近思録巻之二筆記

爲學凡百十一條  八月朔日  惟秀録
【語釈】
・八月朔日…寛政2年庚戌(1790年)8月1日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。本姓は北田。北田慶年の弟。通称は与五右衛門。延享2年(1745)~文化9年(1812)

近思録の書名のことは先日よんだが、先日よんだ、聞に及ぬと云は、早近く思の意でない。懇な者には一日に十度逢ふとも、さて今日は度々御目にかかりますと一度々々に詞をかけるが本の懇なり。今の学者が形でして、是れは是れですんた、あれも先日きいたと片付ると云意が、はや近く思の学問でない。只業にのみつく。それがすぐに俗学なり。史国左漢を操ったり、詩を即席に文をすら々々書たいのと云は俗学の御定りなれとも、近く思々々々と云近思録を腰つけにしても、志の俗ながある。近思や論孟に形を付たい、講釈をすればよいのと云は、わざすましで俗なり。外から咎め様もないが、心へたたってみれば大の俗学なり。いっその自暴自棄の藥を飲ぬものならきこへたが、藥を呑みも呑めとも身にしみて呑むがない。にがいの、呑にくいのと云。病氣をば直したいと思なからも志が立ぬのぞ。学者も近思をいじりまわしてをるが、近く思はぬ。懐中した近思録を一はいくわせるのぞ。そこて論語の末章の注に侮垩言と云ことが書てある。近く思は身に切り付ることで、人に搆はず学ぶこと。人にかまわぬことは皆ちごふもの。十人が十人皆ちごふ。今の学者の近く思でない証拠には、皆同じつらなり。病は人々でちごう。貴様の呑む藥を、おれにも飲まして下されと云は埒はない。親父の八味丸をなめるを見て息子がなめる。夫では却て害になる。十人十色の病症ゆへ、療治はさま々々なり。切近に身にきりこめば、十人が十人違ふ筈。其のちかわぬと云は胸へのせぬ証拠。ちかわ子ば近思の訓詁ぞ。今の学者は近思の訓詁なり。鬼神集説をすましたいとて吟味するは鬼神集説の訓詁。祭祀来格説をすましたいと云は来格説の訓詁。胸へのせぬことは皆訓詁ぞ。近思と云字をいつも見るとは近思のをもぶりがちがって来たと云やふでなくてはやくにたたぬ。近思と見たら逢ふ度々に腰を屈める心なれば、学者のつら魂もちがふて、いつとなく近思めく。今の学者はめかぬ。めかぬは道樂息子の釣竿をかついたのぞ。今日は太公望にゆくじゃと云てもはやる詞やはやる羽織、つりめかぬ。皆が先つ、めこふとかかるがよい。
【解説】
近思とは、絶えず切に心に思うことである。学問は近思で行うものであり、それ以外の方法は業でする俗学である。近思録を読む者もいるが、近く思わなければ俗学と同じであり、近思録の訓詁となる。近く思う方法は千差万別であるにも拘らず、今の学者は皆同じ顔をしている。それは近く思わないからである。近思めかなければならない。
【通釈】
近思録の書名のいわれは先日読んだが、先日読んだから再度聞くには及ばないと言うのであれば、早くもそれは近く思うの意ではない。懇ろな者に対しては、一日に十度逢っても、さて今日は度々御目に掛かりますと言う。逢う都度に話しかけるのが本当の懇である。今の学者が形だけのことで、これはこれで済んだ、あれも先日聞いたと片付けるが、その様な意では、既に近く思うの学問ではない。彼等は、ただ業だけに付く。それが直に俗学なのである。史国左漢を上手に引用したい、詩を即席に作りたい、文をすらすらと書きたいなどと言うのは俗学のお決まりだが、近く思うという近思録を身近に置いていても、志の俗な者がいる。近思録や論語、孟子を片付けたいと言ったり、講釈が上手いなどと言われるのは、学問を業で済ます俗である。それは、外見では咎めるべき所も見当たらないが、心へ祟って見れば大の俗学である。寧ろ自暴自棄で薬を飲まない者であれば納得することもできるが、彼等は薬を呑む割には、身に染みて呑むことがない。苦いとか呑み難いなどと言う。病気を直したいと思いながらも、志が立たない。学者も近思をいじりまわしてはいるが、近く思わない。懐に入れた近思録で一杯食わせるのである。そこで、論語の末章の注に「侮聖言」とある。近く思うとは身に切り付けることで、人に構わず学ぶこと。人に構わないでする仕方は、人皆違う。十人が十人皆違う。今の学者が近く思うではない証拠に、皆同じ面をしている。病は人々で違う。貴方の呑む薬を俺にも飲ませて下さいと言っても、それは意味がない。親父が八味丸をなめるのを見て息子がなめる。それでは却って害になる。十人十色の病症だから、その療治も様々である。切に近く身に切り込んでみると、十人が十人違う筈。それを違わないと言うのは、胸へ乗せていない証拠。それでは近思の訓詁である。今の学者は近思の訓詁である。鬼神集説を済ましたいと吟味をするのは鬼神集説の訓詁。祭祀来格説を済ましたいと言うのは来格説の訓詁。胸に乗せないことは皆訓詁である。近思という字をいつも見ると言っても、それで近思の面振りが違ってきたという様にならなければ役には立たない。近思と見たら、逢う度々に腰を屈める心であれば、学者の面魂も違ってきて、いつの間にか近思風になる。今の学者は近思めかない。めかないのは、道楽息子が釣竿を担いでいるのと同じである。今日は釣りに行くと言っても、流行り言葉で流行る羽織を着ていては、釣りらしくない。皆が先ず、めこうと思って始めるのがよい。
【語釈】
・史国左漢…史記、国語、左伝、漢書?
・侮垩言…論語堯曰3集註。「學者少而讀之、老而不知一言爲可用、不幾於侮聖言者乎。夫子之罪人也、可不念哉」。
・切近…論語子張6。「子夏曰、博学而篤志、切問而近思。仁在其中矣」。
・鬼神集説…朱子の語類文集の中から鬼神に関するものを抄録したもの。佐藤直方40才の時の作。藤門四部書の一。
・祭祀来格説…三宅尚斎著。一巻。
・太公望…周代の斉国の始祖。本姓は姜、字は子牙。氏は呂、名は尚。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を討ち、天下を定めた。兵書「六韜」はその著と伝える。その故事から釣師の異称。

