近思録巻之六筆記

家道凡二十二條  亥正月廿一日  高道生録
【語釈】
・亥正月廿一日…寛政3年辛亥。1791年1月21日。
・高道生…高宮文七か?

近思はとかく手前の方を省るかよい。去年も此つら、今年も此つら。いつも々々々此つらてはつまらぬと思へは近思なり。垩人も不曰如何之如何之者吾未如何之也已と云。手前をふりかへりてどふじゃと云と、学問のあかりなり。とかく向へ々々とするは不思而已ぢゃ。会津中將公の所にてやあらん、故伊豆侯の山﨑先生へ御咄に、天から明德を下されておるゆへ天下の公事をさばくと云たれば、先生の、其明德の鏡で御手前を照すがよいと云れた。それが近思なり。近く思はぬと学問はをるすになる。近思録も致知存養克己と来てころふ經たそ。先存養克己をした人は山﨑浅見佐藤三宅、この四先生なり。迂斎石原二先生迠は存養克己した人なり。小市や行藏なとも少とはした。予も此を讀からは、此か工夫と心付ぬてないにもあらす、ただ書物の上て身にこぬなり。
【解説】
近思は自分を省みるのがよい。存養克己をした人は山崎浅見佐藤三宅迂斎石原の六先生であり、黙斎はそれがまだ身に付いていないと言う。
【通釈】
近思は、とかく自分の方を省みるのがよい。去年もこの面で今年もこの面。いつもこの面ではつまらないと思えば近思である。聖人も「不曰如之何、如之何者、吾未如之何已矣」と言った。自分を振り返ってどうだろうと思えば学問の上がりである。とかく向こうのことばかりをするのは「不思而已」である。会津中将公の所でのことだっただろうか、故伊豆侯の山崎先生への御話の中で、天から明徳を下されているので天下の公事を捌くと言うと、先生が、その明徳の鏡で御自身を照らしなさいと言われた。それが近思である。近く思わないと学問はお留守になる。近思録も致知存養克己と来てころう経た。先ず存養克己をした人は山崎浅見佐藤三宅の四先生で、迂斎石原の二先生までは存養克己をした人である。小市や行蔵なども少しはそれをした。私もこれを読むからは、これが工夫のことだと心付けないわけではないが、ただ書物の上だけのことであって身に染み込まない。
【語釈】
・不曰如何之如何之者吾未如何之也已…論語衛霊公15。「子曰、不曰如之何、如之何者、吾末如之何也已矣」。
・会津中將公…保科正之。江戸前期の大名。会津の藩祖。徳川秀忠の庶子。保科氏の養子。会津二三万石に封ぜられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を保護。儒学を好み山崎闇斎を聘し、また吉川惟足の神道説を学び、その伝授を得た。諡号は土津霊神。1611~1672
・伊豆侯…
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・行藏…村士玉水。江戸の人。名は宗章。別号は一斎。門下に寛政三博士の一人である岡田寒泉がいる。享保14年(1729)~安永5年(1776)

家道でこれ迠の学問かたしかにみへる。たとへは子とものぬり板の黑ひや黑ひ双紙に一日書かしれぬそ。清書するでしれる。致知存養克己としてだん々々してあらわれた処が家道なり。前の存養克己も爰ではきと見ゆる。家道は大学で齊家にあたる。大学も致知格物から誠意正心した上で脩身齊家とくる。初手の工夫より荒ひやふなれとも、此齊家が大事のためしものなり。齊家の処でぎくしゃくすると学問のわるいには極りた。存養克己の清書するやふなもの。存羪克己か至極につまれば家道はすら々々と行なり。致知も存養も至極に行かぬから、学問はよいが家内が治らぬと云。今の学者が天下國家を治ると云が、家内が治らひでどふして成ふそ。そこで、外から学者をせめる俗人が学者には似ぬ々々と鉄炮打たがるか、俗人に云れて腹立ふことでない。面白くないと思へは近く思ふなり。子路聞過悦。子路を百世の師と云もここなり。学問は國の天下のと政談經済録を出すことてはない。斉家が明德から新民への所なり。
【解説】
家道は大学では斉家に当たる。そこで、家道によって、今までの学問の成果を見ることができる。家も治まらないで天下国家が治まる筈はない。斉家は明徳から新民へ渡るところのことである。
【通釈】
家道によってこれまでの学問を確かに見ることができる。たとえば子供が黒い塗板や黒い双紙に一日中書いてもその腕前はわからない。清書するからわかる。致知存養克己と段々に行って、それが現れた処が家道である。前の存養克己もここではっきりと見ることができる。家道は大学では斉家に当たる。大学も致知格物から誠意正心した上で修身斉家と来る。初手の工夫より荒い様だが、この斉家が大事の試し物である。斉家の処でぎくしゃくすれば、その人の学問が悪いということに極まる。存養克己の清書をする様なもの。存養克己が至極に詰まれば家道はすらすらと行く。致知も存養も至極に行かないから、学問はよいが家内が治まらないと言う。今の学者が天下国家を治めると言うが、家内が治まらないでどうして天下国家を治めることができよう。そこで、外から学者を責める俗人が、学者には似合わないと鉄砲を撃ちたがるが、俗人に言われて腹を立てることではない。それが面白くないと思えば近く思うことになる。「子路聞過悦」。子路を「百世之師」と言うのもここのこと。学問は国や天下のことだと言って、政談や経済録を出すものではない。斉家が明徳から新民への所なのである。
【語釈】
・ぬり板…塗板。漆塗りの板。文字を記し、何回もぬぐい消して使用する。
・子路聞過悦…孟子公孫丑章句上8。「孟子曰、子路、人告之以有過則喜」。
・百世の師…克己25。「明道先生曰、子路亦百世之師」。

舜の瞽叟悦をいたすが齊家。堯もそこを試みやふとて二女を嬀汭に降したなり。これが家道の立たのなり。異端はそこがだいなしなり。此方ては家が大切のことなり。それを仏は出家と云。御相談のできぬと云にこれより上はない。殊の外せつなくなりて、父子も夫婦も去った。これではたまらぬとて雪山へにげこんだ。老子はにこ々々笑てだまってをる。いやな親仁なり。こなた衆はあまり子ともを教へたがる故道落になる。どふぞこふぞしようと打ちやりてをく。無爲自然、それが皆垩賢の教に背た無爲なれは、百姓の稲麥の艸をぬかぬやふなもの。あちしだいと云。中庸に脩道之謂教とあり、垩人の教すててはをかぬ。其分にならぬか家道なり。さて、家道の一篇は小学にあることものりてあれとも、小学とは違ふ。近思録は義理精微尽之。小学は脩身の大法備。小学はわざで云、近思録は理からゆく。同し語があろふと小学めかすに見るがよい。家道の篇は大学の至善をかぶりてをるから小学の善行とはちごふ。
【解説】
聖学は家を大事にするが、仏は出家をして家を捨て去る。老子は無為自然を説くが、それは聖賢の教えに背くものだから悪い。聖学は無為自然ではない。小学にも家道の篇が載っているが、小学は業で言い、近思は理で言うから、小学と近思録とでは意が違う。
【通釈】
舜の「瞽瞍厎豫」が斉家。堯もそこを試みようとして二女を嬀汭に嫁がせた。これが、家道が立ったということ。異端はそこが台無しである。こちらでは家が大切なこと。それを仏は出家と言う。御相談ができないということにこれより上のことはない。殊の外切なくなって、父子も夫婦も捨て去った。これでは堪らないと言って雪山へ逃げ込んだ。老子はにこにこと笑って黙っている。嫌な親父である。貴方はあまりに子供を教えたがるから、子供が道楽者になる。どうこうしようとも打遣って置く。無為自然と言うが、それが皆聖賢の教えに背いた無為であれば、それは百姓が稲麦の雑草を抜かない様なもの。あちら次第と言うが、中庸に「修道之謂教」とあり、聖人の教えは放っては置かない。そのままにしないのが家道である。さて、家道の一篇は小学にも載っているが、小学のとは違う。近思録は「義理精微尽之」であり、小学は修身の大法備わるである。小学は業で言い、近思録は理から行く。同じ語があるとしても、小学めかずに見なさい。家道の篇は大学の至善の意を受けているから小学の善行とは違う。
【語釈】
・瞽叟悦をいたす…孟子離婁章句上28。「舜盡事親之道而瞽瞍厎豫」。
・二女を嬀汭に降した…書経堯典。「曰虞舜。帝曰、俞。予聞、如何。岳曰、瞽子。父頑、母嚚、象傲。克諧以孝、烝烝乂、不格姦。帝曰、我其試哉。女于時、觀厥刑于二女、釐降二女于嬀汭、嬪于虞。帝曰、欽哉」。
・脩道之謂教…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎」。


初条

伊川先生曰、弟子之職、力有餘則學文。不脩其職而學文、非爲己之學也。
【読み】
伊川先生曰く、弟子の職、力餘り有らば則ち文を學ぶ。其の職を脩めずして文を學ぶは、己の爲にする學に非ざるなり、と。
【補足】
・この条は、程氏経説六の論語解にある。論語学而6の「子曰、弟子入則孝。出則弟。謹而信。汎愛衆而親仁、行有餘力、則以學文」の解である。

伊川先生曰弟子之職云々。学問は孝弟に本つくこと。三代の学と云も明人倫と云に本ついたものなり。父兄の方をすてて太極隂陽の吟味がすんでも何のやくにたたぬこと。そのことを三宅先生の幽灵学問と云た。上の方がすんでも下かない。山﨑先生、人の一身五倫備ると云へり。それをすてて学問と云ことはない。人倫を明にするは燈心をかき立るやふなもの。今人学問して家内の治らぬ。それても学者じゃと云は燈ふきけして燈心かき立るやふなもの。迂斎先生の咄に、上方で息子が家礼をよみ居たを親仁のみて何じゃと云たれば、此は先祖の祭を大切にし、親の喪をあつくをさむることある書と云たれば、それよりをれを生きてをる内よくしてくれよと云た。隠居処の障子は猫の入るほど切たに、それにかまわず棺槨は三寸の板がよいと云。皆虚なり。
【解説】
学問は孝弟に基づくものであり、そうでない学問は虚である。
【通釈】
「伊川先生曰弟子之職云々」。学問は孝弟に基づくこと。三代の学というのも明人倫ということに基づいたものである。父兄の方を捨てて太極や陰陽の吟味が済んでも何の役にも立たない。そのことを三宅先生が幽霊学問と言った。上の方が済んでも下がない。山崎先生が人の一身五倫備わると言った。それを捨てて学問というものはない。人倫を明にするのは灯心を掻き立てる様なもの。今の人は学問をしても家内が治まらない。それでも学者だと言うのは灯りを吹き消して灯心を掻き立てる様なもの。迂斎先生の話に、上方で息子が家礼を読んでいるのを親父が見て、それは何かと尋ねると、これは先祖の祭を大切にし、親の喪を厚く治めることが書かれた書だと答えた。すると親父は、それより俺が生きている内に大切にしてくれと言った。隠居処の障子は猫が入れるほど切れているのに、それには構わず棺桶は三寸の板がよいと言う。皆虚である。
【語釈】
・人の一身五倫備る…


