第二 明道先生言神宗曰の条  二月九日  慶年録
【語釈】
・二月九日…寛政3年辛亥(1791年)2月9日。
・慶年…北田慶年。東金市福俵の人。通称太兵衛。自家を「学思斎」とし、默斎に学ぶため他郷から来る人々を宿泊させると共に、子弟をそこで教導した。

明道先生嘗言於神宗曰、得天理之正、極人倫之至者、堯舜之道也。用其私心、依仁義之偏者、覇者之事也。王道如砥、本乎人情、出乎禮義、若履大路而行、無復囘曲。覇者崎嶇反側於曲徑之中、而卒不可與入堯舜之道。故誠心而王、則王矣。假之而覇、則覇矣。二者其道不同。在審其初而已。易所謂差若毫釐、繆以千里者。其初不可不審也。惟陛下稽先聖之言、察人事之理、知堯舜之道備於己、反身而誠之、推之以及四海、則萬世幸甚。
【読み】
明道先生嘗て神宗に言いて曰く、天理の正しきを得、人倫の至りを極むる者は、堯舜の道なり。其の私心を用い、仁義の偏に依る者は、覇者の事なり。王道は砥の如く、人情に本づき、禮義に出で、大路を履みて行く若く、復囘曲無し。覇者は曲徑の中に崎嶇[きく]反側して、卒[つい]に與に堯舜の道に入る可からず。故に心を誠にして王たらんとせば、則ち王たり。之を假りて覇たらんとせば、則ち覇たり。二つの者は其の道同じからず。其初めを審らかにするに在るのみ。易に謂う所の差[たが]うこと毫釐[ごうり]の若くなるも、繆[あやま]るに千里を以てする者なり。其の初めは審らかにせざる可からず。惟陛下、先聖の言を稽[かんが]え、人事の理を察し、堯舜の道の己に備わるを知り、身に反りて之を誠にし、之を推して以て四海に及さば、則ち萬世の幸甚ならん、と。
【補足】
・この条は、程氏文集一の「王覇を論ずる箚子」にある。

王覇の弁と云にこれより上はないと合点して見よ。さま々々王覇の弁ともがあれとも、ぎり々々を云ぬいたは此条なり。王覇の弁がなぜいるなれば、そこが治體の体の字なり。覇者はいかほどよい政をしても心がわるい。そこが体の字なり。不孝な子か親の脊中を撫るやふなもの。いかほどなてても心が不孝では役に立ぬ。得天理之正。徳のことを云。極人倫之至。行のことを云。此二句徳行のことなり。堯舜之道云々。堯舜の堯舜たる処は心と行ひが連立て出る。天理之正は仁義礼智のままなことを云、極人倫之至は天理の正いなりが行ひに出ると人倫の道のぎり々々につまる。天叙有典の理を我五典をただし、五つながらあつくすれば人倫の至極ぞ。垩賢は天理之正と云御朱印を持て極人倫之至。凡夫は御朱印ぎり、我に得ぬ。堯舜の道は五倫が五つあれは丁どそれなりに親義別序信が出る。そこを堯舜之道と云。大学で明德を至善につめるが堯舜之道。洪範で有極を立ると云が堯舜の道なり。堯舜之道に別に奧の院はない。天理之正人倫之至でかたのついたことなり。
【解説】
「明道先生嘗言於神宗曰、得天理之正、極人倫之至者、堯舜之道也」の説明。この条は最も王覇の弁を言い抜いたものである。王覇の弁は治体の体のことである。覇者は体である心が悪い。「天理之正」は仁義礼智の通りなことで、「極人倫之至」は天理の正しい姿が行いに出て人倫の道の至極に詰まるということ。「堯舜之道」とは心と行いが連れ立って行くものなのである。
【通釈】
王覇の弁と言えばこれより上はないと合点して見なさい。様々な王覇の弁があるが、至極を言い抜いたのはこの条である。王覇の弁が何故要るのかと言うと、そこが治体の体の字のことだからである。覇者はどれほどよい政をしても心が悪い。そこが体の字のことである。それは、不孝な子が親の背中を撫でる様なもの。どれほど撫でても心が不孝では役に立たない。「得天理之正」。徳のことを言う。「極人倫之至」。行のことを言う。この二句は徳行のこと。「堯舜之道云々」。堯舜の堯舜たる処は心と行いが連れ立って出るところ。「天理之正」は仁義礼智の通りのことで、「極人倫之至」は天理の正しい姿が行いに出ると人倫の道の至極に詰まるということ。「天敘有典」の理であり、自分の五典を正して、その五つを共に篤くすれば人倫の至極である。聖賢は天理之正という御朱印を持って極人倫之至だが、凡夫は御朱印だけで自分に得ることがない。堯舜の道は五倫が五つあれば丁度その通りに親義別序信が出る。そこを堯舜之道と言う。大学で明徳を至善に詰めるのが堯舜之道であり、洪範で有極を建てるとあるのが堯舜の道である。堯舜之道には別に奥の院があるのではない。天理之正人倫之至で片が付く。
【語釈】
・天叙有典…書経皋陶謨。「天敘有典、敕我五典五惇哉」。
・有極を立る…書経洪範。「皇極。皇建其有極、斂時五福、用敷錫厥庶民。惟時厥庶民、于汝極、錫汝保極」。
・神宗…北宋第6代の天子。名は頊。

用其私心云々。明道の覇者のことを云ぬいたぞ。此私心と云は、古るか子買に見せてもはああと云ほどのけちものぞ。其對句に仁義を出したがどふしたことぞ。仁義と云へば黑ぬりの箱へ入れ、さなだの紉で結へるほどのこと。私心はげっと云て捨るほどなもの。それをならべたが覇者を云にはうごかぬ云様なり。覇者は其私心で仁義をつかまへるなり。天理の反對が私心なり。其私心の悪る心でよいことをする。悪い心ならわるいことをすべきに、よいことをするが伯者のいやみにくむべきことなり。手前が垩人君子になろふと云心はないが、能いことをしたがる。利口やけた心で取て捌く。私心で働くにも、私はかりで働くと人の思ひつきがわるいで仁義の偏をかりてする。仁義と云は天理なれとも、用ひやうでわるい方へもつかはるる。故に之偏と云。仁義をよいかげんに切て来て私心の方へつかふなり。狐が虎の威をかるのなり。車の軸へ油をぬって働すやうなり。私心を仁義ではたらかせる。仁義と云ものは誰もわるいとは思はぬが、私心で功業を立よふとするにも人のうけぬことある。そこで仁義を假りて來るが覇者之事也。
【解説】
「用其私心、依仁義之偏者、覇者之事也」の説明。天理の反対が私心であり、覇者は私心で仁義を掴まえる。私心だけで行うと人が納得をしないから、仁義を適当に切り取り、それを借りて使うのである。
【通釈】
「用其私心云々」。明道が覇者のことを言い抜いた。ここの私心とは、古鉄買に見せてもはああと言うほどのけちなものである。その対句に仁義を出したのはどうしたことか。仁義と言えば黒塗りの箱へ入れ、真田の紐で結べるほどのことで、私心はげっと言って捨てるほどのもの。それを並べたのが覇者を言うにはしっかりとした言い様なのである。覇者は「其私心」で仁義を掴まえる。天理の反対が私心である。その私心の悪心でよいことをする。悪い心なら悪いことをすべきなのによいことをするのが伯者の嫌な憎むべきところ。自分は聖人君子になろうという心はないがよいことをしたがる。利口に焼けた心で取って捌く。私心で働くにも、私だけで働くと言えば人の思い付きが悪いので、「仁義之偏」を借りてする。仁義と言えば天理のことだが、用い様で悪い方へも使われることがある。そこで之偏と言う。それは仁義をいい加減に切って来て、私心の方へ使うことである。狐が虎の威を借るのである。それは、車の軸へ油を塗って働かす様なこと。私心を仁義で働かせる。誰も仁義は悪いとは思わないが、私心で功業を立てようとすると人が納得しないこともある。そこで仁義を借りて来るのが「覇者之事也」である。
【語釈】
・古るか子買…古鉄買。屑鉄を買い集める者。屑屋。

伯者の心と云ものが万代の人の心にこびついているものと知るべし。今世間の人に仏法の胷にこびりついているのは誰も知ていれとも、伯心のこびりついてをることはしらぬ。つまり今小利口なことをするを覇者の心と云。私忰も学問を致すと云。それは結構なと云。日比学問はきらいなれば入らざることと云そふなものをけっこうなと云は、学問を尊ぶ心ではないが学問は何となくよいこととなっているゆへ、わるいと云ては我方の為にならぬ。そこで結搆なと云。人々これなり。これが直に伯者の心なり。伯者は仁義を尊ぶ心はなけれとも、仁義は人の良心なれば仁義でなければ通用がわるく立にくいによって仁義之偏に由てせふとする。本屋が文字よみしたがり、藥種屋が方彙をみるあきなひにする。口切や汝を呼ぶも金のこと。茶の湯ではない。茶をのましてをいて金をかろふとするなり。さぞ利休が腹を立ふ。覇者は仁義の偏を兎角私心の用に立るはにくいことなり。異端は、楊墨から仏者に至るまで了簡違いからあふなりた。伯者のは、こふああと初から心中に手のあることゆへいやみわるさにをちる。そこが伯者の事なり。
【解説】
伯者の心は万代の人にあるものだが、人はそれを知らない。伯者には仁義を尊ぶ心はないが、仁義でなければ通用し難いので、仁義之偏に基づいてしようとする。伯者は最初から心に一物を持っているのである。
【通釈】
伯者の心というものが万代の人の心にこびりついているものだと知りなさい。今世間の人の胸に仏法がこびりついているのは誰もが知っているが、伯心がこびりついていることは知らない。つまり、今小利口なことをするものを覇者の心と言う。私の忰も学問を致すと言い、それは結構なことだと言う。日頃学問は嫌っているのであれば無用なことだと言いそうなものだが、それを結構なことだと言うのは、学問を尊ぶ心ではないが学問は何となくよいこととなっているので、悪いと言っては自分のためにならないと思い、そこで結構なことだと言う。人々皆これである。これが直に伯者の心である。伯者には仁義を尊ぶ心はないが、仁義は人の良心だから、仁義でなければ通用が悪く立ち難い。そこで仁義之偏に基づいてしようとする。本屋が文字読みをしたがり、薬種屋が方彙を見るのを商いにする。口切や汝を呼ぶも金のこと。これは茶の湯のことではない。茶を飲ませて置いて金を借りようとするのである。さぞ利休が腹を立てることだろう。覇者がとかく仁義の偏を私心に用立てるのは憎いこと。異端は、楊墨から仏者に至るまでは了簡違いからあの様になった。伯者のは、こうああと初めから心中に手段を持っているので嫌み悪さに落ちる。そこが伯者之事である。

王道如砥云々。王道と云は何のこともなく、人倫の至り、天理なりなことなり。如砥と、すらりとしたことなり。本乎人情。たたい親と云ものはどんなものでも子は可愛がる。其処へ持ていて、出礼義云々て、兄は先へ立つ。弟が跡へついて行く。珎らしくない所が天理人情形りて、だたいこちにあるものなり。不案内な人は堯舜の世はどのやうなことかと思をふが、やはり今日のなりぞ。きもをつぶすことはなし。回曲は子細げ、六ヶしのあることを云。首をひ子り、これは何と合点しにくいと云は回曲なり。回曲無しと云は豆腐をずか々々四角にきり、濱から來た鯛を焼て喰ふやふな体が回曲なして、利休の料理はこふであったろふ。すらりとしたが王道のなりなり。料理も色々と手のこんだ摺身流し麵豆腐と云やふにこれじゃと見せて、はてあれかとするが回曲なり。
【解説】
「王道如砥、本乎人情、出乎禮義、若履大路而行、無復囘曲」の説明。王道は人倫の至りであり、天理の通りにすらりとしたものであって、回曲はない。王道は特別なものではなく、自分自身にあるものである。
【通釈】
「王道如砥云々」。王道とは特別なことではなく、人倫の至り、天理の通りのことで、「如砥」の様にすらりとしたことである。「本乎人情」。そもそも親というものはどんな者でも子を可愛がるもの。その処へ持って行って、「出礼義云々」で、兄は先へ立ち、弟がその後へ付いて行く。珍しくない所が天理人情の姿であって、本来それは自分にあるもの。不案内な人は堯舜の世はどの様なことかと思うだろうが、やはり今日の通りである。肝を潰すことはない。「回曲」は子細気で難しいところがあることを言う。首を捻り、これは何と合点し難いことだと言うのが回曲である。回曲無しとは、豆腐をずかずかと四角に切り、濱から来た鯛を焼いて喰う様なことであって、利休の料理はこの様なものだったのだろう。すらりとしたのが王道の姿である。料理も色々と手が込み、擂り身流し麺豆腐などという様に、これだと見せてさてあれかと複雑にするのが回曲である。

