近思録卷之十二筆記

警戒凡三十三條  四月六日  纖邸文録
【語釈】
・四月六日…寛政3年辛亥(1791年)4月6日。
・纖邸文…林潜斎。花沢文二。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

近思の末に警戒のあるか思召あること。もふこれでよいはと云ときゆるみが出るもの。病加少愈と云て最ふ肥立て歩行と云とき再感したの、食あたりなとと云ことで病かへす。警戒はよい上にあることと思ふへし。わるい上は何から何迠言語同断ゆへ論はない。道体爲学致知存養克己かすみて家道出處の吟味つめて國天下をも治る身分になりて教学もなるなれは、ここては我より上に立ものはなく、これてよいはと云てゆるみかつく。そこて警戒か朱子の思召あることなり。存養は貫其二と云やふなものて、警戒は何の上にもあることと合点すべし。警戒の篇目はここにあれとも、これが致知にも存養にも家道にも出處にも治体治法政事の上にも皆警戒かある。教学の人を教る身分の上には入まいことのやうなれとも、それにも入る。何んてもあたる所て戒をかけるか垩人の思召なり。存養と警戒とは一つことてないか、然し打て違ふたことてなし。存羪はあてなしにする。警戒はあたる所のちらりてする。初心な内は存羪は存羪、警戒は警戒と思へともそふでない。存羪は何と目鼻はなくかきりなくする。其存羪もぬけか有ふかが警戒なり。
【解説】
警戒はよい上に必要なこと。道体から教学まで進むと自分をよいものと思って弛みが出る。そこで教学の次に警戒がある。しかし、警戒は当たるところで戒めることなので、どこでもそれは必要なのである。一方、存養は当てなしにするものであって、存養の上にも警戒は必要なのである。
【通釈】
近思の末に警戒があるのは思し召しあってのこと。もうこれでよいという時に弛みが出るもの。「病加少癒」と言って、もう肥立って歩き行くという時に再発したり、食中りなどでまた病む。警戒はよい上にあることだと思いなさい。悪い上では何から何まで言語道断なので警戒の必要はない。道体為学致知存養克己が済んで家道出処の吟味を詰め、国天下をも治める身分になって教学もできる様になると、ここでは自分より上に立つ者はなくこれでよいと言う。その内に弛みが付く。そこで警戒が朱子の思し召しとなる。「存養貫其二」という様なもので、警戒は何の上にもあることと合点しなさい。警戒の篇目はここにあるが、致知にも存養にも家道にも出処にも治体治法政事の上にも皆警戒がある。教学という人を教える身分の上には要らないことの様だが、それにも要る。何でも当たる所で戒めをかけるのが聖人の思し召しである。存養と警戒とは同じことではないが、しかし全く違うことでもない。存養は当てなしにする。警戒は当たる所のちらりとしたところでする。初心な内は存養は存養、警戒は警戒と思うがそうではない。存養は何という目鼻はなく限りなくする。その存養にも抜けがあるのではないかと思ってするのが警戒である。
【語釈】
・病加少愈…
・肥立て…肥立つ。日を追って病気がよくなる。
・存養は貫其二…近思録序。「夫学之道在致知力行之二而存養則貫其二者也」。

存羪の目は、謹獨は勿論戒謹恐懼する。警戒は萬端あらわれた上て油断せぬ。それゆへ初の存羪をここ迠持つづけることを理會すべし。存羪はこまか故、朋友の手際には及はぬ。学友に頼まれぬか、警戒は学友迠頼でなる。然れば警戒は粗ひことかと云にそふてない。ここが書物藝ではゆかぬ。こまかてなくあらひやふなが警戒の親切なり。学者が程朱の学て存羪を合点して安堵するは警戒のぬけなり。譬て云へは飽食や不養生に論はない。こまかに養生か存羪にて、そこか我は若ひときから不羪生したことはないゆへ氣つかいないと思ふ。其日がぬけなり。警戒は存羪の上をゆたんはならぬ々々々とする。こまかな上をあらい警戒の番人をつける。なせなれは、老人でも食膓をする。好色も老人は氣遣ないと人も我もゆるすか、それとも油断はならぬ。そこか存羪なり。警戒なり。つまり警戒は我をよいと思はぬことと知るべし。
【解説】
存養は独を謹み戒謹恐懼をすることで、警戒は万端に油断をしないこと。細かな存養の上に粗い警戒をする。警戒は自分をよいと思わないこと。
【通釈】
存養の目は、謹独は勿論戒謹恐懼をすること。警戒は万端現れた上で油断をしないこと。それで、初めの存養をここまで持ち続けなければならないことを理会しなさい。存養は細かなので朋友の手際の及ぶものではない。学友を頼むことができないものだが、警戒は学友までが頼りになる。それなら警戒は粗いことかと言うとそうではない。ここが書物芸ではうまく行かないところ。細かでなく粗い様なのが警戒の親切である。学者が程朱の学で存養を合点して安堵するのは警戒の抜けである。たとえで言えば飽食や不養生は論外であって、細かに養生するのが存養であり、そこで私は若い時から不養生をしたことがないので気遣いはないと思う。それを思った日が抜けである。警戒は存養の上でも油断してはならないとしてすること。細かな上を粗い警戒の番人を付ける。それは何故かと言うと、老人でも食傷をする。好色も老人には気遣いはないと人も自分も許すが、それでも油断はならない。そこが存養であり、警戒である。つまり警戒は自分をよいと思わないことだと知りなさい。

只今云通、知にも行にも警戒か入る。我を知見が高ひと思ふと知の警戒かぬけるか、行者は日用々々と云て働らかぬ。これは知見そ。警戒かない。我得手てないことはのかすもの。これ行に警戒かないなり。それゆへ世間の大酒ではないが、其飲ぬかわりに金をためやうと云て欲をかわかす。朱子の人最不可暁と云へり。酒や好色の欲はないが立身をかせぐ。因て教学に人の師になるに戒かある。人の師となるを好みてそれから弟子へ毒を流す。世の人かあそこの弟子になるとわるくなるの馬鹿になるのと云も、垩賢を外にして我得手を教るゆへなり。そこて湖南一派の学があり、江西は陸象山の流れかあり、淅東は呂東萊の風がある。陳同甫か功利の学も有て我しらず異端にも覇道にも流れるゆへ、警戒が教学と異端の間にある。漢唐の絶学を周子から程朱て開けり。陸象山もあれをは俗と見て心法々々と云て、遂ひ陽儒隂佛になりたも教学に警戒ない故なり。それからしては心法沙汰がわるいと云ふて徂徠が出る。我心を師として古学の先王、仲尼の学のと云て斎桓晋文の事業を主張して、それを孔子に冠せる。皆是学問に警戒ないゆへの罪なり。
【解説】
知行共に警戒が要る。教学に警戒がないと、人の師となるのを好み自分の得手のみを教えるから弟子も悪くなり、異端にも覇道にも流れる。陸象山も徂徠もそれである。
【通釈】
只今言った通り、知にも行にも警戒が要る。自分を知見が高いと思うと知の警戒が抜け、行の者は日用のことだと言って働らかない。これは知見であって、そこに警戒がない。自分の得手でないことは除けるもの。それは行に警戒がないからである。それで、世間の大酒ではないが、それを飲まない替わりに金を貯めようと言って欲を出す。朱子が「人最不可曉」と言った。酒や好色の欲はないが立身を稼ぐ。そこで教学に人の師になることの戒めがある。人の師となるのを好み、それから弟子へ毒を流す。世の人があそこの弟子になると悪くなるとか馬鹿になると言うのも聖賢を外にして自分の得手を教えるからである。そこで湖南一派の学があり、江西には陸象山の流れがあり、淅東は呂東萊の風がある。陳同甫の功利の学もあって我知らずに異端にも覇道にも流れる。そこで警戒が教学と異端の間にある。漢唐の絶学を周子から程朱の間で開いた。陸象山もあれを俗と見て心法をしたが、遂には陽儒陰仏になったのも教学に警戒がないからである。それからは心法沙汰が悪いと言って徂徠が出る。自分の心を師として古学の先王、仲尼の学などと言って斉桓晋文の事業を主張して、それを孔子に冠せる。これは皆学問に警戒がないための罪である。
【語釈】
・人最不可暁…朱子語類学7力行の語。
・湖南一派…
・陳同甫…
・斎桓晋文…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。孟子梁恵王章句上7。「齊宣王問曰、齊桓・晉文之事、可得聞乎。孟子對曰、仲尼之徒、無道桓・文之事者。是以後世無傳焉。臣未之聞也。無以、則王乎」。

直方先生の、天下一番の人欲かあるか皆知るかと迂斎へ云はれた。はっと云て其趣き得存しませぬと答へたれば、我をよいと思ふか天下一番の人欲となり。警戒によい教訓なり。我をよいと思ふも愚や無学なものにはない。我に学問も出来た人の病なり。警戒が近思の末にあるを大切に讀べきこと。迂斎の、文王は垩人て小心翼々なり。生知安行は堯舜文王孔子なれとも、我を垩人とは思召さぬ。さて孔子の傳は曽子なれとも、戦々競々なり。曽子は三十にならずに一貫を得られたれとも、今而知免乎と死ぬ迠の警戒なり。上て存養を持つつけると云某か弁もそこのこと。死ぬ迠持つつけるか道統なり。迂斎ここへ孔子の顔子の四代の礼樂を告られたことを引けり。夏の時、殷の輅、周の冕と三つ、法をえり取にするほどのことなれは警戒はいらぬ筈なるに、放鄭声遠佞人と云へり。申せは釈迦に心經と云もので、亞聖の顔子に豊後ぶしを聞くななり。垩賢へはあたま上らぬ佞人なるに、それを遠けよと云ふ。皆警戒を示したことなり。
【解説】
直方先生が、天下一番の人欲は自分をよいと思うことだと言った。これは学問をする者の病である。文王であっても「小心翼翼」、曾子も「戦戦兢兢」、孔子は「放鄭声遠佞人」と警戒した。
【通釈】
直方先生が、天下一番の人欲があるが皆は知っているかと迂斎に言われた。迂斎がはっと言って、その趣きは存じませんと答えると、自分をよいと思うのが天下一番の人欲だと言った。これが警戒によい教訓である。自分をよいと思うことは愚や無学な者にはない。それは学問のある人の病である。警戒が近思の末にあることを大切に思って読みなさい。迂斎が、文王は聖人であっても「小心翼翼」だと言った。「生知安行」は堯舜や文王、孔子のことだが、彼等は自分を聖人とは思し召さない。さて孔子の伝を受けた曾子も戦戦兢兢だった。曾子は三十にならずに一貫を得られたが、「今而知免乎」と言い、死ぬまで警戒をした。上で存養を持ち続けると言う私の弁もそこのこと。死ぬまで持ち続けるのが道統である。迂斎はここで孔子が顔子に四代の礼楽を告げられたことを引いた。夏の時、殷の輅、周の冕と三つ、法を選り取りにするほどのことなので警戒は要らない筈だが、「放鄭声遠佞人」と言った。言わば釈迦に心経というもので、亞聖の顔子に豊後節を聞くなと言ったのである。聖賢へは頭が上がらない佞人なのに、それを遠ざけろと言う。それは皆警戒を示したこと。
【語釈】
・小心翼々…詩経大雅大明。「維此文王、小心翼翼」。
・生知安行…中庸章句20。「天下之達道五、所以行之者三。曰、君臣也、父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也。五者、天下之達道也。知・仁・勇三者、天下之達德也。所以行之者一也。或生而知之、或學而知之、或困而知之、及其知之、一也。或安而行之、或利而行之、或勉強而行之、及其成功、一也」。
・戦々競々…論語泰伯3。「曾子有疾、召門弟子曰、啓予足。啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫。小子」。詩は小雅小旻。
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯」。
・放鄭声遠佞人…論語衛霊公10。「顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅、服周之冕。樂則韶舞。放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆」。
・豊後ぶし…浄瑠璃節の一派。宮古路国太夫の豊後掾受領後の宮古路節(国太夫節)の別称。世話物を主とし、江戸に流行したが、1739年(元文四)江戸町奉行から芝居興行を禁止された。

