第九 豶豕之牙吉の条  亥二月十四日  纎邸文録
【語釈】
・亥…寛政3年辛亥。1791年。
・纎邸文…林潜斎。花沢文次。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

大畜之六五曰、豶豕之牙。吉。傳曰、物有總攝、事有機會。聖人操得其要、則視億兆之心猶一心。道之斯行、止之則戢。故不勞而治。其用若豶豕之牙也。豕、剛躁之物。若強制其牙、則用力勞而不能止。若豶去其勢、則牙雖存而剛躁自止。君子法豶豕之義、知天下之惡、不可以力制也。則察其機、持其要、塞絶其本原。故不假刑法嚴峻而惡自止也。且如止盗。民有欲心、見利則動。苟不知敎、而迫於饑寒、雖刑殺日施、其能勝億兆利欲之心乎。聖人則知所以止之之道。不尚威刑、而脩政敎、使之有農桑之業、知廉恥之道、雖賞之不竊矣。
【読み】
大畜の六五に曰く、豕の牙あるものを豶[ふん]す。吉なり、と。傳に曰く、物に總攝有り、事に機會有り。聖人其の要を操[と]り得ば、則ち億兆の心を視ること猶一心のごとし。之を道[みちび]けば斯[ここ]に行き、之を止むれば則ち戢[おさま]る。故に勞せずして治まる。其の用は豕の牙を豶するが若し。豕は剛躁の物なり。若し其の牙を強制せば、則ち力を用うること勞せども止むること能わず。若し其の勢を豶去せば、則ち牙存すと雖も剛躁は自ら止まん。君子は豕を豶する義に法り、天下の惡の力を以て制す可からざるを知る。則ち其の機を察し、其の要を持じ、其の本原を塞絶す。故に刑法の嚴峻なるを假らずして惡自ら止む。且く盗を止むるが如し。民には欲心有りて、利を見れば則ち動く。苟も敎を知らずして、饑寒に迫らるれば、刑殺日に施くと雖も、其れ能く億兆利欲の心に勝たんや。聖人は則ち之を止むる所以の道を知る。威刑を尚ばずして、政敎を脩め、之をして農桑の業有りて、廉恥の道を知らしむれば、之を賞すと雖も竊[ぬす]まじ、と。
【補足】
・この条は、大畜卦六五爻辞の程伝である。

豶は宮刑を云、豕はぶたなり。古は野猪と豕と通して云と見へる。今豕は人家に畜て氣つかいないもの。然ればこれは人家の豕を云ことでなく野猪のことて、井のしし山あらしのことなり。あれは手とりもの。あれが怒り人を逐ふて觸るときはたまらぬ。牙へかかるとやか立になる。そこを勢りを切ると牙をふるふことならぬゆへ、周公の此辞が物にはつかまへ処あるを云ふとて豶豕と掛られた。傳曰物有總摂事有機會。物を一つ出したときに物には斯ふすると云事がある。大學に物有本末事有終始と同。總摂はつかまへ処。それを合点して丁どの仕て出すを有機會と云、譬て云に、百姓が種を下し水につけると云は総摂。其種を彼岸のいつ上けて幾日に蒔と云処へ持て來て、丁とのずん有るを機會と云。垩人の天下を治るもつかまへ処、丁どの仕て出す処がある。垩人操其要云々。事物の上に總摂機會がありて、丁どの処をつかまへると億兆の心が一つになる。垩人を虫もふみ殺さぬ人と云やふに心得ることではない。知かありてつかまへ処ある。知か明かさのこと。
【解説】
「大畜之六五曰、豶豕之牙。吉。傳曰、物有總攝、事有機會。聖人操得其要、則視億兆之心猶一心」の説明。猪は荒いものだが、去勢をすれば大人しくなる。「総摂」は捉まえ処で、丁度の処で出るのを「有機会」と言う。事物の上に総摂機会があって、それを捉まえると億兆の民が一つになる。
【通釈】
「豶」は宮刑のことで、「豕」は豚。古は野猪と豕とを通して言った様だ。今豕は人家に飼われて気遣いのないもの。そこで、これは人家の豕を言ったことではなく野猪のことで、猪や山荒らしである。あれは扱い難いもの。あれが怒って人を逐い、牙に触れると堪らない。牙にかかると矢が立った様である。そこを、勢りを切ると牙を振るうことができないことから、周公のこの辞は、物には捉まえ処があることを言おうとして豶豕と繋けられたのである。「伝曰物有総摂事有機会」。物を一つ出した時に、物にはこうするということがある。これは大学の「物有本末事有終始」と同じこと。「総摂」は捉まえ処。それを合点して丁度のところでして出すのを「有機会」と言う。たとえて言えば、百姓が種を水に浸けるというのは総摂。その種を彼岸のいつに上げて幾日に蒔くという処へ持って来て、丁度よい次第になったのを機会と言う。聖人が天下を治めるにも捉まえ処があり、丁度にして出す処がある。「聖人操其要云々」。事物の上に総摂機会があって、丁度の処を捉まえると億兆の心が一つになる。聖人を虫も踏み殺さない人という様に心得てはならない。知があって捉まえ処がある。その知とは明らかさのこと。
【語釈】
・物有本末事有終始…大学章句1。「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣」。

人の親が子の仕置をするに魚鱗鸖翼はない。小児の腹を見ぬいてする。親がなせ手習をせぬと、明日の祭見にやらぬと云で、打槨に及ばずして子が精を出す。そこが総せつの処なり。某毎々云、鱣をさくに鱣屋かするはつかまへ処があるゆへうごきはとれぬ。総摂をするゆへなり。某秋葉に卜居の時、鯉が千住から来るに、あれか飛ひは子ても茶店の料理人眼の処を大指で持つと、あの勢い盛なやつがべったりとなる。総せつに機會がありて、医者てもそれなり。療治の内的中な藥ても、又、轉方の機會がある。傷寒の療治は大概医者に知らぬものはないが、甲斐ないと機會を失ふ。とふにすべきことせぬゆへ裏に入たと云。爰が行ひのことでなく、知のことなり。垩人は知が照ゆへ総摂機會の要をつかまへて、この手あの手はない。そこて無爲而治者夫舜乎なり。けっこふな殿様と云ではなし。億兆の心も堯舜の心も一つゆへ、一々聞には及はぬ。総摂かあるなり。あの公事訴詔と云が民の方に手ん手に迷惑あるゆへなり。迷惑あるからとは云へとも、先つ知れたこと。併あれらも日和よいから花見に出ると云やふなことではない。了簡違ひくるみ安んぜぬことあるゆへ訟るなり。垩人は上で合点ゆへ、そこを安んする仕向けしてをく。無爲の化かきこへた。
【解説】
鰻や鯉を掴まえるのにも捉まえ処がある。医療でも、よい薬があってもそれを使う時期を間違えれば治せない。ここは知のことを言ったこと。聖人は「総摂機会」を知っているから「無為而治」ことができる。
【通釈】
人の親が子の仕置きをするのに魚鱗鶴翼はない。親が小児の腹を見抜いて、何故手習いをしないのか、明日の祭は見に遣らないと言うので打ん殴らなくても子が精を出す。そこが総摂の処である。私が毎々言っていることだが、鰻を裂くにも鰻屋がするのには捉まえ処があるので鰻が動けない。それは総摂をするからである。私が秋葉に卜居した時、鯉が千住から来て飛び跳ねたが、茶店の料理人が眼の処を親指で持つと、あの勢いの盛な奴がべったりとなった。総摂には機会があり、それは医者でも同じこと。療治する中に的中する薬があっても、それにはまた用いるべき機会がある。傷寒の療治は大概医者で知らない者はいないが、甲斐がないと機会を失う。すべき時にして置かなければならないことをしないので裏に入ったと言う。ここは行いのことではなく、知のこと。聖人は知が照るので総摂機会の要を捉まえるだけで、この手あの手はない。そこで、「無為而治者夫舜乎」である。結構な殿様ということではない。億兆の心も堯舜の心も一つなので、一々聞くには及ばない。総摂がある。あの公事訴訟というのは、個々の民の方に迷惑があるからだが、迷惑があるからとは言っても先ずは大したことでない。しかし、あれ等も日和がよいから花見に行くという様なことではない。了簡違いを含めて安んじないことがあるから訴えるのである。聖人は上で合点しているから、そこを安んじる仕向けをして置く。「無為而化」がよくわかる。
【語釈】
・秋葉…
・卜居…土地をうらなって住居を定めること。転じて、居所を決めること。
・無爲而治者夫舜乎…論語衛霊公4。「子曰、無爲而治者、其舜也與。夫何爲哉。恭己正南面而已矣」。
・無爲の化…

