第四 比之九五章  二月十一日  文七録
【語釈】
・二月十一日…寛政3年辛亥(1791)2月11日。
・文七…高宮文七。東金市押堀の人。筆記力に優れる。

比之九五曰、顯比。王用三驅、失前禽。傳曰、人君比天下之道、當顯明其比道而已。如誠意以待物、恕己以及人、發政施仁、使天下蒙其惠澤、是人君親比天下之道也。如是、天下孰不親比於上。若乃暴其小仁、違道干譽、欲以求天下之比、其道亦已狹矣。其能得天下之比乎。王者顯明其比道、天下自然來比。來者撫之、固不煦煦然求比於物。若田之三驅、禽之去者從而不追、來者則取之也。此王道之大、所以其民皞皞而莫知爲之者也。非惟人君比天下之道如此、大率人之相比、莫不然。以臣於君言之、竭其忠誠、致其才力、乃顯其比君之道也。用之與否、在君而已。不可阿諛逢迎、求其比己也。在朋友亦然。脩身誠意以待之。親己與否、在人而已。不可巧言令色、曲從苟合、以求人之比己也。於鄕黨親戚、於衆人、莫不皆然。三驅失前禽之義也。
【読み】
比の九五に曰く、比を顯らかにす。王は用[もっ]て三驅して、前禽を失う、と。傳に曰く、人君天下に比する道は、當に其の比の道を顯明にすべきのみ。意を誠にして以て物を待ち、己を恕して以て人に及ぼし、政を發しては仁を施き、天下をして其の惠澤を蒙らしむが如き、是れ人君天下に親比する道なり。是の如くんば、天下孰か上に親比せざらん。若し乃ち其の小仁を暴[さら]し、道に違いて譽れを干[もと]め、以て天下の比を求めんと欲せば、其の道亦已[はなは]だ狹し。其れ能く天下の比を得んや。王者其の比の道を顯明にせば、天下自然に來り比せん。來る者は之を撫するも、固より煦煦[くく]然として比を物に求めず。田の三驅に、禽の去る者は從[はな]ちて追わず、來る者は則ち之を取るが若し。此れ王道の大にして、其の民の皞皞として之を爲すを知ること莫き所以の者なり。惟に人君の天下に比する道此の如くなるのみならず、大率人の相比する、然らざること莫し。臣の君に於るを以て之を言うに、其の忠誠を竭[つく]し、其の才力を致すは、乃ち其の君に比する道を顯らかにするなり。之を用うると否とは、君に在るのみ。阿諛逢迎して、其の己に比するを求む可からず。朋友に在りても亦然り。身を脩め意を誠にして以て之を待て。己に親しむと否とは、人に在るのみ。言を巧[たくみ]にし色を令[よ]くし、曲從苟合[こうごう]して、以て人の己に比するを求む可からず。鄕黨親戚に於る、衆人に於る、皆然らざること莫し。三驅に前禽を失う義なり、と。
【補足】
・この条は、比卦九五爻辞の程伝である。比卦九五は「九五。顯比。王用三驅失前禽。邑人不誡吉。象曰、顯比之吉、位正中也。舍逆取順、失前禽也。邑人不誡、上使中也」である。

天下のことか比むと云にをちるなり。子めつけるの威勢で推すのと云ことはないと合点すべし。威勢で推すの、子めつけるのと云すちあいは天地の間にはないこと。伯者なとは白い歯は見せぬと云。民の父母と云ものではない。そこで比の卦を治体に出した。天下の政は比でもつぞ。時に伯者も好き子めもする、比みもする。そこて朱子が大學の序に權謀術數と云れた。子める流義たと思ふとにこ々々して見せる。さま々々手段あるを權謀術數と云。下から樂只君子民之父母と云も比むこと。比むは和でよいことなれども、いやみにをちることかある。衆人愛敬をうれしかるも比むを急にしたもの。天下の人か君を伯母様のやうにするとうれしがる。そう思はれるもいやなこと。比むは親むことで、親に塩梅のあること。親むにいやみを付すをし出した親み。これは子、是れは兄弟と云やうなもの。顕比なり。いやみな懇はせぬ。
【解説】
「比之九五曰、顯比」の説明。天下の政は比で保つ。比とは、嫌みのない親しみである。伯者は好んで睨みもし、比しみもするが、それは権謀術数である。
【通釈】
天下のことは比[した]しむということ落ちる。睨み付けたり威勢で推すということはないと合点しなさい。威勢で推したり睨み付けたりという筋合いは天地の間にはない。伯者などは白い歯は見せないと言う。それでは民の父母ではない。そこで比の卦を治体に出した。天下の政は比で保つ。時に伯者も好んで睨みもし、比しみもする。そこで朱子が大学の序で権謀術数と言われた。睨むのが流儀だと思っているとにこにことして見せる。様々な手段があることを権謀術数と言う。下が「楽只君子民之父母」と言ったのも比しむこと。比しむのは和でよいことだが、嫌みに落ちることがある。衆人愛敬を嬉しがるのも比しむのを急にしたもの。天下の人は君が伯母様の様になると嬉しがるが、その様に思われるのも嫌なこと。比しむとは親しむことで、親しむのには塩梅がある。嫌みを付けずに推し出した親しみである。これは子、これは兄弟と言う様なもの。それが「顕比」である。嫌みな懇ろはしない。
【語釈】
・民の父母…大学章句10。「詩云、樂只君子、民之父母。民之所好好之、民之所惡惡之。此之謂民之父母」。詩は詩経小雅南山有臺。
・權謀術數…大学章句序。「權謀術數、一切以就功名之説、與夫百家衆技之流、所以惑世誣民、充塞仁義者、又紛然雜出乎其閒」。

王用三驅失前禽は、天子の獵のとき四方へ網を張す三方へはる。前はすすむて獸か三方にかかればとる。まっすぐに進で向へ迯け行くはとらす。これは易の言ゆへ獵に入用はない。なぞをかけたやうなもの。然れとも、実事もありて王制に天子は不合圍とある。実事をなぞにするが比の卦ゆへなり。人を親むとて此方へ親ぬものを手くだをして親ませるはわるい。無理に親ませふとせぬこと。失前禽なり。人君比天下之道。女童のやうに親かよくない。女の情なとと云はをかしひもので、そっと果子を袂へ入て、そなたにはかりやる、必云な、人に隠せと云女心。そのやふなことては笑が、わるくするとそっと果子をやるやうな筋がある。比道はさっはりとすること。上で下を可愛かるとても小児のほふをなでるやうにはせぬ。君子の交は淡して水の如し、小人の交は醴の如しと云もこれなり。比道と云ても上からあたためてくれるやふなことではない。道理なりにする。
【解説】
「王用三驅、失前禽。傳曰、人君比天下之道、當顯明其比道而已」の説明。自分に親しまない者を無理に親しませようとはしない。「比道」は道理の通りにすることであり、さっぱりとしたものである。
【通釈】
「王用三駆失前禽」は、天子が猟の時に四方へ網を張らず三方へ張る。「前」は進むの意で、獣が三方にかかれば捕る。真っ直ぐに進んで向こうへ逃げて行ったのは捕らない。これは易の言であって猟には不要なこと。これは謎を掛けた様なもの。しかしながら、実事もあって王制に「天子不合圍」とある。実事を謎にするのが比の卦だからである。人を親しむと言っても自分に親まない者を、手管を使って親しませるのは悪い。無理に親しませようとはしない。それが「失前禽」である。「人君比天下之道」。女童の様に親しむのがよくない。女の情などというのは可笑しなもので、そっと菓子を袂へ入れて、貴方だけに遣るのだから誰にも言うな、人には隠せと言うのが女心。その様なことでは笑うが、悪くするとそっと菓子を遣る様な筋がある。「比道」はさっぱりとすること。上が下を可愛がるのも小児の頬を撫でる様にはしない。君子の交わりは淡にして水の如し、小人の交わりは醴の如しと言うのもこれ。比道と言っても上から温めてくれる様なことではなく、道理の通りにすること。
【語釈】
・天子は不合圍…礼記王制。「天子不合圍。諸侯不掩群」。
・君子の交は淡して水の如し…荘子山木。「君子之交淡若水、小人之交甘若醴。君子淡以親、小人甘以絶」。

誠意。大學の誠意のやうに見ることではない。意は心のこと。心を誠にすると云ことなり。恕己はこの方の通にすること。范忠宣公の云やったすじとは當りがちごふ。己より恕り、をれもひたるいゆへあれらもひたるかろふと云。兎角人君の心があれらもひだるかろふと取ぬもの。処を、己をくらべてみて人を恕る。周公の在番のものを憐むを小雅中の詩や東山の詩でみるがよい。歴々方は在邑ても在所にも御部屋もあり、平居の侍俸に不足はないが、軽ひものは妻子に離れること、何程武士の武を磨く風でも年よりては女の介抱てなければならぬ。六十にも及へば平生は夜る臥すなどにも下女でもきて寢所をしき、夜着をかけをしつけると云ことでよいのに在番ではそれもなく、奴や若黨がするゆへこまる。周公などはそこまでも思ひやらるるならん。泰平の世で在番の太義なと云も、つまり女房などがそこにをらぬゆへ迷惑なものなり。この筋も恕るの一つなり。比の卦と云て比らしいことはなくて、すらりとそふでなければならぬこと計出してをかれた。そこに氣を付べし。これが伊川の思召。そこがいやらしくない、舌たるくない比なり。挌別な懇の仕様てもないか、云分がないゆへ天下孰不親比於上。
【解説】
「如誠意以待物、恕己以及人、發政施仁、使天下蒙其惠澤、是人君親比天下之道也。如是、天下孰不親比於上」の説明。「誠意」は心を誠にすることで、「恕己」は自分の思いの通りにすること。己を比べて見て人を恕るのである。
【通釈】
「誠意」。これを大学の誠意の様に見てはならない。意は心のことで、心を誠にするということ。「恕己」は自分の思いの通りにすること。范忠宣公の言った筋とは当たりが違う。己より恕[おもいや]り、俺もひもじいので彼等もひもじかろうと言う。とかく人君の心は彼等もひもじかろうと思わないもの。その処を、己を比べて見て人を恕る。周公が在番の者を憐れむところを小雅中の詩や東山の詩でみなさい。歴々方は在邑でも在所でも御部屋もあり、平居の侍俸に不足はないが、軽い者は妻子に離れることはいかに武士の武を磨く風でも、年が寄っては女の介抱でなければならない。六十にも及べば平生は夜臥す時などにも下女でも来て寝床を敷き、夜着を掛けてくれるのでよいのに、在番ではそれもなく、奴や若党がそれをするので困る。周公などはそこまでも思い遣られたのだろう。泰平の世で在番が大儀だと言うのも、つまりは女房などがそこにいないから迷惑なものだと思うのである。この筋も恕るの一つである。比の卦と言っても比らしいことはなく、すらりとそうでなければならないことばかりを出して置かれた。そこに気を付けなさい。これが伊川の思し召しであって、嫌らしくなく、舌たるくない比である。格別で懇ろな仕様でもないが、言い分がないので、「天下孰不親比於上」となる。
【語釈】
・范忠宣公の云やったすじ…大学或問。「以恕己之心恕人」。
・舌たるく…①物の言い方がなまめき甘えたさまである。②しつこく好意を示すさまである。