それから平生に云へは、迂斎の宰我か昼寢を呵ったを見よと云。昼寢か親に不孝の繩にもたばにもかからぬことではないが、警戒の大切なり。迂斎又云、大堤蟻の穴より崩るるとなり。警戒はさのみでないこと迠これは油断ならぬ々々々々々と吟味することなり。この篇目を大切に見へし。初に道体、その次へ大な爲学つかまへ処、それから次第に致知存羪克己とたん々々これ迠きて、はや大僧正にもなって身輕な処へ警戒なり。垩学の大切はここのこと。中庸にも初に戒愼恐懼の、あの終りに篤恭而天下平と結てあり、あれかやはり垩賢の傳授の心法なり。周子より程朱の其統を継れたか禪学てはない。丹書の敬勝怠が周八百年の基になるも敬てくくり上けたもの。警戒の上にありて道統はここなり。
【解説】
瑣細なことにも油断はならない。中庸も初めに「戒慎恐懼」で終りに「篤恭而天下平」とある。周八百年の基も敬である。警戒をするのが道統なのである。
【通釈】
これを平生で言うと、迂斎が、宰我の昼寝を呵ったことを見なさいと言った。昼寝は親に不孝となるほどのことではないが、ここが警戒の大切なところである。また迂斎が、大堤は蟻の穴より崩れると言った。警戒はそれほどのことでないことにまで、これは油断がならないと吟味すること。この篇目を大切に見なさい。初めに道体、その次へ大きな為学の掴まえ処、それから次第に致知存養克己と段々にこれまで来て、既に大僧正にもなって身軽な処に警戒である。聖学の大切なところはここのこと。中庸にも初めに「戒慎恐懼」とあり、あの終りに「篤恭而天下平」と結んであるが、あれがやはり聖賢の伝授の心法である。周子より程朱までがその統を継がれたが、それは禅学ではない。丹書の「敬勝怠」が周八百年の基になったのも敬で括り上けたからである。それは警戒が上にあるからのことで、それが道統である。
【語釈】
・宰我か昼寢…論語公冶長10。「宰予晝寢。子曰、朽木不可雕也。糞土之牆不可朽也。於予與何誅。子曰、始吾於人也、聽其言而信其行。今吾於人也、聽其言而觀其行。於予與改是」
・戒愼恐懼…中庸章句1。「君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞」。
・篤恭而天下平…中庸章句33。「詩曰、不顯惟德、百辟其刑之。是故君子篤恭而天下平」。詩は周頌烈文。
・敬勝怠…丹書。「敬勝怠者吉。怠勝敬者滅。義勝欲者從、欲勝義者凶」。


初条

濂渓先生曰、仲由喜聞過、令名無窮焉。今人有過、不喜人規、如護疾而忌醫。寧滅其身而無悟也。噫。
【読み】
濂渓先生曰く、仲由は過を聞くを喜び、令名窮まること無し。今の人は過有るも、人の規[ただ]すを喜ばざること、疾を護りて醫を忌むが如し。寧ろ其の身を滅すも悟ること無し。噫、と。
【補足】
・この条は、通書の過章にある。

濂渓先生曰仲由喜聞過。喜の字が眼なり。大抵今日の者も人からわるいこと告ると辱と礼は云ふが、只辱と云ではなふじえがない。喜はぞっこんからのこと。子路を入正大高明之域と云を爰らで知るがよい。そこは少も氣を雜へす理計なり。子路は氣がさでくせや氣質もあれとも、それは子路のきのつかぬ所。氣のついた所には理ばかりて氣は雜せぬ。こころでなけれは見へぬ。我は氣つりと手前て知らぬ人ゆへ乗捊浮海や卒尓のと云。然れとも、氣のついた所に私はない。太極なりゆへ正大高明之域と云。垩人になろふ々々々と云て肉がないゆへ過を告るを喜へり。今日の者人欲と子んごろゆへ、癖や人欲を人から氣を付ても喜はぬ。未た其時腹を立は罪か軽か、心の内は不得心て人へ礼を云ふが憎ひ。これは子路の裏から云ふ。さて理はかりと云ひ、氣をまぜぬ故と云こと、某發明なり。そこか子路と違って凡人の凡人たる所。喜か子路の子路たる所なり。
【解説】
「濂渓先生曰、仲由喜聞過」の説明。人は大抵注意されると忝いと礼は言うが、心の内ではそれを憎むもの。子路は気嵩な人だったが、自分が気付いた所では理ばかりで気を雑えなかった。そこで注意されることを喜んだ。気を雑えるのが凡人たるところであり、気を雑えずに喜ぶのが子路たるところである。
【通釈】
「濂渓先生曰仲由喜聞過」。「喜」の字が眼である。大抵今日の者も人から悪いことを告げられると忝いと礼は言うが、ただ忝いと言っていては脳知恵がない。喜はぞっこんからのこと。子路を「入正大高明之域」と言うのをここ等で知りなさい。そこは少しも気を雑えず理ばかりである。子路は気嵩で癖や気質もあるが、それは子路の気付かない所。気付いた所は理ばかりで気は雑えない。心でなければ見えない。自分は気吊りだと自分では知らない人なので「乗捊浮海」のことや「率爾」などがあった。しかしながら、気付いた所に私はない。太極の通りなので正大高明之域と言う。聖人になろうと言って肉がないので過ちを告げられるのを喜ぶ。今日の者は人欲と懇ろなので、癖や人欲を人から注意されても喜ばない。それでもその時に腹を立てればまだ罪が軽いが、心の内は不得心で、人に礼を言うのが憎い。これは子路の逆を言ったもの。さて理ばかりで気を雑えないからだというのは私の発明である。子路と違って気を雑えるのが凡人の凡人たる所で、喜ぶのが子路の子路たる所である。
【語釈】
・仲由喜聞過…孟子公孫丑章句上8。「孟子曰、子路、人告之以有過、則喜」。
・入正大高明之域…論語先進14集註。「言子路之學、已造乎正大高明之域、特未深入精微之奧耳」。
・乗捊浮海…論語公冶長7。「子曰、道不行、乘桴浮于海。從我者、其由與。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我、無所取材」
・卒尓…論語先進25。「子路率爾而對曰、千乘之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以饑饉。由也爲之、比及三年、可使有勇、且知方也。夫子哂之」。

令名無穹焉。さて々々周子の言はれたことなり。上の句はもと孟子の言はれたことを、ここは周子の脇から見ぬいて云へり。百世之師と云も聞へた。この上によいことないゆへ令名無究と云。今人有過不喜人規。何となく心の底がうき々々せぬもの。本と心の底に君子に成ふと思はぬからなり。この章周子の知の章へあてて見へし。学者を垩人の域へ取立るか師の章なり。過を改めて其垩人へ行くやふにするゆへ喜ふ。凡人は氣質人欲を立やうとして内症は押付けて置ふなり。女なとが無知な我をよいとするもの。時に娘が髪を結ふ所へ女が行きて、それてはわるい、をれが直してやろふと云に、このときはいらさるとは云はぬ。容儀を飾りて我粧を至極にせふとするゆへ喜て直してもろふ。朋友の切磋かそふ行ぬは我に君子にならふと云了簡がないゆへなり。
【解説】
「令名無窮焉。今人有過、不喜人規」の説明。過ちを改めて聖人へ行く様にするので子路は喜ぶ。朋友の切磋を嫌がるのは、自分が君子になろうとする了簡がないからである。
【通釈】
「令名無窮焉」。実に周子がうまく言われた。上の句は元々孟子が言われたことで、ここは周子が脇から見抜いて言ったこと。百世之師と言われるのもよくわかる。これ以上によいことがないので「令名無窮」と言う。「今人有過不喜人規」。何となく心の底がうきうきとしないもの。それは元々心の底から君子に成ろうと思わないからである。この章は周子の師の章に当てて見なさい。学者を聖人の域へ取り立てるのが師の章である。過ちを改めて聖人へ行く様にするので喜ぶ。凡人は気質人欲を立てようとして内症は押し付けて置こうとする。女などが無知な自分をよいとするもの。時に娘が髪を結う所へ女が来て、それでは悪い、私が直してやろうと言うと、この時は不要だとは言わない。容儀を飾って自分の装いを至極にしようとするので喜んで直してもらう。朋友の切磋がうまく行かないのは、自分に君子になろうという了簡がないからである。
【語釈】
・百世之師…克己25。「明道先生曰、子路亦百世之師。人告之以有過則喜」。
・師の章…通書師章。教学1。