覇者の心はさすて引く手に色々のことをしてみせる。笑ひそふな処をしぶい顔をし、腹立ちそふな処を笑ひ、さて々々あなた方の御心は計られぬと云のが回曲なり。其親方と云へは一ち初か齊桓晉文、其後桓公をついだが漢の高祖なり。晋文をついだが唐の太宗なり。此人は尚をいやなことて、惣体手のこんだいやみをした。稲虫をくふたのるいで、いやみの上なしだ。然れば覇者にもそれ々々に道統之傳がある。默斎はそれをどふして知たと云はふが、とくに孔子の仰せられしなり。同じ覇者でも齊桓公正而不僞、晉文公は偽而不正。どちどふしても權謀術數の回曲なれとも、桓公高祖はさっはとした処ありて大ふ間な回曲。文公と太宗は別して手のこんた回曲なり。此れが堯舜の裏で、堯舜を引くりかへしたのが覇者の心なり。
【解説】
覇者は何かにつけて回曲をする。その最初が斉桓晋文で、桓公を継いだのが漢の高祖であり、晋文を継いだのが唐の太宗である。桓公と高祖はさっぱりとした処がある回曲だが、文公と太宗は酷く手の込んだ回曲である。
【通釈】
覇者の心は差手引手に色々なことをして見せる。笑いそうな処を渋い顔をし、腹立ちそうな処を笑い、本当に貴方の御心はわからないというのが回曲である。その親方と言えば一番初めが斉桓晋文で、その後に桓公を継いだのが漢の高祖であり、晋文を継いだのが唐の太宗である。この人は尚嫌な人で、総体手の込んだ嫌みをした。稲虫を食ったの類で、嫌みこの上なしである。それで、覇者にもそれぞれに道統の伝がある。黙斎がそれをどうして知ったのかと言うが、それは孔子がとっくに仰せられている。同じ覇者でも「斉桓公正而不偽晋文公偽而不正」。どちらにしても権謀術数の回曲だが、桓公と高祖はさっぱりとした処があって大まかな回曲だが、文公と太宗は酷く手の込んだ回曲である。これが堯舜の裏のことで、堯舜を引っ繰り返したのが覇者の心である。
【語釈】
・さすて引く手…差手引手。何かにつけて。
・齊桓公正而不僞、晉文公は偽而不正…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。

覇者﨑嶇云々。これが回曲のことを云たもので、王者には伯者のやふな曲逕はなしと直に引くりかへして云た文義なり。伯者はさて々々いりくりしたもので、曲逕は四十七曲りとも云やふなものて、周防路の四十八坂ぞ。江戸の日本橋や通り町とをるやうにはなし。王道は如砥て本町とをりなり。覇道は、道が幾く筋もありて右へ往ふか左へ行ふか知れぬを無理むたいにあるく。﨑嶇は山道のそば立てむつかしい道。たとはば大山の不動峠の道のやうで、漸々木の根にとり付て行くのなり。反側は詩經顚轉反側の意で、七ころび八をきと云やふに、子たり起たりして太義なせつない様な氣味で、如砥の裏を云こと。何処迠も魚鱗鸖翼をかまへて人に内甲を見られまい々々々々々とする。そこで曲逕の中に反側する。今日はこの手明日はあの手と兎角奧の手のしれぬことなり。
【解説】
「覇者崎嶇反側於曲徑之中」の説明。伯者は実によく捻くり回すが、王者には伯者の様な「曲径」はない。
【通釈】
「覇者崎嶇云々」。これが回曲のことを言ったもので、王者には伯者の様な「曲径」はないと直に引っ繰り返して言う文義である。伯者は実によく捻くり回す。曲径は四十七曲りとも言う様なもので、周防路の四十八坂である。江戸の日本橋や通り町を通る様ではない。王道は「如砥」で本町通りである。覇道は、道が幾筋もあって右へ往こうか左へ行こうかわからずに無理無体に歩く。「崎嶇」は、山道の峙って難しい道。例えば大山の不動峠の道の様で、漸く木の根に取り付いて行く。「反側」は詩経の「輾転反側」の意で、七転び八起きという様に寝たり起きたりして大儀で切ない様な気味で、如砥の裏のこと。何処までも魚鱗鶴翼を構えて人に内証を見られない様にしようとする。そこで曲径の中に反側する。今日はこの手、明日はあの手ととかく奥の手が知れないことである。
【語釈】
・顚轉反側…詩経国風周南関雎。「求之不得、寤寐思服、悠哉悠哉、輾轉反側」。

さて、このやふにつめるといこふわるくなりて、しからは伯者は上に立つまいものの様にをもふがそふでない。全体が人へむごくあたることではない。爰で王伯の心をしることぞ。人にわるく當らぬから、そこで六ヶしい。孔子も管中を如其仁哉と誉られた。堯舜の政は仁政。その仁政をするなり。あまり大をとりはせぬ。それをわるいと云は、そこで精微の吟味と云をしるべし。大学致知挌物誠意正心につめる吟味なり。いとしなげに天下を安泰にせふとするにわるいことはない筈なれとも、一と手あることと云は私てすること。垩人はすらりと天なりなこと。伯者は天下を安泰にせふとはすれとも、私心てするゆへ天理の似せ金をつかふ。能いことがあればある程わるいと云は伯者の心を云なり。
【解説】
伯者は悪いものだから上に立つことはできない様に思えるが、人への当たりは悪くないから上に立つことができるのである。しかし、それは天理を借りた私心でするのだから、よければよいほど悪いのである。
【通釈】
さて、この様に詰めると大層悪いことなので、それなら伯者は上に立つことがない様に思うがそうでない。全体が人へ酷く当たることはない。ここで王伯の心を知りなさい。人に悪く当たらないから、そこで難しい。孔子も管仲を「如其仁哉」と誉められた。堯舜の政は仁政で、その仁政をするからあまり大きく劣りはしない。それを悪いと言うのは、そこに精微の吟味があると思いなさい。大学致知格物誠意正心に詰める吟味である。殊勝に天下を安泰にしようとするのは悪いことではない筈だが、そこに一手あると言うのが私でする。聖人はすらりと天の通りである。伯者は天下を安泰にしようとはするが、私心でするので天理の贋金を使う。よいことがあればあるほど悪いと言うのは伯者の心を言ったこと。
【語釈】
・如其仁哉…論語憲問17。「子曰、桓公九合諸侯、不以兵車。管仲之力也。如其仁。如其仁」。
・いとしなげに…かわいそうなさま。気の毒なさま。

不可與入堯舜之道と云こと、爰を大切に見ること。先達て出處の篇でも不可入堯舜之道と云ことあり、奉公する者の心でといた。爰も堯舜之道に入らぬと云は心がそでないと云ふこと。天下をば同じやうに治めても何処が似ぬなれば、大学にも舅犯が亡人無以爲宝仁親以為宝。大学の傳者が大学へ引たほどのよい語なれとも、あんなことを云へば云程わるいは心へたたるなり。直方先生の、狼に衣をきせたのなり、と。きればきるほどうるさい。旦那ことはそれ処てはなく、只親をいとをしむ心ばかりでと何喰はぬ顔して云たが覇者の臣なり。所食之粟伯夷所樹乎盗跖所植乎。云手にとんじゃくはないから大学の傳者がとってはあれども、あの口で云た至極の道理もあの心が堯舜の道に入らぬなり。明道の不傳之学を遺經につぐと云も爰等なり。王者の心を知たことなり。このやうなことは二程でなければ云はれぬ。王覇の弁を心へたたると云でなければさっはりと云ぬいたではない。
【解説】
「而卒不可與入堯舜之道」の説明。覇者は聖人のする様に天下を治めるが、心が聖人とは違うので、すればするほど悪くなる。
【通釈】
「不可与入堯舜之道」ということを大切に見なさい。先達ての出処の篇にも「不可入堯舜之道」とあって、奉公をする者の心で説いたもの。ここに不可与入堯舜之道とあるのは心が違うということ。天下を同じ様に治めても何処が似ていないのかと言うと、大学にも「舅犯曰亡人無以為宝仁親以為宝」とあり、これは大学の伝者が大学へ引いたほどによい語だが、あんなことを言えば言う程悪いというのは心へ祟ることだからである。直方先生が、狼に衣を着せたのだと言った。着れば着るほど煩い。旦那のことは何も思わないのに、ただ親をいとおしむ心ばかりでと何喰わない顔をして言うのが覇者の臣である。「所食之粟伯夷所樹乎盗跖所植乎」で、言い手に頓着はないから大学の伝者が引いたのだが、あの口で言った至極の道理にしても、その心が堯舜の道に入っていない。明道が不伝の学を遺経に継ぐと言ったのもここ等のことで、王者の心を知ったのである。この様なことは二程でなければ言えない。王覇の弁を心へ祟るというのでなければ、さっぱりと言い抜いたことにはならない。
【語釈】
・不可入堯舜之道…出処24。「汝之是心、已不可入於堯舜之道矣」。
・そでない…①違う。然るべきでない。②いけない。不都合である。また、薄情である。③尋常でない。悪い。
・亡人無以爲宝仁親以為宝…大学章句10。「舅犯曰、亡人無以爲寶、仁親以爲寶」。
・所食之粟伯夷所樹乎盗跖所植乎…孟子滕文公章句下10。「所食之粟、伯夷之所樹與。抑亦盜跖之所樹與。是未可知也」。
・不傳之学を遺經につぐ…

俗儒は、堯舜のは違ふたもの、桓文のも又よいはと云のは、鯛の向づめがなくは替りにほうぼうでもよいと云やふに思のなり。そふしたことではない。王覇見た処は一つなり。堯舜のは鯛の向つめ、伯者のは木で拵た鯛で、見ては鯛でも誠の鯛でない。堯舜ほどの事業はしても、だたいの魂が違ふ。某し先日出処でも堯舜之道を魂で説く。爰も魂てとく。天理之正を得ると云ふも魂に得ること。道に入らぬと云も魂が違ふことなり。迂斎云、不忠な家来が奉公に出情するは、すれはするほとわるい、と。王莽か諸士を礼すると云て天下の人を敬ふて揚雄なとをもあの通に引こんたか、敬へは敬ふ程わるい。することなすこと皆よくても、魂がちがへは堯舜の道に入られぬ。書経は政の書なれとも、蔡沉の序に心と云字をしたたか書てあるぞ。兎角心がそてないと堯舜の道に入られぬなり。
【解説】
王覇は見た処は堯舜と同じだが、堯舜のは本物で王覇のは偽物である。魂が違うのである。心が違うと堯舜の道に入ることはできない。
【通釈】
俗儒が、堯舜のは違ったものであって桓文のもまたよいと言うのは、鯛の向う詰めがなければ替わりに魴鮄でもよいと言う様に思うこと。そうしたことではない。王覇も見た処は一つだが、堯舜のは鯛の向う詰めだが、伯者のは木で拵えた鯛で、見た目は鯛でも本当の鯛ではない。堯舜ほどの事業はしても、本来の魂が違う。私は先日の出処のところでも堯舜之道を魂で説いたが、ここも魂で説く。「天理之正」を得ると言うのも魂に得るということ。道に入らないと言うのも魂が違うということ。迂斎が、不忠な家来が奉公に出精するのは、すればするほど悪いと言った。王莽が諸士を礼すると言って天下の人を敬うので揚雄などをもあの通りに引き込んだが、敬えば敬うほど悪い。することなすこと皆よくても、魂が違えば堯舜の道に入ることはできない。書経は政の書だが、蔡沉の序に心という字を沢山書いてある。とかく心が違うと堯舜の道に入ることはできないのである。
【語釈】
・向づめ…向う詰め。本膳料理で、焼物の別称。本膳と二の膳との向うに据えるからいう。
・蔡沉…蔡九峯?

