第二十三 横渠先生曰の条  二月十九日  文七録
【語釈】
・二月十九日…寛政3年辛亥(1791年)2月19日。
・文七…高宮文七。東金市押堀の人。筆記力に優れる。

横渠先生曰、道千乘之國、不及禮樂・刑政、而云節用而愛人、使民以時。言能如是、則法行、不能如是、則法不徒行。禮樂・刑政、亦制數而已。
【読み】
横渠先生曰く、千乘の國を道[みちび]くに、禮樂・刑政に及ばずして、用を節し人を愛し、民を使うに時を以てすと云う。言うこころは、能く是の如くんば、則ち法行われ、是の如くなること能わずんば、則ち法徒らにも行われず。禮樂・刑政も、亦制數のみ。
【補足】
・この条は、張横渠の正蒙有司篇にある。

孔子の道千乘之國と云はるるから眞先に礼學刑政を出されそふなものなれども、嘗てそふは仰られずに節用而愛人使民以時と云はれた。節用は向へ出たことでない。人君が無用なことをせぬこと。愛人も向へ出たことではなくて、人君の心中で人を不便に思召すことなり。人君は億兆の上にあり、それが心の内で愛人したとてぢきに知れるものではないぞ。使民以時。これは向へ知れることのやふなれとも、これたとて此心でござることなれば、めったに知れるものではない。節用而愛人使民以時と、この四つ微塵も見渡して見へるものではない。この通り人君に御心入れがあれば法行なり。法はかり入れがなるが、人君の御心は借り入れはならぬ。古人の組だ方は借るが名医、と。名医でない処は借り入れはならぬ。治法はかり入れなるが治体はかりいれはならぬ。桀紂の天下だとてめったなことのあらふはづはない。手前で馬鹿こそ尽せ、夏の禹王、殷の湯王の法が天下にあるなり。軍學が巧者でも臆病なれば法の行はれぬと云ものぞ。礼學刑政は至て天下の大きい重いことで動かされぬことなれとも、制數じゃと云へ、これが中々先王の御心を知た人でなくては中々こふは云れぬこと。礼学刑政が軽ひことなれば聞へたが、重ひことぞ。するにこふ云はれた。先王の世の挌別なと云は治体と云本があって礼樂刑政なり。本のないは楠が甲を貰ても我精神が楠でなければ何んにも役には立ぬ。
【解説】
節用も愛人も使民以時も皆人君の心についてのことであって、それは他人にはわからないこと。人君にこの心があれば法もうまく行われるが、この心がなければ法もただの制数となる。
【通釈】
孔子は「道千乗之国」と言われたのだから、真っ先に礼楽刑政を出されそうなものだが、全くそうは仰せられずに「節用而愛人使民以時」と言われた。「節用」は向こうに出すことではない。人君が無用なことをしないこと。「愛人」も向こうへ出すことではなく、人君の心中で人を不便に思し召すこと。人君は億兆の上にあるから、心の内で人を愛したとしても直ぐに知れるものではない。「使民以時」。これは向こうへ知れることの様だが、これにしても君の心にあることだから、滅多に知れるものではない。節用而愛人使民以時と、この四つは微塵も見渡して見えるものではない。この通り人君に御心入れがあれば「法行」である。法は借り入れすることができるが、人君の御心は借り入れすることはできない。古人の組んだ処方は借りるのが名医だが、処方でない心の借り入れはできない。治法は借り入れすることができるが、治体は借り入れすることはできない。桀紂の天下であっても滅多なことがある筈はない。自ら馬鹿を尽くしこそしたが、夏の禹王、殷の湯王の法が天下にあった。軍学が巧者でも臆病であれば法は行われないというもの。礼楽刑政は天下にあっては至って大きく重いことで動かすことのできないことだが、それを「制数」だと言った。これが中々先王の御心を知った人でなくては言えないこと。礼楽刑政が軽いことであればその様に言うのもわかるが、それが重いこと。それをこの様に言われた。先王の世が格別だと言うのは治体という本がある上に礼楽刑政があるからである。本がなければ、楠の鎧を貰っても自分の精神が楠でなければ何にも役には立たないのと同じこと。
