第十 韓信多々辨之条  二月二十六日  纖邸文録
【語釈】
・二月二十六日…寛政3年辛亥(1791年)2月26日。
・纖邸文…林潜斎。花沢文二。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

韓信多多益辨、只是分數明。
【読み】
韓信の多多益々辨ずるは、只是れ分數明らかなればなり。
【補足】
・この条は、程氏遺書七にある。

この条と次の条は軍法のあらましを云。これを餘り丁寧に聞て、近思録の治法にあるゆへこれからの二条て軍法がすむと思ふは了簡違なり。先つ軍法の模様を見せたと云位のことなり。治法に軍のあらましある、よいゆへ載られたものなり。多々益辨は韓信が自ら云ことなり。韓信が高祖を陛下は十萬の大將に過すと云たゆへ、高祖のさて其方はどふぢゃと問れたれは、臣か兵を用るには數はなく、すくなけれは少く多けれは多くこれほどと云ことはないなり。それを程子の、韓信か出まかせを云でなく、又根がすんだと見ることでもない、韓信が言の筋を説たことなり。分數。孫子の注に出。文會引之。一と備へを分と云、數は組合を云。多くても全体をくくりてをいてそれを割てする。一とくくりと分けることか明かゆへ、斯ふぢゃと云はるるなり。分數のこと多寡にかかわらぬは、項禹が敗軍の時も始終士卒を四つに割り、段々討れて四人になりてもやはり四つに分けて戦へり。なんでも人數は使いやうあるもの。ごた々々してはならぬ。一と組にしてそれを小割にするてよい。いかさま軍術も根のあること。何ことでも道体をはずれることなし。太極から隂陽四象になり、易が八卦十六三十二六十四三百八十四爻分るよふなもの。韓信が一寸したことても部立をきめて置くて分ける。人のからたも頭が一つ、左右の手、それより五本の指なり。只今太平で軍はないが、人の身帯でも知れる。あの人は大な身上はよくもつが、小い身上は持つことならぬの、小い身上はよくとりまわすが、大い身上では行きとどくまいと云がなるほどそふて、それは仕覺たことをするのにて、覚たきりなり。たたい道理の上はそふしたことてなし。身上よくもつに大小はない。只今役人が手前の身上をばよく持つことならずに君の身上を直そふと云は、某などは合点ゆかぬことなり。医者も人の療治はなるか手前の療治はならぬと云はずなし。
【解説】
「分数」とは、一組にした上で小割にすることで、これを明らかに行うのである。「分数明」に大小はない。自分の身上を保つことのできない者が君の身上を直すことはできない。
【通釈】
この条と次の条は軍法の様子を言ったもの。これをあまり丁寧に聞いて、近思録の治法にあるのでこれからの二条で軍法が済むと思うのは了簡違いである。ここは先ずは軍法の模様を見せたという位のこと。治法に軍のことが一通りあるのは、それがよいので載せられたのである。「多々益弁」は韓信が自ら言ったこと。韓信が高祖に、陛下は十万の大将に過ぎないと言ったのに対し、高祖がさてお前はどうかと問われたのに答えて、臣が兵を用いるのに数は関係なく、少なければ少なく多けれは多く、これほどということはないと言った。それを程子が、韓信が出任せを言ったのでもなく、また、根が済んだと見ることでもなく、韓信の言った筋をここで説いたのである。「分数」。孫子の注に出ている。文會でこれを引いた。一備えを分と言い、数は組合を言う。多くても全体を括って置いて、それを割ってする。一括りに分けるのが明らかなのでこうなると言われたのである。分数のことが多寡に関わらないのは、項羽が敗軍の時も始終士卒を四つに割り、段々と討れて四人になってもやはり四つに分けて戦った様なもの。何でも人数は使い様があるもので、ごたごたにしてはならない。一組にしてそれを小割にするのでよい。実に軍術にも根のあること。何事でも道体を外れることはない。太極から陰陽四象になり、易が八卦、十六、三十二、六十四、三百八十四爻に分かれる様なもの。韓信が一寸したことでも部立を決めて置くので分けることができる。人の体も頭が一つ、左右の手、それから五本の指となる。只今は太平で軍はないが、人の身帯でもそれが知れる。あの人は大きな身上はよく持つが小さい身上は持つことができないとか、小さい身上はよく取り回すが大きい身上は行き届かないだろうと言うのがなるほどそうで、それは仕覚えたことをするのであって、覚えただけしかできないのである。そもそも道理の上はそうしたことではない。身上をよく持つのに大小はない。只今の役人が自分の身上をよく持つことができずに君の身上を直そうと言うのは、私などには合点の行かないこと。医者も人の療治はできるが自分の療治はできないと言う筈はない。
【語釈】
・孫子の注に出…孫子兵勢。「孫子曰、凡治衆如治寡、分數是也。闘衆如闘寡、形名是也。三軍之衆、可使必受敵而無敗者、奇正是也。兵之所加、如以碬投卵者、虚實是也」。


第十一 伊川先生曰管轄人云々条

伊川先生曰、管轄人亦須有法。徒嚴不濟事。今帥千人、能使千人依時及節得飯喫。只如此者亦能有幾人。嘗謂軍中夜驚、亞夫堅臥不起。不起善矣。然猶夜驚、何也。亦是未盡善。
【読み】
伊川先生曰く、人を管轄するにも亦須く法有るべし。徒に嚴しきは事を濟[な]さず。今千人を帥るに、能く千人をして時に依り節に及びて飯を得て喫[くら]わしむ。只此の如き者も亦能く幾人か有る。嘗て謂えらく、軍中夜驚くに、亞夫は堅く臥して起きざりき。起きざるは善し。然れども猶夜驚くは、何ぞや。亦是れ未だ善を盡くさざるなり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書十にある伊川の語。

管轄は軍を統る人を云、官名ではない。軍の惣頭なり。亦須有法は、軍陳は法を大ふ嚴重にすへしと云こと。徒嚴不済事。上の句で法と云を嚴しくすることと云かこの句てしれる。上の法の字が嚴重にすべしと云ことゆへ、爰て徒嚴はと云ふ吟味があるぞ。法は嚴がよいとてめったに嚴い計りではならぬ。これは軍法に至っては天子でも將軍の法を用ると云ものなり。周亞夫かが天子の命でも軍門をひらかぬあり。其よふに嚴でなければ軍陳の法はたたぬ。然るに只今の軍者が兵書の上をきいて嚴しくすることとはかり思ふが、我に器量があれば唯法ばかりではない。今帥千人能使千人依時及節得飯喫云々。節は時節の節。千人の弁當を丁どに使はせることは只はならぬ。そこで此一事でも軍法のことがうかがわれる。山鹿甚五左衛門が武教全書にもいろ々々のこと、したたかなことを書てあれとも、書さへあれはあれで軍法がすむでもなく、伊川などかなんのこともないことを出して云わるるか根がすんでをるゆへ、この一つでも窺ひ知るる。千人の人に依時及節で滞りなく辨當つかはせるやうにすることはならぬ、と。これはなりそふなことをかふ云は知た人の口上なり。亞夫堅臥不起云々。夜討と云て士卒が騒いだなり。亞夫は全躰軍兵に明ゆへ、騒ぐべきことに騒がぬ。こちが靜なれば歒の乱入はならぬもの。不起善矣然猶夜驚何也。亞夫が落付て起きぬと云が手抦は手抦なれとも、士卒の騒ぎ立つやふにする、何事ぞと云が、これで伊川の軍法のあらましも見へる。初に徒嚴不済事、それから千人の人數に弁當をつかわせること、軍法にあの名高い周亞夫かことを軍中夜驚かわるい、それもないやうにするでなければならぬと伊川の三つの軍法なり。理からきめる法なり。
【解説】
軍は法を厳重にしなければならないが、上に立つ者には器量が必要である。また、できそうな事でもできるとは限らない。周亞夫は、敵の乱入に慌てなかったのはよかったとはいうものの、夜討もできない様にして置かなければならない。
【通釈】
「管轄」は軍を統べる人を言い、官名ではない。それは軍の惣頭である。「亦須有法」は、軍陣では法を大いに厳重にしなければならないということ。「徒厳不済事」。上の句が法を厳しくすることを言っているのがこの句でわかる。上の法の字が厳重にすべしと言うので、ここの「徒厳」には吟味が必要である。法は厳がよいと言っても滅多矢鱈に厳しいばかりではならない。これは、軍法にあっては天子でも将軍の法を用いるということ。周亞夫などは天子の命でも軍門を開かなかったことがある。その様に厳でなければ軍陣の法は立たない。しかしながら、只今の軍者が兵書上のことを聞いて、厳しくすることとばかり思っているが、自分に器量があればただ法ばかりではない。「今帥千人能使千人依時及節得飯喫云々」。節は時節の節。千人の弁当を丁度に手配することは簡単にはできない。そこで、この一事でも軍法のことが窺われる。山鹿甚五左衛門の武教全書にも色々なことや大層なことが書いてあるが、書さえあればあれで軍法が済むわけでもなく、伊川などが何事もないことを出して言われるのは根が済んでいるからで、この一事からもそれが窺い知れる。千人の人に依時及節で滞りなく弁当を遣わす様にすることはできないと言った。できそうなことをこの様に言うのが知った人の口上である。「亞夫堅臥不起云々」。夜討と言って士卒が騒いだ。亞夫は全体が軍兵に明なので、騒ぐべきところで騒がない。こちらが静かであれば敵は乱入できないもの。「不起善矣然猶夜驚何也」。亞夫が落着いて起きないというのは手柄と言えば手柄だが、士卒が騒ぎ立つ様にしているのは何事かと言うので伊川の軍法の大方が見える。始めに「徒厳不済事」、それから千人の人数に弁当を遣わせること、軍法にあの名高い周亞夫のことを軍中夜驚くのが悪い、それもない様にするのでなければならないと言うのが伊川の三つの軍法である。これが理から決める法である。
【語釈】
・周亞夫…前漢の武将。江蘇沛県の人。周勃の子。文帝の時に匈奴を征し、景帝の時に呉楚七国の乱を平らげ、功により丞相となったが、讒に遭い絶食して死す。~前143
・山鹿甚五左衛門…山鹿素行。