故誠心而王云々。これからは王伯の事業を論したことなり。偖、吟味が六ヶしいは古より王覇と幷べて称するもきこへたことじゃは、天下の人が王者の御かげを蒙るも、伯者の御かげを蒙るも同じやうぞ。丁ど迂斎の仁恕はちがへども、向の方では仁者に合力を得ても恕者に合力を得てももろふた方は同こと。上から救米が出るに、王ても覇でも下される米は同じことなり。事は一つでも心がちごふ。心から出ることと事から出ることとはもちが違ふ。王者は心から出るで長持がある。吾子を可愛がるやうなり。年をとったれば息子の可愛も草臥がついたと云ことはなし。心から出る誠ゆへ長くもつなり。伯者のは心から出ぬで長くつづかぬ。事ですることは草臥のつくもの。あてのありてすることはつつかず。京都の町人は所司代屋鋪を大事にするやふなもので、御役御免でも大事にすることではない。我子は御役御免でもかわゆいなり。心からすると事の上でするとは生花と作り花のやふなり。誠心云々。堯舜を初禹湯文武にこの手あの手とすることはない。もったなりなり。どふするものと云手がないから氣も付ぬ。誠心なりをふりかへりて見れば王たり。うぶの誠から出た。天下を以て一家とし、中國を以一人とする誠から出てとんと他人根性はない。只親の子をかわいがる様なとより外に説きやうはない。そこで民之父母とも云。
【解説】
「故誠心而王、則王矣」の説明。王者のお蔭を蒙るのも伯者の御蔭を蒙るのも受ける者にとっては同じことだが、心から出ることは長持ちする。それは、一物がなく誠から出ることだからである。
【通釈】
「故誠心而王云々」。これからは王伯の事業を論じたこと。さて、この吟味が難しいのは、古より王者と覇者とを並べて賞賛するのも当然であって、天下の人が王者のお蔭を蒙るのも伯者の御蔭を蒙るのも同じ様だからである。丁度、迂斎が、仁恕は違うが、向こうの方では仁者に合力を得ても恕者に合力を得ても貰った側では同じことと言うのと同じ。上から救米が出る際、王でも覇でも下される米は同じこと。事は一つでも心が違う。心から出ることと事から出ることとは持ちが違う。王者は心から出るので長持ちする。それは我が子を可愛がる様なこと。年をとったので息子を可愛いと思うのも草臥れたと言うことはない。心から出る誠なので長く持つ。伯者のは心から出ないので長くは続かない。事ですることは草臥れの付くもの。当てがあってすることは続かない。それは京都の町人が所司代屋敷を大事にする様なもので、御役御免になれば大事にはしない。我が子は御役御免でも可愛い。心からするのと事の上でするのとは生花と作り花の様なもの。「誠心云々」。堯舜を始めとして禹湯文武にこの手あの手とすることはない。持った通りである。どうするものかという手がないから気も付けない。誠心の通りにしたことを振り返って見れば王である。それは初心の誠から出たもの。天下を以て一家とし、中国を以て一人とする誠から出て、全く他人根性はない。ただ親が子を可愛がる様なと言うより外に説き様はない。そこで「民之父母」とも言う。
【語釈】
・天下を以て一家とし、中國を以一人とする…論語憲問42集註。「聖人心同天地。視天下猶一家、中國猶一人、不能一日忘也」。
・民之父母…大学章句10。「詩云、樂只君子、民之父母。民之所好好之、民之所惡惡之。此之謂民之父母」。詩は詩経小雅南山有臺。

假之覇云々。魂は堯舜とは違へとも、堯舜の通りを假てする。之の字もそれをと云意なり。堯舜通りをかりる。よい筈なり。堯舜の道は結搆ゆへにそれを假りてしても何処までも通らるる。用達の町人が大名のえふで帯刀してあるくやふなもの。問屋も心では木藥屋の誰じゃなどとしっても、えふだけで人馬も出して通す。伯者か中の処は心か違ていれとも、垩賢の道のよいのを假りてしてとをる。齊桓晋文の名の古今に残ってあるもよいからのこる。戦国の末など人々齊桓晋文を戀しく思ふたるべし。假てしたなれども中々大抵の人ではない。覇は天下の大名頭なり。此が只ならるることでない。去るによって文王も西伯て殷の世の大名頭で居れた。今日大國の家老に成るさへじゃに、同じ大名で大名の頭になるは大抵ではならぬ。大名と云ものが中々をさへられぬ筈のことなり。それををさへた斉桓晋文なり。春秋の世には天使をさへ蔑にし、楚などがひとごろって王号を名乘る。そこを桓文が出て押へてぐっとも云はさぬ。桓公葵丘の會には鴈帽子ひたたれで出て、四海九州をぐっとも云はさぬ。昔から兵革て天下を安泰にするものじゃに、衣裳の會なり。此段になりて王道だの伯道だのと誰れか去り嫌いをせふぞ。さて々々大な手抦なり。楚や秦のつよいてもいきを上けさせず、これて暫く天下も安泰ていた。
【解説】
「假之而覇、則覇矣」の説明。覇者は堯舜の通りを偽ってするので、することがよい筈である。そこで歴史にも名が残るのである。覇王も簡単になれるものではない。押さえ難い諸侯を押さえ、武力を使わずに天下を安泰にすることもしたのは大きな手柄である。
【通釈】
「仮之覇云々」。魂は堯舜と違うが、堯舜の通りを偽ってする。「之」の字はそれをという意である。堯舜の通りに偽るのだからよい筈である。堯舜の道は結構なので、それを偽ってしても何処までも通ることができる。ご用達の町人が大名の絵符によって帯刀して歩く様なもの。問屋も心では生薬屋の誰だなどと知っていても、絵符だけで人馬も出して通す。伯者は中の処の心は違っているが、聖賢の道のよいのを偽ってして通る。斉桓晋文の名が古今に残っているのもよいから残る。戦国の末などでは人々が斉桓晋文を恋しく思ったことだろう。偽ってしたことだが中々大抵の人ではない。覇は天下の大名頭である。これが簡単になれるものではない。それで、文王も西伯という殷の世の大名頭でおられた。今日大国の家老に成るのでさえ難しいのに、同じ大名で大名の頭になるのは並大抵のことではない。大名という者は中々押さえられない筈だが、それを押さえた斉桓晋文である。春秋の世では天使をさえ蔑ろにし、楚などは分を越えて王号を名乗った。そこを桓文が出て押さえ、ぐっとも言わさない。桓公は葵丘の会に烏帽子直垂で出て、四海九州をぐっとも言わさなかった。昔から兵革で天下を安泰にするものなのに、衣裳の会だった。この段になっては王道だの伯道だのと誰れが選り好みをするものか。実に大きな手柄である。楚や秦が強くても意気を揚げさず、これで暫く天下も安泰でいた。
【語釈】
・西伯…孟子離婁章句上13集註。「西伯、即文王也。紂命爲西方諸侯之長、得專征伐、故稱西伯」。
・ひとごろって…僭ふ。分限を超えて上の人のことをまねる。同じくらいのものを並べて比較する。
・葵丘の會…BC651。桓公は葵丘で諸侯と会合し、誓約書を取り交わした。しかし、誓約は本来天子のすることであった。
・兵革…いくさ。戦争。
・去り嫌い…去嫌。すききらい。えりごのみ。

事業て云へは王も覇も同格にをちる。ここが大切の吟味ぞ。学者の心か事業へ目かつくと、はや王道ではないとしれ。今の学者ここに目がなく、あちへ行ふかこちへ行ふかと王覇之弁か思案橋の上に立ているやふてはならぬ。伯者も事業の上ては天下を安泰にするやふなれとも、其道不同なり。こふきめることなり。東海道と木曽と云は道か違ふで誰もしるるか、王伯は心のことなれは、ちらり々々々とした内に覇心か王心かと箸の上け下ろしに心て吟味すること。王伯の弁は天下のことばかりと思ふな。今日学者の上にあり天下に遠いものと云ふは隠者なり。その隠者の家内にもある。茶漬一はい食はすにも王伯あり、客の供を、供の者太義と云にも最ふ王伯がある。家来一人使ふ上にも王伯があり、召使をやれ々々寒いに太義と云もすっと出ると王者の心なり。かふいたわるとあいらがをれに思いつくと思ふ。それが直に伯心なり。今日爰の吟味かないて王伯の弁がはきとない。孟子を迂遠闊事情と云ふは、迂遠ではない筈なれとも道理なりをせらるるから迂遠なり。迂遠が王道なり。今日の学者のかけ回ってさはぐは皆伯心なり。先日も云通り、王道は急な用に立ぬもの。さきの當のないこと。吾明徳を明にして人に及し、それが廣がりて天下が治るか王道で、こちから両手をひろげて出すことではない。淳于髠が賢者無益于國と耳こすりした。成ほどそふなり。當分しるしのないは益ないと云筈ぞ。一二年の間には合ぬことなり。然し学者でもとかく心の誠をと功夫すれば今日からも役に立つ。ここが大切の界分なり。
【解説】
「二者其道不同」の説明。事業で言えば王覇は同格だが、道では異なる。王覇の弁はいたるところにあるから、小さなことでも王心か覇心かと心を吟味しなければならない。道理の通りにすっと出るのが王心であり、一物を持ってするのが覇心である。今日の学者が騒ぎ回るのは皆伯心である。
【通釈】
事業で言えば王も覇も同格に落ちる。ここが大切な吟味どころである。学者の心が事業へ目が付けば、それは既に王道ではないと知りなさい。今の学者はここに目がないので、あちらへ行こうかこちらへ行こうかとしているが、王覇之弁が思案橋の上に立っている様ではならない。伯者も事業の上では天下を安泰にする様だが、「其道不同」である。この様に決めるのである。東海道と木曾とは道が違うから誰もが違いをわかるが、王伯は心のことなので、ちらりとしたことでも覇心か王心かと、箸の上げ下ろしにまで心で吟味しなければならない。王伯の弁は天下のことだけだと思うな。今日学者の上にあって天下に遠いものというのは隠者である。その隠者の家内にも王伯はある。茶漬一杯を食わすにも王伯があり、客の供に対して、供の者大儀と言うのにも早くも王伯がある。家来一人使う上にも王伯があり、召使いにやれやれ寒いのに大儀なことと言うのにも、それがすっと出れば王者の心である。この様に労わると奴等が俺をよく思うだろうと思う。それが直に伯心である。今日はここの吟味がないので王伯の弁がはっきりとしない。孟子を「迂遠闊事情」と言うのは、迂遠ではない筈だが道理の通りをされるから迂遠なのである。迂遠が王道である。今日の学者が駆け回って騒ぐのは皆伯心である。先日も言った通り、王道は急な用には立たないもので、先に当てのないこと。自分の明徳を明にして人に及ぼし、それが広がって天下が治まるのが王道で、こちらから両手を広げて出ることではない。淳于髠が「賢者無益于国」と皮肉を言った。なるほどそうである。差し当たって効き目がなければ益はないと言う筈である。一二年には間に合わない。しかし、学者でもとかく心の誠をしようと功夫をすれば今日からでも役に立つ。ここが大切な境目である。
【語釈】
・迂遠闊事情…孟子序説。「游事齊宣王、宣王不能用。適梁、梁惠王不果所言、則見以爲迂遠而闊於事情」。
・賢者無益于國…孟子告子章句下6。「曰、魯繆公之時、公儀子爲政、子柳・子思爲臣。魯之削也、滋甚。若是乎、賢者之無益於國也」。

そこで神宗へ一念心頭へかけて、在審其初而已と告られた。今政に出す上で違たの違はぬのと云ことでなし。だまって巨燵にあたっている。内の心で違ふ。治体の初条に端本誠心とあり、ここにも此誠心とある。これが治体の体の字なり。御前御心にあることと、明道の誠心と云れたが通書を引れて云たことではないが、いつ云てもこう出ることなり。その筈ぞ、濂渓の跡をつがれた明道じゃもの。一手な語が出る筈。政談や經済録が七つ道具を揃へても中々ここはのぞくことはならず。法ですることは周公旦の周礼三百官皆法のこと。それは此次の治法と云がある。王道は体からなり。其体は誠心のことなり。これが料理をするものの魚は新いかと声をかけるやふなもの。肴の新いが体なり。俗儒の治策を云は法をさま々々出す。臺所には鯛も鱸も海老も蚫もあるか、皆肴がふるい。南風にうてた。桓文も料理はよいが鼻持がならぬのは誠心でせぬからなり。心のたきらぬで出すものが皆くさい。初を審にせよはそこを大切に御合点あそばされよとなり。大学序に云天子の元子より凡民俊秀と云もここの吟味なり。大学が廃れると王覇之畧混為一途もそこ。管仲を不知古へ大学之道と云もそこ。
【解説】
「在審其初而已」の説明。誠心が治体の体である。王道は体から始めるのであって、法はその後のことである。体がなくてすることは皆悪い。
【通釈】
そこで神宗に一念心頭へ掛けて、「在審其初而已」と告げられた。今政に出す上で違うとか違わないかと言うことではない。黙って炬燵にあたっている。その内の心で違って来るもの。治体の初条に「端本誠心」とあり、ここにも誠心とある。これが治体の体の字のこと。御前の御心にあることだと、明道は誠心と言われたのだが、それは通書を引用して言ったことではないが、いつ言ってもこの様に出るのである。その筈で、濂渓の跡を継がれた明道だから同じ語が出る筈である。政談や経済録で七つ道具を揃えても、中々ここを覗くことはできない。法ですることでは、周公旦の周礼三百官が皆法のこと。それにはこの次の治法がある。王道は体からである。その体は誠心のこと。これが料理をする様な者が、魚は新しいかと声を掛ける様なもの。肴の新しいのが体である。俗儒が治策を言うのに法を様々に出す。彼等の台所には鯛も鱸も海老も鮑もあるが皆肴が古い。南風に茹でられたのである。桓文も料理はよいが鼻持ちがならないのは誠心でしないからである。心が滾らないので出すものが皆臭い。「審初」は、そこを大切に御合点あそばせと言うこと。大学の序にある天子の元子より凡民俊秀もここの吟味である。大学が廃れると「王覇之略混為一途」となるのも、管仲を「不知古大学之道」と言うのもそこのこと。
【語釈】
・天子の元子より凡民俊秀…大学章句序。「及其十有五年、則自天子之元子・衆子、以至公卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學」。
・王覇之畧混為一途…論語八佾22集註。「楊氏曰、夫子大管仲之功而小其器。蓋非王佐之才、雖能合諸侯、正天下、其器不足稱也。道學不明、而王霸之略混爲一途」。
・不知古へ大学之道…論語八佾22集註。「管仲、齊大夫、名夷吾、相桓公霸諸侯。器小、言其不知聖賢大學之道。故局量褊淺、規模卑狹、不能正身修德以致主於王道」。