爲学。迂斎がどふしたことか、為学の為の字へ朱をいれてをいた。とう云心かは知れ子とも、いかさま為の字が吟味処じゃ。朱を入れて見るほどでなくては為学の精彩でない。江戸中の大小名に多くの武士がある。今日は定めて八朔の礼にあるくであろふが、忠信になろふと云玉しいはめったにないもの。学者に垩賢になろふとかかるいきこみがないもの。顔子の、有為者亦如是と云。為るの字は、一と張りりきんだ文字なり。高木甚平が、為学の為の字が有為の為の字じゃと云ていきりて講じたときく。若軰なやふなれとも頼母しき意あり。今の学者は魂にきり付ぬ。そこでのっほりとしておる。火事塲に火消と同し装束で見て居る様なもの。火消と、只そこにをるものとはちごう。外か目は一つことなれとも、心で違ふ。只見ておるものは、是非とも火を消しとめやふの心はない。浅見先生の文に、為之為言則有興発経営奮特鋭邁之意とある。大事な文字ぞ。大病ときいてかけ出す。久しくゆかぬ、日よりもよいからとて行くとは、はづみがちごう。雨だれ拍子に学んでは、何年学でも埒はあかぬ。朱子が、今の学者一つの為るの字をかくと云はれた。べろり々々々とするはするではない。同じ姿ではてる。飯をくふやふなことは今日も翌日も同じ通りなことがよいが、学問は旅をするのぞ。さきへ々々々とかはりて行でなくては為るの字にあたらぬ。此篇に為学のこと、残ることはないか、為学に鞭策録の意を込めて見ることなり。鞭策録の開巻に朱子のきわどい立志のことを云たを、直方の取りてある。あれを爰へつけて見るがよい。為学の篇の註と見やふことぞ。為学と云も、つまりとの様なことをすると云に、氣質変化のことぞ。さればこそ、訓門人にも氣質変化のことが開巻第一にある。藥は病氣をなをすため。学問は氣質変化のため。其ためにせぬなら、きかぬ藥を呑む様なもの。
【解説】
為学の為の字は、魂に切り付けることで、志を立てること。立志しないで学問をするのは無駄である。学問は常に前進しなければならない。為学は気質変化することである。
【通釈】
為学。迂斎がどうしたことか、為学の為の字に朱筆を入れて置いた。どういう意図でそうしたのかはわからないが、なるほど、為の字が吟味処である。朱筆を入れて見るほどでなくては為学の精彩が出ない。江戸中の大名や小名には多くの武士がいる。今日彼等はきっと八朔の挨拶に歩くだろうが、忠信になろうという魂を持った者は滅多にいない。学者にも聖賢になろうと取り掛かる意気込みがない。顔子が「有為者亦如是」と言う。為の字は、一踏ん張り力んだ文字である。高木甚平が、為学の為の字は有為の為の字だと言って熱く講釈したと聞いた。若輩者の様だが頼もしい意がある。今の学者は魂に切り付けない。そこで、のんびりとしている。それは、火事場で火消しと同じ装束をして火事を見ている様なもの。火消しとただそこにいるだけの者とは違う。外見は同じく見えるが、心が違う。ただ火事を見ている者に、是非とも火を消し止めようとする心はない。浅見先生の文に、「為之為言則有興発経営奮特鋭邁之意」とある。大事な文字である。大病と聞いて駆け出すのと、久しく行かなかったが日よりも良いからと思って行くのとは、その勢いが違う。雨垂れ拍子に形で学んでは、何年学んでも無駄なこと。朱子が、今の学者は為という一字を欠くと言われた。だらだらとするのは、するの内に入らない。同じ姿で果てる。飯を喰う様なことは、今日も翌日も同じ通りなのがよいが、学問は旅をするのである。先へ先へと変って行くのでなければ、為の字に当らない。この篇に為学のことで言い残すことはないが、為学には鞭策録の意を込めて見てみなさい。朱子が鋭く立志について言ったのを、直方が鞭策録の開巻に取り上げている。それを参照してこれを見なさい。あれを為学の篇の註と捉えなさい。為学というのも、つまりどの様なことをするかというと、気質変化についてのことである。それでこそ、訓門人にも気質変化のことが開巻第一にある。薬は病気を治すため。学問は気質変化のため。そのためにしないのは、効かない薬を呑むのと同じである。
【語釈】
・迂斎…稲葉迂斎。十左衛門。黙斎の父。1684~1760。
・朱をいれて…朱筆を入れる。朱で加筆・訂正などをする。朱筆を加える。
・大小名…大名と小名。大名は、江戸時代、将軍直参で知行一万石以上の者。諸侯。小名は、江戸時代、大名のうち領地の少ない者。
・八朔…旧暦八月朔日のこと。この日、贈答をして祝う習俗がある。
・いきみ…息み。いきむ(息を込めて腹に力をいれる。いきばる。)こと。息を込めて腹を張ること。
・有為者亦如是…克己32の語。
・高木甚平…
・外か目[ほかめ]…他に目をうつすこと。わきめ。よそ見。ここでは外見の意。
・浅見先生…浅見絅斎。江戸中期の儒学者。名は安正。通称、重次郎。別号、望楠軒。近江の人。山崎闇斎に学び、崎門三傑の一人。気節を尚び、尊王説を唱えた。著「靖献遺言」など。(1652~1711)
・為之為言則有興発経営奮特鋭邁之意…為るは之れ言為る。則ち興発経営奮特鋭邁の意有り?
・雨だれ拍子…雨垂れ拍子。拍子を雨滴のように一定間隔に奏すること。日本音楽では、実演に際して拍を伸縮させる例が多いので、譜面どおりに等間隔の基本の拍節を、特に雨垂拍子・地拍子などと称する。謡曲に用例が多い。
・直方…佐藤直方。江戸中期の儒学者。備後福山の人。京都で山崎闇斎に学び、朱子学に徹底、福山藩・厩橋藩・彦根藩などに出講。著に門人稲葉黙斎編「韞蔵録」がある。1650~1719
・鞭策録…講学鞭策録。朱子の語類・文集の中から為学に関する語を集めて、講学の資料にした。佐藤直方34才の時の作。藤門四部書の一。
・訓門人…朱子語類(113巻~121巻)を抄出したもので、直方の学派では訓門人と節要をもって、道学の締め括り、要約の書として重んじた。


初条

濂渓先生曰、聖希天、賢希聖、士希賢。伊尹顏淵、大賢也。伊尹恥其君不爲堯舜、一夫不得其所、若撻于市。顏淵不遷怒、不貳過、三月不違仁。志伊尹之所志、學顏子之所學、過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名。
【読み】
濂渓先生曰く、聖は天を希[ねが]い、賢は聖を希い、士は賢を希う。伊尹顏淵は大賢なり。伊尹は其の君の堯舜と爲らざるを恥じ、一夫も其の所を得ざれば、市に撻[うた]るるが若し。顏淵は怒を遷さず、過を貳[ふたた]びせず、三月仁に違わず。伊尹の志せし所を志し、顏子の学びし所を学ぶとき、過ぎなば則ち聖、及ばば則ち賢、及ばざるも則ち亦令名を失わざらん、と。
【補足】
この条は、周濂渓の通書志学篇の全文。

