第三十二 冲漠無朕の条  七月十六日  文録
【語釈】
・七月十六日…寛政2年庚戌(1790年)7月16日。
・文…花澤文二。林潜斎。東金市堀上の人。一時、丸亀藩主京極侯の儒臣となる。1749~1817

冲漠無朕、萬物森然已具。未應不是先、已應不是後。如百尺之木、自根本至枝葉、皆是一貫。不可道上面一段事、無形無兆、却待人旋安排、引入來敎入塗轍。既是塗轍、却只是一箇塗轍。
【読み】
冲漠として朕[きざし]無く、萬物森然として已に具わる。未だ應ぜざるは是れ先にあらず、已に應ぜしは是れ後にあらず。百尺の木の根本より枝葉に至るまで、皆是れ一貫せるが如し。上面の一段の事は、形も無く兆[あと]も無く、却って人の旋[やや]安排するを待ち、引き入れ來りて塗轍に入らしむと道[い]う可からず。既に是れ塗轍なれば、却って只是れ一箇の塗轍のみ。
【補足】
この条は、程氏遺書一五にある伊川の語。

これは妙語と云章なり。どこが妙語なれは、太極圖説ても無極而太極から隂陽の、動靜のとあり、それからして善悪分焉萬事出焉のと云字て目鼻付て、全体具へて説けり。この条は太極の字も隂陽の字も動靜の字もなく、何のことを云たか知れぬ様で、得と見ると云ぬいた語ぞ。因てこれがすむと道体は手に入る。そこて妙語とは云そ。先、太極圖説て六ヶしいは無極而太極の五文字なれとも、とと形ないを説たと云へは論はない、公事も起らぬか、太極動而生陽からが六ヶしい。太極動而生陽靜而生隂とあるゆへ太極かどこぞに居て、其太極か動て出たと云やふに思ひ、亦、動而生陽と云から陽か先かと思ひ不審か起るか、そこの論も動靜無端隂陽無始の云取りて両儀立焉迠の訳もすめり。そこて圖解にはあれをあとへのせられて、くっすり言拔てすむ。道体にあの語ほとのことなし。あれと此冲漠無朕の章か同格の語なれとも、未たあちの方は隂陽の、動靜のとあるてつかまへ処あるゆへ人もすむことなり。この章は何にも目鼻なく、より処かない。
【解説】
「動静無端陰陽無始」の条とこの条は同格である。しかし、動静無端には動静や陰陽という捉まえ処があるが、この条にはその様な捉まえ処がない。
【通釈】
ここは妙語とも言うべき章である。どこが妙語かと言うと、太極図説でも「無極而太極」から「陰陽」や「動静」とあり、それから「善悪分焉萬事出焉」という字で目鼻を付けて、全体を具えて説いてある。この条は太極の字も陰陽の字も動静の字もなく、何のことを言ったのかわからない様だが、しっかりと見れば言い抜いた語である。そこでこれが済むと道体は手に入る。そこで妙語と言うのである。先ず、太極図説で難しいのは無極而太極の五文字だが、つまりは形のないことを説いたと言えば議論の余地はなく、もめごとも起こらないが、「太極動而生陽」からが難しい。「太極動而生陽静而生陰」とあるから、太極がどこかに居て、その太極が動いて出たという様に思い、また、「動而生陽」と言うから陽が先かと思って不審が起こるが、その論も「動静無端陰陽無始」で「両儀立焉」までのわけも済む。そこで、図解の後に動静無端の条を載せられ、すっかり言い抜いたので済むのである。道体にあの語ほどのことはない。あれとこの冲漠無朕の章が同格の語であるが、あちらの方には陰陽や動静とあるので捉まえ処があるから人もよくわかる。しかし、この章には目鼻も何もなく、寄り処がない。
【語釈】
・動靜無端隂陽無始…道体16。「動靜無端、陰陽無始」。

朱子の編集、首章の太極を忘れた時分の処へ動靜無端を出し、それより又、この章を後ればせに出さるるが面白いあやにて、とと一とくるめなことなり。因て圖説の解には皆出して注せり。此章、ぬっほりと説て、ここをは何もなく手に入る語なり。とふしたことなれば、何ほどのことてもつかまへ処あると引かるるもの。直方先生の、かまほこにして食へと云るる合点なり。骨もひれもなく、むっくりとした説なり。そこて道体も、この章はあの太極圖説のこととあとで知ること。太極圖を説たと云へはわるい説様になる。この思い込みか太極圖に合ふこと。朱子も此章を無極而太極と云はこの合点と評せられたことなり。周子の太極圖説の頭ら書したやふに思か、固り程子は頭書してもよい身分なれとも、あの立てなことは斯ふと云と發明か面白ふない。あとて見て、されはそふしゃ、無極而太極のことしゃと氣のつくてよい。西銘も是中庸の理なりと云へとも、張子中庸もどきを作られたてなし。この章もそれと同こと。哥人や俳諧師かやき直すと云ことあるか、其筋なことにあらす。
【解説】
この条は太極を説いたものだが太極図を説いたわけではなく、また、それを手直ししたものでもない。結果的に説いた内容が太極図と同じということなのである。
【通釈】
朱子の編集は、首章の太極を忘れた時分の処に「動静無端」を出し、それからまたこの章を遅れ馳せに出されたのが面白い綾で、結局は一括めなこと。そこで図説の解には皆出して注した。この章はぬっぽりと説いてあって、苦もなく手に入る語である。それはどうしたことかと言うと、どれほどのことでも捉まえ処があれば引掛かるもの。直方先生が蒲鉾にして食えと言われた、その合点である。骨も鰭もなく、むっくりとした説である。そこで道体篇でも、この章はあの太極図説のことだと後で知れる。太極図を説いたと言えば悪い説き方になる。この思い込みが太極図に合うということ。朱子もこの章を、無極而太極と言うのはここの合点であると評された。周子の太極図説の頭書をした様に思うが、固より程子は頭書してもよい身分だが、あの筋のことはこうだと最初に言えば発明が面白くない。後で見て、それならそうだ、無極而太極のことだと気が付くのでよい。西銘も「此中庸之理也」とは言うが、張子が中庸まがいのものを作られたわけではない。この章もそれと同じこと。歌人や俳諧師には焼き直すということがあるが、その筋のことではない。
【語釈】
・ぬっほり…ぼんやりしているさま。
・頭ら書した…書物の本文の上欄に解釈などを書き添えること。また、その書いた文句。標注。頭注。
・西銘…為学89。
・是中庸の理なり…西銘の註。「此中庸之理也」。

偖又最ふ一つ云ことあり。此章、太極圖説を發明てなく、程子獨りでに云れたことて、あちと一つに落る。人の言をとっては発明てなく、又、新しいこと云ては私になる。未たありて体用一源顕微無間なり。三重四重に箱をして大切にする語なれとも、あれは易を説たことひきぬいて、道体へのせすに易て丸に致知へのせり。道体へあれをのせたらと云か、のせすとも事は闕けぬ。あれか程子一生の株なるに、体用一源じゃ、のせすともすむと云は、この章てすむ故なり。此章があれは体用一源の代りをする。譬は人に何そものをもろふに何も角も懐へとりたかるが、この冲漠無朕をもらへはそれてよく、両方を貰に及はぬ。とちても片々もらへは、それてすむことなり。そこて此章を体用一源て説たかるか其筈そ。とちも中て一つに合ふ。尹彦明か易傳の序にある体用一源の語を聞て天機を漏すと云はれたと云か天花乱墜の筋てはない。あの説法ゆへ、両ふると云は俗をたふらかすこと。尹氏は程子のそこをはたかずしまへはよいか、あれてはたまらぬと云。竹田のからくりも中を見ては何もないと、あの実体な尹彦明か、あの天の機かぬけるあそこが大切とをもふ。
【解説】
他人の言を引用するのは発明ではなく、また、新しいことを言えば私になって公ではない。程子は「体用一源顕微無間」と説いたが、それを道体ではなく致知篇に載せたのも、道体篇にはこの章があるからである。
【通釈】
さてまたもう一つ言うことがある。この章は太極図説からの発明ではなく、程子が独自に言われたことだが、それが図説と同じところに落ちる。人の言を引用するのは発明でなく、また、新しいことを言っては私になる。しかし、まだ言うことがあって、それが「体用一源顕微無間」である。これは三重四重に箱をして大切にする語で易を説いたことだが、それを引き抜いて、道体へ載せずに易の通りを致知へ載せた。道体へあれを載せたらよいと言うが、そうしなくても事欠かない。あれが程子一生のお株なのに、体用一源と道体に載せなくても済むと言うのは、この章で済むからである。この章が体用一源の代わりをする。たとえば、人から何か物を貰う時には何もかも懐へ取りたがるものだが、ここはこの「冲漠無朕」を貰えばそれでよく、両方を貰うには及ばない。どちらにしても片方を貰えばそれで済むこと。そこでこの章を体用一源で説きたがるが、その筈である。どちらも中で一つに合う。尹彦明が易伝の序にある体用一源の語を聞いて天機を洩らすと言われたのは天花乱墜の筋ではない。あの説法なので、両ふると言うのは俗を誑かすこと。尹氏は程子がそこを出さずに仕舞えばよいのに、あれでは堪らないと言ったのである。竹田のからくりも中を見ると何もない。あの実直な尹彦明が、天の機が洩れると思い、そこが大切だと思ったのである。
【語釈】
・体用一源顕微無間…致知50。「至微者理也。至著者象也。體用一源、顯微無閒」。
・尹彦明…尹焞[とん]。字は彦明、徳充。号は和靖処士。伊川の門人で、篤行の士として称せられた。20歳で伊川に師事。1061~1132
・易傳の序…程伊川の易伝序。
・天機を漏す…天機を洩らす。天の機密をもらす意から、重大な秘密をもらす。
・天花乱墜…梁の武帝の語。「天花乱墜して、地黄金に変ず」。
・竹田のからくり…寛文2年(1662年)に竹田近江が大坂道頓堀で旗揚げ興行したからくり人形芝居。
・実体…まじめで正直なこと。じっちょく。

体用一源を引もこれも同格なれとも、ここはあの天機を漏すとは語勢か違ふ。此章は漏したと云れぬ。とっちも同じこと。一包の風呂敷の中で一つか面白ことあり。朱子の太極動而以下を滾説と云、この章も滾説なり。混沌未分本来の面目のとはちこうて、阴阳動靜の内に太極を一つに云ゆへ滾説なり。儒佛の違もここにて、あちは奥の院か有ると云。程子の意はふたん冲漠無朕万象森然と云。ものほしそふに見たいと云と異端になる。今日へべったりなり。先、この章の綱領こんなこと。あとやさきへ目をやることてない。千万年古今如此な姿そ。
【解説】
「太極動而」以下は太極の説明であり、それを朱子は滾説だと言った。この条も滾説で、太極を「冲漠無朕万象森然」と見る。仏は太極が奥の院にあると思っているから儒者の太極とは違う。
【通釈】
体用一源を引くのもこの条も同格ではあるが、ここはあの天機を洩らすとは語勢が違っていて、この章は洩らしたとは言えない。しかし、どちらも同じこと。一包の風呂敷の中で同じだということが面白い。朱子は太極動而以下を滾説と言ったが、この章も滾説である。混沌未分や本来の面目のこととは違い、陰陽動静の内に太極を一つに言うから滾説なのである。儒仏の違いもここで、あちらは奥の院があると言う。程子の意はいつも「冲漠無朕万象森然」である。物欲しそうに見たいと言うと異端になる。今日にべったりとしている。先ず、この章の綱領はこんなこと。後や先へ目を遣ることではない。千万年古今この様な姿である。
【語釈】
・本来の面目…天然のままにして、少しも人為を加えない衆生の心の本性をいう。仏性。