致知挌物の知惠を誠意正心とつめるで誠心ぞ。斯つめた心を挙而措之耳と云。庖丁をとぎたててしまって置く。それを出してつかふときは鱠の子もさっさと打てる。政と云ふけもないときに、心と云ものへしまってをくもの。それをあの手でやれのこの手でやれのとすると伯者になる。初めに王心か伯心かと初を審にすることで、何程天下を治めやうとしても心の底にぐしゃ々々々したものがあってはいかぬ。只一心に掛ること。そこで大学に於前王不忘と云が至善になるも、文武の一心の誠にかかるのて忘られすなり。親の忌日の忘られぬと云も、父子の誠の吾をかわいかられたと云誠から忘られぬ。外に仕かけはないことなり。誠が誠へひびくことなり。これが大切なこと。ここの処じゃによって、これからゆけば王道、ここから出ぬと伯者。なるほどに一念心頭について在審其初なり。
【解説】
知致格物で得た知恵を誠意正心と詰めるのが誠心であり、それはしまって置くもの。王心か伯心かと初めを審らかすることが必要である。不要に自らそれを出せば伯者となる。
【通釈】
致知格物で得た知恵を誠意正心で詰めるのが誠心である。この様に詰めた心を「挙而措之耳」と言う。庖丁を砥ぎ立ててしまって置く。それを出して使う時は鱠の子もさっさと打てる。政という気配もない時に、心というものへしまっておくもの。それをあの手でやれとかこの手でやれと言ってすると伯者になる。初めに王心か伯心かと初めを審らかすることが必要で、どれほど天下を治めようとしても、心の底にぐしゃぐしゃしたものがあってはうまく行かない。ただ一心に掛かること。そこで大学で「於前王不忘」と言うのが至善になるのも、文武の一心の誠に掛かることなので忘れられないのである。親の忌日が忘れられないのも、父子が誠から自分を可愛がられたという、その誠から忘れられないのである。外に仕掛けはない。誠が誠へ響くのである。これが大切なこと。そこで、これから行けば王道、ここから行かないのであれば伯者。なるほど一念心頭について「在審其初」である。
【語釈】
・挙而措之耳…大学章句1集註。「正心以上、皆所以脩身也。齊家以下、則舉此而措之耳」。
・於前王不忘…大学章句3。「詩云、於戲前王不忘。君子賢其賢而親其親。小人樂其樂而利其利。此以沒世不忘也」。詩は詩経周頌烈文。

高祖などは大腹中でこだわった心のない人なれども、陳平や張良などと云謀臣がさま々々そくろをかふて一寸耳を引てみたり一寸足を踏て見たりして色々のことをするで、いよ々々權謀を仕覚へて漢一世が皆謀畧の政そ。これは君も臣も詐偽と云を國体にしたぞ。高祖一代かこの手あの手でするゆへ歴々の蕭何や周勃も窂に入り、あの手抦ある韓信も殺してしもふた。誠心沙汰はのふて功業を手抦にするて邪魔になると思ふ。最ふどのやふなものをも切て仕舞やふになる。かわいや功臣をらりにした。初を審にすると云ことを吟味すると云はここを誠心の字につめる吟味なり。去に由て宣帝が吾家王覇をまじゆと云れた。元来高祖などはよくしこむと正大な心もある人。それを陳平張良がついていて奇計をして天下は平治したれとも、王道なとと云ことはゆめにもないことなり。足洗ながら儒者をあしろふたことまでも風斗したことでない。是であいらが頭を押へると威力を示す手のあることなり。
【解説】
初めを審らかにすることの吟味は、誠心を詰めることである。高祖などは度量の大きい人だったが、陳平や張良などの謀臣によって権謀を覚え、それで漢は謀略の政となった。
【通釈】
高祖などは大腹中で拘る心のない人だったが、陳平や張良などという謀臣が様々にけしかけて一寸耳を引いてみたり一寸足を踏んで見たりして色々なことをするので、益々権謀を仕覚えて漢一世が皆謀略の政となった。これは君も臣も詐偽ということを国体にしたのである。高祖一代がこの手あの手でするので歴々の蕭何や周勃も牢に入り、あの手柄のあった韓信も殺してしまった。誠心沙汰はなくて功業を手柄にするから彼等が邪魔になると思い、もうどの様な者でも切ってしまう様になる。可愛い功臣を台無しにした。初めを審らかにするということを吟味するのは、誠心の字に詰める吟味のことである。そこで、宣帝が我が家は王覇を雑ると言われたのである。元来高祖などはよく仕込めば正大な心もある人だったが、それを陳平や張良が付いていて奇計をしたので、天下は平治したが王道などということは夢にもないのである。足を洗いながら儒者をあしらったことまでもが形だけでしたことではない。これで奴等の頭を押さえようと、威力を示す手段として行ったのである。
【語釈】
・大腹中…度量の大きいこと。ふとっぱら。
・そくろをかふて…そくらをかう。けしかける。おだてる。煽動する。

偖、唐の太宗と云になっては﨑嶇反側の甚しい。さて々々手のこんだ心術なり。功業を云へばあの南北朝以来あの通に乱れたをふっくりと治め、礼樂文物まで三代めかせふとされたほどなれども、心へたたると偖々いやな人なり。兄の建成を殺て來て、親の乳をなめられたりする。いやなことをみても至極手のこんだいやみあるぞ。臣下と云も王珪魏徴なとは礼義も達した人であって、漢の始めの治め方とは違い、唐の世はきぬふるいでふるふたやふに能治めたなり。それゆへ漢より唐をば後世も手本にし、貞觀政要と云へば書經からの二番目のやふに心得る者多し。然るに此誠心と云明道先生の王覇の弁になっては以の外の太宗なり。このことを朱子も答陳同甫書に太宗のすることに箸の轉んたことでも利害でせぬことはない、と。見ぬいた云様なり。神宗に此事を告らるる明道はあの時軽い身分なれとも、此語を古の三公の職と見やふことぞ。垩代に三公の天子に告らるると云に此上はなきことなり。孔子は浪人なれとも文宣王に封し、又素王と云名もあるやふに、明道を三公と追号してもよいと云程に見やふこと。かく云へば奇説のやふなれども、三公の職ここにあることなり。さればこそ漢唐の間名郷賢臣をびたたしけれとも如此ことを天子に告げたものありや。なき筈なり。道統を得ぬ人が云はれふ筈はない。
【解説】
唐の太宗は世をよく治めたが、誠心に関して言えば嫌味な人である。朱子は、太宗は全て利害で動いたと言った。この時の明道の身分は軽かったが、心から出たその言は三公のものと同じである。
【通釈】
さて、唐の太宗となっては「崎嶇反側」が甚しくて、実に手の込んだ心術である。功業を言えばあの南北朝以来あの通りに乱れたのをふっくりと治め、礼楽文物まで三代めかそうとされたほどだったが、心へ祟って見れば実に嫌な人である。兄の建成を殺して来て、親の乳を舐めたりする。嫌なことの中に至極手の込んだ嫌味がある。臣下でも王珪や魏徴などは礼儀も達した人であって、漢の始めの治め方とは違い、唐の世は絹篩で篩った様によく治めた。それで後世も漢より唐を手本にし、貞観政要といえば書経から二番目のものの様に心得る者が多い。しかしながら、この誠心という明道先生の王覇の弁になっては、太宗は以の外である。このことについて、朱子も答陳同甫書に、太宗のすることは箸の転んだことでも利害でしないことはないと書いてある。見抜いた言い方である。神宗にこの事を告げられた明道は、あの時は軽い身分だったが、この語を古の三公の職と同じと見るべきである。聖代に三公が天子に告げられるということがこの上もないこと。孔子は浪人だったが文宣王に封じられ、また素王という名もある様に、明道を三公と追号してもよいというほどに見なさい。この様に言うと奇説の様だが、三公の職はここにあること。漢唐の間に名卿賢臣は夥しくいたが、この様なことを天子に告げた者がいただろうか。いない筈である。道統を得ていない人が言える筈がない。

易所謂差若毫釐云々。魂に切つけよと云が爰なり。事の上では差ふことこれほどにはないもの。たとへはここから東金へゆく道にふみ差ふても一里かそこらなり。胷の上のことと云ものは少し違ふても、向ては千里の差いになる。そこで心術が大切なり。とかく事業をあせると云ことはわるいと合点しよふこと。王者はあせらぬ。伯者はとかくあせる。王者は理なりでするによって天下を平にせふとてもあせらぬ。只魂なり。王者は天地さへ位し万物さへ育る。其心術が天下の人へ出るゆへ治國平天下。別にあせりはなし。覇者は天下を平にせふとするでもふあせる。又、隠者のやうに引込でらくがしたい、食たいままと云よりは、万民の為めに辱ひが、さりながらこちにひびくものを持ぬで治体がない。一つして見せふとかかる。其仕て見せふとするでもふ心が留主になる。このやふに心いきの違ふことなり。千里を繆ると云もきこへた。孟子が楊墨の爲我兼愛を、父をなみし君をなみするにいたると云ふた。初の処がこはいもの。垩人のも仁義、揚墨のも仁義なれども、初めの見よふの差ふでさて々々をそろしきことなり。これゆへ王覇と云が何処迠も心法と云ことを吟味するでなければ本のことでない。兎にもかくにも誠心と云につまる。
【解説】
「易所謂差若毫釐、繆以千里者。其初不可不審也」の説明。王覇は事の上に違いは少ないが、心の上では大きな違いとなる。そこで、心術が大切となるのであって、誠心がないのに出てはならない。
【通釈】
「易所謂差若毫釐云々」。魂に切り付けろと言うのがここのこと。事の上ではこれほどに差うことはないもの。たとえばここから東金へ行く道で踏み差えても一里程度だが、胸の上のことは少し違えても、向こうでは千里の差いになる。そこで心術が大切なのである。とかく事業を焦るのは悪いと合点しなさい。王者は焦らない。伯者はとかく焦る。王者は理の通りにするから天下を平にしようとすることでも焦らない。ただ魂による。王者は天地さえ位し万物さえ育す。その心術が天下の人へ出るので治国平天下となる。そこで、別に焦ることはない。覇者は天下を平にしようとすることでもう焦る。また、それは隠者の様に引っ込んで楽がしたいとか食いたいままにというよりは、万民のためにすることなので忝いことなのだが、それでもこちらに響くものを持っていないので治体がないのである。一つして見せようと掛かる。そのして見せようとすることでもう心が留守になる。この様に心意気は違ったこと。千里を繆ると言うのもよくわかる。孟子が楊墨の「為我兼愛」を、父を無みし君を無みするに至ると言った。初めの処が恐いもの。聖人のも仁義、楊墨のも仁義だが、初めの見方の差いで本当に恐ろしいこととなる。そこで、王覇と言っても何処までも心法ということを吟味するのでなければ本物ではない。何と言っても誠心ということに詰まるのである。
【語釈】
・天地さへ位し万物さへ育る…中庸章句1。「致中和、天地位焉、萬物育焉」。
・爲我兼愛…孟子滕文公章句下9。「楊氏爲我、是無君也。墨氏兼愛、是無父也。無父無君、是禽獸也」。

