第十一 舞射便見人之誠の条  四月朔日  惟秀録
【語釈】
・四月朔日…寛政3年辛亥(1791年)4月1日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

舞射便見人之誠。古之敎人、莫非使之成己。自灑掃・應對上、便可到聖人事。
【読み】
舞射に便ち人の誠を見る。古、人を敎うる、之をして己を成さしむるに非ざる莫し。灑掃・應對の上より、便ち聖人の事に到る可し。
【補足】
・この条は、程氏遺書五にある。

舞射は藝なれとも、藝と云て押すにをされぬことがある。便見人誠となり。是にも限らず、人の処へ行て茶煙草呑む上でも麁相なと丁寧なが見て取るる。弓の舞のと云を只藝だとかるくみるなと横渠の云れた。内志正外体直持弓矢審固持弓矢審固然後可以言中此可以観徳行矣。弓で德がみへる。舞もそれなり。籥や戟を持て舞ふで其人の徳がみへる。平日行義のよいで、能役者さへ人がらがよく見ゆるなれば、先王の仕入れ其筈ぞ。舞射と云から洒掃応對と出したもの。使成徳なり。親へは不返事だか、さてたのもしい息子と云ことはない。語類に朱子の処で火鉢の火を掻きさばいた児童が訶られたことあり。不行義に頼もしいと云ことはない。さて此章の取あつかいは実地な処からしこむ教学なり。誠と云ても中庸の至誠無息のことでもない。ありなりなことを誠と云。梅は梅、櫻は櫻と見へると云のなり。洒掃応對の上で、これはやりばなしな息子だ、後はよくあるまいと云が見へる。洒掃応對をつかまへて誠を仕込む。洒掃応對の上へありなりが出る。其ありなりをつかまへて修行を積む。垩人にも成らるると云こと。
【解説】
舞射は芸だが、そこに人の徳が見える。それは灑掃応対からも同様である。そこで灑掃応対から修行を積む。
【通釈】
舞射は芸だが、芸と言っても押すに押せないことがある。それで「便見人誠」だと言った。これに限らず人の処へ行って茶や煙草を飲む上でも粗相な者と丁寧な者とが見て取れる。弓や舞をただ芸として軽く見るなと横渠が言われた。「内志正外体直持弓矢審固持弓矢審固然後可以言中此可以観徳行矣」。弓で徳が見える。舞も同じである。笛や戟を持って舞うことでその人の徳が見える。平日行儀がよいので能役者でさえ人柄がよく見えるのだから、先王の仕入れであればその筈である。舞射と言うから「洒掃応対」と出した。それで「使成徳」である。親へは不返事なのに、本当に頼もしい息子だということはない。語類に朱子の処で火鉢の火を掻き捌いた児童が訶られたことが載っている。不行儀で頼もしいということはない。さてこの章が取り扱ったのは実地な処から仕込む教学のこと。誠と言っても中庸の「至誠無息」のことでもない。あるがままのことを誠と言う。梅は梅、桜は桜に見えるということ。洒掃応対の上で、これは投げ遣りな息子だ、後はよくはならないだろうということが見える。洒掃応対を捉まえて誠を仕込む。洒掃応対の上にあるがままが出る。そのあるがままを捉まえて修行を積む。これで聖人にも成ることができる。
【語釈】
・内志正外体直持弓矢審固持弓矢審固然後可以言中此可以観徳行矣…礼記射義。「故射者、進退周還必中禮。内志正、外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中。此可以觀德行矣」。
・語類…朱子語類学1小学。「小童添炭、撥開火散亂。先生曰、可拂殺了。我不愛人恁地。此便是燒火不敬。所以聖人敎小兒灑掃應對、件件要謹」。
・至誠無息…中庸章句26。「故至誠無息。不息則久、久則徴。徴則悠遠。悠遠、則博厚。博厚、則高明」。


第十二 自幼子常視無誑以上の条

自幼子常視毋誑以上、便是敎以聖人事。
【読み】
幼子には常に誑[あざむ]くこと毋きを視[しめ]すより以上は、便ち是れ敎うるに聖人の事を以てするなり。
【補足】
・この条は、程氏遺書六にある。尚、礼記曲礼上に「幼子常視毋誑」とある。

これも上の條と同こと。この句の点はなをしてよむことだが、いつも板点のままよんてもよい。迂詐をつかぬものだ々々々々々々々々々と教ること。づんとぬんめりとしてうそをつくと云子があるもの。慈悲な親は屹度戒めやふこと。よほどのわるさよりもゆるされぬことぞ。是を輕いことに思ふな。これから垩人にもゆかるる。小学の此のことが中庸の誠の塲へも行るる。斯ふして見れば学問がふいと上るものではない。そこで温公の自不妄語始むと云。温公の誠は拾ひ首にもしろ、自り始むと云は工夫の実地な処なり。うそと云がどふでもあるもの。慰にうそをつくものもあり、又律儀な男が白らで云てはわるかろふと思てうそをするもあり、又は人をたわけと見て迂詐をつくもある。さま々々あれとも、うそと云段には同挌にをちる。迂詐は内がからものゆへ、君子に成り様はない。人をば誠に取立るでなくては役には立ぬ。今天下にいかいこと学者も先生もあろふが、吾にも弟子にも此工夫のあるものはない。只にぎやかで世を渡るまでなり。
【解説】
様々な嘘があるが、嘘ということでは同格である。嘘は空っぽなことなので、嘘をついては君子になれる筈がない。子供の内から嘘をつかない様に厳しく戒めなければならない。
【通釈】
これも上の条と同じこと。この句の点は直して読むものだが、いつもの板点のままに読んでもよい。これは嘘をついてはならないと教えること。かなり白々しく嘘をつく子がいるもので、慈悲深い親は厳しく戒めなければならない。これはよほどの悪さ以上に許してはならないこと。これを軽いことと思ってはならない。これから聖人にも行くことができるのであり、小学のここのことで中庸の誠の場へも行かれるのである。こうして見れば学問は急に上がるものではない。そこで温公が「自不妄語始」と言った。温公の誠は拾い首だが、「自始」と言ったのは工夫の実地な処である。嘘はどうしてもあるもの。慰めに嘘をつく者もあり、また律儀な男がその通りに言っては悪いだろうと思って嘘をつくこともあり、または人を戯けと見て嘘をつくこともある。それは様々だが、嘘という段では同格に落ちる。嘘は内が空っぽなので、それでは君子への成り様がない。人を誠に取り立てるのでなければ役には立たない。今天下に学者や先生が大層いるだろうが、自分にも弟子にもこの工夫のある者はいない。ただ賑やかに世を渡るだけのこと。
【語釈】
・小学…小学立教。「曲禮曰、幼子常視毋誑、立必正方不傾聽」。
・自不妄語始む…小学外篇善行。「劉忠定公見温公問盡心行己之要可以終身行之者。公曰、其誠乎。劉公問行之何先。公曰、自不妄語始」。


第十三 先傳後倦条

先傳後倦。君子敎人有序。先傳以小者近者、而後敎以大者遠者。非是先傳以近小、而後不敎以遠大也。
【読み】
先ず傳え後に倦む。君子は人を敎うるに序有り。先に傳うるに小さき者近き者を以てし、而して後に敎うるに大なる者遠き者を以てす。是れ先に傳うるに近小を以てして、後には敎うるに遠大を以てせざるに非ず。
【補足】
・この条は、程氏遺書八にある。