冲漠無朕は道理の形ないを云。冲は、何も見へぬかすかを云。楚辞に鳥の高飛を冲天の文字あり。雲萑か空へ舞てたん々々飛のほるほと見へぬか、たしか上へに居るて有ふと形ないことの形容なり。漠は、ひっそりとして音もないを云。日蔭の石に苔むしさひ々々とした底にて、打てもたたいても音なく靜まりかへったを云。朕は、人の眼のとちめの細いかすかを云。李退渓、きさしのないことと云ふ。無朕のときやふも無声無臭や無妄の無と同ことて、朕はかすかなれとも、目の閉めはあるものそ。これを、きざしは声臭と同しくないものなれとも、其朕もないと云ことなり。声も無ひ、臭も無ひ、妄もない。ここも、朕もないにて所謂きさしのないなり。きさしは今、まめに働ている下女もどふやら心得ぬ、迯そふなと云氣味にて眼に見へぬ所てちらりとしたことあるもの。又、医者も知らぬに、あの女房か懐妊したそふなと云。其きさしさへ見へぬものなるに、それもない。然れは何もない。無極と云かこの塲なり。無極の字、老佛にありて公事かやかましいか、周子はすっと云たこと。この章、程子もひょいと思ひついて云はれたことなり。
【解説】
「冲漠無朕、萬物森然已具」の説明。「冲漠無朕」とは道理に形がないということである。「冲」は何も見えないほど微かなこと。「漠」は音もなく静まりかえっていること。「朕」は兆しであり、「無朕」はその兆しさえもないということ。この「冲漠無朕」の場が無極である。
【通釈】
「冲漠無朕」は道理に形がないことを言う。「冲」は、何も見えない微かなことを言う。楚辞に鳥の高く飛ぶことを冲天の文字を使って表している。雲雀が空に舞い、段々と飛び昇るほど見えなくなるが、確かに上にいるだろうと形ないことを形容する語である。「漠」は、ひっそりとして音もないことを言う。日陰の石に苔生して寂々とした様なことで、打っても叩いても音がなく静まりかえったことを言う。「朕」は、人の眼の閉じ目で細かい微かなことを言う。李退渓は兆しのないことだと言った。「無朕」の説き方も無声無臭や無妄の無と同じことで、朕は微かだが、目にも閉じ目はあるもの。兆しは声や臭と同じで見えないものだが、朕もそれと同じくないということである。声もない、臭もない、妄もない。ここも、朕もないということで、謂う所の兆しがないということである。兆しとは、今、まめに働いている下女もどうやら変だ、逃げそうだという様なことで、眼に見えない所でちらりとしたことがあるもの。また、医者も知らないのに、あの女房が懐妊したそうだと言う。その兆しでさえ見えないものなのに、それさえもない。そこで何もない。無極とはこの様な場である。無極の字は老仏にもあって議論が喧しいが、周子はすっと言った。この章で程子もひょいと思い付いてこの様に言われたのである。
【語釈】
・楚辞に鳥の高飛を冲天…
・李退渓…朝鮮李朝の代表的儒学者。名は滉。字は景浩。真宝の人。陶山書院に拠って嶺南学派を興し、日本の儒学にも大きな影響を及ぼした。著「自省録」など。1501~1570
・無声無臭…中庸朱子章句第33章。「詩云、予懷明德、不大聲以色。子曰、聲色之於以化民、末也。詩云、德輶如毛。毛猶有倫。上天之載、無聲無臭。至矣」。詩は詩経大雅文王。
・無妄…道体31。「无妄之謂誠。不欺、其次矣」。

某思ふに冲漠無朕は古ひ字てもあるまい。何の書にある、この文字てと考られたてもなく、冲漠無朕と云はれたならん。俗語なとにありて六ヶしいことてはあるまい。丁と家来を肴買に出したに新塲も小田原河岸もさっはりと云。字心を吟味も入らす、主人もきついしけぢゃのと云ふ。當時無ことを冲漠無朕と云たてあろ。それなれは何も無いこと。然れはすてるものかと云に、いやそふてない。其中に萬象かあり、世の中にあるほとのもの、無朕の中に具はる。万物と云とはちこう。象はもやうて云。人もせいの高いのひくいのは物。心ゆきは氣象と云。物は茄子や爪をつかまへて云。萬象は、あらゆるもののすかたか冲漠無朕の中にあり。無と森を合せると知れる。森は冗山てない。この山なれは大金になると云は屮木か大ふ生へ茂りて艸木森然なるゆへなり。山に艸木のあるやふに、冲漠無朕の中に已にあらゆることか具る。
【解説】
冲漠無朕とは何もないことだが、その中に万象が具わっている。この万象とは物の模様のことであって、万物自体を指すものではない。山に草木のある様に、冲漠無朕の中に既にあらゆることが具わっている。
【通釈】
私が思うには、冲漠無朕は古い字ではないだろう。何かの書にあるからこの文字を使おうと考られたのでもなく、ただ、冲漠無朕と言われたのだろう。俗語などにあり、難しいことではないだろう。丁度肴を買うため家来を出した時に、新場も小田原河岸もさっぱりないという。字心の吟味もなく、主人もひどい時化だと言う。当時は無いことを冲漠無朕と言ったのだろう。そこで、冲漠無朕とは何もないこと。それなら棄ててもよいものかと言うと、いやそうではない。その中に万象がある。世の中にあるものは全て無朕の中に具わっている。万物とは違う。象は模様のこと。人の背の高い低いは物で、心意気は気象と言う。物は茄子や瓜を指して言うことで、万象という、あらゆるものの姿が冲漠無朕の中にある。無と森を合わせるとわかる。森とは禿山のことではない。この山なら大金になると言うわけは、草木が大層生え茂って草木森然だからである。山に草木のある様に、冲漠無朕の中に既にあらゆることが具わっている。

冲漠無朕は何にもない。蹴ても踏てもよいかと思ふに無極而太極なり。形はなけれとも、はや森然と具ている。程朱からして周子の無極太極かわけ付た。此章短かけれとも、これてはっきとすむ。ここに塩梅あるは、佛も冲漠無朕は見るか万象森然を合点せぬ。形而上を見て、礼義の三千三百をけりゃふに思ふ。何にも無ひ中に万のことあり。そこをじかに薛文清か、太極の中に六十四卦かあると云。邵子の畫前の易がそれなり。然らば六十四卦か太極てこさるかと云に、太極は冲漠無朕なり。卦を畫せぬ前に理と具てある。女房持たぬ前に女房を持つ理か一貫してあり。何ても道理一貫ゆへ前廣に定る。久しい譬の、晩方他出に灯燈持たせるなり。明るい暗いは氣なれとも、昼のあかるいと云其中に暮るものあり。それが理なり。それゆへ、垩人か細に五倫の教か跡から始たてない。已具なり。いつも出さ子はならぬ譬への、直方先生玉子の吸物なり。何やら黄色かあるか、それにとさかも蹴爪もある。理はあの如くふくんてをる。あれは氣と氣なれとも、譬へで云ときはそふなり。
【解説】
仏も冲漠無朕は見るがその中にある万象森然は見ない。そこを聖学では薛文清が太極の中に六十四卦があると言い、邵子が画前の易と言う。また、太極には理が最初から一貫してある。そこで、聖学の教えも聖人が作ったと言うよりも、既に始めから具わっていたのである。
【通釈】
「冲漠無朕」は何もないのだから蹴っても踏んでもよいかと思うと、それは無極而太極のこと。形はないが、既に森然と具わっている。程朱のお陰で周子の無極太極のわけが付いた。この章は短いものだが、これではっきりと済む。ここに塩梅があって、仏も冲漠無朕は見るが「万象森然」を理解していない。形而上を見て、礼儀の三千三百を軽く思う。何もない中に万のことがある。そこを直に薛文清が、太極の中に六十四卦があると言った。邵子の画前の易がそれである。それなら六十四卦が太極かと言えば、太極は冲漠無朕である。卦を画す前に理が具わってある。女房を持つ前に女房を持つ理が一貫してある。何でも道理は一貫だから前々に定まっている。いつものたとえで、晩方の外出に灯燈を持たせること。明るい暗いは気だが、昼の明るいというその中に暮れるものがある。それが理である。それで、聖人が五倫の教えを跡から細かに作ったのではなく、既に具わっているのである。いつも出さなければならないたとえで、直方先生の玉子の吸物である。何やら黄色いものがあるが、それに鶏冠も蹴爪もある。理はあの様に含んである。あれは気のことだが、たとえで言う時はこうなる。
【語釈】
・礼義の三千三百…中庸章句27。「大哉聖人之道。洋洋乎、發育萬物、峻極于天。優優大哉、禮儀三百、威儀三千。待其人而後行」。
・けりゃふ…仮令。かりそめ。なおざり。
・薛文清…薛徳温。薛敬軒。
・邵子…邵康節。北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は尭夫。康節は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤の理気学に対して象数論を開いた。1011~1077
・畫前の易…
・前廣…以前。まえかた。

未應不是先云々。應は一つ氣へわたる処。これから少し見へる塲なり。夜かあけたそふなと云。あけぬ前は応せぬなり。今日氣の上は前後あれとも、理は前後なく貫ている。見付の灯も昨夜と今朝とがあり、火ある中は夜、けすと今朝なり。日か先き。今日は後なれとも、一月て云へは十五日。前後とはあとざきなれとも、理ては十五日後になるものか十五日前にりんとあれは後と先はない。昨日と今日とかわれとも、前天地の終りは今天地の始め。理は一貫してあり。中は一續て道理の上には端も始もない。阴阳ゆへ、前後ありて先後ある。氣はよくみえる。前後ない氣はみられぬ。小児の目にも氣は同ことで、あちらに紙鳶、こちらに雞と云か、其中にも大人は眼に見へぬ所もしるることある。その男のこう云たは明日六ヶしいこと有ふと云。これ、大人は大人たけあほふても理をみるそ。小児は只奴か来たと云ことはかりみる。氣ばかりそ。今大ふるまい有て明日の客に今日書院に人はなけれとも、今日あるやふなもの。今日と明日と大違にて、前日と後日と、客のあると無のとなれとも、氣は左様にわかれとも、理ては昨日か今日になる。今日に昨日のこと存してある。客の来ぬ前に來たやふなもの。書院に一人も人のをらぬ内に、明日廿人ほとの客か已に具てをる。氣、その様にないときもあるときもあるか、其氣にさわかぬか儒の見なり。
【解説】
「未應不是先、已應不是後」の説明。この「応」は気へ渡る処なので見ることができる。気は陰陽だから、前後があれば見ることもできるが、前後がなければ見ることはできない。一方、理は初めから一貫してある。理は昨日の内に今日のことが含まれていて、端も始めもない。
【通釈】
「未應不是先云々」。「応」は気へ渡る処。これからが少し見える場となる。夜が明けた様だと言う。明ける前は応じていない。今日、気の上には前後があるが、理は前後なく貫いている。見付の灯も昨夜と今朝とがあり、火のある内は夜、消すと今朝である。日が先。今日は十六日で後になる。一月で言えば十五日が境である。前後とは後と先のことだが、理では十五日の後になるものが十五日の前に凛とあるのだから、後先はない。昨日は今日に変わるが、前の天地の終わりは今の天地の始めで、理は一貫してあり、中は一続きで、道理の上には端も始もない。陰陽なので、前後があり先後のある気はよく見える。前後のない気は見ることができない。小児の目にも気は同じことで、あちらに凧、こちらに鶏と言うが、その中にも大人であれば眼に見えない所を知ることもある。その男がこう言ったからには、明日は難しいことになるだろうと言う。大人はたとえ阿呆でも、大人なだけ理を見ることができるのである。小児はただ、奴が来たということばかりを見る。気だけである。大振舞いが明日あり、今日は書院に人はいないが、大振舞いが今日ある様なもの。今日と明日とは大違いなことで、前日と後日、客があるのとないのとの違いがあるが、気はその様に分かれても、理では昨日が今日になる。今日に昨日のことが存してある。客が来る前に来た様なもの。書院に一人もいない内に、明日二十人ほどの客が既に具わっている。気にはない時もある時もあるが、その気に騒がないのが儒者の見である。
【語釈】
・見付…枡形を有する城門の、外方に面する部分。番兵の見張る所。