在審其初也。今の学者は心法と云ことが近付てないから政が向へ出たがる。心法と云と禅坊主のやうにをもふが、人心惟危道心惟微。此堯舜の心法なり。論語に政者正なりと云へは政を義政と云そふなものを仁政と云は、仁は心のことなり。仁者心之徳愛之理。心にきまる。心から出ぬ政は高盛の料理なり。寒夜に御衣を拔れたと云は下の為めにはならず、御心のことなり。あれで下の者が暖にはならぬが、あいらも嘸ぞ寒かろふと思召御心が誠心なり。只今の人は圣人の世の政は木に餅のなるやふにめったに金でも下さることと思ふが、垩人の世ならは却てしかられやふと心得るがよし。政を事ばかり思ふからのことなり。事は治法なり。体からは末なこと。垩人の心になるかならぬかと其初を審にすることなり。垩人の誠心と云へば山のあなたのやふに思ふが、その誠心は凡夫も子のかわゆいでみよ。あれが治の体なり。
【解説】
心法とは禅でのことではなく、「人心惟危道心惟微」とある堯舜の心法のこと。政を仁政と言うのも仁が心のことだからである。政を事とばかりに思うのは間違いであり、事は治法であって体から見れば末のことである。誠心は、凡夫でも子を可愛く思うことでわかる。
【通釈】
「在審其初也」。今の学者は心法ということに近付きでないから政が向こうに出たがる。心法と言うと禅坊主の様に思うが、「人心惟危道心惟微」という、この堯舜の心法のことなのである。論語に「政者正」とあるから政を義政と言いそうなところを仁政と言うのは、仁は心のことだからである。「仁者心之徳愛之理」で、心に決まる。心から出ない政は高盛の料理である。寒夜に御衣を脱がれたというのは下のためではなく御心のこと。これでは下の者が暖くはならないが、奴等もさぞ寒かろうと思し召すその御心が誠心である。只今の人は、聖人の世の政は木に餅が成る様に滅多矢鱈に金でも下さることと思うが、聖人の世であれば却ってその様に思うと叱られるだろうと心得なさい。政を事とばかりに思うからその様に思うのである。事は治法であって、体からは末のこと。聖人の心になるのかならないのかとその初めを審らかにするのである。聖人の誠心と言えば山の彼方のことの様に思うが、その誠心は凡夫も子が可愛いことで見なさい。あれが治の体である。
【語釈】
・人心惟危道心惟微…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
・政者正…論語顔淵17。「季康子問政於孔子。孔子對曰、政者、正也。子帥以正、孰敢不正」。
・仁者心之徳愛之理…孟子梁恵王章句上1集註。「仁者、心之德、愛之理」。論語学而2集註。「仁者、愛之理、心之德也」。

惟陛下稽先垩之言。別のことはないによって、堯舜三王のことを二典三謨で考ることとなり。この先垩の二字を大切にみよ。西山の大学衍義や丘氏の衍義補がさま々々なものを出す程、爰へ水をさしたのなり。垩人のことより外は用ぬと云が治体なり。これ、明道の王佐の才なり。衍義などが大学と銘を打て、さて陳平張良なとからあとの豪傑の衆中も治平の役に立つと思ふ。固より益もある。益もあろふとも、あのやふなことを云すに先垩之言と二典三謨はかり出すが明道の大学なり。いかさま看よ。二典三謨を書たら美濃紙一二牧にも書れふが、こればかりでは足らぬと思ふが目のないなり。神宗へ只先垩のことを稽られよとなり。色々のことを見て少しでも伯者の心がはいるともふとり返されぬ。水がさすと元とのき酒にならぬ。ここが大事のことなり。堯舜禹湯のことより外大君の耳へは入れぬが大事の趣向なり。これが眞氏や丘氏の眼に及ぬことなり。
【解説】
「惟陛下稽先聖之言」の説明。堯舜三王のことだけを稽えなさいと明道は言った。陳平や張良など、後の豪傑も治平の役に立ち益もあるが、聖人を稽えるだけでよく、それ以外の者のことを大君の耳に入れないのが大事な趣向である。
【通釈】
「惟陛下稽先聖之言」。別のことはないから、堯舜三王のことを二典三謨で考えなさいと言った。この「先聖」の二字を大切に見なさい。真西山の大学衍義や丘瓊山の衍義補が様々な者を出すほど、ここに水を差すことになる。聖人のことより外は用いないというのが治体である。これが明道の王佐の才である。衍義などが大学と銘を打ち、さて陳平や張良などから後の豪傑の衆も治平の役に立つと思う。固より益もある。益もあろうがあの様なことを言わずに「先聖之言」と二典三謨だけを出すのが明道の大学である。なるほど看なさい。二典三謨を書けば美濃紙一二牧に書くこともできるだろうが、これだけは足りないと思うのが目のないからである。神宗へただ先聖のことを稽られよと言った。色々なことを見て少しでも伯者の心が入るともう取り返すことはできない。水が差すと元の生酒にはならない。ここが大事なところである。堯舜禹湯のことより外は大君の耳に入れないのが大事な趣向である。これが真氏や丘氏の眼に及ばないところである。
【語釈】
・西山…真西山。
・丘氏…丘瓊山。明の瓊山の人。丘濬。字は仲深。号は深菴。

あじなもので、英雄や豪傑のことは人の心へのりつくものゆへに、若ひ学者などがむせふに史記や左傳をよむと了簡が違ふ。大切なことなり。吾黨ても今江戸の同学も小僧ともに史記漢書を讀せるそふなが、道理のわきまへもなくあの春秋戦國の盗人を見るやふなものとものはたらきを見せてどふせふぞ。又功業を好む方からして、湯屋の番頭やほふづきうりの野郎にも学問をすすめてみたがる。これ、伯者のをんべいかづきになるは魂へ水のさしたのなり。幸田へある大名じゃそふな、直方の経済の書は無いかと聞きにこしたよし、余義なきことなり。徂徠の政談、太宰の經済録のあるで直方にもあるべしとて問たでもあろふ。尤なことなり。経済と云て別にあろふはづはないことなり。幸田氏なしと答へて志水三九郎へあとでの咄に、鞭策排釈鬼神集説道学標的、此が直方の経済の書と云てやればよかりたと云はれしよし。長藏物語なり。面白ことなり。訂斎先生の晩年に何か経済の書を出されたと聞て溝口候のそれと云て京都へとりにやったに、論語の語をかいてありしなり。をれが經済はこうじゃと云ふことなり。これ、大眼力。徂徠太宰へのいたづらなり。
【解説】
英雄や豪傑のことは人の心へ乗りが付くが、それで了簡が違って来る。道理をわきまえずにそれを読むのは悪い。ある大名が直方の経済の書はないかと幸田に尋ねたが、経済の書が特別にあるわけではない。訂斎先生も晩年に経済の書を出したが、そこには論語の語が書かれていた。
【通釈】
悪いもので、英雄や豪傑のことは人の心へ乗りが付くものだから、若い学者などが無性に史記や左伝を読むと了簡が違って来る。ここは大切なこと。我が党でも、今江戸の同学も小僧共に史記や漢書を読ませるそうだが、道理のわきまえもなく、あの春秋戦国の盗人の様な者共の働きを見せてどうするのか。また、功業を好む方から、湯屋の番頭やほおずき売りの野郎にも学問を勧めて見たがる。これが伯者の諂いであり、魂へ水が差したのである。幸田に対してある大名が直方の経済の書はないかと尋ね寄越したそうだが、それも余儀ないこと。徂徠の政談や太宰の経済録があるので直方にもあるだろうと思って問うたのだろう。それは尤もなことだが、経済と言っても別にある筈はない。幸田氏はないと答えたが、後に志水三九郎に話すには、鞭策排釈鬼神集説道学標的、これが直方の経済の書だと言って遣ればよかったと言われたそうだ。これは長蔵の話で、面白いことである。訂斎先生が晩年に何か経済の書を出されたと聞き、溝口候が直ぐに京都へ取りに遣ると、論語の語を書いてあった。俺の経済はこうだと言ったのである。これが大眼力で、徂徠や太宰への悪戯なのである。
【語釈】
・をんべい…へつらい者。
・幸田…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・志水三九郎…
・長藏…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830

さて、此稽は書経に稽古帝堯云々をみよ。堯の徳にあの手この手はない。又、稽古帝舜重蕐協于帝。直に堯のやうじゃと云。明道の、御前先垩之言を稽てあの御心になられと云ことなり。允執其中と堯の仰られ、舜も又禹に命ぜり。數多いことはない。そこを御稽なされと云たことなり。これ、明道の王佐なり。するに眞西山や丘氏が漢唐以来のちょろ々々々したものを引き出して勿体ない天子の手本にせふ筈はない。天子の手本には垩人より外のものは手本にならぬ。あの上もない上一人の天子に、氣質人欲のあるどろだらけなものを出すと云は無礼なことなり。英雄豪傑は凡人からはすぐれても、二帝三王からは泥だらけなり。去れとも治平をあせる心からはあの衆もすくれたもので、天下の益になるから出したなれとも大学と云ものではない。小康と云ものなり。但し、人君も垩人を手本にするとせつないから、漢唐を手本にすれば人欲もなり天下も治るからのりがつくなり。漢の高祖が天下を三尺で治めても戚婦人、齊の桓公も内嬖六人、太宗も即天の乱を基す。そんなもの持て來てすこしよいとて漢唐の覇主を人君へ出す。これ人君を侮ると云ものなり。垩人を云は至善なり。英雄豪傑を天子へ申上るは御姫様へきらずを食すやうなものなり。そこで明道の思召はどこまでも堯舜の外に水をささぬか思召なり。孟子齊人が孟子ををふへいと云たれば、我々は君へ堯舜の道より外のことを申上ぬ。我はをふへいではない。齊國中にをれほどな君を敬ふものあるまじと云へり。明道も稽先垩之言と云は、堯舜の道の外御耳へ入れぬと云か直に孟子と同一心なり。
【解説】
明道は、先聖の言を稽えてあの心になられよと神宗に言った。天子に対して気質人欲で泥だらけな英雄豪傑を出すのは無礼なことなのであり、人君を侮ることである。この言は、孟子の「我非堯舜之道、不敢以陳於王前」と同じである。
【通釈】
さて、この「稽」については、書経にある「稽古帝堯云々」を見なさい。堯の徳にあの手この手はない。また、「稽古帝舜重蕐協于帝」ともあり、直に堯の様だと言う。明道は、御前は先聖の言を稽えてあの御心になられよと言ったのである。「允執其中」と堯が仰せられ、舜もまた禹にそれを命じた。数多いことではない。そこを御稽えなされよと言ったのである。これが明道の王佐である。そこで、真西山や丘氏が漢唐以来のちょろちょろとした者を引き出しても、勿体ない天子の手本にする筈はない。天子の手本には聖人より外の者がなることはできない。この上ない上一人の天子に、気質人欲のある泥だらけの者を出すというのは無礼なこと。英雄豪傑は凡人と比べれば優れているが、二帝三王からは泥だらけである。しかしながら、治平を焦る心で言えばあの衆も優れた者で、天下の益になるから西山達も出したわけだが、それは大学というものではない。小康というものである。但し、人君も聖人を手本にするのは切ないもので、漢唐を手本にすれば人欲も成り天下も治まるので乗りが付く。しかし、漢の高祖が天下を法で治めても戚夫人に溺れ、斉の桓公も内嬖六人、太宗も即天武后の乱の基を作った。そんな者を持って来て、少しよいからといって漢唐の覇主を人君へ出すのは人君を侮るというものである。聖人を言うのが至善である。英雄豪傑を天子へ申し上げるのは御姫様へおからを食わす様なもの。そこで、どこまでも堯舜の外に水を差さないのが明道の思し召しである。斉人から孟子が横柄だと言われ、私は君へ堯舜の道より外のことを申し上げない。私は横柄ではなく、斉国中に俺ほど君を敬う者はいないだろうと言った。明道が「稽先聖之言」と言って、堯舜の道の外に御耳へ入れないと言うのが直に孟子と同一の心なのである。
【語釈】
・稽古帝堯…書経堯典。「曰、若稽古帝堯。曰、放勳。欽明文思、安安、允恭克讓、光被四表、格于上下、克明俊德、以親九族、九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和萬邦、黎民於變、時雍」。
・稽古帝舜重蕐協于帝…書経舜典。「曰、若稽古帝舜。曰、重華協于帝。濬哲文明温恭、允塞、玄德升聞、乃命以位」。
・允執其中と堯の仰られ、舜も又禹に命ぜり…中庸章句序。「則允執厥中者、堯之所以授舜也。人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中者、舜之所以授禹也」。
・三尺…法律の称。三尺法。
・内嬖…君主のお気に入りのそばめ。内寵。
・きらず…切らず。雪花菜。豆腐のしぼりかす。おから。うのはな。
・孟子齊人が孟子ををふへいと云た…孟子公孫丑章句下2。「景子曰、内則父子、外則君臣、人之大倫也。父子主恩、君臣主敬。丑見王之敬子也、未見所以敬王也。曰、惡、是何言也。齊人無以仁義與王言者、豈以仁義爲不美也。其心曰、是何足與言仁義也。云爾、則不敬莫大乎是。我非堯舜之道、不敢以陳於王前。故齊人莫如我敬王也」。

