第十九 邢和叔叙明道先生事云条  二月二十九日  惟秀録
【語釈】
・二月二十九日…寛政3年辛亥(1791年)2月29日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

邢和叔敍明道先生事云、堯舜三代帝王之治、所以博大悠遠、上下與天地同流者、先生固已默而識之。至於興造禮樂制度文爲、下至行師用兵戰陣之法、無所不講、皆造其極。外之、夷狄情状、山川道路之險易、邊鄙防戍、城寨・斥候・控帶之要、靡不究知。其吏事操決、文法簿書、又皆精密詳練。若先生、可謂通儒全才矣。
【読み】
邢和叔、明道先生の事を敍べて云う、堯舜三代帝王の治、博大悠遠にして、上下は天地と流れを同じくする所以の者、先生固より已に默して之を識る。禮樂制度の文爲を興造するに至り、下は師を行[や]り兵を用うる戰陣の法に至るまで、講所ぜざる所無くして、皆其の極に造[いた]る。之を外にしては、夷狄の情状、山川道路の險易、邊鄙の防戍、城寨・斥候・控帶の要、究知せざること靡[な]し。其の吏事の操決、文法の簿書は、又皆精密詳練なり。先生の若きは、通儒全才と謂う可し、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書の附録にある。

堯舜三代の治を博大悠遠と云は細工のない処から云こと。兎角天下の治めとなれば細工が出したくなるもの。其細工の元祖は五覇なり。博大は天地のはばで云。悠遠は其はばの一はいに届てかぎりもはてもないこと。上下與天地同流。此本語が孟子なり。孟子が覇者へあてて云たこと。上下與天地同流、これが明道の經済へかけるはばなり。俗儒は經済と云と手先ですることと心得る。明道の經済は博大悠遠上下與天地同流。天地と割符を合せた。默而識之。博大悠遠と天地同流が胷へへったりと来ること。天地の仕事は造化四時流行、天子は天の子ゆへ天地の仕事の形りをしてあらるる。博大悠遠天地同流を根にして政をする。斯ふない政は細工なり。さてこれが治の体になって法へ出たときに礼樂制度文為なり。博大悠遠云々の根からこれをそれ々々に切て出す。至行師用兵戦陳之法。凡人のやふに一つづつ習てゆくことではあるまい。博大悠遠天地同流、ここからわざの上へ出て来る。孔子の祖述堯舜憲章文武、孔子の身のふるまいか天地の形りに似せたこと。根からなると中庸或問に云てある。無所未講。押付ておいたことはない。吟味を皆至善につめたこと。
【解説】
「邢和叔敍明道先生事云、堯舜三代帝王之治、所以博大悠遠、上下與天地同流者、先生固已默而識之。至於興造禮樂制度文爲、下至行師用兵戰陣之法、無所不講、皆造其極」の説明。明道の経済は「上下与天地同流」を根にしたもので、手先でしたことではない。それは至善に窮まったものなのである。
【通釈】
堯舜三代の治を博大悠遠と言うのは細工のない処から言ったこと。とかく天下を治めることになれば細工を出したくなるもの。その細工の元祖は五覇である。博大は天地の幅で言う。悠遠はその幅が一杯に届いて限りも果てもないこと。「上下与天地同流」。ここの本の語は孟子で、孟子が覇者へ当てて言ったこと。上下与天地同流が明道の経済へ掛ける幅である。俗儒は経済と言えば手先ですることと心得るが、明道の経済は博大悠遠上下与天地同流で、天地と割符を合わせたもの。「黙而識之」。これは博大悠遠と天地同流が胸へべったりと来ること。天地の仕事は造化四時流行であり、天子は天の子なので天地の仕事の通りをなされる。博大悠遠天地同流を根にして政をする。これでない政は細工である。さてこれが治の体になって法へ出た時に「礼楽制度文為」である。博大悠遠云々の根からこれをそれぞれに切って出す。「至行師用兵戦陳之法」。凡人の様に一つずつ習って行くのではないだろう。博大悠遠天地同流という、ここから業の上へ出て来る。孔子は「祖述堯舜憲章文武」で、孔子の身の振る舞いは天地の姿に似せたこと。根から成ると中庸或問で言う。「無所未講」。無理に言ったのではなく、吟味を皆至善に詰めてのことである。
【語釈】
・上下與天地同流…孟子尽心章句上13。「夫君子所過者化、所存者神、上下與天地同流、豈曰小補之哉」。
・默而識之…論語述而2。「子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉」。
・祖述堯舜憲章文武…中庸章句30。「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。
・邢和叔…河澗の邢恕。

外之。この外夷狄の情状と云ことまでも合点せ子ばならぬ。經済はどこから来るも知れぬ。夷狄の心はへは知らぬと云てはすまぬ。先きの心ばへを知らぬと喜びそふなことをしてうれしからぬ。思の外なことに腹を立るることもある。猿に鯛のあたま、犬に粟柿を投け與ては情状を知らぬ。喜ばぬ。然れは夷狄の心はへを知らずに相手になると云はあぶないことぞ。迂斎曰、夷狄は遠いこと。日本でも上方ものと閞東ものとは情状がちごふ。武士と馬追舩頭とは心はへがちごふから好悪もちごふ。出家には出家の情状があり、坐頭には坐頭の情状がある。明道などは皆それへ達してござる。山川險易。駿河は平地が多い。それから木曽へかかりては天へ上る様に高ひ処ある。さうかと思へば又地に入る様な処もある。邊鄙防守。夷狄堺の防なり。夷狄は西にも南にもある。これも上の情状とあてて見ること。手あてを知らずに防ではゆかぬ。東風と北風とは舩頭も手あてがちごう。城寨。板点は一つにしたが葉解わけてある。わけるもよい。城はしろどり縄ばりのるい。別に一つ稽古せ子ばならぬ。百城をとると云こと軍者が云ふ。寨は上の城の字にこもることではあるが、そこへのぞんたとき陳屋の取り様なり。斤候はもの見。山鹿流の軍法などに細かな説がある。もの見は番頭もゆく、使番なぞもゆくことなり。大斤候中斤候小斤候と云ことがありて大事なことなり。歒の様子を見切てかかることゆへ至て功者の入ること。歒の虚実道路の險易見てとら子ばならぬことなり。控帯。邊鄙防守云々から此控帯迠は上の戦陳の法をこまかに云たこと。控帶も山﨑先生は一つにしたが、葉解は二つなり。控はふせくこと、帯はとりまくこと。歒をかこむときのことなり。靡不究知。明道の時は軍はないから軍を任したこともないが、是迠も吟味した。今の儒者が輕んじらるる筈なり。只、から理屈のみぞ。
【解説】
「外之、夷狄情状、山川道路之險易、邊鄙防戍、城寨・斥候・控帶之要、靡不究知」の説明。経済では、相手の情状を知ることに達していなければならない。「城寨」と「控帯」を山崎先生は一つにして言ったが、葉解は二つに分けている。
【通釈】
「外之」。この外に夷狄の情状ということまでも合点しなければならない。経済は何処から来るとも知れない。夷狄の心栄えを知らないと言っては済まない。相手の心栄えを知らないと、喜びそうなことをしても嬉しがられず、思いの外のことに腹を立てられることもある。猿に鯛の頭、犬に栗柿を投げ与えては情状を知らないというもの。それでは喜ばない。そこで、夷狄の心栄えを知らずに相手をするというのは危ないこと。迂斎が、夷狄は遠いことだと言った。日本でも上方者と関東者とは情状が違う。武士と馬追船頭とは心栄えが違うから好悪も違う。出家には出家の情状があり、座頭には座頭の情状がある。明道などは皆それへ達しておられる。「山川険易」。駿河は平地が多い。それから木曾へかかっては天へ上る様に高い処がある。そうかと思えばまた地に入る様な処もある。「辺鄙防守」。これは夷狄境の防のこと。夷狄は西にも南にもいる。これも上の情状と当てて見なさい。手当てを知らずに防いでもうまく行かない。東風と北風とは船頭も手当てが違う。「城寨」。板点は一つにしたが、葉解はこれを分けている。分けるのもよい。城は城取、縄張りの類で、別に一つ考えなければならない。百城を取ると軍者が言う。寨は上の城の字に篭もることだが、そこへ臨んだ時の陣屋の取り方である。斥候は物見のこと。山鹿流の軍法などに細かな説がある。物見は番頭も行き、使番なども行く。大斥候中斥候小斥候というのがあって大事なこと。敵の様子を見切て掛かることなので、至って功者でなければならい。敵の虚実、道路の険易を見てとらなければならないのである。「控帯」。「辺鄙防戍」云々からこの控帯までは上の戦陣の法を細かに言ったこと。控帯も山崎先生は一つにしたが葉解は二つに分けた。控は防ぐことで、帯は取り巻くこと。敵を囲む時のことである。「靡不究知」。明道の時は軍がないから軍を任じたこともないが、これまでをも明道は吟味した。今の儒者が軽んじられる筈である。それはただ空理屈だけだからである。
【語釈】
・番頭…江戸時代、大番衆・小姓組番衆・書院番衆などの長。
・使番…江戸幕府の職名。若年寄に属し、戦陣では主命を伝え、平時には遠国役人の監察使・国目付・巡見使などを勤める。