第二 孟子曰事親若曽子可也の条

孟子曰、事親、若曾子、可也。未嘗以曾子之孝爲有餘也。蓋子之身所能爲者、皆所當爲也。
【読み】
孟子曰く、親に事うるに、曾子の若くせば、可なり、と。未だ嘗て曾子の孝を以て餘り有りと爲さざるなり。蓋し子の身の能く爲す所の者は、皆當に爲すべき所なればなり。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の師卦九二の注にある。師卦九二は「九二。在師中。吉无咎。王三錫命」である。

偖々こき上けたことなり。一貫傳のすんた孝行ゆへ此上ない。極上々吉なり。それを孟子の可なりとはにくい云分んなり。極上々と云はぬ。可なりか大学の眼の処なり。孝行するものが曽子を手本にするならは日月を拜するやふにをかむはづなれとも、理の上では可なりじゃ。百姓の年貢納るやふなもの。ほめるに及ぬこと。所當爲は手もない云分ぞ。これ、至善なり。孝行をひろく天下のものに示んとて門閭にせい表すると云ことあり。政も至善につめれば何も褒美やることはない。先王の代に不孝はない。たま々々あれは不孝の刑あり。親に孝をめつらしそふに云ふはさひしひときのことなり。堯舜のときは不孝が珎らしひなり。大学の至善につめると天下中皆孝行になるなり。
【解説】
曾子の孝は極上のものだが理の上では当然のことなので、孟子は「可也」と言った。堯舜の時は不孝自体が珍しいものだった。
【通釈】
ここは実に扱き上げたこと。曾子の孝は一貫伝の済んだ孝行なのでこの上なく、極上上吉である。それを孟子が「可也」とは、難い言い分である。極上上吉とは言わない。可也が大学の眼の処である。孝行をする者が曾子を手本にするのなら、日月を拝する様に拝む筈だが、理の上では可也である。それは百姓が年貢を納める様なもので、褒めるには及ばない。「所当為」はわかり易い言い分であり、これが至善である。孝行を広く天下の者に示そうとして門閭に旌表をすることがある。政も至善に詰めれば何も褒美を遣ることはない。先王の代に不孝はない。稀にあれば不孝の刑を課す。親に孝を珍しそうに言うのは寂しい時のことで、堯舜の時は不孝が珍しかった。大学の至善に詰めると天下中が皆孝行になる。
【語釈】
・一貫傳…論語里仁15。「子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯」。
・孟子の可なり…孟子離婁章句上19。「若曾子、則可謂養志也。事親若曾子者、可也」。
・門閭…村里の入口の門。
・せい表…旌表。人の善行をほめて、広く世間に示すこと。旌顕。


第三 幹母蠱の条

幹母之蠱、不可貞。子之於母、當以柔巽輔導之、使得於義。不順而致敗蠱、則子之罪也。從容將順、豈無道乎。若伸己剛陽之道、遽然矯拂、則傷恩、所害大矣。亦安能入乎。在乎屈己下意、巽順相承、使之身正事治而已。剛陽之臣、事柔弱之君、義亦相近。
【読み】
母の蠱[こと]を幹[ただ]すに、貞にす可からず。子の母に於る、當に柔巽[じゅうそん]を以て之を輔導し、義を得しむべし。順ならずして蠱を敗るを致さば、則ち子の罪なり。從容として將順せば、豈道無からんや。若し己が剛陽の道を伸ばし、遽然[きょぜん]として矯拂[きょうふつ]せば、則ち恩を傷[やぶ]り、害する所大ならん。亦安んぞ能く入らん。己を屈し意を下し、巽順もて相承[う]け、之をして身正しく事治らしむるに在るのみ。剛陽の臣の、柔弱の君に事うる、義亦相近し。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の蠱卦九二の注にある。蠱卦九二は、「九二。幹母之蠱。不可貞。象曰、幹母之蠱、得中道也」である。蠱卦九二が陽爻で六五が陰爻なので母子にたとえられる。

蠱はむしはむとよむ。しそこないのこと。わるいことか出来ては早すてて置れぬ。悪ひことはここなり。すてて置れぬことなり。腹に塊が出来た、捨てをかれぬ。医者をよぶ。柱の根がくされば大工をよぶ。天下中の用向が皆蠱なり。其療治がたはさま々々あれとも、此条は手とりものを出して見せた。母かしそこないが出来て云分のあるを子がさばく。このやふにこまりたことはない。親をはよいに立子はならぬものを云分が出来た。母も孟母や程母のやふなれはよけれとも、常の母なれはどのやふなことを仕出そふもしれぬ。詩に有子七人莫慰母心と云は、口上はいこう手あつひやふなれとも、中はとほふもないことなり。すててをかれぬに此上はない。女房なれば去るで何のことないが、母が何やらした。そこて、不可貞也。これて道理に形ないがしれる。たた十靣はかりではゆかぬ。母に云分んあるときは理屈てをしつけるやふなことはない。若林語録の内に、家内のことは重箱を揚枝て洗ふやふなことはわるいと云か塩梅のあることなり。母が何やらしたと云に理屈高ひこと云てはみなになる。そこて小学にないことが家道にあるが大学の至善なり。
【解説】
「幹母之蠱、不可貞。子之於母、當以柔巽輔導之」の説明。「蠱」は仕損じであり、放って置くわけにはいかない。その仕方は色々とあるが、母の仕損じに対しては、理屈で押してはならない。
【通釈】
「蠱」はむしばむと読み、仕損いのこと。悪いことが起きては最早放っては置けない。悪いこととはこの蠱のことであり、捨てては置けないことである。腹に塊ができれば捨てては置けないから医者を呼ぶ。柱の根が腐れば大工を呼ぶ。天下中の用向きは皆蠱のためである。その療治の仕方は様々あるが、この条には厄介なものを出して見せた。母に仕損いができ、その問題を子が捌く。この様なことほど困ったことはない。親をはよいものとして立てなければならないのに、そこに問題ができた。母も孟母や程母の様であればよいが、一般の母であればどの様なことを仕出かすかも知れない。詩に「有子七人莫慰母心」とあるのは、口上は大層手厚い様だが、中は途方もないことである。捨てては置けないことにこれ以上のことはない。女房なら去らせることで何事もないが、母が何やらをした。そこで、「不可貞也」。これで道理に形のないことがわかる。ただ十面だけではうまく行かない。母に問題のある時は理屈で押し付ける様なことはしない。若林語録の中に、家内のことは重箱を楊枝で洗う様なことは悪いとあるが、それが塩梅のあること。母が何やらしたからといって理屈高いことを言っては台無しになる。そこで、小学にないことが家道にあるのも、家道が大学の至善のところだからなのである。
【語釈】
・有子七人莫慰母心…詩経国風邶凱風小序。「凱風、美孝子也。衛之淫風流行、雖有七子之母、猶不能安其室。故美七子能盡其孝道以慰其母心。而成其志爾」。

太戴礼に孝子巧に変す。孝行な子は利根に立まはり面んをかぶりたり脱いたりする。此語を小学にのすると利根すきてわるいこと。貞實な実地にぢりんからしこむが小学の教なり。そこを小学にのりそふなことをのせず、朱子の經傳通解にのせた。小学にのりては小刀に鍔をはめたやふて似合ぬ。不可貞は茶の給仕する子に云ことてない。直方先生、小野權八へうそをつき習へと云たが不可貞の意を示したもの。母には色々あるもの。悪ひことあるをすててをかれぬ。療治かさま々々あり、大切なことなり。下手な医の積を直そふとてむしょうに針をするか、ついたてころす。上手な医師は積へかまはずにわか手になをるやふにする。それも大成論一冊ではならぬ。学者も權道の合点の行くほどてなけれはここのことはならぬ。親の道落を押へる迠が權道なり。
【解説】
小学にこの条を載せると利口が目立って悪い。ここは権道を合点していなければできないほどのことである。
【通釈】
大戴礼に「孝子唯変巧」とある。孝行な子は利根に立ち回り、面を被ったり脱いだりする。この語を小学に載せると利根過ぎて悪い。貞実な実地で基礎から仕込むのが小学の教えである。そこで朱子は小学に載りそうなことを載せず、経伝通解に載せた。小学に載せては小刀に鍔を嵌めた様で似合わない。「不可貞」は茶の給仕をする子に言うことではない。直方先生が小野権八に嘘を付いて習えと言ったのが不可貞の意を示したもの。母には色々とあるもの。悪いことがあるのを放って置くことはできない。療治が様々とあり、それが大切なことなのである。下手な医者が癪を治そうとして無性に針をするが、突いて殺す。上手な医師は癪には構わず、自分の手で治る様にする。それも大成論一冊ですることはできない。学者も権道の合点ができるほどでなければここのことはできない。親の道楽を抑えることまでが権道なのである。
【語釈】
・太戴礼…前漢の儒者戴徳の撰。周・秦・漢初の諸儒の礼説を集めた書。八五編のうち三九編が現存。大戴記。
・孝子巧に変す…大戴礼記。「孝子唯巧變、故父母安之」。
・利根…かしこい性質。利口。利発。
・小野權八…
・大成論…
・權道…孟子梁恵王章句上7及び離婁章句上17に権の記載がある。

使得於義は今根情わるの我っはり婆々が題目でほっきしたと云様なのなり。詩經で感発興起するも使得於義なり。そこてなをりか子た積もぐつ々々となる。剛陽は蠱の卦の九二なり。手つよい計ではすまぬ。今理屈めく町人なとが、何んぼ母のことても位牌所が大事じゃと云。母の恩は乳を呑、いろ々々として育てられた。それたけの返礼せ子ばならぬ。惣体父とちかひ、母には理屈ては勝もの。それに母の方に云分があるなれは一言もなく誤ろふか、それを立羽にさばいた所が母子の情はらりにする故仁をなくするなり。とんと身を順にすること。母親のさばきは六ヶしいもの。母が芝居に行ふと云へば私も行ふとて、きらひな芝居も見に行ふと云やふながよい。母を非礼にをとすはよふない。とど靜に芝居もやめさする。誠なしに理てをすはかりては行かぬ。
【解説】
「使得於義。不順而致敗蠱、則子之罪也。從容將順、豈無道乎。若伸己剛陽之道、遽然矯拂、則傷恩、所害大矣。亦安能入乎」の説明。母に対しては育てられた恩があるから、その返礼をしなければならない。母を理屈で捌けば親子の情を台無しにして仁をなくすことになる。
【通釈】
「使得於義」とは、今根性が悪く我を張る婆がお題目によって発起したという様なこと。詩経で感発興起するのも使得於義である。そこで治まりかねた癪もそのままではない。「剛陽」は蠱の卦の九二である。手剛いだけでは済まない。今理屈ばかりを言う町人などが、いかに母のことでも位牌所が大事だと言う。母の恩は乳を飲むことから色々な世話を受けて育てられたことで、それだけの返礼をしなければならない。総体父とは違い、母には理屈では勝つもの。そこで、母の方に問題があるのなら一言もなく謝るだろうが、たとえそれを立派に捌いたとしても母子の情を台無しにすることになって、仁をなくすこととなる。そこで、すっかりと身を順にするのである。母親の捌きは難しいもの。母が芝居に行こうと言えば私も行こうと言い、嫌いな芝居も見に行こうと言う様にするのがよい。母を非礼に落とすのはよくない。結局は静かに芝居も止めさせる。誠がなく、理で押すばかりではうまく行かない。
【語釈】
・ほっき…菩提心を起すこと。仏門に入ること。発心。
・蠱の卦の九二…九二は陽爻であり、性格が強いことから言う。

