第十三 問孀婦於理云々の条  亥正月廿四日  慶年録
【語釈】
・亥…寛政3年辛亥。1791年。
・慶年…北田慶年。東金市福俵の人。通称太兵衛。自家を「学思斎」とし、默斎に学ぶため他郷から来る人々を宿泊させると共に、子弟をそこで教導した。

問、孀婦於理似不可取。如何。曰、然。凡取以配身也。若取失節者以配身、是己失節也。又問、或有孤孀貧窮無託者。可再嫁否。曰、只是後世怕寒餓死。故有是説。然餓死事極小、失節事極大。
【読み】
問う、孀婦[そうふ]は理に於て取[めと]る可からざるに似たり。如何、と。曰く、然り。凡そ取るは以て身に配するなり。若し節を失いし者を取りて以て身に配せば、是れ己節を失うなり、と。又問う、或は孤孀の貧窮して託する無き者有り。再嫁す可きや否や、と。曰く、只是れ後世は寒餓して死するを怕[おそ]る。故に是の説有り。然れども餓死するは事極めて小にして、節を失うは事極めて大なり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書二二下にある伊川の語。

惣体、ものを問には知ぬ道理を問もあり、相談をかける問もあり、此章は相談の問なり。又、相談にも理の方へやりたかると氣の方へやりたかるかあり、多くは人々そふなり。垩賢を学ぶと云学者迠が氣の方へやりたかるか通情なものなり。女は再嫁せぬもの。理では娶ぬ筈たがどふじゃと云。これかいやみの問で氣の方へやりたかるのなり。於理ないなら其きりな筈なり。小学でこふ説と利口めくか、近思ては心根から尋ることなり。取失節者云々。女房はかざりものにするものでなし。不埒なものを娶ると吾れも節を失ふ。朋友に義絶することあると云もそれなり。朋友は樂に磨くためなるに、不埒なものを友にすれは吾も節を失ふによって義絶することあり。あちはあちこちはこちでない。
【解説】
「問、孀婦於理似不可取。如何。曰、然。凡取以配身也。若取失節者以配身、是己失節也」の説明。女は再嫁しないのが理である。不埒な者を娶るのは朋友の義絶と同じであって、相手のために自分が節を失ってしまうのである。
【通釈】
総体、ものを問うには知らない道理を問うこともあり、相談をかける問いもあるが、この章は相談の問いである。また、相談にも理の方へ遣りたがるものと気の方へ遣りたがるものがあり、多くの人々は気の方である。聖賢を学ぶという学者までが気の方へ遣りたがるのが通情なもの。女は再嫁しないもの。理では娶らない筈だがどうかと尋ねた。これが嫌味な問いで、気の方へ遣りたがるものである。理からしないのならそれだけの筈である。小学でこの様に説くと利口めくが、近思では心根から尋ねることになる。「取失節者云々」。女房は飾り物にするものではない。不埒な者を娶ると自分も節を失う。朋友に義絶することがあるというのもそれである。朋友は楽に磨くためのものなのに、不埒な者を友にすれば自分も節を失うので義絶することがある。あちらはあちら、こちらはこちらでない。

有孤孀云々。居処立処に迷ふものをばと、そこへ曲折を入れて云のは大ひ御世話の筋なり。こちで折角世話するに及はぬ。それ々々せわするものもあろふが兎角世上の学者や吾黨にもこれをせわしたかる人多くあり。そこを程子のはたと呵った。後世怕寒餓死云々。死は小失、節は大の程子の呵りは理屈ではすむやふなれとも、偖、心にのらぬことなり。死と云ことを手輕く口眞似はならぬ。死を輕く云ものは孔子なり。朝聞道夕死可也と云へり。今人のはづかの金で額に皺をよする位で道理を聞ても中々死可と云ことは云れぬことぞ。心にのら子ば口ま子なり。此語は小学にも近思にもありて、得御意つけた語なれとも、偖心にはのり兼ることなり。迂斎の、このやふにきわどいことを垩賢が云はるるか、きわどい程のことにつまるか近思ふの吟味なり、と。此から皆も内へ帰て考てみよ。只口眞似ては役に立ぬ。今侍が何ぞのときはと云ふか、ぐにゃ々々々した侍がどふして御馬のさきの役に立ふぞ。又迂斎の爰を一端の英氣で云ことてない、と。女が非義いたづらて首もくくり、侍が一言で果し合ふこともある。そこは一端の英氣て道理てはない。道理を知ると本んに死はかるくなる。此次の出處の篇にも生不安於命の論のあるもそれなり。これと考へくらへ見るへし。
【解説】
「又問、或有孤孀貧窮無託者。可再嫁否。曰、只是後世怕寒餓死。故有是説。然餓死事極小、失節事極大」の説明。死は小失で節は大失である。それは理屈でわかったとしても、心に乗らなければならない。孔子は死を軽く言った。道理を知ると本当に死は軽くなる。しかし、それは一端の英気などではない。
【通釈】
「有孤孀云々」。居処立処に迷う者はと、そこへ曲折を入れて言うのは大きな御世話の筋である。こちらで敢えて世話をするには及ばない。それぞれで世話をする者もあるだろうが、とかく世上の学者や我が党にもこれを世話したがる人が多くいる。そこを程子がはっきりと呵った。「後世怕寒餓死云々」。死は小失で節は大失との程子の呵りは理屈ではわかる様だが、さて、心には乗らない。死ということを手軽に口真似をするのは悪い。死を軽く言う者は孔子である。「朝聞道夕死可也」と言った。今の人が僅かの金で額に皺を寄せる位では、道理を聞いても中々死可とは言えないこと。心に乗らなければ口真似である。この語は小学にも近思にもあって馴染みのある語だが、さて、心には乗り難いこと。迂斎が、この様に際どいことを聖賢が言われたが、際どいほどのことに詰まるのが近く思うことの吟味だと言った。ここから皆も家へ帰って考えて見なさい。ただ口真似では役に立たない。今侍がいざという時にはと言うが、ぐにゃぐにゃした侍がどうして御馬の先の役に立とうか。また、迂斎がここを一端の英気で言うことではないと言った。女が非義や悪戯で首をも括り、侍が一言で果し合うこともある。そこは一端の英気であって道理ではない。道理を知ると本当に死は軽くなる。この次の出処の篇に「生不安於命」の論があるのもそれでである。これと考え比べて見なさい。
【語釈】
・朝聞道夕死可也…論語里仁8。「子曰、朝聞道、夕死可矣」。
・生不安於命…出処25。「生不安於死也」。


第十四 病臥於床の条

病臥於牀、委之庸醫、比之不慈不孝。事親者、亦不可不知醫。
【読み】
牀に病臥するに、之を庸醫に委ぬるは、之を不慈不孝に比す。親に事うる者は、亦醫を知らざる可からず。
【補足】
・この条は、程氏外書一二にある明道の語。

家道の内へこの章を一条入たも面白こと。致知にありそふなを爰に出すが重ひことなり。医者に吾親を預るがこれ程大切なことはない。庸医。幷々の医のこと。此席にも医者もある。申し憎ひか今のは大概庸医なり。委と云は君のことに委致其身ともありて、君に身をうりきったものゆへ紂王が無理で下を殺すとても事君委其身。羑里へと云ても身はさし出してをく。醫者へそふさし任せてはさて々々不調法千万なり。比之不孝不慈。勝手次第に吾親を料理たいやふにせよと、めったな医者に命をあつけるなり。此吟味は大切そ。只今仲景扁鵲と云やふなはなく、大躰庸医なり。世上て老人の医をほんそふするか、老人に下手もあり、又、常はよいか此病人は見そこないと云もあり、先一人に預けると云か不調法なり。因て思ふ。とかく集議するがよい。唐ても日本ても六ヶしいことは集議と云あり。あつまりて議論をするでよし。一人に委るはわるいぞ。大勢の義論にはよい助言も出るもの。此れは手もなく舜臣有五人而天下治るなり。舜か御手前の方によいことは沢山あれとも、禹や皐陶と云あり。五人か集議せられた。不孝不慈に比すと云ふは其吟味のないで云ふことそ。不孝の心はないが、不孝になるなり。振舞には呼たが毒を食はせたのなり。
【解説】
今の医者は殆どが庸医である。そこで、医者に任せ切りにするのではなく、集議するのがよい。大勢の議論ではよい助言が出るものである。
【通釈】
家道の内にこの章を一条入れたのも面白い。致知にありそうなことをここに出すのが重いことである。医者に自分の親を預けるというほど大切なことはない。「庸医」。凡庸な医者のこと。この席に医者もいるので申し難いが、今の医者は大概庸医である。「委」とは君の事に「委致其身」ともあり、君に身を売り切ったのだから、紂王が無理を言って下の者を殺すとしても「事君委其身」なのである。羑里へ幽閉されたと言っても身は差し出して置く。医者へその様に任せ切りでは本当に不調法千万である。「比之不孝不慈」。勝手次第に、自分の親を料理したい様にしなさいと言うのは、滅多矢鱈な医者に命を預けることになる。この吟味は大切である。今は仲景や扁鵲という様な医者はいなくて大体は庸医である。世上で老人の医者を奔走するが、老人にも下手な者もあり、また、通常はよいがこの病人は見損なったということもあり、先ずは一人に預けるということが不調法である。そこで思うのだが、とかく集議するのがよい。唐でも日本でも難しいことには集議ということがある。集まって議論をするのでよい。一人に委ねるのは悪い。大勢の議論ではよい助言も出るもの。これでわけもなく「舜有臣五人而天下治」となる。舜自身によいことは沢山あるが、禹や皋陶という者がいる。五人が集議された。「比之不慈不孝」は、この吟味がないので言ったこと。不孝の心はないが、不孝になる。振舞いには呼んだが毒を食わせたということ。
【語釈】
・委致其身…論語学而7。「子夏曰、賢賢易色、事父母、能竭其力、事君、能致其身。與朋友交、言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣」。同集註に「致、猶委也。委致其身、謂不有其身也」とある。
・羑里…文王は費仲達の讒言から殷の紂王によって羑里に幽閉される。そこで伏羲の八卦を六十四卦となした。
・舜臣有五人而天下治る…論語泰伯20。「舜有臣五人而天下治」。

不可不知医。惣体のことか片手わざではゆかぬに、まして医道を知ると云ことはむづかしひことぞ。そこで程説ありて、この知るは吾することではない。醫の目利をすることを云。繪を畫ことはならぬか、これは雪舟探幽と目利はなるもの。医療手引艸に、今は世の中功者になりて白人か此病には古法家、これへは後世家と云ことあるとあり、これ目利なり。委て一偏にすると仕落ある。此れは古法家ものと云病症もあり、後世家てよいと云病症もあるぞ。此章なとも小学で見ると爰とは違ふ。近思ては致知したほどて医者の目利もならぬやふでは甲斐ないぞ。知が至ればやるものではない。近思をあけると無極而太極とある。あれを吟味する位で医の目利かならいで済ふか。私にあの医とかく合藥と云たかるかめったなことなり。疫病と云に合い藥と云ことかあらふか。医者を吟味するも時の病によりてあることぞ。火事をけすにも一手桶でしめるもあり、したたかの水をかけるもあり、石や瓦をなげかけ柱を切りて家をたをすもあり、色々消しやうあり。兎角今は素人がこしゃくを云たかり、何をもるな、小柴胡かなとさはぐは悪ごふで病人をころすか、それとは違ひ、学者は医者の差圖はかり受てはならぬ。太極隂陽の吟味をするものがこの位の目利かならぬは学者でなし。家内が治ぬでかれこれあるを公儀へ訴へて御さばきをとする俗人はきこへたが、学者は耻なり。病氣にも医の支配はかり受ることてなし。何によらずこちから差圖する程てなふてはならぬほど近思録はたちこへたことなり。
【解説】
医道は難しいものであり、そこで学者はそれを自分がするのではなく、医者の目利きをするのである。医の処方は様々あるので、医者にそれを任せるのではなく、自らが医者を指図するほどにならなければならない。近思録を読んでいながらこの位の目利きができないのであれば、それは恥である。
【通釈】
「不可不知医」。総体のことが片手業ではうまく行かないのに、ましてや医道を知るということは難しいことである。そこで程子の説があって、この知るとは自分が治療をすることではなく、医者の目利きをすることを言う。絵を画くことはできなくても、これは雪舟、これは探幽と目利きをすることはできる。医療手引草に、今は世の中が功者になって、素人がこの病には古法家、これへは後世家がよいと言うことがあるとあるが、これ目利きである。委ねて一偏にすると仕落ちがある。これは古法家の処方がよいという病症もあり、後世家がよいという病症もある。この章なども小学で見るのとは違う。近思では、致知をしたほどの者が医者の目利きもできない様では甲斐がない。知が至ればそうではない筈。近思を開けると「無極而太極」とある。あれを吟味するほどの者が医の目利きをできないで済むだろうか。あの医者はとかく私に合薬と言いたがるが、それは実に悪い。疫病というのに合薬ということがあるだろうか。医者を吟味するのも時の病によってあること。火事を消すにも手桶一つで湿ることもあり、沢山の水を掛けることもあり、石や瓦を投げ掛けて柱を切って家を倒すこともあり、色々な消し方がある。とかく今は素人が小癪なことを言いたがり、何を盛るな、小柴胡がよいなどと騒ぐのは悪功で病人を殺すことになるが、それとは違い、学者は医者の指図ばかりを受けてはならない。太極陰陽の吟味をする者がこの位の目利きができなければ学者ではない。家内が治まらなくてかれこれあるから公儀へ訴えて御裁きを受けようとする俗人であればわかるが、目利きができないのは学者にとって恥である。病気も、医者の支配ばかりを受けていては悪い。何に由らず自分から指図するほどでなくてはならない。それほどに近思録の意は立ち越えたものなのである。
【語釈】
・小柴胡…柴胡は、ミシマサイコまたは同属植物の根を乾燥した生薬。胸脇苦満を伴う諸疾患に用いる。サポニンを含有。大柴胡湯・小柴胡湯は漢方で重要な処方。