濂渓先生曰聖希天。垩人と云になっては最ふ学問は入らぬ筈のことなれとも、道理はかぎりのないもので、天地の自然にやまず流行すると云ことがあるが、あれが垩人の手きはにもゆかぬ。天の子だから、ああゆきたいものじゃと云て、天と調子をあはせたいとする。そこで子思の於天命穆不已所以文王之為文と云れた。文王が天と調子の合ふた処を云た。朱子の弟子が、垩人がをれが垩人じゃと思はぬから希天かと問たれば、朱子の、いやそうでない、あたまで天と垩人は別ぞ。垩人も天の自然になりたいと子ごふことじゃと云はれた。肉のあるだけ天ほどには手がまわらぬ。これをあまりときつめて、垩人には喜怒哀樂がある、天にはないから、それになりたいと云ことじゃなどと説つめるはわるい。垩人に喜怒哀樂があるとても、夫れになやまさるるものではない。喜怒哀樂を垩人が邪魔にはせぬ。つく々々見ておれば、あの天のすら々々ゆくなりがどふも浦山鋪てならぬ。人は天の子だからぞ。親父の様になりたいと願ふぞ。
【解説】
「濂渓先生曰、聖希天」の説明。聖人は天の様になりたいと希う。それは、人が天の子だからであって、親の様になりたいと思う子の気持ちで天を希うのである。聖人には肉があるが、聖人に喜怒哀楽があるから天とは異なると理解してはならない。聖人が喜怒哀楽に悩まされることはない。
【通釈】
「濂渓先生曰聖希天」。聖人という立場になれば、もう学問は要らない筈だが、道理は限りのないもので、天地も自然で止まずに流行するということがある。それが聖人の技量をもってしても到達することができないこと。天の子だから、あの様になりたいものだと言って、天と調子を合せようとする。そこで子思が「天命於穆不已所以文王之為文」と言われた。文王が天と調子が合っている処を言ったのである。朱子の弟子が、聖人は自分が聖人だと思わないから天を希ったのでしょうかと問うと、朱子が、いや、そうではない、初めから天と聖人とは別である。聖人も天の自然になりたいと願ったのだと言われた。聖人も肉のある分だけ、天の様には行き届かない。これをあまりに説き詰めて、聖人には喜怒哀楽がある、天にはそれがないから、その様な天になりたいということだなどと説き詰めてはいけない。聖人に喜怒哀楽があるといっても、聖人はそれに悩まされるものではない。喜怒哀楽を聖人は邪魔にはしない。天をつくづく見ていると、あの天のすらすら行く姿がどうも羨ましくてならない。それは、人が天の子だからである。天という親父の様になりたいと願ったのである。
【語釈】
・於天命穆不已所以文王之為文…中庸章句26。「詩曰、惟天之命於穆不已。蓋曰天之所以爲天也。於乎不顯文王之純。蓋曰文王之所以爲文也。純亦不已」。詩は、詩経周頌維天之命。

賢希垩。爰へも人を出すなら顔曽思孟なり。垩の天を希ふも、賢の垩を希ふも大ちがいはない。賢は垩と知と行も一つなり。賢はまだ人欲になやまされるなそと云あらいことでないが、只、垩人のやふにゆっくりとゆかぬ。骨を折り克己と云握り拳をもしておるのぞ。顔子が孔子を目當て追かけて子ごふ。夫れでもゆかぬから喟然の嘆。又或時は曽子の願って思ひつけたときは唯と云。皆希処からなり。
【解説】
「賢希聖」の説明。賢人は聖人の様になりたいと希う。賢人とは顔曾思孟のことであり、孔子は彼等の目標で、聖人である。聖人と賢人との違いは殆どなく、知行も同じである。その違いは、賢人には努力が必要だということである。
【通釈】
「賢希聖」。ここに該当する人を出すなら顔回、曾子、思子、孟子である。聖人が天を希うのも、賢人が聖人を希うのも大きな違いはない。賢人は聖人と知行が同じである。賢人はまだ人欲に悩まされるなどという様な粗いことはないが、ただ、聖人の様にゆったりとは行かない。骨を折って、克己という握り拳をもするのである。顔子が孔子を目当てにして、孔子を追い駆けてその様になりたいと願う。それでも上手く行かないから喟然の歎となった。また或る時は、曾子が道を願って思い至った時に「唯」と言った。皆希う処からのことである。
【語釈】
・克己…論語顔淵1。「顏淵問仁。子曰、「克己復禮、爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由仁乎哉」。
・喟然の嘆…論語子罕10。「顏淵喟然歎曰」。
・唯…論語里仁15。「子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。

士希賢。これが為学の篇の正客なり。この士の字が、始為士而終為垩、士の字しゃ。賢人を見て、ああなりたいと云志のぎり々々に立たこと。今の学者は佛になる志のないものが出家したやふなもの。佛者が女房さへもったものをば俗々と云て賎しめとも、僧の方でも佛になろふと云志の立た人はない。すれば皆藝も同じことなり。学者も希賢の心ないは藝ぞ。飲まずにをけば酒も水も同こと。やくにはたたぬ。希賢でなふては学はぬもをな同こと。希賢は酒を飲んであたたまらふとするの、飲ま子ば酒のかはりに水を入れておいてもよいやうななもの。希賢は、学者の中をあけて見せて、人をまちあわせぬことぞ。人を相手にして私も賢を希ひますとは、どのやふなうそつきも云はれぬこと。希賢と云になりては学者のつらたましいがちごう。直方先生が、蚤とり眼と云ことを合点かと云はれた。本に子ごふものは精彩がちごう。朱子の、猫の鼠をねろふを見よ、四足を地にすへまだたきもせず、一心に子ろふ。佛者もこれほどの一心でいると云ことしゃと云はれた。夫じゃもの、人欲と半分わけにせふと云学問では中々ゆかぬ。今、近思を講釈し、希賢と云が本んに云やふでもうそがある。うそとはまぎらかすことを云そ。うそを云ぬ為めに伊尹顔淵と云目當を出した。其うそがあると云はどふなれば、かたい学者は手前勝手に、とかくをとなしい厚重なことと吾が胸で賢人をこしらへて、とかくそふしたを賢と覚へる。さへた方の学者は、高いことを好んて高ぞれを云て、とかく事をすてて疏通ながよいと吾胸て賢人をこしらへる。律義な学者は律義なを賢人と思ひ、吾すきなことを建立する。これ手前細工の賢人じゃ。そこをまぎらかすと云。そこで目當の間違ぬやふに伊尹顔淵なり。
【解説】
「士希賢。伊尹顏淵、大賢也」の説明。士は賢人を希う。この士が近思録為学の対象である。賢になるためには、志をしっかりと立てなければならない。蚤取り眼や猫が鼠を狙うのと同じく、一心で学問を行う。そうしなければ、学問は芸となる。学者によって賢人の捉え方が異なる。大人しい厚重な者、事を棄てて疏疎通な者、律義な者を勝手に賢人だとする。それは嘘であり、紛らかしである。賢人を間違えない様に、ここで伊尹と顔淵を出した。
【通釈】
「士希賢」。この士が、為学の篇における正客である。この士の字は、「始為士而終為聖」の士の字と同じである。賢人を見てああなりたいと言う、志がぎりぎりに立ったこと。今の学者は仏になる志のない者が出家した様なもの。仏者が、女房を持った者さえも俗々と言って賎しむが、そう言う僧の方でも仏になろうとする志の立った人はいない。それなら皆、芸と同じである。学者も希賢の心がないのは芸である。飲まずにおけば、酒も水も同じこと。役には立たない。希賢でなければ、学ばないのと同じこと。希賢は酒を呑んで温まろうとすることで、飲まなければ酒の代わりに水を入れておいてもよい。希賢は、学者の中を開けて見せ、人を待ち合わせたりはしない。人を相手にして、私も賢を希いますとは、どの様な嘘吐きも言えないこと。希賢ということになれば、学者の面魂が違って来る。直方先生が、蚤取り眼ということを知っているかと言われた。本当に願う者は精彩が違う。朱子が、猫の鼠を狙うところを見なさい。四つ足を地に据え、瞬きもしないで一心に狙う。仏者もこの様に一心でいるということだと言われた。それだから、人欲と半分づつに分けようという様な学問では中々うまく行かない。今、近思録を講釈して希賢と言うが、それを本気で言っている様でも嘘がある。嘘とは紛らかすことを言う。嘘を言わないために伊尹や顔淵という目当てを出した。嘘があると言うのはどうしてかと言うと、堅い学者は自分勝手に、賢人とはとかく大人しい厚重なことだと自分の胸の中で賢人を拵え、とかくその様な者を賢とする。冴えた方の学者は、高いことを好んで高逸れたことを言って、とかく事を棄てて疏通なのがよいと自分の胸の中で賢人を拵える。律儀な学者は律儀な者を賢人と思い、自分勝手なことを建立するからである。これ等は手前細工な賢人であり、そこを紛らかすと言うのである。そこで目当てを間違えない様に伊尹と顔淵を出したのである。
【語釈】
・始為士而終為垩…荀子勧学。「學惡乎始、惡乎終。曰、其數則始乎誦經、終乎讀禮。其義則始乎爲士、終乎爲聖人」。
・蚤とり眼…蚤をさがす時のように、決して取りにがすまいと気をくばって見る目つき。
・伊尹…殷初の名相。名は摯。湯王をたすけ、夏の桀王を滅ぼして天下を平定したので、湯王はこれを尊んで阿衡と称した。
・手前細工…人にあつらえず、自分で細工すること。転じて、自分勝手にこしらえること。また、そのもの。

