第三 好学論   八月六日  文七録
【語釈】
・八月六日…寛政2年庚戌(1790年)8月6日。
・文七…高宮文七。東金市押堀の人。筆記力に優れる。

或問、聖人之門、其徒三千、獨稱顏子爲好學。夫詩書六藝、三千子非不習而通也。然則顏子所獨好者、何學也。伊川先生曰、學以至聖人之道也。聖人可學而至歟。曰、然。學之道如何。曰、天地儲精、得五行之秀者爲人。其本也、眞而靜。其未發也、五性具焉。曰仁義禮智信。形既生矣、外物觸其形而動其中矣。其中動而七情出焉。曰喜怒哀樂愛惡欲。情既熾而益蕩、其性鑿矣。是故覺者約其情使合於中、正其心、養其性。愚者則不知制之、縱其情而至於邪僻、梏其性而亡之。然學之道、必先明諸心、知所養、一本作往。然後力行以求至。所謂自明而誠也。誠之之道、在乎信道篤。信道篤、則行之果。行之果、則守之固。仁義忠信不離乎心、造次必於是、顚沛必於是、出處語默必於是。久而弗失、則居之安、動容周旋中禮、而邪僻之心、無自生矣。故顏子所事、則曰非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。仲尼稱之、則曰得一善則拳拳服膺而弗失之矣。又曰不遷怒、不貳過。有不善、未嘗不知。知之、未嘗復行也。此其好之篤、學之之道也。然聖人則不思而得、不勉而中。顏子則必思而後得、必勉而後中。其與聖人相去一息。所未至者、守之也。非化之也。以其好學之心、假之以年、則不日而化矣。後人不達以謂、聖本生知、非學可至。而爲學之道遂失。不求諸己而求諸外、以博聞強記巧文麗辭爲工、榮華其言、鮮有至於道者。則今之學、與顏子所好異矣。
【読み】
或ひと問う、聖人の門、其の徒三千なるに、獨り顏子を稱して學を好むと爲す。夫[か]の詩書六藝は、三千子習いて通ぜざるには非ず。然らば則ち顏子の獨り好む所は何の學ぞや、と。伊川先生曰く、學びて以て聖人に至るの道なり、と。聖人は學びて至る可きか、と。曰く、然り、と。學ぶ道如何、と。曰く、天地精を儲くるとき、五行の秀を得し者を人と爲す。其の本や、真にして靜。其の未だ發せざるや、五性具わる。仁義禮智信を曰う。形既に生ずれば、外物は其の形に觸れて其の中を動かす。其の中動きて七情出ず。喜怒哀樂愛惡欲を曰う。情既に熾[さかん]にして益々蕩[うご]けば、其の性鑿たる。是の故に覺れる者は其の情を約して中に合わせしめ、其の心を正し、其の性を養う。愚かなる者は則ち之を制するを知らず、其の情を縱[ほしいまま]にして邪僻に至り、其の性を梏[こく]して之を亡す。然れども學ぶ道は、必ず先ず諸を心に明らかにし、養う所を知り、一本に往と作す。然して後に力行して以て至るを求む。謂う所の明らかなるによりて誠なるなり。之を誠にする道は、道を信ずること篤きに在り。道を信ずること篤くんば、則ち之を行うこと果[か]なり。之を行うこと果ならば、則ち之を守ること固し。仁義忠信は心を離れず、造次[ぞうじ]も必ず是に於てし、顚沛[てんぱい]も必ず是に於てし、出處語默も必ず是に於てす。久しくして失わずんば、則ち之に居ること安らかに、動容周旋は禮に中りて、邪僻の心、よりて生ずること無し。故に顏子の事とする所は、則ち禮に非ずんば視る勿かれ、禮に非ずんば聽く勿かれ、禮に非ずんば言う勿かれ、禮に非ずんば動く勿かれと曰う。仲尼之を稱して、則ち一善を得ば則ち拳拳服膺[ふくよう]して之を失わずと曰う。又怒を遷さず、過を貳びせず。不善有らば、未だ嘗て知らずんばあらず。之を知らば、未だ嘗て復行わずと曰う。此れ其の之を好むこと篤くして、之を學ぶ道なり。然れども聖人は則ち思わずして得、勉めずして中る。顏子は則ち必ず思いて後に得、必ず勉めて後に中る。其の聖人と相去ること一息なり。未だ至らざる所の者は、之を守るなり。之に化するに非ざるなり。其の學を好む心を以てして、之に假すに年を以てせば、則ち日ならずして化せしならん。後人は達せずして以謂えらく、聖は本生まれながら知る、學びて至る可きものに非ず、と。而して學を爲す道遂に失わる。諸を己に求めずして諸を外に求め、博聞強記巧文麗辭を以て工と爲し、其の言を榮華にし、道に至る者有ること鮮し。則ち今の學は、顏子の好む所と異なれり。
【補足】
この条は、程氏文集八(伊川先生文四)にある。

学問はとんと氣質を出さぬことなり。氣質を出さぬとはどふなれは、よい氣質をあてにせず、わるい氣質を云ひ立てにせぬこと。よい氣質をあてにすれば、顔子は初手から左り團。わるい氣質を云立にすれは、三千子は顔子を見て力を落す筈なり。よい氣質をあてにせす、わるい氣質も云立にせぬと云が学問の大事しゃ。直方先生、何に不足はない。あとに生れさしゃって道学標的を編て一ち始に、十室之邑忠信必有如丘者焉不如丘之好学を出し、鞭策録の終に顔子の好学論を出された。あれか直方先生の道学を傳へられたことなり。道学標的の始に孔子の好学を出し、鞭策録の終に顔子の好学を出す。あれが活て働くことそ。今日学者も活て働けは成就するはつ。氣質は死物なり。こふ云生れ付と云へは動かぬ。学問はそこを動かせること。学問は道中するやふなもの。道中するに氣質は出さぬ。御上洛の、御社参のと云御供ても、大名衆の参勤交代のと云に供廻りを云付るも、それ々々の勤る筋でこそ云付るなり。足が達者ゆへ、あのものを今度道中の供をと云付ることはない。何であろふとも、足の達者不達者にかまわず云付るなり。足か不達者ゆへ、供を云付ぬと云ことはない。駕籠にのろふが馬に乗ふか、道中するはとど行つくが肝心。行つきさへすれば同じこと。これにて氣質を出さぬと云ことを知べし。
【解説】
学問とは、よい気質に頼らず、悪い気質でもそれを言い立てにしたりしないで、学を好み、行き着くことが肝心である。気質は生まれ付きのものだから動くことはなく、死物である。しかし、学問は活きて働かなければ成就しない。その活きて働くのが好学であって、気質を出してはならない。
【通釈】
学問とは、全く気質を出さないことである。気質を出さないとはどの様なことかと言うと、よい気質を当てにせず、悪い気質を言い立てにしないこと。よい気質を当てにすれば、顔子は最初から左り団扇だし、悪い気質を言い立てにすれば、孔門の三千の弟子は顔子を見て力を落とす筈である。よい気質を当てにせず、悪い気質も言い立てにしないのが学問をする上で大事なことである。直方先生は何の不足もない。後にお生まれになって道学標的を編じて、一番に「十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好学也」を出し、鞭策録の終わりに顔子の好学論を出された。あれが、直方先生が道学を伝えられたということである。道学標的の始めに孔子の好学を出し、鞭策録の終わりに顔子の好学を出す。それが活きて働くということ。今日の学者も活きて働けば成就する筈。気質は死物である。こんな生まれ付きだといえば動かない。学問はそこを動かせること。学問は旅をする様なもの。旅をするのに気質は出さない。ご上洛やご社参などのお供でも、大名衆の参勤交代の際に供回りを言い付けるのも、それぞれの勤める筋から言い付けるのである。足が達者だからあの者を今度旅の供にしようと思って言い付ける様なことはない。何であろうとも、足の達者不達者に構わず言い付けるのである。足が不達者だから供を言い付けないということもない。駕篭に乗ろうが馬に乗ろうが、旅をするとは結局行き着くことが肝心。行き着きさえすれば同じこと。これまでの話で、気質を出さないということを知りなさい。
【語釈】
・云ひ立て…①取り立てて言うこと。強調すること。②いいぐさ。口実。
・十室之邑忠信必有如丘者焉不如丘之好学…論語公冶長28。「子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也」。
・社参…神社に参拝すること。みやまいり。
・供廻り…供回り。供人のむれ。供の人々。供勢。

或曰垩人之門云々。顔子を、学を好むと云はれた、其難問なり。これは一不審あろふことぞ。孔子の御門人三千人の内、顔子はかり好学と云に、不審は尤なことなり。孔子の門人はふだん詩經書經を第一とわざにしられた。孔子は祖述堯舜憲章文武と云て、堯舜禹湯文武の道を平生傳へられたことそ。堯舜禹湯文武の道は詩經書經にある。孔子のときは書詩はかりて、其外の書はない。六藝は人間の事さなり。礼を学ばぬと、そこへ出た所が立ことも居はることもならぬ。音樂を学はぬと、茨からたちのやふに方々がとげ針のやうで和せぬ。にっとりとないなり。礼てかたを学ひ、樂で心を和す。さて今も弓や馬は端的あり。此二つがならぬと云なれば、士たるもののわざはならぬと云ものなり。さて、書数と云か、これも人と生れた処から此様な業もする。禽獣には、天から受けた一と筋は、灵は通りても、物を書き筭用をすることはならぬ。これをすると云が人間と云わざをすることなり。これてみよ。孔子の弟子衆は異端の壁を瞋と云やふなことはないぞ。詩書六藝からさきにきめられた。今日、手習師匠と云者の処に大勢の手習子がどれも字を書に、三千子か丁と其やふに皆、詩書六藝はなったぞ。これからなら子ば孔門と云しごとはないなり。かたの上からきめての不審。三千子が皆孔子の筆道を学で、孔子の手風を書ことなり。それに顔子のことは挌別なことでと、三千子はありかいなしに云はれた。これは不思義なことじゃと問たものなり。思へは一つ不審のかかることそ。
【解説】
「或問、聖人之門、其徒三千、獨稱顏子爲好學。夫詩書六藝、三千子非不習而通也。然則顏子所獨好者、何學也」の説明。孔子の時代の書は詩書だけしかなく、それには堯舜禹湯文武の道が書かれている。六芸(礼楽射御書数)は、人であるからには習得しなければならないもの。孔子の三千人の弟子は同じく、先ずこの詩書六芸から習得し始めた。それにも拘らず、顔子独りを学を好むと言うのは不審なことである。
【通釈】
「或問聖人之門云々」。これは、顔子だけが学を好むと言われたことに対しての詰問である。確かに一不審あることだろう。孔子の御門人三千人の内で、顔子だけが学を好むと言えば、その不審は尤もなことである。孔子の門人は普段から、詩経と書経を第一の業としていた。孔子は「祖述堯舜憲章文武」と言って、堯舜禹湯文武の道を平生伝えておられた。堯舜禹湯文武の道は詩経書経の中にある。孔子のいた時は詩書だけで、その外の書はなかった。六芸は人間の業である。礼を学ばなければ、身の処し方がわからないから、場に出て立つことも座ることもできない。音楽を学ばなければ、茨や枳殻の様に方々が棘針の様で和せない。にっとりとしない。礼で形を学び、楽で心を和す。さて今も弓や馬者はしっかりと残っている。この二つができないと言うのなら、士たる者の業はできないというもの。さて、書数というものは、これも人として生まれたからには、この様な業もするのである。禽獣には天から受けた一筋の霊は通っているが、物を書き算用をすることはできない。これをするというのが、人間という業をすることなのである。これで考えなさい。孔子の弟子衆は、異端が壁を睨む様な修行はしない。詩書六芸から先に始めた。今日、手習師匠という者の処で大勢の手習子がどれも同じ字を書いて練習しているが、三千子も丁度その様に皆詩書六芸を身に付けた。これから始めなければ孔門の仕事とは言えない。ここは形の上からの不審である。三千子が皆孔子の筆道を学んで、孔子の手風を書いているのに、顔子のことは格別なことで、三千子はいる甲斐が無いと言われた。そこで、これは不思議なことだと問うたのである。改めて考えれば、一つ不審なことである。
【語釈】
・難問…難詰して返答を迫ること。
・祖述堯舜憲章文武…中庸章句30。「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。
・六藝…周代に士以上が必ず学ぶべき科目と定められた六種の技芸、礼・楽・射・御・書・数。
・異端の壁…達磨の九年面壁坐禅を指す。
・瞋…「睨」の誤り。

伊川先生曰云々。わるく心得ると至聖人之道の一句、顔子を云たやふに思ふが、そふ云文義ではない。此句はひろく云ことそ。顔子てあろふか顔子てあるまいか、学問をするは至聖人より外はない。兎角此語を顔子で語らぬことと合点するがよいぞ。顔子ばかりこうじゃと見ると、三千子は粕になる。三千子が顔子のやふてないとて、うか々々としてはをるまい。皆の衆、みな垩人に至る学。そこて垩人と云ことになって、此を昔から垩人か水かけ論にするそ。至垩人とても、誰も至たものはないと云たかる。其垩人には誰かなりた、ならぬ、と人を出して云ことてない。伊川は理なりをまっすくに云ことなり。学問はつまり、氣にさへられぬことそ。氣にさへられると志はらりになる。若ひものは朝寝むい。それなりに子ると取手方角はなく眠る。其眠ひ処を起るか学問なり。子むたいををこしてくれろふと云は、氣にさへられす目を覚すなり。これは誰もなる。若ひ者とも皆をこされて起る。是、氣なりにせぬこと。学問も其様なものなり。垩人に至ると云ことて大小こそちがへ、理から云へば、子むい目をさますのかぶにしたものなり。気質筭盤に入ることはない。
【解説】
「伊川先生曰、學以至聖人之道也。聖人可學而至歟」の説明。ここで言う聖人とは、顔子を指すのではなく、聖人全般を言ったものである。孔門の弟子達も皆、顔子の様にはならなかったが、聖人に至るための学問に励んだ。聖人とは、気に障えられずに理のままのことを言う。気に障えられると志が台無しになる。気に障えられないとは、眠たいところを我慢して起きる様なものである。
【通釈】
「伊川先生曰云々」。間違って理解すると、「至聖人之道」の一句は顔子を指して言ったことの様に思うが、そういう文意ではない。この句は広く指して言うこと。顔子であろうがなかろうが、学問をするというのは至聖人のこと以外にはない。とかくこの語は顔子のこととして語らないのがよい合点である。顔子だけが聖人だと見れば、三千子は粕になる。三千子が顔子の様でないからといって、彼等がうかうかとしてはいなかっただろう。弟子が皆、聖人に至るための学を行った。さて、聖人というとになると、昔から水掛け論となる。至聖人と言っても、誰も至った者はないと言いたがる。その聖人には誰が成ったのか、誰も成っていないなどと言うが、人を出して言うことではない。伊川は理の通りに真直ぐなことを聖人と言ったのである。学問とは結局、気に障えられないこと。気に障えられると志は台無しになる。若い者は朝眠い。そのまま眠っていると途方もなく眠る。その眠い処を起きるのが学問である。眠たいところを起こしてくれと言うのが、気に障えられずに目を覚ますこと。これは誰もができる。若い者共は皆起こされて起きる。ここが、気のままにしないこと。学問もその様なものである。聖人に至るということは大小こそ違っていても、理から言えば、眠い目を覚ますことが自分の株になることである。気質には無関係なことである。
【語釈】
・らり…乱離骨灰の略。ちりぢりに離れ散ること。めちゃめちゃになること。
・筭盤…①そろばん。②算木をその上に並べ、高次方程式を解く計算をするための盤。和算で使用した。木・布・紙などで作り、盤面に縦横の碁盤目を引き、方程式の次数と係数の大きさを明示するのに役立たせる。