第十五 程子葬父の条

程子葬父、使周恭叔主客。客欲酒。恭叔以告。先生曰、勿陷人於惡。
【読み】
程子父を葬るとき、周恭叔をして客を主[つかさど]らしむ。客酒を欲す。恭叔以て告ぐ。先生曰く、人を惡に陷ること勿かれ、と。
【補足】
・この条は、程氏外書七にある。尚、伊川の父は程珦[ていきょう]。1006~1090

この程子は伊川にかきることなり。主客。喪のとき客のあしらいする役なり。客欲酒云々。葬に来た客が礼が明でないから御酒は々々々と云た。これがわる心で云たことてはない。一統このときも酒を呑ゆへ酒を禁するか礼と云ふを知ず、伊川の家風をしらぬで云ことなり。以告。ここらを氣を付よ。呑ぬを礼と知ぬで云ゆへ恭叔もこまって伺たこととみゆる。此客もそのぶんにされぬ客なるへし。勿陥人於悪。知ぬゆへ道じゃ穴はないと思てゆくを、ほんと穴へをとすやふなものそ、と。此語か深切ななり。そふしてきひしい語そ。向は礼を知ぬて呑ものと思ふか、こちては礼を行ゆへのまさぬぞ。喪のこと、天下一統此のやふな理かあり、只今一同養子にも出るか、そこを知らぬ人は挌別。学者がそれを世話するはをとし穴へ入るなり。そこがやはり上の条の孀婦無託はと云に同しことで、それを世話するが落し穴へなり。今の学者衆人愛敬と郷愿めくなり。とかく人を世話するがあるか、学者はとかく切れはなれたかよい。伊川のこふ云たから、呑ことも呑ますることもならぬ。此処が潔靜精微なり。いかふぶしつけにをもふは俗情なり。理はかりにして氣をよせつけぬことで、無極にして太極の理はかりてするなれとも、又、極老の人の吊ていたく泣く。これは挌別のまぬこともあるべし。穴を掘ものの手がこごへる寒さにはこれもゆるす。理には形ないものて、ここか太極の理のとりさばきなり。こふわたるのか太極の理のすんたのなり。これを云のも今の虚文の礼者と云がある。ただひんとした顔ばかりするか礼てはない。これも思べきことなり。
【解説】
葬儀に酒を出さないのが程子の家の礼であり、それを知らない者が酒を所望しても酒は出さずに放って置く。酒を出さないのが礼であることをその人に教えるのは、その人を悪に陥らせるのと同じことだから放って置くのである。但し、その葬儀でも酒を出す時もある。それは理に従ってするのである。
【通釈】
この程子とは伊川ということに限る。「主客」。喪の時に客をもてなす役である。「客欲酒云々」。葬に来た客が礼が明でないから御酒はどうしたのかと言った。これは悪心で言ったことではない。総じてこの様な時も酒を呑むので、酒を禁じるのが礼だということを知らなかったのであり、伊川の家風を知らなかったので言ったのである。「以告」。ここ等を気を付けなさい。呑まないことを礼と知らないので言ったのだから恭叔も困って伺ったことと見える。この客もそのままにしては置けない客だったのだろう。「勿陥人於悪」。知らないのであって、それは道に穴はないと思って行くところを、ぽんと穴へ落とす様なもだと言った。この語が深切なことであり、また、厳しい語である。向こうは礼を知らないので呑むものだと思うが、こちらでは礼を行うので呑まさない。喪のことでは、天下に総じてこの様な理があり、只今一同も養子にも出ることもあるが、そこを知らない人は格別なのである。学者がその世話をするのはその人を落し穴に入れることになる。そこがやはり上の条の「孀婦無託」と尋ねるのと同じことで、それを世話するのは落し穴へ入れることになる。今の学者は衆人愛敬と郷愿めく。とかく人の世話をすることがあるが、学者はとかく切れ離れるのがよい。伊川がこの様に言ったからは、呑むことも呑ますこともできない。この処が潔静精微である。それを大層不躾なことだと思うのは俗情である。これは理ばかりで気を寄せ付けないことで、無極而太極の理ばかりですることだが、また、極老の人が引きつって大層泣けば、格別に呑ませることもあるだろう。穴を掘る者の手が凍えるほどの寒さではこれにも許す。理には形がないのであって、ここが太極の理の取り捌きである。この様にするのが太極の理の済んだことなのである。これを言うのも今、虚文の礼者という者がいるからである。ただ厳な顔ばかりをするのが礼ではない。これも思うべきことである。
【語釈】
・恭叔…周恭叔。周行己。伊川の門人。
・孀婦無託…家道13。「或有孤孀貧窮無託者。可再嫁否」。


第十六 置乳婢多不得已の条

買乳婢、多不得已。或不能自乳、必使人。然食己子而殺人之子、非道。必不得已、用二子乳食三子。足備他虞。或乳母病且死、則不爲害。又不爲己子殺人之子。但有所費。若不幸致誤其子、害孰大焉。
【読み】
乳婢を買うは、多く已むを得ざるなり。或は自ら乳すること能わざれば、必ず人にせしむ。然れども己の子を食[やしな]いて人の子を殺すは、道に非ず。必ず已むを得ずんば、二子の乳を用いて三子を食え。他の虞に備うるに足らん。或は乳母病み且つ死すとも、則ち害を爲さず。又己の子の爲に人の子を殺さず。但費す所有るのみ。若し不幸にして其の子を誤るを致さば、害孰れか大ならん。
【補足】
・この条は、程氏外書一〇にある。

乳母は女房に乳のないて已むことなく抱へる。困究のものは其給金て田地受返すの、借金をなすのとて出る。吾子は爺や婆かすりこをなめさしておくが、乳をはなれたて殺人之子ことあり、甚非道なり。用二乳食三子云々。乳母を二人抱て、さきの子二人吾子と三子を養へとなり。こんなことを聞くと今の人は十露盤にあわぬて氣にいらぬ。道理をするに十露盤は出さぬことなり。十露盤が出る、道理は耳へ入らぬものそ。古の葬は棺槨か厚いと云。私か身帯では中々ならぬと云。もふ十露盤なり。周公旦のめったなことは云やらぬ。五畝之宅植之以桑を始として、法度か立てをる。こふすると隨分百姓てもあつく葬らるる。今田舎昏礼は娘を葛篭馬てやる。あのときはひじをはる。これを親の死たときと競べて見よ。ぜひしよふとすれはあつくも出来ることなり。
【解説】
乳母は已むを得ず雇うのだが、雇ったせいで乳母の子を死なせるようなことがあってはならないから、乳母を二人雇うのがよい。それは費用が嵩むからできないと言うのは算盤上のことであって、道理をするのに算盤を使ってはならない。
【通釈】
乳母は、女房の乳が出ないので已むを得ず抱えるのである。困窮している者はその給金で田地を受け返したり、借金を返したりする。それで、自分の子は爺や婆が磨粉を舐めさせて置くので、乳を離れたことによって「殺人之子」ということになることがある。それは甚だ非道である。「用二乳食三子云々」。乳母を二人抱えて、相手の子二人と自分の子と三子を養えと言う。こんなことを聞くと今の人は算盤が合わないので、それが気に入らない。しかし、道理をするのに算盤は出さない。算盤が出ると道理は耳へ入らないもの。古の葬は棺槨が厚いという。私の身帯では、中々それはできないと言う。それがもう算盤である。周公旦は滅多なことは言い付けない。「五畝之宅植之以桑」を始めとして、法度が立っている。こうすると百姓でも随分と厚く葬むることができる。今、田舎の婚礼は娘を葛篭馬で遣る。あの時は見栄を張る。これを親の死んだ時と比べて見なさい。是非しようとすれば厚くもできるのである。
【語釈】
・五畝之宅植之以桑…孟子梁恵王章句上3及び7。「五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣」。

但有所費。物入と云字て耳に入るまいなり。若不幸云々。先きの子が死たら何とせふ。こちの心のすまぬことなり。凡夫は金を出して買きってをいたもの、子ともか死たとてこちの咎てはなしと云たかる。なるほと公事にもならぬか害孰大焉と垩賢の心はちごふ。凡夫はあちらこちらなり。論語の見義不爲無勇なり。又非其鬼祭之諂也。此二つをみよ。凡夫はとかくあちらこちらなり。祭るまじきものをは祈るか利害からなり。義を見てはせぬ。すべきをせず、すまじきをするなり。奉公てもするもの。心耻しひことあるへし。從弟か煩ふても見回はぬに、家老の子がちっと煩ふ、直に見廻ふ。利害のためなり。上み段々死は小にして失節の大も不慈不孝も勿陥人於悪もここの害孰大焉と云ふも皆此方の心へたたる。心へ々々と來たもの。此近思の眼にて、近思は皆心からなり。
【解説】
凡夫は利害で事を量り、すべきをせず、してはならないことをするが、義を見ればそれはしない筈である。
【通釈】
「但有所費」。物入りということだから耳に入らないのだろう。「若不幸云々」。相手の子が死んだら何とするのか。それは、こちらの心の済まないことである。凡夫であれば、金を出して乳母を買い切って置いたのだから、子供が死んだからといって自分の咎ではないと言いたがる。なるほど公事にもならないが「害孰大焉」と言う聖賢の心はそれとは違う。凡夫はあちらこちらである。論語の「見義不為無勇」である。また、「非其鬼祭之諂也」とある。この二つを見なさい。凡夫はとかくあちらこちらである。祭るべきでないものを祈るが、それは利害からするのである。義を見ればそうはしない。すべきをせず、してはならないことをするのは奉公でもあるもので、心恥ずかしいことである。従弟が患っても見舞わないのに、家老の子が少し患っても直ぐに見舞う。それは利害のためである。上の段々にある「餓死事極小失節事極大」も「不慈不孝」も「勿陥人於悪」もここの害孰大焉というのも皆自分の心へ祟ったもの。心へと来るのが近思の眼であり、近思は皆心からのことなのである。
【語釈】
・見義不爲無勇…論語為政24。「子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不爲、無勇也」。
・死は小にして失節の大…家道13。「然餓死事極小、失節事極大」。
・不慈不孝…家道14の語。
・勿陥人於悪…家道15の語。