第十二 管摂天下人心云々条

官攝天下人心、收宗族、厚風俗、使人不忘本、須是明譜系、收世族、立宗子法。一年有一年工夫。
【読み】
天下の人心を官攝し、宗族を收め、風俗を厚くし、人をして本を忘れざらしむは、須く是れ譜系を明らかにし、世族を收め、宗子法を立つべし。一年に一年の工夫有り。
【補足】
・この条は、程氏遺書六にある。

この前萃王假有廟と云て、今日の処に軍法が三條あり、朱子編集面白ことなり。今日太平で甲冑も土用干する計で目出度ことなり。天下人心がべったりと一つゆへ治まる。それをつづいて離れぬやふにするが法の第一なり。これが治体に有そふなことの治法にあるをよく合点すべし。この仕方ありて、官摂すると云て治体にならぬ治法なり。收宗族厚風俗使人不忘本須明譜系收世族立宗子法。親族が父子から廣がりたもの。親から分れたゆへ兄弟が睦い。それからいとこ、それからだん々々遠くなりても根は一つゆへ睦しきはずなり。九族の睦いで風俗が厚くなる。高祖曽祖を見たものはないもの。たまさかには有ふが先つは遠いことなり。そこが誰でも親は大切にして麁末にせぬもの。祖父は其親の父なり。其祖父の父は曾祖なり。それよりだん々々親を根にすると、開闢迠も續がたぐられる。今こなたとあの男はなんぢゃと云と、鰯を煮た鍋と云はつまらぬことなり。父子兄弟よりたん々々分れても范文正公の云とをり、自祖宗視之則均是子孫因無親踈也。そこで今日親類書が重いこと。大名の家中多く親類書はかり。公義には由緒書かあり、誠に尤なことなり。親類書では今存命なものの忌服か分り、由緒書では死だ先祖からして、其家はどれから分れてあの家はどふ云續きと知れるでよい。なんでも本を忘れぬが治法の根になる。宗子の法が立ば捴領家を大切にすれとも、世間宗子の法がたたぬゆへ風俗がわるい。
【解説】
親族は父子から広がったものである。そこで、元をたどれば開闢までの続柄を手繰ることができる。親から分かれたから兄弟が睦ましく、従兄弟が睦まじいものとなり、九族が睦まじいので風俗が厚くなる。世間では宗子の法が立たないので風俗が悪い。
【通釈】
この前で「萃王仮有廟」と言い、今日の処に軍法が三条あり、朱子編集は面白い。今日は太平であって、甲冑も土用干しをするだけなのは目出度いこと。天下人心がべったりと一つなので治まる。それを続けて離れない様にするのが法の第一の役目であり、ここは治体にありそうなことだが、それが治法にあるのをよく合点しなさい。この仕方があって、「官摂」するので治体ではなく治法なのである。「収宗族厚風俗使人不忘本須明譜系收世族立宗子法」。親族は父子から広がったもの。親から分かれたので兄弟が睦まじい。それから従兄弟になり、それから段々と遠くなっても根は一つなので睦まじい筈である。九族が睦まじいので風俗が厚くなる。高祖や曾祖を見た者はいない。偶にはそれもあるだろうが先ずは遠いこと。そこで、誰でも親は大切にして粗末にしないもの。祖父はその親の父であり、その祖父の父は曾祖である。それから段々に親を根にすると、開闢までも続柄を手繰ることができる。今貴方とあの男はどの様な関係なのかと聞かれて、鰯を煮た鍋と言うのでは詰まらない。父子兄弟から段々と分かれても、范文正公の言う通り、「自祖宗視之則均是子孫因無親踈也」である。そこで、今日の親類書が重いもの。大名の家中の多くは親類書ばかりだが、公儀には由緒書があり、それは誠に尤もなこと。親類書では今存命な者の忌服がわかり、由緒書では死んだ先祖からして、その家はどれから分かれてあの家はどうした続柄なのかがわかるのでよい。何でも本を忘れないのが治法の根になる。宗子の法が立てば総領家を大切にするが、世間では宗子の法が立たないので風俗が悪い。
【語釈】
・萃王假有廟…治法7の語。
・自祖宗視之則均是子孫因無親踈也…
・忌服…近親が死去した場合、一定の期間喪に服すること。服忌。

一年有一年功夫。先つ宗子の法が一年立つと一年だけの驗がある。人か縁を知らぬゆへ睦くない。又世智賢い。今度をれが家のつづきを尋て見れば親類が一人ふへて年始の祝義が一軒ふへて面倒ぢゃと云が、世間そのやうなものはかりはない。又其中に、これ迠はそなたの家とは他人のよふに存したが、とくに尋て見れば親類ぢゃ、以後はと云て睦くなる。宗子法は見事なものなり。某が親類に留主居があって語られたことあり。親類書に親類のすくないは淋しいとなり。土井侯や其他多き大名衆は親類があまたで留主居仲間て見付よくたのもしいと云はれき。人の本心親族は親むもの。それをうるさいと云は熱のさしたのなり。親類多いが公儀の奉公にもなること。何そのとき日雇取をあつめようなはやくにたたぬ。
【解説】
親族は親しむものであって、それを煩いと言うのは間違いである。親類が多いのは、いざと言う時に頼もしいもの。
【通釈】
「一年有一年功夫」。先ず宗子の法が一年立つと一年だけの験がある。人は縁を知らないので睦ましくなく、また、世智賢い。この度、俺の家の系図を尋ねて見ると親類が一人増えたので、年始の祝儀が一軒増えて面倒だと言う者もいるが、世間はその様な者ばかりではない。またその中には、これまでは貴方の家とは他人だと思っていたが、特に尋ねて見れば親類だ、以後はと言って睦ましくなる。宗子法は見事なもの。私の親類に留守居がいて、彼が語られたことがある。親類書に親類の少ないのは淋しいと言った。土井侯やその他多くの大名衆は親類が沢山いて、留主居仲間でも見付け易くて頼もしいと言われた。これは人の本心であって、親族は親しむもの。それを煩いと言うのは熱が差したのである。親類の多いことが公儀の奉公にもなる。いざと言う時に日雇を集める様では役に立たない。
【語釈】
・土井侯…土井利延。唐津藩主。分家土井備前守利清の長男。


第十三 宗子法壊則云々条

宗子法壞、則人不自知來處、以至流轉四方、往往親未絶不相識。今且試以一二巨公之家行之、其術要得拘守得。須是且如唐時立廟院。仍不得分割了祖業、使一人主之。
【読み】
宗子法壞[やぶ]るるときは、則ち人自ら來處を知らず、以て四方に流轉し、往往に親未だ絶えざるに相識らざるに至る。今且く試みに一二の巨公の家を以て之を行わんに、其の術拘守し得得[べ]きを要す。須く是れ且く唐の時廟院を立つるが如くすべし。仍りて祖業を分割するを得ず、一人をして之を主[つかさど]らしむ。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある。

宗子をば同く尊敬する。今や君の外に宗子がありて大な顔する理ゆへ、旦那を二人もちたやうなもので、小人がいやがる筈なれとも、宗子の法が立つと人心の安堵かいこう大切のことなり。武家などを見よ。きっと立てある。人不知來處は端的武家などは系圖があるゆへ本家が知れるが、百姓などは知らぬものなり。百姓も氏をば吟味してをきそふなものに、知らずに居ると云も宗子の法のないゆへなり。来處と云はどれから分れたと云来歴を知ることなれとも、この法がないゆへ本をしらぬ。以至流轉四方往々親未絶不相識。五服のたへぬがあるか、これは吟味すへきことなり。某なとしらぬかある。大名家中なとに無據遠国したなとには別してのことなり。今且試以一二巨公之家行之云々。宗子法は天下のことなれは、伊川の手の及ぬゆへ試と云。其術要得拘守得。拘守は組合で一つにすること。あの家にこの分のすしと云なり。今田舎なとでも百年忌などと云て親類の集るかよいことなり。終に来なれぬものなとも寄るゆへ、あれはどふ云縁と云に、嫁などは知らぬと云。三里先きから何やら知らぬ老人などのきたると云が拘守なり。
【解説】
「宗子法壞、則人不自知來處、以至流轉四方、往往親未絶不相識。今且試以一二巨公之家行之、其術要得拘守得」の説明。宗子の法が立つと人心が安堵する。百姓が自分の家系を知らないのは、宗子の法がないからであり、それでは本が知れない。親類が集まるのがよいことである。
【通釈】
宗子を同じく尊敬する。今や君の外に宗子があり、それが大きな顔するものだから、旦那を二人持った様で小人は嫌がる筈だが、宗子の法が立つと人心が安堵する。それは大層大切なこと。武家などを見なさい。しっかりとこれが立っている。「人不知来処」は端的、武家などは系図があるので本家がわかるが、百姓などは知らないもの。百姓も氏を吟味して置きそうなものなのだが、知らずにいるのも宗子の法がないからである。「来処」は、どれから分かれたという来歴を知ることだが、この法がないので本を知らない。「以至流転四方往々親未絶不相識」。五服は絶えることはないが、これは吟味すべきこと。私などには知らないことがあるが、大名の家中などで拠無く遠国した際などは特に吟味が要る。「今且試以一二巨公之家行之云々」。宗子法は天下のことであって伊川の手が及ばないことなので「試」と言う。「其術要得拘守得」。拘守は組み合わせて一つにすること。あの家にこの分の筋と言うこと。今田舎などでも百年忌などと言って親類の集まるのがよいこと。滅多に来ることのない者なども寄るので、あれはどういう縁かと聞いても嫁などは知らないと言う。三里先から何やら知れない老人などが来ると言うのが拘守である。
【語釈】
・五服…①中国古代、天子・諸侯・卿・大夫・士の制服。②中国古代、京畿を中心として五百里ごとに五等に分けて定めた区域。

