第一百 爲學大益の条  十月十一日  文司録
【語釈】
・十月十一日…寛政2年庚戌(1790年)10月11日
・文司…吉野文司。東金押堀の人。

爲學大益、在自求變化氣質。不爾、皆爲人之弊、卒無所發明、不得見聖人之奥。
【読み】
學を爲す大益は、自ら氣質を變化するを求むるに在り。爾[しか]らずんば、皆人の爲にするの弊にして、卒に發明する所無く、聖人の奥を見るを得じ。
【補足】
この条は、横渠の語録にある。

張子一生の発明は氣質の性の発明なり。それか孟子への大ふ忠臣なり。それは道体のことなれとも、道体の筋を分るはかりてなく、道体為学揃たのそ。先爲学は毎日々々さま々々の德を取りて帰ることなれとも、其中ても氣質変化甚の大益なり。偖、学問しても本とのもくあみでは何のやくにたたぬ。是程のついへなことはない。わるいから学問をする。病氣なればこそ藥を呑む。藥を呑でも病氣がなをらぬなれば、是程損なことはない。丁ど毎日居風呂に這入ても、顔に垢がついて何の益にたたぬ。下女がこちの旦那に毎日湯に入りますと云ても、顔は垢だらけなり。こんなついへなことはない。迂斎先生の、爰へ中庸の果能此三者雖愚必明也を引れた。自らと云字をよく見るがよい。師友を頼むことではない。自らでなけれは益にたたぬ。学問は我身を直すことて、いつもかわらぬ悪ひなれは、人のためのついへぞ。直方先生の所謂紺屋の白袴なり。閙しさに白て着る。紺屋は云訳も立ふが、学者は云わけは立ぬ。大学明德は人の為てはない。我為なり。我德を明にして、それから自ら新民なり。明德なしの新民は人の為の弊なり。
【解説】
張子の最大の発明は気質の性の発明である。気質の性は道体のことだが、徳を得るための為学にとってもこれが大益となる。学問をしても気質の変化という進歩がなければ、それは無駄なこと。学問は己のためにするものであって、明徳も自らが行うことにより、自ずと新民となる。
【通釈】
張子の一生の発明は気質の性の発明である。それで孟子への大層な忠臣となる。気質の性の発明は道体のことだが、道体で性の筋を分けるだけではなく、道体と為学とを揃えて言ったものである。先ず為学は毎日様々な徳を取って帰ることだが、その中でも気質変化が甚だ大益となる。さて、学問をしても旧の木阿弥では何の役にも立たない。これほど無駄なことはない。悪いから学問をする。病気だからこそ薬を呑む。薬を呑んでも病気が治らないのなら、これほど損なことはない。丁度毎日居風呂に入っても、顔に垢が付いていては何の益にもならないのと同じ。下女がこちらの旦那は毎日湯に入りますと言っても、顔は垢だらけ。こんなに無駄なことはない。迂斎先生が、ここに中庸の「果能此三者雖愚必明也」を引用された。「自」という字をよく見なさい。師友を頼みとすることではない。自らでなければ益にならない。学問は我が身を直すことで、いつも変わらず悪いままであれば、「為人之弊」である。直方先生の言う紺屋の白袴である。忙し過ぎて白袴を着る。紺屋であれば言い訳もできようが、学者は言い訳が立たない。大学の明徳は人のためではなく、自分のためである。自分の徳を明にすることにより、それで自ずと新民となる。明徳のない新民は為人之弊である。
【語釈】
・張子一生の発明…横渠が性を天地の性と気質の性とに分けたこと。
・果能此三者雖愚必明也…中庸章句20。「果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強」。
・人のためのついへ…論語憲問25。「子曰、古之学者爲己、今之学者爲人」。

卒無所発明。爰のたたりが靣白ひ。それでは学問てない、不身持なと云そふなものをなり。行ふと云はずに無所発明と知へかけたか面白ひ。直方先生の、年よりてをとなしひはごずみのかれたやふなもの。堀の屋根をぬった跡をするして置ても、能くなる氣つかいはない。知へかあれは、年寄ても見苦しいざまはせぬ。知かないゆへ、行かわるい。兎角吾をよいと思ふから氣質変化はならす、東銘の愚にをちる。それなり。徂徠が氣質変化はならぬものと云。そふ云も成程尤なことて、孔子以来垩人はないと出る。斯ふ云はれるとよわい学者は一言も上からぬ。隨分なる証拠がある。徂徠も若ひときは朱子学をして、晩年に成て朱子を譏りた。初手は諼園隨筆てみよ。それか変化して弁道弁明論語徴なり。これて讀て看れは、徂徠が二人の様になる。すれば氣質変化は徂徠にある。わるいくるみ氣質変化したのなり。段々知を研けば今迠の了簡とは違てくる。若ひ者はどふがなして隙を出かして銭をつかふくふうをするか、年寄と少しのひまを憎み、金銭をためる氣になるものそ。凡人も氣質変化なり。是で見れば隨分なることぞ。兎角行は手や足ですれとも、知惠と云つかいてがなくてはならぬ。是れは張子の及ひもなき云やふなり。
【解説】
知がないと行が悪くなる。自分をよいと思えば東銘の愚に落ちる。徂徠が気質変化はできないことだと言ったが、彼自身にも悪いなりに気質変化があった。知を研くことによって気質変化が起こるのであって、行には知という使い手がなければならない。
【通釈】
「卒無所発明」。ここの言い方が面白い。それでは学問でなく、身に得ることはないなどと言いそうなところをこう言った。行うと言わずに、無所発明と知へ掛けたのが面白い。直方先生が、年をとって大人しいのは後炭が涸れた様なものだと言った。堀の屋根を炭で塗った後、それを擂るして置いてもよくなることはない。知恵があれば、年が寄っても見苦しい様はしない。知がないから行が悪い。とかく自分をよいと思うから気質変化は成らないで、東銘の愚に落ちる。その様なこと。徂徠は気質変化はできないと言った。その様に言うのもなるほど尤もなことで、孔子以来聖人はいないと言う。この様に言われると弱い学者は一言も弁駁することができない。しかし、ここに大きな証拠がある。徂徠も若い時は朱子学をして、晩年になって朱子を譏った。初めのことは蘐園随筆で見なさい。それか変化して弁道、弁明、論語徴となる。これを読んで看れば、徂徠が二人の様である。そこで、気質変化が徂徠にある。悪いなりに気質変化をしたのである。段々知を研けば今までの了簡とは違って来る。若い者は何とかして隙を遣り繰りして銭を使う工夫をするが、年寄ると少しの隙をも憎み、金銭を貯める気になるもの。凡人にも気質変化があるのである。これで見れば随分と成ること。とかく行は手や足ですることだが、知恵という使い手がなくてはならない。これは張子の及び様のない言い様なのである。
【語釈】
・ごずみ…後炭。茶道で濃茶がすんで薄茶に移るまでに、再び炭をついで湯が沸き立つようにすること。のちのすみ。
・出かして…しとげる。はたす。うまくやる。

さて、其上にもふ一つある。それで、たわけではてると云ひさうなもの、垩人之奧と出された。只有難とばかり云ては垩人のけたかい処が見へぬ。吾方がくらんでは見へぬ。精出して学問しても、いつも同前なり。氣質を変化して、我方がそろ々々よくなる。垩人の奧、みへてくる。学問のくらむも吾偏見からなり。爰から異端になる。陸象山、王陽明、つまり老仏になる。此等も皆吾が偏見からなり。此条は、氣質変化を大益とかけた処は実にきたいな処なり。
【解説】
知がなければ聖人を見ることはできない。知により気質変化し、自分が次第によくなることで聖人の奥が見えて来る。学問が暗むのは偏見のためである。
【通釈】
さて、この上にもう一つある。戯けで果てると言いそうなところを「聖人之奥」と出された。ただ有難いとばかり言っていては聖人の気高い処が見えない。自分が暗んでいては見えない。精を出して学問をしても、いつも同前である。気質変化して、自分が次第によくなる。そこで聖人の奥が見えて来る。学問が暗むのも自分の偏見からであり、ここから異端になる。陸象山や王陽明になり、終には老仏になる。ここ等も皆自分の偏見からなるのである。この条は、気質変化を大益と掛けた処が実に希代な処なのである。


第百一 文要密察条

文要密察、心要洪放。
【読み】
文は密察ならんことを要し、心は洪放ならんことを要す。
【補足】
この条は、経学理窟二の礼楽の条にある。

文は身上へあらはれた上を云、心は著はれぬ胸の中のことを云。文は論語の夫子之文章の文なり。朱子注に威儀文辞とありて、そこへあらはれて身の振廻しのこと。則中庸に文理密察とある。中庸は知のこと。爰も知の外ではないが、ぎゃうさの上、事をする上へ掛て云。事をする上か一から十迠絹振て振ひ上けたこと。外から啄の入れられることてはない。大ふ細なことそ。察は目で見ることなれとも、こまかあたりを云。あれは靎鷺と見ることてなく、羽の細をも見わけること。論語視観察の察。孟子察秋毫之末も見るの細かあたりのある。をとなしく麁相のない身の振廻しかすっはりと行渡りてをるなり。何程利巧でをとなしくても、細當りのない人は察とは云れぬ。
【解説】
中庸の「文理密察」は知のことだが、ここの文は、事をする上で身に現れたことを言う。心は胸中のことで、身に現れないことだが、事をする上では細かな当たりがなければならず、それが察である。
【通釈】
文は身の上に現れたことを言い、心は身に著われない胸の中のことを言う。文は論語にある「夫子之文章」の文のこと。朱子の注に「威儀文辞」とあり、そこに現れた身の振り回しのこと。また、中庸に「文理密察」とある。中庸の文は知のこと。ここも知の外ではないが、行作の上、事をする上に掛けて言う。事をする上で一から十まで絹篩で篩い上げたこと。それは外から嘴を入れられる様なことではなく、大分細かなこと。察は目で見ることだが、細かな当たりのあることを言う。あれは鶴鷺と見ることではなく、羽の細かなところをも見分けること。論語にある視観察の察。孟子の「察秋毫之末」も細かで当たりのある見方で、大人しく粗相のない身の振り回しがすっかりと行き渡っていること。どれほど利巧で大人しくても、細かな当たりのない人は察とは言えない。
【語釈】
・夫子之文章…論語公冶長13。「子貢曰、夫子之文章、可得而聞也。夫子之言性與天道、不可得而聞也」。
・威儀文辞…論語公冶長13集註。「文章、德之見乎外者、威儀文辭皆是也」。
・文理密察…中庸章句31。「唯天下至聖、爲能聰明睿知、足以有臨也、寛裕温柔、足以有容也、發強剛毅、足以有執也、齊莊中正、足以有敬也、文理密察、足以有別也」。
・ぎゃうさ…行作。行儀作法。ふるまい。おこない。
・視観察…論語為政10。「子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉」。
・察秋毫之末…孟子梁惠章句上7。「曰、有復於王者。曰、吾力足以舉百鈞、而不足以擧一羽。明足以察秋毫之末、而不見輿薪。則王許之乎」。

偖、そふかと云へは、心要洪放。是が殊の外腹中の大いことて、胸へうんと合点することて、知見のことなり。こせ々々と物にうろたゆることなり、或は人を見かぎるやふなことなきを云。大海塵をえらばずなり。偖この書やうか靣白ひ。密察な人は心かかじける。又洪放な人はこまか中りかない。手紙を書せると書散かす。垩賢は、手紙は密察、心はさわやか、两方揃てよい。学者はそれを两掛にするかよい。片々ではならぬそ。
【解説】
「心要洪放」は心の大きいことで、知見のことである。密察な人は心が悴け、洪放な人は細かな当たりがないから、その両方が揃わなくてはならない。
【通釈】
さて、そうかと言えば「心要洪放」。これは殊の外腹中が大きいことで、胸へうんと合点すること。それは知見のことである。こせこせと物に狼狽えたり、或いは人を見限る様なことがないことを言う。大海塵を択ばずである。さて、この書き方が面白い。密察な人は心が悴ける。また、洪放な人は細かな当たりがなく、手紙を書かせると書き散らかす。聖賢は、手紙は密察で心は爽やかであって、その両方が揃うのでよい。学者はそれを両掛けにするのがよい。一方のみでは悪い。
【語釈】
・大海塵をえらばず…大海は芥を択ばず。度量が広くて能く人を容れることのたとえ。
・かじける…悴ける。①やつれる。生気を失う。やせ衰える。②手足がこごえて思うように動かなくなる。かじかむ。