江戸へ行るるなれば、長﨑へも行るることなり。垩人に至られそふはないことなれとも、道があいてをるゆへ至れる。朝起はなろふか垩人にはなられぬ、と。朝起と垩人とは大小ては大ふちがへとも、理から云へは大小はない。朝起する心かけなれば、氣にさへられぬ。氣にさへられぬなれば、垩人にもならるる。これかいやと云はれぬことなり。道理のなりなことぞ。理のないことは近ふても至られぬものなり。長﨑はさてをき、三里さきも目には見へぬが行かるる。路があいてをるゆへ行るるなり。三里さきへ行るるなれは、長﨑へも行かるることそ。理のないことは近ふても行かれぬと云は、畑へ出てみよ。雲萑が舞上る。あの少ひ鳥かみゆるからは、何程高ひとてもさほとにあるまいか、あそこへはとんと行れぬ。行の理のなひゆへなり。長﨑はあれほと遠ふても行るるは、行るる理のあるゆへなり。仙人になるは理かない。そこてなられぬ。垩人になるは理のあるなり。垩人にも耳目鼻口あり。今日の人も耳目鼻口あり。垩人にも仁義礼智あれは、今日の人にも仁義礼智あるなり。然れは垩人に至られぬと云は、理を知らすに云たことなり。学問は眼病のとき、目を療治するやふなもの。二つある目をもふ一つあけて、三つにしてくれよと云ことにあらす。わるいを直して本との目にする迠のこと。垩人は人間の本体、垢のある人か垢をとったやふなもの。別の人になるてはない。先日の処に、伊尹顔淵大賢なりと周子が看板をかけてをかれた。至垩人之道也は、あの中へ這入て云たとみることそ。近思録を近く思とは、ここのことなり。程子の孔孟以来の道統を継れたも、此一言に掛ることぞ。
【解説】
理があれば、どんなに遠くても行き着くことができる。逆に、理がなければ、どんなに近くても行き着くことはできない。それで、長崎へも行くことができるが、雲雀の様には空を飛ぶことはできない。聖人も人も本は変わらない。聖人は人間の本の体であって、別なものではないのである。
【通釈】
江戸へ行くことができるのなら、長崎へも行くことことは可能である。聖人に至ることはできそうもないことだが、道が開いているから至ることができる。朝起きはできそうだが聖人には成れないと言うが、朝起きと聖人とは大小では大分違っていても、理から言えば大小はない。朝起きする心掛けだったら、気に障えられない。気に障えられないのなら、聖人にも成ることができる。これが違うとは言えないことで、道理の通りなこと。理がないのは近くにあっても至ることができない。長崎はさて置き、三里先でも目には見へないが行くことができる。路が開いているから行くことができるのである。三里先へ行けるのなら、長崎へも行くことができる。理がなければ近くでも行くことができないと言うのは、畑へ出てみなさい。雲雀が舞い上がる。あの小さい鳥が見えるのだから、どんなに高いと言ってもさほどでもないだろうが、あそこへは全く行くことはできない。行くことのできる理がないからである。長崎はあれほど遠くても行くことができる。行くことのできる理があるからである。仙人になるのは理がない。そこで成れない。聖人に成るのは理があるからできる。聖人にも耳目鼻口があり、今日の人も耳目鼻口がある。聖人にも仁義礼智があり、今日の人にも仁義礼智がある。よって、聖人に至ることができないと言うのは、理を知らずに言ったことなのである。学問は、眼病の時に目を療治する様なもの。二つある目をもう一つ開けて、三つにしてくれと言うことではない。悪いところを治して本来の目にするまでのこと。聖人は人間の本の体で、垢のある人が垢を取った様なもの。別の人になるのではない。先日の処に、「伊尹顔淵大賢也」と周子が看板を掛けて置かれた。至聖人之道也は、あの中へ這い入って言ったことだと捉えなさい。近思録の近く思うとは、このことを指す。伊川が孔孟以来の道統を継がれたのも、この一言に拠る。
【語釈】
・伊尹顔淵大賢なり…為学1の語。

日本にはこのやふなことは甚拂底なり。王仁が来て文学教たが初て。其後、菅家、江家あり。これは儒学の開山なれとも、学至垩人之道と云を知たものはとんとない。ここを臭てもみたものはない。日本ては只文字はかりよむことを儒学と心得た故に、垩德太子も神道は種根、佛道は花実、儒学は枝葉と云はれた。これは垩学を大ふ末としたことなり。其筈そ。あの比は学と云へば文字斗りゆえ、そふ思はれた筈そ。論語と白氏文集が連立て行はれたものなり。このやふなことゆえ、日本の古の学問と云は通辞のやふなり。儒者は字をよむことにした。此学と云を知たものは遥にすぎて、惺窩道春二先生なり。此二子は至垩人之道と云かあること、そふなと始て知られたゆえ、新注と出たそ。惺窩道春二先生のこれを知られたは延平答問を見たをかげなり。博識な人と計り見るは違ひなり。聖人に至ればならるると云、明に知れたは程朱なり。それを知て、日本て始て学問らしくなった。それと云も延平のをかげなり。さて、今日我も人も垩人に至らふか至られまいか、とかく垩人に至ることじゃ。これを学と見れば目があいたと云ものぞ。是を知ら子ば学問ではない。藝と云ものぞ。之道也とは道理の形をずっと示た語なり。そふ語てをいて、垩人可学而至歟、と。此句はのひあかりて云ことそ。論語孟子を讀て昔咄と思ふたか、至垩人之道也と聞ては、のびあから子ばならぬ。この魂にならぬ内は、近思録の咄はうつらぬ。出家も佛になろふと云魂てなけれはたのもしふないぞ。この二句にのりかつか子ば学問か藝なり。この面てをることかと思たに、垩人可学而至歟なり。
【解説】
日本で「学至聖人之道」ということを初めて知ったのは藤原惺窩と林羅山である。それまでは、文字を読むことが儒学の業だった。それで聖徳太子も神道は種根、仏道は花実、儒学は枝葉と、儒学を低く見た。その惺窩と羅山が学至聖人之道を知るきっかけとなったのは延平答問であり、学至聖人之道を明白に知ったのは伊川と朱子である。
【通釈】
日本では、この様なことは甚だ少ない。王仁が来て文学を教たのが始まりで、その後、菅家、江家がある。彼等は儒学の開山ではあるが、「学至聖人之道」ということを知った者は全くいない。ここを嗅いだ者さえいなかった。日本では只、文字を読むことばかりを儒学と心得たから、聖徳太子も神道は種根、仏道は花実、儒学は枝葉と言われた。これは聖学を大分末としたことである。その筈で、あの頃は学問と言えば文字のことばかりだったから、そう思われた筈である。論語と白氏文集が連れ立って行なわれたのである。この様なことだから、日本の古の学問というのは通辞の様だった。儒者の行いは字を読むことだった。この学というものを知った者はそれから遥かに過ぎて、藤原惺窩と林羅山の二先生である。この二子は至聖人之道があることを始めて知られたので、新注として出した。惺窩と羅山の二先生がこれを知ることができたのは、延平答問を見たお陰である。彼等を博識なだけの人だと見るのは間違いである。聖人に成ろうとすれば成ることができるということを明らかに知られたのは程朱である。惺窩と羅山がそれを知ることで、初めて日本で学問らしくなった。それというのも延平のお陰である。さて今日、聖人に至ることができようができまいが、ともかく誰もが聖人に至ることを目標にする。これを学ぶと捉えれば目が開いたと言うもの。これを知らなければ学問ではなく、芸というもの。「之道也」とは道理の姿を強く示した言葉である。そう語っておいて、「聖人可学而至歟」と問う。この句は伸び上がって言うこと。論語孟子を読んで昔話だと思ったが、至聖人之道也と聞いては、伸び上がらなくてはならない。それが自分の魂にならない内は、近思録の話は映らない。出家も仏になろうという魂でなければ頼もしくない。この二句に乗りが付かなければ、学問は芸となる。この顔のままでいればよいと思ったのに、「学以至聖人之道也」と言われては、「聖人可学而至歟」と問わなければならなくなった。
【語釈】
・王仁…古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」一巻をもたらしたという。和邇吉師。
・菅家…菅原氏の家筋。江家と共に紀伝の儒家。
・江家…大江氏の家筋。
・白氏文集…唐の白居易の詩文集。
・通辞…通訳。通弁。江戸時代、長崎に唐通事・和蘭通詞が置かれた。
・惺窩…藤原惺窩。江戸初期の儒学者。名は粛。字は斂夫。冷泉家の出身。播磨に生れ、初め相国寺の僧、後に朱子学を究め、儒を以て世に立ち、門人に林羅山らを輩出。著「惺窩文集」など。1561~1619
・道春…林羅山の僧号。幕府での通称。江戸初期の幕府の儒官。名は忠・信勝。僧号、道春。京都の人。藤原惺窩に朱子学を学び、家康以後四代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌の起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。著「本朝神社考」など。1583~1657
・延平答問…朱子が編纂。李延平の思想を伝えたもの。三巻。

曰然。何のこともないことて、さて大な挨拶なり。然りとは、うんと受る口上なり。うんと云も口上によりたもの。庭の柚を一つと云はうんと云るるか、千两借りたいと云は、借す覺のある人でなければうんと答へられぬ。中々然りとは云れぬ。大名衆も、御手傳を仰付られても勤る覚のあるて御請する。然りもそれそ。それかなるなり。ここは好学論なれは、顔子へかけて云をふとも、伊川の方に覚のないことは云れぬもの。そふたい、此方に覚のないことは假令に云ことても精彩がない。其元の親父はこう云いきしゃと眞似をして、咳拂をしても子がこはからぬ。そこへ本の親父か来るとこわかる。垩人には至らるるか、曰然り云ふか伊川先生が云ゆへのりかつく。迂斎か然の字へ朱をさいてをかれたか面白ことそ。これて活てくるなり。只の字てはない。此然て天下古今の学者を活すことなり。今迠は垩人に盖をしてあった。此のからだにあいそをつかして居たなり。所を然りと救ひとらふとする。此然りから騷き出て見子はならぬ。学之道如何を大切に見ることなり。垩人可学至かとのひあかりた処を、曰然と元氣をつけて、爰は落付てしたくを仕置してかかることぞ。然りの受はかふてなけれは益はない。うか々々世間なりの学問をして、垩人に至られやうはない。したくしなをさ子ばならぬ。某、近来度々新発田の学友へ学問をしなをせ々々々々と云てつかわしたはここなり。只、形はかりしては役に立ぬ。了簡をきりかへやふことそ。似たか々々々の四君子湯を異功散にしよふと云やふては役に立ぬ。垩人に至るしたくゆへ、ちょっとしたしたくてはならぬ。爰もやはり近く思へつめることぞ。はっきりときりかへるがよい。
【解説】
「曰然。學之道如何」の説明。伊川が「然り」と答えたのは、彼に確信、覚悟があってのことである。学問を世間並みに行っていたのでは聖人に至ることはできない。しっかりと覚悟を決めて行わなければならない。
【通釈】
「曰然」。何ともないことの様で、さて大層な挨拶である。然りとは、はいと受ける口上である。はいと言うのも、その内容による。庭の柚を一つ欲しいと言われれば、はいと言えるが、千両借りたいと言われれば、貸す覚悟のある人でなければうんと答えられない。中々然りとは言えない。大名衆も、お手伝いを仰せ付けられても、勤める覚悟があるからお請けできるのである。然りもそれである。それが成ると言うこと。ここは好学論だから、顔子へ掛けて言ったことだが、伊川の方に覚えのないことは言うことができないもの。大体、自分に覚えのないことはたとえで言っても精彩がない。お前の親父はこういう風だと真似をして咳払いをしても、子は恐がらない。そこへ本物の親父が来ると恐がる。聖人には至ることができるのかと尋ねられて「曰然」と言うのは、伊川先生が言うから乗りが付く。迂斎が然りの字へ朱を注しておかれたのが面白い。これで活きて来る。只の字ではない。この然りが天下古今の学者を活かすこと。今までは聖人に蓋をしてあった。この身体に愛想を尽かしていた。そんな所を然りと救い取ろうとする。この然りから騷き出して見なければならない。「学之道如何」を大切に見なさい。「聖人可学至歟」と伸び上がった処を、「曰然」と元気を付け、ここは落ち付いて支度をして掛かる。然りという受け答えはこうでなければ益がない。うかうかと世間並みの学問をしていて、聖人に至ることができる筈はない。支度をし直さなければならない。私が近来、度々新発田の学友へ学問をし直せと言って遣わしたのはここの意である。只、形ばかりでしていては役に立たない。了簡を切り変えなければならない。よく似ているからと言って、四君子湯を異功散として使おうと言う様では役に立たない。聖人に至る支度だから、ちょっとした支度では駄目である。ここのところもやはり近思に詰めることを語っている。はっきりと切り変えるのがよい。

天地儲精云々。学問のしかたを聞くゆへ、為学から云ひそふなもの。それては根がすまぬ。そこて天地儲精と道体から語る。これらても爲学の前に道体あることか知れるなり。大学は学問工夫の書なれとも、始めに明德と道体を語り、朱子の序も、蓋天降生民と前から語る。学問は天地にもとついたもの。そこて大ふ根を語ら子はならぬ。山﨑先生のたくわへと点したを、直方のととめとなをされて読れた。同しことなれとも、たくはへと云へは久しくをくことにみへる。そこてなか々々しくみせまいとてととめと直されたか、直すにも及はぬことなり。偖、儲ると云はものの出来ることて、できる始を儲ると云。凡流行する処ては出来ぬものぞ。流行する内に止るものかある。そこを云。精は隂陽の氣のちっとも粕にならぬきっすいを云。隂陽の氣の新しひと云やふなもの。これは弁なり。隂陽の氣にくさりたはない。隂陽の気の活てさへたことを云なり。流行するうちはてきぬ。隂の氣、陽の氣の合て一寸と留る処てものができる。瀧の水からは、魚は生ぬ筈。水か流れても止る処あり。そこから魚か涌くなり。天地の氣の留る処て出来るなり。ここは人物一理なり。されとも人て云。隂陽の二氣かわたる、五行になる。これか阴阳の外てはない。隂陽が五行になる。秀は人へかけて云こと。此方から云口上なり。天地阴阳五行の氣てものをこしらえるに、物にはわるい方をやり、人にはよい方をやると云ことにあらす。こちか挌別よいゆへ、こちへうつりのよいことなり。同し水ても、銀の鉢へ汲てをくと月かさえ々々とうつる。古る桶へはどみてうつる。人はさえ々々と秀た氣ぞ。さて好学論ては物の咄をせぬ趣向なり。中庸の天命性は道体ゆえ人物をこめる。ここも道体なれとも全体為学が主で云ゆへ、人はかりを云なり。
【解説】
「天地儲精、得五行之秀者爲人」の説明。道体をしっかりと理解してから為学に取り掛かることが必要である。それで、近思録は道体の後に為学がある。「儲」とは物のでき始めであり、物は陰陽の気が流行する中にあって、その気が留まることによってできる。「精」とは陰陽の生粋で、活きて冴えた気である。天地が物を拵えるのに贔屓はない。ただ、人自体が秀でているので冴えて秀でた気が集まるのである。
【通釈】
「天地儲精云々」。学問の仕方を聞くのだから、為学のことから話をしそうなものだが、それでは根が済まない。そこで天地儲精と、道体から語るのである。これからも、為学の前に道体のあることがわかる。大学は学問の工夫の書だが、始めに明徳と道体を語り、朱子の序も、蓋天降生民と道体から語る。学問は天地に基づいたもの。そこでしっかりと根を語らなくてはならない。「儲」を、山崎先生がたくわえと点したのを、直方はとどめと直されて読まれた。どちらも同じことで、蓄えと言えば久しく置くことに見えるので、そこで長々しくは見せない様にと、留めと直されたのだが、直すには及ばないことである。さて、儲けるとは物ができることで、できる始めを儲けると言う。凡そ流行する処では、物はできないもの。流行する内に止まるものがある。そこを言う。精とは陰陽の気が少しも粕にならない、その生粋を言う。陰陽の気の新しいものという様なこと。これはたとえであって、陰陽の気に腐ったものはない。陰陽の気が活きて冴えたことを言う。流行する内は、物はできない。陰陽の気が合して一寸留まる処でできる。瀧の水からは、魚は生じない筈。水は流れていても止まる処があり、そこから魚が涌く。天地の気の留まる処で物ができる。人も物も理は一つだが、ここは人について言う。陰陽の二気が渡ると五行になる。五行は陰陽の以外のものではない。陰陽が五行になる。「秀」は人について言うことで、人の方で言う口上である。天地陰陽五行の気で物を拵えるが、それは、物に悪い方を遣り、人にはよい方を遣るということではない。人は格別によいので、人への映りがよいということである。同じ水でも、銀の鉢へ汲んで置くと月が冴えて映るが、古桶へは澱んで映る。人は冴え冴えと秀でた気である。さて、好学論では物の話をしないのが趣向である。中庸にある天命性は道体のことだから人物を込めて語る。ここも道体のことだが、全体としては為学を主として言うから、人だけについて語るのである。
【語釈】
・蓋天降生民…大学章句序。「蓋自天降生民、則既莫不與之以仁義禮智之性矣」。
・天命性…中庸章句1。「天命之謂性」。

