第五十三 今之爲学者如登山麓の条 九月十一日 吉文司録
【語釈】
・九月十一日…寛政2年庚戌(1790年)9月11日。
・吉文司…吉野文司。東金押堀の人。

今之爲學者、如登山麓。方其迤邐、莫不闊歩。及到峻處、便止。須是要剛決果敢以進。
【読み】
今の學を爲す者は、山麓を登るが如し。其の迤邐[いり]なるに方[あた]りては、闊歩せざる莫し。峻處に到るに及び、便ち止む。須く是れ剛決果敢にして以て進むを要すべし。
【補足】
この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

今山へ登るものか麓からあかる。あのときかをかしいものぞ。ずんと元氣がよい若ひ伊勢参りなとか小田原へ泊りて翌日山へ掛る。箱根は何のことないとて小唄て行。跡から旅功者のものか見て、やかてこまるてあろふと思うに案の如く、峻処になるとべったりとなる。其故に学問は駒の淺早みてはゆかぬと合点するがよい。先きにさま々々の坂のあることをしらすにさわぐ。程子の此語は、其峻処になって元氣を出すこと。
【解説】
学問には峻処が待ち受けているから、急がずに、着実に進んで行かなければならない。そして、その峻処では元気を出して当たるのである。
【通釈】
今山へ登る者がいて、麓から上がって行く。そんな時に可笑しいことがある。とても元気のよい伊勢参りの若者が小田原に泊まり、翌日は山越えに掛かる。箱根などは何でもないと言って小唄を歌いながら行く。後ろから旅慣れた者がそれを見て、やがて困るだろうと思っているとその通りになって、峻しい処になると草臥れてぐったりとなる。そこで、学問は駆け足ではいけないのだと合点しなさい。この先に様々な坂があることを知らないで騒いでいる。この程子の語は、その峻しい処になって元気を出すこと。
【語釈】
・駒の淺早み…

迤邐云々。迂斎の、つまさきあかりと云た。そのときは大足にあかりて、峠へ近かよると殊の外よわる。中々猪武者では、垩学はならぬことそ。剛决と云はつよいこと。决断してふみ切、二の足てないことを云、是ではとても行れまいと云処をつよく蹈きること。ヶ様な強みなければ中々ゆかれぬ。侍の一番鎗をつくと云も爰の処なり。今侍に向て、御前は何ぞのときには迯ますかと云に、徒士足輕に至るまで、成程迯ると云ものはない。されとも何そのとき、一番帳についたもののすくないでみよ。中々ならぬこと。直方先生の、五牧兜の緒をしめる処じゃと云た。ゆるむ処をむすふなり。是か学者の元氣のつく処なり。此かなければ一通りに向へ計り出ることになる。
【解説】
学問は大股で進んではならない。また、決断して踏み切ることが必要である。それは一番鎗を突いたり、兜の緒を締めるのと同じである。
【通釈】
「迤邐云々」。迂斎が、爪先上がりだと言った。そんな時は大足で上がって行き、峠へ近付くと殊の外疲れてしまう。中々猪武者では、聖学は成就しない。「剛決」というのは強いこと。決断して踏み切り、二の足でないことを言う。ここはとても行けないだろうとする処を強く踏み切ること。その様な強さがなければ中々進めない。侍が一番鎗を突くというのもここのこと。今侍に向かって、貴方はいざという時には迯ますかと訊くと、徒士や足軽に至るまでなるほど迯ると言う様な者はいない。しかし実際にはいざという時に一番鎗を突いた者は少ないことを見なさい。中々できないことである。直方先生が、五枚兜の緒を締める処だと言った。弛む処を結ぶのである。これが学者に元気が付く処。これがなければ世間並みにしか進まない。
【語釈】
・つまさきあかり…爪先上り。足の爪先を上へ向けて上がること。次第にのぼり路になること。また、その路。
・猪武者…前後の考えもなく、無鉄砲に敵に向かって突進する武者。
・一通り…①世間なみであること。尋常。普通。②あらまし。一往。ひとわたり。

偖て、此章を讀む人が峻処と云ことを喩へにはかり云て、身に切付て読者かない。其れは封の侭でよむのなり。学問するにとこか峻処と云をよく合点するかよい。今日の学者は峻処を知ぬ。それては近思てない。峻は人々面々て違ふ。上戸は酒を止めるか峻処。下戸は何酒かと云ふ。直方先生の、十左ェ門は酒の段になると孔子よりよいと云はれた。下戸ては酒を止ると云苦労なし。上戸はさて々々やめられぬ。酒ても好色ても、人欲の邪魔になるものは学問、そこてうるさくなる。大く云へは其外出処進退てもそれなり。爰を去ると五百石棒にふる処を、ずっと跡先き見すに去るか学者そ。これ、学問が邪魔をする人欲を取てのけるか峻なり。
【解説】
峻処とは人欲が障害となるところで、それは人それぞれに異なる。学問は峻処で人欲を取り除くもの。
【通釈】
さて、この章を読む人は峻処というとを比喩とばかり思っており、身に切り付けて読む者がいない。それは封をしたままで書を読むのと同じである。学問をするには何処が峻なのかをよく理解しなければならない。今の学者は峻処を知らない。それでは近思でない。峻は人それぞれに違う。上戸には酒を止めるのが峻処。下戸は酒を止めるのは何ともないと言う。直方先生が、十左ェ門は酒を飲む段では孔子よりよいと言われた。下戸には酒を止めるという苦労はない。上戸は中々酒が止められない。酒でも好色でも、人欲の邪魔になるものが学問であって、そこで学問が煩くなる。大きなことで言えば出処進退もこのこと。ここを去れば五百石を棒に振るところを、ずっと後先を見ずに去るのが学者である。これが、学問が邪魔をして人欲を取って除けるところであり、峻である。
【語釈】
・十左ェ門…稲葉迂斎。黙斎の父。

又、学者の行ふにも、利のためにしてはわるい。そこをふみきり、これてして取ふとすると、学問か人欲のさまたげになる。ああこまりたもの、大義を行へは女房もこまる、忰も養はれぬと、ここか峻き処なり。そこでいっそのことと学問を止る心になる。それゆへこの処てへこたれるゆへ、初の元氣とは違ふ。直方先生の、今日の学者は、学問はさても面白ひと云ふは知ぬのそ。中々大抵な苦労なものてはない。何たる因果て学問を初たやらと云か知たのなり。迂斎の初て三宅先生へ見へたとき、若くて何心なく学問したく思ひた。とふかああ学問と云ものは殊の外大義なことしゃと云れた。三木治郎左ェ門を顧て云るるに、をいらか最中こまりて居るのに、此若いものまだ艱難を経ぬゆへ何のことなく心得ているてあろふと云はれた。小野﨑先生が例のいたつらに云へるは、十左ェ門様や石原のをかけて、わるい仲間へはいってせつない目をすると、をとけを云た。この諸先生の口上、皆峻ひ処の覺ありて云たもの。をれはせつなくないと云は役に立ぬ。
【解説】
学問は利に反することで、これを遣り遂げようとすれば苦しい場となる。その峻処で学問を止めたくなるのである。学問は面白いものなどではなく、苦しく切ないものである。諸先輩は峻処をよく理解していた。
【通釈】
また、学者が学問を行うに際して、利のためにしては悪い。そこを踏み切り、これで遣り遂げようとすると、学問が人欲の妨げとなる。ああ困ったもので、大義を行えば女房も困るし倅も養うことができないというのが峻しい処である。そこでいっその事、学問を止めようと思う。それで、この処でへこたれるから、初めの元気と違ってしまう。直方先生が、今日の学者が学問は本当に面白いと言うのは、学問を知らないから言うのである。学問とは中々大抵に苦労するものではない。何という因果で学問を始めてしまったのだろう、と言うのが学問を知った者の言葉である、と言った。迂斎が初めて三宅先生に見えた時に、若くして何の思惑もなく学問をしたいと思って始めたが、どうもあの学問というものは殊の外大義なことだと言われた。また、三木治郎左ェ門を顧て、俺が困っている最中なのに、この若い者はまだ艱難を経験していないから何でもないことの様に心得ているのだろうと言われた。小野崎先生が例の悪戯で、十左ェ門様や石原のお陰で、悪い仲間に入って切ない目をしていると、戯けを言った。この諸先生の口上は皆、峻い処の覚えがあって言ったもの。俺は切なくなどないと言う者は役に立たない。
【語釈】
・三宅先生…三宅尚斎。
・三木治郎左ェ門…
・小野﨑先生…小野崎舎人。
・石原…野田剛斎。

哥に、夕嵐今やあらじと山やおもふ幾暁のねさめなりしを。峻ひ合点ですること。ここか大事業ゆへ覚悟してかかることそ。偖、爰を一つ小く皆々へ親切に告んに、柳橋の要助は小ひけれとも小さいくるみ儀丹以来五十年、諸親類の学を忌むをかまわず、あの通りの貧乏ても学問して死たか峻き処をへたのなり。偖て、云にや足らぬことなれとも、松や銀藏か一人は器用、一人は一とりきみりきんた方にてあれとも、学問にかかりたか色々な障もあらん。氣質人欲の邪魔ものにさへられたから、此頃はついやめた。これも彼等か上の峻所なり。かわいけらに餘義もないこと。某かそれを聞て、むむそふかと云てをくは不親切のやうなれとも、六ヶしい大事業故に進めものにはならぬ。やめるもの勝手次第のこと。直方の哥に、ともなわん人しなければたどり行千代の古道跡を尋てで、吾一人で行氣でなくてはならぬ。心からのことなり。そこを剛决と云。学者も山帰来を呑んて病を直す了簡てなくては役にたたぬ。直方先生の、今日の学者は日蓮に不及と云はれた。
【解説】
峻処のあることを理解し、覚悟して取り掛からなければならない。要助はそれを実践し、松と銀蔵は、才能はあったが学問を中途で止めた。止めた者を放って置くのは、学問は大事業であって、人に勧めるものではないからである。学問は自分一人で行く覚悟でなければならない。
【通釈】
歌に、夕嵐今や嵐と山や思う幾暁の寝覚めなりしをとある。峻しい処の合点をすること。ここが大事業だから、覚悟して取り掛かるのである。さて、ここの話を一つ細かく皆へ親切に告げるとすれば、柳橋の要助は小さいけれども小さいなりに儀丹以来五十年、諸親類が学を嫌うのに構わず、あの通り貧乏でも学問をし続けて死んだ。それが峻しい処を経たこと。さて、言うほどのことでもないが、松や銀蔵は、一人は器用でもう一人はよく頑張った方であったが、学問に取り掛かってから色々な障害もあったことだろう。気質人欲の邪魔物に障えられて、この頃ついに学問を止めた。これも彼等の上の峻所である。不憫だが止むを得ないこと。私がそれを聞いて、うんそうかと言って放って置くのは不親切の様に見えるが、学問とは難しい大事業なので、それを勧めることはできないからである。止めるのも勝手次第である。直方の歌に、「伴わん人しなければ一人行く千代の古道跡を尋ねて」とあるが、自分一人で行く気でなくてはならない。心からするのである。そこを剛決と言う。学者も山帰来を飲んで病を直す料簡でなければ役に立たない。直方先生が、今日の学者は日蓮に及ばないと言われた。
【語釈】
・夕嵐今やあらじと山やおもふ幾暁のねさめなりしを…
・柳橋の要助…大原要助。大網白里町柳橋の人。
・儀丹…和田儀丹。下総酒々井の人。医を業とする。酒井修敬に見出されて鈴木庄内と共に迂斎に師事。上総道学の草分け。成東の安井武兵衛方に食客として住む。元禄7年(1694)~寛保4年(1744)、51歳にて没。
・松…秋葉惟恭。松太郎。東金市押堀の人。
・銀藏…作田銀蔵。九十九里町作田の人。
・たどり…歌の原文は「ひとり」。
・山帰来…ユリ科の多年生蔓性低木。根は生薬で土茯苓・山帰来といい梅毒の薬とする。


第五十四 人謂要力行の条

人謂要力行、亦只是淺近語。人既能知見一切事皆所當爲、不必待著意。纔著意、便是有箇私心。這一點意氣、能得幾時子。
【読み】
人の力行するを要すと謂うは、亦只是れ淺近の語なり。人既に能く一切の事は皆當に爲すべき所なるを知見すれば、必ずしも意を著[つ]くすを待たず。纔かに意を著くせば、便ち是れ箇の私心有るなり。這[こ]の一點の意氣、能[た]え得ること幾時ぞ。
【補足】
この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