偖、朱子の答寥子晦書に、学者は曽点と顔子を手本にするがよい、と。そふすると、足目共に至るとなり。曽点は目はかりて足か至らぬ。囘は两方揃て其上にあの克己復礼の羽ほふきではくやふな処か密察の処なり。偖、二つの要の字、爲学の爲の字の意とみるかよい。此二つを揃はせふと要するなれば、爲学と云もの。
【解説】
朱子は、学者は曾点と顔子を手本にするのがよいと言った。曾点は知吊りだが、顔子は知行共に揃っているが、特に克己復礼が密察なのである。また、ここの要は為学の為の字と捉えること。
【通釈】
さて、朱子の寥子晦に答うるの書に、学者は曾点と顔子を手本にするのがよいとある。そうすれば、足と目が共に至ると言う。曾点は目ばかりで足が至らない。顔囘は両方揃ってるが、その上にあの克己復礼の羽箒で掃く様な処か密察の処なのである。さて、二つの要の字は、爲学の爲の字の意と見るのがよい。この二つを揃わせようと要するのだから、爲学というものである。


第百二 不知疑者の条

不知疑者、只是不便實作。既實作則須有疑。有不行處是疑也。
【読み】
疑いを知らざるは、只是れ便ち實作せざればなり。既に實作すれば則ち須く疑い有るべし。行われざる處有るは是れ疑いなり。
【補足】
この条は、横渠理窟二の気質の条にある。

学問にはあじなことで疑かなくてはならぬものなれとも、疑と云ものは永逗留はさせられぬ。そこで疑は思問と云て、心に疑かあらば、早く聞て仕廻かよい。然れとも精を出す人でなけれは疑は出ぬもの。たたい疑の出るは学問の上り目なり。中庸に博学愼問云々もここのことで、博く学で疑が出るから審に問ふ。福俵へ行ても、左右に道があるゆへ疑ふ。学問も巨達に這入て道中日記を見る様では疑がない。子ともの道中双六に疑はない。道中すれば疑がある。然るにすらすらと疑はぬ人あり。是は名人藝に見へるが実は作さすなり。大神樂を見るに、疑はないゆへに笑てをるが、近日公義より大神樂をせよと仰付らるると云になりては、笑て見てはいられぬ。実にすれば疑は出る。どうしてあのやふにするやらと、早疑が出る。
【解説】
疑があるのは学問が上がる徴候であって、学問は疑がなければならない。疑は実作によって起こる。その疑は長逗留しないものだから、早く解決することが肝要である。
【通釈】
困ったことに学問には疑がなくてはならないが、疑を長逗留させることはできない。そこで「疑思問」と言って、心に疑があれば、早く聞いて仕舞うのがよい。しかしながら、精を出す人でなければ疑は出ないもの。そもそも疑が出るのは学問の上がり目である。中庸の「博学審問云々」もここのことで、博く学んで疑が出るから審らかに問うのである。福俵へ行くのでも、左右に道があるから疑う。学問も炬燵に入って道中日記を見る様では疑がない。子供の道中双六に疑はない。道中をすれば疑がある。しかし、すらすらと疑わない人がいる。それは名人芸の様に見えるが実作がないのである。大神楽を見るのでも、疑がないから笑っているが、近日公儀より大神楽をせよと仰せ付けられるという段になっては、笑って見てはいられない。実作すれば疑は出る。どうしてあの様にするのかと、早くも疑が出る。
【語釈】
・疑は思問…論語季氏10。「孔子曰、君子有九思。視思明、聽思聰、色思温、貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、見得思義」。
・博学愼問…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道。聖人也。誠之者、擇善而固執之者也。博學之、審問之、愼思之、明辨之、篤行之」。

有不行處。是の行は只の行のことにはかり看るでない。知惠かないから行はれぬ。そこで学友て吟味せ子はゆかぬ。そなたは孝行をばよくするが、根に誠が足らぬ処あるからと云と、そこで疑がはれる。小学の通をやって見ても、どふも親仁の氣に入らぬは是不行なり。誠かないからそうじゃと云へは、是疑なり。某などのくらいに文字もあれは、医者も済む。そこで疑はないなり。処を匕をとると一つはもゆかぬ。不行処と云ものなり。書計りすんても療治はならぬ。儒者の医学はをか目なり。寛喜は早疑が起る。疑は逗留させにくいものなれとも、学問の仲人なり。疑と云よとみを拵へて、其よとみの処からあけることそ。職人も仕てみて、ひょい々々々と出来ぬ細工があるもの。不行なり。そのよとむ処て上る。大工も弟子を仕込に、此屋根の谷どふせふと思ふ。それではとれぬ々々々と云ゆへに疑がをこる。いつも松板をけづるやふては上からぬ。
【解説】
不行は知恵がないからであって、そこで学友が役に立つ。学友によって疑が起こり、また、それが晴れる。
【通釈】
「有不行処」。ここの行は単に行のこととだけ見てはならない。知恵がないから行われないのである。そこで、学友で吟味しなければならない。貴方は孝行をよくするが、根に誠の足りない処があると言われると、そこで疑が晴れる。小学の通りをして見ても、どうも親父に気に入られないのは「是不行」である。誠がないからそうなるのだと言われるのは「是疑」である。私ほどに文字もわかっていれば医者も済むから、そこで疑はない。ところが匙を執れば少しもうまく行かない。それが「不行処」と言うこと。書ばかりが済んでも療治はできない。儒者の医学は傍目である。寛喜であれば直ぐに疑が起こる。疑は逗留させ難いものではあるが、それが学問の仲人なのである。疑という澱みを拵えて、その澱みの処から開いて行く。職人にもしてみて、簡単にできない細工があるもの。それが「不行」である。その澱む処で上達する。大工も弟子を仕込むのに、この屋根の谷はどうすればよいと思うかと尋ねて置いて、それでは駄目だ、うまく行かないと言うから弟子に疑が起こる。いつも松板を削っている様では上達しない。
【語釈】
・学友て吟味…為学23に「朋友講習、更莫如相觀而善工夫多」とある。また、易の兌卦(兌爲澤)に、「象曰、麗澤兌。君子以朋友講習」とある。
・寛喜…


第百三 心大則百物皆通条

心大則百物皆通、心小則百物皆病。
【読み】
心大なれば則ち百物皆通じ、心小なれば則ち百物皆病む。
【補足】
この条は、経学理窟二の気質の条にある。

心と云ものは持次第で色々になる。大くも小くもこち次第て自由自在になる。心となげく我身なりけりで、苦労にもならぬこと迠苦労にす。心小なり。心大と云は、学問の上で云へば弘毅の弘の字。西銘言弘之道はそこなり。定性書も大心章もそれなり。百物云々。物と云ても靎亀松竹と云様なことではない。萬事万物の上を指て百物と云。大学章句は猶事物と云へば、事を込て百物の相手になるものは心なり。物はこち次第て、向からくるものをすら々々とさばいてやる。向は自由になるが、こちの心かわく々々すると、何のこともない廻状にあくんて間違か出来る。田舎の年番の名主ても、心のあいたときはすら々々と点をかけてやる。大心なり。大工が道具箱から色々な道具を出して、丸太は大鋸、四分一は小鋸なり。万物備我、すら々々と埒はあくそ。そこを百物皆通と云。つかへぬなり。
【解説】
心は自分次第で大きくも小さくもなる。「心大」を学問で言えば、「西銘言弘之道」であり、定性書も大心章もこれである。また、百物の相手は心である。「萬物皆備於我矣」で、心がすらすらと万物を捌き、滞らないのが心大である。
【通釈】
心とは持ち様次第で色々になる。大きくなるのも小さくなるのも自分次第で自由自在になる。心と嘆く我身なりけりで、苦労する必要のないことまでをも苦労する。それが「心小」である。「心大」とは、学問の上で言えば弘毅の弘の字。「西銘言弘之道」はそれである。定性書も大心章もそれ。「百物云々」。物と言っても鶴亀松竹という様なことではない。万事万物の上を指して百物と言う。大学章句でも事物と言うのだから、事を込めて百物の相手になるものは心である。物は自分次第のものであって、向こうから来るものをすらすらと捌いてやるのである。向こうは自由に捌くことができるが、こちらの心が定まらないと、何でもない廻状も持て余して間違いができる。田舎の年番の名主でも、心の空いた時はすらすらと指導をしてやる。それが大心である。大工が道具箱から色々な道具を出して、丸太は大鋸で、四分一は小鋸で切る。「万物備我」で、すらすらと埒が明く。そこを「百物皆通」と言う。支えないのである。
【語釈】
・西銘言弘之道…為学48小註の語。
・定性書…為学4を指す。
・大心章…為学83を指す。
・大学章句は猶事物…大学章句1。「物有本末。事有終始。知所先後、則近道矣」。
・年番…一年ごとに交代して執務すること。また、その番に当っている人。
・四分一…室内の貼付壁をとめるために周囲に取り付ける漆塗の細い木。
・万物備我…孟子尽心章句上4。「孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉」。

心小則百物皆病。文字は地頭でみること。遜思邈の小心は大膽をうけてつつしむこと。爰は上への心大のうらて、心が小なれは万事さばけぬこと。向の病まぬもの迠、吾から病ませてこせ々々することそ。瑣細なことに氣を打て病氣を出すぞ。氣をやむものは、角力の太鞁を聞てもあわれになる。それからしては、忰かすきてあったなどと云て啼出す。此方の氣のかじけなり。賑々しいことを聞てもあわれにする。百物病と云ものそ。皆此方の心かそふさせる。直方先生の、下手の將棊の様なものと云へり。飛車角行も下手が指すと桂馬程にも働かぬ。飛車か病と云もの。飛車はそふしたこまではないなり。迂斎先生の、破れた茶碗を押附て見る様なものと云へり。淺間しいことて、此様なことて学問はなるものでない。それに付、瑣細なことても訂斎なとのは違たもの。或時、茶碗なを買て袖の内へ入れて來て、内へ入なから猿戸にあたりみりりと云たれは、ひょいとあとへほをって見向もせなんた。八十のときに京都から花見にこいとて、某か所へ云ておこした。やっはり御手前の心の大な処から出た。こふした元氣なり。爰が活た処なり。
【解説】
心が小さければ万事が捌けず、万事まで病ませることになる。それを、直方は下手の将棋と言い、迂斎は割れた茶碗を合わせる者と言った。訂斎は心大で、心が活きていた。
【通釈】
「心小則百物皆病」。文字はその場に合わせて理解しなさい。遜思邈の小心は大胆を受けて慎むこと。ここは上の心大の逆で、心が小さければ万事が捌けないということ。向こうで病まないものまで、自分から病ませてこせこせすること。些細なことに気を使って病気を出す。気を病む者は角力の太鼓を聞いても哀れになる。それからは、忰が好きだったなどと言って泣き出す。こちらの気が悴けたのである。賑々しいことを聞いても哀れなものにする。それが百物病むと言うもの。皆自分の心がそうさせる。直方先生が、下手な者の将棋の様なものだと言った。飛車角行も下手が指すと桂馬ほどにも働かない。飛車が病むと言うもの。飛車はそうした駒ではない。迂斎先生が、割れた茶碗を押し付けてみる様なものだと言った。浅ましいことで、この様なことで学問は成るものではない。それについて、些細なことでも訂斎などは違っていた。或る時、茶碗か何かを買って袖の内へ入れて来て、家に入る際に猿戸に当たってみしりと音がした。そこで、ひょいと後ろに投げて見向きもしなかった。八十歳の時に京都から花見に来いと私の所へ言って遣した。やはり自分の心の大な処から出たこと。この様な元気、それが活きた処である。
【語釈】
・地頭…当該の場所。現地。
・遜思邈の小心…為学40にこの話がある。遜思邈は隋唐間の京兆の人。朝廷から召されたが仕えなかった。占いや医薬の術に長じていた。
・太鞁…牛窪蔵書では「太皷」とある。
・かじけ…悴く。①やつれる。生気を失う。やせ衰える。②手足がこごえて思うように動かなくなる。かじかむ。
・訂斎…久米訂斎。
・猿戸…庭園の入口などに用いる簡単な作りの木戸。

偖、西銘言弘之道と云も、事天と云も爰て、ありきりの心を一抔に廣けること。小心なれはひろからぬ。旧ひ鰹を買て、何と喰ひやうはあるまいかと云。きたない心なり。皆かじけなり。偖一つ云ことあり。上の洪放の条をうけた此章なり。洪放はどふ大きくすると云心あてを知ふことぞ。大閣の様なを洪放と云ては近思の吟味てはない。爰は道理の通りになると心か大と云もの。洪放も人欲がなくなるゆへに氣がかちけぬ。漢の高祖や唐の大宗を云ては道統にはならぬ。某か近思講釈に前々から氣にさへられぬことと云も爰て、人欲かあると道理の通にゆかぬ。直方先生の、梅干のやふになるなと云へり。
【解説】
この章は洪放の条を受けた章で、道理の通りにすると心大になる。しかし、人欲があると道理の通りに行かない。気に障えられないことが重要なのである。
【通釈】
さて、「西銘言弘之道」も「事天」もこのことで、有る限りの心を一杯に広げること。小心であれば広がらない。古い鰹を買って、何とか喰い方はないだろうかと言うのは汚い心である。皆心が悴けているのである。さて、一つ言うことがある。上の洪放の条を受けたのがこの章である。洪放はどの様に大きくすればよいのかという、その心の当て所を知りなさい。太閤の様なことを洪放と言っては近思の吟味ではない。ここは、道理の通りになると心大になるということ。洪放も人欲がなくなるのだから気が悴げない。漢の高祖や唐の太宗を指して洪放と言っては道統にはならない。私が近思録の講釈に前々から気に障えられないことと言うのもこのことで、人欲があると道理の通りに行かない。直方先生が、梅干の様にはなるなと言った。
【語釈】
・洪放の条…為学101を指す。
・漢の高祖…劉邦。前漢の初代皇帝。高祖。字は季。江蘇沛の人。前247~前195
・唐の大宗…李世民。唐の第二代皇帝。太宗。高祖李淵の次子。598~649


