近思録序講例 庚戌六月六日 惟秀録
【語釈】
・近思録序…寛文十年夏五月九日山崎嘉敬義序と書末にある。ここでは山崎闇斎の序を基にして、黙斎が講義を行っている。尚、闇斎の近思録序は垂加草巻十にも収録されている。
・庚戌…寛政2年(1790年)。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

晦庵朱先生曰、近思録好看。四子六經之階梯。近思録四子之階梯。信哉是言也。孟子沒而聖學不傳者、其無此階梯也。夫學之道在致知力行之二而存養則貫其二者也。漢唐之間非無知者也。非無行者也。但未曽聞存養之道、則其所知之分域、所行之氣象、終非聖人之徒矣。至于宋濂渓周子繼往聖而開來學。其所謂無極而太極、則啓大易之秘而發中庸之妙也。誠能有得於斯則四子六經可不治而明矣。然此豈若異端頓悟之所得哉。先生敎伯恭做數語載於後正爲此也。竊謂一高卑合遠近者聖人之道也。升高自卑行遠自近者聖人之敎也。或馳於高遠或滯於卑近則皆非道非敎也。先生此編以近思之名而極高妙之言。小學大學工夫悉備焉。實學者入道之階梯。不可不好看也。當時鄧絅問之略而不切。故先生且隨答之而已。後來陳潜室答人問之也、問者雜而不切其答亦非達者語也。雖何北山著發揮恐微言未析也。葉仲圭爲集解楊伯嵒爲衍註皆未能深有所發明。汪器之議之是也。戴亨之補註柳貫之廣輯皆葉解之亞流也。周公恕亂成書爲分類、張元禎陳文燿雷同而補成之。共犯不韙之罪耳。抑此編之後劉子澄取程門諸子之説編爲續録。先生以謂、諸子終不及程子。接續其意思不得矣。其後蔡覚軒以先生之書編爲續録。採張氏呂氏之書爲之別録。嘉嘗閲之不満于心。聊試論之。夫先生經解之外説天人之道莫詳於元亨利貞太極之二説。然選乎太極説而遺元亨利貞説何耶。仁愛之有味智藏之無迹先生丁寧開示之。其全収仁説則愛之親切足以味之乎。其截取四性之論雖有冬藏之言而不聞其説之詳。則無迹之微意孰得而識之哉。玉山講義發揮四子旁通情也。此爲學者用力而講之。宜依先生編入好學論之例矣。敬斎箴是存養之要也。白鹿洞掲示則敎學之法而大學以來之規也。答呉晦叔知行書則大學之蘊而傳者之所未發也。皆不載之。其他可惜者猶多。今不盡論之也。別録之編不取南軒主一箴。不擧東莱大事記。其亦遺恨也。蓋有周程張子而微先生則此書之編不可成矣。先生以後更無先生則註解之眼續編之手果望於誰哉。
【読み】
晦庵朱先生曰く、近思録看るに好し。四子は六經の階梯。近思録は四子の階梯、と。信なるかな、是の言や。孟子沒して聖學伝わらざるは、其れ此の階梯無ければなり。夫れ學の道は、致知力行の二つに在り。而して存養は則ち其の二つを貫く者なり。漢唐の間、知る者無きに非ざるなり。行う者無きに非ざるなり。但だ未だ曽て存養の道を聞かざれば、則ち其の知る所の分域、行う所の氣象、終に聖人の徒に非ず。宋に至りて濂渓周子、往聖を繼いで來學を開く。其の所謂無極にして太極は、則ち大易の秘を啓きて中庸の妙を發するなり。誠に能く斯に得る有らば、則ち四子六經治めずして明らかなるべし。然れども、此れ豈異端頓悟の得る所の若くならんや。先生、伯恭をして數語を做[つく]りて後に載せしむるは、正に此れが爲なり。竊かに謂うに、高卑を一にし遠近を合する者は聖人の道なり。高く昇るに卑きよりし、遠きに行くに近きよりする者は聖人の敎なり。或は高遠に馳せ、或は卑近に滯るは、則ち皆、道に非らず、教えに非らざるなり。先生、此の編、近思の名を以てして、高妙の言を極む。小學大學の工夫悉く備われり。実に學者道に入るの階梯。好く看ざるべからざるなり。當時、鄧絅之を問うこと略にして切ならず。故に先生且つ隨いて之に答うるのみ。後來、陳潜室、人の之を問うに答うるや、問う者雜にして切ならざれば、其の答も亦、達者の語に非ざるなり。何北山發揮を著すと雖も、恐らくは微言未だ析[あき]らかならざるなり。葉仲圭の集解を爲し、楊伯嵒の衍註を爲すは皆、未だ深く發明する所有る能わず。汪器之の之を議するは是なり。戴亨の補註や柳貫の広輯は皆葉解の亞流なり。周公恕、成書を亂して分類と爲し、張元禎、陳文燿、雷同して之を補成す。共に不韙[ふい]の罪を犯すのみ。其の後、蔡覚軒、先生の書を以て編じて續録と爲し、張氏呂氏の書を採りて、之れが別録と爲す。嘉嘗て之を閲[けみ]し、心に満たず。聊[いささ]か試みに之を論ぜん。夫れ先生經解の外、天人の道を説けるは元亨利貞太極の二説より詳らかなるは莫し。然れども太極説を選んで元亨利貞説を遺するは何ぞや。仁愛の味有る、智藏の迹無き、先生丁寧に之を開示す。其れ全く仁説を収むれば、則ち愛の親切以て之を味わうに足らんか。其れ四性の論を截取[せっしゅ]すれば、冬藏の言有ると雖も、其の説の詳らかなるを聞かず。則ち迹無きの微意、孰か得て之を識らんや。玉山講義は四子を発揮して、旁く情を通ずるなり。此れ學者の力を用いるが爲に之を講ず。宜しく先生、好學論を編入するの例に依るべし。敬斎箴は是れ存養の要なり。白鹿洞掲示は則ち敎學の法にして、大學以來の規なり。呉晦叔に答うる知行の書は、則ち大學の蘊にして伝者の未だ發せざる所なり。皆之を載せず。其の他惜む可き者猶多きも、今盡くは之を論ぜざるなり。別録の編、南軒の主一箴を取らず。東莱の大事記を擧げず。其れ亦遺恨なり。蓋し、周程張子有りて先生微[な]かりせば、則ち此の書の編成る可からず。先生以後更に先生無ければ、則ち註解の眼、續編の手、果たして誰に望まんや。
【語釈】
・晦庵朱先生…朱子。
・六經…中国における六種の経書。易経・書経・詩経・春秋・礼・楽経(佚書)の総称。
・階梯…昇降の階段。きざはし。だんばしご。学芸などを学ぶ段階。手引き。入門。
・伯恭…呂祖謙。南宋の儒者。字は伯恭。号は東莱。浙江金華の人。呂本中に対して小東莱と称。程朱の学に通じ、朱熹と並称。著「呂氏家塾読詩記」「左氏博議(東莱博議)」「大事記」など。1137~1181。
・鄧絅[とうけい]…朱子文集巻58、答鄧衛老を指す。
・陳潜室…朱子の門人で陳埴。
・何北山…黄榦の門人で何基。
・葉仲圭[しょうちゅうけい]…南宋の葉采。
・楊伯嵒[ようはくがん]…元の学者。
・汪器之[おうきし]…明の学者。
・戴亨[たいこう]…南宋の学者。
・柳貫…元の学者。金履祥の門人。
・周公恕[しゅうこうじょ]…明の学者。
・張元禎[ちょうげんてい]…明の学者。
・陳文燿[ちんぶんよう]…明の陳煒
・不韙…韙は是と同じ。正しくないこと。
・劉子澄[りゅうしちょう]…朱子の門人。劉清之。
・蔡覚軒…朱子の門人で蔡模。
・張氏呂氏…張南軒と呂東萊。
・經解…経書の注解。
・元亨利貞…元[おお]いに亨[とお]りて貞[ただ]しきに利[よろ]し。易経乾卦文言伝。「文言曰、元者善之長也。亨者嘉之會也。利者義之和也。貞者事之幹也。君子體仁足以長人、嘉會足以合禮、利物足以和義、貞固足以幹事。君子行此四德者。故曰、乾元亨利貞」。
・呉晦叔[ごかいしゅく]…朱子文集巻四二「與呉晦叔」第九信。
・南軒…張南軒。名は栻。字は敬夫。1133~1180