第十七 先公太中云々の条

先公太中、諱珦、字伯温。前後五得任子、以均諸父子孫。嫁遺孤女、必盡其力。所得俸錢、分贍親戚之貧者。伯母劉氏寡居、公奉養甚至。其女之夫死、公迎從女兄以歸。敎養其子、均於子姪。既而女兄之女又寡。公懼女兄之悲思、又取甥女以歸嫁之。時小官祿薄、克己爲義、人以爲難。公慈恕而剛斷。平居與幼賤處、惟恐有傷其意。至於犯義理、則不假也。左右使令之人、無日不察其飢飽寒燠。娶侯氏。侯夫人事舅姑、以孝謹稱、與先公相待如賓客。先公賴其内助、禮敬尤至。而夫人謙順自牧、雖小事未嘗專、必稟而後行。仁恕寛厚、撫愛諸庶、不異己出。從叔幼孤。夫人存視、常均己子。治家有法、不嚴而整。不喜笞扑奴婢、視小臧獲如兒女。諸子或加呵責、必戒之曰、貴賤雖殊、人則一也。汝如是大時、能爲此事否。先公凡有所怒、必爲之寛解、唯諸兒有過、則不掩也。常曰、子之所以不肖者、由母蔽其過而父不知也。夫人男子六人、所存惟二。其慈愛可謂至矣。然於敎之之道、不少假也。纔數歳、行而或踣。家人走前扶抱、恐其驚啼。夫人未嘗不呵責。曰、汝若安徐、寧至踣乎。飮食常置之坐側。嘗食絮羹、皆叱止之。曰、幼求稱欲、長當如何。雖使令輩、不得以惡言罵之。故頤兄弟平生、於飮食衣服無所擇、不能惡言罵人。非性然也。敎之使然也。與人爭忿、雖直不右。曰、患其不能屈、不患其不能伸。及稍長、常使從善師友遊。雖居貧、或欲延客、則喜而爲之具。夫人七八歳時、誦古詩曰、女子不夜出、夜出秉明燭、自是日暮則不復出房閤。既長、好文而不爲辭章。見世之婦女以文章筆札傳於人者、則深以爲非。
【読み】
先公太中、諱は珦[きょう]、字は伯温。前後五たび任子を得て、以て諸父の子孫に均しくせり。孤女を嫁遣するには、必ず其の力を盡くす。得る所の俸錢は、分かちて親戚の貧しき者に贍[た]せり。伯母劉氏寡居せしとき、公の奉養甚だ至れり。其の女の夫死せしとき、公は從女兄を迎えて以て歸る。其の子を敎養すること、子姪[してつ]に均し。既にして女兄の女又寡なり。公は女兄の悲思するを懼れ、又甥女を取りて以て歸り之を嫁せしむ。時に小官にして祿薄く、己に克ち義を爲すは、人以て難しと爲す。公は慈恕にして剛斷なり。平居幼賤と處るに、惟其の意を傷ること有らんことを恐る。義理を犯すに至りては、則ち假さざるなり。左右使令の人は、日として飢飽寒燠を察せざること無し。侯氏を娶る。侯夫人の舅姑に事うる、孝謹を以て稱せられ、先公と相待つこと賓客の如し。先公其の内助に賴り、禮敬尤も至れり。而して夫人は謙順もて自ら牧し、小事と雖も未だ嘗て專らにせず、必ず稟[つ]げて後に行えり。仁恕寛厚にして、諸庶を撫愛すること、己出に異ならず。從叔幼にして孤なり。夫人存視すること、常に己の子に均し。家を治むるに法有り、嚴にせずして整う。奴婢を笞扑するを喜ばず、小臧獲を視ること兒女の如し。諸子或は呵責を加うれば、必ず之を戒めて曰く、貴賤は殊なりと雖も、人は則ち一なり。汝是の如く大なる時、能く此の事を爲せるや否や、と。先公凡そ怒る所有るときは、必ず之が爲に寛解せるも、唯諸兒に過有るときは、則ち掩わず。常に曰く、子の不肖なる所以の者は、母其の過を蔽いて父知らざるに由るなり、と。夫人は男子六人なりしも、存する所は惟二のみ。其の慈愛は至れりと謂う可し。然れども之を敎うる道に於て、少しも假せず。纔かに數歳のとき、行きて或は踣[たう]る。家人走り前[すす]みて扶抱し、其の驚啼せんことを恐る。夫人未だ嘗て呵責せずんばあらず。曰く、汝若し安徐たらば、寧んぞ踣るるに至らん、と。飮食するときは常に之を坐側に置く。食を嘗め羹を絮[ととの]うれば、皆叱り之を止む。曰く、幼きとき欲に稱[かな]えんことを求めば、長じたるとき當に如何なるべき、と。使令の輩と雖も、惡言を以て之を罵るを得ず。故に頤兄弟は平生、飮食衣服に於て擇ぶ所無く、惡言もて人を罵ること能わず。性の然るに非ざるなり。敎の然らしむるなり。人と爭忿せば、直なりと雖も右とせず。曰く、其の屈すること能わざるを患え、其の伸ぶること能わざるを患えず、と。稍長ずるに及び、常に善き師友に從いて遊ばしむ。貧に居ると雖も、或は客を延[まね]かんと欲せば、則ち喜びて之が具を爲せり。夫人七八歳の時、古詩を誦するに曰く、女子は夜には出でず、夜出づるには明燭を秉る、と、是より日暮るるときは則ち復房閤を出でず。既に長じ、文を好めども辭章を爲[つく]らず。世の婦女の文章筆札を以て人に傳うる者を見れば、則ち深く以て非と爲せり。
【補足】
・この条は、程氏文集一二にある。

任子と云ふは前漢から初たことそふなり。父の役について子かとりあけらるることを云。太中。こちの從四位くらい。今も所司代なとか太中太夫にあたる。此方にも父の官によってすすむ任子めいたこともあるが、しっかとはあたらず。あの方ては任子の恩が吾子姪自由になることとみゆる。そこで、均諸父子孫と云をみよ。從兄弟や何かゆかりの親族へ任子の恩わり付てあてがふたことなり。俸錢分贍云々。御藏米をとる、親類の貧乏ものに分けてつかわす。伯母劉氏寡居云々。伯母は太中のをぢよめ。迎從女兄。をちよめの娘なれはもとより伯父の女。太中のために從女兄そ。いとこめと云。其うんた子と云は他姓へ嫁した異姓なれとも、いとこをいのつづきなり。それをつれて來て手前の子や姪のやふにせられた。甥女は姉の娘。して、外姓のめいなり。上に女兄女寡とある女なり。姉の娘のやもめになりたをつれてきた。
【解説】
「先公太中、諱珦、字伯温。前後五得任子、以均諸父子孫。嫁遺孤女、必盡其力。所得俸錢、分贍親戚之貧者。伯母劉氏寡居、公奉養甚至。其女之夫死、公迎從女兄以歸」の説明。程子の父は任子で、親類が役に就く便宜を図り、貧乏な親類には援助をした。伯母の娘を自家に連れて来て世話をした。
【通釈】
「任子」は前漢から始まったそうだ。父が役に就いて子が採り上げられることを言う。「太中」。日本での従四位くらいの職。今も所司代などが太中大夫に当たる。こちらでも父の官によって薦める任子めいたこともあるが、それとぴったりとは当て嵌らない。あの方では任子の恩が我が子や姪にまで自由に及ぶことと見える。そこで、「均諸父子孫」というのを見なさい。従兄弟や何か縁の親族へ任子の恩を割り付けて宛ったのである。「俸銭分贍云々」。御蔵米を得れば親類の貧乏者に分けて遣わす。「伯母劉氏寡居云々」。伯母は太中の伯父嫁。「迎従女兄」。伯父嫁の娘であれば元より伯父の娘。太中にとっては従女兄である。それを従兄女と言う。その産んだ子というのは他姓へ嫁いだので異姓だが、従兄甥の血縁である。それを連れて来て自分の子や姪の様に世話をされた。甥女は姉の娘で外姓の姪である。上に女兄女寡とある女のこと。姉の娘で寡婦になった者を連れて来た。

以帰て嫁之と云は再嫁させたこと。爰は一つふしんあることなり。此は太中の權道を行ふたことと思へ。權道は垩人計でなく、太中ほどになると權道が行はるる。惣体こふした類はあることなり。是がわるいなら、父のために忌むべし。それに伊川行状に記し、朱子もこれを載られたは、これてよいしむけと見へた。人を治るしかたには、今日学者役をつとむる上にもそんなら先つあれはこふしてと云治め方もあり、此は必竟すみの方へをしつけてをくやふなものなり。理と云ものは限りないものゆへ、處事上てはこんなこともあるはつそ。此甥女にはこれか丁どの処と見て取たこととみゆ。これで見れは娚女の人抦がしるる。貞女の志を太中か奪ふ筈はなし。定て笄には團十郎が紋てもつけたろふ。片附ずに若後家てをいたらばとの様なことを仕出そふも知れぬ。姉御に苦労させまいためそ。再嫁させたは、つまりごみはきへ捨てたのなり。これも治めるの治め方ぞ。近思をよむとも氣を附よ。
【解説】
「敎養其子、均於子姪。既而女兄之女又寡。公懼女兄之悲思、又取甥女以歸嫁之」の説明。再嫁させたのは先公の権道であり、塵を掃いて捨てたのと同じである。
【通釈】
「以帰嫁之」というのは再嫁させたこと。ここは一つ不審のあること。ここは太中が権道を行ったと思いなさい。権道は聖人だけではなく、太中ほどになると権道を行なうことができる。総体こうした類はあることで、これが悪いのであれば、父のために忌まなければならないこと。それに伊川がこれを行状に記し、朱子もこれを近思録に載せられたのは、これがよい仕向けと見たからである。人を治める仕方には、今日学者役を勤める上でも、それなら先ずあれはこうしてという治め方もあって、ここは畢竟隅の方へ押し付けて置く様なものなのである。理というものは限りないものなので、事を処す上ではこんなこともある筈。この甥女にはこれが丁度の処と見て取ったものと見える。これで見れば娚女の人柄が知れる。貞女の志を太中が奪う筈はない。きっと笄[こうがい]には団十郎の紋でも付けたことだろう。片付けずに若後家で置いていてはどの様なことを仕出すかも知れない。これは姉御に苦労させないためのこと。再嫁させたのは、つまり塵を掃いて捨てたのである。これも治める一策である。近思も気を付けて読みなさい。
【語釈】
・權道…孟子梁惠王章句上7及び17に権道の記載がある。

前に餓死小失節大と御定りを出してをいて、又こふ治めるそ。くい付てはいかぬ。まつ泰伯文王の至德を出して、それから易中庸て湯武の放伐も順天應人と云が丁どの義に叶ふ所ぞ。權道と云はか子て出すことはない。そのときより処なくする。兼て再嫁を計すはわるい。鳩巣東渓は兼てから再嫁にも次第あると云ふ。入らざることなり。克己のやふに重く云ことでなし。手前の方は打すててなり。為義と云段になるときりこんてしたことなり。親類を世話するにもそふ々々はをれもならぬと云ふ。克己でない処なり。爲義は、我は寒中布子一つでもこれはすると云意なり。
【解説】
「時小官祿薄、克己爲義、人以爲難」の説明。権道は予め計ってするものではない。ここの克己は自分を打ち捨てること。義を為す時には身を捨ててそれをした。
【通釈】
前に「餓死小失節大」と御定まりを出して置いて、またこの様に治めるのである。急いではうまく行かない。先ず泰伯や文王の至徳を出して、それから易や中庸で、湯武の放伐も「順天応人」と言うのが丁度の義に叶う所である。権道は予め出すものではない。その時に仕方なくすること。予め再嫁を計るのは悪い。室鳩巣や伊藤東涯は再嫁にも予め次第があると言うが、それは余計なお世話である。ここは克己の様に重く言うことでなく、自分の方を打ち捨てること。「為義」という段になると切り込んでしたのである。親類の世話をするのも毎度は俺もできないと言うのは克己でない処。為義は、自分は寒中布子一つでもこれはするという意である。
【語釈】
・餓死小失節大…家道13。「然餓死事極小、失節事極大」。
・順天應人…易経革卦彖伝。「湯武革命、順乎天而應乎人」。

公慈恕而剛断云々。中に而の字あるて氣をつけよ。而は両方をもったことなり。慈恕は思ひやりの深ひこと。慈恕斗では埒かないか、そこをあとの剛断て丁となり。平居はつ子になり。恐有傷其意は慈恕を云。犯義理則不假也は剛断を云。皆上の句を述云たこと。慈恕なものはぐにゃ々々々するものじゃか義理に違ふ。そこをゆるさず剛断にするなり。意を傷ふを恐ると云か君子の心いきなり。たとへは漫頭に飽た処へ土産に漫頭かふてくると、これは明日のたのしみと云やふなこと。此でをして知るべし。左右使令人云々。われは薄着ではないか、ひだるくはないかとせわをやく。仁者の氣象なり。兎角前に上總の学者なと心得違ふ。人をあしろふのは飢と寒を子んころにすへし。それを、空服をこらへさせるか功学になるなとと云たがり、いやかるものを喰するがよいなどと云たかる。そふしたとて君子になることにあらす。遠方のものには中食を振舞ても、又間があらは、遠方じゃから又食ふてと心をつけよふことなり。まして召つかひなど此でうかみあがることなり。
【解説】
「公慈恕而剛斷。平居與幼賤處、惟恐有傷其意。至於犯義理、則不假也。左右使令之人、無日不察其飢飽寒燠」の説明。先公は慈恕と剛断を兼ね具えていた。それは召使いに対しても同じで、気配りを忘れなかった。
【通釈】
「公慈恕而剛断云々」。中に「而」の字あるのを気を付けて見なさい。而は両方を持つこと。慈恕は思い遣りの深いこと。慈恕ばかりでは埒はないが、そこを後の剛断で丁度になる。「平居」は常にということ。「恐有傷其意」は慈恕のことで、「犯義理則不仮也」は剛断のこと。皆上の句を述べたこと。慈恕なものはぐにゃぐにゃするもので義理に違う。そこを許さず剛断にするのである。「恐有傷其意」というのが君子の心意気である。たとえば饅頭に飽きた処へ土産に饅頭を買って来ると、これは明日の楽しみにすると言う様なこと。それで推して知りなさい。「左右使令人云々」。お前は薄着ではないか、空腹ではないかと世話を焼く。それが仁者の気象である。とかく上総の学者などの心得はそれ以前で違う。人を扱うには飢えと寒さと懇ろにするのがよいとして、空服を堪えさせるのが功学になるなどと言いたがり、嫌がる物を喰わすのがよいなどと言いたがる。その様にしたとしても、それが君子になることではない。遠方の者には昼食を振舞ってもまだ間があれば、遠方だからまた食べなさいと心を付けるのである。ましてそれが召使いなどならこれで浮かれ上がることになる。