道之斯行云々。こちへこいと云と来る。止れと云へはととまる。向の心とこちの心か一つゆへ、そふまいる筈なり。名人の馬にのるが馬とこちが一つゆへ丁どに行く。きめ所きめるゆへ、豶豕の牙なり。豕剛躁之物云々。某野猪のことであろふと云がこれなり。今家に畜ふ豕は性か牛のやふなもの。小児も乘るなり。若豶去其勢則云々。牙へさわると大事ゆへ、早く手まわしして先勢を切る。それで動きがとれぬゆへ、餘のもののやふになる。盗人の腰がぬけたやふなもの。強盗はならぬのなり。知天下之悪云々。易の豶豕をよく合点すべし。きめ所をきめると動きはとれぬ。天下の悪人たへぬもの。力らて首をきる々々と云て懲りもするが、悪人は別の筆法なもの。あとからは出来々々する。堯舜のときから刑もあれとも、刑をあてにはなされぬ。丁ど雷のやふなもの。いつ隕る日と云はなけれども、落ることもある。垩人は刑のないやふにしておいて刑もさるる。書經に刑すれとも刑なきにあててすともあり。
【解説】
「道之斯行、止之則戢。故不勞而治。其用若豶豕之牙也。豕、剛躁之物。若強制其牙、則用力勞而不能止。若豶去其勢、則牙雖存而剛躁自止。君子法豶豕之義、知天下之惡、不可以力制也」の説明。決め所を決めるのでうまく行く。悪人を刑で罰するだけでは悪い。聖人は刑がない様にして置いて刑をした。
【通釈】
「道之斯行云々」。こちらへ来いと言うと来る。止まれと言えば止まる。向こうの心とこちらの心が一つなのでそうなる筈である。名人が馬に乗ると馬と自分とが一つなので丁度に行く。決め所を決めるので、豶豕の牙となる。「豕剛躁之物云々」。私が野猪のことだろうと言う理由がこれ。今家で飼っている豕は性が牛の様なもの。小児も乗ることができる。「若豶去其勢則云々」。牙へ触れると大事なので、早く手回しをして先ずは勢を切る。それで動きがとれなくなるから、大したものでなくなる。それは盗人の腰が抜けた様なもので、それでは強盗はできない。「知天下之悪云々」。易の豶豕をよく合点しなさい。決め所を決めると動きはとれない。天下に悪人は絶えない。力で首を切るぞと言えば懲りもするが、悪人には別の方法があるもの。それは次々と出て来る。堯舜の時から刑もあったが、刑を当てにはなされなかった。刑は丁度雷の様なもので、いつが落ちる日ということではないが、落ちることもある。聖人は刑がない様にして置いて刑もされる。書経に「刑期于無刑」ともある。
【語釈】
・刑すれとも刑なきにあててす…書経大禹謨。「刑期于無刑」。

塞断其本原云々。わるいことのないやふに根をたつ。必也使無訟乎なり。不假刑法嚴峻而悪自止なり。首を切るの、又、命はたすかりても嶋へやるのと云、垩賢は法を立て、そふして置て一寸々々と出す意はなく、不假と云が今日一日ぎり々々々々と云てするのなり。呂刑の使吾一日も祥刑と云もここなり。刑を出さずに悪を懲す思召にて、其ことを如止盗云々なり。古今盗賊もあるが、この盗が何より靣白ひとてするものはない。尺八が何より好きと云とは違ふ。盗人も生産が立てあれはそれはない。飢寒に迫るゆへのこと。それゆへ凶年には盗人があるもの。あれらも盗がよいとは思はぬ。あれらが子孫に盗人になれと云先祖書はないが、苟無恒産無恒心なり。飢寒に迫れば、然れば刑罪にてはゆかぬ。刑て億兆の利心をふせぎやふはない。そこで垩人は盗人の出来ぬやふにする。
【解説】
「則察其機、持其要、塞絶其本原。故不假刑法嚴峻而惡自止也。且如止盗。民有欲心、見利則動。苟不知敎、而迫於饑寒、雖刑殺日施、其能勝億兆利欲之心乎。聖人則知所以止之之道」の説明。生計が立てば盗みはしない。それは飢寒で逼迫するからである。刑罰でそれを抑えることはできない。
【通釈】
「塞断其本原云々」。悪いことのない様に根を断つ。それが「必也使無訟乎」である。「不仮刑法厳峻而悪自止也」。首を切るとか、また、命は助かっても島へ遣るという様に聖賢は法を立て、そうして置いて一寸ずつそれをする意はない。「不仮」と言うのが今日一日限りと言ってすること。呂刑の「使吾一日」も「祥刑」と言うのもここのこと。刑を出さずに悪を懲らす思し召しで、そのことを「如止盗云々」とたとえた。古今盗賊もあるが、この盗みが何より面白く思ってするのではない。尺八が何より好きだと言うのとは違う。生産が立っていれば盗みはない。それは飢寒で迫るからするのである。それで凶年には盗人がいる。あれ等も盗みがよいとは思わない。あれ等に子孫に盗人になれと言う様な先祖書きなどはないが、「苟無恒産無恒心」である。そこで、飢寒に迫れば刑罪ではうまく行かない。刑で億兆の利心を防ぐことはできない。そこで聖人は盗人ができない様にする。
【語釈】
・必也使無訟乎…論語顔淵13。「子曰、聽訟吾猶人也。必也使無訟乎」。
・使吾一日…書経呂刑。「俾我、一日非終惟終」。
・祥刑…書経呂刑。「王曰、吁、來、有邦有土、告爾祥刑」。
・苟無恒産無恒心…孟子梁恵王章句上7。「無恆産而有恆心者、惟士爲能。若民、則無恆産、因無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不爲已。及陷於罪、然後從而刑之。是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可爲也」。同滕文公章句上3。「民之爲道也、有恆産者有恆心。無恆産者無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不爲已。及陷乎罪、然後從而刑之、是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可爲也」。

不尚威刑而脩政教。威刑もなくてならぬが、末なり。子を折檻して食とめ藏へ入るもするか、どこの子もこりぬとて、家なみにそふてもない。必竟それと云もそたての悪ひからのことなり。政教は礼でそだて礼で教る。三代は礼樂あるゆへよい。それで小学にも子とものときからはや誦詩舞勺なり。使之有農桑之業云々。田舎でも都でも耻を知ればわるいことせぬもの。密夫なとも耻を知らぬゆへなり。あれも露顕すると首かなけれとも、多くそふもならぬゆへのこと。これを冝くないことじゃ、非義じゃと云て耻る処でなくてはほんのことてない。又、ふとひ奴は手抦にするがあるべし。それが政教が立と耻く思ふ。譬へば掃ために西瓜のすててあるや犬の椀にあるものは子ともでも食はぬ。あの一路ては耻と知たゆへのこと。余のことはそふ思はぬ。そこで総摂機會をつかまへ政教て礼義を知らせる。
【解説】
「不尚威刑、而修政敎、使之有農桑之業、知廉恥之道、雖賞之不竊矣」の説明。育て方が大事である。政教は礼で育て、礼で教える。恥を知れば悪いことはしない。そこで政教を立てるのである。
【通釈】
「不尚威刑而脩政教」。威刑もなくてならないが、それは末のこと。子を折檻して食を止め、蔵へ入れても、何処の子も懲りない言うが、それはどの家もそうだということではない。畢竟、それというのも育て方が悪いからである。政教は礼で育て、礼で教える。三代は礼楽があるのでよい。それで小学にも子供の時から早くも誦詩舞勺とある。「使之有農桑之業云々」。田舎でも都でも恥を知れば悪いことはしないもの。密夫なども恥を知らないからするのである。あれも露顕すると首がなくなるが、多くはその様にならないからする。ここが、それは宜しくないことだ、非義だと言って恥じる処でなくては本来ではない。また、図太い奴の中にはそれを手柄にする者もいるだろう。それが、政教が立つと恥ずかしく思う。たとえば掃溜めに捨ててある西瓜や犬の椀にあるものは子供でも食わない。あの一路では恥と知っているからである。しかし、他のことはその様には思わない。そこで総摂機会を捉まえ、政教で礼義を知らせるのである。
【語釈】
・誦詩舞勺…小学内篇立教。「十有三年學樂誦詩舞勺」。

扨又礼義を知ても飢寒て忘るゆへ農桑之業也。勸農官と云大司農もそれなれとも、あれは上にありて下へ遠いと役に立ぬ。勸農官が一村々々にありて今の名主のやふなものなれとも、只今の名主は上の法度を觸たり年貢を取る計なり。礼記にもあり、辻番の様に処々をまわり小屋に居て耕を見るやふに立てあること云てあり。百姓も油断はないが勧農の教がないと怠が出来る。丁と父子は天性と云へとも教なければ不孝にもなるやふなものなり。雖賞之不竊矣は、廉耻のあとへこの出たが聞へた。輕いものは飢渇に及べはわるいことをもするものなれども、上から食はれるやふにしてあるゆへ盗はせぬ。この語は盗をしたらば褒美を取せんと觸をまわしても盗はせぬと云た語なり。人を嘲弄するやふな口上なれとも、垩人は丸い計でない。季康子は魯の一番家老なれとも、御手前様が寡欲ならば彼等盗はどふしょうぞと丸ひ口から手痛ひ仰られやふなり。さてこの章、総摂機會のこと。覇者もきめ所があると云か、あれは一手ある事の上のこと。垩賢のは廉耻と政教がきめ所なり。これが治体へ出たは靣白ことなり。廉耻の道が國政の体になるとは後世の及ぬことなり。
【解説】
飢寒をなくすために「農桑之業」を盛んにする。生計を立てられる様にして置くのである。この章は総摂機会のこと。覇者の決め所は事の上で一手あることだが、聖賢のは廉恥と政教が決め所である。
【通釈】
さてまた礼義を知っても飢寒でそれを忘れるので「農桑之業也」。勧農官という大司農もそれだが、あれは上にいる。下へ遠いと役に立たない。勧農官が一村毎にいるので今の名主の様なものだが、只今の名主は上の法度を触れたり年貢を取るだけである。勧農官は礼記にも記載があり、辻番の様に処々を廻り、小屋にいて耕作を見る様な役だと言っている。百姓も怠るものではないが、勧農の教えがないと怠りができる。丁度父子は天性と言っても教えがなければ不孝にもなる様なもの。「雖賞之不竊矣」が廉恥の後に出たのがよくわかる。軽い者は飢渇に及べば悪いことをもするものだが、上が食える様にして置くので盗みはしない。この語は盗みをすれば褒美を取らそうと触れを回しても盗みはしないということである。人を嘲弄する様な口上だが、聖人は丸いだけではない。季康子は魯の一番家老だったが、貴方様が寡欲であれば彼等が盗みをすることなどはないと孔子が言った。丸い口から手痛い仰せられ様である。さて、この章は総摂機会のこと。覇者も決め所があると言うが、あれは事の上で一手あること。聖賢のは廉恥と政教が決め所である。これが治体へ出たのが面白い。廉恥の道が国政の体になるとは後世の考え及ばないこと。
【語釈】
・礼記にもあり…礼記月令。「天子始絺、命野虞、出行田原、爲天子勞農勸民。毋或失時」。
・御手前様が寡欲ならば…論語顔淵18。「季康子患盜。問於孔子。孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊」。