護病而忌医。將護と云字ありて看病のことをも云。手前の病をどふぞよくせふを護と云。それには医者かよくて、濂渓よりは仲景や丹渓かよいなり。然るに其の医者をきらふやうなもの。このからだは死でもよいと云。これは譬ても実事へも當て見べし。医を忌むは骸を滅す。学者も改めぬで身を滅す。顔子のあふなったも過を改めたゆへなり。身を滅すの元祖は桀紂て知足以拒諫と云、茲日焉亡んなり。丁ど家のくさび打たず土臺せぬゆへ曲るやうなものなれとも、云れるはきらい、それを云へは腹立ゆへすててをく。風かふく、遂ひ家か破れる。ふわ々々するゆへ声をかけれは、某が家は火の用心にぬけはないと云男なり。それゆへ家を焚く。さてこの章か警戒の初に粗ひやふて警戒の警戒たる処なり。存養はけたかい上品な功夫て外から手はつけられぬ。因て警戒はこの初条を聞ても子路に及まいが、今日から過を言て下され々々々々々と云へは警になる。いつも云迂斎の弁がよい。人か過を告たとき蕎麦を打て振舞ふと云程のはづみはないとなり。誰もそれほどにはのらぬ。早く帰れはよいかしにする。料理人ても少し此吸物がと云へは、誉められたときほどではない。そこて警戒は洗ひぬくことなり。噫か外からなけく。語意の面白こと。噫と周子のうなり出して、つけやふ藥かないなり。正宗の刀の刄を引なり。今開いた牡丹の花を引ちきるに長ひ理屈は入らぬ。噫なり。親切に出る語を噫と云。ああ氣の毒としけ々々となり。
【解説】
「如護疾而忌醫。寧滅其身而無悟也。噫」の説明。医を忌む者は骸を滅し、学者も改めなければ身を滅す。人も注意をすれば腹を立てるので捨てて置く。人が過ちを告げた時にはもてなすほどの弾みがなければならない。
【通釈】
「護疾而忌医」。将護という字があり、看病のことをも言う。自分の病をどうぞよくしようとするのを護と言う。それには医者がよく、濂渓よりは仲景や丹渓がよい。それなのに、その医者を嫌う様なもの。この体は死んでもよいと言う。これはたとえだが、実事へも当てて見なさい。医を忌む者は骸を滅す。学者も改めないから身を滅す。顔子があの様になったのも過ちを改めたからである。身を滅ぼした元祖は桀紂で、「知足以拒諌」と言い、「茲日焉亡」である。丁度家に楔を打たず土台がなくて曲る様なことだが、言われるのを嫌い、それを言えば腹を立てるから捨てて置く。風か吹けばつい家が破れる。ふわふわするので声を掛ければ、私の家は火の用心に抜けはないと言う男である。それで家を焼く。さてこの章が警戒の初めにあるのは粗い様だが警戒の警戒たる処である。存養は気高い上品な功夫で外から手は付けられない。そこで警戒だが、この初条を聞いても子路に及ばないだろうが、今日から過ちを言って下さいと言えば警めになる。いつも言っている迂斎の弁がよい。人が過ちを告げた時に蕎麦を打って振舞うというほどの弾みがないと言った。誰もそれほどには乗らない。早く帰ればよいのにと思う。料理人でも少しこの吸物がと言われれば、誉められた時ほどではない。そこで警戒は洗い抜くことが大事である。「噫」は外から歎くこと。この語意が面白い。噫と周子が唸り出した。付ける薬がない。正宗の刀の刄を引く。今開いた牡丹の花を引きちぎるのに長い理屈は要らない。噫である。親切に出る語を噫と言う。ああつくづく気の毒なことだと思った。
【語釈】
・仲景…張仲景。河南省南陽県の人。長沙の太守を勤める。「傷寒雑病論」を著した。150?~219?
・丹渓…朱丹渓。名は震亭。字は彦修。1281~1358
・顔子…論語雍也2。「哀公問、弟子孰爲好學。孔子對曰、有顏囘者好學、不遷怒、不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也」。
・知足以拒諫…史記殷本紀。「帝紂資辨捷疾、聞見甚敏。材力過人、手格猛獸。知足以距諫、言足以飾非」。
・茲日焉亡…


第二 伊川先生曰德善日積云々条

伊川先生曰、德善日積、則福祿日臻、德踰於祿、則雖盛而非滿。自古隆盛、未有不失道而喪敗者也。
【読み】
伊川先生曰く、德善日に積まば、則ち福祿日に臻[いた]り、德、祿を踰えなば、則ち盛んなりと雖も滿つるに非ず。古より隆盛、未だ道を失わずして喪敗せし者有らざるなり、と。
【補足】
・この条は、周易程氏伝泰卦九三の爻辞の注にある。

この章泰の卦なり。爻の辞に无平不陂と云。もと油断ならぬことを示して、周公のたいらかでもかたぶくぞとなり。そこを陂かせぬ手入かある。この警戒すると氣つかいはない。病身な人も養生するてよい。病身な人と云てもそれて明日死てもないか、不養生ではたまらぬ。そこを用心する。德善の字、伊川の何から書たか知れぬ。善と云は道理のかへ名ゆへ道德と同じ意に見べし。末書には徳の至善と見たそふなれとも、理屈はよいやうで字を知らぬなり。道徳が善のかへ名ゆへ、道德を日々に積めば道理の正面から自ら福禄か日に臻るはづなり。周雖舊邦其命惟新と云。太王から德を積だゆへ武王へ天下が歸せり。易の積善之家有餘慶もそれなり。德踰於禄。德が十分なれば氣使ないと、无平不陂の挨拶なり。禄よりは德がこえるゆへかたぶきはせぬ。古より垩賢は皆大名にしても天子にしてもよいと云。德ているゆへ、禄より德の目方が重ひゆへあぶなけなし。雖盛而非滿。みちたてはない。これは盈れは虧るを含んて云。ここは丁ど周公の德と云ものなり。天下攝相官て魯に封せられ、丁ど相応なこと。徳の匁方が重ければ滿とは云はぬ。自古隆盛云々。すぐに泰へかけて云。三代ても末はどふしてあふなったと云は德を失った故のこと。既に周か西京を夷へとられ、東都へ遷りたかそれなり。道を失はずに國家の亡たものなし。そこか警戒なり。先刻も云、とこへも通するかそこなり。仲由聞過の章はこの席の者や浪人儒者の下の戒め。この章は上の人を警る。どこへも警戒がひびく。
【解説】
泰卦九三に「无平不陂」とあるが、徳を積めばそれを気遣いすることはない。徳を積めば福禄が臻る。古来国が亡んだのも徳を失ったからである。
【通釈】
この章は泰の卦で、その九三の爻辞に「无平不陂」とある。元は油断ならないことを示した語で、周公が平でも傾く陂[かたむ]くぞと言った。そこを陂かせない手入れがある。この警戒をすれば気遣いはない。病身な人も養生するのでよい。病身な人と言ってもそれで明日死ぬわけでもないが、不養生では堪らない。そこを用心する。「徳善」の字を伊川が何から引いたのかはわからない。善とは道理の替え名なので道徳と同じ意として見なさい。末書には徳の至善と見る様にあるが、それは理屈はよい様で字を知らないのである。道徳が善の替え名なので、道徳を日々に積めば道理の正面から自ら福禄が日に臻る筈である。「周雖旧邦其命惟新」と言う。大王から徳を積んでいたので武王へ天下が帰した。易の「積善之家有余慶」もそれである。「徳踰於禄」。徳が十分であれば気遣いはないと、「无平不陂」への挨拶である。禄よりも徳が肥えるので陂きはしない。古より聖賢は皆大名にしても天子にしてもよいと言う。徳でいるから禄より徳の目方が重いので危な気はない。「雖盛而非満」。満ちることはない。これは満ちれば欠けることを含んで言う。ここは丁度周公の徳というもの。天下の摂相官で魯に封じられたが、それが丁度相応なこと。徳の匁方が重いのを満とは言わない。「自古隆盛云々」。これは直に泰へ掛けて言う。三代でも末はどうしてあの様になったのかと言うと、徳を失ったからである。既に周が西京を夷に取られ、東都へ遷ったのがそれ。道を失わずに国家が亡んだことはない。そこが警戒である。先刻も言う、どこへも通じると言うのがそこのこと。「仲由聞過」の章はこの席の者や浪人儒者の様な下への戒め。この章は上の人を警める。何処へも警戒が響く。
【語釈】
・无平不陂…易経泰卦九三。「九三。无平不陂。无往不復。艱貞无咎。勿恤其孚。于食有福」。
・周雖舊邦其命惟新…大学章句2。「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。康誥曰、作新民。詩曰、周雖舊邦、其命維新。是故君子無所不用其極」。孟子滕文公章句上3にもある。詩は詩経大雅文王。
・積善之家有餘慶…坤卦文言伝。「積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃」。
・仲由聞過の章…警戒1を指す。


第三 人之於豫樂云々の条

人之於豫樂、心悦之。故遲遲。遂至於耽戀不能已也。豫之六二、以中正自守、其介如石。其去之速、不俟終日。故貞正而吉也。處豫、不可安且久也。久則溺矣。如二、可謂見幾而作者也。蓋中正故其守堅、而能辨之早、去之速也。
【読み】
人の豫樂に於る、心之を悦ぶ。故に遲遲たり。遂に耽戀して已むこと能わざるに至る。豫の六二は、中正を以て自ら守り、其の介[かた]きこと石の如し。其の去ることの速やかなる、日を終うるを俟たず。故に貞正にして吉なり。豫に處ること、安んじ且つ久しうす可からず。久しうせば則ち溺る。二の如きは、幾を見て作[た]つ者と謂う可し。蓋し中正なるが故に其の守ること堅くして、能く之を辨ずること早く、之を去ること速やかなり。
【補足】
・この条は、周易程氏伝豫卦六二の爻辞の注にある。

何となく心持のよくなって来るを先つ豫と思へ。これか人の助言てもなく、義理にからめられたてもなく、何となく心持がよい。爰か警戒のあたまの油断のならぬ処なり。迂斎の、苦ひものには用心は入らぬか甘ひものに油断ならぬと云。正月なと野老をほしてをくか、小児か食はぬ。こちらに砂糖かあるとついそれて食膓もする。一寸したことのやふなれども、人間皆あの通りなり。奉公の上ても首尾がよいと云とよい心持になる。番日に殿から最ふ出たか々々々々々と声かかかる。未た出ぬときに誰は出たかと問ゆへ、只今御意か有たなどと脇からも云。そこて心悦之なり。小く云へは、茶の湯や碁抔でも無拠とは云へとも心悦ゆへ行く。土用見廻や遠ひ墓参は拠なく行なり。悦はせぬ。
【解説】
「人之於豫樂、心悦之」の説明。「豫」は何となく心持がよくなることで、油断のならないところである。豫で心が悦ぶ。
【通釈】
先ず「豫」とは、何となく心持がよくなって来ることだと思いなさい。これが人の助言からでもなく、義理に絡められてでもなく、何となく心持がよい。ここが警戒の最初の油断のならない処である。迂斎が、苦いものに用心は要らないが、甘いものに油断がならないと言った。正月などに野老を干して置くが、それを小児は食わない。こちらに砂糖があるとついそれで食傷をする。一寸したことの様だが、人間は皆あの通りである。奉公の上でも首尾がよいと言われるとよい心持になる。番日に殿からもう出たのかと声が掛かる。まだ出ない時にあれは出たかと問われるので、只今御意があったなどと脇からも言われる。そこで「心悦之」である。小さく言えば、茶の湯や碁などでも、拠所無くとは言っても心が悦ぶので行く。土用見廻りや遠い墓参は拠所無く行くが悦びはしない。