侯夫人事舅姑云々。伊川の両親の行状を合せて、これよりは母公のことなり。夫婦相待如賓客と云ことむかしからよいことになりて、冀鈌褥。又、龐公がことやら小学にもあり、夫婦中のたはれたは家内がぐったりとなるもの。夫婦はしたしいものゆへ馴れ々々しくなる。家の乱るもとなり。そこで如賓と云かいつもよい註文なり。互にしゃんとするてよい。天地が夫婦なれとも、上に天かしゃんとしている。地は下に居て少ともなれ々々しい躰はない。これが夫婦の手本なり。頼内助。頼は倚頼の頼なり。蒙求にも袁安倚頼とあり、今ときの女房と云ものはさま々々な女だてら。我が女ざかしの持出しをして家をみぢんにするに、侯夫人如此賢女なり。そこで太中が頼内助とあるは奧方の方をあてにせられた意なり。某が母などがすこし似た。とかく婦人の德はよいのはよく振合の似たものぞ。迂斎は母まかせて内のことにはとんと搆はなんた。某なとをしこむも皆母であった。某など今下女一人つこふ。あれらを召つかふのか、多くは母のま子をしてつかふなり。
【解説】
「娶侯氏。侯夫人事舅姑、以孝謹稱、與先公相待如賓客。先公賴其内助、禮敬尤至」の説明。夫婦は親しいものだが、馴れ馴れしくすることで家が乱れる。天地は夫婦だが、天と地は馴れ馴れしくない。迂斎は家のことには構わなかったので黙斎を仕込んだのは母だった。黙斎の母は侯夫人と似たところがあった。
【通釈】
「侯夫人事舅姑云々」。この章は伊川の両親の行状を合わせて述べたもので、これからは母公のこと。「夫婦相待如賓客」というのが昔からよいことであって、冀缺耨や龐公のことなどが小学にもあり、夫婦仲が戯れると家内がぐったりとなるもの。夫婦は親しいものなので馴れ馴れしくなる。それが家の乱れるもとである。そこで「如賓」というのがいつもよい注文である。互いにしゃんとするのでよい。天地は夫婦だが、上に天がしゃんとしていて、地は下にいて少しも馴れ馴れしい様子はない。これが夫婦の手本である。「頼内助」。頼は倚頼の頼である。蒙求にも「袁安倚頼」とあり、今時の女房という者は様々な女だてらで自分の女賢しを持ち出して家を微塵にするが、「侯夫人如此賢女」である。そこで、太中が頼内助とあるのは奥方の方を当てにされた意である。私の母などが少しそれに似ている。とかく徳のよい婦人がすることは似ているもの。迂斎は母任せで家のことには全く構わなかった。私などを仕込むのも皆母だった。私などが今下女を一人使っているが、あれ等を召使うのが、多くは母の真似をして使っているのである。
【語釈】
・冀鈌褥…小学内篇稽古。「臼季使過冀、見冀缺耨其妻饁之敬相待如賓、與之歸言諸文公曰、敬德之聚也。能敬必有德。德以治民。君請用之。臣聞出門如賓承事如祭仁之則也。文公爲下軍大夫」。
・龐公…小学外篇善行。「龐公未嘗入城府、夫妻相敬如賓。劉表候之。龐公釋耕於壟上而妻子耘於前。表指而問曰、先生苦居畎畒而不肯官祿。後世何以遺子孫乎。龐公曰、世人皆遺之以危。今獨遺之以安。雖所遺不同未爲所遺也。表嘆息而去」。
・蒙求…児童・初学者用教科書。唐の李瀚撰。三巻。中国古代から南北朝までの有名な人物の、類似する言行二つずつを配して四字句の韻語で記し、経・史・子類中の故実を知るのに便にした書。計596句。
・袁安倚頼…

自牧の字、出処あるべし。雖小事未嘗專云々。家内のことは其方まかせと云ふに、それを專らにせずて唐津の土産の蕪骨を今日の御客のにつかひましょうかと問。其れ式のことを聞に及はぬと云。軽ひこと迠も問ひ、取上け婆々にくはせる料理迠のことを聞き、專らにせぬなり。地は天次第のものて、いや旱り過るの降りすきるのとは云はす、だまって居る。嬶の市兵衛はさん々々なことなり。撫愛諸庶云々。是は妾腹のことなり。これを可愛かるか女の第一のことて、坤は吝る嗇と易にあり、女はしわいものじゃか、女に吝惜くないものもあるか、ただ妾の子と出る。ここでは大躰の女がほろを乱す。妾腹の子に出合ふとここで阴物をあらはすものなれとも、そこを不異己出。わが産出した子のやふにする。此八字で母公の德は書ききったことなり。これで文王の后ても侯夫人でも婦人の德此れで足ったことなり。餘は、皆よいは知れる。
【解説】
「而夫人謙順自牧、雖小事未嘗專、必稟而後行。仁恕寛厚、撫愛諸庶、不異己出」の説明。家のことは侯夫人任せだが、彼女はそれを専断しなかった。天地でも地は天に従うのである。妾腹の子でも自分の子と同様に扱った。
【通釈】
「自牧」の字には出処があるのだろう。「雖小事未嘗専云々」。家内のことは妻任せというのに、それを専らにせず、唐津の土産の蕪骨を今日のお客の膳に使いましょうかと問う。それほどのことを聞くには及ばないと言っても、軽いことまでも問い、取り上げ婆に食わせる料理のことまでを聞き、専らにしない。地は天次第であり、旱り過ぎるとか降り過ぎるとは言わずに黙っている。嬶市兵衛は散々なこと。「撫愛諸庶云々」。これは妾腹のこと。これを可愛いがるのが女の第一のことで、坤は吝嗇と易にあって女は吝いもの。それでも女に吝惜しくない者もいるが、ただ妾の子となると大体の女が気色ばむ。妾腹の子に出合うとここで陰物を現すものだが、そこを「不異己出」。自分の産出した子の様に扱う。この八字で母公の徳は書き切った。文王の后でも侯夫人でも婦人の徳はこれで足り切った。その他のことが皆よいのはこれで知れる。
【語釈】
・嬶の市兵衛…嚊左衛門という言葉はある。男まさりの意を含ませて、妻を戯れに呼ぶ称。
・坤は吝る嗇…易経説卦伝11。「坤爲地、爲母、爲布、爲釡、爲吝嗇、爲均、爲子母牛、爲大輿、爲文、爲衆、爲柄、其於地也爲黑」。

從叔幼孤云々。一つ此行状の名指を知ふことなり。初からこれ迠は伊川のつつきでは書ぬか、爰は初伊川につづきて書たことと見るへし。從叔は色々に取らるる。父の字をそへると從叔父で、いとこをぢのことになる。爰の從叔の叔の字は弟の字と同し。從弟のことになる。伊川の御手前の從弟のことをさす。此れには相よみあり。伊川の從弟か孤て九歳でこちへ來て、それが程家の世話に成たことあると覚た。此れに極ったことぞ。婦人存視云々。手前の子のとをりにいとをしまれた。此を夫人の手前の從叔と見てはよふない。今婦人も里方のことは丁寧にするものなり。それでは稱するに及ぬ。これは亭主のためには姪を、子とものためには從弟同士なるに、それを吾子に同様にすると云ことは至て心入のちがふことなり。今十次郎方にも姪を養てをるが、十次が女房が其子を吾子と同様にするかせぬかは知らぬか、それをわか子とも同様になされたことなり。
【解説】
「從叔幼孤。夫人存視、常均己子」の説明。伊川の従弟が九歳から程家の世話になったが、侯夫人は自分の子と同様に扱った。
【通釈】
「従叔幼孤云々」。一つこの行状の名指しを知らなければならない。初めからこれまでは伊川に関連して書いたものではないが、ここは初めて伊川に関連して書いたことだと見なさい。従叔は色々に取ることができる。父の字を添えると従叔父で、従弟叔父のことになる。ここの従叔の叔の字は弟という字と同じで、従弟のことになる。伊川自らの従弟のことを指す。これには証拠がある。伊川の従弟が孤り九歳でこちらへ来て、その人が程家の世話になったことがあった筈である。これに極まった。「婦人存視云々」。自分の子の通りにいとおしまれた。ここを夫人自らの従叔と見てはよくない。今婦人も里方のことは丁寧にするもの。それでは称するには及ばない。亭主にとっては姪で、子供にとっては従弟同士である者を、我が子と同様にするということは至って心入れの違うことである。今十次郎方でも姪を養っているが、十次の女房がその子を我が子と同様にするのかしないのかは知らないが、それを自分の子供と同様に扱ったのである。
【語釈】
・相よみ…相読み。一緒に立ち会う人。証人。
・十次郎…中田重次(重次郎)。東金市堀上の人。~寛政2年(1798)11月

不嚴而整。女の德にはとふも云へぬことて、某なとがあの取るに足らぬ下女をよふ々々嚴でととのへるに、不嚴而整と云はさて々々及もないことなり。ゆるくてもどこそて釘がきくそふでよく整ふたなり。爰は垩人に近よった程でなけれはならぬことなり。笞扑奴婢云々。今こちてはないゆへ知れぬが、あちでは笞扑と云ふか家内のしをきにあり、朝鮮人の征はい棒のやふに聊のことかあると言ば数云はずにしっへいで打つか法なり。此れは君子もするか、夫人はそれを大ふいたみ思はれたなり。臧は、小でっちのこと。獲は、小あまのこと。如兒女。わが子とものやふにしたぞ。
【解説】
「治家有法、不嚴而整。不喜笞扑奴婢、視小臧獲如兒女」の説明。侯夫人は厳ではなかったが、家は整っていた。また、使用人を笞扑するのを嫌い、丁稚達を自分の子供と同じく扱った。
【通釈】
「不厳而整」。女の徳はどうも言い表せないことで、私などがあの取るに足りない下女を漸く厳で整えるのに、不厳而整とは全く及びもつかないことである。緩くてもどこかで釘が利くのでよく整うのである。ここは聖人に近寄ったほどでなければできないこと。「笞朴奴婢云々」。今日本ではこれがないのでわからないが、あちらでは笞扑ということが家内の仕置きにあり、朝鮮人の成敗棒の様に些かのことがあると言えば数言わずに竹箆で打つのが法である。これは君子もするが、夫人はそれを大分酷いことだと思われた。臧は小丁稚のこと。獲は小尼のこと。「如兒女」。自分の子供の様に対応した。
【語釈】
・征はい棒…成敗棒。罪人をうちこらす棒。
・しっへい…竹箆。禅家で、師家が修行者の指導に用いる竹製の杖。

諸子加呵責。伊川の口上に、をらが子とものとき彼らをしかるを母がいこう戒た。人則一也。あの年ごろてわいらがああなるか、必呵りやるなと、今とき惣体人遣のわるい中にも小もりなとをむごくすると云は別してにか々々しい。わか子が可愛でもりをつけるに、その子と相生のこもり小でっちを、吾子は寒かろふ、もちっと寐せてをけと云ひ、小でっちは起るとやれそこをふけ、あそこを掃けといじりつこふ。さりとはむこいことなり。爲之寛解。小丁稚か不調法があるときは云わけしてやり、子とものをは取なしをされぬ。ここの存寄が深ひ思入なり。俗人でからがなんと云ても父の方は仕をきをもするから子のためになるか、とかく母がかげひなたと取りなし、父へかくす。訶るへきことをすててをくで不肖になる。孟母の三遷も程母の心も違はぬしこみやふなり。
【解説】
「諸子或加呵責、必戒之曰、貴賤雖殊、人則一也。汝如是大時、能爲此事否。先公凡有所怒、必爲之寛解、唯諸兒有過、則不掩也。常曰、子之所以不肖者、由母蔽其過而父不知也」の説明。自分の子は甘やかすのに、丁稚などは酷く使うもの。それは酷いこと。特に母は取りなしをして父に隠すから子が不肖となる。侯夫人は小丁稚に不調法があると言い訳をしてやるが、子供の場合は取りなしをしなかった。
【通釈】
「諸子加呵責」。伊川の口上に、俺が子供の時に彼等を呵るのを母が大層戒めたとある。「人則一也」。あの年頃でお前達があの様にできるか、決して呵ったりするなと言った。今時総体に人使いの悪い中にあっても、子守などを酷くするというのは特に苦々しいこと。我が子が可愛いので守を付けるのに、その子と同じ年頃の子守や小丁稚に対して、自分の子は寒いだろうからもう少し寝かせて置けと言いながら、小丁稚は起きるとやれそこを拭け、あそこを掃けと弄り使う。それは酷いこと。「為之寛解」。小丁稚に不調法がある時は言い訳をしてやるが、子供の場合は取りなしをしなかった。ここの存じ寄りが深い思入れである。俗人でさえ、何と言っても父の方は仕置きをもするから子のためになるが、とかく母が陰日向に取りなして父に隠す。訶るべきことを放って置くので不肖になる。孟母の三遷も程母の心も正しい仕込み方である。