伊尹耻云々。此の耻の字を大切に見よ。孟子が、耻之於人為大と云。朱子も近世の士大夫不知耻と云はれた。鞭策録に引てあるぞ。
【解説】
「伊尹恥其君不爲堯舜」の説明。恥という字が重要である。
【通釈】
「伊尹恥云々」。この恥の字を大切に見なさい。孟子は、「恥之於人為大」と言った。朱子も、「近世の士大夫不知恥」と言われた。鞭策録にその引用がある。
【語釈】
・耻之於人為大…孟子尽心章句上7。「孟子曰、恥之於人大矣。爲機變之巧者、無所用恥焉。不恥不若人、何若人有」。
・近世の士大夫不知耻…

一夫不得其所を、伊尹の云立にしたことではない。医者が、私が療治はこうと云は云ひ立ぞ。云ひ立ては人に對して云こと。伊尹の耻ると云は胸で耻ること。人はとも云へ、をれが心はこうせ子ばならぬと志たものゆへ、そふないと胸て耻るなり。これが宰相になったからこふをもふと云ことでなく、有莘の野に居たときからの心得でこうぞ。志は軍を看て箭をはぐやうではならぬ。前にかかること。古之欲明明德於天下者云々の或問に、分内當然のこととある。あれほどのことが一寸なることでない。もの心つくとせ子ばならぬこと。伊尹は君をちっとやそっとよくせふではない。堯舜にせふとのこと。あの中蕐の廣ひ天下にかけわんを持て出るものが一人ありても、通り町でうたるるやふにをもふなり。一万石の領分さへゆかぬに、こふした大きな志なり。
【解説】
「一夫不得其所、若撻于市」の説明。これは、伊尹が自分の心の中で恥じて言った言葉で、人の言うことには関係なく、自分の志に基づいて恥じたのである。伊尹の様な大きな志は、簡単には持てない。有莘の野にいた頃から持っていたのである。
【通釈】
「一夫不得其所」は、伊尹が言い立てたことではない。医者が、私の療治はこうだと言うのは言い立てである。言い立てとは人に対して言うこと。伊尹が恥じると言ったのは、胸の中で恥じること。人はどう言おうが、俺が心からこうやらなければならないと志したのだから、それでは駄目だと胸の中で恥じるのである。伊尹は、宰相になったのでそう思うというのではなく、有莘の野にいた時からの心得でこうなのである。志は、軍を見て弓に矢をつがえる様ではいけない。それは前々からしておくこと。「古之欲明明徳於天下者云々」の或問に、「分内当然」のこととある。あれほどのことは簡単にできることではない。物心がつくと直ぐにしなければならない。伊尹は君を、ちょとやそっとよくしようとしたのではない。堯舜の様にしようとしたのである。あの中華の広い天下に欠け椀を持って出る者が一人あっても目抜き通りで打たれる様に思う。一万石の領地さえないのに、こうした大きな志である。
【語釈】
・有莘…孟子萬章章句上7。「孟子曰、否、不然。伊尹耕於有莘之野、而樂堯舜之道焉」。
・はぐ…弓に矢をつがえる。
・古之欲明明德於天下者云々…大学章句1。「古之欲明明德於天下者、先治其國」。
・分内當然…
・通り町…①江戸の日本橋を中心にして南北に通じる大通り。北は神田須田町より南は芝金杉橋に至る。②目抜きの大通り。また、それにそった街すじ。

不遷怒。上の伊尹もここも、書經と論語のままで出た。文義はとくにすめている。ここで訓詁になるとは云たもの、今日、近思で不遷怒ときいたなら、すぐに今夜じきに功夫にするでなくてはならぬ。さう思ても、ひょっと下女が酒をこぼすと、さまでもないことについ怒る。それさへわるいに、そばづへを出す。そこへきたものへもつひあたる。怒は武王一怒而天下之民を正す。垩人にもあるが、その怒り様のことなり。飯のこはいにも汁のぬるいにも出すものではない。今朝の飯がこはければ、夫と云はずに給仕の小僧まで、やれ行義がわるいとあぢなことを云。皆、肉にひかれるからのこと。不遷怒は道理なりをすること。怒らぬではない。
【解説】
「顏淵不遷怒」の説明。つまらないことで怒るのは、肉のためである。聖人も怒るが、その怒りは「武王亦一怒而安天下之民」であって、民を安んじるものであり、凡人の怒りとは異なる。不遷怒は道理の通りである。
【通釈】
「不遷怒」。上の伊尹もここも、書経と論語にあるままを出した。文義はとっくに済んでいる、ここでその講釈をすれば訓詁になるとは言うが、今日、近思録の講義で不遷怒と聴いたなら、すぐに今夜、その功夫をするのでなければいけない。そう思っても、ひょいと下女が酒をこぼすと、大したことでもないのについ怒る。それでさえ悪いことなのに、そばづえをして、そこへ来た者にもついあたる。怒とは、「武王一怒而安天下之民」である。怒は聖人にもあるが、これがその怒り様のこと。飯が堅いのにも、汁がぬるいのにも怒を出してはいけない。今朝の飯が堅ければ、飯が堅いとは言わずに、給仕の小僧にまで、やれ行儀が悪いなどと小賢しいことを言う。それは皆、肉にひかれるからのこと。不遷怒は道理の通りをすることで、怒らないわけではない。
【語釈】
・書經…書経説命下。「予弗克俾厥后惟堯舜、其心愧恥、若撻于市。一夫不獲、則曰時予之辜」。
・そばづへ…①喧嘩などの傍にいて、思わずその打ち合う杖などに打たれること。②転じて、自身に関係のないことのために災難をこうむること。とばっちり。まきぞえ。
・武王一怒而天下之民を正す…孟子梁恵王章句下3。「武王亦一怒而安天下之民」。

過と云はわる心ではないが、つい手紙に七月を八月とかくこともある。それが凡夫は又しても々々々々じゃ。某なれば、又酒のことであろふなり。顔子も垩人でないから過もあるが、只それぎり、二度は出ぬ。顔子を紅爈上一点雪と云たは克己へ云たこと。爰もそれなり。出るとはきへ、出るとは消へする、氣味のよいことなり。不遷、不貳、これが皆、玉しいのさうじをする学問ぞ。
【解説】
「不貳過」の説明。顔子は過ちを再びしないが、それは彼が克己を実践するからである。
【通釈】
「過」というのは、悪意はなくても、つい手紙に七月を八月と書いてしまうことがある様なもの。凡夫はその過ちを何回も繰り返す。私に関して言えば、酒のことだろう。顔子も聖人ではないから過ちもあるが、只それ切りで二度と過ちはしない。顔子を「紅炉上一点雪」と言ったのは克己について言ったこと。ここもそれである。出ては消え、出ては消え、気持のよいこと。「不遷」や「不貳」が皆、魂の掃除をする学問の手法なのである。
【語釈】
・紅爈上一点雪…碧巌録。紅炉の上に雪を置けばたちまちとけるように、私欲や疑惑のとけることにいう。紅炉とは、火の盛んに燃えている囲炉裏。碧巌録は仏書。10巻。宋の圜悟が雪竇の選んだ百則の頌古に垂示・評唱・著語を加えたもの。臨済宗で重視される。詳しくは仏果圜悟禅師碧巌録。碧巌集。