吏事。明道の若いときは鄠縣主簿をつとめ、夫から晋城令に成た。吏事はじかづけ勤められた。操决。こふ云ことを斯ふさばいたと云こと。断案と云字もある。さばき書のことなり。文法簿書。文法は御作法のこと。當時で云はば武家諸法度の、御定書の、服忌令のと云が文法なり。それが時々でもやうのちごふことある。御用番に伺ふたれば、今度のことは斯ふと云こともある。そこて今度ヶ様々々仰付られたと云ことを書て出す。それが明道のは簿書の帳面にあるからきっときまりたことなり。通儒全才。明道を只誠だの仁者じゃのと云てはつれはないことだが、さう計り云ては間に合ぬ。あの人は何でも知らぬことはない、いやはやあの男には手はつけられぬと、馴れた役人も手をつくこと。さうでなければならぬ。淵源録に朝廷伯淳を忌み悪むと云ことある。伊川の、をらが兄をばどうかして役人共が悪むと云た。あれを誰も中をあけて見るものがない。春風の中に坐するが如しと云はるる明道を悪みそふもないものじゃに、通儒全才だからにくまるる。何にかけても皆あたまが上らぬからのこと。役を勤る俗人が政事の才力はこちにある、あの人などには徳が及ぬ。才力はこちにあるにしておるもの。それが明道は何もかもしてとる。そこで同役も上役もあたまの上る瀬はない。そこでにくむなり。だたい儒者の可愛がらるると云は役に立ず儒者なり。立派に役に立ものはにくまるる。孔子も桓魋が殺そうとした。役に立ずなれば殺そうとはせぬ。才力あるものがめったにやわらをすると云ことはない。三月魯国大治。柔で計はゆかぬ。
【解説】
「其吏事操決、文法簿書、又皆精密詳練。若先生、可謂通儒全才矣」の説明。明道は同役や上役から憎まれたが、それは「通儒全才」だからである。有能な儒者は人から憎まれるものであって、柔なだけでは役立たずで悪い。
【通釈】
「吏事」。明道は若い時に鄠縣主簿を勤め、それから晋城令に成った。吏事は自らが勤められた。「操決」。こういうことをこう裁いたということ。断案という字もあり、裁き書のこと。「文法簿書」。文法は御作法のこと。今で言えば武家諸法度や御定書、服忌令というのが文法である。それがその時々で模様の違うことがある。御用番に伺うと、今度のことはこうと言うこともある。そこで今度はこの様に仰せ付けられたと書いて出す。それが明道のは簿書の帳面にあって、はっきりと決まっていた。「通儒全才」。明道をただ誠だとか仁者だと言うのはつれないことで、そうとばかり言うのでは間に合わない。あの人は何でも知らないことはない、いやはやあの男には手を付けられないと、熟れた役人も頭を下げる。そうでなければならない。淵源録に朝廷が伯淳を忌み憎むとある。伊川が、俺の兄をどうして役人共が憎むのかと言った。誰もその中を開けて見るものがない。春風の中に座するが如しと言われる明道を憎みそうもないものだが、通儒全才だから憎まれる。それは、何についても皆頭が上がらないからのこと。役を勤める俗人は、政事の才力は自分にあるが、あの人などには徳が及ばないと、才力は自分にあると思っているが、明道は何もかもしてとる。そこで同役も上役も頭の上がる瀬はない。そこで憎むのである。そもそも儒者が可愛いがられるというのは、役立ずの儒者である。立派に役立つ者は憎まれる。孔子も桓魋が殺そうとした。役立たずであれば殺そうとはしない。才力のある者は滅多矢鱈に柔らをすることはない。「三月魯国大治」。柔ばかりではうまく行かないもの。
【語釈】
・桓魋…論語序説。「去適宋、司馬桓魋欲殺之」。
・三月魯国大治…論語序説。「十四年乙巳、孔子年五十六、攝行相事、誅少正卯、與聞國政。三月、魯國大治」。


第二十 介甫言律是八分書の条

介甫言、律是八分書。是他見得。
【読み】
介甫言う、律は是れ八分の書なり、と。是れ他[かれ]見得たるなり。
【補足】
・この章は、程氏外書十にある伊川の語。

律は春秋の末魏文公から始て出来たが、代々で手が入る。秦ては李斯がつくりた。漢では蕭何が手を入れた。その中にも人の知たが明律なり。これがよいそ。律は代々それ々々ある。律は楯に取てよいもの。無学が役人なぞが上もないものと思ふ。丁度文盲な山家の醫者が衆方規矩一冊を天地にもないものの様にして隠して置て、人にも見せぬほどにするいきなもの。それを王荊公が、評判によいものではあるが八分なもの、あれでは足らぬと云た。器量ものぞ。それを程子が他見得。よふみて取たと云た。律八分の書の説は文集五十八、朱子答鄧衛老書にあり、語類にも教のことがないからと云へり。あそこで八分の書の説はすみたこと。某など今ここを論して云はは、王荊公の氣象で云ははさうでないと思ふことなり。介甫の意は、律はすへものにしては役には立ぬ。堯舜の政も壁に書付てをいては役に立ぬと云たことであろふ。法計で教がないからと云様な男でない。荊公は事者で才力のある人ゆへ、律は八分と云たはあとの二分は才力ですると云ことなり。律がよくてもやくにたたぬものには何にもならぬ。器量でなくてはならぬ。王荊公も跡は器量てすると云たこと。上手な医者が、同じ不換金てもをれでなくてはきかぬと云様なもの。方は古人の法でも匕がきか子ばゆかぬと云こと。堯典舜典はってをいてはすまぬ。すれば律は八分の書じゃと、新法を出す器量の人で云こと。法は人にあると、一つ法をいかして見ることぞ。
【解説】
法律は明のものがよい。王荊公が律は八分だと言ったのは、残りの二分は人の才力によるということであり、二分が教えのことだと思って言ったのではない。法は人が活かさなければ役に立たない。
【通釈】
律は春秋の末の魏文公から始まったが、代々手が入った。秦では李斯が作り、漢では蕭何が手を入れた。その中でも人のよく知っているのが明の律である。これがよい。律は代々それぞれにある。律は楯に取ってよいもの。無学な者が役人などをこの上もないものと思う。丁度文盲な山家の医者が衆方規矩一冊を天地にもないものの様にして隠して置いて、人にも見せないほどにする様な気味なもの。それを王荊公が、評判のよいものではあるが八分なもの、あれでは足りないと言った。彼は器量者である。それを程子が「他見得」と、よく見て取ったと言った。律八分の書の説は文集五十八の朱子答鄧衛老書にあり、語類にも残りの二分は教えがないことだとある。それで八分の書の説は済むこと。私などが今ここを論じて言えば、王荊公の気象から言えばそうではないと思う。介甫の意は、律は据え物にしていては役に立たない、堯舜の政も壁に書き付けて置いては役に立たないと言ったのだろう。法ばかりで教えがないからと言う様な男ではない。荊公は事をする者で才力がある人なので、律は八分と言ったのは、後の二分は才力でするということなのである。律がよくても役に立たなければ何にもならない。器量がなくてはならない。王荊公はその残りは器量てすると言ったのである。上手な医者が、同じ不換金でも俺でなくては効かないと言う様なもの。処方は古人の法でも匙が効かなければいけないということ。堯典や舜典を貼って置いては済まない。そこで、律は八分の書だと言ったのは新法を出す器量の人として言ったこと。ここは、法は人にあると、一つ法を活かして見るのである。
【語釈】
・衆方規矩…医書。漢方医曲直瀬道三の著作とされる。
・王荊公…王安石。北宋の政治家。字は介甫、号は半山。江西臨川の人。1021~1086


第二十一 横渠先生曰兵謀師律の条

横渠先生曰、兵謀師律、聖人不得已而用之。其術見三王方策・歴代簡書。惟志士・仁人、爲能識其遠者大者、素求預備、而不敢忽忘。
【読み】
横渠先生曰く、兵謀師律は、聖人已むを得ずして之を用う。其の術は三王の方策・歴代の簡書に見ゆ。惟志士・仁人は、能く其の遠き者大いなる者を識り、素より求め預め備えて、敢て忽忘せざるを爲す、と。