若乃暴其小仁違道干譽は、先軰の云はるる彼酒を泉水にいれた筋で、ああ皆飲せたいが酒がないと泉水へ入れて、これて飲たと思てくれろと云。いやなこと。皆にのませる程なくは、こい々々とさきへ來たものに飲せてそれでよい。泉水へ酒を入れたは比を知らせふとてなり。直方先生の、腹を下すであろふと云はれた。下の者か一杯食ふ。齊桓晋文も一盃食せた。食せても治たがよいと云ふか、それをしをふせたときの心もちがさて々々小い心なり。本の比は雨露の育のやふなもの。雨露の育でなけれは何も出来ぬ。飜車で水を汲あけるは火ても消にはよいが、万物をてかす役には立ぬ。鄭子産が以其乘輿済人於湊洧を孟子の呵られたかそれじゃ。寒かろふ、此の車にのれと云は親切なやうなれとも、一度々々に駕篭には乘せられぬ。道理の上からすることは、そのやうにこせ々々とはせぬ。王道は月のさすやふなもの。灯烑はいらぬ。江戸なとのやふなあの人こみの処て、大晦日にそれ灯烑々々と云ては天下の勢でも間に合ぬ。子が親を大切にするやふなもの。親に何を貰てそのやふに大切にすると云と、何も貰はせぬが親だから大切にすると云。上を親のやふにする。なぜ親のやうにすると云に、誰も知らぬか靣白ひこと。
【解説】
「若乃暴其小仁、違道干譽、欲以求天下之比、其道亦已狹矣。其能得天下之比乎。王者顯明其比道、天下自然來比。來者撫之、固不煦煦然求比於物」の説明。比は雨露が育む様なもので、王道は月の射す様なもの。子が親を大切にするのは当然なことで、それに当てはない。
【通釈】
「若乃暴其小仁違道干誉」は、先輩の言われたあの酒を泉水に入れたの筋で、ああ皆に飲ませたいが酒がないと泉水へ入れて、これで飲んだと思ってくれと言う。それは嫌なこと。皆に飲ませるほどなければ、来い来いと呼んで先に来た者に飲ませればよい。泉水へ酒を入れたのは比を知らせようとしてのこと。直方先生が、腹を下すだろうと言われた。下の者が一杯食う。斉桓晋文も一杯食わせた。食わせても治めた方がよいと言うが、それをし遂げた時の心持ちが実に小さい。本当の比は雨露が育す様なもの。雨露が育さなければ何もできない。竜骨車で水を汲み上げるのは火でも消すにはよいが、万物を育てる役には立たない。鄭の子産の「以其乗輿済人於湊洧」を孟子が呵られたのがそれ。寒かろう、この車に乗れと言うのは親切な様だが、駕篭に毎度は乗せられない。道理の上からすることは、その様にこせこせとしたものではない。王道は月の射す様なもの。提灯は要らない。江戸などの様なあの人ごみの処で、大晦日にそれ提灯をと言っても、それは天下の勢いでも間に合わない。それは、子が親を大切にする様なもの。親に何を貰ったからその様に大切にするのかと聞くと、何も貰いはしないが親だから大切にすると言う。上を親の様にする。何故親の様にするのかと聞いても誰も知らないのが面白い。
【語釈】
・酒を泉水にいれた…
・飜車…竜骨車。水をすくいあげて田に注ぐ揚水機。
・以其乘輿済人於湊洧…孟子離婁章句下2。「子産聽鄭國之政、以其乘輿濟人於溱洧。孟子曰、惠而不知爲政」。
・灯烑…提灯?

去者從而不追來者則取之。猪獵ゆへ網へかかりたものは取るか、是非取ふとはせぬ。垩賢の心はひらたく云へは氣はもまぬと云やうなもの。何でも自然なものに氣はもまぬ。我子を可愛かるやうなもの。かへりをとる心はない。子ともがす子ると父が打捨てをけと云。他人の子を預るとそふはならぬ。氣をもむなり。婦[よめ]と云と、里へ對してそふはならぬと云。我生んだ子にはそれかない。王者は天下の民が手前の生んだ子ゆへ氣をもまぬ。民も難有かりもせぬ。王者之民皞々如と孟子云へり。そのこと荘子かよく云へり。耕田而食鑿井而飲帝力何有於我と云た。上に思ひ付ぬことに聞と違ふ。毎日日月に礼を云はぬやふなもの。灯烑を借ると礼を云子ばならぬ。
【解説】
「若田之三驅、禽之去者從而不追、來者則取之也。此王道之大、所以其民皞皞而莫知爲之者也」の説明。聖賢の心は気を揉まないという様なもの。自然なものに気を揉むことはない。王者は天下の民を自分の子の様に思うから気を揉まない。民も王者を日月の様に思うから、敢えて礼を言うこともない。
【通釈】
「去者従而不追来者則取之」。猪猟なので網に掛かったものは捕るが、是非に捕ろうとはしない。聖賢の心は平たく言えば気は揉まないという様なもの。何でも自然なものは気は揉まない。それは、我が子を可愛がる様なもの。見返りを取る心はない。子供が拗ねると父が打ち捨てて置けと言うが、他人の子を預かればそうは行かない。気を揉む。嫁なら里に対してそれではならないと言うが、自分の産んだ子にはそれがない。王者は天下の民が自分の産んだ子なので気を揉まない。民も有難がりもしない。「王者之民皞々如」と孟子が言った。そのことを荘子がうまく言った。「耕田而食鑿井而飲帝力何有於我」と言った。上のことに思い付かないと考えるのは間違いである。それは、毎日日月に礼を言わない様なもの。提灯を借りれば礼を言わなければならない。
【語釈】
・王者之民皞々如…孟子尽心上章句13。「孟子曰、霸者之民、驩虞如也。王者之民、皞皞如也」。
・耕田而食鑿井而飲帝力何有於我…十八史略鼓腹撃壌。「日出而作、日入而息鑿井而飲、耕田而食、帝力何有於我哉」。

非惟人君比天下之道如此。人へ交もこれ。比むはいやらしいがよくない。臣の方から君を親むも比。これからは下から上を親むことなり。親みらしくないことをならべて云が伊川の趣向なり。舌たるいやうなは伯者の比み。臣が君に親むとて何も外のことはない。只竭其忠誠也。子夏事君能致其身か比君之道を云た。比の卦は、それ比と云て事も大そふに比むと云とわるい。さっと云かよい。君臣之義は小学で聞たこと。比の卦の比道と云、君臣の義の小学で聞た外にあるかと云に、あの外をするといやなことになる。小学の通にするとそれでよい。医者の煎藥の外に龍眼肉はこちで入ると云やうなことはない。
【解説】
「非惟人君比天下之道如此、大率人之相比、莫不然。以臣於君言之、竭其忠誠、致其才力、乃顯其比君之道也。用之與否、在君而已」の説明。臣が君に比しむのは忠誠からするのこと。君臣には君臣の義があり、それは小学の通りにするだけでよい。
【通釈】
「非惟人君比天下之道如此」。人に交わるのもこれ。比は嫌らしいのが悪い。臣の方から君を親しむのも比で、これからは下から上を親しむことを言う。親しみらしくないことを並べて言うのが伊川の趣向である。舌たるいやうなことは伯者の比しみである。臣が君に親しむと言っても何も外のことではなく、「只竭其忠誠也」である。子夏の「事君能致其身」が君に比しむ道を言ったこと。比の卦では、それ比だと言って大層なことの様に比しむのは悪い。さっと言うのがよい。君臣の義は小学で聞いたこと。比の卦で比道と言うが、君臣の義が小学で聞いた外にあるのかと言えば、あの外をすると嫌なことになる。小学の通りにすればそれでよい。医者の煎じ薬の外に、龍眼肉は自分で入れるという様なことはない。
【語釈】
・子夏事君能致其身…論語学而7。「子夏曰、賢賢易色、事父母、能竭其力、事君、能致其身。與朋友交、言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣」。

阿諛逢迎はあわせかけること。皆君へあわせるか、別して君の側近く居る者は阿諛逢迎なものなり。世々君の氣に入るものに目端のきかぬものはない。小人は皆目端がきく。某なとのやうな下女を一人仕ふものも、ここで一抔のんだらよからふと思ふ処へかんてもしてくると機嫌がよい。人君か人欲をあちへやりこちへやりて、ちと茶の湯もしてみたいとか、此儉約の節にしたら家老ともがどふ云をふかと云処を、何院さまも成されましたと云。逢迎は君の云はぬ先きに云。そこで君も比み、そふした家来なれば煩ふとはや使を下され、御膳下を下されると云やふになるものそ。阿諛逢迎か上手ゆへ比まれるやうなことはこちにはない。こちのは道理なりにする比み。道理なりにする比みは古今人君の嫌ひもの。道理なりの好きなは賢君と云。ただの君は太極なりのつめたい比みは嫌ひなり。大工に酒は飲せるが作料はやらぬと云。酒は飲ませずと作料をはやくやるがよい。これか比なり。後世の比みか皆それ。道理の外をして我方へひいきのつくやふにするそ。実は利心そ。こちへひったくろふとする。人君はかりてない。大工をつかふにもこれかある。
【解説】
「不可阿諛逢迎、求其比己也。在朋友亦然。修身誠意以待之。親己與否、在人而已」の説明。世々君の気に入る者に目端の利かない者はいない。また、小人は皆目端が利く。彼等は「阿諛逢迎」で親しまれようとする。古今の人君は「阿諛逢迎」を好み、賢君は道理の通りの比しみを好むのである。
【通釈】
「阿諛逢迎」は合わせ掛けること。皆君へ合わせるが、特に君の側近くにいる者は阿諛逢迎なものである。世々君の気に入る者に目端の利かない者はいない。小人は皆目端が利く。私などの様に下女を一人使う者も、ここで一杯飲んだらよいだろうと思う処へ燗でもして来ると機嫌がよい。人君が人欲をあちらへ遣りこちらへ遣って、少々茶の湯もしてみたいとかと思い、この倹約の折りにそれをしたら家老共がどう言うだろうかと思う処に、何院様も成されましたと言う。逢迎は君の言わない先に言う。そこで君も比しみ、その様な家来が患うと直ぐに使いを下され、御膳下を下されるという様になるもの。阿諛逢迎が上手で比しまれる様なことはこちらにはない。こちらのは道理の通りにする比しみである。道理の通りにする比しみは古今人君の嫌いなもの。道理の通りが好きなのを賢君と言う。ただの君は太極のままの冷たい比しみは嫌いなのである。大工に酒は飲ませるが作料は遣らないと言う。酒は飲ませなくても作料を早く遣るのがよい。これが比である。後世の比しみが皆それ。道理の外をして自分に贔屓が付く様にする。実はそれが利心である。こちらへひったくろうとする。それは人君のことだけではない。大工を使うのにもこれがある。