三月不違仁。ここが垩人に至らぬ処。三月は久しいことを云。三月の内は垩人の通じゃ。違るとは、三月の後ついぬかしたと云ことある。をり節、ちらり々々々とごまさびほどなことがある。夫れをほい々々と云てなをす。あとは孔子と同挌。夫れをこなたはどふして知てと云はふが、孔子の有不善則未嘗不知知之則不復行と顔子をほめられたぞ。さて々々及びもないこと。今日の学者にこれを云は下戸の大盃なれとも、こうなければ近思の学でない。凡そ酒と始るからは、爰から呑習は子ばならぬこと。そこで周子が伊尹之所志顔子之所学と云た。これを周子から廻状が来たと思ふがよい。爰に名がないからよいと思ふは迯るのなり。伊尹顔子を志せ、学べと周子が市右ェ門与五右ェ門へも連名で来たと思がよい。畏ったとは云れぬけれとも、士と云連名だけ点を引てやら子ばならぬ。これを近く思と云。この様にするどによま子ば為学でない。是れを廻状ときいて、いかさま天地の間に一と度人間と生れ出たに、此分んで此からだはどふなることぞと吾病に氣がつくと、一と療治せ子ばならぬと志がするどになる。近く思へば斯ふするどになると云が周子の廻状じゃ。さうするには志す処が大事ぞと、伊尹顔淵と的を出した。さて又学者がこうしらべ立てらるると巧言令色を上手にして、此廻状を貴様どふ見たと云と、いやはや中々及もないと云もあり、又、私などはこう志さふとあぶなげなく云もあらふ。とど心にないことを云のしゃ。心に耻ると云ことを知らぬ。心にないことを云からずっとは出ぬ。分別して云ことに、本んのことはない。顔子の所志をやがてのなんのと云ことではない。今たんてきからすることじゃによって、他人へ咄すことてない。吾一心てのことなり。某が何にもかにも道具に忿戻々々と云字を書ておいてこらすが、どふもゆかぬ。怒はこわいもの。團扇にも皆の見る通忿戻と云字があるが、去年なぞは其忿戻の團をひ子りまわしなから、長藏などをしたたか呵りた。中々筆に書たり口で云たりはするが、氣質変化は中々以て出来ぬもの。克己最難。なることじゃなぞと云がをかしい。志したことも学んだこともない。夫れでなろうやうはない。とかくこの近思為学の顔子伊尹を手本にするかよい。そこで此章を通書で志学の章と云。斯ふした工夫がなくば、某を始として、近思をよむはうそでござると云がよい。道体はをもいことなれとも、ありなりなこと。ちとゆるくしてもよいが、此の為学の為の字に云分があると近思の俗学じゃ。只、中原還逐鹿と云軰を見て俗学と云は却て吾方を近く思わぬのぞ。やっはり近思の俗学なり。
【解説】
「三月不違仁。志伊尹之所志、學顏子之所學」の説明。顔子ほどの者でも、三ヶ月の後には仁に違うこともあり、それが聖人になれないところである。周子が、伊尹の志す所を志し、顔子の学ぶ所を学べと言ったことを、自分の身に振り返ってしっかりと考え、自分の過ちに気がつけば、志が鋭くなる。近く思えば志が鋭くなるのである。志が立ったら、直ぐに克己によって実践しなければならない。克己最難であるから、伊尹と顔子を手本にするのがよい。
【通釈】
「三月不違仁」。ここが聖人に至ることのできない処。三月とは久しいことを言う。三月の内は聖人の通りだ。違うとは、三月の後につい過るということがある。折節、ちらりちらりとした細かい過ちがある。それを直ぐに直すと、後は孔子と同格になる。このことを貴方はどうして知っているのかと尋ねられるが、孔子が「有不善則未嘗不知知之則不復行」と顔子を褒められたこともある。それは本当に及びも付かないことである。今日の学者にこれを言うのは下戸の大盃で分不相応なことだが、こうでなければ近思の学ではない。凡そ酒の話から始めたのだから、ここから呑み習わなくてはならない。そこで周子が「伊尹之所志顔子之所学」と言ったのである。これは、周子から廻状が来たのだと思いなさい。廻状に自分の名がないから関係がないと思うのは逃げること。伊尹顔子を志せ、学べと、周子が市右衛門や与五右ェ門の所にも連名で廻状を廻して来たと思いなさい。畏まったとまでは言えないが、士という連名だけ心掛けてやらなければならない。これを近く思うと言う。この様に鋭く読まなければ為学でない。廻状と聞いて、なるほど天地の間に一度人間として生まれ出たのに、こんな調子でこの身体はどうなってしまうのだろうと思って自分の病に気が付くと、療治をしなければならないと志が鋭くなる。近く思えばこの様に鋭くなるというのが周子の廻状である。そうするには志す処が大事だと、伊尹と顔淵を志す標的として出した。さてまた学者がこの様に調べ立てられると、この廻状を貴様どう捉えたかと問われれば、巧言令色を上手にして、いやはや中々及ばないことだと言う者もあり、また、私などはこう志そうと危な気なく言う者もあるだろう。それはつまり、心にないことを言うのである。彼等は心に恥じるということを知らない。心にないことを言うからずっと出ない。分別して言う言葉に本当のことはない。「顔子之所志」は、やがて後でなどと言うことではない。今直ぐに行うことであり、他人に言うことでもない。自分の一心に係ることである。私が何の道具にでも忿戻、忿戻という字を書いて懲らすが、どうもうまく行かない。怒は恐いもの。団扇にも皆の見る通り忿戻という字が書いてあるが、去年などはその忿戻の団扇を捻り回しながら、長蔵などをしたたか叱った。筆に書いたり口で言ったりはするが、気質変化は中々できないもの。「克己最難」。これができることだなどと言うのが可笑しい。志したことも学んだこともなくて、それで成る筈がない。とかくこの近思録為学の顔子伊尹を手本にするのがよい。そこでこの章を通書で志学の章と言う。こうした工夫がなくては、私を始めとして、近思録を読むというのは嘘だと言う方がよい。道体は重いことだがそれなりのこと。道体は少々ゆっくりと取り掛かってもよいが、この為学の為の字に言い分けがあれば、それは近思の俗学である。ただ、「中原還逐鹿」などと詩を詠んでいる輩を見て俗学と言う者は、却って自分の方を近く思っていない。やはり近思の俗学なのである。
【語釈】
・有不善則未嘗不知知之則不復行…易経繋辞伝下5。「子曰、顏氏之子、其殆庶幾乎。有不善未嘗不知。知之未甞復行也」。為学3の好学論にもある。
・廻状…江戸時代、領主が村から村へ用件を通達した書状。
・市右ェ門…小川省義。幼名は磯次郎、興十郎。上総山辺郡東士川村人。文化11年6月21日没。81才。黙斎の孤松全稿を買う。
・与五右ェ門…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。医者。1745~1812
・巧言令色…論語学而。「巧言令色鮮矣仁」。口先がうまく、顔色をやわらげて人を喜ばせ、こびへつらうこと。仁の心に欠けることとされる。
・忿戻…いかりさからって人と争うこと。
・長藏…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・中原還逐鹿…魏徴の述懐詩。①帝位を争う。②政権や地位を得るために互いに競争する。