佛は儒者を投るほとのものなれとも、氣てさわく。あの丈夫な男かころりと死た。無常と云。こちは不是先不是後。天下古今理か一貫で、死生も太極の流行なり。生死てはおとろかず。仏者かそれを聞くと、其やふな甘口なことでない、吾仏家ては不生不滅と云て生滅のないものありと云。さやふなら隣合せかと云に、指所か違ふ。太極に形なく生滅のないは仏に似たれとも、あちの不生不滅は空にて、こちのは萬象がついてまわる。本来の、又、老子の未分のと遠く見ることてなく、鼻の先の何のこともない所に道がある。そこて異端迷と思ふ処は、こちては道なり。理なりにすることに、もと迷ひと云ことはないこと。欲にこそ迷もあれ、子か疱瘡て死と云は冲漠無朕の中に仁かあるゆへ、飯が食はれぬと云。仁で喰れぬなれとも、又、義てくわれる。そのやふに泣筈はないと出る。仁義か冲漠無朕の中に具りて鼻の先の物毎に萬象の具りたなりに動く。前後を立るゆへ、過去未来のとかんか立つ。禪坊主かやつきゃつと云ても老子が落付ても、皆道に穴があく。そこを云て聞せる。
【解説】
仏は気に騒ぎ、人の死を無常と言うが、聖学では死生も太極の流行だと捉え、生死にも驚かない。また、仏は不生不滅という生滅のないものがあると説く。それは聖学の太極と似てはいるが、仏のそれは空で、聖学では万象がそこにあるとする。太極も、仏は遠くに見るが、聖学では鼻の先にあるとする。仏の迷いとするところは聖学にあっては道であって、理の通りであれば迷いはなく、欲があるから迷うのである。道に前後があると一貫ではない。
【通釈】
仏は儒者を投げ倒すほどのものだが、彼等は気で騒ぐ。あの丈夫な男がころりと死んだ。それを無常と言う。こちらは「不是先不是後」である。天下古今理が一貫で、死生も太極の流行である。生死では驚かない。仏者がそれを聞くと、我が仏家はその様な手緩いことではなく、不生不滅という生滅のないものがあると言う。それなら儒仏は隣り合わせかと言えば、指し所が違う。太極に形がなくて生滅がないのは仏に似ているが、あちらの不生不滅は空で、こちらのは万象が付いて廻る。本来の面目とか、老子が未分と言ったりする様な遠くを見ることではなく、鼻の先の何事もない所に道がある。そこで、異端が迷いと思う処は、こちらでは道なのである。理の通りにすることに、元々迷いはない。欲にこそ迷いもあるだろう。冲漠無朕の中に仁があるので、子が疱瘡で死ぬと飯が食えないと言う。仁で食えなくなるのだが、また、義によって食うことができる。その様に泣く筈はないと義が出る。仁義が冲漠無朕の中に具わっていて、鼻の先の物それぞれが万象の具わった通りに動く。前後を立てるから、過去だ未来だと癇を立てる。禅坊主が奴彼奴と言っても、老子が落ち着いていても、皆道に穴が開く。そこを言って聞かせたのである。

百尺之木自根本云々。大木は枝葉の多ひもの。根に火かいりても大木は葉や枝が遠ひゆへひびきそもないものなれとも、をれは知ぬとは云はぬ。応する応せぬは、木の根と枝が沢山あれとも中は一つなり。何の譬なれば、阴阳五行萬物と数はふへても百尺の木の一貫の如し。道のない所なく、どこても通する。あとさき昨日今日と秡すことてない。知死生之説と云も一貫ゆへのこと。外の悟りてはなし。死も生れるも理の一とつつきなり。そこを知ること。某以上は長い一貫の方そ。若い者の死ぬは短ひ一貫。七歳未滿は貌とした一貫で、とれも死生の道ぞ。人の死生も呼吸の如くなれとも、いつ迠も一つものか持つつける。この語を聞と、上の無妄之謂誠か胸に落る。太極か萬化の源。道の大原出於天と云て、大の御頭か引くるめるゆへ太極と云。誠は太極の虚なく間違ないこと。誠は物之終始と云も、かわらすに天地開闢以来火か流れたり水がやけたりはない。水の流れ火の焼る。皆此様に太極か万端へ一貫ゆへなり。その慥な処を誠と云。去によりたしかゆへ、徹上徹下と云。功夫へ持てくる字なれとも、徹上徹下でも道体になる。古今異冝と云か、王代と鎌倉と室町家と今とはちごうなれとも、誠はいつもかわらぬ。神代より、ひたるい時は飯、あつい時は水飯たい。皆一貫なり。そこて垩人計か誠にて、凡夫はをこりさめかある。昨日は子んころ、今日はふりむいても見ぬと云て、きれめかある。大木ても根を切と枯る。木偶は首を取ても手足はなんともない。土へ埋るにも及はぬ。
【解説】
「如百尺之木、自根本至枝葉、皆是一貫」の説明。道はどこにも通じるものであって、それは大木の根と枝葉とが貫いている様なことである。それで、生死にも理が一貫してある。太極に虚も間違いもないことが誠であり、その誠は天地開闢以来普遍だが、その様になるのは太極が万端に対して一貫だからである。大木でも根を切れば枯れる様に、切れ目があっては誠ではない。
【通釈】
「百尺之木自根本云々」。大木は枝葉が多いもの。根に火が入っても大木は葉や枝が根から遠いから響きそうもないものだが、俺は知らないとは言わない。応じる応じないは、木の根と枝が沢山あっても中は一つということ。ここは何のたとえかと言うと、陰陽五行万物と数は増えても、それは百尺の木が一貫の如しということ。道のない所はなく、どこでも通じる。後先昨日今日とは言わない。「知死生之説」も一貫だから言う。他の悟りではない。死生も理の一続きである。そこを知ること。私以上は長い一貫の方で、若い者が死ぬのは短い一貫である。七歳未満は漠然とした一貫で、どれも死生の道である。人の死生も呼吸の様なもので、いつまでも一つのものが持ち続ける。この語を聞くと、前条の「無妄之謂誠」がよくわかる。太極が万化の源で、「道之大原出於天」と言い、大御頭が引っ括めるから太極と言う。誠とは、太極の虚がなく間違いのないこと。「誠者物之終始」と言うのも、天地開闢以来変わらないことで、火が流れたり水が焼けたりはしない。水が流れ火が焼ける。皆この様になるのは太極が万端に一貫だからである。その確かな処を誠と言う。その様に確かなので、「徹上徹下」と言う。これは工夫へ持って来る字だが、徹上徹下でも道体になる。「古今異冝」と言い、王代と鎌倉と室町家と今とは違うが、誠はいつも変わらない。神代より、空腹の時は飯、暑い時には水を飲みたい。皆一貫である。しかし、聖人だけが誠であって、凡夫は怒り冷めがある。昨日は懇ろだが今日は振り向きもしないこともあって、そこに切れ目がある。大木でも根を切ると枯れる。木偶は首を取っても手足は何ともない。土へ埋める必要もない。
【語釈】
・秡す…言いやがる。「言う」「しゃべる」の意を卑しめていう語
・知死生之説…道体1の語。「故知死生之説」。
・道の大原出於天…漢書董仲舒伝。「道之大原出於天」。
・誠は物之終始…中庸章句25。「誠者自成也。而道自道也。誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之爲貴」。
・徹上徹下…道体19。「徹上徹下、不過如此」。
・古今異冝…

上の段に誠を説て、はや誠と云御膳はとれたと思ふに、誠が冲漠無朕につついて居る。根が合点ないと編集の意か知れぬ。中庸首章、未發をかたり、次の章から時中を説き、二十章目から誠をとく。近思も中の次へ誠を出し、ここへまいりても冲漠無朕のないのか誠なり。そこて一貫か誠と云て丁とよい。中風すると一貫せぬ。そこで、つめりてもいたまぬ。太極も誠も形なく一貫なり。孔子の申々夭々はあらわれぬ処、誠なり。其中に万象森然なり。坐頭に某在此は仁。少正卯か首を切るは義とわかるなり。冲漠無朕の誠なりに堯舜の禪受も湯武の放伐もいろ々々かわれとも、皆一貫の誠なり。それて未応不是先已応不是後が先後かなく、ここがかまほこへったりとした所なり。太極も阴阳も一貫と少し力らあるものは、思へばそふじゃと云ふが、此章は陰陽とも太極ともなくべったり説たか妙なり。
【解説】
編次では、先ず「中」、次に「誠」を出し、この条で「冲漠無朕」の太極が誠であるとし、その誠は一貫であると説いている。孔子や堯舜の禅受、湯武の放伐も皆一貫の誠である。この章は陰陽も太極も使わずにしっかりと誠を説いたものである。
【通釈】
前の条で誠を説いたので、既に誠という御膳は終わったと思ったのに、その誠が冲漠無朕へと続いている。根本を合点していないと編集の意がわからない。中庸は首章で未発を語り、次の章から時中を説き、二十章目から誠を説くが、近思録も中の次へ誠を出し、ここでも冲漠無朕と何もないのを誠と語る。そこで一貫を誠と言うので丁度よい。中風になると一貫とならない。そこで、抓っても痛くない。太極も誠も形がないが一貫である。孔子の「申々夭々」は現われない処の誠のこと。その中に万象森然がある。座頭に私はここにいると言うのは仁で、少正卯の首を切るのは義とわかる。冲漠無朕の誠のままに堯舜の禅受や湯武の放伐と色々と変わるが、皆一貫の誠である。それで「未応不是先已応不是後」とは先後がないことで、ここが蒲鉾でべったりとした所である。太極も陰陽も一貫だということを、少し学力のある者が思えばその通りだとわかるが、この章は陰陽も太極も使わずにしっかりと説いたところに妙がある。
【語釈】
・孔子の申々夭々…論語述而4。「子之燕居、申申如也、夭夭如也」。
・坐頭に某在此…論語衛霊公41。「師冕見。及階。子曰、階也。及席。子曰、席也。皆坐。子告之曰、某在斯。某在斯」。
・少正卯…荀子宥坐篇に、孔子が魯の摂相になって七日目に少正卯という大夫を誅殺したとある。

さて、未応已応のこと、先日感応のこともありて、応と云字は天地ても人ても語る。山﨑先生、冲漠無朕説あり。上の八字、造化を説けとも、人心も同ことと云。未応以下は人心を云へとも、造化もこの通と云。山﨑先生、始て云たことてもなく、応を朱子の天地で云はれたことあり。時に、明の胡敬斎が居業録に已応を人で云。山﨑先生、胡敬斎なとを信して取ではなけれとも、天人両方へかけるが趣向なり。この章に限らず、人は一箇の小天地ゆへ符か合ふ。偖、冲漠無朕万象森然は昔の太極圖の通のことを云たなれとも、あたり近所が惻隠之心の、不欺のと云字もあり、それは天の方でない。誠は天之道なれとも、人の心て語るか天人合せるゆへ、そふなり。もと此章を朱説は天でとかれても、道体にのせて誠の章の次に置くからは、天人合せて説へきことそ。某思ふに山﨑先生にかきらす、半分つつは虫に合はぬことあるもの。此短い語を、上は造化、下は人心と云も細工なやふな説なれとも、道体篇の幷へやふ、これを天人て云かこのあたりに合てよいゆへなり。其上に山﨑先生、今迠の註が氣に入らぬ。然し、今の学者が葉解輕く云へとも耳を取て鼻でなく、此条も左のみの言違はなけれとも、十分でなくきまらぬゆへのこと。因て註をし、黄勉斎や蔡九峯、薛文清、胡敬斎、退渓なとを集て附録をせり。この章、とど一貫と云で程子の見た処を言とれり。一貫の一の字と云がやっはり無端無始の無の字のことなり。こふ合点せよ。そこて体用一源の一の字もすむ。
【解説】
「応」は天地についても人についても語ることがある。ここを闇斎は天人双方で説き、朱子は天地で説いたが、編次も誠の章の次にこの条があるのだから、ここは天人双方で説くのがよい。この章は、つまりは一貫を言ったことで、「無端無始」の無と同じである。これで体用一源の一の字も済む。
【通釈】
さて、未応と已応のことだが、先日も感応のことがあって、応という字は天地でも人でも語る。山崎先生に冲漠無朕説がある。上の八字は造化を説いたものだが、人心も同じことだと言う。未応以下は人心のことを言うが、造化もこの通りだと言う。これは山崎先生が初めて言ったことでもなく、応について、朱子が天地のことで言われたこともある。時に、明の胡敬斎が居業録に已応を人について言った。山崎先生が胡敬斎などを信じて採ったのではないが、天人両方へ掛けるのがここの趣向である。この章に限らず、人は一箇の小天地だから符丁が合う。さて、「冲漠無朕万象森然」は初条の太極図の通りを言ったことだが、あたり近所には「惻隠之心」や「不欺」という字がある。それは天の方のことではない。誠は天の道だが、人の心で語るのが天人を合わせる意となるので、それがよい。元々、朱説はこの章を天で説かれたが、道体に載せて誠の章の次に置いたのだから、天人合わせて説くべきである。私が思うには、山崎先生に限らず、半分ずつは虫に合わないことがあるもの。この短い語を、上は造化で下は人心と言うのも、それは細工になる様な説だが、道体篇の並べ様からしても、これを天人で言うのがこの場に合ってよいからである。その上、山崎先生は今までの註が気に入らなかった。それも、今の学者が葉解を軽く見るが、それは耳を指して鼻と言うわけでもなく、この条もそれほど言葉が違っているわけではないが、それが十分でなく極まっていないからである。そこで註をして、黄勉斎や蔡九峯、薛文清、胡敬斎、退渓なとを集めて附録とした。この章はつまり、一貫ということで、それを程子が見抜いたことを言い取ったもの。一貫の一の字がやはり「無端無始」の無の字のこと。この様に合点しなさい。そこで体用一源の一の字も済む。
【語釈】
・感応…道体12。「有感必有應。凡有動皆爲感。感則必有應。所應復爲感、所感復有應。所以不已也。感通之理、知道者默而觀之、可也」。
・胡敬斎…
・惻隠之心…道体24を指す。
・不欺…道体31を指す。
・黄勉斎…名は幹。字は直卿。1152~1221
・蔡九峯…
・退渓…李退渓。朝鮮李朝の代表的儒学者。名は滉。字は景浩。真宝の人。陶山書院に拠って嶺南学派を興し、日本の儒学にも大きな影響を及ぼした。著「自省録」など。1501~1570