論語の本語を知てでなければすみにくいぞ。子夏子游の取り合の時の詞なり。子張篇。先傳は、心安いことはさきへすること。後倦は、これを教たいものじゃが、これを教るはずんと靣倒なこととて一日ごかしにのばし々々々するものもある。さふせぬこと。ものには序がある。向次第ですること。乳呑子に鰹の差味は喰せられぬ。なんぼ武士でも、這ひづる子に馬の稽古はさせられぬ。小娘には藥袋や手ぬぐいの端ぬいからさせる。後には合羽も仕立ると云になる。学者にも自然のついでがある。前には近小、後には遠大なり。年に相応、学問に相応がある。道体のきこへるも麁讀のやう々々なもある。それに講釈日が立て一つにしては某などは本意ないと思ふ。藥は病人によるものなり。已に醫者はどれにも此藥と云て計り出しはせぬ。匁方から灸の壮数迠大人と子児はちごふ。学者はそれをごたまぜにするから、若ひものが高いことを聞て、一生それを口に計り云て我ものにもならずにしまふ。三宅先生の所謂幽靈学問なり。洒掃応對と云根もなくて空を飛様な高いこと云は、直方先生の云ふ一休が小僧なり。如何是佛の祖師西来の意のと云ても根はない。
【解説】
学問には順序があり、それは、前に「近小」、後に「遠大」である。灑掃応対から始めなければ根のないものとなる。
【通釈】
ここは論語の本語を知っていなければ済み難い。子夏と子游との諍いの時の言葉である。子張篇。「先伝」は心安いことを先にすることで、「後倦」はこれを教えたいものだが、これを教えるのはかなり面倒なことだからと言って一日ごかしに延ばす者もいる。しかし、そうしてはならない。ものには順序がある。向こう次第でする。乳飲み子に鰹の刺身は喰わせられない。たとえ武士でも這いずる子に馬の稽古はさせられない。小娘には薬袋や手拭の端縫いからさせる。そこで、後には合羽も仕立ることができる様になる。学者にも自然の順序があり、前には「近小」、後には「遠大」である。歳に相応、学問に相応がある。道体のわかる者も素読が漸くな者もある。それなのに講釈日が立つからと言って一緒にするのは、私などは本意でないと思う。薬は病人次第で盛る。医者もどの病にもこの薬だと言ってそればかりを出しはしない。薬量から灸の壮数まで大人と子供とでは違う。学者はそれをごたまぜにするから、若い者が高いことを聞き、一生そればかりを口に出しながら自分のものにならずに終わる。それは三宅先生の言う幽霊学問である。洒掃応対という根もなくて空を飛ぶ様な高いことを言うのは、直方先生の言う一休の小僧である。如何にこれが仏の祖師、西来の意と言っても、そこに根はない。
【語釈】
・論語…論語子張12。「子游曰、子夏之門人小子、當洒掃應對進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉。譬諸草木區以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其惟聖人乎」。


第十四 伊川先生曰説書必非古意条

伊川先生曰、説書必非古意。轉使人薄。學者須是潛心積慮、優游涵養、使之自得。今一日説盡、只是敎得薄。至如漢時説下帷講誦、猶未必説書。
【読み】
伊川先生曰く、書を説くは必ず古意に非ず。轉[うた]た人をして薄からしむ。學者は須く是れ心を潛め慮を積みて、優游涵養し、之をして自得せしむべし。今一日にして説き盡くすは、只是れ敎え得て薄ければなり。漢の時に帷を下して講誦すと説くが如きに至りても、猶未だ必ずしも書を説かず、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある。

必と云字に色々つかいやふあるぞ。必非と必の字を上へをいたは决してそうでないと形をつけることぞ。説書は講釈のこと。後世は役の名と云ほどのこと。既に伊川の崇政殿の説書を勤められた。夫ほどのことを説書非古意と云が伊川の見取なり。これが面白ことで、だたい爰は非必の語意でよいに必非としたはきびしい見処ぞ。あの講釈が决して古意であるまいと思ふ。なぜなれば、講釈は今日は出来だの不出来だのと云て人のうすくなることなり。利休や三斎の出来茶の湯と云様になる。あすは聞人が丁寧ゆへ下た見も丁寧にと云心もあろふ。思へば耻しいこと。論語の講釈したを非義と云ことではなけれども、書を説こととすればなるほど魂のうすくなることぞ。
【解説】
「伊川先生曰、説書必非古意。轉使人薄」の説明。講釈は決して古意ではないと伊川が言った。書を説くと出来不出来を気にすることになって魂が薄くなる。
【通釈】
「必」という字には使い様が色々とある。「必非」と必の字を上へ置いたのは決してそうではないと形をつけたこと。「説書」は講釈のこと。後世は役名というほどのこと。既に伊川は崇政殿の説書を勤められた。それほどのことを「説書非古意」と言うのが伊川の見取りである。これが面白いことで、そもそもここは「非必」の語意でよいのに「必非」としたのは厳しい見処からである。あの講釈は決して古意ではないだろうと思う。それは何故かと言うと、今日は講釈がよい出来だとか不出来だとかと言うが、それが人の薄くなることだからである。それでは利休や三斎の出来茶の湯という様になる。明日は聞く人が丁寧なので下見も丁寧にしようとする心もあるだろう。思えばそれは恥ずかしいこと。論語の講釈をするのを非義と言うわけではないが、書を説くことだと思えば、なるほどそれでは魂が薄くなる。
【語釈】
・三斎…細川忠興。三斎宗立と号。1563~1645

潜心の字を上の必非古意とはり合て見ることぞ。潜心と云に、見せたいと云心はない。九淵の下に鯉や鮒が潜むもの。あの様に潜んで見るでなくては君子にはなられぬ。積慮はめったに云ぬこと。大尽がめったに物をつかはぬもの。そこが積むなり。十年になる金があるが、かびもはへぬてと云。身上のよいものは古米から喰ふ。口耳三寸、昨日きいたことを今日云ふはなま米をかむのなり。積むと云れぬ。優遊はそこへゆたかに這入てをること。鍔の古び手ずれのぞ。不断よりかかって居るから中連子の鋪居がすべ々々する。学問をこうすることぞ。自得。吾がものになる。尹彦明をほめるもここなり。垩賢のことを云が手前の詞の様でありたとなり。手前の村の話程に垩賢の語の中へとっくりと這入がよい。
【解説】
「學者須是潛心積慮、優游涵養、使之自得」の説明。心を潛め口を慎み優游涵養して自得する。聖賢の語の中へとっくりと這い入るのがよい。
【通釈】
「潜心」の字は上の「必非古意」と対比して見なさい。潜心と言うのだから、見せたいという心はない。九淵の下に鯉や鮒が潜んでいる。あの様に潜んで見るのでなくては君子にはなれない。「積慮」は滅多に言わないこと。大尽は滅多に物を使わない。そこが積である。十年も持っている金があるが、黴も生えないと言う。身上のよいものは古米から喰う。口耳三寸で、昨日聞いたことを今日言うのは生米を噛むのと同じで積むとは言えない。優遊はそこへ優かに這い入っていること。鍔の古びや手擦れである。普段から磨いているから中連子の敷居がすべすべする。学問はこの様にしなければならない。「自得」。自分のものになること。尹彦明を褒めるのもここからである。聖賢のことを言うのが自分の言葉の様だったそうである。自分の村の話ほどに聖賢の語の中へとっくりと這い入るのがよい。

今一日説盡。翌日の講釈に近思録をすっはりとよく云取る。たとへ聞ごとであろふともうすいことぞ。下帷は董仲舒なり。必未説書。上には必が上にあり、爰は下にある。漢では講釈が有たであろふが、必しも講釈計りと云ことではあるまいと、そこで下に必の字がある。学者は必講釈すると云ては萬歳や才藏か常若をいつも云やふなぞ。儒者にも説ぬと云も有そふなものだに、儒者が引こしたさうなと云にはや講釈なり。儒者は講釈と云ことばかりではないはづとなり。
【解説】
「今一日説盡、只是敎得薄。至如漢時説下帷講誦、猶未必説書」の説明。説き尽くそうとするのでは薄くなる。儒者は講釈をするばかりではない。
【通釈】
「今一日説尽」。翌日の講釈ですっぱりと近思録を上手に言い取る。たとえそれが聞き事であったとしても薄いこと。「下帷」は董仲舒のこと。「未必説書」。上では必が上にあり、ここは下にある。漢では講釈があっただろうが、必ずしも講釈ばかりということではないだろうと、そこで下に必の字がある。学者は必ず講釈すると言っては万歳や才蔵が常若をいつも言う様である。儒者の中にも説かない者もありそうなものだが、儒者が引っ越して来たそうだと言うと、早くも講釈をしている。ここは、儒者は講釈ばかりではない筈だということ。
【語釈】
・聞ごと…聞くだけの値うちのあること。ききもの。
・下帷…漢の董仲舒が青年を集めて書物の講義をしたことを指す。下帷講誦。
・萬歳…年の始めに、風折烏帽子を戴き素襖を着て、腰鼓を打ち、当年の繁栄を祝い賀詞を歌って舞い、米銭を請う者。太夫と才蔵とが連れ立ち、才蔵のいう駄洒落を太夫がたしなめるという形式で滑稽な掛合いを演ずる。
・才藏…万歳で、太夫の相手をして人を笑わせる役。


