近思録巻之十三筆記
異端凡十四條  亥四月廿一日  惟秀録
【語釈】
・亥四月廿一日…寛政3年辛亥(1791年)4月21日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

近思録の編集が教学警戒迠にすっはり仕上けが出來た。それてよさそふなものに、末に異端と云部の出たは、これが衰世の書と云ものぞ。異端は三代の盛な時にはない。孔子の時にははや攻異端者害而已矣とある。さて用心をするははっきりと見せてをか子ばならぬ。直方の所謂歒の顔を見覚ると云様なもの。見覚子ばそこに居ても討つことはならぬ。異端ははっきりと見覚るがよい。堯舜三代は上に道が明で異端はない。迂斎の昼中妖物の出ぬ様なものと云はれた。はけものはしょぼ々々々雨の夜に出る。垩人の出ぬ透間を子ろふて異端が皃を出す。はきと弁ぜぬと踈学なものが此方と伍格の様に思ふ。又氣の廣いとみせて、何にこちの搆にならぬことと云てすててをく学者もある。これが皆間違なり。無ひ筈のものの出來たを伍格とは云れぬ。又氣つかいはないと思ふもまちがいなり。堯舜の精一の訓も允執其中ためぞ。心へたたみこむこと。其心へのりを付ることが堯舜から傳りたこと。中庸の傳授の心法ものりを出すことなり。それへ水をさすものが異端なり。
【解説】
三代の世は道が明だったので異端はいなかったが、孔子の時には既にいた。異端は心に乗りを出すところで水を差すから弁じなければならない。それで、異端がこちらと互角と見るのも、それを放って置くのも間違いなのである。
【通釈】
近思録の編集は、教学と警戒までですっかりと仕上げができたのだからそれでよさそうなものを、末に異端という部が出たのは、これが衰世の書というものだからである。異端は三代の盛んな時にはない。孔子の時には既に「攻異端者害而已矣」とある。さて、用心するものをはっきりと見せて置かなければならない。直方の言う、敵の顔を見覚えるという様なもの。見覚えなければそこにいても討つことはできない。異端ははっきりと見覚えるのがよい。堯舜三代は上に道が明で異端はいない。迂斎が、昼中妖物の出ない様なものと言われた。化物はしょぼしょぼと雨降る夜に出る。聖人の出ない隙間を狙って異端が顔を出す。はっきりと弁じないと疎学な者がこちらと互角の様に思う。また気が広いと見せて、何こちらには関係のないことと言って捨てて置く学者もいる。これが皆間違いである。無い筈のものができたのを互角とは言えない。また、気遣いはないと思うのも間違いである。堯舜の「精一」の訓も「允執其中」のためである。心へ畳み込むこと。その心へ乗りを付けることが堯舜から伝わったこと。中庸の伝授の心法も乗りを出すこと。それへ水を差す者が異端である。
【語釈】
・攻異端者害而已矣…論語為政16。「子曰、攻乎異端、斯害也已」。
・精一…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。