此章の幷べやうが面白ひ。上の条を聞て、どっこい心得たと云ふても知かなくてはならぬ。上の剛决果敢は知仁勇の勇なり。勇も知のない勇はどのやうなことをするも知れぬ。浅見先生の、行ひは知の先きへ一寸も出ることはならぬと云も爰の処。今をれかしてとると云ことを云か、根を知ずに上べてつよく掛ても出来ぬ。直方先生の、種のない品玉は取れぬと云ふもこれて、根を知すにはならぬ。惣体、知のない行ひは益に役ぬ。直方先生の、知かなくては、かたてすることは九年靣壁しても役にたたぬと云れた。形ですることの役にたたぬと云も爰らて知るへし。只の鉢坊主か達磨の仕たことだとて九年靣壁しても、やはりただの坊主なり。直方先生の大学一冊持て加茂へ引込たも知たからそ。眞似をして、佐左ェ門なとか此れは一分によいかけんの工夫と云て大学を持て作田へ行ても何のやくに立ぬ。其より近思の筆記てもするか却て知た方なり。今御番士などが本所邊から登城をするも御奉公、つとめぬとならぬを知てなり。たた氣魂のよいと云ことでなし。何ことも日々のことか、灸の皮切をこらへるやふではつつかぬ。先生講後云、上蔡の硯を打わりたとて、今日の学者が家内中の道具を打かひても学問の上ることではない。形てしたことは役にたたぬ。
【解説】
行には知がなければならない。知がなく、形だけで実践しても、それは物真似であって、何にもならない。また、日々の事も、灸の皮切りを堪える様では続かない。
【通釈】
この章の並べ方が面白い。前条を聞いて、学問の仕方がしっかりわかったと言っても、そこに知がなければならない。前条にある剛決果敢は知仁勇の勇のこと。勇も、知のない勇は何をしでかすかわからない。浅見先生が、行は知の先へと少しも出ることはならないと言ったのもここの処。今俺が遣り遂げようと言っても、根を知らずに上辺だけで強く行っては成らない。直方先生が、種のない品玉はできないと言うのもこのことで、根を知らなければならない。全体に、知のない行いは役に立たない。直方先生が、知がなくて形ですることは九年面壁しても役に立たないと言われた。形ですることが役に立たないということをここで知りなさい。ただの鉢坊主が達磨のしたことだからと言って九年面壁しても、やはりただの坊主である。直方先生が大学を一冊持って加茂へ引き込んだのも知ったからのこと。直方先生の真似をして、佐左ェ門などが、これは自分にとってもよい工夫だと言って大学を持って作田へ行っても何の役にも立たない。それより近思の筆記でもする方が却って知ることになる。今御番士とかが本所辺りから登城をするのも御奉公だからで、勤めなければならないことを知っているからである。ただ気魂がよければよいということではない。日々の色々なことが、灸の皮切りを堪える様では続かない。先生が講後に言った。上蔡が硯を打ち割ったからといって、今日の学者が家内中の道具を打ち壊しても学問が上がることにはならない。形でしたことは役に立たない、と。
【語釈】
・浅見先生…浅見絅斎。
・品玉…①田楽などで、玉をいくつも空中に投げては巧みにうけとめる曲芸。たまとり。弄玉。②転じて、てじな。てづま。「品玉も種から」は、何事をするにも材料がなければ手の下しようのないたとえ。
・鉢坊主…托鉢して歩く坊主。乞食坊主。
・佐左ェ門…
・一分…一人の分際。一身の面目
・番士…①組々に分けられた兵士。②番に当って守る兵士。
・皮切…皮切り。①最初にすえる灸。②物事のしはじめ。てはじめ。初手。
・上蔡…謝上蔡。

有箇私心云々。私心と云は、悪事悪心とは違ふ。家じりを切るやうな心を云ことてはない。凡道理てないことは少ても私心なり。力行はよい字なれども、致知のない故に一點と云。小児か何に泣ものかと云ても梯や蜜柑のことてはや泣出す。大人は泣くまいとするではをとなだけの知で、めったの泣き出さぬなり。知がないと、いくらたしなんてもつつかぬ、つつかぬ。そこて、つけ元氣では長かつづきはないぞ。すれは行ひも知惠か無くては能事はない。
【解説】
私心とは、悪事や悪心のことではなく、道理から外れたこと。知がないと、いくら努力しても長続きはしない。
【通釈】
「有箇私心云々」。私心は悪事や悪心とは違う。家尻を切る様な心を言うのではない。凡そ道理でないことは、たとえそれが小さなことであっても私心である。力行はよい字だが、致知がないので「一點」と言う。小児が泣くものかと言っても、梯や蜜柑のことで直ぐに泣き出す。大人は泣くまいとすることを大人なりに知っているから滅多に泣き出さない。知がないと、いくら苦労しても続かない。そこで、空元気では長続きがしない。行いも知恵がなくては耐えることはできない。
【語釈】
・家じりを切る…盗人が家尻を破って忍び込む。家尻は、家・蔵などのうしろの方。
・梯…
・つけ元氣…付け元気。うわべだけの見せかけの元気。からげんき。


第五十五 知之必好之の条

知之必好之、好之必求之、求之必得之。古人此箇學是終身事。果能顚沛造次必於是、豈有不得道理。
【読み】
之を知れば必ず之を好み、之を好めば必ず之を求め、之を求むれば必ず之を得。古人の此箇の學は是れ終身の事なり。果たして能く顚沛造次にも必ず是に於てせば、豈道理を得ざること有らんや。
【補足】
この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

よく上の條へうつる。行ひか大事々々と云ふてにぎり拳をしても役に立ぬ。知か大切なり。子ともの好色の心の出るか氣質変化のもやふなり。いたつらな子共、にくひ口を聞、奉公なとに憎まるるか、好色の心のつく頃にはそろ々々かわりて可愛からるか、知識か一人でに開けて分んなものになる。学者知識から取立子ばくっすりとない。知ぬものに精を出せ々々と責てもやくにたたず。
【解説】
行いを大事だと言う前に、知が大事なのである。子供が成長して一人前になるのも、知が独りでに開けてくるからである。知のない者に力行しろと言っても無駄なこと。
【通釈】
よく前条の話が映っている。行いが大事だと言って握り拳をしても役に立たない。その前に知が大切なのである。子供に好色の心が現れるのが気質変化の模様である。悪戯な子供が悪口を吐いて奉公人などに憎まれるものだが、好色の心が付く頃にはそろそろ変わり、可愛がられる様になる。知識が独りでに開けて応分な人になる。学者は知識から始めなくてはうまく行かない。知らない者に精を出せと責めても役には立たない。

必竟好ぬと云もしらぬ故ぞ。碁打も茶人も面白みを知たからなり。親か仕たことゆへと云碁や茶は長くつつかぬ。小学未見意趣云々も知か本なり。好むものは能来るものにて、茶人か今年は餅もつかれぬと云なからも、女房にかくして茶碗を買ふ。要助なとか史記左傳を持ているも、持ちそもないものなれとも、学問するにこのやうなものもなくてはなるまいと思ふからぞ。そこが好むなり。あのやふなあらいことでよふ知るるぞ。本んに好から求る。知から好むなり。今の学者も中々知たやうなれとも好まぬ。とかく好むは人欲のとをりに行てなふては好むてない。今の学者好ふんにしなすなり。直方先生の若ひ時に、大職冠の玉とりの人形を見て、あのいきを忘れまいと云れた。知とから得までが此やふなことぞ。
【解説】
好まないのは知らないからで、知が根本である。物好きは好きな物を求めるが、それが面白いことを知っているからである。知るから好み、好むから求め、求めるから得るのである。しかし、今の学者は知っている様で好まない。
【通釈】
畢竟、好まないと言うのも知らないからである。碁打ちも茶人も面白味を知ったからする。親がしたことだからするというのでは碁や茶は長く続かない。「小学未見意趣云々」も知が本ということ。好む者はよく求めるもので、茶人が今年は餅も搗くこともできないと言いながら、女房に隠れて茶碗を買ったりする。要助などが史記左伝を持っているのも、持っていなそうなことなのだが、学問をするのにこの様なものもなくてはならないだろうと思ってのこと。そこが好むである。この様な粗い話でもよくわかること。本当に好むから求めるのであって、知るから好むのである。今の学者も知っている様で中々好まない。とかく好むとは、人欲の通りに行くのでなければならない。今の学者は好も応分にする。直方先生が若い時、大職冠の玉取りの人形を見て、あの意気を忘れない様にしようと言われた。「知」から「得」までの句がこの様なことである。
【語釈】
・小学未見意趣云々…小学外篇嘉言。「伊川程先生曰、敎人未見意趣必不樂學、欲且敎之歌舞」。
・来る…「求る」の誤り。
・要助…柳橋の大原要助。
・大職冠…浄瑠璃の一。近松門左衛門作の時代物。1711年(正徳一)初演。藤原鎌足の娘への贈り物の玉を巡り、海中の玉取り伝説が絡む。

偖、必々と云字をよく省よ。此章の眼なり。たへず学問すると云ても、峻処に至て止は好み求るてないゆへなり。求るやふても、実好まぬのそ。任重而道遠とこう云へば、人のにげるよふなことなれとも、此か終身のことを云たことなり。任か軽くて道が近ひと云たら、私もちと初めやうと云をふなれとも、重遠と云でしてはないぞ。清名幸谷へ何年行たらよかろふと云は白徒の了簡で、近思の終りに警戒のあるは爰のことぞ。此合点ですれば仕をふせぬと云ふことはあるまひ。一息猶存で学問は一生のこと。息の掛てをる内はと云ことぞ。ちと学問へたつさはろふと云ようなことではないぞ。法然が、せんたくしながら念仏を云はわるい、念仏唱へながら洗たくしろと云たも靣白ひことなり。中々片手間かけではゆかぬ。暇があるならすると云ではぬるいぞ。
【解説】
学問は一生涯の事業であって、少しするとか何年かするというものではない。学者の任は重く道は遠い。
【通釈】
さて、「必」という字をよく省なさい。この章の眼目である。絶えず学問をすると言っても、峻処に至って止むのは好み求めるではないからである。求める様でも実は好んでいないのである。「任重而道遠」とこう言えば、人が逃げる様なことだが、これは終身のことを言ったのである。任が軽くて道が近いと言えば、私も一寸始めようと言う者もあるだろうが、「重遠」と言えば、行う者はいない。清名幸谷へ何年行ったらよいだろうと言うのは白徒の了簡である。近思録の終わりの方に警戒があるのはここのこと。ここをよく合点すれば遣り遂げられないということはないだろう。「一息猶存」で学問は一生のこと。息のある内は続けるということ。一寸学問に携わろうという様なことではない。法然が、洗濯をしながら念仏を言うのは悪い、念仏を唱えながら洗濯をしなさいと言ったのも面白い。中々片手間でするのではうまく行かない。暇があればすると言うのでは生温い。
【語釈】
・峻処…為学53条の語。
・任重而道遠…論語泰伯7の語。
・白徒…伯者の徒?または素人か?
・法然…浄土宗の開祖。諱は源空。美作の人。1133~1212


第五十六 古之学者一の条

古之學者一、今之學者三。異端不與焉。一曰文章之學、二曰訓詁之學、三曰儒者之學。欲趨道、舍儒者之學不可。
【読み】
古の學ぶ者は一にして、今の學ぶ者は三なり。異端は與[あずか]らず。一を文章の學と曰い、二を訓詁の學と曰い、三を儒者の學と曰う。道に趨[おもむ]かんと欲せば、儒者の學を舍[お]くは可ならず。
【補足】
この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

是れは学者とは讀れぬ。学なる者と点を直すがよい。さて、とのやうなものと云ふに、古垩人の学は一つ外はない。後世学問が横道へきれて三つになりた。異端不與と云は根の違ったことを云。根の違たものはこれ程に云て置子ばならぬと云ても、ここは異端を弁ずることでない。道が違てをるから云にも及ぬことそ。学問と云ものは一つなものしゃに三つになりてをる。伊川の、古の一つになれと云ことそ。
【解説】
「古之學者一、今之學者三。異端不與焉」の説明。古の聖人の学は一つしかなかったが、後世になって横道へ分かれて三つになった。異端は根本から間違えているので、問題外である。伊川は古の聖人の学へ戻れとここで言っているのである。
【通釈】
学者という字は、学者と読まずに学なる者と訓点を付け直した方がよい。さて、この文はどの様なことかと言うと、古の聖人の学は一つで外にはない。後世になって学問は横道へ分かれて三つになったということ。「異端不與」というのは、異端は根本が違っているということ。根が違うものはこれほどに言っておかなければならないが、しかし、ここは異端を弁駁するものではない。異端は道が違っているから、挙げて言うには及ばない。学問は本来一つなのに、それが三つになっている。そこで、伊川が古の一つになれと言ったのである。