第十五 古者八歳入小学の条

古者八歳入小學、十五入大學。擇其才可敎者聚之、不肖者復之農畝。蓋士・農不易業。既入學則不治農、然後士・農判。在學之養、若士大夫之子、則不慮無養。雖庶人之子、既入學則亦必有養。古之士者、自十五入學、至四十方仕、中閒自有二十五年學。又無利可趨、則所志可知。須去趨言、便自此成德。後之人、自童稚閒、已有汲汲趨利之意。何由得向善。故古人必使四十而仕、然後志定。只營衣食、卻無害。惟利祿之誘、最害人。人有養方定志於學。
【読み】
古は八歳にして小學に入り、十五にして大學に入る。其の才の敎う可き者を擇びて之を聚め、不肖なる者は之を農畝に復[かえ]す。蓋し士・農は業を易えざればなり。既に學に入れば則ち農を治めず、然して後に士・農判[わか]る。學に在るときの養は、士大夫の子の若きは、則ち養無きを慮らず。庶人の子と雖も、既に學に入れば則ち亦必ず養有り。古の士は、十五にして學に入るより、四十にして方[はじ]めて仕うるに至るまで、中閒に自ら二十五年の學有り。又利の趨く可き無くんば、則ち志す所知る可し。須く去[ゆ]いて善に趨くべく、便ち此によりて德を成さん。後の人は童稚の閒より、已に汲汲として利に趨く意有り。何に由りてか善に向かうを得ん。故に古人は必ず四十にして仕えしめ、然して後に志定まる。只衣食を營[もと]むるのみならば、卻って害無し。惟利祿の誘いのみ最も人を害う。人養ありて方に志を學に定む。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある伊川の語。

其才可教者。孔子の云ふ可使知の人のこと。爰へ来るものは可教を聚たのぞ。文字はなしとも無理にも近思の道体もすむ。大学へ入た列なり。得一两句而説の部ぞ。直方先生が好学論の実ばへと云れた。そのことなり。不肖者と云ても、今云親に勘當うける不埒もののことではない。それでは小学挍が埒なしの寄合になる。凡民の俊秀から見て云ことぞ。復之農畝と云て、掃き溜へすてることではない。小学挍のものぞ。孔子の可使由の民ぞ。人倫も明で社倉米を云付ってもなる人物ぞ。悲ひことには大学の理がうつらぬと云で復したもの。赴々武夫公侯腹心。知は秀すとも魂はよいのなり。士農不易業。大学挍へ入たものはそれから老中にもなる。小学挍のものは身が脩って犂鍬を取る。あれは士よ、をれは農よと腰がすわる。俊秀は歴々になる。復農畝た男は不埒と見ることでない。農でやはり学問はする。
【解説】
「古者八歳入小學、十五入大學。擇其才可敎者聚之、不肖者復之農畝。蓋士・農不易業。既入學則不治農、然後士・農判」の説明。俊秀の者は大学へ入り、そうでない者は農畝に復すと言うが、農畝に復した者も小学校で学ぶのである。俊秀の者は「可使知」の人で、農畝に復した者は「可使由」の民のことである。
【通釈】
「其才可教者」。これは孔子の言った「可使知」の人のこと。ここへ来る者は教えるべき人で、それを聚めたのである。文字も理もなくても近思の道体までもが済む者で、大学へ入った人々のことであり、「得一両句而喜」の部類である。直方先生が好学論の実生と言われたのはこのことである。「不肖者」と言っても今言う親に勘当される不埒者のことではない。それでは小学校が埒なしの寄り合いになる。それは凡民の俊秀から見て言ったこと。「復之農畝」とは言うが、掃き溜めへ捨てることではない。小学校の者のことで、孔子の言った「可使由」の民のことである。人倫も明で社倉米を言いつかってもそれができる人物のこと。悲しいことには大学の理が映らないので復したのである。「赳赳武夫公侯腹心」で、知は秀てはいないが魂はよい。「士農不易業」。大学校へ入った者はそれから老中にもなる。小学校の者は身が修まって犂鍬を取る。あれは士、俺は農だと言って腰が据わる。俊秀は歴々になるが、復農畝の男を不埒と見てはならない。農でもやはり学問はする。
【語釈】
・可使知…論語泰伯9。「子曰、民可使由之。不可使知之」。
・得一两句而説…致知38。「論語有讀了後全無事者、有讀了後其中得一兩句喜者、有讀了後知好之者、有讀了後不知手之舞之足之蹈之者」。
・実ばへ…草木が種子から芽を出して生長すること。
・赴々武夫公侯腹心…詩経国風周南兔罝。「肅肅兔罝、施于中林。赳赳武夫、公侯腹心」。

在学之養。士太夫の子は親が知行を取るから扶持はある。百姓は百畝之宅、手前ではたらくもので、学問するからとてふちは送られぬ。いやとも上から手當はあるはづなり。朱子の考にもこのことが古書に見へぬと云れた。扶持方の仕向のことは古垩王のこと、傳記にのらぬと崇安縣の学田の記にある。排釈録にのせてある。よく思て見よ。長﨑松前から勤学に出た農の子へ、江戸の垩堂や京都迠扶持米ははこばれぬことぞ。屹度手當のあろふことなり。そこで大学へ入る日には、をれは一生学問でくふ。農畝にかへれば、をれは一生百姓で喰ふと其日からをちつくことぞ。中間廿五年。思忘るるほどの長ひ修行ぞ。今の学者は甲斐ないくせに、三年も過るとはやどうかこふかと利禄の方へのびあがる。利に向くが昔からのことぞ。論語時分も三年学而不志乎穀不易得とある。それゆへ古は学者も医者藝者も脩業がちごふからよいがあるが、今はよいが出来ぬ。
【解説】
「在學之養、若士大夫之子、則不慮無養。雖庶人之子、既入學則亦必有養。古之士者、自十五入學、至四十方仕、中閒自有二十五年學」の説明。士大夫は親に知行があるから上からの手当はないが、百姓は自らが働いて暮らしているので、その子が大学へ入る場合には上からの手当がある。この手当があるから落ち着いて学問をすることができ、四十になるまで学問をした。
【通釈】
「在学之養」。士大夫の子は親が知行を取っているから扶持がある。百姓は百畝の宅で自らが働くものなので、学問をするからといって扶持を送ることはできない。いやでも上から手当がある筈である。朱子の考えにもこのことが古書に見えないと言っている。扶持方の仕向けのことは古聖王のことなので伝記には載っていないと崇安県の学田の記にある。排釈録に載せてある。よく思って見なさい。長崎松前から勤学に出た農の子に対して、江戸の聖堂や京都にまで扶持米を運ぶことはできない。きっと手当があったのだろう。そこで大学へ入る日には、俺は一生学問で喰う、農畝に復れば、俺は一生百姓で喰うとその日から落ち着くのである。「中間二十五年」。思い忘れるほどの長い修行である。今の学者は甲斐ないくせに三年も過ぎると早くもどうこうと利禄の方へ伸び上がる。利に向くのは昔からのこと。論語を書いた時分にも「三年学而不志乎穀不易得」とある。古は学者も医者も芸者も修業が違っていたのでよいところもあったが、今はそのよいところがない。
【語釈】
・三年学而不志乎穀不易得…論語泰伯12。「子曰、三年學、不至於穀、不易得也」。