道理の當然て出合。巧言令色ては出合ぬ。巧言令色、論語の真向はこれをして人によく思はれること。ここと大く違ふたことではない。ここは朋友の交をよくすること。あの人と一生懇をし比を全くせふと云の、巧言令色なり。朋友をごりて羅紗をかふは、此節はをきやれと云へきなり。それを其元は高ひ羽織を着るかやっはりそれが得用じゃ、をごりとも違ふと云と嬉しかりて人を知た人じゃと云。貴様の酒は筥根を越た酒じゃと云も吐血をもすることを喜で、あの人のやうに云へばよいと云。垩学は道理なりゆへさっはり々々々々とすること。孟子の弟子は萬章公孫丑ただ二人。もちっとありそふなものなれとも、孟子がさっはり々々々々とするゆへあまり人好きがせなんだであろふぞ。今日孟子を講釈にしてさへのりの付て靣白ひこと。それに大勢こぬはさっはり々々々々をきらふてのことなり。郷黨親戚は、一在所のものより親類縁者をしくるめ一通りの近付も、我と知る人は道を通る人とは違ふ。それと結が比道の比の字。比む道は三驅失前禽之義なり。したたるい道はふるまわぬ。なせか年始にこぬと云はは舎てをくがよい。それても比むは向へ蜘の巣をかけるやふなもの。垩賢の道は何も角も天から出る。天は雨露の育ひはかり。芋からを榎のやうにしたいの、笹を松の木のやふにしてやりたいのと云ことはない。天からは雨露のめぐみを下されたぎりのこと。
【解説】
「不可巧言令色、曲從苟合、以求人之比己也。於鄕黨親戚、於衆人、莫不皆然。三驅失前禽之義也」の説明。巧言令色で朋友との交わりをよくしようとするのは悪い。比道は「三駆失前禽之義」でするのである。
【通釈】
道理の当然で出合い、「巧言令色」では出合わない。巧言令色とは論語の正反対で、これをして人によく思われようとすることで、ここと大きく違ったことではない。ここは朋友の交わりをよくすること。あの人と一生懇ろをして比を全うしようとするのは巧言令色である。朋友が奢って羅紗を買おうとすれば、この節は止めて置けと言うべきである。それを、やはり貴方には高い羽織を着るのが得用なことだ、それは奢りとは違うと言えば嬉しがって、人を知った人だと言われる。貴様の酒は箱根を越えた酒だと言うのも、吐血をもすることを喜んで、あの人の様に言えばよいと言う。聖学は道理の通りでさっぱりとしたこと。孟子の弟子は万章公孫丑ただ二人。もう少しいそうなものだが、孟子がさっぱりとしていたからあまり人好きがしなかったのだろう。今日孟子を講釈してさえ乗りが付いて面白いのに、それでも大勢来なかったのはさっぱりを嫌ってのこと。「郷党親戚」は、一在所の者より親類縁者押し包め一通りの近付きのことで、自分を知る人は道を通る人とは違う。それと結ぶのが比道の比の字。比しむ道は「三駆失前禽之義」でする。舌たるい道は振舞わない。何故か年始に来ないという者は捨てて置くのがよい。それでも比しむのは向こうへ蜘の巣をかける様なもの。聖賢の道は何もかも天から出る。天は雨露の育みだけ。芋茎を榎の様にしたいとか、笹を松の木の様にしてやりたいと言うことはない。天からは雨露の恵みを下されるだけである。
【語釈】
・巧言令色…論語学而3。陽貨17。「子曰、巧言令色、詳矣仁」。
・孟子の弟子は萬章公孫丑ただ二人…孟子序説。「退而與萬章之徒序詩書」。


第五 古之時公郷大夫而下の条

古之時、公卿大夫而下、位各稱其德。終身居之、得其分也。位未稱德、則君擧而進之。士脩其學、學至而君求之。皆非有預於己也。農工商賈、勤其事而所亨有限。故皆有定志、而天下之心可一。後世自庶士至於公卿、日志於尊榮、農工商賈、日志於富侈。億兆之心、交騖於利、天下紛然。如之何其可一也。欲其不亂難矣。
【読み】
古の時は、公卿大夫より下、位各々其の德に稱[かな]う。身を終うるまで之に居るは、其の分を得ればなり。位未だ德に稱わずんば、則ち君擧げて之を進む。士は其の學を脩め、學至りて君之を求む。皆己に預ること有るに非ざるなり。農工商賈は、其の事を勤めて亨[う]くる所限り有り。故に皆定志有りて、天下の心は一にす可し。後世は庶士より公卿に至るまで、日に尊榮を志し、農工商賈、日に富侈を志す。億兆の心、交[こもごも]利に騖せ、天下紛然たり。之を如何ぞ其れ一にす可けんや。其の亂れざるを欲するも難し。
【補足】
・この条は、履卦彖伝の程伝である。履卦は「履虎尾不咥人。亨。彖曰、履、柔履剛也。説而應乎乾。是以履虎尾不咥人、亨。剛中正、履帝位而不疚、光明也。象曰、上天下澤履。君子以辯上下、定民志」である。

三代の世の結搆なと云は、野に無遺賢ともあり、賢者が皆上へ出て居る。そこて公郷太夫になるべき人が公郷太夫になる。證拠を出して見れば周礼三百官に役人かある。それに丁どよい人をはめる。家老の用人のと云と從士頭は使ひやふが違ふ。奧家老にしてよいがあれば、纏奉行にしてよいがある。上の方に目があいて居るゆへ丁どになる。終身居之は、鳥は空を飛で水中に入てみたいと云はず、魚は水中に居て飛で見たいと云ことはない。鳥は空、魚は水、それ々々にをるなり。丁と其やうなことなり。人君は上に居て只目を睡て居ことと思ては違ふ。德のある人が輕い役を勤て居る。天下が廣ゆへにそんなものもあろふが、ぢきに取上る。孔子のやふな聖人でも、ぎゃっと生れると皆々が垩人じゃと知るはづはない。下に隠れて居ることからぞ。それを堯舜の世は直に取挙るなり。德のある人が下位に居る。德のある人は重ひ位に居るべきものなれとも下位にいる。それと云て取上る。学者も古は向へ目をかける氣かない。あちで取上る。
【解説】
三代の世が結構なものと言うのは、上の方の目が確かで、人々をそれぞれに合った役に採り上げ、遺賢が野にいることがないからである。古の学者は自分から売り込むことをしなくても、上が正しく採り上げたのである。
【通釈】
三代の世を結構なものだと言うのは、「野無遺賢」ともあり、賢者が皆上へ出ているので、公卿大夫になるべき人が公卿大夫になるからである。その証拠を出して見れば周礼三百官という役人がある。それに丁度よい人を嵌める。家老や用人と言えば従士頭とは使い様が違う。奥家老にしてよい者がいれば、纏奉行にしてよい者がいる。上の方の目が確かなので丁度になる。「終身居之」は、鳥は空を飛んで、水中に入ってみたいとは言わず、魚は水中にいて、飛んで見たいとは言わない。鳥は空、魚は水、それぞれの場にいる。丁度その様なこと。人君は上にいてただ眠っていると思うのは違う。徳のある人が軽い役を勤めている。天下は広いのでそんな者もいるだろうが、直ぐにその者を採り上げる。孔子の様な聖人でも、おぎゃーと生まれた時に皆々が聖人だと知る筈はない。下に隠れていることから始まる。それを堯舜の世は直ぐに採り上げる。徳のある人が下位にいる。徳のある人は重い位にいるべきものだが下位にいる。それと言って採り上げる。学者も古は向こうへ目を掛ける気はない。あちらで採り上げるのである。
【補足】
・野に無遺賢…書経大禹謨。「野無遺賢、萬邦咸寧」。

後世は下から咳はらいをして出たがる。今のやふに学者が学問をするに向を目指すことはない。学問を賣ふとせずと、学問がよいと古はあちから求之なり。蔡人尠習戴記、あのやふなことはない。出世をすることかこの方にあつかることてはない。今は此方から手を出す。宋朝はなをそれなり。此方から手を出は鰯賣の鰯を買ぬかとよんであるく様なもの。周礼の考工記に職人が立てをる。弓師は一生弓師、矢師は一生矢師、百姓は一生百姓になってをる。先日出處の篇て云とをり、後世の人は尻か軽ひ。百姓程落付てよいものはないが、何ぞよいことがあらばと弟に跡を譲て出やふと云。垩賢の世をはなれると兎角上の方へ目かつく。浪人儒者も上へ心す。状元に及弟をすると宰相にもなる。状元々々と呼ゆへ状元宰相と云。謝枋得や文天祥でみへる。日本の学者に其やうなはない。学者はとと貧乏が多し。よく々々で三十人扶持、もそっとよい分んで二百石か三百石。そこで誰もあの方の學者のやふに嬉しからぬ。某などが幼年から仕をうれしからぬもそれ。二百石三百石を結搆なとは思はぬからそ。かわいそふに宋朝の俗学を輕く云ことではない。学士から御老中にもならるる。しかも多くなったはさ。それゆへあがきつめにあかいてをるも尤なり。我等式が志を尚ふするとみせて筭用だけひのなり。宋朝にでも生れたらばもがくてあらふなり。
【解説】
後世は下の者が自分を売り込む。古は個々の仕事が決まっていて、それを替えることはなかったが、後世はよりよい職を求めて出ようとした。それが宋朝では特に激しかった。それも、多くの学士が出世をしたからである。日本の学者は出仕をしても大したことはなくて貧乏な者が多いが、宋朝に生まれていれば同じことをしただろう。
【通釈】
後世は下の者が咳払いをして出たがる。古は今の様に学者が学問をするのに向こうを目指すことはない。学問を売ろうとはしなくても、学問がよいと古はあちらから求められた。「蔡人尠習戴記」という様なことはない。出世をすることはこちらに与ることではない。今は自分から手を出す。宋朝は尚更そうである。自分から手を出すのは鰯売りが鰯を買わないかと呼び歩く様なもの。周礼の考工記に職人のことが決めてある。弓師は一生弓師、矢師は一生矢師、百姓は一生百姓になっている。先日出処の篇で言った通り、後世の人は尻が軽い。百姓ほど落ち着いてよいものはないが、何かよいことがあればと弟に跡を譲って出ようとする。聖賢の世を離れると、とかく上の方へ目が付く。浪人儒者も上へ志す。状元に及第すると宰相にもなる。状元々々と呼ぶので状元宰相と言う。それが謝枋得や文天祥でわかる。日本の学者にその様なことはない。日本の学者は結局貧乏が多い。よくて三十人扶持、もう少しよいと二百石か三百石。そこで誰も中国の学者の様には嬉しがらない。私などが幼年から出仕を嬉しがらないのもそれでである。二百石三百石を結構なものなどとは思わないからである。可愛そうにと、宋朝の俗学を軽く見てはならない。学士から御老中にもなることができる。しかも多くの人がなった。それで足掻き詰めに足掻いていたのも尤もなこと。私達程度の者は志を尊ぶと見せても算用高いだけなのである。宋朝に生まれていたらもがくだろう。
【補足】
・蔡人尠習戴記…出處24の語。
・状元…中国で、進士の首席合格者。
・謝枋得…字は君長、号は文節。南宋が元の侵攻を受けると、これに抵抗した。元の仕官の誘いを拒絶し、北京に連行されたが自決した。
・文天祥…字は一説に宋瑞。号は文山。20歳にして科挙に状元で及第、累進して丞相に至る。元に囚われ刑死。1236~1283