第百四 人雖有功不及学条

人雖有功不及學、心亦不宜忘。心苟不忘、則雖接人事、即是實行、莫非道也。心若忘之、則終身由之、只是俗事。
【読み】
人功有りて學に及ばずと雖も、心亦宜しく忘るべからず。心苟も忘れずんば、則ち人事に接すと雖も、即ち是れ實行にして、道に非ざる莫し。心若し之を忘れなば、則ち身を終うるまで之に由るも、只是れ俗事のみ。
【補足】
この条は、経学理窟三の義理の条にある。

人の身の上はさま々々ある。親元を離れて学挍へついて学問をし、又、大名の儒者なとは只宦に学問もなるか、外の者はさふはゆかぬ。士農工商それそれに事かある。百姓町人面々の業がありて、一盃にはならぬ。すれは閙ヶ鋪身分のものはならぬと云へは、隠居でなふては学問はならぬになる。心又不冝忘。是れが大事なこと。大名の家来ても留守居なとは一ち閙ひものなれとも、それてもなる。土浦の原田源左ェ門、庄内の今泉十兵衛なと、用先からも諸友に會し、原田なと一六にも濱町へ来た。講釈を三座闕けは、此頃は閑断と云。尤闕ぬから見れば閑断なれとも、其より心か闕ると帳靣向きは済ても心の閑断を知らすに居る。麥を蒔ながらも学問はあかる。
【解説】
人の事業は士農工商それぞれにあるが、学問は事業の繁閑に拘らず、誰もができる。事業が忙しいことが問題なのではなく、心に閑断があるかないかが問題なのである。
【通釈】
人の身の上は様々である。親元を離れて学校に入って学問をし、また、大名の儒者などは只管に学問もできるが、外の者は、そうはいかない。士農工商それぞれにすべき事業がある。百姓町人面々の事業があって、一緒ではない。それでは忙しい身分の者は学問ができないと言えば、隠居でなくては学問ができないことになる。「心又不宜忘」。これが大事なところ。大名の家来でも留守居などは一際忙しいものだが、それでも学問が成る。土浦の原田源左ェ門や庄内の今泉十兵衛などは、用先からも諸友に会し、原田などは一六の課会にも濱町へ来た。講釈を三座欠けば、この頃は閑断だと言う。尤も講席を欠かない意味で言えば閑断だが、それよりも、心が欠けると帳面向きは済んでも心の閑断を知らずにいることになる。麦を蒔きながらでも学問は上がる。
【語釈】
・原田源左ェ門…原田敬勝。常陸土浦藩主務。
・今泉十兵衛…
・一六…一六の課会
・濱町…日本橋浜町。黙斎はここで生まれている。

実行云々。実の字を見よ。用向をつとめるを道の外と云て、せふことなしにする様ては益に立ぬ。爰は学問を心てすると云ことを説て、大ふ大切にあつかることそ。只今喪中に重ひ役人は忌御免と云ことかあるて、月代剃て出る。それて服はないと思ふは白徒の悲さなり。学問は、やはり月代そり月番を勤めても忌中なり。用を勤ても心はやはり喪なり。無拠処て、鯛の吸物は一口計は喰ても忌中の妨にはならぬ。心さへ忘れ子ば、精進を落たにはならぬ。先年も爰を心喪の心の字と同じことじゃと讀れた。天下の役人なとは、時によって介借や死罪の檢使にも出ることもある。役なれは仕形ない。それても吾は心喪なり。すれは心次第なり。心喪の邪魔にはならぬ。上下を着て長髪ても、窓から通りの女を見るやふては心喪はみんなになる。彼沢一が紅葉を見ては心喪てないと云た。心の字を云ぬいた。鰺の干物を喰ても心喪の邪魔にはならぬか、庭の牡丹を樂んで見るがわるい。樂みに付は心喪てない。学問は只心にたたりてせよとなり。
【解説】
実行とは、学問を心ですること。喪中でもすべき事がある。その事業をするにしても、心が喪であればよい。鯛の吸物を一口だけ喰っても忌中の妨げにはならない。心喪であることが大事なのである。
【通釈】
「実行云々」。実の字を見なさい。用向きを勤めるのは道の外のことだと言って、仕方なくする様では役に立たない。ここは学問を心でするということを説いてあり、大分大切なところである。只今喪中の重い役人には忌御免ということがあって、月代を剃って出る。それでは服喪でないと思うのは白徒の悲しさである。学問では、やはり月代を剃り、月番を勤めても忌中である。用を勤めても心はやはり喪である。よんどころないことであって、鯛の吸物を一口だけ喰っても忌中の妨げにはならない。心さえ忘れなければ、精進を落としたことにはならない。先年もここを心喪の心の字と同じことだと読んだ。天下の役人などは、時によって介錯や死罪の検使にも出ることがある。それは役だから仕方がない。それでも自分は心喪である。それが心次第ということで、心喪の邪魔にはならない。裃を着て長髪でも、窓から通りの女を見る様では、心喪は台無しになる。あの沢一が紅葉を見ては心喪でないと言った。これは心の字を言い抜いたこと。鰺の干物を喰っても心喪の邪魔にはならないが、庭の牡丹を楽しんで見るのが悪い。楽しみに付くのは心喪でない。学問はただ、心に祟ってすること。
【語釈】
・白徒…訓練しない兵士(漢書鄒陽伝注)。単に素人か?
・沢一…大神沢一。筑前黒田藩士。亡国人。直方門下。迂斎と親しい。貞享元年(1684)~享保10年(1725)

是俗事。上て実行とかけて、爰て俗事とかけたか靣白ひ。伊勢やとのれんを掛ても仏意を得た町人もあり、釈迦の教の通り衣を着ても心を忘れては俗事。女房も持、まげもありて優婆塞あり。白粉をつけ摸様物を着ても優婆夷と云ことある。うろたへた出家よりよい。学問もそれて、月に二度学友に出合ても、実行なもある。学挍へ引越てそれに掛て居ても、実行てないかある。大名の儒者と云へは、学問は家業そ。なれとも請合れぬ。直方先生の弟子、三宅の門人ても大名の儒者役を勤め、或は浪人て教授してをるもあり、それでもたぎらぬかあり。小野﨑舎人の、長谷川観水のと云は佐竹や伊豆公の家老中老なれとも、迂斎や石原先生に並ふ列坐なり。
【解説】
実行でないことが俗事である。学者も色々であって実行のない者もいるが、小野崎舎人や長谷川観水は迂斎や石原先生に並ぶ者である。
【通釈】
「是俗事」。上で実行と掛けて、ここで俗事と掛けたのが面白い。伊勢屋と暖簾を掛けても仏意を得た町人もあり、釈迦の教えの通りに衣を着ても心を忘れては俗事である。女房を持ち、髷もある優婆塞もいる。白粉を付け、模様物を着ても優婆夷ということもある。それは狼狽えた出家よりよい。学問もそれで、月に二度学友に出合っても、実行な者もある。学校に引越して学んでいても、実行でない者がある。大名の儒者と言えば学問は家業である。しかしながら、それは請け合えない。直方先生の弟子や三宅先生の門人でも大名の儒者役を勤める者や、或いは浪人で教授をする者もいる。しかし、その中にも滾らない者がある。小野崎舎人や長谷川観水は佐竹や伊豆公の家老や中老だが、迂斎や石原先生と列座する者である。
【語釈】
・優婆塞…在俗の男子の仏教信者。
・優婆夷…在俗の女性の仏教信者。
・三宅…三宅尚斎。
・小野﨑舎人…本姓大田原。出羽秋田の人。牛島随筆に「小野崎師由、雅量通長」とある。直方晩年の門人。直方の子就正が秋田の佐竹候に仕えたのは、師由の推挙によったとある。
・長谷川観水…長谷川克明。源右衛門。
・佐竹…中世、関東御家人、のち常陸の戦国大名。関ヶ原合戦で西軍に加わり、減封の上、出羽秋田に移された。
・伊豆公…

雖接人事云々。実行と云はそこなり。ひまかないの何のと云ことはうわかはのことなり。田舎の学者共も是で看れば、取立に出ても水ひきに出ても実行かある。見臺の上ても実行のないは俗事なり。これか近思録の玉しいなり。然れば講釈をかかさぬと云俗事かある。用心すへきことなり。書物を一生よんても、唐の俗人になるはなさけなきことなり。
【解説】
心ではなく、形でするのが俗事である。そこで、講釈を欠かさなくても俗事となることがある。用心しなければならない。
【通釈】
「雖接人事云々」。実行というのはこのこと。暇がないの何のと言うのは上辺のこと。田舎の学者達もこれで看れば、取立てに出ても水引に出ても実行がある。見台の上でも実行のないことは俗事である。これが近思録の魂である。そこで、講釈を欠かさないという俗事がある。用心すべきこと。書物を一生読んでも、唐の俗人になるのは情けないことである。
【語釈】
・取立…
・水ひき…


第百五 合内外平物我条

合内外、平物我。此見道之大端。
【読み】
内外を合わせ、物我を平かにす。此に道の大端を見る。
【補足】
この章は、経学理窟三の義理の条にある。

是の一条は丸に見処にみろと迂斎先生云へり。どこまでもみるなれは、合平の二字なり。是が手に入ると、はや学問なり。内は心のこと。外は身のこと。敬義内外の内外なり。大概近思に方々にあるも小学題辞も、易の本義内外と見れば、はづれはない。偖、心と事さの揃た学者かないもの。外向の云分なく行義実事ある学者は、多く形はかりて心の方は埒はない。又、心地一段とかかりて本領へ目のつくものは、外事をなぐる。皆片方つつなり。内の心が外へ出て、内外合平て一つになるてなければ本のものでない。
【解説】
内は心で外は身、敬義内外の内外である。世間の多くは片吊りである。内外合平で一つにならなくては本物ではない。
【通釈】
この一条は丸ごと見処であると捉えなさいと迂斎先生が言った。何処までも見極めるのなら、合平の二字である。これが手に入ると、早くも学問である。内は心のこと。外は身のこと。敬義内外の内外である。近思に色々とあるのも小学題辞も、易の本義の内外と見れば大概外れはない。さて、心と事の揃った学者がいないもの。外向きが言い分もなく行儀実事のある学者は、多くは形ばかりであって、心の方は大したことがない。また、心地一段と心に取り掛かる様な、本領に目の付く者は外事を侮る。皆片方だけである。内の心が外へ出て、内外合平で一つになるのでなければ本物ではない。
【語釈】
・敬義内外…坤卦文言伝。「…直其正也、方其義也。君子敬以直内義以方外。敬義立而德不孤」。為学7でも述べている。

平物我。兎角人我の別があるものぞ。平とは、そこをべったりとしきりなく一つに打ぬくことそ。そこて仁にならるる。これは西銘をよく合点するかよい。西銘は一まいなり。そこを、道を見るの大端と云。さて此大端は、曽点漆雕開見大意の大意と同こと。そこて丸に見処と云もの。爰の処て此二つを合せると、む子上けの済だのぞ。偖、是を行ひ迠出さすとも、先つこふ目を付てをくかよい。こふとくは、西銘の意に見た説なり。偖、物我はこれで済だけれとも、もふ一つ見やふがある。明德新民に見ることもある。我は明德、物は新民。老仏は吾はかりて新民はない。迹で衆生済渡云てまぎらかしても益に立ぬ。覇者は、吾方は盖をして、人の方計りよくしたかる。明德新民两方揃は子ば平てない。此章の文義は前々からもめた故に、斯二説あけてよむが、だたい集解の通がよい。
【解説】
「平物我」には二説ある。一つは西銘の天下一枚の意と見ること。一つは我を明徳、物を新民と捉えることである。
【通釈】
「平物我」。とかく人我の別があるもの。平とは、そこをべったりと仕切りなく一つに打ち抜くこと。そこで仁になることができる。これには西銘をよく合点するのがよい。西銘は天下一つのことを言う。そこを、「見道之大端」と言う。さて、この大端は、「曾点漆雕開見大意」の大意と同じこと。そこで丸ごと見処と言うのである。ここの処でこの二つを合わせると、棟上が済んだことになる。さて、ここは行にまで言及しなくても、先ずこの様に目を付けて置くのがよい。この様に説いたのは、西銘の意で見た説である。さて、物我の説明はこれで済んだが、もう一つ見方がある。それは明徳新民として見ること。我は明徳、物は新民。老仏は自分ばかりで新民はない。後で衆生済度と言って紛らかしても役に立たない。覇者は自分に蓋をして、人の方ばかりをよくしたがる。明徳新民の両方が揃わなければ平でない。この章の文義は前々から揉めているので、この様に二説上げて読んだが、大凡集解の通りがよい。
【語釈】
・曽点漆雕開見大意…為学32。「曾點漆雕開已見大意。故聖人與之」。
・衆生済渡…菩薩が衆生を迷いの苦海から救済して彼岸に度すこと。人々を救って悟りを得させること。