第十 解利西南の条

解利西南。无所往、其來復、吉。有攸往、夙、吉。傳曰、西南坤方。坤之體廣大平易。當天下之難方解、人始離艱苦。不可復以煩苛巖急治之。當濟以寛大簡易、乃其宜也。既解其難而安平無事矣。是无所往也。則當脩復治道、正紀綱、明法度、進復先代明王之治。是來復也。謂反正理也。自古聖王救難定亂、其始未暇遽爲也。既安定則爲可久可繼之治。自漢以下、亂既除、則不復有爲、姑隨時維持而已。故不能成善治。蓋不知來復之義也。有攸往、夙、吉、謂尚有當解之事、則早爲之、乃吉也。當解而未盡者、不早去、則將復盛。事之復生者、不早爲、則將漸大。故夙則吉也。
【読み】
解は西南に利ろし。往く所无きとき、其れ來り復らば、吉なり。往く攸有るとき、夙にせば、吉なり。傳に曰く、西南は坤の方なり。坤の體は廣大平易なり。天下の難の方に解くるに當たり、人始めて艱苦を離る。復び煩苛巖急を以て之を治む可からず。當に濟[すく]うに寛大簡易を以てすべく、乃ち其の宜しきなり。既に其の難を解きて安平無事なり。是れ往く所无きなり。則ち當に治道を脩復し、紀綱を正し、法度を明らかにし、進んで先代明王の治に復すべし。是れ來り復るなり。正理に反るを謂うなり。古より聖王難を救い亂を定むるに、其の始め未だ遽に爲すに暇あらざるなり。既に安定すれば、則ち久しくす可く繼ぐ可き治を爲す。漢より以下、亂既に除かるれば、則ち復爲すこと有らず、姑く時に隨いて維持するのみ。故に善治を成すこと能わず。蓋し來復の義を知らざるなり。往く攸有るとき、夙にせば、吉なりとは、尚當に解くべき事有るとき、則ち早く之を爲[おさ]めば、乃ち吉なるを謂うなり。當に解くべくして未だ盡くさざる者は、早く去らずんば、則ち將に復盛んにならんとす。事の復生る者は、早く爲めずんば、則ち將に漸く大ならんとす。故に夙にせば則ち吉なり、と。
【補足】
・この条は、解卦卦辞の程伝である。解卦は、「解、利西南。无所往、其來復吉。有攸往、夙吉。彖曰、解、險以動。動而免乎解。解利西南、往得衆也。其來復吉、乃得中也。有攸往、夙吉、往有功也。天地解而雷雨作。雷雨作百果草木皆甲坼。解之時、大矣哉。象曰、雷雨作解。君子以赦過宥罪」である。

解は、一つ難義なことのとけてもふよいはと云ときのことなり。大病人も最ふ氣遣ないと云塲なり。天下の治乱保元平治より北条九代ても、室町家より御當家になりても、其治りぎはを解と云て太平になる堺目なり。利西南は文王の八卦からおこった字。隂の方角にあたりて、坤はやわらかなもののすらりとしたことにあてる。天下のこと、此ときは万端さらりとしたがよいと云ことなり。小児も、重ひ疱瘡あがりにもふ手習せよではよくない。物の六ヶしいあとはすらりがよい。類焼のあとのやうなもの。二た晩も寐ぬと云て藏の庇へさしかけをして幸に怪我もないと云とき、そこへ家來か手掛を冠て出た迚無礼とあらく呵はわるい。ここは焼あとのことなり。武家は平生嚴重なれとも、火事後は松板で庇かけて居る内は平生のやふ吟味なし、手輕がよい。
【解説】
「解利西南」の説明。「解」とは、治まり際のこと。「西南」は坤の方角で、すらりとしている。それは、火事の直後は手軽にするのがよいのと同じ。
【通釈】
「解」は、一つ難儀なことが解けてもうよくなったという時のこと。大病人ももう気遣いないという場である。天下の治乱は保元平治より北条九代でも、室町家より御当家になっても、その治まり際を解と言い、それが太平になる境目である。「利西南」は文王の八卦から起こった字。陰の方角に当たり、坤は柔らかなものですらりとしたことに当てる。この時は天下のことが万端さらりとするのがよいということ。小児も重い疱瘡が治ったばかりでもう手習いをしろと言うのはよくない。難しいものの後はすらりとするのがよい。それは、類焼の後の様なもの。二晩も寝ていないと言って蔵の庇に差掛けをして、幸いに怪我もないという時、そこへ家来が手拭いを被って出て来たからといって無礼と荒く呵るのは悪い。ここは焼け跡のこと。武家は平生厳重なものだが、火事後に松板で庇を掛けている内は平生の様な吟味をせず、手軽なのがよい。

無所往。この句を上へつけるはよくない。下へぶつ切れで一句つつなり。この時、事もないゆへすることはない。医者なれば病が愈て脉も平生底、藥も入まいと云ときなり。解の時節になりてわるいことなし。善けれとも、風を悪と云へは其分にはならぬか、ここはこれと云言ぶんはない。其來復吉。利西南へあてて見へし。解けた當分は利西南なり。ここては本とふの物になりたゆへ、ほんとふの事をするゆへ來復吉と云。大名も焼たときは火事羽織で取次出るが、もふ玄關も出來、書院も本道に出來あかりたと云其時はつぎ上下で平生の通りの挌式になる。有所往夙吉。これもぶつ切の句なり。解の時節なれとも、油断ならぬと云ことあらは早く事をすべし。病人が出勤かなると云へとも、あぢな処かあるか先これても勤められると云。先これでかわるい。火事にのかれても跡火から出たと云ことあり、一旦消へたなれともふす々々か残たて、初手焼のこった土藏もやくことあり、いかさま易を立方に情を尽すと孔子の玉ふか、此様なとどひたことなり。それは無学な人が手前細工にゆくと思ふは可笑きことなり。
【解説】
「无所往、其來復、吉。有攸往、夙、吉」の説明。解けて直ぐは利西南だが、本来の状態になったら、平常の格式で行う。また、解の時節でも油断をせず、早く治めなければならない。火事から逃れても跡火から焼けることがある。
【通釈】
「無所往」。この句を上へ付けて見るのはよくない。上下ぶつ切れで一句ずつである。この時、事もないのですることもない。医者であれば病が癒えて脈も平生の通り、薬も要らないだろうという時のこと。解の時節になれば悪いことはない。これは善いのだが、夙にでなければ悪いと言えばよいばかりではない筈だが、ここはこれと言う言分はないこと。「其来復吉」。「利西南」へ当てて見なさい。解けてから当分の間は利西南である。ここでは本来の物になったので、本来の事をするから来復吉と言う。大名も焼けた時は火事羽織で取り次ぎに出るが、もう玄関もでき、書院も本来の通りに出来上がったというその時は、継上下で平生の通りの格式になる。「有所往夙吉」。これもぶつ切れの句である。解の時節でも油断がならないことがあれば早く事をしなければならない。病人が出勤することができると言う。悪い処があるが先ずはこれでも勤められると言う。この、先ずはこれでもというのが悪い。火事から逃れても跡火から焼けるということがあって、一旦消えてもぶすぶすとしていて、焼け残っていた土蔵も焼いてしまうことがある。将に易を基にして情を尽くすと孔子は仰ったが、それがこの様に行き届いたこと。そこを無学な人が手前細工でうまく行くと思っているのは可笑しいことである。
【語釈】
・つぎ上下…継上下。上は肩衣、下は半袴で、地質や色合の異なったもの。小紋・縞類など。初め夏の略服だったが、のちには貴賤ともに冬も用いるようになり、江戸時代、役人の平服とした。
・易を立方に情を尽す…易経繋辞伝上12。「子曰、聖人立象以盡意、設卦以盡情僞、繋辭焉以盡其言、變而通之以盡利、鼓之舞之以盡神」。