この条を治体にのせたが聞へた。天下の政の根になるか治体。天下のためには学問するものがなる。その学問をするものか足がすわらず、向の方へ々々々々ときょろつく。其段になると日本の武士よりをちている。武士は片意地に武を磨てをるだけよい処かある。宋朝なとは上へ々々と目がついて定心がないゆへ、どこへたをれるも知れぬ。公郷太夫の歴々まで上を目がけてをる。それをま子る下ゆへ農工商買迠栄曜する。身上に定たことかないゆへなり。足輕のあてかいと中間のもっそふて食はかきりがある。あの中にもをごる氣のものもあろふが、をごられぬ。足輕に縮緬の羽織を着ると咎められたこともないはなぜなれは、今も足輕中間は志が定てをる、尊栄に志ぬものゆへそ。先王の世は百姓も身上がきまりてをるゆへ、挊のよいものが上農夫食九人なりと云きりのことなり。をごる氣のものがありてもならぬ。とうなりとして々々々々々々々と志かある。一心の落着が百姓な筈そ。その百姓がさわかしい。いやな字なり。
【解説】
足元のしっかりとしていない学者は武士よりも落ちる。宋朝では、公卿大夫までが上を目掛け、それを下が真似るので、農工商賈までが栄耀した。皆定心がないのである。日本の足軽や中間が縮緬の羽織を着る様なことはない。それは給金が少なくて贅沢なことができないからであり、志が定まっているからである。
【通釈】
この条を治体に載せたのがよくわかる。天下の政の根になるのが治体。天下のためには学問をする者が出仕をする。学問をする者が足が据わらず、向こうの方へときょろつく。その段になれば日本の武士より落ちるもの。武士は片意地に武を磨いているだけよい処がある。宋朝などは上へ上へと目がついて定心がないので、どこに倒れるかも知れない。公卿大夫の歴々までが上を目掛けている。それを下が真似るので、農工商賈までが栄耀する。それは身上に定まったところがないからである。足軽の充行や中間の物相では食うにも限りがある。あの中にも奢る気の者もいるだろうが、奢ることはできない。足軽が縮緬の羽織を着ていると咎められることがないのは何故かと言うと、今も足軽中間は志が定まっていて、尊栄を志さないからである。先王の世は百姓も身上が決まっているので、働きのよい者が「上農夫食九人」というだけのこと。奢る気の者がいても、奢ることはできない。しかし、今はどうしてもなりたいとする志がある。一心の落ち着きが百姓の筈である。その百姓が騒がしい。ここは嫌な字である。
【補足】
・上農夫食九人…礼記王制。「制農田百畝。百畝之分、上農夫食九人、其次食八人、其次食七人、其次食六人、下農夫食五人」。

風が吹と火事が氣味がわるい。公郷太夫から百姓町人まで尻が輕ひ。輕ひゆへ体がをちつかぬ。それはいかにしても薄ひことなり。そこを云が治体なり。誰も彼も皆利へはせる。孟子のときは戦国ゆへ上下交征利而國危し矣と云、戦國ゆへ其筈。宋の世は甚治りたが、及弟の学が流行たゆへこのとをりのていなり。億兆之心交騖於利ては安堵ならぬこと。利と云ことがあってはどこへかけ込むもしれぬ。三代の世は可使由之で、道理の根は済ぬが利と云ことなしに義なりにしたなり。騖於利の安堵ならぬと云は、金をやろふと云ははどこへもゆかふ。大史公が義利の弁をみて、嗟乎利は誠に乱之始也と云たをすぐに集註に取てをかれた。天下の人が道理を重せず利へ心のむくと云が乱之始なり。
【解説】
三代の世は「可使由之」で、道理の根を知らなくても義の通りにした。宋朝では誰もが皆利へ騖せた。司馬遷も義利の弁を読んで利は乱の始めだと言ったが、それは、利に騖せると何でもするからである。
【通釈】
風が吹くと火事が起きるのではないかと思えて気味が悪い。公卿大夫から百姓町人までが尻が軽い。それで体が落ち着かない。それはどう見ても薄いこと。そこを言うのが治体である。誰も彼も皆利へ騖せる。孟子の時は戦国だったので、「上下交征利而国危矣」と言うが、戦国なのでその筈である。宋の世は甚だ治まっていたが、及第の学が流行ったのでこの通りの体たらくである。「億兆之心交騖於利」では安堵がならない。利があっては何処へ駆け込むとも知れない。三代の世は「可使由之」で、道理の根は済んでいないものの、利ということがなく義の通りにした。「騖於利」を安堵がならないと言うのは、金を遣ろうと言うと何処へも行くからである。大史公が義利の弁を見て、「嗟乎利誠乱之始也」と言ったのを直ぐに集註に採って置かれた。天下の人が道理を重んじないで利へ心が向くのが乱の始めである。
【補足】
・上下交征利而國危し矣…孟子梁恵王章句上1。「上下交征利、而國危矣。萬乘之國弑其君者、必千乘之家。千乘之國、弑其君者、必百乘之家。萬取千焉、千取百焉、不爲不多矣」。
・可使由之…論語泰伯9。「子曰、民可使由之、不可使知之」。
・大史公…司馬遷。
・嗟乎利は誠に乱之始也…孟子梁恵王章句上1集註。「太史公曰、余讀孟子書至梁惠王問何以利吾國、未嘗不廢書而歎也。曰嗟乎、利誠亂之始也。夫子罕言利、常防其源也。故曰、放於利而行、多怨。自天子以至於庶人、好利之弊、何以異哉」。

冨は、ああこのましいことなれとも、百姓に生れた、しよふことかないと云へは義にをちついたの。義にをちつくなれば國の治るの体のできたのなり。此程天下に安堵なことあろふ筈はない。これが六ヶしいことかと云に、君の方からの教でなること。今下々でもよい口かある、こぬかと云と、老母があるゆへ行れぬとどのやふなものも云ふ。これが人間の辱ひ所。天下の人の心にそれがある。これが治体のつかまへ処。人君がそこをつかまへる、体の出来るなり。利を見て欠回ると前徒倒戈なり。紂王の億万の勢力、武王の三千に叶はぬは、人數ありても忠義の体がないゆへなり。体なしは大ふあぶない。然れば治体と云字は思てみれば大なこと。これを知すに經済者抔と云ものがどふすればよいこふすればよいと云は、医者の脉を見ずに藥もるやふなもの。脉わるければいくら元氣がよくても行尸の證と云もの。死人のあるくと云はそこのことなり。暴君てをして通たもあり、行尸なり。
【解説】
義に落ち着くことが国を治めるための体となる。体がなくて政治を行うのは、脈を見ずに薬を盛る様なものである。
【通釈】
富は好ましいことだが、百姓に生まれたのだから仕方がないと言えば義に落ち着いたことになる。義に落ち着けば国が治まるための体ができたのである。天下にこれほど安堵することがある筈がない。これは難しいことかと言うと、君の方からの教えでできること。今下々でもよい口があるから来ないかと言われると、老母がいるので行けないとどの様な者も言う。これが人間の忝い所。天下の人の心にそれがある。これが治体の掴まえ処。人君がそこを掴まえると体ができる。利を見て駆け回ると「前徒倒戈」である。紂王の億万の勢力が武王の三千に叶わないのは、人数があっても忠義の体がないからである。体がなくては大いに危ない。そこで、思って見れば治体は大きなこと。これを知らずに経済者などという者がどうすればよいこうすればよいと言うのは、医者が脈を見ずに薬を盛る様なもの。脈が悪ければいくら元気がよくても行尸の証というもの。死人が歩くと言うのはそこのこと。暴君で推して通した者もいたが、それが行尸である。
【補足】
・前徒倒戈…書経武成。「會于牧野、罔有敵于我師。前徒倒戈、攻于後以北。血流漂杵、一戎衣、天下大定」。孟子尽心章句下3にもある。
・行尸…歩くしかばね。「行尸走肉」が、無学・無能の人をあざけっていう語。


第六 泰之九二の条

泰之九二曰、包荒用馮河。傳曰、人情安肆、則政舒緩、而法度廢弛、庶事無節。治之之道、必有包含荒穢之量、則其施爲、寛裕詳密、弊革事理、而人安之。若無含弘之度、有忿疾之心、則無深遠之慮、有暴擾之患、深弊未去、而近患已生矣。故在包荒也。自古泰治之世、必漸至於衰替。蓋由狃習安逸、因循而然。自非剛斷之君、英烈之輔、不能挺特奮發以革其弊也。故曰用馮河。或疑、上云包荒、則是包含寛容。此云用馮河、則是奮發改革、似相反也。不知以含容之量、施剛果之用、乃聖賢之爲也。
【読み】
泰の九二に曰く、荒を包み馮河を用う、と。傳に曰く、人情安肆なるときは、則ち政舒緩にして、法度は廢弛し、庶事は節無し。之を治むる道は、必ず荒穢[こうわい]を包含する量有らば、則ち其の施爲、寛裕詳密、弊革り事理[おさま]りて、人之に安んぜん。若し含弘の度無く、忿疾の心有らば、則ち深遠の慮無く、暴擾の患有り、深弊未だ去らざるに、近患已に生ぜん。故に荒を包むに在り。古より泰治の世は、必ず漸く衰替に至る。蓋し安逸に狃習[じゅうしゅう]し、因循して然るに由る。剛斷の君、英烈の輔に非ざるよりは、挺特奮發して以て其の弊を革むること能わざるなり。故に馮河を用うと曰う。或は疑わん、上に荒を包むと云うは、則ち是れ包含寛容なるなり。此に馮河を用うと云うは、則ち是れ奮發改革にして、相反するに似たり、と。含容の量を以て、剛果の用を施[し]くは、乃ち聖賢の爲[い]なるを知らざるなり、と。
【補足】
・この条は、泰卦九二の程伝である。泰卦九二は「九二。包荒。用馮河。不遐遺、朋亡、得尚于中行。象曰、包荒、得尚于中行、以光大也」である。

徂徠や太宰なともめったむしょうなもの。博識で何もかも知てをるが、程朱を譏るに心にないことを議る。宋のつぶるる、段の浦のやうで、天子も海上の死をされた。其とき誠意正心を云大だわけじゃと、あれを程朱を非とするヶ条に云。あれらが小人之心と云は、心からそふ思へば小人の心ではないが、心からそふは思はぬ。宋朝のことは人か知ぬゆへ、役人なとがよみて見たとき、海へ入るときにも誠意正心を云たと聞けば、いかさま程朱の学はたわいもないものと信仰のさめるやうに云たもの。徂徠や太宰は甚近思録も讀だ人じゃ。此条などで見てもたはいないとは見へぬ。爲ることある人は程朱に限たこと。学脉を知る知ぬは挌別。天下の經済を云ときに程朱平日の義論をよみて見よ。あの上はない。天下のことを取つかまへた人は云様で見へるものなり。伊川は明道とちがひ、どふやら偏屈片意知な人の様なれども、道理をつかまへた伊川ゆへ、此一条でも伊川が見へるそ。指顧してなるとはそこなり。
【解説】
徂徠や太宰などは小人の心と言う。それは、彼等が程朱のことを宋が潰れるその時でさえ誠意正心を言う大戯けだと言ったが、心からその様に思って言ったのではないからである。
【通釈】
徂徠や太宰なども滅多無性な者で、博識で何もかも知っているのに、程朱を譏るのに心にないことを言う。宋が潰れた際は壇ノ浦の様であって、天子も海上で死なれたが、その時でさえ誠意正心を言う大戯けだと、それを程朱を非とする一つとして言った。あれ等を小人の心と言うのは、心からその様に思えば小人の心ではないが、心からそうは思っていないからである。宋朝のことは人が知らないので、役人などが読んで見た時、海へ入る時にも誠意正心を言ったと聞けば、実に程朱の学は他愛もないものだと、信仰の冷める様に言ったもの。徂徠や太宰は甚だ近思録も読んだ人。この条などで見ても程朱が他愛ないとは見えない。有為の人は程朱に限ったこと。学脈を知っているか否かは格別のこと。天下の経済を言う時には程朱の平日の議論を読んで見なさい。あの上のことはない。天下のことを取り掴まえた人はその言行でわかるもの。伊川は明道とは違い、どうやら偏屈片意地な人の様だが、道理を掴まえた伊川であることがこの一条からもわかる。指顧して成るとはそこのこと。
【語釈】
・指顧してなる…

