近思録巻之十一筆記

教學凡二十一條  亥三月廿六日  慶年録
【語釈】
・亥三月廿六日…寛政3年辛亥(1791年)3月26日。
・慶年…北田慶年。東金市福俵の人。通称太兵衛。

教学は学を教ると云字なり。学を教ると云ことは只のもののなることに非す。書物を懐に入れは学者のやふに思ひ、見臺に書物を載せてをけば師匠のやふに思ふがそふでない。本の教ると云は徳を身に持た人でなけれはならぬ。書物は道具なり。鋸や手斧かありても白人か大工の眞似はならぬ。書物かありても師の任はならぬ。此の重いと云はどふなれは、出て勤る段になると治体治法政事の成る人が、引込て居てこれを教ることなり。得てかいない学者が浪人しているとこの教学を吾ものの様に思ふがそふでない。此は出處の篇の出處の二字を胴切にしたことと合点せよ。出て上にすすむと政をする。引こむとこれをする。出て治体治法政事をしたものは伊尹や周公旦、引込でこれをしたは孔子や孟子なり。迂斎先生の、舌耕のことてはないとをもへと云ふた。舌耕は教学ではない。さのみ舌耕が非義と云でもなけれとも、喰もののなさにする。商も出来ず、これで妻子を養なをふと云のはひょんなものなり。三宅先生の、どふもならぬときは塩せんべいでも賣ふと云た。せんべい賣は生産にしてもよいが、学問を生産にしていて弟子の多ひを悦ぶは堺町の木戸塲が大入々々と云やふなもの。天下之得英才教育之三樂と云てあり。迂斎の舌耕のことではないと断たがどこ迠もひびくぞ。
【解説】
教学は徳を持った人でなければならない。治体治法政事のできる人が引っ込んでするのが教学である。迂斎が舌耕は教学ではないと言った。
【通釈】
教学は学を教えるという字である。学を教えるということは普通の者のできることではない。書物を懐に入れれば学者の様に思い、見台に書物を載せて置けば師匠の様に思うがそうではない。本当の教えるとは徳を身に持った人でなければならない。書物は道具である。鋸や手斧があっても素人に大工の真似はできない。書物があっても師の任はできない。これが重いと言うのはどういうことかと言うと、出て勤める段になれば治体治法政事のできる人が、引っ込んでこれを教えるからである。よく甲斐ない学者が浪人をしていると、この教学を我がものの様に思うがそうではない。これは出処の篇の出処の二字を胴切りにしたことだと合点しなさい。出て上に進めば政をする。引っ込むとこれをする。出て治体治法政事をしたも者は伊尹や周公旦、引っ込んでこれをしたは孔子や孟子である。迂斎先生が、舌耕のことではないと思えと言った。舌耕は教学ではない。それほど舌耕が非義ということでもないが、喰うものがないのでする。商いもできないから、これで妻子を養おうと言うのはひょんなもの。三宅先生が、どうにもならない時は塩煎餅でも売ろうと言った。煎餅売りは生業にしてもよいが、学問を生業にして弟子が多いことを悦ぶのは堺町の木戸場が大入だと言う様なもの。「天下之得英才教育之三楽」と言う。迂斎が舌耕のことではないと断ったのが何処までも響くこと。
【語釈】
・舌耕…講義・講演・演説・講談など弁舌によって生計を立てること。
・天下之得英才教育之三樂…孟子尽心章句上20。「得天下英才而敎育之、三樂也」。


初条

濂渓先生曰、剛善、爲義、爲直、爲斷、爲嚴毅、爲幹固。惡、爲猛、爲隘、爲強梁。柔善、爲慈、爲順、爲巽。惡、爲懦弱、爲無斷、爲邪佞。惟中也者、和也。中節也。天下之達道也。聖人之事也。故聖人立敎、俾人自易其惡、自至其中而止矣。
【読み】
濂渓先生曰く、剛の善なるは、義と爲り、直と爲り、斷と爲り、嚴毅と爲り、幹固と爲る。惡なるは、猛と爲り、隘と爲り、強梁と爲る。柔の善なるは、慈と爲り、順と爲り、巽[そん]と爲る。惡なるは、懦弱と爲り、無斷と爲り、邪佞と爲る。惟中とは、和なり。節に中るなり。天下の達道なり。聖人の事なり。故に聖人の敎を立つる、人をして自ら其の惡を易え、自ら其の中に至らしむるのみ、と。
【補足】
・この条は、通書の師章にある。

濂渓先生曰剛善爲義云々。此章通書の本文では師の章と云、それをつめてここへのせた。師は人をよくするもの。医者の病人を療治するやふなもの。あるくことのならずに寢ている。そこを直す。よって医者を仁の術とも云が聞へたことなり。天から仁義礼智と云脉を下されて居ても、いつも其脉かわるい。師か人をよくするにも惣して偏になる処を一寸々々と手を入ることて、師の章とも云。人は隂陽て出来たものなれとも、其中にも隂がち陽がちかある。丁度に生れたが垩人なり。其片つりの癖を直すが師なり。陽はつよく隂は弱く、其くせを直して中にするか教なり。徂徠か氣質変化はならぬと云ふは学の大ふ根を知らぬの、癖をなをすからして氣質変化なり。先此の氣質を大割に云へは剛柔の二つなり。其中に又善悪の二つありて、四つにすれはこれ四象の形りなり。癖を直すは師の役で、癖は剛柔の二つに善悪をつけて大概先此四つなものと語り出して剛善爲義云々。剛善は先よい性なり。義と云は欲にまけぬこと。道理なりにをし通して行くこと。吾未見剛者と孔子の云れたに申棖也と云ふたを、棖也慾也焉得剛矣と、義と云もので慾を押しきることで、慾かあるとよわくなる。義貞や義經も匂當の内侍や靜が出るとよはる。欲ゆへなり。
【解説】
「濂渓先生曰、剛善、爲義」の説明。これは師の章の文である。人は陰陽でできたものだが、陰陽の一方に偏るもので、丁度に生まれたのが聖人である。その偏りの癖を直すのが師である。徂徠は気質変化は成らないと言ったが、癖を直すこと事体が気質変化である。気質は大別すると剛柔であり、これをそれぞれに善悪に分けると四象となる。「剛善」はよい性であり、「義」は欲に負けないことである。
【通釈】
「濂渓先生曰剛善為義云々」。この章は通書の本文では師の章と言い、それを縮めてここへ載せたもの。師は人をよくするもので、医者が病人を療治する様なもの。歩くことができなくて寝ているところを治す。そこで、医者を仁の術とも言うのがよくわかる。天から仁義礼智という脈を下されていても、いつもその筋が悪い。師が人をよくする時も総じて偏になる処を一寸ずつ手を入れることであって、ここを師の章とも言う。人は陰陽でできたものだが、その中にも陰勝ち陽勝ちがあって、丁度に生まれたのが聖人である。その片吊りの癖を直すのが師である。陽は強く陰は弱いが、その癖を直して中にするのが教えである。徂徠が気質変化は成らないと言ったのは学の大根を知らないからである。癖を直すことからして気質変化である。先ずこの気質を大割に言えば剛柔の二つである。その中にまた善悪の二つがあって四つにすれば、これが四象の姿である。癖を直すのは師の役で、癖とは剛柔の二つに善悪をつけ、大概先ずはこの四つだと語り出して「剛善為義云々」。剛善は先ずはよい性である。義とは欲に負けないことで、道理の通りに押し通して行くこと。「吾未見剛者」と孔子が言われたのに対して「申棖也」と言ったのを、「棖也慾也焉得剛矣」と、義で慾を押し切った。欲があると弱くなる。新田義貞や源義経も匂当の内侍や静御前が出ると弱る。それは欲があるからである。
【語釈】
・吾未見剛者…論語公冶長11。「子曰、吾未見剛者。或對曰、申棖。子曰、棖也慾、焉得剛」。
・匂當の内侍…後醍醐天皇に仕えて勾当内侍となり、のち新田義貞の妻となる。義貞の戦没を聞いて琵琶湖に投身したとも剃髪して後世を弔ったとも伝える。

爲直は横道へきれずまっすぐに是非を分ること。大方か非なり。義とは思へとも義なりにせす、非とは思ふが改めぬが、直はまっすぐに見はった通りにすることなり。断は决断なり。これはどふせう々々々々としている人は决断なくてよわい。日用のかるいことから重ひこと迠决断がないとのんべんぐらりで道理なりにならぬが、ふみ切てするが断なり。嚴毅。嚴はきびしい。毅はこらへ情のつよいことて、肩骨の強くものをたへることのつよみのあるを云。論語弘毅の毅で人々知てをる文字ぞ。これへ嚴の字のつくはよってもつかれぬ処のつよみなり。吾黨で云へば浅見先生などのやふな躰で、夕方ちと咄しにいこふかと云やふな心安だてなことではない。大將なら六具をかためてしゃんと丈夫な躰のやふに、むさと只咄そふと云ていの人てないなり。幹固。迂斎のしっかりと骨のあること、と。幹はしん木、固はかたいなり。直方のうどの大木でないこと、と。樫の杖ほそくてもつよい。何でも打たをす。是れが先剛の徳なり。
【解説】
「爲直、爲斷、爲嚴毅、爲幹固」の説明。「為直」は横道に逸れずに真っ直ぐに是非を分けることで、「断」は決断である。「厳毅」の厳は厳しいことで、毅は弘毅の毅である。「幹固」の幹は真木で、固は固いこと。
【通釈】
「爲直」は横道へ切れずに真っ直ぐに是非を分けること。しかし、大方が非である。義とは思っても義の通りにせす、非とは思うが改めないのだが、直は真っ直ぐに見張った通りにすること。「断」は決断である。これはどうしようと悩んでいる人は決断がなくて弱い。日用の軽いことから重いことまで決断がないとのんべんだらりで道理の通りにならないが、踏み切ってするのが断である。「厳毅」。厳は厳しいこと。毅は堪え情の強いことで、肩骨が強くてものを堪えることの強みのあることを言う。論語にある弘毅の毅のことで、人々の知っている文字である。これへ厳の字が付いて寄り付くこともできない処の強みである。我が党で言えば浅見先生などの様なことで、夕方一寸話に行こうかという様な心安い相手ではない。大将なら六具を固めてしゃんと丈夫な様で、無造作にただ話そうという様な相手ではない。「幹固」。迂斎がしっかりと骨のあることだと言った。幹は真木で固は固いこと。直方が独活の大木ではないと言った。樫の杖は細くても強い。何でも打ち倒す。これが先ずは剛の徳である。
【語釈】
・論語弘毅…論語泰伯7。「曾子曰、士不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」。