無利可趨。宋朝は科挙だからなを戒めること。をれは一生百姓、をれは一生学問とをちつくから利に趨らぬ。自此成德。凡民の俊秀へも復農畝へも两方へかけること。農畝へ復った、暇はあいたと伸ひをすることではない。年は六十でも冬は小学挍で学問する。農畝に復ったものも又学德は大学以上に進むこともある筈。そのあいよみは李初平二年而大覚悟すとある。これが大学に成た処なり。汲々趨利。どうがなして々々々々々々と利に向て学問に腰がすわらぬ。日本の農は只身上をあけたいと云計りぞ。御旗本に成たいとするものはない。宋朝がなま中及第で上る手あてのあるゆへわるい。日本にこんなことのないは仕合なり。それでさへ今江戸では学問がはやると云て田舎学者ものひ上ってみる。すわと云と鍬をなげ出して駈け出したがる。
【解説】
「又無利可趨、則所志可知。須去趨善、便自此成德。後之人、自童稚閒、已有汲汲趨利之意。何由得向善」の説明。自分の職分に落ち着くから利に趨らないことができるが、宋朝には科挙があり、そうではなかった。利に趨らずに一生学問をするので学徳が進む。
【通釈】
「無利可趨」。宋朝は科挙だから尚更戒めなければならない。俺は一生百姓、俺は一生学問と落ち着くから利に趨らない。「自此成徳」。これは凡民の俊秀へも復農畝へも両方に掛けること。農畝へ復ったから暇になったと伸びをすることではない。歳は六十でも冬は小学校で学問をする。農畝に復った者もまた学徳は大学以上に進むこともある筈。その証拠に「李初平二年而大覚悟」とある。これが大学に成った処である。「汲々趨利」。どうにかしてと利に向き、学問に腰が据わらない。日本の農はただ身上を上げたいというだけであり、御旗本になりたいと言う者はいない。寧ろ宋朝は及第で上がる手当があるので悪い。日本にこんなことのないのは幸せである。それなのに、今江戸では学問が流行ると言って田舎学者も伸び上がってみる。いざとなると鍬を投げ出して駈け出したがる。
【語釈】
・あいよみ…一緒に立ち会う人。証人。
・李初平二年而大覚悟…
・なま中…生半。かえって。むしろ。いっそ。

四十而仕。礼記に四十曰強仕ふとある。四十からは胴ぶるいはない筈。其上廿五年の学ある。強仕と云筈ぞ。四十でなければ奉公をばせぬものと落付てをるでよいことなり。営衣食却無害。小声に成て云ことでもない。孔孟堯舜の前へ出しても云分んのないこと。北幸谷の丹次が筆耕しても道理に害はない。御坐へ出されぬと云ことではない。某が茄子を栽たとて耻と云ことでもない。牡丹はよいが茄子は下卑たと云は了簡違ぞ。牡丹は却て喪志の方なり。生姜をうへてもよい。不察於鶏豚とは訳のちごふことぞ。利禄之誘。これは一と網でかぶせること。縁ひきを頼んで御直参に成たいの、武士になりて鎗を持せたいのと云。茄子を賣るよりわるい。これからは御頼み申すと竦肩を謟笑ふ。さて々々きたないこと。此間にちと上野へ御供と云、靣白くない花を見、いやな酒をも飲む。外目で汗の出るやふなことなり。これが教学にあるは本途の仕込でないと利禄の媒になるとなり。今の学者のすることはこれをさせる。種を蒔くのぞ。捨賣にしても三十人扶持がものはあると云。そんなことから朱子の呂東萊方の学者を歎かるる。呂子約へは大きにたたらるる。東萊が論語より左傳と云、利禄の誘によいことを教る。既に博議が及第のためになると云てかいた。穴へ落ぬ様なことをこしらへた近思を編む手傳をしても、朱子と同腹中でないはそこぞ。注。小書は親切なり。喰物がないと色々になる。垩賢の仕向けは一つ羪と云ことが第一なり。喰物さへあれば志は守られたもの。されともこれは中人の上を云たもの。
【解説】
「故古人必使四十而仕、然後志定。只營衣食、卻無害。惟利祿之誘、最害人。人有養方定志於學」の説明。二十五年学んで後に出仕するからよい。衣食のために尽くしてもそれは害にならない。寧ろ奢侈の方が悪い。それ以上に、利禄を求めるのが悪い。今の学者は利禄の媒をする。近思録の編集の手伝いをした呂東萊もそれであり、それで彼は朱子とは違うと言うのである。
【通釈】
「四十而仕」。礼記に「四十曰強而仕」とある。四十からは胴震いはない筈。その上に二十五年の学がある。強仕と言う筈である。四十でなければ奉公をしないものと落ち着いているのがよいこと。「営衣食却無害」。これは小声で言うことでもない。孔孟堯舜の前へ出しても言い分のないこと。北幸谷の丹次が筆耕をしても道理に害はない。人前に出せないということではない。私が茄子を栽えたとしても恥ということでもない。牡丹はよいが茄子は下卑ていると言うのは了簡違いである。牡丹は却って喪志の方である。生姜を植えてもよい。それは「不察於鶏豚」とはわけが違う。「利禄之誘」。これは一網で被せること。縁引を頼んで御直参になりたいとか、武士になって鎗を持ちたいなどと言う。それは茄子を売るよりも悪い。それからは御頼み申すと肩を竦ませ諂い笑いをする。それは実に汚いこと。この間に一寸上野へ御供をしますと言って、面白くもない花を見て、嫌な酒をも飲む。外目からも汗の出る様なこと。これが教学にあるのは本筋の仕込みでなければ利禄の媒になるからである。今の学者はこの利禄の媒をする。その種を蒔くのである。捨て売りにしても三十人扶持だけのものはあると言う。そんなことから朱子が呂東萊方の学者を歎かれた。呂子約へは大分祟られた。東萊が論語より左伝がよいと言い、利禄の誘によいことを教えた。既に博議が及第のためになるとして書いた。穴へ落ちない様なことを拵えた近思の編集の手伝いをしても、朱子と同腹中でないというのはそこである。注。小書は親切である。食物がないと色々になる。聖賢の仕向けは一つ養ということが第一である。食物さえあれば志は守られる。しかしながら、これは中人から上の人について言ったこと。
【語釈】
・四十曰強仕ふ…礼記曲礼上。「人生十年曰幼、學。二十曰弱、冠。三十曰壯、有室。四十曰強、而仕。五十曰艾、服官政。六十曰耆、指使。七十曰老、而傳。八十九十曰耄。七年曰悼。悼與耄、雖有罪、不加刑焉。百年曰期頤。大夫七十而致事」。
・丹次…大木丹次。名は忠篤。晩年は権右衛門と称す。1765~1827
・不察於鶏豚…大学章句10。「孟獻子曰、畜馬乘、不察於雞豚。伐冰之家、不畜牛羊。百乘之家、不畜聚斂之臣。與其有聚斂之臣、寧有盜臣。此謂國不以利爲利、以義爲利也」。
・呂子約…


第十六 天下有多少材の条

天下有多少才。只爲道不明天下、故不得有所成就。且古者興於詩、立於禮、成於樂。如今人怎生會得。古人於詩、如今人歌曲一般。雖閭巷童稚、皆習聞其説、而曉其義。故能興起於詩。後世老師宿儒、尚不能曉其義。怎生責得學者。是不得興於詩也。古禮既廢、人倫不明。以至治家、皆無法度。是不得立於禮也。古人有歌詠以養其性情、聲音以養其耳目、舞蹈以養其血脈。今皆無之。是不得成於樂也。古之成材也易、今之成材也難。
【読み】
天下には多少の才有り。只道の天下に明らかならざる爲に、故に成就する所有るを得ず。且つ古は詩に興り、禮に立ち、樂に成る。今人の如き、怎生[いかん]ぞ會し得ん。古人の詩に於る、今人の歌曲の如く一般なり。閭巷の童稚と雖も、皆其の説を習聞して、其の義を曉[さと]る。故に能く詩に興起す。後世は老師宿儒も、尚其の義を曉ること能わず。怎生ぞ學者を責め得ん。是れ詩に興るを得ざるなり。古禮既に廢れ、人倫明らかならず。以て家を治むるに至るまで、皆法度無し。是れ禮に立つを得ざるなり。古人は歌詠以て其の性情を養い、聲音以て其の耳目を養い、舞蹈以て其の血脈を養うこと有り。今は皆之れ無し。是れ樂に成るを得ざるなり。古の材を成すや易く、今の材を成すや難し。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