【語釈】
・道千乘之國…論語学而5。「子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時」。
・制數…制度の条目、形式。


第二十四 法立能守の条

法立而能守、則德可久、業可大。鄭聲佞人、能使爲邦者喪其所守。故放遠之。
【読み】
法立ちて能く守れば、則ち德は久しかる可く、業は大いなる可し。鄭聲佞人は、能く邦を爲[おさ]むる者をして其の守る所を喪わしむ。故に放ちて之を遠ざく。
【補足】
・この条は、張横渠の正蒙三十篇にある。「其所」は、正蒙の原文では「所以」となっている。

法は自然なもので、天下を治めるにはこふなくては治まらぬと云。それを守らぬは病人が禁好物書て壁に張り付て、其下で禁好物をやぶるやふなもの。禁好物は守でよい。德可久業可大。法立の法は治法なれとも、德可久業可大は治体を云たもの。治体治法とくるはつを治法治体と云が趣向なり。垩賢の御辞は時々の趣向でくるゆへ固く心得ぬがよい。上の条で治體を第一に云た。此条、そのうけに治法を云出して法の方からゆくこと。可久可大と云でほぐされること。わるいのは五季の衰と云やふで、ながくはつつかぬ。德のないは中々つつかぬものなり。守る心がなければ何にもかもらりになる。書出しは治法をかたりて治体になる。治体になるは鄭聲佞人能使爲邦者喪所以守。孔子が顔子へ四代の礼樂を傳て、行夏之時乘殷之輅服周之冕樂則韶舞と云は治法なり。一ち紙末に放鄭声遠佞人は治体を云たもの。鄭聲佞人は天下へ差出したものではない。浄留理三味線面白もの。佞人もうつくしいよい役人と見へる。これは筭用の外なもの。ほつり々々々と人君の心をわるくする。そこで四代の礼樂をこふするものじゃ々々々々々々々々と云て、をそろしいものじゃ鄭聲、をそろしいものじゃ佞人と云。佞人は鷺を鳫にして君の機嫌のよいやふにし、鄭声を聞くと君の心がたをれる。何程法がたっても君の心がたをれるゆへ、立た法もらりになる。然れば守と云があればよいが、鄭声佞人はその守を失はせる。佞と云は眼病人に酒は目の下をくぐりますと云やふなもの。そこで目はわるいが一抔飲んでもよからふと云。これは一寸したことなれとも、萬端尤らしいことを云て天下の害になる。鄭声はそれとは違ひ一と了簡あるものではないが、道の通りかけに聞てもわるいもの。人君の為には斑猫砒石より悪い。
【解説】
法を守らなければ天下は治まらない。そこで、法を守る心がなければならない。孔子の「行夏之時乗殷之輅服周之冕楽則韶舞」は治法のことで、「放鄭声遠佞人」と言ったのは治体のこと。鄭声佞人で人君の心が倒れる。
【通釈】
法は自然なもので、天下を治めるにはこうでなくては治まらないと言った。それを守らないのは病人が禁好物を書いて壁に張り付けて置きながら、その下で禁好物を破る様なもの。禁好物は守るからよい。「徳可久業可大」。「法立」の法は治法だが、「徳可久業可大」は治体を言ったもの。治体治法と続く筈のところを治法治体と言うのが趣向である。聖賢の御言葉は時々の趣向によるから固く心得ない方がよい。上の条で治体を第一に言ったので、この条はそれを受けて治法を言い出して法の方から行く。可久可大と言うので解れて来る。悪いことは五季の衰えと言う様なもので、それでは長くは続かない。徳がなければ中々続かないもの。守る心がなければ何もかも台無しになる。書き出しは治法を語り、それから治体となる。治体になるところは「鄭声佞人能使為邦者喪所以守」である。孔子が顔子へ四代の礼楽を伝え、「行夏之時乗殷之輅服周之冕楽則韶舞」と言ったのは治法のこと。