一曰文章之学。三つに分りたれとも、この三つがとほふもないことをするではない。やはり四書や五經を見る学者ゆへ、何もわるそふにはない。そこて吟味がいる。文は韓柳、詩は杜李。又、韓柳歐陽王曽南豊なとを八大家とて宗とする類ぞ。二曰。馬融鄭玄を初として、夫て一家をなして一と看板出して訓詁家になりてをる。
【解説】
「一曰文章之學、二曰訓詁之學」の説明。学は三つに分かれたといっても、それらは四書五経を読む面では同じである。文章の学とは、杜甫や李白、唐宋八家などを信奉する様な類であって、訓詁の学とは、馬融や鄭玄などから始まった訓詁学のことである。
【通釈】
「一曰文章之学」。学は三つに分かれたが、この三つは途方もないことをするわけではない。やはり四書五経を見る学者のことだから、何も悪そうには見えない。そこで吟味が必要なのである。文は韓愈と柳宗元、詩は杜甫と李白。また、韓愈や柳宗元、欧陽脩、王安石、曽南豊などを唐宋八大家と言って信奉する類のこと。「二曰」。馬融や鄭玄を始めとして、それで一家を成し、一枚看板を出して訓詁家になっているもののこと。
【語釈】
・韓…韓愈。唐の文章家・詩人。唐宋八家の一。字は退之。号は昌黎。768~824
・柳…柳宗元。中唐の詩人・文章家。唐宋八家の一。字は子厚。河東の人。監察御史となる。773~819
・杜李…杜甫と李白。
・歐陽…欧陽脩。北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一。1007~1072
・王…王安石。北宋の政治家。字は介甫、号は半山。江西臨川の人。1021~1086
・曽南豊…曾鞏。北宋の政治家・文章家。唐宋八家の一。字は子固、号は南豊。1019~1083
・八大家…唐宋八家。中国の唐・宋時代の八人の著名な古文家。唐の韓愈・柳宗元、宋の欧陽修・王安石・曾鞏・蘇洵・蘇軾・蘇轍をいう。
・馬融…漢代。字は季長。右扶風郡茂陵の人。古文経学を成熟させる。79~166
・鄭玄…後漢の大儒。字は康成。山東高密の人。馬融に学び訓詁の大家となり、門人数千。127~200
・訓詁…字句の解釈。

三曰儒者之学と云はるるは上文の昔へもとして云ことなり。君子儒の儒て、孔子の子夏へ君子儒になれ小人儒となるなと云はれた。又、孟子に儒者之道とある。あの時分からして儒と云唱へある。此方儒者の学と云も文章訓詁から云ことて、文章訓詁は其方へ一偏の業をしてをる故に、之学々々と云たものぞ。儒者之学は料理を喰ふやうなもの。文章訓詁は料理をするやうなもの。喰ふものは上坐。料理人は勝手て骨折るぞ。
【解説】
「三曰儒者之學」の説明。儒者の学とは君子儒のことである。文章の学や訓詁の学があるので、それと区別して儒者の学と言うのである。
【通釈】
「三曰儒者之学」と言われたのは上の文の古に戻して言ったこと。君子儒の儒のことで、孔子が子夏に、君子儒になれ、小人儒となるなと言われた。また、孟子にも「儒者之道」とある。あの時分でも儒という唱え方があった。こちらが儒者之学と言うのも文章訓詁があるからであって、文章訓詁はその方へ只管業をしているから、文章之学、訓詁之学、儒者之学と分けて言ったのである。儒者の学は料理を喰う様なもの。文章訓詁は料理を作る様なもの。喰う者は上座で、料理人は台所で骨を折る。
【語釈】
・君子儒…論語雍也11。「子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒」。
・孟子に儒者之道…孟子滕文公章句上5。「夷子曰、儒者之道、古之人若保赤子。此言何謂也」。
・一偏…専らにすること。ひたすら。

欲趨道云々。此には言外の意かある。名を知れたくは文章がよかろふ。只講釈でもよくしてほめられたいなら訓詁でよしと云意を含んで、道を得たいなら儒者の学、どふなりとしやと云やふなもの。出家も佛になる氣ならば一と了簡あるべし。只大寺を持たひと云様な願ひならば兎も角もなり。偖爰へ取合ぬやうなれとも、直方先生へ或人が、四書の注に何の反し々々と韻鏡のことがごさりますが、吟味せずはなるまいかと云たれば、成程吟味せずはならぬが、それは調度人の処へ往て、御庭の櫻を見たひと云様なもの。それもよいか、今日は内客があると云ならば帰るがよし。それでもと云てすり足で行くに及ぬと云はれた。文章訓詁も入用なことあるか、一向になりてすることではない。学問はこちに大切な急務かある。専一に庭を見る間はない。急病人に医者の迎に行くやうなことぞ。其とき外のことに掛りあわぬなり。
【解説】
「欲趨道、舍儒者之學不可」の説明。有名になりたければ文章の学を、講釈を褒められたければ訓詁の学をすればよい。しかし、道を得たければ儒者の学である。忙しい学者にとって文章や訓詁をするのは急務ではないし、そんなものに構っている暇はない。
【通釈】
「欲趨道云々」。ここには言外の意がある。名を知られたければ文章の学がよいだろう、ただ講釈などをうまくして褒められたいのなら訓詁の学でよいという意を含んで、道を得たいなら儒者の学、どれでも好きなものを取りなさいという様なもの。出家も仏になる気であれば一了簡あることだろう。ただ大寺を持ちたいという様な願いなら、お好きな様にしなさい。さて、ここの話に合わない様だが、直方先生に或る人が、四書の注に何々反と韻鏡がありますが、その吟味をしなければならないかと訊ねたので、なるほど吟味をしなければならないが、それは丁度人の処へ行って、庭の桜を見たいと言う様なもの。それもよいが今日は内客があると言われたら帰るのがよい。それでも見たいと言って、こっそりと見に行く様なことはしない方がよいと言われた。文章訓詁も必要なこともあるが、只管にすることではない。学問をする者には大切な急務がある。学問には専一に庭を見ている様な暇はない。それは、急病人があった際、医者を迎えに行く様なこと。その時は外のことに拘わってはいられない。
【語釈】
・韻鏡…中国の韻図。切韻系韻書の音韻体系を四三枚の図表により説明したもの。唐末頃成る。中国では亡失し、わが国にのみ伝存し、漢字の音を論ずる根拠として利用される。
・内客…うちわの客。内々の客。


第五十七 問作文害道否の条

問、作文害道否。曰、害也。凡爲文、不專意則不工、若專意則志局於此。又安能與天地同其大也。書曰、玩物喪志。爲文亦玩物也。呂與叔有詩云、學如元凱方成癖、文似相如殆類俳。獨立孔門無一事、只輸顏子得心齋。此詩甚好。古之學者惟務養性情、其他則不學。今爲文者、專務章句、悦人耳目。既務悦人、非俳優而何。曰、古者學爲文否。曰、人見六經、便以謂聖人亦作文。不知聖人亦攄發胸中所蘊、自成文耳。所謂有德者必有言也。曰、游夏稱文學何也。曰、游夏亦何嘗秉筆學爲詞章也。且如觀乎天文以察時變、觀乎人文以化成天下、此豈詞章之文也。
【読み】
問う、文を作るは道に害あるや否や、と。曰く、害あり。凡そ文を爲[つく]るに、意を專らにせざれば則ち工[たくみ]ならず、若し意を專らにせば則ち志此に局す。又安んぞ能く天地と其の大なるを同じくせん。書に曰く、物を玩び志を喪う、と。文を爲るも亦物を玩ぶなり。呂與叔に詩有りて云う、學は元凱の如くにして方[はじ]めて癖を成し、文は相如に似て殆ど俳に類す。獨り孔門に立ちて一事無く、只輸[しゅ]す顏子の心齋を得たるに、と。此の詩甚だ好し。古の學者は惟性情を養うを務むるのみにして、其の他は則ち學ばず。今の文を爲る者は、專ら章句を務めて、人の耳目を悦ばす。既に人を悦ばすを務むれば、俳優に非ずして何ぞ、と。曰く、古は文を爲るを學びしや否や、と。曰く、人は六經を見れば、便ち以て聖人も亦文を作ると謂う。聖人亦胸中に蘊[つ]む所を攄發[ちょはつ]し、自ら文を成すを知らざるのみ。謂う所の德有る者は必ず言有るものなり、と。曰く、游夏の文學と稱せらるるは何ぞや、と。曰く、游夏も亦何ぞ嘗て筆を秉[と]り詞章を爲るを學ばん。且つ天文を觀て以て時變を察し、人文を觀て以て天下を化成するが如き、此れ豈詞章の文ならんや、と。
【補足】
この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

漢唐の間にない問なり。あの時分は文字訓詁を道として学ぶ故にこの様な問はない筈なり。文章か大事業になりて、日本ても管家江家王仁以来とんと道と云沙汰はない。宋朝に至て濂渓二程の学を聞て、此問は出たぞ。曰害と云は、にべしゃやりなく成ほど邪魔になるてやと云はれたこと。是て学者の耳目がさっはとあかるくなるぞ。伊川のこう云はれたで、学者程子を信するからはこの一句てすむそ。あとを聞くに及ず。なれとも義論と云ものはさうかたいぢな様に聞ては人か服さぬ。そこで下文、其わけを云たそ。
【解説】
「問、作文害道否。曰、害也」の説明。漢唐は文章訓詁の学だったので、作文が害するか否かという認識はなかった。宋朝に至り、廉渓二程の学が現われたので、この様な質問が出た。
【通釈】
漢唐の間にはない質問である。あの時分は文字訓詁を道として学んでいたから、この様な問いがないのは当然である。文章が大事業になって、日本でも管家江家王仁以来、全く道の沙汰はない。宋朝に至って濂渓二程の学を聞いてこの問いが出た。「曰害」と言うのは、味も素っ気もなく、なるほど邪魔になるものだと言われたこと。これで学者の耳目がさっぱりと明るくなる。伊川がこう言われたからには、程子を信じる学者ならこの一句だけで済む。後を聞くには及ばない。しかしながら、議論というものはその様に片意地に聞いては人が心服しない。そこで次の文でその理由を語ったのである。
【語釈】
・管家…菅原氏。野見宿禰の子孫といわれ、もと土師氏。土師古人のとき本拠大和国添下郡菅原の地名によって菅原宿禰となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に仕えた。
・江家…大江氏。もと土師宿禰。790年(延暦九)大枝朝臣となり、866年(貞観八)音人の時に大江に改める。一説に、平城天皇の皇子阿保親王の後ともいう。世々学問を以て名を挙げる。
・王仁…古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」十巻、「千字文」一巻をもたらしたという。和邇吉師。
・にべしゃやりなく…にべもしゃしゃりも無い。味もそっけもない。ひどく無愛想である。

凡為文云々。偖、文と云ものはずんとあやのあることで、孔子の辞達而止と仰せられて外に入用はなし。されとも文と云。あやと云字を見よ。鷹可被下候ては用は足りても文はない。文も大抵では学ばれす。文を書ふと云て、それに一扁になりても中々出来ぬもの。日本人などには尚更なり。文は上手になれは人心を動すほとのものて、それかついなるものならは誰しも好ましいものなれとも、天授もあり工夫もあり、文人と云ものもめったに出来ぬもの。徂徠南郭か一生の事業ても、弟子に文らしいものは一人。文の外はない。此て不専意不工と云を合点すべし。それはそれ、たとひ書てからか書たと云までのこと。局於此。一生の精力はこれきりになることなり。何ほどひいきめに沙汰しても、とかく藝にをちるなり。局と云字、論語の注にもあり。冉求を藝に局とも云ふぞ。この局の字から下の天地の局にうつるなり。
【解説】
「凡爲文、不專意則不工、若專意則志局於此」の説明。孔子は、辞は相手に達すればよいと言った。文は天授や工夫が必要で難しいものである。しかし、文に専念しても芸に落ちる。
【通釈】
「凡為文云々」。さて、文とは大層綾のあるもので、孔子は「辞達而止」で外は必要がないと仰せられたが、しかし、文の紋を見なさい。「鷹可被下候」では、用は足りても文はない。文も大抵のことでは学べない。文を書こうと言ってそれに専念しても中々できないもの。日本人などには尚更である。文は上手になれば人心を動かすほどのもので、それが簡単に作れるのなら誰にとっても好ましいことではあるが、天授もあり工夫もあって、文人というものは滅多にできない。徂徠や南郭がそれを一生の事業としていても、弟子に文らしいものは一人だけ。文の外はない。これで「不専意則不工」を合点しなさい。しかし、それはそれとして、たとえ書いてもそれはただ書いただけのこと。「局於此」。一生の精力がこれ限りになること。どれほど贔屓目に見ても、とかく芸に落ちる。局という字は論語の注にもある。冉求を芸に局すとも言う。その局の字から下の天地の局に移るのである。
【語釈】
・辞達而止…論語衛霊公40。「子曰、辭達而已矣」。
・鷹可被下候…
・一扁…一偏。専らにすること。ひたすら。
・徂徠…荻生徂徠。1666~1728
・南郭…服部南郭。江戸中期の儒学者・詩人。名は元喬。京都の人。1683~1759
・冉求…孔門十哲の一。名は求。字は子有。魯の人。魯の家老季孫氏に仕える。冉有。
・藝に局…論語雍也10集註。「畫而不進、則日退而已矣。此冉求之所以局於藝也」。