第百六 既学而先云々の条

既學而先有以功業爲意者。於學便相害。既有意、必穿鑿創意作起事端也。德未成而先以功業爲事、是代大匠斲。希不傷手也。
【読み】
既に學べば先ず功業を以て意と爲す者有り。學に於て便ち相害す。既に意有れば、必ず穿鑿創意し事端を作起す。德未だ成らざるに先ず功業を以て事を爲すは、是れ大匠に代わりて斲[き]るなり。手を傷[やぶ]らざること希[すく]なし。
【補足】
この条は、経学理窟三の義理の条にある。

もふ余程こちに覺た上のことて、もはやとくに学問してと云意なり。此頃始めた人のことてない。もふ学者かぶになったもののこと。斯ふ讀子ば迹へ合ぬ。而の字て、相応に書もさばけるか、全く得たてはない。それに先と云先の字かわるいと云ことなり。功業を以為意者。とかく一つ事業をして名をあけよふとかかる。是かよふないことそ。然れとも、学者は新民の業てすましきことてもないか、孟子に人之憂在好為人師と云て人処ではなく、吾方も得ずにあんまりなこと。兎角一つしてみせふと云氣かある。尤この為意と云はむ子の中のことなれとも、さして邪魔にもなるまいけれとも、功業に意かあれは、また来ぬこと迠せんさくするものそ。学問の上には甚た害あることなり。とかく学挍を立てたいなとと云。皆手前の身や心の為にはならぬことなり。小学で云通、浪人儒者は役人のすることを口ばしを入れぬことそ。政をとら子ば、かまわぬがよい。孟子育英材なり。時のことにはかまわぬ。孔子も顔曽を相手に御咄なり。一つしてみせふとは仰せられぬ。
【解説】
ここは、かなり学問が進んだ者に関してのこと。学者には新民という事業があるが、だからと言って、自分自身を立てることもできないのに功業をしようとしてはならない。功業の意があると、先のことまで穿鑿するもので、学問には甚だ害となる。孟子も孔子も功業を求めなかった。
【通釈】
「既学」は、もう余程自分に覚えのある上でのことで、最早とっくりと学問をしたという意である。この頃始めた人のことではない。もう学者が株になった者のこと。この様に読まなければ後に合わない。「而」の字は、相応に書も捌けるが、それでも完全に理解しているのではないということ。それに、「先」という字が悪い。「以功業為意者」。とかく一つ事業をして名を挙げようと取り掛かる。これがよくないこと。それでも、学者は新民の業があるから事業をしてはならないわけでもないが、孟子に「人之患在好為人師」とあるから人どころの話ではない。自分も得ないで事業をするのはあまりなこと。とかく一つしてみせようという気がある。尤も、この「為意」とは胸の中のことであって、さして邪魔にもなるものではないだろうが、功業に意があれば、まだ来ないことまでを穿鑿するもの。それは学問の上で甚だ害のあることである。とかく学校を建てたいなどと言う。それは皆、自分の身や心のためにはならないこと。小学で言う通り、浪人や儒者は役人のすることに嘴を挿まないのがよい。政を執らなければ、構わない方がよい。孟子の「育英才」である。時勢のことには構わない。孔子も顔子や曾子を相手に話をされていた。一つしてみようとは仰せられなかった。
【語釈】
・人之憂在好為人師…孟子離婁章句上23。「孟子曰、人之患、在好爲人師」。
・浪人儒者は役人のすることを口ばしを入れぬ…
・育英材…孟子尽心章句上20。「孟子曰、君子有三樂。而王天下、不與存焉。父母倶存、兄弟無故、一樂也。仰不愧於天、俯不怍於人、二樂也。得天下英才、而教育之、三樂也。君子有三樂。而王天下不與存焉」。

作起事端。事を一つ起さふとして、官もなく役もないか、はや役出合をする氣になる。浪人ても地頭へ用金ても出せば、役人とも掛合をする。其からは、はや此村はこうするがよいと云出す。是か功業が胸の中にあるゆへなり。穿鑿創意はいろ々々のことをもくろむ。三年ほと我々に任せられよと出たがる。いかさま仏者は寺を建立するからは、学者も学挍を立ることの様に思ふが、さふしたことでない。学挍は上からすることそ。足利の学挍も浪人のしたことではない。昔の大学寮と云も禁裡から立させられた。今は萑の森にあとある。上から、学挍の師がないからこいとありても辞退をする筈。むさと出られぬ。それに吾手から学挍立るなとを学者の役のやうに思ふは穿鑿なり。昔年、一学者が大橋の学舎のことを、石原先生のかぶり觸れたもこのあやなり。
【解説】
事業を興そうとするのは胸中に功業の意があるからで、穿鑿創意で色々なことを目論む。そもそも、学校はお上が建てるものであって、自分の手で学校を建てるのは穿鑿なのである。
【通釈】
「作起事端」。事業を一つ興そうとして、官もなく役もないが、早くも役に当たった気になる。浪人でも地頭に御用金でも出せば、役人とも掛け合いをする。それからは早、この村はこうするのがよいと言い出す。これは功業が胸の中にあるからである。「穿鑿創意」は色々なことを目論む。三年ほど我々に任せなさいと出たがる。仏者が寺を建立するのだから、学者も学校を建てなければならない様に思うが、その様なことではない。学校は上がすること。足利の学校も浪人のしたことではない。昔の大学寮と言うものも禁裏が建てられた。今は雀の森にその跡がある。上から、学校の師がいないから来いと言われても辞退をする筈。安易には出られない。そこで、自分の手で学校を建てることなどを学者の役の様に思うのは穿鑿なのである。嘗て或る学者が言った大橋の学舎のことを、石原先生が断ったのもこの綾である。
【語釈】
・大学寮…律令制で、式部省に属する官吏養成機関。はじめ経学・算、のち紀伝・明経・明法・算道の四道を博士・助教らが五位以上の貴族の子弟ほかの学生に教授し、兼ねてこれに関する事務一切をつかさどった。文屋の司。おおつかさ。大学。
・大橋の学舎…
・かぶり觸れた…頭を振る。不承諾あるいは否定の意を示す。

相害。两方の害あるゆへに相と云たもの。平生の日本口の御馳走に相成の相てない。功業を立様とする其心が害て、其魂から垩賢の道の害になる。はやらせやうとする心は学者の害。其はやらせる端的か垩賢の道を安くする。相害のなり。俗学の知らぬことそ。德未成云々。是以下は跡で云ことて、事端をなすは是より前で、張子の意は済だ。是からはもふけものなり。偖、既と云を氣を付よ。余程ものになったと云も爰のことなり。德未成て、まだこっとりと垩賢の道を得たではない。功業かたとへよいにしても出来まい。あぶないと云のぞ。前髪の有る大工童ふが棟梁のまねをしてけづる。大ふあふないことそ。代大匠云々。老子なり。東北のくせまいも済ず、道成寺はならぬ。
【解説】
功業を立てようとすれば心が害され、また、それが聖賢の道の害になるので「相害」と言う。学者の害であり、聖賢の道の害なのである。徳も成っていないのに功業を建てようとするのは危ない。
【通釈】
「相害」。両方に害があるから相と行ったのである。日頃、日本で言う御馳走に相成るの相ではない。功業を立てようとするその心が害で、その魂が聖賢の道の害になる。流行らせようとする心は学者の害。その流行らせる端的が聖賢の道を安くする。相害するのである。これは俗学の知らないこと。「徳未成云々」。これ以降は付け足しで、「作起事端」までで張子の意は済んでいる。これからは儲け話である。さて、「既」という字に気を付けなさい。余程ものになったと言うのもここのこと。徳未成で、まだすっかりと聖賢の道を得たのではないと言う。それでは功業がたとえよいものであったとしてもできないだろう。危ないと言っているのである。前髪のある大工の童が棟梁の真似をして削る。それはかなり危ないこと。「代大匠云々」。老子のこと。東北の曲舞も済まずに道成寺はできない。
【語釈】
・前髪…①童男または婦人の額上の毛を別に束ねたもの。ぬかがみ。ひたいがみ。向髪。②元服以前の童男の称。
・東北…能の一。
・くせまい…曲舞。日本中世芸能の一。また、その演者。南北朝時代から室町時代にかけて行われた。叙事的な詞章を鼓に合せて歌い、舞うもの。


第百七 竊嘗病の条

竊嘗病、孔孟既沒、諸儒囂然、不知反約窮源、勇於苟作、持不逮之資、而急知後世。明者一覽、如見肺肝然。多見其不知量也。方且創艾其弊、默養吾誠。顧所患日力不足而未果他爲也。
【読み】
竊かに嘗て病う、孔孟既に沒し、諸儒囂然[ごうぜん]たるも、約に反り源を窮むるを知らず、苟も作るに勇み、逮[およ]ばざる資を持ちて、後世に知らるるに急なるを。明者一覽せば、肺肝を見るが如く然り。多[まさ]に其の量を知らざるを見る。方に且く其の弊を創艾[そうがい]し、吾が誠を默養せん。顧[かえ]って患うる所は日力足らずして未だ他爲を果たさざることなり。
【補足】
この章は、張子全書の拾遺にある。

幷へやふも靣白ひ。張子は上の條にある通り、学者のことを氣の毒に思ふて顔をしかめる。前条は学者を戒たこと。爰は我方てなけく意なり。某か冬至文の跋も爰の二條の意で書た。兎角学者はいらざる深切を出すかよふない。あまり親切すぎると近道を拵るになる。それでは垩賢の道を小さくするになるそ。丁と先祖から讓れた田地を切賣にするやふなもの。段々小くなる。近来上總の学問のそろ々々わるくなるも、彼親切から近道をやらふとする故なり。そこを、爰らの年季野良や小野良迠すすめるは親切なことではない。取持手も賣るためにはよかろふが、孔孟のためには甚た科なり。道之不行命也。行はれずんば、それでよい。はやる様にとて、孔孟まげやらふとはされぬ。張子は孔孟の道の小さくなるを大ふ患ふ。去年今年の不作を患るは只の患ひ。張子の患はそふしたことではない。孔子有心哉撃磬乎。孟子の有不豫色。其迹て、張子の恐なからと云て、竊嘗病ひた。某なとが云たら似合ぬことをと云であろふぞ。張子の此語が、孔孟へのりこむほどでなくては云れぬことなり。
【解説】
「竊嘗病」の説明。この条は、孔孟の道が小さくなることを患えること。とかく学者は不要な親切をしてはならず、そうすると、道を小さくすることになる。「道之不行命也」であり、道を行おうとして、それを小さくしてはならない。
【通釈】
並べ方が面白い。張子は上の条にある通り、学者のことを気の毒に思って顔を顰める。前条は学者を戒めたこと。ここはこちらで嘆く意である。私が冬至文に載せた跋もここの二條の意で書いた。とかく学者は不要な親切をするのがよくない。あまり親切過ぎると近道を拵えることになる。それでは聖賢の道を小さくすることになる。丁度、先祖から譲られた田地を切売りする様なもの。段々小さくなる。近来、上総の学問が段々と悪くなるのも、その親切から近道をしようとするからである。そんな時に、ここら辺の年季野郎や小野郎にまで学問を勧めるのは親切なことではない。取次も田地を売るためにはよいだろうが、孔孟のためには甚だ咎となる。「道之不行命也」。行われないのなら、それはそれでよい。流行る様にと言って、孔孟を枉げようとはされない。張子は孔孟の道が小さくなることを大層患えた。去年今年の不作を患うのはただの患い。張子の患いはその様なことではない。孔子の「有心哉撃磬乎」。孟子の「有不豫色」。その後で、張子が恐れながらと言って、「竊嘗病」と出した。私などが言ったら似合わないことを言うと言われるだろう。張子のこの語は、孔孟へ乗り込むほどでなくては言えない語である。
【語釈】
・道之不行命也…論語憲問38。「子曰、道之將行也與、命也。道之將廢也與、命也」。
・孔子有心哉撃磬乎…論語憲問42。「子撃磬於衞。有荷蕢而過孔氏之門者。曰、有心哉撃磬乎。既而曰、鄙哉硜硜乎。莫己知也、斯已而已矣。深則厲、淺則掲。子曰、果哉。末之難矣」。
・有不豫色…孟子公孫丑章句下13。「孟子去齊。充虞路問曰、夫子若有不豫色然。…如欲平治天下、當今之世、舍我其誰也。吾何爲不豫哉」。