最後に「放鄭声遠佞人」と言ったのは治体のこと。鄭声佞人は天下へ差し出したものではない。浄瑠璃や三味線は面白いもの。佞人も美しいよい役人と見えるが、それは算用違いなこと。少しずつ人君の心を悪くする。そこで孔子が四代の礼楽はこうするものだ、恐ろしいものだ鄭聲は、恐ろしいものだ佞人はと言った。佞人は鷺を烏にして君の機嫌のよい様にする。また、鄭声を聞くと君の心が倒れる。どれほど法が立っても君の心が倒れるので、立った法も台無しになる。そこで、守というものがあればよいのだが、鄭声佞人がその守を失わせる。佞とは眼病人に酒は目の下を潜りますと言う様なもの。そこで目は悪いが一杯飲んでもよいだろうということになる。これは一寸したことだが、万端尤もらしいことを言って天下の害になる。鄭声はそれとは違って一了簡あるものではないが、それは道の通りがけに聞いても悪いもの。これ等は人君のためには斑猫砒石よりも悪い。
【語釈】
・德可久業可大…易経繋辞伝上1。「可久則賢人之德、可大則賢人之業」。
・五季…大学章句序。「使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之澤。晦盲否塞、反覆沈痼、以及五季之衰。而壞亂極矣」。五季の五は唐の後の五代、季は季世。末世。
・行夏之時乘殷之輅服周之冕樂則韶舞…論語衛霊公10。「顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅、服周之冕、樂則韶舞。放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆」。
・斑猫砒石…斑猫も砒石も猛毒がある。


第二十五 横渠先生答范巽之の条

横渠先生答范巽之書曰、朝廷以道學・政術爲二事。此正自古之可憂者。巽之謂孔孟可作。將推其所得而施諸天下邪。將以其所不爲而強施之於天下歟。大都君相父母天下爲王道。不能推父母之心於百姓、謂之王道、可乎。所謂父母之心、非徒見於言、必須視四海之民如己之子。設使四海之内皆爲己之子、則講治之術、必不爲秦漢之少恩、必不爲五伯之假名。巽之爲朝廷言、人不足與適、政不足與閒。能使吾君愛天下之人如赤子、則治德必日新、人之進者必良士、帝王之道、不必改途而成、學與政不殊心而得矣。
【読み】
横渠先生の范巽之[はんそんし]に答うる書に曰く、朝廷は道學・政術を以て二事と爲す。此れ正に古より憂う可き者なり。巽之は孔孟の作[おこ]る可しと謂う。將[はた]其の得る所を推して諸を天下に施くか。將其の爲さざる所を以てして強いて之を天下に施くか。大都[およそ]君相は天下に父母たるを以て王道と爲す。父母の心を百姓に推すこと能わず、之を王道と謂いて、可ならんや。謂う所の父母の心は、徒に言に見るるのみに非ず、必ず須く四海の民を視ること己の子の如くなるべし。設使[もし]四海の内をして皆己の子爲らしめば、則ち講治の術は、必ず秦漢の少恩と爲らず、必ず五伯の假名と爲らざらん。巽之朝廷の爲に言え、人は與に適[せ]むるに足らず、政は與に閒[そし]るに足らず。能く吾が君をして天下の人を愛すること赤子の如くならしめば、則ち治德必ず日に新に、人の進む者必ず良士にして、帝王の道は、必ずしも途を改めずして成り、學と政とは心を殊にせずして得ん、と。
【補足】
・この条は、横渠文集の「答范巽之書」にある。