先つ学問と云は何であろふとも向へ手本ををいて夫れを学ぶ。学ぶと云は、吾ものにせふとすることゆえ、思へのせ子ばならぬ。前々から云、学問は藝でないから手足ですることでない。心へたたみこむこと故、学問の要は思で手に入る。此近く思の字は論語の子夏の語とは誰も知たが、此語をたんだへて見るものがない。
【解説】
学ぶとは、道を自分ものにすることが目的である。そこで、自ら思うということが学問を得るために重要となる。誰もが近思録の近思は子夏の言葉であることを知っているが、近思の意味を理解しようとする者はいない。
【通釈】
先ず、学問は何であろうと、手本を置いて学ぶものである。学ぶとは、自分のものにしようとすることだから、思いへ乗せなければならない。前々から言っているが、学問は芸ではないから手足ですることではない。心へ畳み込むことだから、学問の要諦は思うことによって手に入る。この近思の字が論語の子夏の語とは誰もが知っているが、この語を尋ね求める者がいない。
【語釈】
・近く思…論語子張6。「子夏曰、博學而篤志、切問而近思。仁在其中矣」。
・子夏…孔門十哲の一。姓は卜、名は商。子夏は字。衛の人で、孔子より44歳若いという。
・たんだへて…探題う。探したずねる。尋ね求める。

子夏をば篤実な人と聞て、夫れで君子にはならるることと思う。夫れが違ひなり。篤実なものは小人儒になるなと云戒は入りそもないものなれとも、孔子が、為君子儒勿為小人儒と戒めがある。又、政のことに付て、勿欲速勿見小利と、日ころの癖を戒めた。手まわしな近道を志すことが篤実なものにある病て、篤実なものは僅のよい処へとまる。是へ腰をかけたがる。そこで垩人の戒られたもの。子夏の夫から呑込れて、兎角魂へたたみこま子ばならぬことじゃとがてんして、切問而近思仁在其中と出されたもの。こふなるにいこう仕入のありたこと。
【解説】
篤実であれば子夏の様になれると思ったら、それは間違いである。篤実な子夏に対して、孔子は君子儒になるように諭した。篤実な者は小人儒になりやすい。学問を心に畳み込むことを理解したから、「切問而近思仁在其中」にまで至ったのである。
【通釈】
子夏を篤実な人だと聞いて、篤実であれば君子になることができる思うのは、間違いである。篤実な者に対して小人儒になるなという戒めは要らない様に思えるが、孔子は子夏に、「為君子儒勿為小人儒」と言って戒めた。また、政についても「無欲速無見小利」と、子夏の日頃の癖を戒めた。遣り繰りをして近道を行こうとすることが篤実な者にある病で、篤実な者は少しよい場所があるとそこで止まる。そこに腰を掛けたがる。そこで聖人がこの様に戒められたのである。子夏もそう言われて理解し、何としても学問を魂へ畳み込まなければならないと合点したので、「切問而近思仁在其中」と言われた。子夏がここまでに至るには、かなりの努力があったのである。
【語釈】
・為君子儒勿為小人儒…論語雍也11。「子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒」。
・勿欲速勿見小利…論語子路17。「子夏爲莒父宰問政。子曰、無欲速。無見小利。欲速、則不達。見小利、則大事不成」。
・手まわし…その事が到来する前に手はずを整えること。てくばり。手許の金銭のくりまわし。やりくり。
・切問而近思仁在其中…論語子張6。前出。

仁在其中とは、これでしてとらるると云こと。切問近思のぎりぎりをするて成就がなる。こうないは皆藝なり。む子へたたきこむことがないと、書は自書、我は自我、てんでばら々々、身にならぬ。夫からして、氣質と云父母の生付に、人欲と云己が仕出がいつ迠もぬけぬ。氣質人欲を其分にして通さぬやふにするが学問なり。夫れと云も心へのせて思ふと云で身になるから、近思と云字を書名にしたもの。
【解説】
切問近思を実践することで学問が身になる。そうしない者の学問は芸である。生得の気質と生後に得た人欲を抑制することが学問である。
【通釈】
「仁在其中」とは、これで成就することができるということ。「切問近思」の至極をするから成就することができるのである。こうでないものは皆芸である。胸へ叩き込むことがないと、書は書であるだけ、自分は自分であるだけのばらばらであって、学問が自分のものにならない。そして、父母の生み付けの時からある気質に、自分が作った人欲が何時までも抜けない。気質と人欲を抑えて通さない様にするのが学問である。それと言うのも、心へ乗せて思うから身になるのであって、そこで近思という字を書名にしたのである。
【語釈】
・仕出…作りだすこと。新案。新趣向。新流行。

今の学者は一生書計り讀む、藝なり。藝者の方には却て胸へのせる。そこで藝には名人もある。学者に近く思のないはうわのそら也。近く思で身につく。吾黨でも近思録に色めきがつくと本んの学文になる。
【解説】
ただ本ばかりを読むのは芸の学問である。本をよく読んでいても近思でなければ、学問は身に付かない。近思録に興味を持てば、真の学問となる。
【通釈】
今の学者は一生書ばかりを読んでいるが、それは芸の学問である。芸をする者の中には、却って胸に乗せる者もいる。そこで、芸には名人もいる。近く思うことをしない学者は、上の空の学問をしているのである。近く思うから身に付く。吾が党でも近思録に興味を持つ様になると、本当の学問となる。

四書は孔曽思孟の言なり。近思は周程張の四人が道統を得られ、道德熟して道学の話をなされたことゆへ、すぐに四書しゃと合点せふことなり。周程張の咄がやっはり孔子孟子の論孟道統傳授の心法を得て道学の證文になり、道理の極致備た処は、やはり子思の中庸、又、学問の功夫次第階級の揃て乱れぬ処は大学なり。そこで近思に目がつくと大中も活る。近思に目の付ぬ人は論孟をいかほと讀ても精彩がない。近思録を的々の宗旨と立るが吾黨の傳授なり。
【解説】
近思録には周濂渓、程伊川、程明道、張横渠の話があるが、それを突き詰めれば、四書と同じである。近思録が、道統伝授の心法を得て道学の証文となったのは論語や孟子、道理の極致が備わっているのは中庸、学問の実践方法が確立したところは大学と同じであって、この近思録を宗旨とするのが吾が党の伝授である。
【通釈】
四書は孔曾思孟の言である。近思録は、周程張の四人が道統を得られ、道徳をよく理解して道学の話をされたことが書かれているのだから、直ぐに四書のことだと合点しなさい。周程張の話は孔子や孟子が書いた論語や孟子の道統伝授の心法を得て、道学の証文になっている。また、道理の極致が備わったところは、子思の中庸と同じであり、学問の功夫次第階級が揃って乱れないところは大学と同じである。そこで近思に目が付くと大学や中庸も活きて来る。近思に目が付かない人は、論語や孟子をいくら読んでも精彩がない。近思録を的々の宗旨として立てるのが吾が党の伝授である。
【語釈】
・四書…論語、孟子、大学、中庸。
・孔曽思孟…孔子、曾子、子思、孟子。
・周程張…周濂渓、程伊川、程明道、張横渠。
・周濂渓…周敦頤。北宋の儒者。宋学の大家の一。字は茂叔。濂渓先生と称。湖南道州の人。太極説を唱えて、宋学の宇宙論の確立に寄与した。著「太極図説」「通書」など。1017~1073
・程伊川…程頤。北宋の大儒。字は正叔。諡は正公。顥の弟。伊川先生と称。河南洛陽の人。謹厳徳行、周敦頤に学び性理の学を大成。理気の説を提唱。哲宗の時、崇政殿説書となったが、蘇軾門流との争いから涪州に流された。著「易伝」「伊川文集」「経説」など。1033~1107
・程明道…程顥。北宋の大儒。字は伯淳。明道先生と称。河南洛陽の人。周敦頤に学び、宇宙の本体を乾元の気とし、理を基礎とする道徳説を主唱。弟の頤と共に二程子と称。著「定性書」。1032~1085
・張横渠…張載。北宋の儒者。字は子厚、横渠先生と称。関中横渠鎮の人。二程と交り深く、宋学創始の一。気一元論的な太虚の説を立て、天地の性・気質の性の説を創出。著「易説」「正蒙」「張子全書」。1020~1077