須是且如唐時立廟。唐書礼儀誌に見ゆ。先つ先祖はあるにして、廟院が別にありて親類の集る処なり。巨公の家てすると下が眞似してするものなり。家廟は只今持佛かあるやうなもの。持佛かわるいくるみ、あれでもなくは先祖の忌日をもめっちゃなことになろふ。廟か本家にありて、そこへあつまる。この廟院が本家にあるゆへ面々かってない。本家廟の前にある院なり。あれはなんにこしらへたと云に、何そのときそこへあつまる。それで宗子法が立つと云こと。成るほどそふなり。仍不得分割了祖業使一人主之。二男以下が盛んにならふとも宗領家を主にする。唐のは立つときよく吟味して、あとて壞れぬと見へる。偖、程子の時と今日の時體を考べし。程子の時わるいことの今よいこともある。宋は郡縣、今日本は封建ゆへ宗子の法も立よい。上て本家が立て法が行はれると下もそれを学ぶ。このことは程子の時よりよい。然らば何も程子の時よりよいかと云に、祭のときが及ぬ。それは佛ゆへかと云に、程子のときも大ふ佛に歸依したことなり。今日本旦那寺がなくてならぬと云は天艸以来のことと見へる。そこで程子のときと今かよいこともあり、わるいこともあり。
【解説】
「須是且如唐時立廟院。仍不得分割了祖業、使一人主之」の説明。「廟院」は親類の集まる場であり、たとえ分家が栄えているとしても、それは本家に設けなければならないものである。日本は封建なので本家を立て易いが、祭に関しては宋に及ばない。それは旦那寺が強いからだが、それは仏の力というよりも天草の乱の影響の方が強い。
【通釈】
「須是且如唐時立廟院」。唐書礼儀誌に見える語。先ずは先祖を祭るところはあるが、廟院が別にあって、そこは親類の集まる処である。巨公の家ですると下が真似をしてするもの。家廟は、只今では持仏のある様なもの。持仏は悪いものだが、あれでもなければ先祖の忌日も滅茶苦茶になるだろう。廟が本家にあって、そこに集まる。この廟院は本家にあり、面々が勝手に作るものではない。本家の廟の前にある院である。あれは何のために拵えたのかと言えば、何かの時にそこへ集まるためである。それで宗子法が立つ。なるほどその通りである。「仍不得分割了祖業使一人主之」。次男以下が盛んになっても宗領家を主にする。唐の廟院は立てる時によく吟味したので、後にも壊れなかったと見える。さて、程子の時と今日の時の様子を考えなさい。程子の時に悪かったことが今よいこともある。宋は郡県で、今日本は封建なので宗子の法も立ち易い。上で本家が立って法が行なわれると下もそれを学ぶ。それは程子の時よりよい。それなら全て程子の時よりもよいかと言えば、祭は及ばない。それは仏のためかというと、程子の時も大分仏に帰依していた。今日本で旦那寺がなくてはならないと言うのは天草の乱以来のことと見える。そこで、程子の時と今ではよいこともあり、悪いこともある。


第十四 凡人家法須月爲一會云々条

凡人家法、須月爲一會以合族。古人有花樹韋家宗會法、可取也。毎有族人遠來、亦一爲之。吉凶嫁娶之類、更須相與爲禮、使骨肉之意常相通。骨肉日疎者、只爲不相見、情不相接爾。
【読み】
凡そ人は家法として、須く月ごとに一會を爲して以て族を合すべし。古人に花樹韋家宗會の法有り、取る可きなり。族人の遠く來ること有る毎に、亦一たび之を爲す。吉凶嫁娶の類は、更に須く相與に禮を爲し、骨肉の意をして常に相通ぜしむべし。骨肉の日に疎き者は、只相見ずして、情相接せざるが爲のみ。
【補足】
・この条は、程氏遺書一にある。

相會するは花見と云ことで、實は牡丹に心はない。今日韋氏の花見と云て集り親族を睦む。今上總でひやりと云ことするが可取ことなり。江都などでもたま々々には花見と云ことありて、飛鳥山へゆくでなく家で立ったことなり。さて、親類振舞など云て集るがよいこと。詩経に民之失徳乾餱以愆と云、親類の睦くないと云も面倒かるゆへなり。有酒湑我と云て、まあまたっしゃれとて獨醪を漉して出すと云のが親類中のよくなること。陶淵明か悦親戚之情話と云。これで天下の人心がふっくりとなる。使骨肉之意常相通。小学外篇の末に物薄情厚と云、奢侈がつのると交が遠くなるもの。進物がなくては行れまいと云。帯解も立派な進物すると大な顔をするか、物をやら子ば身すぼらしいと云は皆血氣から出るゆへなり。産があると衣服をやるが、やる銭なくばほう々々一本でもよし。それもやられずはやらずに祝義にゆくべし。道理からは親類の間、物をやるからやらぬからと云ことはない筈。やられずはやらぬがよい。しうとの処へ往ても料理の手傳でもし、吾家に食なくば三日もうまいものでもくって来るがよし。娵をとりても一度もこぬの、孫が出来ても知らぬのと云て不足を云は尤なれとも貧ゆへなりと云。それも進物から出て、きたない了簡と云も下人のこと。よい進物で顔が大きくなるの、やら子は行れぬのと云は大名れき々々にはない。俗人は知惠の出し処が違ふゆへ何も出来ぬ。
【解説】
相会は親族が睦むためのものであり、これはすべきことである。奢侈が募ると交わりが遠くなる。貧乏であれば進物を持たないで行けばよい。進物を気にするのは下人だからで、大名や歴々は進物に構わない。
【通釈】
相会するとは花見の様なことだが、実は牡丹に意はない。今日韋氏の花見と言って集り親族を睦む。今上総でひやりということをするが、それはすべきことである。江戸などでも偶には花見があるが、それは飛鳥山へ行くことではなく家ですること。さて、親類振舞いなどと言って集まるのがよいこと。詩経に「民之失徳乾餱以愆」とあり、親類が睦じくないというのも面倒がるからである。「有酒湑我」と言い、まあお待ちなさいと言って濁醪[どぶろく]を漉して出すのが親類仲のよくなること。陶淵明が「悦親戚之情話」と言った。これで天下の人心がふっくりとなる。「使骨肉之意常相通」。小学外篇の後ろの方に「物薄情厚」とあり、奢侈が募ると交わりが遠くなるもの。進物がなくては行けないと言う。帯解も立派な進物すると大きな顔をするが、物を遣らなければみすぼらしいと言うのは皆血気から出るのである。お産があると衣服を遣るが、遣る銭がなければほうぼう一本でもよい。それも遣ることができなければ、何も遣らずに祝儀に行きなさい。道理からすれば、親類の間は物を遣るから遣らないからということはない筈。遣れなければ遣らないのがよい。姑の処へ行くにも料理の手伝いでもして、自分の家に食い物がなければ三日も美味いものでも食って来るのがよい。娵を取っても一度も来ない、孫ができたがその顔も知らないと不満を言うのは尤もなことだが、それは貧乏だからと言う。それは進物から出たことで、汚い了簡と言うのも下人だからである。よい進物で顔が大きくなったり、遣らなければ行かれないと言うのは大名歴々にはない。俗人は知恵の出し処が違うので何もできない。
【語釈】
・韋氏の花見…唐岑参の詩「韋員外花樹歌」を指す。
・ひやり…日遣り?
・民之失徳乾餱以愆…詩経小雅伐木。「民之失德、乾餱以愆。有酒湑我、無酒酤我」。
・悦親戚之情話…歸去来辞。「悦親戚之情話、楽琴書以消憂」。
・物薄情厚…小学外篇善行。「温公曰、…會數而禮勤物薄而情厚」。


第十五 冠昏喪祭礼之大者の条

冠婚喪祭、禮之大者、今人都不理會。豺獺皆知報本、今士大夫家多忽此。厚於奉養而薄於先祖、甚不可也。某嘗脩六禮。大略、家必有廟、庶人立影堂。廟必有主、高祖以上、即當祧也。又云、今人以影祭。或一髭髪不相似則所祭已是別人、大不便。月朔必薦新、薦後方食。時祭用仲月、止於高祖。旁親無後者、祭之別位。冬至祭始祖、冬至陽之始也。始祖厥初生民之祖也。無主於廟中正位設一位、合考妣享之。立春祭先祖、立春生物之始也。先祖始祖而下、高祖而上、非一人也。亦無主、設兩位、分享考妣。季秋祭禰。季秋成物之時也。忌日遷主祭於正寢。凡事死之禮、當厚於奉生者。人家能存得此等事數件、雖幼者可使漸知禮義。
【読み】
冠婚喪祭は禮の大なる者なるに、今人は都て理會せず。豺獺は皆本に報ゆるを知るに、今の士大夫の家は多く此を忽[ゆるがせ]にす。奉養に厚くして先祖に薄きは甚だ不可なり。某嘗て六禮を脩む。大略、家ごとに必ず廟有り、庶人は影堂を立つ。廟に必ず主有り、高祖より以上は即ち當に祧すべし。又云う、今の人影を以て祭る。或は一髭髪相似ざれば、則ち祭る所已に是れ別人、大いに便ならず。月朔には必ず新を薦め、薦めて後方に食す。時祭は仲月を用い、高祖に止まる。旁親の後無き者は之を別位に祭る。冬至には始祖を祭り、冬至は陽の始めなり。始祖は厥の初めて民を生ずるの祖なり。主無きは廟中の正位に於て一位を設け、考妣を合わせて之を享す。立春には先祖を祭り、立春は生物の始めなり。先祖は始祖よりして下、高祖よりして上、一人に非ざるなり。亦主無きは、兩位を設けて考妣に分享す。季秋には禰[でい]を祭る。季秋は物を成すの時なり。忌日には主を遷して正寢に祭る。凡そ死に事うる禮は、當に生きたるに奉ずる者より厚くすべし。人家能く此等の事數件を存し得ば、幼者と雖も漸く禮義を知らしむ可し。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