朱子が停り不得と云れた。垩賢の田地をあらす。どの様な横着ものでも吾畠へ猪の出たにすててをけと云ものはない。それは吾任じゃからのこと。学者が異端をそれほど思はぬは任ぜぬからぞ。任じたものは苦労になる。迂斎が疫病のはやる様なものと云れた。それを苦にせ子ば忠臣孝子ではなし。流行れば君父も疫病をやむなれば苦労にならぬとは云れぬ。道を苦労にすれば異端は其分ではをかれぬ。又迂斎曰、異端を弁するは土藏の鼠穴をふさぐと同ことじゃ。此方の道に疵をつけるからなり。鼠穴すててをけ、火が入ってもよいとは云れぬ。是れをすてておけば大やふな胸中のひろい様にも見へるが、心中の害なり。温公東萊河向の火事の様に思ふ。朱子は、異端は今骸に火の付く様なものと云れた。道を任じたものは斯ふぞ。任ぜぬから朱子の譬が心にのらぬ。皆も麥の不出来ほどには憂へまい。朱子などの上ではかうしたことなり。そこで異端を弁ずるには一と肩入れ子ばならぬこと。程張の弁したは此の近思にのりてある。そこで直方先生の朱子のを集めて排釈録を作られた。近思をよむなら後坐に排釈録をよむがよいと心得べし。
【解説】
異端はこちらに疵を付けるから、これを放って置くことはならない。異端を弁じるのが学者の任である。温公や東萊は河向こうの火事の様に思ったが、朱子はそれとは違った。
【通釈】
朱子が停り得ずと言われた。聖賢の田地を荒らす。どの様な横着者でも自分の畠へ猪の出たのに放って置けと言う者はいない。それは自分の任だからである。学者が異端をそれほどに思わないのは任じないからである。任じた者は苦労をする。迂斎が疫病の流行る様なものだと言われた。それを苦にしなければ忠臣孝子ではない。流行れば君父も疫病を病むことになるから苦労にならないとは言えない。道を苦労すれば異端はそのままでは置けない。また迂斎が、異端を弁じるのは土蔵の鼠穴を塞ぐのと同ことだと言った。自分の道に疵を付けるからである。鼠穴を放って置け、火が入ってもよいとは言えない。これを捨てて置けば大様で胸中が広い様にも見えるが、心中の害である。温公や東萊は河向こうの火事の様に思う。朱子は、異端は今骸に火が付く様なものだと言われた。道を任じたものはこうである。任じないから朱子のたとえが心に乗らない。皆も麦の不出来ほどには憂うことはないだろうが、朱子などの上ではこうしたこと。そこで異端を弁じるには一肩入れなければならない。程張の弁じたことはこの近思に載っている。そこで直方先生が朱子の言を集めて排釈録を作られた。近思を読むのなら、その後に排釈録を読むのがよいと心得なさい。

さて、観垩賢辨異端三字でよいに、嘉先生の本は二字にされた。其外の先輩はどこ迠も三字がよいと云た。されとも語類の百五に異端垩賢とあるを見れは、又弁観の字なくてもすむ。とこ迠も篇名は二字だと合せるに及ばぬ。弁観の二字はあるてよいが、これを又ぬいたとてもつかへにもならぬ。異端と出せば、弁の字はなくても知れたこと。垩賢も観ると云はずともすむ。道体を明すともない。為学の爲の字計りが学者へかかりた様なれとも、治体を知るとも治法政事に行ふともない。二字でもよい。
【解説】
観聖賢でも聖賢でも、弁異端でも異端でもよい。聖賢は観ると言わなくてもそれとわかり、異端も弁じると言わなくてもそれとわかる。治体を知るとも、治法政事を行うとも言はいない。
【通釈】
さて、観聖賢、弁異端と三字でよいのに、山崎先生の本では二字にされている。その外の先輩は何処までも三字がよいと言った。しかしながら、語類の百五に異端聖賢とあるのを見れば、また、弁と観の字はなくても済む。しかし、どこまでも篇名は二字だと合わせるには及ばない。弁観の二字はあるのがよいが、これをまた抜いたとしても支障はない。異端と出せば、弁の字はなくてもわかり切ったこと。聖賢も観ると言わなくてもわかる。道体を明らかにすともない。為学の為の字だけが学者へ掛かった様だが、治体を知るとも、治法政事を行うとも言ってはいない。よって、二字でもよい。


初条

明道先生曰、楊・墨之害、甚於申・韓、佛・老之害、甚於楊・墨。楊氏爲我疑於義、墨氏兼愛疑於仁。申・韓則淺陋易見。故孟子只闢楊・墨、爲其惑世之甚也。佛・老其言近理、又非楊・墨之比。此所以爲害尤甚。楊・墨之害、亦經孟子闢之。所以廓如也。
【読み】
明道先生曰く、楊・墨の害は、申・韓よりも甚だしく、佛・老の害は、楊・墨よりも甚だし。楊氏の爲我は義に疑わしく、墨氏の兼愛は仁に疑わし。申・韓は則ち淺陋にして見易し。故に孟子只楊・墨のみを闢くは、其の世を惑わすこと甚だしきが爲なり。佛・老は其の言理に近く、又楊・墨の比に非ず。此れ害を爲すこと尤も甚だしき所以なり。楊・墨の害、亦孟子之を闢くを經たり。所以に廓如たり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一三にある明道の語。

