯次郎、興十郎。上総山辺郡東士川村人。文化11年6月21日没。81才。黙斎の孤松全稿を買う。

楊亀山の外邉に用計用數饒假立得功業只是人欲私與垩賢処做天地懸隔を孟子の序文に載てあるが尤なこと。先輩の説に外邉は外むきと云てあるが、あれは嘗てそふではなし。王荊公をあてて云たもの。外邉は夷狄境のことなり。功業を立ると上の御役に立つと云ことぞ。それを人欲の私と云て氣を付け見よ。これが皆功業を立るの病にて、もと道理から出ぬことゆへ人欲の私と云ふ。いかほどなことが出きやうと義理の當然をすることは、孔明のよいと云も成敗利鈍非能逆睹者と云へり。これは垩賢の作為に叶ふたことなり。成敗利鈍はさきてきはまりてあるもの。孔明は功を立ず、魏の曹操のものになりた。楠も湊川であへない最後をしたが孔明の心なり。すべき義理をすれば垩賢の心なり。我高名にし、功業を立やうとするは学者の心ではない。人欲の私なり。ここの界目はをとなしい学者でも格致が甲斐なくてははきとすむまいなり。こふすればよい、どうすればよいと考出すは功利の学なり。そこを人欲と云ふ。ただ酒のみたがり金ほしがる計を人欲之私と心得るはあらいことなり。亀山の語よく々々見るべし。功利の学は禍が付てまわる。我国さへふせきにくい。外国はなをのこと。経済者と云ものあり、あてにならぬはもと知見がないからは樂みはない。出かすこともあり、一々たのみにくいは義理に本づかぬゆへなり。ここへ詩経を引たは外国の取扱を知らせたもの。これ、法の一大事なり。外国のことは一入念を入ると云ことが治法の大事なり。
【解説】
功業を立てるのは上の御役に立つことだが、それが人欲の私であると楊亀山が言った。道理から出ないことは人欲の私であり、高名や功業を立てようとするのは学者の心ではない。功利の学は人欲からである。経済者は知見がないから当てにならない。
【通釈】
楊亀山が「外辺用計用数仮饒立得功業只是人欲私与聖賢作処天地懸隔」を孟子の序文に載せてあるのが尤もなこと。先輩の説では外辺を外向きと言っているが、あれは全くそうではない。それは王荊公を当てて言ったもの。外辺は夷狄境のこと。功業を立てるとは上の御役に立つということ。それを人欲の私だと言うのを気を付けて見なさい。これが皆功業を立てる病であって、元々道理から出ないことなので人欲の私と言う。どれほどのことができようが義理の当然をするのがよく、孔明をよいと言うのも「成敗利鈍非能逆睹者」と言うからである。これは聖賢の作為に叶うこと。成敗利鈍は先で極まってあるもの。孔明は功を立てず、功は魏の曹操のものとなった。楠も湊川であえない最期だったが、それが孔明の心である。すべき義理をすれば聖賢の心である。自分を高名にし、功業を立てようとするのは学者の心ではない。それは人欲の私である。ここの境目は、大人しい学者であっても格致が甲斐なくてはしっかりと済みはしないだろう。こうすればよい、どうすればよいと考え出すのは功利の学である。そこを人欲と言う。ただ酒を飲みたがり金を欲しがるばかりを人欲の私と心得るのは粗いこと。亀山の語をしっかりと見なさい。功利の学は禍が付いて回る。我国さえ防ぎ難いのに、外国なら尚のこと。経済者というものがあるが、それが当てにならないのは元々知見がないからであって、それで頼み難い。うまくやることもあるが、全体に信用し難いのは義理に基づかないからである。ここへ詩経を引いたのは外国の取り扱いを知らせるためで、これが法の一大事である。外国のことは一入念を入れるというのが治法の大事である。
【語釈】
・孟子の序文…孟子序説集註。「楊氏曰、…外邊用計用數、假饒立得功業、只是人欲之私。與聖賢作處、天地懸隔」。
・成敗利鈍非能逆睹者…後出師之表。「至於成敗利鈍非臣之明所能逆覩也」。