囂然。かまひすしと訓す。口をきくことなり。漢唐絶学と云も爰等で見へる。学問を心でするものがない。張子の、漢唐の訓詁の注や疏が耳やかましくて何やらうるさいなり。不知反約究源云々。書經の惟精惟一なり。これか約なり。とこの水にも源があり、其水上のつかまへ処を云。垩賢になるには約と云をつかまへて、垩賢と云水上へ行くことなり。水上を知ら子ば学問はならぬぞ。勇於苟作は漢唐の経術皆事業なり。それを今、徂徠が魏の何晏が註を有難がるか、あれは朱子を悪むためのつかまへ処なり。人をそしるにも、つかまへ処かなくてはそしられぬなれとも、何晏か人抦を知らぬ。靣に白粉をぬっていやみな人であったそうな。それがどふして孔子の道を得やふそ。心を得ずに注をすれば、主の心しらぬ用人が取次やふなもの。古注じゃとて喜ぶは、丁ど下手な茶人が古ひものと云と有難がるやふなもの。古椀は役にたたぬて知るべし。王弼が易の注もやはり苟作なり。なぜなれば、垩人の易を老荘て説たはにか々々しいことなり。
【解説】
「孔孟既沒、諸儒囂然、不知反約窮源、勇於苟作、持不逮之資」の説明。学問は心でするもの。漢唐の学にはそれがない。反約究源は惟精惟一のことで、源を知ること。漢唐の学は事業である。徂徠は何晏を評価するが、何晏自体は孔子を心で理解していない。王弼も同じである。
【通釈】
「囂然」。かまびすしと訓じる。口をきくこと。漢唐絶学と言うのもここ等でわかる。学問を心でする者がいない。張子が、漢唐の訓詁の注や疏が耳喧しくて何やら煩いと言う。「不知反約究源云々」。書経の「惟精惟一」である。これが約である。何処の水にも源があり、その水源の捉まえ処を言う。聖賢になるには約を捉まえて、聖賢という水源へ行くことである。水源を知らなければ学問は成らない。「勇於苟作」。漢唐の経術は皆事業である。今、徂徠が魏の何晏の註を有難がるが、それは朱子を憎むための捉まえ処である。人を譏るにも捉まえ処がなくては譏ることはできないが、徂徠は何晏の人柄を知らない。顔に白粉を塗って嫌味な人だったそうだ。それでどうして孔子の道を得ることができるだろうか。心を得ずに注をするのであれば主の心を知らない用人が取次ぐ様なもの。古注だと言って喜ぶのは、丁度下手な茶人が古い物と言えば有難がる様なもの。古椀は役に立たないことで知りなさい。王弼の易の注もやはり苟作である。それは何故かと言えば、聖人の易を老荘で説いたのは苦々しいことだからである。
【語釈】
・惟精惟一…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
・何晏…三国の魏の学者。字は平叔。魏の公主を娶り、侍中尚書。清談を好んでその風が流行。のち曹爽らと司馬懿の排斥を謀って殺された。詩文をよくし「論語集解」の著がある。~249
・用人…江戸時代、大名・旗本の家で、家老の次に位し、庶務・会計などに当った職。
・王弼…三国の魏の儒者。字は輔嗣。老荘の学にも通じ、文辞に堪能。漢儒の易註を排撃、「周易注」を撰し、また「老子注」を著す。226~249

急知後世。漢唐の間の学者は子夏子游の様でないぞ。名をあげたいの、人にほめられたいのと云のなり。神社の繪馬堂に七歳書と額をあける様なもの。筆道のためにはならぬ。某か講釈にすると人を悪く云のなり。張子には其様なことはない。竊病の二字を見よ。明者に出合ぬ内は、夜は明ぬと云ことぞ。黄勉斎か朱子の行状の終に何もかかすに、百年論定と書たが面白ひ。理屈はあちで云へばこちでも云ゆへに限りはないが、明者か見るとはきと分る。
【解説】
「而急知後世。明者」の説明。漢唐の学者は、名を挙げたいとか人に褒められたいという思いがあった。また、理屈は色々と言えるが、明者が見ればはっきりとする。
【通釈】
「急知後世」。漢唐の間の学者は子夏や子游の様な者ではない。名を挙げたいとか人に褒められたいと思った。神社の絵馬堂に七歳書と額を挙げる様なもの。それでは筆道のためにはならない。私が講釈で酷く人を悪く言うが、張子にはその様なことはない。「竊病」の二字を見なさい。「明者」に出合わない内は夜は明けないということ。黄勉斎が朱子の行状の終りに何も書かず、「百年論定」と書いたのが面白い。理屈はあちらで言えばこちらでも言うから限りないが、明者が見ると、はっきりとわかる。
【語釈】
・黄勉斎…名は幹。字は直卿。1152~1221
・百年論定…

一覧如見肺肝然。叔孫武叔譏仲尼。子貢のきいて、一寸一口にかたつけられた。貴さまはあんまりなことしゃとなり。仁斎が朱子のことを深く考へぬと云たを、淺見先生の、朱子の処の小丁稚も笑ふであろふと云へり。不知量なり。方且。張子の時分迠は周子二程もあり、未た学問の方がつかなんだ。そこで世に行はれぬ。宋ても世間はやはり漢唐のやふであった。其弊をと出て、黙養吾誠と反したものなり。爰へ黙養の出たは、某が毎々中庸の未発の吟味も工夫へ片足かけぬ内は知れぬと云か爰なり。孔孟の学も、む子が誠になら子ばほんには知れぬ。此弊へともをこらして、吾胷を誠の処へつめたら、又仕方も有ふと云のなり。顧所患日力不足。をしひかな、をれも年がよった。をれが一生のことにはならぬ。
【解説】
「一覽、如見肺肝然。多見其不知量也。方且創艾其弊、默養吾誠。顧所患日力不足」の説明。叔孫武叔も仁斎も不知量である。張子のいた頃は周子や二程もいたが、いまだ学問の方向が定まらず、世に道が行われなかった。それは漢唐と同じだった。心が誠にならなければ本当には知ることができない。
【通釈】
「一覧如見肺肝然」。「叔孫武叔譏仲尼」。これを子貢が聞いて、一寸一口に片付けられた。貴様の言うことはあまりなことだと言った。仁斎が朱子を深く考えない人だと言ったのを、浅見先生が、朱子の処の小丁稚でも仁斎を笑うことだろうと言った。それが「不知量」である。「方且」。張子の時分までは周子や二程もいたが、いまだ学問の方向が決まらなかった。そこで世に道が行われなかった。宋でも世間はやはり漢唐の様だった。「其弊」と出して、「黙養吾誠」と反した。ここに黙養が出たのも、私がいつも中庸の未発の吟味も工夫へ片足を掛けない内はわからないと言うのと同じである。孔孟の学も、胸が誠にならなければ本当には知ることができない。この弊を懲らして自分の胸を誠の処へ詰めたら、また仕方もあるだろうと言うのである。「顧所患日力不足」。惜しいことで、俺も年をとった。俺の一生の内では、学を成すことはできないということ。
【語釈】
・叔孫武叔譏仲尼…論語子張24。「叔孫武叔毀仲尼。子貢曰、無以爲也。仲尼不可毀也。他人之賢者丘陵也。猶可踰也。仲尼日月也。無得而踰焉。人雖欲自絶、其何傷於日月乎。多見其不知量也」。
・創艾…刈り取る。治める。

未果他爲。をれは出来もせふが、人はゆくまい。是迠を竊病のなかに入てみるべし。朱子集て大成と云は孔子へついた字なれとも、周茂叔二程から張子の患なり。其跡を朱子て大成したなり。そこて、今の学者は朱子を目當にして、朱子の学問をやせらかさぬやふにするかよし。何とか云假名の板行ものを見れは、心と云ものは孔孟で得ても、仏老で得ても、神道で得ても、得手からは同ことじゃと云学者もある。さて々々十方もないことぞ。今日は、創艾其弊のことは朱子で大成したゆへ、朱子学を守がよし。上總ても義丹や庄内は形をくずさぬが手柄なり。直方と迂斎の通を守た。程子答程允夫書考證古垩所傳門庭建立此宗旨相与守之と云ことを大切にすへし。宗旨の門庭を守りて新らしひことをせぬがよいと云ことなり。某が冬至文の跋も是なけきあるゆへなり。
【解説】
「而未果他爲也」の説明。周茂叔二程や張子が患えたことをその後に朱子が大成したので、「朱子集大成」と言う。心を得るには孔孟でも仏老でも神道でもよいと言う者がいるが、朱子が大成したのだから、朱子学で得るのがよい。そして、宗旨の門庭を守って新しいことはしないのがよいのである。
【通釈】
「未果他爲」。俺はできもするだろうが、他人はできないだろう。ここまでを「竊病」の中に入れて見なさい。「朱子集大成」と言うのは、本来は孔子に対して言った語だが、周茂叔二程から張子までが患えて、その後に朱子が大成したからこの様に言うのである。そこで、今の学者は朱子を目当てにして、朱子の学問を痩せらせない様にするのがよい。何とか言う仮名の印刷本を見ると、心というものは孔孟で得ても、仏老で得ても、神道で得ても、得る者にとっては同じことだとあり、その様に言う学者がいる。それは本当に途方もないこと。今日では、「創艾其弊」のことを朱子が大成したのだから、朱子学を守るのがよい。上総でも義丹や庄内は形を崩さないのが手柄である。直方と迂斎の通りを守った。「程子答程允夫書考證古聖所伝門庭建立此宗旨相与守之」を大切にしなさい。宗旨の門庭を守って新しいことはしないのがよいということ。私が冬至文に跋を載せたのも、この嘆きがあるからである。
【語釈】
・集て大成…孟子萬章章句下1。「孟子曰、伯夷、聖之清者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也。孔子之謂集大成」。
・義丹…和田義丹。下総酒々井の人。医を業とする。酒井修敬に見出されて鈴木庄内と共に迂斎に師事。上総道学の草分け。成東の安井武兵衛方に食客として住む。元禄7年(1694)~寛保4年(1744)、51歳にて没。
・庄内…鈴木養察。上総姫島村の人。俗称庄内。上総八子の一人。酒井修敬に見出されて和田義丹と共に迂斎に師事。上総道学の草分け。元禄8年(1695)~安永8年(1779)、85歳にて没。
・程子答程允夫書考證古垩所傳門庭建立此宗旨相与守之…程子程允夫に答うるの書(に曰く)、古聖の傳える所の門庭を考證し、此の宗旨を建立して、相与[とも]に之を守る?