又安能云々。どふして天地と幷ぶぞ。堯舜は天地と大を同くした人故に、孟子も穪堯舜とある。儒者の学は堯舜を目當にしてすることなり。堯舜が天地歟、天地か堯舜歟なり。好学論にも学以至垩人之道也とある。それに文章の学がとふして幷ふぞ。
【解説】
「又安能與天地同其大也」の説明。堯舜は天地の規模であり、儒者の学はこの堯舜を目当てにする。文章の学は儒者の学に並ぶことなどできない。
【通釈】
「又安能云々」。どうして天地と並ぶことができようか。堯舜は天地とその大きさを同じくした人で、孟子にも「称堯舜」とある。儒者の学は堯舜を目当てにしてすること。堯舜が天地なのか、天地が堯舜なのかということ。好学論にも「学以至聖人之道也」とある。それに文章の学がどうして並ぶことができようか。
【語釈】
・穪堯舜…孟子滕文公章句上1。「滕文公爲世子、将之楚、過宋而見孟子。孟子道性善、言必稱堯舜」。

書曰玩物喪志。物とは茶の湯道や色々の物ずきを云。無用な物を好めは志を喪ふと云。これは皆人合点なれとも、文章をも其玩物と一つに見たぞ。文章は品のよいもの。歌舞妓踊りは下卑たものと云が、やはり同挌になる。どふなれば人に見せるためなり。文が非礼ではないか、人にほめられたひと云心が非礼。金は非礼てはない。ほしいと云心が非礼なり。詩書も文章なれとも、あのよふに書て人にほめられたいと云人欲か、をどりよりはわるい。これが学者の禁好物なり。医者が茄子や豆腐に点をかける、無用と云。学者もこの文章にも点をかけ子ばならぬ。それに付て、さて戒によいと云て弟子の詩を引れた。
【解説】
「書曰、玩物喪志。爲文亦玩物也」の説明。無用なものを好めば志を喪うが、文章も無用なものの一つである。その無用な理由は人に見せるためだからである。文自体は非礼ではないが、人に褒められたいという心が非礼なのである。
【通釈】
「書曰玩物喪志」。「物」とは、茶の湯道や色々な物好きのこと。無用なものを好めば志を喪うと言う。人は皆それを承知だが、文章もその玩物と同じだと見たのである。文章は品のよいもので、歌舞伎踊りは下卑たものと言うが、やはり同格である。それは何故かと言うと、どちらも人に見せるためのものだからである。文自体は非礼ではないが、人に褒められたいという心が非礼である。金は非礼ではないが、欲しいという心が非礼なのである。詩書も文章だが、あの様に書いて人に褒められたいという人欲が、踊りよりも悪い。これが学者の禁好物である。医者が茄子や豆腐を吟味して、無用だと言う。学者も文章を吟味しなければならない。それについて、戒めによいと言って弟子の詩を引用された。
【語釈】
・書曰…書経旅獒。「玩人喪德、玩物喪志」。

呂與叔有詩云々。先程門てもしっかりと重荷を持た人なり。そこて此呂与叔と云人を知らずにここらをよんでは切にない。吾黨の学者の詩文をわるく云は手前が出来ぬ故そ。そこで人へひひかぬ。呂氏は程門ても文章は余程出来る人て得手の方なり。其人がこふ云たで親切なそ。訂斎先生も医者の子なり。学のために医をやめた。あまり貧乏さに一と年又医者を初たれば、其暮には金がよほど出来た。是ては学問がみんなになると云て、翌春から医をやめた。これ、尚翁のあとをつぐ魂ぞ。今の学者は金の出来ぬてやめるそ。呂与叔は文も出来るに、かつ、文をそしる。
【解説】
「呂與叔有詩云」の説明。我が党の学者が詩文を悪く言うのは自分ができないからであってある。呂與叔は文を上手に作る人だったが、同時に文を謗った。今の学者は貧乏になるので学問を止めるが、逆に、訂斎は医を行うと金が貯まって学問が駄目になるので、医者を止めた。
【通釈】
「呂与叔有詩云々」。呂与叔は、先ずは程門の中でもしっかりと重荷を持った人である。そこで、この呂与叔という人を知らずにここを読んでは切実でない。我が党の学者が詩文を悪く言うのは自分ができないからである。そこで、人に響かない。呂氏は程門の中でも文章が余程できた人で、それが得手な方である。その人がこの様に言ったので切実となる。訂斎先生も医者の子だった。学のために医を止めた。あまり貧乏だったので一年間また医者を始めると、その暮には金がかなりできた。これでは学問が駄目になると言って、翌春から医を止めた。これが尚翁の後を継ぐ魂である。今の学者は金ができないので学問を止める。呂与叔は文を上手に作れる上で文を謗る。
【語釈】
・呂與叔…程伊川の門人。呂大臨の字。汲郡の人。
・訂斎先生…久米訂斎。
・尚翁…三宅尚斎。

学如元凱云々。をれは左氏のくせありと自ら云た。いこふ左傳を好んた。根に見処あらば左傳からでも道を得まいものてもないか、それはすりこきて飯をもるやうなもの。摺小木ても一日かかったら盛れもせふが、それより杓子がよい。道を得るには四子六經かよい。学者の道を求るに左傳て吟味したと云は、飛脚が西大寺の豊心丹は買て、状箱をば落した様なもの。文似相如。司馬相如。上もない文章書きなり。
【解説】
「學如元凱方成癖、文似相如」の説明。道を得るには手法がある。左伝を読むより四子六経を読む方がよい。
【通釈】
「学如元凱云々」。元凱は、俺は左氏の癖があると自ら言った。大層左伝を好んだ。根に見処があれば左伝からでも道を得られないものでもないが、それは擂粉木で飯を盛る様なもの。擂粉木でも一日掛ければ盛ることもできるだろうが、それより杓文字の方がよい。道を得るには四子六経がよい。学者が道を求めるために左伝で勉強したと言うのは、飛脚が西大寺の豊心丹は買って、状箱は落した様なもの。「文似相如」。司馬相如。この上もない文章書きである。
【語釈】
・元凱…晋の杜預。222~284
・左氏…春秋左氏伝。
・西大寺…奈良市にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一。高野寺・四王院ともいう。
・豊心丹…奈良の西大寺から、興正菩薩伝来と称して製出した薬。
・相如…司馬相如。前漢の文人。字は長卿。四川成都の人。前179~前117

殆類俳。不仕付な申分ではこざれともと云こと。俳は狂言師のやふなもの。文人多くは人に見せるためなり。見物のないに能を初るものはない。歌舞伎で丹をぬるも人に見せるため。詩文も人に見せるためなり。人に逢ぬときも髪月代をするが垩学なり。石のかろふとの中でも衣紋をつくろふていると云が本のことなり。正月ばかりと云ことではない。某が文を書くとも、人が見たらばと云て後と先きを考て人目を思ふて書く。諸生の筆記を直すとても後世道を蹈迷ふではない。黙斎がこんな講釈の仕様かあるものかと云はれてはならぬと云氣がある。これ皆俳に類する処なり。学は我方のこと。人に對したことではなし。とふてもよいはすのことなり。身にかかることではない。我身心のことの外に心づかひある内は凡夫の水ばなれはせぬなり。
【解説】
「殆類俳」の説明。文人の多くは人に見せるためのものである。しかし、聖学は自分のためにする学であり、他人に見せるためのものではない。人に見せるためにするのは狂言師と同じである。
【通釈】
「始類俳」。不躾な申し分ではありますが、ということ。俳とは狂言師の様なもの。文人の多くは人に見せるためである。見物がないのに能を始めようとする者はいない。歌舞伎で化粧をするのも人に見せるため。詩文も人に見せるためである。人に逢わない時も髪月代をするのが聖学である。禄高が軽い中にあっても衣紋を繕っておくというのが本来のことである。衣紋を使うのは正月だけではない。私が文を書く時も、人が見たらどうだろうと、後先を考えて人目を思って書く。諸生の筆記を直すのにも、後世道を踏み迷わない様にと思ってではなく、自分がこんな講釈の仕方があるものかと言われてはならないという気持ちがある。これ等は皆俳に類する処である。学は自分のことで人に対してのことではない。他人はどうでもよい筈のこと。身に掛かることではなく、自分の心身のこと以外に心遣いをしている内は、凡夫が水離れしないのと同じである。
【語釈】
・丹…あか。あか色。化粧。
・髪月代…髪を結い、さかやきを剃ること。
・水ばなれ…水離れ。親の手もとを離れること。一般に、別れること。縁を切ること。

獨立孔門。呂氏の一と願いある。何じゃと云に孔門の顔子のことなり。顔子は克己復礼で仁になられた人。そこを心齋と云。呂与叔か云分んに、余のことにこわいことはないが、あの顔子の心齋を得るにまくと云はれた。杜子や相如は歯牙にかけぬことなり。輸は、迂斎はけむ意じゃとなり。力を落すことではない。心斎は心のととのふと云こと。心の齋ふたは仁を得たことぞ。直方先生の、加賀殿には叶はぬと云はれた。偖、此字は出處がある。荘子の、孔子と顔子の問答を設けて云たこと。斎はもと祭て云こと。一と通りの斎を云て、そんなことてはない、心齋と云があるとなり。荘子怙憺虚無へ落すやうに云た。呂氏は夫れをかりて云たもの。そこで某が克己で云たも聞へるぞ。今日学者は理からこず勢でをすゆへ弟子の云ことはなに々々と軽んするが、程子は范淳夫唐鑑を作りたれは、三代以後無此議論と云はれ、呂与詩か詩を如此ほめられて、御手前の論説の羽翼になされたるなり。
【解説】
「獨立孔門無一事、只輸顏子得心齋。此詩甚好」の説明。心斎は荘子の語で、呂氏がそれを借りてここに書いた。顔子は克己復礼で仁になられたが、そこを心斎と言う。今の学者は弟子を軽んじるが、朱子は理に叶っていれば、それを褒めるし引用もする。
【通釈】
「独立孔門」。呂氏に願いが一つある。それは何かというと孔門の顔子のことである。顔子は克己復礼で仁になられた人。そこを心斎と言う。呂与叔が、他に恐いものはないが、あの顔子が心斎を得たのには負けると言われた。杜元凱や相如は問題ではない。「輸」を、迂斎が励む意味だと言われた。力を落とすことではない。心斎とは心が斎[ととの]うこと。心が斎ったのは仁を得たこと。直方先生が、加賀殿には叶わないと言われた。さて、この字には出処がある。斎は荘子が孔子と顔子の問答を作って言った字。斎は元々祭りで言うことだと一通り斎を語った後に、そんなことではなく、心斎というものがあると言った。荘子は心斎を枯憺虚無へ落とす様に説明した。呂氏はそれを借りて言ったのである。そこで、私が克己と言ったのもよくわかること。今日学者は理から出ずに勢いで押すので弟子の言うことは何々と軽んじるが、程子は范淳夫が唐鑑を作った際に、「三代以後無此議論」と言われ、また、呂與叔の詩をこの様に褒められて、自分の論説の助けとして使われた。
【語釈】
・克己復礼…顔淵1。「顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁」。
・加賀殿…
・孔子と顔子の問答…荘子内篇人間世にある。
・怙憺…怙は恃みとすること。憺はやすらか。怙は枯の誤字?
・范淳夫…名祖禹。程門高弟。
・三代以後無此議論…致知69の語。
・羽翼…たすけ。輔佐。

古之学者云々。学問と云ふは心を養ことなり。事業は第二段と云こと。萬能一心と云も情性のことなり。其他云々。事業から云へは学ぶことがだんづかあるが、その外のことは不学なり。悦人之耳目云々。悔しいことには人のための幣へなり。文章書て仕まってをくは人にみせるためなり。女のよいきものやこふかいを仕舞てをいて、何ぞのときに見せようとてのこと。身のためなら寒ひときには着るがよし。人のみるてなふては着ず。甲斐の德本、小袖を貰ふてよい方を身に着せる、と。裏かへしに着た。今日の学者は不及德本。邵子などの詩は人を悦すためてはない。皆云たいままの詩なり。能書も、娘の処への手帋と屏風を書くときとは違ふ。非俳優。何とも氣の毒ながら狂言師なり。狂言は人に見せるため。其証拠には、大晦日顔を丹て塗て掛取を白眼てみせはせぬ。あれは啇賣とも云をふが、学者が人に見せるためと云ことはないはすそ。
【解説】
「古之學者惟務養性情、其他則不學。今爲文者、專務章句、悦人耳目。既務悦人、非俳優而何」の説明。性情は心であり、学問は自分の心を養うことであって人に見せるためのものではない。甲斐の徳本は、小袖を裏返しに着ると言うが、今の学者はその徳本にも及ばない。
【通釈】
「古之學者云々」。学問とは心を養うことである。事業はその後のこと。万能一心と言うのも情性のこと。「其他云々」。事業で言えば学ぶことが沢山あるが、心の外は学ばない。「悦人耳目云々」。これは悔しいことに人のための幣である。文章を書いて仕舞っておくのは人に見せるため。女がよい着物や笄を仕舞っておいて、何かの際に見せようとするのと同じこと。身のためなら寒い時には着ればよいのだが、人が見ていなければ着ない。甲斐の徳本が、小袖を貰ったので美しい方を内側にして着ると言う。裏返しに着た。今日の学者は徳本に及ばない。邵子などの詩は人を悦ばすためのものではない。皆自分の言いたいままを書いた詩である。能書も、娘の処への手紙と屏風を画く時とでは違う。「非俳優」。何とも気の毒ながら狂言師である。狂言は人に見せるためのもので、その証拠に、大晦日、掛取り人に対して、顔を丹で塗り白眼にして見せはしない。それが商売と言え、学者が人に見せるためということはない筈である。
【語釈】
・萬能一心…「万能足りて一心足らず」。あらゆる事に達しているが、心の修養が足りないこと。
・德本…室町時代末期の永正10年(1513年)に三河国に生まれ、乾室または知足斎と号し、医を業とし、駿河・甲斐・相模・武蔵の諸国を巡り、甲斐にあっては武田氏に仕えた。
・邵子…邵康節。北宋の学者。1011~1077
・掛取…掛取り。掛売りの代金を取り立てること。また、その人。近世には、歳末だけ、あるいは歳末と盆との二度であった。掛け集め。掛乞い。