故遲々至於耽戀而不能已也。遲々はそろ々々なり。碁も四つ目ころしの内はのりはない。茶も始は面白ないもの。それかそろ々々好きになっては、前には余程こまったものがどふも面白てならぬやふになる。至於の於の字を入たもそろ々々ゆへ置けり。直きなれはない。かふはなった、と。らいのある意。耽戀になりては、酒もりても僅の間銚子かないと心持かわるいと云。利休か道具に旅簟司と云ものあり、あの起りは軍中へ持て出たもの。利休を軍に連れたも可笑ひ。好になりて耽戀すると、あの鉄炮のわきてもする。藤堂の臣に軍中へ茶碗持て出たものあり。あまり見苦しひと声かけられ、遂ひ打わりて懐中し、其破れた茶碗を何とか名つけて、此事談にあるか、陳中ても耽戀すれはそふなり。始はちらりと靣白か、ここは病になったなり。出処の篇に色々戒てあるも宦路にのる。仕を急にするものりの付からそ。道合則服從不可則去。小学から聞こんで知ていれとも、靣白塲や冨貴知行に耽戀して、直諫や去ることを忘れてそれに耽って居る。古より君の思召に叶ふた臣には景氣のよい。屋鋪を賜ることもあり。天下の事に労したゆへ養ふために尤なこと。唐宋以来それかありて、日本にもあることなり。このときは浪人のときと違ひて、よい器てよい物を食ひ、一寸と煙艸盆出すにも侍妾かありて、くわっけいくはん樂ゆへそれにとられてするどい魂はぬける。
【解説】
「故遲遲。遂至於耽戀不能已也」の説明。最初は面白くなくても段々と好きになって面白くて堪らなくなる。耽恋するのは病むのと同じであり、それで魂が抜ける。
【通釈】
「故遅々至於耽恋而不能已也」。「遅々」はそろそろである。碁も四つ目殺しの内に乗りはない。茶も初めは面白くないもの。それがそろそろと好きになって、前には余程困っていたものがどうも面白くてならない様になる。「至於」で於の字を入れたのもそろそろなので置いたのである。直であれば置かない。こうなったと言って、隙のある意である。「耽恋」になっては、酒盛りでも、僅かの間に銚子がないと心持が悪いと言う。利休の道具に旅簟司というものがあって、あの起こりは軍中へ持って出たもの。利休を軍に連れたのも可笑しいこと。好きになって耽恋すると、あの鉄砲の脇でもする。藤堂の臣に軍中へ茶碗を持って出た者がいた。あまりに見苦しいと声を掛けられ、遂いに打ち割ってそれを懐中し、その割れた茶碗を何とかと名付けた話があるが、陣中でも耽恋すればそうなる。初めはちらりと面白いが、ここは病になったのである。出処の篇に色々と戒めがあるのも官路に乗るからである。仕を急にするのも乗りが付くからである。「道合則服従不可則去」。小学から聞き込んで知ってはいるが、面白い場や富貴知行に耽恋して、直諌や去ることを忘れてそれに耽っている。古より君の思し召しに叶った臣は景気がよい。屋敷を賜ることもあるが、天下の事に労したのだから養うためには尤もなことである。唐宋以来それがあって、日本にもあること。この時は浪人の時とは違い、よい器でよい物を食い、一寸煙草盆を出すにも侍妾があり、活計歓楽なので、それに捉われて鋭い魂は抜ける。
【語釈】
・道合則服從不可則去…小学立教。「四十始仕方物出謀發慮道合則服從不可則去」。
・くわっけいくはん樂…活計歓楽。贅沢三昧。

豫之六二以中正自守其介如石。六二は内卦の眞中で、隂の塲に隂が居るゆへ中正の德なり。それゆへ自身の守をくつさぬ。ここを道理をしらぬ無学なれは論もないか、学者は君へ事る道も君を正すことも知て居なから、そふゆかぬは豫に耽戀するゆへなり。この其介如石は節操か浪人の時の木綿布子の氣ている。魂の堅いを石に譬へり。この覺悟ゆへ豫に引れぬ。其去之速云々不終日は本文の爻の辞なり。御役願と氣かつくと明日迠はのはさぬ。道理は辱ひことなり。あの丸い圣人のとぎかけた飯を引あけて去れたは可以速。速のきわどいことも垩徳の上の能事なれとも、ここのは学者がそれを仕事にする。御馳走に腰はぬけぬなり。
【解説】
「豫之六二、以中正自守、其介如石。其去之速、不俟終日。故貞正而吉也」の説明。中正の徳の守りを石の様に堅くして崩さないから豫に引かれない。去る時には速やかに去る。
【通釈】
「豫之六二以中正自守其介如石」。六二は内卦の真ん中で、陰の場に陰がいるので中正の徳である。それで自身の守を崩さない。ここは道理を知らない無学であれば論もないが、学者は君へ事える道も君を正すことも知っていながらその様に行かないのは豫に耽恋するからである。この「其介如石」は節操が浪人の時の木綿布子の気でいること。魂の堅いことを石にたとえた。この覚悟なので豫に引かれない。「其去之速云々不終日」は豫卦本文の爻の辞である。御役願いと気が付けば明日まで延ばさない。道理は忝いもの。あの丸い聖人が研ぎかけた飯を引き揚げて去られたのは「可以速」。速のきわどいことも聖徳の上の能事だが、ここは学者がそれを仕事にすること。御馳走に腰が抜けることはない。
【語釈】
・とぎかけた飯…孟子万章章句下1。「孔子之去齊、接淅而行。去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。可以速而速、可以久而久、可以處而處、可以仕而仕、孔子也」。

處豫不可安且久也。豫に腰を落付ぬが君子なり。小学にも安安遷善と云かこれなり。小学心術之要に小児からあの題目を知らせて置ことなり。よい目と云ことてはなく、道理なりのことなり。某若ひ時の発明に、娘をかたつけて安堵すると云は尤なり。離縁は変ゆへ、嫁すれは安堵なはつのこと。男子を奉公に出して安堵とは云まいことなり。娘は一度片付れは離縁はないこと。奉公人は道合則服從不可則去の去就が六ヶ敷。安堵ならぬ筈のことなり。我子が農人か啇人なれは安堵なはつなり。豫の卦の安堵するとうしろくらく合せて居るゆへ、君臣の義ではよくない。そこて六二か今日中と云。先刻も云、出処ても何ても警戒がある。久則溺矣。宋の時分宰相になるも錢を多く得るにしかずと云たことあり。たたいここはするどなことで、出處の篇にも今日万鐘明日飢餓とある。陶淵明がやふに明日はくだあ々々々と云て歩行。其魂を如石と云。そこて六二は豫の塲に長くは居らぬ。
【解説】
「處豫、不可安且久也。久則溺矣」の説明。豫に腰を落ち着けないのが君子である。豫で安堵するのは君臣の義に背くことなので、そこで六二は今日中に去る。
【通釈】
「処豫不可安且久也」。豫に腰を落ち着けないのが君子である。小学にも「安安能遷」とあるのがこのこと。小学の心術の要として小児の時からあの題目を知らせて置くのである。それはよい目ということではなく、道理の通りをすること。私が若い時の発明に、娘を片付けて安堵するというのは尤もなことだと言った。離縁は変なので嫁すれば安堵な筈である。男子を奉公に出して安堵とは言わないだろう。娘は一度片付ければ離縁はない。奉公人は「道合則服従不可則去」の去就が難しく、安堵できない筈である。自分の子が農人か商人であれば安堵する筈。豫の卦で安堵すると言うのは後ろ暗く合わせていることなので君臣の義ではよくないこと。そこで六二が今日中にと言う。先刻も言ったが、出処にも何にでも警戒がある。「久則溺矣」。宋の時分に宰相になるのも銭を多く得るに如かずと言った者がある。そもそもここは鋭いことで、出処の篇にも「今日万鐘明日飢餓」とある。陶淵明の様に明日はくだあくだあと言って歩き行く。その魂を如石と言う。そこで六二は豫の場に長くはいないのである。
【語釈】
・安安遷善…小学内篇敬身。「積而能散、安安而能遷」。
・今日万鐘明日飢餓…出処39。「今日萬鐘、明日棄之、今日富貴、明日飢餓」。

如二可謂見幾而作者なり。これは周公の辞を孔子の幾とほめたものなり。ここには居られぬとちらりと見る。そこで警戒は知見てなければならぬ。行からは見られぬ。行ひしゃはうか々々て行へ迠きづをつける。今は何も云ぶんない屋鋪と云へとも、假を取て出るか、其あとは果してわるい。これが武士氣ではならぬ。浪人は武士氣てもなるか、出処去就は学者てなけれはならぬ。知の上に警戒あること。水はなれかわるく、それでもと云は警戒のないなり。眼がたぎら子ば、この処はならぬ。
【解説】
「如二、可謂見幾而作者也」の説明。警戒はちらりとしたところを見るのだから、知見でなければならない。そこで、眼が滾らなければならない。
【通釈】
「如二可謂見幾而作者也」。これは周公の辞を孔子が幾と褒めたもの。ここにはいられないとちらりと見る。そこで警戒は知見でなければならず、行からは見られないのである。行い者はうかうかとして行にまで疵を付ける。今は何も言い分はない屋敷であっても、暇を取って出るとその後は果たして悪い。これが武士気ではうまく行かない。浪人なら武士気でもよいが、出処去就は学者でなければならない。知の上に警戒がある。水離れが悪く、それでもと言うのでは警戒がない。眼が滾らなければこの処はできない。
【語釈】
・孔子が幾…易経繋辞伝下5。「君子見幾而作、不俟終日。易曰、介于石、不終日、貞吉。介如石焉、寧用終日」。