好看。宋の世の俗語なり。ああみるがよい、見てよいものじゃと云詞なり。これへ意をつけて云はば、ああ見て德なものじゃ、見て筭用のよいものじゃと云こと。調へ物で云はば、買て德なものじゃ。商人なれば賣れたものしゃと云やふなもの。皆これが好看と下からかへる意なり。柯先生の好く看よの点は、大切のものゆへよく見よと云含める意になる。贔屓目にもそうはよまれぬ。柯先生の朱子の語をとりて書て吾が文になりたから、どふなりとよまふこととも云はふが、無理に讀つけるは鳴く螢の筋になる。
【解説】
「晦庵朱先生曰、近思録好看」の説明。闇斎はこれを「好く看よ」と読んだが、そうではなく、「看るに好し」と読んで、「見てよいものだ」と解釈するのが正しいと黙斎は述べる。
【通釈】
「好看」。これは宋代の俗語である。ああ、看るのがよい、看てよいものだと言う意味の言葉である。これに意を付けて言うと、ああ見て徳なものだ、見て算用のよいものだということ。調べ物で言えば、買って徳なものだ、商人であれば、売れるものだという様なもの。これが、看るに好しと、下から反って読んだ時の意である。柯先生が付けた好く看よの点注は、大切なものだからよく見なさいと言い含める意味になるが、贔屓目にもその様に読むことはできない。柯先生は朱子の語を使って自分の文を作ったのだからどの様に読もうと自分の勝手だと言うだろうが、無理に読むのは鳴く蛍の筋で、道理に背くことになる。
【語釈】
・柯先生…山崎闇斎。江戸前期の儒学者。名は嘉。字は敬義。通称、嘉右衛門。別号、垂加。京都の人。初め僧となったが、谷時中に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達した。後に吉川惟足に神道を修め、垂加神道を興した。著「垂加文集」など。1618~1682

四子六經之階梯。何んでも蹈段でこへらるる。直方先生、石垣にも一寸した足かけあると屏も越さるると云れた。大中論孟を蹈段にして六經がすむ。六經は、詞は古くても四書ほどに学者の胸へじかと親切にはない。そんなら四書より六經はわるいかと云に、四書は孔曽思孟が六經を解いたじゃ。四書は孔曽思孟の詞で、あれに六經の道理は備りてをる。そこで六經のうまみは四書からなり。近思は宋の四先生の四書の道理を解いたの。そこて四書のうまみは近思録からなり。されば好看、見られたものじゃと云もこのこと。柯先生、此塩梅を喰ひ知て、信哉是言也とは出たもの。今の学者四書をすます、末書でなければ四書がすまぬ。それは文字せせりの学ゆへなり。柯先生のは覚ありて云こと。
【解説】
「四子六經之階梯。近思録四子之階梯。信哉是言也」の説明。四書とは、孔曾思孟が六経を紐解いたものだから、六経の階梯なのである。また、近思録は、周程張の四人が四書を紐解いたものだから、四書の階梯なのである。近思録を読むことによって四書に近付き、四書を読むことによって六経に近付くのである。そこで、闇斎は「近思録好看」、「信哉是言也」と言った。今の学者はこれに気付かず、文字を弄んでいるだけである。
【通釈】
「四子は六経の階梯」。踏み段があれば、何でも越えることができる。直方先生が、石垣にも一寸した足掛けがあれば、塀も越えることができると言われた。四書を踏み段にして六経が理解できる。六経の言葉は古くからあったが、四書ほどには学者の胸へしっかりと親切に入ってこない。それなら四書より六経は悪いかと言うと、四書は孔曾思孟が六経を紐解いたものなのである。四書は孔曾思孟の詞で、それに六経の道理は備っている。そこで六経の妙味は四書によって理解される。近思録は宋の四先生が四書の道理を紐解いたものである。そこで四書の妙味は近思録によって理解される。そこで、近思録看るに好し、見てよいものだと言うのも、このことを指してのことなのである。柯先生はこの塩梅を喰い知っているので、「信哉是言也」と続けて出した。今の学者が四書を済ますに当たっては、最後にならなければ四書を済ますことができない。それは、彼らの学問が文字にばかり気を取られているからである。柯先生の言はよく分っていて言ったものなのである。
【語釈】
・四子…四書。大学・中庸・論語・孟子。
・直方先生…佐藤直方。江戸中期の儒学者。備後福山の人。京都で山崎闇斎に学び、朱子学に徹底、福山藩・厩橋藩・彦根藩などに出講。著に門人稲葉黙斎編「韞蔵録」がある。1650~1719
・せせり…さぐりもとめる。あさる。もてあそぶ。からかう。

孟子没云々。四子六經は始りが堯舜、うちとめが孟子。孟子没は紙鳶のきれたのぞ。孟子迠は道が身にありた。其後は四子六經は有てもうはの空のよみやふなり。孟子の様な階梯がないからなり。此階梯の此の字が孟子をさす。階梯は、たとへは初学の字書で文字を引き、文義を尋る様なことで有そうなものじゃに、孟子の身じゃとはどふなれば、階梯は道理を見る眼の処、指南の所を云。孟子の没後、書經も詩經も易もあれとも、孟子のやうな階梯がなさにむまい処まですますことがならぬ。そこで孟子と云御方にきくと、はや六經がすむ。そこを階梯と云なり。
【解説】
「孟子沒而聖學不傳者、其無此階梯也」の説明。孟子没後、四書六経はあっても学問を身に付ける者がいない。それは階梯がいないからである。階梯とは字義を調べる様なことと思われがちであるが、それは道理を見る眼のある処、指南の所を言うのであって、直に孟子を指すのである。
【通釈】
「孟子没云々」。四子六経は、始まりが堯舜で、終わりは孟子である。孟子の没後は、凧の糸が切れたのと同じで引き受け手がいない。孟子までは道が人の身の上にあった。その後は、四書六経はあっても、学者の方では上の空の読み様である。それは孟子の様な階梯がいないからである。「此階梯」の「此」の字が孟子を指す。階梯とは、たとえば学問を始めたばかりの者が字書で文字を引き、文義を尋ねる様なことだろうと思えるが、孟子の身が階梯だと言う理由は、階梯とは道理を見る眼のある処、指南の所を言うからである。孟子の没後は、書経も詩経も易もあるが、孟子の様な階梯がいないから、妙のある所まで済ますことができない。そこで孟子という御方に聞くと、直ぐに六経を理解することができる。それで孟子を階梯と言ったのである。
【語釈】
・堯…中国古伝説上の聖王。陶唐氏。名は放勲。帝嚳の子。舜と並んで中国の理想的帝王とされる。唐尭。帝尭。
・舜…中国の古代説話に見える五帝の一。顓頊の六世の孫。虞の人で、有虞氏という。父は舜の異母弟の象を愛し、常に舜を殺そうと計ったが、舜はよく両親に孝を尽した。尭の知遇を得て摂政となり、その二女娥皇と女英を妃とした。尭の没後、帝位につき、天下は大いに治まった。即位後18年、南へ視察し、蒼梧の野に崩。大舜。虞舜。
・紙鳶…形が烏賊に似るからの名。凧。いかのぼり。

其の事を一つ出して云はふならば、堯舜之道孝悌而已とある。堯舜をかふは合点せられぬ。はて、あれほどのことが孝悌のみかと合点がゆく。ここを孟子の階梯で堯舜の親切みゆる。知我者其唯春秋乎罪我者其唯春秋乎春秋天子之事なり、と。これで、はや春秋のらちはあいた。自餘の人の文句を云ふとちこふ。そこが六經をすます階梯なり。孟子には堯舜孔子の道が身にある。そこで禅受放伐から王伯の弁迠、雲霧はらってすむ。孟子の死後は儒者か取り付け引付けの文句せせり、六經の道理うかがはれぬ。そこを其無此階梯と云なり。
【解説】
孟子によって堯舜の心がわかり、また、孔子の心もわかる。それで孟子を階梯と言う。孟子の死後、儒者は字句を弄ぶのみだから、「其無此階梯」と言うのである。
【通釈】
孟子が階梯である例を一つ出して言えば、孟子が「堯舜之道孝悌而已」と言った。堯舜をこの様に合点することは中々できないが、孟子によって、あれほどのことが孝悌而已なのかと合点することができる。この孟子の階梯で、堯舜の親切が見える。「知我者其唯春秋乎罪我者其唯春秋乎春秋天子之事也」と孟子が言うので、即、春秋を理解することができる。それ以外の人が言うのとは違う。これが六経を済ます階梯である。孟子には堯舜孔子の道が身に宿っている。そこで禅受放伐から王伯の弁まで、雲霧を掃って済む。孟子の死後は、儒者が文章や字句を取っ付け引っ付け弄んでいるので、六経の道理を窺うことはできない。そこを「其無此階梯」と言うのである。
【語釈】
・堯舜之道孝悌而已…孟子告子章句下2。「堯舜之道、孝弟而已矣」。
・知我者其唯春秋乎罪我者其唯春秋乎…孟子滕文公章句下9。「知我者其惟春秋乎。罪我者其惟春秋乎」。
・春秋天子之事なり…孟子滕文公章句下9。「春秋、天子之事也」。
・春秋…五経の一。孔子が魯国の記録を筆削したという史書。前480年頃成立。左氏・穀梁・公羊の三伝があり、左氏伝が最も有名。
・自餘…このほか。そのほか。それ以外。
・禅受放伐…禅受は、堯が舜に、舜が禹に帝位を譲ったこと。放伐は、湯武の放伐を指す。湯王が桀王を、武王が紂王を討った。禅受放伐は孟子万章章句上に詳しくある。
・王伯の弁…孟子尽心章句上13に、「孟子曰、覇者之民、驩虞如也。王者之民、皥皥如也」とあり、以下にその違いが述べられている。王覇の弁。