曰古者学爲文否云々。これほどに伊川の云てきかせても、文が一と事業になりて立派そふになってをるから問人か心へ落つかぬ。丁ど管仲之器小哉と垩人の仰せられても、日比管仲を大ふよいと思て居るゆへ、儉かの、礼を知るかのと問たやふなもの。爰て大ふ耻をさらした。文を重ひことと思て、どふでも古人は学はれたであろふと云た。垩人も詩經や書經を見て文を作るかと云に、何垩人か其やふに骨を折るものか、垩人のは春氣になると鴬の鳴くやふなもの。自然と出る。草木の花のさく、五采見事なことなれとも、繪師の書くやふなことてはない。垩人のは心の内のことかほんのりと出る。天地のは色々な彩色はいらぬ。自然なり。垩人の文にけいこはなし。丁としわくない人か口上向のきれいにきれはなれのよいやうなもの。こしらへたことではなし。今日古文辞の稽古を脩辞の業なとと云。江戸に生れて京詞と云もの。
【解説】
「曰、古者學爲文否。曰、人見六經、便以謂聖人亦作文。不知聖人亦攄發胸中所蘊、自成文耳」の説明。文章が流行っているから、それを重要なものだとして、古人もまた文章を学んだ筈だと思うが、聖人の文は心が自然のままに現れたもので、そのための稽古をしたり、拵えたりしたものではない。
【通釈】
「曰古者学為文否云々」。これほどに伊川が言って聞かせたのに、文が一事業として立派そうだから、その言葉が問う人の心に深く入り込まない。丁度、「管仲之器小哉」と聖人が仰せられても、日頃管仲を大層よいと思っているから、倹か、礼を知っているかと質問した様なもの。ここで大分恥をさらした。文を重要なことと思っているので、何としても古人は学ばれた筈だと言った。聖人も詩経や書経を見て文を作るのかと言うが、何で聖人がその様に骨を折るものか。聖人の文は、春気になると鴬が鳴く様なもので、自然と出る。草木の花が咲くのは五彩見事だが、絵師が画く様なものとは違う。聖人の文は心の内がほんのりと出る。天地に色々な彩色は要らない。自然のままである。聖人が文に稽古はない。丁度、吝くない人の言葉や身振りがさっぱりしている様なもので、切れ離れのよい様なもの。それは拵えたものではない。今日古文辞の稽古を修辞の業などと言うのは江戸に生れて京詞を使う様なもの。
【語釈】
・管仲之器小哉…論語八佾22。「子曰、管仲之器小哉。或曰、管仲儉乎。曰、管氏有三歸。官事不攝、焉得儉。然則管仲知禮乎。曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好、有反坫、管氏亦有反坫。管氏而知禮、孰不知禮」。
・上向…外観。うわべ。
・きれはなれ…切れ離れ。さっぱりと思い切ること。気前がよいこと。
・古文辞…①中国で、文は秦・漢またはそれ以前、詩は盛唐以前のもの。明の李攀竜・王世貞の主張。②荻生徂徠が唱えた学問。宋・明の儒学および伊藤仁斎の古義学に反対して、古語の意義の帰納的研究によって先秦古典の本旨を知ろうとする訓詁学。徂徠のほか、服部南郭・太宰春台・山県周南らによって代表され、古文辞派・蘐園学派または徂徠学派と呼ぶ。

所謂有德者必云々。孔子の替りたものて、德ある人には必言あるものなり、と。彼人不言。云へは必あたることありと、閔子をほめて云はれたもそれなり。或人か爰の処て本心かみへた。古の文のよいを見れは学んたてあろふ。丁との処を云た。初の文を作す害道の問は空言の処なり。丁ど点取り誹諧か、此句はたれがに向きと云てあると云てやると同ことそ。伊川へ向いては、文か道を害するかと問ふたらば点にもなろふかと思てやったのそ。因て伊川のあれほとに云て聞せたを感心はせいて段々にくだをまいた。
【解説】
「所謂有徳者必有言也」の説明。古の文が優れているのは、古人は文を学んだからだというのが或る人の本心である。最初にある「作文害道否」の問いは空言である。
【通釈】
「所謂有德者必云々」。孔子の言を借りて、徳ある人には必ず言があるものだと言う。「夫人不言言必有中」と閔子騫を褒めて言われたのもそれである。ここの処で或る人の本心が見えた。古の文がよいのを見ると、彼等は文を学んだのだろうと、彼の本心が出た。初めにあった「問作文害道否」の問いは空言である。丁度、点取俳諧で、この句は誰々に向いていると言って遣るのと同じこと。或る人は、伊川に向かって文が道を害するかと問えば点になるだろうと思って質問したのである。伊川があれほど言って聞かせたことには感心せずに、段々とくだを巻いた。
【語釈】
・德ある人には必言ある…論語憲問5。「子曰、有德者、必有言。有言者、不必有德。仁者必有勇。勇者不必有仁」。
・彼人不言…論語先進13。「魯人爲長府。閔子騫曰、仍旧貫如之何。何必改作。子曰、夫人不言、言必有中」。
・閔子…閔子騫。孔門十哲の一。名は損。魯の人。
・点取り誹諧…点取俳諧。宗匠に句の採点を請い、その点の多いことを競う俳諧。

曰游夏云々。孔子ても文学と云ますから、御前のもあてにならぬとばけの皮をあらはした。程子にたたりたから、程子もそれて答へた。且觀天文。こなたは孔子の弟子を今の文章書のやうに云が、さふしたことてない。何ても文の字さへあれば文章家の文に引をとして云ふならは、易の賁の卦はどふじゃと云たり。賁はかざりのこと。天地の道理にかざると云ことある。散した髪てはわるいから髪を結ふ。そこて文の字をかけたもの。白木綿では着られぬゆへ、紺にそめて紋をそめる。文なり。天文は日月星辰察地変。暦の出来たは堯舜からのこと。其前は天文てすむ。たとへは七月に火下る。九月授衣。楓か紅葉するは十月と知る。梅のさくので春を知る。天文を見て天下を化成す。只天文をはかり古は知た。
【解説】
「曰、游夏稱文學何也。曰、游夏亦何嘗秉筆學爲詞章也。且如觀乎天文以察時變」の説明。孔子が文という字を使ったからといって、それが今の文章家と同じということではない。文には色々な意味がある。例えば賁の卦の文は飾るの意である。天文は日月星辰察地変のことで、堯舜よりも前は天文だけで足りていた。
【通釈】
「曰游夏云々」。孔子でも文学と言いますから、お前の言うことも当てにならないと、化けの皮を現した。この様に程子に文句を言ったので、程子もそれで答えた。「且觀天文」。貴方は孔子の弟子を今の文章家の様に言うが、そうしたことではない。何でも文の字さえあれば文章家の文の処に引き落として言うのなら、易の賁の卦はどうなのかと言った。賁は飾りのこと。天地の道理には飾るということがある。散らした髪では悪いから髪を結う。そこで文の字を掛けた。白木綿では着られないから、紺に染め、紋を染める。これも文である。天文は日月星辰察地変のことで、暦ができたのは堯舜からのこと。その前は天文だけで済むんだ。たとえば「七月流火九月授衣」で、楓が紅葉するのは十月と知り、梅が咲くので春を知る。天文を見て天下を化成する。ただ天文だけを古は知っていた。
【語釈】
・游夏…子游と子夏。孔門十哲の一。
・賁の卦…離下艮上。山火賁。「象曰、賁亨、柔来而文剛、故亨。分剛上而文柔、故小利有攸往。天文也。文明以止人文也。観乎天文以察事變、觀乎人文以化成天下」。文は飾るの意。
・七月に火下る。九月に授衣…詩経国風豳七月。「七月流火、九月授衣」。授衣は、古代中国で九月に冬着を授けたことから陰暦九月の異称。

人文と云ふは、たとへは鷄は元日から晦日迠時を告てをる。それきりのことなれとも、人にはさま々々ありて、親へは親君へは君でそれ々々に文かある。朔日十五日は礼式も違ふ。朝庭嚴重、それからは大名衆も御仲ヶ間振舞、親類振舞、又和した躰なり。それ々々にわかりあやのあることて一つことはかりてはない。其か文の形りなり。此文の字を詩文とはかり見ることでない。何ぼ文の字がありても、天文を文章とは云はれまい。爰はたたりてちといたつらに云たそ。偖て是に似たをかしきことあり。先年予が念ごろな茶人が茶の書をあらはし、趙州か臨済かが茶のことを出した。又何とか云立花師が、投入の序に釈迦の捻花微笑のことを引た。此様なをかしいことはない。何ぼ花と云字があるとてもあんまりなことなり。只花と云字の縁斗りぞ。
【解説】
「觀乎人文以化成天下。此豈詞章之文也」の説明。人には様々な文があって、五倫もその一つだし、礼式や階級もそれである。文は詩文のことだけではない。何としても天文は文章とは言えない。
【通釈】
人文とは、たとえば鶏は元日から晦日まて時を告げているのはそれだけのことだが、人には様々な文があって、親へは親、君に義とそれぞれに文がある。朔日と十五日では礼式も違う。朝廷は厳かだが、それ以下は、大名衆もお仲間振舞い親類振舞いと、和した姿がある。それぞれに分かれる綾があって、同じことばかりではない。それが文の姿である。この文の字を詩文のこととだけ見てはならない。文の字があっても、流石に天文を文章と言うことはできないだろう。ここは祟って少し悪戯を込めて言ったこと。さてこれに似た可笑しい話がある。先年私の親しくしている茶人が茶の書を著し、趙州か臨済の茶のことを出した。また、何とかと言う立花師が、投け入れの序に釈迦の拈花微笑を引用した。この様な可笑しいことはない。いくら花という字があるからといってそれはあんまりなこと。ただ花という字があるだけである。
【語釈】
・親へは親…五倫を指す。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。
・趙州…晩唐の僧。趙州和尚。
・立花…七つ道具(役枝)を用いて構成する華道の一様式。桃山末期から江戸初期に池坊専好(初代・二代)が立花を発展させて大成。
・投入…投げ入れ。華道の様式・手法の一。あまり人工を加えず、自然の枝ぶりのままに挿すもの。古流では折入花という。なげこみ。瓶華。
・捻花微笑…拈華微笑。禅宗で、以心伝心、教外別伝の法系を主張するのに用いる語。霊鷲山で説法した釈尊が、華を拈んで大衆に示した時、摩訶迦葉だけがその意を悟って微笑し、それによって、正しい法は迦葉に伝えられたという。

偖、この様な儀論の出ると云も、本と文章は学者の事業のやうになって居るゆへ。文を書たとても余りの遊藝のやふに外から。学者にも似合ぬと云ことはならぬ。文を書けは儒官の職分にもなるが、やっはり心のわるくなると云日には、さま々々の玩好ものずきと同じことなり。下戸は酒の段になりて不養生はないか、外のことて不養生をするやうなもの。俗学の文章を主とする、何れからさつとは打れぬことて、さて、心の不養生になると云ことを合点すへきことなり。すれは茶の湯楊弓も同しことぞ。偖、此中の養情性と云が此章の眼なり。
【解説】
今、文章は学者の事業となっているが、それは自分の心から書いたものではないから悪い。文章を書けば儒官の職を得ることも可能だが、心が悪くなる。それでは遊芸と同じである。
【通釈】
さて、この様な議論が出るのも、本当に文章は学者の事業の様になっているからである。文を書いても、余りに遊芸の様で外を思ってする。学者は、学者として似合わないことをしてはならない。文を書けば儒官として採用されもするが、やはりそれで心が悪くなることから見れば、それは様々な玩好物好きと同じである。下戸が酒で不養生することはないが、外のことで不養生をする様なもの。俗学は文章を主とするが、それは何処からも非難されないとしても、心の不養生になることを合点しなくてはならない。それでは、茶の湯や楊弓と同じこと。さて、この中の「養情性」がこの章の眼目である。
【語釈】
・遊藝…遊びごとに関した芸能。
・さつと…察度。非難。
・楊弓…遊戯用の小弓。江戸時代から明治にかけて民間でも盛んに行われた。