察人事之理云々。凡そ人間の身上を云。政事の上にも人家日用も皆人事の理なり。之理と云ふは其上に筋あいありて、こまかに此れはどふしたものと察にすることなり。爰に言外に面白ひことあり。垩賢のことを細かに考るとべったりと人事の理なものぞ。垩賢之言にめったむせふ出まかせはない。二典三謨にてみるべし。あの書経は書物なり。それが今日の人事にすっはと合ふて、某が菴中、あの一人の下女を使ふ迠に用ひらるる。人事之理ゆへなり。たとへは災眚は赦し々々、怙終は殺しつみす。不調法をした家来を重年さするもあり、心にないことはゆるす。一寸したことでも心に一物あれば、あれは使れぬと云て暇をやる。すれば隱者の菴中にも堯舜の政をすると云ふものなり。それは人事之理じゃから、どこへも使はるるなり。それからしては黎民於変時雍烈風雷雨にも弗迷まで、いかさま々々々々と皆人心に合ふことなり。
【解説】
「察人事之理、知堯舜之道備於己」の説明。政事も人家日用も皆人事の理であり、書経に書かれていることが今日の人事にすっかりと合うのである。
【通釈】
「察人事之理云々」。全体、人間の身上のことを言う。政事の上も人家日用も皆人事の理である。「之理」とはその上に筋合いがあることで、細かにこれはどうしたものかと察らかにすること。ここに言外に面白いことがあり、聖賢のことを細かに考えてみるとべったりと人事の理である。聖賢の言に滅多無性な出任せはない。二典三謨で見なさい。あの書経は書物である。それが今日の人事にすっぱりと合い、私の菴中であの一人の下女を使うことまでにそれが用いられる。それは人事之理だからである。たとえば眚災は赦して怙終は殺し罪す。不調法をした家来を重年させることもあり、心にないことは赦すが、一寸したことでも心に一物があれば、あれは使えないと言って暇を遣る。そこで、隠者の菴中でも堯舜の政をするものなのである。それは人事之理だから、何処へも使うことができる。それからして、「黎民於変時雍」から「烈風雷雨弗迷」までが尤もなことで、皆人心に合うのである。
【語釈】
・災眚は赦し々々、怙終は殺しつみす…書経舜典。「象以典刑。流宥五刑。鞭作官刑。扑作教刑。金作贖刑。眚災肆赦、怙終賊刑」。
・重年…奉公人などが年限を重ねること。
・黎民於変時…書経堯典。「黎民於變、時雍」。
・雍烈風雷雨にも弗迷…書経舜典。「愼徽五典、五典克從。納于百揆、百揆時敘。賓于四門、四門穆穆。納于大麓、烈風雷雨弗迷」。

学者が堯舜の道を一つ活して云ふなら、私儀今日より堯舜でいたさふと云ふたとて、心と心のことじゃもの、はまらぬことではない。後家暮[ざや]とは違ふ。はまらぬ。堯舜の道と云ものはよく合点すると、暑き扇をつかひ、寒ひとき火にあたり、のどの渇くに水を呑むやふに、人事の理へべったり々々々々とくる。兎兎角堯舜の道とて山のあなたを尋子、朝鮮の地割を聞やふに思ては役に立ぬ。今日のことか皆先垩之道でなる。さて、ここに知堯舜之道備於己と云を氣を付よ。重言のやふじゃがそふでない。前の誠心而王たりの句へかへすこととみよ。明道の如此に君へさしつけて云はしって、誠心てすれば王たり、假之而覇たりと出す。どっちじゃ、どふなされます々々々々々々々と云やふなり。そこで神宗も堯舜の道はこのましいことなれども、をれが手ぎはにはいくまいとをっしゃるが目に見へてある。そこで神宗の云ぬさきからこの道が山のあなたにあることにあらず、堯舜と申すも己にあり、御前の御手前にありと云。そこで偖は爰にあるかと感発さする。
【解説】
堯舜の道は人事の理へべったりと合うものだから、今堯舜の通りをすることもできる。その堯舜の道は己に備わっているのである。
【通釈】
学者が堯舜の道を一つ活かして言えば、私儀今日より堯舜で致そうと言ったとしても、心と心のことだから嵌らないことはない。後家鞘とは違う。それでは嵌らない。堯舜の道をよく合点すると、暑い時に扇を使い、寒い時に火にあたり、喉が渇けば水を呑む様に、人事の理へべったりと来る。とかく堯舜の道と言っても山の彼方を尋ね、朝鮮の地割を聞く様に思っては役に立たない。今日のことが皆先聖之道でできる。さて、ここにある「知堯舜之道備於己」に気を付けなさい。重言の様だがそうではない。前にある「誠心而王」の句へ返すことと見なさい。明道がこの様に君へ突き付けて、「誠心而王」、「假之而覇」と出した。それは、どちらにされますか、どうなされますと尋ねる様なこと。そこで、神宗も堯舜の道は好ましいものだが、俺の手際ではうまく行かないだろうと仰るのが目に見えていたので、神宗が喋る前にこの道は山の彼方にあるのではなく、堯舜と申すのも己にあるのであって、御前の御手前にあるのだと示したのである。それは、ここにそれがあるのかと感じさせるためなのである。
【語釈】
・後家暮…後家鞘。まにあわせに使用する別な鞘。片割れものにもたとえる。
・地割…地面の割振りをすること。地所を一定の基準によって区画すること。

爰へ一つはづみがつくと宋朝も金へとられはせぬに、さて々々残念なことなり。田子房が魏の文公に何をか咄したれば、文公膝の進むを不覚とあり。又、わるものの商鞅か秦の君へ堯舜の道を説てものりがなく、伯道を云てものりがつかぬ。三番めに国を富そふと云たでのりがついた。神宗も誠心王たりと明道の云はるる爰の処へのりがつけば金へは捕れなんだに、のりがつかぬで宋はあの通りなり。此処に君ののりがつくと明道は宰相になる。明道が宰相になれば宋は王者になる。神宗はよい君なれどものりが付ぬ。王荊公はそこへつけこんでやりた。荊公は神宗を律義すぎるとみた。天子の御身分ではこの位のことは大事ないなどとも云たなり。これで見よ。明道は王佐の才、荊公は伯者の臣なり。其外天変日蝕にも戒入ぬと云。日食も、あれは日月の行度筭用じゃなどとあの学問の才で云ふて、そろ々々人君の心傾が来て君の心ゆるみた。爰が破れの本なり。
【解説】
神宗が明道の言った「誠心而王」に乗りが付けば、宋は金に取られなかっただろう。そこに王荊公がつけ込だ。伯者の王荊公に従ったので君の心が弛み、それが宋の破れる本となった。
【通釈】
爰へ一つ弾みが付くと宋朝も金へ取られなかったのに、本当に残念なことである。田子方が魏の文公に何かを話した時、膝の進むのを文公が不覚に思ったとあり、また、悪者の商鞅が秦の君へ堯舜の道を説いても乗りがなく、伯道を言っても乗りが付かない。そこで三番目に国を富まそうと言ったので乗りが付いた。神宗も「誠心而王」と明道が言われた処に乗りが付けば金へは取られなかったのに、乗りが付かなかったので宋はあの通りとなった。この処に君の乗りが付けば、明道は宰相になった。明道が宰相になれば宋は王者になる。神宗はよい君だが乗りが付かない。王荊公はそこへつけ込んでやった。荊公は神宗を律儀過ぎると見た。天子の御身分ならこの位のことは大したことではないなどとも言った。これで見なさい。明道は王佐の才、荊公は伯者の臣である。その外にも天変日蝕にも戒めは入らないと言い、日蝕も、あれは日月の行度、算用だなどとあの学問の才で言うので、そろそろと人君の心傾が起きて心が弛んだ。ここが破れの本である。
【語釈】
・田子房…田子方。魏の臣。魏成子の推挙で文侯に仕え、文侯の師となるが仕官せずに助言を送った。
・王荊公…王安石。

反身而誠之云々。天子の学問と云に外のことはいらぬ。武王の丹書を大公より受たも、湯王の誠敬日濟るも、湯の盤の銘も反身誠のことで、この外はない。推之とは、あの手この手なく此誠の心のなりを推すこと。洪範皇建有極も君の心が誠になりて此反身誠にするが皇極の立たのなり。及四海と云が外のものをやることでなし。手前で立た皇極を賜ふのなり。すくに洪範に極をたまふとあり、明德を明にしたを天下へ出すことなり。三代の王と云も此外なく、三代の臣と云もこの外はなし。舜臣五人天下治。五人の臣か手傳ふと云ても、明道の云はるるもちがふことはなし。ここの処に君が合点なくては云ほどのことが皆伯心になる。今よほどよい分で経済の書の何のとほしがるが、もし法のことならば、それは訂斎の云はるる明道の十事より外に法はない。あれでよいと云はれた。十事は次の治法の篇にあること。治法一篇が十事ですむ。それから云へば治体の長いことも此条ですむと思べし。
【解説】
「反身而誠之、推之以及四海、則萬世幸甚」の説明。天子の学問は「反身誠」であって、外は要らない。自分の身を誠にして、それを天下に出すのである。治法のことは「十事」で足り、治体はこの条で足りる。
【通釈】
「反身而誠之云々」。天子の学問に外のことは要らない。武王が丹書を太公望より受けたのも、湯王の「誠敬日済」も、湯の盤の銘も「反身誠」のことでこの外はない。「推之」とは、あの手この手ではなく、この誠の心の通りを推すこと。洪範にある「皇建有極」も、君の心が誠になってこの反身誠にするので皇極が立つのである。「及四海」と言うのは外のものを遣ることではない。自分で立てた皇極を賜うのである。直に洪範に極を賜うとあり、それは明徳を明にして天下へ出すことである。三代の王というのもこの此外ではなく、三代の臣というのもこの外ではない。「舜有臣五人天下治」。五人の臣が手伝うと言っても、明道が言われたこともそれと違うことはない。ここの処に君の合点がなくては、言うこと全てが皆伯心になる。今よほどよい身分で経済の書の何のと欲しがるが、もし法のことを言うのであれば、それは訂斎の言う、明道の「十事」より外に法はない。あれでよいと訂斎が言われた。十事は次の治法の篇にある。治法の一篇が十事で済む。それから言えば長い治体のこともこの条で済むものと思いなさい。
【語釈】
・誠敬日濟…詩経商頌長発。「帝命不違、至于湯齊。湯降不遲、聖敬日躋」。
・舜臣五人天下治…論語泰伯20。「舜有臣五人而天下治」。
・十事…治法3を指す。