夫学之道云々。学問が知行の二つじゃと云ことが由て来ることの久しいこと。先つ書の惟精惟一。精は致知、一は力行。夫から朱子小学の立教の小序に、俾為師者知所以教云々は知。その次の明倫所以明人倫也は知なり。敬身稽古は行、嘉言は知、善行は行、大学では固り挌致は知、誠意は行、皆此の二つに皈着する。漢唐の者も学問は知行とは知たれとも、存養と云ことのあるを知らぬ。近思の近思たるを語るには、存養と云ここの処を云子ばならぬ。周程張の道統を得られたと云もこの存養からなり。存養は心へもってきてこやしをすること。これがなくては学んだことがほっこりと胸へをちぬ。俗学と云ものは博識でも篤實ても存養なさにけばけばしい、よそよそしい。
【解説】
「夫學之道在致知力行之二而存養」の説明。前段は、知行が学問に必要なこと、更に知行の例を、書経、小学、大学を引用して述べる。後段では、学問には知行以外に存養が必要であるとし、漢唐の学者が、知行はありながら学問は成就しなかったのは、存養がなかったからであり、周程張が道統を得ることが出来たのは存養があったからだと述べる。
【通釈】
「夫学之道云々」。学問が知行の二つであるということは、かなり昔からのこと。先ず書経の「惟精惟一」である。精は致知、一は力行。それから、朱子が書いた小学立教の小序にある「俾為師者知所以教云々」は知で、その次にある明倫の「所以明人倫也」は知。敬身と稽古は行、嘉言は知、善行は行。大学では固より格致は知、誠意は行であって、皆この知行の二つに帰着する。漢唐の者も、学問は知行と知ってはいたものの、存養があることを知らなかった。近思の近思たる所を語るには、存養を語らなければならない。周程張が道統を得られたというのも、この存養があったからである。存養は心へ持って来て肥やしをすること。これがなくては学んだことがほっこりと胸に落ちない。俗学は、博識であったとしても篤実であったとしても、存養がないからけばけばしくてよそよそしい。
【語釈】
・惟精惟一…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
・致知力行…致知とは後天的知を拡充すること。力行とは致知を実践すること。
・俾為師者知所以教云々…小学内篇立教。「子思子曰、天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎。則天明遵聖法述此篇、俾爲師者知所以敎而弟子知所以學」。
・所以明人倫也…小学内篇明倫。「孟子曰、設爲庠序學校以敎之皆所以明人倫也」。
・挌致…大学章句1。「古之欲明明德於天下者先治其國。欲治其國者先齊其家。欲齊其家者先脩其身。欲脩其身者先正其心。欲正其心者先誠其意。欲誠其意者先致其知。致知在格物。物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身脩。身脩而后家齊。家齊而后國治。國治而后天下平。格物致知」。
・存養…孟子尽心章句上1。「孟子曰、盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也。殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」。

貫其二者。知行は看板に押出したもの。存養は看板にかけられぬものなれとも、知にも行ひにも存養が入る。知行は丁と修羅むきの、かつらむきのと云様にわかったものなり。存養はなにと云ことはなく、ただ存養なければよそよそしい。学にむまみがない。学問にむまみあんばいのないと云咄になりて来たからは、漢唐之間と出さ子ばならぬ勢になりて来た。漢唐はにぎ々々しいことで学者が多ひ。經理を説たにあれほどにぎ々々しいはないが、にぎやかなればにぎやかほど学は絶てをる。学問と云は一粒えりにすることと合点するがよい。まつ孔門の弟子三千と云。さて々々をびたたしひこと。されとも其をびたたしいが孔子の孔子たる処と云ことではない。それを一とふるいふるったれば七十二人なり。学者もつきべりの立もの。夫から又、絹ぬ篩へかけたればたった二人。顔子、曽子。これで合点するがよい。にぎやかを盛なと云は俗人の見なり。漢唐夢を説くと云たが程朱の大口ではない。学者仲ヶ間へ入れてやりたいがどふして見ても入れられぬと云は、書物藝で心身へこぬからなり。不断湯を沸し、道具を並べをいても、どうも利休が茶人の仲ヶ間へ入れぬと云ふには、せふこともない処があると心得べし。
【解説】
「則貫其二者也。漢唐之間」の説明。知行は目に見えてわかり易いが、存養はわかり難いものである。しかし、存養がなければ学問に妙味が出ない。漢唐は学者が多くて最も賑やかな時代だったが、存養がなかったから、賑やかな分だけ学は絶えていた。一方、孔子の門人三千人の中で真の学者は顔子と曾子だけであり、真の学問は中々成らない。学問は芸では駄目で、身に取り込むことが必要である。
【通釈】
「貫其二者」。知行は看板にして出す様なもの。存養は看板にして掛けられない様なものだが、知にも行にも存養が必要である。知行は丁度修羅剥きとか、桂剥きと言う様に見てわかるもの。存養は何と言い得ることではなく、見ようとしても見えないものだが、存養がなければよそよそしく、学に甘味がない。学問に甘味や塩梅がないという話になって来たので、ここで「漢唐之間」の句を出さなければならない勢いになって来た。漢唐は学者が多くて大層賑やかである。経理を説くのにあれほど賑やかなことはなかったが、賑やかであればあるほど、漢唐の学は絶えている。学問というものは一粒選りにすることだと理解しなさい。先ず、孔子の門下は弟子三千人と言われ、実に夥しい。しかし、弟子の夥しい数が孔子の孔子たる所と言うことではない。それを一回篩に掛けて選別すると、七十二人となる。学者も搗き減りするものである。それから更に絹篩に掛けると、顔子と曾子のたった二人しか残らない。これで合点しなさい。賑やかなことを盛んであると言うのは俗人の見方である。漢唐の学者は夢を説いていると程朱が言ったが、それは大口ではない。彼等を学者仲間の中へ入れてやりたいが、どう見ても入れられないと言うのは、書物を読むのが芸ごとで身に入らないからである。いつも湯を沸かし、道具を並べて置いても、どうも利休が、茶人の仲間へは入れないと言うのであれば、そこにどうしようもないことがあるのだと心得なさい。
【語釈】
・漢唐夢を説く…朱子語類51。「漢唐諸人説義理、只與説夢相似、至程先生兄弟方始説得分明。唐人只有退之説得近旁、然也只似説夢」。同93。「今看來漢唐以下諸儒説道理見在史策者、便直是説夢」。