上面一段事云々。冲漠無朕の塲を云。上面。上の方のあそこのことと云義。無形無兆は、太極の道理は何にも形やきさしはなく、眼に見へす、耳にきこへぬ。冲漠無朕は音さたもないものか、如何。曰然り。いよ々々そふなり。然れとも、天地の間に音さたかある。造化はさま々々。人事善悪吉凶あり。政も一日二日有万機と云ではござらぬ歟。いや、其音沙汰は万象森然。それか冲漠無朕の中に具るなり。太極ときけば太極、冲漠無朕ときけば冲漠無朕と思ひ応するは、太極に貰ふてそふかと云に按排てない。按排して父子之袖君臣之義を太極へ丁どにはめると思ふては違ふ。不可道。そふ心えるなと云こと。
【解説】
「不可道上面一段事、無形無兆、却待人旋安排」の説明。「上面一段事」は「冲漠無朕」のことで、太極の道理に形や兆しはない。しかし、天地の間には形や兆しがある。それが「万象森然」であって、これは人が按排するものではなく、太極に具わっているものなのである。
【通釈】
「上面一段事云々」。これは「冲漠無朕」の場を言う。「上面」。上の方の、あそこのことという義。「無形無兆」。太極の道理は形や兆しは何もなく、眼に見えず、耳に聞こえない。冲漠無朕とは音沙汰もないものなのだろうか。その通りである。間違いなくその通りである。しかし、天地の間には音沙汰がある。造化は様々で、人事に善悪吉凶がある。政でも「一日二日有万機」と言うではないか。いや、その音沙汰は「万象森然」で、それが冲漠無朕の中に具わっているのである。太極と聞けば太極、冲漠無朕と聞けば冲漠無朕と思って応じるのは、太極に貰うからそうなのかと思うが、按排することではない。按排をして父子の親や君臣の義を太極へ丁度に嵌めると思うのは間違いである。「不可道」。その様に心得るなということ。
【語釈】
・一日二日有万機…書経皋陶謨。「兢兢業業。一日二日萬幾」。
・袖…親の誤り?

百尺之木が一譬へ、塗轍も又たとへなり。一貫には木の譬がいこうよい。塗轍。塗にあるわたちと云こと。伏見の方から大宮通りなと塗轍か多く、其跡を引。前の塗轍へ後の車か這入やふに、親に孝、主に忠と垩人のこしらへて、丁どにはめるではない。塗轍へ引込と云ては細工になる。既是塗轍云々。冲漠無朕の中に萬象のあることを云。引入るてなく、引かぬ前にあり、何もない処で云がよい。今日の早朝に盛砂するに、東金から馬を引てから蹄の跡の出来たてなく、来ぬ前に来るものあり、馬のあと足と思ふな。跡のつかぬ前にあとがある。とふから車の通るはつを、そふまいるか理の一貫なり。今迠無ったかあると云は氣ゆへ前後かあるか、理にはない。一箇の塗轍なり。直方先生、牛の鼻つら通すか牛が生れてから始たでなく、牛の出来ぬ前に道理は具てあるとなり。
【解説】
「引入來敎入塗轍。既是塗轍、却只是一箇塗轍」の説明。「塗轍」とは道にある轍のことで、車が轍に沿う様に、聖人が五倫を拵えたわけではない。塗轍に引き入れるのは細工であって、それをする前から既にそうなる理がある。前後があるのは気からで、理に前後はない。
【通釈】
「百尺之木」が一つのたとえで、「塗轍」もまたたとえである。一貫には木のたとえがとてもよい。「塗轍」。道にある轍ということ。伏見の方から大宮通りなどに塗轍が多く、その跡を引用したもの。前の塗轍へ後の車が這い入る様に、親に孝、主に忠となる様に聖人が拵えて、ぴったりと嵌めたのではない。塗轍へ引き込むと言っては細工になる。「既是塗轍云々」。冲漠無朕の中に万象があることを言う。引き入れるのではなく、引く前にある。この様に、何もない処で言うのがよい。今日の早朝、盛り砂をするが、東金から馬を引いてから、その後に蹄の跡ができたのではなく、来る前に来るものがあるのであって、それを馬の後足だと思ってはならない。跡が付く前に跡がある。前々から車が通る筈のところを、その通りに来るのが理の一貫である。今まではなかったものがあるというのは気のことであって、それで前後があるが、理に前後はない。「一箇塗轍」。直方先生が、牛に鼻木を通すのは、牛が生まれてから始めたことではなく、牛の生まれる前にその道理は具わっていると言った。

彼の大道廃て有仁義かひくい見なり。大道は千両、仁義は鰯このしろに思ふ。大道は進物ないやふなもの。仁義は進物をした様ぢゃ。進物するより何もやらぬ所か親切と云。これか老子の意なり。此方は進物せぬ。親切の処に進物はこもりてをるなり。此章なとは太極圖説に何も違はぬか、この語たてを見るがよい。これてすむと云へは大極圖説は入らぬになる。見やうのかわるてあれもすむ。この章よく見て、ここをうんと呑こむと事すくなにすむか、とど前後なく一貫を知せたこと。それも又、動靜無端阴阳無始てすむか、其塲々々のあたりを見へし。ここの先後ないは、筆を取天地玄黄と書けとも、筆を轉せぬ前に千字文具る。玄黄の塗轍ありてのことてない。太極の理はちゃんと存して氣上の事には先後はない。仏は五倫を假合と思ふも見処に前後あるゆへなり。前後ある、はや間断出来て五倫をすてて、そこで出家と出るそ。事は先後ありても、理に前後はない。事は見へるもの。理は見へぬて合点せぬ。そこを一貫とみると、五倫日用へったり、道そ。又、事の前後あるを理に前後ないて一つに見るはこちの眼ぞ。そこで、本末精粗一貫して取て捨る処ないは、垩学の道体なりの日用人事なり。そこにしきりのないを体用一源顕微無間と云。されともあの語は條理分派をたてて一と無とをとす。この語はあたまてへったりと云。
【解説】
老子は大道を高く評価して仁義を見下し、仏は五倫を見下す。事には前後があっても、理が前後なく一貫であることを理解すれば、理と五倫日用がぴったりとする。それが道なのである。事に前後のあることと理に前後のないことを一つに見るのが聖学の着眼であり、そこで、本末精粗も一貫で取って捨てる処はない。
【通釈】
あの「大道廃有仁義」が低い知見である。彼等は、大道は千両で、仁義は鰯や鮗の様に思う。大道は進物をしない様なもので、仁義は進物をした様なもの。進物をするよりも何も遣らない方が親切だと言う。これが老子の意である。こちらも進物はしないが、親切な処に進物がこもってある。この章などは太極図説と何も違ったことはないが、この語の立て方をよく見なさい。これで済むと言えば大極図説は要らないことになるが、見方が変わることによってあれもよく済む。この章をよく見て、ここをしっかりと呑み込むと事少なに理解することができるが、結局これは、前後なく一貫であることを知らせたもの。それもまた「動静無端陰陽無始」でも済むが、また、その場毎に当たりを見なさい。ここで先後がないと言うのは、筆を取って「天地玄黄」と書くにも、筆を転じる前から千字文にそれは具わっているのと同じ。玄黄に塗轍があってのことではない。太極の理はしっかりとあり、気より上の事に先後はない。仏が五倫を仮合と思うのも見処に前後があるからである。前後があるので早くも間断ができ、五倫を棄てる。そこで出家と出る。事には先後があっても、理に前後はない。事は見えるものだが、理は見えないので合点することができない。そこを一貫だと捉えれば、五倫日用にべったりで、それが道である。また、事に前後のあることと理に前後のないことを一つに見るのが聖学の着眼である。そこで、本末精粗も一貫で取って捨てる処がないと言うのが、聖学における道体のままの日用人事である。そこに仕切りのないことを「体用一源顕微無間」と言う。しかしながら、あの語は条理分派を立て、一と無に落とすこと。ここの語は最初からべったりと言ったのである。
【語釈】
・大道廃て有仁義…老子俗薄。「大道廢有仁義。智惠出有大僞。六親不和有孝慈。國家昬亂有忠臣」。
・このしろ…鮗。ニシン科の海産の硬骨魚。中等大のものはコハダ・ツナシと言う。あぶると屍臭を発するといわれ、また、昔は腹切魚といって武士の切腹の時に用いたために忌まれた。
・天地玄黄…易経坤卦文言伝。「夫玄黄者、天地之雜也。天玄而地黄」。
・千字文…中国六朝の梁の周興嗣が武帝の命により撰した韻文。一巻。四字一句、二五○句、一千字から成り、「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり「謂語助者、焉哉乎也」に終る。初学教科書、また習字手本として流布。
・假合…

薛文清、中孚のことを云へり。中孚の卦を云にわけ有り。平生へかけても面白し。又、道体篇無妄の條の次に出たれば、編次の意に引をとせば一入面白し。無妄も中孚と云も、人は一箇小天地と云も心のこと。列子が方寸、晋人か空洞と云も皆、心を一つ形へついて云へとも、其形と云も一つ内にあいた所に形せぬものあり。そこが誠の居間なり。形なけれは物なけれとも、そこに理あるは誠なり。垩人と云も目や鼻のことではない。虚の中に実あるなり。天地の根は太極。人もそれか心に具りて、周子の人極とも云。邵子の心為太極とも云。形の中に形ないをもってをる。そこが中孚で、そこに妄はないそ。无妄と中孚は一つもの。因て中孚て以て此条を云。それで上の段の誠とふっくりとすむなり。つまり、中孚の中の処は冲漠無朕そ。そこに万象森然具てある。心為太極かすんたそ。
【解説】
薛文清は中孚を引用してこの条を説いた。無妄も中孚も心のことである。心には形のないところがあり、それが中孚であり、誠である。そこに妄はなく、無妄と中孚は同じなのである。形がなければ物はないが、理はある。天地の根本は太極で、それは人も同じだから、周子が人極と言い、邵子は「心為太極」と言った。形ある心に形ない理がある。
【通釈】
薛文清は中孚を引用したが、中孚の卦を言うのにはわけがあって、平生へ掛けても面白いこと。また、道体篇で無妄の条の次にこれが出たのだから、編次の意に引き落とすと一際面白い。無妄も中孚も、人は一箇の小天地と言うのも心のこと。列子が方寸、晋人が空洞と言うのも皆、心を一つの形として言ったことだが、その形にも、内に空いた所に形のないものが一つある。そこが誠のいるところである。形がなければ物はないが、そこに理があるというのは誠のこと。聖人も目や鼻を指して言うことではない。虚の中に実がある。天地の根本は太極で、人にもそれが心に具わっているから、それを周子が人極とも言った。邵子は「心為太極」とも言った。形の中に形ないものを持っている。そこが中孚で、そこに妄はない。无妄と中孚は同じもの。そこで薛文清が中孚でこの条を説いたが、これで前条の誠とふっくらと済む。つまり、中孚の中の処は冲漠無朕であり、そこに誠が万象森然として具わってある。これで心為太極が済んだ。
【語釈】
・中孚…易経兌下巽上。風澤中孚。
・列子が方寸…列子仲尼。「既而曰、嘻。吾見子之心矣。方寸之地虚矣。幾聖人也。子心六孔流通、一孔不達。今以聖智爲疾者、或由此乎。非吾淺術所能已也」。
・晋人か空洞…
・心為太極…