治体をたん々々説つめて一ちのすへにこの語がある。治体の目のさめる章なり。朝庭とさすは横渠先生が當時のことをなげかれたもの。ひょんなことじゃ、道学と云と周茂叔や李延平のやふに引込で居る人を道學と思ひ、王荊公や蔡京秦檜がやふにさはぎまわるを政術と思、こまりたこととあることなり。伊尹や周公ほどいそがしい御方はなく、孔子や孟子は御ひまなり。然に伊尹周公も孔子孟子も同じこと。伊尹の有莘之野に耕すときは、やはり孔子の道を説てをらるると同じ。孔子の弟子衆と御話をなさるが、じきに用ひられると政になる。道学と政が二つことではない。道學と政を二つことと云が今日や昨日のことではなく、當時朝庭もそれなり。少し学問氣のある人が役でもなると經済の書が見たいと云ふ。經済の書が見たいと云ことはないこと。道學と政術と、跡からはわかりたれとも根は一つな筈。萹鵲がどの国では婦人医になったと、この国では小児医になったと云こと云へば、あれは扁鵲が謀畧なり。五臟六腑が一つゆへかわる筈はない。天下の政はこちの明德を向へ出すことゆへ、二つにすることではない。范巽之は歴々であらふ。重ひことを取る人でなければこふは云はれぬ。惟秀云、先年の御講釈に大目付を勤めたと仰られたり。先生曰、なんぞで考たであろふ。孔孟は政をせぬゆへただ孔子や孟子のことを浪人めいたことに思が、孔子や孟子に政をあづけたならば道學を得てをらるるゆへ、その得た道学をだすであろふ。身に得たことはしもふて、手前の不得手なことを無理にすると思ふは大なちがい。今孔孟が出て政をするとてぶんに政の稽古はあるまい。このことは孟子の見牛或問に詳なり。
【解説】
「横渠先生答范巽之書曰、朝廷以道學・政術爲二事。此正自古之可憂者。巽之謂孔孟可作。將推其所得而施諸天下邪。將以其所不爲而強施之於天下歟」の説明。道学は引っ込んでいるもので、政術は騒ぎ回るものの様に思うのは間違いであり、道学と政術は一つである。伊尹や周公と孔孟とは同じである。孔孟に政を託せば、彼等は道学を得ているので、その道学で政術を行っただろう。
【通釈】
治体を段々と説き詰めて、一番終わりにこの語となる。これが治体の目の醒める章である。「朝廷」と示したのは、横渠先生が当時のことを嘆かれてのこと。奇妙なことで、道学と言えば周茂叔や李延平の様に引き込んでいる人のことで、王荊公や蔡京、秦檜の様に騒ぎ回るのを政術と思うのは困ったことだと言った。伊尹や周公ほど忙しい御方はなく、孔子や孟子は御暇である。それでも伊尹周公と孔子孟子は同じ。伊尹が有莘の野で耕していた時は、やはり孔子が道を説いておられていたのと同じ。孔子は弟子衆と御話をなさっているが、用いられると直ぐに政になる。道学と政は別のことではない。道学と政は別のことだとするのは今日や昨日のことではなく、当時の朝廷もそれである。少し学問気のある人が役にでもなると経済の書が見たいと言う。経済の書が見たいと言うことはないこと。道学と政術と言う様に、後からは二つに分かれたが根は一つな筈である。扁鵲がある国では婦人医になり、この国では小児医になったと言うのは扁鵲の謀略である。五臓六腑は一つなのだから替わる筈はない。天下の政はこちらの明徳を向こうへ出すことだから、二つにすることではない。范巽之は歴々だったのだろう。重いことを執る人でなければこの様に言うことはできない。惟秀が、先年の御講釈では范巽之は大目付を勤めたと仰られたと言った。先生が、それは何かで考えたのだろうと言った。孔孟は政をしないので、孔子や孟子のことをただ浪人めいた者の様に思うが、孔子や孟子に政を託せば道学を得ておられるので、その得た道学を出すだろう。身に得たことは仕舞って置いて、自分の不得手なことを無理にすると思うのは大間違いである。今孔孟が出て政をするとしても特別に政の稽古をするということはないだろう。このことは孟子の見牛或問に詳らかにある。
【語釈】
・王荊公…王安石。
・蔡京…北宋末の宰相。徽宗に取り入り,奢侈をすすめて財政を窮迫させた。1047~1126
・秦檜…南宋の宰相。字は会之。江寧(南京)の人。高宗に仕え、侵入した金国と講和し、講和に反対する岳飛を獄死させたため、後世奸臣の典型とされる。1090~1155