明道をば神宗もいこう信して居られたが、王荊公でらりにしてしまふた。神宗の政に心のあっただけで却てああなられたも、ちょっとよいかもそっと悪ひなればああはならぬ。もっとよけれは垩人の通にせふと明道へとりつく。又、もっとわるけれは及ぬ々々とそのままにすてる。神宗は中主なり。そこで明道へつかまるにはたぎらぬから、明道のは本んのことなれとも及ばぬとし、又、庸主でないから躍子酒盛せず。とかく王荊公でなくては又只今の間に合ふまいと功業を主にするであの様になりた邊のことが始りて、それから數多の人が死んだ。それを神宗大ふ苦にして煩ひついて崩御なり。王荊公が新法をたて、色々といぢり散かして引こみ、それから温公の出てじきに死なれ、諸君子も手にあまし停調と云こと始り、それから蔡京が出て以の外なていたらくになり、もふばた々々と宋はつぶれた。中比范忠宣韓持國あり、又、伊川の講莚でもとどかぬ。爰が只陛下々々なり。とかくのりのつかぬ処から宋は滅たなり。明道のはるか前に云はるるはそこのことなり。
【解説】
神宗は中位の君だったので明道の言う通りにもできず、逆に放蕩もしなかった。そして王荊公の意見を聞きたので、煩い続けて死んだ。心に乗りが付かなかったので宋は滅んだのである。
【通釈】
明道を神宗も大層信じておられたが、王荊公が台無しにしてしまった。神宗が政に心入れがあった分だけ却ってあの様になられたのだが、一寸よいかもう少し悪ければあの様にはならなかった。もっとよけれな聖人の通りにしようと明道へ取り付く。また、もう少し悪ければ及ばないことだとしてそのままにして捨てて置く。神宗は中主である。そこで明道に掴まるまでには滾らないので、明道のは本来のことだが及ばないものとし、また、庸主ではないから踊り子や酒盛にも耽らなかった。とかく王荊公でなくてはただ今のことに間に合うことができないだろうと、功業を主にしてあの様になった辺りのことが始りで、それから数多くの人が死んだ。それを神宗は大分苦にして煩い続け、崩御した。王荊公が新法を立て、色々と弄り散らかして引っ込み、それから温公が出て直ぐに死なれ、諸君子も手に余して停調が始まり、それから蔡京が出て以の外な体たらくになり、そしてばたばたと宋は潰れた。中頃には范忠宣や韓持国がいた。また、伊川の講莚も届かなかった。ここが「惟陛下云々」ということである。とかく神宗に乗りの付かなかった処から宋は滅んだ。明道が遥か前に言われたのはそこのこと。
【語釈】
・庸主…凡庸な主君。
・温公…司馬光。
・范忠宣…范純仁。范仲淹(范文正)の次子。
・韓持國…韓維。雍丘の人。神宗の時翰林学士に進み、開封の知事となる。哲宗の時に門下侍郎になり、太子少傅で致仕。1017~1098

然れば治体はこわいもの。人の心に騒動の出来る。その出来ぬ前のしむけなり。治体と云は末なことではなし。有物有則なれば公事は誰も捌が、治体と云は必也使無訟乎と大学にある。火事をよく消したと云より火事のないやふにする。其ない処が治体なり。治体は人君の心のことなり。こふなされたら萬世幸甚、万々歳の御目出たとなり。爰は人君の魂へ切こむことで太公望が敬勝怠、武王が周八百年の地基をしたは治体なり。あそこや爰へ釘を一本づつ打やふなことでない。こっは儒者の末務を云上るやふなことではなく、天子へは此通に申上ること。明道のやふに云は子ば上を敬せぬになる。朱子も誠意正心のことを申上ずに我君を欺んやと云へり。伊尹其君を堯舜にと云を見よ。治法は役人のすること。治体は君の御心にあること。軽ひものの申上ることても、君の御心にのって心術からの政なれば治体と云もの。万世幸甚と云文字も天子へ申上る礼式の文言でもあろふなれども、萬世と云が一代ばかりのちょっとしたことではなく、萬代の基業ここにあることなり。
【解説】
治法は役人のすることであり、治体は君の御心にあること。治体は騒動を治めることではなく、騒動を起こさない様にすることであって、万代の基業がそこにある。軽い者が申し上げることでも、それが君の御心に乗った心術からの政であれば治体である。
【通釈】
そこで、治体は怖いもの。人の心に騒動ができる、そのできる前の仕向けが治体である。治体は末のことではない。「有物有則」だから公事は誰もが捌くが、治体とは「必也使無訟乎」と大学にある様に、火事をよく消したと言うよりも火事のない様にすること。そのない処が治体である。治体は人君の心のこと。この様になされたら「万世幸甚」で、万々歳の御目出いということ。ここは人君の魂へ切り込むことで、太公望の「敬勝怠」で武王が周八百年の礎を築いたは治体からである。あそこやここへ釘を一本ずつ打つ様なことではない。木端儒者の末務を言い上げる様なことではなく、天子へはこの通りに申し上げなければならない。明道の様に言うのでなければ上を敬わないことになる。朱子も誠意正心のことを申し上げなければ我が君を欺くことになると言った。伊尹がその君を堯舜の様にしたいと言うのを見なさい。治法は役人のすることであり、治体は君の御心にあること。軽い者が申し上げることでも、それが君の御心に乗った心術からの政であれば治体というもの。万世幸甚という文字も、本来は天子へ申し上げる礼式の文言でもあろうが、万世と言うのが一代限りのちょっとしたことではなく、万代の基業がここにあるのである。
【語釈】
・有物有則…詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則」。孟子告子章句上6にもある。
・必也使無訟乎…論語顔淵13。「子曰、聽訟、吾猶人也。必也、使無訟乎」。大学章句4には、「子曰、聽訟、吾猶人也。必也、使無訟乎。無情者、不得盡其辭、大畏民志。此謂知本」とある。
・敬勝怠…小学内篇敬身。「丹書曰、敬勝怠者吉。怠勝敬者滅」。
・伊尹其君を堯舜に…為学1の語。書経からの引用。書経説命下。「予弗克俾厥后惟堯舜、其心愧恥、若撻于市。一夫不獲、則曰時予之辜」。


第三 伊川先生曰當世之務云々の条

伊川先生曰、當世之務、所尤先者有三。一曰立志、二曰責任、三曰求賢。今雖納嘉謀、陳善算、非君志先立、其能聽而用之乎。君欲用之、非責任宰輔、其孰承而行之乎。君相協心、非賢者任職、其能施於天下乎。此三者本也。制於事者用也。三者之中、復以立志爲本。所謂立志者、至誠一心、以道自任、以聖人之訓爲可必信、先王之治爲可必行、不狃滯於近規、不遷惑於衆口、必期致天下如三代之世也。
【読み】
伊川先生曰く、當世の務め、尤も先にする所の者三つ有り。一に志を立つるを曰い、二に任を責むるを曰い、三に賢を求むるを曰う。今嘉謀を納[い]れ、善算を陳[の]ぶと雖も、君の志先ず立つに非ずんば、其れ能く聽きて之を用いんや。君之を用いんと欲するも、任を宰輔に責むるに非ずんば、其れ孰か承けて之を行わん。君相心を協[あ]わすも、賢者職に任ずるに非ずんば、其れ能く天下に施[し]かんや。此の三つの者は本なり。事を制する者は用なり。三つの者の中、復志を立つるを以て本と爲す。謂う所の志を立つとは、至誠もて心を一にし、道を以て自ら任じ、聖人の訓[おしえ]を以て必ず信ず可しと爲し、先王の治を必ず行う可しと爲し、近規に狃滯[じゅうたい]せず、衆口に遷惑されず、必ず天下を三代の世の如くなるに致すを期するなり、と。
【補足】
・この条は、程氏文集一の「家君の為に詔に応じ英宗皇帝に上る書」にある。

尤先と云が、これが治体なり。法と云ものは數限りもないもの。法は人に歯のあるやふなもの。一本ぬけてもよいとは云れぬ。そこて周礼三百官もあるか、体と云はその前に立つことなり。何と云条目はない。体は條目制札に出すことではない。これを某がここで丁寧に云述るも、此有三と云字がどふやら條目のやふにも見へふかと思て念を入れて云。高祖の約三章とは違ふ。此三つが先大事じゃと云ことで、そこが治体になる。一曰立志。人君の御一心と云ことなり。理は一なれば上も下も同じことでありそふなものなれとも、天下のことは駿河町の越後屋のやふに、旦那にとんじゃくせずにあの如く賈のなると云やふにはいかぬこと。人君の志が第一なり。天下でも大名でも君の志と云でなくてはひびかぬ。依て立志と云を眞初に出したのなり。二曰責任。任は職任なり。役はすわってをる斗りでは役がありても有がひなし。これは伊川の思召ありて云たことと見ゆる。あのときのれき々々衆すわってばかり居たであろふ。任を責ると責るを附たで政の体になることと見よ。迂斎の、してもせいでもよいではないと云た。三曰求賢。天下の賢人を招て諸役人にすることとなり。書にも野無遺賢とも云。これで法でないのが第一知るる。任を責ずにあたま數でしては役に立ぬ。三公は其人がなければ職をあけて置と云。賢でなければならぬ。
【解説】
「伊川先生曰、當世之務、所尤先者有三。一曰立志、二曰責任、三曰求賢」の説明。体は法の前にあるものである。「立志」は人君が志を立てること。「責任」は職任を責めること。「求賢」は天下の賢人を招いて諸役人にすること。
【通釈】
最も先なのが治体である。法は数限りのないもの。法とは人に歯がある様なもので、一本抜けてもよいとは言えない。そこで周礼三百官もあるが、体はそれよりも前に立つものなのである。体にはこれと言った条目はない。体は条目制札に出すことではない。これを私がここで丁寧に言い述べるのも、この「有三」という字がどうやら条目の様にも見えようかと思って念を入れたのである。高祖の約三章とは違う。この三つが先ず大事だということで、そこが治体になる。「一曰立志」。人君の御一心ということ。理は一つだから上も下も同じでありそうなものだが、天下のことは駿河町の越後屋の様に、旦那が頓着しなければあの様に商いが大きくなることがないのと同じである。人君の志が第一である。天下でも大名でも君に志がなくては響かない。そこで立志を真っ先に出したのである。「二曰責任」。任は職任である。座っているばかりでは役があっても有り甲斐がない。これは伊川が思し召しあって言ったことと見える。あの時の歴々衆が座ってばかりいたのだろう。責任と、責めると付けたので政の体になると思いなさい。迂斎が、してもしなくてもよいということではないと言った。「三曰求賢」。天下の賢人を招いて諸役人にすることだと言う。書にも「野無遺賢」とある。これで法でないことが第一にわかる。任を責めずに頭数でするのでは役に立たない。三公は任ずる人がいなければ職を空けて置くという。賢でなければならない。
【語釈】
・高祖の約三章…史記高祖本紀。「吾當王関中與父老約、法三章耳」。殺人・傷害・窃盗のみを罰するという三ヵ条の法。
・野無遺賢…書経大禹謨。「野無遺賢、萬邦咸寧」。

納嘉謀云々。有德の人がありてよいことを君へ申上ても、君の志が立ず用子ば益にたたぬ。孔孟のさぞ嘉謀を云はれたであろふ。直方先生の、孟子が口のすくなる程云たが聾程も聞ぬ。君の志が立ぬゆへなり。非責任宰輔云々。又、君の方は天下を堯舜の世にと志あられても、宰輔がなければならぬ。王一枚では将棊もさせぬ。舜臣五人はそこなり。君相協心云々。天下の任は、宰相は元とよりのこと、外の役人も賢者でなれけばならぬ。四十八鷹皆よいでなけりゃならぬ。此三者本也云々。どふ云法がよいの、こふ云法がよいのと云ても、君と云庖丁が切ると云でなけれは料理はならぬ。君の志が立て老中と心を合せ外役人をつかふよって、君の志を本とと云。この本とは人目にしれぬこと。上の御心が天下の人に知れやふ筈はない。かけた印判を推すと千んをしてもかける。本の印判のわるいゆへなり。きれた筆で書く。いつ迠もぼつ々々と書ける。すれば三つの内で本と云は君の御心が大切なり。
【解説】
「今雖納嘉謀、陳善算、非君志先立、其能聽而用之乎。君欲用之、非責任宰輔、其孰承而行之乎。君相協心、非賢者任職、其能施於天下乎。此三者本也。制於事者用也。三者之中、復以立志爲本」の説明。君の志が立ち、宰輔がいて、賢者が揃うことが政には必要である。その中で君の心が最初である。
【通釈】
「納嘉謀云々」。有徳の人がいてよいことを君へ申し上げても、君の志が立たずそれを用いなければ役には立たない。孔孟はさぞ嘉謀を言われたことだろう。直方先生が、孟子は口の酸くなるほど言ったのだが聾ほどにも聞かれなかったと言った。それは君の志が立たないからである。「非責任宰輔云々」。一方、君の方は天下を堯舜の世にしようとの志があっても、宰輔がなければならない。王一枚では将棋も指せない。「舜臣五人」はそこのこと。「君相協心云々」。天下の任は、宰相は固よりのことで、外の役人も賢者でなれけばならない。四十八鷹が皆よいのでなければならない。「此三者本也云々」。どの様な法がよいとか、この様な法がよいと言っても、君という庖丁が切れるのでなければ料理はできない。君の志が立って老中と心を合わせ、それで外役人を使うのだから、君の志を本と言う。この本は人目にはわからないこと。上の御心が天下の人にわかる筈がない。欠けた印判を押すと千回押しても欠ける。本の印判が悪いからである。切れた筆で書けばいつまでもぼつぼつと書ける。そこで、三つの内で本というのは君の御心であり、それが先ずは大切である。
【語釈】
・舜臣五人…論語泰伯20。「舜有臣五人而天下治」。
・四十八鷹…①あらゆる種類の鷹。②それぞれの役の者が打ち揃っていること。