西南坤方云々。數年の軍て天下苦みはてたが、解は漸々えいとふ々々々々の声もなく、劍戟沙汰もなくなったときゆへ、爰であらいはわるい。坤体廣大平易と云か漸々心がのび々々なり。そこで焼け塲[はら]は旦那の方へ聞へるやふに浄留理の声がしても、あれらも一日灰だらけになりてをるなれば、まあすてて置く。平生のやふに今日は御精進日にと云て呵るはわるい。煩苛。苛は苛察とつつく。からいと云字ゆへ、むごいと云ことにも見へるか、それはわるい。法の色々ありてやかましいを云。そこへ小便する処てはないと云て呵る。不断のやふにしっくいをかけて垪も出来た上ならはこそ、未た井戸皮も出來ぬ内にこせ々々やかましいはわるい。太平の時とは違て嚴急にはならぬ。少々目にあまるとても見のがしする。寛大簡易のゆるやかをして大法を出す計なり。乃其冝也。これ迠て利西南を説たことなり。
【解説】
「傳曰、西南坤方。坤之體廣大平易。當天下之難方解、人始離艱苦。不可復以煩苛巖急治之。當濟以寛大簡易、乃其宜也」の説明。解は治まり始めたところだから、ここで粗くするのは悪い。「寛大簡易」の緩やかをして大法を出すだけである。
【通釈】
「西南坤方云々」。解とは、数年の軍で天下が苦しみ果てたところで漸く戦いの音もなくなり、剣戟沙汰もなくなった時のことなので、ここで粗くするのは悪い。「坤体広大平易」と言うのが漸く心が伸び伸びとすること。そこで焼け原では、旦那の方へ聞こえる様に浄瑠璃を歌っても、あれ等も一日灰だらけになっているのだからと、まあ捨てて置く。平生の様に今日は御精進日なのにと言って呵るのは悪い。「煩苛」。苛は苛察と続く。からいという字なので酷いことにも見えるが、それは悪い。法が色々とあって喧しいことを言う。そこは小便をする処ではないと言って呵る。普段の様に漆喰をかけて塀もできた上ならそれも言えるが、未た井戸側もできない内にこせこせと喧しいことを言うのは悪い。太平の時とは違って「厳急」は悪い。少々目に余るとしても見逃す。「寛大簡易」の緩やかをして大法を出すだけである。「乃其宜也」。これまでが「利西南」を説いたこと。
【語釈】
・苛察…細事にわたって、きびしくせんさくすること。苛酷な観察。
・井戸皮…井戸側。井戸の側壁の土石がくずれ落ちるのを防ぎ、また危険を防止するため、その周囲をかこったもの。

既解其難而安平無事矣云々。ここは無所行其來復吉を云のべる。太平の代になりて誠に無事目出度と云ときなり。偃武脩文歸馬于蕐山之陽放牛桃林之野と云時て、天下ひっそりとして弓は帒になり、この塲は西南ゆるいがよいと云塲てなし。とかく只今の火事塲の譬かよし。葭簀張て置たがはや新御殿も出来たゆへ、小屋かけの法ではならぬ。解と云はとけきはの処。ここはまんまと太平なり。そこで太平の法を立て堯舜三代の治道に復す。さてこれ迠に来復吉を云て正理に反るときめるなり。解のとけきはの塲は少し正理にはつれても見のかしするか、ここはそふはならぬ。疱瘡も全快して三十日になれば手習もせずにもよいと云てすてて置れぬ。医者か初は粥と云たか、いつ迠も病人あしらいて粥ではをかれぬ。自古垩王救乱云々。乱後遽にはならぬ。其始未暇遽爲也なり。普請が出來て經師屋と疂屋はあとのものなり。又此塲で初手焼塲のふす々々のことをしては不埒なり。既安定則爲可久可継之治。可久は、易の文字。可継は、礼記の文字。伊川は易と礼記を合せて書たてもあるまいか、今日讀者はそふ見よふことなり。易に可大賢人之德可久賢人之業。礼記爲可継爲可傳とあり。万代へ傳へて費へなく子孫へ治たなりて動ぬことをする。
【解説】
「既解其難而安平無事矣。是无所往也。則當修復治道、正紀綱、明法度、進復先代明王之治。是來復也。謂反正理也。自古聖王救難定亂、其始未暇遽爲也。既安定則爲可久可繼之治」の説明。太平の世になれば、法を立てて堯舜三代の治道に復す。「解」の当初は少し正理に外れても仕方がないが、ここで外れるのは悪い。
【通釈】
「既解其難而安平無事矣云々」。ここは「無所行其来復吉」を言い述べたこと。太平の世になって誠に無事で目出度いという時である。これが「偃武修文帰馬于華山之陽放牛桃林之野」という時で、天下がひっそりとして弓は袋に納まる。しかし、ここは西南の緩いのがよいという場ではない。とかく只今の火事場のたとえがよい。葭簀[よしず]を張って置いたが既に新御殿もできたのだから、小屋掛けの時の法では悪い。「解」は解け際の処。ここはすっかりと太平の処である。そこで太平の法を立て、堯舜三代の治道に復す。さてこれまでで「来復吉」を言い、「反正理」と決める。解の解け際の場は少し正理に外れても見逃しをするが、ここはそうは行かない。疱瘡も全快して三十日になれば、手習いをしなくてもよいと言って捨てては置けない。医者が初めは粥と言ったが、いつまでも病人扱いで粥のままではならない。「自古聖王救乱云々」。乱後は遽かにはうまく行かず、「其始未暇遽為也」である。普請ができ、経師屋と畳屋はその後の者である。またこの場で最初の焼け跡のぶすぶすしている時と同じことをしては不埒である。「既安定則為可久可継之治」。「可久」は、易の文字。「可継」は、礼記の文字。伊川が易と礼記を合わせて書いたのでもないだろうが、今日読む者はその様に見なさい。易に「可久賢人之徳可大賢人之業」。礼記に「為可継為可伝」とある。無駄なく治めた通りで動かないことを子孫に示し、それを万代へ伝えたのである。
【語釈】
・偃武脩文歸馬于蕐山之陽放牛桃林之野…書経武成。「乃偃武修文、歸馬于華山之陽。放牛于桃林之野」。
・小屋かけ…仮小屋をつくること。また、その仮小屋。
・經師屋…表具屋。
・可久…易経繋辞伝上1。「可久則賢人之德、可大則賢人之業」。
・可継…礼記檀弓上。「弁人有其母死、而孺子泣者。孔子曰、哀則哀矣。而難爲繼也。夫禮爲可傳也、爲可繼也。故哭踊有節」。

自漢以下云々。漢からは天下を小屋かけて居て、其侭跡へのこるは見のかしなりにしてをいたゆへのこと。きまりかわるい。自漢以下。三代をのけ、其後皆を云辞なり。三代の後礼樂は興さぬ。姑隨時云々。姑息の姑なり。子ぶとの上なをしなり。これが先つは天運なれとも、本の治てはなく、只維持なり。医者が人のする療治を見て、あれが療治は療治でなくをっつけてをくと云ものじゃと云か尤な非[そし]りやふて、漢唐の間がそれなり。蓋不知来復之義。大學の序、後世之非所能及と云が尤なり。たたい本の治は礼樂て人心ををさめる。可継可久か則礼樂のこと。軍がなくてよいと云は成程よいが、平天下を軍のない切なことと思ふは来復を知らぬなり。これ迠て來復吉のことを説けり。
【解説】
「自漢以下、亂既除、則不復有爲、姑隨時維持而已。故不能成善治。蓋不知來復之義也」の説明。漢以降は、本来の治め方ではなく、ただ現状を維持しただけで、本来の治め方は礼楽によるのである。
【通釈】
「自漢以下云々」。漢からは天下を小屋掛けにして、それをそのままにして跡に残していたが、それは見逃したままにしていたのである。それでは決まりが悪い。「自漢以下」。三代を除き、その後の全てを言う辞である。三代の後は礼楽を興さなかった。「姑随時云々」。姑息の姑である。根太の上治しである。これが先ずは天運なのだが、本来の治め方ではなく、ただ維持をしただけである。医者が人のする療治を見て、あいつの療治は療治ではなく、押っつけて置くと言うものだと言うのが尤もな誹り様で、漢唐の間がそれである。「蓋不知来復之義」。大学の序で「後世之非所能及」と言うのが尤もなこと。そもそも本来の治め方は礼楽で人心を治めるもの。「可継可久」が則ち礼楽のこと。軍がなくてよいと言うのはなるほどよいことだが、平天下を軍のないだけのことと思うのは来復を知らないのである。これまでで「来復吉」を説いた。
【語釈】
・子ぶと…根太。癰の一種。
・後世之非所能及…大学章句序。「此古昔盛時所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也」。