明道先生曰云々。孔子の異端と云れたは、どのやふな異端か知れぬと朱子の云れた。間もなく揚朱墨翟が出た。揚墨が道は孟子の時に盛なり。中庸の索隠行怪とある。あれが孔子のときの異端であろふ。揚墨が仁義をつかまへてするにこまる。異端の内で一こはい。揚子が義をつかまへる。墨子が仁をつかまへる。そこで其説を聞くと人の心にある仁義が迎に出て、やれ御尤と云。心へひびくことはうるさい。其上あいらは片ひらゆへ、人の心へはやくのるもの。そこが異端なり。甚於申韓。これらは刑名方術で經済めいたことゆへ伯者の張本にはなろふが、異端の処へ出るものではないが、戦国のもので韓非子申不害も奧の院を云たときは黄老を祖に立る。そこで相手になりた。方々の大名へゆきてかれやこれやと云もここが祖なり。惣躰異端が祖師を立るもの。刑名を云ふに黄帝からの、老子から出たのと祖師を立る。
【解説】
「明道先生曰、楊・墨之害、甚於申・韓、佛・老之害、甚於楊・墨」の説明。楊墨の道は孟子の時に盛んだった。楊子が義を捉まえ、墨子が仁を捉まえて言うので、人の心にある仁義が迎えに出る。申韓は刑名法術を唱えた者だが、彼等も黄老を祖師に立てた。
【通釈】
「明道先生曰云々」。孔子が異端と言われたのは、どの様な異端なのかわからないと朱子が言われた。孔子の後、間もなく楊朱墨翟が出た。楊墨の道は孟子の時に盛んだった。中庸に「索隠行怪」とある。あれが孔子の時の異端だろう。楊墨が仁義を捉まえてするのには困ったもの。異端の内で一番恐い。楊子が義を捉まえる。墨子が仁を捉まえる。そこで、その説を聞くと人の心にある仁義が迎えに出て、やれ御尤もと言う。心へ響くことは煩い。その上彼等は偏なので、人の心へ早く乗る。そこが異端である。「甚於申韓」。申韓は刑名法術で経済めいたことをするので伯者の手本にはなるだろう。彼等は異端の処へ出る者ではないが、戦国の者で、韓非子や申不害も奧の院を言う時は黄老を祖に立てる。そこで相手になった。方々の大名のところへ行ってかれこれと言うのもここが祖である。総体、異端は祖師を立てるもの。刑名を言うのに黄帝からとか老子から出たものだと言って祖師を立てる。
【語釈】
・孔子の異端…論語為政16。「子曰、攻乎異端、斯害也已」。
・索隠行怪…中庸章句11。「子曰、素隱、行怪、後世有述焉、吾弗爲之矣。君子遵道而行、半塗而廢、吾弗能已矣。君子依乎中庸。遯世不見知而不悔、唯聖者能之」。
・張本…①あらかじめ後の素地を設けつくること。伏線。②事件のもと。おこり。原因。根本。

そこで人の心にのる処がただならぬことになる。そこで揚墨と一つにをちる。どれも皆えふを持た男共なり。揚墨がえふは仁義、申韓がすることは刑名法術なれども、えふは黄老なり。佛は後漢に渡りて、老子は孔子の時のもの。仏の渡ったは遥か後のことなれとも、ここで一つに云ふは漢の時をさして云なり。老子は生涯の内は柱下の太夫と云れて只のもの知りなり。行れたはあの五千言が出てからのこと。漢で行れた。さて老仏と云になりては心を云ふときが又別なことなり。そこを揚墨より甚しと云。其甚しいは手のこんだからのこと。近理而乱眞も甚しのこと。すべてあまりよく似たことはうるさいもの。似せ金も两替屋も一杯喰ふは甚なり。似せ人参藥種屋の手代もくふはうるさいことなり。
【解説】
楊墨の絵符は仁義で、申韓の絵符は黄老である。老子は本来ただの物知りだったが、道徳経が出た漢代になって盛んになった。老仏は心を言うのが別格なので、「甚於楊墨」と言う。それは聖賢の言に似ていた。
【通釈】
そこで、人の心に乗る処がただならないことになる。そこで楊墨と一つに落ちる。どれも皆絵符を持った男共である。楊墨の絵符は仁義、申韓のすることは刑名法術だが、絵符は黄老である。仏は後漢に渡った頃で、老子は孔子の時のもの。仏が渡ったは遥か後のことだが、ここで一緒に言うのは漢の時を指して言ったからである。老子は生涯柱下の大夫と言われ、ただの物知りだった。老子が行われたのはあの五千言が出てからのこと。それは漢で行われた。さて老仏が心を言う時はまた別格だった。そこを「甚於楊墨」と言う。甚だしいのは手が混んだからである。「近理而乱真」も甚だしいこと。全てあまりよく似たことは煩いもの。贋金も両替屋が一杯喰うのは甚だしい。偽人参で薬種屋の手代が一杯食うのは煩い。
【語釈】
・柱下の太夫…史記列伝老子に「老子者、楚苦縣厲郷曲仁里人也。姓李氏、名耳、字聃、周守藏室之史也」とあり、その注に「藏室史、周藏書室之史也。又張蒼傳、老子爲柱下史。蓋即藏室之柱下。因以爲官名」とある。
・五千言…老子道徳経を指す。
・近理而乱眞…中庸章句序。「則吾道之所寄不越乎言語文字之閒、而異端之説日新月盛、以至於老佛之徒、則彌近理而大亂眞矣」。