蓋中正故其守堅云々。守堅か、からだがひょこすかではならぬ。能弁之早は見幾作を注したもの。文言に臣殺其君子弑其父非一朝一夕之故云々由辨之不早弁と云、この見幾作も孔子の語なり。時に子を知るは不如父と云へとも、俗に云親の目に霧がふるなり。知は全体で見るか、愛情て霧なり。君父を弑すか一朝一夕のことてなく、小いときからそむくと云子かあるものなり。親を非に見てそむくと云のが、それか親殺になる根なり。今日迠忠孝で明日君父を弑てない。ちらり々々々のまづいことか親弑になる。この某か言かここの正意てはないか、幾を見ると云かそこなり。そこを早くすへきこと。それか学問なしに素人細工にはならぬ。無学か警戒のない根なり。見幾ものは其やふにさわくことはあるまいと云にさわく。去之速か跡て人の目にも見へる。江戸なと度々火事になれて、今日のは油断ならぬと云ふ。果して大火になる。遲ひことでは警戒の間に合はぬ。
【解説】
「蓋中正故其守堅、而能辨之早、去之速也」の説明。君父を弑すのは一朝一夕のことでなく、小さい時に既にその根がある。その幾を見て、速やかに対応しなければならない。
【通釈】
「蓋中正故其守堅云々」。「守堅」は、体がひょこすかしていてはできない。「能弁之早」は「見幾作」を注したもの。文言に「臣殺其君子弑其父非一朝一夕之故云々由弁之不早弁」とあり、この「見幾作」も孔子の語である。時に子を知るは父に如かずと言うが、俗に親の目に霧が降るとも言う。知は全体で見るが、愛情で霧に隠される。君父を弑すのは一朝一夕のことでなく、小さい時から背く子がいるもの。親を非と見て背くのが、それが親殺しになる根である。今日まで忠孝で、明日君父を弑すのではない。ちらりとしたまずいことが親を弑すことになる。私のこの言がここの正意ではないが、幾を見ると言うのがそこのこと。そこを早くしなければならない。それは学問なしの素人細工ではできないこと。無学が警戒のない根となる。その様に騒ぐ必要はないだろうと言うが、幾を見る者は騒ぐ。「去之速」が後で人の目にも見える。江戸などでは度々の火事に慣れているから、今日のは油断がならないと言う。果たして大火になる。遅ければ警戒が間に合わない。
【語釈】
・臣殺其君子弑其父非一朝一夕之故云々由辨之不早弁…坤卦文言伝。「臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故。其所由來者漸矣。由辯之不早辯也」。


第四 人君致危亡之道の条

人君致危亡之道非一。而以豫爲多。
【読み】
人君危亡を致す道は一に非ず。而して豫を以て多しとす。
【補足】
・この条は、周易程氏伝豫卦六五の爻辞の注にある。

君たるものの警戒なり。どこへ通すと云へとも人君は只の身分てなく、万民の上に居てかかる所の重ひことなり。三代の後は人君に下からたきつけてわるくする計なり。下にも人君も仁義礼智は同ことなれとも、かかる所か重ひ。然れは挌別に警むへきことなり。これか豫の卦の九五て、すくに君の塲なり。危亡はあやうくなりて、其危が重て亡ふる。致の字を大切に見へし。危亡を天から下ることの様に思ふか、それは雷や地震のこと。これは上からてなく、我に危亡するものかある。こちから招くゆへ致之道と云。ここを大切に見へし。致は廣く云へは面々式の病も天からでなく不養生からのこと。それゆへ伯牛計りを斯人而と云。之道はよいことにもわるいことにもありて、ここはわるい方の道なり。それて道落も道かありて、わるものがよってわるい方へやる。
【解説】
「人君致危亡之道」の説明。人君は係るところが重いから格別に警まなければならない。「危亡」は自分が招いて来る。
【通釈】
君たる者の警戒である。何処に対しても人君は普通の身分ではなく、万民の上にいて、係るところは重い。三代の後は人君を下から焚き付けて悪くするだけである。下にも人君にも仁義礼智は同じことなのだが、係る所が重い。そこで格別に警むべきなのである。これが豫の卦の六五で、直に君の場である。「危亡」は危うくなって、その危が重なって亡ぶこと。「致」の字を大切に見なさい。危亡は天から下ることの様に思うが、それは雷や地震のこと。これは上からではなく、自分に危亡するものがあるのである。こちらから招くので「致之道」と言う。ここを大切に見なさい。致は広く言えば、我々如き者の病も天からではなく不養生からのこと。それで伯牛だけを「斯人而」と言った。「之道」はよいことにも悪いことにもあるが、ここは悪い方の道である。それで道楽にも道があって、悪者が寄って悪い方へ遣る。
【語釈】
・斯人而…論語雍也8。「伯牛有疾。子問之。自牖執其手、曰、亡之。命矣夫。斯人也、而有斯疾也。斯人也、而有斯疾也」。

非一か古今歴代人君のこと。讀て見へし。国天下の潰れたか多ひか、皆豫か本になる。聞へたことて、謀叛人やわるい役人か人君に豫をさせて、其間て姦曲をする。唐の代ても人君には樂みをさせるがよいと云たことあり。樂みにふけらして置て佞臣が仕事をする。先豫は崇軒畫牆や酒池肉林なり。うっかとする処て天下をつぶす。周公の豳風の詩て成王の若ひとき戒られたも書経の無逸篇も人君の豫樂に耽らせぬ為にて、七月の詩は艱苦を示し、無逸の篇に攸於無逸と云か皆ここのことなり。管仲か燕晏は鴆毒なりと云か、燕安は今日も明日もそれにふける。人君の飲食は湯とり羽二重ごしと云ものなれは皆あたらぬものなれとも鴆毒と云。宋の金へ取れたも豫か本なり。徽宗はよい君なれとも蔡京かいろ々々奢侈をすすめて、後は煬帝程のことになりてばた々々と破れて、徽宗も欽宗も金へ引つられたも豫からのことなり。あの事はこの易傳からは五十年迠にはならぬ。漸三四十年の間に宋が半分潰れた。
【解説】
「非一。而以豫爲多」の説明。潰れた国や天下は古今多いが、それは皆豫が本である。君を楽しみに耽らせて置いて佞臣が仕事をする。宋が亡んだのもこの易伝ができてから五十年も経ってはいない。
【通釈】
「非一」が古今歴代の人君のこと。読んで見なさい。潰れた国天下が多いが、皆豫がその本になる。わかり切ったことで、謀叛人や悪い役人が人君に豫をさせて、その間に姦曲をする。唐の代でも人君には楽しみをさせるのがよいと言ったことがある。楽しみに耽らして置いて佞臣が仕事をする。先ずは崇軒画牆や酒池肉林が豫である。うっかりとする処で天下を潰す。周公の豳風の詩で成王を若い時に戒められたのも書経の無逸篇も人君の豫楽に耽らせないためであって、七月の詩は艱苦を示し、無逸の篇で「所其無逸」と言うのが皆ここのこと。管仲が燕安は鴆毒だと言ったが、燕安とは、今日も明日もそれに耽ること。人君の飲食は湯取羽二重漉しというものなので皆中らないものだが鴆毒だと言った。宋が金へ取られたのも豫か本である。徽宗はよい君だったが蔡京が色々と奢侈を薦めたので、後は煬帝ほどのことになってばたばたと破れ、徽宗も欽宗も金へ引き連れられたのも豫からのこと。あの事はこの易伝からは五十年までにはならない。漸く三四十年の間で宋が半分潰れた。
【語釈】
・崇軒畫牆…
・豳風の詩…國風豳風七月。「七月。陳王業也、周公遭變故、陳后稷先公風化之所由、致王業之艱難也」。
・無逸篇…書経無逸。「周公曰、嗚呼、君子所其無逸、先知稼穡之艱難」。
・燕晏…
・徽宗…北宋第八代の皇帝。名は佶。神宗の子。道教にふけったので国政乱れ、1125年金軍南下により欽宗に譲位、27年再度の金軍侵入により捕虜となり(靖康の変)、五国城で没。
・蔡京…北宋末の宰相。徽宗に取り入り,奢侈をすすめて財政を窮迫させた。1047~1126
・欽宗…趙桓。1100~1161


第五 聖人爲戒云々条

聖人爲戒、必於方盛之時。方其盛而不知戒、故狃安富則驕侈生、樂舒肆則綱紀壞、忘禍亂則釁孽萌。是以浸淫、不知亂之至也。
【読み】
聖人の戒めを爲す、必ず方に盛んなる時に於てす。其の盛んなるに方[あた]りて戒むるを知らず、故に安富に狃[な]れては則ち驕侈生じ、舒肆[じょし]を樂しみては則ち綱紀壞[やぶ]れ、禍亂を忘れては則ち釁孽[きんげつ]萌ゆ。是れ浸淫を以て、亂の至るを知らざるなり。
【補足】
・この条は、周易程氏伝臨卦卦辞の注にある。

上の条へべったりと引つけてよむがよい。人君への戒めなり。垩人の戒は盛なるときにする。若ひ者が歯が丈夫で梅干のさ子を噛破る。貝原が眼ても歯ても若ひときから養生せ子ばならぬと云が尤なこと。息才なとき灸もする。陽氣を入てゆるみをしめるもなり。迂斎の土藏に根つぎなり。曲らぬ内にここへ石、ここへ土臺と云てする。方其盛不知戒。古今斯したもの。盛なときはうかとする。百姓なども豊年のときが切すぎる。豊年は度々ないことと、あのとき用心すへきこと。故狃安富云々。安富は野々宮高砂なり。驕侈生は安富から氣のをごりが出る。この戒を丁寧に見へし。さて奢はけっこうふをすること。爰に驕と云は、上に富とあるゆへ奢を出さずに驕侈の中に含んてある。驕は其心につれた衣服もきるもの。をれは只の百姓でないと云ゆへ縮緬の羽織と出る。百姓は鍬鎌へ注連張るやふなれは仕そこないはないが、金銀があると驕が出て、わいらがと云、後ろにこわいものはないと云やふになりて、それからは法令にもそむく。ここを輕いものて云へは重い歴々のことは知るる。軽いものさへそふなれば、まして大名は驕侈か出るはつなり。必竟僣と云も安冨からのこと。驕侈がわるいの根なり。
【解説】
「聖人爲戒、必於方盛之時。方其盛而不知戒、故狃安富則驕侈生」の説明。聖人の戒めは盛んな時にする。盛んな時はうっかりとするもの。「安富」に狃れると「驕侈」となる。その驕侈が悪くなる本である。
【通釈】
上の条へべったりと引き付けて読みなさい。これは人君への戒めである。聖人の戒めは盛んな時にする。若い者は歯が丈夫で梅干の核を噛み破る。貝原が、眼でも歯でも若い時から養生しなければならないと言ったのが尤もなこと。息災な時に灸もする。陽気を入れて弛みを締めるのである。迂斎が言った土蔵に根搗である。曲らない内にここへ石、ここへ土台と言ってする。「方其盛不知戒」。古今こうしたもの。盛んな時はうっかりとする。百姓なども豊年の時が切過ぎる。豊年は度々ないことと、あの時に用心しなければならない。「故狃安富云々」。「安富」は野々宮高砂である。「驕侈生」は安富から気の驕りが出ること。この戒めを丁寧に見なさい。さて奢は結構なことをすること。ここで驕と言ったのは、上に富とあるので奢を出さなかったのだが、それは驕侈の中に含んである。驕では、その心に相応の衣服も着るもの。俺はただの百姓ではないと言うので縮緬の羽織と出る。百姓は鍬鎌へ注連縄を張る様であれば仕損ないはないが、金銀があると驕が出て、お前達如きがと言い、後には恐いものはないと言う様になって、それからは法令にも背く。ここを軽いことで言うので重い歴々のことも知ることができる。軽い者でさえそうなのだから、まして大名は驕侈が出る筈である。畢竟僣というのも安富からのこと。驕侈が悪くなる根である。