多少は数は定らぬ字なれとも、器用ものはいくらもある。多いと云こと。為道不明於天下。山奧に無筆の多い様なもの。器用ものがありても天下に道が明でないからよい人が出来ぬ。山奧の人か手に筆を持つことはならぬと云ことではないが教がない。教たら能書になるのもあろふ。此国にもよい野菜もよい肴もあるが、よい料理人と云がすくないなり。教学はそこを仕込むこと。教なくてはならぬことなり。古は道具がそろふてある。詩礼樂と云ことがなくては興の立の成のと云ことも出来ぬ。左り甚五良も小刀一本て家は立られぬ。如歌曲一般。今謡は習ふがはやり歌は習ぬ。相應に訳も知れるから彼も誰も歌ふ。古の詩經がさうなり。講釈入らずにわけもすみた。老師宿儒。今は興るはさてをき、吟味からが出来ぬ。国風はまだなれとも大雅などがすまぬもの。
【解説】
「天下有多少才。只爲道不明天下、故不得有所成就。且古者興於詩、立於禮、成於樂。如今人怎生會得。古人於詩、如今人歌曲一般。雖閭巷童稚、皆習聞其説、而曉其義。故能興起於詩。後世老師宿儒、尚不能曉其義。怎生責得學者。是不得興於詩也」の説明。優れた人は多くいるが、天下に道が明でないからよい人ができない。それは教えがないからである。古は詩礼楽があったが今はそれがない。
【通釈】
「多少」は決まった数を言う字ではないが、器用な者はいくらもいる。多いということ。「為道不明於天下」。山奥に無筆が多い様なもの。器用な者がいても天下に道が明らかないからよい人ができない。山奥の人が手に筆を持ってはならないということではないが、教えがない。教えたら能書になる者もいるだろう。この国にもよい野菜もよい肴もあるが、よい料理人が少ない。教学はそこを仕込むこと。これは教えなくてはならないことなのである。古は道具が揃っていた。詩礼楽がなくては興や立や成ということもできない。左甚五郎も小刀一本で家は建てられない。「如歌曲一般」。今謡は習うが流行歌は習わない。相応にわけも知れるから誰も彼もが歌う。古の詩経がそれである。講釈をしなくてもわけが済んだ。「老師宿儒」。今は興ることはさて置き、吟味さえできない。国風はまだしも大雅などが済まないもの。
【語釈】
・詩礼樂…論語泰伯8。「子曰、興於詩、立於禮、成於樂」。
・宿儒…長い経験のある儒者。

古礼云々。礼の講釈をすると云ことでなく、時の礼式たれもかれもした。古垩人の世には礼が家々に行れて、今の世俗の元日に雜煮を喰ふ様にすること。古へ冠昏葬祭から礼の行はるるが、丁と今日人家で暦を用る様でありた。なぜだか知らぬが斯ふする者だと云て行れた。今も人倫は昔の通り丁度ありて、不明と云は其のある人倫が本ん道てないこと。今の夫婦中も見苦しいことた。又下賤な者の夫婦いさかいなど摺鉢がやぶれますと云もあり、女房にしまかされるもある。親は片隅に居て子の一はいをするもあり、礼の通りでないなり。大工は上手ても下手ても家は立る。古礼先王のときは礼なりですみたが後世は皆無法度。古へは秤り物さしの出る様なもの。礼と云ですむ。是一舛是一尺と云てどこでも通用した。後世はてん々々われ々々。家内の交も礼式も勝手次第の指び尺ぞ。礼に立れぬ筈なり。有歌詠以羪其性情。歌をうたって樂をする。それで内がよくなる。直方先生が、腹の立つとき東北を一番歌へと云れた。あれが樂の様なもの。歌詠は人の声のこと。声音は五声八音、耳目は舞迠こめて云ふこと。羪其血脉。富豪なものに病身のあるもの。じっとしておると病は出る。舞では血脉が羪るる。これは樂のもふけものなり。今皆無之。声音歌詠舞蹈、これがすっへりない。さて々々不道具なり。古は人の質扑であついに道具が揃てよし。後世は人の薄い上に道具が揃はぬ。よいものか出来にくい筈なり。
【解説】
「古禮既廢、人倫不明。以至治家、皆無法度。是不得立於禮也。古人有歌詠以養其性情、聲音以養其耳目、舞蹈以養其血脈。今皆無之。是不得成於樂也。古之成材也易、今之成材也難」の説明。古は当然のこととして礼を行なった。人倫は今も昔も同じだが、今は声音や歌詠、舞踏がないから人倫が本道でなく、手前勝手をしている。今は人が薄い上に道具が揃わないからよい者ができ難い。
【通釈】
「古礼云々」。礼の講釈をするということでなく、当時は誰も彼もがこの礼式をした。古の聖人の世では礼が家々に行われた。それは今の世俗が元日に雑煮を喰う様なもの。古は冠婚葬祭から礼が行われたが、それは丁度今日人家で暦を用いる様なことだった。何故だか知らないがこの様にするものだと言われて行っていた。今も人倫は昔の通りのままにあるが、ここで不明と言うのは、そのある人倫が本道ではないということ。今の夫婦仲も見苦しい。また下賎な者の夫婦の諍いなどでは擂鉢が破れますと言うこともあり、女房にし負かされることもある。親が片隅にいて、子がしたい放題をすることもあり、礼の通りでない。大工は上手でも下手でも家は建てる。古礼で先王の時は礼の通りで済んだが後世は「皆無法度」である。古は秤や物差が出る様なもの。礼と言って済む。これが一升、これが一尺と言って何処でも通用した。後世はてんでんばらばらである。家内の交わりも礼式も勝手次第の指尺でする。それでは礼に立てない筈である。「有歌詠以養其性情」。歌を詠って楽をする。それで内がよくなる。直方先生が、腹の立つ時には東北を一番歌えと言われた。あれが楽の様なもの。歌詠は人の声のこと。「声音」は五声八音、「耳目」は舞までを込めて言う。「養其血脈」。富豪な者に病身があるもの。じっとしていると病は出る。舞で血脈が養なわれる。これは楽の儲け物である。「今皆無之」。声音歌詠舞踏、これが全くない。本当に道具がない。古は人が質朴で篤く、それに道具が揃っていてよかったが、後世は人が薄い上に道具が揃わない。よい者ができ難い筈である。
【語釈】
・東北…謡曲の名。


第十七 孔子教人云々の条

孔子敎人、不憤不啓、不悱不發。蓋不待憤悱而發、則知之不固。待憤悱而後發、則沛然矣。學者須是深思之。思而不得、然後爲他説、便好。初學者、須是且爲他説。不然、非獨他不曉、亦止人好問之心也。
【読み】
孔子の人を敎うるに、憤せずんば啓せず、悱せずんば發せず。蓋し憤悱を待たずして發せば、則ち之を知ること固からず。憤悱を待ちて而して後に發せば、則ち沛然たらん。學者は須く是れ深く之を思うべし。思いて得ず、然して後に他[かれ]の爲に説かば、便ち好し。初めて學ぶ者には、須く是れ且く他の爲に説くべし。然らずんば、獨り他曉[さと]らざるのみならず、亦人の問うを好む心を止めん。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。論語述而8に、「子曰、不憤不啓、不悱不發。擧一隅不以三隅反、則不復也」とある。