軍のあるは散々なことなれとも、ひょっと有たときに手あてがなくてはならぬ。旅をするものが延齢丹や無名異を懷中する様なもの。折角持参したから落馬して打身の藥を呑ふの、目をまわして氣付を呑で見様と云ことはないこと。藥はやむことを得ぬ時の用心。軍もそれなり。後世はすはと云と孫子呉子と云たがる。夏啇周三代の方策、あれを本にすること。別に軍法と云てさはぐことはないと爰へ孫呉を出さぬが面白ひ。日本では、切取強盗は武士の習と云。わるい合点なり。小尼小奴が多葉粉入れ一つ取ても暇をやら子ばならぬに、城を取り国をとるは大事もないことに思ふ。それは軍を已むことを得ぬことに思ぬからなり。戦国の人は残忍に馴て人の首をきることを蕪を切るやうに思ふ。それが氣習なり。子ぶとの膿ををすさへ、これでは痛はしませぬか々々々々々々々と云が人の心だに、あまり武ばる。氣習からは治世に生れて残念なと乱を戀しがる様なことはないはづ。いかにしてもむごい心じゃ。日本でも御治世以後間のない時には、疂の上に死ぬぞ悔しきと云歌をよんた人もありたげな。その心がこふずると事あれ々々々と待つ。目出度ない了簡ぞ。軍はよくないことと知たればこそ、兵書にも兵は凶器ともある。老子も善兵者不祥の器ともあり。惟志士仁人云々。そんならすててをくかとをもへば、素求預備。これが治に乱を忘れずなり。かやうな目出度時節には申すも不調法なと云ていて用意はする。急に雨のふることもあるとて合羽箱持てゆく。雨はづぶぬれでも高の知れたこと。それさへじゃに乱と云は國家の傾敗生命にかかること。用心なくてはならぬこと。其用心が能識遠者大者からなり。
【解説】
戦があるのは悪く、兵は不祥なものだが、この手当てをして置かなければならない。それには夏商周の三代の方策を本にする。戦を恋しがるのは気習からであり、使用人が煙草入れ一つを盗んでも解雇するのに、城や国を取るのは何とも思わない。
【通釈】
戦があるのは散々なことだが、ひょっとそれがあった時に手当てがなくてはならない。それは旅をする者が延齢丹や無名異を懐中する様なもの。折角持参したから落馬して打身の薬を飲もうとか、目を回して気付を飲んでみようと言うことはない。薬は已むを得ない時の用心であって、軍もそれである。後世はすわと言うと孫子や呉子を言いたがるが、夏商周の三代の方策を本にする。別に軍法と言って騒ぐことはないと、ここへ孫呉を出さないのが面白い。日本では、切取強盗は武士の習と言うが、それは悪い合点である。小尼や小奴が煙草入れ一つを取っても暇を遣らなければならないのに、城を取り国を取るのは大事でないと思う。それは軍を已むを得ないことだと思わないからである。戦国の人は残忍に馴れて人の首を斬ることを蕪を切る様に思う。それが気習である。根太の膿を押すのでさえ、これでは痛みませんかと言うのが人の心なのに、あまりに武張る。気習から、治世に生まれて残念なことだと乱を恋しがるが、その様なことはない筈。それはどの様に考えても酷い心である。日本でも御治世以後間のない時には、畳の上に死ぬぞ悔しきという歌を詠んだ人もいた様だ。その心が高じると事が起これと待つ様になる。それは目出度くない了簡である。軍はよくないことと知っていればこそ、兵書にも「兵者凶器」とあり、老子にも「佳兵者不祥之器」とある。「惟志士仁人云々」。それなら放って置くかと思えば、「素求預備」。これが治に乱を忘れずである。この様な目出度い時節には申すのも不調法だと言いながら用意はする。急に雨が降ることもあるからと合羽箱を持って行く。雨でずぶ濡れになっても高の知れたこと。それでさえ用意をするのに、乱といえば国家の傾敗生命に掛かることなのだから、用心がなくてはならない。その用心が「能識遠者大者」からである。
【語釈】
・方策…方は木の板、策は竹簡。文書。記録。
・子ぶと…根太。癰の一種。
・兵は凶器…尉繚子。「兵者凶器。爭者逆德也」。
・善兵者不祥の器…老子偃武。「夫佳兵者不祥之器」。


第二十二 肉辟於今世死刑中の条

肉辟、於今世死刑中取之、亦足寛民之死。過此當念其散之之久。
【読み】
肉辟は、今の世の死刑の中に於て之を取らば、亦民の死を寛[ゆる]くするに足る。此を過ぎては當に其の之を散らすことの久しきを念[おも]うべし。

あの方に五刑と云て、黥劓刖刵宮刑。西の銘を心にする垩賢何程いやに思ふこと。それでなぜこれをするなれば、命をとると云が大切なことゆへ、どうぞ命をとることをゆるめやりたいで肉辟は出来た。横渠の今世の刑がわるいと云ことではないが、なるほどわけの立った死刑だが、その内からもふ一つ吟味してゆるべて鼻きり耳きりですましたら死刑の數が滅ろふとなり。過此當念其散之久。これが當時へあてたこと。君長たるものなどがこれをきいたら胸をひやすことぞ。漢の武帝さへ幾致刑措と云てある。此時が宋は仁宗なり。仁と謚するほどの人じゃ、刑ないほどにしまいにはなりそうなものと云こと。これが横渠の治法なり。孟氏使陽膚為士師問於曽子。曽子曰上失其道民散久矣。如得其情則哀矜而勿喜とある。上たるもののなされ方がわるいから刑人が出きる。それをよいことにして刑罸しては民心は離るる。身帯のよいものとても心根のよい人と云でもないが、喰ふことにをわれぬから盗はせぬ。有恒産則有恒心なり。飢饉の時盗人のありたで見よ。喰ふことにこまると盗む。すれば盗人はそこらあたりにある。上の仕向で盗人はなくなる。すれば刑も自らすくない。横渠は本からよくして刑をなくする工靣なり。呂刑に俾吾一日。刑罰は今日ぎりじゃと云。跡ではせぬと云ことがよい。又も々々と云て寒土用に灸をすへる様に刑をすることでない。今刑罸ををどしのやうに心得て、うしろの方にをいて又出してつかいたがる。こふ云ことをすればこう云刑に合はせると云。垩賢のはさうした心いきではない。
【解説】
死刑は大変なことなので肉辟がある。肉辟をすることで死刑の数が減る。刑罰があるのは上の者の仕方が悪いからであり、人は「有恒産有恒心」である。今は刑罰を脅しの道具として扱い、それを使いたがる。
【通釈】
中国に五刑というものがあり、それは黥劓刖刵宮刑のことで、西銘を心にする聖賢が大層嫌に思うこと。何故これをするのかと言えば、命を取るということは大きなことなので、どうか命を取ることを緩めてやりたいとして肉辟ができたのである。横渠が、今の世の刑が悪いというのではないが、なるほどわけがあっての死刑だが、その内からもう一つ吟味して、緩めて鼻切りや耳切りで済ましたら死刑の数が減るだろうと言った。「過此当念其散之久」。これは当時に当てたこと。君長たる者などがこれを聞いたら胸を冷やすこと。漢の武帝でさえ「幾致刑措」と言った。この時は宋にあっては仁宗の時である。仁と謚をするほどの人なので、最後には刑のないほどになりそうなものということ。これが横渠の治法である。「孟氏使陽膚為士師問於曾子曾子曰上失其道民散久矣如得其情則哀矜而勿喜」とある。上たる者のなされ方が悪いから刑人ができる。それをそのままにして刑罰をしては民心が離れる。身帯のよい者も、それが心根のよい人ということでなくても、喰うことに追われないから盗みをしない。「有恒産則有恒心」である。飢饉の時には盗人がいたことで考えなさい。喰うことに困ると盗む。それなら盗人はそこ等辺りにいる。上の仕向けで盗人はなくなる。それで刑も自ずと少なくなる。横渠のは本からよくして刑をなくす工面である。呂刑に「俾吾一日」とあり、刑罰は今日限りだと言う。後にはしないと言うのがよい。寒土用に毎度灸をすえる様に刑はするものではない。今刑罰を脅しの様に心得て、後ろの方に置いて出して使いたがる。この様なことをすればこういう刑にあわせると言う。聖賢のはそうした心意気ではない。
【語釈】
・五刑…肉辟は黥(入墨)、劓(鼻そぎ)、刖(足の筋を切る)、宮(生殖器を取る)の四つで、これに大辟(死刑)を加えて五辟(五刑)となる。
・幾致刑措…論語子路11集註に、「程子曰、漢自高・惠至于文・景、黎民醇厚、幾致刑措、庶乎其近之矣」とある。
・孟氏使陽膚為士師問於曽子…論語子張19。「孟氏使陽膚爲士師。問於曾子。曾子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜」。
・有恒産則有恒心…孟子滕文公章句上3。「民之爲道也、有恆産者有恆心。無恆産者無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不爲已」。
・俾吾一日…書経呂刑。「俾我、一日非終惟終」。