迂斎、萃王假有廟からこの条をうけてよいと云が、これからは別に其内のヶ条のことなり。萃王假有廟は天下中の心を一つにすること。それから外邉のことを出した。軍法のことを出し、凡人家法の条迠一とつつきにすることなり。これからは五礼を云。今人都不理會は、学問せぬもののあはれさはなり。今日俗人は学問せぬゆへ心の内では実は学問をこはがるもの。俗人は小かしこくても理會せぬと云で哀れなこと。学者の三分五厘にもせぬことをも夜も寐ずに案じたり、又、学者の安堵せぬことは何とも思はずにのろりとしてをる。それを不埒なと云ではなく、不理會なり。世間万般見皆下品と朱子の言るる。さて々々淺間な心入ぞ。小児に蘭麝待やりても金箔のがら々々と取かへると云も、大切のもの理會せぬゆへなり。豺獺皆知報本。程子の涙を流して云ことなり。人は萬物之靈と云ながら、あの豺獺にも及ぬと云。ほろ々々涙なり。周公の驅豺象と云。あれさへ知るに人が知らぬは何事ぞと云てなげかるる。厚於奉養而薄於先祖甚不可也。太平の代の歴々の飲食はすさましいこと。魚肉野菜美を盡してするが先祖にはそふない。軽い者のていでも我遊山の時は立派をするが、先祖のことには寺があればこそまだしもなれとも、平生雜茶碗て茶備へ、生靈棚あのきたない土器なとてむさいことなり。手前の日待や花見遊山のときのほどにはせぬ。
【解説】
「冠婚喪祭、禮之大者、今人都不理會。豺獺皆知報本、今士大夫家多忽此。厚於奉養而薄於先祖、甚不可也」の説明。俗人は学者が案じないことを案じ、学者が案じることを案じない。人は万物の霊だが先祖を祭ることでは豺獺にも及ばない。自分の身のためには贅沢をするが、先祖には尽くさない。
【通釈】
迂斎が、「萃王仮有廟」からこの条を受けたのがよいと言ったが、これからは別にその内の箇条のこと。萃王仮有廟は天下中の心を一つにすることで、次の条には外辺のことを出し、軍法のことを出して、「凡人家法」の条まで一続きにして、これからは五礼を言う。「今人都不理会」は、学問をしない者の哀れさを言ったこと。今日俗人は学問をしないので、心の内では実は学問を恐がっている。俗人は小賢くても理会しないので哀れである。学者が三分五厘も案じないことをも夜も寝ずに案じたり、また、学者が安堵しないことは何とも思わずにのろりとしている。それを不埒だと言うのではなく、「不理会」だと言った。「世間万般見皆下品」と朱子が言われた。実に浅ましい心入れである。小児に蘭麝待を遣っても金箔のがらがらと取り替えるというのも、大切なものを理会しないからである。「豺獺皆知報本」。程子が涙を流して言ったこと。人は「万物之霊」と言いながら、あの豺獺にも及ばないと言う。それはぽろぽろと涙が出ること。周公が「驅豺象」と言う。それでさえ知っているのに人が知らないとは何事かと言って嘆かれた。「厚於奉養而薄於先祖甚不可也」。太平の代の歴々の飲食は凄まじいもの。魚肉野菜は美を尽くしてするが先祖にはそうでない。軽い者がすることでも、自分の遊山の時は立派にするが、先祖のことには寺があればこそまだしもだが、平生は雑茶碗で茶を備える。あの生霊棚の汚い土器などはむさいことである。自分の日待や花見遊山の時ほどにはしない。
【語釈】
・萃王假有廟…治法7の語。
・世間万般見皆下品…神童詩。「万般皆下品,唯有読書高」。
・豺獺皆知報本…禮記月令。「季秋之月…豺乃祭獸戮禽」「孟春之月…獺祭魚」。
・驅豺象…

某嘗脩六禮大略。伊川のは只今の世話やき儒者とは違ふ。今日しきに用には立ぬ。直に用に立からは俗儒の了簡、垩賢の礼はそふゆかぬ。周公の大略からしてこの六礼が本立なり。庶人立影堂。上總などでは庶人の字を大切にきくべし。影堂は畧して農工商の為にするなり。これにも法がある。先つ先祖を画像にして祭ることなり。京都二た瀬村に林家の領分あり、道春より二三代の影堂がある。あれなどが今手本なり。百姓が奢がわるいとて、二疂四方に影堂を立ても何れから御咎めかあろふと思ふぞ。画にせずは名をかいて置てもよいに、手前の栄耀には奢を極めて公儀から御咎めあるべきこともする。影堂は僅に一間四方にしてもよい。画師が書ても朝夕先祖に御目にかかると云であつくなる。俗人か得手公儀をはばかると云ふ。これが桀紂の代ならばはばかるべし。それとても、桀紂の世でも手前の為めにわるいものは炮烙にもせふが、影堂には桀紂でも咎めはない筈なり。しからば小学近思をよみかかる泰平の世に、この思ひ立てなきはいかがなり。刑不上太夫礼不下庶人と云て御差圖なれば、学者遠慮はない。殊に御當家は道春よりして後上て程子の学を御用ひなれは、今日本で一間四方の影堂を建たとて御咎めはない筈なり。庶人に礼はないことなれども影堂と云はるるは庶人の為に義起なり。これを伊川のさしづなれは学者も遠慮はない。この章、小学にも載せてあること。たれも知たこと。此は先祖のことなれば是非せ子はならぬことなれども、然るにこうさつか出て三尺の一牧板ですると云ゆへ、はや出来ぬことになる。先祖も本萱蓠に居たものゆへ、やはりかやぶきにしてよし。一間四方輕くてもよい蘆天井にして、屋鋪の隅の杦の木を四本きれば出来ることなり。今影堂を建るほどの学者は入らざる書物をよみ、いろ々々の虚文をかいて異国の真似し、仰山にするゆへ行れぬ。
【解説】
「某嘗修六禮。大略、家必有廟、庶人立影堂」の説明。六礼の一つは家に廟を建てることだが、庶人にあっては影堂を建てることである。影堂では先祖を画像にして祭るが、画像でなくて名を書いて置いてもよい。人は影堂は公儀の咎めとなると言うが、桀紂でもそれを咎めないだろうし、道春以降、幕府は程子の学を用いているのだから、咎められることはない。
【通釈】
「某嘗修六礼大略」。伊川は今の世話焼き儒者とは違う。直ぐには今日の用には立たない。直に用に立つのであれば、それは俗儒の了簡であり、聖賢の礼はそうは行かない。周公の大略もこの六礼が本立てである。「庶人立影堂」。上総などでは庶人の字を大切に聞きなさい。影堂は大体農工商のためにするものだが、これにも法がある。先ず先祖を画像にして祭る。京都の二瀬村に林家の領分があって、道春を始め二三代の影堂がある。あれなどが今の手本である。百姓が奢るのは悪いと言って、二畳四方に影堂を立ててはどこからか御咎めがあるだろうと思う。画にしないのなら名を書いて置いてもよいのに、自分の栄耀には奢りを極め、公儀から御咎めのある様なこともする。影堂は僅か一間四方でもよいもので、画師が書いたものでも朝夕先祖に御目に掛かるというので篤くなる。俗人がよく公儀を憚ると言うが、確かにこれが桀紂の代であれば憚らなければならない。それにしても、桀紂の世でも自分のために悪い者は炮烙にもしようが、影堂には桀紂でも咎めはない筈である。それであれば、小学や近思を読み掛かる泰平の世に、この思いが立つことのないのはどうしたものか。「刑不上大夫礼不下庶人」と言う御指図なのだから、学者が遠慮をすることはない。殊に御当家は道春からして後、上が程子の学を御用いたのだから、今日本で一間四方の影堂を建てたとしても御咎めはない筈である。庶人に礼はないものだが、影堂と言われたのは庶人のために義を起こしたのである。これが伊川の指図であるから学者も遠慮することはない。この章は小学にも載せてあり、誰もが知っていること。これは先祖のことなので是非しなければならないことだが、それなのに高札が出て三尺の一枚板ですると言うので、早くもできないことになる。先祖も本は茅葺にいたものだから、やはり萱葺にしてよい。一間四方を軽くてもよい蘆天井にして、屋敷の隅の杦の木を四本切ればできること。今影堂を建てるべき学者は不要な書物を読み、色々な虚文を書いて異国の真似をし、仰山なことをしていて、これを行なうことができない。
【語釈】
・刑不上太夫礼不下庶人…礼記曲礼上。「禮不下庶人、刑不上大夫。刑人不在君側」。

廟必有主。これが伊川の御差圖なり。宋迠は親ばかり庶人は祭ったが、程子からは上高祖迠は忌服があるゆへ主を置て祭る。高祖が生れて居れば忌服がかかるゆへなり。會津の中將様の遺意なり。當時は服忌令がある。そふたい武家の制度は神君より二代將軍三代將軍の御代迠に撰れて、諸法度黄門公なと御列座にて御世話遊ばし、林春齋などの手にて出来たるよし傳承る。又、會津様の治教録が天下の法になる。日本で庶人でも四代を祭りてよいと云は中將様の遺言なり。然れは服忌令の通り高祖迠服忌あるからは、四代祭てよし。以影祭或一髭髪不相似云々。宋朝が画像なれとも少し似ぬ処がありてはひょんなもの。長谷川觀水殿の話に、あの人の朋軰にたのまれ、祖父の寺忍あたりにあるを君命の序にゆき、其影堂を見たに祖父の画像がよく子孫に似て、彼画像にある画の鍔を見れば平日孫がさされた鍔なり。いよ々々親切でありたとなり。如此なればよし。そこは画の親切にて、よく似ればよいが似ぬと別人になる。月朔必薦新。本とのをこりは礼記月令にもあり、先薦寢廟と云。これが天子のすることなれども、下々もなることなり。新米や庭の栗をすすむるが出来ぬことではない。又、僭にはならぬ。浅見先生の新米振舞なり。それで新を祭るがよいと云はるる。畑けの茄子や爪でするも大ふ殊勝なことなり。時祭用仲月。一年の内四度する。春は二月、夏は五月、秋は九月、冬十一月なり。ならぬは誠なし。誠あればならぬことはない。生てをれは誠なくても父祖に食事はすすむるてみよ。
【解説】
「廟必有主、高祖以上、即當祧也。又云、今人以影祭。或一髭髪不相似則所祭已是別人、大不便。月朔必薦新、薦後方食。時祭用仲月、止於高祖。旁親無後者、祭之別位」の説明。庶人は宋までは親を祭っていたが、程子以降は高祖までを祭ることとなった。日本でも、会津中将が四代までを祭ることを唱えた。先祖を祭るのに際しては、その画像は本人に似ていなくてはならない。新しい物ができればそれを進じ、年四回祭る。これができないのは誠がないのである。
【通釈】
「廟必有主」。これが伊川の御指図である。宋までは親だけを庶人は祭っていたが、程子からは高祖まで忌服があるので主を置いて祭る。高祖が生まれているので忌服がかかるのである。これが会津の中将様の遺意である。当時は服忌令があった。全体、武家の制度は神君より二代将軍三代将軍の御代までに撰られて、諸法度は黄門公などが御列座で御世話遊ばし、林春斎などの手によってできたと伝承されている。また、会津様の治教録が天下の法になる。日本で庶人も四代を祭るのがよいというのは中将様の遺言である。そこで服忌令の通り、高祖まで服忌があるからは、四代を祭るのでよい。「以影祭或一髭髪不相似云々」。宋朝は画像だったが、少し似ない処があるのは妙なもの。長谷川観水殿の話に、あの人が朋輩に頼まれ、祖父の寺が忍辺りにあったので君命のついでに行ってその影堂を見ると、祖父の画像がよく子孫に似て、その画像にある画の鍔を見れば平日孫が差されている鍔だった。それは実に親切なことだったそうである。この様であればよい。そこは画の親切であって、よく似ればよいが似ないと別人になる。「月朔必薦新」。元の起こりは礼記月令にもあり、「先薦寝廟」と言う。これは天子のすることだが、下々にもできること。新米や庭の栗を進めるのはできないことではない。また、それは僭越とはならない。浅見先生の新米振舞である。それで新を祭るのがよいと言われた。畑の茄子や瓜でするのも大いに殊勝なこと。「時祭用仲月」。一年の内に四度する。春は二月、夏は五月、秋は九月、冬十一月にする。それができないのでは誠がない。誠があればできないことはない。生きていれば誠がなくても父祖に食事を進めることで考えなさい。
【語釈】
・忌服…近親が死去した場合、一定の期間喪に服すること。服忌。
・會津の中將様…保科正之。江戸前期の大名。会津の藩祖。徳川秀忠の庶子。保科氏の養子。会津二三万石に封ぜられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を保護。儒学を好み山崎闇斎を聘し、また吉川惟足の神道説を学び、その伝授を得た。諡号は土津霊神。1611~1672
・神君…徳川家康の尊称。
・林春齋…林鵞峰。江戸前期の幕府の儒官。羅山の第三子。名は恕・春勝。僧号、春斎。幕府に仕えて「本朝通鑑」などの編集に従事。博学で、「鵞峰全集」「日本王代一覧」など著書が多い。1618~1680
・長谷川觀水…長谷川克明。源右衛門。
・先薦寢廟…礼記月令。「是月也、農乃登穀、天子嘗新、先薦寢廟」。
・祧…合祀。高祖(父から下って三代目の先祖)までは別々に祭るが、それ以上は一廟に納めて合祀する。その廟を祧廟と言う。