夫人男子六人所存惟二。四人は早世して明道伊川二人はかりなり。愛慈可謂至矣云々。今の母親とは可愛かりやふが違ふぞ。或踣云々。子ともか三四才のときころふことあることぞ。家来とも相応にあるて、やれと云てをこしいたわる。古今同情なり。未嘗不呵責。ころんだ子をしかることぞ。汝安徐でないでころふそ、と。今の母はそふてはなく、こもりのしやふかわるいからのと、それからして小もりをいしり、子ともに理をつけて奉公人を呵り方々するは、かわいかりやふの不調法ななり。夫人は理か明ゆへこふしこむ。古有胎教とさへ云。こふしこめばよくなるはづのことなり。
【解説】
「夫人男子六人、所存惟二。其慈愛可謂至矣。然於敎之之道、不少假也。纔數歳、行而或踣。家人走前扶抱、恐其驚啼。夫人未嘗不呵責。曰、汝若安徐、寧至踣乎」の説明。今の母は子供が転ぶとそれを子守のせいにするが、侯夫人はゆっくり歩かないから転んだのだと訶った。理が明なのである。
【通釈】
「夫人男子六人所存惟二」。四人は早世で明道と伊川の二人だけがいた。「愛慈可謂至矣云々」。今の母親とは可愛がり方が違う。「或踣云々」。子供が三四才の時に転ぶことがある。家来どもが相応にいるので、やれと言って起こして労る。それが古今変わらない情である。「未嘗不呵責」。転んだ子を呵ること。「汝安徐」でないから転ぶのだと言った。今の母はそうではなく、子守の仕方が悪いからだとして、そこで子守を虐めるが、子供に理を付けて奉公人を呵ったり色々なことをするのは、可愛がり方が不調法なのである。夫人は理が明なのでこの様に仕込む。「古有胎教」とさえ言う。この様に仕込めばよくなる筈である。
【語釈】
・古有胎教…顔氏家訓集解教子第二。「司馬温公書儀四、古有胎教、況於已生」。

置之座側云々。かわいかりてするではなし。思召ありてのことぞ。茶の間のすみて喰すと給仕へ子だりを云ひ我侭をしたがるものゆへ、そこて側にをくのなり。孺子は遲く起き遲食ともあり、成人と一所てなきものぞ。時ならす起き食ふこともあるか、それを坐の側にをくは、そこを我侭にさせぬためぞ。守する婆々や小守へは腕をなけつけることもあるか、母へはそふはせぬものなり。母かこふ云しこみゆへ、子とものとき我侭はならなんた、と。絮羹即叱云々。羮の塩梅が辛いとか甘とか云たてあろ。叱とは猫が肴へくる、しっと云やふに、こりゃどふじゃと云ていで、直に呵りつけたこと。今からそれで、成人してはどのやふにならふぞとしかりたなり。得てはや大身の子の我侭はこれから出るもの。ろく々々くひこぼさすにくふこともならぬときからこしゃくを云。吸口がないと云そ。
【解説】
「飮食常置之坐側。嘗食絮羹、皆叱止之。曰、幼求稱欲、長當如何」の説明。食事の際に側に座らせるのは可愛がってのことではなく、我儘をさせないためである。小さい時の我儘が大人になっての我儘の元である。
【通釈】
「置之座側云々」。可愛がってそれをしたのではなく、思し召しがあってのこと。茶の間の隅で喰わすと給仕へ強請りを言い、我儘をしたがるものなので、そこで側に置くのである。孺子は遅く起きるので遅食ともあり、成人と一所ではないもの。時ならず起きて食うこともあるが、それを座の側に置くのは、我儘にさせないためである。守をする婆や子守へは手向かうこともあるが、母へはその様にはしないもの。母がこの様な仕込み方なので、子供の時に我儘ができなかったと言う。「絮羹即叱云々」。羮の塩梅が辛いとか甘いとかと言ったのだろう。「叱」とは、猫が肴に近付くとしっと言う様に、これどうだと言う様に直に呵りつけたこと。今からその様では、成人してはどの様になるのかと叱ったのである。大身の子の我儘の多くはこれから出るもの。碌々食いこぼさずに食うこともできない時から小癪を言う。吸口がないなどと言う。
【語釈】
・孺子…子供。小童。
・吸口…吸物に浮べて芳香を添えるつま。

雖使令軰云々。召仕のものても馬鹿めが大たわけめがと罵ることは夫人の居るでならなんだ。悪言で今は呵れとたのまれても呵れぬ。是が生れ付てはないが、しこまれて自然とこふ成たとなり。与人爭忿云々。子とも仲ヶ間て面を赤くして爭ひ忿ときに十分こちが理がよふても不右とは、とりあけて上座へをかぬと云ことなり。たとひ能いことても爭忿と云ふがわるいてとらぬ。不能屈。人は勝を好むもの。克伐と云が三つ子からある玉しいなり。とかく氣が高ぶる。驕惰壊了屈不降もこれなり。屈しか子るもの。不能伸。理の當然なことは此方の心一はいを云てのくもの。それは苦労はない。とかく伸ることはたれもなる。從善師友云々。人をささは周子や胡安定を始として朋友多かるべし。
【解説】
「雖使令輩、不得以惡言罵之。故頤兄弟平生、於飮食衣服無所擇、不能惡言罵人。非性然也。敎之使然也。與人爭忿、雖直不右。曰、患其不能屈、不患其不能伸。及稍長、常使從善師友遊」の説明。人を罵ることは夫人がいたのでできなかった。また、夫人は「争忿」が悪いことだと教えた。程子は生まれ付きではなく仕込まれてあの様になったのである。
【通釈】
「雖使令輩云々」。召使いの者にも馬鹿めが、大戯けめがと罵ることは夫人がいるのでできなかった。悪言で、今呵れと頼まれても、それはできない。これが生まれ付きではないが、仕込まれて自然とこの様になったと言う。「与人争忿云々」。子供仲間で面を赤くして争い忿る時に、十分自分の理が通っていても「不右」と言うのは、それを採り上げて上座へ置くことはしないということ。たとえよいことでも争忿というのが悪いので採らない。「不能屈」。人は勝を好むもの。克伐というものが三つ子の魂からある。とかく気が高ぶる。「驕惰壊了不肯屈下」もこのこと。屈することができないもの。「不能伸」。理の当然なことは自分の心一杯を言って伸びるもの。それに苦労はない。とかく伸びることは誰もできる。「従善師友云々」。人を指して言えば周子や胡安定を始めとして、朋友が多かったことだろう。
【語釈】
・驕惰壊了屈不降…克己41。「世學不講、男女從幼便驕惰壞了、到長益凶狠。只爲未嘗爲子弟之事。則於其親已有物我、不肯屈下」。
・胡安定…胡瑗。字は翼之。993~1059

喜而爲之具。子ともの処に會かある。勝手の料理のせわをもすることなり。只よいものを着せたい持せたいは常幷の母のことで、大德の夫人大賢を仕込まるる。孟母が断機もただの婦人にないそ。子ともを仕込み夫とを敬する女房は学會の膳具必大切とする。先日は奈良茶なれば今日はこふと、そこが行届く心ては、あそこの内は行よいとて学友も来る。そこが直に子とものしこみになることぞ。学友の来たとき馳走するか雜佩以贈之なり。長谷川觀水翁の内室なとは学友のいたとき甚馳走せられた。是を天木時中か例の大声て源右衛門殿の内方は雜佩以贈んじゃ々々々々と詩を誦せられしよしなり。とかく学友の来よいやふにするが子のしこみに直になる。
【解説】
「雖居貧、或欲延客、則喜而爲之具」の説明。子供を仕込む婦人は学会の料理を大事にする。学友が来易い様にすることが直に子の仕込みに繋がる。
【通釈】
「喜而為之具」。子供の処に会がある。それで、勝手の料理の世話までをもすること。ただよいものを着せたい持たせたいと言うのは常並の母のことで、大徳の夫人は大賢を仕込まれる。孟母の断機もただの婦人ではない。子供を仕込み夫を敬する女房は学会の膳具を必ず大切とする。先日は奈良茶飯だったので今日はこうと、そこが行き届いた心なので、あそこの家は行きよいと言って学友も来る。そこが直に子供の仕込みになる。学友が来た時に馳走するのが「雑佩以贈之」である。長谷川観水翁の奥方などは学友のいる時には甚だ馳走をされた。これを天木時中が例の大声で、源右衛門殿の奥方は雑佩以贈らんだと詩を誦じられたそうだ。とかく学友が来易い様にすることが直に子の仕込みになる。
【語釈】
・雜佩以贈之…詩経国風鄭風女曰雞鳴。「知子之來之、雜佩以贈之。知子之順之、雜佩以問之。知子之好之、雜佩以報之」。
・長谷川觀水…長谷川克明。
・天木時中…通称は善六。33歳の時に佐藤直方に入門したが、翌年の享保四年七月に直方が死去したので、その後は三宅尚斎に師事する。1696~1736。

夫人七八歳時云々。母なとは違たことてあった。侯夫人七つ八つのときのことをあげて幼少から各別なと書とめたなり。不復出房閣。居て遊べと云ても出やらず、常に母の側をはなれぬ。文章筆札を不好は、文章と云へは八大家の文と云やふなこと。筆札は義之や子昴がやふに手をかくのそ。此方て云へは清少納言が枕双紙の、紫式部が源氏のと云や、其外ちらし書なとと云やふなことで、文章筆札男がもっても秀たことに、女にあるは尚々稱美することなれとも、深以爲非。女は靣をも出さぬものと云ふに、其れを玩びとするは偖て々々女めかぬことなりと深く非と思はれたなり。
【解説】
「夫人七八歳時、誦古詩曰、女子不夜出、夜出秉明燭、自是日暮則不復出房閤。既長、好文而不爲辭章。見世之婦女以文章筆札傳於人者、則深以爲非」の説明。幼少の頃の侯夫人は常に母の側を離れなかった。また、成長しても、文章筆札をするのは婦女にとっては非であると思われていた。
【通釈】
「夫人七八歳時云々」。程子の母などは違っていた。侯夫人が七つ八つの時のことを挙げて、幼少から格別だと書き留めた。「不復出房閣」。行って遊べと言っても出ず、常に母の側を離れない。文章筆札を好まないとは、文章と言えば八大家の文という様なこと。筆札は王羲之や陳子昴の様に書くこと。日本で言えば清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語という様なものや、その外散らし書きなどという様なことで、文章筆札は男でも秀でたことで、女にそれがあるのは尚更称美することだが、それを「深以為非」。女は面をも出さないものと言うのに、文章筆札を玩びにするのはさても女めかないことだと深く非と思われたのである。
【語釈】
・ちらし書…色紙・短冊・艶書などに、一行の長さを或いは長く或いは短く、または行間を或いは広く或いは狭く、字をとびとびに散らして書くこと。

家道は小学めいたことなれとも、小学めかすに讀むが近思での説やふなり。この条は一寸と見ると小学の善行めいたことなれとも、丁寧によく考見ると爰へのせたあやのすむことなり。只勝れた御两親とはかり見ることでなく、学知から出たことと見よ。存視均己子と云ふも皆学知から出ることぞ。鄧伯道云々へやらずに見ることて、程太中も朱子の父も程朱を生んだはかりてはなし。叔梁屹とはちごふ。程太中は周茂叔を知り、韋齋は大学中庸を一致の眼にする。此条も学知てすることと思ふべし。
【解説】
程子の両親が優れているのは学知から出たことである。この条は善行のことではなく、学知からすることだと捉えるのである。
【通釈】
家道は小学めいてはいるが、小学めかずに読むのが近思の説き方である。この条は一寸見ると小学の善行めいたことの様だが、丁寧によく考えながら見るとここへ載せた綾が済む。ただ優れた御両親とばかり見るのではなく、これが学知から出たことだと見なさい。「存視均己子」というのも皆学知から出ること。「鄧伯道云々」へ遣らずに見ることで、程太中も朱子の父も程朱を生んだだけではない。叔梁屹とは違う。程太中は周茂叔を知り、韋斎は大学中庸を一致の眼とした。この条も学知ですることと思いなさい。
【語釈】
・鄧伯道云々…
・叔梁屹…孔子の父。魯の人。顔氏の女徴在を娶り、共に尼丘に祈って孔子を生み、孔子三歳の時に没したという。~前549
・韋齋…朱子の父。


第十八 横渠先生嘗曰事親云々の条

横渠先生嘗曰、事親奉祭、豈可使人爲之。
【読み】
横渠先生嘗て曰く、親に事え祭を奉ずるは、豈人をして之を爲さしむ可けんや、と。
【補足】
・この条は、呂大臨の張子行状にある。