第三十三 近取於身の条

近取諸身、百里皆具。屈伸往來之義、只於鼻息之閒見之。屈伸往來只是理。不必將既屈之氣、復爲方伸之氣。生生之理、自然不息。如復卦言七日來復、其閒元不斷續。陽已復生、物極必返。其理須如此。有生便有死、有始便有終。
【読み】
近く諸を身に取るに、百里皆具わる。屈伸往來の義、只鼻息の閒に於て之を見る。屈伸往來は只是れ理なり。既に屈せし氣を將[もっ]て、復方に伸ぶる氣と爲すを必とせず。生生の理は、自然に息まず。復の卦に七日にして來復すと言うが如き、其の閒元より斷續せず。陽已めば復生まれ、物極まれば必ず返る。其の理須く此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終わり有り。
【補足】
この条は、程氏遺書一五にある伊川の語。

近思のならへ様、前方まては氣か付なんたか、今度は少しすむやうなり。似よりた条をきっはり々々々々と一と処へ並へぬにわけあることなり。この章も剥の条から感応のあたりへのせべきに、そふはせぬ。ここらへ遠ふのけてだすは、あちこちとあとへ立戻りして通會させるためなり。上に一貫が有り、一貫か大切なり。前後を尋ると異端になる。大易不曰有無と云も、有るにも無にも理はある。道理の一貫てをるゆへなり。天地の間が屈伸往来なり。それは阴阳の姿で、どちにも理かありて珎らしいことてはないなり。其屈伸往来のことを天地てさばくことでなし。近取於身なり。天文者のやうに上を見る様なことでない。それは手に入らぬ。五尺のからたにあるゆへ、身てとれなり。百里皆備。孟子の萬物皆具於我も同ことなり。
【解説】
「近取諸身、百里皆具」の説明。無にも有にも理があって、道理は一貫である。この条は気の屈伸往来を説いたものだが、それは天地ではなく、人で語ったものである。それは、人の五尺の体に太極が具わっているからである。
【通釈】
近思の並べ方について、以前は気が付かなかったが、今度は少しわかってきた様である。似通った条をきっぱりと一箇所に並ばせないのにはわけがある。この章も剥の条から感応の条の辺りに載せるべきなのに、そうはしない。ここ等辺に遠く除けて出したのは、あちこちと前に立ち戻って通会させるためなのである。前条に一貫があるが、その一貫が大切である。前後を尋ねると異端になる。「大易不曰有無」と言うのも、有にも無にも理はあって、道理が一貫でいるからである。天地の間は屈伸往来である。それは陰陽の姿で、どちらにも理があって、それは珍しいことではない。ここはその屈伸往来を、天地のことで捌くものではなく、「近取於身」で捌く。天文者の様に上を見る様なことではない。それでは手に入らない。五尺の体にこれがあるから身で取るのである。「百里皆備」。孟子の「萬物皆具於我」もこれと同じこと。
【語釈】
・剥の条…道体9を指す。
・感応のあたり…道体12を指す。
・大易不曰有無…異端13。「大易不言有無。言有無、諸子之陋也」。
・屈伸往来…易経繋辞伝下5。「易曰、憧憧往來、朋従爾思。子曰、天下何思何慮。天下同歸而殊塗、一致而百慮。天下何思何慮。日往則月來、月往則日來、日月相推而明生焉。寒往則暑來、暑往則寒來、寒暑相推而歳成焉。往者屈也、來者信也。屈信相感而利生焉。尺蠖之屈、以求信也。龍蛇之蟄、以存身也。精義入神、以致用也。利用安身、以崇德也。過此以往、未之或知也。窮神知化、德之盛也」。
・萬物皆具於我…孟子尽心章句上4。「孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉」。

屈伸往来之義云々。直方先生の筆記に、之義を理にあてて六ヶしい。恐くは記禄の誤と云べし。屈伸往来は太極の流行なり。之義とはその訳をと云ことなり。天地の全体遠くをさかすことてない。手前の身て天地かすむ。それも鼻息かよいとなり。邵子は數て十二萬九千六百年と云へとも、そふきめてもとど無窮にて、前天地の終は後天地の始とどこまでもつつく。其間かいつも々々々寒暑昼夜往来て立て居る。されとも、天地の上ではばっとして見付にくい。そこで上を見ることてない。人々己れか身て合点せよ。鼻の息と云ものが取揚げ婆々のとりあけた時よりつついて居る。鼻息て、天地の屈伸往来もこの小いものてすませとなり。系辞傳に孔子の仰せられたをこの輕ひ於鼻息之間見よとは、学者もよいことを聞たなり。これても合点ゆか子は仕方はない。
【解説】
「屈伸往來之義、只於鼻息之閒見之」の説明。天地は広々としていて見付け難いが、遠くを探さなくても人の身で天地を見ることができる。それで「於鼻息之間」と言われた。
【通釈】
「屈伸往来之義云々」。直方先生の筆記に、「之義」を理に当てるのは難しい。恐らくは記録の誤りだろうとある。屈伸往来は太極の流行で、之義とはそのわけである。天地の全体を知るのに遠くを探す必要はない。自分の身で天地がわかる。それも鼻息がよいと言う。邵子は天を数で十二万九千六百年と言ったが、そう決めても結局は無窮であって、前天地の終わりは後天地の始め、つまりはどこまでも続くのである。その間がいつも寒暑昼夜往来で立っている。しかし、天地の上では広々として見付け難い。そこで上を見るのではなく、自分の身で合点しなさい。鼻の息というものが、取り上げ婆が取り上げた時から続いている。天地の屈伸往来もこの小さい鼻息で済ませと言う。繋辞伝で孔子が仰せられたことを、軽く「於鼻息之間」を見なさいと言うとは、学者もよいことを聞いた。それでも合点することができなければ仕方がない。

偖、爰に垩賢の語の立と立でないことを見へし。近く身にとるなれば親切なことももっと有ふに、鼻息と云たきりのことなり。此か垩賢の流義の語立なり。あまり親切過るとひょんなことにもなる。外に系辞の中にもいこふ人の身に引付た文字あり、よくすみて朱註の字が活ると、あまりじかに人の身にあり々々とした章かあり、それをへったりと云と垩賢の語立でなし。神道は某知ぬことなれとも、ちと親切が過るなり。五十に成子ば傳授かならぬと云があるそふな。それも親切に云過るゆへそ。五十に成ぬ若ものは、くっと吹出すこともあらんがなり。其筋、鈴木貞斎も云た。垩賢の立は鼻息とさっと云しまふことなり。凡語立と云こと知へし。孔子の戒之在色との玉ふきりにて、ここか大切とまてのこと。こまかには示されぬ。楞嚴經に好色を戒るとて腎精を動すそと云はれた。云様か孔子よりは親切て、釈迦のか若いものの戒になるやふなれとも、孔子のすらりとしたか中国、釈迦のは親切か夷狄なり。琴は大ふ間、三絃は煩手。それて琴よりげひる。猿樂と哥舞妓もそれで、能はゆるやか、堺町は殺される。狂言は血を吐たり泣ことは本の涙に見へる。因て、すらりとしたにはふくむ処もありて垩人の詞なり。親切だけ、どふしても釈氏は天竺の道なり。ここに鼻息と云て、このさきは説ぬことなり。何もかも引付ぬことなり。天地の數かきりもないことも四支百骸て知れるか、鼻息きりて萬端知るるなれば、外のことはさしをくことなり。
【解説】
詳しく説明をしないのが聖賢の語の立て方である。細かく言えば下卑る。そこで、ここは鼻息とだけ言って後は説かないのである。
【通釈】
さて、ここに聖賢の語立てとそうでない語立ての違いを理解しなさい。近く身に取るのなら、もっと親切なこともあるだろうに、ここは鼻息と言っただけである。それが聖賢の流儀の語立てである。あまり親切過ぎると妙なことにもなる。繋辞伝の中にも他に大層人の身に引き付いた文字があり、それがよく済んで朱註の字が活きるとあまりに直に人の身にありありとした章となるが、それをべったりと言うのは聖賢の語立てではない。私は神道を知らないが、神道は少し親切が過ぎる。五十にならなければ伝授はできないということがあるそうだが、それも親切に言い過ぎるからである。五十にならない若者は、ぷっと吹き出すこともあるからだろう。その筋のことは鈴木貞斎も言っていた。聖賢の語立ては鼻息と、さっと言い仕舞う。先ずは語立てということを知りなさい。孔子は「戒之在色」と仰るだけで、ここが大切だと言うまでのこと。細かくは示されない。楞厳経には好色を戒めるために腎精を動すとある。言い様が孔子よりは親切で、釈迦の方が若い者の戒になる様だが、孔子のすらりとした語立てが中国で、釈迦のはその親切が夷狄である。琴は間が大きく、三絃は手が煩わしい。それで琴より下卑る。猿楽と歌舞伎もそれで、能は緩やか、堺町は殺される。狂言は血を吐いたりして、泣くと本物の涙に見える。そこで、すらりとしたことには含む処もあり、それが聖人の言葉なのである。親切なだけ、どうしても釈氏は天竺の道である。ここでは鼻息とだけ言って、この先は説かない。何もかもは引き付けないのである。天地の数の限りないことも四肢百骸でわかるが、鼻息だけで万端を知ることができるのだから、他のことは差し置くのである。
【語釈】
・鈴木貞斎…
・戒之在色…論語季氏7。「孔子曰、君子有三戒。少之時、血氣未定、戒之在色。及其壯也、血氣方剛、戒之在闘。及其老也、血氣既衰、戒之在得」。
・楞嚴經…
・腎精を動す…
・堺町…東京都中央区蠣殻町の北にあった町。江戸時代に歌舞伎・浄瑠璃・操芝居などがあり繁昌した。
・四支百骸…四肢百骸。四肢は両手と両足。百骸は身体にもっている多くの骨。

屈伸只是理也不必既屈之氣云々。屈伸は阴阳の氣なれとも、氣はかりはたらくでなく、理がさせる。太極動而のことなり。天地は食つくされぬ。東金の酒屋はかきりあるか、天地の春はのみつくされぬ。今日もこの講釈でいかいこと口をきくゆへ、晩からは咄かもふならぬかと云にそふてない。いくらも理から湧く。こしらへものはやむか、生れてから呼吸のやまぬやうに生々の理はたへぬゆへ、あぶないことなし。路銀は大井川や天流が出るとつかい果すか、天地はいくらも産出す。七日来復。周公の辞にて、こふこそ云ものなれ、断續はない。五月の姤より十一月迠七ヶ月目に一陽かへるを云。卦の上で来復ると云て眼て見た所はそふなれとも、中はきれぬ。日を月にかへた例、古文字にあること。豳風七月の詩、一日之觱発と云。
【解説】
「屈伸往來只是理。不必將既屈之氣、復爲方伸之氣。生生之理、自然不息。如復卦言七日來復、其閒元不斷續」の説明。屈伸は陰陽の気だが、それを動かすのは理であって、天地の生々に尽きることはない。「七日来復」は天地の生々に断続のないこと。
【通釈】
「屈伸只是理也不必既屈之氣云々」。屈伸は陰陽の気だが、気のみが働くのではなく、理がそれをさせるのであって、それは「太極動而」のことである。天地は食い尽くされない。東金の酒屋には限りがあるが、天地の春は飲み尽くされない。今日もこの講釈で沢山喋ったから、晩からは話はもうできないかといえばそうではない。いくらでも理から湧いて出る。拵え物は止むが、生まれると呼吸が止まらない様に生々の理は絶えないから、危ないことがない。路銀は大井川や天竜川で川留めに合えば使い果たすが、天地はいくらでも産み出す。「七日来復」。これは周公の辞で、この様にこそ言え、そこに断続はない。五月の始まりから十一月まで、七ヶ月目に一陽が復すことを言う。卦の上では来復と言い、眼で見た所はそうだが、中は途切れない。日を月に替える例は、古文字にある。豳風七月の詩では、「一日之觱発」と言う。
【語釈】
・七日来復…復卦。「復、亨。出入无疾、朋來无咎。反復其道、七日來復。利有攸往。彖曰、復亨、剛反也。動而以順行。是以出入无疾、朋來无咎。反復其道、七日來復、天行也。利有攸往、剛長也。復其見天地之心乎。象曰、雷在地中復。先王以至日閉關、商旅不行、后不省方」。
・一日之觱発…詩経豳風七月。「一之日觱發。二之日栗烈。無衣無褐、何以卒歳」。一の日は周暦11月、二の日は12月。