吾も人も、人に勝たいと云病は文章を書すともあるのに、其上に文章で勝たいと云は重荷に小附て、人欲のヶ条をふやすなり。徂徠は心と云と、そりゃ禪坊主と云か、心に近付てないからなり。程子は心と云ものの害になる毒いみをする。百姓は根きりの虫をこはがる。江戸なとては根切虫を知ぬから、鼠をいやかるやうにはない。徂徠は根切虫を知ぬからなり。その上に六經をかさに着て文辞をふき上るは俗儒の陋弊なり。周子の陋と云はそこのことなり。
【解説】
他人に勝ちたいという病は誰にもあるが、その上、文章でも勝ちたいというのは、更に人欲を増やすものである。徂徠は文章が心の害となることを知らないから、六経を笠に着て文辞を主張するが、それが、周子が言った陋である。
【通釈】
自分も人も、人に勝ちたいという病は文章を書かなくてもあるのに、その上、文章でも勝ちたいと言うのは重荷に小附で、人欲の箇条を増やすものである。徂徠は、心と言えば禅坊主の話だと言うが、それは彼が心と近付きになっていないからである。程子は心の害になるものを毒忌する。百姓は根切虫を恐がる。江戸などでは根切虫を知らないから、鼠を嫌がる様にはそれを嫌わない。徂徠は根切虫を知らないから文章を悪いものだと思わない。その上、六経を笠に着て文辞を主張するが、それは俗儒の陋弊である。周子が陋と言ったのはそのこと。
【語釈】
・重荷に小附…重い負担の上に、さらに負担の加わること。
・毒いみ…毒忌。主として服薬の時、その薬のさわりとなるものを飲食しないこと。禁忌。
・周子の陋…為学第2を指す。


第五十八 涵養須用敬の条

涵養須用敬、進學則在致知。
【読み】
涵養は須く敬を用うべく、進學は則ち知を致すに在り。
【補足】
この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

此章、只十一字なり。朱子も尤妙なりと云はれた。氣を付て看よ。此妙は藥の能書きにもある妙の字なり。芥子粒程なものを呑んで、早速腹中雷鳴して下した。尤妙なり。秦延君が三万言ても役にたたぬ。僅十一字なれとも垩賢に至らるる。反魂丹なり。殊の外小粒てもよくきくぞ。それは譬喩ぞ。惣体能は一方へぬけるものじゃが、学問は一方ついては役にたたぬ。此条短さに片々かと思に两方揃た。片方ではない。片方ではよいことでも異端にをち入る。偖此章は十一字と云内に、只涵養と進学のことなり。そこで只涵養ばかりではいつもじっとしてをるやうなもの。進学と云て子ともの成人するやうなものぞ。そこて涵養がなければ眠りて道中なり。又目ははっきりとしても一つ処に居ては進学てなひ。爰が品川、川﨑と云ても、眠りながら行ては役に立ぬ。そこで涵養の進学なり。
【解説】
この章は僅か十一字だが聖賢に至る句であり、朱子も、この章を尤も妙だと言われた。学問は一方に片寄っては役に立たず、異端に陥る。涵養がないのは眠って旅をする様なもの。進学がないのはいつも同じ場にいる様なもの。この章は涵養と進学の二つが揃ったものである。
【通釈】
この章はただ十一字だけの文である。朱子も、この章を尤も妙だと言われた。気を付けて看なさい。この妙は薬の能書きにもある妙の字である。芥子粒ほどの薬を呑んで、早速腹中が雷鳴して下す。尤も妙である。秦延君の三万言も役には立たない。この章は僅か十一字ではあるが聖賢に至ることのできるもの。それは反魂丹である。殊の外小粒でもよく効く。これは比喩である。総じて効能は一方へ抜けるものだが、学問は一方に片寄っては役に立たない。この条は短かいから片方だけかと思えば、両方揃っている。片方ではない。片方だけではよいことでも異端に陥る。さてこの章は十一字の内にただ涵養と進学のことを述べている。ただ涵養だけではいつもじっとしている様なもの。進学は子供の成人する様なこと。涵養がなければ眠って道中する様なもので、また、目ははっきりとしていても一つの場にいては進学でない。ここが品川、川崎と言っても、眠りながら行くのでは役に立たない。そこで涵養の進学である。
【語釈】
・秦延君…
・反魂丹…食傷・腹痛等に特効ある懐中丸薬。江戸時代、富山の薬売りが全国に売り広めた。江戸では、芝田町のさかいや長兵衛売出しのものが「田町の反魂丹」として名高い。

そんなら先涵養からせふ、どんなものじゃと云に、心をはっきりとすること。二六時中心を張弓のやうにいき々々としてをること。氷る間もなき水車で間断はないぞ。此段になると、禪坊主がちとそふもござるまいと云ふが、こちには進学と云者かある。禪坊主は涵養の筋ばかりて鏡をといて仕廻てをくやふなもの。進学は毎日すわりきりて居るではない。今日に明日は違ふ。親に孝をするも同し調子ではない。惇行孝弟とあるは学問の進むて趣か違ふ。そこで學問をすれは段々知惠が明になりて向へ進む。井戸は替へ出す程水はよくなる。学者一偏になづみ、涵養と云と心得たと云て目を子むり呼吸をそろへることに心得るか、進学と云ことありて、致知と云は一艸一本此理ありなり。此条て近思十四篇の大割は済むほとのこと。そこで此語尤妙なりと云たものなり。
【解説】
涵養とは心をはっきりとすることで、絶えず心を張弓の様に活き活きとしていること。進学とは日々の学問によって段々と知恵が明らかなり、道に近付くこと。致知とは一草一本にも理があることを知ること。
【通釈】
それでは先ず涵養からしよう、それはどんなものかと言えば、心をはっきりとすること。絶えず心を張弓の様に活き活きとしていること。氷る間もない水車で間断はない。この段階になると、禅坊主がそうでもないだろうと言うが、こちらには進学というものがある。禅坊主は涵養の筋だけしかなく、それは鏡を磨いで仕舞っておく様なもの。進学は毎日座ってばかりでいるわけではない。今日と明日とは違う。親に孝をするのも同じ調子ではない。「惇行孝弟」とあるのは、学問が進む段階で趣きが違うこと。そこで学問をすれば段々に知恵が明らかなって道に向かって進む。井戸は替え出すほど水がよくなる。学者も一方に泥み、涵養と言えば心得たと言って目を瞑り呼吸を整えることだと思っているが、その後に進学があるのを知らない。致知とは一草一本にも理があるということを知ること。この条で近思十四篇の大方は済むほどのこと。そこで朱子が、この語が尤も妙だと言ったのである。
【語釈】
・張弓…弦をかけて張った弓。また、その形をしたもの。
・惇行孝弟…礼記内則。「二十而冠、始學禮。可以衣裘帛、舞大夏。惇行孝弟、博學不教。内而不出」。
・一艸一本此理あり…致知12。「然一草一木皆有理」。


第五十九 莫説道將第一等云々条

莫説道將第一等讓與別人、且做第二等。才如此説、便是自棄。雖與不能居仁由義者差等不同、其自小一也。言學便以道爲志、言人便以聖爲志。
【読み】
第一等を將[もっ]て別人に讓與し、且く第二等を做[な]すと説道する莫かれ。才[わずか]に此の如く説けば、便ち是れ自棄なり。仁に居り義に由ること能ざる者と差等同じからずと雖も、其の自ら小とするは一なり。學を言えば便ち道を以て志と爲し、人を言えば便ち聖を以て志と爲せ。
【補足】
この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

学問を目掛るなら此条で垩賢にも至られる。そこて直方先生の、此語を道学標的にのせた。直方の学問と云は標的と鞭策の二つにある。此二書は吾黨で大事の書なり。鞭策は鞭を打て進ること。標的は目當を置て、それへぼっつけること。火事塲の纏の様なもの。其をあてにしてゆく。偖、上に文章の学、訓詁の学、儒者の学と云て、評義まち々々。どれにしようと云ことてない。柯先生の道を開かれたと云もここらか日本て始て明になった。弟子にはさま々々あり。成就せぬは第二等故ぞ。第一等と云は此章に止る。それ第一等と云は、私は及はれぬと云そ。異なことに謙退して垩学の纏を横たをしにするそ。鞭策開巻の意なくてはこの標的もいらぬなり。第二等は、迂斎先生の人を出して云へば屈原や孔明を手本にしろと云やふなもの。孔明は伊尹らしく、屈原は三仁にもをとらぬ程にみゆるなれとも、垩学の標的にならぬ。必その様なこと云やるな。遠慮はない。一等を学へとなり。そふないと自棄じゃとなり。
【解説】
「莫説道將第一等讓與別人、且做第二等。才如此説、便是自棄」の説明。直方の学問は標的と鞭策の二つにあり、我が党の大事な書である。学問には色々なものがあるが、日本で初めて儒者の学を明らかにしたのは山崎闇斎である。学問は第一等でなければならず、学問が成就しないのは第二等だからである。聖学の標的は聖人であって、孔明や屈原の様な者ではない。第二等をするのは自棄である。
【通釈】
学問を目指すのであれば、この条によって聖賢にも至ることができる。そこで直方先生はこの語を道学標的に載せた。直方の学問は標的と鞭策の二つにある。この二書は我が党の大事な書である。鞭策は鞭を打って進めること。標的は目当てを決めてそれに向かって進むことで、火事場の纏の様なもの。それを当てにして行く。さて、先の条で文章の学、訓詁の学、儒者の学と言って、学問の評議が様々あった。しかしそれはどれにしようかということではない。柯先生が道を開かれたと言うのも、ここの所を日本で初めて明らかにしたからである。弟子は様々である。成就しないのは第二等だからで、第一等の者はこの章に止まる。第一等には及ぶことができないと言い、変なことに謙譲して聖学の纏を横倒しにする。鞭策録開巻の意がなくてはこの標的も要らない。第二等について、迂斎先生が人を挙げて言えば屈原や孔明を手本にしろと言う様なものだと言った。孔明は伊尹風で、屈原は三仁にも劣らない様に見えるが、彼らは聖学の標的とはならない。その様なことは絶対に言わず、遠慮なく第一等を学びなさい。そうしないと自棄だと言った。
【語釈】
・鞭策…講学鞭策録。直方著。
・ぼっつける…ほっつくが、歩きまわる。うろつく。
・文章の学、訓詁の学、儒者の学…為学56を指す。
・柯先生…山崎闇斎。
・屈原…中国、戦国時代の楚の人。名は平、字は原。また、名を正則、字を霊均ともいう。汨羅に投身。前343頃~前277頃
・孔明…諸葛亮孔明。三国時代、蜀漢の丞相。字は孔明。山東琅邪の人。181~234
・伊尹…殷初の名相。名は摯。湯王をたすけ、夏の桀王を滅ぼして天下を平定したので、湯王はこれを尊んで阿衡と称した。
・三仁…論語微子1。「微子去之。箕子爲之奴。比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉」。
・自棄…孟子離婁章句上10。「孟子曰、自暴者、不可與有言也。自棄者、不可與有爲也。言非禮義、謂之自暴也。吾身不能居仁由義、謂之自棄也」。

居仁由義云々。やはり上の自棄のことを孟子の云たぞ。其自小一也。吾身をちいさくする故に、やはり自棄なり。爰が近思録の吟味そ。其れは違たものをじきにそれにすると云て、大ふきびしい療治なり。言学便云々。学問と云話になれば、道を以て志とするかよい。道と云は中々文章のやふな事に付たことでない。爰が目當の処なり。今は垩人、とんと外にないなり。
【解説】
「雖與不能居仁由義者差等不同、其自小一也。言學便以道爲志、言人便以聖爲志」の説明。「居仁由義」は孟子が説明した自棄のことで、「其自小一也」も自棄のこと。学問は道を志すことで、その目当ては聖人である。
【通釈】
「居仁由義云々」。やはりこれも先の自棄を孟子が説明したこと。「其自小一也」。我が身を小さくするから、やはり自棄である。ここが近思録の吟味である。それは違った者を直に同じことだと言うことで、大層厳しい療治である。「言学便云々」。学問の話になれば、道を志すのがよい。道というものは、文章の様な事に関したことではない。ここが目当ての処である。その目当てとは、今は聖人であって、全くそれ以外にはない。