其本也。本体、本然の字あり。それ々々當りあることそ。本体は、あらはれた用へ對したとき云こと。本然は、あらはれやふかあらはれまいか、体用をこめて、そふしたありなりを本然と云ことなり。人々吟味があらひ故、本体と本然の分ちを知らぬ。是をきめるには、朱子の太極図説の注にあり。動而陽靜而隂之本体なりとある。隂陽動靜はがんざりと見へる。其本体はみへぬ、あらはれるに對して云こと。偖又目と鼻の間に、太極は本然の妙なりとある。あらはれるの、あらはれぬのと云にとんぢゃくなく、ああしたものじゃともちまへから云ことなり。爰は下の未発を相手にして云ゆへ、本体かあたりまえ。されともその本体なりがすぐに本然なれは、見やふて一つになる。本体とはどのやふなものなれは、觀世太夫か能をする。さてよいと云。其よいと云ものの本体が觀世なり。義之や子昂か大文字を書。さても能書と云。其能書の本体か義之子昂なり。その吟味なく、名人能書と云なりか本然そ。本体なりか本然なり。本体と本然はあまりちかふた字てはない。又似たことあり。本領と云字、本初と云字あり。あらはれた事ざの工夫と、あらはれぬ心の工夫かある。胸へたたみこんた心地一段の工夫を本領と云。又本初と云は、これは末になってもののそこ子たに對して、もとはよかったと云迠て、最初の処を本初と云。ここの本の字も、右の四の内に合点すへし。諸先軰も色々に説れたれとも、四つあたりは違へとも、何にしろ大本に相違はない。
【解説】
「其本也」の説明。「本」とは大本の意である。本を使った言葉には、本体、本然、本領、本初などがあるが、ここは大本と言うことに相違はない。
【通釈】
「其本也」。本体や本然という字があるが、それぞれ其本也にある本の字と関連がある。本体とは、現れた用に対して言うこと。本然とは、現れるか否かに関係なく、体用を含めて、そうしたあるがままの姿を本然と言うのである。人々は吟味が粗いから、本体と本然の違いを知らない。ここを理解するのには、朱子の太極図説の注がある。そこに「動而陽静而陰之本体なり」とある。陰陽動静ははっきりと見ることができるが、その本体は見えない。本体は現れることに対して言う。さてまた、その目と鼻の間に「太極は本然の妙なり」とある。現れるとか、現れないとかに頓着しないで、ああしたものだと持ち前から言う。ここでは下にある未発を相手にして言うから、本体と言うのが当り前だが、その本体の姿が直に本然なので、見方次第で同じことになる。本体とはどの様なものかと言うと、観世太夫が能をする。それを本当に上手いと言う。その上手いというものの本体が観世である。羲之や子昂が大文字を書く。流石は能書だと言う。その能書の本体が羲之や子昂である。その様な吟味をしないで、名人とか能書という姿が本然である。本体の通りが本然である。本体と本然とはあまり違った字ではない。また、これに似たことがある。本領という字と本初という字がある。現れた業の工夫と、現れない心の工夫がある。胸へ畳み込んだ心地一段の工夫を本領と言う。また、本初というのは、後で物を損ねたことに対して元はよかったというところで、その最初の処を本初と言う。ここの本の字も、右にある本体、本然、本領、本初の四つの語の内で理解しなさい。諸先輩も色々と説かれた。四つの語の当たりは異なるが、何にしても大本には相違ない。
【語釈】
・動而陽靜而隂之本体なり…動いて陽、静にて陰、これ本体なり?
・太極は本然の妙なり…
・義之…王羲之。東晋の書家。字は逸少。307?~365?
・子昂…陳子昂。初唐の詩人。字は伯玉。661~702

眞而靜は、天から拜領をうぶのままでもち、氣にかふれのないことを云。氣にかぶれす太極なりの道理ゆへ、眞と云。理のぎり々々の名なり。交りなくぎり々々にこきあげた字なり。阴阳の氣で出来る其本ゆへ、拜領なりで耳もすれぬ。此靜の字は礼記か出處になる。人か天之性のままで、まだ感ぜぬ塲ゆへ靜なり。動靜は天地自然のなりて靜に偏てはないか、感せぬときゆへ靜と云。あとの動の字と對して云。老子の虚無釈氏の寂滅、あれは靜にかたづる。この方は靜に片づることはなけれとも、天から拜領のまま。其ときは靜と云より外云はれぬ。事にふれ、物に交らぬゆへなり。人間はとど活もの。生きものは動くぞ。其起らぬ本体の理なりて云ゆへ靜と云。ここに老子臭ひも仏氏くさいこともない。物に応せぬときを云。其と云字は、上の其も同しこと。爲人を其々と指す。どちも一つ塲なり。なぜくとく書なれは、得五行秀為人は氣の上て云。氣て出来ても理を受たゆへ、眞而靜と云ふなり。発は上へつなくてはなく、下に入用あり。
【解説】
「眞而靜。其未發也」の説明。人の大本は真而静だが、真とは気に被れない太極そのままの状態を言い、理の至極である。静とは物に感じる前の状態である。動も静も天地自然の姿であり、老仏の様に静に偏ることは聖学にはない。
【通釈】
「真而静」は、天からの拝領を初心のままで持ち、気に被れないことを言う。気に被れず、太極そのままの道理だから、真と言う。理のぎりぎりの名である。交わりがなく、ぎりぎりに扱ぎ上げた字である。陰陽の気でできるものの本だから、拝領のままで少しも欠けがない。この静の字は礼記が出処である。人が天の性のままで、まだ物に感じない状態だから静なのである。動も静も天地自然の姿であって、静に偏るわけではないが、感じない時だから静と言う。後にある動の字に対応して言う。老子の虚無や釈迦の寂滅は静に片吊る。こちらは静に片吊ることはないが、天からの拝領のままの時は静と言うより外はない。事に触れたり物に交わったりしないからである。結局、人間は活き物。生き物は動く。その動きが起らない、本体の理だけで言うから静と言う。ここには老子臭さも仏氏臭いこともない。物に応じない時を言う。「其」という字は、上の其と同じこと。「為人」に対して其と指す。どちらも同じ場である。何故この様にくどく書くのかと言うと、「得五行之秀者為人」は気の上で言ったものだが、気でできていても理を受けたから真而静と言うのである。発は上の句へ繋ぐのではなく、下の句に関連したことである。
【語釈】
・靜の字は礼記か出處…礼記楽記。「人生而靜、天之性也。感於物而動、性之欲也」。

五性具焉。對句なり。眞而靜は色品をわけす云こと。無極而太極と云やふなもの。是から跡は小割にして云ことなり。五性具は上の眞の字のこと。拜領は太極とみせるため眞而靜と云。其中に筋のわかれたものかある。五性具焉なり。人生而靜天之性なりとあるを五の字を付るか、程子になって綿蜜に成た処なり。上に五性とうけた。とかく性理の説は筋のわかるかよい。人生而靜天之性なりから出たものなれとも、五性と云て、せうふを固めたやふてない。仁義礼智と顔をあらはして見せたもの。五性具焉かここて見へる。禽獣も天地に孕れて生たゆへに、一線路の明ありて仁義に似た処か細く一すじある。戸の穴から、日の先きのさすやふすなり。人間は秀たものゆへ、丁どのものかある。さて、始め其本也眞而靜と云とめ、あとに形而生とされた。又、太極圖説には形かさきに出て五性かあとに出てある。どちも同しことなり。程子は周子の弟子て仁義礼智を語り、跡て形を云。合点した上は自由自在。羅整菴が、理かさきの、氣かさきのと云ことに苦労するは、皆合点せぬからのことなり。周子や程子はすきしたいを云。朱子もそれなり。必竟先有理と云るるかと思へは、以氣成形而理亦賦焉。中庸章句にあり。根かすむとどふても云なり。某か前の路上に東金の方から人か来て、あちこちして横川の方へはとふ行くと聞くか、すんたものは左へもゆく、右へもゆく。其筈そ。左からても右からても南の方へ出るなり。勝手次第をあくる。仁義礼智が出来てそれから形と云へは、とりあげはばのこぬ前のやふなり。又、形が出来て五性かと云へば、どふやらとり上ヶはばのきたときのやふなり。此様に口で云ふに先後あれとも、ここに先後はない。仁義礼智か生れぬさきにあるて、生れてからそこへはいるてもなく、本と理氣妙合て、いつも云銀の譬がよいぞ。銀がさきか五匁がさきかと云ことではない。丸ひ玉がころりと出る。直に五匁とか三匁とかあって、跡先きなしに出来ることなり。仁義礼智をさきに云はれたは、仁義礼智は人間の本然。ここを先きに云が学問の標準そ。又、中庸の天命の性も理から云へとも、章句に氣以成形と出す。先、仁義礼智の人物を出して云そ。此様に合点すると、どこにも滞りはない。
【解説】
「五性具焉。曰仁義禮智信。」の説明。真而静は無極而太極の様なもので、これを受けて細分化したのが五性であり、礼記の「人生而静天之性也」の性に五を加えたものである。形と五性との先後について、太極図説では形を先とし、ここは形を後としている。それは、口で言うことには先後があるからそうなるのであって、ここに先後はない。理気妙合なのである。
【通釈】
「五性具焉」。これは対句である。「真而静」は細かく分けずに言うことで、無極而太極と言う様なもの。これからあとの話は、細分して言う。五性具は上にある真のこと。拝領したのは太極とわからせるために、真而静と言う。その中に筋の分かれたものがある。それが五性具焉である。礼記に「人生而静天之性也」とあるが、それに五の字を付けるのが程子になって綿密になった処である。上の真而静に対して五性と受けた。とかく性理の説は筋が分かれるのがよい。人生而静天之性也から出たものだが、それを五性と言い、せうふを固めた様なことではない。仁義礼智と顔を現せて見せたもの。五性具焉がここで見える。禽獣も天地に孕まれて生まれたのだから一線路の明があって、仁義に似た処が細く一筋ある。それは戸の穴から、日の先端が射す様なもの。人間は秀でたものだから、丁度のものがある。さて、始めに「其本也真而静」と言い止めて、後に「形既生」とされた。また、太極図説では形が先に出て五性が後に出ている。しかし、どちらも同じことである。程子は周子の弟子だが、仁義礼智を語った後で形を言う。理解した上は自由自在である。羅整菴が、理が先か、気が先かと苦労するのは、何も理解していないからである。周子や程子は好き次第を言う。朱子もそうである。「先有此理」と言われるかと思えば、「以気成形而理亦賦焉」と中庸章句にある。根が済むとどうにでも言うことができる。私の前の路上に東金の方から人が来て、うろうろして横川の方へはどの様に行くのかと聞くが、よく知った者は左へも行き、右へも行く。その筈で、左からでも右からでも南の方へ出るからである。勝手次第に歩く。仁義礼智ができて、それから形ができると言えば、取り上げ婆が来る前の様である。また、形ができて五性があると言えば、どうやら取り上げ婆が来た時の様である。この様に、口で言うことには先後があるが、ここに先後はない。仁義礼智は生まれる前からあるから、生まれてからそこに入るのでもなく、本来は理気妙合である。それにはいつも言う銀のたとえがよい説明となる。銀が先か五匁が先かということではない。丸い玉がころりと出ると、直ちに五匁とか、三匁とかとなって、後先なくできる。仁義礼智を先に言われたのは、仁義礼智は人間の本然だからであって、ここを先に言うのが学問の標準なのである。また、中庸の天命性も理から言うものの、その章句集註では「気以成形而理亦賦焉」と言い、仁義礼智を持った人物を先に出して言う。この様に合点すれば、どこにも滞りはない。
【語釈】
・せうふ…
・羅整菴…
・以氣成形而理亦賦焉…中庸章句1集註。「天以陰陽五行化生萬物、氣以成形、而理亦賦焉、猶命令也」。

さて、形既生からはぞっくと氣なり。外物觸其形と云か、形と云活た気にさわることなり。西行が、すてはてし身はなきものとおもへども雪の降夜は寒くこそあれ、と云。異端は形骸を外にして、このからだを枯木死灰のやふにすてれとも、それても雪の降る夜は寒くこそ。活た氣にさわるそ。寒いは外物。それがからだへあたるとひひく。大仏はあれほと大くても何ともない。人間はあつい寒いでちごふ。德利をふると中の酒の動くやふなもの。其本也眞而靜は仁義礼智のなりてをる処そ。動其中。ものもふと云て外物かくると、石瓦でないゆへ、こちがどれいと動く。其中とは、彼五性具焉てをる未発の処へさわるなり。
【解説】
「形既生矣、外物觸其形而動其中矣」の説明。人は活きた気だから、外的な刺激があると、それが自分の五性に響く。それは形を軽蔑する仏教徒も例外ではない。
【通釈】
さて、「形既生」からはすっかりと気を語る。「外物触其形」というのが、形という活きた気に触れること。西行が棄て果てし身は無きものと思えども、雪の降る夜は寒くこそあれ、と言う。異端は形骸を軽んじて、この身体を枯木死灰の様に棄てるが、それでも雪の降る夜は寒くこそ、と思う。活きた気に触れる。寒いというのは外物。それが身体に当たると響く。大仏はあれほど大きくても何ともない。人間は暑い寒いで違う。徳利を振ると中の酒が動く様なもの。「其本也眞而静」は仁義礼智のままでいる処である。「動其中」。たのもう、と言って外物が来ると、石瓦ではないから、こちらが、どれと言って動く。其中とは、あの五性具焉の未発の処であって、そこに触れるのである。