扨、この剛ひかわるい方へ出るか剛の疵なり。悪爲猛。猛はつかみつくやふなことなり。猛獣と云ふから出た字で、喰ひつく喰ひ殺と云のつよみなり。清盛や福嶋かやふなもの。猛なり。隘。剛のわきへ猛とは書ふが、隘と書たは周子のよく知って書れた妙なり。めったにどふも書けぬ字ぞ。隘はわるかたくいんくつな人を云、片意地と云がこれなり。何を云ても合点せす、死ても苦ふないと云。殊の外せばくあじにかたまったのなり。強梁。情ごはに人を推つける方を云。梁はうつばりてこちかめりこまぬによって人を懼れす我意はかりをする。猛とも違ふ。どのやふなことでもめらぬが梁なり。昔の切支丹の徒黨などと云が強梁の体てあったろふ。如何様に暁してもきかず、命を何とも思はぬ。強梁なり。あの通きびしい御法度なも尤なことなり。
【解説】
「惡、爲猛、爲隘、爲強梁」の説明。「猛」は掴み付く様なことで、「隘」は悪堅く陰屈な人を言い、片意地がこれである。「強梁」は人を懼れず我意を通す者を言う。
【通釈】
さて、この剛が悪い方へ出るのが剛の疵である。「悪為猛」。猛は掴み付く様なこと。猛獣ということから出た字で、喰い付く、喰い殺すという強みである。清盛や福島の様なもの。それが猛である。「隘」。剛の脇へ猛と書くことはあるだろうが、隘と書いたのは、よく知って書かれた周子の妙である。滅多にはどうも書けない字である。隘は悪堅く陰屈な人を言い、片意地がこれである。何を言っても合点せず、死んでもよいと言う。殊の外狭く悪く固まったのである。「強梁」。情強に人を押し付ける者を言う。梁は、梁で自分はめり込まないので人を懼れず我意ばかりをすること。これは猛とは違う。どの様ことでもめり込まないのが梁である。昔の切支丹の徒党などというのが強梁の体であったのだろう。どの様に暁しても聞かず、命を何とも思わない。それが強梁である。それで、あの通りの厳しい御法度も尤もなこと。

柔善爲慈云々。慈は泪もろく人を可愛かり慈悲深ひ。これか第一柔の善なり。旦那に取ても何にしてもよい。病人の話をきき、ああ飯もはいらぬと云。この心から出るでは万端手あてもよいはづ。をれは食はずとも此の肴をやれ、寒かろふ、羽織でもやれ、まづこれでもと無い金をも巾着から出してやる。順は此方がやはらかですら々々行く。物は引かかりたかるものなれとも引かからす、水のすら々々行く躰なり。柔の内での順は結搆なり。家内のふし々々も順でないからある。巽は順とあまり違はぬか、分けてあるて當りを云ふなら上の順と云は手前の方をさすこと。巽は人にそむかぬ。相手を取て云体て、向のものについてする。拙者存するにはを云ぬことなり。巽は向ふなりになるてよい。藝をしこむに子共のときかよいと云も、そむかず向ふなりになるでよいなり。
【解説】
「柔善、爲慈、爲順、爲巽」の説明。「慈」は涙脆く人を可愛がり慈悲深いこと。「順」は自分が柔らかで水の様にすらすらと行くこと。「巽」は順とあまり違わないが、順は自分自身のことであって、巽は相手の通りに従うことである。
【通釈】
「柔善為慈云々」。「慈」は涙脆く人を可愛がり慈悲深いこと。これが第一の柔の善である。旦那にしても何にしてもよい。病人の話を聞き、ああ飯も入らないと言う。この心から出るのなら万端手当てもよい筈。俺は食わなくてもよいからこの肴を遣れ、寒いだろうから羽織でも遣れ、先ずはこれでと無い金をも巾着から出して遣る。「順」は自分が柔らかですらすらと行くこと。物は引っ掛かりたがるものだが引っ掛からず、水のすらすらと行く体である。柔の内の順は結構なもの。家内の節々の問題も順でないから起きる。「巽」は順とあまり違わないが、ここは分けてあるのでその違いを言うのなら、上の順は自分の方ですることを指し、巽は人に背かないことであって、相手があって言う体で、向こうの者に対してすること。拙者存ずるにはと言わないことである。巽は向こうの通りになるのでよい。芸を仕込むには子供の時がよいと言うのも、背かず向こうの通りになるのがよいからである。

柔の悪と云にも隂症の傷寒かある。柔はよいときにはよいが、悪ひ段ては柔なほどわるい。其第一が懦弱なり。これは仁義礼智を持ても持くさりなもの。それからしては自棄もあり臆病も出る。無精も何もかも此懦弱から出る。炬燵から出ることもいやかり、兎角巨達はなれせす、朝寢を起すともちっとこふしてをいてくれろと云ひ、人の跡にはかりついても耻とも何とも思はぬなり。無断はふみ切のない、埒あかずてたわいなしにべろりとめいるのなり。あの人の月番にはどふも埒があかぬと云るる。一寸した手紙の返事もどふ返事しようと云やふでらちがあかず、奉公人の出代りの朝迠も、あれをばをこふかいっそ出さふかと决断がない。これが皆々にあることなり。邪佞。悪と云からは二つはないと云はふが、中にも柔て隂の方の悪と云は、日のあたらぬ土臺や柱根の腐るやうにどふもならぬ。人の知ぬ殊の外のことなり。尤邪佞は極々のわるいこととをもへ。猛の強梁のと云は初對面からしるるか、この邪佞は人あたりもよくさて々々よいと見せて心ざまがわるい。この人はどふもならぬ。せかして見てもせきもせず、言を出させて辞ば質をとろふとしても何にも云はずだまっている。古語にも笑中有釼と云ふた。にこ々々笑ひながら心には人を殺す程の一物あり、これは一はい食ふものなり。ここが彼隂症の傷寒でさわぎ巡りもせぬか、扨々手取ものなり。朱子も隂病裡症と云て表へみへぬはさて々々わるいことなりと云。
【解説】
「惡、爲懦弱、爲無斷、爲邪佞」の説明。「懦弱」から自棄も臆病も無精も出る。「無断」は踏ん切りがなくて埒の明かないこと。「邪佞」はよいことの様に見せて心様が悪いことで、表に見えないのは実に悪い。
【通釈】
柔の悪というものにも陰症の傷寒がある。柔はよい時にはよいが、悪い段では柔なほど悪い。その第一が「懦弱」である。これは仁義礼智を持ってはいても持腐れである。それからして、自棄もあり臆病も出る。無精も何もかもこの懦弱から出る。炬燵から出ることも嫌がり、とかく炬燵離れをせず、朝寝をしているのを起こすともう少しこうして置いてくれと言い、人の跡にばかりつくのを恥とも何とも思わない。「無断」は踏み切ることがなく、埒が明かずに他愛なくべろりと滅入ること。あの人の月番はどうも埒が明かないと言われる。一寸した手紙の返事もどう返事しようかという様で埒が明かず、奉公人の出代りの朝までも、あれを置こうか、いっそのこと出そうかと決断がない。これが皆にあること。「邪佞」。悪と言うからは別なものはないと主張するが、中でも柔で陰の方の悪は日の当たらない土台や柱根の腐る様にどうにもならない。それは人の知らない殊の外のこと。尤も邪佞は極々の悪いことと思え。猛や強梁というのは初対面からわかるが、この邪佞は人当たりもよく、本当によいことと見せるが心様が悪い。この人はどうにもならない。急かして見ても急きもせず、言を出させて言質をとろうとしても何も言わずに黙っている。古語にも「笑中有釼」とある。にこにこと笑いながら、心には人を殺すほどの一物があり、これで一杯食うことになる。ここがあの陰症の傷寒で、騒ぎ廻りもしないが、実に一大事なこと。朱子も「陰病裡症」と言った。表に見えないのは実に悪いことだと言ったのである。
【語釈】
・笑中有釼…旧唐書李義府伝。
・隂病裡症…