陽已復生物極必返。異端は輪囘を云か、もとの物か顔を洗ふて来るてない。それは小い狂言なり。天地は向へ行きり。屈したものは伸はせぬ。當春の氣を仕舞て来春へ出すことてなし。返ると云は、元とのやふなものか来たゆへ返たと見へるが、そふしたことてない。江戸なと潮につれて今朝流れた精灵棚のものなとが、又晩方の潮につれて来るを見て、又今朝の潮か来たと思ふは了簡違いなり。去年の春も今年の春も花は同し物ゆへ、又去年の同しものが來たやふなれとも、天地は向へ行すてなり。潮のことを荘子か焦土にそそくとはよく見て、今朝の潮か來たてなく、やけ石へひくと云かさて々々よく云たなり。異端の語多く垩人の道にもとる。この語は垩人の方へ入用な道具。よく云たなり。
【解説】
「陽已復生、物極必返。其理須如此」の説明。「返」とは、元のものが再び出て来ることではなく、一度行ったものが返って来ることはない。異端の言う様な輪廻はない。潮のことを荘子が焦土に注ぐと言ったのはよい言である。
【通釈】
「陽已復生物極必返」。異端は輪廻を説くが、元の物が顔を洗って出て来るのではない。それは取るに足りない戯言である。天地は向こうへ行った切り。屈したものは伸びたりはしない。当春の気を仕舞って置いて来春へ出すのではない。「返」とは、元の様なものが来るので返って来た様に見えるが、そうしたことではない。江戸などで、潮に連れて今朝流れていた精霊棚などが、また、晩方の潮に連れて来るのを見て、また、今朝の潮が来たと思うのは了簡違いである。去年の春も今年の春も花は同じだから、また、去年と同じものが来た様だが、天地は向こうへ行くだけである。潮のことを荘子が焦土に注ぐと言ったのはよく見てのことで、今朝の潮が来たのではない。焼け石へ引くとは実によく言ったもの。異端の語の多くは聖人の道に悖るが、この語は聖人の方へ入用な道具であって、よく言った語である。
【語釈】
・潮のことを荘子か焦土にそそく…

有生便有死。便の字、らいのあること。生れたものかそろ々々死なり。今朝江戸へ立たものか舟橋て一宿して、又あくる日は分んの者が出るでない。其人か出る。それは形した人の上のこと。天地の方は人のこのからたのやふでなく、只向へ々々とすすむ。されとも其人てからか一日つつ向へすすむ。新くなる。一夜泊れは一夜たけの年かよりて、今朝はたあとは一日たけ向へ進んたなり。鳥は古巣に花は根てない。直方先生の、輪乘か又かへるやふなれとも、あれを向へ眞直にのるとどこ迠も行と云はるる。肴へ蟻のつくも、魚櫃の丸いなりにめくるも、あれも返るてなく、向へすすむなり。向へすすむなり。向へ行は川上が見よいから川上の歎あり。柱ても段々一日々々ふるくなるはむこふへゆくなり。偖、死生のこと、太極圖説の結語も是れなり。先日も云、石原先生の太極圖を語られて氣さんじなことなりと云はるるか、ここがすむと成ほと氣散しなり。中々手の筋をみるの、星祭りのとは出ぬ。有生便有死、珎らしからぬこと、うろたへぬことなり。ここにうろたへぬなれば、さて々々氣散なことなり。
【解説】
「有生便有死」の説明。天地がただ向こうへと進む様に、人も時に従って一日ずつ向こうへと進み、最後は死ぬ。死とは気が散ること。そこで、死生は当然のことだから、これに狼狽えることはない。
【通釈】
「有生便有死」。「便」の字は、間があること。生まれたものがそろそろ死ぬ。今朝江戸へ立ったものが船橋で一宿すると、また明日は別の者が出立するのではなく、その人が出る。それは形ある人の上のこと。天地の方は人のこの体の様ではなく、ただ向こうへと進む。しかし、人も一日ずつ向こうへ進んで新しくなる。一夜泊まれば一夜だけ年が寄って、今朝、死ぬのは一日だけ向こうへ進んだのである。鳥は古巣に花は根ということではない。直方先生が、輪乗りはまた元に返る様だが、あれを向こうへ真直ぐに乗るとどこまでも行くと言われた。肴に蟻が付く時も魚櫃の丸い通りに廻るが、あれも返るのではなく、向こうへ進んでいるのである。向こうへ進む。向こうへ行くことは川上が見易いから川上の歎がある。柱も段々と一日ずつ古くなるのは向こうに行くのである。さて、死生のこと、太極図説の結語もこれである。先日も石原先生が太極図を語られた際に気散じなことだと言われたと言ったが、ここがわかると、なるほど気散じである。手相を観るとか星祭などとは中々言わない。「有生便有死」は珍しいことではなく、狼狽えないこと。ここに狼狽えないのなら、本当に気散じなことである。
【語釈】
・輪乘…庭乗りの乗法の一。輪形に馬を乗りまわすこと。
・川上の歎…論語子罕16。「子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜」。
・太極圖説の結語…道体1。「原始反終、故知死生之説」。
・氣さんじ…溝口公に対する「原始反終、故知死生之説」の説明の中で、石原先生が気散じと言ったこと。
・星祭り…密教で、除災・求福のために当年星または本命星をまつること。星供。

有始便有終。毎日々々これになれて居か、死はこのからた一生に一度のことゆへ、造化のうつりかわり、物の終始のやふにはすまぬ。我身のことは人々大ふうろたへるぞ。其うろたへを道体の方へまて出すは大な心得違なり。この小いからだでも天地を見るゆへ私か出る。張子、蔽用於一身之小と云ふ。異端我からたの小いのをもっていって天地へくるいを云なり。天地を因縁すなり。
【解説】
「有始便有終」の説明。死は我が身一生に一度のことだから狼狽え易い。しかし、異端の様に、天地に対して因縁をつけてはならない。
【通釈】
「有始便有終」。毎日これに慣れているが、死はこの体にとって一生に一度のことだから、造化の移り変わり、物の終始の様には済まない。我が身のことについては、人は大層狼狽える。その狼狽えを道体の方にまで出すのは大きな心得違いである。この小さい体で天地を見るから私が出る。張子が、「蔽用於一身之小」と言った。異端は自分の小さい体を持って行って、天地に対して間違ったことを言う。それは天地に因縁をつけているのである。
【語釈】
・蔽用於一身之小…


第三十四 天地之間一箇感与應の条

明道先生曰、天地之閒、只有一箇感與應而已。更有甚事。
【読み】
明道先生曰く、天地の閒、只一箇の感と應と有るのみ。更に甚[いか]なる事か有らん、と。
【補足】
この条は、程氏遺書一五にある。

前の有感必有応の章と同し語なれとも、これは上の屈伸を感応ときめ落すためにここへ引たなり。尤、只感應ときめる計てない。前の感応の条とはあたりか違ふ。前は、知道者黙して觀之とは語脉か違ふ。語脉知らぬと筋か見へぬ。うって違ふた病に酒を許すやうなもの。それを病欝をひらくの、これて此藥かはたらくのと云筋あり、酒をゆるすにさへ筋にある。葉采のやうに詳に見前とはかりては、重出と云ふも一つになりて塩梅かない。同し感応なれとも、見てとる方て違ふ。語意からか前は重くれる。この条はさます。前のはいやと云はれぬ。ここはむぞうさに云。天地大ふいなれとも、さま々々道具はない。有一箇感與応なりと、この二て足らぬやうなれとも、余のものはない。今朝思ふたが、丁ど足が二本て沢山なやうなものなり。笑曰、もふ一本あるとあるかれぬ。感と打、応とひひく。この二にて外のものがあると、歯にもののはさまりたなり。天地の間、二の生ものて永久につつく。
【解説】
「明道先生曰、天地之閒、只有一箇感與應而已」の説明。ここの「感応」は前条の屈伸のことであって、12条の感応とは語脈が違う。天地はただ感応のみで永久に続くのであって、それ以外はない。
【通釈】
「感応」は、前にある「有感必有応」の章と同じ語だが、これは前条の屈伸を感応のことだと決め落とすためにここへ引いたのである。尤も、ただ感応だと決めるだけではない。前の感応の条とは当たりが違う。前は、「知道者黙而觀之」とは語脈が違う。語脈を知らなければ筋が見えない。全く違った病に酒を許す様なもの。そこに病欝を開くとか、これでこの薬が働くなどという筋があって、酒を許すことにさえ筋がある。葉采の様に、詳らかに前を見ると言うだけでは、重出と同じことになって塩梅がない。感応は同じだが、見て取る方で異なる。語意から言っても、前のは重々しい。この条は醒ます。前のはいやとは言えないことで、ここは無造作に言ったこと。天地は色々なものがあるが、その道具は様々ではない。ただ、「有一箇感與応」だと言う。この二つでは足りない様だが、他のものはない。今朝思ったことだが、丁度足が二本で十分な様なもの。笑って言う、もう一本足があると歩くことができない。感と打って応と響く。この二つの他にものがあると、歯にものが挟まったのと同じである。天地の間は二つの生きもので永久に続く。
【語釈】
・有感必有応…道体12の語。
・知道者黙して觀之…道体12。「感通之理、知道者默而觀之、可也」。
・葉采…葉仲圭。葉解の著者。
・重くれる…おもたそうである。おもくるしそうである。くどくどしい。

更有甚事。直方先生、未た有ふと云か異端じゃ、と。異端はあろふかとさかしてあるく。本来の面目、混沌未分は外をさかしたつ子る。そこて感応か腰をつくなり。此方は目に見へるなりぞ。感応々々、この外はない。ここか道と云なり。此外にもそっと上品なものか未た有ふと尋るて動かぬ。そこて死物か出来る。道は動靜々々とはづむて活ている。動靜所乘之機と云も感応のことなり。それて丁どに行く。それがないと腰ぬけなり。人の身も生もの。そふないと不仁病なり。よく合点すると、どこも一つにをちることなり。これから次の章の仁へうつす処、さて々々面白い編次の序なり。
【解説】
「更有甚事」の説明。異端は感応の他にも何かがあると思ってそれを探し、本来の面目や混沌未分があるとするが、それでは感応が間断し、死物となる。道は動静で感応して活きるのである。
【通釈】
「更有甚事」。直方先生が、まだあるだろうと言うのが異端だと言った。異端はまだあるだろうと探して歩く。本来の面目や混沌未分は外を探し尋ねる。そこで感応が間断する。こちらは目に見える通りで、感応の他はない。ここを道と言う。異端はこの他にもう少し上品なものがまだあるだろうと尋ねるから動かない。そこで死物ができる。道は動静と弾んで活きる。「動静所乗之機」と言うのも感応のこと。それで丁度に行く。それがないと腰抜けである。人の身も生きもの。そうでないと不仁の病である。よく合点すると、どこも一つに落ちること。これから次の章の仁へ移す処が、やはり面白い編次の作り様である。
【語釈】
・動靜所乘之機…太極図説朱解。「蓋太極者、本然之妙也。動靜者、所乘之機也。太極、形而上之道也。陰陽、形而下之器也」。