其中動云々。此七情と云ものありて、これからそろ々々学問にかかるそ。油断ならぬかここなり。五性具焉。火の用心も何もいらぬ。其中からそろ々々火の用心をせ子ばならぬ。直方先生曰、理は律義なもの、氣は道落なものなり。五性具焉は理て律義なものゆへ用心はいらぬか、七情は氣の道落ものゆへ油断がならぬ。理は火。火は燃る筈と云。燃る筈でも、理はもへ出すものてはない。水は潤す筈ても、理はしめっほくはない。水の理、火の理に用心は入す。水火と云氣は大水大火の用心入る。其中動而七情出焉は働くゆへ、六ヶけしい。これはとふしたものと異見を云。垩賢は仁義のなりに七情が出る。凡夫も仁義礼智は垩賢の通りなれとも、出處てちこふてくる。そこて爰に学かいるなり。先刻云氣にさへられぬか学問の大事と云かここなり。
【解説】
「其中動而七情出焉」の説明。五性は理なので用心は要らないが、七情は気なので用心が必要である。聖人にも凡夫にも五性は備わっていて、聖人は仁義のままに七情が出るが、凡夫はそうでない。そこで学問が必要となる。
【通釈】
「其中動云々」。七情というものが出て来たので、これからそろそろ学問に取り掛かる。油断ならないのがここのところである。「五性具焉」では、火の用心も何も要らない。「其中」からそろそろ火の用心をしなければならない。直方先生が、理は律儀なもの、気は道落なものだと言った。五性具焉は理で律儀なものだから用心は要らないが、七情は気の道落者だから油断がならない。理は火である。火は燃える筈だと言う。燃える筈ではあるが、理は燃え出すものではない。水は潤す筈だが、理は湿っぽくはない。水の理、火の理に用心は要らない。しかし、水火という気には大水や大火の用心が要る。「其中動而七情出焉」は働くから難しい。これはどうしたものかと異見を言う。聖賢は仁義のままに七情が出る。凡夫も仁義礼智は聖賢の通りだが、出処で彼等とは違ってくる。そこで、ここに学が要るのである。先刻、気に障えられないことが学問の大事なことだと言ったのは、ここのことである。

喜怒哀樂云々。垩凡ともにあり。垩賢は理の目當をはなれぬゆえ、喜怒愛樂か理に手を引れてあるくなり。凡夫は仁義礼智の勢が輕くなりて、仁義礼智と喜怒哀樂か相撲をとって、つい仁義礼智を片付て、かけもないやふにする。家をやく火もあり、飯を炊く火もある。とちも火なり。垩賢のは、火鉢や竈の下にある火なり。凡夫は火事を出。そこて守りをつけ子はならぬ。こまりたものて、うれしくなると跡も先きもなく喜しくなる。怒も生れ付で段々あれとも、怒り出すと矢も楯もたまらぬと云、とんな騒動が出来るも知れぬ。さて、七情の欲の字は五行の土のやふなもの。一つ分に立てあれとも、欲は六情についたもの。悪は、それはいやじゃとよけること。愛はどふしてもあれかよいと云ふ執心な意。好悪と云ときは、愛は好の字なり。又、欲は情の全体て、喜怒愛樂に付てをるなり。愛悪欲は、垩人にはあるまいと思をふかあるそ。垩人これはよいと思わるるが愛なり。垩人のきろふか悪なり。何てもかふしたいと云か欲なり。この欲は利欲の欲にあらす。人間全体働きの欲そ。垩人は垩人形の欲愛悪あり。さても尤千万と云か垩人の愛悪欲。御坐へ出されぬが凡夫の愛悪欲なり。圣人のよいことをあまるるか愛て、垩人の悪ひをきらはるるか悪なり。一つ云てみれは、垩希天は垩人の欲なり。凡夫も愛悪欲のからくりはある。これか無れはものの風をひいたやふなもの。七情は人間のもったなりぞ。其中で欲と云が六情の力らなり。
【解説】
「曰喜怒哀樂愛惡欲」の説明。七情は聖人にも凡夫にもある。聖人の場合は、仁義礼智が七情を誘導するのだが、凡夫の場合は仁義礼智と七情とが戦って、情が勝ってしまう。欲は五行における土の様なもので、他の六情と結び付き、六情の力となる。聖人にある愛悪欲とは、理に適ったもので、聖人がよいと思われるのが愛であり、嫌うのが悪であり、こうしたいというのが欲である。
【通釈】
「喜怒哀楽云々」。七情は聖人と凡人の双方にある。聖賢は理の目当を離れないから、喜怒愛楽が理に手を引かれて歩く。凡夫では仁義礼智の勢いが軽くなって、仁義礼智と喜怒哀楽が相撲をとって、ついに仁義礼智を片付けて、影もない様にする。家を焼く火もあるし飯を炊く火もあって、どちらも火である。聖賢のものは、火鉢や竈の下にある火である。凡夫は火事を出す。そこで守役を付けなければならない。困ったもので、嬉しくなると後先見ずに喜しくなる。怒も生まれ付きで色々とあるが、怒り出すと矢も楯もたまらないと言い、どんな騒動が起こるやも知れない。さて、七情の中にある欲の字は、五行の土の様なもので、一つだけ分けてあるが、この欲は六情に付いたもの。悪は、それはいやだと避けること。愛はどうしてもあれがよいと言う執心な意。好悪と言う時は、愛は好の字である。また、欲は情の全体で、喜怒愛楽に付いている。愛悪欲は聖人にはないだろうと思われるが、実はある。聖人がこれはよいと思われるのが愛であり、聖人が嫌うのが悪である。何でもこうしたいというのが欲である。この欲は利欲の欲ではない。人間全体の働きの欲である。聖人には聖人なりの欲愛悪がある。さても尤も千万というのが聖人の愛悪欲で、人前に出せないのが凡夫の愛悪欲である。聖人がよいことを好むのが愛で、聖人が悪いことを嫌われるのが悪である。一つ例を出してみれば、「聖希天」は聖人の欲である。凡夫にも愛欲悪のからくりはある。これがなければ、物が風をひいた様なもの。七情は人間が持つものである。その中で欲というのが六情の力となる。
【語釈】
・垩希天…為学1の語。

既熾而云々。上は垩凡こめて云、これか凡夫ばかりを云字なり。さりとは程子の面白ふ書れたそ。眞而靜をうけて、既にと出たもの。眞而靜は理なりてよけれとも、はや既に情と云この段になりては捨てをかれぬなり。元服もせぬ子、あまり悪はならぬものなれとも、親のかわりもするころ、わるくなる。そこが既にの処なり。熾の字は、迂斎の肉から動き立つと云へり。理か主でならず、氣か主になってをる。暑中には、干菓子などがとろけ、蝋燭も手も付られぬやふになる。そこを蕩と云。人間のわるくなるも段々あのやふになるなり。情か熾になるゆへ、其性鑿なり。鑿は、あなのあくこと。これは程子の荘子を根にして書れたであらん。荘子か寓言にいじりまわして穴をあけたと云。仁義礼智に穴のあく。德利にあなのあるやふなもの。仁義礼智に凡夫は底がぬけてをる。釜かありても底かぬけてはたかれぬ。それは誰か咎人と云に、七情あるゆへなり。
【解説】
「情既熾而益蕩、其性鑿矣」の説明。凡夫も始めは理が主であるが、成長するにしたがって気が主となる。そして、仁義礼智に穴が開くが、それは七情がするのである。
【通釈】
「既熾而云々」。上の句は聖人と凡人双方を含めて言い、この句は凡夫だけを指して言う。本当に程子は面白く書かれた。「真而静」を受けて、「既」と出した。真而静は理のままなのでよいが、早くも既に情というこの段階になっては、放っては置けない。元服もしていない子はあまり悪くなっていないものだが、親の代わりもする頃になれば悪くなる。そこが「既」と言う処である。「熾」の字は、迂斎が肉から動き立つことだと言われた。理が主ではなく、気が主になっている。暑中には、干菓子などがとろけて、蝋燭も手が付けられない様になる。そこを「蕩」と言う。人間が悪くなるのも、段々とあの様になるのと同じである。情が熾んになるから、「其性鑿」となる。鑿は穴の開くこと。これは程子が荘子を基にして書かれたものだろう。荘子が寓言で、渾沌をいじり回して穴を開けたことを言った。仁義礼智に穴が開く。それは徳利に穴がある様なもの。凡夫は仁義礼智の底が抜けている。釜かあっても底が抜けていては炊けない。その咎人は誰かというと、七情があるからである。
【語釈】
・荘子を根にして…荘子応帝王。「…人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之。日鑿一竅、七日而渾沌死」。
・寓言…他の物事にことよせて意見や教訓を含ませて言う言葉。たとえばなし。寓話。

使合於中の中は、うちとよむかよかろう。約其情て、丁どの未発の中と点とすへきやふなか、中をなかとよむは、その中かにはどなたが居ると云に仁義礼智、それにあわせると云て中になる。上の動其中の中は、外物の外に對すれは中は内なり。ここも内に合すると云て、其内は丁度の処にあふことなり。学者は、学者の目當にして士希賢人と云ふ、あの賢か覺る者なり。伊尹顔淵か覚者そ。伊尹顔淵ても堯舜孔子のやふてはない。心に云分んを持合せ、七情にかぶれあり。そこを直ふと目のさめたを覺者と云。覚はすくに伊尹の云たことて、予天民之先覚なり。覚ると云字はかしこい方のこと。されとも今の利口は所謂猿利口なり。己か才力て身をみんなにする。道落もの、利口にまかせて身帯を滅す。外に悟はいらぬ。吾仁義礼智をもち、なくさぬやふにすることそ。仁義礼智に手入をすること。手入とは七情の用心をすることなり。情を大事にする、やはり儉約の身帯をつかいきらぬやふなもの。其情かいつと云ことなく出るものなり。
【解説】
「是故覺者約其情使合於中」の説明。「合於中」の中はうちと読むのがよい。賢者が覚者である。賢者は七情に被れているが、そこを直そうと覚るので覚者と言う。仁義礼智をなくさない様にして、七情の用心をしなければならない。情は知らないうちに出て来る。
【通釈】
「使合於中」の中は、うちと読むのがよいだろう。「約其情」で、丁度ぴったりと合った未発の中と訓点をつけるべき様だが、中をなかと読むわけは、そのなかにはどなたがいるかと言えば仁義礼智、それに合わせるということなのでなかとなる。上にある動其中の中は、外物の外の字と対比すれば、中は内となる。ここも内に合するということで、その内とは丁度の処に合うことである。「覚者」とは、学者の目当として士希賢人と言う、あの賢が覚者である。伊尹顔淵が覚者である。伊尹顔淵でも堯舜孔子の様ではない。心に言い分を持ち合わせており、七情に被れがある。そこを直そうと目が覚めた者を覚者と言う。覚は直に伊尹の言った、「予天民之先覚者也」である。覚るという字は賢い方のことである。しかしながら、今の利口は、所謂猿利口である。自分の才力で身を台無しにする。道落者は利口に任せて身代を滅ぼす。外に悟りは要らない。自分の仁義礼智を持って、なくさない様にすること。仁義礼智に手入れをすること。その手入れとは、七情の用心をすることである。情を大事にするとは、やはり倹約者が身代を使い切らない様なもの。情は知らぬ間に出て来るもの。
【語釈】
・学者…「覺者」の誤り。
・予天民之先覚なり…孟子万章章句上7。「予天民之先覺者也。予将以斯道覺斯民也」。

約と云か大ふむつかしひ。牛や馬をつなひでをけば出ぬか、心はそふはならぬ。迂斎の、心の駒に手綱ゆるすなと云へり。心に手綱かないと欠出す。仁義礼智を七情かさそいつれたっていて、なくなりたがる。風があたらぬと靜か。風か吹と戸障子かなる。しっとりとすると仁義礼智の姿なりになって、其本也靜のとをりになるなり。約其情の仕方、大学を引れたは偖々なり。伊川の十八の御年なれとも、初手から違たかみへるそ。喜怒哀樂からきたゆえ、中庸の戒慎恐懼を出しそふなもの。大学正心を出されたは偖も々々なり。約其情は心の動きを正くせ子はならぬことなり。正心の本文にある。有所忿懥則不得其正有所恐懼則不得其正云々とあり、喜怒愛樂なりにすると悪ふなる。これて道体の心統性情者也かすめる。心は情の亭主も性の亭主もする。情について心を正くする。心か正くなると情かめったなことをせぬ。そふすると性もやしなはる。情の出しだいにすると蕩る。そふせぬか約なり。其とをりにする。養其性なり。性に手の付やふはない。牡丹にこやしをすればよくなる。牡丹をとふこふとはならぬ。医者か脉を見て藥をもる。藥のきくて自ら脉もよくなる。約其情と、性か養はれる。その端的か眞而靜なり。鑿と云字と養と云字をみるへし。熾な故に鑿つ。正其心故に養其性也。
【解説】
「正其心、養其性」の説明。七情のままに動くと正を得ることができない。「約其情」は、心が情を支配して情の通りにはさせないこと。それで心は正しくなり、五性も養われる。性を直接に養うことはできない。情を約すことによって心を正しくし、それによって性は養われる。そこで、「心統性情者也」と言う。
【通釈】
「約」というのが大分難しい。牛や馬は繋いでおけば出ないが、心は、そうはいかない。迂斎が、心の駒に手綱を許すなと言った。心に手綱がないと駆け出す。仁義礼智を七情が誘い連れ立って、なくなりたがる。風か当たらないと静か。風が吹くと戸や障子が鳴る。しっとりとすると仁義礼智の姿になって、「其本也静」の通りになる。伊川が、「約其情」の仕方について大学を引用されたのは流石である。伊川が十八歳の時の文だが、最初から常人との違いが見える。喜怒哀楽から話したから中庸の戒慎恐懼を出しそうなものなのに、大学の正心を出されたのは本当に大したことである。約其情は心の動きを正しくしなければならないということ。正心の本文に、「有所忿懥則不得其正有所恐懼則不得其正云々」とあり、喜怒愛楽のままにすると悪くなる。これで道体の「心統性情者也」が済む。心は情の亭主も性の亭主もする。情に関して心を正しくする。心が正しくなると情は滅多矢鱈なことはしなくなる。そうすると、性も養うことができる。情の出次第になると蕩[とろけ]る。そうしないのが約である。その通りにする。「養其性」。性自体には手の付けようがない。牡丹に肥やしをすればよくなる。牡丹自体をどうこうすることはできない。医者が脈を見て薬を盛る。薬が効くので自ずと脈もよくなる。約其情で性が養われる。その端的が「真而静」である。鑿という字と養という字を見なさい。熾んなので鑿つ。正其心なので養其性なのである。
【語釈】
・戒慎恐懼…中庸章句1。「道也者、不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞」。
・大学正心…大学の八条目(格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下)の一。
・有所忿懥則不得其正有所恐懼則不得其正…大学章句7。「所謂脩身在正其心者、身有所忿懥、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好樂、則不得其正。有所憂患、則不得其正」。
・心統性情者也…道体50の語。