有攸往夙吉云々。利西南てよいと云へとも一つ解けても安堵ならぬことあり。それは當分よいと云ても、又あとて起る。當解之事をすてて置と又乱の盛になることなり。垩人の戒は挌段なこと。さて利西南は人も感心していかさま々々々々と云が、そこに一つのこったことのあるをばまあよいとすてて置て早く去ることをせぬと、間もなく又ことがをこる。此ことを天下へたしかに云へは明の始めなり。大祖は明らかな人てあの通り元を代て天下を一統し、英雄で德もあり、道理にそむいたこともみへぬ。太子は早世て建文帝は承重の孫なり。この代になり、はやあの世祖が簒た。このこと靖献遺言にも詳か、鳩巣の雜話にも云へり。事体はあれにて近く見へるなり。某しここに引くは、あの大祖の明英で未俊心元なしと思はれぬことはなき筈なり。仏道を左のみ信仰てもなけれとも、名僧を撰んて親王を輔導させたことあり。これらも親王の中ち心えぬと云心つかれ、因果報応の説をすすむる意なるへし。果して成祖は燕王よりして反し、天下を取れた。建文帝は火急に及んて剃髪してにげられた。それと云も大祖存命のとき心元となきと思はれて、一つ筥に度牒と剃髪の支度をして此をあたへ置、何そのときは此筥をひらけと遺令しをかれたなり。燕王はとくから反逆の志あり、病身を云立て夏も火鉢にあたり寒ひ々々と腰ぬけたやふに仕成て、ここに至て姪の天下を取た。右の名僧のこと、筥のことをみれは、とくに大祖の前知されたなり。ぬしの天下一代の中なれは、有所往夙吉と云にこれより大なことはなし。大祖英明なれとも、ここを早く仕向をせられなんたは易の此教に違へり。そこは父子と祖孫の恩愛て未発のことは探らぬ意計り難きなれとも、一大事をこらんと前知されたは彼筥にてたしかなことなり。万端に此戒を心得へし。夙して吉の意をしらすして莫大の禍をえることあり。
【解説】
「有攸往、夙、吉、謂尚有當解之事、則早爲之、乃吉也。當解而未盡者、不早去、則將復盛。事之復生者、不早爲、則將漸大。故夙則吉也」の説明。「利西南」で当分はよくても、後に悪くなることがある。まあよいと見逃しておくと事が起こる。明の太祖は英明な人だったので建文帝が心許ないことを前知していたが、早期に対処をしなかったので成祖が建文帝に取って代わった。
【通釈】
「有攸往夙吉云々」。「利西南」でよいと言っても、一つ解けても安堵のできないことがある。当分はよいと言ってもまた後で事が起こるもの。「当解之事」を捨てて置くとまた乱が盛んになることがある。聖人の戒めは格段なこと。さて、利西南は人も感心して尤もなことだと言うが、そこに一つ残ったことがあるのを、それをまあよいと言って捨てて置いて早く取り去らないと、間もなくまた事が起こる。このことを天下のことで確かに言えば明の始めのことである。太祖は明らかな人で、あの通り元に代って天下を統一し、英雄で徳もあり、道理に背いたことも見て取れない。太子は早世で建文帝は承従な孫である。この代になり、早くもあの成祖が簒った。このことは靖献遺言にも詳しくあり、鳩巣の雑話にもある。事体はあれで近く見える。私がそれをここに引くのは、あの太祖の明英さで、建文帝を俊でなく心許ないと思われない筈がないからである。仏道を大して信仰したのでもないが、名僧を撰んで親王を輔導させたことがある。これ等も親王の中に心得ないところがあるのに気付かれ、因果報応の説を勧める意があったのだろう。果たして成祖は燕王から反逆して天下を取られた。建文帝は火急に及び、剃髪して逃げられた。それというのも太祖が存命の時に彼を心許ないと思われ、一つの箱に度牒と剃髪の支度をしてそれを与え置いて、何かの時にはこの箱を開けと遺令をして置かれたからである。燕王には早くから反逆の志があり、病身を言い立てて夏も火鉢にあたって寒い々々と腰抜けの様に振舞い、ここに至って姪の天下を取った。先の名僧のことや箱のことを見れば、とっくに太祖は前知されていたのである。君子天下一代の内のことなのだから、「有所往夙吉」と言うことより大なことはない。太祖は英明だったが、ここを早く仕向けなかったのは易のこの教えに違うもの。父子と祖孫の恩愛から未発のことは探らない意があって難しいことだが、一大事が起こるだろうと前知されたのは、あの箱のことでも確かである。万端にこの戒めを心得なさい。「夙吉」の意を知らなければ莫大な禍いを得ることがある。
【語釈】
・大祖…朱元璋。明の初代皇帝。洪武帝。字は国瑞。安徽濠州の人。1328~1398
・建文帝…明の第二代皇帝。朱元璋の孫。
・承重…承従?さからわずに従うこと。
・世祖…成祖。明朝第三代永楽帝。1360~1424
・度牒…律令制で、僧尼となる者に所定の手続を取るよう、太政官が関係官庁や僧綱に通達した公文書。また、僧尼であることの証明書。


第十一 夫有物必有則の条

夫有物必有則。父止於慈、子止於孝、君止於仁、臣止於敬。萬物庶事、莫不各有其所。得其所則安、失其所則悖。聖人所以能使天下順治、非能爲物作則也。惟止之各於其所而已。
【読み】
夫れ物有れば必ず則有り。父は慈に止まり、子は孝に止まり、君は仁に止まり、臣は敬に止まる。萬物庶事、各々其の所有らざる莫し。其の所を得れば則ち安く、其の所を失えば則ち悖る。聖人能く天下をして順治せしむる所以は、能く物の爲に則を作るに非ざるなり。惟之を止むるに各々其の所に於てするのみ。
【補足】
・この条は、艮卦彖伝の程伝である。艮卦彖伝は、「彖曰、艮、止也。時止則止、時行則行、動靜不失其時、其道光明。艮其止、止其所也。上下敵應、不相與也。是以不獲其身、行其庭不見其人、无咎也」である。

朱子の編集の次第よいを見べし。先日の包荒用馮河か手くだのやふに見へるゆへ、觀盥而不薦と誠を出す。今日の処も大畜と解のことか一物あり、一と手あるやふなり。一手ある仕方は覇者も持合せて魚鱗鶴翼をする。垩人のは知慮と云へとも權謀でない。そこで豶豕と解利西南、そのあとへ有物有則の出たが、丁と用馮河のあとへ盥而の出た如く、垩賢の治は全体根がありてのこと。然るを、奧の院に一手つかまへる処かあると云と伯者になる。垩人にこの手あの手はなく、道理なりにする。物に則かあると云が垩人に手細工ないを云。水がある、流れる。火があると。やけぬ火、流れぬ水はない。明なこと。こちに一物はなく、水火のなりにする。そこでこの条へ有物必有則なり。則は太極とも理とも道とも云て、物計でなく、それに即道理がある。それを直に出して見せて、父止於慈云々。父子は物なり。それに孝慈がある。止は至善に止ること。親が只可愛かりて老牛舐犢と云は止でない。この止が近思治体の吟味なり。そこで只頬を撫るでなく、小学にも異見云こともあり、父母の令名をのこすこともあるをぎり々々にする。それが止るなり。君は仁に止ると云が、刑罸も仁なり。御褒美や御救米下さる計が仁ではない。御褒美も首を切も同格なり。なせなれば、悪人は善人の害になるゆへなり。悪人を殺すも仁。只可愛かると云は佛の慈悲善根なり。
【解説】
「夫有物必有則。父止於慈、子止於孝、君止於仁」の説明。聖人は道理の通りにする。物に則があると言うのが聖人には手細工のないということ。「則」は太極とも理とも道とも言い、ここは、物には道理があることを言う。「止」は至善に止まること。
【通釈】
朱子の編集、その次第のよさを見なさい。先日の「包荒用馮河」が手管の様に見えるので、「観盥而不薦」と誠を出す。今日の処も「大畜」と「解」のところが一物あり、一手ある様である。一手ある仕方は覇者も持ち合わせていて魚鱗鶴翼をする。しかし、聖人のそれは知慮とは言うものの権謀ではない。そこで「豶豕」と「解利西南」の後へ「有物有則」の出したのが、丁度用馮河の後に盥而が出たのと同じで、聖賢の治は本来根があるものなのである。それを、奥の院に一手掴まえる処があると言うと伯者になる。聖人にこの手あの手はなく、道理の通りにする。物に則があると言うのが聖人には手細工のないということ。水があれば流れる。火があると焼ける。焼けない火や流れない水はない。それは明らかなこと。こちらに一物もなく、水火の通りにする。そこでこの条へは有物必有則である。則は太極とも理とも道とも言い、物だけでなく、それには即ち道理がある。それを直に出して見せて、「父止於慈云々」。父子は物である。それに孝慈がある。止は至善に止まること。親がただ可愛がるだけで「老牛舐犢」では止でない。この止が近思治体の吟味である。そこでただ頬を撫でるのではなく、小学にも異見を言うこともあり、父母の令名を遺すこともあって、それを至極にする。それが止である。君は仁に止まると言うが、刑罸も仁である。御褒美や御救米を下さるだけが仁ではない。御褒美も首を切るのも同格である。それは何故かと言うと、悪人は善人の害になるからである。悪人を殺すのも仁、ただ可愛がるのは仏の慈悲善根である。
【語釈】
・包荒用馮河…治体6。「泰之九二曰、包荒用馮河」。
・觀盥而不薦…治体7。「觀、盥而不薦、有孚顒若」。
・大畜…治体9。「大畜之六五曰、豶豕之牙。吉」。
・解…治体10。「解利西南。无所往、其來復、吉。有攸往、夙、吉」。
・有物有則…詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則」。孟子告子章句上6にもある。
・父母の令名をのこす…礼記内則。「父母雖沒、將爲善。思貽父母令名、必果。將爲不善、思貽父母羞辱必、不果」。為学1。「不及則亦不失於令名」。