惟中也者和也云々。此からが垩学の大事を云ことて、人は隂陽剛柔て生れた侭ではどちへよりてもならぬ。学問で丁どの中にせ子ばならぬと云こと。爰をちょっと見ると剛柔の悪を直して善にすることと見るが、たとへ剛柔善でも氣質を直さ子ば本道の中に至られぬ。義の直の順の慈のと云氣質のものでも、其侭でをし出すと其方へ片つりになり中にならぬ。よって垩学で教へて出してよい処へ出す。慈順はよいものとていつも々々々出すまじき処へ出してはわるい。補藥つかいの瀉藥つかいのと云あり。補も瀉も療治の流義になってはわるい。中は片方つかぬことて、和と云は丁どそれ々々に出る。流義かつかす道理なりにすら々々するて中節なり。天下之達道也とは何処へ持ていても通用することぞ。中庸では喜怒哀樂未發を中と云、發て皆中節和と云たか、周子のここの意はそこにかまはず、大つか子にやはり堯舜の允執其中と云れたの意なり。何もかも丸に持合せて丁どにゆくが中なり、と。
【解説】
「惟中也者、和也。中節也。天下之達道也」の説明。人が陰陽に偏らない様にするために学問が要る。それは剛柔の悪を直して善にすることではなく、剛柔に偏らない中に至ることで、丁度の場に出ることを和と言う。
【通釈】
「惟中也者和也云々」。これからが聖学の大事を言ったことで、人は陰陽剛柔で生まれたままではどちらへ寄ってもうまく行かない。学問で丁度の中にしなければならないということ。ここを一寸見ると剛柔の悪を直して善にすることだと見えるが、たとえ剛柔善でも気質を直さなければ本当の中に至ることはできない。義直順慈という気質の者でも、そのままで押し出すとそちらへ片吊りになって中にならない。そこで聖学で教えて、出してよい処へ出す。慈順はよいものといっても、出してはならない処へいつも出していては悪い。補薬使いや瀉薬使いということがあり。補も瀉も療治の流儀になっては悪い。中は片方に付かないことで、和とはそれぞれに丁度に出ること。流儀が付かずに道理の通りにすらすらとするので「中節」である。「天下之達道也」とは何処へ持って行っても通用すること。中庸では「喜怒哀楽之未発謂之中発而皆中節謂之和」と言ったが、周子のここの意はそれに構わず大まかに言ったもので、やはり堯舜の「允執其中」と言われた意である。何もかも全て持ち合わせて丁度に行くのが中だと言ったのである。
【語釈】
・中庸では…中庸章句1。「喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉」。
・允執其中…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。

垩人之事云々。孟子が所願学孔子と云が垩人の事なり。伯夷隘柳下惠不恭て流義かあるか、孔子は中の和て流義はない。故垩人立教俾人自易其悪云々。其悪を易ると云は、たとへば柔の悪をかへて剛の善になるかと云にそふてはない。柔の剛のとどちへなつみ引つくもわるいによって中に至らしむ。丁どの処へゆくてよい、と。行きとといて止む矣。そこが学問のしあけの処なり。中に至るに又一吟味あり。嚴毅で中なときもあり、幹固で中なときもある。そこを知れと朱子も云はれた。此の中を子莫が中のやふにしてはならぬ。慈てよいときもあり、順てよいときもあり、又義てよいときもあるべし。これを時中と云。ここが教学の大切なり。
【解説】
「聖人之事也。故聖人立敎、俾人自易其惡、自至其中而止矣」の説明。伯夷や柳下恵には流儀があるが、孔子は中の和で流儀はない。中とは善悪の中間という意ではなく、その場で最もよいものを執ることであり、それが「時中」である。
【通釈】
「聖人之事云々」。孟子が「所願学孔子」と言ったのが聖人之事である。「伯夷隘柳下惠不恭」で流儀があるが、孔子は中の和で流儀はない。「故聖人立教俾人自易其悪云々」。「易其悪」とは、たとえば柔の悪を易えて剛の善にするのかというとそうではなく、柔の剛のとどちらへ泥み引っ付くのも悪いことなので、そこで中に至らせること。丁度の処へ行くのでよいと言ったのである。行き届いて止む。そこが学問の仕上げの処である。中に至るにはまた一吟味がある。厳毅で中な時もあり、幹固で中な時もある。そこを知れと朱子も言われた。この中を子莫の言った中の様に見てはならない。慈でよい時もあり、順でよい時もあり、また、義でよい時もあるだろう。これを「時中」と言う。ここが教学の大切なところである。
【語釈】
・所願学孔子…孟子公孫丑章句上2。「可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速、孔子也。皆古聖人也。吾未能有行焉。乃所願、則學孔子也」。
・伯夷隘柳下惠不恭…孟子公孫丑章句上9。「孟子曰、伯夷隘、柳下惠不恭。隘與不恭、君子不由也」。
・子莫が中…孟子尽心章句上26。「孟子曰、楊子取爲我。拔一毛而利天下、不爲也。墨子兼愛。摩頂放踵、利天下爲之。子莫執中。執中爲近之、執中無權、猶執一也。所惡執一者、爲其賊道也。舉一而廢百也」。
・時中…中庸章句2。「仲尼曰、君子中庸。小人反中庸。君子之中庸也、君子而時中。小人之中庸也、小人而無忌憚也」。


第二 伊川先生曰古人生子云々条

伊川先生曰、古人生子、能食能言而敎之。大學之法、以豫爲先。人之幼也、知思未有所主、便當以格言至論日陳於前。雖未曉知、且當熏聒、使盈耳充腹。久自安習、若固有之。雖以他説惑之、不能入也。若爲之不豫、及乎稍長、私意偏好生於内、衆口辯言鑠於外、欲其純完、不可得也。
【読み】
伊川先生曰く、古人子を生みては、能く食し能く言うよりして之を敎う。大學の法は、豫めするを以て先と爲す。人の幼なるや、知思未だ主とする所有らざれば、便ち當に格言至論を以て日に前に陳ぬべし。未だ曉知せずと雖も、且く當に熏聒[くんかつ]し、耳に盈ち腹に充たしむべし。久しくして自ら安習し、固より之を有するが若くならん。他説を以て之を惑わすと雖も、入ること能わざるなり。若し之を爲すに豫めせずんば、稍[やや]長ずるに及び、私意偏好は内に生じ、衆口辯言は外より鑠[しゃく]して、其の純完ならんことを欲すとも、得可からざるなり、と。
【補足】
・この条は、程氏文集二にある伊川の語。

これは小学にのっておることで、子ともかよく食ふ位のときは教へ処ではないはつなれども、このときから教る。大学之法以豫為先。礼記学記の篇にあり、豫は何事もない前からそろ々々教る。ここの文義をさっはとせふなら、豫するとは小学挍のこととをもへ。豫もせず、それと云て大学挍へづいとこらるると大学挍でこまる。豫して出るでよい。蒔繪も下地なしにはならず、土藏もあら打へしっくひはならぬ。すれは豫は小学挍とをもへ。豫めせずに出ると大学挍でつっかへさ子ばならぬ。悪くとると大学挍の内て豫めすることのあるやふに思ふはわるい。すぐにここの能食能言の児とものときから教るのが豫めなり。人之幼也知思云々。児共のときはぐはんぜなく、風巾をあけたりこまを廻すか何より面白い。主とする知思もなく、只正直なものなり。以挌言至論云々。児共のときの祖母や乳母の云たことを覚ているものなり。児共のときに日月をののさまと教るといつ迠もそふ覚へるは挌言至論のないゆへなり。勸学院の萑蒙求を囀ると云が面白ことて、いつとなくよいことを聞とよふなる。
【解説】
「伊川先生曰、古人生子、能食能言而敎之。大學之法、以豫爲先。人之幼也、知思未有所主、便當以格言至論日陳於前」の説明。子供は幼い頃から教えなければならない。豫は小学校の意であり、幼い頃から教えるのであって、大学校へ入ってからそれをすると思うのは悪い。幼時は知思もなく正直なもの。それを格言至論で教える。
【通釈】
これは小学に載っていることで、子供がよく食う位の時は教え処ではない筈だが、この時から教える。「大学之法以豫為先」。これは礼記学記の篇にあって、豫は何事もない前からそろそろと教えること。ここの文義を大雑把に言えば、豫とは小学校のことだと思いなさい。豫もせずにそれと言って大学校へ直ぐに来られると大学校の方で困る。豫めして出るのでよい。蒔絵も下地なしではならず、土蔵も荒打に漆喰では悪い。そこで豫は小学校のこととだ思いなさい。豫めせずに出ると大学校で突っ返さなければならない。大学校の内で豫めすることができる様に思うのは悪い。直にここの「能食能言」という子供の時から教えるのが豫である。「人之幼也知思云々」。子供の時は頑是なく、凧を揚げたり独楽を回すのが何より面白い。主とする知思もなく、ただ正直なもの。「以挌言至論云々」。子供の時に祖母や乳母から言われたことは覚えているもの。子供の時に日月をののさまと教えるといつまでもそう覚えているのは格言至論がないからである。勧学院の雀蒙求を囀るというのが面白いことで、いつともなくよいことを聞くとよくなる。
【語釈】
・小学…小額立教。「内則曰、凡生子擇於與諸母與可者必求其寛裕慈惠温良恭敬愼而寡言者使爲子師。子能食食敎以右手能言男唯女兪」。
・礼記学記…礼記学記。「大學之法、禁於未發之謂豫」。
・勸学院の萑蒙求を囀る…常に見慣れ聞き慣れていることは自然に覚える意。