・有莘之野…孟子万章章句上7。「伊尹耕於有莘之野、而樂尭舜之道焉」。
・范巽之…范育。張横渠の門人。
・見牛或問…孟子梁恵王章句上7の話。

大都人君云々。天下を保つ君と政をする宰相は民の父母と云てすむ。大學にも樂只君子民之父母と云てあり、父母と云てをちつかしたこと。父母と云字をよく吟味するがよい。親の心隨分むまいもの食せたいと云心もほうをなでることもある。打擲することもあるが、とど可愛より外はない。父母の心を推ずにするならば王道とは云はれぬ。若林の門人どこのか家中が役人に云付られて若林へいとま乞の時、やがて御ろふじませと云て立たれば、若林があとで笑て、あれが御ろふじませと云は手の先きでするであらふと云へり。御ろふじませと云は經済者の云ことじゃ。はてさて子のことに親がそのやふなことを云はせぬ。父子と云を天下の廣ひへ出すで垩賢の心はすんでをる。非徒見於言必須視四海之民如己之子。横渠先生のかたく云たもの。口では誰も云が、それはあてにならぬ。この合点につまら子ばならぬこと。須視四海之民如己之子。これまでで道學と政術の二つないを云たもの。
【解説】
「大都君相父母天下爲王道。不能推父母之心於百姓、謂之王道、可乎。所謂父母之心、非徒見於言、必須視四海之民如己之子」の説明。君と宰相は民の父母である。父母の心を推さずにするのでは王道とは言えない。それは小手先でするものである。
【通釈】
「大都人君云々」。天下を保つ君と政をする宰相は民の父母と言えば済む。大学にも「楽只君子民之父母」とあり、父母と言って話を落ち着かせたのである。父母という字をよく吟味しなさい。親の心には美味いものを沢山食わせたいという心もあり、頬を撫でる心もある。打ん殴ることもあるが、結局は可愛いと言うより外はない。父母の心を推さずにするのでは王道とは言えない。若林の門人がどこかの家中の役人に言い付けられて若林のところへ暇乞いに行った時、今に御覧じませと言って帰ったが、若林が後で笑って、あいつが御覧じませと言ったのは手先きですることを言ったのだろうと言った。御覧じませと言うのは経済者の言うこと。はてさて子のことについて親がその様なことを言いはしない。父子ということを天下の広いところへ出すことで聖賢の心は済んでいる。「非徒見於言必須視四海之民如己之子」。これは、横渠先生が手堅く言ったこと。口では誰もが言うが、それは当てにならない。この合点に詰まらなければならない。「須視四海之民如己之子」。これまでは道学と政術が別ではないことを言ったもの。
【語釈】
・樂只君子民之父母…大学章句10。「詩云、樂只君子、民之父母」。詩は小雅南山有臺篇。

設使四海云々。道學と政術と一つと思へば今迠のやふな治の講じやふではならぬ。秦の世と漢の世を横渠の同格にしてをかれた。無理のやうなことなり。秦の始皇は民に難義をさせ、漢の世はよい政がありたれども、とど下の為にならぬは王者父母の心でない。暴秦も西漢もとちも同じこと。功業で天下を取り、とふかして我ものにし、手抦をあらはそふとして、天下の人にくっとも云はせぬと云。鵜つかひの鵜をつかふやふなもの。こちの用向があると天下の者を一つつつ用向につかい、天下を泰平にしよふと云計り、あとでは難義をする者ある筈ぞ。韓信なとも死ぬときしっくはいを云た。用向を仕まふと、はや役にたたぬと云段になると前の功は忘れて、次き人足を先きの驛迠やれば、今のやつはたれしゃか面も覚へずすむと云やふにする。天下に大功あるものも次人足のやふにあしろふては少恩と云ものぞ。天下の臣民をそのやふにしてはならぬ。伯者は仁義に熱はないが、通用が悪いゆへ仁義を假る。宋朝もこの時学問もひらけ王道をする氣で、やはり伯者のすることをしていた。
【解説】