第二十三 呂與叔撰横渠先生行状云の条

呂與叔撰横渠先生行状云、先生慨然有意三代之治。論治人先務、未始不以經界爲急。嘗曰、仁政必自經界始。貧富不均、敎養無法、雖欲言治、皆苟而已。世之病難行者、未始不以亟奪富人之田爲辭。然玆法之行、悦之者衆。苟處之有術、期以數年、不刑一人而可復。所病者、特上之人未行耳。乃言曰、縱不能行之天下、猶可驗之一鄕。方與學者議古之法、共買田一方、畫爲數井、上不失公家之賦役、退以其私正經界、分宅里、立斂法、廣儲蓄、興學校、成禮俗、救葘恤患、敦本抑末、足以推先王之遺法、明當今之可行。此皆有志未就。
【読み】
呂與叔、横渠先生行状を撰して云う、先生慨然として三代の治に意有り。人を治むる先務を論ずるに、未だ始めより經界を以て急と爲さずんばあらず。嘗て曰く、仁政は必ず經界より始まる。貧富均しからず、敎養に法無くんば、治を言わんと欲すと雖も、皆苟もするのみ。世の行い難きを病[うれ]うる者は、未だ始より亟[すみ]やかに富人の田を奪うを以て辭と爲さずんばあらず。然れども玆の法の行わるる、之を悦ぶ者衆し。苟も之に處するに術有り、期するに數年を以てせば、一人も刑せずして復す可し。病うる所の者は、特[ただ]上の人の未だ行わざるのみ、と。乃ち言いて曰く、縱[たと]い之を天下に行うこと能わざるも、猶之を一鄕に驗す可し。方に學者と古の法を議し、共に田一方を買い、畫して數井と爲し、上は公家の賦役を失わず、退きては其の私を以て經界を正し、宅里を分かち、斂法を立て、儲蓄[ちょちく]を廣め、學校を興し、禮俗を成し、葘[わざわい]を救い患えを恤[あわれ]み、本を敦くし末を抑えば、以て先王の遺法を推し、當今の行う可きを明らかにするに足る。此れ皆志有れども未だ就[な]らず、と。
【補足】
・この条は、張子行状にある。

先生慨然が經済者にないことと合点せふこと。經済者は事あれ出世の木口と思ふ。慨然はなげくこと。親切から出るもの。親が子を云に、やれ々々吾はそれではすむまいと慨然の語が出るもの。有意三代之治。經済者のはこそくり普請なり。道統の人はそんなことはきらいなり。以經界為急。これが根を知たこと。横渠が三代の治に有意の先生なり。今の学者に家中の若者をよくしたい、村のもの共をよくしてもらいたいと家老や村役人が云と、つれてこい、論語をよまふと云て經界なぞとは夢にも氣は付ぬ。郡奉行のすることと思ふ。横渠は根を知たから經界が治人の先務と云た。仁政必自經界始。孟子の云たこと。いつでも本のことは斯ふなり。政は皆凡夫をあいてにする。そこで經界を正して貧富を均くすると云、あたまから始ることぞ。
【解説】
「呂與叔撰横渠先生行状云、先生慨然有意三代之治。論治人先務、未始不以經界爲急。嘗曰、仁政必自經界始。貧富不均」の説明。横渠は三代の治に意があるので、政の最初は経界だと言う。経界を正して貧富を均しくするのである。
【通釈】
「先生慨然」が経済者にはないことだと合点しなさい。経済者は事があると出世の糸口と思う。慨然は歎くことで、親切から出るもの。親が子のことについて、やれやれお前はそれでは済まないだろうと慨然の語が出るもの。「有意三代之治」。経済者のはこそくり普請である。道統の人はその様なことは嫌いである。「以経界為急」。これが根を知ったこと。横渠は三代の治に意ある先生である。今の学者に家中の若者をよくしたい、村の者供をよくしてもらいたいと家老や村役人が言うと、連れて来い、論語を読もうと言い、経界のことなどは夢にも気が付かない。それは郡奉行のすることだと思う。横渠は根を知っているから経界が人を治める先務だと言った。「仁政必自経界始」。これは孟子の言ったこと。いつでも本はこうである。政は皆凡夫を相手にする。そこで経界を正して貧富を均しくすると言い、頭から始めるのである。
【語釈】
・こそくり…小さな修繕。
・仁政必自經界始…孟子滕文公章句上3。「夫仁政、必自經界始。經界不正、井地不鈞、穀祿不平。是故暴君汙吏必慢其經界。經界既正、分田制祿可坐而定也」。

教羪無法。国家の治は教が入る。大学の序に治而教之とある。教ると云には法がある。百姓の農業は勤惰はあろふとも、種はいつ蒔く、稲はいつうへると云法に間違はない。教養には法なくてはならぬ。法の立つには經界からゆく。經界が立てば貧冨が均しい。貧冨が均しければうしろから追るる様なことはない。垩人の政に衣食住におわるる様なことはない。凶年飢饉に離散する様なことはない。とっくと落付。そこて教羪法も立てられたもの。八歳小学十五大学に入る。凡民の俊秀はそれから宰相にもなる。又役に立ぬは農圃にかへすと云。農圃に皈されたものは学問はやめたと云ことでない。三十而有室始理男事。男一疋になること。小学挍は下にをるものの為めぞ。十月に塲をはろふとて、稲も刈取り農事は暇になりて、それからは孫をもった男も子共も打まぜに小学挍で学問する。冬至から四十五日立てば立春なり。それ迠は皆学問なり。立春からは俶載南畝と云て農事にかかる。其前は皆学問なり。それゆへ春秋教以礼樂冬夏教以詩書と云こともある。学問は一生する。それで教羪法なくてはならぬ。それも貧冨均からゆくことぞ。
【解説】
「敎養無法」の説明。教養には法がなくてはならず、法を立てるのは経界から始める。役に立たない者は農圃に帰すと言うが、それは学問をしないということではない。学問は一生のことであり、農事の他は学問をするのである。
【通釈】
「教養無法」。国家の治には教えが要る。大学の序に「治而教之」とある。教えるのには法がある。百姓の農業に勤惰はあっても、種はいつ蒔く、稲はいつ植えるという法に間違いはない。教養には法がなくてはならない。法が立つには経界から始める。経界が立てば貧富が均しい。貧富が均しければ後ろから追われる様なことはない。聖人の政が衣食住に追われる様なことはない。凶年飢饉に離散する様なことはない。とっくりと落ち着く。そこで教養法も立てられたのである。八歳で小学、十五で大学に入る。凡民の俊秀はそれから宰相にもなる。また、役に立たない者は農圃に帰すと言う。農圃に帰された者は学問を止めるということではない。「三十而有室始理男事」は一人前になること。小学校は下にいる者のためにある。十月に庭を掃い、稲も刈り取り農事は暇になって、それからは孫を持った男も子供も混ぜこぜに小学校で学問をする。冬至から四十五日経てば立春である。それまでは皆が学問をする。立春からは「俶載南畝」と言い、農事に取り掛かる。その前は皆学問である。それで「春秋教以礼楽冬夏教以詩書」ともある。学問は一生する。それで教養法がなくてはならないのである。それも貧富が均しいところからするのである。
【語釈】
・治而教之…大学章句序。「一有聰明睿智能盡其性者出於其閒、則天必命之以爲億兆之君師、使之治而敎之、以復其性」。
・八歳小学十五大学…大学章句序。「人生八歲、則自王公以下、至於庶人之子弟、皆入小學。而敎之以灑掃應對・進退之節、禮樂・射御・書數之文。及其十有五年、則自天子之元子、衆子、以至公・卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學」。
・役に立ぬは農圃にかへす…教学15。「古者八歳入小學、十五入大學。擇其才可敎者聚之、不肖者復之農畝」。
・三十而有室始理男事…礼記内則。「三十而有室。始理男事」。
・俶載南畝…詩経周頌の載芟と良耜にある。
・春秋教以礼樂冬夏教以詩書…礼記王制。「春秋教以禮樂、冬夏教以詩書」。