非無知者行者。これが面白ことで、漢唐は固り歴々の儒者四子六經の傳註があるが、程朱もそれをとられたこと多し。知らぬてはない。又、小学でも通鑑にも篤行君子垩賢の道に叶ふた人物あれば、行はぬではない。ただ残念なことには存養がない。存養なしの学問はしのぎ細工になる。孔子がどふでの、孟子がどふじゃのと云は、只うわさなり。知りは知ても存羪なく、行ふても存養なさにあんばいがわるい。知に分域と出し、行に氣象と出した。さすがは柯先生の筆なり。存養に入た人でなくては知れぬこと。分域にはたっふりとあるとないがある。同し一万石でも二万石に向ふもある。俗に云ふ大和知行ぞ。田舎間、京間と云がある。同じ八畳鋪でも京間へ田舎間のたたみを入るると、すみの処へは松板一まい入るほどならいが出来る。其のらいあるが存養からなり。そこを分域ちこうと云。氣象と云は、たとへはきらし手としわいやふなもの。吝いものが義理につめられて合力する様なもの。同じ金でも出したり引こませたり、氣象がかじける。きらしてはずっとやる。そこは氣象なり。金の員数のことではない。人に一杯酒を振舞ふにも、ひびくれぬと云がいかいちがい。これ、帳面の外なことがある。つよい人と臆病者が連立て夜道するやふなもの。同じやふにあるけとも、氣象が違ふ。臆病ものは、あの笹のやふなものはなんじゃと云、榎木を見てもこはがる。つよいものはのしつり々々々々とゆく。氣象と云ものがちごう。どこへ出しても一疋じゃと云れても、存養なければ躰がわるい。
【解説】
「非無知者也。非無行者也。但未曽聞存養之道、則其所知之分域、所行之氣象」の説明。漢唐を始め、歴代の学者の中に知行を理解した者はいた。しかし、存養がないから、彼らの話はうわさ話と同じである。また、知行と言っても、人それぞれに、知には分域の大小があり、行には気象の違いがある。その差は存養によってできるのである。
【通釈】
「非無知者行者」。これが面白いことで、漢唐は固より歴代の儒者に四子六経の伝註があり、程朱もそれをよく採用した。よって、歴代の儒者も学問を知らないのではない。また、小学にも通鑑にも篤行で君子や聖賢の道に叶った人物が記載されていることから、歴代の者も学問を行わなかったのではない。ただ残念なことに、彼等には存養がない。存養がない学問はその場しのぎの小手先のものになる。孔子がどうだの、孟子がどうだのと言うのは、ただのうわさ話である。知ってはいるが存養がなく、存養がないから行っても学問の塩梅が悪い。知に対しては「分域」、行に対しては「気象」と出した。さすがは闇斎先生の筆である。存養に入った人でなくては知ることのできないこと。分域にはたっぷりとしたものと、そうでないものとがある。同じ一万石でも二万石に近いものもある。俗に言う、大和知行である。また、部屋には田舎間と京間とがある。同じ八畳敷でも京間へ田舎間の畳を入れると、隅の方へ松板が一枚入るほどの隙間ができる。その隙間の差が、存養によってできるのである。そこを、分域が違うと言う。気象とは、たとえば金に執着しない者とけちな者の違いでわかる。けちな者が義理で止むを得なく金を人に援助する段になると、その金を出したり引っ込ませたりして、気象が衰える。金に執着しない者は金をすっと相手に遣る。そこが気象の違いである。金の多寡のことてはない。人に一杯酒を振舞うにも、躊躇しないというのが大きな違いである。これは金銭以外のことにもある。強い人と臆病者が連立って夜道を行く様なもの。同じく歩いている様だが気象が違う。臆病者は、あの笹の様なものは何だと言い、榎木を見ても怖がる。強い者はのっしりと行く。気象というものが違う。どこへ出しても一人前だと言われても、存養がなければ体が悪い。
【語釈】
・通鑑…資治通鑑。治世に利益があって歴代為政者の鑑とするに足る意。周の威烈王の23年(紀元前403年)から五代の終り(959年)まで1362年間の史実を編年体に編纂した書。本文294巻。北宋の司馬光が、1065年英宗の詔を奉じ、84年神宗の治世に完成。略称、通鑑。
・大和知行…「知行」は家臣に恩給された領地。
・きらし手…切らす(蓄えをなくす)人。金に執着しない人。
・合力…力を添えて助けること。助勢。金品を施し与えること。また、その金品。
・かじける…やつれる。生気を失う。やせ衰える。手足がこごえて思うように動かなくなる。かじかむ。

垩人之徒。あたまから本因坊の弟子は碁にはまけても体がちごふ。観世が弟子の謡は蹴出しがちごふ。董子の云ふ、孔門五尺之童も五覇を云ことを耻つ。養ひこみがちごふ。学者も存養と云仕込なくては体がわるい。大名の服を着て大小から印籠巾着まで大名でも、根が下品なれば借り着と知るる。知は孔子の様で、雄弁が孟子ほどでも存養のないは假り物ゆへ体がわるい。物を沢山喰ふても入れ歯はうまみがない。これで孟子没而垩学不傳が知れた。又、下の至于宋と云字で学文の書物藝でないと云が知れて来た。漢唐にあれほどあるのに至于宋となり。周子が論孟の註をしたではないが、始て学問と云が玉しいへ切り付ることとした処が継往垩而開来学。これで道統ぞ。
【解説】
「終非聖人之徒矣。至于宋濂渓周子繼往聖而開來學」の説明。優れた人物は養い込みが違う。学者も存養を仕込まなければならない。漢唐の学者には存養がなかったから「至于宋」という句となった。初めて学問が魂へ切りつけることだと考えた周子は道統の学者である。
【通釈】
「聖人之徒」。本因坊の弟子は、碁には負けても最初から体がよい。観世の弟子の謡は蹴り出しが違う。董仲舒が、「仲尼之門、五尺童子羞稱五霸」と言った。養い込みが違うのである。学者も存養という仕込みがなくては体が悪い。大名の服を着て、刀から印籠巾着まで大名の身なりをしていても、根が下品だと、それは借り着だと知れる。知は孔子の様で、雄弁さは孟子ほどでも、存養がないのは本物でないから体が悪い。物を沢山喰っても、入れ歯では甘味がない。これで「孟子没而聖学不傳」が理解できた。また、下の句の「至于宋」という字で、学問が書物芸ではないことがわかってきた。漢唐にあれほど学者がいたのに、至于宋と言う。周子は論孟の註をしたわけではなかったが、初めて学問というものが魂へ切りつけることであると考えた処が、「継往聖而開来学」であって、それで道統の者なのである。
【語釈】
・董子…董仲舒。
・孔門五尺之童も五覇を云ことを耻つ…孟子梁惠王章句上7集註。「董子曰、仲尼之門、五尺童子羞稱五霸」。

無極而太極。これが周子のかぶ。道体の淵源をひきぬいて見せたこと。此文義は道体で御目にかかれなり。爰は封のままでおくぞ。いや翌日は知れぬ。どふそ今日と云はふが、御茶壺の来ぬ内は夏切は出されぬなり。孔子が易有太極有りと云たを、周子が無極じゃ、ないものじゃと云たが啓きなり。太極どのに御目に掛りたいと云を周子が吹き消して、いやなんにもないものじゃと啓た。中庸無声無臭とわけのついたものを、而太極と、きっとあると云。是れが妙を発しなり。さて々々妙語ぞ。周子は皆この無極而太極の五文字へ万の道理をたたみこんた。有太極と易にあるを無極と云て、秘を啓くなり。無声無臭とあるのに而太極と妙を発した。最ふこれ、近思は四子の階梯も知れた。誠能有得於斯。爰が柯先生の甚合点されたこと。程子の六經不治而可明を履んで書たこと。太極さへ明なれは、何でもすまぬことはない。爰がすめば破竹流水迎刄而解。
【解説】
「其所謂無極而太極、則啓大易之秘而發中庸之妙也。誠能有得於斯則四子六經可不治而明矣」の説明。無極而太極が周子独自の発想である。「易有太極」に対して周子は「無極」だと言った。これが「啓」である。また逆に、中庸で無声無臭と言っているのに対して、周子は「而太極」と、有るものだと言った。これが「発妙」である。無極として捉えれば、それは存在しないことになる。しかし、存在しない無極を太極として捉えると、それは存在するのである。周子はこの無極而太極の五文字に万の道理を畳み込んだ。そこで、ここを理解することができれば何もかも済む。
【通釈】
「無極而太極」。これが周子のお株である。道体の淵源を引き抜いて見せたこと。この文義は道体の篇で御目に掛かりなさい。ここでは封をしたままにして置く。いや、翌日のことはわからないからどうぞ今日見せてくれと言われても、御茶壺の来ない内に新茶を出すことはできない。孔子が「易有太極」と言われたのに対して、周子が、無極だ、無いものだと言ったのが「啓く」である。太極殿に御目に掛かりたいと言うのを周子が吹き消して、いや、太極とは何もないものだと啓いた。「発中庸之妙」。中庸で無声無臭と意味付けされたものを「而太極」と、きっとあると言う。これが妙を発するということ。さてさて妙語である。周子は、無極而太極の五文字へ万の道理を畳み込んだ。有太極と易にあるのを無極と言って、その神秘を啓いた。無声無臭とあるのに而太極と、妙を発した。もうこれで近思は四子の階梯であることも知ることができた。「誠能有得於斯」。ここが、闇斎先生が甚だ合点されたことで、程子の「六経可不治而明矣」を踏まえて書いたこと。太極さえ明らかであれば、何でも済まないことはない。ここが理解できれば破竹流水迎刃而解である。
【語釈】
・易有太極…易経繋辞伝上11。「易有太極。是生兩儀。兩儀生四象、四象生八卦。八卦定吉凶、吉凶生大業」。
・無声無臭…中庸章句33。「詩云、予懷明德、不大聲以色。子曰、聲色之於以化民、末也。詩云、德輶如毛。毛猶有倫。上天之載、無聲無臭。至矣」。詩は、詩経大雅文王。
・六經不治而可明…読論語孟子法。「程子曰、學者當以論語孟子爲本。論語孟子既治、則六經可不治而明矣」。
・迎刄而解…晋書杜預伝。竹を割る時に、初めの数節を切り割れば、後は刃を迎えるようにたやすく割れることから、勢いに乗じ、力を労しないで敵を破ることのたとえ。破竹の勢いである。