「設使四海之内皆爲己之子、則講治之術、必不爲秦漢之少恩、必不爲五伯之假名」の説明。秦も漢も民のためにならないところは同じである。彼等は天下を取ろうとして自分のために人を使い、その用が終われば直ぐにその人を捨てた。宋朝も王道をする気で伯者のすることをしていた。
【通釈】
「設使四海云々」。道学と政術とが一つだと思えば、今までの様な治の講じ方では悪い。秦の世と漢の世を横渠が同格にして述べられた。それは無理な様に見える。秦の始皇帝は民に難儀をさせ、漢の世はよい政があったが、結局下のためにならないのは王者父母の心でない。暴秦も西漢もどちらも同じ。功業で天下を取り、どうにかして天下を自分のものにし、手柄を顕そうとして、天下の人にぐっとも言わせない。それは鵜飼いが鵜を使う様なもの。自分に用向きがあると天下の者をその都度その用向きに使い、天下を泰平にしようと言うだけなので、後では難儀をする者がある筈である。韓信なども死ぬとき述懐を言った。用向きが終わって最早役に立たないという段になると前の功は忘れ、次人足を先の駅まで遣れば今の奴は誰だか面も覚えなくてもよいという様にする。天下に大功ある者も次人足の様に扱うのなら、それは「少恩」と言うもの。天下の臣民をその様にしてはならない。伯者は仁義に熱くはないが、通用が悪いので仁義を借りる。宋朝もこの時は学問も開け王道をする気で、やはり伯者のすることをしていた。

人不足與適云々。よい人が出た、わるい人が出たと云はせむべきこと。これはあるまい御觸と云ふ。これもせむべきこと。然しそのやふなことでは間に合ぬ。飯の上の蠅を追ふやふなもの。根倒によくするでなければならぬ。大病人が今朝は肴て飯を食ふたと云ことあれとも、それても死ぬ。をを根のよいは脉のなをりたやふなもの。医者もちっとなことでは喜びさわかぬ。脉がなをるとこれは脉がなをりましたと声高に云。治德必日に新は人君の脉のなをりたのなり。治道と云も治德と云も同じこと。道と云と假りものでするやふにもなる。德と云へばこちのもの。人君が天下のものを手前の子たと思ふとすつり々々々と先王の域に至る。治德必日新なれば悪いものを出よかしと云ても悪いもの出ぬ。わるいものの出るはわるい縁があるゆへ出る。悪い縁なければ良士はかり出る。大名の座敷に蠅のいぬやふなもの。臺所へも遠く何にも角もきたないものが無い。備後表の香いはかりするゆへ蠅がいぬ。あたりに肴のわたの腐りたるにをいの物があるゆへ蠅がくる。
【解説】
「巽之爲朝廷言、人不足與適、政不足與閒。能使吾君愛天下之人如赤子、則治德必日新、人之進者必良士」の説明。政は根倒しによくするのでなければならない。人君が民を自分の子と思えば先王の域に至る。人君がよくなれば、悪い者は出ることがならなず、良士ばかりが出る。それは、大名の座敷に蝿がいないのと同じである。
【通釈】
「人不足與適云々」。よい人が出たとか悪い人が出たということは責めるべきこと。あってはならない御触れも責めるべきこと。しかしその様なことでは間に合わない。それは飯の上の蝿を追う様なものであって、根倒しによくするのでなければならない。大病人が今朝は肴で飯を食ったと言うことがあるが、それでも死ぬ。大根がよいのは脈の治った様なもの。医者も一寸のことでは喜び騒がない。脈が治れば、これは脈が治りましたと声高に言う。「治徳必日新」は人君の脈が治ったのである。治道も治徳も同じことだが、道と言えば借り物でする様にもなる。徳と言えば自分のもの。人君が天下の者を自分の子だと思うとするすると先王の域に至る。「治徳必日新」であれば、悪い者が出ろと思っても出て来ない。悪い者が出るのは悪い縁があるからで、悪い縁がなければ良士ばかりが出る。それは、大名の座敷に蝿がいない様なもの。台所からも遠く何もかも汚いものがない。備後表の香りばかりがするので蝿がいない。辺りに肴の腸の腐った臭いがする物があるので蝿が来る。