兎角近思は心へ々々とたたみこむこと。小学ては事ざの上て云。事さの上で学んで来るとついそれになる。近思ではそれが心へ来たことて、心てすることなり。譬ば東金の親仁が先祖を祭るやふで、をれが内てはこれじゃと肴を備るて傳十郎が子ともや孫もわけはしらぬが事ざてをぼへる。事親の奉祭のと云は名代てはならぬものと小学で示す。畏りましたと云ても事ざで仕込むなり。それを又近思ては親や先祖のことを知見から大根を胸へたたきこむぞ。事ざををぼへてはうつらぬことそ。西の銘で親の上に又天に事ると云を、はや合点の人へのことなり。道体爲学致知存羪克己と歴て此の家道でこれをきき、事ざの上で心得たと云様ではかいないことなり。小学で聞たを最一返点をかけなをして心へくることなり。いつも云譬の、小坊主が旦那の口眞似をして御手紙の通り承知と取次て云。これは事の上の承知と云もの。亭主の承知と云ふは心て承知することて、明日迠に百両調達と云て来ても心で呑込ですることなり。ここを事で、名代ではならぬとはかり書靣ですますくらいては跡へもとるのなり。
【解説】
小学嘉言にもこの語があるが、小学は事の上で言い、近思は心へと畳み込むこと。事でするのでは心に映らない。
【通釈】
とかく近思は心へと畳み込むこと。小学は事の上で言う。事の上で学んで来るとつい事だけになる。近思はそれが心へ来ることで、心ですることである。たとえば東金の親父が先祖を祭る様で、俺の家ではこれだと肴を備えるので、傳十郎の子供や孫もわけは知らないが事でそれを覚える。「事親」や「奉祭」というのは名代ではいけないものだと小学で示す。それは畏まりましたと言っても事で仕込んだこと。それをまた近思では、知見から親や先祖のことの大根を胸へ叩き込むのである。事を覚えるのでは心に映らない。これは、西銘によって親の上にまた天に事えるということを既に合点した人に言うものである。道体為学致知存養克己と経ながら、この家道でこれを聞いて、事の上で心得たと言う様では甲斐がない。小学で聞いたことをもう一返点を掛け直して心へ来させるのである。いつも言うたとえで、小坊主が旦那の口真似をして御手紙の通り承知と取り次いで言う。これは事の上の承知というもの。亭主の承知というのは心で承知をすることで、明日までに百両調達と言って来ても、それは心で呑み込んですること。ここを事として、名代ではならないからと、書面で済ます位では前へ戻ることになる。
【語釈】
・傳十郎…櫻木誾斎の長男。

可使人爲之。事親も人にさせてはならぬ。家来が大勢ありても親の背中は自分てさすら子はならぬとはとふしたことと、其心に近付になるが近思の吟味なり。背中をさするも事さでなく、心のあらはれたぞ。心と云ふものの証処の出たのなり。人にものをやるにも深切と云心があらはれ手打の蕎麥もやる。書物を千萬巻よんてもわざでは皮毛外なり。心にきりこめ。今の学者のするは事ざなり。書物藝ですることなら忠孝をはげましと制札にしてをいてもすむが、親に事へ祭をする心でなふては役に立ぬ。誠でなければ空言になると心得子はならぬこと。象山か義利の弁をよんたに聞ものが泪を流したと云も弁舌のよいで人々が泣たではない。あれが人欲を去りた玉しいの人ゆへ人にひびく。孝行も、昨日の鯛、錢もないに孝心なとほめられて、心にうれしくのりのつくやふでは近思の心法でない。思もよらぬ処に人欲が出るもの。親に孝、先祖の祭にも人欲が出る。なんでも誉らるるを嬉ひと思。そこが直に人欲になる。これはならぬと思てなけれはならぬ。孝も祭も心てすることなり。
【解説】
孝も祭も心でするものだが、そこに人欲が出る。誉められるのを嬉びと思うのが直に人欲となる。
【通釈】
「可使人為之」。「事親」も人にさせてはならない。家来が大勢あっても親の背中は自分で摩らなければならないのはどうしてかと、その様に心に近付きになるのが近思の吟味である。背中を摩るのも事でなく、心の現れること。心というものの証拠が出たのである。人に物を遣るにも深切という心が現れるので手打ちの蕎麦も遣る。書物を千万巻読んでも、それが事でするのでは皮毛の外のことである。心に切り込みなさい。今の学者がするのは事である。書物芸ですることなら忠孝を励めと制札にして置いても済むが、親に事え祭をする心でなくては役に立たない。誠でなければ空言になると心得なければならない。陸象山か義利の弁を読んだところ、それを聞いた者が泪を流したというのも弁舌がよいので人々が泣たのではない。彼は人欲を去った魂の人なので人に響く。孝行も、昨日の鯛は銭もないのに孝心なことだと誉められ、心に嬉しく調子がつく様では近思の心法ではない。思いも寄らない処に人欲が出るもの。親に孝や先祖の祭にも人欲が出る。何でも誉められるのを嬉びと思う。そこが直に人欲になる。これでは悪いと思うのでなければならない。孝も祭も心でするのである。

親に事をかかさ子は名代てもよいやふなれとも、至誠惻怛の心から出れはうぶの天理。世間のみめよくと云かすこしましる、はや人欲なり。客をよひ料理を出すに咁くなふても客は御馳走と云ふて帰るが、客の咁ふ食ふて帰るでなふては振舞ぬも同じことなり。義理一へん鉢はらいやくにたたぬ。親の背中もむに按摩の上手をたのめば我よりよし。なれとも按摩にひ子らせても按摩の手のうこくが吾が心がうごく程でなければならぬ。料理もそれて、料理人のするかよいが、なれとも一々吾が心でなければならぬ。これは正靣の文義ではないが、こふ讀が近思の魂なり。孝も祭も天理人欲のあることを知た人は希れなり。
【解説】
親に事えるのは自分の心からする。按摩や料理人を頼むにしても、自分の心がそこになければならない。孝にも祭にも天理人欲がある。
【通釈】
親に事えるのを欠かさなければ名代でもよい様だが、それが至誠惻怛の心から出れば初心の天理である。しかし、世間の見目よくということが少しでも雑じれば早くも人欲である。客を呼んで料理を出す時に美味くなくても客は御馳走と言って帰るが、客が美味く食って帰るのでなければ振舞わなかったのと同じである。義理一遍蜂払いは役に立たない。親の背中を揉むのに上手な按摩を頼めば自分がするよりうまくできる。しかしながら、按摩に捻らせるにしても按摩の手の動くのが自分の心が動くほどでなければならない。料理も同じで、料理人がするのがよいが、それでもそれは一々自分の心がなければならない。これは本来の文義ではないが、この様に読むのが近思の魂である。孝にも祭にも天理人欲のあることを知った人は希である。
【語釈】
・義理一へん…義理一遍。世間に対するつきあい上、心からでなく形式的にすること。通り一遍。
・鉢はらい…蜂払い。物を聞き入れないでしりぞけること。


第十九 舜之事親云々の条

舜之事親、有不悦者、爲父頑母嚚、不近人情。若中人之性、其愛惡略無害理、姑必順之。親之故舊、所喜者、須極力招致以悦其親。凡於父母賓客之奉、必極力營辨、亦不計家之有無。然爲養又須使不知其勉強勞苦。苟使見其爲而不易、則亦不安矣。
【読み】
舜の親に事うる、悦ばれざる者有るは、父は頑母は嚚[ぎん]にして、人情に近からざる爲なり。中人の性の若き、其の愛惡に略[ほぼ]理を害うこと無くんば、姑く必ず之に順え。親の故舊にして、喜ぶ所の者は、須く極力招致して以て其の親を悦ばしむべし。凡そ父母賓客の奉に於ては、必ず極力營辨し、亦家の有無を計らざれ。然れども養を爲すには又須く其の勉強勞苦を知らざらしむべし。苟も其の爲して易からざるを見しめば、則ち亦安からじ。

者と云字を見よ。上手の手に水かもる様なことにきこへるから、そふでない。それにわけあると、不悦者と者の字で一つたたって見せたなり。どふなれば只のでない。父頑母嚚。どふも仕方のない人なり。根のない植木は染井の伊兵衛や幸田の植木屋でも手ぎわにゆかぬ。頑と云は石瓦のやふで人間らしくなく冷へ堅った。一昨日息を引とったと云ふは扁鵲もどふもならぬ。そのはつぞ。一昨日死だのなり。熱かあると咁いものても喰へぬ。大名も舌打するほどな甘い物ても喰へぬはどふなれは、熱なり。仕方がない、打捨てをけと云やふなものなり。中人之性。大概幷々の人のこと。瞽叟は古より終り初ものなり。其愛悪云々。凡夫はふだんが泥をかき回したやふて理沙汰はないものゆへ、却て親子の間わけもなくゆくぞ。学者は格物もしてちと道理合点だけあぢにすれることあるぞ。それが理がこふずれは非の一倍と云。姑必順之とは、学者へ示すことなり。このなりが天地間の人事にあることで、姑くと云はいかがのやふなれとも、姑くと云が靣白い意味なり。榎の下に雨やどりしたやふなもの。しはらく雨を凌くなり。榎さへあれば屋根屋はいらぬと云でなし。姑くなり。世間には色々の親があり、佛法信心の親に排釈録にと云ても聞ず、どふらくな母に論語にと云ても直らぬ。どふするものぞ。姑く順之なり。
【解説】
「舜之事親、有不悦者、爲父頑母嚚、不近人情。若中人之性、其愛惡略無害理、姑必順之」の説明。舜の両親はどうしようもない者だったが、普通の親はそれとは違う。学者は、先ずは姑く親に順うのがよい。
【通釈】
「者」という字を見なさい。ここは上手の手に水が漏れる様に聞こえるが、そうではない。それにはわけがあると、「不悦者」と者の字で一つ祟って見せたのである。それはどの様な者かと言うと、普通の人ではない。「父頑母嚚」。どうも仕方のない人である。根のない植木は染井の伊兵衛や幸田の植木屋でもうまく行かない。頑は石瓦の様で人間らしくなく冷え堅まったこと。一昨日息を引きとったというのは扁鵲でもどうにもならない。その筈で、一昨日に死んだからである。熱があると美味いものでも喰えない。大名も舌打ちするほどに美味い物でも喰えないのはどうしてかと言うと、熱があるからである。それでは仕方がない、打ち捨てて置けと言う様なもの。「中人之性」。大概凡庸な人のこと。瞽瞍は古今にわたっての初物である。「其愛悪云々」。凡夫の普段が泥を掻き回した様で理沙汰はないものだから、却って親子の間がわけもなく行く。学者は格物もして少々道理を合点している分だけ悪く擦れることがある。そこで、理も嵩じれば非の一倍と言う。「姑必順之」は学者へ示したこと。この姿が天地間の人事にあることで、姑くと言うのはよくない様だが、姑くと言うのが面白い意味である。榎の下に雨宿りをした様なもの。そこで暫く雨を凌ぐ。榎さえあれば屋根屋は要らないと言うのではない。姑くである。世間には色々な親があり、仏法信心の親に排釈録ではこうあると言っても聞かず、道楽な母に論語にこうあると言っても直らない。どうしようもない。そこで、「姑順之」である。
【語釈】
・染井の伊兵衛…伊藤伊兵衛。江戸で一番の植木屋と言われた。染井に住む。伊兵衛は代々世襲の名前。
・幸田の植木屋…
・理がこふずれは非の一倍…理も嵩ずれば非の一倍。

親之故舊云々。是からが思入あることなり。老人はとかく舊友をしたふものなり。若ひものはそこへ來ても、頭を下け敬ふても實はせつながり、老人も却て安んぜぬ塲あるもの。古友と出合ふと昔の濱見物のはなし、大和めぐり、其外あほふ咄もするで悦ぶぞ。極力招致。これはなりよいはづのこと。これをせぬはつまらぬこと。去れとも親と云老人に客も老人でちとふだん手の入ること。急しいは急しいが、これをせぬなれはなにもしほらしいことはない。某七藏へ云た。親の合口ならば伯樂の五平治をもよべ、酒のませよと云た。喜内か合口ゆへこれを合手にさす。これ、孝子の心配りそ。親の悦ぬものはをくがよい。不計家之有無云々。とかく時節がら々々々々と云たがるが、孝子は日を惜むと云。若いものさへ死ぬに、ましてや老人は今も知れぬ。すりゃ身上を直してからとは云れぬ。吝いものても臨時なことの来たときはつい金をもつかふ。親のことにはあと先き考て我身代の六具を堅め、寸法を定めてせふとする。尤身代すりきると親も憂るなれとも、そこに了簡あると孝心へあじにさし水がして来る。
【解説】
「親之故舊、所喜者、須極力招致以悦其親。凡於父母賓客之奉、必極力營辨、亦不計家之有無」の説明。老人は旧友を慕うものだから、少々手は掛かるが旧友を招くのがよい。また、老人は先が短いから、身代を上げてから孝行をするなどと悠長なことを言っていてはならない。
【通釈】
「親之故旧云々」。これからが思い入れのあること。老人はとかく旧友を慕うもの。若い者はそこへ来て頭を下げ、敬ってはいても実は切ながり、老人も却って安んじない場があるもの。古友と出会うと昔の浜見物の話や大和巡り、その外阿呆話もするので悦ぶ。「極力招致」。これはし易い筈である。これをしないのではつまらない。しかしながら、親という老人に客も老人なので少々いつもよりも手が掛かる。それで忙しいことは忙しいが、これをしないのであれば何もしおらしいことはない。私が七蔵に、親の合口なら伯楽の五平治をも呼べ、酒の飲ませろと言った。喜内の合口なので彼を相手にさせる。これが孝子の心配りである。親の悦ばない者は外すのがよい。「不計家之有無云々」。とかく時節がらと言いたがるが、孝子は日を惜むと言う。若い者さえ死ぬのに、ましてや老人は今をも知れない。そこで、身上を直してからとは言えない。吝い者でも臨時の事が起きた時はつい金をも使う。親のことには後先を考え、我が身代の六具を堅め、寸法を定めてしようとする。尤も身代を擦り切ると親も憂うが、そこに了簡があると孝心に差し水がして悪くなる。
【語釈】
・七藏…鵜沢由斎の子。
・合口…互いに話の合う間柄であること。また、そういう人。
・伯樂…馬のよしあしを鑑定する人。馬の病をなおす人。また、馬を売買・周旋する人。
・喜内…鵜沢由斎。名は就正。