冬至祭始祖。下の立春祭先祖とこの二つは程子の制作なれども、大ふ重いことゆへ朱子も始は程子にしたがはれたれとも、後は僭也と云はれてやめられた。朱子のやめられたことゆへ学者もせぬがよい。伊川の御心を知るがよいとはどふなれば、程子の道統傳を継と云も一と通りでは合点ならぬこと。御心が垩域に至りたゆへなり。程子の誠の垩人に至ると云も人欲がないゆへ。先日の処にも天子にさし向てしらなことあり。ここらも天へとどくゆへこの徂立かなる。山﨑先生の神道に入ったもやはりここへのりがきたゆへなり。このこと早速合点はゆくまいが、そふなり。先生の神道が覇業でも術數でもなく、又、外の文盲な神ん主の意てもない筈。人欲かなくなると心の感通する処がじかにある。扨どこ迠も感通すると云を知ると、直方先生の云わるる、祭りたくてならぬなり。某抔のやうな二男に生れ、祭と云面倒がなく、傳十郎より大三は世話がなくて德じゃと思ふような心では伊川の御心は測られぬことなり。こちがををちゃくものゆへなり。始祖は天地開けての先祖なり。祭が心にのると祖父は我父の親、其親は曽祖と、あなたのあなたになりて眼に見へぬやうになる。この根がなく叔孫通が礼を制したやふなは真木ざっはを見るやうなり。三代垩人の礼から二番目は程子なり。誠から義起なり。周官の法も關雎麟趾から出るやうなものなり。この冬至に祭始祖と云が平生飲食の神を祭るやうなもの。このあやで本を大切にせ子ばならぬ。生民之祖也。氣化の祖を云。物の出来た祖かたくありたもの。それかなければ今此身はない筈。中辺からふと出きたと云人はないなり。然れは開闢から我迠一とつつきに此呼吸がつづいて居るなり。
【解説】
「冬至祭始祖、冬至陽之始也。始祖厥初生民之祖也。無主於廟中正位設一位、合考妣享之」の説明。「冬至祭始祖」と「立春祭先祖」は程子が作ったことで、朱子も初めはそれをしたが、後にはそれが僭越なことだとして止めた。そこで、これは行わない方がよい。しかし、程子は道統の伝を継いだ者で、聖域に至る心を持っているから、その心を知らなければならない。山崎先生が神道に入ったのも心に乗りがついたからである。「冬至祭始祖」は平生飲食の神を祭る様なもので、「生民之祖也」は気化の祖を言う。
【通釈】
「冬至祭始祖」。下にある「立春祭先祖」とこの二つは程子の制作で、大変に重いことなので朱子も初めは程子に従われたが、後は「僭也」と言われて止められた。朱子が止められたのだから学者もしないのがよい。伊川の御心を知らなければならないとはどの様なことかと言うと、程子を道統の伝を継ぐと言うのも一通りでは合点することのできないことであり、それは御心が聖域に至ったからである。程子が誠の聖人に至ると言うのも人欲がないから。先日の処にも天子に差し向かって真剣に言ったことがあったが、ここ等も天へ届くことなのでこの組立てが成る。山崎先生が神道に入ったのもやはりここへ乗りが来たからである。このことは直ぐに合点することはできないだろうが、その通りである。先生の神道は覇業でも術数でもなく、また、外の文盲な神主の意でもない筈。人欲がなくなると心の感通する処が直にある。さて、どこまでも感通するということを知ると、直方先生の言われた、祭りたくてならなくなるのである。私などの様に二男として生まれると祭という面倒がなく、伝十郎より大三の方が世話がなくて得だと思う様な心では伊川の御心は測られない。それは、こちらが横着者だからである。始祖は天地開けての先祖である。祭が心に乗ると祖父は我父の親、その親は曾祖と、遥か遠くになって眼に見えない様になる。この根がなく、叔孫通が礼を制した様なことは真木撮棒を見る様なもの。三代聖人の礼から二番目は程子である。誠から義が起きる。それは、周官の法が関雎麟趾から出る様なもの。この「冬至祭始祖」というのが平生飲食の神を祭る様なもの。この綾で本を大切にしなければならない。「生民之祖也」。これは気化の祖を言う。物のできた祖で、しっかりとあったもの。それがなければ今のこの身はない筈。中頃からふとできたという人はいない。そこで、開闢から自分に至るまで一続きにこの呼吸が続いているのである。
【語釈】
・先日の処…治法4を指す。
・傳十郎…櫻木誾斎の長男。
・大三…櫻木誾斎の二男。
・叔孫通…前漢の儒者。号は稷嗣君。山東薛の人。高祖に仕えて朝儀を制定。恵帝の時、奉常卿として宗廟などの儀法を定め、太子太傅となる。
・關雎麟趾…治体21に「明道先生曰、必有關雎・麟趾之意、然後可以行周官之法度」とある。詩経国風周南の冒頭が關雎で、最後が麟之趾である。關雎の序に「關雎樂得淑女以配君子。愛在進賢、不淫其色。哀窈窕思賢才而無傷善之心焉。是關雎之義也」、麟之趾の序に「麟之趾、關雎之應也。關雎之化行、則天下無犯非禮。雖衰世之公子、皆信厚如麟趾之時也」とある。

立春祭先祖。始祖より以下の先祖が何百人あるかしれぬことなり。今老年で子を持、其子長壽すれは先つ世數がすくないが、若て子をはやくもったものは先祖が多いと合点するがよい。馬鹿な講釈のやうなれとも、そふなり。某などは百數十年迠の内三代てをる。祖父生れてから百五十年はかりぞ。世の中百年の内には代替りが多くあるもの。某祖父などは明の末の時分にあたるが、今迠某ともに三代なり。始祖から高祖迠は系譜もないゆへ知ら子とも、ありはあると思ふやると云のて却てひひくことなり。分享考妣。両親をせうばんに出す。父母は我身に近いもの。それが使に出て遠い先祖をひいて来るなり。
【解説】
「立春祭先祖、立春生物之始也。先祖始祖而下、高祖而上、非一人也。亦無主、設兩位、分享考妣」の説明。若くして子を持った者は先祖が多くなる。默斎は独身なので、百五十年で三代だけでいる。
【通釈】
「立春祭先祖」。始祖より以下の先祖が何百人あるのかは知れない。今老年で子を持ち、その子が長寿すれば先ずは世数が少ないが、若くして子を持った者は先祖が多いと合点しなさい。馬鹿な講釈の様だが、その通りである。私などは百数十年までの間、三代でいる。祖父が生まれてから百五十年ばかりのこと。世の中百年の内には代替りが多くあるもの。私の祖父などは明の末の時分に当たるが、今まで私を含めて三代である。始祖から高祖までは系譜もないので知らないが、あることはあると思い遣ることで却って響く。「分享考妣」。両親を相伴に出す。父母は我が身に近いもの。それが使いに出て遠い先祖を引いて来る。
【語釈】
・考妣…先考と先妣。亡父と亡母。