泰平の世の心得と云は、太平の世の目出かこふじてそろ々々とゆるみがくる。太平のどふぶくらへもってきて治めやうなり。太平の世、天下が磐石の如くなと云とき、この了簡か入る。此了簡がないと綻かつく。綻かつか子は悪くなる。名人の療治は手荒なこともあれは縫て廻ることもあり、天下のことは大いゆへ縫て廻ることが一つ、手荒なことが一つ、二つでなければならぬ。一生机にかかりて居る学者など、すっへり合点のゆかぬこと。隠者めいてすました顔ても理が働らかぬと天下のこと中々すむものてない。道理爛熟して天下のことに見る処ある人でなければならぬことなり。荒はあれると云こと。手をつけぬ田や畠などの様なもの。太平の世は人の心にゆるみがあるゆへ、方々を見ると御座へ出されぬことがある。歴々の上にも輕ひものの上にも法外な、これはつまらぬと云ことだらけ。政は正すと云ことゆへ隅から隅まで正しそふなものなれども、包荒と云が名人藝。大風呂鋪をかけるやふにする。人の家内のこと、人倫男女の間にもあろふことかあるまいことかと云、口外されぬ見苦しいことがある。それに風呂鋪を掛る。中冓之言不可言。それもあることじゃ、まあ々々たまってをけと出る。悪所へいたと云てもめったに閉門もさせぬ。風呂鋪をかける。
【解説】
「泰之九二曰、包荒」の説明。泰平の真っ盛りに緩みが起きる。そのことを心得て置かなければならない。政は繊細さと手荒さの両方が必要である。「包荒」は、人前に出せないことに風呂敷を掛けることで、つまりは放って置くことである。
【通釈】
泰平の世の心得は、太平の世の目出度さが高じて段々と緩みが来ること。太平の真っ盛りに持って来て治めるのである。太平の世で天下が磐石の如しという時に、この了簡が要る。この了簡がないと綻びが付く。綻びが付かないとしても悪くなる。名人の療治は手荒なこともあれば縫って廻ることもあり、天下のことは大きいので縫って廻ることが一つ、手荒なことが一つ、この二つでなければならない。それは一生机に向かっている学者などには全く合点のいかないこと。隠者めいてすました顔でも、理が働かなければ天下のことは中々済ますことができない。道理が爛熟し、天下のことに見る処のある人でなければできないことなのである。「荒」は荒れること。手を付けていない田や畠などの様なもの。太平の世は人の心に緩みがあるので、方々を見ると人前に出せないことがある。歴々の上にも軽い者の上にも法外だ、詰まらないことだと言うことだらけ。政は正すということなので、隅から隅まで正しそうなものだが、「包荒」というのが名人芸で、大風呂敷を掛ける様にする。人の家内のことや人倫男女の間にもあってもよいことだろうか、あってはならないことだという、口外できない見苦しいことがある。それに風呂敷を掛ける。「中冓之言不可道」。それもあることだ、まあ黙って置けと出る。悪所にいたとしても滅多に閉門もさせない。風呂敷を掛けるのである。
【語釈】
・どふぶくら…胴脹ら。まっさかり。最中。
・政は正す…論語顔淵17。「季康子問政於孔子。孔子對曰、政者、正也。子帥以正、孰敢不正」。
・中冓之言不可言…詩経国風牆有茨。「牆有茨、不可埽也。中冓之言、不可道也。所可道也、言之醜也」。

そふしてどふするかと云と、もふ一つの對句に用馮河。よってもつかれぬ行德の川、坂東太郎と云大川をかち越にする、手荒な強ひこと。包荒對句に折節大袈裟に打離す手荒なことを用。ここが靣白ひこと。御目出度世の中と云御目出度にも段々あることを合点すべし。堯舜の世や三代の世は垩人の御坐たゆへ天下中荒はない。泰の至善なり。泰平はそればかりでなし。劔戦沙汰のないは皆泰なり。吾国王代の後御當代は甚目出度は、上から下万民まで安堵してをる。泰なり。そこに心得のいるは人情安肆なれは則政舒緩なり。これを御目出度へかけて見がよい。浪風立ず四海浪靜、人情安肆で上下の心が鼻の先の事ばかり一命を捨るやふなことは曽てなく、ぬっくりとして居る。かふした時節らく々々としたこと。大勢の中に異なことあろふとも其分で捨て置。夏になると火消屋鋪の靜なやふなもの。火消屋鋪のことゆへ六具はきめて置が、飯も食ひ合せられぬやふなことはない。迂斎が、師走の廿日頃と三月頃を合て見ろ、三月頃は舒緩なものと云へり。隨分上に法度も嚴鋪立てをるか、たとひ法度が破れても急に害もないと云が泰の時なり。
【解説】
「用馮河。傳曰、人情安肆、則政舒緩、而法度廢弛、庶事無節」の説明。「馮河」とは、大川を徒歩越えする様な手荒で強いこと。泰平の世は「人情安肆則政舒緩」となる。
【通釈】
そうしてどうするかと言うと、もう一つの対句に「用馮河」。それは、寄り付けもしない行徳の川や坂東太郎という大川を徒歩越えする様な手荒で強いこと。包荒の対句に折節大袈裟に打ち離す様な手荒なことを用いた。ここが面白いこと。御目出度い世の中と言う時に、御目出度いにも段階のあることを合点しなさい。堯舜の世や三代の世は聖人がいらっしゃったので天下中に荒れはなく、泰の至善だった。しかし、泰平はそれだけではない。剣戦沙汰がないのは皆泰である。我が国、王代の後御当代までが甚だ目出度いことには、上から下の万民まで安堵している。それが泰である。そこに心得が要るのは「人情安肆則政舒緩」だからである。これを御目出度いに掛けて見なさい。浪風立たず四海浪静か、人情安肆で上下の心が鼻の先の事ばかりで一命を捨てる様なことはかつてなく、ぬっくりとしている。こうした時節で楽々としたこと。大勢の中に異なことがあったとしてもそのままにして捨てて置く。それは、夏になると火消屋敷が静かな様なもの。火消屋敷のことなので六具は極めて置くが、飯も食えないほどに忙しくはない。迂斎が、師走の二十日頃と三月頃を合わせて見なさい、三月頃は舒緩なものだと言った。随分と上に法度も厳しく立ててはあるが、たとえその法度が破れても急に害もないというのが泰の時である。
【語釈】
・安肆…わがまま。
・舒緩…ゆるむこと。だらしなくなること。

そこで、人情見やう見真似に栄耀をもする、をふちゃくをもする。此ときの心得なり。捨ても置す大くさわくことにもなし。こふした時節ゆへ、ここが段々とゆるんでわるくなる本なり。そこをそれと云て吟味するてない。包荒と云心が大くなくてはならぬ。上に法は立てをるか、そろ々々法をやふるが大平のなり。つまり大ふにくいことではないはどふなれば、人情安肆からをこる。切たりはったりのときにはなし。夫婦の間から男女の間、御座へ出されぬことがある。それを隠し目付を出して一軒つつ吟味しては間に合ぬ。其やうなことはあるまい。とくとためしてみよなとと云内に虚説じゃと云てすむこともある。胷の大ひ人でなふてはならぬ。迂斎の、氣の短ひ人に糸のもつれをほぐさせるといよ々々こごると云り。氣の短ひことをして、それこれと云てはならぬ。そふもあるまいさと云やふな有德者の量でなければならぬ。やかましいことをひ子る人は段々と六ヶしくなる。そこで間違であろふと云と又云たものも咎になるゆへ、まあ々々そふして置がよいと云。こふした量がよし。狹てはならぬ。
【解説】
「治之之道、必有包含荒穢之量」の説明。「人情安肆則政舒緩」でも騒がずに放って置く。それは心が大きくなくてはできないこと。
【通釈】
そこで、人情から見よう見真似で栄耀をもし、横着をもする。これはその時の心得である。捨てても置かず大きく騒ぐこともない。こうした時節だから、ここが段々と緩んで悪くなる本となる。そこをそれと言って吟味するわけではない。包荒は、心が大きくなくてはできない。上で法が立っているが、そろそろ法を破るのが大平の姿である。それがつまり酷く憎むことではないのはどうしてかと言うと、人情安肆から起こるためである。切った張ったの時ではない。夫婦の間から男女の間、人前に出せないことがある。それを隠し目付を出して一軒ずつ吟味するのでは間に合わない。その様なことはないだろう。じっくりと調べて見なさいなどと言う内に、虚説だとわかって済むこともある。それは胸の大きい人でなくてはできないこと。迂斎が、気の短い人に糸の縺れを解させるといよいよ絡まると言った。気の短いことをしてあれこれと言ってはならない。そうでもないだろうさと言う様な有徳者の器量でなければならない。喧しいことを捻る人は段々と難しくなる。そこで、間違いだろうと言えばまた言った者の咎にもなるので、まあそうして置きなさいと言う。こうした器量がよい。狭くてはならない。

施爲は宋朝の官府文字で事をすること。今下々での口上にしうちと云がこれなり。兎角せくとさわがしくなる。寛裕ゆへ胷中が千疂鋪なり。寛裕なものはゆたか過て詳密がないもの、寛裕へ祥密を加へたとみるはわるし。寛裕でなければ祥密かならぬ。せわしい人は間違多し。祥密かない。先頃のことをもふ一遍聞と云でこまかになる。片尻かけて碁を打と上手も打そこなふ。本因坊は一番に一日もかかる。そこで手が殊の外詳密なり。一石打にも甚詳密がある。よい上を至極によくするゆへ寛裕と搆て詳密なり。弊革事理。上の廃弛無節へあてて見るがよい。それが包荒寛裕からよくなる。此方のむ子にをさめてそろ々々するとずんと安堵する。つよくない針を打やふなもの。あの人は針を打か知れぬ。一寸腹をなてると虫がくっとすると云。病人がひや々々するやふではならぬ。泰平の目出度処へ器量のないものが出て彼これするとしそこなふ。若林の云るるとをり、重筥のすみを楊枝で洗ふやうではならぬ。ゆっくりとするがよい。政の体はどっと誉るやふなことはよくない。何か知れぬと云がよい。初心な学者などに政のあつけにくひと云は、義理が峻くても胷が狹いゆへらいがない。
【解説】
「則其施爲、寛裕詳密、弊革事理、而人安之」の説明。急くと騒がしくなり、忙しい人には間違いが多い。寛裕でなければ詳密ができないのである。政は寛裕詳密でなければならない。
【通釈】
「施為」は宋朝の官府文字で事をすること。今下々の口上で仕打ちと言うのがこれ。とかく急くと騒がしくなる。それが寛裕なので胸中が千畳敷である。寛裕な者は裕過ぎて詳密がないものとか、寛裕へ詳密を加えたと見るのは悪い。寛裕でなければ詳密ができない。忙しい人には間違いが多い。詳密がない。先頃のことをもう一辺聞くというので細かになる。片尻を掛けて碁を打つと上手な者も打ち損なう。本因坊は一番に一日も掛かる。そこで手が殊の外詳密である。一石打つにも甚だ詳密がある。よい上を至極によくするので寛裕に構えて詳密である。「弊革事理」。上の「廃弛無節」へ当てて見なさい。これが「包荒寛裕」からよくなる。自分の胸に納めてゆっくりとすると実に安堵する。それは強くない針を打つ様なもの。あの人は針を打ったのがわからない。一寸腹を撫でると虫がぐっとすると言う。病人が冷や冷やする様では悪い。泰平の目出度い処へ器量のないものが出てかれこれするとし損なう。若林の言われた通り、重箱の隅を楊枝で洗う様では悪い。ゆっくりとするのがよい。政の体は大きく誉める様なことはよくない。何だかわからないというのがよい。初心な学者などには政を預け難いと言うのは、義理が峻くても胸が狭く、間がないからである。
【語釈】
・虫…虫気?腹痛を伴う病気。癇の俗称。