第九 聖人無一事不順天時条

聖人無一事不順天時。故至日閉關。
【読み】
聖人は一事として天の時に順わざること無し。故に至日には關を閉ず。
【補足】
・この条は、程氏外書三にある。

爰の引合せが夷狄境のことを云て、それから天のことになりた。道体めいたことを引き、治体めいた治法なり。この章あとさきへかけ、軍のことにかけたもの。軍をすると云軍法が別に編み出したではなく、天の時に順たもの。何も六ヶ鋪ことではない。迂斎の、夏は帷子冬小袖、夜が明ると戸をあけ、日が暮ると戸を立る、あの通りのことと云へり。をれが考へ出したの、妙術があるの、枕を割て考るのと云ことはない。冬至には見附々々の戸をしめて人をとめた。今日は關を閉るわけあいゆへひかえいと云てとめた。一陽來復する脉の所ゆへ、さはがしくしては天の時に順ぬのなり。今天地の息をふき返すゆへひっそりとする。順天時と云もの、是は白虎通にあり、軍などは决してせぬと云こと。上の段に十一月を遇て帰るとあり、この方の冬至へかけ、軍の惣まくりと見ること。ここらは治法のこきあけたことなり。垩人一陽の月、軍などはせぬ。なぜになされぬぞ。順天時なり。天といきぬけの垩心から出た法なり。後世の此手あの手、からくりの系を引たり後ろにそろばんを置てするやふなことは垩心にない。垩心にない法は人心にうけがわるい。これ、人は天地にはらまれてをるからのことなり。それゆへ漢唐の王覇混合の政は砂のまじりた飯のやふなもので腹もちあしきなり。正政は天下一致の法なり。まじりがないなり。
【解説】
聖人の軍法は天の時に順ったものである。冬至に関を閉めるのも「順天時」であり、聖人は十二月に軍などはしない。人も天地に孕まれたものであって、順天時でなければ受けが悪い。
【通釈】
ここの引き合わせは、夷狄境のことを言った後に天のことにする。ここは道体めいたことを引き、治体めいた治法である。この章は後先へ掛けたもので、軍のことに掛けたもの。軍をするための軍法は別に編み出したものではなく、天の時に順ったもので何も難しいことではない。迂斎が、夏は帷子冬小袖、夜が明けると戸を開け、日が暮れると戸を立てる、あの通りのことだと言った。俺が考え出したとか、妙術があるとか、苦心して考えるということはない。冬至には見附の戸を閉めて人を止めた。今日は関を閉じるわけがあるから控えよと言って止めた。一陽来復する筋の所なので、騒がしくしては天の時に順わないことになる。今天地の息を吹き返す時だからひっそりとする。「順天時」は白虎通にあり、軍などは決してしないということ。上の段に十一月を過ぎて帰るとあるが、それをこの冬至へ掛けて、ここは軍の総捲りのことだと見なさい。ここ等は治法を扱き上げたこと。聖人は一陽の月に軍などはしない。何故なされないのか、それは順天時だからである。天に行き抜ける聖心から出た法である。後世のこの手あの手、絡繰の糸を引いたり後ろに算盤を置いてする様なことは聖心にはない。聖心にない法は人心に受けが悪い。これは人が天地に孕まれているからである。それで、漢唐の王覇混合の政は砂の混じった飯の様なもので腹持ちが悪いもの。正政は天下一致の法であって混じりがない。
【語釈】
・枕を割て…苦心する。肝胆を砕く。
・順天時…白虎通。
・白虎通…白虎通義。後漢の章帝が諸学者を宮中の白虎観に集め、五経の異同を判定・討議させたものを編集した書。四巻。班固撰。
・十一月を遇て帰る…治法8。「至過十一月而歸」。

この条もあまり高妙に云ことでなし。垩人の法はすら々々天なりに出た法にて人心に入り易し。それゆへ行れやすきなり。後世から云へば、どふやら垩人の誠はあってもいりほがに、覇者や漢唐は誠は少くても法に於てはきまることのやふに思ふがそふでなし。この一事としてと云字を見よ。何てもすら々々なり。たとへば垩人の方は書院を建るにも向をよくするやうなもの。これ天に順ふなり。そこで夏は風が入り冬はあたたかぞ。漢唐は根に吟味とどかぬ法を出して、風が入らずは團扇で煽ぎ、冬は多く火鉢を出せばすむと、あとから風の入ることをするはかしこいやうでももと不調法と云ものぞ。鼻の先きに雪隠を立てをいて丁子釜で臭氣をふせぐやふなことが漢唐以下のことなり。三代明王は雪隠を遠くへたてるやふなもので臭氣はないぞ。天なりに出ぬ法をしてよくせふとかかるはどふでも丁子釜なり。なるほど丁子をたきつめると臭はよける。なれともそふした法は根が不調法と云ものなり。至日閉關で万端推して知ることなり。
【解説】
覇者や漢唐は誠が少なくても法はうまく行く様に思い、聖人の方は誠があっても的外れの様に思うが、それは違う。聖人の法は何に関しても滞りはない。それは根本から天の通りだからである。
【通釈】
この条もあまり高妙に言うことではない。聖人の法はすらすらと天のままに出た法なので人心に入り易い。それで行なわれ易いのである。後世から言えば、どうやら聖人は誠があっても入穿で、覇者や漢唐は誠が少なくても法では決まる様に思うがそうではない。ここにある「一事」という字を見なさい。何でもすらすらである。たとえば聖人の方は書院を建てるにも向きをよくする様なもの。これが天に順うである。そこで夏は風が入り冬は暖かい。漢唐は吟味が根に届かない法を出し、風が入らなければ団扇で煽ぎ、冬は火鉢を多く出せば済むと言い、後から風の入ることをするのは賢い様でも元が不調法というもの。鼻の先に雪隠を立てて置いて丁子釜で臭気を防ぐ様なことが漢唐以下のこと。三代明王は雪隠を遠くへ建てる様なもので臭気はない。天の通りでない法をしてよくしようとするのはどうしても丁子釜である。なるほど丁子を焚き詰めると臭いは避ける。しかしながら、そうした法は根が不調法というもの。「至日閉関」で万端推して知りなさい。
【語釈】
・いりほが…鑿、入穿。①和歌などで、たくみ過ぎていやみに落ちること。②穿鑿し過ぎて的をはずれること。うがちすぎ。
・丁子…クローブ。フトモモ科の熱帯常緑高木。
・至日閉關…易経復卦。「象曰、雷在地中復。先王以至日閉關、商旅不行、后不省方」。