止於敬。敬を浅見先生、北斗の星の上へないやふにと云。君は上ないと云外はなし。鎌倉計日は照ぬと云てない。敬と云にきまる。然れはあたま下るかと云に、命かけて諫言を云も敬なり。万物庶事莫不有其所。父子君臣計てもなく、彼埃にもすてると云太極があるなり。五倫の大より事物のささいな上にも其所がありて、家来が肴を料るに肉は旦那へ上げ、膓はすてて鳶や犬にやる。それを犬や鳶に身ところをやって、旦那に膓を進ぜてはつまらぬ。偖、肴の上ては誰も合点なれとも万端の道理ては知ぬ。やはり膓を進せる筋かある。治体が今そこへ出してするてはないが、此有物必有則の根がある。そこが治体なり。非能爲物作則。先王の方でこしらへて、をれが天下をこふするの、大名が、をれが領分はこふするのと、こちからすることてない。向の方のことなり。天地一まい自然のこと。垩人の物好きはない。鳥篭の戸を明ると鳥が空へ飛で行。魚舟から魚を出して放すと泉水へ潜む。垩人が上へ飛べの泉水へ沈めのと云ではない。先王の政がそふなり。あちの方のこと。五倫の交りも上からの仰付でなく向のこと。文武忠孝を勵むべしとある。制度も猿に忠孝を勵めでない。人の持合せたことが制度に出た。それが人の良心なり。仁なりの孝、義なりの忠ゆへ、上からでない。元とこちにあることなり。
【解説】
「臣止於敬。萬物庶事、莫不各有其所。得其所則安、失其所則悖。聖人所以能使天下順治、非能爲物作則也。惟止之各於其所而已」の説明。全てのものには太極がある。その道理を知り、その通りにするだけである。道理は制度で上から命じられたものではなく、本来自分に備わったものなのである。
【通釈】
「止於敬」。敬を浅見先生が、北斗の星のこの上ない様にと言った。君はこの上ないと言う外はない。鎌倉にしか日は照らないということではない。敬ということに極まる。それなら頭を下げることかと言えば、命を懸けて諌言を言うのも敬である。「万物庶事莫不有其所」。父子君臣ばかりでもなく、あの埃にも捨てるという太極がある。五倫の大より事物の些細な上にも「其所」があって、家来が肴を料理するにも肉は旦那へ上げ、腹は捨てて鳶や犬に遣る。それを犬や鳶に身のところを遣って、旦那に腹を進ぜては悪い。さて、肴の上では誰も合点するが、万端の道理は知らない。やはり腹を進ぜる筋がある。治体は今そこへ出してするということではないが、そこには「有物必有則」の根がある。そこが治体である。「非能為物作則」。先王の方で拵えて、俺の天下をこうするとか、大名が俺の領分はこうするなどと、自分からすることではない。向こうの方のこと。それは、天地一枚自然なこと。聖人に物好きはない。鳥篭の戸を開けると鳥が空へ飛んで行く。魚舟から魚を出して放すと泉水へ潜む。聖人が上へ飛べとか泉水へ沈めと言うのではない。先王の政がそれで、あちらの方のこと。五倫の交わりも上からの仰せ付けではなく、向こうのこと。文武忠孝を励めとあるが、その制度も猿に忠孝を励めということではない。人の持ち合わせたことが制度に出る。それが人の良心である。仁の通りの孝、義の通りの忠であって、上からのものではない。それは本来自分にあること。
【語釈】
・文武忠孝を勵むべし…徳川綱吉が、武家諸法度の第1条を「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」に改めた。

本分之外不加一毫と云てあるもそのこと。垩人の方からは手はそへぬ。孟子の仲尼は不爲甚已者も有りなりをするゆへ、孔子に目立たことはない。孔子もそれ、堯舜もそれなり。然らば堯舜は何をすると云に、堯典をあけて見よ。親九族なり。そなたも九族があろふ。それをすることて、堯舜は甚きことをせぬ。そこで有物有則から有其所と云なり。所に止らぬと、兄弟中はわるいが従弟と中がよいと云、父母の精進せず、伯父か大ふをれを可愛がったゆへ今日は肴を喰まいと云。其伯母の精進はよいやふなれども、引かかりがある。惠むべき人に惠まずに余の人をめぐめは其惠が悪德になる。扨、これが治体にあるが靣白ことで、政に形をこしらへぬが理なりをするゆへ、人が服する。又、法へ出すことでなし。形をこしらへぬとは理形をするから形はなし。そこで治体は道体の政の方へきたのなり。
【解説】
道理の通りでないと悪徳となる。孔子も堯舜も甚だしいことはしなかった。治体は道体が政の方へ来たものである。
【通釈】
「本分之外不加毫末」と言うのもそのこと。聖人の方から手は添えない。孟子が仲尼を「不為甚已者」と言うのも道理の通りをするからであって、孔子に目立ったことはない。孔子もそれ、堯舜もそれである。それなら堯舜は何をするのかと言うと、堯典を開けて見なさい。「親九族」である。貴方にも九族があるだろう。それをすることで、堯舜は甚だしいことはしない。そこで有物有則から有其所と言う。所に止まらないと、兄弟仲は悪いが従弟と仲がよいと言い、父母の精進をしないで、伯父が大分俺を可愛がったので今日は肴を喰わない様にしようと言う様になる。伯母の精進はよい様だが、それに引っ掛かりがある。恵むべき人に恵まずに他の人を恵めば、その恵みが悪徳になる。さて、これが治体にあるのが面白いことで、政に形を拵えないのは理の通りをするからで、それで人が服す。それは法として出すことではない。形を拵えないとは理の通りをすることだから形はない。そこで、治体は道体が政の方へ来たものなのである。
【語釈】
・本分之外不加一毫…孟子離婁章句下10集註。「楊氏曰、言聖人所爲、本分之外、不加毫末。非孟子真知孔子、不能以是稱之」。
・不爲甚已者…孟子離婁章句下10。「孟子曰、仲尼不爲已甚者」。
・親九族…書経堯典。「以親九族、九族既睦」。


第十二 兌説而能貞の条

兌、説而能貞。是以上順天理、下應人心。説道之至正至善者也。若夫違道以干百姓之譽者、苟説之道。違道不順天、干譽非應人。苟取一時之説耳。非君子之正道。君子之道、其説於民、如天地之施。感之於心、而説服無斁。
【読み】
兌は、説びて能く貞し。是を以て上は天理に順い、下は人心に應ず。説道の至正至善なる者なり。夫の道に違いて以て百姓の譽れを干[もと]むる若き者は、苟も説ぶ道なり。道に違えば天に順ならず、譽れを干むるは人に應ずるに非ず。苟も一時の説を取るのみ。君子の正道に非ず。君子の道は、其の民に説ばるる、天地の施しの如し。之を心に感じて、説服して斁[いと]うこと無し。
【補足】
・この条は、兌卦彖伝の程伝である。兌卦彖伝は、「彖曰、兌、説也。剛中而柔外。説以利貞。是以順乎天而應乎人。説以先民、民忘其勞、説以犯難、民忘其死。説之大、民勸矣哉」である。

上の段に其所とある。ここへ兌がきこへた。所に止ると丁どなもの。丁どに往と説ぶ。薪小屋へ掛け物、床の間に薪かあると所に止らぬ。それを人が見たとき我損にもならぬが、あじぢゃ々々々々と云。亭主が縫もの、女房が尻を端折て三里ほと行たと云がこちの世話にもならぬが、あぢなことなと、はやこちが安堵せぬ。兌は人がふっくりとして、さてもそふあるべきことと云。悦と云がよいこと。上戸が酒は悦ひを合せると云もきこへた。そこで悦はよいものなれとも、悦に骨がなければあぶない。そこで能貞でないと兌は請取らぬ。丁どに行ゆへ、上順天理下應人心なり。有物有則がきこへた。太極の道理の通りは人心へいかさまと來る。我不孝しても、孝行の話をいやなこと聞たとは思はぬ。不孝の咄は我心へ応ぜぬものなり。説道之至正至善者也。このやふな見事なことはない。それも貞の眞柱がなければならぬ。能貞からのことなり。
【解説】
「兌、説而能貞。是以上順天理、下應人心。説道之至正至善者也」の説明。兌は人がふっくりとして、そうあるべき時である。兌は説ぶところだが、貞という真柱がなければならない。
【通釈】
前条に「其所」とあるので、ここに「兌」と続くのがよくわかる。所に止まると丁度となる。丁度に往くと説ぶ。薪小屋に掛け物、床の間に薪があるのでは所に止まらない。それを人が見た時に自分の損にもならないことだが、駄目だと言う。亭主が縫い物、女房が尻を端折って三里ほど行くと言えば、それはこちらに関係のないことことだが、悪いことだと、早くも自分が安堵しない。兌は人がふっくりとして、全くそうあるべき時である。説というのがよいこと。上戸が酒は悦びを合わせると言うのもよくわかる。そこで悦はよいものだが、悦には骨がなければ危ない。そこで、「能貞」でないと兌は悪い。丁度に行くので、「上順天理下応人心」である。これで、「有物有則」がよくわかる。太極の道理の通りのことは人心へ尤もに来る。自分が不孝をしても、孝行の話を聞いて嫌なことだとは思わない。不孝の話は自分の心へ応じないもの。「説道之至正至善者也」。この様な見事なことはない。それも貞の真柱がなければできず、能貞からのことなのである。
【語釈】
・有物有則…治体11の語。詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則」。孟子告子章句上6にもある。