【語釈】
・人不足與適…孟子離婁章句上20。「孟子曰、人不足與適也。政不足閒也。惟大人爲能格君心之非。君仁莫不仁。君義莫不義、君正莫不正。一正君而國定矣」。

途は迂齊の、今日の道と云へり。じきに宋朝の今のなりを云なり。下手な学者が洗い直すやふに思ふが、今迠のなりを直ずによくなること。甚しいものは中蕐の眞似をしたがる。小學をあける、洒掃応對とあるゆへ、もふしき瓦にして水をうつことと思ふ。とんとこの通りですむこと。書は唐の書でも心はこの心ですること。とんと今日の通りでよい。兎角改めて新くしたがるが、新くしたとてろくななりにするものではない。學與政不殊心而得矣。身を脩める学問はこれだの、天下を治める学問はこれだのと云ことはない。儒者が儒者めくことをするはかいない。惣してめくと云が手つつなことなり。何事も心でする。天下の政は大きいことなれでさま々々なこともあるが、心でする。親子中のよいも兄弟中のよいも本心のなり。それに手入れをする迠のこと。外のことではない。先王の世はそのこと。今でもなること。天下の政ばかり分にしなをすことではない。心ですることゆへ一つなり。心のことと云で治体の体の字がすめる。今の世で行はれぬなとと云ことはない。迂斎の話に、迂斎などの年若なとき、よほど療治をした土岐元厚とか云年寄の医者が遠嶋になって遠嶋先きで医者をも仕あげ手抦をもして帰りたと云ふ。遠嶋先きは藥も不自由なれとも、医者が上手なればなこれなり。和漢の藥があっても匕がまわら子ば役に立ぬ。心でなくては政も何もならぬ。どこ迠もこの方からよくするでなくて先王の古へは復されぬ。こふすればよいと云は伯者の手管ですることぞ。横渠先生、ここの三章皆どこ迠も心にあるとつめたもの。
【解説】
「帝王之道、不必改途而成、學與政不殊心而得矣」の説明。天下の政は別にし直すことではない。道は今のままで直すことができる。それには心が大事であって、心に手入れをするだけである。政で手段を言うのは伯者の手管なのである。
【通釈】
迂斎が、「途」は今日で言う道と同じだと言った。これは直に宋朝の今の姿を言ったもの。下手な学者はこれを洗い直す様に思うが、今までの形を直さなくてもよくなるのである。甚しい者は中華の真似をしたがる。小学を開くと「洒掃応対」とあり、直ぐに敷瓦にして水を打つことだと思う。実にこの通りで済む。書は唐の書でも心はこの心でする。実に今日の通りでよい。とかく改めて新しくしたがるが、新しくしたとしても碌な形にはならない。「学与政不殊心而得矣」。身を修める学問はこれだとか、天下を治める学問はこれだなどと言うことはない。儒者が儒者めくことをするのでは甲斐がない。総じてめくということは下手なこと。何事も心でする。天下の政は大きく様々なこともあるが、それは心でする。親子仲がよいのも兄弟仲がよいのも本心の姿であって、それに手入れをするだけのこと。外のことではない。先王の世はそれであって、これは今でもできること。天下の政だけを別にし直すわけではない。心ですることだから同じである。心のことと言うので治体の体の字が済む。今の世では行われないなどと言うことはない。迂斎の話に、迂斎などが若かった時、余程療治をした土岐元厚とか言う年寄りの医者が遠島になり、遠島先で医者をも仕上げ手柄をもして帰ったと言う。遠島先では薬も不自由だが、医者が上手であればこの様にできる。和漢の薬があっても匙が回らなければ役には立たない。心でなくては政も何にもならない。何処までも自分からよくするのでなくては、先王の古を復すことはできない。こうすればよいと言うのは伯者が手管ですること。ここの三章は、皆何処までも心のことだと横渠先生が詰めたもの。