巽は、どふなりとしてとやわらかにかかること。剛陽之臣てつよい家頼、よわい君を一概にしていかぬ。そろ々々と取立るはなりにくひことなり。三宅先生なとも剛陽之臣なり。実の深ひ人なれども、程子の此語を思ひ出す間かなかりたと見へる。忠義の心がするどに実心か勝たゆへ、知見の出る間かない。ちとするど過てあの禍にあわれたが、三宅先生は禍にあへはあふ程忠誠は光れとも、道理の上からは又此心へなふてはならぬことなり。白萑録のなりが晩年德熟されたらは、又別なるべし。異効散六君子計の手段てはきくことてはないと思ひ古方家か腹を立、これは療治と云ものてはない、これならは湯を呑せてをくかよいと云。それ、尤なり。去れともよいやふてしそんじかある。剛ひ臣かあらくかかりてしそこなふ。そこを舎てをく法かある。古法家のことも合点するかよい。此様な処は後世家のそろ々々とするかよいことなり。其身を旨くするてはいかぬ。我身をふくやふなことてはならぬ。家道は名人藝じゃゆへ、小学とはちがふことなり。
【解説】
「在乎屈己下意、巽順相承、使之身正事治而已。剛陽之臣、事柔弱之君、義亦相近」の説明。母には柔らかく応じる。それは君子に対しても同じである。三宅先生も「剛陽之臣」だったが、忠義の心が鋭く実心が勝っていたので、知見の出る間がなかった。
【通釈】
「巽」は、どの様にもと柔らかに対応すること。「剛陽之臣」であっても、剛い家頼が弱い君を等しく見てはならない。慎重に取り立てるのはでき難いこと。三宅先生なども剛陽之臣である。実の深い人だったが、程子のこの語を思い出す間がなかったと見える。忠義の心が鋭く実心が勝ったので、知見の出る間がない。少々鋭過ぎてあの禍いに遇われた。三宅先生は禍いに遇えば遇うほど忠誠は光るが、道理の上からはまた、この心得がなくてはならない。晩年徳熟されたのなら、白萑録の内容はまた別なものとなっただろう。異効散六君子ばかりの手段では効かないと思って古方家が腹を立て、これは療治というものではない、これなら湯を飲ませて置く方がよいと言う。それは尤もなこと。しかしながら、それはよい様で仕損じがある。剛い臣が荒く掛かって仕損なう。そこに捨てて置く方法がある。古方家のことも合点するのがよいが、この様な処では後世家が慎重にする様な仕方がよい。自分の身をうまく処するのは悪い。我が身を威張る様なことではならない。家道は名人芸なので、小学とは違う。
【語釈】
・あの禍…忍藩で宝永4年から6年までの三年間、獄に繋がれたことを指す。


第四 蠱之九三以陽の条

蠱之九三、以陽處剛而不中。剛之過也。故小有悔。然在巽體不爲無順。順、事親之本也。又居得正。故无大咎。然有小悔、已非善事親也。
【読み】
蠱の九三は、陽を以て剛に處りて中ならず。剛の過ぎたるなり。故に小しく悔有り。然れども巽の體に在れば順無しと爲さず。順は、親に事うるの本なり。又居ること正を得たり。故に大いなる咎无し。然れども小しく悔有れば、已に善く親に事うるものに非ず。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の蠱卦九三の注にある。蠱卦九三は、「九三。幹父之蠱。小有悔。无大咎。象曰、幹父之蠱、終无咎也。」である。九三は象伝に「幹父之蠱」とある様に、父子のことである。

同上の卦、幹父之蠱の爻なり。父母のことは易の卦爻のあたりありて書たこと。親の不調法ありて子のさはぐと云も、父と母とかきわけてあり、九三はつよいものかつよい所に居る。それはよいが内卦の上て不中なり。手つよいには甚こまるなり。故少有悔也。九三は内卦の上へて眞中てないゆへ出すぎる。だたい子の方から親の方をいろふことゆへむつかしい。それに手あらな方なり。さて此卦が山風蠱て、内卦が風て風は巽てしたかふなり。風は順と云德を持てをるゆへ蠱九三かつよいやうでも順と云ことゆへよい。以陽處剛。つよいに過れとも、性根に順なものを持合せているゆへ、あいつがさつなやつでごされとも全体すなをな処がござると云て父がうける。一たん親か腹を立ても全体すなをな処かあるてよいになる。それと云も、からだに巽の德を持てをるからよい。親子喧嘩もあるなれとも、根は親に順ふと云子なり。順は大ふ親へ出して結搆な字なり。舜は大垩人、太極の侭ゆへ色々の德備りてあれとも、瞽叟を悦はせたは只順の一字なり。處剛は少し云分はある。親の方へつよいと云は禁物なり。まして親のときは十分吾が方に理あるもの。理あると尚手荒に出るもの。そこで、有小悔已非善事親ちゃ。こふ云はなしたのは何処まても順と云か本へ云かへしたものなり。
【解説】
親に対して剛は禁物であり、順でなければならない。蠱の九三は剛だが、その内卦は風で、風は巽で順う。そこで、「无大咎」なのである。
【通釈】
上と同じ蠱の卦で、「幹父之蠱」の爻である。父母のことは易の卦爻に当たりがあって書いたこと。親に不調法があってそれを子が捌くことでも、父と母とは書き分けてある。九三は剛い者が剛い所にいること。それはよいが内卦の上で中でなくて、手剛いのには甚だ困ったもの。「故少有悔也」。九三は内卦の上で真ん中ではないので出過ぎる。そもそも子が親を正すことなので難しい。それに手荒な方のことである。さて、この卦は山風蠱で、内卦が風で風は巽で順う。そこで、風は順と言う徳を持っているので蠱の九三は剛い様でも順というのでよい。「以陽処剛」。剛いに過ぎてはいるが、性根に順なものを持ち合わせているので、あいつはがさつな奴ですが全体素直な処がありますと言って父が応じる。一旦は親が腹を立てても全体素直な処があるのでよいこととなる。それと言うのも、体に巽の徳を持っているからよいのである。親子喧嘩もあるが、根は親に順うという子である。順は親に対しては大いに結構な字である。舜は大聖人で太極の通りなので色々な徳が備わっているが、瞽瞍を悦ばせたのはただ順の一字からである。「処剛」には少し問題がある。親に対して剛いのは禁物である。ましてや親に対する時は十分に自分の方に理があるもの。理があると尚更手荒に出るもの。そこで、「有小悔已非善事親」である。この様に言い切ったのは、何処までも順ということが本だと言い返したのである。
【語釈】
・九三はつよいものかつよい所に居る…九三は陽爻で位に当たっている。
・内卦の上て不中…内卦の中は九二又は六二。九三は内卦の最上爻。


第五 正倫理篤恩義の条

正倫理、篤恩義、家人之道也。
【読み】
倫理を正しくし、恩義を篤くするは、家人の道なり。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の家人卦にある。

如此に両方揃たと云てなければ家は治らぬ。孝經に愛敬盡於事親とあり。親にはかりは限らぬ。家内のことは愛敬でなければならぬ。愛はかりて敬がないとらりになる。敬はかりて愛かないと咁ひ味がない。正倫理、敬にあたる。篤恩義、愛にあたる。ちょっと飲食の席でも兄を上、弟を二番めにをく。正なり。それて計はゆかぬ。をれか焼ものか余った、喰ふかと云。恩なり。此二つ揃ふ。それかよいことそ。初手は殿中へ出たやふて、後は喰かけを食はするぞ。そこて天理人情とあり、天理はかりてはつめたい。人情はあたたかなもの。酒と云のか天理。かんをするのか人情なり。ただあたま数でばかりすることでない。迂斎先生云、只今の家内に行義をあまりしつける、人かぎゃふさんにすと恩義かなくなる。恩義がなくてならぬと云は、食事しなから子ともか脇見する迠しかるやふではならぬと云れたもの。毎を正しくするとて此様な人あるものなり。又曰、何ほと恩義かあつひことありても倫理を正さぬと傾城屋になると云へり。人の上は正倫理篤恩義てなけれはならぬことなり。
【解説】
家内のことは愛敬が必要であり、「正倫理」が敬、「篤恩義」が愛にあたる。迂斎が、躾を厳しくし過ぎると恩義がなくなり、倫理を正さなければ傾城屋になると言った。
【通釈】
この様に両方が揃うのでなければ家は治まらない。孝経に「愛敬尽於事親」とあるが、親にばかりとは限らない。家内のことは愛敬でなければならない。愛ばかりで敬がないと台無しになる。敬ばかりで愛がないと甘い味がない。「正倫理」が敬に当たり、「篤恩義」が愛に当たる。飲食の席でさえも兄を上、弟を二番目に置く。それが「正」である。それだけではうまく行かない。俺の焼き物が余ったから喰うかと聞く。それが「恩」である。この二つが揃う。それがよいこと。初めの正倫理は殿中へ出た様なことで、後の篤恩義では食い掛けを食わす様なこと。そこで、天理人情とあるのであって、天理ばかりでは冷たい。人情は温かなもの。酒というのが天理で、燗をするのが人情である。ただ頭数でばかりすることではない。迂斎先生が、只今の家内ではあまりに行儀を躾け過ぎるが、人が仰山にそれをすると恩義がなくなると言った。恩義がなくてならないと言ったのは、食事をしながら子供が脇見をするのまで訶る様では悪いと言われたもの。日常を正しくするためにこの様なことをする人がいるもの。また、どれほど恩義が篤くても倫理を正さなければ傾城屋になるとも言った。人の上は正倫理篤恩義でなければならない。
【語釈】
・愛敬盡於事親…孝経天子章。「子曰、愛親者、不敢惡於人。敬親者、不敢慢於人。愛敬盡於事親、而德教加於百姓、刑于四海。蓋天子之孝也。甫刑云、一人有慶、兆民賴之」。
・傾城屋…女郎屋に同じ。


第六 人之處家の条

人之處家、在骨肉父子之閒、大率以情勝禮、以恩奪義。惟剛立之人、則能不以私愛失其正理。故家人卦、大要以剛爲善。
【読み】
人の家に處る、骨肉父子の閒に在りては、大率情を以て禮に勝ち、恩を以て義を奪う。惟剛立の人は、則ち能く私愛を以て其の正理を失わず。故に家人の卦は、大要剛を以て善と爲す。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の家人卦六二の注にある。家人卦六二は「六二。无攸遂。在中饋。貞吉。象曰、六二之吉、順以巽也」である。