若夫違道以干百姓之誉者云々。ここへ書經を引たがよいかけやふなり。天下は大勢の思付ほどよいことの此上はなけれとも、そこが天下の人が嬉しかると云段には吟味がないもの。又、天下の人も仁義礼智を持ていて、わけなしに褒美、わけなしに御救米は戴かれぬはづなれとも、人情とかく口あたりがよいと悦ぶもの。悦ばせふとすれば悦ぶぞ。そこが大切なり。其柏子に乘て此方から手を出す、はや違道なり。たたい天下は一人で持れぬもの。民があるゆへの人君なれば、民のかたまりて大勢悦と云が安堵なこと。それゆへどふして悦ばせふとする。そふすると伯者になる。堯舜のとき伯者はなけれとも、其やふなもの出来やふと思て豫め違道干百姓之誉と伯術をふせいて置たのなり。苟説之道不順天云々。小い子に砂糖なめさせるのなり。それで小児が知らぬものにも抱れる。かかりにすることなり。説ぶは兌なれども、貞の眞柱がないゆへわるい。書經でそれを云に不順天なり。論語の註に天即理也とある。天の通りが道なるに、天理に順わぬことするは説の道でない。何でも君は尊く、臣は卑く、人君は上にあるはつなり。主人は足駄、家来は素足て供をする。一人使ふ家来でもそふあるべきはづ。然るに悦ばせふとて、この寒雨とて我も下駄、家来も下駄では正道でない。艸履取はそれで悦ふが天に順はぬ。
【解説】
「若夫違道以干百姓之譽者、苟説之道。違道不順天」の説明。大勢が嬉しがるほどよいことはないが、そこに吟味がなければならない。人情があって、口当たりのよいことを人は悦ぶもの。無理に悦ばせるのは伯者のすること。聖人は天理に順う。君は尊く、臣は卑く、人君は上にある。その通りにしなければならない。
【通釈】
「若夫違道以干百姓之誉者云々」。ここへ書経を引いたのがよい繋け様である。天下は大勢が思い付くほどのよいことこの上ないものだが、天下の人が嬉しがるという段には吟味がないもの。また、天下の人も仁義礼智を持っていて、わけもなく褒美や御救米を戴くことはできない筈だが、人情で、とかく口当たりがよいと悦ぶもの。悦ばせようとすれば悦ぶ。そこが大切である。その拍子に乗って自分から手を出すのは、最早「違道」である。そもそも天下を一人で持つことはできない。民あっての人君だから、民がまとまって大勢が悦ぶというのが安堵なこと。それでどうしても悦ばせようとする。そうすると伯者になる。堯舜の時に伯者はいなかったが、その様な者が出て来るだろうと思って予め「違道干百姓之誉」と伯術を防いで置いたのである。「苟説之道不順天云々」。小さい子に砂糖を舐めさせる。それで小児が知らない者にも抱かれる。その様にすること。説ぶのは兌だが、貞の真柱がないので悪い。書経でそれを言うのが「不順天」である。論語の註に「天即理也」とある。天の通りが道だが、天理に順わないことをするのは説の道ではない。何でも君は尊く、臣は卑く、人君は上にある筈である。主人は下駄、家来は素足で供をする。一人を使う家来でもそうであるべき筈。そこを悦ばせようとして、この寒雨と言って自分も下駄、家来も下駄では正道でない。草履取りはそれで悦ぶが、それは天に順うものではない。
【語釈】
・違道以干百姓之誉…書経大禹謨。「罔違道以干百姓之譽、罔咈百姓以從己之欲」。
・不順天…書経泰誓上。「予有臣三千、惟一心。商罪貫盈、天命誅之。予弗順天、厥罪惟鈞」。
・天即理也…論語八佾13集註。「天、即理也」。

干誉非人応。人の方から御尤とくるが人に応するなり。道理なりには人がさわかぬ。応ずるとはものもふ、どれと云。垩賢は天理なりをして天理を出す。応は藥の応するの応もそれなり。人が藥か相応したと云もよい云やふなり。甘艸多く加へればあまいからと云ことてなし。道理なりはあれにいかさまと云れたいと云ことでない。知所処のこらす年貢を作り取と云たら百姓悦で有ふが、それでは天地の間がつづくまい。有難い殿様と云れても、白圭が二十而一なり。孟子は王道を任するゆへ、仁民の政なれはさそ称美されやふと思たれは、子之道は貉之道也と云てけられた。百姓か精出すから鯛の吸物と云たら悦で有ふが、あれらにそふしては天理の方がつまらぬ。垩賢の事業、そんなことでない。五畝之宅樹之以桑なり。百姓の老人に毎日鯛の、ちりめんのくくり頭巾の、紙子羽織やれとは云はぬ。上からは樹之以桑なり。有難々々と云てけば々々しいことは垩賢はうれしからぬ。そこで此順天応人か治体の本になる。
【解説】
「干譽非應人。苟取一時之説耳。非君子之正道」の説明。聖賢は天理の通りをして天理を出す。その様なことに人は騒がないもの。百姓には鯛ではなく、「五畝之宅樹之以桑」を与えるのである。
【通釈】
「干誉非人応」。人の方から御尤もと来るのが人に応じること。道理の通りのことには人が騒がない。応じるとは、もの申す、どれと言うこと。聖賢は天理の通りをして天理を出す。薬が応じるの応もそれ。人が薬が相応したと言うのもよい言い方である。甘いから甘草を多く加えるのではない。道理の通りはあの人に尤もと言われたいということではない。知所は残らず作り取りでよいと言えば百姓は悦ぶだろうが、それでは天地の間が続かないだろう。有難い殿様と言われても、それは白圭の「二十而一」である。孟子は王道を任じるから、それが仁民の政なのでさぞ称美されることだろうと思えば、子の道は貉の道だと言い切った。百姓が精を出すので鯛の吸物を遣ると言えば悦ぶだろうが、あれ等にそうしては天理の方が詰まらない。聖賢の事業はそんなことではない。「五畝之宅樹之以桑」である。百姓の老人に毎日鯛や縮緬の括り頭巾、紙子羽織を遣れとは言わない。上からは樹之以桑である。有難いと言う様なけばけばしいことを聖賢は嬉しがらない。そこでこの順天応人が治体の本になる。
【語釈】
・作り取…年貢を納めず、耕作した所の全収穫をわが物とすること。
・白圭が二十而一…孟子告子章句下10。「白圭曰、君欲二十而取一、何如」。
・子之道は貉之道也…孟子告子章句下10。「欲輕之於堯舜之道者、大貉小貉也。欲重之於堯舜之道者、大桀小桀也」。
・五畝之宅樹之以桑…孟子梁恵王章句上3。梁恵王章句上7。「五畝之宅、樹之以桑」。尽心章句上22。「五畝之宅、樹牆下以桑」。

君子之道其説於民云々。君子の施は天地の如く彼のいつも云十五夜のあかるいなり。闇の夜にはどぶへも落るぞ。されとも今夜は月かあかるい迚誰も天へ礼は云はぬ。堯舜の治に舌たるいことはない。斯ふあるべきはづと云て、今日のやふに暖なれとも天へ過分とは云はぬ。春風で梅櫻が咲が辱ひと天へ届けに及ばぬ。説服無斁。あきぬことを云。人の食をくふやふなもの。爰へ来る衆も、皆が弁當の飯をこれは珎しいと云ことてない。垩人の政にけば々々しくないか人が説服する。伯者と違て垩人の治ははりあいもないと云ものなり。伯者は手があるゆへ堺町のやんやと誉たり輕業が竿の上へのぼるを誉るやふなもの。垩人にそんな手はない。中秡草履で平地をあるくのにて、やんやと誉めぬが無斁なり。これか治体のぎり々々なり。
【解説】
「君子之道、其説於民、如天地之施。感之於心、而説服無斁」の説明。聖人の政はけばけばしくないから人が「説服」する。それは、十五夜の明るいことや春風で梅や桜が咲くことで、天に礼を言うことがないのと同じ。聖人の治は中抜草履で平地を歩く様なものである。
【通釈】
「君子之道其説於民云々」。君子の施しは天地の様で、いつも言うあの十五夜の明るい様なもの。闇の夜には溝へも落ちる。しかし、今夜は月が明るいと言っても誰も天へ礼は言わない。堯舜の治に舌たるいことはない。こうあるべき筈と言うだけで、今日の様に暖かだとしても天へ過分だとは言わない。春風で梅桜が咲くが、忝いと天へ届けるには及ばない。「説服無斁」。これは飽きないことを言う。人が飯を食う様なもの。ここへ来る衆も皆、弁当の飯をこれは珍しいとは言わない。聖人の政はけばけばしくないから人が説服する。伯者と違い、聖人の治は張り合いもないというもの。伯者は手があるので堺町でやんやと誉めたり、軽業師が竿の上へ登るのを誉めたりする様なもの。聖人にそんな手はない。中抜草履で平地を歩く様なことで、やんやと誉めないのが「無斁」であり、これか治体の至極である。


第十三 天下之事不進則退の条

天下之事、不進則退、無一定之理。濟之終、不進而止矣、無常止也。衰亂至矣。蓋其道已窮極也。聖人至此奈何。曰、唯聖人爲能通其變於未窮、不使至於極。堯・舜是也。故有終而無亂。
【読み】
天下の事は、進まずんば則ち退き、一定する理無し。濟の終わりは、進まずして止まるも、常には止まることは無し。衰亂至らん。蓋し其の道已に窮極せるなり。聖人は此に至らば奈何せん。曰く、唯聖人のみ能く其の變を未だ窮せざるに通じ、極に至らしめずと爲す。堯・舜是れなり。故に終わり有れども亂無し、と。
【補足】
・この条は、既済卦彖伝の程伝である。既済卦彖伝は、「彖曰、既濟亨、小者亨也。利貞、剛柔正而位當也。初吉、柔得中也。終止則亂、其道窮也」である。