薫聒使耳盈云々。薫は物をふすべる。聒はかしましとよむ。武家の子ともの武ばるか聞へる。つ子々々に見聞くて武はり、武士に向て無礼千万と云も天からの人に違はないはづなれとも、十四五になって出ると町人と武士の子とは大ふ違。薫聒耳に盈るゆへなり。及乎稍長私意偏好云々。大くなりては役にたたぬと云は私意偏好か出るゆへなり。十一二よりはもふ私意偏好が出るもの。児共のときは田舎や市井の手習子が師匠さま々々々々と伯父より尊ぶは私意偏好がないゆへぞ。これが出ると親の手にもをへぬもの。武士の子てもをれは武士はいやの、百姓の子かをれは百姓はいやと云やふになるが私意偏好ぞ。児共のときは何ても親のとをりになることとうっかりと思ふか、大くなると手前の了簡か出る。衆口辨言云々。色々なことを聞くなり。鑠於外とは、鑠はうめか子と云字て外から添へ入るる意なり。衆口弁言で、若ひものへも田舎なとにいるものかと云てそそなかすものあり。学者もそれて、親の膝元から直に師か受取てはわるいこともしこます。私意偏好も出たが、附き合などとて同じ年ごろの若いものともがよると衆口弁言でわるくなる。
【解説】
「雖未曉知、且當熏聒、使盈耳充腹。久自安習、若固有之。雖以他説惑之、不能入也。若爲之不豫、及乎稍長、私意偏好生於内、衆口辯言鑠於外」の説明。「薫聒」から、十四五になると武士と町人の子とでは違いが出て来る。また、十一二頃からはもう「私意偏好」出て来る。これに付き合いが加わり、衆口弁言で悪くなる。
【通釈】
「薫聒使耳盈云々」。「薫」は物を燻べること。「聒」は姦しと読む。武家の子供が武張るのもよくわかる。常々見聞きしているので武張り、武士に向かって無礼千万と言う。天からの人に違いはない筈ではあるが、十四五になって出ると町人と武士の子とでは大きく違って来る。それは薫聒耳盈だからである。「及乎稍長私意偏好云々」。大きくなると役に立たないと言うのは私意偏好が出るからである。十一二頃からはもう私意偏好が出るもの。子供の時は田舎や市井の手習子が師匠様と言って伯父より尊ぶが、それは私意偏好がないからである。これが出ると親の手にも負えなくなる。武士の子であっても俺は武士は嫌だとか、百姓の子が俺は百姓は嫌だと言う様になるのが私意偏好である。子供の時は何でも親の通りになるものだとうっかりと思うが、大きくなると自分の了簡が出る。「衆口弁言云々」。色々なことを聞く。「鑠於外」とは、鑠はうめかねという字で外から添へ入る意である。衆口弁言で、若い者へも田舎などにいるものかと言ってそそのかす者もいる。学者もそれで、親の膝元から直に師が受け取るのでは悪いことも仕込ますことになる。私意偏好も出て、付き合いなどで同じ年頃の若者共が寄ると衆口弁言で悪くなる。

欲其純完不可得也。もふなをらぬ。日本は神國々々と云て農工商ともに若ひものが伊勢参宮するになり、十四五の比、親の手元をはなれてあの旅をする。わるくなるもの略あり。あれがもと信心では行かず、どこの児共も去年参たと云片気で行から、神を拜めとも鬼神の惠みもあまりないことと思へ。又学者もそれて、親の手をはなれても書物をよみにさへ來れはめったによいとをもい、勤学にのぼるなどあてにならぬ。めったに出すことでない。先生と云にもあてにならぬがあり、其上に衆口弁言色々の道落話をきき、親の手をはなれ他人に交りをしてあまりためにならず、よい筈はない。そこで古へは一在所々々に師匠ありて外傳と云、これはもと歴々で大役をも勤め、年老て引こんた人々なり。それが見出して大学へ升せ、其上にも又大学挍には師ともありて、これはものにもなろふと云人はとりたてる。子ともなとは兎角側をはなさぬことぞ。わるく薫聒すると伽羅に風をひかす。子ともはうぶなものなれとも、学者へやっても衆口弁言がある。今は早小学挍かないから詮方がないとなげくことはない。小学挍は親のしかたにあることなり。純完。千人万人に勝れたを純と云てめったにないことじゃが、親の側をはなさすに師をたのみ、薫聒耳に盈るの児共のときからじか々々しこむてよふなる。なれとも今日田舎にて及ひ難きことともなり。但し京へ勤学にさへやれば必成就すると心得てはちごふ。教学の仕向次第なことなり。
【解説】
「欲其純完、不可得也」の説明。今小学校はないが、小学校は親の仕方の中にある。子供などはとかく側から離さないのがよい。田舎ではそれも及び難いことだが、京へ勤学にさえ遣れば必ず成就すると心得るのは間違いである。
【通釈】
「欲其純完不可得也」。これではもう直らない。日本は神国だと言って農工商共に若い者が伊勢参宮をする様になり、十四五の頃、親の手元を離れてあの旅をする。それで悪くなる者も多くいる。あれが元々信心では行かず、あそこの子供も去年参ったからという偏気で行くから、神を拝んでも鬼神の恵みもあまりないと思いなさい。また学者も同じで、親の手を離れても書物を読みにさえ来れば大層よいと思うが、それで勤学に上っても当てにはならない。滅多矢鱈に出してはならない。また、先生にも当てにならない者があり、その上に衆口弁言で色々な道楽話を聞く。親の手を離れて他人に交わってもあまりためにならず、それでよい筈はない。そこで古は一在所毎に師匠がいて、これを外傅と言う。これは元歴々で大役をも勤め、年老いて引っ込んだ人々である。それが見出して大学へ昇らせる。その大学校にも師がいて、これはものになるだろうという人を取り立てる。子供などはとかく側から離さないこと。悪く薫聒すると伽羅に風を引かす。子供は初心なものだが学者のところへ遣っても衆口弁言がある。しかし、今は最早小学校がないから仕方がないと歎くことはない。小学校は親の仕方の中にある。「純完」。千人万人に勝ることを純と言い滅多にないことだが、親の側から離さずに師を頼み、薫聒耳盈で子供の時からじっくりと仕込むのでよくなる。それは今日の田舎では及び難いことでもあるが、京へ勤学にさえ遣れば必ず成就すると心得るのは間違いである。それは教学の仕向次第である。


第三 觀之上九曰觀其生条

觀之上九曰、觀其生、君子无咎。象曰、觀其生、志未平也。傳曰、君子雖不在位、然以人觀其德、用爲儀法、故當自愼省。觀其所生、常不失於君子、則人不失所望而化之矣。不可以不在位故、安然放意無所事也。
【読み】
觀の上九に曰く、其の生を觀る、君子ならば咎无し、と。象に曰く、其の生を觀るは、志未だ平かならざるなり、と。傳に曰く、君子は位に在らずと雖も、然れども人其の德を觀て、用[もっ]て儀法と爲すを以て、故に當に自ら愼省すべし。其の生ずる所を觀て、常に君子たるを失わずんば、則ち人望む所を失わずして之に化せん。位に在らざる故を以て、安然として意を放ち事とする所無かる可からず、と。
【補足】
・この条は、周易程氏伝観卦上九の象伝にある。

これは見せる方見せらるる方の二義あり。繪か上手になると書て見せる。果して人も見る。牡丹の手入をよくして咲かす。見せる方。人が自ら來て見る。此れ觀は見せると見らるるの二つを持ったものなり。上九と云は一ちのしまいて御役はない。隠居したやふな処なれとも、人は兎角それても見るなり。生すを觀るの板点も此方の身持ことになる。雲川は生すを行ふとつけた。どちも同じこと。はたらきのことになる。其生しやふをとかく人が見はっている。君子無咎てこちの身持がよければよいなり。象曰云々。これは孔子の觀の卦の上九へ戒めたことで、志未平は上九の隠居じゃとて安堵するな。手前の志の処に油断してはならぬ。たしなんだがよい。人が見ているぞ。上九の身分じゃとて左り團てはをられぬと云ことなり。傳曰君子云々。其位に不在とても年寄た学者などはたしなまふこと。をれか役人てはなし、隠者なれはと云ても、人かこちを学者とたてて置て人が儀法とするなれは、わるいことかあると扨あの人には似合ぬと云たかる。はてをれは隠者じゃから踊ををどってもよいと云ふと、いや若ひ者ともが見て真似るからわるいと云で自慎み省て生す所に樂はさせぬ。
【解説】
「觀之上九曰、觀其生、君子无咎。象曰、觀其生、志未平也。傳曰、君子雖不在位、然以人觀其德、用爲儀法、故當自愼省」の説明。これには見る側と見られる側の両義がある。上九は隠居の場だが、それでも人が手本として見ているから安堵してはならない。
【通釈】
これには見せる方と見せられる方との二義がある。絵が上手になると書いて見せる。それを人も見る。牡丹の手入れをよくして咲かすのは見せる方。それを人が自ら来て見る。この観は見せると見られるとの二つを持ったものである。上九は一番後で御役はなく、隠居した様な処だが、とかくそれでも人は見る。生ずを観るというの板点は自分の身持ちのことになる。雲川は生ずを行なうと点を付けたがどちらも同じことで、働きのことになる。その生じ様をとかく人が見張っている。「君子无咎」で、こちらの身持ちがよければよい。「象曰云々」。これは孔子の観の卦の上九で戒めたことで、「志未平」は、上九の隠居だとしても安堵するな、自分の志の処に油断してはならない、嗜む方がよい、人が見ているぞ。上九の身分だからといって左り団扇ではいられないということ。「伝曰君子云々」。その位に在らずといっても年寄った学者などは嗜むべきこと。俺は役人でもなく隠者なのだからと言っても、人がこちらを学者と立てて置いて人が「儀法」とするのだから、悪いことがあれば、さてあの人には似合わないことだと言いたがる。はて俺は隠者だから踊りを踊ってもよいと言うと、いや若い者共が見て真似るから悪いと言うので自ら慎み省みて、生ずる所に楽をさせない。
【語釈】
・雲川…