當時は同じ百姓でも、隣では喜撰の煮花でいるに、こちでは喰ふ物もない。こちらでは太極圖説がすんだと云に、隣では横に車を云。それでは教羪法が立ぬ。苟する而已じゃ。經済者はそっちへちょこ々々々こっちへちょこ々々々なり。答陳同甫書に鐻漏卒補とある。鍋のいかけなり。垩賢は丸で鑄なをす。雨漏りへそっと押付ておくでない。それと云も井田でなくてはならぬが、さてどふもなりにくいことじゃ。富豪な百姓の田地の多いを取り上け子ばならぬが、さすがわるいこともせぬにさうもしにくいことぞ。あれが無体に人の田を取りたでもない。乱世の時、上に法度が及ぬから、あちへやりこちへやりして取たもの。上農夫が金を借して田地を取たもの。それゆへ刑罰せふと云ふこともならぬ。五畝之宅を始めるには取り上け子ばならぬことと云て皆やむなり。然茲法之行云々。今垩人が出てせふとも富人の田地は皆取上けやうとも云まいが、天下のものが井田のよいを知らずにおるからなり。知れば悦ふものが多い。處之有術。咎人一人でかさずになる仕方もあろふが、宋も公儀でする。思召のないにはこまる。横渠の有術と云て仕方を爰へ云はぬからとてから口とみることではない。仕方も有たであろふがめったには云ぬこと。數千百年立たことゆへ急には仕にくいとなり。
【解説】
「雖欲言治、皆苟而已。世之病難行者、未始不以亟奪富人之田爲辭。然玆法之行、悦之者衆。苟處之有術、期以數年、不刑一人而可復。所病者、特上之人未行耳」の説明。民が均しくなければ教養法が立たない。経界は井田制でなければならないが、それには富豪な百姓から田地を取り上げなければならず、また、数千百年経ったことなので急に難しいこと。
【通釈】
今は同じ百姓でも、隣では宇治の出花を飲んでいるのに、こちらでは喰う物もない。こちらでは太極図説が済んだというのに、隣では理不尽なことを言っている。それでは教養法が立たない。それでは「苟而已」である。経済者はそっちへちょこちょここっちへちょこちょこである。答陳同甫書に「鐻漏卒補」とある。経済者は鍋の鋳掛けである。聖賢は丸々鋳直す。雨漏りにそっと押し付けて置くことではない。それと言うのも井田制でなくてはならないが、さてどうもそれはし難いことだ。田地を多く持つ富豪な百姓から取り上げなければならないが、流石に悪いこともしていないのにそれもし難い。彼等は無体に人の田を取ったわけでもない。乱世の時、上に法度が及ばないから、あちらへ遣りこちらへ遣りして取ったのである。上農夫が金を貸して田地を取ったのである。それで刑罰をしようと言うこともできない。五畝之宅を始めるには取り上げなければならないと言うので皆止めるのである。「然茲法之行云々」。今聖人が出てするとしても富人の田地を皆取り上げようとも言わないだろうが、天下の人は井田のよいことを知らずにいる。知れば悦ぶ者が多い。「処之有術」。咎人を一人も出さない様にする仕方もあろうが、それは宋でも公儀がすることで、思し召しのないのには困ったもの。横渠が有術と言いながら仕方を言わないので、これを空言と見るのではない。仕方もあっただろうが滅多には言わない。数千百年経ったことなので急には仕難いのである。
【語釈】
・喜撰…喜撰法師。宇治(茶)の意?
・煮花…煮端。煎じたての香味のある茶。出花。
・鐻漏卒補…
・五畝之宅…孟子梁恵王章句上3集註。「五畝之宅、一夫所受、二畝半在田、二畝半在邑」。

乃言曰。大病人を見て、匕は取らぬが先つ此方がよかろふと方付を書て出した様なもの。あんまり残念だ、天下に行ふことがならずは皆云合せ納得づくで一つ試たいものとなり。醫者の藥方も私が呑たと云人があれば飲よいもの。昔は山帰来と云とこはがりて呑まなんだが、一本堂の藥選などにさま々々書てあるで、今は誰もかれも呑む。井田も、今治った小康の世の上をまっとよくせふとてすることゆへ、人の難儀になることをせふ筈もない。世の中さはかしいときにそんなことする間はない。治った上をすることゆへ、人に迷惑をさせ、損をさせてする筈もない。垩人の心を知らぬものはあぶないことに思ふ。共買田一方。この田を垩代の形りにこふ々々こふすれば井田の形りじゃと云こと。雛形をする様なもの。地頭前の方は是迠の通りつとめて内証でして見ること。武のならしと同こと。先日も云通、吾が志が立てば鼻紙袋の中で無尽はかけらるる。無尽金たけをのこしてためることなり。井田も御上でもならぬことと云ふが、古五畝之宅を一つこれほどときめて吾身上を井田の心もちにくらせば、吾家内計りで井田のあやが行はるる。分宅里。吾がやしきが大きくば五人前とも見て、あとの四分をあますがよい。これは一人でためすことによむのじゃが、横渠の意はさう云ことではない。古のとをりに分けること。
【解説】
「乃言曰、縱不能行之天下、猶可驗之一鄕。方與學者議古之法、共買田一方、畫爲數井、上不失公家之賦役、退以其私正經界、分宅里、立斂法」の説明。上が井田を行えないとしても、自らが聖人のした通りに行うことはできる。
【通釈】
「乃言曰」。大病人を見て、匙は取らないが先ずはこの方がよいだろうと方付を書いて出した様なもの。あまりに残念なことだ、天下に行うことができなければ皆が言い合わせ納得尽くで一つ試したいものだと言った。医者の薬方も、私が飲んだという人がいれば飲みよいもの。昔は山帰来と言えば怖がって飲まなかったが、一本堂の薬箋などに様々と書いてあるので、今は誰も彼も飲む。井田も、今治まった小康の世の上をもっとよくしようとしてすることなので、人の難儀になることをする筈はない。世の中が騒がしい時にそんなことをする間はない。治まった上ですることなので、人に迷惑を掛け、損をさせてする筈もない。聖人の心を知らない者はこれを危ないことだと思う。「共買田一方」。この田を聖代の通りに、こうすれば井田の通りになるということ。それは雛形をする様なもの。地頭に対してはこれまでの通りに勤め、内々でしてみること。武の慣らしと同じこと。先日も言った通り、自分に志が立てば鼻紙袋の中でも無尽をすることはできる。無尽金だけを残して貯めればよいのである。井田は御上でもできないことだと言うが、古の五畝之宅を一つこれほどと決め、自分の身上を井田の心持ちによって暮らせば、自分の家内で井田の綾が行われる。「分宅里」。自分の屋敷が大きければ五人前とも見て、残りの四分を余すのがよい。これは一人で試すこととして読むところだが、横渠の意はそういうことではない。それは古の通りに分けること。

廣儲畜。これも手前の藏でもやはりかこい米がなる。興学挍。三宅先生が手前で立てたが咎められはせぬ。菅野彦兵衛は上へ願ふて立てた。これは学挍の普請領に町屋鋪を願ふたからなり。今大橋のもとにある。あれが上より下された学挍なり。成礼俗。某が容斎の碑銘に此の字をかいたは心あってのこと。田舎でも役人がすればなるもの。今あの村の風はかたいと云がある。先つは礼俗のうちなり。敦本抑末。本は百姓、末は末作とて工啇のこと。此禁が今ない。兎角田へ入ることをいやがるもの。遊民が多いと国の衰微ぞ。生之者寡食之者多、さかさまになる。推先王之遺法明當今之可行。上でもならぬ々々々と云が、下でをいらがしてさへ出来るにと云てしてみせて、ならぬこととのけぬ様にさせる手段なり。有志未就。上の書始めは慨然と元氣よく書たが、ここでは呂與叔が涙を流してあわれに書とめた。何を云にも勢のないことはならぬ。田一方を買と云ても某などは手あてはない。浪人儒者では出来ぬが、横渠などは其位の手當はありたとみへた。ならぬことを云はふ筈もない。
【解説】
「廣儲蓄、興學校、成禮俗、救葘恤患、敦本抑末、足以推先王之遺法、明當今之可行。此皆有志未就」の説明。井田を行うことで食料を蓄え、学校を興し礼俗をよくし、農を敦くして工商を抑える。今はこの禁がないから人は農を嫌がる。自分がこれをすることで、上がこれをすることができないと言わせない様にする。
【通釈】
「廣儲畜」。これで自分の蔵にもやはり囲い米ができる。「興学校」。三宅先生が自分で学校を建てたが、咎められはしない。菅野彦兵衛は上へ願い出て建てた。これは学校の普請領に町屋敷を願ったからである。今大橋のもとにある。あれが上から下された学校である。「成礼俗」。私が容斎の碑銘にこの字を書いたのは意があってのこと。田舎でも役人がすればできるもの。今あの村の風俗は堅いと言うことがある。それも先ずは礼俗の内である。「敦本抑末」。本は百姓で、末は末作の工商のこと。この禁が今はない。とかく田へ入ることを嫌がるもの。遊民が多いのは国の衰微である。「生之者寡食之者多」で逆様になる。「推先王之遺法明当今之可行」。上ではできないことだと言うが、下の俺でさえできることだと言ってして見せ、できないことだと逃げさせない様にする手段がこれである。「有志未就」。上の書き始めは慨然と元気よく書いたが、ここでは呂与叔が涙を流して哀れに書き止めた。何を言うにしても勢いのないのは悪い。田一方を買うと言っても私などにその手段はない。浪人儒者ではできないが、横渠などはその位の手当はあった様である。できないことを主張する筈がない。
【語釈】
・菅野彦兵衛…
・大橋…
・容斎…鵜沢容斎。大網白里町清名幸谷の人。本姓は鈴木で鵜沢家の養子となる。名は寛堯。通称長右衛門。1695~1773
・生之者寡食之者多…大学章句10。「生財有大道、生之者衆、食之者寡」。