又、俗人は人情を愛惜して、さて吾人欲甚ゆへめったに人をも呵らす、よらずさわらずをする。己が人欲とともに行はふとするゆへ含弘のやうには見ゆれとも、とんとらりにしてとりのける。学者は義理を振ふゆへ含弘かすくなく事をやぶるなり。此様な道理を聞ながら、いつも々々々俗人に嘲らるるやふな学者多し。必竟知見がたきらぬゆへぞ。含弘は大海塵を撰ばずなり。大河を見よ。尿器の古い物の流てくるを見たがよい。川が大ひゆへそのわきで遊山舟抔をも洗ふなり。さま々々不埒なものもあるか、一つ々々に呵りては間に合ぬ。善悪分れ萬事出。あるまいことがある。太極に形がないゆへ阴阳が出てさま々々事をする。それから万事出と云さま々々なことがある。太極は一なれとも隂陽と云氣以下から分れてさま々々になる。人の上にもその通りさま々々なことがある。道落者もあるが、あの男の道楽は筋がわるいと云があれとも、それもあることじゃとさわかぬ。あるまいことのあるをもさわぐことではない。臍の下へをさめて置が含弘なり。
【解説】
「若無含弘之度」の説明。俗人は「含弘」の様に見えるが、それは人欲によりものである。学者も義理を振るうので含弘が少なく事を破り、俗人に嘲られるが、それはつまり知見が滾らないからである。
【通釈】
また、俗人は人情を愛惜し、さて、自分の人欲が甚しいので滅多に人をも呵らず、寄らず触らずでいる。自分の人欲と共に行おうとするので、「含弘」の様には見えても全てを台無しにして取り除ける。学者は義理を振るうので含弘が少なく事を破る。この様な道理を聞きながら、いつも俗人に嘲られる様な学者が多いのは、つまり知見が滾らないからである。含弘は大海芥を択ばずである。大河を見なさい。尿器の古い物が流れて来るのを見るのがよい。川は大きいので、その脇で遊山舟などをも洗う。様々な不埒なものもあるが、一々呵るのでは間に合わない。「善悪分万事出」。あってはならないことがある。太極には形がないので陰陽が出て様々な事をする。それから万事出という様々なことがある。太極は一つだが陰陽という気以下から分れて様々になる。人の上にも様々なことが同じくある。道楽者もいて、あの男の道楽は筋が悪いと言うこともあるが、それもあることだと騒がない。あってはならないことがあっても騒がない。臍の下へ納めて置くのが含弘である。
【語釈】
・善悪分れ萬事出…道体1。「五性感動而善惡分、萬事出矣」。

周の世があのとをりになりたときに成王は幼少と云管蔡の流言なとを見て、殷の者ともがひっくりかへりた。周公がそふにくまぬがよいと云れた。あれか忿疾の出処なり。やれにくい奴かとさわいてかかりてはゆかぬ。道理にそむいたものがあると一ち学者がさわぎ出す。それが忿疾せいてかからぬやうにするなり。与力同心の取ものをするに、一度々々に五臟六腑を動し顔をかへてかかりはすまい。せきみが先へでるとしをふせることはならぬ。泰平の政はこれから先きどこ迠も泰平をながく續けやふと云ことゆへ、つんと了簡か小くてはならぬ。治体は不埒なものを誅罸しても深遠之慮のないはうれしくない。王荊公が新法を峻にやって見たれとも深遠之慮がないゆへしちらかした。さわかしひ医者はしちらかひす。泰平の世の政は軍とちがひ、頭へ火の付様にすることでない。月夜の明るいやふにするがよし。腹に塊のあるやふなもの。急にいぢられぬものなり。この頃は癪がをこりたと云とき、をさまる処へをさまればよし。積が隠居所へ引込だと云様になれば平生のとをりと云もの。下手医者があらだてるなり。
【解説】
「有忿疾之心、則無深遠之慮」の説明。泰平の政は泰平を永く続けようすることだから、「忿疾」せず、「深遠之慮」でなければならない。
【通釈】
周の世があの通りになった時、成王は幼少と言う管叔や蔡叔の流言などを見て、殷の者共が反旗を翻した。そこで、周公がその様に憎まなくてもよいと言われた。あれが「忿疾」の出処である。やれ憎い奴がと騒いで掛かってはうまく行かない。道理に背いた者がいると最初に学者が騒ぎ出す。そこで、忿疾せず急いて掛からない様にする。与力や同心が捕り物をする時、その度に五臓六腑を動かし顔を変えて掛かりはしないだろう。急き味が先へ出るとし遂げることはできない。泰平の政はこれから先何処までも泰平を永く続けようとすることなので、本当に了簡が小さくてはならない。治体は不埒な者を誅罸しても「深遠之慮」がなければ嬉しくはない。王荊公が新法を峻厳にやってはみたが深遠之慮がないのでし散らかした。騒がしい医者はし散らかす。泰平の世の政は軍とは違い、頭へ火が付く様にすることではない。月夜の明るい様にするのがよい。腹に塊のある様なもの。急にいじるのは悪い。この頃癪が起こるという時、納まる処へ納まればよい。癪が隠居所へ引っ込んだという様になれば平生の通りというもの。下手な医者はそれを荒立てる。
【語釈】
・成王は幼少と云管蔡の流言…書経金滕。「武王既喪。管叔及其群弟、乃流言於國曰、公將不利於孺子。周公乃告二公曰、我之弗辟。我無以告我先王」。史記管蔡世家。「武王既崩、成王少、周公旦專王室。管叔・蔡叔疑周公之爲不利於成王、乃挾武庚以作亂。周公旦承成王命伐誅武庚、殺管叔、而放蔡叔。遷之、與車十乘、徒七十人從」。
・忿疾…怒り憎むこと。書経君陳。「爾無忿疾于頑」。

政もそれ。急に塊をなくそふとすると直らす、却てわるくなる。王荊公も大儒じゃ。今迠より天下をわるくせふとて新法をしたてはないはつ。よい方へやらふとしてあのやふなこともしたれとも、跡先きの了簡がないゆへ方々をしちらかした。政と云が元と我に見処がなければならぬ。徂徠太宰ををかしく思ふことなり。よいこともあれとも、大学と云格致がないゆへくる々々まわらぬ。經済録の終に無爲易道の篇を立たはにけたのなり。穴をふさぐ心なり。手を出し一々なをすと暴櫌之患か面のあたりくるそ。さま々々あることは手がつけられぬ。そんならどこ迠もそれでをくかと云に、含弘の君子が深遠の慮ですることは、丁ど春になると雪の消るやふにほどけてくる。そこは名人藝なり。熊沢次郎八などが王陽明学をして心法々々と云ながら經済をしたかると云も、本と王陽明か豪傑者て軍にも勝た。それからして陽明派の学者が經済をしたがる。致知格物からこぬ学問ゆへ、つまり法をあつめ計畧をせ子はならぬ。それを經済と思てをる。熊沢なともあれ程の才のあるものなれとも、始終ほぎ々々としたことはせずにしまふた。どふしても經済者と云ものはあせりまわりてあるく。あのやふなことでは心法も尊くない。
【解説】
「有暴擾之患、深弊未去、而近患已生矣。故在包荒也」の説明。王荊公もよい国にしようとして新法を行ったのだが、「深遠之慮」がなかったので方々をし散らかした。熊沢蕃山も心法と言いながら経済をしたがるのは、焦り回って歩いているのである。それは、致知格物から出た学問ではないからである。
【通釈】
政も同じで、急に塊をなくそうとすると直らず、却って悪くなる。王荊公も大儒であり、今までよりも天下を悪くしようとして新法をしたのではない筈。よい国にしようとしてあの様なことをしたのだが、後先の了簡がないので方々をし散らかした。本来、政をするには自分に見処がなければならない。そこで徂徠や太宰は可笑しいのである。よいこともあるが大学という格致がないのでくるくると回らない。経済録の終りに無為易道の篇を立てたのは逃げたのである。それは穴を塞ぐ心である。手を出して一々直すと「暴擾之患」が目の当たりに来る。様々にあるので手が付けられない。それなら何処までもそのままにして置くかと言うと、含弘の君子が深遠の慮ですることは、丁度春になると雪の消える様に解けて来るのであって、そこが名人芸である。熊沢次郎八などが王陽明学をして心法と言いながら経済もしたがるというのも、元来王陽明が豪傑者で軍にも勝ったので、それからして陽明派の学者が経済をしたがるのである。致知格物から来ない学問なので、つまりは法を集め計略をしなければならない。それを経済と思っている。熊沢などもあれほど才のある者だが、始終結構なこともなく終えた。どうしても経済者という者は焦り回って歩くもの。その様なことではあの心法も尊くはない。
【語釈】
・暴櫌…暴擾。荒れ乱れること。
・熊沢次郎八…熊沢蕃山。

伊川は体を知てをる。体は立人極建皇極なり。王荊公は体を知ずにさわぐ。其あとへ蔡京が出てみなにした。王荊公のいきてをる内、夷狄界でそろ々々騒き出し、宋德隆盛と云程ながあのときからほころびがきれた。つつきちらかしたぞ。あの仁宗まては泰平でありて、神宗もたたならぬ君なれとも王荊公を用られたは体を知らぬからなり。在包荒が誠に垩人の天下後世を見ぬかれたこと。周の始には荒はない。臭いものに蓋をするやふなことはあろふはづはない。周南召南の化で草木へも靡く。周公の手先にこの包荒の二字のいることはないが、易の辞をかけらるるときになって泰の卦に包荒とされた。さて々々周公垩人の知ぞ。見ぬいたことなり。太平の乱世になると云もわつかなもの。周公の万世の賜に包荒と云れた。太平の乱世になるか手の裏を引くりかへすやふなものではない。そろ々々なり。年寄て頭の冗るやふなもの。今害もないが、衰て替てくる。世の中に干戈の絶ぬ内はあそこでも爰でもえいとふ々々々々ゆへ、人の身になまけたことかない。治世はゆっくりと成て安逸ゆへ、そろ々々さま々々なことが出來る。下々が下主の樂は寢樂と云は、労する身分ゆへなり。安逸な歴々は寢た分では面白くないてみよ。泰平の安逸からさま々々な栄曜かをこる。一寸酒を呑にもはや器の物好き出來、このやふなものは食れぬなとと云。好きこのみ出て、つまり能なしの食たくみをすると云になるも安逸からそ。それがあまりわるいことてはないが、そろ々々と乱の基になるなり。
【解説】
「自古泰治之世、必漸至於衰替。蓋由狃習安逸、因循而然」の説明。周の始めに荒はなかったから包荒の二字は不要なのだが、周公は万世のために「包荒」と辞を繋けた。泰平の安逸からゆっくりと乱の本が起こる。
【通釈】
伊川は体を知っている。体は「立人極建皇極」である。王荊公は体を知らずに騒ぐ。その後へ蔡京が出て台無しにした。王荊公の生きている内に夷狄界でそろそろと騒ぎ出し、宋徳隆盛というほどのものだったのが、あの時から綻びが切れた。突き散らかしたのである。あの仁宗までは泰平であって、神宗も凡庸ではない君だったが、王荊公を用いられたのは体を知らなかったからである。「在包荒」が誠に聖人の天下後世を見抜かれた言い様である。周の始めに荒はない。臭いものに蓋をする様なことがある筈はない。周南召南の化で草木も靡く。周公の手先にこの包荒の二字は不要だが、易の辞を繋けられる時になって泰の卦に包荒とされた。これが実に周公の聖人の知で見抜いたこと。太平が乱世になるのも僅かなことから。周公が万世の賜に包荒と言われた。太平の乱世になるのは掌を引っくり返す様なものではなく、ゆっくりとしたもの。年が寄って頭の禿げる様なもの。今は害もないが、衰えで変わって来る。世の中に干戈の絶えない内はあそこでもここでも戦いなので、人の身に怠けたことがない。治世はゆっくりと成り「安逸」なので、ゆっくりと様々なことが起こる。下々が下衆の楽しみは寝楽と言うのは、労する身分だからである。安逸な歴々は寝るだけでは面白くないことで見なさい。泰平の安逸から様々な栄耀が起こる。一寸酒を呑むにも早くも器の物好きができて、この様なものでは食えないなどと言う。好き好みが出て、つまりは能なしが食巧みをすることになるのも安逸からである。それはあまり悪いことではないが、そろそろと乱の基になる。
【語釈】
・立人極…道体1の語。
・建皇極…書経洪範。「皇極。皇建其有極、斂時五福、用敷錫厥庶民。惟時厥庶民、于汝極、錫汝保極」。