第百八 学未至而云々条

學未至而好語變者、必知終有患。蓋變不可輕議。若驟然語變、則知操術已不正。
【読み】
學未だ至らずして好んで變を語る者は、必ず終に患え有るを知る。蓋し變は輕議す可からず。若し驟然として變を語らば、則ち術を操ること已[はなは]だ正しからざるを知る。
【補足】
この条は、経学理窟三の義理の条にある。

学問の至る至らぬと云はためしにくひことなれとも、朱子以降はずんとためしよい。集註章句或問精義語類文集、あれを熟せば学問の位づけか知るる。只今上總などでは学問の至るを頭のはげたを至りたやうに思ふが、曽子の一貫の傳は三十位のときであろふ。何ても人の口もとに付て心が替り、新しひ書を見て、是も一理、あれも一理あると云て、大ふ根のきまらぬ内は学問の至らぬと云もの。本と老荘ても一理ないことは云はぬ筈。其れを聞たびに靣白がるやふなは、我定見なし。そこを至らぬと云。爰は学問の根の丈夫なことを至ると云。行義にとんぢゃくはない。眼目て云ことそ。古筆見が、是はどふ見ても弘法の筆でないと云。老荘の咄を聞ても、いや々々垩聖賢の道はさうしたことてないと云なれは定見そ。大梅か馬祖の処て悟道したは即心即佛なり。其後年過て、馬祖の方から来たものが、馬祖も今では非心非佛じゃと云たれば、大梅が、さもあらばあれ。他是非心非佛、吾只管即心即佛と云た。いこう丈夫なことなり。講後先生云。或人直方先生へ見へて、養子の御義論は今に昔の通りで御坐りますかと云ふたそ。諸生大笑したとなり。
【解説】
「學未至而好語變者、必知終有患。蓋變不可輕議」の説明。朱子が色々な書を作ったから、朱子以降は学問がし易くなった。しかし、学問が至るためには定見を持たなければならず、そうでなければいつまでも上達しない。大梅は丈夫に定見を持っていた。
【通釈】
学問の至るか至らないかということは試し難いことではあるが、朱子以降は随分と試しよい。集註、章句、或問、精義、語類や文集を熟知すれば、学問の位付けがわかる。只今の上総などでは学問の至ることを頭の禿げたことの様に思うが、曾子の一貫の伝は三十歳位の時のものだっただろう。何でも人の口元に影響されて心が変わり、新しい書を見ては、これも一理、あれも一理あると言う。その様に全く根の決まらない内は学問が至らないというもの。実際、老荘でも一理ないことは言わない筈。それを聞く度に面白がる様では自分に定見がないのである。そこを至らないと言う。ここでは学問の根が丈夫なことを至ると言う。行儀には関係がない。眼目で言うこと。古筆見が、これはどう見ても弘法の筆ではないと言う。老荘の話を聞いても、いやいや聖賢の道はそうしたことではないと言うのであれば定見である。大梅が馬祖の処で悟った道は即心即仏である。その後年が過ぎて、馬祖のところから来た者が、馬祖も今では非心非仏だと言うと、大梅は、そうであればそうでよい、馬祖は非心非仏、私は只管即心即仏だと言った。大層丈夫なことである。講後先生が言った。或る人が直方先生に見えて、養子の御議論は今も昔の通りでございますかと言った。諸生が大笑いしたそうである。
【語釈】
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎。吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。
・大梅…大梅法常。天台山中の大梅山の庵に居して修行を重ねた。馬祖の弟子。752~839
・馬祖…馬祖道一。中国唐代の禅宗の一派、洪州宗の派祖。四川省の人。六祖慧能の弟子南岳懐譲に師事。「即心即仏」「平常心是道」などの句を残す。大寂禅師。709~788

今の学者は丈夫にない。定見なく、とき々々にかわる。其至らぬ内に変を語るは身代不相応そ。常と云ことを知ぬいて、変をも語ることそ。是の好むと云か大のくせ者なり。何ても不相応がわるい。迂斎の、乳呑子を蕎麥切振廻にやるやうなもの。まだあるへいさへもあふないのに、丁ど當時日用の道具もないに、茶の湯道具を買やふなもの。百姓か農具も持ずに掛物を求める様なもの。若ひ學者とも、孝悌忠信小学も済ずに湯武の放伐を聞たがる。十方もないことなり。萑にまりなり。
【解説】
今の学者は定見がないにも拘らず、変を語りたがる。それは途方もないことである。常を知り抜いてから、変は語るものである。
【通釈】
今の学者は丈夫でない。定見なく、時によって心が変わる。その様に至らない内から変を語るのは身代不相応である。常を知り抜いてから、変をも語るのである。ここの「好」という字が大きな曲者である。何でも不相応が悪い。迂斎が、乳飲み子を蕎麦切振舞いに遣る様なものと言った。まだある弊さえも危ないのに他をする。丁度それは当時日用の道具もなくて茶の湯道具を買う様なもの。百姓が農具も持たずに掛物を求める様なもの。若い学者共も孝悌忠信や小学も済まないのに湯武の放伐を聞きたがる。それは途方もないことで、雀に鞠である。

若驟然。吾器用にまかせ、はら々々と往く。驟然は馬のかけ出すもよふなり。夕立を驟雨と云ふも催しなしにくる。下地なしに急に高ひことを云。垩人は文行忠信詩書執礼不語恠力乱神罕言利与命とあるのも、めったなものの聞せにくいあやあるゆへなり。垩賢人を教る次第の動ぬ処かある。其れを飛こせは、心の正しくないにをつるは知れたことそ。ここでこそ若林が、放伐を尤と云ふ其人は何に付ても心元なしと云へり。此章はそこを云ことなり。但し、この哥を以て湯武にさび矢を射かけるは以の外の間違ひなり。垩人の心も知らずに只放伐を好むは埒もないこと。只の学者の喰れるものてない。そこで湯王があたまて断てをかれた。後世以我爲口實と云て釘の裏をかへして置たに、孟子のときに、あの巾着切のやふな戦國て、湯放桀武王伐紂有りや諸と問ふはいやなことなり。周をかたむけやうとする下心なり。孟子未聞君弑也と脇の方へ釘を打てをかれたなり。亦運而已とは、こなたの身代かつぶれやうと云た。終有患ことなり。
【解説】
「若驟然語變、則知操術已不正」の説明。基本もできていないのに高いことを言うのは悪い。聖人は口を慎んだ。宣王が孟子に「湯放桀武王伐紂有諸」と質問したのも「学未至而好語変」である。宣王に孟子が「亦運而已」と言ったのも、貴方の身代が潰れるだろうという意味で、「終有患」のことである。
【通釈】
「若驟然」。自分の器用さに任せて、ぱらぱらと往く。驟然は馬の駆け出す様子である。夕立を驟雨と言うのも前触れなしに来るからである。下地がないのに、急に高いことを言う。聖人に「文行忠信」「詩書執礼」「不語怪力乱神」「罕言利与命」とあるのも、滅多矢鱈な者には聞かせ難い綾があるからである。聖賢には人を教えるのに不動の次第がある。それを飛び越せば、心の正しくないところに落ちるのは知れたこと。それでこそ、若林が、放伐を尤もと言うその人は何に付けても心元なしと言ったのである。この章はそこを言っているのである。但し、この歌から湯武に錆矢を射掛けるのは以の外の間違いである。聖人の心も知らずにただ放伐を好むのは埒もないこと。ただの学者のわかることではない。そこで湯王が最初に断って置かれた。「後世以我爲口実」と言って釘の裏を反して置いたが、孟子の時代に、あの巾着切の様な戦国で、「湯放桀武王伐紂有諸」と問うのは厭なこと。そこには周を傾けようとする下心がある。孟子が「未聞君弑也」と脇の方へ釘を打って置かれた。孟子が宣王に「亦運而已」と言ったのも、貴方の身代が潰れるだろうという意味で、「終有患」のことである。
【語釈】
・文行忠信…論語述而24。「子以四敎、文・行・忠・信」。
・詩書執礼…論語述而17。「子所雅言、詩・書。執禮、皆雅言也」。
・不語恠力乱神…論語述而20。「子不語、怪・力・亂・神」。
・罕言利与命…論語子罕1。「子罕言利。與命與仁」。
・若林…若林強斎。
・後世以我爲口實…書経仲虺之誥。「成湯放桀于南巣。惟有慚德、曰、予恐來世、以台爲口實」。
・湯放桀武王伐紂有りや諸…孟子梁惠王章句下8。「齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂、有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弑其君、可乎。曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之殘。殘賊之人、謂之一夫。聞誅一夫紂矣、未聞弑君也」。
・亦運而已…孟子梁惠王章句下10。「取之而燕民悅、則取之。古之人有行之者。武王是也。取之而燕民不悅、則勿取。古之人有行之者。文王是也。以萬乘之國、伐萬乘之國。箪食壷漿以迎王師、豈有他哉、避水火也。如水益深、如火益熱、亦運而已矣」。

偖、変の字にもふ一つ見やふあり。妖怪のこと。幽霊の邪、鬼神のことて、ふしぎなことのある中、あれは天地の氣の変なり。造化鬼神のことか済めば何のことはないが、そふないものは惑になる。迂斎の咄に、むかし上州の前橋で茄子を植たれば、皆鷄頭になりたと云。初心な学者が惑ふことなり。心に落着かない内は、少し変たことかあると、なぜそふか々々々々々と云ものなり。後にはすむことなり。程子も朱子も、変な咄になると別に説話ありと云へり。此を切帋傳授と云やふに心得ることてはない。実は別に説話もなきことなり。其人によって云やふがあるの、これは別に説話ありとのばしてをく内に、其人の学問が上ると、其別の説話もつい再び聞ずに疑ははれることなり。学問もすむときはすめる。闕疑と云はぬるいやふなれとも、生れたものはやかて成長つと云てよいなり。小児のそだつは、いつの間にやらそだつ。学問もいつの間にやらと云塲があるのに、先つ変を語るが好なれば、くるいが出て來るなり。此頃も江戸より堯舜の氣は清明、それになせ丹朱商均生れたと聞ほしたがるはこまるなり。不可輕議とは爰なり。
【解説】
変は妖怪とする見方がある。妖怪とは天地の気の変化である。造化鬼神を理解することができれば、妖怪は何でもないが、初学の者は惑う。しかし、学問は徐々に成長し、いつの間にか上達するのであって、軽々しく議論をしてはならない。
【通釈】
さて、変の字にはもう一つの見方がある。それは妖怪のこと。幽霊の邪、鬼神のことで、不思議なことがあるが、これは天地の気の変なのである。造化鬼神のことが済めばそれは何ということもないが、そうでない者には惑いになる。迂斎の話に、昔上州の前橋で茄子を植えたら皆鶏頭になったとある。初心な学者が惑う話である。心に落ち着きがない内は、少し変ったことがあると何故そうなるのかと思うものである。しかし、後にはわかること。程子も朱子も、変な話になると別に説話有りと言った。ここを切紙伝授の様に心得てはならない。実は別に説話もないのだが、聞く人によって話し方があるのである。これは別に説話があると話を伸ばして置いて、その間にその人の学問が上がれば説話を再び聞かなくても疑いが晴れることになるからである。学問も済む時は済む。「闕疑」と言うのは緩やかな様だが、生まれたものは徐々に成長するからよいのである。小児が育つのは、いつの間にやらである。学問もいつの間にやらという場があるのに、先ず変を語るのが好きであれば、狂いが出て来る。この頃も江戸より堯舜の気は清明なのに、何故丹朱や商均が生まれたのかと聞きたがるのは困ったことである。「不可軽議」とはこのこと。
【語釈】
・切帋傳授…室町時代以後、歌道・神道その他で、切紙に記した免許目録を弟子に伝授すること。
・闕疑…読論語孟子法。「句句而求之、晝誦而味之、中夜而思之、平其心、易其氣、闕其疑、則聖人之意可見矣」。
・丹朱商均…堯の子が丹朱、舜の子が商均。


第百九 凡事蔽盖の条

凡事蔽蓋不見底、只是不求益。有人不肯言其道義所得所至、不得見底、又非於吾言無所不説。
【読み】
凡そ事の蔽蓋せられて見れざる底[もの]は、只是れ益を求めざればなり。人有りて肯て其の道義の得る所至る所を言わずして、見るを得ざる底は、又吾が言に於て説ばざる所無きに非ず。
【補足】
この条は、経学理窟三の義理の条にある。

惣体、何ことにつけても上から蓋たをしてかくすにはこまる。斯でござると云て蓋を取て見せればよいに、どふて御坐ると問へば、はい々々と云てをる。其れではをためになるまいと云ふに、未たたまってをる。此方はかまいはないが、先きの人が益を得まい。是等はこまったものぞ。病人も容体書を丁寧にするて医者も療治がなる。隠しては医者もこまる。食傷しても、今日何を喰て中りたと云とよいに、其喰た品をかくすは蔽盖なり。食腹の藥も喰ものによって違ふ。手引草を見れば、蕎麥には大根種、蟹には紫蘇、木の子には塩鰺のぶり々々かよいと云てある。然ればかくさず云かよい。どのやふな名医ても、食腹と知ても、腹中にある物迠は知れぬ。垩賢もあいつ得知れぬやつと、知ても云は子ば心根迠は知れぬ。是れもつまる処、東銘へ落るか面白ひ。
【解説】
「凡事蔽蓋不見底、只是不求益」の説明。食傷では、何を食ったのかを知らなくては、医者が治療できない様に、心の内を語らなければ学問の段階がわからない。それは本人のためにはならない。
【通釈】
総体、何事につけても上から蓋をして隠すのは困ったこと。こうでございますと言って蓋を取って見せればよいのに、どうでございますかと問えば、はいはいと言うだけ。それではおためにならないだろうと言っても、依然として黙っている。それでもこちらは構わないが、本人は益を得ることができないだろう。これ等は困ったことである。病人も容体書を丁寧に書くので医者も療治ができる。隠しては医者も困る。食傷をしても、今日何を喰って中ったと言えばよいのに、その喰った品を隠すのは「蔽蓋」である。食傷の薬も喰った物によって違う。手引草を見れば、蕎麦には大根種、蟹には紫蘇、茸には塩鰺のぶりぶりがよいとある。それなら隠さないのがよい。どの様な名医でも、食傷と知っても腹中にある物まではわからない。聖賢であっても、あいつはよく知れない者だと思う。知っていても言わなければ心根まではわからない。これも結局、東銘へ落ちるのが面白い。
【語釈】
・容体書…病状を記したかきつけ。