人情は自然なものなれとも、情が勝と治らぬ。五人ある子の内に一人愛子あるもの。これかさん々々なことなり。そこで親のしむけが片をちになる。朝夕の食物のこと迠が可愛子に斗り焼ものつけるやふになる。それが家内治らぬ処なり。殊に母親なと道理にくらいゆへ、末子を愛するもの。衣不帛襦袴と云へとも、つい紅裏の襦絆をきせる。恩の字はかわゆい々々々々から出る字。君恩と云へば屹とした字なれども、これもかわゆいから出ること。可愛かる情から加増も出る。此を持てゆきてやれと云か恩澤あれば。かりにこふする筈はないと云が義を見るなり。それか淫乱好色のことになると、妾か主の子ともをつかふやふになる。あの子張り箱を取てこせと云。殿中なれはゆるさぬか、そこを以恩奪義也と云。そこて女の方が一はいをする。みな男女の間は情義の出合なり。そこで魂のつよくしゃきばった男がよい。かわゆいでは失正理もの。召仕の下女がする々々と上へあかるもの。漢の高祖も呂后か衰へたゆえ寵愛かすたれ、戚夫人に溺れ、其子如意を立んとしたも此様なことなり。高祖めかぬこともつまり戚夫人からそ。如意つよい処が気に入たと云ても、実は妾のことなり。
【解説】
「人之處家、在骨肉父子之閒、大率以情勝禮、以恩奪義。惟剛立之人、則能不以私愛失其正理」の説明。男女の間は皆、情と義の出合いである。可愛い者を挙げれば正理を失う。そこで、家長は魂が剛く強張った者がよい。
【通釈】
人情は自然なものだが、情が勝つと治まらない。五人ある子の内に一人だけ愛する子がいるもの。これが散々なことである。そこで親の仕向けが片落ちになる。朝夕の食べ物のことまでが可愛い子にばかり焼きものを付ける様になる。それが家内の治まらない処である。殊に母親などは道理に暗いので、末子を愛するもの。「衣不帛襦褲」と言っても、つい紅裏の襦袢を着せる。恩の字は可愛いと思うことから出る字。君恩と言えば屹とした字だが、これも可愛いと思うことから出る。可愛がる情から加増も出る。これを持って行きなさいと言うのが恩沢あってのことであり、仮にもこの様にする筈はないというのが義を見ること。それが淫乱好色のことになると、妾が主人の子供を使う様になる。あの小針箱を取ってこいと言う。殿中であれば許さないことだが、そこを「以恩奪義也」と言う。そこで女の方がし放題をする。男女の間は皆情と義の出合いである。そこで魂が剛く強張った男がよい。可愛い者では「失正理」となる。召使いの下女がするすると上へ上がるもの。漢の高祖も呂后が衰えたので寵愛が廃れ、戚夫人に溺れてその子の如意を立てようとしたが、それもこの様なこと。高祖めかないことをしたのもつまりは戚夫人からのこと。如意の剛い処が気に入ったとは言っても、実は妾のことなのである。
【語釈】
・衣不帛襦袴…礼記内則。「十年、出就外傅、居宿於外、學書記、衣不帛襦褲。禮帥初、朝夕學幼儀、請肄簡諒」。小学内篇立教にもある。
・紅裏…紅[もみ]を衣服の裏とすること。紅は紅で無地に染めた絹布。

故家人云々を出して、つよいはいつてもよい。つよけれは道理をかへりみる。弱ひ人は同し好色に溺れなからも情に引れやふかめた々々となる。直方先生の門人武井十兵衛、某か伯舅なり。大ふつよい男なり。娘を片付け少とかれこれ婦女の内から云たことあるを、十兵衛雷のやふな声で、あそこを出るとよせつけぬと云た。そこで目出度さかへたなり。主人がつよくなけれは役に立ぬ。今の家長は婦人のやうなことを云ふぞ。さりとは情けない人と云てもつよいで娘児共のためになる。太極柱と梁か丈夫なれば、あとは少々よわくても家はもつ。家人は家の主たる所なればつよくなければならぬこと。
【解説】
「故家人卦、大要以剛爲善」の説明。剛ければ道理を省みることができる。太極柱と梁が丈夫であれば、他は少々弱くても家は保つ。家人は剛くなければならない。
【通釈】
「故家人云々」を出して、剛いのはいつもよいと言う。剛ければ道理を省みる。弱い人は同じく好色に溺れても、情に引かれてめためたになる。直方先生の門人の武井十兵衛は私の伯舅で、大分剛い男である。娘を片付けた時、少々婦女が内証を言うと、十兵衛が雷の様な声で、あそこを出れば寄せ付けないと言った。そこで目出度く栄えた。主人が剛くなければ役には立たないが、今の家長は婦人の様なことを言う。そこで、実に情けない人だと言われても、剛ければ娘や子供のためになる。太極柱と梁が丈夫であれば、他は少々弱くても家は保つ。家人は家の主たる所なのだから、剛くなければならない。
【語釈】
・武井十兵衛…武井敬勝。下野古河藩儒。天明6年(1786)2月28日没。年78。稲葉迂齋の妻の弟。


第七 家人上九爻辭云々の条

家人上九爻辭、謂治家當有威嚴。而夫子又復戒云、當先嚴其身也。威嚴不先行於己、則人怨而不服。
【読み】
家人の上九の爻辭は、家を治むるには當に威嚴有るべきを謂えり。而して夫子又復戒めて云う、當に先ず其の身を嚴にすべし、と。威嚴先ず己に行われずんば、則ち人怨みて服せざらん。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の家人卦上九の注にある。家人卦上九は「上九。有孚威如、終吉。象曰、威如之吉、反身之謂也」である。

周公、有孚且威如終吉とかけられて、治家には威如てなけれはならぬ。家人有嚴。君を見よ。父子は親いもの。そこを君臣のやうになり。君臣は約束通り嚴重なものなり。君臣のすがたはどのやふなものもあるもの。一僕つかふても下人か旦那の先へは立ぬ。親子はそれとは違ふ。親ひから埒かなくなる。夫婦は又もっとらりになるもの。寢席を共にするゆへくにゃ々々々になる。そこて、當有威嚴也。威げんがないと女房か夫とをかろしめる。輕しめるや否や家内は治らぬ。家を治るは威嚴が手始なり。品川川﨑なり。威嚴がぬける。女房か一はいをする。それから子ともが親仁を馬鹿にする。それからは下人も旦那をかるしめる。今もあの男は結搆人じゃと云。左様な人、たわひはなし。それかはや娘が欠落するになる。つよくなくては治らぬもの。某が祖父七十にあまり隠居した。未生以前のことなり。もっかふ形の鍔の小脇指一本居間の床に掛をきし。彼脇指が床にあれは親類ともが来ても隠居か内に居たそふじゃとてこわかりた。それ故、無学でありたれとも直方先生のほめられた。
【解説】
治家の始めは威厳を持つことであり、それは君臣の関係の様なもの。威厳がなければ女房は勝手放題をし、息子は父を馬鹿にする。また、下人も旦那を軽んじる様になる。
【通釈】
周公が「有孚且威如終吉」と繋けられたが、治家には威如でなければならない。「家人有厳」。君を見なさい。父子は親しいもの。そこを君臣の様にするのである。君臣は約束通りで厳重なもの。君臣の姿にはどの様なものにもあるもの。一僕を使うにも、下人は旦那の先へは立たない。親子はそれとは違う。親しいから埒がなくなる。また夫婦はもっと台無しになるもの。寝席を共にするのでぐにゃぐにゃになる。そこで、「当有威厳也」。威厳がないと女房が夫を軽んじる。軽んじるや否や家内は治まらなくなる。家を治めるのは威厳が手始めであり、旅の出発地で言えば品川川崎である。威厳が抜けると女房が勝手放題をする。それから子供が親父を馬鹿にする。それからは下人も旦那を軽んじる。今もあの男は結構人だと言う。その様な人は他愛ない。早くも娘が駆け落ちをする。剛くなくては治まらないもの。私の祖父は七十歳あまりで隠居をした。それは私の生まれる前のことである。木瓜形の鍔の小脇差一本を居間の床に掛けて置いた。その脇差が床にあれば、親類共が来ても隠居が内に居たそうだと言って怖がった。それで、祖父は無学ではあったが直方先生が褒められた。

天下の万民は上に刑法があるて治る。家内は刑法ない。そこで主人か威嚴でないとあがり兜の雨にあふたやふなもの。はら々々になる。嚴にだん々々あり。只にらみまわすことてない。威嚴不行が靣白。きひしくあしろふこと計でない。手前の身持が第一なり。朝起と云か第一治家の威嚴なり。それなれば我早く起き子はならぬ。今の主人よい年しても好色このみ見苦鋪ことある。はや下男ともか嗅付て、とかく女の方はよいか男の方はわるくする。こちの旦那はと目を付る。中々呵ても服せぬ。歴々も輕ひものも兎角旦那の側へよるものか寵愛あるもの。ささいなことても田舎の豪家ても作人のたば粉入なくしたには搆ぬか、下女には手掛やるやうなことでは怨不服なり。ここを集解か感觀と注したのはよい注なり。酒をやめよと云も親がやめると自ら子もやめるもの。感觀はこの方のよいのを感服するからして、向のなをることなり。
【解説】
天下は刑法があるから治まるが、家内にはその刑法がない。そこで威厳が重要となるが、厳とは厳しくあしらうだけではなく、先ずは自分の身持ちをよくすることである。自分のよいところを感服させて、相手を治めるのである。
【通釈】
天下の万民にはその上に刑法があるので治まる。家内には刑法がない。そこで主人に威厳がないと上り兜が雨に遇った様にばらばらになる。厳には段階がある。ただ睨み回すことではない。「威厳不行」が面白い。厳しくあしらうことだけではない。自分の身持ちが第一である。朝起きが先ずは治家の威厳である。それなら自分が早く起きなければならない。今の主人はよい年になっても好色で見苦しいことがある。それが直ぐに下男共が嗅ぎ付けるところとなる。とかく女の方にはよいが男の方には悪くする。自分の旦那はと目を付ける。そこで、中々呵っても服さない。歴々も軽い者もとかく旦那の側へ寄る者に寵愛があるもの。些細なことであっても、田舎の豪家で作人が煙草入れをなくしたのには構わないのに、下女には手を掛ける様なことをしては「怨不服」である。ここを集解が「感観」と注したのはよい注である。酒を止めろと言うのも親が止めると自ずから子も止めるもの。感観は自分のよいところを感服することによって向こうが治ることである。
【語釈】
・あがり兜…上り兜。端午の節句に飾る紙製のかぶと。


第八 歸妹九二の条

歸妹九二、守其幽貞、未失夫婦常正之道。世人以媟狎爲常。故以貞靜爲變常、不知乃常久之道也。
【読み】
歸妹の九二は、其の幽貞を守り、未だ夫婦常正の道を失わず。世人は媟狎[せっこう]を以て常と爲す。故に貞靜を以て常を變ずと爲し、乃ち常久の道たるを知らざるなり。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の帰妹卦九二の注にある。帰妹卦九二は「九二。眇能視。利幽人之貞。象曰、利幽人之貞、未變常也」である。九二は陽剛で中を得た賢い少女であり、正応する六五は陰柔な長男である。