第二十四 横渠先生為雲巖令の条

横渠先生爲雲巖令、政事大抵以敦本善俗爲先。毎以月吉具酒食、召鄕人高年會縣庭、親爲勸酬、使人知養老事長之義。因問民疾苦、及告所以訓戒子弟之意。
【読み】
横渠先生、雲巖の令爲りしとき、政事は大抵本を敦くし俗を善くするを以て先と爲す。毎[つね]に月吉を以て酒食を具え、鄕人の高年なるものを召して縣庭に會せしめ、親しく爲に勸酬して、人をして老を養い長に事うる義を知らしむ。因りて民の疾苦を問い、及び子弟を訓戒する所以の意を告ぐ。
【補足】
・この条は、張子行状にある。

敦本善俗。どこへ出してもよいことじゃ。どの様な浅はかな地頭でも知行処の風をわるくしたいと思ふものはない。道理で云ても利害で云ても敦本善俗よいこととはをもふが、あわれなことにはさうする手段を知たものがまれじゃ。斯ふしたいと云心がけはさら々々ない。百姓の方の米は一年に一度出来るなれとも、用金々々と云に追るるから早道に金の出来るを賞翫する。そこで末作のものも一と手抦する啇人をも多くをく。敦本の政はない。横渠は生財有大道。をらは敦本より外のことは知らぬと云。敦本なれば善俗になる。くさりつなぎぞ。毎以月吉具酒食。大なしかけなり。朔日々々にはかけ合の料理で郷中の老人に酒をふるまって奉行が念ごろする。ひびかふぞ。これからさきは將棊たをしなり。今の役人がこれを形でしてもよいことなり。さうしたら人が狼に衣だと云はふが、衣でもよい。法と云は忝ひもの。村の長が老人を大切にするからは、其子共は云にも及ぬ。よく背中をさすろふ。今時これはならぬと云たいものだが、どふもさうは云はれぬ。
【解説】
「横渠先生爲雲巖令、政事大抵以敦本善俗爲先。毎以月吉具酒食、召郷人高年會縣庭、親爲勸酬、使人知養老事長之義」の説明。「敦本善俗」がよいこととは思うが、それができないのは金に追われているからであり、そこで、本よりも末作の工商を大事にする。毎月一日に村の長が村の老人をもてなせば、その息子達が老人を疎かに扱うことはない。
【通釈】
「敦本善俗」。どこへ出してもよいこと。どの様な浅はかな地頭でも知行をしている処の風俗を悪くしたいと思う者はない。道理から言っても利害から言っても敦本善俗はよいこととは思うが、哀れなことにはそうする手段を知る者が希である。その様にしたいという心掛けはさらさらない。百姓の米は一年に一度できるが、用金の工面に追われるから、早道に金のできることを賞翫する。そこで、末作の商工や一手柄する商人をも多く置く。そこに敦本の政はない。横渠は「生財有大道」で、俺は敦本より外のことは知らないと言う。敦本であれば善俗になる。それは鎖繋ぎである。「毎以月吉具酒食」。大きな仕掛けである。朔日にはあり合わせの料理で郷中の老人に酒を振舞って奉行が懇ろをする。これが響くこと。これから先は将棋倒しである。これは今の役人が形でしてもよいこと。その様にしたら人が狼に衣だと言い張るが、それでもよい。法とは忝いもの。村の長が老人を大切にするからは、その子供は言うにも及ばない。よく背中を擦るだろう。今時これはできないと言いたいものだが、どうもそうは言えない。
【語釈】
・生財有大道…大学章句10。「生財有大道、生之者衆、食之者寡」。
・狼に衣…うわべは善人らしくよそおいながら、内心は凶悪無慈悲であるたとえ。

因問民疾苦。酒を呑ながら、あの三軒目の推森は誰が家じゃと奉行が云ふと、あれは古い百姓でござりますが、今はどふもゆきませぬと云。そこで手あてをしてやる。身帯のわるいに根のあるもの。子ともの道樂と云もあり、わるい田地を持合せてこまるもある。根をきいて手段を付る。秀云、先年先生の、御典藥の外科が中間の尻をも見子ば痔はなをされぬ、令も民に親切ゆへこうしたことじゃと仰られた。よい譬喩で此一条がすむことぞ。訓戒子弟。八十になる老爺が砂の降た計り覚て何も知らぬもの。それが、御奉行様がこふ云るるとて息子や娵を訓戒する。それではよい筈なり。的切に近思をよめば今たんてきなるよいことともある。それを只唐の文字と見る。浅間なことじゃ。
【解説】
「因問民疾苦、及告所以訓戒子弟之意」の説明。村の状況を直接奉行が聞けば悪い根を知ることができ、適切な手当てをすることができる。また、老人が奉行の言をもとにして息子や娵を訓戒すれば、息子達はこれに従う。
【通釈】
「因問民疾苦」。酒を飲みながら、あの三軒目の推森は誰の家だと奉行が聞くと、あれは古い百姓でございますが、今はどうもよくありませんと言う。そこで手当てをして遣る。身帯が悪いのには根があるもの。子供が道楽者ということもあり、悪い田地を持ち合わせて困ることもある。根を聞いて手段を付ける。惟秀が言った。先年先生が、御典薬の外科が中間の尻をも見なければ痔を治すことはできないと言った。令も民に親切なのでこうしたことなのだと仰せられた。これがよい譬喩で、これでこの一条が済む。「訓戒子弟」。八十になる老爺が砂の降ったことばかりを覚えていて、その他は何も知らないもの。その人が、御奉行様がこう言われたと言って息子や娵を訓戒する。それはよい筈である。的切に近思を読めば、今簡単にできるよいこともある。それをただ唐の文字と見る。それは浅ましいことである。
【語釈】
・秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812


第二十五 横渠先生曰古者有東宮云々条

横渠先生曰、古者有東宮、有西宮、有南宮、有北宮。異宮而同財。此禮亦可行。古人慮遠。目下雖似相疎、其實如此、乃能久相親。蓋數十百口之家、自是飮食衣服難爲得一。又異宮乃容子得伸其私。所以避子之私也。子不私其父、則不成爲子。古之人曲盡人情、必也同宮。有叔父・伯父、則爲子者何以獨厚於其父。爲父者又烏得而當之。父子異宮、爲命士以上、愈貴則愈嚴。故異宮、猶今世有逐位。非如異居也。
【読み】
横渠先生曰く、古は東宮有り、西宮有り、南宮有り、北宮有り。宮を異にして財を同じくす。此の禮も亦行わる可し。古人は遠きを慮る。目下相疎きに似ると雖も、其の實此の如くんば、乃ち能く久しく相親しまん。蓋し數十百口の家は、自ら是れ飮食衣服一を得るを爲し難し。又宮を異にすれば、乃ち子の其の私を伸ぶるを得容[べ]し。子の私するを避くる所以なり。子其の父に私せざれば、則ち子爲るを成さず。古の人曲[つぶさ]に人情を盡くせば、必ずや宮を同じくす。叔父・伯父有らば、則ち子爲る者何を以て獨り其の父に厚からん。父爲る者又烏んぞ得て之に當たらん。父子宮を異にするは、命士爲るより以上、愈々貴ければ則ち愈々嚴し。故に宮を異にするは、猶今の世に逐位有るがごとし。居を異にするが如きに非ざるなり、と。