愚者。学問をせぬものを愚と云。面白ひことそ。をろかものと云るると腹を立つ。それは心得たかひと云もの。丁と酒に醉てたわいもなく、何もかもをとす。鼻紙袋のをちるも知ぬゆへ、馬鹿な人と云。腹を立ことはない。のろりとして印傳の巾着や高蒔絵の印篭もをちそふになるゆへ、さてもをろかと云たもの。あれなりにして、ます々々蕩るをも制することを知らぬ。人の宝は仁義礼智。そこへ七情が出て不埒し、らりにする。愚者はそれをすててをくなり。縱其情は情なりにする。初手はさほとてもないか、段々わるくなると江戸の市井も田舎村々の若ひものも一つぞ。御帳につくやふになり、それからしては人の屋尻を切る。又、莫大なは君父を殺すやふになるも、七情を縱にしたのつまりなり。こわいことぞ。喜怒哀樂に守りをつけぬか、初はそのやふにわるいとも思はぬか、至邪僻なり。かや小屋てふす々々してをるか大火になりたやふなもの。梏其性而亡之。性はしばるものてはない。二重箱に入て殊の外大切にすへきものなり。それをしばるなり。直方先生の、政宗の刄をひくやふなものと云り。凡夫は大切の性をみんなにする。桀紂幽厲陽虎、皆これなり。性善と云眞元の氣ありても、大ふ脉も微に入合の日のやふなり。それても本人間ゆへ涙も出るか、それからよくなるかとをもへは、そふ々々涙もたされるものてないなとと云て不仁をする。俗に、面の皮も千牧張りと云こと。この姿になり、ここて学問なくては叶ぬぞ。さて上文の曰然り学之道如何からこれまては道体のなりを云、此邪僻にいたるも、太極圖説にあてれは、善悪分萬事出なり。如此、仁義から七情、七情からわるくなる。
【解説】
「愚者則不知制之、縱其情而至於邪僻、梏其性而亡之」の説明。愚者とは学問をしない者のことで、情を放置している者のこと。始めは大したことはないが、やがては邪僻に至る。人は本来性善なのに、愚者のそれは微かになっている。五性から七情、七情から邪僻に至る流れは道体の姿であり、太極図説にあっては「善悪分万事出」となるところである。
【通釈】
「愚者」。学問をしない者を愚と言う。それは面白いこと。愚か者と言われると腹が立つ。それは心得違いというもの。丁度酒に酔って、とりとめもなく何でも落とす。鼻紙袋が落ちるのも知らない始末だから、馬鹿な人だと言う。腹を立てることではない。のろりとしていて、印伝の巾着や高蒔絵の印篭も落ちそうになるから、実に愚かだと言ったのである。その様な状態で益々蕩るのを抑えることを知らない。人の宝は仁義礼智。そこへ七情が出て不埒をし、台無しにする。愚者はそれを放って置く。「縦其情」は、情のままにすること。最初はさほどでもないが、段々悪くなると江戸の市井の者も田舎の村々の若い者も同じである。御帳に付く様になり、それ以後は人の家尻を切る。また、酷い者にあっては君父を殺す様になるのも、七情を縦にした結果である。恐いことである。喜怒哀楽に守役を付けなくても、初めはそれがそんなに悪いとも思わないが、これで「至邪僻」となる。茅小屋でぶすぶすしていた火が大火になった様なもの。「梏其性而亡之」。性は縛るものではない。二重の箱に入れて殊の外大切にすべきものなのに、それを縛る。直方先生が、政宗が刃を研ぐ様なものだと言った。凡夫は大切な性を台無しにする。桀紂や幽厲、陽虎が皆それである。性善という真元の気があっても、大分脈も微かになって、日暮れの太陽の様である。それでも本が人間だから涙も出る。それでよくなるかと思えば、そんなに涙も出せるものではないなどと言って不仁をする。俗に、面の皮も千枚張りと言う。この姿になったからは、ここで学問がなくては叶わない。さて、上の文の「曰然学之道如何」からこれまでは道体の姿を言ってこの邪僻に至る。太極図説に当てて見れば、「善悪分万事出」である。この通り、仁義から七情、七情から悪くなる。
【語釈】
・鼻紙袋…鼻紙・薬品・金銭などを入れて懐中する布または革製の袋。鼻紙入。紙入。
・印傳…印伝革(応帝革)の略。羊または鹿のなめしがわ。細かい皺があり、肌柔らかで、多く漆で模様を描き、袋物などにつくる。山梨県の名産。甲州印伝。
・御帳につく…御帳に付く。悪事をはたらいたり勘当されたりしたため、役所の帳簿に氏名が記入される。
・屋尻を切る…家尻を切る。盗人が家尻(家・蔵などのうしろの方)を破って忍び込む。
・幽…周の第一二代の王。宣王の子。暗愚な王で、申侯の娘姜氏を妃としたが、褒姒の愛に溺れ、申侯の率いる犬戎の軍に攻められ、驪山の麓で殺された。
・厲…厲王。周の第10代の王。奢侈を好み、私利を追求する事に熱心。密告制度を設ける。
・陽虎…孔子は陽虎に間違えられる(論語子罕5)。陽虎は陽貨。季孫氏の家臣でありながら、主家を抑えて魯の国政を動かした。後に乱を起こして敗れ、亡命した。
・入合…入相[いりあい]。日の入る頃。夕暮。
・面の皮も千牧張り…極めてあつかましいこと。
・善悪分万事出…道体1。「五性感動而善惡分、萬事出矣」。

それから学問と来て、然り学之道必先と出た。然るに出したとはとうしたことなれは、上に約其情使合於中正其心養其性とあるを受れは、とかく正心と出すへきに、そふてはない、学と云のは必先と、知を先に出すからなり。正心することなれとも、然れとも学問の入口はこうしゃとみせる、然るになり。とかく大学と云を知へし。学問の道を知子はならぬ。性へめったにかかられるものてない。情を約るにも、正其心にも、から手てかかることではない。学問は大学の通り、知惠かまっさき肝心なり。程子の道統の人と云ふかこれそ。司馬温公ならは、学之道と云ふは其誠乎と云ふ。性は性なりの誠なれとも、それを誠なりにするは致知挌物てなふてはならぬ。これか伊川なり。温公はこれを知ぬ。そこて近思て追拂たぞ。朱子も六先生の賛をいたされて、それて六人ならぶことなれとも、近思録へは温公と邵康節の二人はぬけられた。学問は何程德かありても、大学の條目を知ねはならぬ。名人の大工か曲尺を忘れたやふなもの。上手にあてにならす。大学と云曲尺てなふては学之道先待やれ。曲尺なくてはかかれぬ。御定りの曲尺しゃ。
【解説】
「然學之道必先」の説明。学問の方法は先ず知ることである。致知格物が先である。約其情にも正其心にも道具が必要で、それが知恵であり、大学八条目の通りである。朱子は周廉渓、張横渠、二程、司馬温公、邵康節の賛を書いたが、近思録では司馬温公と邵康節を外した。これも、その二人が先知を理解していなかったからである。
【通釈】
それから学問に話を進め、「然学之道必先」と出した。「然」と出したのはどうしてかと言うと、上に「約其情使合於中正其心養其性」とあるのを受ければ、とかく正心と出すべきだと思えるがそうではなく、学というのは必ず先に知を出すものだからである。それは正心をすることではあるが、学問の入口はこうだと見せるための「然」なのである。とにかく大学というものを知りなさい。学問の道を知らなければならない。性へは滅多に取り掛かれるものではない。情を約るにしても、正其心にしても、空手で掛かるものではない。学問は大学の通り、知恵が真っ先なのが肝心である。程子を道統の人と言うのがここである。司馬温公なら、学之道というのは「其誠乎」と言う。性は性なりの誠だが、それを誠なりにするのには致知格物でなくてはならない。これが伊川である。温公はこれを知らない。そこで近思録では彼を追い払って入れない。朱子も六先生の賛を書かれたので、六人は並ぶ人だが、近思録へは温公と邵康節の二人は除けられた。学問はどんなに徳があっても、大学の条目を知らなければいけない。大工の名人が曲尺を忘れた様なもの。それでは上手くても当てにならない。大学という曲尺でなければ、学之道は、先ずは待ちなさいと言う。曲尺がなくては取り掛かれない。お決まりの曲尺である。
【語釈】
・司馬温公…司馬光。北宋の政治家・学者。字は君実。涑水先生と称。山西夏県の人。神宗の時、翰林学士・御史中丞。王安石の新法の害を説いて用いられず政界を引退、力を「資治通鑑」の撰述に注いだ。哲宗の時に執政、旧法を復活させたが、数ヵ月で病没。太師温国公を賜り司馬温公と略称。文正と諡。1019~1086
・六先生…周廉渓、張横渠、二程、司馬温公、邵康節。
・邵康節…北宋の学者。宋学の提唱者。名は雍、字は尭夫。康節は諡。河北范陽の人。易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤の理気学に対して象数論を開いた。著「皇極経世」「漁樵対問」「伊川撃壌集」「勧物篇」など。1011~1077

必先明諸心なり。正心養情ところてはない。そのまえに一仕事ある。必先明諸心と、此大学の八條目入初からもってきたり。爰らて出処を大学と出すか大事なり。俗儒かめったに文字の出処を出す。役にたたぬことそ。そこで直方先生か、知れぬ字と云ふと東都の部にありと云へり。これ、俗儒を嘲たもの。明の字、中庸孟子の明於善の明の字。すくに致知挌物のこと。何ても知てなけれはならぬ。夜中に盗人地震或急病人、先燈をとほすかよい。闇てはならぬ。知所養は存養のことなり。是か大切なことて、知か明ても養かないと、帳靣に付るやふてがさ々々してうるをいがない。ものの吟味をしてうんと呑込むにはうっかとしてはならぬゆへ、存養する。ここの知るは養ふことを云、とかく存養か行ひのそふまくりなり。存養は力行の上にも致知の上にもある。山﨑先生の、存羪則貫其二者なりと云かこれなり。存羪か無いと知たきり、行たきりになる。明諸心は致知、知所養は存養、力行は克己なり。これ、近思の篇目。致知存養克己が為学のこはりそ。一本作往。ここか一つ吟味あることそ。往とあるは、都て知のことにしたもの。明諸心して、さてさて知所往。これは大学の知止と同しことて、至善のあり処を知る。道理か明になりても、至善のあり処を知らぬとどふなろふも知れぬ。力行は固より行のことになる。一本は存羪と沙汰なしに、二句ともに知のことになる。知行の二つなり。朱子の往の方かよかろふとなり。然れは、近思録の篇目にあてて右のとをりに存羪を主張して云は朱子の意にちごふなれとも、ここに別に靣白きことあり。存養と云ものは、云へは右の通り、又一本の通り、存養にせ子ば夫れてもよいと云は云はすと存羪はついてあるそ。存養と云はずと自致知にも存養あるにはきはまった。仁義礼智に信のないやふなもの。存養はなくてもあるそ。てうど信と云へは大ふ大切なこと。信を云ぬときは、仁義礼智か皆信そ。存養も云へは右の通り、云は子は知行の上にそっとあるぞ。そこて、この二句をこふみるか丈夫な見やふと云もの。さて、力行親切にみることそ。迂斎の、勇気いるか爰と云り。入口は知なり。力行と云と、元氣なけれはゆきつつけることかならぬが、行にはしゃれたことはきろふなり。吾黨の学者は知見の高でまぎらかそふとする。力行は腕をこくでなければもちつづけられぬなり。いつも克己の功夫はてづつにするがよいと云がこれなり。酒をやめると云はば、德利から先きへ打破てかかるがよい。そのやふに騒かしくすることてはないなどと、落着て和かみをすることてない。謝上蔡が、宝の硯を打こはしたとなり。一に、人にやりたるとも云ふ。温公が丸ひ枕をしられたと云。寝やふとするところりとなる。これて朝寐をせぬとなり。范文正公が夜学に靣を水で洗はれた。それて目か覺るからのこと。達磨か子むいと心がどみる、子むいはまぶたのあるゆへとて上はまぶたを切てすてた。それほとてなければならぬなり。先生笑曰、まぶたを切るはいらぬものなり。力行は、人のきもをつぶすやふでなければならぬ。一肩入るてない。並川五市郎か、寝酒三杯と碁は孔子の異見でも止められぬと云たげな。それでは克己の功夫はなるまいと、直方云へり。所謂自明云々。垩人は誠な形りで明なれども、賢者以下は明から誠になると云ふかこれなり。学之道か是れなり。顔子はこれを知られた。
【解説】
「必先明諸心、知所養、一本作往。然後力行以求至。所謂自明而誠也」の説明。ここの「明」は中庸と孟子にある「明於善」の明の字であり、致知格物のこと。「知所養」は存養のことであり、「知所往」は大学の「知止」と同じで、至善のある処を知ること。知にも存養は備わっているから「知所往」にも存養はある。力行は行であり、克己である。それは肝を潰すほどに真剣に行わなければならない。力行の上にも存養はある。また、学の道は賢人以下のためにある。明にすることによって誠になる。
【通釈】
「必先明諸心也」。正心や養情どころの騒ぎではない。その前に一仕事ある。必先明諸心と、大学の八条目を入り始めから持って来た。ここ等で出処を大学と出すのが大事である。俗儒が滅多矢鱈と文字の出処を出すが、それは役に立ないこと。そこで直方先生が、知らない字があれば、それは東都の賦にあると言った。これは俗儒を嘲ったこと。「明」の字は、中庸と孟子にある「明於善」の明の字で、直に致知格物のこと。何でも知でなければならない。夜中に盗人、地震、或いは急病人があれば、先ずは灯を燈すのがよい。闇くては悪い。「知所養」は存養のこと。これが大切なことで、知が明でも養がないと帳面をつける様で、がさがさして潤いがない。ものを吟味してうんと呑み込むには、うっかりとしていてはいけないから存養する。ここの知るとは養うことを言う。とかく存養が行の総捲りなのである。存養は、力行の上にも致知の上にもある。山崎先生が、「存養則貫其二者也」と言うのがこれである。存養がないと、知っただけ、行っただけとなる。明諸心は致知、知所養は存養、力行は克己である。これ等は近思の篇目であり、致知、存養、克己は為学の小割りである。一説に養を往とする。ここに一つ吟味すべきことがある。「往」とあるのは、全て知に関してのこと。「明諸心」にして、さて、「知所往」。これは大学の「知止」と同じことで、至善のあり処を知ること。道理が明らかになっても至善のある処を知らないと、どうなるものかわからない。力行は固より行のこと。一本の方は存養のことを言わないが、二句共に知のことになる。知行の二つである。朱子が往の方がよいだろうと言った。それでは、近思録の篇目にあてて右の通りに存養を主張して言うのは朱子の意に違う様だが、ここに別に面白いことがある。存養というものは、それを言えば右の通りであり、また、一本の通りに存養としなくてもよいと言うのは、存養と言わなくても、存養は付いてあるからである。存養と言わなくても、致知にも自ずから存養があるのは当然のことである。それは、仁義礼智に信のない様なもの。存養は言わなくてもあるのである。丁度、信といえば大分大切なこと。信を言わない時は、仁義礼智が皆信である。存養も言えば右の通り、言わなければ知行の上にそっとある。そこで、この二句をこの様に見るのがしっかりとした見方というもの。さて、力行は丁寧に見なさい。迂斎が、勇気の要るのがここだと言った。入口は知である。力行というと、元気でなければ行き続けることはできないが、行は洒落たことは嫌う。我が党の学者は知見の高いことで紛らかそうとするが、力行は腕を扱き上げるのでなければ持ち続けることができない。いつも克己の功夫は不器用にするのがよいと言うのがこれである。酒を止めると言うのなら、徳利から先に打ち壊して掛かるのがよい。その様に騒がしくすることではないなどと、落ち付いて和らかでいることではない。謝上祭は宝にしていた硯を打ち壊したそうである。一説に、人に遣ったとも言う。温公は丸い枕を使われたと言う。寝ようとすると、ころりとなる。これで朝寝をしないと言ったそうだ。范文正公は夜学をする際に、顔を水で洗われた。それで目が覚るからである。達磨は、眠いと心が澱む、眠たいのは瞼があるからだとして、上瞼を切って棄てた。それほどでなければならない。先生が笑って言った。瞼を切る必要はない。力行は、人が肝を潰す様でなければならない。一肩入れるなどということではない。並川五市郎が、寝酒三杯と碁は孔子に異見されても止められないと言いた気だが、それでは克己の功夫はできないだろうと直方が言った。「所謂自明云々」。聖人はそのままの姿で明だが、賢者以下の者は、明から誠になるというのがこのことである。学の道がこれである。顔子はこのことを知っておられた。
【語釈】
・東都の部…東都賦。班固作。
・明於善…孟子離婁章句上12。中庸章句20。「誠身有道。不明乎善、不誠其身矣。是故誠者、天之道也。思誠者、人之道也」。
・存羪則貫其二者なり…闇斎の近思録序。「夫学之道在致知力行之二而存養則貫其二者也」。
・知止…大学章句1。「知止而后有定」。
・てづつ…てずつ。へた。拙劣。
・謝上蔡…顕道。良佐。程氏門人。1050~1103
・范文正公…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。仁宗に仕え辺境を守り、羌人から竜図老子と尊ばれた。989~1052
・一肩入る…負担の一部分を受け持つこと。
・並川五市郎…