第三十五 問仁伊川先生曰の条

問仁。伊川先生曰、此在諸公自思之。將聖賢所言仁處、類聚觀之、體認出來。孟子曰、惻隱之心、仁也。後人遂以愛爲仁。愛自是情、仁自是性。豈可專以愛爲仁。孟子言惻隱之心仁之端也。既曰仁之端、則不可便謂之仁。退之言博愛之謂仁、非也。仁者固博愛。然便以博愛爲仁、則不可。
【読み】
仁を問う。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思うに在り。聖賢の仁を言う所の處を將[もっ]て、類聚して之を觀、體認し出で來れ。孟子曰く、惻隱の心は、仁なり、と。後人遂に愛を以て仁と爲す。愛は自ら是れ情にして、仁は自ら是れ性なり。豈專ら愛を以て仁と爲す可けんや。孟子は惻隱の心は仁の端なりと言えり。既に仁の端と曰えば、則ち便ち之を仁と謂う可からず。退之博愛を之れ仁と謂うと言いしは、非なり。仁者は固より博く愛す。然れども便ち博愛を以て仁と爲すは、則ち可ならず、と。
【補足】
この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

近思に熟すがよい。これが仁のことの六条目なり。ちらほらませて六処目に仁が三条つついてあり。前にも云通り、ゆき間かへり間に仁へ立よら子は仁の名義は得られぬ。偖、この問仁は孔子の問とは違ふ。論語はすべて仁になりやふを問ふ。二程の門人にもそれも有ふか、多くは仁に近付になりやうを問。この章も仁に近付てない人の問なり。
【解説】
「問仁」の説明。論語の「問仁」は仁を得る方法を問うものだったが、ここの「問仁」は、仁に近付きになる仕方を問うものである。
【通釈】
近思に熟すのがよい。これが仁に関しての六条目である。ちらほらと混ぜて六箇所目に仁が三条続いてある。前にも言う通り、行き間帰り間に仁へ立ち寄らなければ仁の名義は得られない。さて、この「問仁」は孔子への問いとは違う。論語は全て仁になる仕方を問うものである。二程の門人にもそれもあるだろうが、多くは仁への近付きになる仕方を問うもの。この章も仁に近付きでない人の問いである。
【語釈】
・孔子の問…論語雍也20。「樊遲問知。…問仁。曰、仁者先難而後獲。可謂仁矣」。顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁」。顔淵3。「司馬牛問仁。子曰、仁者其言也訒」。顔淵22。「樊遲問仁。子曰、愛人」。子路19。「樊遲問仁。子曰、居処恭、執事敬、與人忠。雖之夷狄、不可棄也」。

此有諸公云々。御傳授は得ならぬゆへ、そちの胸て近付になれなり。ここか弟子に勵めと云ことてはなし。仁にも一寸とすむ名義もあり、中和集説ても云通、名義も頭付てもよいことあるか、未發の中なとは功夫へ片足入れ子はすまぬ。然し、天地位焉万物育焉は垩学の極功て戒謹恐懼のきり々々。あれを云ことてはないか、まつ一つ胸へのせると、ははああれかと塩梅か知るる。仁もそれ。功夫へ片足入子はすまぬ。仁になろふは端的克復の功夫なり。ここは思とあるからは、胸へのせることなり。東金へ買ものの用は途中て人をやとい、何屋の誰ですみて思には及はぬ。輕いことはそれてよいかある。本屮や詩の名物のと云は、人のことをそふか々々々と云てもすむ。仁のことは將棊の駒の利やう覺るてない。胸へのせるてなけれはならぬ。直方先生の筆記に思ことを大切にといてあり。師の力ら借る計ては行ぬ。毎々云、自ら云るるに佐渡の金山に金はあると教たは嘉右衛門殿、掘たはをれと重治良じゃとなり。師の、朋友のと云ては、仁は得られぬ。垩賢所言仁云々。仁は大きな味のことなり。孔門ては仁を暖簾にかけてありなから、罕にの玉ふとあり、論孟に多あれとも板行押たやふてない。愛人とあるかとをもへは、伯夷求仁得仁などと思ひよらぬ所に面ぶりかわりてある。体認。自身の胸にかけるを云。
【解説】
「伊川先生曰、此在諸公自思之。將聖賢所言仁處、類聚觀之、體認出來」の説明。仁を伝授することはできず、自分自身で知らなければならない。それは自分の心に載せることであり、克己復礼して思うことによって得られる。仁は論語や孟子に多くあるが、その面振りは色々と異なったものである。
【通釈】
「此有諸公云々」。伝授することはできないから、そちらの胸中で近付きになれと言った。ここは弟子に励めと言ったことではない。仁にも直ぐにわかる名義もあり、中和集説でも言う通り、名義も頭付でもよいこともあるが、未発の中などは工夫へ片足入れなければ済まない。それだからと言って、「天地位焉万物育焉」などは聖学の極功、「戒謹恐懼」の至極であって、それを言うわけではないが、先ず一つ胸へ載せると、ははああれかと塩梅を知ることができる。仁もそれで、工夫へ片足入れなければ済まない。仁になろうとするのは端的、克己復礼の工夫である。ここは「思」とあるのだから、胸へ載せるのである。東金へ買物に行く用は途中で人を雇い、何屋の誰の所へ行けと言えば済むから思うには及ばない。軽いことはそれでよいということがある。本草や詩、名物などは、人の話をそうかそうかと言っても済む。しかし、仁のことは将棋の駒の使い方を覚える様なことではなく、胸へ載せるのでなければならない。直方先生の筆記には思うことを大切に説いてある。師の力を借りるばかりではいけない。毎々言われたことだが、自らが言われるに、佐渡の金山に金があると教えたのは嘉右衛門殿で、掘ったのは俺と重治郎だ、と。師や朋友などと言っていては仁を得ることはできない。「聖賢所言仁云々」。仁は大きな味のこと。孔門では仁を暖簾に掛けてありながら、罕に仰るとあり、仁は論孟に多くあるが、それは板行で押した様なものではない。「愛人」とあるかと思えば、「伯夷求仁得仁」などと思いもよらない所に面振りが変わって載っている。「体認」。自身の胸に掛けることを言う。
【語釈】
・中和集説…
・頭付…
・天地位焉万物育焉…中庸章句1。「喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉」。
・戒謹恐懼…中庸章句1。「道也者、不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞」。
・克復…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁」。
・嘉右衛門殿…山崎闇斎。
・重治良…浅見絅斎。江戸中期の儒学者。名は安正。通称、重次郎。別号、望楠軒。近江の人。山崎闇斎に学び、崎門三傑の一人。気節を尚び、尊王説を唱えた。著「靖献遺言」など。1652~1711
・罕にの玉ふ…論語子罕1。「子罕言利。與命與仁」。
・愛人…論語顔淵20。「樊遲問仁。子曰、愛人」。
・伯夷求仁得仁…論語述而14。「伯夷叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨」。

孟子曰惻隠之心は、人のことか此方の心にいた々々しくいたむ塲のあること。向のひだるいは我胸とは違へとも、どふしてか人のひたるいかこちへひびく。犬の肴にばちらごふやふなことばかりてはない。凡夫、人欲はあるときは、それはそふなれとも、どふしてか鉢坊主かそこへたふれて目をまはしたと云ふ、はやはっと云て氣付でもやる。それが丁ど入梅の中に日の照るやふに誰も覚のあることて、押すにをされぬこんなことか有ふと云に、誰々も無と云手はなく、自然に惻隠の心かある。にく々々しい男ても、鬼の目に涙かある。そこて孟子の仁と惻隠は挌式てちかへとも、一つに云も仁か外へ出てすることゆへ、仁の見へぬものより誰も近付ゆへ直か付に仁と云へり。盗人は人を殺すほとのものなれとも、覺へずひき蛙をふんたときにはっと云。そこには氷かはらぬ。因て、仁に近付になるには孔子より孟子かよい。
【解説】
「孟子曰、惻隱之心、仁也」の説明。孟子が惻隠を仁と言ったのは、惻隠とは仁が外に出て現れたものであり、仁を直に言うよりわかり易いからである。惻隠の心は誰にもある。
【通釈】
「孟子曰惻隠之心」とは、人のことが自分の心に痛々しく痛む場のあること。向こうの空腹は自分の胸のこととは違うものだが、どうしてか人の空腹がこちらに響く。犬の肴に群がる様なことばかりではない。凡夫は、人欲がある時はそうなるものだが、どうしてか鉢坊主がそこに倒れて目を回したと聞けば、直ぐにはっと感じて気付けでも遣る。それが丁度入梅の中に日が照る様に誰にも覚えのあることで、この様な確かなことがあるだろうと言えば、それはないと言う者は誰もいない。自然と惻隠の心があるのである。憎々しい男でも、鬼の目に涙ということがある。そこで、孟子の仁と惻隠とでは格式は違うが、それを同じく言うのも惻隠は仁が外へ出てすることだからで、仁という見えないものより惻隠の方が誰も近付きなので直にそれを仁と言ったのである。盗人は人を殺すほどのものだが、知らずに蟇蛙を踏んだ時ははっとする。そこには氷は張らない。そこで、仁に近付きになるには孔子より孟子の方がよい。

後人遂以愛云々。愛と仁を一つに云へとも、後人のやふに心得なしに一つにはならぬことなり。大名の供、駕籠わきの若黨、六尺のと分子はならぬ。鎗持と供頭を一つにしてすまぬ。金屏風のわきへ鎗持か家老用人と一つに幷んてはつまらぬ。孟子のは手抦なれとも、後人の無面目とりちこふた。中に歴々も有て一かとの学者が見そこなった。周子も愛曰仁と道体の二枚目にあれと、あれは見所ありて云。酒をのみ、赤きを酒と云へは、後人は躑躅も柘榴も赤ものは酒と云やふに思ひ、孟子へへったりとのりて性情の別を知らぬ。五摂家と北面は挌式違ふこと。出たと入たを知らぬ。清名幸谷と福俵、境のあそこの橋のやふなもの。橋まては仁、橋を跨ては情なり。そとへ出ると愛、内に引こんているときは仁。つまり一つもの。二つものと云と惻隠之心仁なり、愛曰仁か不調法になる。一而二二而一か、とこてもさはける。直方先生の、あれを號帯にすると、どこの関所ても通すと云。一而二二而一か蛤をあさりと云とは違ふ。一つ蛤を焼て出しても吸ものにしても同じことなり。
【解説】
「後人遂以愛爲仁。愛自是情、仁自是性」の説明。孟子の「惻隠之心仁之端也」を後人が見損なって「愛爲仁」と解釈したが、それは性情の別を知らないからである。外へ出ると情で愛、内に引き込んでいる時は性で仁なのであって、「一而二二而一」なのである。
【通釈】
「後人遂以愛云々」。愛と仁とを同じことだと言うが、後人の様に心得なしに一緒にしてはならない。大名のお供、駕籠脇の若党、六尺などと分けなければならない。槍持と供頭を一緒にして済まない。金屏風の脇で槍持が家老や用人と一緒に並んでは済まない。「惻隠之心仁也」は孟子の手柄だが、後人が面目なくもそれを取り違えた。その中には歴々もいたが、一角の学者が見損なったのである。周子も道体二条で「愛曰仁」と言ったが、あれは見所があってのこと。酒を飲んで赤いのを酒と言えば、後人は躑躅も石榴も赤いのは酒という様に思うことになり、孟子にべったりと乗っても、それは性情の別を知らないというものである。五摂家と北面とでは格式が違う。出ることと入ることの違いを知らない。清名幸谷と福俵の境にある、あそこの橋の様なもの。橋までは仁、橋を跨ぐと情である。外へ出ると愛、内に引き込んでいる時は仁で、つまりは同じもの。別々に言うと、「惻隠之心仁也」や「愛曰仁」が不調法になる。「一而二二而一」で、どこでも捌ける。直方先生が、あれを號帯にするとどこの関所でも通ることができると言った。一而二二而一は蛤をあさりと言うのとは違う。それは、たとえば蛤を焼いて出しても吸物にしても蛤としては同じだということである。
【語釈】
・若黨…武士の従者。近世には武家奉公人の最上位で、戦闘に参加したが馬に乗る資格のない軽輩を指す。
・六尺…力仕事や雑役に従う人夫。かごかき人足や掃除夫・賄方などにいう。
・五摂家…鎌倉時代以来の、摂政・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司の総称。五門。
・北面…①臣下または弟子の座位。また、臣下として君主に仕えること。②北面の武士。院の御所の北面にあって、院中を警護した武士。官位により四位・五位の者を上北面、六位の者を下北面または北面の下臈という。白河法皇の時に始まる。
・號帯…絵符・会符。江戸時代、幕府・武家・公家などが物資輸送に際して、特権を表示するため荷物につけた札。