これが教の法を主に云こと。去年小学の夫婦の別で、男女の別を教るが普請にあると云た。垩人の教に大工と相談するには及そもないことの様なれとも、作宮室辨外内。大工のした繪図が男女の別になる。東宮西宮。これは儀礼の喪服の内にも礼記にもある。処々に散在して有ることなり。一家の中で分ん々々にしてはあるが財はわけぬ。これも昔話と云ことではない。今これがなるぞとなり。目下。見た処ではと云こと。宮をわけると疎遠と見へるか、これで却て親むの根になる。乃容子得伸其私。面白ひことぞ。こふこまかに云がこの章の主意でもなかったであろふが、斯ふこまかに筋の付たで法の靣白ひことなり。数十百口。小学江州陳氏宗俗七百口ともある。家内が七十人八十人あるゆへ味噌の米のと云は均一にも成ふが、女房の里から平目を貰たとき、いかに大くても数十百口へは配られぬ。肥後木綿三段で皆の老人の羽織にはならぬ。異宮でかけさはりはない。こちは蜆汁、こちは干葉汁、しよいことなり。大勢の中に伯父甥も従弟同士もあろふとも、吾親計りを手ん手んに挌段にする。そこを私と云、字は不断よせつけぬ字なれとも、ここではよい字になる。細川のかせ板一牧もろふては親へ計り進せること。伯父迠は届ぬ。多い時には伯父へもやることじゃ。
【解説】
「横渠先生曰、古者有東宮、有西宮、有南宮、有北宮。異宮而同財。此禮亦可行。古人慮遠。目下雖似相疎、其實如此、乃能久相親。蓋數十百口之家、自是飮食衣服難爲得一。又異宮乃容子得伸其私。所以避子之私也」の説明。宮を分けると疎遠になると思われるが、これが親しむ根となる。家内が多いと均一に分け与えることが難しくなる。そこで、第一に親に与える。
【通釈】
これが教えの法を主に言ったこと。去年小学の夫婦の別のところで、男女の別を教えるのは普請にあると言った。聖人の教えに大工のことを言うには及びそうもない様だが、「為宮室弁外内」で、大工のする絵図が男女の別になる。「東宮西宮」。これは儀礼の喪服の内にも礼記にもある語。処々に宮が散在してあること。一家の中で宮を分けてはあるが財は分けない。これも昔話ということではない。今これができると言った。「目下」。見た処ではということ。宮を分けると疎遠になると見えるが、これで却って親しむ根になる。「乃容子得伸其私」。これは面白いこと。この様に細かに言うのがこの章の主意でもなかっただろうが、この様に細かに筋が付いたのが法の面白いこと。「数十百口」。小学に「江州陳氏宗俗七百口」ともある。家内が七十人八十人あるので味噌や米なら均一にもできるだろうが、女房の里から平目を貰った時に、いかにそれが大きくても数十百口に配ることはできない。肥後木綿三反では全ての老人の羽織には足りない。「異宮」にすることで差し障りがなくなる。こちらは蜆汁、こちらは干葉汁、これがやり易いこと。大勢の中に伯父や甥、従弟同士があっても、自分の親だけをそれぞれが格段に扱う。それで私と言い、この字は普段は寄せ付けない字だが、ここではよい字となる。細川紙で包んだ橙糕を一枚貰えば親にだけ進じる。伯父にまでは届かない。多い時には伯父へも遣る。
【語釈】
・作宮室辨外内…小学内篇明倫。「内則曰、禮始於謹夫婦。爲宮室辨外内男子居外女子居内」。内則は礼記内則。
・儀礼の喪服…儀礼喪服子夏伝。「子不私其父、則不成爲子。故有東宮、有西宮、有南宮、有北宮」。
・小学江州陳氏宗俗七百口…小学外篇善行。「江州陳氏宗族七百口、毎食設廣席長幼以次坐而共食之。有畜犬百餘、共一牢食。一犬不至諸犬爲之不食」。
・細川…細川紙?和紙の一。主に帳簿などに用いる大判の楮紙。
・かせ板…橙糕。南蛮菓子の一。ナシの実をすりつぶし砂糖を加えて煮詰めたもの。

子不私其父不成為子。よい書き様ぞ。横渠の呵る様に云た語意が面白ひ。干菓子が足りずは伯父の方へやらずともよい。それは又其子がする。今土産にさっしゃれと云に、私の処はあたま数多ひから戴きますまいと云はわるい辞冝なり。子の方ではをやと云字計り見てをることぞ。曲盡人情。前の東宮西宮へかけたもの。子も私が親に計りとも云にくい。父母もをれさへ喰へばよいとも云れぬ。そこて異宮なり。云に云へぬ人情を尽したもの。異宮為命士以上愈貴愈嚴。嚴をきっとしたことと思ふことでない。立派なことに見ること。是は伯父の方、これは親の方と立派にまかへたこと。他人ても歴々が一つ所におれば、きっとした計でけっくうとくなる。たまさかのつき合で見事になるもの。猶今世有逐位。棟が別ではないが、壁や隩でしきるていなり。異居と云が身上は別にはせぬ。身上わけるは垩賢のきらい。小学に子飽親飢。あいさつのわるいは財をわけるからなり。財をばわけずに異宮逐位で家内に目鼻がつく。爰が治法へ出た処なり。今も心ある親は、忰も成人した、三疂鋪でも立ててやろふと云。尤なこと。親のあたりで高いびきで寢るも見事にない。
【解説】
「子不私其父、則不成爲子。古之人曲盡人情、必也同宮。有叔父・伯父、則爲子者何以獨厚於其父。爲父者又烏得而當之。父子異宮、爲命士以上、愈貴則愈嚴。故異宮、猶今世有逐位。非如異居也」の説明。家内全員に分けようとするのは難しく、自分の親だけに与えればよいということでもないから「異宮」をする。しかし、財産は分け与えない。子が豊かで親が貧乏になるのは財産を子に分けるからである。
【通釈】
「子不私其父不成為子」。よい書き様である。横渠が呵る様に言った語意が面白い。干菓子が足りなければ伯父の方へは遣らなくてもよい。それはまたその子がすること。今土産にしなさいと言われて、私の処は頭数が多いから戴けませんと言うのは悪い挨拶である。子の方では親という字だけを見ていればよい。「曲尽人情」。これは前の東宮西宮へ掛けたもの。子も、私の親にだけとも言い難いもの。父母も俺だけが喰えればよいとは言わない。そこで異宮である。言うに言えない人情を尽くしたもの。「異宮為命士以上愈貴愈厳」。この厳は厳しくすることと思ってはならない。立派なことだと見なさい。これは伯父の方、これは親の方と立派に構えること。他人でも歴々が一つ所にいれば、厳しいばかりでは結局は疎くなる。偶の付き合いから見事になるもの。「猶今世有逐位」。棟は別ではないが、壁や襖で仕切る様なこと。異居と言っても身上は別にしない。身上を分けるのを聖賢は嫌う。小学に「子飽親飢」とあり、挨拶が悪くなるのは財を分けるからである。財を分けずに異宮逐位で家内に目鼻が付く。ここが治法へ出た処である。今も心ある親は、忰も成人したから三畳敷でも建てて遣ろうと言うが、それは尤もなこと。親の近くで高鼾をかいて寝るのは褒められたことでない。
【語釈】
・子飽親飢…


第二十六 治天下不由井地の条

治天下、不由井地、終無由得平。周道只是均平。
【読み】
天下を治むるに、井地に由らざれば、終に由りて平を得ること無し。周の道は只是れ均平なり。

天下の治がさま々々あれとも、とど井田へ皈着するでなくては治がぎり々々にゆかぬ。井田が法の本なり。井田と云棋盤に目がもってなくては平天下と云棋はうてぬ。周道止是均平。井田だから甲乙がない。惣体ものの甲乙ないが平の本なり。孔子の顓臾を季氏が伐んの章の末にも均則不憂貧とある。大部屋の中間が一と通りなり。高ひくがあらばさぞ騒ふが、皆同じもっそ飯で順ぐりにつこうから、さて治めよいことぞ。
【解説】
天下を治める本は井田法であり、これによって皆が均一になるが治め易いのである。
【通釈】
天下の治め方は様々とあるが、結局は井田法に帰着するのでなくては治が至極に行かない。井田が法の本である。碁盤に井田という目が盛ってなくては平天下という碁は打てない。「周道只是均平」。井田だから甲乙がない。総体、ものに甲乙のないのが平の本である。論語の顓臾を季氏が伐とうした章の末にも「均則不憂貧」とある。大部屋の中間が一様である。そこに高い低いがあればさぞ騒ぐだろうが、皆同じ物相飯で順繰りに使うから実に治めよい。
【語釈】
・孔子の顓臾を季氏が伐んの章…論語季氏1。「季氏將伐顓臾」。
・均則不憂貧…論語季氏1。「丘也聞有國有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安。蓋均無貧、和無寡、安無傾」。
・もっそ飯…物相飯。物相に盛った飯。盛り切りにした飯。特に、入牢中の囚人の飯。