季秋祭禰。別段に親を祭る。新米が出来て祭るなり。物の成就したと云は天地のこと。人も此のからだ成就したは此父母あるゆへ。九月籾を摺臼にかけると云もこのからだかする。其からだも親がしたと感じて祭る。不敬なものはこのやふに又も々々祭があるかと欠びす。先日の萃の卦から今日の処が、父母や先祖のことに欠びを出すやふでは天下の人心安堵はならぬ。先祖に欠が出ると君父にも欠が出る。そこて君に仕へると云は強仕四十ぞ。それより前、祭を大切にするがよいはづなり。九月の祭りが何も地頭の為にもならぬ様なれとも、天下の人心を維持するの法がこの祭でなければならぬ。月朔薦新からして立春祭先祖のと未たあるか々々々と祭るほどて祭の數がすくない。これでなければ天下の治至に至らぬ。太平にするは人の心を集めること。萃王假有廟ゆへ、先祖を大切にするゆへ上をも大切にするはずなり。治道は本末ありて肉を分けぬ人に厚して先祖にうすいと云はないこと。そこて萃の有廟と云ふからでなくては天下は治さまらぬ。先祖をばすててをくが君上は大切にすると云、請合にはならぬ。大学經文に其所厚者薄而其所薄者厚未之有也、と。垩人のこと一寸したことのやうて、あの結語の繋る処か廣い。ここがきひしい処なり。これはこっぱ儒者の知らぬことなり。經済者々々々と請合普請のやふなは近思の治法でなし。凡事死之礼云々。いつも云通り、生た親はものを云へとも、鬼神は羹がぬるくても飯がこはくてもたまってをるゆへよいはと云は薄い心なり。
【解説】
「季秋祭禰。季秋成物之時也。忌日遷主祭於正寢。凡事死之禮、當厚於奉生者。人家能存得此等事數件、雖幼者可使漸知禮義」の説明。自分があるのは父母がいたからなので、収穫の時に親を祭るのである。祭は大切にしなければならず、これを疎んじる様では天下の人心を安堵させることはできない。他人に厚くて先祖に薄いということはない。
【通釈】
「季秋祭禰」。特段に親を祭る。新米ができれば祭る。物が成就したというのは天地のこと。人もこの体が成就したのはこの父母がいるからである。九月に籾を摺臼にかけるというのもこの体がする。その体も親がしたと感じて祭る。不敬な者はこの様にまだまだ祭があるのかと欠伸をする。先日の萃の卦から今日の処までで、父母や先祖のことに欠伸を出す様では天下の人心が安堵しない。先祖に欠伸が出ると君父にも欠伸が出る。そこで、君に仕えるのは「強仕四十」であり、それより前は祭を大切にするのがよい筈。九月の祭は地頭のためには何もならない様だが、天下の人心を維持する法はこの祭でなければならない。「月朔薦新」からして「立春祭先祖」とまだまだあるかと祭るほどてなければならないが、今は祭の数が少ない。これでなければ天下の治至には至らない。太平にするとは人の心を集めること。「萃王仮有廟」で先祖を大切にするので上をも大切にする筈。治道には本末があり、肉親でない人に厚くして先祖に薄いということはない。そこで萃の有廟ということからでなくては天下は治まらない。先祖を捨てて置きながら君上は大切にすると言うのでは請け合うことができない。大学の経文に「其所厚者薄而其所薄者厚未之有也」とある。聖人のことは一寸したことの様で、あの結語の繋がる処が広い。ここが厳しい処である。これは木っ端儒者の知らないこと。経済者と呼ばれ、請合普請の様なことをするのは近思の治法ではない。「凡事死之礼云々」。いつも言う通り、生きている親はものを言うが、鬼神は羹が温くても飯が堅くても黙っているのでよいと言うのは薄い心である。
【語釈】
・強仕四十…礼記曲礼上。「四十曰強、而仕」。四十歳ではじめて官に仕えること。
・其所厚者薄而其所薄者厚未之有也…大学章句1。「其本亂而末治者否矣。其所厚者薄、而其所薄者厚、未之有也」。


第十六 卜其宅兆之条

卜其宅兆、卜其地之美惡也。地美則其神靈安、其子孫盛。然則曷謂地之美者。土色之光潤、草木之茂盛、乃其驗也。而拘忌者惑以擇地之方位、決日之吉凶。甚者不以奉先爲計、而專以利後爲慮。尤非孝子安厝之用心也。惟五患者不得不愼。須使異日不爲道路、不爲城郭、不爲溝池、不爲貴勢所奪、不爲耕犂所及。一本所謂五患者、城郭、溝渠、道路、避村落、遠井窰。
【読み】
其の宅兆を卜するは、其の地の美惡を卜するなり。地、美なれば則ち其の神靈安らかにして、其の子孫盛んなり。然らば則ち曷[なに]をか地の美なる者と謂う。土色の光潤にして、草木の茂盛するは、乃ち其の驗なり。而るに拘忌する者は、惑いて以て地の方位を擇び、日の吉凶を決す。甚だしき者は、先に奉ずるを以て計と爲さず、專ら後を利するを以て慮と爲す。尤も孝子安厝[あんそ]の用心に非ず。惟五患なる者は愼まざるを得ず。須く異日道路と爲らず、城郭と爲らず、溝池と爲らず、貴勢の奪う所と爲らず、耕犂の及ぶ所と爲らざらしむべし。一本に、所謂五患とは、城郭、溝渠、道路、村落を避く、井窰[いよう]を遠ざくとなり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書十にある伊川の語。

只今の人も信心と云ことする。それをするはどふなれば、我心が治らぬゆへわく々々して神を拜んだらよかろふと思も尤なり。一人子の疱瘡か重いゆへわく々々して祈禱もするか、民不可使知之ゆへそふもあるべきはずなれとも、信心も厚薄かありて近い親をすてて遠くの神を拜んではつまらぬことなり。瓦の奉加や繪馬を掛ると云も信心なれとも、親の死たときは麁末にして外の神をたのむ。誠の出よふはない。それは一心のあちこちしたなり。生たとき親の隠居所は相応にすれども、死でからは大ふ麁末なり。葬地や棺椁は死でからの隠居所なれば尚大切にすべきはずなり。地美則神霊安其子孫盛。このこと天地自然の道理なり。これは微妙なことで早速すめぬことなれとも、理から云ことなり。神灵か安泰ゆへ子孫も盛なはずなり。然則曷謂地之美者。何が御目利と云に土色之光潤云々なり。拘忌者云々。唐は日本にない害が一つある。これが晋の郭璞からなり。郭璞が土地の方角云たより、陰陽師が乘たものなり。先祖にかまはず、あとが大切々々と云。尤非孝子安措之用心也。神霊安子孫盛は理の微妙はと云へとも、子孫之栄衰のこと第一ではない。
【解説】
「卜其宅兆、卜其地之美惡也。地美則其神靈安、其子孫盛。然則曷謂地之美者。土色之光潤、草木之茂盛、乃其驗也。而拘忌者惑以擇地之方位、決日之吉凶。甚者不以奉先爲計、而專以利後爲慮。尤非孝子安厝之用心也」の説明。信心をするのは心が治まらないからである。親を粗末にして置いて神を拝むのは悪い。墓の土地がよいと神霊も安泰で子孫も盛んとなる。しかし、子孫の栄衰を主とするのではない。
【通釈】
今日の人も信心をする。それをするのは何故かと言うと、自分の心がわくわくとして治まらないからで、神を拝んだらよいだろうと思うのも尤もなこと。一人子の疱瘡が重ければわくわくして祈祷もするが、「民不可使知之」なのでそれもあるべき筈のことだが、信心も厚薄があって、近い親を捨てて遠くの神を拝むのは詰まらないことである。瓦の奉加や絵馬を掛けるのも信心だが、親の死んだ時は粗末にして外の神を頼む様では誠の出所はない。それは一心があちこちと定まらないからである。また、親が生きている時には、隠居所は相応にするが、死んでからは大分粗末である。葬地や棺椁は死んでからの隠居所だから尚更大切にすべき筈である。「地美則神霊安其子孫盛」。これは天地自然の道理である。これは微妙なことで直ぐには済まないことだが、これは理から言ったこと。神霊が安泰なので子孫も盛んな筈である。「然則曷謂地之美者」。何が御目利となるかと言えば、「土色之光潤云々」である。「拘忌者云々」。唐には日本にない害が一つある。それは晋の郭璞からのこと。郭璞が土地の方角のことを言ってから陰陽師が勢い付いた。先祖に構わず子孫が大切だと言う。「尤非孝子安措之用心也」。「神霊安子孫盛」は理の微妙を言うものだが、子孫の栄衰が第一ではない。
【語釈】
・民不可使知之…論語泰伯9。「子曰、民可使由之、不可使知之」。
・郭璞…晋の人。陰陽五行・卜筮の術に優れ、占うとよくあたった。
・卜其宅兆…孝経喪親章。「卜其宅兆、而安措之、爲之宗廟」。宅兆は墓地。

不為道路。すへ々々道になろふとの慮なり。只今新道と云が東海道にもある。さって峠なども古は通りたが今は上を通る。中仙道にも皆それがある。この村でも表塲裏塲と云て後出来た道がある。そこでやがて取れそふなと云処をば避る。不為城郭。城は山城でも海城でもありて要害が入る。城によい処は早速取ひらかれる。不為溝池。墓所堀などにしそふもないものなれとも、別してこの邊などはこの患あり、旱損塲は溝池がないからなり。いつの世にか溝池に開かるることあり。不為貴勢所奪。この患は漢よりあることて、宋朝は別して手抦のある役人などを下屋鋪へ行りて遊山せよとて景地を賜はることあり。下屋敷は栄耀ばかりてなく御いたわりて、やはり封有功と同しことなり。御當家でも大君の御鷹塲などへ出て、其矢のとどく所迠やろふと云よふなことあり。それがかたになりて景氣のよい所などが下屋敷になる。其よふな処は墓所には油断はならぬ。不為耕犂所及。新田開發なり。ここは末々開発すべき地と云処は用心する。この方などはあまり其やうなことはないが、唐は多くあることなり。一本所謂五患者云々。一本の方は五患の中で二つ違がある。避村落は火災などの患あるゆへなり。井窰は穴藏のことなり。かわら竈も窰にて墓所のわきなどにありてはならぬ。扨、只今は豫しめ葬地が定りて江都などは寺が定てあるゆへ地を撰むと云てもない。併ら本所は水の患あり、山の手はよけれとも本郷邉などには糀屋がありて、あれが穴藏を掘るもの。いやなことと氣を付べし。其様なは心もちあしきことなり。
【解説】
「惟五患者不得不愼。須使異日不爲道路、不爲城郭、不爲溝池、不爲貴勢所奪、不爲耕犂所及。一本所謂五患者、城郭、溝渠、道路、避村落、遠井窰」の説明。墓所に向かない場が五つある。一説ではその内の二つが避村落と遠井窰になっている。
【通釈】
「不為道路」。やがては道になるだろうとの慮りである。今日、新道というものが東海道にもある。幸手峠なども古は通ったが今は上を通る。中仙道にも皆それがある。この村でも表場裏場と言って後にできた道がある。そこで、やがて道に取られそうな処を避ける。「不為城郭」。城は山城でも海城でも要害でなければならない。城によい処は早速取り開かれる。「不為溝池」。墓所を堀などにはしそうもないものだが、特にこの辺りなどではこの患いがあり、旱損する場は溝池がないからで、いつの世にか溝池として開かれることがある。「不為貴勢所奪」。この患いは漢からのことで、宋朝では特に手柄のある役人などを下屋敷へ行って遊山せよと言い、景地を賜わることがある。下屋敷は栄耀ばかりてなく御労りからのことで、やはり有功を封ずるのと同じこと。御当家でも大君が御鷹場などへ出て、その矢の届く所までを遣ろうという様なことがあった。それが形になって景気のよい所などが下屋敷になる。その様な処は墓所としては油断がならない。「不為耕犂所及」。新田開発である。末々開発されそうな地は用心する。日本などではあまりその様なことはないが、唐には多くある。「一本所謂五患者云々」。一本の方は五患の中に二つ違いがある。「避村落」は火災などの患いがあるからである。「井窰」は穴蔵のこと。瓦竈も窰であって、墓所の脇などにあってはならない。さて、今日は予め葬地が定まっていて、江戸などでは寺が定まってあるので地を撰ぶということもない。しかしながら本所には水の患があり、山の手はよいが本郷辺りなどには糀屋があって、あれが穴蔵を掘るもの。それは嫌ことだと気付かなければならない。その様なことは心持ちの悪いことである。