挺特奮発革其弊。よりのもとった縄をしめるやふなもの。よりが返りたがる処をしめると本との通になる。君の方がよくなければならぬもの。大名の若殿は湯取食でなければ食ぬものと思様で用にたたぬ。剛断の君は、何にそんなことをあほふともがとつよく出る。これが行燈をかき立るやふなもの。一寸かき立るが光りをますなり。剛断英烈と云ふ、上下の振ふこと。そこで泰平の衰へそふな処をかき立て光がつく。御治世には世間並の御振合のと云。これも上を敬するからをこりたことなれとも、どふしてもよいことにをふり合の何のと天理の外にもふ一つある筈はなし。たん々々色々になると下の難義することもあれは儉約の邪魔になることもある。田舎でさへ人へ進物をするにも聞合せる。夫れも律義でよいが、たぎらぬからのことなり。太平は人が柔にはかりなる。大久保彦左衛門殿のやふな人は少い。挺特奮発てしゃきりとなる。同役が何と云ふともどふするものじゃと出る。一人そふ云ものがあると士氣がふるふ。
【解説】
「自非剛斷之君、英烈之輔、不能挺特奮發以革其弊也。故曰用馮河」の説明。「剛断英烈」で上下が振るい、天下の衰えを掻き立てて光らせる。泰平の時は人が軟弱になるばかりだが、そこを「挺特奮発」するのである。
【通釈】
「挺特奮発革其弊」。撚りの戻った縄を締める様なもの。撚りが返りたがる処を締めると元の通りになる。そこで、君の方がよくなければならないもの。大名の若殿は湯取飯でなければ食わないものだと思う様では用に立たない。「剛断之君」は、何、そんなことを阿呆共がと強く出ること。これが行燈を掻き立てる様なもの。一寸掻き立てると光を増す。剛断英烈というのは上下が振るうこと。そこで泰平の衰えそうな処を掻き立てて光がつく。御治世には世間並の御振合いでと言う。これも上を敬することから起こったことだが、どうでもよいことに御振合いの何のということはなく、天理の外にもう一つある筈はない。段々、色々になると、下が難儀することもあれば倹約の邪魔になることもある。田舎でさえ人へ進物をするにも聞き合わせる。それも律儀でよいが、滾らないからするのである。太平は人が柔らにばかりなる。大久保彦左衛門殿の様な人は少ない。挺特奮発でしゃっきりとなる。同役が何を言おうとも、どうするものかと出る。その様な者が一人いると士気が奮う。
【語釈】
・挺特…率先して。

億兆之心交騖於利と上の条にあり、天下の人の心が利へばかり掛ると足本がすわらぬ。胡澹庵が、臆病なものを婦人と申す、今日は皆婦人でござると云た。あれが尊ひことでもないが、此を士氣と云なり。士風と云こと。ものは一つりきんたやふながよいことなり。そふした士氣あれは治体になる。世の中丸い処へ一つ強ひことを出すとしゃんとなる。武士道と云もよいことと云ほどてなければこの意はすまぬ。日本で武士道と云は中蕐で云士氣なり。これが即士君子名教を扶持するの志なり。義理の志を士氣と云。安逸になると人々色欲に深くなる。そふすると衣服容皃詞氣まで女めいてくるが士氣のふるはぬ本なり。武士もにやけて女めいたものを着たりするはさん々々なこと。武士は武士のやうなが泰平のつつく本になる。近思録で武士道を云はをかしいやうなれども、これが書物儒者のしらぬことなり。士氣が振い義理に勇めば利害に目をくれぬ。これ、挺特奮発の第一義なり。馮河とただうでをこくことではない。一つして見せて天下の人が目をさますなり。それがないと安逸にふけり、人欲に目がくれて日々好色の心はかり深くなり、武士めかぬやうになると彼の上の条にある欲其不乱難しなり。
【解説】
義理の志を士気と言う。日本で武士道と言うのが中華で言う士気のことである。士気を奮って義理に勇めば利害に目を向けることはない。そうでないと安逸に耽り、人欲に目が眩まされて好色の心ばかりが深くなる。
【通釈】
「億兆之心交騖於利」と前条にあり、天下の人の心が利へばかり掛かると足元が据わらない。胡澹庵が、臆病な者を婦人と申す、今日は皆婦人でござると言った。それが尊いことでもないが、これを士気と言う。士風と言うこと。ものは一つ力んだ様なのがよい。そうした士気があれば治体になる。世の中が丸い処へ一つ強いことを出すとしゃんとなる。武士道というのもよいことだと言うほどでなければこの意は済まない。日本で武士道と言うのは中華で言う士気のこと。これが即、士君子名教を扶持するところの志である。義理の志を士気と言う。安逸になると人々は色欲が深くなる。そうすると衣服容貌言葉気までが女めいて来る。それが士気の奮わない本である。武士もにやけて女めいたものを着たりするのは散々なこと。武士が武士の様であるのが泰平の続く本になる。近思録で武士道を言うのは可笑しい様だが、これが書物儒者の知らないこと。士気を奮い義理に勇めば利害に目を向けることはない。これが挺特奮発の第一義である。馮河と言ってただ腕を扱くだけではない。一つして見せて天下の人が目を覚ます。それがないと安逸に耽り、人欲に目が眩まされて日々好色の心ばかりが深くなる。武士めかない様になると、前条にある「欲其不乱難」となる。
【語釈】
・胡澹庵…宋。胡銓。字は邦衡。諡は忠簡。高宗に仕える。

或人が包荒と馮河はとりあはぬと云た。そふも云そふなもの。そこで伊川の、それは大に了簡違ひ、ささわると云が大きくささわらぬ。寛裕なればたわいはないが、嚴くことをすると云は垩賢でなければならぬ。古法家きついことをすると思へ、後世家はやわらかなことをすると思。これも一片に心得たこと。某醫療手引草を誉るもここなり。若林の門人て、淺見先生のこともきき、近思録の書をよんだから眼がちごう。古法家のすることも後世家のすることも用ゆ。あの醫を見処のない医者はしらぬ。これが見処なり。
【解説】
「或疑、上云包荒、則是包含寛容。此云用馮河、則是奮發改革、似相反也。不知以含容之量、施剛果之用、乃聖賢之爲也」の説明。包荒と馮河は障るものではなく、どちらもなければならない。しかし、馮河は聖人でなければできないことである。
【通釈】
或る人が包荒と馮河は取り合わないと言った。その様にも言いそうなもの。そこで伊川が、それは大いに了簡が違う、障ると言うが、大きく障ることではないと言った。寛裕であれば他愛もないが、厳しくことをするのは聖賢でなければできないこと。古法家が厳しいことをすると思い、後世家は柔らかなことをすると思う。それは偏って心得たこと。私が医療手引草を誉めるのもここのこと。若林の門人で、浅見先生のことも聞き、近思録の書を読んだから眼が違う。古法家のすることも後世家のすることも用いる。あの医を見処のない医者は知らない。これが見処である。
【語釈】
・若林…若林強斎。


第七 觀盥而不薦の条

觀、盥而不薦、有孚顒若。傳曰、君子居上、爲天下之表儀、必極其莊敬、如始盥之初、勿使誠意少散、如既薦之後、則天下莫不盡其孚誠、顒然瞻仰之矣。
【読み】
觀は、盥[てあらい]して薦めず、孚有りて顒若[ぎょうじゃく]たり。傳に曰く、君子上に居りて、天下の表儀爲るとき、必ず其の莊敬を極むること、始めて盥する初の如くし、誠意をして少しく散ずること、既に薦めし後の如くならしむこと勿くんば、則ち天下其の孚誠を盡くさざること莫く、顒然として之を瞻仰せん、と。
【補足】
・この条は、観卦卦辞の程伝である。

此並べかたに思召あることと見べし。包荒の用馮河のとあれば、どふやら一と手手のあるやうに思るる。この手あの手と皆伯者のすること。王者にはとんとない。そこで此条を出す。上の条を一つ手のあるやうな文字のあとへ誠をかたるが王者の心を云たもの。人君の御德が垩德ゆへ、あの御徳はと德に感心して下から見つめてをる氣味なり。誠の至極をかたるにはとかく祭より外に云やふはない。祭の具物も出來て祭にかかる処て手水をつかふてをる。具へぬ前と云がきこへた。具にそなへると安堵して氣もゆるむ。致齊於内散齊於外の七日の齊、その朝そなへるばかりにして具ぬゆへ、誠はちらぬ。顒若は尊敬すること。天子穆々の御出立て装束をしてあらるる。いやは云へぬことなり。人君が声をからしてよくなれ々々々々と云ことではない。天下のものが見て、あちから手本にする。迂斎の、篤敬而天下平じゃと云へり。上の方の御方が誠敬で天下が治る。誠敬をつめてそのぬけぬことをえりて盥ての不薦のと書たと見るがよい。禘自既灌而往者吾不欲觀之矣。わるい上か而往はいよ々々なり。これはよいのか盥而薦。いよ々々なり。天下の者がみな上を見てをる。建有極もそれなり。人君の天下を治めるの体は誠なり。誠のぬけぬが天下を治る體になる。
【解説】
誠の至極を語るには祭がよい。祭を始める前は緊張して誠が散ることがない。人君が誠敬であれば、天下の者がそれを尊敬し、手本とする。
【通釈】
ここの並べ方に思し召しがあることと見なさい。前条に「包荒用馮河」とあれば、どうやら一手ある様に思える。しかし、この手あの手は皆伯者のすること。王者にその様なことは全くない。そこでこの条を出した。上の条の一つ手のある様な後へ誠を語るのが王者の心を言ったこと。それは、人君の御徳が聖徳なので、あの御徳はと徳に感心して下から見つめている気味である。誠の至極を語るにはとかく祭より外に言い様はない。祭の供物もできて祭に取り掛かる処で手水を使っている。供える前というのがよくわかる。供えると安堵して気も弛む。「致斉於内散斉於外」や七日の斉など、その朝供えるばかりにして供えていないので誠が散らない。「顒若」は尊敬すること。天子が穆々とした出で立ちの装束をしておられる。文句の付けようがない。人君が声を嗄らしてよくなれと言うのではない。天下の者が見て、君を手本にする。迂斎が、「篤敬而天下平」だと言った。上の方の御方が誠敬で天下が治まる。誠敬を詰めてその抜けないことを選って、盥や不薦と書いたのだと見なさい。「禘自既灌而往者吾不欲觀之矣」。いよいよ悪くなるのが「而往」からであり、いよいよよいのが「盥而不薦」である。天下の者が皆上を見ている。「建有極」もそれ。人君の天下を治める体は誠である。誠が抜けないのが天下を治める体になる。
【語釈】
・致齊於内散齊於外…礼記祭義。「致齊於内、散齊於外。齊之日、思其居處思其笑語、思其志意、思其所樂、思其所嗜。齊三日、乃見其所爲齊者」。小学内篇明倫にもある。
・七日の齊…礼記祭統。「君子之齊也、專致其精明之德也。故散齊七日以定之、致齊三日以齊之」。
・篤敬而天下平…
・盥…祭祀を始める前に手を洗い清めることで、これから祭祀が始まることから心が緊張する。
・不薦…「薦」は、神に供物を供えること。供えた後は礼が繁雑になるので心の緊張が崩れる。
・禘自既灌而往者吾不欲觀之矣…論語八佾10。「子曰、禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣」。同集註に、「灌者、方祭之始。用鬱鬯之酒灌地、以降神也。魯之君臣、當此之時、誠意未散、猶有可觀。自此以後、則浸以懈怠而無足觀矣」とある。
・建有極…書経洪範。「皇極。皇建其有極。斂時五福。用敷錫厥庶民」。