第二十七 末条

井田卒歸於封建、乃定。
【読み】
井田は卒に封建に歸せば、乃ち定まる。

井田卒歸於封建乃定。言外に歎息の意をもったことが見へてある。行状の条にもある通り、横渠も井田でなければ治はゆかぬとみて度々程子へも相談ありた。程子の意もそふなり。なれとも伊川の晩年井田はどふもゆかぬはへと力を落したこともある。垩賢の道がいつでもならぬと云法はない。如生民之理有窮則垩賢之法可改で、人のある内はなることなれとも、井田は封建でなければ行はれぬ。郡縣で井田をせうとするは世話がつづかぬ。歎の意あると云はどふなれば、田一方を買て井田をためそうと思ふたが、天下中が御代官支配をなかい領になりては大名は出きぬ。大名が出来子ば井田はならぬ。宋は郡縣ゆへならぬと云意をこめたもの。今の日本なぞのよいと云が、徂徠の云様にいつの間にか封建になりた。これが不思儀に今では立派な三代の封建になりた。保元平治以来代々の乱で武家に多く下されて勢がつよくなりて、其上に国を併せ々々したでいつとなくこうなりた。三代の治になりそふになりた。すれば横渠や伊川のなげいたときとは違ふ。諸大名の思召でどふともなりよいことなり。そんなら大名はよかろふが、をなかい領御代官支配はどうじゃと云に、あれは古の帝畿のやうなもの。甸服なり。御旗本衆はどふじゃと云に、御藏前でとる衆は云に及ず、知行で取てもあれが王制の郷太夫にして采地あるものの類で、これも封建のさはりにはならぬ。
【解説】
井田は郡県制下でしようとしてもうまく行かず、封建制でなければならない。今の日本はその封建である。
【通釈】
「井田卒帰於封建乃定」。言外に歎息の意があることがわかる。行状の条にもある通り、横渠も井田でなければ治はうまく行かないと見て度々程子へも相談をした。程子の意も同じである。しかしながら、伊川は晩年に、井田はどうもうまく行かないと力を落としたこともある。聖賢の道はいつでもできないという法はない。「如生民之理有窮則聖賢之法可改」で、人のいる内はできることだが、井田は封建でなければうまく行われない。郡県制で井田をしようとすれば世話が続かない。歎きの意があると言うのはどうしてかと言うと、田一方を買って井田を試そうと思ったが、天下中が御代官支配やおなかい領になっては大名ができない。大名ができなければ井田はできないということで、宋は郡県制なのでできないという意を込めたもの。今の日本などがよいと言うのが、徂徠の言う様にいつの間にか封建になったからである。これが不思議に今では立派な三代の世と同じ封建になった。保元平治以来の代々の乱で武家に多く土地が下されたので武家の勢いが強くなり、その上に国を併せて来たのでいつとなくこうなった。三代の治になりそうになった。それなら横渠や伊川が歎いた時とは違う。諸大名の思し召しでどうともなり易くなった。それなら大名はよいだろうが、おなかい領や御代官支配はどうかと言えば、あれは古の帝畿の様なもので、甸服と同じである。御旗本衆はどうかと言えば、御蔵前で取る衆は言うに及ばず、知行で取る場合でもそれは王制の卿大夫と同じく采地ある者の類で、これも封建の障害にはならない。
【語釈】
・行状の条…治法23を指す。
・如生民之理有窮則垩賢之法可改…治法3。「如生民之理有窮、則聖王之法可改」。
・をなかい領…
・帝畿…帝都付近の地。中国の古制で、王城を中心とする四方五百里以内の特別行政区。
・甸服…書経禹貢。「五百里甸服」。中国で、宮城から五百里以内の地。畿内の地。五服の一。
・王制の郷太夫…礼記王制。「王者之制祿爵、公・侯・伯・子・男、凡五等。諸侯之上大夫卿、下大夫、上士、中士、下士、凡五等。天子之田方千里、公侯田方百里、伯七十里、子男五十里、不能五十里者、不合於天子。附於諸侯、曰附庸。天子之三公之田視公・侯、天子之卿視伯、天子之大夫視子・男、天子之元士視附庸」。

さて、治法のはばと云ことを知ろうこと。治法のまつ初に周茂叔の礼樂の章、あれが人心を感動することゆへ手を出したことではない。治法の中の治体なり。夫から明道の十事法のこまかなすじの立て動ぬことが十事に皈した。さて、教と云になりては明道言於朝の条、伊川の三学の條制の条、教のとどかせやうは明道の澤州晋城令なり。学挍之政不脩と大学之序にあるは、能舞臺計で能の始らぬのなり。学挍の条が中ごろにありて一しまいが井田、これですっはりと治法のはばなり。井田がはばの一大きいこと。これでなくては何もかもゆき届ぬ。礼樂と井田で跡先をしめて、中に十事と学挍の教なり。これで治法になんにもかけることないなり。さて、先日からちょこ々々々よみたが、あれが上總講釈と云のじゃ。治体も治法も挌物致知のために説くことゆへ、此の坐に武士は一人もなく皆百姓のことゆへ、上総講釈に手近く云たら百姓の家内の治めの為にも成ろふ。それで祭をするにも精灵棚のことで云たり、制度をとくにも田舎の役人のことで云たり、進物のことと云と帯解袴着と耳近く云たもの。されともあまり親切に説くもよくないもの。それでは今はやる何やらと云ものになる。致知格物にとくにはぐっと引上て高くとくがよい。高ひは受用にならぬ様なれども、致知挌物を胸にもては受用はある。家内の治は自然とよくなる。近思録のはばは高上なことと合点せふことぞ。今親切な学者がしんせつにとか子ば今の役に立ぬ様に思ふが、今の役に立ずともよい。我身へたたきこむ近思録なり。天下のことは上でなさることなり。
【解説】
この治法の幅は、礼楽と井田で後先を締め、その中に十事と学校の教えがあり、一つも欠けたところはない。この場は百姓相手なので上総講釈で説いたが、本来は治体も治法も格物致知のために説くことなので、引き上げて高く説くのがよい。高く説くと今の役には立たないと思うが、近思録は今の役に立たせるものでなく、自分の身へ叩き込むものなのである。
【通釈】
さて、治法の幅を知らなければならない。治法の真っ先に周茂叔の礼楽の章があるが、あれは人心を感動させることなので手を出すことではなく、治法の中の治体である。それから明道の十事法の細かな筋立てで、確かなことを十事に帰した。さて、教えということになっては明道言於朝の条と伊川の三学の条制の条に、教えの届かせ方は明道の澤州晋城令にある。「学校之政不修」と大学の序にあるのは、能舞台だけがあって、未だ能が始まらない時である。学校の条が中頃にあって、最後が井田、これですっぱりと治法の幅となる。井田が幅の一番大きいこと。これでなくては何もかも行き届かない。礼楽と井田で後先を締めて、中に十事と学校の教えがある。これで治法に何にも欠けることない。さて、先日からちょこちょこと読んだが、あれが上総講釈と言うもの。治体も治法も格物致知のために説くこと。この座に武士は一人もなく皆百姓なので、上総講釈で手近く言えば百姓の家内の治めのためにもなるだろう。それで祭をするにも精霊棚のことで言ったり、制度を説くにも田舎の役人のことで言ったり、進物のことと言えば帯解袴着と耳近く言ったのである。しかしながら、あまり親切に説くのもよくない。それでは今流行る何やらというものになる。致知格物として説くにはぐっと引き上げて高く説くのがよい。高いのは受用にならない様だが、致知格物を胸に持てば受用はある。家内の治は自然とよくなる。近思録の幅は高上なことだと合点しなさい。今親切な学者が親切に説かなければ今の役には立たない様に思うが、今の役には立たなくてもよい。自分の身へ叩き込むのが近思録である。天下のことは上でなさること。
【語釈】
・礼樂の章…治法1。
・十事法…治法3。
・明道言於朝の条…治法2。
・三学の條制の条…治法5。
・澤州晋城令…治法6。
・学挍之政不脩…大学章句序。「及周之衰、賢聖之君不作、學校之政不修、敎化陵夷、風俗頹敗」。