揚子為為我疑於仁。爰の仁義の字が孟子と違った。孟子の通り為我が義、兼愛が仁、疑はないが、明道の詞にはこれをうらはらに書てある。嘉先生の、これでもよい、どふとも云はるると云た。葉解もこれなりて註をした。直方先生の、云訣のあるたけうるさい、孟子の弁を本にしたから孟子の通りがよい、記者の誤と見るがよいと云れた。孟子の本文と合ぬはわるい。これできまりたことなり。されとも、嘉先生のやうに此の通りにしてもすむと云ことをも一つ合点しておくもよい。揚氏為我疑於仁とも云へは云るる。仁と云も吾がこと。人の本心の徳は仁なり。為我かと云は向のことと云はないこと。只こちのことじゃと云。仁に疑しなり。伯夷の仁を求めて仁を得たりはこちのものと云こと。又墨氏を義と云は、仁は躰、義は用。義は向の相手を取るもの。兼愛が義なり。なんでも人へ合力をするも、今人々が皆がするならをらもせふと云てする。愛するは凡そ向の相手を取てするから義と云なり。これで此通ではけはすむとは云ものの、孟子が題だから、どちしても直方の説がよい。
【解説】
「楊氏爲我疑於義、墨氏兼愛疑於仁」の説明。明道は「為我疑於仁」「兼愛疑於義」と、孟子とは逆に言った。それでも通じはするが、孟子の通りの方がよい。
【通釈】
「楊子為我疑於仁」。ここにある仁義の用い方は孟子と違う。孟子の言う通りで、為我が義、兼愛が仁なのは疑いがないが、明道の詞はこれを裏腹に書いてある。山崎先生が、これでもよい、どうにでも言うことができると言った。葉解もこの通りに註をした。直方先生は、言い訳があるだけ煩い、孟子の弁を本にしたのだから孟子の通りがよい、ここは記者の誤りと見るのがよいと言われた。孟子の本文と合わないのは悪い。これで決まる。しかしながら、山崎先生の様に、この通りにしても済むということも一つ合点して置くのがよい。楊氏為我疑於仁とも言えば言える。仁というのも自分のこと。人の本心の徳は仁である。為我は向こうのことではない。ただこちらのことだということ。そこで、仁に疑わしい。伯夷の仁を求めて仁を得たりはこちらのものということ。また、墨氏を義と言うのは、仁は体、義は用で、義は向こうの相手をするもの。兼愛が義である。今、人へ合力をすることは何でも、皆がするのなら俺もしようと言ってするが、愛するとは凡そ向こうという相手を取ってするから義と言うのである。これで、この文のわけは済むとはいうものの、孟子を題としているのだから、どうしても直方の説の方がよい。
【語釈】
・揚子為為我…孟子滕文公章句下9。「楊氏爲我、是無君也。墨氏兼愛、是無父也」。同尽心章句上26。「孟子曰、楊子取爲我。拔一毛而利天下、不爲也。墨子兼愛。摩頂放踵、利天下爲之。子莫執中。執中爲近之、執中無權、猶執一也。所惡執一者、爲其賊道也。舉一而廢百也」。
・仁を求めて仁を得たり…論語述而14。「冉有曰、夫子爲衞君乎。子貢曰、諾、吾將問之。入曰、伯夷、叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁、又何怨。出曰、夫子不爲也」。