偖、爰でふと思ひ出したをかしい咄がある。先年京都てある儒者が五百石なら何処へでも出やう、其代りに学者一道のことはをれが知らぬことはないと云た、と。学者一道を何と覚へてをるぞや。此人は学問を帳につけてをくとみへた。垩学に五百石の、三百石のと云ことはない。伊尹周公は天下を治め、顔子孟子は引込ていた。皆垩人の道じゃ。とんと道と云ことを根から合点ゆかぬ人と見へた。是らも用心すへきこと。うかとすると、此やふなことを云。
【解説】
本当の学者は俸禄のことなどを言わない。伊尹や周公は天下を治め、顔子や孟子は陋巷で終えたが、どちらも聖人の道だった。道を知らないと変なことを言う。用心しなければならない。
【通釈】
さて、ここでふと思い出した可笑しい話がある。先年京都である儒者が、五百石なら何処へでも出仕しよう、その代わり、学者一道のことは俺の知らないことはないと言ったそうである。学者一道を何と心得ているのか。この人は学問を帳面に付けて置く者なのだろう。聖学に五百石とか三百石などと言うことはない。伊尹や周公は天下を治め、顔子や孟子は引っ込んでいた。それ等が皆聖人の道である。全く根本から道を合点できていない者なのだろう。これ等も用心すべきこと。うっかりするとこの様なことを言う。

惣体、学者は手前をよいと思ふがさいご、学問はみんなになる。かく云るる程子朱子さへ、をれはよいと思ふと其日に天から道統を取上らるる。道に寸法はない。向に道と垩とを置ひて、そこへ々々々と云内に至るか、至らずに息を引取まてのことなり。垩人は堯舜がとまりでも、道には寸法なし。堯舜を手本に云たもの。其塲ても垩希天も聞へた。これて安樂をあてにする、はや地獄そ。迂斎先生、言学は知のこと、言人は行の上て云ことと云た。其学と云ても別のことてない。上の段の涵養進学の二つより外ないなり。ここの幷べやふも、いやどふも云へぬ。
【解説】
学者は自分をよいと思ったら最期、学問が台無しになる。それに例外はない。道に形はなく、道と聖とを目指して進んでいる内に道に至る。至らなければそこで死ぬまでのことで、また、そこに至っても安楽でいてはならない。迂斎は言学を知、言人を行だと言った。学問は涵養進学の二つ以外にはない。
【通釈】
総体、学者は自分をよいと思ったら最期、学問が台無しになる。この様に言われる程子や朱子でさえ、俺はよいと思うとその日の内に天から道統を取り上げられる。道に寸法はない。向こうに道と聖とを置いて、そこへ向かっている内に道に至るか、至らずに息を引き取るまでのこと。聖人は堯舜が最終の標的だが、道には寸法がない。堯舜を手本にすると言っただけのこと。その場に至っても「聖希天」であって、安楽になろうとすれば直ぐに地獄に落ちる。迂斎先生が、「言学」は知のこと、「言人」は行いの上で言うことだと言った。学と言っても特別なことではない。前条にある「涵養進学」の二つより外はない。この章の並べ方も文句の付け様がない。
【語釈】
・垩希天…為学1の語。
・涵養進学…為学58の語。


第六十 問必有事の条

問、必有事焉、當用敬否。曰、敬是涵養一事。必有事焉、須用集義。只知用敬、不知集義、卻是都無事也。又問、義莫是中理否。曰、中理在事、義在心。
【読み】
問う、必ず事とすること有るに、當に敬を用うべきや否や、と。曰く、敬は是れ涵養の一事なり。必ず事とすること有るには、須く集義を用うべし。只敬を用うるを知るのみにして、集義を知らずんば、卻って是れ都[すべ]て事無きなり、と。又問う、義は是れ理に中ること莫きや否や、と。曰く、理に中るは事に在り、義は心に在り、と。
【補足】
この章は、程氏遺書十八にある伊川の語。

是も程子になって始て出た問と思がよい。孟子の浩然と云ても、つっかけ侍從てはならぬ。集義と云下地なしにはならぬ。其れも一度ばかりではものにならぬ。毎日々々集義をすることなり。それを必有事と云。毎日飯をたくやうなものなり。是か定説なり。程子は孟子の語をかりて敬のことを云た。面白いことて、是か時にとりての見立ての発明なり。それを弟子かわるく心得て、いつも々々々敬のことじゃと思ふて問た。云ひ上手の聞下手なり。丁と傷寒に益氣湯を用る塲もあるか、いつも益氣湯と心へてはちこふ。敬は心のをり塲に居て涵養すること。わざてはなし。孟子の有事はわざのこと。敬は只涵養の一事なり。学者の毎日讀書講習、事業は必有事なり。是か集義なり。それから道へ行く間を持つつけるか敬のことなり。それか涵養なり。集ると云は異端の沙弥から長老の、又は四万六千日の筋のやふなことはないぞ。一々道理に當る様にする。集義は今日も明日も一々義にあたるやふにする。親にはよいか女房は打たをしたと云は集めるでない。必有事集義と云、何もかも、いつも々々々とあつめる。そこで有事と云。打すててをかぬことなり。
【解説】
「問、必有事焉、當用敬否。曰、敬是涵養一事。必有事焉、須用集義」の説明。孟子の浩然は集義がなければ得ることはできない。その集義は絶えずしなければならないもの。「必有事」は集義に由る。集義とは一つ一つを義に当たる様にすること。敬とは心で涵養をすることで、それは事業のことではなく、集義を持ち続けることである。
【通釈】
これも程子になって初めて出た問いだと思いなさい。孟子の浩然と言っても、突っ掛け侍従ではできない。「集義」という下地がなければならない。それも一度だけではものにならない。毎日集義をするのである。それを「必有事」と言う。それは毎日飯を炊く様なもの。これが定説である。程子は孟子の語を借りて敬のことを言った。面白いことで、時に応じた見立ての発明である。それを弟子が間違って心得、必有事とはいつも敬をすることかと思って質問した。言い上手の聞き下手である。丁度、傷寒に益気湯を用いる場合もあるが、いつも益気湯を用いればよいと心得ては違う。敬とは心の居り場にいて涵養をすることで、事業ではない。孟子の有事は事業のこと。敬はただ涵養の一事である。学者は毎日読書講習する、その事業は必有事であって、これが集義である。それから道へ行く間を持ち続けるのが敬のことであり、それが涵養である。集まるとは、異端で沙弥から長老までが集まったり、または四万六千日の縁日の賑わいの様なことではない。一つ一つを道理に当たる様にする。集義は今日も明日も一つ一つ義に当たる様にする。親にはよくするが女房は打ち倒すというのでは集めるでない。「必有事集義」と言い、何もかもいつも集める。そこで有事と言う。打ち捨てて置かないこと。
【語釈】
・孟子の浩然…孟子公孫丑章句2。「敢問、夫子惡乎長。曰、我知言。我善養吾浩然之氣。敢問、何謂浩然之氣。曰、難言也。其爲氣也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之閒。其爲氣也、配義與道。無是餒也。是集義所生者、非義襲而取之也。行有不慊於心、則餒矣。我故曰、告子未嘗知義。以其外之也」。
・必有事…孟子公孫丑章句2。「必有事焉。而勿正。心勿忘。勿助長也」。
・傷寒…漢方医学で、急性熱性疾患の総称。今の腸チフスの類。
・沙弥…①出家して十戒を受けた少年僧。わが国では、少年に限らず、一般に、出家して未だ正式の僧になっていない男子。②わが国で、剃髪しても妻子があり、在家の生活をする者。
・四万六千日…この日に参詣すれば四万六千日参詣したと同じ功徳があるという縁日。東京の浅草観音などでは七月一○日とされ、ほおずき市でにぎわう。享保の頃より始まる。十日まいり。

只知用敬云々。心て済てはならぬ。敬は心のこと。義は事へついてすること。客が来れば応對、手帋がくれば返事。事の上て筋を立て子ば義てない。心に如在はないと云ても、正月の礼に行かずに行たぶんにはならぬ。事でなければわからぬ。借用を返すは義なり。心に如在ないと云ても、返さ子ば金主は合点はせぬ。心かよいと云ても事がわるければ義てない。白帋をやって委細のことは此内にあると云ても何のことか知れぬ。後刻参上と云は事なり。敬も義がないと益に立ぬ。敬をしても、義と云つぢつまの合ふものかなくては事なしなり。いつも々々々念仏三昧では天下の政務はならぬ。天下は事できまる。横渠の、釈氏は此に一銭をあたへはつかいえずと云も爰のことなり。義を集ぬからなり。
【解説】
「只知用敬、不知集義、卻是都無事也」の説明。敬は心のことで義は事に関すること。心がよくても事が悪ければ義ではない。敬は義がなくては役に立たない。念仏三昧では天下の政務はできない。
【通釈】
「只知用敬云々」。心で済むだけでは悪い。敬は心のこと。義は事に関して行うこと。客が来れば応対し、手紙が来れば返事を書く。事の上で筋を立てなければ義ではない。心に落ち度はないと言っても、正月の礼に行かなければ、そこに行ったことにはならない。事を行わなければわからない。借用を返すのは義で、心に落ち度はないと言っても、返さなければ金主は合点しない。心がよいと言っても事が悪ければ義でない。白紙を遣って委細のことはこの内に書いてあると言っても、それでは何のことかわからない。後刻参上と書くのは事である。敬も義がないと役に立たない。敬をしても、義という辻褄の合うものがなくては事無しである。いつも念仏三昧では天下の政務はできない。天下は事で決まる。横渠が、釈氏に一銭を与えたとしても使い切ることができないと言うのもここのこと。義を集めないからである。

又問云々。是らは道体の名義なり。名義は道体にあるへきことを爲学へ云は、これを分明にするかじきに爲学なり。さて、此問がわるいこともないから呵はせぬが、義を中理と云ては義と理のあやか知れにくひぞ。既に告子の篇にも理也義也と也の字を二つ書てあるをみよ。同ことではないぞ。そこで道体の名義か一大事になるそ。
【解説】
「又問、義莫是中理否」の説明。理と義とは同じことではない。名義をはっきりと理解することが重要である。
【通釈】
「又問云々」。ここの語は道体の名義である。名義は道体にあるべきものだが、それを為学で言うのは、名義を明白にすることが直に為学だからである。さて、この問いは悪いものでもないから呵りはしないが、義を「中理」と言っては義と理との綾がわかり難い。既に告子の篇にも「理也義也」と也の字を二つ書いてあり、それを見なさい。理と義とは同じことではない。そこで道体の名義が一大事となる。
【語釈】
・分明…他と区別がついてはっきりしていること。明白なこと。
・理也義也…孟子告子章句上7。「心之所同然者何也。謂理也、義也」。

曰中理云々。中ると云中の字か空に云はれるものでない。事の来たときにあたるあたらぬと云こともある。理に中るは事次第に行くことて、丁どにあたることなり。腫物を見て膏藥をのべるやふなもの。腫物をみすに寸法は定められぬ。中理と云ことは、兼て仕廻てをくことてはない。差し物屋も掛物の寸法を見てから箱をする。兼ていくらも拵て置て、何んにも此箱と云ことはならぬ。そこで商人か御誂向と云も聞へたそ。
【解説】
「曰、中理在事」の説明。理に中るとは事次第に行くことで、丁度の所に中ること。予め用意して置くことではない。
【通釈】
「曰中理云々」。中の字は無闇に言えるものでない。事の来た時に中る、中らないと言うこともある。理に中るとは事次第に行くことで、丁度の所に中ること。腫物を見て膏薬を塗り延ばす様なもの。腫物を見なければ膏薬の寸法を定めることはできない。中理とは、予め用意して仕舞って置くことではない。差物屋も掛物の寸法を見てから箱に入れる。予め沢山箱を拵えて置いて、何にでもその箱で応じようとすることはできない。そこで商人が御誂向と言うのも尤もなことである。

義在心云々。事のないときにはないと思ふことてない。何にもないときにしゃんと心上にあるそ。事の来るこぬのによらぬ。人の性にもってをる。是は是と裁断する、非は非と裁断するものを持てをる。梅の花も咲ぬ前にさく理をもっている。梅の木に櫻の花はさかぬ。偖、中理と云がわるいことではないか、義を知ぬになる。此答などの出るも告子の義外の説から。六ヶしく、用心する。前の形於外非在外と云も告子なくては云にも及はぬこと。どうして告子も似て非なるゆへそ。子ともの弄ひの百足小判なれは法度はないが、本金とみへる故に两替屋さへだまされる。そこで吟味つよくする。在事在心と屹と二つ分けてみせる。爰て告子の義外もよくわかるなり。
【解説】
「義在心」の説明。義は事がなくてもいつも心の上にある。人は性の中に義を持っている。これは告子の義外説に対して言ったことである。告子は似て非なる者だから、用心をしなければならない。「中理在事義在心」と二つに分けてしっかりと理解しなければならない。
【通釈】
「義在心」。事のない時は義がないと思ってはならない。義は事が何にもない時にもしっかりと心の上にある。事が来たか来ないかには関係がない。人は性の中に義を持っている。是は是と裁断し、非は非と裁断するものを持っている。梅の花も咲く前に咲く理を持っている。梅の木に桜の花は咲かない。さて、中理と言うのは悪いことではないが、それでは義を知らないことになる。この答えなどが出るのも告子の義外の説から。難しいことで用心しなければならない。前にあった「形於外非在外」と言うのも、告子がいなくては言うに及ばないこと。それは告子も似て非なる者だからである。子供の弄ぶ百足小判であれば取り締まる必要もないが、純金の様に見える物は両替屋さえ騙される。そこで吟味を強くする。「中理在事義在心」と、しっかりと二つに分けて見せる。ここで告子の義外もよくわかる。
【語釈】
・告子の義外の説…孟子告子章句上4。「告子曰、食色、性也。仁、内也。非外也。義、外也。非内也」。
・形於外非在外…為学7。「義形於外、非在外也」。
・似て非なる…孟子尽心章句下37。「孔子曰、惡似而非者」。
・百足小判…江戸芝金杉正伝寺で配布した小判。正伝寺では初寅の日に参詣者が百足小判を受け、それを財布に入れておくと小遣い銭に不自由しないといわれた。百足→多足→おあし→銭で商売繁盛。
・本金…まぜもののない金。純金。