雷と澤に用はなし。震は長男、兌は少女。文王の八卦なり。それからの卦なり。妹を歸と昏礼のことについて名なり。幽はしつかなこと。幽閑とつつく。婦人の道はさわがしひはわるいには極た。賑でござると云て女の笑声の高いが夫婦中のよいやふな、里方ても安堵するやふで、それが十方もないことになるの本なり。夫婦の道はをもいことなり。輕ひものの昏礼にさへ仲人と云があり、そればかりではない。納幣と云ものあり。料理し、大勢人をあつめはちょっとしたことではない。それを輕々しくするから正ひことかなくなる。いつも初手の上み下きたときの通りなればよし。秡てから埒もなくなるもの。その筈しゃ、若ひ男に若ひ女なれはらちはないと云が、そふしたことではない。何つも昏礼のときの通、かはらぬが本の夫婦じゃ。ざれを云たりをどけたりすると、それから夫との云ことも、をらが旦那も久ひものぢゃと云。それではならぬ。いつも昏礼のときの通でなけれは本んのことてない。
【解説】
夫婦の道は重く、いつも婚礼の時の通りに変わらないのが本来の夫婦の姿である。戯言を言っていては女房に軽んじられる。
【通釈】
ここは雷と沢に用はない。震は長男、兌は少女。これが文王の八卦であり、それから出た卦である。「帰妹」とあるのは婚礼についての名である。幽は静かなことで、幽閑と続く。婦人の道が騒がしいのは悪いことに極まる。賑やかななことだと言って、女の笑い声の高いのが夫婦仲のよいことの様に思い、それで里方も安堵する様だが、それが途方もないことになる本である。夫婦の道は重いもの。軽い者の婚礼でさえ仲人があり、そればかりではなく納幣ということもある。料理をし、大勢人を集めるのはちょっとしたことではない。それを軽々しくするから正しいことがなくなる。いつも初手の裃を着た時の通りであればよいが、祓ってから埒もなくなるもの。その筈だ、若い男に若い女なのだから埒はないと言うが、そうしたことではない。いつも婚礼の時の通りに変わらないのが本来の夫婦である。戯言を言ったり戯けたりすると、それから夫の言うことにも、おらの旦那も相変わらずだと言う。それでは悪い。いつも婚礼の時の通りでなければ本来ではない。
【語釈】
・雷と澤に用はなし…帰妹卦は雷沢帰妹。兌下震上。
・納幣…結婚の結納を取り交わすこと。納采。
・久ひ…ありふれている。相変らずである。きまり文句である。

媟狎はなれ。なるると訓。常久之道は、世上からは、あれは夫婦らしくない、あまりじゃと云やふな堅ひのかよい。夫婦中かわるいそふだと云位かよい。あれでは労咳が出子ばよいと云ふ。其やふなが目出たい。少し氣をつめると、親が労咳を病ふとてあんじるがよい。天下中の夫婦の間にむづかしの出来るも身持のわるいゆへなり。身持が堅くて労咳が出やふことなら嶋原や堺町に労咳はない筈なれとも隨分あるぞ。とかく色々身をにやけるやふな馳走をする。木曽谷には何も食ふものないやふなれとも長生する爺かあり、都では少と寒ひとさむかろふとて酒の肴のと云。そこが夭死の本なり。そのことを伐性之斧と云ふ。夫婦中は三つ指がよい。女房か三弦て夫とがうたふなれは傾城屋も同じことなり。
【解説】
夫婦には「媟狎」は悪く、堅いのがよい。とかく我が身に馳走をしたがるが、そこを堅く抑えるのがよい。
【通釈】
「媟狎」は狎れのこと。狎れると訓じる。「常久之道」は、世上からは、あれは夫婦らしくない、あまりなことだと言われる様に堅いのがよい。夫婦仲が悪いそうだという位がよい。あれでは労咳が出なければよいがと言う。その様なものが目出度い。少し気を詰めると親が労咳を病むのではと案じるほどのことがよい。天下中の夫婦の間に問題が起こるのも身持ちが悪いからである。身持ちが堅くて労咳が出るのであれば嶋原や堺町に労咳はない筈だが、そこには随分ある。とかく色々と身をにやけさせる様な馳走をする。木曽谷には何も食うものはない様だが、長生きをする爺がいる。都では少し寒いと寒かろうと言って酒や肴の用意をする。そこが夭死の本である。そのことを「伐性之斧」と言う。夫婦仲は三つ指がよい。女房が三弦で夫が歌うのであれば傾城屋と同じこと。
【語釈】
・伐性之斧…呂氏春秋本生。「出則以車、入則以輦、務以自佚、命之曰招蹙之機。肥肉厚酒、務以自彊、命之曰爛腸之食。靡曼皓齒、鄭・衛之音、務以自樂、命之曰伐性之斧」。
・傾城屋…女郎屋に同じ。


第九 世人多愼於擇壻の条

世人多愼於擇壻、而忽於擇婦。其實、壻易見、婦難知。所繋甚重。豈可忽哉。
【読み】
世人多く壻を擇ぶに愼みて、婦を擇ぶに忽かなり。其の實、壻は見易く、婦は知り難し。繋る所甚だ重し。豈忽かにす可けんや。
【補足】
・この条は、程氏遺書一にある。

むこに念を入れて婦にかまはぬ。婦はどんなてもよいと云ことではないか、擇び様に手の届ぬを忽にすと云。人の娘は田舎てさへあまりそこへ出てもおらぬから知れにくい。吟味のつまらぬを忽と云。丁と看病するに夜中起て居てもつぢつまのあわぬしかたなれば、そこを忽と云。下の句てよくしるる。壻を擇ぶは東金の市でも此席でも知るる。女はしれぬくひものなれば、能吟味せ子ばならぬ。古今のことか女よりやぶるる。大切の先祖よりある家督を其女でつぶすほどのことをうかとする。それが忽なり。それゆへ了簡ある人は仲人なとはむさとせぬもの。多は輕浮なものか、又は利欲を目かける其やふなもののすることなり。仲人は重ひもの。かかる所が重ひ。それに私にをまかせと云。そんならよいやふにとたのむ。輕々しいことなり。ここが家道の大切の木口めなり。娘ごが育たから娵につかはさらぬかと云へは、いや々々未た々々と云か重んするなり。とかくのるがわるい。のるで仕損が多ひなり。
【解説】
婿択びには念を入れるが嫁択びには念を入れない。しかし、男のことはよく知ることができるが、女の子とはあまり場に出ていないのでわかり難いものであり、しかも、古今嫁で家督を潰すことまである。嫁も軽々しく択んではならない。
【通釈】
壻には念を入れて嫁には構わない。嫁はどんな人でもよいということではないが、択び方に手の届かないのを「忽」と言う。人の娘は田舎でさえあまり場に出ないから知れ難い。吟味が詰まっていないことを忽と言う。丁度看病をして夜中起きていても、それが辻褄の合わない仕方であれば、それを忽と言う。下の句でよくわかる。壻を択ぶのであれば、東金の市でもこの席でもその人のことがわかる。しかし、女はわかり難いものだから、よく吟味しなければならない。古今のことは女から破られる。女によって、大切な先祖からあった家督を潰すほどのことをうっかりとする。それが忽である。それで、了簡のある人は仲人などを簡単には請けないもの。その多くは軽浮な者か、または利欲を目掛けてする様な者のすることである。仲人は重いもの。繋る所が重い。それを私にお任せと言う。それならよい様にと頼む。それは軽々しいこと。ここが家道の大切な糸口である。娘子が育ったから娵に出さないかと言われれば、いや、まだまだだと言うのが重んずること。とかく話に乗るのが悪い。乗ることで仕損じが多くなる。


第十 人無父母生日の条

人無父母、生日當倍悲痛。更安忍置酒張樂、以爲樂。若具慶者可矣。
【読み】
人父母無くんば、生日に當に倍[ますます]悲痛すべし。更に安んぞ酒を置き樂を張り、以て樂しみを爲すに忍びんや。具慶の者の若きは可なり。
【補足】
・この条は、程氏遺書六にある。

朱子のきり上けてのせてをくから大切にみること。小学に昏娶論財とあり、其類は入用にない。小学のたくさんな内てぬき上けた。兎角人々唐も日本も学者も俗人も我を忘れて身を祝ふことを第一にするもの。身を祝ふも悪ひことではなけれとも、生た親をこそ祝ふべきこと。兎角親を先にせ子ばならぬ。父母の無い後には、生日は祝はぬ筈。俗儒六十の初度とて自祝ふか、氣質人欲席ふさげの親仁、何の面目に祝ふぞ。兎角理の字を畫てみるかよい。訳なしに目出度と云。理を出すとたまらぬ。山﨑先生、生日終身之喪と云はれた。父母没後には、吾生日はすくに父母の忌日のやふなもの。御子孫も盤昌は謡ふことてない。兩親息才なれは生日も祝ふへきこと。それなれは天地生物之心なり。そこが仁の流行なり。佐左衛門などのやふな親仁でも老母かあるからは鬢を黑くそめるもよい。長藏がやふなものが此頃畠中の道てものしめて歩行も入らさるやふなれとも、親が悦ぶ。とかく親を本にたててする。そこて務て親を悦すを以事とすとあり、知惠が明になるとをかしいもの。人のすることもせす、人のせぬこともする。我賀を祝ふは何のためそ。学者なとはたわけな此老顔五十年、このつらでごさると我手にあたまをはるがよい。悦ぶべきことではないぞ。
【解説】
人は自分を祝うことを第一とするが、親を祝うのが先である。両親が息災であれば自分の生日を祝ってもよいが、父母の没後は生日が直に父母の忌日の様なものであり、祝うべきものではない。
【通釈】
朱子が切り上げて載せて置いたから大切に見なさい。小学に「婚娶論財」とあるが、その類には入用でない。沢山ある小学の内から抜き上げた。とかく人々は、唐も日本も学者も俗人も我を忘れて我が身を祝うことを第一にするもの。我が身を祝うのも悪いことではないが、生きた親をこそ祝うべきである。とかく親を先にしなければならない。父母の亡くなった後は、生日は祝わない筈。俗儒が六十歳の初度と言って自らを祝うが、気質人欲で席が塞がっている親父が何の面目あって祝うのか。とかく理の字を画いてみなさい。わけもなく目出度いと言うが、理を出すと堪らない。山崎先生が「生日終身之喪」と言われた。父母の没後には、自分の生日は直に父母の忌日の様なものであって、御子孫も繁昌と謡うものではない。両親が息災であれば生日も祝うべきこと。それであれば「天地生物之心」であり、そこが仁の流行である。佐左衛門などの様な親父でも老母があるからは鬢を黒く染めるのもよい。長蔵の様な者がこの頃畠中の道でも熨斗目で歩き行くのも、それは不要な様だが親が悦ぶ。とかく親を本に立ててする。そこで、「努以悦親為事」とあり、知恵が明になると可笑しいもの。人のすることもせず、人のしないことをもする。自分の賀を祝うのは何のためか。学者などは、戯けなこの老顔で五十年、この面のままだと言って我が手で頭を張るのがよい。それは悦ぶべきことではない。
【語釈】
・昏娶論財…小学外篇嘉言。「文中子曰、婚娶而論財、夷虜之道也」。
・生日…自分の誕生日。
・初度…①最初。第一回。②生れた時。転じて、誕生日。
・佐左衛門…
・長藏…鵜澤(鈴木)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・のしめ…熨斗目。無地の練貫で、袖の下部と腰のあたりに格子縞や横縞を織り出したもの。江戸時代、小袖に仕立てて、士分以上の者の礼服として麻上下の下に着用。
・務て親を悦すを以事とす…小学外篇嘉言。「賓客之奉當極力營辨、努以悦親爲事、不可計家之有無」。