異端頓悟云々。爰が柯先生の用心なり。天水桶に水がなくては何時出火ありてこまろふも知れぬ。そこが然るになり。いつても用心ははなされぬ。佛では達磨や惠能を始め、どれでもはっと云て汗をかいて悟ると云。こちはそんなことはない。つかまへ処がつかまへて、じっかり々々々々ゆく。異端頓悟は空を飛んで一日に京へ着ふと云様なもの。こちは路銀でじか々々ゆく。朱子の伯恭へ後序に丁寧を云はせたは空を飛ばせぬ用心なり。高いこと云内に足元のぬけるは飛脚が八つ橋の杜若や冨士を見て状箱を忘れたのぞ。詠める処は業平西行の様なれとも、夫れはうわのそらなり。陸象山からして、とかく吾黨には高ぞれの實なしがある。皆この筋ぞ。そこで今の学者も為此々々を一度々々に大切に見ようことそ。今の学者は縁端の鳥の羽そ。根がないからどこへ飛ふも知れぬ。文鎭ををけ。用心せよ。
【解説】
「然此豈若異端頓悟之所得哉。先生敎伯恭做數語載於後正爲此也」の説明。異端頓悟は高逸れて実がない。一歩一歩地道に進むのが我が党の学だが、その中にも陸象山の様に、高逸れて実無しの者がいる。
【通釈】
「異端頓悟云々」。ここが闇斎先生の用心である。天水桶に水がなくては、何時出火があって困るかも知れない。そこが「然」ということであって、いつも用心をして置かなければならない。仏では達磨や慧能を始めとして、誰でもはっとして、汗をかいて悟ると言う。こちらには、そんなことはない。捉まえ処を捉まえてじっくりと行く。異端頓悟は空を飛んで一日で京へ着こうという様なもの。こちらは路銀を使いながらじっくりと行く。朱子が伯恭に後序を丁寧に作らせたのは、空を飛ばせないための用心である。高いことを言っている内に足元が抜けてしまうのは、飛脚が八橋の杜若や富士山を観ていて状箱を忘れるのと同じである。歌を詠むのは業平や西行の様だが、上の空だから足元が抜けている。陸象山にしても同じで、とかく我が党には高逸れて実のない者がいる。それ等は皆この筋である。そこで今の学者も「為此」ということを、その都度に大切に見なければならない。今の学者は縁端の鳥の羽である。根がないから何処へ飛んで行くかも知れない。文鎮を置け。用心しなさい。
【語釈】
・頓悟…修行の段階を経ずに、一挙に悟りを開くこと。禅では南宗のいうところ。
・天水桶…防火用として雨水をためておく桶。昔は屋根の上や軒先・町角などに置いた。
・達磨…禅宗の始祖。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝の尊崇を受け、嵩山の少林寺で九年間面壁坐禅、左臂を切って誠を示した慧可に禅の奥義を授けたと伝える。その伝には伝説的要素が多い。諡号は円覚大師。達磨大師。生没年未詳。達摩。
・惠能…慧能。唐代の僧。中国禅宗の第六祖。広東新興の人。五祖弘忍の付法を受け、六祖大師、曹渓大師などと称せられ、禅宗の大成者。門人きわめて多く、以後主流は南地に隆盛したので、その法系を南宗禅という。語録に「六祖壇経」がある。638~713
・伯恭…呂祖謙。南宋の儒者。字は伯恭。号は東莱。浙江金華の人。呂本中に対して小東莱と称。程朱の学に通じ、朱熹と並称。著「呂氏家塾読詩記」「左氏博議(東莱博議)」「大事記」など。1137~1181。
・八つ橋…愛知県知立市の東部、逢妻川の南の地名。伊勢物語の東下りに杜若の名所として詠まれたところ。丘に業平塚がある。
・業平…在原業平。平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第五子。世に在五中将、在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃にも取材された。825~880
・西行…平安末・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清。法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の武士。二三歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には九四首の最多歌数採録。家集「山家集」。1118~1190
・陸象山…南宋の大儒。名は九淵。字は子静。象山。存斎と号。江西金渓の人。程顥の哲学を発展、理気一元説を唱え、心即理と断じ、朱熹の主知的哲学に対抗。文安と諡す。1139~1192
・縁端…縁側のはし。

合高卑一遠近。これからは呼吸をそろへてしっとり々々々々と讀ふことぞ。太極隂陽の道理から夫婦袵席の上まで一つなことなり。高卑。かこかきも大名もなり。遠近。天下国家の政から茶の給仕するまでのこと。直方の草履取りの草履を落したも、宰相の政をしそこのふたも同じあや。升高は、階子から。長﨑へゆくは日本橋の一足から。上にある垩人之道也は中庸のはば、下にある垩人之教也は大学のがかい。高卑遠近を兼た中庸、次第階級を備へた大学。或馳高遠。虚無寂滅之教其高過大学而無實。卑近はやはりその下にある記誦詞章之習其功倍於小学而無用なり。異端高けれとも、道に穴があく。穴があけば非道。俗学ほ子はをりても役にたたぬ。役に立子ば非教。
【解説】
「竊謂一高卑合遠近者聖人之道也。升高自卑行遠自近者聖人之敎也。或馳於高遠或滯於卑近則皆非道非敎也」の説明。高卑は人物の貴賎、遠近は人の行いの大小を指す。高卑も遠近も学問には関係ない。高遠に偏るのが異端であって、道に穴が開くから非道である。また、卑近に偏るのは俗学であって、役に立たないから非教である。「聖人之道也」は中庸の幅の広さを指し、「聖人之教也」は大学の規模の大きさを指す。高卑遠近を兼ねたのが中庸で、次第階級を備えたのが大学である。
【通釈】
「一高卑合遠近」。これからは、呼吸を整えてじっくりと読まなければならない。太極陰陽の道理から夫婦袵席のことまでが皆同じである。「高卑」。駕籠舁きも大名も。「遠近」、天下国家の政から茶の給仕をすることまでのこと。直方が、草履取りが草履を落としたのも、宰相が政をし損なったのも同じことだと言った。「升高自卑」は階子からということ。長崎へ行くには日本橋の一歩から始まる。上にある「聖人之道也」は中庸の幅の広さを指し、下にある「聖人之教也」は大学の規模の大きさを指す。高卑遠近を兼ねた中庸、次第階級を備えた大学である。「或馳於高遠」。これは大学章句序にある「虚無寂滅之教其高過大学而無實」のこと。「或滞於卑近」。これもやはりその前にある「記誦詞章之習其功倍於小学而無用」のこと。異端は高いが、道に穴が開く。穴が開けば「非道」である。俗学は、骨は折っても役に立たない。役に立なければ「非教」である。
【語釈】
・袵席…しとね。ねござ。しきもの。寝間。寝所。
・がかい…建造物などの外見の大きさ。かさ。図体。
・虚無寂滅之教其高過大学而無實…大学章句序。「異端虚無寂滅之教、其高過於大学而無實」。
・記誦詞章之習其功倍於小学而無用…大学章句序。「俗儒記誦詞章之習、其功倍於小学而無用」。
・記誦…いたずらに多くの文章を記憶し暗誦すること。
・詞章…苦労して修辞の巧みな詩文を作ること。唐以後、官吏の採用試験には、詩文が課題になっていた。

此編云々。近思と云からかるいことかと云に、一牧あけて見ると無極而太極。これはと肝をけすやふなれとも、道体と云を合点する、じきに為学になる。なぜなれば、天地の間は皆物なり。物にははづがある。有物有則なり。なんても其筈にあはせるは為学なり。實をつかまへたことなり。大学の工夫の近思に備りたは篇目で見てもきこへたか、小学の工夫と云がどこを指すかと思ふ。これをわるく取ると、家道には孝悌のことから子弟の職分有家人倫のことあり、又、教学には教のことあれば、この二篇が小学とあてると取る。それはわるい。爰て小学と云はやっはり存養の篇と合点すべし。後世、小学校の教がないから存養でうめる。そのあやを云たなり。家道教学の二篇なと、小学とはあやのちかふたことなり。
【解説】
「先生此編以近思之名而極高妙之言。小學大學工夫悉備焉。實學者入道之階梯」の説明。近思録は近思という名が付いているものの、高妙の言を極めている。無極而太極は道体の最初で内容も難しいが、道体を理解すれば、直ぐに為学になる。天地の間の法則に合致するのが為学であり、為学によって実理を捉まえることができる。「小学大学工夫悉備焉」における小学の工夫とは存養のことであり、近思録にある家道と教学は、小学の工夫とは異なるものである。
【通釈】
「此編云々」。近思と言うので簡単なことかと思えば、一枚開けてみると無極而太極がある。これは大変だと肝を潰す様だが、道体を合点すれば直ぐに為学となる。それは何故かと言うと、天地の間にあるのは全て物で、物には法則がある。つまり、「有物有則」である。何でもその法則に合わせるのが為学であって、これによって実理を捉まえるからである。大学の工夫が近思に備わっていることは篇目で見てもわかるが、小学の工夫は何処を指すのかと思う。これを悪く考えると、家道には孝悌のことから子弟の職分有家人倫のことがあり、また、教学には教えのことがあるので、そこで家道と教学の二篇が小学に当たると思う。しかし、それは悪い。ここで小学の工夫というのは、やはり存養の篇のことだと合点しなさい。後世、小学校の教えがないから存養でそれを埋める。この綾を言ったのである。家道と教学の二篇などは、小学とは綾の異なるものなのである。
【語釈】
・有物有則…詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則」。
・後世、小学校の教がない…大学章句序。「人生八歳、則自王公以下、至於庶人之子弟、皆入小學、而敎之以灑掃・應對・進退之節・禮樂・射御・書數之文…及周之衰、賢聖之君不作、學校之政不脩」。