樂舒肆則紀綱壊。太平の代にあること。兎角のひ々々と樂むなと云ことかうれしくなる。舒肆の二字ともにさん々々な文字なり。天下の法にそむき非義をするてもないが、只のろりとする。朝起もいや、年始に出るも寒暑の見舞も太義と云。大名高家も本と樂なものてなし。交代のとき、今日発足と云へは大雨ても立子ばならぬ。けっこふな殿なれとも寐るが好きと云なれば、紀綱はくつるる。樂くと云処へ警戒を入ること。少のことを云立にして朔日の登城をやめると云所へ諫言をする。上一人の御方か寒ひときにも鷹野なとと云か舒肆にならぬことで、あれて紀綱もゆるまぬ。忘禍亂則釁孽萌。あぶない々々々々と云へは氣使はない。このしめりに何火事がと云と仕そこなふ。釁孽は世々夷狄から。そこを子ろふ。近く云へば信長などがそふて、これ位はよいと思たゆへ明智か爲に弑された。信長も外の用心はしたろふが、釁をわすれた故なり。浸淫不知亂之至也。狃樂忘か大切。過乱は人のこはがるものなれども、今日このごろはないと思ふて居る。警戒のないなり。油断大歒と云。浸淫二字ともに水旁[へん]なり。火はこげつく手ひどいもの。水はあたりのよはいものなり。因て霍乱なとは急なれとも、濕氣にあたるはそろ々々なり。田へ這入たとて其日にあたりもせぬが、濕地に住むといつか中る。一日二日てないゆへ我も氣がつかぬ。當分のことでないゆへ乱の至るを知らぬ。そこで破れに及ぶも警戒ないゆへなり。
【解説】
「樂舒肆則綱紀壞、忘禍亂則釁孽萌。是以浸淫、不知亂之至也」の説明。楽を好むと綱紀が崩れる。盛んな内に乱がゆっくりと芽生え、破れに及ぶ。警戒しなければならない。
【通釈】
「楽舒肆則綱紀壊」。これが太平の代にあること。とかく伸び伸びと楽しむなどということが嬉しくなる。舒肆は二字共に散々な文字である。天下の法に背いて非義をするのでもないが、ただのろりとする。朝起きも嫌、年始に出るのも寒暑の見舞いも大儀だと言う。大名や高家も本来は楽なものではない。交代の時、今日出立と言えば大雨でも立たなければならない。結構な殿でも寝ているのが好きであれば、綱紀は崩れる。楽しくという処に警戒を入れなければならない。瑣細なことを理由にして朔日の登城を止めると言う所へ諌言をする。上一人の御方か寒い時にも鷹野などと言うの舒肆にならないことで、あれで綱紀も弛まなくなる。「忘禍乱則釁孽萌」。危ないと思っていれば気遣いはない。この湿りに何火事がと言うと仕損なう。「釁孽」は世々夷狄から起こる。そこを狙う。近くで言えば信長などがそうで、これ位はよいと思ったので明智によって弑された。信長も外の用心はしただろうが、これは釁を忘れたのである。「浸淫不知乱之至也」。「狃楽忘」が大切。禍乱は人が恐がるものだが、今日この頃はないと思っている。警戒がない。油断大敵である。浸淫は二字ともに水偏である。火は焦げ付く手酷いもの。水は当たりの弱いもの。そこで霍乱などは急なものだが、湿気に中るのはゆっくりである。田へ這い入ったとしてもその日に中りもしないが、湿地に住むといつかは中る。一日二日のことでないので自分でも気が付かない。当座のことでないので乱が至るのを知らない。それで破れに及ぶのも警戒がないからである。
【語釈】
・舒肆…何の拘束も受けずに我侭勝手をすること。
・釁孽…釁は隙間で、孽はわざわい。つまり禍。
・霍乱…暑気あたりの病。普通、日射病を指すが、古くは吐瀉病も含めて用いた。


第六 復之六三以隂躁の条

復之六三、以陰躁處動之極。復之頻數而不能固者也。復貴安固、頻復頻失、不安於復也。復善而屢失、危之道也。聖人開遷善之道、與其復而危其屢失。故云厲无咎。不可以頻失而戒其復也。頻失則爲危、屢復何咎。過在失而不在復也。劉質夫曰、頻復不已、遂至迷復。
【読み】
復の六三は、陰躁を以て動の極に處る。復の頻數[ひんさく]して固きこと能わざる者なり。復は安固を貴ぶに、頻りに復り頻りに失うは、復るに安んぜざるなり。善に復りて屢々失うは、危の道なり。聖人は善に遷る道を開き、其の復るを與[ゆる]して其の屢々失うを危しとす。故に厲[あや]うけれども咎无しと云う。頻りに失うを以て其の復るを戒む可からず。頻りに失わば則ち危しと爲すも、屢々復れば何をか咎めん。過は失に在りて復に在らざるなり。劉質夫曰く、頻りに復して已まざれば、遂に復るに迷うに至る、と。
【補足】
・この条は、周易程氏伝復卦六三の爻辞の注にある。

行の上に警戒あるがこれなり。復礼もよい方へかへるを云て、復かいつれにもけっこふなこと。今迠のなりて居まいと云ゆへよい。身持を改めやふと云たか六三なり。まあよいなり。されとも以隂躁は先隂なり。大分は陽は動、隂は靜なれとも、然し女がさはがしいもの。地に象れは靜なれども、女は何のこともないことを物に騒く。全体にすべくくりがないゆへ隂躁なり。ここが内卦の仕舞で處動之極なり。復之頻數而云々。誤った、改めやふと云へとも又も々も仕くじる。復貴安固。人の身上取直すもこれなり。親類へも同村へも儉約を觸る。身持を直すもそれなり。改めやふと云てからはかへぬを安固と云。復善而屢失危之道也。六三かひょこすかゆへ又もしくじる。危之道なりはどふなれば、復善屢失ふゆへのこと。勘當帳も願ふたか、一つよいことは折節は復ふと云。隂躁で見届はないが、道落やめよふと云がとりえなり。
【解説】
「復之六三、以陰躁處動之極。復之頻數而不能固者也。復貴安固、頻復頻失、不安於復也。復善而屢失、危之道也」の説明。復卦の六三には身持ちを改めようとする取柄があるが、陰躁で騒がしく、全体に統べ括りがないのでしくじる。
【通釈】
行の上の警戒がこれである。復礼もよい方へ復ることを言い、復がいずれにしても結構なこと。今までの姿ではいない様にしょうと言うのでよい。身持ちを改めようと言うのが六三である。それはまあよい。しかしながら六三は「以陰躁」で、先ずは陰である。大方は陽が動で陰は静なのだが、しかし女は騒がしいもの。地に象るから静なものなのだが、女は何事もなくても騒ぐ。全体に締まりがないので陰躁である。ここが内卦の最後で「処動之極」である。「復之頻数而云々」。誤った、改めようとは言うが、またもやしくじる。「復貴安固」。人が身上を取り直すのもこれ。親類へも同村へも倹約を触れる。身持ちを直すのもそれ。改めようと言った後はそれを変えないことを安固と言う。「復善而屡失危之道也」。六三はしっかりとしていないので、またもしくじる。「危之道也」は何故かと言うと、復善屡失だからである。勘当帳への記録も願ったが、一つよいことには、折節は復ろうと言う。陰躁なので頼りにはならないが、道楽を止めようと言うのが取柄である。
【語釈】
・すべくくり…統べ括る。まとめてしめくくる。総括する。とりしまる。

聖人開其遷善之道云々。垩人それに戸は立ぬ。故曰厲無咎。周公の繋られたは屢失ふゆへ危と云、危けれとも復ふと云ゆへ無咎となり。田舎から江戸へ出た道落者が何ぞのとき親を思ひ出して歸ふと云。帰ふに咎はない。頻失則為危云々。人を導くは大切なこと。見届けられぬ息子と云へとも、何ぞのときは親を思ひ出して故郷へ帰ふと云。六三が生れつき隂躁ゆへ失ふは咎なれとも、屢復に咎はない。某なとも見たが、学者にも道落息子にもこれがある。至極のわるいものは紙鳶の尾の切れたでのけものなれとも、中には又なをるもある。上戸が禁酒と云て二三日過ると眞紅になりているが、禁酒々々と云て又もやぶれ々々々する。されとも垩人も禁酒せふと云を咎めはせぬ。咎はやぶれるにあるなり。劉質夫曰頻復不已云々。此小書が靣白い。復の卦で迷復は上六を云。嘉点の迷て復の点はわるい。復らすに仕舞ゆへ迷と云。上六はわるいにのけてある。六三も屢復るうへを仕舞の上六になるゆへ、ここは上の警戒なり。六三か油断すると上六になる。合ひ藥かありてそれて本復もするか、仕舞にあぶない。そこで復るは安固でなければたのみはない。
【解説】
「聖人開遷善之道、與其復而危其屢失。故云厲无咎。不可以頻失而戒其復也。頻失則爲危、屢復何咎。過在失而不在復也。劉質夫曰、頻復不已、遂至迷復」の説明。「屡失」は危いが、「屡復」は無咎である。上六は復らずに終えたところ。六三が油断をすると上六になるから「安固」でなければならないのである。
【通釈】
「聖人開遷善之道云々」。聖人は人が善に遷ることに戸を立てない。「故曰厲無咎」。周公がこれを繋けられたのは、屡々失うので危いが、復ろうと言うので無咎だということ。田舎から江戸へ出た道楽者が何かの時に親を思い出して帰ろうと言う。帰ろうとするのに咎はない。「頻失則為危云々」。人を導くのは大切なこと。頼りにならない息子だと言っても、何かの時には親を思い出して故郷へ帰ろうと言う。六三は生まれ付き陰躁なので失うのは咎ではあるが、屡復に咎はない。私なども見たが、学者にも道楽息子にもこれがある。至極悪い者は凧の尾の切れた様で除け者なのだが、中にはまた直る者もいる。上戸が禁酒と言って二三日過ぎると顏を真っ赤にしているが、破れてもまた禁酒をしようと言う。しかしながら、聖人も禁酒をしようと言うのを咎めはしない。咎は破れることにある。「劉質夫曰頻復不已云々」。この小書が面白い。復の卦で迷復とは上六のことを言う。嘉点の、迷って復るとする点は悪い。復らずに終えるので迷と言う。上六は悪いものとして除けてある。六三も屡復った上で最後に上六になるのだから、ここは上の警戒なのである。六三が油断をすると上六になる。合薬があるからそれで本復もするが、最後は危ない。そこで復るのは安固でなければ頼み甲斐がない。
【語釈】
・合ひ藥…その人の体質に合って効き目のある薬。適薬。