但し爰の目あてか親を悦すか大切なり。理をつめて云へは、古郷へ錦をかさるは俗人なことなれとも、それも親の悦なれはよい。寡約を以て入、父兄宗族にたかぶらず、馬も鑓も門外へをいてこそ々々とくるが孝子のなりなれとも、それも親が悦ふなれは馬や鑓持てゆきてもよい。礼は恰好、中は定体なし。太極の自然ゆへ、どふとも自由になるものなり。朱子の生日は九月てありた。毎年陳同甫か今日は御生日とてはる々々遠境から進物を送られた。朱子と道の違た人なれとも、朱子をは尊仰し、此やふに親切なこと。そこて老母なき後は生日の祝はせぬ筈なれとも、陳同甫が進物を受納し、幸生日が九月のことなれば禰祭をし、親の祭をしよふとて酒肴をかふて親の祭をなされた。是が朱子の活法なり。今も朱子を眞似てよかろふ。まして次男以下は我家で祭をするは、本家の祭を奪はとんとせぬ礼なれとも、生日なそは祭てもよい。大三や文七なぞのやふな二男は祭はならぬが、生日に親を祭は別段なり。望拜に類したことなり。某も支子ゆへ、神主はもた子とも、祖父母と父母の書を掛物にしてをくが神主なり。さて、母親の書は少いもの。小遣帳を切拔てをいてもよい。主一なとも次男なれは其心掛かよし。偖、靜に考て見ると、近思録のとりさばきは太極で形ないゆへ、右のごとく説きひろけ、十方もないことか出たやふなれとも、皆此章に叶ふことなり。
【解説】
ここは親を悦ばすことが主意である。また、礼は恰好であって中に定体はない。俗的なことでも、親が悦ぶのなら、それをしてもよい。
【通釈】
但し、ここの目当ては親を悦ばすことが大切だということ。理詰めで言えば、故郷へ錦を飾るのは俗人的なことだが、親がそれを悦ぶのならよい。寡約で入り、父兄宗族に対して高ぶらず、馬も鑓も門外へ置いてこそこそと来るのが孝子の姿だが、それも親が悦ぶのなら馬や鑓を持って来てもよい。礼は恰好で、中に定体はない。それは太極の自然だから、どうとも自由になるもの。朱子の生日は九月だった。毎年陳同甫が今日は御生日とて遥々遠境から進物を送られた。朱子とは道の違った人だが、朱子を尊仰し、この様に親切だった。そこで老母なき後は生日の祝いはしない筈だが、陳同甫の進物を受納し、幸いにして生日が九月だったので禰祭をし、親の祭をしようと酒肴を買って親の祭をなさった。これが朱子の活法である。今も朱子を真似てよいだろう。ましてや次男以下が我が家で祭をするのは、本家の祭を奪うものとなるので決してしてはならない礼だが、生日などは祭ってもよい。大三や文七などの様な二男は祭をしてはならないが、生日に親を祭るのは別段のことで、それは望拝に類したこと。私も支子なので神主は持たないが、祖父母と父母の書を掛け物にして置き、それが神主である。さて、母親の書は少ないもの。小遣帳を切り抜いて置いてもよい。主一なども次男なのだからその心掛けがよい。さて、静かに考えて見ると、近思録の取り捌きは太極の通りで形がないので、右の通り説き広げ、途方もないことが出た様だが、それは皆この章に叶ったことなのである。
【語釈】
・礼は恰好…
・中は定体なし…中庸章句2集註。「蓋中無定體、隨時而在。是乃平常之理也」。
・陳同甫…
・大三…櫻木誾斎の二男。
・文七…高宮文七。東金市押堀の人。筆記力に優れる。
・支子…長子以外の子。
・主一…大谷主一。唐津藩士。


第十一 問行状云の条

問、行状云、盡性至命、必本於孝弟。不識孝弟何以能盡性至命也。曰、後人便將性命別作一般事説了。性命孝弟、只是一統底事。就孝弟中、便可盡性至命。如灑埽應對與盡性至命、亦是一統事、無有本末、無有精粗。卻被後來人言性命者、別作一般高遠説。故擧孝弟、是於人切近者言之。然今時非無孝弟之人、而不能盡性至命者、由之而不知也。
【読み】
問う、行状に云う、性を盡くし命に至るは、必ず孝弟に本づく、と。識らず、孝弟は何を以て能く性を盡くし命に至るや、と。曰く、後人は便ち性命を將[もっ]て別に一般の事と作[な]し説けり。性命孝弟は、只是れ一統の事なり。孝弟の中に就きて、便ち性を盡くし命に至る可し。灑埽應對と性を盡くし命に至るとの如き、亦是れ一統の事にして、本末も有る無く、精粗も有る無し。卻って後來の人の性命を言う者に、別に一般の高遠と作し説かる。故に孝弟を擧げしは、是れ人の切近なる者に於て之を言いしなり。然れども今時孝弟の人無きに非ざるも、性を盡くし命に至ること能わざる者は、之に由れども知らざればなり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

上の段で太極を云たがあたりのあること。小学と此書を別に見よと云もここなり。近思は大学の至善を相手にしたこと。天理なりの人事、人事なりの天理なり。垩人の道理、我より加損することてなし。そこが大本なり。五倫をすてて佛が道を説きたがる。大学に過て実なしと云は孝悌に本つかぬ。偖、明道先生の行状を伊川の書れた。明道や朱子の行状を伊川や黄勉斎の書れたも学問でかたまったことを書たもの。只こふした生れ付と云てはない。そこで近思に入るるなり。尽性至命は易の説卦傳にあり、尽性至命は天から拜領の性なり。それを一抔に尽すこと。是が先行状に似合ぬことなり。常の行状は氣質をかく故温公は玉のやふな御方、康節は水の流るるやふな御方と云。それも氣質なり。爰が伊川の、をらか兄は天道性命が親に孝、兄弟に友からと学問で云。これ氣質てない。尽性至命は異端のやふにほんとしたことではない。後代の学者は尽性至命の切紙傳授のやふなことに思ふか、今日じかなり。端的なこと。性命と孝悌か只一統底のこと。孝悌は仁をする本しゃから、人欲さへなけれは何のこともない。なることなり。井戸の水と汲をきた水と同こと。ここは性命、ここは孝悌、これをしてあれへでない。袷脱でひとへものと云やふなことではない。堯舜の道も外にはない。孝悌なり。今日の人も孝悌あるがぎり々々につまらぬ。ぎり々々につまると舜の瞽叟底豫なり。老萊子も踊たか、あれは至善につまらぬ。
【解説】
「問、行状云、盡性至命、必本於孝弟。不識孝弟何以能盡性至命也。曰、後人便將性命別作一般事説了。性命孝弟、只是一統底事。就孝弟中、便可盡性至命。如灑埽應對與盡性至命、亦是一統事、無有本末、無有精粗」の説明。尽性至命は奥義の様に思われているが、性命と孝弟は一統であり、端的なものである。
【通釈】
上の段で太極のことを言ったのは当てがあってのこと。小学とこの書を別に見なさいと言うのもこのことからである。近思は大学の至善を相手にしたこと。天理の通りの人事、人事の通りの天理である。聖人の道理は自分から加損することはない。そこが大本である。仏が五倫を捨てて道を説きたがる。「過於大学而無実」と言うのは孝悌に基づかないからである。さて、明道先生の行状を伊川が書かれた。明道や朱子の行状を伊川や黄勉斎が書かれたが、それは学問で固まったことを書いたもの。ただこうした生まれ付きだということではない。そこでこれを近思に入れたのである。「尽性至命」は易の説卦伝にあり、尽性至命は天から拝領の性である。それを一杯に尽くすこと。これが先ず行状には似合わないこと。通常の行状は気質を書くので、温公は玉の様な御方、邵康節は水の流れる様な御方と言う。それは気質のことである。ここを伊川は、俺の兄は天道性命が親に孝、兄弟に朋友と、学問について書いた。これは気質のことではない。尽性至命は異端の様にほんとしたことではない。後代の学者は尽性至命を切紙伝授の様なことと思うが、今日に直なこと。端的なこと。性命と孝悌は「只是一統底」のこと。孝悌は仁をする本だから、人欲さえなければ何のこともなく、それはできることである。井戸の水と汲み置きした水とは同じ。ここは性命、ここは孝悌、これをしてあれへではない。袷を脱いで単ものと言う様なことではない。堯舜の道も外にはない。孝悌である。今日の人にも孝悌はあるが、それは至極に詰まらない。ぎりぎりに詰まると舜の「瞽瞍底豫」である。老萊子も踊ったが、あれは至善に詰まったものではない。
【語釈】
・大学に過て実なし…大学章句序。「自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小學而無用、異端虚無寂滅之敎、其高過於大學而無實」。
・尽性至命…易経説卦伝1。「昔者聖人之作易也、幽贊於神明而生蓍。參天兩地而倚數。觀變於陰陽而立卦、發揮於剛柔而生爻、和順於道德而理於義、窮理盡性以至於命」。
・切紙傳授…室町時代以後、歌道・神道その他で、切紙に記した免許目録を弟子に伝授すること。
・瞽叟底豫…孟子離婁章句上28。「舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化、瞽瞍厎豫而天下之爲父子者定。此之謂大孝」。
・老萊子…春秋時代の楚の賢人。「老莱子」一五編の著者。老子と同一人であるともいう。