信道篤は、好学を説かれたもの。やはり篤信好学と云かこれなり。さて、誠之と云之れをと云字が学者のつとめぞ。之と云字を掛物にするがよいと直方先生云り。之と云ふ字は力のつく字。通鑑に、忠臣の君のために死んたを之に死と書たを引て直方先生の云はれた。元氣な字なり。之は只の字なれとも、誠にしようと云へは、たすきをかけてかかる。とふしてああなろふと云てかかる。信篤道、これてなけれはゆかぬもの。信か本なり。成ほと、顔子か、吾与囘言終日不違如愚とて、ちっとも手前は出さぬ。信道篤なり。はけついでに信はないものぞ。信かきり々々につまると行に出る。行ひは心に思所より外ならぬもの。心に思ひ信する。それか行に出てくる。この藥は呑にくいと云は、藥に信のないゆへ。医者に加減してくれよとも云すに苦い藥を戴てのむ。ふんきってするでしをふする。行の上に又一つ守と云のあるを気をつけて見るがよい。行ひは一度ぎりにすることもある。守てなけれは本の行てない。行は一旦なもある。大な灸を一度するは出来ふか、そのやふに大ふなふても日灸はしにくい。日灸するなれば、守るなり。丈夫な所てみて果したゆへ、丈夫なり。町人か、親から百两いれた財布を讓られて皆つかいきった。そこて、刻み烟艸や何か賣て、親に讓られた財布に百两入んとする。そこで、めったにはつかわぬ。そこで、守之固と云ふこと。上の誠之と云か此通りの仕方なり。そこで、仁義忠信不離乎心と、やか上え々々とすることなり。かんの立た仁義忠信かこの信道篤行之果行之果守之固と云ものて推切て行から仁義忠信か心にへったりとなる。昨今まて、仁義忠信とこちか二つものてあった。それか一つになることなり。造次はかりそめなり。顚沛は身上破滅と云やふな大なこと。これを孔子の仁を云たとき説れたことて、仁をわかものにして大事と思ふゆへ、この様な時もたた仁なり。この仁に疵を付まい々々々となでさするやふなもの。直方先生の哥書箱の譬、尤親切なり。某などが定家の書れた哥書を持、これは結搆なものと思ふても、左程にもない。哥人は火事と云ふと一ち先きにそれを持て出る。仁義忠信に元日か大晦日まて、とんと心にはなれることはない。顔子はこれになられた。三千子も顔子も同しく詩書六藝を習はれたか、顔子所獨好者はここて違ふことなり。出処は近思録の出処とはちこふとも、他出するにも、内に居るにもと云こと。何ことも皆仁義忠信なり。
【解説】
「誠之之道、在乎信道篤。信道篤、則行之果。行之果、則守之固。仁義忠信不離乎心、造次必於是、顚沛必於是、出處語默必於是」の説明。信道篤とは道を強く思って信じることで、それが行に出る。それを固く守る。その結果、仁義忠信が心と一体になる。顔子はこの仁義忠信を一度も離さなかったので、「顔子所独好者」なのである。
【通釈】
「信道篤」は、好学を説いたもの。やはり篤信好学と言うのがこのことである。さて、「誠之」の之という字が学者の務めである。之という字を掛物にするのがよいと直方先生が言った。之という字は力が付く字。通鑑に、忠臣が主君のために死んだのを、之に死すと書いたのを引用して直方先生が言われた。元気な字である。之は平凡な字だが、誠にしようと言えば、襷を掛けてかかる。どうしてもああなろうと言ってかかる。信篤道、これでなればいけない。信が本である。なるほど、顔子は「吾与回言終日不違如愚」であって、少しも自分を主張しない。信道篤である。信とはついでにあるものではない。信がぎりぎりに詰まると行に出る。行は心に思う所に外ならない。心に思って信じる。それが行に出て来る。この薬は呑み難いと言うのは、薬に対して信がないから。医者に加減してくれとも言わないで、苦い薬を戴いて呑む。思い切ってするからし遂げることができる。行の上にまた一つ守と言うものがあるのを、気を付けて見なさい。行は一度限りの時もあるが、守でなければ本当の行ではない。行は一度だけのこともあり、大きな灸を一度だけするのはできることだが、その様に大きな灸でなくても日々の灸はし難い。日々灸をするのなら、それは守である。丈夫な所で見て果たしたから、丈夫なのである。町人が、親から百両の入った財布を譲られて皆使い切った。そこで、刻み煙草や何かを売って、親に譲られた財布に百両を入れようとする。そうすると、滅多矢鱈には使わなくなる。そこで、「守之固」ということになる。上の誠之というのが、この通りの仕方である。そこで、「仁義忠信不離乎心」となる。いやが上へにもするのである。かんの立った仁義忠信が、この「信道篤則行之果行之果則守之固」で推し切って行くから、仁義忠信が心にべったりとなる。昨今までは仁義忠信と自分とが別のものだった。それが一つになる。「造次」はかりそめ。「顚沛」は身上破滅という様な大きなこと。これは、孔子が仁を言った時に説かれたことで、仁を自分のものにして、それが大事だと思うので、この様な時もただ仁と言うだけなのである。この仁に疵を付けない様にと、撫で擦る様なもの。直方先生の歌書箱のたとえが尤もで親切である。私などは定家の書かれた歌書を持てば、これは結構なものだと一応は思うが、それほどのことでもない。歌人は火事と言われれば、最初にそれを持って逃げる。仁義忠信が元日から大晦日まで、全く心から離れることがない。顔子はその様に成られた。三千人の弟子も顔子も同じく詩書六芸を習われたが、「顔子所独好者」と言うのはここが違うからである。「出処」は近思録で言う出処とは違うが、外に出る時でも内にいる時でもということ。何事も皆、仁義忠信である。
【語釈】
・忠臣の君のために死んたを之に死と書た…
・吾与囘言終日不違如愚…論語為政9。「子曰、吾與囘言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發、囘也不愚」。
・はけついで…刷毛序で。或る事のついでに他の事もすることのたとえ。事の序。
・かんの立た…
・造次…論語理仁5。「君子無終食之間違仁、造次必於是、顚沛必於是」。

久而弗失。上に行の守のと云字あり。ここに又久の字あり。このやうに段々のあるのは、丁と人の立身出世をするやふなもの。そろ々々と昇進して、匹夫から大名になる。行から守る。守つめる、固し。離れぬと云になる。それから又、久而不失。守に似たやふで違ふぞ。守は去年も今年もと守つめる。弗失は守のふるびのついたなり。たとえは他国から京都へ行く願ひそ。行ふと思ふ心か篤けれは、つい路銀も出来て出立する。とふ々々三條へ着た。果すなり。もふこれでよいと云はす、とてものことに、京都のものになろふと云ふ。今年の吉野の櫻を見やふの、祇園のまつりみよふのと云ふてなく、都にをちついてをる。そこは守るなり。そふすると、こちから召にやりてもふりむかす、はや旅宿にをらす、我居宅をこしらへる。そこは固しなり。そふすると、あれは他国ものではあるまいと云やふになり、そろ々々と言語のなまりもとれて京談になる。これ、久と云もので、賢人が垩人の塲にいつの間にかなる。いつも云ふ、月夜の譬がよし。未た夜じゃ々々々と思ふ内に、あちこち鳥がなく。ここには何も関所はない。箱根も今切もない。賢と垩に切手入らぬ。賢人のふるびのついたか垩人なり。そこで、動容周旋中礼と、垩人の上で云ふたものなり。垩人は礼にあてやふとも、思はず一人でに礼の通りぞ。垩希天も私ならぬ願そ。天へもちっとなこと。この段になると邪僻之心無自生矣なり。これを前の至於邪僻へかへしてみるへし。昔の邪僻にちっとなって見やふと思ても、なりやふかない。邪僻になる種かないぞ。これを心にのせるには、凡夫の上にもこれに似たことか大いことあり。道落者か年よりてしまりたとき、ちと道落をしやらぬかと云ふと、勿体ない、どふなるものそと云ふ。垩賢の上も、今日の上がんさりとしたこと。異なことのやふきかぬかよい。博奕打も博奕をやめてからは、もとの咄をするとぞっとするであろふ。誰か心にも覺のあることて、その大いか顔子なり。学者の賢か、賢の垩へすすむ処。やはり近く思へはかふそ。
【解説】
「久而弗失、則居之安、動容周旋中禮、而邪僻之心、無自生矣」の説明。守と久とは似た字だが、意味は異なる。守は守り通すこと。久は守が古びること。久によって、賢人が聖人になる。動容周旋中礼は聖人の姿であって、この段階になれば「邪僻之心無自生矣」となる。
【通釈】
「久而弗失」。上に行や守という字があって、ここにまた、久の字がある。この様に段階があるのは、丁度人が立身出世をする様なもの。そろりそろりと昇進して、匹夫から大名になる。行から守る。守り詰めると固い、離れないという様になる。それからまた、「久而不失」。これは守に似た様で違う。守は去年も今年も守り詰める。弗失は守が古びたこと。たとえば他国から京都へ行く願いと同じである。行こうと思う心が篤ければ、ついには路銀も出来て出発する。とうとう三条へ着いた。これが果たすである。もうこれでよいと言わず、いっそのこと京都の者になろうと言う。今年は吉野の桜を見よう、祇園の祭を見ようと言うのではなく、都に落ち着いている。それは守るである。そうすると、こちらから召しに遣っても振り向かず、既に旅宿にはいないで、自分の居宅を拵えている。それは固しである。そうすると、あれは他国ものではないだろうと言われる様になり、次第に言語の訛りもとれて京言葉になる。これが久というもので、賢人が聖人の場にいつの間にか成る。これには、いつも言う月夜のたとえがよい。まだ夜だと思っている内に、あちこちで鳥が鳴く。ここには関所も何もない。箱根も今切もない。賢と聖に通行手形は要らない。賢人の古びたのが聖人である。そこで、「動容周旋中礼」と、聖人の立場で言ったのである。聖人は礼に当て嵌めようとしなくても、思わず独りでに礼の通りになる。「聖希天」も私ではない願いである。天へもう少しで届くこと。この段階になると「邪僻之心無自生矣」である。これを前の「至於邪僻」へ戻って見なさい。昔の邪僻に少しなって見ようと思っても、なり様がない。邪僻になる種がない。これを心に乗せることは、凡夫にもこれに似たことが沢山ある。道落者が年をとって浪費をしなくなった時、少し道落をしないかと言われると、勿体ない、つまらないことだと言う。聖賢のことも、今日の上にはっきりとしている。悪いことは聞かないのがよい。博奕打ちも博奕を止めてからは、昔の話をするとぞっとするだろう。誰の心にも覚えのあることで、その大きいのが顔子である。学者の賢が、賢から聖へ進む処。やはり近く思えばこうなる。
【語釈】
・とてものことに…いっそのこと。いっそ。
・京談…京都弁。京ことば。
・今切…静岡県西部、浜名湖が海に続く湖口。江戸時代に渡船が通い、今切の渡または荒井の渡といった。関所があって、特に女人の往来を取り調べた。
・切手…関所の通過や乗船などの際の通行証。
・動容周旋中礼…孟子尽心章句下33。「孟子曰、堯舜、性者也。湯・武、反之也。動容周旋中禮者、盛德之至也」。動容は身のこなし。周旋はたちいふるまい。

故顔子所事則曰云々。この前も顔子のことなれとも、伊川の云れたそ。故顔子事するからは新く云はす、顔子を顔子の上でじかにみせるそ。所事、これか好学論のぎり々々なり。好と云へはういた字のやふて、今も学問ずきと云ものあり。好と立がういたことなり。牡丹好の兼好も同しこと。此事と云字か間違もない、吾か事にすること。顔子所事則曰非礼云々。これをしやった。これて顔子に非番のないかしれる。視聽言動は人間の働きなり。人間一生視る聽言ふ動の外はない。二六時中の視聽言動に非礼を出すまいと、勿れ々々と非番なしに工夫をする。学問すきの好きなれは、草臥るなり。寝ずの番の、寝すに番をして交代する。顔子は一箇の心の上そ、非番はない。こととすは仁を建立するゆへ、非礼勿視云々と、勿々と拍子木を打。学問と云ものは靣白そふなと云やふな、あまいことではない。
【解説】
「故顏子所事、則曰非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」の説明。学問はそれを事としなければならない。それは休むことなく工夫をすることである。顔子の好学は、学問好きの様な甘いことではない。
【通釈】
「故顔子所事則曰云々」。この前文も顔子のことだったが、それは伊川の言われたこと。「故顔子所事」からは新しく言ったことではなく、顔子を顔子の上で直に見せたのである。「所事」が好学論のぎりぎりのところである。好むと言えば浮いた字の様であり、今も学問好きという者がいる。好というのが浮いたこと。牡丹好きや菊好きも同じ。この「事」という字が間違いなく、自分の事にすること。「顔子所事則曰非礼云々」と、これをなさった。これで顔子に非番のないことがわかる。視聴言動は人間の働きである。人間の一生は視聴言動の外はない。二六時中の視聴言動に非礼を出さない様にと、勿かれ勿かれと非番なく工夫をする。学問好きの好学では草臥れる。寝ずの番は、寝ずに番をして交代をする。顔子は一箇の心の上だけのことだから、非番はない。事は、仁を建立することだから非礼勿視云々と、勿かれ勿かれと拍子木を打つ。学問というものは面白そうだという様な、甘いことではない。
【語釈】
・事…論語顔淵1。「顏淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣」。
・兼好…吉田兼好。別に「菊好」となっている書もあるので、ここは「菊好き」を採った。