第七 睽極則咈戻而難合の条

睽極則咈戻而難合、剛極則躁暴而不詳、明極則過察而多疑。睽之上九、有六三之正應、實不孤。而其才性如此。自睽孤也。如人雖有親黨、而多自疑猜、妄生乖離、雖處骨肉親黨之閒、而常孤獨也。
【読み】
睽極れば則ち咈戻[ふつれい]にして合い難く、剛極まれば則ち躁暴にして詳[よ]からず、明極まれば則ち過察にして疑い多し。睽の上九には、六三の正應有りて、實は孤ならず。而るに其の才性此の如し。自ら睽孤たるなり。人、親黨有りと雖も、自ら疑猜すること多く、妄りに乖離を生ぜば、骨肉親黨の閒に處ると雖も、常に孤獨なるが如し。
【補足】
・この条は、周易程氏伝睽卦上九の爻辞の注にある。

睽之傳なり。これが天地の中にあたりて以の外のこと。天地の道理照応するもの。相彼鳥矣。詩も鳥に知もないが、友を求るのなり。友の合ふてよいこと。人の上には人と人との出合がへったりて目出度に、これは後ろ合せなり。斯ふ云道理がありて、睽と云はふっくりてない。咈戻はもとりもとるでどのやふなこと云ても聴かぬ。何も悦ぬと云ことが睽にある。人々互に心が合ふと腹立へきことも服を立ぬもの。合ぬと向の為になることを云ても用ひぬ。雨が降から傘借ふと云に、それも面白ない。くらいゆへ灯燈と云へは、それも心持がわるい。當暮はと云へはいらざると云。睽極かひょんな底。これか天地の間にあるまいことのやふてあることなり。こちから親切してもあちから向ている。極るにはこまること多い。
【解説】
「睽極則咈戻而難合」の説明。道理は照応するものだが、睽は背き合うから悪い。こちらが親切で言っても、相手はそれを聞かない。
【通釈】
これは睽伝である。これが天地の中では以の外のこと。天地の道理は照応するもの。「相彼鳥矣」と、詩にも鳥には知もないが友を求めるとある。友と合うのがよいこと。人の上では人と人との出合いがべったりとするのが目出度いのに、これは後ろ合わせである。こういう道理なので、睽はふっくりとしない。「咈戻」は悖り戻ることで、どの様なことを言っても聴かない。何も悦ばないということが睽にある。人々が互いに心が合うと腹の立ちそうなことでも腹を立てないもの。合わなければ、相手がためになることを言ってもそれを用いない。雨が降るから傘を貸そうと言っても、それも面白くない。暗いから灯燈をと言えば、それも心持が悪い。当暮はと言えば不要なことだと言う。「睽極」は妙なもの。これが天地の間にありそうもないことの様だがあること。こちらが親切をしても、向こうは聞かない。極まることには困ることが多い。
【語釈】
・相彼鳥矣…詩経小雅伐木。「伐木丁丁、鳥鳴嚶嚶。出自幽谷、遷于喬木。嚶其鳴矣、求其友聲。相彼鳥矣、猶求友聲」。

さて上九を云ゆへ、それへ係けてきわまる々々々々と云、ここに三つ極とかけてあるが皆のぼりつめたことを云。剛極則躁暴而不詳。手つよいの極ったゆへ手あらなり。不詳は、きこへた訳なく呵るやかましい伯父なとにあるもの。訳にかまはす呵りちらす。役人によって、公事なと捌くにも只呵るのがある。見識ばる医者なとにもあること。容体もきかず、病症や脉にもかまはす、我見識の高上を云ている。そこを不詳と云ふなり。明極則過察而多疑。火澤睽ゆへ火の縁ありて明と云。これか外卦の離のこふじたもの。水至て清れば無臭とも云て、明の害は人を治る上にも所謂穴をつくと云ものなり。過察と云が、それほどのことでもないにわる推量をする。さて明と察、似たやふで違ふ。伊川の人君貴明而不貴察と云へり。明は道理なりを見ぬくを云、察は人のない懐を探るなり。多疑は明にはないことて、過察からなり。明はたたい日中のやふなもの。あれは鷺烏と疑はなく分かる。察は目に見へぬことを斯ふても有ふかと疑か多ひ。察は利口なものにある病で、あの人の昨日來たのををれが子めたと云。向の人は近所を通るから訳なしに來たものなり。睽之上九云々。上九は睽孤と云て誰もかまいてはないと思ふに六三の正応がある。其相談相手あれとも才性如此なり。あの男の才性には三つの極る々々かある。あれとは出合ぬがよいと云は躁暴や過察するゆへなり。これか役に立ずにないもの。器量ありてつよいゆへ躁暴過察なり。そこを警戒する。
【解説】
「剛極則躁暴而不詳、明極則過察而多疑。睽之上九、有六三之正應、實不孤。而其才性如此。自睽孤也」の説明。上九には六三の正応があるが睽剛明の三極があるので悪い。それは剛極が躁暴で、明極が過察だからである。また、明と察とは違う。明は道理の通りを見抜くことで、察は他人の思ってもいない懐を探ることを言う。明に多疑はなく、それは過察からのものである。
【通釈】
さて上九のことを言うので、それへ繋けて極まると言い、またここに極を三つ繋けてあるのは皆上り詰めたことを言う。「剛極則躁暴而不詳」。手強いのが極まったので手荒である。不詳は当然なわけもなく呵る喧しい伯父などにあるもの。わけもなく呵り散らす。役人によっては公事などを捌く時にもただ呵る者がいる。見識ばる医者などにもあること。容体も聞かず、病症や脈にも構わずに自分の見識で思い上がったことを言う。そこを不詳と言う。「明極則過察而多疑」。火沢睽なので火の縁があるから明と言う。これは外卦の離が高じたもの。水は至って清ければ無臭とも言い、明の害は、人を治める上にもよく言う穴を突くという様なもの。過察は、それほどのことでもないに悪推量をすること。さて明と察は似た様で違う。伊川が「人君貴明而不貴察」と言った。明は道理の通りを見抜くことを言い、察は人のない懐を探ることを言う。多疑は明にはないことで、過察からのこと。そもそも明とは日中の様なもの。あれは鷺、烏と疑いなくわかる。察は目に見えないことをこんなことだろうかと思うことだから疑いが多い。察は利口な者にある病で、あの人が昨日来たのを俺は察した言う。向こうの人は近所に行くために、当然にここへ来ただけのことである。「睽之上九云々」。上九は「睽孤」と言い、誰も構う者はいないと思うが、六三の正応がある。その様な相談相手があるのだが、上九は「才性如此」であって、その男の才性には三つの極がある。あれとは出合わない方がよいと言うのは躁暴や過察をするからである。これが役立ずにはないもの。器量があって強いので躁暴過察となる。そこを警戒する。
【語釈】
・火澤睽…睽は兌下離上火沢睽。
・子めた…睨める。にらむ。
・睽孤…睽の上九が「上九。睽孤。見豕負塗、載鬼一車。先張之弧、後説之弧。匪冦婚媾。往遇雨則吉」である。

人雖有親黨云々。今日へもよくあたる。親類多の目出度は、肉身ある者共が打よって他人の耳や役人の耳にも立ずにすむこともあるものなり。睽孤になると、頼母しい親類ありても其男に疑猜のうたかひそ子みかあるゆへ誰もかまはぬ。常に孤獨なり。人のよいこと云ても何にと過察ゆへ、無い腹を探って合点せぬ。孤獨は我一人で親類も見離す。この方の才性の躁暴過察から、よい親類もありがいなしになる。そこへ警戒を入れる。これが大悪人でないゆへ戒になる。桀紂や熊坂ては戒にならぬ。利口な人か我を利口と思ふが未たよいか、察がわるい。手剛はよけれとも躁暴かわるい。剛と明は上座へ上るもの。ほめてやる筈なれとも、躁暴過察かあれは其分にならぬ。そこへ警戒することなり。剛極の下には躁暴、明極の下には過察。そうなると人がはなれて孤独になる。某なとに人の服さぬかこれなり。たとひ大な学挍に居ても、これては人才は取立られぬ。政の体に達しても斯ふ云才性があると、あの人はと云て人か離れる。因て天下の事業の上ても教学の人才を取立る上ても、剛明なと云ふ其口の下には躁暴過察があると、そこを警戒すべし。宋朝ても王荊公は剛明が過て政を乱す。陸象山もそれて学問を害す。この警戒かないと誰も孤独になる。勿論我に不德なくは、猶かへり見愼むへきこと。我に非なくて人の服さぬと云はとふしたものそ。警戒なき故のことなり。
【解説】
「如人雖有親黨、而多自疑猜、妄生乖離、雖處骨肉親黨之閒、而常孤獨也」の説明。頼もしい親類があっても、上九は疑猜があるので誰もが離れる。そこで「常孤独」となる。剛明自体はよいものだが、躁暴過察が悪い。自分に非がないのに人が服さないのは躁暴過察があるからであり、警戒しなければならない。
【通釈】
「人雖有親党云々」。これが今日にもよく当たる。親類が多くて目出度いことには、肉親の者共がうち寄ることで、他人の耳や役人の耳にも入れずに済むこともある。睽孤になると、頼もしい親類があってもその男に疑猜の疑いや嫉みがあるので誰もが構わない。「常孤独」である。人がよいこと言っても何と言って過察し、ない腹を探って合点することがない。孤独は自分一人で親類をも見離す。自分の才性の躁暴過察から、よい親類もあり甲斐なしになる。そこへ警戒を入れる。これが大悪人でないから戒めになる。桀紂や熊坂では戒めにならない。利口な人が自分を利口と思うのはまだよいが、察が悪い。手剛はよいが躁暴が悪い。剛と明は上座へ上がるものなので褒めて遣る筈なのだが、躁暴過察があれば褒めることはできない。そこへ警戒する。剛極の下には躁暴、明極の下には過察。そうなると人が離れて孤独になる。私などに人が服さないのがこのためである。たとえ大きな学校にいても、これでは人才は取り立てられない。政の体に達してもこの様な才性があると、あの人はと言って人が離れる。そこで天下の事業の上でも教学の人才を取り立てる上でも、剛明と言うその口の下には躁暴過察があると思って、そこを警戒しなさい。宋朝でも王荊公は剛明が過ぎて政を乱す。陸象山もそれで学問を害す。この警戒がないと誰もが孤独になる。勿論自分に不徳がないのであれば、尚更顧みて慎むべきである。自分に非がなくて人が服さないのはどうしたわけか。それは警戒がないからである。
【語釈】
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。奥州に赴く金売吉次を美濃国(岐阜県)赤坂の宿に襲い、牛若丸に討たれたという伝説的人物。