第十七 治喪不用浮圖之条

正叔云、某家治喪、不用浮圖。在洛亦有一二人家化之。
【読み】
正叔云う、某の家は喪を治むるに、浮圖を用いず。洛に在しとき、亦一二の人家之に化する有り、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書六にある伊川の語。

伊川の御家内で出家を用ぬなり。在洛亦一二人家化之。学問せぬものが伊川に化して浮圖を用ぬが有りた。これは衰世の治法なり。三代にはあたまでないこと。其後も礼義明なれば浮圖を用に及ばぬことなり。只今は上からのことゆへこれを聞てもならぬことなれども、この方の取り治めでなること。朱子の、皮毛外のことゆへどふともよいと云はるる。父母の肌へ土のつかぬやふに棺椁を厚くして、耳へ經の聲を聞てもよいが、大切のことは処置が入る。葬埋のこと必信必誠と云て太切のこと。朱子の皮毛外と云は外むきのことで、棺椁の外はかまはぬなり。このことが治法にのったは天下に法が立つと行はれることなれども、心へのら子ば行きとどかぬ。伊川はいきをいがなく、講筵官に出たも少の間にてあとは浪人なり。然れども人心がのると洛の人の化するよふになる。そこで天下の法でも心へのらぬことでは行はれにくい。浪人のしたことにさへ一二人家化したなれば、上から出たことは一人なり。これを治法へ載たは伊川の法をすること。伊川の天下からなされたらはよかろふなり。
【解説】
伊川は喪に仏式を用いなかった。朱子は皮毛の外のことなのでどうでもよいと言われたが、それは棺椁の外は構わないということ。浪人の伊川でさえ一二の人家を化したのだから、君子がそれをすれば民を化すのである。
【通釈】
伊川の御家内では出家を用いなかった。「在洛亦一二人家化之」。学問をしない者の中に伊川に化して浮図を用いない者があった。これは衰世の治法であり、三代の時には全くないこと。その後も礼義が明らかだったので浮図を用いるには及ばなかった。今日では上で浮図を用いさせるので、この条を聞いてもそれはできないことだが、こちらの取り治めでそれもできること。朱子が、それは皮毛の外のことなのでどうでもよいと言われた。父母の肌へ土が付かない様に棺椁を厚くして、耳へ経の声が聞こえてもよいが、大切なことには処置が要る。葬埋のことは「必信必誠」と言って大切なこと。朱子が皮毛外と言ったのは外向きのことで、棺椁の外は構わないということ。このことが治法に載ったのは、天下に法が立てば行われるが、心へ乗らなければ行き届かないからである。伊川は時勢に合わず、講筵官に出たのも少しの間であって、後は浪人だった。しかしならが、人心が乗ると洛の人が化す様になる。そこで天下の法でも心へ乗らなければ行われ難い。浪人のしたことでさえ一二の人家が化したのだから、上から出ることは全体を化す。これを治法へ載せたのは伊川の法をするということ。伊川が天下の上でなさればよくなったことだろう。
【語釈】
・必信必誠…礼記檀弓上。「子思曰、喪三日而殯、凡附於身者、必誠必信、勿之有悔焉耳矣。三月而葬、凡附於棺者、必誠必信、勿之有悔焉耳矣」。


第十八 今無宗子条

今無宗子。故朝廷無世臣。若立宗子法、則人知尊祖重本。人既重本、則朝廷之勢自尊。古者、子弟從父兄、今、父兄從子弟、由不知本也。且如漢高祖欲下沛時、只是以帛書與沛父老、其父兄便能率子弟從之。又如相如使蜀、又遺書責父老、然後子弟皆聽其命而從之。只有一箇尊卑上下之分、然後順從而不亂也。若無法以聯屬之、安可。且立宗子法、亦是天理。譬如木。必有從根直上一幹、亦必有旁枝。又如水。雖遠必有正源、亦必有分派處、自然之勢也。然又有旁枝達而爲幹者。故曰、古者天子建國、諸侯奪宗云。
【読み】
今は宗子無し。故に朝廷に世臣無し。若し宗子法を立てなば、則ち人、祖を尊び本を重んずるを知る。人既に本を重んずれば、則ち朝廷の勢い自ら尊し。古は、子弟は父兄に從い、今は、父兄は子弟に從う。本を知らざるに由るなり。且く漢の高祖、沛を下さんと欲する時の如き、只是れ帛書を以て沛の父老に與えしのみなるに、其の父兄便ち能く子弟を率いて之に從えり。又相如の蜀に使いせしが如き、又書を遺りて父老に責め、然して後に子弟皆其の命を聽きて之に從う。只一箇の尊卑上下の分有りて、然して後に順從して亂れざるなり。若し法の以て之を聯屬すること無くんば、安んぞ可ならん。且つ宗子法を立つるも、亦是れ天理なり。譬えば木の如し。必ず根より直上する一幹有り、亦必ず旁枝有り。又水の如し。遠しと雖も必ず正源有り、亦必ず分派する處有るは、自然の勢いなり。然れども又旁枝の達して幹と爲る者有り。故に曰く、古天子國を建つるに、諸侯は宗を奪うと云う。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

天下を宗子の法てくくりたものなり。故朝廷無世民は宗子の法なきゆへ重いれき々々でも一代ぎりなり。朱子の云、周のあれ迠つづいたも御普代あるゆへなり。秦漢からは郡縣の政ゆへ今日迠高位に居ても御役御免で明日は百姓なり。某底が一年半季の奉公人かかへるやうなもの。宗子の法のないゆへ無世民と云が世家のないゆへぞ。宗子の法は下々迠のことぞ。それが朝廷の勢の強弱になる。天下の宗子のことで朝迠の貴いは丁ど銭が下ると金が貴くなるやうなものなり。朝廷はいつも金のやうなもの。上の方のことなれとも、下の方のことで上もいやしくなる。下に宗子の法あれは、そのあつまりがたまりた処の大勢あるで上がたっとくなる。封建にして世禄にするか垩人の思召深いことなるに、始皇か郡縣にしたはめっほうかいなこと。漢から宋朝もそれなり。蕃鎮を置て夷狄を防き、小身な人に人牧假して日雇取をあつめたやうゆへ治らぬ。古諸侯を蕃屏にするは諸侯の世臣あつまりて屏となる。郡縣の兵民のやうではなし。宗子のことがないについて上に世民なしと云説は面白し。この宗子の法で親類が睦くなり本を知るゆへ君子の義も立て、それて上が丈夫になる。
【解説】
「今無宗子。故朝廷無世臣。若立宗子法、則人知尊祖重本。人既重本、則朝廷之勢自尊」の説明。封建にして世禄にするのが聖人の思し召しだったのに、始皇帝が郡県に改めてしまった。そこで、世家の制度がないからお役ご免で終わる。宗子の法は下々のことだが、それが朝廷の勢いの強弱になる。
【通釈】
ここは天下を宗子の法で括ったもの。「故朝廷無世民」は、宗子の法がないので重い歴々でも一代限りとなること。朱子が、周があれほど続いたのも御譜代があったからであると言った。秦漢からは郡県の政なので今日まで高位にいても御役御免で明日は百姓となる。私などが一年半季の奉公人を抱える様なもの。宗子の法がないので無世民だと言うが、それは世家がないからである。宗子の法は下々までのこと。それが朝廷の勢いの強弱になる。天下の宗子によって朝廷が貴くなるのは、丁度銭が下がると金が貴くなる様なもの。朝廷はいつも金の様なもの。上の方のことも、下の方のことによって卑しくなる。下に宗子の法があり、その集りの溜まる処が大勢あることによって上が貴くなる。封建にして世禄にするのが聖人の思し召しの深いところなのに、始皇帝が郡県にしたのは法外なこと。漢から宋朝もそれ。蕃鎮を置いて夷狄を防ぎ、小心な人に民を任せる。その様に日雇いを集めた様なことでは治まらない。古は諸侯を蕃屏にしたが、それは諸侯の世臣が集まって屏となったのであって、郡県の兵民の様ではない。宗子のことがないので上に世民がないという説は面白い。この宗子の法で親類が睦まじくなり、本を知るので君子の義も立ち、それで上が丈夫になる。
【語釈】
・世家…中国で、ある特典をもち、代々これを世襲する家柄、すなわち諸侯の類。
・めっほうかい…滅法界。目法界。甚だしいさま。法外。めっぽう。