火事も早く屋根へぬければ、あたりからもはや欠付て消しよいか、縁の下で廣がる火事は證文箱迠焼くものなり。偖、人事には隠すこともあるなれとも、一物ありて隠すは悪心なり。又生れついて隠すものかある。是は洪範に沈潜剛克すとありて、たとへは昨日は何処へ往たと問へは、いやちと々々と云。跡で聞けば女房の里へ行たさうな。いなことを隠すぞ。私もなくても沈潜の生れ付なり。是らは学友の心得のあるべきことぞ。沈潜なるは剛克とあらく出るかよい。こなたは大ふたわけじゃと出るがよい。くよ々々する処へ重ひ藥をやるとなつむゆへに、輕ひ藥をやってさらりとするやうにする。そふなひと果しもないものなり。
【解説】
目に見える火事は早くわかって消し易いが、縁の下からの火事はわかり難い。一物があって隠すのは悪心からだが、私欲がなくて隠すこともある。その様な沈潜には剛克で対処するのがよい。
【通釈】
火事も早く屋根へ抜ければ、辺りからも早駆け付けて消し易いが、縁の下で広がる火事は證文箱まで焼き尽くすもの。さて、人事には隠すこともあるが、一物があって隠すのは悪心である。また、生まれ付きで隠す者がいる。洪範に「沈潜剛克」とあって、例えば昨日は何処へ往ったのかと問えば、いやちょっとと言う。後で聞けば女房の里へ行ったそうだ。変なことを隠すぞ。これが、私欲はなくても沈潜の生まれ付きからである。ここ等は学友にとって心得て置くべきところである。沈潜なことは剛克と荒くするのがよい。貴方は大戯けだと言うのがよい。くよくよする処へ重い薬をやるとうまく行かないから、軽い薬をやってさらりとする様にする。そうしないと途方もなくなる。
【語釈】
・沈潜剛克…書経洪範。「三德。一曰正直、二曰剛克、三曰柔克。平康正直、彊弗友剛克、燮友柔克。沈潛剛克、高明柔克」。

有人不肯言其道義云々。是からは先生株の上にあることぞ。吾も先生と思ふて弟子もあるゆへに、たまって居の、体のしれぬやふにもてなし、実大にみせかける。某抔のやふに口をきくものは垩賢の戒らるることなれとも、包ぬだけ悪ひ処かしるる。椽の下てもへてはいぬ。肴が喰ひたい、酒が呑たいと云て、学問のたけも知るる。あの温順な迂斎の口から、人欲は人欲とつき出して見へるてよいと云も蔽蓋不見を悪むなり。老僧の、柄香爈を持て何れも竒特に参詣なとむっくりとしたれは釋迦のやふに見へるが、何知れぬ。延平などは晩年に朱子を得て、劇論をしてよい々々と云た。今の学者、師匠ぶって手前のたけの知れぬやふにたまって居るから、一生封を切ずに果る。学問は死迠軍をする了簡てなけれはならぬ。程朱は一生あがろふ々々々々としたぞ。
【解説】
「有人不肯言其道義所得所至、不得見底、又非於吾言無所不説」の説明。先生と言われる者には、人に知られない様にして黙り、自分を実大に見せようとする者がいる。しかし、温順な迂斎でも、人欲は人欲として突き出して見えるのがよいと言って、「蔽蓋不見」を憎んだ。延平も朱子と激論をして励んだ。
【通釈】
「有人不肯言其道義云々」。ここからは先生という者の上にあること。自分も先生だと思い、弟子もあるから黙っていようとか、自分の丈を知られない様に対応して自分を実大に見せかける。私などの様に話す者は聖賢に戒められるべきものだが、包まないだけ悪い処が知れる。縁の下で燃えてはいない。肴が喰いたい、酒が呑みたいと言うが、それで学問の程度も知れる。あの温順な迂斎の口から、人欲は人欲として突き出して見えるのがよいと出たのも、「蔽蓋不見」を憎むこと。老僧が、柄香爐を持って何れも奇特に参詣などを静かにすれば釈迦の様に見えるが、それはどうだか知れない。延平などは晩年に朱子を得て、激論をしてよかったと言った。今の学者は師匠振って自分の丈が知られない様に黙っているから、一生封を切らずに果てる。学問は死ぬまで軍をする了簡でなければならない。程朱は一生上達しようとした。
【語釈】
・柄香爈…柄香爐。縁に長柄をつけた捧持用の香炉。
・延平…李延平。

偖、この章は三つに切れる。上の不求益迠を一段、有人より不得見底迠一段、又からが一段なり。偖、此所不語。此語は孔子の語で、顔を大ふほめたことそ。孔子の顔子を得て、をらが弟子の顔淵は何もかもをれと同腹中て胷をあけて咄すゆへすら々々なり。孔子侭是明快顔子侭豈弟とあり。此出合なり。明快の相手に豈弟なり。順風に帆をあけたやふで、すら々々ずんと氣散なことそ。此所不説なり。偖此章、大ふ学者の戒になることなり。とかくに蔽盖して、内證を打あけ子は藥はもられぬ。直方先生の鞭策録の開巻は山皈来を呑むやふなもの。若ひときの下疳の餘毒をふき出すがよい。医者は輕く云とも、病人は重く云がよい。貴様は雨湿と仰せられても、此方に瘡毒の覺へがあると、我わるいことをまけ出せばよし。学問は道中するやふなもの。向へ進むことなり。此合点なれば道中になる。巨燵に這入て居る様ては、益は得られぬ。偖、爲学も少とになったから強く云かよい。致知になるとはや一篇々々になるゆへ細身になる。さへた語も重ひ語もあれとも、説が細くなる。爲学は一寸したこと迠か全体にあつかるゆへ強くよむへし。
【解説】
「無所不説」は孔子の語である。孔子と顔淵は心が同じで、胸を開いて話した。学者はとかく蔽蓋をするが、心の内を打ち明けなければ薬を盛ることはできない。
【通釈】
さて、この章は三つに分けられる。上の「不求益」までを一段、「有人」より「不得見底」までを一段、「又」からが一段である。さて、この「所不説」は孔子の語で、顔子を大層褒めたこと。孔子が顔子を得て、俺の弟子の顔淵は何もかもが俺と同腹中で、胸を開けて話すからすらすらとしていると言った。「孔子侭是明快顔子侭豈弟」とある。それがこの出合いである。明快の相手に豈弟である。それは順風に帆を上げた様で、すらすらとして全く気散じなことである。これが「無所不説」である。さて、この章は大分学者の戒めになること。とかく蔽蓋をするが、内證を打ち明けなければ薬を盛ることはできない。直方先生の鞭策録の開巻は山帰来を呑む様なもの。若い時の下疳の余毒を噴き出すのがよい。医者は軽く言うのがよいとしても、病人は重く言うのがよい。貴様は雨湿だと仰せられても、自分に瘡毒の覚えがあれば、自分の悪いところを撒き出せばよい。学問は道中をする様なもので、向こうへ進むこと。この合点があれば道中になる。炬燵に入っている様では、益は得られない。さて、為学もあと僅かになったが、ここは強く言うのがよい。致知の篇になると最早一篇づつになるから細身になる。冴えた語も重い語もあるが、説が細くなる。為学は一寸したことまでが全体に関与するものだから、強く読まなければならない。
【語釈】
・孔子の語…論語先進3。「子曰、囘也非助我者也。於吾言無所不説」。
・孔子侭是明快顔子侭豈弟…聖賢2。「孔子儘是明快人、顏子儘豈弟、孟子儘雄辯」。
・山皈来…ユリ科の多年生蔓性低木。根は生薬で土茯苓・山帰来といい梅毒の薬とする。
・下疳[げかん]…陰部に生ずる伝染性潰瘍。梅毒や軟性下疳など性病の際みられる。
・瘡毒…梅毒。かさ。


第百十 耳目役於外の条

耳目役於外、攬外事者、其實是自惰、不肯自治、只言短長、不能反躬者也。
【読み】
耳目外に役せられて、外事を攬[と]る者は、其の實は是れ自ら惰りて、肯て自ら治めず、只短長を言うのみにして、躬に反ること能わざる者なり。
【補足】
この章は、経学理窟三の義理の条にある。

此章は、たては二つに云なれとも、心の病は一つ処へ落る。直方先生の、耳目は心へ附て置くものじゃと云れた。心と云旦那か耳目を聞合せにやって、見たこと聞たことを旦那へ申上る。すれば耳目は心次第、心のために働くものなるに、外役す。心はらりになる。わきの旦那へ行て奉公するやふなものそ。耳目は心から禄を取て居て、外物の使者にあるく筈はなし。今日奉公人か何の守の家来と云はば、耳目も我等は心の家来と云筈のことに、其れに外と云は、百姓の家来か作をばせずに萬年葛籠やたどんを作らせるやふなもの。皆外物の働きをさせるなり。耳目は聰明と云て、堺町や上るりを聞くために天からくだされはせぬ。手があるゆへ盗み、足があるゆへ悪所へ行くが、本と此手て盗め、この足で嶋原かよいせよと天は命せられぬ。皆、つかい処が違ふ。心と云神君へ事ることなり。
【解説】
「耳目役於外」の説明。耳目の主は心であって、外物に使われてはならない。外物に使われると心が台無しになる。
【通釈】
この章は、耳目の二つで言っているが、心の病は一箇所に落ちる。直方先生が、耳目は心へ付けて置くものだと言われた。心という旦那が耳目を問い合わせに遣って、見たことや聞いたことを旦那へ申し上げる。それなら耳目は心次第で心のために働くものなのに、外役をする。それでは心が台無しになる。それは隣の旦那のところに行って奉公をする様なもの。耳目は心から禄を貰っているのであって、外物の使者として歩く筈はない。今日奉公人が何の守の家来と言うのだから、耳目も我等は心の家来だと言う筈なのに、それで外と言うのは、家来の百姓に耕作をさせないで万年葛籠や炭団を作らせる様なもの。皆外物の働きをさせることになる。耳目は聡明と言って、堺町や浄瑠璃を聞くために天から下されたのではない。手があるから盗み、足があるから悪所へ行くが、本来、この手で盗め、この足で島原通いをしなさいと天は命ぜられない。皆、使われ処が違う。心という神君へ事るのである。

攬外事。爲学の内に且省外事ともあり、又警戒に周羅事とある。皆心と身のこと。迂斎、学問は心と身のためより外はないと云へり。其れに益にならぬは外事なり。其實云々。外事かさして悪事てもないゆへ、其実は堕と云吟味が掛る。又、公義から御咎めが掛る様なことならばあたまでわるし。其実とは云はぬ。外事もせ子ばならぬか、外事を攬ると云人は自ら地獄へ落るそ。攬ると云は、ものにかかりにうけこむの筋そ。世間からは頼母しくも思ふが、張子の、それはもふ役に立ぬとなり。又、外事には當然もあり、人の誉にもあつかることもあるが、志は大なしになるそ。自堕はもふゆかぬと云ことぞ。是が外事をとる内から落るが見へる。何ほどつじつまが合ふても、心の中が合はぬゆへに肌は合せられぬ。道学の咄はならぬ。其実自堕てをるなり。
【解説】
「攬外事者、其實是自惰」の説明。学問は心と身のためだけにある。外事を攬る者は志が台無しになっているので、それと一緒にいることはできない。
【通釈】
「攬外事」。為学の中に「且省外事」ともあり、また、警戒に「周羅事」ともある。皆心と身のこと。迂斎が、学問は心と身のためより外はないと言った。そこで、益にならないのは外事である。「其実云々」。外事は大した悪事でもないので、「其実惰」という吟味が掛かる。公儀から御咎めが掛かる様なことであれば最初から悪い。それを其実とは言わない。外事もしなければならないが、外事を攬る人は自ら地獄へ落ちる。攬るとは、ものに掛かって受け込む筋のこと。世間からは頼もしくも思われるが、張子は、それではもう役に立たないと言う。また、外事には当然なこともあり、人の誉れに与ることもあるが、志は台無しになる。「自惰」はもう駄目だということ。ここで外事を攬る内から落ちるのが見える。何ほど辻褄が合っていても、心の中が合わないので一緒にはいられない。それでは道学の話はできない。「其実自惰」でいる。
【語釈】
・且省外事…為学19の語。
・周羅事…警戒23の語。「…周羅事者、先有周事之端在心。皆病也」。