易に既濟、未濟かある。この章、既濟を云。既濟はものの行きつまり。未濟はまたもののつまらぬ所を云。摸様で云に未済は若ひもののやふなもの、既済は老人のやふなものなり。それをならして云へは、若ひは吉、老人は凶なり。それゆへ已済はわるいと云へとも、それは隂陽の大分でかたるゆへのこと。きっと已濟はわるく未濟はよいと云と易が不自由なり。そこをわけて已済に手段あると云がこの章の綱領なり。不進則退。已済を云。進れぬ塲ゆへわるくなる。進みこそせ子、退はせぬと云ことはない。無一定之理と云か、上へは行かぬがじっとしてと云ことてなし。それて居はってはいぬ。譬て云に、極老になれは実として居るやふに見へても、一日々々と年がよる。死の方へ退くなり。さて進むと云も段々につまりて、已濟かありて、其上も々々々よくなるかと云に、易のなりがここはぎり々々ゆへ退く理なり。済之終不進而止矣と、止ると云ゆへよさそふなものに、そふでない。無常止なり、衰乱至矣と云。病人のよくもわるくもないと云へとも、よくなけれはわるくなる。止ると云てあてにはならぬ。先月からかさで一杯つつ食てそれて居ると云ても、此から三十年も一抔つつと云ことはならぬ。そこで無常止なり。已濟をつかまへて、それて居やふと思ははあてか違をふ。そこへは衰乱が來る。
【解説】
「天下之事、不進則退、無一定之理。濟之終、不進而止矣、無常止也。衰亂至矣」の説明。既済は行き詰まりで、それ以上進めないので悪くなる場だが、そこに手段がある。
【通釈】
既済と未済が易にあるが、この章は既済を言ったもの。既済はものの行き詰まりで、未済は未だものの詰まらない所を言う。その模様を言えば未済は若い者の様なもので、既済は老人の様なもの。それを簡単に言えば、若いのは吉、老人は凶である。それで、既済は悪いと言うことになるのだが、それは陰陽の多少で語るからのこと。そこで、厳格に既済は悪く未済はよいと言えば易が不自由になる。そこを分け、既済に手段があると言うのがこの章の綱領である。「不進則退」。既済を言う。進めない場なので悪くなる。進みこそしないが、退きもしないということではない。「無一定之理」と言うのが、上へは行かないがじっとしているということではない。そこで、居据わってはいない。たとえて言えば、極老になれはじっとしている様に見えても、一日ずつ年が寄る。死の方へ退くのである。さて、進むのも段々に詰まり既済となって、その上でも益々よくなるかと言えば、易の姿がここは至極なので退くのが理である。「済之終不進而止矣」と、止まると言うのでよさそうなものなのに、そうではない。「無常止也衰乱至矣」と言った。病人がよくも悪くもないと言っても、よくなければ悪くなる。止まると言っても当てにはならない。先月からかさで一杯ずつ食っていると言っても、これから三十年も一杯ずつということはできない。そこで無常止也である。既済を捉まえて、そのままでいようと思うのは当てが違う。そこへは衰乱が来る。

長くもたぬものは春寒秋熟老徤と云。老人のすごやかあてにならぬもの。天地にこのなりかありて、それを已濟と云。さて、老人の上は仕方がないと云ても置くが、天下のことはすてられぬ。天下か既濟の時になりたとすててはをかれぬ。八十になるゆへ命数と云から天下のつふるるも天命ゆへよいと云て居てはなるまい。易は形象ゆへ、百になるゆへ徤なれとも長くもてまいと云へとも、天下を老人のやふに見てはどふもならぬ。老人の死は理が尽てのこと。天下のことは道を尽せばとこしなへぞ。數なれば仕方ないてない。こちて仕方あろふなり。國祚之祈永命と云て、壽夭の外はあち次第でない。その生死さへ仙人の壽を見よ。こちに手段がある。國祚のことは軍數で見ることでない。道のあることなり。道は無究なれは、天下の治も道なりなれはどこまてもつつく。そこで垩人既濟のとき、これて天下が潰れると云てぶらりとしては居ぬ。聖人爲能通其變於未究。天下の年は年のよらせぬ仕方があると云ことなり。極月はいつ迠も當年ては置れぬが、垩人のなされ方に天下のことはいつ迠も若くする。そふたい易の上にかけることで、四時の變るから卦爻の上ても老陽は少隂に変し、老隂は少陽に変ずる。又それをのけてもさま々々天下のことに治がきわまると乱に変ずる。垩人はそれを時節と見ては居ぬ。迂斎、柱の根つきのやふなものと云。そこが垩人の手段なり。くされ次第にすると家がつぶるる。其手入で又百年も持つ。物のこふばりこふがそれなり。よい家来よい子て傾く処を持かへす。垩人、ああ合点がゆかぬと云処をいつも々々々天下を若くする。
【解説】
「蓋其道已窮極也。聖人至此奈何。曰、唯聖人爲能通其變於未窮、不使至於極」の説明。健康な老人と言ってもそれは当てにならないもの。それが既済である。しかし、天下を老人の様に見てはならない。老人の死は理が尽きるからだが、道は無窮であり、道を尽くせば天下のことは永遠である。治が極まると乱に変じるが、聖人は極まる前に手入れをする。
【通釈】
長く持たないものは春寒秋熟老健だと言う。老人の健やかさは当てにならないもの。天地にはこの状態があって、それを既済と言う。さて、老人の上では仕方がないと言いもするが、天下のことは捨てては置けない。天下が既済の時になったと言って捨てては置けない。八十になるのでそれも命数だと言うが、天下が潰れるのも天命だからよいと言っては悪い。易は形象だから、健やかでも百になるから長く持たないだろうとも言うが、天下を老人の様に見てはどうにもならない。老人の死は理が尽きるからのこと。天下のことは道を尽くせば永遠である。数だから仕方がないということではない。こちらに仕方があるだろう。「国祚之祈永命」と言うが、寿夭の外はあちら次第ではない。その生死でさえ、仙人の寿を見なさい。こちらに手段がある。国祚のことは軍数で見ることではない。道のあること。道は無窮なので、天下の治も道の通りにすれば何処までも続く。そこで聖人は既済の時に、これで天下が潰れると言ってぶらりとしてはいない。「聖人為能通其変於未窮」。天下の年はその年を寄らせない仕方があるということ。十二月はいつまでも当年ではいられないが、聖人のなされ方では、天下のことはいつまでも若くする。全体易の上に繋けることで、四時の変わることから卦爻の上でも老陽は少陰に変じ、老陰は少陽に変じる。また、それ以外にも様々と天下のことは治が極まると乱に変じる。聖人はそれを時節と見てはいない。迂斎が、柱の根付きの様なものだと言った。そこが聖人の手段である。腐れ次第にすると家が潰れる。それを手入れするのでまた百年も持つ。物に強張を支うのがそれ。よい家来やよい子で傾く処を持ち返す。聖人はああ合点が行かないという処で、いつも天下を若くする。
【語釈】
・國祚之祈永命…
・老陽…四象の一。四象は二爻の組合せ。老陽は二爻が陽、小陰は上陰下陽、小陽は上陽下陰、老陰は二爻が陰。
・こふばり…強張。家屋などを支えたり土砂の崩壊を防いだりするために支[か]う木。つっかい棒。

堯舜これなり云々。どの垩人でものことなれとも、それはとなたと出してみせやふか、堯舜なり。堯舜は伏羲神農から統を継て最ふ堯舜てわるくなりそふなものをわるくせぬ。堯もうっかりと丹朱啓明と云て讓ると已濟になる。舜も商均か不肖ゆへ、あれではと云て禹に讓る。そこが有終而無乱なり。変をきわまらぬ内にする。治乱は自然なれとも人謀の手入がある。これか法度てなく治体にのるはつなり。扨又、老人なとは中風もするが、はやく養生して一寸々々と手當て中風もせまいと思わるる。明医が手前で養ふたら天からの中風ものかれやふ。天地の内にこふ云理があるからなり。已濟の塲でも堯舜の道に極りたことなし。唐の李泌が宰相不言命なり。終る時節ありと云へとも手入するゆへ命を云はぬ。然れとも、この手あの手なし。人君の心と関白の心が一になり、それから天下一心になる。人心が離れると結はれぬもの。それを其前に手を入れて既濟を未濟の世にする。さて、これが後世漢唐以下のやくに立ぬは、堯舜でなけれはこの治体がならぬ。近思を讀てもこれはならぬか、併し学者てもこの心がけなれはそれたけの印はある。これが權謀てなく誠心ゆへなり。偖、有終而無乱の終の字が已済の彖傳にある字なり。終る時節をこちて手入がなる。此条なとはさて々々目出度条なり。
【解説】
「堯・舜是也。故有終而無亂」の説明。変が極まらない内に手入れをするので乱に至ることがない。聖人は既済に手入れをして未済にする。それは聖人だけにしかできないことだが、学者もその心掛けでいればそれだけの験がある。
【通釈】
「堯舜是也云々」。どの聖人にも当て嵌まることだが、それはどなただと出して見せたのが堯舜である。堯舜は伏羲神農から統を継ぎ、もう堯舜で悪くなりそうなところで悪くしない。堯もうっかりと丹朱啓明と言われて譲ると既済になる。舜も商均が不肖なので、あれでは悪いと思って禹に譲った。そこが「有終而無乱」である。変が極まらない内にする。治乱は自然なことだが人謀の手入れがある。それで、これが法度でなく治体に載るのである。さてまた、老人などは中風もするが、早く養生して些細なことでも手当てをすれば中風もしないと思われる。名医が自分で養生をすれば、天からの中風も逃れられることだろう。それは、天地の内にこの様な理があるからである。既済の場でも堯舜の道に窮まったことはない。唐の李泌が言う「宰相不言命」である。終わる時節があると言っても、手入れをするので命を言わない。しかしながら、この手あの手はない。人君の心と関白の心が一つになり、それから天下一心になる。人心が離れると結ばれないもの。それをその前に手を入れて既済を未済の世にする。さて後世、漢唐以下の役に立たないのは、堯舜でなければこの治体ができないからである。近思を読んでもこれをすることはできないが、しかし学者でもこの心掛けであればそれだけの験はある。それは、これが権謀ではなく誠心だからである。さて、有終而無乱の終の字は既済の彖伝にある字。終わる時節をこちらで手入をすることができる。この条などは実に目出度い条である。
【語釈】
・丹朱啓明…書経堯典。「帝曰、疇咨、若時登庸。放齊曰、胤子朱啓明。帝曰、吁、嚚訟可乎」。孟子万章章句上6。「丹朱之不肖、舜之子亦不肖。舜之相堯、禹之相舜也、歴年多、施澤於民久」。丹朱は堯の嫡男。
・商均…舜の子。