淺陋易見。楊朱墨翟は垩賢の宝物にしておくものをもって教るからいやなり。申韓は人の心へ立入るやふなことはない。そこで陋淺なり。あれらは只出て働くこと計りなり。貸りてもつかはれるものなり。伯者の方へゆくと重宝がらるる。淺陋なり。揚墨が為我兼愛はあれほどになら子ば人の信向はないから、誰も真似はならぬ。孟子は戦国の時で、只あのときの人の心は楊墨と云になりたでもない。世上をさはぐものは申韓なり。なれともまあ申韓はすてておけ。揚墨が急と云ふたのぞ。これは訣のあること。心へきりこむはをそろしひ。申韓はぢぢばばの耳へは入用になし。揚墨は御姫様の耳へも入る。そこで甚なり。惑世。揚墨の道をきいたらいかさまと云ものがあろふ。惑世のことは甚きびしいがよい。迂斎曰、温公も爰をしらぬから異端をざっと心得てをらるる。造言乱民の刑と云こともある。惑世ものにはあたまをあけさせぬがよい。惑世のことを只あらく見るはわるい。道春も嚴しく仰付られたらよかろふと申上けたから、権現様の駿府にてきびしく仰出されたこともある。それと云も世を惑すからのことなり。
【解説】
「申・韓則淺陋易見。故孟子只闢楊・墨、爲其惑世之甚也」の説明。申韓は人の心へ立ち入る様なことはないが楊墨は人の心に乗るので、孟子は先に楊墨を弁じたのである。楊墨は世を惑わす者だから、頭を上げさせてはならない。
【通釈】
「浅陋易見」。楊朱墨翟は聖賢が宝物にして置くものを持っていて、それを教えるから嫌なもの。申韓は人の心へ立ち入る様なことはない。そこで陋浅なのである。あれ等はただ出て働くだけで、借りてもすることができるもの。伯者の方へ行くと重宝がられる。浅陋である。楊墨の為我兼愛は、あれほどにならなければ人は信仰しないから、誰もが真似をするというわけには行かない。孟子は戦国の時だったが、あの時の人の心が皆楊墨になったというわけでもない。世上を騒がすものは申韓だが、しかしまあ申韓は捨てて置け、楊墨が先だと言ったのである。これにはわけがある。心へ切り込むのは恐ろしい。申韓は爺婆の耳へは入用でない。楊墨は御姫様の耳へも入る。そこで甚だしいのである。「惑世」。楊墨の道を聞くと尤もだと言う者がいるだろう。惑世のことは甚だ厳しいのがよい。迂斎が、温公もここを知らないから異端を軽く心得ておられたと言った。造言乱民の刑ということもある。世を惑わす者には頭を上げさせないのがよい。惑世のことをただ粗く見るのは悪い。道春も厳しく仰せ付けられたらよいでしょうと申し上げたから、権現様が駿府で厳しく仰せられたこともある。それと言うのも世を惑わすからである。
【語釈】
・造言乱民の刑…周礼地官司徒。「以郷八刑糾萬民。一曰不孝之刑、二曰不睦之刑、三曰不姻之刑、四曰不弟之刑、五曰不任之刑、六曰不恤之刑、七曰造言之刑、八曰亂民之刑」。
・道春…林羅山。