過則垩。学問は道理でかたる。口のすべりたてはない。道理は究りないから、過則垩と云ことある。理なり。顔子伊尹よりよくなる道があいておるからぞ。これは周子ののほふづもないことを云たやうなれども、理はこふしたもの。大盃なれとも飲めるわけがある。
【解説】
「過則聖」の説明。顔子や伊尹を過ぎれば聖人となる。それが道理である。
【通釈】
「過則聖」。学問は道理で語る。過とは口が滑ったということではない。道理は窮まりがないから、過則聖ということがある。それが道理である。それは、顔子や伊尹からよくなる道が開いているためである。これは、周子がとんでもないことを言った様だが、理はこうしたもの。大盃であっても飲める理由がある。

及則賢。この句が近思の的なり。されとも上に過なばとあるでよい。行百里者以九十里為半。もふ十里ときけば精が出てゆかるるもの。五十里を半に云てはあぐむもの。垩人を語り出したから、あぶなげなしに賢と云。此章を三段に語りたことでない。賢ぎりで下のとまりぞ。賢が京へゆき着た処。過垩及賢の二句ですんたなり。不及をあるものにすると、此章がぬるい。もし学者が不及を筭用に入れては以の外なこと。不及と云は周子の俗学を見て云たこと。万一不及とても、俗学とはちこふとなり。下に彼以文辞而已者陋矣とある。漢唐には英才もありたか白徒ではてた。あの白徒を見て云ことぞ。六年さきに爰をよんたとき、世間の学者が学問して唐の俗人になると云た。なるほどそうで、学問ははばの大きいものゆへ、心がよくならずとも經術事業のはばはあるものなれども、それはやっはり唐の俗人ぞ。伊尹顔子を的にすれば、たとひ不及とても品がちごふぞ。
【解説】
「及則賢、不及則亦」の説明。聖人は最終目標であるが、その前提として堅実に賢人を目指さなければならない。たとえ賢人になれなくても、賢を目指せば俗人とは違う。漢唐には英才もいたが、聖賢を目指さないで文辞のみの学問をしたから白徒で果てた。
【通釈】
「及則賢」。この句が近思の標的である。しかしながら、上に過ぎなばとあるのがよい。「行百里者以九十里為半」である。もう十里と聞けば精が出て行くことができる。五十里を半ばと言っては飽きてしまうもの。聖人のことを語り出したから、堅実に賢と言う。この章は、聖、賢、士と三段に語ったことではない。賢までで終わりである。賢は、目的地の京へ行き着いた処。過則聖、及則賢の二句で済む。不及があるとすれば、この章が生ぬるくなる。もしも学者が不及をあるものと考えれば、それは以の外のこと。不及とは、周子が俗学を見て言ったこと。万一不及であっても、俗学とは違うと言ったのである。この後にも「彼以文辞而已者陋矣」とある。漢唐には英才もいたが白徒で果てた。その白徒を見てこの様に言ったのである。六年前にここを読んだ時、世間の学者が学問をして唐の俗人になると話した。なるほどその通りで、学問は幅の大きいものだから、心がよくならなくても経術事業に一応の成果が上がるが、それはやはり唐の俗人と同じなのである。伊尹や顔子を標的にすれば、たとえ不及であっても品が違うのである。
【語釈】
・行百里者以九十里為半…戦国策秦策。「行百里者半九十」。
・彼以文辞而已者陋矣…為学2の語。
・白徒…訓練しない兵士(漢書鄒陽伝注)。

不失令名。たとへ賢までゆかぬにしても、さもしい名はとるまい。それは玉しいがきまってくるからのことぞ。令名は礼記に不失父母之令名。よい子をもては父母がよい名を取ると、わきから云たこと。夫を爰へかりたもの。至らずとも、俗の水離れをすれば令名のうちぞ。伊尹顔淵を志すものは白徒でない。大賢になら子ば肉にはさへられるが、同じ肉にさへられやふでも別なもの。爰が学問の種のよいゆへぞ。唐様を習へば俗筆でないと云はるる。今の学者が俗を離れぬからは、公事を扱ったり、やくにもたたぬことの人の上の世話したり、定て道理に叶ふたよいことあらふなれとも、ちいさいことに腰をすへる。それ故俗人で果る。俗人にのけものにせらるるやふでなければ、令名を失ふたのぞ。今の儒者、衆人に愛敬せられ、ずんど偏屈にない御人でござるなとと俗が云へば、我は德のある氣になる。これ俗人のわりをくふたのなり。それを、令名を失ふと云。
【解説】
「不失令名」の説明。賢人を目指していれば、及ばなくても令名を失うことはない。また、大賢にならなければ人欲に障えられるが、それでも、賢人を目指せば俗人とは違う。俗なこと、小さなことに腰を据えていれば俗人で果てる。俗人に嫌われる位でなければならない。
【通釈】
「不失令名」。たとえ賢まで行かないにしても、さもしい名は付かないだろう。それは魂が決まって来るからである。令名は、礼記に「不失父母之令名」とある。よい子を持てば父母のよい名を取ると、脇から言ったこと。それをここへ借りたのである。賢に至らなくても、俗と縁を切れば、それは令名の内である。伊尹や顔淵を志す者は白徒でない。大賢にならなければ肉には障えられるが、肉に同じく障えられるにしても俗とは別なもの。これは学問の本がよいからである。唐様を習えば俗筆でないと言われる。今の学者が俗から離れないので、公事を扱ったり、役に立たないことで人の世話をしたりして、きっと道理に叶ったたよいことがあるのだろうに、小さいことに腰を据えている。それで俗人で果てる。俗人に除け者にされる様でなければ、令名を失ったのである。今の儒者は衆人に世辞を言われて、全く偏屈でない御人であられるなどと俗が言えば、自分に徳がある様な気になる。これは、俗人という割を食ったのである。それを、令名を失うと言う。
【語釈】
・令名…よい名声。ほまれ。また、よい名前。
・不失父母之令名…礼記内則。「父母雖沒、將爲善、思貽父母令名、必果。將爲不善、思貽父母羞辱、必不果」。
・唐様…①中国風の書体。平安末期の宋風も鎌倉・室町時代の禅宗風もいずれも唐様であるが、普通には、江戸時代に流行した、明の文徴明風を主とした書風をいう。②行・草以外の書体、すなわち楷・篆・隷などの書体。


第二 垩人之道入乎耳存乎心の条

聖人之道、入乎耳、存乎心。蘊之爲德行、行之爲事業。彼以文辞而已者、陋矣。
【読み】
聖人の道は、耳より入り、心に存す。之を蘊[つ]めば德行と爲り、之を行えば事業と爲る。彼の文辭を以てするのみなる者は、陋なり。
【補足】
この条は、通書陋篇の全文である。