被後来人云々。被と云はこふ云やふにして取のけられたと云こと。端的を云へば、孝悌と性命一つものてなくても何ぞのときは一つものにせ子ばならぬ。本と孝悌は子とももなる。性命はすまぬか根は一つなり。朱子、小学の初に元亨利貞、天命之性を出す。あのやふなことは出しそふもないものなれとも、そこが一統底なり。孝悌と性命か一統底なれば、今若ひ者か孝悌するか性命の理に通そふなものなれとも、孝弟は孝弟なれとも性命はすまぬ。然とも、根は一つこと。孝悌かやはり性命じゃと云。何と云ことでごさると云に、そこは玄妙なれとも根は一つ、とんと吾学でなくてはすまぬこと。其筈じゃは、人の孝悌をするか猿が藝するやふてはなく、性命なりてするそ。孝悌か性命もちまへからなり。学問して奧の院の性命を尽すと孝悌か性命なりになる。ただの人は性命の理を尽さぬから、中分から先きをするになる。家道ては素人めいた孝悌では食ひたらぬことなり。孝悌も生れ付の孝行ても至てよいもの。廣瀬の飛脚も孝悌に生れ付たが、あのやふな者を感心する位なれは近思録のまへがたたぬ。性命と一つにする孝悌ゆへ、小学とは別のことなり。二十四孝の内には舜も郭巨も一つにしてあるか、さて々々違ふことなり。
【解説】
「卻被後來人言性命者、別作一般高遠説。故擧孝弟、是於人切近者言之。然今時非無孝弟之人、而不能盡性至命者、由之而不知也」の説明。孝悌は子供でもできるものだが、性命はそうはいかない。しかし、根は一つである。孝悌は性命から出たものなのである。孝悌は性命の通りにしなければならず、生まれ付きの気質によるものでは物足りない。
【通釈】
「被後来人云々」。「被」とは、こういう様にして取り除けられたということ。端的を言えば、孝悌と性命は同じものでなくても何かの時は一つにしなければならない。元々孝悌は子供もできることだが性命は済まない。しかし根は一つである。朱子は小学の初めに「元亨利貞」と「天命之性」を出した。あの様なことは出しそうもないものだが、そこが一統底である。孝悌と性命が一統底であれば、今若い者が孝悌をすることが性命の理に通じそうなものだが、孝弟は孝弟なのだが性命は済まない。しかしながら、根は一つである。孝悌がやはり性命だと言う。それはどうしてかと聞かれても、そこは玄妙だが根は一つ、全く自分で学ばなくては済まないことなのである。その筈で、人の孝悌をするのは猿が芸をする様ではなく、性命の通りにすること。孝悌は性命という持ち前から出たもの。学問をして奥の院の性命を尽くすと孝悌が性命の通りになる。普通の人は性命の理を尽くさないから、中ほどから先をすることになる。家道では素人めいた孝悌では食い足りない。孝悌も、生まれ付きの孝行でも至ってよいもの。広瀬の飛脚も孝悌に生まれ付いたが、あの様な者を感心する位では近思録の前が立たない。性命と一つにする孝悌なので、小学とは別のこと。二十四孝の内では舜も郭巨も一つにしてあるが、全くそれは違うこと。
【語釈】
・廣瀬の飛脚…
・二十四孝…中国で、古今の孝子二四人を選定したもの。元の郭居敬の説。虞舜・漢文帝・曾参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老莱子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。異説もある。
・郭巨…二十四孝の一。後漢の人。家が貧しく、母が減食するのを見て、一子を埋めようと思って地を掘ったところ、黄金が六斗四升出て、その上に、「天賜孝子郭巨」と刻んであったという。


第十二 問第五倫云々の条

問、第五倫視其子之疾、與兄子之疾、不同。自謂之私。如何。曰、不待安寢與不安寢。只不起與十起、便是私也。父子之愛本是公。才著些心做、便是私也。後漢第五倫傳、或問倫曰、公有私乎。對曰、吾兄子嘗病。一夜十起、退而安寢。吾子有疾。雖不省視、而竟夕不眠。若是者、豈可謂無私乎。又問、視己子與兄子有閒否。曰、聖人立法、曰兄弟之子猶子也。是欲視之猶子也。又問、天性自有輕重。疑若有閒然。曰、只爲今人以私心看了。孔子曰、父子之道天性也。此只就孝上説。故言父子天性。若君臣・兄弟・賓主・朋友之類、亦豈不是天性。只爲今人小看卻、不推其本所由來故爾。己之子與兄之子所爭幾何。是同出於父者也。只爲兄弟異形、故以兄弟爲手足。人多以異形、故親己之子、異於兄弟之子。甚不是也。又問、孔子以公冶長不及南容、故以兄之子妻南容、以己之子妻公冶長。何也。曰、此亦以己之私心看聖人也。凡人避嫌者、皆内不足也。聖人自至公。何更避嫌。凡嫁女各量其才而求配。或兄之子不甚美、必擇其相稱者爲之配、己之子美、必擇其才美者爲之配。豈更避嫌耶。若孔子事、或是年不相若、或時有先後、皆不可知。以孔子爲避嫌、則大不是。如避嫌事、賢者且不爲。況聖人乎。
【読み】
問う、第五倫は其の子の疾を視ること、兄の子の疾と同じからず。自ら之を私と謂えり。如何、と。曰く、安寢すると安寢せざるとを待たず。只起きざると十たび起きるとは、便ち是れ私なり。父子の愛は本より是れ公なり。才[わず]かに些かの心を著けて做さば、便ち是れ私なり、と。後漢第五倫傳に、或ひと倫に問いて曰く、公に私有りや、と。對えて曰く、吾が兄の子嘗て病めり。一夜十起し、退いて安く寢ぬ。吾が子疾有り。省視せずと雖も竟に夕眠らず。是の若き者は、豈私無しと謂う可けんや、と。又問う、己の子を視るに兄の子と閒有りや否や、と。曰く、聖人は法を立てて、兄弟の子は猶子のごとしと曰えり。是れ之を視ること猶子のごときを欲するなり、と。又問う、天性には自ら輕重有り。疑うらくは閒有るが若く然り、と。曰く、只今人私心を以て看るが爲なり。孔子曰く、父子の道は天性なり、と。此は只孝の上に就きて説くのみ。故に父子は天性なりと言えり。君臣・兄弟・賓主・朋友の類の若き、亦豈是れ天性にあらざらんや。只今人小看卻し、其の本の由りて來る所を推さざるが爲の故のみ。己の子と兄の子と爭う所幾何[いくばく]ぞ。是れ同じく父より出ずる者なり。只兄弟形を異にするが爲に、故に兄弟を以て手足と爲す。人多く形を異にするを以て、故に己の子に親しむこと、兄弟の子に異なり。甚だ是ならざるなり。又問う、孔子は公冶長の南容に及ばざるを以て、故に兄の子を以て南容に妻[めあわ]し、己の子を以て公冶長に妻せり。何ぞや、と。曰く、此れ亦己の私心を以て聖人を看るなり。凡そ人の嫌を避くる者は、皆内足らざるなり。聖人は自ら至公なり。何ぞ更に嫌を避けん。凡そ女を嫁すには各々其の才を量りて配を求む。或は兄の子甚だしくは美ならざるとき、必ず其の相稱[かな]える者を擇びて之が配と爲し、己の子美なるとき、必ず其の才の美なる者を擇びて之が配と爲す。豈更に嫌を避けんや。孔子の事の若き、或は是れ年相若かず、或は時に先後有らんこと、皆知る可からず。孔子を以て嫌を避くると爲さば、則ち大いに是ならず。嫌を避くる事の如き、賢者すら且つ爲さず。況んや聖人をや、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

此のこと小学て皆々近付なことなれは、かれこれ云に及ぬ。自謂之私。ここか大切の吟味処なり。荒く云へは御役御免と云ものも大概私からなものなり。大町人も伴頭を暇を出す。私がありたからなものなり。其様な私は荒い私なり。近思の吟味に非す。第五倫は我子と姪とに手の出しやうが違ふた。そこを第五倫の吟味したなり。前後漢の間英雄豪傑数多あれとも、魂へきり付たものは第五倫一人なり。此問人は第五倫ほどにはゆかぬ人なり。そこで心にのらなんだとみへる。程子の魂へ入て知た論なり。子の病気には子られぬ。兄弟の子には子られたと云。そこを私とあの男の口て云たが未たそれより前に吟味が掛る。其起る起ぬと云か直に私なり。兄がどふ嫂がどふ思をふのと出るぞ。人の心はさて々々をかしいものそ。ひょいと出たときの心はたれかれと云ことはないもの。第五倫が殊の外丁寧をしたが、そこの心かさん々々きたない。そこが私なり。人の心は此糸を引くと目が動くなとと云やふな人形からくりの様なことではないはつなり。鴬が鳴。あれもないて見せふとてなくてはない。人もひょいと出たことに思慮安排はないものなり。甥のかわゆいはもと父子の愛から。撿地をうた子はならぬ。我子はしごくかわゆい。甥はそのつき。他人は又そふない。これが通用の心もちなり。俗人もかふしたもの。其方は却て手かなくてよし。些心云々。少づついかがしい処のあると云はそこに匕加減のありたゆへ私になる。
【解説】
「問、第五倫視其子之疾、與兄子之疾、不同。自謂之私。如何。曰、不待安寢與不安寢。只不起與十起、便是私也。父子之愛本是公。才著些心做、便是私也」の説明。人がどう思うかを推し量ってするのは「私」である。第五倫が兄の子の病気に何度も起きてそこに行ったのは私からであり、そのことについて第五倫は吟味をしたのである。
【通釈】
ここは皆が小学で近付きのことなので、かれこれ言うには及ばない。「自謂之私」が大切な吟味処である。荒く言えば御役御免というのも大概は私からのもの。大町人も番頭に暇を出す。それは私があってのこと。その様な私は荒い私であって近思の吟味ではない。第五倫は自分の子と姪とで手の出し方が違った。そこを第五倫が吟味をしたのである。前後漢の間に英雄豪傑は数多くいたが、魂へ切り付けた者は第五倫一人だけである。この問人は第五倫ほどにはできない人である。そこで心に乗らなかったとみえる。これは程子が魂へ入って知った論である。子の病気には寝ることはできないが、兄弟の子の病気には寝られた。それが私だとあの男の口を借りて言ったのだが、まだそれより前に吟味がある。その起きる起きないというのが直に私である。兄がどう思うか、嫂がどう思うかと思案が出る。人の心は実に可笑しいもの。ひょいと出た時の心は誰彼ということはないもの。第五倫が殊の外丁寧なことをしたが、その時の心が散々で汚い。それが私である。人の心はこの糸を引くと目が動くなどという様な人形絡繰の様なことではない筈である。鴬が鳴く。あれも鳴いて見せようとして鳴くのではない。人もひょいと出たことには思慮按排はないもの。甥が可愛いのは元来父子の愛からのことであり、そこで検地を打たなければならない。自分の子は至極可愛い。甥はその次で、また、他人はそうではない。これが通用の心持ちである。俗人もこうしたもの。彼等は却って何もしないからよい。「些心云々」。少しいかがわしい処があるというのは、そこに匙加減があったからで、それで私になる。
【語釈】
・第五倫…後漢の人。司空。後漢書に第五倫伝がある。