不肯自治云々。前見ず将棊で、むしょうに王手々々と云て向へ出る。兎角人の世話はかりして長短を義論する。この長短は甚吟味のあることて、論語の公冶長の巻頭に論古今人物是挌物之一端とあるなれとも、手前の方は盖をして、人計云ふて以の外なり。答程允夫書に宗派と云ことありて、誰々か宗旨を得たと書たと見へる。よくないことなり。隨分学問もあるものの為ることても、よふないことになる。子貢程ても、孔子の我は不暇と云て、人の評判をするひまはないと仰せられた。とかく人の方へ計目がつくものそ。
【解説】
「不肯自治、只言短長」の説明。人物を論じるのは格物の一端とは言うが、自分の方は蓋をして、人のことばかりを言うのは以の外である。
【通釈】
「不肯自治云々」。前見ず将棋で、無性に王手と出る。とかく人の世話ばかりをして長短を議論する。この長短は甚だ吟味すべきことで、論語の公冶長の巻頭に「論古今人物是格物之一端」とあるが、自分の方は蓋をして、人のことばかりを言うのは以の外である。程允夫に答うるの書に宗派のことが書いてあるが、誰かが宗旨を得たと程允夫が言った様である。それはよくないこと。随分学問もある者のすることでも、「言短長」ではよくないことになる。子貢ほどの者に対しても、孔子は「夫我則不暇」と言って、人の評判をする様な暇はないと仰せられた。とかく人の方へばかり目が付くもの。
【語釈】
・論古今人物是挌物之一端…論語公冶長巻頭。「此篇皆論古今人物賢否得失、蓋格物窮理之一端也」。
・程允夫…
・孔子の我は不暇…論語憲問31。「子貢方人。子曰、賜也賢乎哉。夫我則不暇」。

不能反躬者也。身に反ら子は人のためそ。それゆへ実に学ふ人は学問も身代相応にうまみと靣白みがつくものなり。そふすると、外事は取らぬもの。白徒ても誹諧か上手になる。味噌や薪の身上にも搆はぬものそ。歌舞伎役者さへ茶湯か靣白くなると、靣へ白粉をぬることはいやになる。外事と云内は靣白みはない。鉄釼利俳優拙て、長短を云も、手前の長短を知ぬゆへ。人のことをしわひ々々々と云も、我しわひに氣がつくと、人のしわいは云わぬものそ。何ことも理へ根さして甘みのつくてなければ為学の爲の字でないなり。最初に此章は二たはなて、心の病の処は一つにをつと云も、我肝心の心の方へこぬ病なり。外事も言長短も皆向ふのこと。此方の丁塲てはなきなり。
【解説】
「不能反躬者也」の説明。実に学ぶ人には身代相応に甘味と面白みが付く。それで外事に使われなくなる。外事や言長短は向こうのことで、自分のことではない。
【通釈】
「不能反躬者也」。身に反らなければ人の為となる。そこで、実に学ぶ人は、学問も身代相応に甘味と面白みが付くもの。そうすると、外事は取らなくなる。白徒でも俳諧が上手になれば、味噌や薪の貧乏な身上にも構わなくなる。歌舞伎役者でさえ、茶湯が面白くなると顔に白粉を塗ることが嫌になる。外事と言う内は面白味はない。「鉄釼利俳優拙」で、長短を言うのも自分の長短を知らないからである。人のことを吝いと言うのも、自分が吝いことに気が付くと人を吝いとは言わないもの。何事も理に根差して甘味が付くのでなければ為学の為の字ではない。最初にこの章は耳目の二つで、心の病と言う処は一つに落ちると言うのも、自分の肝心な心の方へ来ない病だからである。外事も言長短も皆向こうのこと。こちらの帳場のことではない。
【語釈】
・鉄釼利俳優拙…「鉄剣利則倡優拙」。
・はな…組の意。


第百十一 末条

學者大不宜志小氣輕。志小則易足、易足則無由進。気輕則以未知爲已知、未學爲已學。
【読み】
學者は大いに宜しく志小さく氣輕かるべからず。志小さければ則ち足り易く、足り易ければ則ち由って進むこと無し。気輕ければ則ち未だ知らざるを以て已に知れりと爲し、未だ學ばざるを已に學べりと爲す。
【補足】
この章は、経学理窟四の学大原下の条にある。

学者大不宜と云字、甚よろしふない、以ての外じゃと云ことそ。こんなことも実に学問する氣ならは、張子の声をかけたを、何かわるいと目を子むりて一つ心へたたって看るかよい。そふして其以の外わるいは何なれば、志小氣輕云々。学問に目當の少さいがわるいぞ。垩賢なとと云ことはもったいない、及もないことしゃ、年貢さへ済せばよいの、行義かよい、法度通りを守る、勘當もされ子は大概それてよいのと云は、白徒はずいぶんよいか、学者か只の人に似たことはかりては、中々近思へは出されぬ。あの朱子へさび矢をいかける陽明や仁斎はわるけれとも、吾らしきよりはよい、才德ともによいと云。いなことにいんぎんを出すを、をとなしみを云。尤聞へはよけれとも、志小ゆへなり。程子道学以道爲志謂人則以垩為志とあり、其裏釘を打たか張子の此語なり。巻軸にしたものぞ。
【解説】
「學者大不宜志小氣輕」の説明。以の外だと張子が言ったのは「志小氣輕」のことである。学問は目当てが小さいことが悪い。それで、巻末にこれを出した。
【通釈】
「学者大不宜」とは、甚だよろしくない、以の外ということ。こんなことも本当に学問をする気であれば、張子が声を掛けたことについて、何が悪いことなのかと目を瞑って一つ心へ祟って看るのがよい。そして、その以の外悪いものは何かと言うと、「志小氣輕云々」である。学問は目当てが小さいのが悪い。聖賢などということは勿体無い、及びもないことだ、年貢さえ済ませばよい、行儀よく法度通りを守り、勘当もされなければ大概それでよいなどと言うのは、白徒には随分とよいが、学者が只の人に似たことばかりしていては近思へは中々出すことはできない。あの朱子へ錆矢を射掛ける陽明や仁斎は悪いが、我々如き者よりはよい、才徳共によいと言う。変なことに慇懃になったりして、大人振ったことを言う。尤もそれは聞こえはよいが、志小である。「程子道学以道為志謂人則以聖為志」とあり、その裏釘を打ったのが張子のこの語である。そこでこれを巻軸に入れたのである。
【語釈】
・程子道学以道爲志謂人則以聖為志…為学59の語。「言學便以道爲志、言人便以聖爲志」。
・巻軸…巻物の終りの、軸に近い所。一巻の末尾。

氣輕云々。全体がむざうさに心得てをるのなり。もと学問はあの山越てこの山こへて、千難萬苦を中々でもない、せつないものなり。早合点早呑込み。学問を手もなくなることと心得て、安請合にするそ。易足と云は米屋の丁稚にも大小がありて、早く黑紗綾の帯をしめたいと云は志小なり。そこて易足なり。大な町人にはなられぬ。又、番頭にもなろふ、旦那ほどにもなろふと思ふやつは、前髪のときからの靣玉しいが違。学者も本朝孝子傳や今泉五良右ェ門で足ると思ふ様なは役にたたぬ。
【解説】
「志小則易足、易足則無由進」の説明。学問は難しいものなのに、それを安易に心得る。そこで、大成することができない。大成する者は最初から志が違う。
【通釈】
「気軽云々」。全体的に無造作に心得ているのである。本来、学問はあの山越えてこの山越えてで、千難万苦があって中々切ないもの。これは早合点や早呑込みのこと。学問を簡単に成ることだと心得て、安請合いをする。「易足」は、米屋の丁稚にも大小があって、早く黒紗綾の帯を締めたいと言うのは志小である。そこで易足である。大きな町人になることはできない。また、番頭にもなろう、旦那ほどにもなろうと思う奴は、童の時からの面魂が違う。学者も本朝孝子伝や今泉五郎右ェ門で足りると思う様な者は役に立たない。
【語釈】
・本朝孝子傳…
・今泉五良右ェ門…

以未知云々。偖、最初の氣輕と云ことか爰へ落る。是らは張子の此語でなければ中々知られぬこと。氣輕と云ことかこの様なこととは、凡慮の及ぬことなり。垩賢の書には次第階級ある。学而の学而時習之は誰もかも済た顔してをる。知に多少般の数ありて、論孟の文義で済だと思ふ。心元なし。直方先生の、今の学者か四書はすみたと云と爰て云へり。成程、俗学に貴様は四書の御吟味はと云へは、四書は早と云が、との様なかはやが知ず。さて々々覺束なし。どふして四書がすもふぞ。程子の十七八より論語を讀て、七十はかりて漸々此ころになって意味の深長を覚ふと云へり。四十年来掛りて集註が出来て、死る三日前に誠意の章句を直されたと云程のことなり。程朱は氣が輕くはないなり。それに、今の学者が四書は済だから洪範を聞たいと云が、洪範は済でも四書は済むまい。藝者は却て其を知るそ。茶湯も、こい茶より薄茶が六ヶしいと云。傳授ことは済ても、毎日々々のことがいかぬと云が茶の名人。心に覺のある処なり。これも氣輕くない処そ。
【解説】
「気輕則以未知爲已知」の説明。俗学の様に気が軽ければ、直ぐに四書などは理解していると言うが、それは当てにならない。朱子は四十余年を掛けて集註を著し、死ぬまでこれに掛かった。それが済むということである。
【通釈】
「以未知云々」。さて、最初の気軽がここへ落ちる。ここ等は張子のこの語でなければ中々わからないこと。気軽とはこの様なことだとは、凡慮の及ばないところである。聖賢の書には次第階級がある。学而の「学而時習之」は誰もかもが済んだ顔をしている。「知有多少般数」で、論語や孟子の文義が済んだと思うが、それは心許ない。直方先生が、今の学者が四書は済んだと言うとここで言った。なるほど、俗学の者に貴様は四書の御吟味はどうかと問えば、四書は早済んだと言うが、どの様に済んだのか、その早と言うのが当てにならず、実に覚束ないこと。どうして四書が済むものか。程子は十七八より論語を読み、七十歳頃に、漸くこの頃になって意味の深長を覚えたと言った。朱子の様に、四十年来取り掛かって集註ができて、死ぬ三日前に誠意の章句を直されたと言うほどのことが、四書が済むということである。程朱は気が軽くない。それに、今の学者が四書は済んだから洪範を聞きたいと言うが、洪範は済んでも四書は済まないだろう。芸者は却ってそれを知っている。茶の湯でも、濃い茶より薄茶が難しいと言う。伝授事は済んでも、毎日のことがうまく行かないと言うのが茶の名人。それが心に覚えのある処である。これも気軽くない処である。
【語釈】
・知に多少般の数あり…致知8。「知有多少般數、煞有深淺」。
・学而時習之…論語学而1の語。

未学爲已学。此章も、とど東銘に落る。我をよいと思て上はすべりのするが愚かなり。是を前へかへして、竊嘗病の条へふりむいて看るかよい。爲学の末に見道大端迠に本或を幷へて功業為意以下に段々学者の差ふ処を戒て、志小氣輕に落した。朱子の編次、さて々々思召あることなり。されともこの条の巻軸になりたはどふと云は、めったに見へぬこと。されば爲学の一牧目に伊尹顔淵大賢也とあるにて合点すべし。開巻と巻末と、さて々々炤應することなり。志伊尹之所志と云なれば、志小てない。学顔子之所学と云なれば、氣輕でない。すれば為学一篇垩学の要領は一寸掛られることでない。学以至垩人之道也と云も、そもや々々志氣小輕では伺れぬことなり。これ、道学の規模と云ものなり。
【解説】
「未學爲已學」の説明。この章は東銘の意である。自分をよいと思うところが愚である。為学の構成は、学問の形を105条までで言い、106条からは学者への戒めを言い、最後にこの章へ落す。しかし、この章の意は、為学初条に通じたものなのである。
【通釈】
「未学爲已学」。この章も、結局は東銘に落ちる。自分をよいと思って上滑りするのが愚である。ここを前に返して、「竊嘗病」の条へ振り向いて看るのがよい。為学の末の「見道大端」までで学問本来の形を並べ、「功業為意」以下に段々と学者が違う処を戒めて、「志小気軽」に落とした。朱子の編次には思召しが実にある。しかしながら、この条が巻軸になったのは何故かと言うことは滅多にわからないこと。そこで、為学の最初に「伊尹顔淵大賢也」とあることで合点しなさい。開巻と巻末とが実に照応している。「志伊尹之所志」と言うのだから、志小ではない。「学顔子之所学」と言うのだから、気軽ではない。そこで、為学一篇聖学の要領は一寸取り掛かることのできるものではなく、「学以至聖人之道也」というのも、そもそも士気小軽では窺うことはできないのである。これが道学の規模なのである。
【語釈】
・竊嘗病…為学107の語。
・見道大端…為学105の語。
・本或…牛窪蔵書には「本式」とある。
・功業為意…為学106の語。
・伊尹顔淵大賢也…為学1の語。
・志伊尹之所志…為学1の語。
・学顔子之所学…為学1の語。
・学以至垩人之道也…為学3の語。
・そもや々々…そもやそも。一体全体。