垩人之道は人に聞くことも書で見ることもあるが、どちを入口にしても耳に入りなり。夫がははあと胸にひびいて、それから初めて心に入ったを存すと云。垩人は昔の垩人、天地の中は皆道。されともつかまへ処は書物ぞ。大中論孟を講釈できかふとも筆記て見やふとも、ははあそうかとこちへひり々々と来たらはよいこと。今、皆のするは耳ぎりで存すがない。存はそこへをくことで、心へ逗留すること。今の学者は問屋塲のやうぞ。宮様の御荷物もくるが、大名のもくる。さて逗留せぬ。口耳三寸ぎりは道が御暇申てしまう。心に存すとは、衣服に伽羅のとまるやふなもの。譬に云へばこふなれとも、まだそれより近い。垩人之道は、もと心の上にあることを説たこと。たたい垩人の道はこちの心に備てあるもの。夫を聞てから一つになるもの。そこてしゃんと吾ものになる。
【解説】
「聖人之道、入乎耳、存乎心」の説明。聖人の道は、人に聞いたり書物を見たりすることで、それがあることがわかるが、それを心に留めなければ何にもならない。それは、聖人の道が心に備わるものだからである。今の学者は、心に留めることがない。
【通釈】
「聖人之道」は人に聞いたり書物で見たりすることもあるが、どちらを入り口にしても「入乎耳」である。それがははあと胸に響いて、そこで初めて心に入ったことを存すと言う。聖人は昔の聖人、天地の内は皆道である。しかし、聖人の道の捉まえ処は書物である。大学・中庸・論語・孟子を講釈で聴いても筆記で見ても、ははあそうかと自分の心にひりひりと来たら、どちらからでもよいこと。今、皆がしていることは耳までのことで存することがない。存とは心に置くことで、心へ逗留すること。今の学者は問屋場の様である。宮様の御荷物も来るが、大名の荷物も来る。しかし逗留はしない。口耳三寸だけでは道がお暇を申してしまう。心に存すとは、衣服に伽羅の香りが染み込んでいる様なもの。たとえで言えばこうだが、聖人の道はそれより近くにある。聖人之道の句は、本来それが心の上にあることを説いたこと。そもそも、聖人之道は自分の心に備わってあるもの。聞くことによって、道と自分とが一つになる。そこで道がしっかりと自分のものになるのである。
【語釈】
・口耳三寸…荀子勧学に「小人之学也、入乎耳出乎口口耳之間、則四寸耳」とある。

蘊之為徳行。蘊むと存すとは似たことでちとかわる。存はとまること。蘊はもちっと上で、其とまりたを積み々々すること。昨日今日もふけた金は存。それをためて大尽になるは蘊。小学も耳に入り、大学も耳に入り、それをためること。越後屋へ大名之婚礼も云て来る。又、袖口一つ賣ったもためて、何もかも越後屋のものになる。そこで為德行なり。垩人の道があっちに有たが、今はこちにあると云が德行になりた処。迂斎日、持藥のきいたのなり。寒三十日、六味丸呑むは耳に入心に存。當春はつや々々と見へると云は德行。入乎耳存乎心は皆知のこと。それをためると德行ぞ。德行は行のことなれとも、知のこやしからなる。行のもとは知からぞ。知から行が出る。玉子とひよこのやふなもの。四子六經は知。夫を聞々するで只の人とはみへぬ。行ぞ。そこで致知のつまりが誠意。誠意は行なり。行と云ても外へ出すこと計りではない。蘊むと云迠が知の存羪。存養はこちのものにすることゆへ、すぐに德行と云。
【解説】
「蘊之爲德行」の説明。「存」とは留まること。「蘊」とは、留まったものを積み重ねること。積み重ね、貯めることによって自分のものになる。それが「為徳行」である。「入乎耳存乎心」は知で、その知を貯めると徳行となる。徳行は行であり、行の本は知である。致知の帰着が誠意で、誠意は行である。存養は徳行である。
【通釈】
「蘊之為徳行」。蘊と存すとは似ているが少し違っている。存とは留まること。蘊はもう少し上のことで、その留まったものを積み重ねること。昨日や今日儲けた金は存。それを貯めて大尽になるのは蘊。小学も耳に入り、大学も耳に入る。それを貯めること。越後屋へは大名の婚礼のことも言って来る。また、袖口一つを売ったのも貯めて、何もかも越後屋のものになる。それが「為徳行」なのである。聖人の道が向こうにあったが、今はこちらにあると言うのが徳行になった処。迂斎が、持薬が効いたということだと言った。寒の三十日、六味丸を呑むのは「耳入心存」のところで、今春はつやつやした様に見えると言うのは徳行。入乎耳存乎心は皆知のこと。それを貯めると徳行である。徳行は行のことだが知の肥やしによって成る。行の本は知からで、知から行が出る。それは玉子と雛の様なもの。四子六経は知。それを何回も聞くから、ただの人とは見えない。それが行である。そこで致知の帰着が誠意。誠意は行である。行と言っても外に対してすることばかりではない。蘊むということまでが知の存養であり、存養とは道を自分のものにすることだから、直にそれを徳行と言う。
【語釈】
・寒…二十四節気の一。寒期。小寒と大寒。立春前のおよそ30日間。

行之為事業。医者が此村で病人を廿人なをしたも事業。伊尹太公望の天下中よくしたも事業。根がなくてはならぬ。その事業は德行からぞ。德行から出ぬ事業は借り着で見ばをするのじゃ。伯者は損金で立派をする。根がないから、治りてもあれは小康と云のぞ。垩人は德行形りを出す。親民へ出す。垩学は身に行ひ心に得るの餘とあり、政談經済録をあてにはせぬ。伯者は七つ道具をならへるそ。たとへは庖丁を料理の名人からかりて来て、色々やってみるがゆかぬ。さても料理が下手なり。あら方はよいが、うまいと云塩梅は知らぬ。借り物でもならぬではない。入れ歯で物も喰はるるものなれとも、ほんのものではない。ほんのことを知らぬからゆかぬ。垩人の事業は、事業のけいこはない。幼年の時より聞た道が行に出たのじゃ。事業は德行から来ること。德行は娘の可愛ひやふなもの。それからよい支度をして片付る、事業なり。先王のは德行から出る事業ゆへ別なことなり。なんとして、借りものではゆかぬ。爰は為学にて吾学の明德新民のことを云なれとも、事業の字あるゆへ一寸伯者を弁じた。これで為学篇の規模なり。
【解説】
「行之爲事業」の説明。色々な事業があるが、本当の事業には根がなければならない。根のない事業はたとえ治まっていても、それは小康状態なのである。その根とは徳行である。聖学の事業は徳行から出たものである。明徳の通りを新民に出すのである。
【通釈】
「行之為事業」。医者がこの村で病人を二十人治したことも事業で、伊尹や太公望が天下中をよくしたのも事業だが、事業には根がなくてはならない。事業は徳行からでなければならない。徳行から出ない事業は、借り着で見かけをよくするのと同じである。伯者は散財をして派手なことをする。根がないから、治まっていてもあれを小康と言うのである。聖人は徳行の通りを出す。明徳の通りを親民へ出す。聖学は「人君躬行心得之余」とあり、政談や経済録を当てにしない。伯者は七つ道具を並べる。たとえば庖丁を料理の名人から借りて来て、色々やってみるがうまく行かない。やはり料理が下手なのである。大体はよいが、うまいという塩梅は知らない。借り物でもできないわけではない。入れ歯で物を喰うことはできるが、歯という本物とは違う。本当のことを知らないからうまく行かない。聖人の事業には、稽古はない。幼年の時より聞いていた道が行に出る。事業は徳行から来る。徳行とは娘の可愛い様なもの。そこで、よい支度をして片付ける。これが事業である。先王の事業は徳行から出る事業だから格別なこと。どうしても借り物ではうまく行かない。ここは為学で我が学の明徳新民のことを言うところだが、事業の字があるから一寸伯者を弁駁した。これが為学篇の規模である。
【語釈】
・見ば…見端。外から見たさま。外見。外観。みかけ。
・垩学は身に行ひ心に得るの餘…大学章句序。「夫以學校之設、其廣如此、教之之術、其次第節目之詳又如此、而其所以爲敎、則又皆本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彝倫之外」。
・政談…荻生徂徠が幕府の諮問に答えて政治・経済・社会に関する見解を述べた意見書。四巻。
・經済録…経国済民の方策を論じた書。太宰春台著。