佛老其言近理。爰は学者の吟味なり。日本には老子はないが佛法の内に老子が交りておる。今爰らの佛法はぎり々々につまりた佛法は流行はせぬ。佛法こきあげてあの徒が一つ道を云時の言が垩賢の方へ甚近ひ。そこが近理なり。道理は形ないもの。垩人の道も形ないもの。仏老の道も形ないなり。そこて学者ても、未熟なものに爰の処で云かけらるると、つまる処は一つしゃと云様にをちる。そこで一つ弁せ子はならぬ。あれらがすりはらいなことを云出すから近しと云。そこで甚しとも云たもの。上にも二処甚があるが、ここはその上の甚なり。闢之廓如。揚墨の火は孟子が消した。その後は孟子がないから、跡は仏法が勝手次第を云ふとなり。さう云うちに言外に明道の任した意のあることを見ようことぞ。其言理に近しとあるを見ては、はや油断はせぬ意がある。中庸の序も爰の近理を取て書たもの。近しの字か知所先後則近於道の中庸の三近の近でない。爰の近ひはそこの塲へせめかけて來たこと。老佛を理に近しと見たからは、はや動はとらせぬ。盗人は爰の椽の下にをるときめた様なもの。盗賊もはや動きはとられぬ。わるくきくと見方をした口上のやふじゃが、近理と睨める、はや一盃くはぬ見処なり。
【解説】
「佛・老其言近理、又非楊・墨之比。此所以爲害尤甚。楊・墨之害、亦經孟子闢之。所以廓如也」の説明。日本では仏法の中に老子が入っている。道理に形はなく、聖人の道も形がない。仏老の道も形がない。そこで同じ様だと勘違いをする。仏老は理に近いだけに、弁駁しなければならない。
【通釈】
「仏老其言近理」。ここは学者の吟味である。日本に老子はないが仏法の内に老子が混じってある。今ここ等の仏法では、至極に詰まったものは流行らない。あの徒が仏法を扱き上げて、一つ道を言う時の言が聖賢の方に甚だ近い。そこが近理である。道理は形ないもので、聖人の道も形がない。仏老の道も形がない。そこで学者も、未熟な者がここの処で言い掛けられると詰まる処は一つだということに落ちる。そこで一つ弁じなければならない。あれ等が扱き上げたことを言い出すから近しと言う。そこで甚だしと言ったのである。上にも二箇所甚があるが、ここはそれ以上の甚である。「闢之廓如」。楊墨の火は孟子が消した。その後は孟子がいないから、仏法が勝手次第を言うと言う。その様に言う中に、言外に明道の任じる意があると見なければならない。「其言近理」とあるのを見れば、最早油断はしないという意があるのがわかる。中庸の序もここの近理を取って書いたもの。近しの字は「知所先後則近於道」や中庸の三近の近のことではない。ここの近はそこの場へ攻めかけて来たこと。老仏を理に近しと見たからは、最早動きは取らせない。それは、盗人はここの縁の下にいると決めた様なもの。盗賊も最早動きが取れない。誤って読むと見方をした口上の様だが、近理と睨めば、最早一盃喰わない見処である。
【語釈】
・知所先後則近於道…大学章句1。「物有本末、事有終始、知所先後、則近道矣」。
・三近…中庸章句20。「子曰、好學近乎知、力行近乎仁、知恥近乎勇」。


第二 伊川先生曰儒者潜心正道条

伊川先生曰、儒者潛心正道、不容有差。其始甚微、其終則不可救。如師也過、商也不及、於聖人中道、師只是過於厚些、商只是不及些。然而厚則漸至於兼愛、不及則便至於爲我。其過不及同出於儒者、其末遂至楊・墨。至如楊・墨、亦未至於無父無君。孟子推之、便至於此。蓋其差必至於是也。
【読み】
伊川先生曰く、儒者は心を正道に潛め、差い有る容[べ]からず。其の始は甚だ微なるも、其の終わりは則ち救う可からず。師や過ぎたり、商や及ばずという如き、聖人の中道に於て、師は只是れ厚きに過ぐること些かにして、商は只是れ及ばざること些かなるのみ。然り而して厚きは則ち漸く兼愛に至り、及ばざるは則ち便ち爲我が至る。其の過不及は同じく儒者より出で、其の末は遂に楊・墨に至る。楊・墨の如きに至りても、亦未だ父を無[なみ]し君を無するに至らず。孟子之を推せば、便ち此に至る。蓋し其の差い必ず是[ここ]に至るなり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