不失於君子云々。茶碗酒ては先生かぶにはなられぬ。とかく隣て聞ても内へ見廻て見てもさて々々どふも云へぬと云やふに又違たものと思ひ、あれか賢人てもあろふと云はれると人望に來りて化之なり。以不在於位云々。をれは隠居たからとて安然としてはならぬ。陶淵明は頭巾て酒をこした、をれもふきんでと放意していざや枕を友とせんと云と、学者と云ものは年がよると寢る斗りなものかと云になる。無所事あらす。学者はとかく身持を大切にせふことなり。迂斎の邵康節の真似をしたがりてはならぬ、と。形でばかりではいかぬ。又云、武士の馬をつないでをくやふなもの。馬を繋ぐで武士の武士たる処ぞ。又云、商人の見世を飾るやふなもの、と。買人がなふてもいつも道具をかさりてをくやふなもの。是自愼の処で事とすることなうてならぬことなり。顔子は簞瓢陋巷て食ひ物はなふても王佐の才じゃと云。顔子は今ひだるいほどな人ても車にのせて行くと直に天下の政がなる。其位にあらぬとて道を任するに心のかわることはないはづなり。をらは隠者じゃとて油断せぬことなり。
【解説】
「觀其所生、常不失於君子、則人不失所望而化之矣。不可以不在位故、安然放意無所事也」の説明。自分が手本として認められると人を化すことができる。位にいるかいないかは道を任ずることに無関係である。そこで、自ら慎まなければならない。
【通釈】
「不失於君子云々」。茶碗酒では先生株にはなれない。とかく隣で聞いていても内へ見廻って見ても実にどうも言い難いという様にまた違ったものと思われ、あれが賢人なのだろうと言われる様になると人望に至って「化之」となる。「以不在於位云々」。俺は隠居だからと言って安然としてはならない。陶淵明は頭巾て酒を漉したから俺も布巾でと放意していざ枕を友とせんと言えば、学者というものは年寄ると寝てばかりいるものかと言われる様になる。「無所事」。学者はとかく身持ちを大切にしなければならない。迂斎が邵康節の真似をしたがってはならないと言った。形でばかりでは悪い。また、武士が馬を繋いで置く様なものと言った。馬を繋ぐのが武士の武士たる処である。また、商人が店を飾る様なものと言った。買人がなくてもいつも道具を飾って置く様なもの。この自慎の処で事とするのでなくてはならない。顔子は箪瓢陋巷で食物はなくても王佐の才だと言う。顔子は今飢えているほどの人であっても車に乗せて行くと直に天下の政が成る。その位にないからと言って道を任ずることに心が変わることはない筈である。俺は隠者だと言って油断をしてはならない。
【語釈】
・陶淵明は頭巾て酒をこした…
・簞瓢陋巷…論語雍也9。「子曰、賢哉、回也。一簞食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉、囘也」。


第四 聖人之道如天然の条

聖人之道如天然。與衆人之識甚殊邈也。門人弟子既親炙、而後益知其高遠。既若不可以及、則趨望之心怠矣。故聖人之敎、常俯而就之。事上臨喪、不敢不勉、君子之常行、不困於酒、尤其近也。而以己處之者、不獨使夫資之下者、勉思企及、而才之高者、亦不敢易乎近矣。
【読み】
聖人の道は天の如く然り。衆人の識と甚だ殊邈[しゅばく]す。門人弟子は既に親炙して、而る後に益々其の高遠なるを知る。既に以て及ぶ可からざる若くんば、則ち趨望の心怠らん。故に聖人の敎うる、常に俯して之に就く。上に事え喪に臨み、敢て勉めずんばあらざるは、君子の常行にして、酒に困[くるし]められざるは、尤も其れ近し。而して己を以て之に處らしむる者は、獨り夫の資の下なる者をして、勉思企及せしむるのみならず、才の高き者も、亦敢て近きを易[あなど]らざらしむ。

この垩人と云字は全孔子をさすなり。よって教学の篇では照り合ふことそ。堯舜には教学はない。堯舜湯武は天下を保ち目出度人ゆへ隠者めいたことはない。孔子は浪人ているでこの教学がある。弟子三千と云へはさぞ色々な人が出来たであろふ。凡民の俊秀も互郷倶難謂と云も堺町の木戸塲近処のやふな男も来たなり。其様なことでいるに、垩人如天でこのやふな凡夫とはつり合ぬ。先手後手ではないか、孔子はあまよふ來た々々々々と云てをいたなり。又行くものも何の益もないか、今日もも行く々々といたてあろふ。親炙はぢかつけにあぶるなり。孔子の側に居てそろ々々と見れは見るほと益々高ひ。箱根へ登って冨士の尚々高ひを知る。哥に、あをのひでころばぬまでは冨士も見きこれより上はいさや白雲。趨望之心怠矣。いやどふも及ばれぬ。師匠をかへやふとてしまふやふになる。下の句へ程子のそこを思ひやって書れたそ。故垩人之教常俯而就之云々。大きなものが腰をかがめて児共の手を引やふにする教へ方なり。
【解説】
「聖人之道如天然。與衆人之識甚殊邈也。門人弟子既親炙、而後益知其高遠。既若不可以及、則趨望之心怠矣。故聖人之敎、常俯而就之」の説明。堯舜湯武は天下を保った人なので教学はない。ここの聖人とは孔子のことである。色々な人が孔子のところへ来た。孔子は高くて及ぶことのできない人だが、子供の手を引く様に教えた。
【通釈】
ここの聖人という字は全く孔子を指したこと。そこで教学の篇に照り合う。堯舜に教学はない。堯舜湯武は天下を保った目出度い人なので隠者めいたことはない。孔子は浪人でいるのでこの教学がある。弟子三千と言えばさぞ色々な人が出て来ただろう。凡そ民の俊秀も「互郷倶難言」と言われる者も堺町の木戸場近処の様な男も来た。その様なことで、「聖人如天」でこの様な凡夫とは釣り合わなず、先手後手ではないが、孔子はあまよく来たと言っていた。また行く者にも、何の益もないが今日も行くと言う者もいただろう。「親炙」は直に炙ること。孔子の側にいてそろそろと見れば見るほど益々高い。箱根へ登って富士の尚々高いことを知る。歌に、あおのいで転ばぬまでは冨士も見き、これより上はいざや白雲とある。「趨望之心怠矣」。いやどうも及ばれない。師匠を替えようと言って仕舞うことになる。程子がそこを思い遣って下に書かれた。「故聖人之教常俯而就之云々」。大きな者が腰を屈めて子供の手を引く様にする教え方である。
【語釈】
・互郷倶難謂…論語述而28。「互郷難與言。童子見。門人惑。子曰、與其進也。不與其退也。唯何甚。人潔己以進、與其潔也。不保其往也」。

事上臨喪不敢不勉。勉は論語孔子の、をらなんども今日は朔日ゆへ孟孫へも叔孫へも礼に行きた。郷黨では又年よりをあかめ、父兄に事へ、親族の不幸には情一はいにせはをして、めったに肴を食す精進をすると、そふすれは垩人と白人かやはり一つ事なり。不困於酒云々。不爲酒困何有於我哉と論語にもあり、酒を呑でつひ馬鹿をつくし口をきくやふなことない様に、酒を呑で不埒にならぬやふにせふ々々と思ふが、それも得ならぬと云はあまり空言々々しく、垩人の云ことてはないやふなり。此様な近ひことを云。弟子三千と云へは色々の人が來たであろふ。垩人も何れか吾にあると云ふたぞと、そこて晩から寢酒をたしなまふと云になる。才之高者亦云々。そんなら子張子路子游子貢の様な高ひ人か聞ては、又垩人でさへ酒の困の父兄に事るの臨喪勉るのと云はるる。すれはじかづけから行か子ばならぬことと思ふて高それにならぬ。とんとこれて両方へきくすじなり。瀉藥を飲して五臓六府を洗たやふにげっそりとさして、跡から人参で補藥と云療治もあることなれとも、それは神妙な療治ではない。兩方へきくと云ふが垩人の妙用なり。
【解説】
「事上臨喪、不敢不勉、君子之常行、不困於酒、尤其近也。而以己處之者、不獨使夫資之下者、勉思企及、而才之高者、亦不敢易乎近矣」の説明。孔子は卑い人へも高い人へも身近なことで教えた。そこで、高逸れにならない。
【通釈】
「事上臨喪不敢不勉」。「勉」は論語で孔子が、俺も今日は朔日なので孟孫へも叔孫へも礼に行って来たということ。また郷党では年寄りを崇め、父兄に事へ、親族の不幸には情一杯に世話をして、滅多に肴を食わずに精進をすると言う。そうすれば聖人と白人とがやはり同じ事となる。「不困於酒云々」。「不為酒困何有於我哉」と論語にもあり、酒を飲んでつい馬鹿を尽くした口をきく様なことのない様に、酒を飲んで不埒にならない様にしようとは思うが、それもしてはならないと言う。それではあまりに空言しくて聖人の言うことではない様だが、この様な近いことを言う。弟子三千といえば色々な人が来たことだろう。聖人が「何有於我哉」と言ったのだから、晩から寝酒を嗜もうと言うことにもなる。「才之高者亦云々」。子張や子路、子游や子貢の様な高い人が聞いても、聖人でさえ酒の困や父兄に事えることや臨喪勉のことを言われるのだから地道に行かなければならないと思い、高逸れにならない。これで実に両方へ利く筋となる。瀉薬を飲ませて五臓六腑を洗った様にげっそりとさせて置いて、その後に人参で補薬をするという療治もあるが、それは神妙な療治ではない。両方へ利くというのが聖人の妙用である。
【語釈】
・論語…論語郷党6。「吉月、必朝服而朝」。
・不爲酒困何有於我哉…論語子罕15。「子曰、出則事公卿、入則事父兄。喪事不敢不勉。不爲酒困。何有於我哉」。


第五 明道先生曰憂子弟之輕俊条

明道先生曰、憂子弟之輕俊者、只敎以經學念書。不得令作文字。子弟凡百玩好、皆奪志。至於書札、於儒者事最近。然一向好著、亦自喪志。如王・虞・顏・柳輩、誠爲好人則有之。曾見有善書者知道否。平生精力一用於此、非惟徒廢時日、於道便有妨處。足知喪志也。
【読み】
明道先生曰く、子弟の輕俊を憂うる者は、只敎うるに經學念書を以てせよ。文字を作らしむを得ず。子弟の凡百の玩好は、皆志を奪う。書札に至りては、儒者の事に於て最も近し。然れども一向に好著せば、亦自ら志を喪わん。王・虞・顏・柳の輩の如き、誠に好人爲るは則ち之有り。曾見[かつ]て書を善くする者の道を知ること有りしや否や。平生の精力一に此に用いば、惟に徒に時日を廢するのみに非ず、道に於て便ち妨ぐる處有らん。志を喪うを知るに足る、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一にある。