以文辞而已者陋矣。これほど大きいことのあるをば知らずに文辞而已は不埒千万と云かと思たれば、さても下卑たことしゃ、と。爰らの書様が面白ひことぞ。垩人の道と云字から見ることぞ。さて、文は四子六經も文じゃ。孔子の弟子こそ垩人の道をじがつけにも聞たれ、後のものは論語と云文字より外はない。論語は道の仲人をするものじゃに陋しとはどうなれば、一生文辞而已につながれてをるものを云。德利は酒を入るるもの。茶碗は茶を入るるもの。韓退之が文者載道之器と云た。中庸の序にも言語文字と云字ある。今よむ近思、文じゃ。なれとも而已と云字がいこう陋ひことなり。記誦詞章は而已なり。武士が町人を下卑たと云て賤しむは、金而已大事にするからぞ。金も国の宝で大事なものなれとも、而已で下卑た。さう云侍は、金はつかわぬかと云に、ずいぶん國用の要物にもすれとも、どふでも侍は喰はずと楊枝と云塲があるだけ而已でないぞ。生財有大道の、何以聚人曰財ともある。財も大切なれとも而已は下卑る。徂徠が性理のことを蹴やうとて云たことなれども、自ら古文辞の学じゃと云たは、銘の打そこないなり。下卑た看版をかけたのじゃ。一物ありてのことなれとも、謀の拙きと云へし。爰に周子が陋しと云てあるぞ。なれとも周子の云ことはあの方で信向もすまいか、平氣に成ってよく考て見たら耻かしかろうことぞ。学則も自小にした方、どふでも云そこないじゃと思はふぞ。先王の道が、當時にありては文辞に計りは限らぬ筈。その文辞と云から役にたたぬ荷物ふへるそ。周子の憎ひやつと云ことではなく、下卑たことじゃとなり。直方先生の、而已を以てする者はいやしとは、花見にゆきて花は見ずに弁當ばかり喰ふ様なもの、と。あまり下卑たことぞ。芋や菎蒻ばかりくふて、花を見ぬなれば仲間なり。陋しの方なり。俗学の、道理しらずに書ばかりよむぞ。胡五峰の知言にも書物は渡し舩と云た。向へ行て用を足す迠のことなり。舩に用事はなし。今日よんた処は為学でたった二條なれとも、垩学と云ものはあたまでけ出しがちごふ。これか為学の惣まくりじゃ。漢唐にあれほとの人材があるが、一粒えりにしても、士希賢の、存乎心の、蘊之と云ことはない。この方は思孟以来の学と云は、文字を見たら魂へきりつけ、内へ々々とたたきこむぞ。そこを為学と云。
【解説】
「彼以文辞而已者、陋矣」の説明。周子は、文辞のみに熱心な者を怒ることなく、下卑たことだと見下した。今、聖人の道を知るには文辞に頼るしか術はないが、文辞をするのみでは悪い。何でも「而已」が悪い。文辞のことを、韓退之は「文者載道之器」と言い、胡五峰は渡し船と言った。文辞自体は道ではない。徂徠は古文辞を唱えたが、文辞に捉われているだけ下卑ている。文字を見たら魂へ切り付け、内へと叩き込むものが為学である。
【通釈】
「以文辞而已者陋矣」。「行之為事業」という、これほど大きいことがあるのを知らないので、「文辞而已」は不埒千万だと言うかと思えば、何と下卑たことだと周子は言う。ここ等の書き方が面白い。「聖人之道」という字から判断しなさい。さて、文と言えば四子六経も文である。孔子の弟子こそ聖人の道を直接孔子から聞たものの、後の者は論語という文字より外に聞く術はない。論語は道の仲人をするものなのに、それを陋しいとはどういうことかと言うと、一生文辞のみに繋がれている者を指して言ったのである。徳利は酒を入れるもの、茶碗は茶を入れるもの。韓退之が「文者載道之器」と言った。中庸の序にも言語文字という字がある。今読んでいる近思録も文である。しかしながら、「而已」という字が大層陋しいことである。記誦詞章は而已である。武士が町人を下卑ていると言って賎しむのは、町人が金のみを大事にするからである。金も国の宝で大事なものだが、而已だから下卑たと言う。侍は金を使わないかといえば、随分と国費の入用とするが、侍は喰はずと楊枝という場があるだけ而已ではない。「生財有大道」や「何以聚人曰財」ということもある。財も大切だが而已では下卑る。徂徠が性理のことを一蹴しようとして自らを古文辞の学だと言ったのは、銘の打ち損いである。下卑た看版を掛けたのである。それも思惑があってのことだが、謀が拙いと言うべきものである。ここに周子が陋しいと言っている。しかしながら、周子の言うことを徂徠の方は信じないだろうが、平常心になってよく考えてみたら恥かしがることだろう。学則も自ら小さくしたことなど、どうでも言い損いだと思うだろう。先王の道は、先王のいた当時には文辞だけにあったとは限らない筈なのに、徂徠は文辞ばかりを言うから、役に立たない荷物が増えるのである。周子が彼等を憎い奴とは言わずに、下卑たことだと言った。直方先生が、而已を以ってする者が陋しいというのは、花見に行って花を見ずに弁当ばかりを喰う様なものだからだと言った。それはあまりに下卑たこと。芋や菎蒻ばかりを喰って花を見なければ仲間と同じである。それは陋しの類である。俗学は道理を知らずに書物ばかりを読んでいる。胡五峰も知言で「書物は渡し船」と言っている。向こうへ行って用を足すまでのことで、船自体に用事はない。今日読んだ処は為学の中のたった二条だが、聖学というものは、最初から蹴り出しが違う。これが為学の総まくりである。漢唐にはあれほどの人材がいたが、一粒選りにしても、士希賢や、存乎心、蘊之ということがない。こちらの方で、思子や孟子以来の学と言うのは、文字を見たら魂へ切り付けて、内へ、内へと叩き込むものである。そこを為学と言う。
【語釈】
・文者載道之器…
・中庸の序にも言語文字…中庸章句序。「則吾道之所寄不越乎言語文字之閒、而異端之説日新月盛、以至於老佛之徒出、則彌近理而大亂真矣」。
・國用…国家の費用。国費。
・生財有大道…大学章句10。「生財有大道。生之者衆、食之者寡、爲之者疾、用之者舒、則財恒足矣」。
・何以聚人曰財…易経繋辞伝下1。「天地之大德曰生、聖人之大寶曰位。何以守位。曰仁。何以聚人。曰財。理財正辭、禁民爲非、曰義」。
・胡五峰…胡宏。宋の建寧祟安(福建省)の人。字は仁仲。胡安国の末子。五峰先生と称せられる。著書『五峰集』『皇王大記』『胡子知言』~1155
・書物は渡し舩…