これは先日よみた語学者以所見未到之理不惟所聞不深徹反將理低看了と見合せることぞ。あれとは筋のちがったこと。あそこは不相応なことを早く云てきかせるがわるいと云こと。此章はよいことを云て聞せても、さきに一つ受がなければはつみのわるいと云ことを云たもの。あの文義ここの処がと云て骨折る処がなくては学問は上らぬ。馬にもめったにかくを打たり策をあてたりして計りはゆかぬ。丁度の処へ一つあてるとはら々々と出る。そこへもってゆくこと。学問も向にはづみをもたせてからのこと。垩人の親切では箸でくくめさうなものなれとも、はつみのない処へ云ては役に立ぬから、はつみのよい丁度の処で云ことなり。憤はもとはらを立こと。されとも今云いきどをりではないが、さて精出して見ても爰の処が知れぬとむかつくことなり。なぜ程朱が面白さうに云たが、をれがにはどふもすまぬ、むまくをちぬと手前で骨を折るのなり。これが今の学者などにはないことぞ。道理の親切が顔にも見へて、係辞傳の爰の処が知れぬと思ふてをる。そこを孔子が斯ふしたことだとひらいてやる。傷寒の療治、あそこの塲が知れぬ々々々と考て居たを、此のあつかいの藥を附ると云で一言ですむのぞ。
【解説】
「孔子敎人、不憤不啓」の説明。教学10は不相応なことを早く教えるのは悪いということで、ここは憤することがなければ、よいことを教えてもうまく行かないということ。
【通釈】
これは先日読んだ「語学者以所見未到之理不惟所聞不深徹反将理低看了」と見比べなさい。あれとは筋の違ったこと。あれは不相応なことを早く言って聞かせるのは悪いということ。この章は、よいことを言って聞かせるにしても、その前に一つ受けがなければ弾みが悪いということを言ったもの。あの文義のここの処がと言って骨を折る処がなくては学問は上がらない。馬も滅多矢鱈に膈を打ったり鞭をあてたりしてばかりではうまく行かない。丁度の処へ一つあてるとぱかぱかと出る。そこへ持って行くこと。学問も向こうに弾みを持たせてからする。聖人の親切であれば箸で包めてしそうなものなのだが、弾みのない処へ言っては役に立たないから、弾みのよい丁度の処で言うのである。「憤」は本来腹を立てることだが、それは今言う憤りではなく、さて精を出してみてもここの処がわからないと言ってむかつくことである。何故程朱が面白そうに言ったのか、俺にはどうしてもそれが済まない、腑に落ちないと言って自分で骨を折ること。これが今の学者などにはない。道理の親切が顔にも見え、繋辞伝のここの処がわからないと思っていると、そこを孔子がこうしたことだと啓いて遣る。傷寒の療治ではあそこの場がわからないと考えていたところにこの処方薬を付けるのがよいと言う。その一言で済む。
【語釈】
・語学者以所見未到之理不惟所聞不深徹反將理低看了…教学10。
・かく…膈?胸と脾との間。鉸具?馬具の鐙の頂部にある金具。力革に接続するのに用いる。

不悱不發。上と似たこと。上の句は意の上で云、これは口の上で云。胸ではすんで口へ出ぬ処を斯ふ云ことだと云れてくっつりとすむ。これが精を出すものでなくては無いこと。理は一貫なものて、禪の頓悟と云てもめったに只ちらりではない。こちで骨折てをる処を、そこの処じゃと云るるでひらく。折戸の兵右衛門が潔浄精微がなぜ易の教だと云て石原先生に聞てもすまなんだ。そこに憤悱して居た。そこへ迂斎の髪月代をした様なものたと云たでよくすんだと云た。只こちから云て聞せては、我方の修行が足らぬから知之不固。はっと云ことはならぬ。沛然。或茶人が茶をたてるになぜか爰の処がゆかぬ々々々と云ていた。夫を或人が五分程跡へ去てたてたらよかろふと云た。さうしたれば何のこともなくよくゆきた。馬の師匠がちとゆるしかけて乘て見さっしゃれと云。それではら々々と出るなり。こんなことは昨日今日来た弟子ではゆかぬこと。深思之。下た地に思ふと云がなくてはならぬ。深思が憤悱の前立になる。
【解説】
「不悱不發。蓋不待憤悱而發、則知之不固。待憤悱而後發、則沛然矣。學者須是深思之。思而不得、然後爲他説、便好」の説明。「憤」は意の上のことで、「悱」は口の上のこと。憤悱がなければ教えても納得することはできない。また、憤悱の前に「深思」がなければならない。
【通釈】
「不悱不発」。これも上と似たこと。上の句は意の上で言い、これは口の上で言う。胸では済んでいるが口へ出せない処をこういうことだと言われてしっかりと済む。これは精を出す者でなくてはないこと。理は一貫なもので、禅の頓悟と言っても滅多にただちらりとするものではない。自分が骨を折っている処をそこの処だと言われるので啓く。折戸の兵右衛門が絜静精微は何故易の教えなのかと石原先生に聞いたが納得することができずに憤悱していた。そこへ迂斎が髪月代をした様なものだと言ったのでよくわかったと言った。ただこちらから言って聞かせては、自分の修行が足りないから「知之不固」で、納得することはできない。「沛然」。ある茶人が茶を点てる際に何故かここの処がうまく行かないと言っていた。それをある人が五分程後へ下がって点てたらよいだろうと言った。それに従ってすると簡単にうまくできた。馬の師匠が一寸緩くして乗ってみなさいと言う。それでぱかぱかと出る。こんなことは昨日や今日来た弟子には言わないこと。「深思之」。下地に思うということがなくてはならない。深思が憤悱の前立ちになる。
【語釈】
・悱…事は理解できていて、それを言葉に表せずにいらいらとすること。
・兵右衛門…折戸の鈴木兵右衛門。迂斎門下。
・潔浄精微…礼記経解。「孔子曰、入其國、其敎可知也。其爲人也、温柔敦厚、詩敎也。疏通知遠、書敎也。廣博易良、樂敎也。絜靜精微、易敎也。恭儉莊敬、禮敎也。屬辭比事、春秋敎也」。

初学者云々。これは別のこと。憤悱処ではない。爲他可説。只そこにすわっておるから、近思と云は只の書ではないと云て聞せるなり。憤悱と云は夫からさきのこと。文義もすまぬにどふた々々々と云ことはならぬ。止人好問之心。人には問を好むと云良心もあることだが、文義もすまぬに憤悱を待て居られては、こんな問はわるかろうと思ふてやめるもの。先達遺事にある。徒然草とは何のことと問たは古風なこと。あまり憤悱を待つは子共を教にはならぬ。訳を云て聞せるで好問。問ふから思に至る。思から憤悱へゆく。そこを啓發するか教学の仕方なり。高ひものには憤悱のない内にはをしえぬ。初学にはこちから教てから憤悱に至らする。これが教の仕方なり。
【解説】
「初學者、須是且爲他説。不然、非獨他不曉、亦止人好問之心也」の説明。高い者には憤悱がない内は教えないが、初学の者には教えてから憤悱に至らせる。教えずに憤悱を待っていては問うことも止める様になってしまう。
【通釈】
「初学者云々」。これは上とは別のこと。憤悱処ではない。「為他可説」。ただそこに座っているだけだから、近思とはただの書ではないと言って聞かせる。憤悱はそれから先のこと。文義も済まないのにどうだこうだと言うことはならない。「止人好問之心」。人には問うことを好むという良心もあるが、文義も済まないのに憤悱を待っていては、こんな問いをするのは悪いだろうと思って止めるもの。これが先達遺事にある。徒然草とは何のことかと問うたのは古風なこと。あまり憤悱を待っていては子供を教えることにならない。訳を言って聞かせるので好問。問うから思に至る。思うから憤悱へと行く。そこを啓発するのが教学の仕方である。高い者には憤悱がない内は教えない。初学にはこちらが教えてから憤悱に至らせる。これが教えの仕方である。


第十八 横渠先生曰恭敬云々条

横渠先生曰、恭敬撙節、退讓以明禮、仁之至也、愛道之極也。己不勉明、則人無從倡、道無從弘、敎無從成矣。
【読み】
横渠先生曰く、恭敬撙節[そんせつ]し、退讓して以て禮を明らかにするは、仁の至りなり、道を愛する極なり。己勉めて明らかにせずんば、則ち人從[よ]りて倡[みちび]かるること無く、道從りて弘まること無く、敎從りて成ること無し、と。
【補足】
・この条は、正蒙の至当篇にある。礼記曲礼上に「是以君子恭敬撙節、退讓以明禮」とある。