俊はきやうはだな人に勝れた若ひものを云ひ、千人に勝れたものを云ことなれとも、利口やけたものは兎角かるはつみなもの。猿利口と云のなり。利口はよいが猿がわるいで俊はよいか軽のあるでとが字になる。手前も自慢にをもい人もほめるに輕俊を憂と云ふか、ここが教学の大切なり。敏底不如鈍底と、敏はよいものなれともこふ云はれて参也以魯得之で、かるはづみでは学問は成就せぬもの。利口で人も誉る器用ものを忰にこまりますと云て憂る所か学問を知たのなり。只教以經学念書。そふ云ものには經学とは、今で云はは四書近思抔。念書は子りこむことて千ヶ寺のずか々々行やふなはわるい。その書を心へ子りこむやふにすることなり。念仏ざんまいの意ぞ。淺見直方両先生は中庸の廿五章目を廿五會ですんだとなり。直方先生の加茂へ大学一巻持て引こまれたと云もこれなり。さっさ々々々と行きそふなものをそふはせぬ。不得作文字云々。文なとを書と人に見せたくなり、名聞に計長するなり。
【解説】
「明道先生曰、憂子弟之輕俊者、只敎以經學念書。不得令作文字」の説明。器用で人に勝った若者はとかく軽はずみなもの。軽はずみでは学問は成就しない。その様な者には経学念書がよい。
【通釈】
「俊」は器用肌で人に勝れた若者を言い、千人に勝れた者を言ったことだが、利口焼けの者はとかく軽はずみなもの。それを猿利口と言う。利口はよいが猿が悪いのであって、俊はよいが軽があるので咎める字になる。自分も自慢に思い人も褒めるのに、これを「憂軽俊」と言う。ここが教学の大切なところである。「敏底不如鈍底」で、敏はよいものだがこの様に言われた。「参也以魯得之」で、軽はずみでは学問は成就しないもの。利口で人も誉める器用者を、忰として困りますと言って憂う所が学問を知った者である。「只教以経学念書」。その様な者に、経学とは、今で言えば四書近思など。念書は練り込むことで、千箇寺参りの様にずかずかと行くのでは悪い。その書を心へ練り込む様にすることで、念仏三昧の意である。浅見直方両先生は中庸の二十五章目を二十五会で済んだという。直方先生が加茂へ大学一巻を持って引き込まれたというのもこれである。さっさと行きそうなものをそうはしない。「不得作文字云々」。文などを書くと人に見せたくなり、名聞にばかり長ずる。
【語釈】
・敏底不如鈍底…
・参也以魯得之…論語先進17集註。「程子曰、參也竟以魯得之」。

凡百玩好皆奪志云々。碁の茶の湯の鞠の揚弓のとかかると志をうばわれる。垩人が治容誨淫なりと云れた。斯ふした櫛がはやるの、かふした着るものか流行るのとて買てやるは、これで道落をせよと教るのなり。若い者かよい羽織が出来た、さあこれで墓参りせふとは云はす。きて出て人に見せ、好色のためなり。よいきせるたばこ入を持て持仏へ行ふと云ことはないもの。皆志を失ふ道具なり。えてわるいことをせふにはましゆへ碁を打せますの鞠を蹴さすますのと云ふ。これか非義と云でもないが、好むと云になりて志を奪はるるなり。至於書札云々。これは学者の入用なことなり。わるい手跡かよいと云でもないことなり。書は、手跡のこと。札は、通用の手紙の文を書くこと。これは勿論せ子はならぬことで、好玩の鞠揚弓とはちがへとも、然し一向に好着し、其方へひたすらになると又これも志を失ふとなり。病人に人参と云ふには首をひ子るが、好く日には義之の手と云と先祖の道具をうっても買たがる。直方の目貫は釘でもよいと云れる通り、朱子の手跡があらはそれを賣て語類や文集を買て見るなら朱子も悦ぼふ。
【解説】
「子弟凡百玩好、皆奪志。至於書札、於儒者事最近。然一向好著、亦自喪志」の説明。玩好で志が奪われる。書札もそれに好着すれば同様である。
【通釈】
「凡百玩好皆奪志云々」。碁や茶の湯、鞠や楊弓と掛かると志を奪われる。聖人が「治容誨淫」と言われた。この様な櫛が流行るとか、こうした着物が流行ると言って買って遣るのは、これで道楽をしろと教えるものである。若い者がよい羽織ができたから、さあこれで墓参りをしようとは言わない。着て出て人に見せるのは好色のためである。よい煙管や煙草入れを持って持仏堂へ行こうということはないもの。皆志を失う道具である。悪いことをするよりはましなので碁を打たせますとか鞠を蹴らせますと言う。これが非義ということでもないが、好むということになって志を奪われるのである。「至於書札云々」。これは学者に入用なことで、悪い手跡がよいということでもない。書は、手跡のこと。札は、通用の手紙の文を書くこと。これは勿論しなければならないことで、好玩の鞠や楊弓とは違うが、しかし只管に好着してその方へ只管になると、またこれも志を失うと言う。病人に人参をと言うと首を捻るが、好くことになれば、羲之の手と言われると先祖の道具を売っても買いたがる。直方が目貫は釘でもよいと言われた通り、朱子の手跡があればそれを売って語類や文集を買って見るのなら朱子も悦ぶことだろう。
【語釈】
・治容誨淫…易経繋辞伝上8。「子曰、作易者、其知盗乎。易曰、負且乘、致寇至。負也者、小人之事也。乘也者、君子之器也。小人而乘君子之器、盗思奪之矣。上慢下暴、盗思伐之矣。慢藏誨盗、冶容誨淫。易曰、負且乘、致寇至、盗之招也」。
・義之…王羲之。東晋の書家。字は逸少。307?~365?

とかく好着しても益にたたぬものとて證拠に名高ひ手書四人を出された。王義之、世南、眞郷、公権。顔眞郷は靖献遺言の上客、柳公権は小学善行にあり、これらは昔の手書ともなれとも道を知たはない。すれは手はどふも役にたたぬもの。隙ついへなり。古から只四人とえり出さるるは大ひことなれとも、偖々役にたたぬ。平生精力一用於此云々。藝てからが万世へ名の殘るやふになるは片手業ではいかぬ。利休や芭蕉でからがああなるには精力一はいをあれに用いて外は見ぬ。学問するにをいては心中に毛すぢほどのことが這入てもならぬに、このやふなことか心にありてはどふもならぬ。志を喪ふなり。道を知る志を失ふたは肴のさかったやふなもの。見事な大な鯛ても腐ては何にもならぬ。とふも役にたた子は棄てしまふより外はない。爲学の篇をあけると士は希賢、好学論には学以至聖人之道也とあり、そこの志を失ふたのなり。経学念書てなければならぬことぞ。
【解説】
「如王・虞・顏・柳輩、誠爲好人則有之。曾見有善書者知道否。平生精力一用於此、非惟徒廢時日、於道便有妨處。足知喪志也」の説明。万世へ名が残る様になるには片手業では行かないが、あの有名な書家も学問では役に立たない。学問をする際には心中に毛筋ほどのことが這い入っても志を失うことになる。
【通釈】
とかく好着しても益にならないものの證拠に名高い手書四人を出された。王羲之、世南、真卿、公権。顔真卿は靖献遺言の上客で、柳公権は小学善行にあり、これ等は昔の手書共だが道を知った者はいない。それで、手書はどうも役に立たないもの、暇費えである。古からただ四人と選り出されたのは大きいことだが、さても役に立たない。「平生精力一用於此云々」。芸でも万世へ名が残る様になるには片手業ではならない。利休や芭蕉でさえもああなるには精力一杯をあれに用いて外は見なかった。学問をする際には心中に毛筋ほどのことが這い入ってもならないのに、この様なことが心にあってはどうも悪い。志を喪うことになる。道を知るための志を失うのは肴が悪くなった様なもの。大きくて見事な鯛でも腐っては何にもならない。どうも役に立たないのであれば棄ててしまうより外はない。為学の篇を開けると「士希賢」で、好学論には「学以至聖人之道也」とあるが、その志を失ったのである。経学念書でなければならない。
【語釈】
・虞世南…初唐の名臣・書家。字は伯施。浙江余姚の人。房玄齢と共に太宗に仕え、徳行・忠直・博学・文詞・書翰の五絶と称揚された。特に書に長じ、孔子廟堂碑は有名。著「北堂書鈔」。558~638
・顔眞郷…顔真卿。唐の忠臣・書家。顔之推五世の孫。楷・行・草に巧みであった。平原の太守として安史の乱に大功を立て、のち吏部尚書・太子少師。李希烈が反した時、これを招諭することを命じられたが捕えられ、監禁の後に殺された。文忠と諡し、顔魯公と呼ばれる。709~785
・柳公権…唐代。778~865
・士は希賢…為学1。「濂渓先生曰、聖希天、賢希聖、士希賢」。
・好学論…為学3。「伊川先生曰、學以至聖人之道也」。


第六 胡安定在湖州云々の条

胡安定在湖州、置知道齋。學者有欲明知道者、講之於中。如治民・治兵・水利・算術之類。嘗言、劉彝善治水利。後累爲政、皆興水利有功。
【読み】
胡安定は湖州に在りしとき、知道齋を置けり。學者に道者を明らかにせんと欲する者有らば、之を中に講ぜしむ。治民・治兵・水利・算術の類の如し。嘗て言う、劉彝は善く水利を治む、と。後累[しきり]に政を爲すに、皆水利を興して功有り。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