至誠一心云々。周子の端本誠心と云、次に明道の誠心而王と云、弟の伊川の至誠一心、皆申合せたやふなことぞ。すわ体をとくと云段では、どふもこれからで無ればならぬ。兎角向へ相手を置てすることは至誠一心ではない。ずんと相手をとりたがるもので、学者が道を論するにも、をれはこう思ふと相手をとる。朱子が與今学者並立爭一時之功と云へり。政も学問も我心へくること。至誠一心は相手なしなり。一心と云は誠なりで少とも脇道を見ぬこと。も一つと云ふは一心でない。朱子学もするが老荘も又一理あると云は一心ではない。政も堯舜の道はよいが、又覇術もやら子ばならぬと云は一心でない。後生願信者と云者題目を唱るは余念はなし。あれが一心のもよふなり。文盲も調法なは一心だけ見事なり。学者は小知惠があるで手を出したがる。成敗利鈍非臣之所逆知は孔明が一心なり。不謀其利不謀其功は董子の一心なり。今人は一寸と疱瘡見まいにゆくにも、こふしてをくと何ぞのときの爲めと云様な氣がある。伯者の弟子筋なり。一心ではない。それからこふじては、惻隠の発まであじになる。発る頭は一心ても、ちっと過ると何ぞの役に立たがる。孺子の井に落たをも、をれがあげてやりたとはや親に交りを結ぶ。発する時はそふでないが、烟艸一服の内にかわる。一心ではない。
【解説】
「所謂立志者、至誠一心」の説明。「至誠一心」とは自分に対してのことであり、相手を思ってすることは至誠一心ではない。その「一心」とは、誠の通りで少しも脇道を見ないことである。
【通釈】
「至誠一心云々」。周子が「端本誠心」と言い、次に明道が「誠心而王」と言ったが、弟の伊川の「至誠一心」も皆申し合わせた様なこと。実際に体を説くという段階では、どうもこれからでなければならない。とかく向こうへ相手を置いてすることは至誠一心ではない。しかし、よく相手を取りたがるもので、学者が道を論じるにも、俺はこう思うと相手を取る。朱子が「与今学者並立争一時之功」と言った。政も学問も我が心へ来ることで、至誠一心に相手はない。一心とは誠の通りで少しも脇道を見ないこと。もう一つと言うのは一心ではない。朱子学もするが老荘もまた一理あると言うのは一心ではない。政も堯舜の道はよいが、また覇術もやらなければならないと言うのは一心ではない。後生願う信者が題目を唱える時は余念がない。あれが一心の模様である。文盲が調法なのは一心なだけ見事だからである。学者は小知恵があるので手を出したがる。「成敗利鈍非臣之明所能逆覩」は孔明の一心であり、「不謀其利不計其功」は董子の一心である。今の人は一寸疱瘡見舞いに行くのにも、こうしておけば何かの時のためになるという様な気がある。それは伯者の弟子筋であって一心ではない。それが高じて惻隠の発まで悪くなる。発る初めは一心でも、少し過ぎると何かの役に立てたがる。孺子が井に落ちたことをも、俺が引き上げてやったと早くも親と交わりを結ぶ。発する時はそうではないが、煙草を一服する内に変わる。一心ではない。
【語釈】
・端本誠心…治体1。「端本、誠心而已矣」。
・誠心而王…治体2。「誠心而王、則王矣」。
・與今学者並立爭一時之功…
・成敗利鈍非臣之所逆知…後出師之表。「至於成敗利鈍非臣之明所能逆覩也」。
・不謀其利不謀其功…漢書董仲舒伝。「夫仁人者、正其誼不謀其利、明其道不計其功。是以仲尼之門、五尺之童羞稱五伯」。孟子尽心章句下33集註にもある。

以道自任云々。楊墨を開くばかりが道を任ずるではない。道を任ずるを天子で云が面白ひ。天子の御身で道を任ずるとはどふしたことなれば、やはり浪人儒者が儒佛の弁を任ずるやふに上の御心に道を以て任するなり。上一人て四海の内の人をしいてあらるるなればちっともなるまいと、そこをまけぬことなり。任じ子ばならぬ。日月は無心なれども、あの日月の照すが任なり。日月のをれはてらさぬとは云はぬ。上一人の御方がならぬとは出ぬ筈。伊尹の一夫も其所をと云は残らす任じたのなり。以垩人之訓。垩賢の教が誠に相違ないことと手前の心へ信じ會する。をらには過きものと云ぬこと。寡人不肖などと出ぬがよい。三代の垩王と宋朝と世ははるかのとこなれども、今はならぬことと思召さるるな。成ることじゃとなり。其れを垩人よりは近い唐の太宗をときたがるぞ。それがわるい。人情が上下ともにそふしたものなり。今も手習子今川状をと云、とふぞ論語を合点させたいと云親はすくなし。先王の書はよいとは思へとも、先つ近く貞觀政要と出たがる。
【解説】
「以道自任、以聖人之訓爲可必信、先王之治爲可必行」の説明。君自身が道を任じなければならない。聖人の教えが道だと信じてそれを任じるのである。しかし現実は、先王をよいとは思っても、先ずは近くのものを採りたがる。
【通釈】
「以道自任云々」。楊墨を距ぐばかりが道を任ずることではない。道を任ずることを天子のことで言ったのが面白い。天子の御身で道を任ずるとはどうしたことかと言うと、やはり浪人儒者が儒仏の弁を任ずる様に上の御心に道をもって任ずること。上一人で四海の内の人を施いておられるのだから、少しでもできないなどとは枉げないこと。任じなければならない。日月は無心だが、あの日月は照らすのが任である。日月が俺は照らさないとは言わない。そこで、上一人の御方ができないとは言わない筈である。伊尹が「一夫不得其所」と言ったのは残らず任じたのである。「以聖人之訓」。聖賢の教えは誠に相違ないことだと自分の心に信じ理会する。俺には過ぎたことだとは言わない。寡人不肖などと出てはならない。三代の聖王と宋朝とでは世が遥かに離れたものだが、今はできないことだと思し召されるな、できることだと言った。それなのに、聖人よりは近い唐の太宗を説きたがる。それが悪い。人情が上下共にそうしたもので、今も手習い子に今川状をとは言うが、どうか論語を合点させたいと言う親は少ない。先王の書はよいとは思うが、先ずは近くの貞観政要と出たがる。
【語釈】
・一夫も其所を…為学1の語。書経からの引用。書経説命下。「予弗克俾厥后惟堯舜、其心愧恥、若撻于市。一夫不獲、則曰時予之辜」。
・寡人不肖…「寡人」は王侯が自分を指して使う謙称。「不肖」は謙称。

不狃滯於近規云々。近規は宋の當世のことで云がよし。御先代からかやふの此時節の御振合がこふじゃのと云ふものぞ。近規を垩賢のしたことのやうに思ふものぞ。藥袋もないことを吹上けて先王之道のやふにするが皆近規なり。誰殿の時にこふ定められたと云。其誰殿あてにならぬことなり。狃滯はなれとどこをるで、堯舜の道は講釈しても聞かず知る人なく、誰殿のときこふと云、はやそれを万代の良法のやふに思ふてそこに狃滯する。不遷惑衆口。衆口と云へば君子小人は固りのこと。却て小人は論はないが、君子にもわるいことを云ふがある。とんとそれに搆はず、垩人の云はれた通りのことを御もちひあられよなり。迂斎の、白徒が今勝つやふな助言を云とも、やはり本因坊がとをりにするがよいと云へり。これ、遷惑せぬなり。をとなしそふな役人が、たとひ論語にあろふともと云。利口やけたのはこれて論語にも合ますと云ふが、そこを遷惑せぬなり。衆口爍金と云語もあり、屏風も曲ら子ば立ぬと云ふとも遷惑せぬなり。
【解説】
「不狃滯於近規、不遷惑於衆口、必期致天下如三代之世也」の説明。「近規」を聖賢のしたことの様に思ってするもの。君は聖人の通りをして、その外のことに遷惑してはならない。
【通釈】
「不狃滞於近規云々」。「近規」は宋の当世のことで言うのがよい。御先代の時よりこの様な時節の御振合いはこうであると、近規を聖賢のしたことの様に思うもの。益体無いことを吹き上げて先王の道の様にするのが皆近規である。誰殿の時にこう定められたと言う。その誰殿というのが当てにならないこと。「狃滞」は狃れ滞ることで、堯舜の道は講釈しても聞かず、それを知る人もなく、誰殿の時はこうと言い、早くもそれを万代の良法の様に思ってそこに狃滞する。「不遷惑衆口」。「衆口」と言えば君子小人は固よりのこと。小人は論もないが、却って君子にも悪いことを言う者がいる。それには全く構わず、聖人の言われた通りのことを御用いなされと言った。迂斎が、白徒が今勝つための助言を言うとしても、やはり本因坊の通りにするのがよいと言った。これが、遷惑しないということ。大人しそうな役人が、たとえ論語にあってもと言う。利口に焼けた者はこれで論語にも合いますと言うが、そこを不遷惑である。「衆口爍金」という語もあり、屏風も曲らなければ立たないとも言うが、遷惑しないのである。
【語釈】
・衆口爍金…国語周語下「故諺曰、衆心成城、衆口鑠金」。多くの人の言うことは金をもとかすほどの力をもつ。讒言や世評の恐ろしさを説いた言葉。

あの方では士太夫の廷對とて学者が直に天子へ色々のことを申上ることあり、よいことなれともわるくすると人君遷惑する。宋朝も王荊公が新法を出していぢりちらかした跡へ温公の出られて皆改められて氣味よいやふでありたが、それはよいはと云内につい早く死なれた。范忠宣公其外の歴々衆が出て後は王氏の新法を改たもあまり手荒すぎた、どふても両方の間がよいと調停の説を始めて又王荊公方の者を取用ひたが、其跡へ蔡京がむく々々と出てあの通りらりにした。宋のわるくなったは王荊公と蔡京でわるくはなったが、ただ悪人とばかり見ることではない。どれも学者で一理づつあることを申上る。そこで天子の御心があちへもこちへも遷惑したなり。其以前神宗でからが皆遷惑ぞ。又古今とも年を經ると自然と自分の御心に高ぶりも出る。高ぶるとはや奢るもの。斉の桓公なども晩年には遊山所などの出来たことあり。ゆるむとそこへ佞幸の臣がつけこんで、君の心へはいってぐはら々々々になる。伊川の不狃滞近規不遷惑於衆口は、とかく余のものをよせつけぬなり。どふあろふとも三代の通りになさら子ば治らぬ。あのとをりにととかく三代と申上ることなり。そこを王佐の才と云なり。明道の上の条、伊川の此条、同く人君に大平の体を告けられたことなり。
【解説】
宋は王荊公と蔡京とで悪くはなったが、宋が潰れたのは天子が遷惑したからである。三代の通りにしなければ治まらないと言うのがこの条である。
【通釈】
中国では士大夫の廷対と言って、学者が直に天子へ色々なことを申し上げることがあり、それはよいことなのだが悪くすると人君が遷惑する。宋朝も王荊公が新法を出して弄り散らかした後へ温公の出られて皆改められて気味のよい様であったが、それはよいと言っている内につい早く死なれた。范忠宣公やその外の歴々衆が出た後は王氏の新法を改めたのもあまりに手荒過ぎた、どうしても両方の間がよいと調停の説を始め、また王荊公方の者を取り用いたが、その後へ蔡京がむくむくと出てあの通り台無しにした。宋は王荊公と蔡京とで悪くはなったが、彼等をただ悪人とばかり見てはならない。どちらも学者で一理あることを申し上げる。そこで天子の御心があちらへもこちらへも遷惑したのである。それ以前の神宗でさえ皆遷惑である。また、古今ともに年を経ると自然と自分の御心に高ぶりも出る。高ぶると早くも奢るもの。斉の桓公なども晩年には遊山所などを造った。弛むとそこへ佞巧の臣が付け込んで、君の心へ入ってがらがらにする。伊川の「不狃滞近規不遷惑於衆口」は、とかく外のものを寄せ付けないこと。どうであっても三代の通りになさらなければ治らない。あの通りにしなさいと、とかく三代と申し上げる。そこを王佐の才と言う。明道の前条と伊川のこの条は、同じく人君に太平の体を告げられたこと。
【語釈】
・王荊公…王安石。
・温公…司馬光。
・范忠宣公…范純仁。范仲淹(范文正)の次子。
・蔡京…