第八 凡天下云々の条

凡天下至於一國、一家至於萬事、所以不和合者、皆由有閒也。無閒則合矣。以至天地之生、萬物之成、皆合而後能遂。凡未合者、皆爲有閒也。若君臣・父子・親戚・朋友之閒、有離貳怨隙者、蓋讒邪閒於其閒也。去其閒隔而合之、則無不和且治矣。噬嗑者、治天下之大用也。
【読み】
凡そ天下より一國に至るまで、一家より萬事に至るまで、和合せざる所以の者は、皆閒有るに由るなり。閒無くんば則ち合せん。以て天地の生、萬物の成に至るまで、皆合して後に能く遂ぐ。凡そ未だ合せざる者は、皆閒有るが爲なり。君臣・父子・親戚・朋友の閒に、離貳怨隙有るが若きは、蓋し讒邪其の閒に閒すればなり。其の閒隔を去りて之を合せば、則ち和し且つ治まらざること無し。噬嗑[ぜいこう]は、天下を治むる大用なり。
【補足】
・この条は、噬嗑卦の程伝である。

噬嗑を云をふとて凡天下と語り出したもの。天下の大きいことからちいさいこと、一家までふっくりとゆかぬことがある。不和合はすら々々ゆかぬこと。引出しの引かかるやうなもの。家内から朋軰の中、すら々々せぬことがある。貴様はとふしたと云と、とふもせぬがうき々々とせぬと云ふ。わけがあるなり。わけのあると云は、あるまいことがある。迂斎が鋪居に沙のはいりたやうと云へり。そこで戸や障子があきか子る。歯も一本ぬけあかると合か子る。合てものが來る。種ものも下へ瓦をいれてをくと出來ぬ。かれてしまふなり。言ひかいなきものの讒言と云は梶原を悪人にしたこと。あれほどでなくてもへだてるものがある。甚だ梶原を悪人と思ふが、そふなくてもへだてると云てへったりとこぬもの。へたてを取て除けると跡はをさまる。上と下でかむで咽へ入る。をさまった処で和合と云。いつまても口中にあたりてはその分んでをかれぬ。氣の毒なこと々々々々ことと云が奧歯にもののはさまりたやふなもの。大事もないことなれども、なくさ子はならぬ。そのことを噬嗑と出して見せたもの。手もなくかんでなくすと云ことがある。それを知らぬとささいなことが大事になる。物を氣にもつ人がある。その中になをすになんのこともない、はてさてかふしたことでござると、それは心得ちかいと一と口ですむことあり、これが噬嗑なり。かみ合せるとすら々々ゆく。政の上にもかみ合せるを知ら子ばならぬ。さま々々今日のことにさしつかへたことがあると、昨日の一言ですんだと云が、かみ合せてやりたと云たもの。さしつかへのないようになりたれば大用と云ものぞ。その心得が治体なり。何程君に德があっても噬嗑を知らぬと、一人で誠があまり有てもきれか子ることあるものなり。觀の卦の誠で包荒をして取る。噬嗑で馮河をして取。屹度上へあてて云もわるいが、あてれはあたりもする。靣白あやなり。
【解説】
大きいことから小さいことまで、天下中のことですらすらと行かないことがある。それは隔てがあるからである。それをなくせばうまく納まるのであって、それには「噬嗑」という方法がある。一口に噛んでなくすのである。
【通釈】
「噬嗑」のことを言おうとして「凡天下」と語り出したもの。天下の大きいことから小さいこと、一家のことまでがふっくりと行かないことがある。「不和合」はすらすらと行かないこと。引出しの引っ掛かる様なもの。家内から朋輩の内まで、すらすらと行かないことがある。貴様はどうしたのかと聞くと、どうもしないがうきうきとしないと言う。それにはわけがある。わけがあると言うのは、あってはならないことががあるのである。迂斎が敷居に砂が入った様なことだと言った。そこで戸や障子が開かない。歯も一本抜けているとうまく合わない。合うからものが来る。種ものも下へ瓦を入れて置くと育たず、枯れてしまう。つまらない者の讒言とは、梶原を悪人にした様なこと。あれほどでなくても隔てるものがある。梶原を大層な悪人と思うが、そうでなくても隔てるということでべったりとならなくなるもの。隔てを取って除けると後は納まる。上顎と下顎で噛むから咽へ入る。納まった処で和合と言う。いつまても口中にあるのではそのままにしては置けない。気の毒なことと言うのが奥歯にものの挟まった様なもの。それが大事ということでもないが、なくさなければならない。そのことを「噬嗑」と出して見せた。簡単に噛んでなくすということがある。それを知らなければ些細なことが大事になる。物を気に病む人がいる。その中で、簡単に治すことができる、それはこうしたことだ、それは心得違いだと一口で済むことがあり、これが噬嗑である。噛み合わせるとすらすらと行く。政の上でも噛み合わせることを知らなければならない。様々と今日のことに差し支えたことがあっても、それは昨日の一言で済んだことだと言うのが、噛み合わせて遣ったというもの。差し支えのない様になれば「大用」というもの。その心得が治体である。どれほど君に徳があっても噬嗑を知らなければ、その人に誠が大層有ったとしても仕切れないことがあるもの。観の卦の誠で包荒をして取る。噬嗑で馮河をして取る。ぴったりと上へ当てて言うのも悪いが、当てようとすれば当たりもする。面白い綾である。
【語釈】
・噬嗑…「噬」は噛むこと。「嗑」は吸うこと。
・梶原…梶原景時。鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。平三と称。平家追討に功があった。源義経を讒し、また結城朝光を頼家に讒したが、朝光は諸将と連署してその誣告を訴え、鎌倉から追放。駿河国狐崎に一族とともに討死。~1200
・觀の卦の誠…治体7を指す。
・包荒…治体6。「泰之九二曰、包荒用馮河」。
・屹度…①厳重に。きっぱりと。しっかりと。②たしかに。必ず。相違なく。

講後餘録
徂徠や太宰が程子を譏るか心に思よりちとづつ懸け匁を重く云が趣向なり。それで未熟の學者を欺く。謀ことなり。權謀の心あるやふに見へる。大宰が、神道はないものなれども、方々社家が佛道のはやるをうらやみて神道を建立したと云。古ひ書付のあるを見れば、中古からこしらへたものではあるまい。三輪善藏が、天照太神女体ではないが、垩德太子が推古天皇を立る例ををすため女体にしたと云が合点ゆかぬ。垩德太子の推古天皇を立るに例を推すためにもせよ、それ迠男神と天下て聞つたへたれば後世をばたまされやうが、當時が欺れぬ筈なり。天子の御舊記もあり、國々の神社にも書付があるべし。太宰が云やうではあるまい。因顧諸生笑曰、土金傳其外へったりと道学の名義にあたるやふになりたは山﨑先生や若林からであるべし。暫ありて纖邸文次、尚斎先生の默識録を出して四十六士論の疑を質す。先生曰、淺野の死、殿中て刄傷に及んだと云の死なり。今度の百姓の門訴と同こと。門訴をしたから遠嶋に仰付られた。昔し七と云少女好色より火をつけた。因て火あぶりにする。公儀絜靜精微なことじゃ。直方先生も、やるはずのまいないの、彼等が權謀のなどと云、辞の弊なり。韞藏録にのせてあるも無用の弁が多い。ただ復讐でないと云につまる。某先年すこし短文を書てをいたとて挙牛嶋隨筆云々。先年予宅にて善太殿と唐彦明か弁のすいえを云はす、きり々々を論しやとて半時も論じた。このときの議論はかり本道でありた。筆記をしてをけばよかったが、若ひ時は氣が粗いものゆへ、いつも云はるると云氣の高ぶりなり。笑曰、唐﨑もよく々々ぞ。國へたつときの前夜門人五六軰よりて学術ありしに唐﨑曰、何もかも黙斎と善太郎に從へ。四十六士ばかりは决して默斎と善太郎に從ふなと云へりとなり。
【解説】
徂徠や太宰の話には尾鰭が付いていて嘘があり、三輪も同じである。花澤文次が四十六士論を質問し、黙斎がそれは復讐ではないと答えた。以前、学友の唐崎が、何もかも默斎と善太郎に従え、しかし、四十六士だけは決して默斎と善太郎に従うなと言った。
【通釈】
徂徠や太宰が程子を譏る際には、心に思っていることより少し懸け匁を重く言う趣向がある。それで未熟な学者を欺く。それは謀である。彼等には権謀の心がある様に見える。太宰が、神道はなかったものだが、方々社家が仏道の流行るのを羨んで神道を建立したのだと言った。しかし、古い書付があることからすれば、中古に拵えたものではないだろう。三輪善蔵が、天照大神は本来女体ではないが、聖徳太子が推古天皇を立てるために、その例として女体にしたのだと言うのは合点が行かない。聖徳太子が推古天皇を立るための例としたとしても、それまで男神と天下に聞き伝えられているのであれば、後世なら騙すことができるだろうが、当時を欺くことができない筈である。天子の御旧記もあり、国々の神社にも書付があるだろうから、太宰が言う様ではないだろう。そこで諸生を顧みて微笑んで言った。土金伝やその外がべったりと道学の名義に当たる様になったのは山崎先生や若林からのことだろう。暫く間を置いて、纖邸文次が尚斎先生の黙識録を出して四十六士論の疑を質した。先生が、浅野の死は殿中で刃傷沙汰に及んだための死である。それはこの度の百姓の門訴と同じこと。門訴をしたから遠島を仰せ付けられた。昔お七という少女が好色から火をつけた。因って火炙りになった。公儀は「絜静精微」である。直方先生も、やる筈の賂とか、彼等が権謀でなどと言うが、それは辞の弊である。韞藏録に載せてあることにも無用の弁が多い。ただ復讐ではないということに詰まる。私が先年少し短文を書いて置いたが、それが牛嶋隨筆云々に挙げてある。先年私の家で善太殿と唐彦明が弁の費えを言わず至極を論じよう言って半時も論じた。この時の議論ばかりは本物であった。筆記をして置けばよかったが、若い時は気が粗いもので、いつでも言えると思っていた。それが気の高ぶりである。微笑んで言った。唐崎もよくよくの人である。国へ発つ時の前夜に門人が五六人集まって学術をしたが、唐崎が、何もかも黙斎と善太郎に従え。しかし、四十六士だけは決して黙斎と善太郎に従うなと言ったそうだ。
【語釈】
・三輪善藏…三輪執斎。江戸中期の陽明学者。名は希賢。字は善蔵。京都の人。佐藤直方にも学ぶ。1669~1744
・纖邸文次…林潜斎。花沢文次。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)
・絜靜精微…礼記経解。「孔子曰、入其國、其教可知也。其爲人也、温柔敦厚、詩教也。疏通知遠、書教也。廣博易良、樂教也。絜靜精微、易教也。恭儉莊敬、禮教也。屬辭比事、春秋教也」。
・善太…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。迂斎と野田剛斎に学ぶ。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・唐彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。尚、竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758。