この幷べやふが靣白い。上の条のあとへこの条を出したは、書札はいよ々々よくなりても、道のためにも政のためにも役にたたぬ。項羽か書は足以記姓名と云た。高橋利左ェ門か、貴様の書た天の字もをれか書た天の字も同し天の字じゃ、習に及はぬと云たも高ひ云やふなり。あまりよく書にも及ばぬ。役に立ことには花煮風流はいらぬ。役に立つことはすてぬと云ふは貝原か農業全書を書たやふで、芋や牛房のことなれとも見てやくにたつ。外々の哥書や詩集は見てもやくにたたぬそ。安定の学などか知道齋をたててすわと云と天下の御用にも立ることをする。冉求や子路が政事の科と云も天下の治のことなり。知道を聞て一方の用にも立ものはこの知道齋へ入れて教へた。
【解説】
「胡安定在湖州、置知道齋。學者有欲明知道者、講之於中」の説明。書札は道や政に役立たないからうまく書くには及ばないが、役に立つことはしなければならない。安定は一方の用に立つ者を知道斎へ入れて教えた。
【通釈】
この並べ様が面白い。上の条の後にこの条を出したのは、書札は大層うまくなっても道のためにも政のためにも役に立たないことを言うためである。項羽が「書足以記名姓」と言った。高橋利左ェ門が、貴様の書いた天の字も俺が書いた天の字も同じ天の字だ、習うには及ばないと言ったのも高い言い様である。あまりよく書くにも及ばないこと。役に立つことに華奢風流は要らない。役に立つことは廃れないと言うのは貝原益軒が農業全書を書いた様なことで、芋や牛蒡のことでも見て役に立つ。その外の歌書や詩集は見ても役に立たない。安定の学などは知道斎を建て、いざと言う時に天下の御用にも立てることをする。冉求や子路が政事の科と言うのも天下の治のこと。知道を聞いて一方の用にも立つ者はこの知道斎へ入れて教えた。
【語釈】
・書は足以記姓名…史記項羽本紀。「項籍少時、學書不成、去學劍、又不成。項梁怒之。籍曰、書足以記名姓而已。劍一人敵、不足學。學萬人敵」。
・高橋利左ェ門…
・安定…胡安定。胡瑗。字は翼之。胡安定は知道斎と経義斎を設けた。993~1059
・冉求や子路が政事の科…論語先進2。「德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。同集註。「弟子因孔子之言、記此十人、而幷目其所長、分爲四科」。

治民治兵云々。百姓は無極而太極てはかりはいかず。合点させられぬものなり。此國はこふするがよい、これて民のためになると云ことを一つ教子はならぬものそ。そふすると今度の御奉行ではほぎ々々となったと云やふにする治め方があるか、これが知らぬではいかぬことぞ。朱子の文集なとを見るに其事に馴た々々とあり、尤なことて、廿四て同安の主簿をつとめた後々、段々なれたものなり。毎々此事に馴たてなけれはならぬことで、知らぬものが靜ったる大將と云てはすまぬなり。水利。水は手細工や手前勝手にならぬもの。當時水藝古の水馬のと云ふにてもみよ。軍のため。又洪水をふせき用水をかけるは民のたで民を治め兵を治るにいるものなり。筭數。只今では町人の業のやふに思ふがそふでない。筭が明でなけれは隅からすみ迠とどかぬもの。永井先生の、親に不孝と云も筭用にはづれたことと云ふた。今の学者筭用知ぬは一つ穴をあけたのなり。胡安定はこのやふな実地なことから教たのなり。劉彝。安定の弟子なり。水利を得て手抦をした。水利を得ててすれは水損旱損させぬやふにする。政の大切にあつかることなり。この通りの実地から教へられた。上の条はやくにたたぬことをせぬ教へ。この条は役にたつことをする教へ。
【解説】
「如治民・治兵・水利・算術之類。嘗言、劉彝善治水利。後累爲政、皆興水利有功」の説明。政には事に馴染むことが必要である。安定は水利や算数という実地から教えたが、これが政の大事に与るところである。
【通釈】
「治民治兵云々」。百姓は無極而太極ばかりではうまく行かない。それだけでは合点させられないものである。この国はこうするのがよい、これで民のためになるということを一つ教えなければならない。そこに、今度の御奉行のお蔭でよくなったという様になる治め方があるが、これを知らなくてはうまく行かない。朱子の文集などを見るとその事に馴れたとあるが、それは尤もなことで、二十四で同安の主簿を勤め、後々段々と馴れたもの。毎々この事に馴れていなければならないのであって、知らない者が静まったる大将と言っては済まない。「水利」。水は手細工が利かず自分勝手にはならないもの。今の水稽古や水馬を見なさい。それは軍のためである。また洪水を防ぎ用水を架けるのは民のためであって、民を治め兵を治めるために必要なものである。「算数」。只今はこれを町人の業の様に思うがそうではない。算が明でなければ隅から隅まで届かないもの。永井先生が、親に不孝というのも算用に外れたことだと言った。今の学者が算用を知らないのは一つ穴を空けたのである。胡安定はこの様な実地なことから教えた。「劉彝」。安定の弟子。水利が上手で手柄をした。水利を上手にすれば水損旱損をさせない様にできる。これが政の大切に与ること。この通りの実地から教えられた。上の条は役に立たないことをしない教えで、この条は役に立つことをする教えである。


第七 凡立言欲涵蓄意思条

凡立言欲涵蓄意思、不使知德者厭、無德者惑。
【読み】
凡そ言を立つるには意思を涵蓄し、德を知る者をして厭[あ]き、德無き者をして惑わしめざらんことを欲す。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

講釈をするても言を立るのヶ條なり。文章を書くは尚更なり。人と議論するも言を立るなり。凡て言を云出すことを云。よって教学の篇にのせるはづ。教と云は人とだまりて向ひ合ではない。一つ言を立て論談するなり。涵蓄意思云々。詞かず少く一言二言云中に意味を含んたことを云ことで、昨日あの人の云たは成程尤なと思ふことあるもの。喩へば万端養生が第一と云やふなもの。短ひ口上なり。されともあとて考てみよ。あの人が万端と云たぞよと氣を付てみれば意思を蓄てひろいことなり。知德者厭云々。聞人の方でいとふこと。あまり長く云から道理知たものはあまりとうるさがり、云はいでもよいことをと厭ふなり。無徳者惑は、余り長口上て今日の講釈は何てあったと惑ふ。何のことかどふもとりしまりがない。某抔の講釈がそうであろふ。前々氣をつけてもとかく云。集解がここへ尹彦明のことを引れた。尹氏の説は短くて意は長ひと朱子もいつも々々々称せられた。論孟の精義に尹氏の語ともあり可考。
【解説】
言を立てるのは、短く且つその中に意思を含んでいるのがよい。長口上だと知徳者は厭い、無徳者は惑う。
【通釈】
講釈をするにも言を立てる。ここはその箇条である。文章を書くのは尚更のこと。人と議論するにも言を立てる。凡て言を言い出すことを言う。よって教学の篇にのせる筈である。教は人と黙って向い合うことではない。一つ言を立てて論談をする。「涵蓄意思云々」。言葉数が少なく、一言二言の中に意味を含んだことを言うことで、昨日あの人が言ったことはなるほど尤もだと思うことがあるもの。たとえば万端養生が第一という様なもの。これは短い口上だが、しかし後で考えてみなさい。あの人が万端と言ったと気を付けてみれば意思を蓄めて広いこと。「知徳者厭云々」。聞く人の方で厭うこと。あまりに長く言うから道理を知た者はあまりに長いと煩がり、言わなくてもよいことをと厭う。「無徳者惑」は、あまりの長口上で今日の講釈は何だったのかと惑う。何のことかどうもまとまりがつかない。私などの講釈がそれだろう。前々から気を付けていてもとかく長く言う。集解ではここに尹彦明のことが引かれている。尹氏の説は短くて意は長いと朱子もいつも称された。論孟の精義に尹氏の語などもあるから考えてみなさい。
【語釈】
・尹彦明…尹焞[とん]。字は彦明、徳充。号は和靖処士。伊川の門人で、篤行の士として称せられた。20歳で伊川に師事。1061~1132


第八 敎人未見意趣の条

敎人未見意趣、必不樂學。欲且敎之歌舞。如古詩三百篇、皆古人作之。如關雎之類、正家之始。故用之鄕人、用之邦國、日使人聞之。此等詩、其言簡奧、今人未易曉。欲別作詩、略言敎童子灑掃・應對・事長之節、令朝夕歌之。似當有助。
【読み】
人を敎うるに未だ意趣を見ずんば、必ず學ぶを樂しまず。且く之に歌舞を敎えんことを欲す。古詩三百篇の如きは、皆古人之を作れり。關雎の類の如き、家を正す始めなり。故に之を鄕人に用い、之を邦國に用い、日に人をして之を聞かしむ。此等の詩は、其の言簡奧なれば、今の人には未だ曉[さと]り易からず。別に詩を作り、略童子に敎うる灑掃・應對・長に事うる節を言い、朝夕之を歌わしめんと欲す。當に助有るべきに似たり。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