得一善則云々。知の上てあろふと行の上であろふか、道理を得て、今まてないものか知ても行てもこちのになりたを云。それを大事にして、手前からなくさぬこと。今日の人のは貧乏者の金をもったやふで、ぢきにかけ乞かきて持てゆく。仁義礼智かあるゆへよいもあるか、そのよいかよいきりてわきへ行く。平人のは、よくても丁と見事な花を生け花にいれてをくやふなもの。根かないゆへ一两日にかれる。顔子の一善を得れば、これは根がある。拳々服膺と地に植てをく。今日の人は服膺せぬゆへ善か欠落をする。程子か、周恭叔の好色を好むことを我も及ぬと云へり。それか後に道落ものになったなり。一善か欠落をするからわるい。顔子は一善を得るとはへぬきになりて失はぬ。三千子も善か欠落をする。孔子の教も日月のてらすやふて、顔子の上はかり日の照すてなく、外の三千人をも照す。なれとも、顔子は此方てはなさぬ。長ひ道中に、とかく川留りあり。怒や過ぞ。怒て其身を忘れ失ふものもあれは、過から悪になるものもあるに、顔子は箱根も何のことなくこせば、大井川も天龍もこす。大ふ快いことなり。今の学者は過を告ると却て腹を立つ。思召よりて忝いと云ふとも、内證は不機嫌なり。顔子のは、あたまから有子曽子のやうな朋友かあっても告るやふな過はない。我胷てちらりと過としる、直に改る。紅爐上一點雪。たまる間も何もない。顔子を至明至健と云もこれ。破竹流水の如し。一刀两断と云語もあり。功夫のすっかり々々々々と行くことそ。顔子が孔子を向にをいて、追かけて行そ。かく云へば氣質のやふになるが、生れ付ではない。
【解説】
「仲尼稱之、則曰得一善則拳拳服膺而弗失之矣。又曰不遷怒、不貳過。有不善、未嘗不知。知之、未嘗復行也」の説明。「得一善」とは、知でも行でも自分のものにすることで、その一善を拳拳服膺として失わないことが大事である。顔子はその功夫をしたから過ちを人から告げられることはなかった。それは気質から来るものではない。
【通釈】
「得一善則云々」。知のことだろうが行のことだろうが、道理を得て、今までになかったものが知でも行でも自分のものになったことを言う。それを大事にして、自分からなくさないこと。今日の人は貧乏人が金を持った様で、直に掛乞いが来て持って行く。仁義礼智があるからよいところもあるが、そのよいところがよいというだけで脇へ逸れて行く。平人によいところがあっても、それは丁度見事な花を生け花に入れて置く様なもの。根がないから一両日には枯れる。顔子の「得一善」には根がある。拳拳服膺と地に植えて置く。今日の人は服膺しないから、善が逃げていく。程子が、周恭叔の好色には自分も負けると言った。それで後には道落者になったのである。一善が欠落するから悪い。顔子は一善を得ると、それが生え抜きになるから失わない。三千子も善が欠落する。孔子の教えも日月が照らす様であって、顔子の上へばかり日を照らすのではなく、他の三千人をも照らすが、顔子に私はない。長い道中に、とかく川留りがある。それが怒や過である。怒によってその身を忘れ失う者もあれば、過から悪になるものもあるが、顔子は箱根も何事もなく越せば、大井川も天龍川も越す。それは大層快いことである。今の学者は過を告げられると、却って腹を立てる。思し召し下さって忝いと言っても、内心は不機嫌である。顔子の場合は、有子や曾子の様な朋友がいても、告げられる様な過は始めからない。自分の胸でちらりと過を知ると、直ちに改める。紅炉上一点雪で、溜まる間は一瞬もない。顔子を至明至健と言うのもこのため。破竹流水の如しや一刀両断という言葉もある。それは、功夫がすっかりと行なわれることである。顔子が孔子を向こうに置いて、追い駆けて行く。この様に言うと気質のことの様だが、それは生まれ付きのことではない。
【語釈】
・かけ乞…掛乞い。掛売りの代金を取り立てること。また、その人。近世には、歳末だけ、あるいは歳末と盆との二度であった。掛け集め。掛取り。
・拳々服膺…拳拳は捧持するさま。服膺は胸につけること。胸にしっかりと留めること。
・周恭叔…周恭叔。周行己。伊川の門人。
・紅爐上一點雪…碧巌録。紅炉の上に雪を置けばたちまちとけるように、私欲や疑惑のとけることにいう。
・至明至健…論語顔淵1集註。「非至明不能察其幾、非至健不能致其決」。
・顔子が孔子を向にをいて、追かけて行そ…論語子罕10。喟然の章を指す。

其好之篤学之道なり。好学論は顔子の碑の銘を書たことてはなく、顔子の学を好れたわけを云ことなり。爰てみれは、今日の人も一杯飲れることそ。なぜにと云ふに、天を飛やふなことではない。好みさへすればならるるなり。学之道なりは、たとひ好か篤くても、学ひやふ道に合子はゆかぬ。このとをりにすれは、学之道なり。之道か大事の字そ。漢唐の間、学を好むに篤ひ人あれとも、学の道を知らぬ。是を知ぬと外郭ばかり巡るやふなもの。迂斎云、一向宗ほと篤ひはないか、学之道はない、と。学者好みやふか篤くないゆへ成就せぬ。
【解説】
「此其好之篤、學之之道也」の説明。賢人に至るのは、今の学者にとっても不可能なことではない。そのためには、好学だけではなく、学の道を知る必要がある。漢唐にも好学に篤い学者はいたが、学の道を知らなかったから成就しなかった。
【通釈】
「其好之篤学之道也」。好学論とは、顔子の碑銘を書いたわけではなく、顔子が学を好まれたわけを言っているのである。これで見れば、今日の人も安心して酒も一杯飲むことができる。それは何故かと言うと、天を飛ぶ様なことではないからである。好みさえすれば成ることができる。学之道也は、たとえ好が篤くても、学び方が道に合わなければうまくいかない。この通りにすれば学之道也である。ここの之道が大事な字である。漢唐の間、学を好むことの篤い人もいたが、学の道を知らなかった。学の道を知らなければ、外郭ばかりを巡る様なものである。迂斎が、一向宗ほど篤いものはいないが、学之道はないと言った。今の学者は好み方すら篤くないから成就することはできない。

然垩人云々。さて、ここきりで一つ顔子と垩人の違たことを云。大ふ違たことにみるとちかい、一つこととみるもちこう。帳面の上ては顔子も垩人も一つ。不思得云々。功夫のいらぬことなり。道理を得るには思てから得ることなれとも、垩人のは手前のものゆへ、思ふの勉るのと云ことはない。我名をわすれぬやふなもの。印篭巾着はをとすまいとするか、目や鼻を落すかと用心はいらぬ。顔子は孔子を向にをいて、どふぞ々々々とする。いこふ垩人に近よった。一息ちかいと云へば、とんと違はぬを云ほどにみるべし。
【解説】
「然聖人則不思而得、不勉而中。顏子則必思而後得、必勉而後中。其與聖人相去一息」の説明。聖人と顔子との違いは僅かなものである。聖人には目鼻の様に道理が身に付いているので、道理を気にしなくてもその通りになるが、顔子には、道を思い得て、それを守る工夫が必要なのである。
【通釈】
「然聖人云々」。さて、この段で一つ顔子と聖人が違うことを言う。しかし、大部違ったことと思うのは間違いであり、同じだと見るのも違う。表面上は顔子も聖人も一つである。「不思得云々」。功夫が要らないこと。道理を得るには思ってから得るのだが、聖人は道理が自分自身にあるから、思うとか勉めるとかということはない。それは、自分の名を忘れない様なもの。印籠や巾着は落とさないようにしようとするが、目や鼻を落さないようにと用心する必要はない。顔子は孔子を向こうに置いて、どうかそうなりたいとする。大層聖人に近寄ったことである。一息の違いというのは、殆ど全く違わないというほどのことだと捉えなさい。
【語釈】
・帳面…表面上のこと。ちょうづら。

守之。顔子はまた、手綱をもってをるばかある。垩人は、手綱はいらぬ。化はいつも云、熱湯へ雪を入たやふなもの。垩人は道理と御手前とか一つなり。顔子はそれほとにならぬ。されとも顔子は一の谷逆落、垩人は平地とみることてない。どちも平地なり。迂斎の、下駄と草履のやふなものと云へり。下駄とてそれほとに違ふことはない。下駄だけ、ふみ返さふと云用心かいる。そこか守なり。
【解説】
「所未至者、守之也。非化之也」の説明。聖人に守は要らないが、顔子には必要である。それは、聖人が道理と一体なのに対して、顔子はそこに至っていないからである。
【通釈】
「守之」。顔子には、まだ手綱を持っている場がある。聖人に手綱は要らない。「化」はいつも言う、熱湯へ雪を入れた様なもの。聖人は、道理と自分とが同一である。顔子はそこまでに至っていない。しかしながら、顔子は一の谷逆落しで、聖人は平地だと捉えることではない。どちらも平地である。迂斎が、下駄と草履の様なものだと言った。下駄も、草履とそれほど違ったものではない。しかし、下駄だけに踏み返そうとする用心が要る。そこが守である。
【語釈】
・一の谷…神戸市須磨区の、鉄枴・鉢伏の両山が海岸に迫る地域。北に鵯越がある。1184年(寿永三)源義経が平家の軍を攻めた所。

以其好学之心は、あの顔子でと云ことに学問をせ子は、八十まで一つ姿。あの顔子好学じゃによって、つとめ動ずにはをらぬ。しかれは、死なれたか不調法。死さへされずは不日而化なり。さて々々残念なこと。間もなく垩人の塲になるてあらん。丁ど若ひもののあたまの冗ぬやふなもの。やかて冗るやつと云ふ。あたまのはげたか垩人のやふなもの。正宗祐貞の新身をみるやふなものなり。始からふるびはつかぬ。ふるびは年のことなり。顔子と孔子は新身と古る身の違ひなり。をしいことに若ひ家老と云なり。やかてよくなる。以年なり。
【解説】
「以其好學之心、假之以年、則不日而化矣」の説明。顔子は好学だったから、早世でなければ聖人に至れただろう。聖人に至るには歳月も必要なのである。
【通釈】
「以其好学之心」とは、あの顔子の心で学問をしなければ、八十まで何も変わらないということ。顔子は好学だったから、努めて動かずにはいない。そこで、早く死なれたのが残念なところ。死にさえしなければ「不日而化」である。さてさて残念なこと。間もなく聖人の位に成っただろう。それは、丁度若い者の頭が禿げない様なもの。やがて禿げるのである。その頭の禿げたのが聖人の様なもの。正宗や祐定の新身[あらみ]を見る様なもので、始めから古びは付かない。古びとは年のこと。顔子と孔子は新身と古身の違いである。惜しいことに顔子は若い家老であって、やがてよくなるもの。それは「以年」だからである。
【語釈】
・正宗祐貞…岡崎正宗と長船祐定。刀工。
・新身…新たに鍛えた刀。新刀
・古る身…古身。昔つくった刀の身。古刀。

後人不達云々。学以至垩人之道なりへかけて云こと。これて最初の難問も済たぞ。後人は、孟子以後秦漢以来のことなり。漢唐の間、さま々々学者あれともこれを知らぬ。垩人は生知ゆへ、ならぬことと封を付てをく。論語の始に学問て至られることを云そ。学而時習之不説乎。朱子の、入道之門積德之基と云ひ、門に入ることのなるやふにしられた。これてなられぬと云は、千住や品川へ黒鉄の楯をしたやふなもの。道中はならぬ。秦の始皇は暴逆なれとも、夷狄に長城をきついたは邪をふせくぞ。徂徠などは、垩人に至られるの道へ長城を筑たは、にか々々しいなり。賢垩には至らるるはつを、非学而可至なりと後人は云ふと、伊川がとふに云てをかれた。それを珎しいことではないぞ。理を知らぬ学者はとっくに云た。学問て圣人になられぬと云論は、俗に云投するの説なり。垩人に至りやうと思へはこそ、骨も折れる。垩人に至られぬなれはらくなこと。このままですむこと。俗のうれしかることなり。炬達から出やふと思ふたものも、先出ぬ氣になる。垩人か学はれぬと云は、大いことゆへ学はれぬ。大いことか学はれぬなれは、小ひことも学はれぬ筈なり。先王の道と云も学てからそ。垩人には至られすに、先王の道は誰も彼もなると云で、氣にさえられた世話はかりやひて、俗人にすはって居るものは耳よりになる。これ、俗をよろこばせる学問なり。遂失ふと、遂の字は種のあるもののそれになることなり。孔子の、古之学者為己今之学者為人と云てあるも書物かわざになりた。そこて書物を懐中へ入れてさへあるけば学者と云ふ。それからして、それよいはと云て、以博聞強記功文麗辞為工なり。学問のやうになりた。記誦詞章と大学の序にもありて、博識に何も角も覚へ、文章をよく書ふとする。
【解説】
「後人不達以謂、聖本生知、非學可至。而爲學之道遂失。不求諸己而求諸外、以博聞強記巧文麗辭爲工」の説明。伊川は既に、学んでも聖人にはなれないと俗儒が主張することを知っていた。聖人に至ろうとするから大変なのであり、学んでも聖人にはなれないとし、聖人になれなくても先王の道を身に付けることができるのであれば、それは楽なことである。それは俗の喜ぶ学問である。聖人の道を俗儒は塞ぐ。俗儒の学は「以博聞強記巧文麗辞為工」である。
【通釈】
「後人不達云々」。「学以至聖人之道也」に掛けて言ったこと。これで最初の詰問の答えも済んだ。後人とは、孟子以後で秦漢以来のこと。漢や唐の間にも学者は様々といたが、このことを知らない。聖人は生知だからそれに成ることはできないことだと封をして置いた。しかし、論語の始めにも学問で聖人に至ることができると言っている。「学而時習之不説乎」である。朱子も、「入道之門積徳之基」と言って、門に入ることができる様にされた。それでも聖人に成れないと言うのは、千住や品川に鉄の楯をした様なもの。それでは旅はできない。秦の始皇帝は暴逆だったが、夷狄に対して長城を築き、邪を防いだ。荻生徂徠などが聖人に至ることのできる道に長城を築いたのは苦々しいことである。聖賢には至れる筈なのに、「非学而可至也」と後人が言うと、伊川はとうの昔に言って置かれた。それは珍しいことではない。理を知らない学者はとっくに言っていた。学問では聖人に成ることができないという論は、俗に言う、投ずるの説である。聖人に至ろうと思えばこそ、骨も折れる。聖人に至ることができないのであれば楽であって、このままで済む。それは俗が嬉しがることである。炬燵から出ようと思った者も、先ずは出ないでおこうという気分になる。聖人は学んで成れないのは、それが大き過ぎて学びきれないからだと言うが、大きいことが学べなければ、小さいことも学べない筈である。先王の道というのも学からのこと。俗儒は、聖人には至れなくても先王の道は誰も彼もが身に付けることができると言うが、気に障えられた世話ばかりを焼いて俗人として座っている者には、それは耳寄りなことである。これは、俗を喜ばせる学問である。「遂失」とあるが、遂の字は種のあるものがそれに成ること。孔子が「古之学者為己今之学者為人」と言っているのも、書物が業になったことを指す。書物を懐中へ入れて歩きさえすれば学者と言う。それから始まって、それはよいことだなどと言い、「以博聞強記功文麗辞為工也」となり、学問の様になった。記誦詞章と大学の序にもあり、俗儒は博識に何でも覚え、文章を上手く書こうとする。
【語釈】
・学而時習之不説乎…論語学而1。
・入道之門積徳之基…論語学而題辞。「此爲書之首篇、故所記多務本之意。乃入道之門、積德之基、學者之先務也」。
・千住…日光街道第一宿として繁栄した。
・品川…東海道五十三次の第一の宿駅で、江戸の南の門戸。
・古之学者為己今之学者為人…論語憲問25。「子曰、古之學者爲己。今之學者爲人」。
・記誦詞章…大学章句序。「自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學而無用。異端虚無寂滅之敎、其高過於大學而無實」。