異端と云も手の裡をひっくりかへす様には出来ぬものとをもふがよい。わづかな見當はづれで出来たもの。異端は天から降ったと云ことでもない。道の見そこないなり。異端を相手にした詞ゆへ正道と出した。知がなくては異端のたけはしれれぬ。高いことぞ。不容有差。道が繪に書るるものなれば間違は出来ぬが、心は形ないから間違が出來る。挌物致知はそこを正す吟味なり。卯の毛のさきもわるほどのこと。三寸の見なをしないと云ことなり。其始甚微。わつかな違を吟味しやれ。人の道樂になるでも、又下戸の上戸になるでも始は微かなこと。火事も吹売から。学者も心に道理の祟やうがちっとひづむと大きなたがいになると云て、跡へ孔門の衆を出したもの。尹彦明の甚矣孔門諸子之嗜学也と云れた。皆々垩人に親炙した人たちなり。それで流れの末の違ふと云で見処の大切が知れた。
【解説】
「伊川先生曰、儒者潛心正道、不容有差。其始甚微、其終則不可救」の説明。異端は道の見損ないで起こる。心は形がないから間違いが起こる。そこで、格物致知でこれを正すのである。心の間違いは、始めは僅かなところから起こるから、些細な違いも吟味しなければならない。
【通釈】
異端も掌を引っくり返す様には起こらないものと思いなさい。それは僅かな見当外れでできる。異端は天から降って来るのではなく、道の見損ないから起こるのである。ここは異端を相手にした語なので「正道」と出した。知がなくては異端の大きさはわからない。それは高いもの。「不容有差」。道が絵に描けるものであれば間違いは起きないが、心は形がないから間違いができる。格物致知はそこを正す吟味である。兎の毛先も割るほどのことで、三寸の見直しもないということ。「其始甚微」。僅かな違いを吟味しなさい。人が道楽になるのも、また下戸が上戸になるのも始めは微かなこと。火事も吸殻から。学者も道理の心への祟り方が一寸歪むと大きな違いになると言って、この後に孔門の衆を出した。尹彦明が「甚矣孔門諸子之嗜学也」と言われたほどで、皆聖人に親炙した人達だが、それでも流れの末が違うと言うのだから、見処が大切なことがわかる。
【語釈】
・三寸の見なをし…測りようによっては三寸ぐらいの誤差はあるもの。また、そうした誤差による不体裁は、見直せば、さして目立たなくなる。多少の欠点は見慣れれば苦にならなくなる。

師也過商也不及。子張は一と張り張った男。人が五十里行かばをらは百里と出る。過の方なり。子夏は垩人を手本に内ばへ々々々と云からしゃんと実躰に守る。そこを不及と云。されともこれは疵物とのける様なことではない。孔子の御側に居た人たちじゃ、とほふもなくすぎた、とほふもなく不及だと云ことではない。隨分垩人の中道を目がけて学ぶが、ちっとづつのたらず目があると云こと。爰の過於厚の字が論語で云ふ子張の人がらには合ぬ様なれども、子張は過厚と云人なり。ざっと見ると子張は高きに過き、子夏は篤実厚に過きたともみへるが、そふ見ると人情のあつい筋になりて、涙の出たり夜も子られぬになる。それでは子張にあたらぬ。迂斎曰、爰の過厚は人の世話をする様なもの。世話ずきと云のなり。その心から外面も堂々哉とはり出す。人の世話をする日には人が十两出すならをらは廿两と出る男。そこを過於厚と云たもの。そこて進物の多を厚弊などと云がここにあたる。それがやらるるものかと云て立波をするが、彼子張の厚にすぐるなり。不及は進まずにあとへついて守るから不及と云。浩然の章の注に子夏篤信垩人とある。垩人を々々々と云て守るが不及なり。
【解説】
「如師也過、商也不及、於聖人中道、師只是過於厚些、商只是不及些」の説明。子張は過で、子夏は不及だと孔子は言ったが、それは途方もない過不及ではない。子張は世話好きが過なのであって、子夏は退いて聖人の道を守るから不及なのである。
【通釈】
「師也過商也不及」。子張は一張り張った男で、人が五十里行けば、俺は百里行くと出る。これが過の方である。子夏は聖人を手本にして内場にすると言い、しっかりと実体に守る。そこを不及と言う。しかしながら、これは疵物だと除ける様なことではない。孔子の御側にいた人達だから、途方もなく過ぎたり、途方もなく不及だということはない。随分と聖人の中道を目掛けて学んでいるのだが、それぞれに少し足りない分があるということ。ここの「過於厚」の字が論語で言う子張の人柄には合わない様だが、子張は過厚の人である。一寸見ると子張は高きに過ぎ、子夏は篤実厚きに過ぎるとも見えるが、その様に見ると人情の厚い筋になって、涙が出たり夜も寝られないことになる。それでは子張に合わない。迂斎が、ここの過厚は人の世話をする様なもので、世話好きということだと言った。その心から外面も「堂々哉」と張り出す。人の世話をすることになれば、人が十両出すのなら俺は二十両出すと言う男である。そこを過於厚と言ったのである。進物の多いことを厚弊などと言うが、それがここに当たる。それで、負けるものかとと言って立派をするのがあの子張の厚に過ぎるところなのである。不及は進まずに後に付いて守るから不及と言う。浩然の章の注に「子夏篤信聖人」とある。聖人を篤く信じて守るところが不及である。
【語釈】
・師也過商也不及…論語先進15。「子貢問、師與商也孰賢。子曰、師也過、商也不及。曰、然則師愈與。子曰、過猶不及」。
・論語で言う子張の人柄…論語子張16。「曾子曰、堂堂乎張也。難與並爲仁矣」。
・子夏篤信垩人…孟子公孫丑章句上2集註。「子夏篤信聖人、曾子反求諸己。故二子之與曾子・子夏、雖非等倫、然論其氣象、則各有所似」。孟子本文は、「孟施舍似曾子、北宮黝似子夏。夫二子之勇、未知其孰賢。然而孟施舍守約也」。