不可不好看。直方先生の毎々、此序合点せぬと云れた。いかさま爰でいよ々々好看の字が落着ぬ。みよからずんはあるべからずではすまぬ。そこで、よくみよとつけられた。これでつかへるが知れた。どふても柯先生のしそこないなり。好看の字、本意でないではあれとも、爰も不可不好看とよめは通じもするとはどうなれば、最初の好看の字へかへす文法ゆへ、近思録好看[好く看よ]とは、げに尤なことしゃ。かふしたあやなれば好看ぞ。好看に相違はないと云意なり。
【解説】
「不可不好看也」の説明。不可不好看について、看好からずんばある可からずと訓点をすると、ここの文意が通じず、闇斎先生が文法上のし損ないをしたと述べる。直方先生もこの文章は文法上、満足できないものだとした。
【通釈】
「不可不好看」。直方先生が毎回、この序は合点が行かないと言われた。いかにもここでいよいよ好看の字が落着かない。看好からずんばある可からずでは上手く行かない。そこで、好く看よと読みを付けられた。これで読みが支えることがわかる。どう考えても闇斎先生のし損ないである。好看の字を、本意ではないが、不可不好看[看るに好からずんばある可からず]と読めば通じはすると言うのは何故かと言うと、最初の好看の字へ反す文法であって、近思録好看とは本当に尤なことだからである。こうした綾であれば好看でもよい。好看に相違はないという意となる。

當時鄧絅云々。偖、是れからはざっとよむぞ。大む子後篇や末書をしかりたこと。某が若い時に、この序のをもい道理を云たにここからが並はぬ、とど文會にでもあげてすみそふなことと云た。行藏が、成程我等も兼てそう思たと云た。それを唐彦明の聞て、いや々々是れから先きが結句入用なことと云た。これが近思に序を書たと云でなく、葉解の註をぬいて白文にしたが主じゃからは、このことを段々挙る筈。朱子後色々な編者註者皆やくにたたぬと知らせることなり。さて、近思録序とせずに刻近思録序と有べき筈と云た。迂斎もこれがよい説じゃと云れた。
【解説】
「當時鄧絅問之略而不切」の説明。ここからは、朱子の没後、近思録に係る集解や衍註ができたが、皆役に立たないものだということが書かれている。闇斎は近思録から葉解を省いた。黙斎は若い時、ここからはあまり重要ではないものだと思ったが、唐崎彦明は重要だと認識していた。
【通釈】
「當時鄧絅云々」。さて、これからはざっと読む。ここは概ね近思録に関する後篇や末書を指して叱ったこと。私が若い時に、この序は重い道理を言っているのに、ここからは内容が違う、つまりこれは文会にでも出して話せばよい様なことだと言った。すると行蔵が、なるほど私達も前からそう思っていたと言った。それを唐崎彦明が聞いて、いや、ここから先が寧ろ大切なことだと言った。闇斎の功は、近思の序を書いたことよりも、葉仲圭が書いた集解の註を抜いて本文だけにしたことの方が大きいから、このことを段々と挙げる筈である。ここは、朱子の後に出た色々な編者や註者が皆役に立ないことを知らせるものである。さて、近思録序とせずに刻近思録序とすべきであると私が言った。迂斎もそれがよい説だと言われた。
【語釈】
・文會…文学上の会合。文章などをつくり批評しあう会。
・行藏…村士玉水。江戸の人。名は宗章。別号は一斎。迂斎門下。門下に寛政三博士の一人である岡田寒泉がいる。享保14年(1729)~安永5年(1776)
・唐彦明…唐崎彦明。三宅尚斎門下。芸州竹原の人。黙斎の親友。彦明は伊勢長島藩主増山候に仕えたが、ある事件で禁固に処せられたとき、黙斎はその救援に献身したという。なお竹原は頼山陽の出たところでもある。~1758。
・結句…かえって。むしろ。いっそ。
・白文…本文だけで注釈を施さない漢文。句読・訓点を施さない漢文。
・迂斎…稲葉迂斎。黙斎の父。

隨答之。このこと文集五十八にあり。朱子もあいての問によりて答へたもの。相手がわるくてはうまみは出ぬ。山﨑先生の妾が、五郎左ェ門さま、重次郎さま、御まへなど講席へこざら子ば、先生もきげんがわるいと云た話し。只のものには切り付た咄は出ぬ。鄧絅や陳潜室は、某が近思の講釈ほどには云へまい。某には柯先生以来、先輩と云階梯がある。近思には六ヶ鋪字はないが、道学の趣を知ら子ば近思はかぢれぬ。六ヶ鋪字をけっこふに心得るは文選根性なり。何北山が発揮は日ころのことからみれば心元ない。微言未折となり。恐はと云字は、何北山が学問をぶんさんして云た字なり。集解がわるいとこそ云へ、近思に注をするほどの学文ゆへそう々々云そこないもなし。云そこないもたまさかのことなれとも、一躰が町料理なり。白人の小坐式をみて茶人が笑ふ。いらざる掛物をかけて氣の毒の筋あり。議論ばかりでなく、一躰がけたかくないからなり。汪器之が評判が尤もなり。云はぬ誠は云にまさる。大事のことは云ぬがよい。近思註のないでよい。
【解説】
「故先生且隨答之而已。後來陳潜室答人問之也、問者雜而不切其答亦非達者語也。雖何北山著發揮恐微言未析也。葉仲圭爲集解楊伯嵒爲衍註皆未能深有所發明。汪器之議之是也」の説明。「随答之而已」とは、相手次第で答え方が違うということ。学に志す者にしか、真剣な話はできない。自分は崎門の先輩という階梯があるから鄧絅や陳潜室よりも優れている。何北山は心許ないし、葉仲圭は町料理である。汪器之は近思録の註をしなかっただけよい。
【通釈】
「隨答之」。これは文集五十八にある。朱子も相手の質問に従って答える。相手が悪くては、妙味は出ない。山崎先生の妾が、五郎左衛門様や重次郎様が講席へ来られなければ、先生も機嫌が悪いと言ったという話があるが、普通の者には切迫した話はしない。鄧絅や陳潜室は、私ほどには近思録の講釈はできないだろう。私には闇斎先生以来、先輩という階梯がある。近思録には難しい字はないが、道学の趣きを知らなければ近思録に取り掛かることはできない。難しい字を結構なものと心得るのは文選根性である。何北山の発揮は、日頃のことから見れば心許ない。「微言未析」である。「恐」の字は、何北山の学問をぶんさんして言ったもの。集解が悪いとは言うものの、近思録に注をするほどの学問だから、そうそう言い損いもない。もしもあったとしても稀であるが、全体が町料理である。素人の御座敷を見て茶人が笑う。必要もない掛け物を掛け、気の毒な所がある。議論ばかりでなく、全体が気高くないからである。汪器之の評判が最もよい。言わない誠は言うに勝る。大事なことは言わない方がよい。汪器之は近思録の註をしないのがよい。
【語釈】
・山﨑先生の妾が…先達遺事。「闇斎先生性急。特罵門人遅鈍者。及直方安正輩来談玄理、始怡笑。其妾竊嘱直方曰、願君与浅見日接徳音。不然無奈主公鞅々不楽」
・五郎左ェ門…佐藤直方。
・重次郎…浅見絅斎。
・文選…中国の周から梁に至る千年間の文章・詩賦などを細目に分けて編纂した書。30巻、のち60巻。梁の昭明太子(蕭統)が、正統文学の秀れたものを集大成することを意図して、幕下の文人の協力のもとに編。後世、知識人の必読書とされ、わが国でも平安時代に盛行。
・白人…素人。