又問云々。吾が子と弟の子とへだてあるものかと問たことではなし。義理の上から問たもの。義理の上にも隔ることあるかとなり。垩人立法曰兄弟之子云々。礼記にあり。弟の子は吾が子のやふなもの。此文字から姪甥を猶子と書も聞へたことなり。ありやふを云ときはそふしたいものなりと云か欲すなり。そこて程子の御答、猶子と云子の字を大切に見よ。兄弟と吾と一つなものなれは、甥と子と同じことなり。これからをして見るへし。よくかてんするとあとのことは云に及はぬことなれとも、とかく合点か行かぬゆへ、又問天性云々。一理あるふしんなり。伯父と親とは喪服もちかい、親は三年、伯父は一年。天性輕重はあり、そこでわるい問でもない。又程子か此訳を立ぬてもないが、隔ると云か凡夫のえてものなり。それをなくするか学問。横渠の西銘も隔てを取てのけること。一つにし過る程に云のが趣向なり。父子の天性に批点のしてはない。兄弟隔あると云か、隔のあるはこちの心なり。元來を聞され、父子は天性、ずっ々々やる処は隔はない。天地の氣を見よ。氣は江戸中てもここでも一つなものなり。春風てずっと暖になる。隔はない。これか大抵てすむことではない。父子は天性と云ことか合点なれは、あとは何もかも天性てないものなれは、垩人か五倫を立て置へきはつはなし。あれか天性へ入れは油に水入たやふなり。
【解説】
「又問、視己子與兄子有閒否。曰、聖人立法、曰兄弟之子猶子也。是欲視之猶子也。又問、天性自有輕重。疑若有閒然。曰、只爲今人以私心看了。孔子曰、父子之道天性也。此只就孝上説。故言父子天性」の説明。兄弟と自分は一つだから、甥と我が子は同じである。天性に軽重はあるが、隔てるのが悪い。隔てをなくすのが学問であり、隔てが生まれるのは自分の心によるのである。
【通釈】
「又問云々」。自分の子と弟の子とに隔てがあるものかと問うたのではない。義理の上から問うたのである。義理の上にも隔てることがあるかと尋ねた。「聖人立法曰兄弟之子云々」。これは礼記にある。弟の子は自分の子の様なもの。この文字があるから姪や甥を猶子と書くのもよくわかる。あるべき姿を言う時に、そうしたいものだと思うのが「欲」である。そこで程子のお答にある猶子の子の字を大切に見なさい。兄弟と自分とは一つなものだから、甥と子とは同じことである。これから推して見なさい。よく合点すると後のことは言うには及ばないが、とかく合点が行かないので、「又問天性云々」。一理ある不審である。伯父と親とは喪服も違い、親は三年、伯父は一年。「天性自有軽重」で、そこでこれは悪い問いでもない。また、程子がこのわけを言い立てないわけでもないが、この隔てるというのが凡夫の得手ものである。それをなくすのが学問。横渠の西銘も隔てを取って除けること。一つにし過ぎるほどに言うのが趣向である。父子の天性に批点を打つことはできない。兄弟に隔てがあると言うが、隔てがあるのはこちらの心である。元来のことを聞かされ、父子は天性で、通る処に隔てはない。天地の気を見なさい。気は江戸中でもここでも一つなもの。春風てずっと暖かになる。隔てはない。これか大抵では済むことではない。父子は天性であるということが合点できて、他は何もかも天性でないものだとするのであれば、聖人が五倫を立てて置くべき筈はない。天性でないものが天性へ入れば油に水が入った様になる。
【語釈】
・垩人立法曰兄弟之子…礼記檀弓上。「喪服。兄弟之子猶子也。蓋引而進之也。嫂叔之無服也。蓋推而遠之也。姑姊妹之薄也。蓋有受我而厚之者也」。

君臣朋友は人のこしらへたやふじゃか天地自然也。さて夫婦君臣朋友は他人と々々か二人よりたもの。そこてこれを人合と云、父子兄弟は天合と云。天合も人合も同しことなり。ここへ君臣賓主朋友を出すて兄弟姪甥に隔てないは一人なり。朱子、中庸の首章の注に礼樂刑制は人のこしらへたもの、それ迠が天なり。人らしいことを天とみるか大事のこと。賓主も御見廻申す、やれよう御出と云は天性なり。猿が来ては、こちへとは云はぬ。賓主朋友は天性なり。父子君云々。ぐっと本を一つにして見せたもの。小看は手前の目の及ぬなり。小看かしきりのできるもとなり。それを拂ふか大切のこと。それを拂ふと右や左りの御長者様と云乞食も我と同しことと思われる。西銘なり。此語をなみだの出る程に見るてなけれは本に合点したと云ものでない。よく々々思て見れはしきりはないぞ。本へふり返てみれば、吾が父からは吾姪も甥も吾子も皆同じ孫。まして兄弟はしたしい筈のことなり。然るに体の分んなと云から薄くなる所。是同父出云々。小学に吾祖宗より視之則均是子孫固無親踈と范文正云へり。李蕐か文に誰無兄弟如手如足とあり、日本て御連枝と云もよい文字なり。一本の本で南へも北へも枝が別れて出る。本とは一つなり。人の兄弟もそれと同しこと。
【解説】
「若君臣・兄弟・賓主・朋友之類、亦豈不是天性。只爲今人小看卻、不推其本所由來故爾。己之子與兄之子所爭幾何。是同出於父者也。只爲兄弟異形、故以兄弟爲手足。人多以異形、故親己之子、異於兄弟之子。甚不是也」の説明。「君臣朋友」でさえも天地自然なのだから、天合の兄弟姪甥に隔てはない。「小看」によって仕切りができるから、それを取り払うことで西銘の意に通じる。
【通釈】
「君臣朋友」は人が拵えた様だが天地自然である。さて、夫婦君臣朋友は他人と他人とが二人寄ったもの。そこでこれを人合と言い、父子兄弟は天合と言う。しかし、天合も人合も同じことである。ここへ「君臣賓主朋友」を出すことで、兄弟姪甥に隔てはなく、同じこととなる。朱子が中庸の首章の注に礼楽刑制は人の拵えたもので、それまでが天だと言った。人のことらしいものを天と見るのが大事。賓主も御見舞い申すと来れば、やれよく御出と言うのは天性である。猿が来ては、こちらへとは言わない。賓主朋友は天性である。父子君云々はぐっと本を一つにして見せたもの。「小看」は自分の目の及ばないこと。小看が仕切りのできる元である。それを払うのが大切である。それを払うと右や左の御長者様と言う乞食も自分と同じと思うことができる。それが西銘である。この語を涙の出るほどに見るのでなければ本当に合点したと言うことはできない。よくよく思って見れば仕切りはない。本へ振り返って見れば、自分の父から見れば自分の姪も甥も自分の子も皆同じ孫。ましてや兄弟は親しい筈である。然るに体が別だということが薄くなる所。「是同父出云々」。小学に「吾祖宗視之則均是子孫固無親疎」と范文正公が言っている。李華の文に「誰無兄弟如手如足」とあり、日本で御連枝と言うのもよい文字である。一つの本で南へも北へも枝が別れて出るが、本は一つである。人の兄弟もそれと同じこと。
【語釈】
・礼樂刑制は人のこしらへたもの…中庸章句1集註。「聖人因人物之所當行者而品節之、以爲法於天下、則謂之敎。若禮・樂・刑・政之屬是也。蓋人之所以爲人、道之所以爲道、聖人之所以爲敎。原其所自、無一不本於天而備於我」。
・吾祖宗より視之則均是子孫固無親踈…小学外篇嘉言。「吾呉中宗族甚衆。於吾固有親疎。然吾祖宗視之則均是子孫、固無親疎也」。
・范文正…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。仁宗に仕え辺境を守り、羌人から竜図老子と尊ばれた。989~1052
・李蕐…
・誰無兄弟如手如足…吊古戦場文。李華。「蒼蒼蒸民、誰無父母。提攜捧負、畏其不壽。誰無兄弟、如手如足。誰無夫婦、如賓如友。生也何恩、殺之何咎。其存其沒、家莫聞知」。
・連枝…兄弟。特に貴人にいう。

又問孔子以公冶長云々。是迠て第五倫かことはすみ、公冶長のことになりた。此問は上の議論を聞て出た問にあらす。兼てこふしたことを云たものの序にどふじゃと問たらしい。偖、私心と云にこまりたもの。凡夫はちょっとあらはす、はや私心かしるるものなり。避嫌と云はこちに不足ある故のこと。軽ものか私なとのやふに貧乏なものは節季には行まい、金てもかりたかるやふにみえてわるいと云。そんならそんなら金をかりたい氣はないかと云に、実は金を借たいのなり。そのやふな心て垩人の上か知るものてはない。垩人は娘がかわゆけれとも人口を思て次な方へやりたと、人につもられんなとと云ことはない。惣体此やふなことは事実て合点せよ。あそこへはあそこの娘、爰へはこの娘か丁どよいの、年の恰好かよいのと云ことかあるものなり。梁伯鸞か姉やら孔明か女房にやりたか、丁ど恰好なり。ゆきたけの合ふやふなもの。姪と我子をつれて合羽をかりるとき、せいの高いには長をかり、卑いには短のをかりる。避嫌と云は賢人分上てもせぬこと。寡婦之子は卓越なものてないと友にせぬと云も学者の戒めなり。賢者は知見か一はいになりているゆへ嫌をさける間はない。道理に合点なければ心くばりもあるか、人欲かないとらくなこと。家道は致知存養克己と來た賢人分上のこと。そこて、避嫌ことなとはとんとないことなり。
【解説】
「又問、孔子以公冶長不及南容、故以兄之子妻南容、以己之子妻公冶長。何也。曰、此亦以己之私心看聖人也。凡人避嫌者、皆内不足也。聖人自至公。何更避嫌。凡嫁女各量其才而求配。或兄之子不甚美、必擇其相稱者爲之配、己之子美、必擇其才美者爲之配。豈更避嫌耶。若孔子事、或是年不相若、或時有先後、皆不可知。以孔子爲避嫌、則大不是。如避嫌事、賢者且不爲。況聖人乎」の説明。「避嫌」は人に悪く見られることを避けること。孔子が公冶長と南容に妻を持たせる際に避嫌はなかった。賢人は知見が一杯になっているので嫌を避ける間はない。
【通釈】
「又問孔子以公冶長云々」。ここまでで第五倫のことは済み、公冶長のことになった。この問いは上の議論を聞いて出た問いではない。前々にこうしたことを言っていたのだが、序でにどうかと問うたらしい。さて、私心は困ったもの。凡夫はちょっとすると早くも私心がわかるもの。「避嫌」はこちらに不足があるからのこと。軽い者や私などの様に貧乏な者が節季には行かないことにしよう、金でも借りたがる様に見られて悪いと言う。それなら金を借りたい気はないかと言えば、実は借りたいのである。その様な心で聖人の上を知ることはできない。聖人は、娘が可愛いが人の口を思って次の方へ遣ったなどと、人に推測されることを気遣うなどということはない。総体、この様なことは事実で合点しなさい。あそこへはあそこの娘、ここへはこの娘が丁度よいとか、年の恰好がよいということがあるもの。梁伯鸞の姉とやらを孔明の女房に遣ったのが、丁度の恰好である。裄丈の合う様なもの。姪と我が子を連れて合羽を借りる時、背の高い方には長いのを借り、低い方には短いのを借りる。避嫌は賢人分上ではしないこと。寡婦の子は卓越な者でなければ友にしないと言うのも学者への戒めからである。賢者は知見が一杯になっているので嫌を避ける間はない。道理を合点していなければ心配りもあるが、人欲がないのは楽なこと。家道は致知存養克己と来た賢人分上のこと。そこで、避嫌のことなどは全くない。
【語釈】
・問孔子以公冶長…論語公冶長1。「子謂公冶長、可妻也、雖在縲絏之中、非其罪也。以其子妻之。子謂南容、邦有道不廢。邦無道免於刑戮。以其兄之子妻之」。