上の条に意思とあり、又ここに意趣とある。昨日あの人かこふ云はれたは能いことと根入かつく。教学と云は向と對し合ふて教ることなれは、意趣と云処から響きわたってふるいをこることでなければ長もちかない。意趣は早く学者にしらせふこと。のりのつくは意趣からなり。不樂学。毎會かかさず出ても、親に呵られて漸々常々出て樂ふ心がなふては役に立ぬ。樂ふと云が大事のこと。訶られても會に出たくなるは樂ふなり。欲且之教哥舞云々。この章は今ならぬことを教ふとすることとをもへ。古の字は詩で興起したに、今もあれをしたいものなり。関雎之類と云て周南召南になる。正家の始りになることそ。これを人として不讀墻面如立と云へは教ふことなり。故用之郷人云々。鍬をかつく人。邦国は大名衆まてなり。身分は違てはをれとも誰にも用てない。今人未易暁云々。今教えたいか中々あれは簡奥で暁れまい。万葉の歌の解せぬやふなもの。別作詩略云々。今別に詩を作って洒掃応對事長のことを新しく改め教たいものとなり。兎角垩賢の人を教る深切からこふしたことも云ふが、然し古は詩に起たが今はそふでないと云たきりのこととをもへ。今で云はは、この代りするものと云はは小学の題辞抔なれども、あれも小学を篇れたから作た迠のことぞ。たとひ伊川の成されても、又今ある題辞でも歌なれとも、日本人の益はないことなり。
【解説】
意趣から興起するもの。古は詩で興起したが、その詩は簡奥で、今では暁ることができない。また、今ある詩も日本人には益にならない。
【通釈】
前条に「意思」とあり、またここに「意趣」とある。昨日あの人がこう言われたのはよいことだと根入れがつく。教学は向こうと対し合って教えることだから、意趣という処から響き渡って奮い起こることでなければ長持ちがしない。意趣は早く学者に知らせなければならない。乗りの付くのは意趣からである。「不楽学」。毎度会に欠かさず出るにも、親に呵られて漸く出て、楽ぶ心がないのでは役に立たない。楽ぶということが大事なこと。訶られても会に出たくなるのは楽ぶからである。「欲且之教歌舞云々」。この章は今はできないことを教えようとすることだと思いなさい。古の字は詩で興起したが、今もあれをしたいもの。「関雎之類」と言い、周南召南になる。これが家を正す始まりとなる。これを「人而不爲周南召南其猶正牆面而立也與」と言えば教えること。「故用之郷人云々」。これは鍬を担ぐ人。「邦国」は大名衆までのこと。身分が違ってはいるが誰にも用い手がいない。「今人未易暁云々」。今教えたいが中々あれは簡奥で暁ることができないだろう。それは万葉の歌が解せない様なもの。「別作詩略云々」。今別に詩を作って洒掃応対事長のことを新しく改め教えたいものだと言った。とかく聖賢は人を教える深切からこうしたことも言うが、しかし古は詩に興ったが今はそうではないと言っただけのことだと思いなさい。今で言えばこの代わりするものは小学の題辞などだが、あれも小学を編まれたから作ったまでのこと。たとえ伊川がなされたことでも、また今ある題辞でも、それは歌ではあるが日本人の益にはならない。
【語釈】
・関雎…詩経国風周南。「關關雎鳩、在河之洲窈窕淑女、君子好逑」。
・不讀墻面如立…論語陽貨10。「子謂伯魚曰、女爲周南召南矣乎。人而不爲周南召南、其猶正牆面而立也與」。


第九 子厚以礼教学者条

子厚以禮敎學者最善。使學者先有所據守。
【読み】
子厚、禮を以て學者に敎うるは最も善し。學者をして先ず據守する所有らしむ。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

横渠が道を任ずる人ゆへ礼式の形を以て教て、今天下に礼か衰へたの何のと云はず、手前の弟子になる程のものは我内で小学挍でしたなりに礼で教へた。礼は理屈に搆はず形でする。武士が小便所へ行にも脇指をはなさぬ。形でするなり。先脇指をさすとあぐらもかかれず。小笠原のやふにひくひことのやふなれとも、形がしゃんとすると、そこで心も自らりんとすると云が子厚の見とりなり。古三代が戀しい々々々と云はずとすむなり。有所據守。心をしゃっきりとせよと云てはあいとは云ふが、よりたくてもつかまへ処がないが、上み下を着てひだを直してしゃっきりとしてをると自ら魂もしゃっきりとする。操は存し舎は亡のと云か工夫の、常惺々の工夫のと云ても皆が皆いかぬもの。そこで上下を着せてしゃんとさせて形からきめて教立たなり。教学の實事と云ものなり。
【解説】
礼は理屈に構わず形でするものである。横渠は礼の形で教えた。形がしゃんとなると心もしっかりとする。
【通釈】
横渠は道を任じる人なので礼式という形で教えた。今天下に礼が衰えたの何のと言わず、自分の弟子になるほどの者は自分の内で小学校でした通りに礼で教えた。礼は理屈に構わず形でするもの。武士が小便所へ行くにも脇差を離さない。形でする。先ずは脇差を差すと胡座もかけない。それは小笠原の様に低いことの様だが、形がしゃんとするとそこで心も自ら凛とするというのが子厚の見取りである。古三代が恋しいとは言わなくても済むこと。「有所拠守」。心をしゃっきりとしろと言えばわかったとは答えるが、拠りたくても掴まえ処がない。裃を着て襞を直してしゃっきりとしていると自ら魂もしゃっきりとする。「操則存舍則亡」が工夫だとか、常惺惺の工夫などと言っても皆が皆うまく行くものではない。そこで裃を着せてしゃんとさせ、形から決めるので教えが立つのである。これが教学の実事というもの。
【語釈】
・操は存し舎は亡…孟子告子章句上8。「孔子曰、操則存、舍則亡。出入無時、莫知其鄕。惟心之謂與」。
・常惺々…朱子語類訓門人4。「問毎日做工夫處。曰、毎日做工夫、只是常常喚醒、如程子所謂主一之謂敬、謝氏所謂常惺惺法、是也」。


第十 語学者以所見不至之理の条

語學者以所見未到之理、不惟所聞不深徹、反將理低看了。
【読み】
學者に語るに見未だ到らざる所の理を以てせば、惟に聞く所深徹せざるのみならず、反って理を將[もっ]て低く看ん。
【補足】
・この条は、程氏遺書三にある伊川の語。

学者にはそれ々々の処がある。それ々々と云はいやと云はれぬもの。越後屋が児共の年を聞て物を出す。頭巾も足袋もそれ々々相応あり、手遊人形ても年相応て土産ものも買ふぞ。ましてや学者の耳には段々があるはづ。京土産はそれ々々に氣がつくか、学者へはとかく不相応をあてかふあり。生れ子へ胴卯やからすみをやるやふに、学者か漸々小学がすめるがすめぬと云ものへ無極而太極と教へたがる。若くても聞へるものもあり、年かさても聞へぬもあること。師匠かこの位かあれかには相応と見とって居ても、とかく高それたことを云たかる師があるもので、子ともを見ても道体咄をしたかる。こふ見る所に到らぬのて、所聞不深徹云々。放伐のことでもどふやらこふやら聞きは聞ても深く徹せぬ。わか身代ぎりて聞から理低看了て、道理はこれきりなものと思ふやふになる。小学よりは太極か耳へはいらず、ちら々々と少し聞得るでやすく思ふ。理の方ては大ふめいわくなことなり。師匠が丁度これがよいと云処てきかすこと。孟子に時雨化と云ことあり、丁どの処へあてることなり。昨日庭の隠元角豆かめばったのが今日の南風で今朝よりは二寸ほどものびた。時雨の化の処そ。丁どの所てなけれはそたたぬ。此頃蒔て未ためばりもせぬのは、今日の小雨ても何にもならぬ。得てせわしい人にありたがることで、及はぬものにも今からしこまぬとならぬと高それ好なかあるもの。其弟子には先年太極圖説の講釈も聞ました、何のこともない、上の丸か太極、下のか隂陽と云て低看了るか、小学の立教の題下にも師たるものの教へやふ、弟子たるものの学ひやふをと挙てあり、ここか教学の大事て、学ひ人も教へ人も丁どにまいら子ばならぬことなり。
【解説】
学者には段階がある。未だよくわかっていない者に難しい話をすると却って道理を低く見てしまう。そこで、丁度のところで教えるのがよい。それが孟子の「時雨化」である。
【通釈】
学者にはそれぞれの処がある。それぞれと言うのが否定することのできないもの。越後屋が子供の歳を聞いて物を出す。頭巾も足袋もそれぞれに相応があり、手遊び人形でも歳相応の土産物を買う。ましてや学者の耳には段階がある筈。京土産はそれぞれに気が付くが、学者へはとかく不相応をあてがうことがある。生まれたばかりの子へ胴乱やからすみを遣る様に、漸く小学が済めるか済めないかという段階の学者に無極而太極と教えたがる。若くてもわかる者もいて、年嵩でもわからない者いる。師匠がこの位があれ等には相応と見取っていても、とかく高逸れたことを言いたがる師がいるもので、子供を見ても道体話をしたがる。この様に「所見未到」なので「所聞不深徹云々」となる。放伐のことでもどうやらこうやら聞くには聞くが深く徹しない。自分の身代の内だけで聞くのだから「理低看了」で、道理はこれだけのことと思う様になる。小学のことよりも太極のことが耳へ入らないのでちらちらと少し聞き得るだけで低く思う。これは、理の方では大層迷惑なこと。師匠が丁度これがよいという処で聞かさなければならない。孟子に「時雨化」とあり、それが丁度の処へ当てること。昨日庭の隠元角豆が芽ばったのが今日の南風で今朝よりも二寸ほども伸びた。これが時雨の化の処である。丁度の所でなければ育たない。この頃蒔いて未だ芽ばりもしなければ、今日の小雨も何にもならない。よく忙しい人にあることで、及ばない者にも今から仕込まなければならないと言う。その様な高逸れ好きがいるもの。その弟子ともなれば先年太極図説の講釈も聞きましたがそれは何のこともない、上の丸が太極、下のが陰陽と言って「低看了」。小学の立教の題下にも師たる者の教え様、弟子たる者の学び様を挙げてあり、ここが教学の大事で、学ひ手も教え手も丁度に行かなければならないのである。
【語釈】
・胴卯…胴乱?菓子の名。
・時雨化…孟子尽心章句上40。「孟子曰、君子之所以敎者五。有如時雨化之者、有成德者、有達財者、有答問者、有私淑艾者。此五者、君子之所以敎也」。
・小学の立教の題下にも…小学内篇立教。「子思子曰、天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎。則天明遵聖法述此篇、俾爲師者知所以敎而弟子知所以學」。