勉強労苦云々。親を養について物入ある。それを此入用に骨を折たと云はず、親に兎角知らさぬやふにすることなり。家内か不手迴ときくと、鯛の濱焼を喰してもこの肴にも利がつくであろふと思ふて胷につかへる。買た肴も貰ふたと云へは氣をいためぬなり。とかく親と吾と物我があるで奉養をも云立にしたがる。常々ぬけめなく孝養すると、親へも他人へも知らせたいは凡情なり。そこて貰ても買たにしたいなり。をれもこれ程のことをすると云たがる。堀川の仁斎が机にかかって書物をよんでいたとき女房がそっと晩の米がござらぬと云たを、何とも答へす着ていた羽織を見てあごてうなづいた。女房がそっと質にやり米買たと云。これが親に苦労を知せぬのなり。そばにをる親にしらせぬ。親の病氣に人参を沢山入ても、人参の物入り知さぬ。甘けれは甘艸かのやふに云ふ。兎角心が安から子ば養にはならぬ。小学では子ともの合点するやふに説がよし。近思では心の吟味につまって孝行に手のこんたことなり。
【解説】
「然爲養又須使不知其勉強勞苦。苟使見其爲而不易、則亦不安矣」の説明。親を養うには金が掛かるが、金の苦労を親に悟られてはならない。親や他人に孝行を知られたく思うのは凡情である。親の心が安んじなければ養にはならない。
【通釈】
「勉強労苦云々」。親を養うについて物入りがある。それをこの入用に骨を折ったとは言わず、親にとかく知られない様にすること。家内が不手回りと聞けば、鯛の浜焼きを喰わしても、この肴にも利息が付くだろうと思って胸に支える。買った肴も貰ったと言えば気を傷めることはない。とかく親と自分とに物我があるので奉養をも言い立てたがる。常々抜け目なく孝養していると、親へも他人へもそれを知らせたいのは凡情である。そこで貰っても買ったことにしたがる。俺もこれほどのことをすると言いたがる。堀川の伊藤仁斎が机に向かって書物を読んでいた時に女房が晩の米がありませんとそっと言ったのを、何とも答えず着ていた羽織を見て顎で頷いた。女房がそっと質に遣って米を買ったと言う。これが親に苦労を知らせないこと。側にいる親には知らせない。親の病気に人参を沢山入れても、人参の物入りは知らさない。甘ければ甘草かの様に言う。とかく心が安んじなければ養にはならない。小学では子供の合点する様に説くのがよい。近思は、心の吟味に詰まり、孝行に手が込むのである。
【語釈】
・不手迴…金の都合がうまくつかないこと。手もとが不如意なこと。


第二十 斯干詩言の条

斯干詩言、兄及弟矣、式相好矣、無相猶矣。言兄弟宜相好、不要厮學。猶、似也。人情大抵患在施之不見報則輟。故恩不能終。不要相學。己施之而已。
【読み】
斯干の詩に言う、兄と弟と、式[そ]れ相好くせよ、相猶[に]ること無かれ、と。兄弟は宜しく相好くすべく、厮[あい]學ぶを要せざるを言う。猶は、似るなり。人情として大抵患えは之を施[し]きて報いられずんば則ち輟[や]むに在り。故に恩は終わること能わず。相學ぶを要せず。己之を施くのみ。

この章は兄弟中のこと。とかく手前の氣に合ぬとむか々々する。それもこれも返報をとりたかるから。兎角返報をとらぬことなり。兄はあれかこふじゃからそふせぬと云、弟の方でもやはり同しことなり。此斯干の詩は新宅祝のときの詩。千万年も此家に住ふが其家へつめてをくものは兄弟そ。これが中がわるいと家を立派にしても買櫝還珠のなり。箱はけっこうふても中へいるるものがかけると二重箱へわれた茶碗なり。無相猶。經の本意ではないか、此下にあるとをり、猶を似ると云が張子の發明なり。不要厮学。兄や弟のしうちを兩方からせめて、あちが踈遠にするかとてそのま子をせぬことそ。人情がえてこふしたたたりのあるものなり。大抵こふした人情なものとは人の腹をあけて見たやうなことそ。患は、ああこまったものじゃと云意。施之不見報云々。あれが焼けたときにをれはこふ々々してやったに、をれがこふじゃにをこさぬと、兄弟中にもそれがありたがる。をれは兄の子の病むときは何度いたに、をれが子の煩ふには一度もこぬと云。
【解説】
「斯干詩言、兄及弟矣、式相好矣、無相猶矣。言兄弟宜相好、不要厮學。猶、似也。人情大抵患在施之不見報則輟」の説明。人情は困ったもので、自分がした様に相手にしてもらいたいと望む。兄弟仲が悪くなるのは返報を取りたがるからである。
【通釈】
この章は兄弟仲についてのこと。とかく自分の気に合わなければむかむかとする。それもこれも返報を取りたがるからである。とかく返報を取らないのがよい。兄はあれがこうだからそうしないと言い、弟の方でもやはり同じことを言う。この斯干の詩は新宅祝いの時の詩。千万年この家に住んだとしても、この家へ詰めて置くものは兄弟である。この仲が悪ければ、家を立派にしても「買櫝還珠」である。箱は結構でも中へ入れるものが欠けていれば二重箱へ割れた茶碗である。「無相猶」。経の本意ではないが、この下にある通りで、「猶似也」というのが張子の発明である。「不要厮学」。兄や弟がそれぞれの仕打ちを両方から責めるが、あちらが疎遠にするとしてもその真似をしてはならない。人情がよくこうした祟りをするもの。「人情大抵」とは、人の腹を開けて見た様なこと。「患」は、ああ困ったものだという意。「施之不見報云々」。あれが焼けた時に俺はこの様にしてやったのに、俺がこんなになっていても助けないということが、兄弟仲にもよくある。俺は兄の子が病んだ時に何度も付き添ったのに、俺の子が患っても一度も来ないと言う。
【語釈】
・斯干の詩…詩経小雅斯干。「秩秩斯干、幽幽南山、如竹苞矣、如松茂矣。兄及弟矣、式相好矣、無相猶矣」。
・買櫝還珠…韓非子。「買櫝而還其珠」。

恩不能終。父子をのけては恩愛は兄弟なり。子とものときに互に兄さまかくれんぼふ仕やふと云。駒取をしてさはぎむつまじい。そふした恩愛が始終あれはよいに、年とるに從ひ終ることなしなり。頼朝義經も喜瀬川で逢たときは互に恩愛あり、終ることなして腰越より押返した。弁慶が云、甲斐なき者の讒言によると云が、義經も垩賢ではなし。どふも心中がしれぬ、油断されぬ弟じゃと頼朝が疑ふぞ。不要相学で、兄がこふじゃからの、弟がどふじゃからのと互にそれを眞似ることてなく、己施之而已て、向にとんとかまわぬこと。董仲舒が正其義而不謀其利。返礼をとらぬことぞ。談義参りして賽錢を投るも死だときよかろふと思でする。垩賢のは舌をぬかるるともうそはつかぬと云。舌をぬかるるがをそろしくてうそつかぬではない。
【解説】
「故恩不能終。不要相學。己施之而已」の説明。子供の頃の恩愛が年をとっても続くのがよい。頼朝も後には義経を疑った。向こうに構わず、「己施之而已」がよい。
【通釈】
「恩不能終」。父子を除けば恩愛は兄弟のことである。子供の時に互いに兄様隠れんぼしようと言う。駒取りをして騒いで睦まじい。そうした恩愛が始終あるのがよいが、年をとるに従って続かなくなる。頼朝と義経も喜瀬川で逢った時は互いに恩愛があったが、「不能終」で腰越より押し返した。それを弁慶がつまらない者の讒言によるものだと言ったが、義経も聖賢ではない。どうも心中がわからない、油断のならない弟だと頼朝が疑った。「不要相学」で、兄がこうだから、弟がどうだからと互いにそれを真似るのではなく、「己施之而已」で、向こうには全く構わない。董仲舒が「正其義而不謀其利」と言った。それは返礼を取らないこと。談義参りをして賽銭を投げるのも死んだ時によいだろうと思ってする。聖賢は舌を抜かれても嘘は吐かないと言う。舌を抜かれるのが恐ろしくて嘘を吐かないのではない。
【語釈】
・正其義而不謀其利…董仲舒。「正其義不謀其利。明其道不計其功」。孟子尽心章句下33集註にもある。
・談義…説法。法談。


第二十一 人不爲周南召南の条

人不爲周南・召南、其猶正牆面而立。常深思此言、誠是。不從此行、甚隔著事、向前推不去。蓋至親至近、莫甚於此。故須從此始。
【読み】
人にして周南・召南を爲[まな]ばずんば、其れ猶正しく牆に面して立つがごとし。常に深く此の言を思うに、誠に是なり。此に從いて行わずんば、甚だ事を隔著し、前に向きて推し去[ゆ]かざらん。蓋し至って親しく至って近きこと、此より甚だしきは莫し。故に須く此に從いて始むべし。

誠是と云ふは若ひときはそふも思はなんだ、今はと云やふに見よ。訂斎先生に某初めて御目に掛ったとき、先師の断治か、奥山を々々々と尋るか、やがて里へ出るてあろふと申された。貴様などもそふで有ふが、やがて里へ出よふそと云はれた。只太極阴阳の吟味はかりして面前三尺のことを知らぬはつかへる。道体は合点したか夫婦中や兄弟中かわるいと云は太極のすまぬのなり。家を齊るは太極の丸いものをころ々々ころばすやふなものじゃに、家か治らぬには二南のまあすまぬからなり。於文王之文たる純も亦不已と云も關々雎鳩と云、近い御夫婦中のよいことを、御局が鹿の子交りの襠て偖も々もよい、をらが若殿様のと云たことで、あれがすむとにぎ々々ふっくりと治る。達磨などはそれを迷とみる。此方では偖そこにあることなり。
【解説】
「人不爲周南・召南、其猶正牆面而立。常深思此言、誠是」の説明。夫婦仲や兄弟仲が悪いのは、本当は道体を合点していないからであり、それは、二南が済まないのである。
【通釈】
「誠是」は、若い時はその様に思わなかったが今はそう思うという様に見なさい。訂斎先生に私が初めて御目に掛かった時、先師の断治が、奥山を奧へと尋ねていればやがて里へ出るだろうと申された。貴様などもそうだろうが、やがて里へ出るだろうと言われた。ただ太極陰陽の吟味ばかりをして面前三尺のことを知らなければ支える。道体は合点したが夫婦仲や兄弟仲が悪いというのは太極が済まないからである。家を斉えるのは太極の丸いものをころころ転ばす様なものなのに、まあ家が治まらないのは二南が済まないからである。「文王之所以爲文也純亦不已」と言うのも「關々雎鳩」と、身近な御夫婦仲のよいことを、御局が鹿の子絞りの襠で私の若殿様は本当によいと言ったものであって、あれが済むとにぎにぎしくふっくりと治まる。達磨などはそれを迷いと見る。こちらではさて、そこが重要なのである。
【語釈】
・断治…久米訂斎。京都の人。三宅尚斎門下。名は順利。通称は断二郎。尚斎の娘婿。1784年没。
・二南…詩経国風の周南と召南。
・於文王之文たる純も亦不已…中庸章句26。「文王之所以爲文也。純亦不已」。
・關々雎鳩…詩経国風周南。「關關雎鳩、在河之洲窈窕淑女、君子好逑」。
・襠…衣服の布の幅の不足した部分に別に補い添える布。