先日張子の礼を教るが至極よいと云てほめたが、その前立が此章で見へる。恭敬撙節。これは手前のこと。平生茶を一服飲むにも礼にあたる様に々々々々々としたこと。明は礼に叶ふ様に々々々々とすることを云。仁之至也愛道之極也。これが横渠の親切なり。此の上の仁はない。手前が恭敬撙節退讓で身を礼にはめて見せる。それから人に及ふゆへ仁なり。此条を教学へのせたは教学が仁之至愛道之極なり。手前がよくならぬ内はならぬ。金銀を惠むさへだに人をよくしてやると云は仁之至愛道之極なり。此上の親切はない。それをするにも手前の方が不礼でと云にはならぬ。恭敬撙節退讓明礼なり。其訳を跡へといた。己不勉明則人無從倡。下戸の亭主では客も酒が飲めぬ。道でも教でも此方のなることでなくては人がうけとらぬ。これでみれば師と云ことはならぬこと。道理で孟子が人之憂者好有為人之師とは云れた。朋自遠方来でなくては本のことではない。迂斎の教学と舌耕とは違と云た。今儒者にせふと云がつまらぬこと。せふと云に德を積んだことはない。積んだら儒者なり。病身だから坊主にせふ、百姓が下手だ、医者にせふと云には名僧名医は出来ぬ。されとも藝の上と云には針立の名人もあろふが、教学は明徳新民の新民なり。せふと云てはならぬことなり。此の明德が自然と及ぶなり。
【解説】
自分がよくならない内は人を教えてもうまく行かない。それには自分が徳を積まなければならない。明徳が及んで新民となるのだから、師になるのは難しいことなのである。
【通釈】
先日、張子の礼の教え方が至極よいと言って褒めたが、その前立ちがこの章で見える。「恭敬撙節」。これは自分に対してのこと。平生茶を一服飲むにも礼にあたる様にとする。「明」は礼に叶う様にとすることを言う。「仁之至也愛道之極也」。これが横渠の親切である。この上の仁はない。自分が「恭敬撙節退譲」で身を礼に嵌めて見せ、それから人に及ぶのから仁なのである。この条を教学へ載せたのは、教学が仁之至愛道之極だからである。自分がよくならない内は教えてもうまく行かない。金銀を恵むことでさえ、人をよくしてやると言えば仁之至愛道之極であり、この上の親切はない。それをするにも自分の方が不礼では悪い。恭敬撙節退譲明礼である。その訳をこの後で説いた。「己不勉明則人無従倡」。下戸の亭主では客も酒が飲めない。道でも教えでも、自分ができることでなくては人はそれを認めない。これで見れば師ということは中々できないこと。なるほど孟子が「人之憂者好有為人之師」と言われた筈である。「朋自遠方来」でなくては本当のことではない。迂斎が教学と舌耕とは違うと言った。今儒者にしようと言うのが詰まらないこと。しようと言っても徳を積んだことはない。積んだら儒者である。病身だから坊主にしよう、百姓が下手だから医者にしようと言うのでは、名僧や名医はできない。芸の上では針立ての名人もいるだろうが、教学は明徳新民の新民のことで、しようと言うのではならないことなのである。この明徳が自然と及ぶのである。
【語釈】
・撙節…自分を抑えてへりくだること。
・人之憂者好有為人之師…孟子離婁章句上23。「孟子曰、人之患在好爲人師」。
・朋自遠方来…論語学而1。「有朋自遠方來、不亦樂乎」。
・舌耕…講義・講演・演説・講談など弁舌によって生計を立てること。


第十九 学記曰進而不顧其安条

學記曰、進而不顧其安、使人不由其誠、敎人不盡其材。人未安、又進之、未喩之、又告之、徒使人生此節目。不盡材、不顧安、不由誠、皆是施之妄也。敎人至難。必盡人之材、乃不誤人。觀可及處、然後告之。聖人之明、直若庖丁之解牛、皆知其隙、刃投餘地、無全牛矣。人之材足以有爲。但以其不由於誠、則不盡其材。若曰勉率而爲之、則豈有由誠哉。
【読み】
學記に曰く、進めて其の安きを顧みず、人をして其の誠に由らざらしめ、人を敎うるに其の材を盡くさず、と。人未だ安からざるに、又之を進め、未だ之を喩[さと]らざるに、又之に告げなば、徒に人をして此の節目を生ぜしむるのみ。材を盡くさず、安きを顧みず、誠に由らざるは、皆是れ之を施すこと妄なればなり。人を敎うるは至って難し。必ず人の材を盡くさば、乃ち人を誤らず。及ぶ可き處を觀て、然して後に之を告げよ。聖人の明は、直[ただ]庖丁の牛を解くに、皆其の隙を知り、刃の餘地に投ぜられて、全牛無きが若し。人の材は以てすること有るに足る。但其の誠に由らざるを以て、則ち其の材を盡くさず。若し勉率して之を爲すと曰わば、則ち豈誠に由ること有らんや。
【補足】
・この条は、張横渠の語録にある。

荘子の庖丁解牛と学記を合せた發明なり。外の張子の発明はなく、あちのことを云たまでなれとも、つまり弟子のあつかいをよく知た人の語なり。不尽其材までが学記なり。進而とは、せわしい人が兎角人の学問を上させたがるもの。不顧安。某などは人に語類を見ろ々々と云が、あの位では見らるると見た人に云ふ。さう又誰にも渠にも云はせぬ。不由誠。不相応なことは実が出ぬ。子共に煮花、これが喜撰だと云ても嬉しがらぬ。其安の安の字が先日の教人不見意趣不願学のことなり。某が宅で會をするが、ついに今迠の教方が本のことはせぬ。たとへは学者を五人受取たときに、是にはこれと五人に色々教方があろふことなれども、必竟教学を任ぜぬからぞ。ほんに仕込む段になっては其時こそ上手下手がある筈なり。本草の會で学問の上るものもあろふ。いつも々々々此方は訓門人節要と計り云は不顧安なり。孔子も皆をれが様にと云そうなものを、徳行顔淵閔子騫言語宰我子貢なり。四科は俗儒のしたことなれとも、材を取立て夫からこそ氣質変化も何も云るる。
【解説】
「學記曰、進而不顧其安、使人不由其誠」の説明。これは荘子と学記とを合わせた張子の発明である。とかく学問を上げさせたがるものだが、不相応なことをしても身に付かない。人それぞれに対して教え方は異なるものであり、材を取り立てるのが最初である。
【通釈】
荘子の庖丁解牛と学記とを合わせた発明である。その外に張子の発明はなく、あちらのことを言ったまでのことだが、つまりは弟子の扱いをよく知った人の語である。「不尽其材」までが学記である。「進而」は、忙しい人がとかく人の学問を上げさせたがる様なこと。「不顧安」。私などは人に語類を見ろとよく言うが、あの位なら見ることができると思われる人に対して言うのであって、誰にでも言うわけではない。「不由誠」。不相応なことでは実が出ない。子供に煮花、これが喜撰だと言っても嬉しがらない。「其安」の安の字が先日の「教人不見意趣必不楽学」のこと。我が宅でも会をしているが、今までの教え方は遂に本当のものではなかった。たとえば学者を五人受け取った時に、これにはこれと五人それぞれに色々な教え方があるのだろうが、それをしないのは畢竟教学を任じていないからである。本当に仕込む段になれば、その時こそ上手下手がある筈である。本草の会で学問が上がる者もあるだろう。いつもこちらは訓門人節要とばかり言っては不顧安である。孔子も皆俺の様になれと言いそうなものだが、「徳行顔淵閔子騫言語宰我子貢」である。四科は俗儒のしたことだが、材を取り立てた後でこそ気質変化でも何でも言うことができる。
【語釈】
・庖丁解牛…荘子養生主にある。
・煮花…煎じたての香味のある茶。
・喜撰…宇治茶の意?
・教人不見意趣不願学…教学8。「敎人未見意趣、必不樂學」。
・四科…論語先進2。「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。同集註。「弟子因孔子之言、記此十人、而幷目其所長、分爲四科。孔子教人各因其材、於此可見。程子曰、四科乃從夫子於陳、蔡者爾。門人之賢者固不止此。曾子傳道而不與焉。故知十哲世俗論也」。