古者子弟從父兄云々。親父は田舎に居り子弟は都に居て官にをるゆへ、丁と今男女か高給金を取、大な顔をしてをれが両親をばすごして置と云やうな底なり。某底の下女でも親へ小遣でも贈るゆへ、親の方からは最ふ一年奉公してくれろと頼むやふになる。官禄が賣物のやうになりて宋朝の学者が早途の及第にかかる。三代は賢能を撰て賓興之なり。宋朝などはありべかかりのものか文藝で出るゆへ国家の用には立ずに、さて又父兄へは子弟の勢がつよいなればろくなと云もの。且如漢高祖欲下沛時只是以帛書與沛父老。三代の時は云にや及ぶ。漢の世も何そのときは父老に勢がありた処のことをひいて、帛書を父老に與へて子弟が自由になりた。又如相如使蜀云々。武帝のときなり。相如は高祖より七十年も後の者なり。これも父老をせめたことあり、このやうな風俗も漢は三代を去ること未た遠くないゆへのこと。後世のは若い者が腕でするやうでにが々々しきことなり。
【解説】
「古者、子弟從父兄、今、父兄從子弟、由不知本也。且如漢高祖欲下沛時、只是以帛書與沛父老、其父兄便能率子弟從之。又如相如使蜀、又遺書責父老、然後子弟皆聽其命而從之。只有一箇尊卑上下之分、然後順從而不亂也」の説明。子弟の方が父兄より勢いがあるのは悪い。漢代は三代から遠過ぎてはいなかったので、まだ父老に勢いがあった。
【通釈】
「古者子弟従父兄云々」。これは、親父は田舎にいて、子弟は都で官に就いていて、丁度今男女が高給金を取り大きな顔をして、俺が両親を養っていると言う様なことである。私などの下女でも親へ小遣いも贈るので、親の方からはもう一年奉公してくれと頼む様になる。官禄が売物の様になり、宋朝の学者はその早道である及第に取り掛かる。三代は賢能を撰んで「賓興之」だった。宋朝などは大したことのない者が文芸で出るので国家の用には立たず、また、父兄に対して子弟の勢いが強いので碌なものではなかった。「且如漢高祖欲下沛時只是以帛書与沛父老」。三代の時は言うには及ばない。漢の世もいざという時は父老に勢いがあったことを引いた。帛書を父老に与えたので子弟を自由に扱うことができた。「又如相如使蜀云々」。これは武帝の時のこと。相如は高祖より七十年も後の者である。この人も父老の責任を求めたことがあり、この様な風俗も漢は三代から未だ遠くなっていないからである。後世は若い者が腕に任せてするので苦々しい。
【語釈】
・賓興之…治体2に、「州賓興於太學、太學聚而敎之、歳論其賢者能者於朝」とある。
・相如…司馬相如。前漢の文人。字は長卿。四川成都の人。前179~前117

若無法以聯属之安可。宗領家よりしめるゆへ法が聯属する。さて聯属が大切のことにて、今世の中のわるい風俗と云はば悪所とのけることゆへ吉原と堺町なり。然れども、あれらが聯属して一つになりて居るゆへあまり上の御世話もない。あれらに礼義も義理もない身分なれとも、相応に立てをるは聯属と云ものぞ。さて又今若いものと云こと市井にも田舎にもあるが、これはないこと。去るによって、趙魏の老の国老のと云。だたいをとなの年寄々々と云、老の字が役妙にもなる。しかれは老の年よりのと云ふこそよい文字なるに、若ものなどと云がはばらしくなる筈はなし。年寄と云字がよい字なり。且立宗子法亦是天理。これが垩人のなされた法で、道体性命のやうに天理とは云そもないものなれとも、天理と云わけの垩人の組立を云て聞せやうとて自然の證拠あるものなり。譬如木必有從根直上一幹亦必有旁枝云々。あの梅などでもみよ。直榦斗でなく枝葉がある。水も戸田川からつづいた淺艸川なり。それにも又分派がある。木や水の榦と源に旁枝や分派のあるが本家と末家のやうなものにて自然のなりなり。
【解説】
「若無法以聯屬之、安可。且立宗子法、亦是天理。譬如木。必有從根直上一幹、亦必有旁枝。又如水。雖遠必有正源、亦必有分派處、自然之勢也」の説明。若者には聯属がない。老や年寄がよい文字である。また、宗子の法を立てることは天理自然なことであり、それは木に幹と枝があり、水に源と分派があるのと同じである。
【通釈】
「若無法以聯属之安可」。宗領家から締めるので法が聯属する。さて聯属が大切のことで、今世の中の悪い風俗と言えば、それは悪所だと言って除けるものだから吉原と堺町である。しかしならがら、あれ等が聯属して一つになっているのであまり上の御世話もない。あれ等は礼義も義理もない身分だが、相応に立っているのは聯属しているからである。さてまた今若い者ということは市井にも田舎にもあるが、この聯属がない。そこで、趙魏の老は勤まるが国老は勤まらないと言う。そもそも大人を年寄と言い、この老の字が役名にもなる。そこで、老や年寄こそがよい文字であって、若者などが幅を利かすことはない筈。年寄という字がよい字である。「且立宗子法亦是天理」。これが聖人のなされた法で、道体性命のことの様に天理とは言いそうもないところだが、天理と言った聖人の組み立てのわけを言って聞かせようとして、それには自然な証拠があると言った。「譬如木必有従根直上一幹亦必有旁枝云々」。あの梅などでも見てみなさい。直幹ばかりでなくて枝葉がある。水も戸田川から続いた浅草川である。それにもまた分派がある。木や水の幹と源に旁枝や分派があるのが本家と末家の様なもので、それが自然の姿である。
【語釈】
・聯属…連結すること。
・趙魏の老の国老の…論語憲問12。「子曰、孟公綽爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫」。

然而又旁枝達而爲榦となる者故曰古天子建国諸侯奪宗云。直榦正源計りてなく旁枝から出るもあり。ここは譬で云ことで、自然でなく、垩賢の組立たことなり。親類の中から枝と榦になることがある。天子建国、周礼左傳一つにしたことなり。諸矦奪宗、白虎通。以上二句がつついた本語なし。ここの解、葉解も二句はきとなし。天子建国のこと、諸侯奪宗、見たなり。某が説はたたい榦は宗領家、旁枝葉は末家を云は本よりのこと、旁枝達而為榦と云ことが人間の方にもあるともふけて云なり。天子立国は二男以下を云、宗領は天下を継ゆへ論はない。二男からは三人子あれはそれを諸矦に封ずるに天子を本家に立そうなものを、其三人の内で一人本家が立つなり。旁枝達而為榦は其三人の内で本家を立ると云ことなり。諸侯奪宗は、世子が家督をつくは因りのこと、時に世子の外大名の子が三人あれば皆太夫にする。貴戚の郷と云も公族太夫と云もそのことなり。二男以下太夫にすること。これも君を本家に立そふなものなれども、家来の身で君を本家にならぬゆへ、其太夫の内で宗が立つ。魯の国も左様で、伯禽からの國か春秋は隠公より始りた三家は桓公の時太夫になりたゆへ、それで三桓とも云。此も桓公を宗子に立てずに孟孫が三家の宗になる。これ、宗を奪たなり。これが天地にないことのやうなれとも、旁枝が榦となり、江河分れて其分れから又源になるもある。葉解の註が一理あれとも筋が立ず。偖、經傳通解に宗族の立ちやうがありて此のことはないが、あれによりて云。杜撰ではない。
【解説】
「然又有旁枝達而爲幹者。故曰、古者天子建國、諸侯奪宗云」の説明。「天子建国」は、天子が二男以下を諸侯に封じる際に、その内の一人を本家として立てることで、「諸侯奪宗」は、諸侯が二男以下を大夫にする際に、その内の一人を本家として立てることである。
【通釈】
「然而又有旁枝達而爲幹者故曰古天子建国諸侯奪宗云」。直幹正源だけではなく、旁枝から出ることもある。ここはたとえで言ったことで自然でなく、聖賢が組み立てたこと。親類の中から枝だけでなく、幹になることがある。「天子建国」。周礼と左伝を一つにしたこと。「諸侯奪宗」、白虎通。以上の二句が続く語は本来ない。葉解もはっきりとこの二句の解釈をしていない。天子建国のことを諸侯奪宗だと見た。私の説は、そもそも幹は宗領家、旁枝葉は末家を指すのは固よりのことで、「旁枝達而為幹」ということが人間の方にもあると設けて言ったこと。天子建国は二男以下を言うのであって、宗領は天下を継ぐのでここは論外である。二男以下の子が三人いれば、それを諸侯に封じる際に天子を本家に立てそうなものを、その三人の内で一人を本家として立てる。旁枝達而為幹はその三人の内で本家を立てるということ。諸侯奪宗は、世子が家督を継ぐのは固よりのことで、時に世子の外に大名の子が三人あれば皆大夫にする。貴戚の郷と言うのも公族大夫と言うのもそのことで、二男以下を大夫にする。これも君を本家に立てそうなものなのだが、家来の身では君を本家にすることができないので、大夫の内で宗が立つ。魯の国も同様で、伯禽からの国が春秋では隠公より始まった三家が桓公の時に大夫になったので、それで三桓とも言う。これも桓公を宗子に立てずに孟孫氏が三家の宗になっている。これが宗を奪うということ。これは天地にないことの様だが、旁枝が幹となり、江河分かれてその分かれからまた源になるものもある。葉解の註には一理あるが筋が立たない。さて、経伝通解に宗族の成り立ちがあり、これがそれに載っているのではないが、あれに従って言った。根拠がなく言ったわけではない。
【語釈】
・伯禽…初代魯公。周公旦の子。
・三桓…魯の政治を取り仕切った三つの家。仲孫(孟孫)・叔孫・季孫の三家で、魯の桓公から分かれたので三桓と言う。

講後敬吾云、天子建国は有功の臣を諸侯に封じ、其方を受たものは二男でも宗子になりて祭主になる。又諸侯は功臣を太夫にする。それか二男ても本家にかまはず宗子になりて祭主となるゆへ宗を奪ふと云。文云、敬吾が言は葉采が意なり。両説合せてとくべし。葉解は上下の二句をわかぬせつに見ゆ。
【解説】
葉采の意を敬吾が言い、文二が両説を合わせて解く様にと言った。葉采の説は、有功の臣を諸侯に封じる際は、それが次男以下でも宗子となり、諸侯が功臣を大夫にする際も同様であるというものである。
【通釈】
講後に敬吾が言った。天子建国は有功の臣を諸侯に封じ、それを受けたものは二男でも宗子になって祭主となる。また諸侯は功臣を大夫にする。それが二男でも本家に構わず宗子になって祭主となるので宗を奪うと言う。文二が言った。敬吾の言は葉采の意である。両説を合わせて解きなさい。葉解は上下の二句を分けない説と思われる。
【語釈】
・敬吾…片峯敬吾。唐津藩士。
・文…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817