第六十一 問敬義何別の条

問、敬義何別。曰、敬只是持己之道、義便知有是有非。順理而行、是爲義也。若只守一箇敬、不知集義、却是都無事也。且如欲爲孝、不成只守著一箇孝字。須是知所以爲孝之道、所以侍奉當如何、温清當如何。然後能盡孝道也。
【読み】
問う、敬義は何の別かある、と。曰く、敬は只是れ己を持する道にして、義は便ち是有り非有るを知る。理に順いて行う、是を義と爲す。若し只一箇の敬を守るのみにして、集義を知らずんば、却って是れ都[すべ]て事無きなり。且つ孝を爲さんと欲するが如き、只一箇の孝の字を守著[しゅちゃく]するを成さず。須く是れ孝を爲す所以の道、侍奉する所以は當に如何にすべき、温清は當に如何にすべきかを知るべし。然る後に能く孝道を盡くす、と。
【補足】
この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

敬と義とは学者の工夫て不断とりはなさずすること。どちらもやらずのがさずすること故夾持してとも、内外ともあれは離れぬこと。はなれぬからは同じ様にみゆる。そこで、どふぞすっはりと分かるやふにとの問なり。直方先生の上腮[あご]下腮のよふなものなり、と。車の两輪鳥の两翼なり。あのやふな譬ては疑ないことなれども、どふも人の今工夫になりて、はきと敬義がはからぬものなり。今ては程朱の後に生れて是式のことは合点顔て、此様なことを問ふは手づつの様に思ふがそふでない。能ひ問ぞ。根が工夫をする氣で問たもの。
【解説】
「問、敬義何別」の説明。敬義を直方先生は上顎と下顎の様なものだと言った。敬義はいつも離れないものだから、同じ様に思える。そこでこの質問が出たのであって、よい質問である。
【通釈】
敬と義は学者の工夫であって、いつも離さない様にして行うこと。どちらも何処へも遣らず逃さずにすることだから夾持してとも内外とも言い、離れないこと。離れないのだから同じ様に見える。そこで、どうかすっかりと分けて説明して欲しいとの問いがこれである。直方先生が言った、上顎と下顎の様なもの。車の両輪、鳥の両翼である。その様なたとえで疑いないことなのだが、どうも今の人が工夫する段階になると、敬義の区別がはっきりとしなくなる。程朱の後に生まれ、今ではこれ位のことは合点済みだという顔をして、この様なことを問うのは不調法なことの様に思うが、そうではない。よい質問である。本心から工夫をする気で問うたもの。
【語釈】
・手づつ…拙劣なこと。へたなこと。無器用。不調法。

敬只是持己之道云々。名義を云たもの。名義と云ものは一段々々に別なことに聞くがよい。一度々々に珎らしく聞てなくては、学問はあからぬ。其故に先軰の云ことは珎しからぬこともても聞たひに目の覚たやうに思ふかよい。そう思はぬのは工夫をする氣かなひからぞ。持己之道とは、此方の別条のないやうにすること。丁ど舟に梶のあるやうになり。舟は向へ行くものなれとも、梶や錠かないと十方もない処へ行く。梶や錠て舟に別条なし。敬て己れか別条ない。敬かなけれは向へやろふ々々々と云内に亡てしまふ。小学王勃楊炯等が四傑も身を失ふたは敬かないからなり。心の駒に手綱ゆるすな。りっはな学者の戒になる。代々の天下を失ふも手綱をゆるしたからなり。それゆへ今学者も何ほ雄弁に理屈を云てこわくはないか、敬と云に工夫ある人はこわいものぞ。敬は色香をあらはさず、たまって己を持て有てをる。とかくたまってをる人かこわいもの。此方の六具か備てをるからなり。上手の將碁は初手からがよい。かこいのよいか持己なり。初手から向へ々々と、ばた々々かかりはせぬ。
【解説】
「曰、敬只是持己之道」の説明。名義は、学問が上達する度に新たなものとして思わなければならない。敬とは舟の梶や馬の手綱の様なもの。梶があるから、舟は無事に目的地に着くことができる。心の手綱を許してはならない。
【通釈】
「敬只是持己之道云々」。これは名義を説明したもの。名義というものは段階ごとに別なことと思って聞くのがよい。その度に珍しいこととして聞くのでなければ学問は上達しない。それ故、先輩の言うことは珍しくなさそうでも聞く度に目の覚めた様に思いなさい。その様に思わないのは工夫をする気がないからである。「持己之道」とは、自分に特別なことのない様にすること。丁度舟に梶のある様なもの。舟は向こうへ行くものだが、梶や錠がないと途方もない処へ行く。梶や錠があるから舟に変わったことはない。敬があるから自分に変わったことがない。敬がなければ向こうへ行こうとする内に亡んでしまう。小学に王勃楊炯等の四傑が身を失ったとがあるが、それは敬がないからである。心の駒に手綱を許すな。それは、りっぱな学者の戒めになる。代々、天下を失ったのも手綱を許したからである。そこで今、学者がいくら雄弁に理屈を言っても怖くはないが、敬の工夫のある人は怖いもの。敬は色香を表さず、黙って自分を持っていることで、とかく黙っている人は怖いもの。それは、自分に六具が具わっているからである。上手な者の将棋は初手からよい。その囲いがのよいのが持己である。初手から向こうへと、ばたばた取り掛かったりはしない。
【語釈】
・別条…ほかとかわったこと。普通と異なった事柄。また、とりたてたこと。
・錠…鎖のこと。
・小学…小学外篇善行。「王勃楊烱盧照鄰駱賓王皆有文名謂之四傑。裴行儉曰、士之致遠先器識而後文藝。勃等雖有文才而浮躁淺露、豈享爵祿之器耶。楊子沈靜應得令長、餘得令終爲幸。其後勃溺南海、照鄰投頴水、賓王被誅、烱終盈川令。皆如行儉之言」。
・王勃…初唐の詩人。字は子安。隋末の王通の孫。詩賦に秀で、その詩は品格高尚、辞藻清麗。初唐の四傑の筆頭。647~675
・楊炯…初唐の詩人。四傑の一。則天武后朝の宮廷詩人。650~695頃
・六具…甲冑に付属する六種の武具。

義便知有是有非。上の条の問かあまりわるい問てもないと云も爰で知れるなり。これは斯ふ、あれはああとさばくは義なり。其義も理を知子はさばかれぬもの。そこで知か根になるそ。料理をするにも是は鱠、是は焼きものと云は義てさばくなれとも、それも魚を知ら子ばさばかれぬ。義ばかりて敬がなければ俗儒、義のない敬は異端なり。無星の秤無寸之尺用に立ぬ。
【解説】
「義便知有是有非。順理而行、是爲義也。若只守一箇敬、不知集義、却是都無事也」の説明。義は理の通りに事を捌くこと。そこで知が根本となる。義だけで敬がなければ俗儒、義のない敬は異端である。
【通釈】
「義便知有是有非」。上の条の問いがあまり悪い問いでないということがここでわかる。これはこう、あれはああと捌くのは義で、その義も理を知らなければ捌くことはできない。そこで知が根となる。料理をするにもこれは鱠、これは焼き物と言うのは義で捌いたことだが、魚を知らなければ捌くことはできない。義だけで敬がなければ俗儒、義のない敬は異端である。無星の秤無寸の尺では役に立たない。
【語釈】
・無星の秤無寸之尺…目盛りのない秤や尺のこと。

且如欲為孝。義のない敬も役に立ぬも知れた。敬は心法の工夫で高それたやふなれとも、軽ひことてしるる。先小学の教か敬なり。敬と云はすに敬なり。なれとも義を知ら子ば役に立ぬ。只孝を守着するは南無々々と云やふなもの。孝がよいと云ても、をかんて居ては孝にならぬ。温公の念中字と云たれは、伊川かそれより珠數をくる方かよいとなぐさまれた。
【解説】
「且如欲爲孝、不成只守著一箇孝字」の説明。小学の教え自体が敬である。敬は義を知らなければ役に立たないから、敬を守著するのは悪い。拝むだけでは孝ではない。
【通釈】
「且如欲為孝」。義のない敬が役に立たないこともわかった。敬は心法の工夫で高逸れたことの様だが、簡単なことで知ることができる。それは先ず小学の教えが敬である。敬とは言わないが敬である。しかしながら義を知らなければ役に立たない。ただ孝を守著するのは南無南無と唱える様なもの。孝がよいと言っても、拝んでいては孝にはならない。温公が念中字と言ったことについて、伊川がそれより数珠を繰った方がよいと慰められた。
【語釈】
・守着…守著。離れないように守ること。
・温公…司馬光。北宋の政治家・学者。字は君実。山西夏県の人。司馬温公と略称。文正と諡。1019~1086
・念中字…

爲孝之道云々。小学や孝經の講釈聞くは、孝をする道を聞くのそ。しかたを知子は役にたたぬ。事親奉祭豈可使人為之とあれはとても、親の喰いものは己れか役じゃと心得、不料理てはならぬ。鰹の差身もつかみつぶしては親もくへぬ。然れは料理人をたのむ筈。そこを知所以為孝之道と云。あの病氣に医者よりをれか孝行の一心でと云て匕を取ては以外なり。侍奉はさま々々仕方のあること。靜にしているの好きな親は、少々掃除せすとも靜にするかよい。又掃除すきなら明六つからするがよい。
【解説】
「須是知所以爲孝之道、所以侍奉當如何」の説明。孝をするにも、その方法を知らなければ役に立たない。親の食事も自分で作れないのなら他人に頼むべきであり、親が病気なら医者に頼るべきである。これが孝の道を知るということ。
【通釈】
「爲孝之道云々」。小学や孝経の講釈を聞くのは孝をする道を聞くためである。仕方を知らなければ役に立たない。「事親奉祭豈可使人為之」とあるのだから、親の食い物を作るのは自分の役目だと心得ても、料理ができなければ悪い。鰹の刺身も掴み潰しては親も食えない。そこで、料理人を頼む筈。そこを「知所以為孝之道」と言う。あの病気には医者よりも俺の孝行の一心で治療しようとするのは以の外である。侍奉にも様々な仕方がある。静かにしているのが好きな親には、少々掃除をしなくても静かにして置くのがよい。また、きれい好きなら明六つから掃除をするのがよい。
【語釈】
・事親奉祭豈可使人為之…家道18。「横渠先生嘗曰、事親奉祭、豈可使人爲之」。
・侍奉…親の側にいて身の回りのことをすること。
・明六つ…今の午前6時ごろ。

温清。今夜は巨達に子たいと云こともあり、又月を見たいと云こともある。何てもそれ々々にする。一片にきまったことはない。それは義の持ち前なり。誠じゃの敬じゃのと云ても、事へあらはれぬことて一心でよいと云ても、義がなければ役にたたぬ。隣の親仁は悦ぶことても、此方の親は悦はぬことあり。釘つけにならぬ。隣の仕方を此方へ持てこれられぬ。孝行も敬義の二つてなくてはならぬ。人、敬心もなく誠もなく親の心を悦すことはならぬ。
【解説】
「温清當如何。然後能盡孝道也」の説明。孝の仕方は色々とあって、それは義の領分である。敬義がなければ孝行はできない。
【通釈】
「温清」。今夜は炬燵に寝たいと言うこともあり、また、月を見たいと言うこともある。何でもそれぞれに対応する。一つだけに決まったことではない。それは義の持ち前である。誠だとか敬だとかと言っても、それは事に現われないことだから一心ですればよいと言っても、義がなければ役に立たない。隣の親父が悦ぶことでも、自分の親は悦ばないこともある。それは決まったことではない。隣の仕方を自分の方へ持って来ることはできない。孝行も敬義の二つがなくてはならない。敬心もなく誠もない人が親の心を悦ばすことはできない。
【語釈】
・温清…礼記曲礼上。「冬温而夏清、昏定而晨省」。