戴亨之云々。皆がちょこ々々々注をした。日本橋の本屋に、何に先生著す、近日飜刻と札を出す。うるさいことぞ。亞流也。葉解がわるい々々々と云てもあの外はなし。皆あれをま子たであろふ。亜流と云もいやと云へぬ。今日も朱子をそしるに、をれは徂徠でも仁斎でもないと云てそしる学者があるが、これも皆二家の亜流なりじゃ。
【解説】
「戴亨之補註柳貫之廣輯皆葉解之亞流也。周公恕亂成書爲分類、張元禎陳文燿雷同而補成之。共犯不韙之罪耳」の説明。註をするのは亜流の学である。そして、自分は徂徠や仁斎の流派ではない言って朱子を誹る者がいるが、彼等もまた、徂徠や仁斎の亜流である。
【通釈】
「戴亨之云々」。後世の学者達が、ちょこちょこと注をした。日本橋の本屋が、何々先生著す、近日翻刻、と札を出すが、それは煩いこと。亜流である。葉仲圭の集解が悪いと言うが、あれと違うものはない。皆がそれを真似たのだろう。亜流と言われても否定はできない。今日でも朱子を誹るのに、自分は徂徠でも仁斎でもないと言って誹る学者がいるが、これも皆二家の亜流なのである。
【語釈】
・飜刻…写本・刊本を底本として、木版または活版で刊行すること。
・徂徠…荻生徂徠。
・仁斎…伊藤仁斎。
・不韙…韙は是と同じ。正しくないこと。

劉子澄。小学の相手になりた人なり。朱門で一番の見識のない人なり。既に小学をあむときにも、あまりをまへは程子を主張さっしゃります、程子の詞があまり多くあみ入るるが、あれは外の書にもみへたこと、外のものを出すがよいと云たほどの不見識なり。周程張子の詞の近思じゃから、其弟子もとて程門の言をあつめて續録とした。よくない。
【解説】
「抑此編之後劉子澄取程門諸子之説編爲續録。先生以謂、諸子終不及程子。接續其意思不得矣」の説明。朱子に倣って劉子澄は程門諸子の説を集めて続録を編集したが、それは悪い。黙斎は、劉子澄を朱門で一番見識のない人物とみなしている。
【通釈】
「劉子澄」。小学を受け持った人だが、朱子の門弟中で一番見識のない人である。既に小学を編集する時にも、あまりに貴方は程子を主張し過ぎます。程子の言葉があまりに多く編み入れられていますが、それは外の書でも見ることができるのだから、程子以外の者を出した方がよいと朱子に言ったほどの不見識な人物である。周程張子の言葉を編集したのが近思録だから、劉子澄が、その弟子もと思って程門諸子の説を集めて続録を編集した。しかし、それはよくない。

蔡覚軒。朱子の書を近思の様にあみた。これはちと望ましきやふなれとも、朱子一生の發明の説にのらぬがある。そそうではない。手に入らぬからぞ。爰に一つ話あり。會津公が柯先生に逢れぬ前に、仁愛之有味智蔵之無迹と云ことを合点されたほどな人なり。そこで玉講の附録も出きた。夫に大方大事な朱語はのせてある。柯先生のなされたことなれば、ここに遺恨はない。其上啓發集などを添へて見れば、近思録の後篇はひっそと出来てある。又、これへ直方先生の鞭策排釈を入るると立派な近思の後篇なり。見処なけれは近思續録とか後録とか出さ子ば近思の後篇でないやふに心得る。名たてがましいことは入ぬ。俗儒の事業の学問なり。こんなことがやっはり篤実な律義な人にあるもの。そこが孔門の子夏も文字の名ある方から学問を事でして、心の方からてりこんでゆくことを知らずにわざてせふと思たもの。それゆへ、彼君子儒小人儒の御戒めもある。小成にやすんじては、道は得られぬ。されば近思をわざで心得ると塵なり。近思の後篇は心に得た人でなふては出来す。
【解説】
「其後蔡覚軒以先生之書編爲續録。採張氏呂氏之書爲之別録。嘉嘗閲之不満于心。聊試論之。夫先生經解之外説天人之道莫詳於元亨利貞太極之二説。然選乎太極説而遺元亨利貞説何耶。仁愛之有味智藏之無迹先生丁寧開示之。其全収仁説則愛之親切足以味之乎。其截取四性之論雖有冬藏之言而不聞其説之詳。則無迹之微意孰得而識之哉。玉山講義發揮四子旁通情也。此爲學者用力而講之。宜依先生編入好學論之例矣。敬斎箴是存養之要也。白鹿洞掲示則敎學之法而大學以來之規也。答呉晦叔知行書則大學之蘊而傳者之所未發也。皆不載之。其他可惜者猶多。今不盡論之也。別録之編不取南軒主一箴。不擧東莱大事記。其亦遺恨也」の説明。学問は心に得るものである。蔡覚軒は未熟だったから朱子に及ばない。しかし、会津公や闇斎、直方は学問を心に得ているので、近思録の続篇ともいうべき書を著している。その書名には続録とか後録とかという名前はないが、名前を気にする必要はない。
【通釈】
「蔡覚軒」。蔡覚軒は朱子の書を近思録と同様の仕方で編集した。これは少し望ましいことの様だが、朱子一生の発明の説に至らないところがある。それは蔡覚軒の粗相ではなく、彼にそれが手に入らないためである。ここに一つ話がある。会津公は闇斎先生に逢う前から「仁愛之有味智蔵之無迹」ということを合点されたほどの人だった。それで玉講の附録もできた。これに大事な朱子の語は大方載せてある。闇斎先生のなされたことだから、ここに遺恨はない。その上に啓発集などを添えて見れば、近思録の後篇はひっそりと存在していることがわかる。また、これに直方先生の鞭策録や排釈録を入れると立派な近思の後篇となる。見処がないと、近思続録や後録などと名付けなければ近思録の後篇でない様に考えるが、名前を気にする必要はない。それは俗儒がする業の学問である。その様なことがやはり篤実で律儀な人にある。孔門の子夏が文学に優れているから学問を業で行い、心の方から入ることを知らずにいたのもこのためである。それで、孔子の「君子儒小人儒」の戒めも出た。少しの成功に安んじては、道は得られない。そこで、近思録を業で理解しようとすれば塵となる。近思録の後篇は心に道を得た人でなければ作ることはできない。
【語釈】
・會津公…保科正之。江戸前期の大名。会津の藩祖。徳川秀忠の庶子。保科氏の養子。会津23万石に封ぜられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を保護。儒学を好み山崎闇斎を聘し、また吉川惟足の神道説を学び、その伝授を得た。諡号は土津霊神。1611~1672
・玉講の附録…玉山講義附録。3巻。保科正之が山崎闇斎に命じて編集したもの。寛政5五年9月に成る。玉山講義は朱子が65歳の時、玉山にて講義したもので、凡そ三千字の文章。
・啓發集…
・鞭策…講学鞭策録。佐藤直方著。
・排釈…排釈録。佐藤直方著。

周程張子は朱子ほどなものでなくては知られぬ。垩人よく垩人を知る。籠舁に歴々の上の咄を云へと云てもならぬ。註解之眼。今の学者は眼がない。淳凞は宋の高宗の年号。吾朝何帝何年にあたると註をするそ。眼とは云れぬ。周程張は眼がある。その眼から云た詞が近思になりたなれば、眼のある人でなくては注解はならぬ。誰にか望んやなり。見処へついたことはわざではゆかぬ。利休の花活や茶杓は、見た処は只竹の筒、竹のへらなれとも、高金になる。夫を真似て、形を見て指物屋や大工がすれば利休より細工がよくても一錢にもならぬ。今度又近思の續篇が出来たと云は新板ものの筋なり。この書などは俗の水ばなれせぬ中は心にのらぬこと。山﨑先生などの目からは、俗儒のすることは兒劇のやふに思はるるなり。
【解説】
「蓋有周程張子而微先生則此書之編不可成矣。先生以後更無先生則註解之眼續編之手果望於誰哉」の説明。眼のある者でなければ註解をしてはならない。指物師や大工がいくら利休を上手く真似ても、利休の作った物の様には高値で売ることができない様に、学者も業では学問が身に付かない。闇斎先生の目からは、俗儒のすることは児戯に等しく見えるのである。
【通釈】
周程張子の学問は朱子ほどの人でなくては知ることができない。聖人はよく聖人を知る。籠舁きに歴々の話をしてみろと言っても彼等にそれはできない。「註解之眼」。今の学者には眼がない。淳凞は宋の高宗の年号だから、日本の朝廷で言えば何帝の何年に当ると註をする。それでは眼とは言えない。周程張には目がある。その眼で言った言葉が近思録になったのだから、眼のある人でなければ注解はできない。「望於誰哉」である。見処に関したことは業ではうまくいかない。利休の花活けや茶杓は、見た処は只の竹の筒や竹のへらだが高い金になる。それを格好だけ真似て指物屋や大工が作れば、利休より細工は上手くても一銭にもならない。今度また近思録の続篇ができたと言うのは、新板ものの筋である。この近思録序などは、俗に捉われている内は心に乗らない。闇斎先生などの目からすれば、俗儒のすることは児戯の様に思われるのである。
【語釈】
・淳凞…近思録の編纂は孝宗の淳熙2年(1175)の夏に始まる。
・花活…花をいける器。金属製・陶製・竹製など。花器。花瓶。花たて。
・新板…以前に出版した本の内容や体裁を新しくして出版したもの。