豈可專以爲仁云々。大切のことでをぢゃる。愛を仁と云と仁の挌式かわるくなると云を、なせそのやふに御呵りなさるとは子かへすかよい。御師匠の周子も愛を仁と云はるる。二而一はここてござらぬかと云へとも、氣の方へ入るゆへあふない。そこて朱子の愛の理と、理と云揖を付て註せらるる。某前々云、舜は父母にこかれ、深艸の少將は小町に焦るるか、舜は天理なり。そこて愛々と一つに云ても深艸の少將かありて違ふ。仁と愛とは離れぬものなれとも、一つにすると旦那と供廻りか同ことになる。性は性にきめぬと告子や仏か作用是性になる。
【解説】
「豈可專以愛爲仁」の説明。愛は情であって気に入ることだが、仁は性であって理である。そこで朱子が「仁者愛之理」と言ったのである。舜の愛は天理だが、深草少将の愛は舜のそれとは違う。
【通釈】
「豈可専以為仁云々」。大切なことである。愛を仁と言うと仁の格式が悪くなると言うのを、何故その様にお呵りなさるのかと撥ね返すのがよい。御師匠の周子も愛を仁と言われた。「二而一」とはここのことではないのかと言うが、気の方へ入るからそれは危ない。そこで朱子が「愛之理」と、理という揖を付けて註された。私が前々から言っていることだが、舜は父母に焦がれ、深草少将は小町に焦がれたが、舜は天理である。愛々と同様に言っても深草少将のこともあるから仁と愛とは違ったものなのである。仁と愛とは離れないものだが、一つにすると旦那と供廻りとが同じことになる。性は性として決めなければ、告子や仏の「作用是性」となる。
【語釈】
・愛の理…論語学而2集註。「仁者愛之理心之德也」。孟子梁惠王章句上2集註。「仁者心之德愛之理」。
・揖…
・深艸の少將…小野小町のもとに九十九夜通ったという伝説上の悲恋の人物。僧正遍昭あるいは大納言義平の子義宣かといわれるが不詳。
・作用是性…孟子告子章句上3集註。「生、指人物之所以知覺運動者而言。告子論性、前後四章、語雖不同、然其大指不外乎此、與近世佛氏所謂作用是性者略相似」。

孟子曰惻隠之心仁之端也云々。ここの処を先年迠は道理の上て云たか、ここはさっはと云かよい。後人の了簡違は告子篇て片々見たゆへなり。公孫丑ては、わけか違ふ。既にと云ふは公孫丑を指すことなり。仁の端と云たてはないかなり。惻隠之情を仁と云たかるか、端と云からは仁と云はれぬ。心に具った性と見ぬから、或は情にまかせ、或はわざになり、韓子か不調法かある。ここは丁寧に見かよい。とかく事にすれは、事ゆへ覇者も假る。心の德なれは假られぬ。わざにして博愛ゆへ假られる。性に氣つかいないか、博愛に氣遣かある。性は氣にわたらす。情は氣つりになり、又は事にあらはれるとつい心の德か後とになり、出た上を見て子貢も博施済衆と云を孔子の吹消されたれとも、韓子、それても目かさめぬ。しんみの処に近付てないゆへ、事の出た上を仁と思ふ。天下中のものを愛するか仁者の心なれとも、事の上は心底にまかせす。貧乏人は博愛はならぬ。たたい、仁は脉。猫の鼠をとるのなり。心の德と見て内にある理と合点すると、事へ出たことにはせす。仁と云は一心に私がまじらぬ。夛く物をやったよりは、こちの人を愛する心の活た所か仁なり。
【解説】
「孟子言惻隱之心仁之端也。既曰仁之端、則不可便謂之仁。退之言博愛之謂仁、非也。仁者固博愛。然便以博愛爲仁、則不可」の説明。後人が見損なったのは告子篇しか理解しなかったからで、公孫丑篇では「惻隠之心仁之端也」とある。端であるから惻隠は仁ではないのである。仁は理だが、それを事や業という気のことだと見れば、覇者も博愛も仁になってしまう。仁は心のことであって、事のことではない。
【通釈】
「孟子曰惻隠之心仁之端也云々」。ここの処を先年までは道理の上のこととして言っていたが、ここはさっぱりと言うのがよい。後人の了簡違いは告子篇で一方だけを見たからである。公孫丑篇で言うのは、それとわけが違う。「既」とは公孫丑篇のことを指すこと。仁の端と言ったではないかと言う。惻隠の情を仁と言いたがるが、端と言うからは、仁とは言えない。心に具わった性のことだと見ないから、或いは情に任せ、或いは業となって、韓退之の不調法もある。ここは丁寧に見なさい。とかく事とみなせば、事だから覇者もそれを真似することができるが、心の徳であれば真似はできない。業での博愛なので真似ができる。性に気遣いはないが、博愛には気遣いがある。性は気に渡らないが、情は気吊りになり、また、事に現れるとつい心の徳が後になる。事に出た上を見て子貢も「博施済衆」と言った。そこで、それを孔子が吹き消されたのだが、韓退之はそれでも目が醒めない。親身の処に近付きでないから、事に出た上を仁と思う。天下中のものを愛するのが仁者の心だが、事の上のことは心に任せないので、そこで貧乏人は博愛ができないということになる。大体、仁は脈である。それは猫が鼠を捕るのと同じ。仁を心の徳だと捉え、それは内にある理だと合点すると、事へ出たことに馳せることはない。仁とは一心に私が混じらないこと。多く物を遣ることではなく、人を愛する自分の心の活きた所が仁なのである。
【語釈】
・告子篇…孟子告子章句上6。「惻隱之心、人皆有之。羞惡之心、人皆有之。恭敬之心、人皆有之。是非之心、人皆有之。惻隱之心、仁也。羞惡之心、義也。恭敬之心、禮也。是非之心、智也」。
・公孫丑…孟子公孫丑章句上6。「惻隠之心、仁之端也。羞悪之心、義之端也。辭譲之心、禮之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四體」。
・博施済衆…論語雍也28。「子貢曰、如有博施於民、而能済衆、如何。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已」。
・退之言博愛之謂仁…原道。「博愛之謂仁。行而宜之之謂義」。

偖、以博愛為仁則不可のことに一つ云ことあり。詩の叔于田は共叔段か人を愛したて、詩人か、叔か不如也洵とに美にして且仁、と。これも博愛を仁とみるからこふなるぞ。揚之水に、我聞有命不敢以告人と云。桓叔、曲沃て盛になり、本家をないかしろにして謀叛の志あれとも、民か隠して不敢以告人と云。成師か一寸々々とめくんだて、民かなついてのことなり。齋の田常、魯の三家の類も下を惠むは、君よりはあいらかよくしたゆへに博愛の事て、下の者か口をあいてかかりた。そこて垩賢仁を云、事は二段にして心のことなり。論語に多く仁かあれとも、御免しはない。未知其仁々々々々との玉ふ。原憲に為難の、顔子仲弓の答や夷齋のこと、又、陳文子か類、丸て御免のないを見へし。共叔段成師は勿論、漢高唐の太宗、事の上に仁に似たこともあれとも假りものなり。因て朱子の、太宗ちらり々々々とした一寸のことても、人欲から出ぬことはないと云はるる。事を仁と思へは心か留主になる。管仲を孔子の仁と許れたは事て云、心て云へは管仲か弟子職は狼に衣と云はるる。仁は事業の上てなく、胸の上へのことを知すに、韓子かうっかりと博愛を仁とすると、大きな似せものを通をす。博愛は名を好む人にもあるもの。皆がをれか所へこいと云ふて酒はふるまふか、親子中はわるいと云。博愛を仁と云へは、つひ権謀者に仁を盗まれるなり。すれは博愛を仁と心得るとちこう。害のあることなり。
【解説】
博愛は事であり、聖賢は事を二の次にして心を第一とする。共叔段や桓叔の博愛は事で、漢の高祖や唐の太宗も仁に似たこともあるが、それは偽物である。孔子が管仲を仁だと言ったのも事の上のこと。韓退之の「博愛之謂仁」は大間違いであり、害を成すものである。
【通釈】
さて、「以博愛為仁則不可」のことについて一つ言うことがある。詩の叔于田では共叔段が人を愛したのを、詩人が「不如叔也洵美且仁」と言っているが、これも博愛を仁と見たのでこうなったのである。揚之水に、「我聞有命不敢以告人」とある。桓叔が曲沃に封じられて盛んになり、本家を蔑ろにして謀叛の志も持っていたが、民が隠して敢えて人に告げなかったと言う。成師が一寸ずつ恵んだので民が懐いたのである。斉の田常や魯の三家の類が下を恵んだのも、君より奴等をよくするためであって、それは博愛の事であり、それで下の者が口を開いて懐いた。そこで聖賢が仁を言う場合は、事は次のこととして、第一は心のことで言う。論語に多く仁があるが、御許しはない。「未知其仁」と仰った。原憲に「為難」や顔子仲弓への答え、伯夷叔斉のことや、また、陳文子の類、それ等で全くお許しがないことを見なさい。共叔段成師は勿論、漢の高祖や唐の太宗は事の上で仁に似たこともあるが、それは借り物である。そこで朱子が、太宗は些細なことでも人欲から出ないことはないと言われた。事を仁と思えば心が留守になる。孔子が管仲を仁だと許されたのは事について言ったのであって、心で言えば管仲の弟子職は狼に衣だと言われた。仁は事業の上でなく胸の上のことだとも知らずに、韓退之がうっかりと博愛を仁としたが、それは大きな偽物を通すこと。博愛は名を好む人にもあるもの。皆俺の所へ来いと言って酒は振舞うが、親子仲は悪いと言う。博愛を仁と言えば、うっかりと権謀者に仁を盗まれる。そこで、博愛を仁と心得るのは間違いであって、それは害のあること。
【語釈】
・叔か不如也洵とに美にして且仁…詩経国風叔于田。「叔于田、巷無居人、豈無居人。不如叔也、洵美且仁」。
・我聞有命不敢以告人…詩経国風揚之水。「揚之水、白石粼粼。我聞有命、不敢以告人」。
・桓叔…春秋時代の初め、文侯の子昭公が立つと、文侯の弟成師は、首都の翼に近い曲沃に封ぜられた(前745)。彼は曲沃の桓叔と呼ばれ、大いに人心を収穫して勢力を拡大した。これから六十余年の間、三代にわたって、翼城の宗家と曲沃城の分家が公位をめぐって争い、周王室の干渉を排除し、最終的に分家の曲沃の武公が翼城に入って晋を統一した(前679年)。
・齋の田常…斉の簡公四年(481年)、田常は簡公を殺し、平王を即位させ、みずからは宰相となり、公族の有力者をことごとく殺した。その後、田常の子孫の田和はみずから王位について斉の威王となり、斉国を戦国の群雄の盟主とした。
・魯の三家…孟孫、叔孫、季孫の三家。
・あいら…あのものども。あいつら。
・未知其仁…論語公冶長19。「子張問曰、令尹子文三仕爲令尹、無喜色。三已之、無慍色。舊令尹之政、必以告新令尹。何如。子曰、忠矣。曰、仁矣乎。曰、未知。焉得仁。崔子弑齊君。陳文子有馬十乘、棄而違之。至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也。違之。之一邦、則又曰、猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰、清矣。曰、仁矣乎。子曰、未知。焉得仁」。
・原憲に為難…論語憲問2。「克伐怨欲不行焉、可以爲仁矣。子曰、可以爲難矣。仁則吾不知也」。原憲は孔子の弟子で子思。
・顔子…論語顔淵1を指す。
・仲弓…冉雍。孔子の弟子。ここは論語雍也22を指す。
・夷齋…伯夷と叔斉。論語述而14。「冉有曰、夫子爲衞君乎。子貢曰、諾、吾將問之。入曰、伯夷叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨。出曰、夫子不爲也」。
・管仲を孔子の仁…論語憲問17。「子路曰、桓公殺公子糾。召忽死之、管仲不死。曰、未仁乎。子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁、如其仁」。
・狼に衣…うわべは善人らしくよそおいながら、内心は凶悪無慈悲であるたとえ。