第八 解之六三曰負且乘条

解之六三曰、負且乘。致寇至。貞吝。傳曰、小人而竊盛位、雖勉爲正事、而氣質卑下、本非在上之物。終可吝也。若能大正、則如何。曰、大正非陰柔所能也。若能之、則是化爲君子矣。
【読み】
解の六三に曰く、負うに且つ乘る。寇の至るを致す。貞しけれども吝[いや]し、と。傳に曰く、小人にして盛位を竊まば、勉めて正しき事を爲すと雖も、氣質卑下なれば、本より上に在る物に非ず。終に吝しむ可し、と。若し能く大いに正しきときは、則ち如何、と。曰く、大いに正しきは陰柔の能くする所に非ざるなり。若し之を能くせば、則ち是れ化して君子と爲れるなり、と。
【補足】
・この条は、周易程氏伝解卦六三の爻辞の注にある。

負且乘は肩に天秤や駕篭や荷を舁く者なり。それを業にしてよい身分で、且乘ると云は乘輿になったなり。日雇取てよい人物じゃに先供であるく。致寇至。身分に災か來る。其分でいられぬを寇至ると云。長々とそふしてはいられまい。貞吝。よく々々わるいは貞吝と云て、どのやふなよいことをしても垢がぬけぬ。傳曰小人而竊其位。どふ筭用しても士君子の中へ出られぬ。本と歴々になるべきものてない。竊は、其をりばてないのにをる。雖勉為正事云々。我も安堵ならぬゆへ罪をうめやふとしても、氣質卑下ゆへどふもならぬ。唐にも多く有たことて、急に学問し初たり、賢者を招て見たり、慈悲深ひ眞似をしたり、色々しても一体が卑下で、仲間や駕篭舁て相応な人品ゆへ行かぬ。そこて警戒はそれを手前へ持て來る字なり。人へ出してやることでない。人へ出さぬは、貴様は負且乘とは云れぬことなり。易不可典要と云て、一色にとると易のはばが小くなる。なんでも我分にあたらぬことをするか負且乘なり。浪人なとが学力も道德も我分にないに人の師になると云も負且乘にて、今教学と云は人の眼をあけること。それゆへ向からもしとふて來る。それ々々相応に教育かなりて人找を取立るなれはよけれとも、我になくて師を好むなれは負且乘なり。医者も我に大成論一冊讀まず十四經も知らぬと云なればそれなり。代大匠而断なり。何ても我ならぬことを引受れは負且乘と云。これは人情て乘たがるもの。それが皆戒を知らぬなり。戒を知ると身分をかへりみる。我は負且乘の類ではないかと警戒すへきことなり。さてこれて濟して、これからは貞吝を云。
【解説】
「解之六三曰、負且乘。致寇至。貞吝。傳曰、小人而竊盛位、雖勉爲正事、而氣質卑下、本非在上之物。終可吝也」の説明。身に相応でないことをするのを「負且乗」と言う。小人な者が上にいると身に災いが及んでそのままではいられない。小人はどの様なよいことをしてもうまく行かない。「負且乗」ではないかと警戒をしなければならない。
【通釈】
「負且乗」とは肩に天秤棒や駕篭や荷を舁ぐ者のこと。それを業にするのがよい身分なのだが、且乗はそれが乗輿になったこと。日雇取りでよい人物なのに先供で歩く。「致寇至」。その身分に災いが来る。そのままではいられないのを寇至と言う。長々とそうしてはいられないだろう。「貞吝」。よくよく悪いのを貞吝と言い、どの様なよいことをしても垢が抜けない。「伝曰小人而竊其位」。どの様に算用をしても士君子の中へは出られない。本来が歴々になるべき者ではない。竊は、いるべきでない場にいること。「雖勉為正事云々」。自分でも安堵しないので罪を埋めようとしても、気質が卑下なのでどうにもならない。これが唐にも多くあったことで、急に学問をし始めたり、賢者を招いて見たり、慈悲深い真似をしたりと、色々なことをしても一体が卑下で、中間や駕篭舁きが相応な人品なのでうまく行かない。警戒は自分へ持って来る字であり、人へ出して言うことではない。人へ出さないのだから、貴様は負且乗だとは言えない。「易不可典要」と言い、一色に取ると易の幅が小さくなる。何でも自分の分に当たらないことをするのが負且乗である。浪人などが学力も道徳も相応にないのに人の師になるというのも負且乗である。今教学というのは人の眼を開けること。それで向こうからも慕って来る。それぞれ相応に教育が成って人材を取り立てるのであればよいが、自分が相応でなくて師を好むのであれば負且乗である。医者も自分が大成論一冊も読まず十四経も知らないというのであればそれであり、「代大匠而断」である。何でも自分のできないことを引き受けるのを負且乗と言う。これは人情で乗りたがるもの。それが皆戒めを知らないからである。戒めを知ると身分を顧みる。自分は負且乗の類ではないかと警戒しなければならない。さてこれで済まして、これからは貞吝のことを言う。
【語釈】
・乘輿…天子の乗る車馬。天子の乗物。
・易不可典要…易経繋辞伝下8。「易之爲書也、不可遠。爲道也屢遷、變動不居、周流六虚、上下无常、剛柔相易、不可爲典要、唯變所適」。
・代大匠而断…老子制惑。「夫代司殺者殺、是謂代大匠斲。夫代大匠斲、希有不傷其手」。

若能大正則如何。思を入れて見れば貞吝はあまりにか々々しいゆへ別に一つ議論を立て、程子の自問自答なり。六三を貞吝とあるか、それも大に正くしたらどふじゃなり。ここか六三をつかまへて云。貞に吝と云ことはあるまいことそ。周公の貞吝は理外なことを云やふなれとも、どふも六三の手際にはならぬ。一つ勵む氣になっても非隂柔の所能なり。凡民の俊秀てないものを農畝へかへすやふなもの。然るにそこを手を入れて上へすすめて見たときにどふもまいらぬ。若能之則是化為君子。それは六三であるまいなり。六三は吝なり。けれともそこは生ものゆへ化しもせふが、六三は小人ゆへ手が付られぬ。君子にならずにはならぬ。つけやきばではゆかぬ。人か学問すると学者がうれしがるが、上べては役に立ぬ。本のになれは化して君子になる。貞吝はなさけないやふなれとも、卑下ては上へ置れぬ。さて上の睽の次にこの解のあるか面白い。上の條は剛明て躁暴過察ゆへ孤独になる。この条は下品下根なり。それて上に立れぬと見せて警戒に引たは、我も負且乘てはあるまいかと云へは大ふ戒になる。とかく我をは一と器量あるやふに思ふぞ。外から見ると負且乘の筋にみへること多し。氣の毒なぞ。
【解説】
「若能大正、則如何。曰、大正非陰柔所能也。若能之、則是化爲君子矣」の説明。六三は貞吝であり、大いに正しくしたとしてもうまく行かない。下品下根で手が付けられないのである。とかく自分を一器量ある様に思うものだが、負且乗の筋が多い。
【通釈】
「若能大正則如何」。深く思ってみると貞吝はあまりに苦々しいので、別に一つ議論を立てた。これは程子の自問自答である。六三は貞吝とあるが、それも大いに正しくしたらどうかと聞いた。ここは六三を捉まえて言う。貞に吝ということはありそうもないことで、周公の貞吝は理外なことを言った様だが、どうも六三の手際ではうまく行かないのである。一つ励む気になっても「非陰柔所能」である。凡民の俊秀でない者を農畝へ帰す様なもの。そこで、そこに手を入れて上へ進めて見た時にどうもうまく行かない。「若能之則是化為君子」。これは六三のことではないだろう。六三は吝である。生き物なので化しもしようが、六三は小人なので手が付けられない。君子にならなければ化さない。付焼刃ではうまく行かない。人が学問をすると学者が嬉しがるが、上辺だけでは役に立たない。本物になれば化して君子になる。貞吝は情けない様だが卑下では上へ置けない。さて上の睽の次にこの解があるのが面白い。前条は剛明で躁暴過察なので孤独になるということ。この条は下品下根のこと。それで上に立てないと見せて、これを警戒に引いたのは、自分も負且乗ではないだろうかと言えば大分戒めになるからである。とかく自分を一器量ある様に思うが、外から見ると負且乗の筋に見えることが多い。それは気の毒なこと。
【語釈】
・凡民の俊秀てないものを農畝へかへす…教学15。「擇其才可敎者聚之、不肖者復之農畝」。

餘論。存養ありても警戒なきは稲寺万願寺を日にあてるやふなもの。折角の酒をかはらする。をしきことと云ことあり。晩節難保なり。王旦か妾を持から奢にもなり、齢をもちぢめたことを見よ。
【通釈】
余論。存養があっても警戒がないのは稲寺万願寺を日に当てる様なもの。折角の酒を台無しにする。惜しいことということがあって、晩節難保である。王旦が妾を持ってから奢にもなり、齢をも縮めたことを見なさい。
【語釈】
・稲寺万願寺…銘酒の名。
・かはらする…変える?
・晩節難保…「保初節易、保晩節難」。
・王旦…字子明。宋の宰相。957~1017