厚則至於兼愛。天下のためになることならとて肌を脱ぐ。心の親切のあるないにかまはず合力をする。いつの間にか墨子になりた。人のことと云と大はだぬきをさるるから墨子めく。不及は、をらは人の処のことではない、此方が大切と内へつく。そこが為我々々と云から為我に似た。孔門の子張子夏たと思ったれば、とふ々々これになりた。至如揚墨云々。某などが孔門の歴々のことをこう云は不仕付なれとも、物の吟味はこうつめるもの。揚墨亦未至於無父無君。なれとも吟味をつめると斯ふなる。孔門の過と不及とが斯ふなりた。してみれは異端は只向の方から計りくるものと見ると違ふ。こちにある見処のひづみでむかへると、じきにいたんになる。さて々々さうきけばこわいものなり。学者が此方の見とりがちっとした処から、じきに老佛にもなる。少の見とりで迎へると異端になる。師と商の魂をあけて見たればいつか揚墨になりておる。已に程門の衆のれき々々か老仏に淫したがたんてきなり。
【解説】
「然而厚則漸至於兼愛、不及則便至於爲我。其過不及同出於儒者、其末遂至楊・墨。至如楊・墨、亦未至於無父無君。孟子推之、便至於此。蓋其差必至於是也」の説明。子張は人の世話を焼き過ぎるから墨子めき、子夏は内に付くから為我めく。孔門も、過不及で異端めく。自分の見所に歪みがあると直に異端となる。それは程門が老仏に被れたことからもよくわかる。
【通釈】
「厚則至於兼愛」。天下のためになることならと言って肌を脱ぐ。心に親切があるかないかに構わず合力をする。それで、いつの間にか墨子になる。人のことと言えば大肌脱きをするから墨子めく。不及は、俺は人のこと処ではない、自分が大切と内へ付く。そこで為我と言うから為我に似て来る。孔門の子張や子夏だと思っていると、遂にはこうなった。「至如楊墨云々」。私などが孔門の歴々のことをこの様に言うのは不躾なことだが、ものの吟味はこの様に詰めるもの。「楊墨亦未至於無父無君」だが、吟味を詰めるとこうなる。孔門の過と不及とがこうなった。そこで、異端はただ向こうの方から来るだけのものと見ると違う。こちらに見処の歪みがあるままで迎えると、直に異端になる。こう聞けば本当に恐いもの。学者の自分の見取りの一寸した処から直に老仏にもなる。少しの見取りで迎えると異端になる。師と商の魂を開けて見れば、いつの間にか楊墨になっている。既にそれは程門の衆の歴々が老仏に淫したことでもよくわかる。
【語釈】
・大はだぬき…両肌脱ぎを誇張した語。