隔著事云々。書經にも事々と云字あり、天地の中は皆事なり。捨て置けと云ことはなし。格物の注に物は猶事とあり、老仏は事をすてるか、此方は有物有則て事と云ことを大切することなり。其事の理のある、其れに向ふにそこを隔著するは道理を隔てるになるなり。偖、講釈は手に入た、面白いはと云ふに、又たあの夫婦喧嘩は、あれはどふじゃと云はる。そこが道理と隔著て、講釈と夫婦中兄弟中か別々になる。講釈の太極圖説は丸いものなれとも、それに家内のかど立つは書物と吾とか分ん々々になるゆへなり。学医が傷寒論素問難經を講釈はすれども、匕を取らすとどふもいかぬ。凡病いに直らぬはないものと口ては云ふが、事ざのいかぬで預けるともりころす。言行一致でなければならぬ。
【解説】
「不從此行、甚隔著事、向前推不去」の説明。天地は皆事だから、事を大切にする。講釈はわかってもそれを実践することができなければ悪い。言行一致でなければならない。
【通釈】
「隔著事云々」。書経にも「事事」という字があり、天地の中は皆事である。捨てて置けと言うことはない。格物の注に「物猶事」とあり、老仏は事を捨てるがこちらでは「有物有則」で事を大切にする。その事に理があってそれに向かう筈なのに、そこを隔著するのは道理を隔てることになる。さて、講釈は手に入った、面白いと言うが、また、夫婦喧嘩では、あれはどうしたと言い張る。そこが道理に隔著で、講釈と夫婦仲や兄弟仲が別々になる。講釈の太極図説は丸いものだが、家内に角が立つのは書物と自分とが別々になっているからである。学医が傷寒論素問難経を講釈はするが、匙を取らすとどうもうまく行かない。凡そ病で治らないものはないと口では言うが、事がうまく行かないので預けると盛り殺す。言行一致でなければならない。
【語釈】
・事々…書経説命中。「惟事事乃其有備、有備無患」。
・物は猶事…大学章句1集註。「格、至也。物、猶事也」。
・有物有則…詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則」。

至親至近。親子兄弟より近いものはない。どのやふなことでも親と云字は動されぬと思ふで孝もする。兄弟と云は又それほとなく、兄も子ほとに弟をはもふ思はぬ。夫婦中も鼻のさきぐちな女房、とふもいかぬことある。そこを二南を知るといかぬことなし。周子の、家難して天下易と云たもここで、道理の通にせふとするに祖母が合点せず、をれは早く死にたいと云出す。手にあます。そこか皆手前の不調法になることなり。二南をよむと春になり、南風て氷の解るやふに家内かにっとりとなり、もめ合の氷をとかすは此二南を知るより始ることなり。
【解説】
「蓋至親至近、莫甚於此。故須從此始」の説明。親は特別なので孝をするが、兄弟はそれより疎遠である。夫婦も同じであって、それで中々道理の通りを行えない。しかし、二南を知ればうまく行く。
【通釈】
「至親至近」。親子兄弟より近いものはない。どの様なことがあっても親という字は動かすことができないと思うから孝もする。兄弟というのはそれほどではなく、兄も自分の子ほどにはもう弟を思わない。夫婦仲も浅知恵や愚痴の多い女房ではどうもうまく行かないことがある。そこを、二南を知ればうまく行かないことはない。周子が、「家難而天下易」と言ったのもここで、道理の通りにしようとしても祖母が合点せず、俺は早く死にたいと言い出して手に余す。そこが皆自分の不調法となること。二南を読むと、春になって南風で氷の解ける様に家内がにっとりとなる。揉め合いの氷を解かすのはこの二南を知ることから始めるのである。
【語釈】
・鼻のさき…鼻の先智恵。思慮に乏しい軽率な考え。
・家難して天下易…通書家人睽復無妄。「家難而天下易、家親而天下疏也」。


第二十二 卒条

婢僕始至者、本懷勉勉敬心。若到所提掇更謹、則加謹、慢則棄其本心、便習以性成。故仕者入治朝則德日進、入亂朝則德日退。只觀在上者有可學無可學爾。
【読み】
婢僕の始めて至りし者は、本勉勉たる敬心を懷く。若し到る所の提掇[ていてつ]更に謹めば、則ち加[ますます]謹み、慢れば則ち其の本心を棄て、便ち習いて以て性と成る。故に仕うる者は治まれる朝に入れば則ち德日に進み、亂れし朝に入れば則ち德日に退く。只上に在る者に學ぶ可き有りや學ぶ可き無きやを觀るのみ。
【補足】
・この条は、経学理屈三の義理の条にある。

家道に奴僕のこと出したも小学父子之親に凡内外と家来のこともあり、下々の家来は日雇を長くやといたやふなもの。又、外からきた客のやふなものて、此方のあまり筭用に入れそもないことに、こいつか悪いことをすると家道のけざさになる。是れも家を治める道具たてになることなり。始至云々。來た當座はどんなものても私もじっとして隙てをるはきらいてごさりますと云ふて空言を云ふてはたらき。懐敬心とはしゃんと持ている意なり。旦那の心のしれぬ内は大事々々とりちぎに勤る。奉公人七十五日でやがてもふ不律義になる。提。下たの方へする々々とこけこむをかかけあけること。掇。何そをとしたものを拾ひあけるやうな意。提撕と同し心なり。敬心のそろ々々ゆるむを提掇すと云ふか、その塲で更謹則加謹なり。
【解説】
「婢僕始至者、本懐勉勉敬心。若到所提掇更謹、則加謹」の説明。奉公人も最初は敬心を懐いて真面目に働くが、旦那の心がわかってくると不律儀になる。その敬心が弛むところを提掇すると謹みが強くなる。
【通釈】
家道に奴僕のことを出したのも、小学に「父子之親」から「凡内外」と家来のこともあり、下々の家来は日雇を長く雇った様なもの。また、外から来た客の様なもので、あまりこちらの算用には入れそうもないことだが、こいつが悪いことをすると家道の障害となる。これも家を治める道具立てになること。「始至云々」。来た当座はどんな者でも、私はじっとして暇でいるのは嫌いでございますと空言を言って働く。「懐敬心」はしっかりと持っている意である。旦那の心がわからない内は大事にして律儀に勤める。その奉公人が七十五日でやがてもう不律儀になる。「提」。下の方へずるずると落ちて行くのを掲げ上げること。「掇」。何か落としたものを拾い上げる様な意。提撕と同じ心である。敬心がそろそろ弛むところを提掇すると、その場で「更謹則加謹」となる。
【語釈】
・父子之親に凡内外…小学内篇明倫。「内則曰、子事父母、雞初鳴咸盥漱…」「凡内外、雞初鳴咸盥漱衣服歛簟灑掃室堂及庭布各從其事」。
・けざさ…けささ。障害。邪魔。
・提撕…ひっさげること。孟子滕文公章句上4集註。「堯言、勞者勞之、來者來之、邪者正之、枉者直之、輔以立之、翼以行之、使自得其性矣、又從而提撕警覺以加惠焉、不使其放逸怠惰而或失之。蓋命契之辭也」。

慢則云々。こちの旦那も大概知れたものと云やふになると本心を失ふ。此の本心を重くれて見るはわるい。来た當坐のときの心をさす。初めの語の字をつめたのなり。本と懐く。本のと敬心の字をつめて本心と云。便習以成性云々。これからはけ病もをふちゃくもふてる日もありて、わるいことに習熟したのなり。この句は十人か々々、大概こふしたもの。奉公人かよいと云て君子てもなく、わるいと云て熊坂てもなく、似たか々々々なものと云ずてにした語なり。似たか々々々の人なれとも、こちに家道かしゃんと立ては先王の代に礼樂で天下を治たやふに人心が一致になる。すりゃ家を治る人か法か立ては、下部召使のもの治めらるる。あれらもこの方次第。丁と大名の馬屋仲間、馬の不得手なやつは馬をわるくする。能馬をつかふやつは馬をよくする。人の馬をつかふやふに奉公人も旦那が奉公人つかひなれは、自ら奉公人よくなる。文字の上にこふはないが、習ふて性となるとあるで此意なり。
【解説】
「慢則棄其本心、便習以性成」の説明。最初の心を失うと怠ける。しかし、家道が立てば僕や召使い達も治めることができる。習うことによって性となるのである。
【通釈】
「慢則云々」。こちらの旦那も大概知れたものと言う様になると本心を失う。ここの本心を重く見るのは悪い。それは来た当座の時の心を指したもので、始めの語を詰めたもの。「本懐」の本と「敬心」にある心の字を詰めて本心と言ったのである。「便習以成性云々」。これからは仮病も横着もふてる日もあり、それは悪いことに習熟したのである。この句は十人が十人大概はこうしたもので、奉公人がよいと言っても君子でもなく、悪いと言っても熊坂でもなく、似たり寄ったりなものと言い捨てにした語である。似たり寄ったりの人だが、こちらに家道がしっかりと立てば、先王の代に礼楽で天下を治めた様に人心が一致する。そこで、家を治める人の法が立てば、僕や召使い達も治められる。あれ等もこちら次第である。丁度大名の馬屋仲間で馬の不得手な奴は馬を悪くし、よく馬を扱う奴は馬をよくする。人が馬を扱う様に旦那が奉公人使いであれば、自ら奉公人もよくなる。文字の上ではこの様には書いてないが、習うことで性となるとあるのでこの意となる。
【語釈】
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。奥州に赴く金売吉次を美濃国(岐阜県)赤坂の宿に襲い、牛若丸に討たれたという伝説的人物。

故仕者云々。これからは歴々のことを云。仕者。侍の禄仕するものでも、此方持前の德の直段はきわまっていれとも、其君の仕向次第で此方の德に上下が出来てくる。治朝は堯舜三代と云てもないが、先治った國のこと。下かわるくても段々上のよいに引れてよふなる。乱朝は筋無中の世に仕ると、旦那のわるいて此方の德がさかる。奴僕の輕ひものばかりでない。歴々の仕宦もこれなり。可学ありは治朝にあてる。治朝の天下の明な処へ出ると日々に此方の德もすすむ。眞くらな世へ出ると吾德もをとろふ。兎角上の道理次第と云ことなり。上にある人も下にある人もとかく道を守るてなけれはならぬ。学者なともとかく世間めき、御ふり合々々々々と云人に豪傑はない。学者が家中でも御振合々々々と云ふて合せはうはいをま子るなら、たのみはない。君が不德、家老用人まてわるけれは、其御振合によいことあらふはずはなし。
【解説】
「故仕者入治朝則德日進、入亂朝則德日退。只觀在上者有可學」の説明。「治朝」では、悪かった下でもよい上に引かれてよくなるが、「乱朝」では、よい下でも悪い上に引かれて悪くなる。上次第になるから、道を守らなくてはならない。
【通釈】
「故仕者云々」。これからは歴々のことを言う。「仕者」。侍で禄仕する者も、自分の持ち前の徳の値段は極まっていても、その君の仕向け次第で自分の徳に上下ができて来る。「治朝」は堯舜三代と言うのでもないが、先ずは治まった国のこと。下が悪くても段々と上のよいのに引かれてよくなる。「乱朝」は、筋のない世に仕えることで、旦那が悪いので自分の徳が下がる。それは、奴僕の軽い者ばかりではない。歴々の仕官も同じことである。「有可学」は治朝に当てる。治朝の天下の明な処へ出ると日々に自分の徳も進む。真っ暗な世に出ると自分の徳も衰える。とかく上の道理次第ということ。上にある人も下にある人もとかく道を守るのでなければならない。学者などもとかく世間めき、御振り合いとばかり言う人に豪傑はない。学者が家中でも御振り合いと言って話を合わせ、傍輩付き合いを真似るのであれば、救いようがない。君が不徳で家老や用人までが悪ければ、その御振り合いによいことがある筈がない。
【語釈】
・筋無…なすべき方法がない。しようがない。
・御ふり合…①事のなりゆき。②触れ合うこと。

無可学で、こちは道理をはり出してすへきことなり。朱子の近思の篇次は無理に幷へるてもないが、自然とそふゆく。克己のしまいにも爲子弟則不能安洒掃應對云々と家道へかけ、今此終りにも治朝乱朝に仕るものはと出処のことをちらりと見せたこと。出処も出好きの引込好のと云ことはない。出處も道理なりてすることなり。時につれて道理に叶ふことあり、つれぬで道理に叶ふことあり。役にたたずがよく御ふり合々々々々と云ことを云ものぞ。上に道が明になれば、御振合と云ずに道理なりと云てすむことなり。
【解説】
「無可學爾」の説明。治朝と乱朝を出して、これから出処に続くが、出処もこれと同様に道理の通りにするのである。
【通釈】
「無可学」とあるが、こちらでは道理を張り出してするのである。朱子の近思の篇次は無理に並べたわけでもないが、自然とその様に行く。克己の終わりにも「為子弟則不能安洒掃応対云々」と家道へ掛け、今この終わりにも「治朝乱朝」に仕える者はと出処のことをちらりと見せた。出処も出好きや引っ込み好きということではない。出処も道理の通りにするのである。時に従って道理に叶うこともあり、時に従わずに道理に叶うこともある。役立たずがよく御振り合いと言うもの。上で道が明になれば、御振り合いと言わずに道理の通りと言えば済む。