為工。これか業になりた。孔門の教へ詩書六藝は知のため、行ひの為なり。博聞強記功文麗辞為工、そのやふなげひたことはない。流れの弊て、栄花其言也。さてこれも一と通では出来ぬものぞ。大ていではない。古ひ文で云へば文選、それよりさま々々な文辞あれとも、道のためになるは一つはもなし。言は栄花ても、鮮有至於道者そ。道理を外にしたものゆへ、とんと役に立ぬ物にはなさけないことあるものぞ。君臣の義ほど重ひことはないが、君臣には官禄と云つきものあり。義と紛らして官禄をむさぼると云ことをかむりてあり。夫婦は人倫の重ひものなれとも、好色と云つきものがある。そこで、人道の大に紛らして好色にもなる。垩人の道は文に載てあり。垩人の道かあの文の上にあると、そこから文辞か少しつつかさにきて、学者の事業のやふにするは情けないことなり。そこをかさにすれはするほと人欲名聞か強くなる。俗人の人欲は病症がしれてをる。学者には世間にない欲かあって、心のよこれになる。俗人の人欲よりははるか見苦しい。我か書た文に誇る。丁と娘子の袖を通さぬ小袖か十あると云やふなもの。其心て道が得られうか。文章か邪魔になるとは、名聞のつのることを云。偖て又知見か詩文にささえられて、とかく卑近になるものぞ。蔡虚斎かよふ云たことあり。宋景濂か理学者經学者と云へとも、とこやら学問の身ぶりが文章家めいたと云ふぞ。論ずるに足らさることなれとも、吾黨に栗山源助や鵜飼金平、あれほどの人才なれとも文章だけ、道学の根入が浅いぞ。是等はその中に這入てみ子ば知れぬことなり。至於書札於儒者事最近とあり。近したけ罪か重ひなり。
【解説】
「爲工、榮華其言、鮮有至於道者。則今之學、與顏子所好異矣」の説明。孔子の教えや詩書六芸は知行のためにある。俗儒は道理を外にして「博聞強記功文麗辞為工」で「栄華其言」をする。栄華其言も簡単なことではないが、しかしそれは全く役に立たない。聖人の道は文辞の上にあるが、その文辞自体を学者が事業にするのは人欲や名聞のためであって、情けないことである。知見は詩文に障えられて卑近になる。
【通釈】
「為工」。これが業になった。孔門の教えや詩書六芸は知のため、また、行のためにある。「博聞強記功文麗辞為工」。この様に下卑たことはない。その流れの弊で、「栄華其言也」となる。さて、栄華其言も一通りのことではできず、簡単なことではない。古い文で言えば文選、それから様々な文辞があるが、道のためになるものは一つもない。言は栄華でも、「鮮有至於道者」である。道理を外にしたものなので、全く役に立たない物で情けない。君臣の義ほど重いことはないが、君臣には官禄という付き物があって、義と紛らかして官禄を貪ることがそこに隠れてある。夫婦は人倫の重いものであるが、好色という付き物がある。そこで、人道を大いに紛らして好色にもなる。聖人の道は文に載ってある。聖人の道があの文の上にあると、そこから文辞が少しずつ笠に着る様になるが、それを学者が事業の様にするのは情けないことである。文辞を笠に着れば着るほど人欲や名聞が強くなる。俗人の人欲の病症は、大したことはない。しかし、学者には世間にない欲があって、心の汚れになる。それは俗人の人欲よりもはるかに見苦しい。自分が書いた文を誇る。それは丁度、娘子が、袖を通さない小袖が十あると言う様なもの。その様な心で道が得られるものか。文章が邪魔になるとは、名聞が募るためである。さてまた、知見が詩文に障えられて、とかく卑近になるもの。蔡虚斎がうまく言った話がある。宋景濂は理学者、経学者だと言っても、どこやら学問の面振りが文章家めいていると言った。論じるには足らないことだが、我が党にも栗山源助や鵜飼金平がいる。あれほどの人才だが文章に付くだけ道学の根入れが浅い。これ等のことはその中に這い入って見なければわからないこと。「至於書札於儒者事最近」とある。近いだけ罪が重い。
【語釈】
・文選…中国の周から梁に至る千年間の文章・詩賦などを細目に分けて編纂した書。三○巻、のち六○巻。梁の昭明太子(蕭統)が、正統文学の秀れたものを集大成することを意図して、幕下の文人の協力のもとに編。後世、知識人の必読書とされ、わが国でも平安時代に盛行。
・蔡虚斎…
・宋景濂…
・栗山源助…栗山潜鋒。拙斎。山城の人。水戸義公の儒臣となる。宝永3年4月7日没。36歳。
・鵜飼金平…鵜飼錬斎。山崎闇斎門中、博聞強記の第一人者。水戸藩に仕え、元禄6年4月21日没。61歳。
・至於書札於儒者事最近…教学5。「至於書札、於儒者事最近」。

道学を得るには、文章めかぬほとよいそ。直方先生の、をれは唐へいても五郎左ェ門じゃと云はれた。手づつなやうで、面白ことそ。文人の高ぶるとはちごふ。垩人の道の貴きをしらぬ、徒く辞を栄花にするを業と心得たほどげびたことはない。某などか今時文を作りたら、俗人か、經学ばかりでない、文もなると云て誉めやふか、誉らるるほとわるし。茶湯道具を幷て置けは、学者に似合ぬと云、詩文はそふあるべきこととをもふは、やはり茶道具を幷てをくも同ことそ。何ても餘のものか少ともはいれは本のものてない。心中不可容絲髪之事はそこなり。少の文才にほこり、人に見せんとするなとは、思へはきたないことなり。論語に、君子食無求飽居無求安の注に、志有在而不暇及とある。非義と云ことでなく、そこへ心のゆく暇のないことなり。これ、心の上のことなり。某なともちと講釈か上手な方なり。曽子に云はせると、堂々乎難與幷為仁と云はれん。好学論こふあれは功文とはかり思ふか、講釈も上手たけ道に至る害になる。はや、外へつくからのことなり。直方先生以来きりつめてあるに、其上を一つ云とすれは、講釈も人欲なり。吾方に一つ道を得れは鉄劔利俳優拙し。これを万端へかけてみるへし。此れ重けれは彼輕し。此方の知見か高ふると、世間のことがさもしく見へる。田舎者が江戸へ行てものを買に見られぬ道具を買て来る。江戸に居つづきものはだまされぬ。茶てもする、はやけば々々しい道具は求めず。吾に見処が高くなると、人のうれしかることかうるさくなる。子ともか成長するにしたかふて物好きかちこう。あれもやはり見処のたかくなったのなり。先日、孝助へやりた朱子の語は、ここて云たことそ。世上万般皆下品苦見得這道理高見世間万般皆低。こちの見処か高くなる、世の中のことか皆をかしくなるなり。小児のがら々々やはま弓のるいは、大人はほしいとは思はぬやうなものなり。
【解説】
学者は文章めかない方がよい。何であれ、他のものが少しでも入れば本物ではない。また、自分の知見が高ぶると、世間のことが卑しく見えて来る。
【通釈】
道学を得るには文章めかないほどよい。直方先生が、俺は唐にいても五郎左ェ門だと言われた。不器用な様だが面白いことである。文人が高ぶるのとは違う。聖人の道が貴いことを知らずに、徒に辞を栄華にすることを業と心得るほど下卑たことはない。私などが今時文を作ったら俗人に、経学だけでなく文もできると言って誉められもするだろうが、誉められるほど悪い。茶湯道具を並べて置けば学者に似合わないと言いながら、詩文はそうあるべきだなどと思うのは、やはり茶道具を並べて置くのと同じこと。何でも他のものが少しでも入れば本物ではない。「心中不宜容絲髪事」はそこを指して言う。少しの文才に誇り、それを人に見せようとすることなどは、思えば汚いことである。論語の「君子食無求飽居無求安」の注に、「志有在而不暇及」とある。これは非義ということではなく、心がそこへ行く暇がないということで、これは心の上のこと。私なども少し講釈が上手な方である。曾子に言わせれば、「堂々乎難与並為仁矣」だろう。それで好学論も功文だと思い、講釈も上手なだけ道に至る害となる。それは、早くも外に付いているからである。直方先生以来切り詰めてあるのに、それに加えて一つ言うとすれば、その講釈も人欲である。自分の方に道を一つ得れば「鉄劔利俳優拙」である。これを万端に掛けて考えなさい。自分が重いと思えば他人を軽く思う。自分の知見が高ぶると、世間のことが卑しく見える。田舎者が江戸へ行って物を買うと酷い道具を買って来るが、江戸に永く居る者は騙されない。茶でもし始めると、直ぐにけばけばしい道具は求めなくなる。自分の見処が高くなると、人の嬉しがることが煩わしくなってくる。子供は成長するに従って好む物が違って来る。あれもやはり見処が高くなったのである。先日、孝助へ遣った朱子の語の意味は、この事を言ったものである。「世上万般皆下品苦見得這道理高見世間万般皆低」。自分の見処が高くなると、世の中のことが皆可笑しく思える。それは、小児のがらがらや破魔弓の類を大人は欲しいと思わない様なもの。
【語釈】
・心中不可容絲髪之事…為学27小註。「蓋言心中不宜容絲髪事」。
・君子食無求飽居無求安…論語学而14。「子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而愼於言、就有道而正焉。可謂好學也已」。
・志有在而不暇及…論語学而14集註。「不求安飽者、志有在而不暇及也」。
・堂々乎難与幷為仁…論語子張16。「曾子曰、堂堂乎張也。難與並爲仁矣」。
・鉄劔利…
・俳優拙し…
・孝助…
・世上万般皆下品苦見得這道理高見世間万般皆低…

今日の学者皆ひくいから、あの人の前へはこの詩は出されまいと色々の心つかい。偖々其心いきで、顔子の学は伺はれぬ。為学は理を引ぬくと思がよい。とど、理を引ぬと云になっては、栄花其言はいらぬ筈のことと合点すへし。道体は理気妙合、為学は理はかりを主に云。顔子の学は理はかりなり。氣つりはない。理を見付てすることなり。三千子もさぞそうてありつらんが、顔子とは魂かちがふなり。その玉しいの違と云ふことを、近思と云字と為学の為の字にたたりて見ることなり。とふしても氣にまけるなり。兎角、氣にさへられる処を理てつっはる。垩人にもなられるなり。氣にさへられると、一邑の中に居てさへやくにたたぬ。俗人ても腕をこくはまた頼母しひ。義に勇めば腕をこく。義にいさむは理づりなり。こふしたことゆへに、人によく思はれたい、誉られたいと云氣つり学んては、段々と年よるに従てわるくなるとも能はならぬ。それもこれも、與顔子所好異なりぞ。
【解説】
道体は理気妙合、為学は理だけで気に吊られないこと。気に障えられる処を理で突っ張るのである。気に障えられては、悪くなることはあってもよくなることはない。
【通釈】
今日の学者は皆見処が低いから、あの人の前へは、この詩は出せないだろうと色々な心遣いをする。さてさて、そんな心意気では顔子の学を覗くことはできない。為学は理を引き抜くことだと思うとよい。つまり、理を引き抜かないのなら、「栄華其言」は要らない筈だと合点しなさい。道体は理気妙合、為学は理ばかりを主にして言う。顔子の学は理ばかりで、気に吊られることはない。理を見付けて行うのである。三千子もさぞそうであっただろうが、顔子とは魂が違っていた。その魂が違うということを、近思という字と、為学の為の字に祟って見るのである。どうしても気に負けるもの。とかく気に障えられる処を理で突っ張る。それで、聖人にも成ることができる。気に障えられると、一つの村の中にさえ役に立たない。俗人でも腕を扱くのはまだ頼もしい。義に勇めば腕を扱ぐ。義に勇むのは理吊りである。こうしたことだから、人に良く思われたい、誉められたいという様な気に吊られた学び方では、段々と年をとるに従って悪くなることはあってもよくなることはない。それもこれも、「與顔子所好異」だからである。

少ても顔子の所好と趣の似たことか出きれば、好学論をよんたと云ものなり。偖、今日一つ感慨することあり。此章を、先君子五十五才の元文三午年八月六日に講せり。丁と今日に當る。某も今日ここをよむ。今五十三年になる。予七つの年しゃ。書入を見れば、きついことを云てをかれた。漢唐を絶学と云も、つまり時の風に移されたもの。俗儒は此方に見處かないゆへ異端覇者かある、はや其風になる。風と云ふは、氣についたことなり。丁と日本て云へは、公家衆はめったに上品にやわらかなやふに心得、大名と云と無上に結搆に栄花栄曜つくのやうに心得、武士は何そと云と刀にそりを打もののやふに心へ、町人はめったに金をためることと心得る。これ世上一種の風と云ものなり。それを免るることならぬ。其やふなことでは学道は済ぬ。近思録は讀れぬことそ。近思録をよみ、道を得やふと思へは、風などと云ことは頓とないことじゃと云れた。某し、先刻理を引ぬいて氣にかぶれぬことと云ふかこれそ。この日は迂斎の大はづみで手つよく云れて、いつもの口調とちかうた。誰を主に云はれたか、某七つのときのことなればしらぬことなり。手澤書に書入れてあることを見出して、感慨のあまり述るなり。
【解説】
見処が肝心である。俗学は世間の風に影響されてそうなったのであって、道統には世間の風など不要である。尚、迂斎が五十五歳の元文三年午年八月六日に近思録を講じた。それは今から五十三年前である。
【通釈】
少しでも顔子の好む所と趣の似たことができれば好学論を読んだというもの。さて、今日一つ感慨することがある。この章を先君子は五十五才の元文三年午年八月六日に講じた。丁度今日に当たる。私も今日ここを読む。迂斎が講じてから五十三年が経った。それは私が七つの年のことだった。手沢書を見ると、厳しいことを言われていたことがわかる。漢唐を絶学と言うのも、つまりは時の風に移されたからである。俗儒は自分に見処がないから、異端や覇者がいると直ぐにその風になる。風とは気に付いたこと。丁度日本でたとえれば、公家衆はやたらと上品に柔らかなものだと心得、大名と言えば無上に結構に栄華栄耀を極める様なものだと心得、武士は何かというと刀を抜くものの様に心得、町人は矢鱈と金を貯めることだと心得る。これ等は世上における一種の風というものである。それを免れることができない様では、学の道は得られない。近思録を理解することなどはできない。迂斎が、近思録を読んで道を得ようと思えは、風などということは全くないことだと言われた。私が先刻、理を引き抜いて気に被れない様にすることと言ったのがこの意である。この日は、迂斎は大層弾みがよく、力強く話されて、いつもの口調と違っていた。誰を主にして話されたのかは、私も七才の時のことだったので覚えていない。手沢書に書き入れてある事柄を見出して、感慨のあまりにここに述べた。
【語釈】
・先君子…稲葉迂斎。黙斎の父。
・元文三午年…1738年。
・そりを打…反りを打つ。刀を抜こうとして、腰の刀のそりをうらがえす。
・手澤書…手沢本。①旧蔵者が繰り返し読んで、手沢のついた本。遺愛の書物。②その書物の著者が自ら書入れなどをした本。