教人不尽其材。たとへて云はば、若ひものが流行羽織を拵たいと云処へ茶器を見せて渋のついた茶碗を買せる。田舎から江戸見物に行たものに隅田川の土手を見せる様な手引の仕方ては下手な師匠なり。只此いきだ々々々と云て初学は呑込るるものではない。小学の文義もすまぬに語類の易のと云。這入らぬぞ。使人生此節目。学記の本語に攻堅木者先所易而後節目。やすい処からさせるがよいと云てある。さうせぬと生節目。ふしこぶになって跡もゆかぬ。すまぬことを無理に仕かけると、私はゆかぬとぐわったりと落る。施之妄也。痩馬に重荷なり。迂斎曰、暑ひ時に綿入羽織を借すなり。ゆるして下されと云筈ぞ。ひだるいに無性に煙草を呑せる。教人至難。向も生き物、もち前が違ふ。醫者も向がさま々々だから、家傳返魂丹で計りはゆかぬ。人の材に切れるものをもったものには先そこの処を研せるがよい。以人治人なり。以衆人望人則易從なり。陸象山、教人むせふに高ひ処々々々と云から弟子が乱心もする。観可及處告之。朱子の訓門人節要などで見よ。皆向の病に付て云れた。向のものへ届くたけのことを云。
【解説】
「敎人不盡其材。人未安、又進之、未喩之、又告之、徒使人生此節目。不盡材、不顧安、不由誠、皆是施之妄也。敎人至難。必盡人之材、乃不誤人。觀可及處、然後告之」の説明。初学の者には易しいことからさせなければならない。そうしないと節目が生じて先に行けなくなって落ち込む。相手がわかる分だけを教えるのである。
【通釈】
「教人不尽其材」。たとえで言えば、若い者が流行羽織を拵えたいと言う処へ茶器を見せて渋の付いた茶碗を買わせる。田舎から江戸見物に来た者に隅田川の土手を見せる様な手引きの仕方では下手な師匠である。ただこの意気だと言っても初学が飲み込めるものではない。小学の文義も済まないのに語類や易と言う。それでは這い入らない。「使人生此節目」。学記の本語に「攻堅木者先所易而後節目」とあり、易い処からさせるのがよいと言っている。そうしないと「生節目」。節瘤に当たって先に行けない。済まないことを無理に仕掛けると、私にはできないと言ってがたりと落ちる。「施之妄也」。痩せ馬に重荷である。迂斎が、暑い時に綿入羽織を貸すことだと言った。それは許して下さいと言う筈。空腹なのに無性に煙草を飲ませる。「教人至難」。向こうも生き物だから持ち前が違う。医者も向こうが様々だから、家伝の返魂丹でばかりではうまく行かない。材に切れるものを持っている者には先ずそこの処を研がせるのがよい。「以人治人」である。「以衆人望人則易従」である。陸象山が人を教える際は無性に高い処を言うから弟子が乱心をもする。「観可及処告之」。朱子の訓門人節要などで見なさい。皆向こうの病について言われたこと。向こうの者へ届くだけのことを言うのである。
【語釈】
・攻堅木者先所易而後節目…礼記学記。「善問者如攻堅木。先其易者、後其節目」。
・以人治人…中庸章句13。「執柯以伐柯、睨而視之。猶以爲遠。故君子以人治人、改而止」。
・以衆人望人則易從…中庸章句13集註。「若以人治人、則所以爲人之道。各在當人之身、初無彼此之別。故君子之治人也、即以其人之道、還治其人之身。其人能改、即止不治。蓋責之以其所能知能行、非欲其遠人以爲道也。張子所謂以衆人望人則易從、是也」。

庖丁之解牛。あの方で牛は重いこと。鶴の庖丁と云のなり。庖丁が上手と云が、爰が肉、爰が骨と云からすっはりわかる。知餘地。爰のつかいへこふ一と庖丁と云から、それでよくわかる。無全牛。見た目で云こと。牛は遠いことだが鴨などてもよく知るる。をれが新發田から塩鴨を貰ふた度ひにこのことを思ふ。料理やふですふ々々とゆくもの。さて爰へ是をひくは丁度のつかい々々々々々々をよく知ること。人の教もあの男には斯ふ、此男には斯ふと云ことがある。江戸などて折角をれがやった肴を粉にしたと云。弟子を取たものもそれぞ。教方が下手ゆへ後には仇歒の様に云。人之材足以有爲。だたい学問て仕込めばすること有る筈のもの。敎がわるく雀に鞠では使不由誠なり。若曰勉率而爲之則。これが学者の了簡違のあること。牛部屋から牛を出す様なり。それではゆかぬ。他事は一つならぬことを無理にさせると云手段もあろふが、由誠は時雨の化なり。丁度の処へ雨の降るでつるものものびる。教は自然なりなこと。埃のある川をさらへて水の流るるやふに自然なり。勉率も若ひものの朝起せぬなどは勉して率るがよい。学問は知とつれ立てあがるもの。それで其習与智長化与心成と云なり。初手はせつなかったが此頃は面白くてどふもならぬと云が由誠なり。此れ第一手段なり。
【解説】
「聖人之明、直若庖丁之解牛、皆知其隙、刃投餘地、無全牛矣。人之材足以有爲。但以其不由於誠、則不盡其材。若曰勉率而爲之、則豈有由誠哉」の説明。庖丁は切る丁度のところを知っていたので上手なのである。人を教えるにも丁度のところがあり、その丁度のところで教える。そこで初学の者も学問が面白くなるのである。
【通釈】
「庖丁之解牛」。中国では牛は重要なもの。鶴の庖丁ということ。庖丁が上手とは、ここが肉、ここが骨と言ってすっぱりと分けることができること。「知余地」。ここの隙間にはこの様に一つ庖丁をと言うから、それでよく分かれる。「無全牛」。見た目で言ったこと。牛の話は遠いことだが鴨などでもこれがよくわかる。俺が新発田から塩鴨を貰う度にこのことを思う。料理の仕方次第ですっと行くもの。さてここへこれを引いたのは、丁度の隙間をよく知ることを言ったもの。人への教えにも、あの男にはこう、この男にはこうということがある。江戸などて折角俺が遣った肴を粉にしたと言う。弟子を取った者も同じである。教え方が下手なので後には仇敵の様に言う。「人之材足以有為」。そもそも学問で仕込めば有為となる筈である。教え方が悪くて雀に鞠では「使不由誠」である。「若曰勉率而爲之則」。これが学者に了簡違いのあることで、牛部屋から牛を出す様なこと。それではうまく行かない。他では一つできないことを無理にさせるという手段もあるだろうが、「由誠」は時雨の化である。丁度の処へ雨が降るので蔓物も伸びる。教えは自然の通りのこと。埃のある川を浚えば水が流れる様に自然なこと。「勉率」も、若い者の朝起きをしないことなどには勉めて率いるのがよい。学問は知と連れ立って上がるもの。それで「其習与智長化与心成」と言う。初手は切なかったがこの頃は面白くてどうにもならないと言うのが由誠である。これが第一の手段である。
【語釈】
・鶴の庖丁…江戸時代、正月一七日に将軍から献上した鶴を清涼殿で調理する儀式。御厨子所の料理人が衣冠を着け、鶴の肉を料理し、天皇に供した。
・時雨の化…孟子尽心章句上40。「孟子曰、君子之所以教者五。有如時雨化之者、有成德者、有達財者、有答問者、有私淑艾者。此五者、君子之所以敎也」。
・其習与智長化与心成…小学序。「欲其習與智長化與心成、而無扞格不勝之患也」。


第二十 古之小兒便能敬事条

古之小兒、便能敬事。長者與之提攜則兩手奉長者之手。問之、掩口而對。蓋稍不敬事、便不忠信。故敎小兒、且先安詳恭敬。
【読み】
古の小兒は、便ち能く事を敬む。長者之と提攜せば、則ち兩手もて長者の手を奉ず。之に問わば、口を掩いて對[こた]う。蓋し稍[やや]事を敬せずんば、便ち忠信ならず。故に小兒に敎うるには、且く安詳恭敬を先にす。
【補足】
・この条は、張横渠の語録にある。礼記曲礼上に「幼子常視毋誑。童子不衣裘裳、立必正方、不傾聽。長者與之提攜、則兩手奉長者之手。負劍辟咡詔之、則掩口而對」とある。

先刻の程子の自幼子常視無誑以上の條と同こと。本んのことを知たものは皆斯ふなり。古之小児は出来がよいと云ことではない。仕込のよいなり。親も子を持ては身持をよくせふこと。それが親の慈なり。それじゃに小児が人のあたまをたたくことを親がけしかける。愛に溺れて時の慰なり。不知尊卑長幼之序則嚴訶禁之なり。きびしくするがよい。小児の心では人を打つもさするも同ことであろふかも知れぬが、それは急度戒めるでよい。長者與之提携云々。子共をだいて水たまりの処でもこすときは、其長者の手をいただく心得にする。長者と口をきくときは息のかからぬ様にする。さりとはそれにも及びそもないことだに、古之教は斯ふなり。迂斎の三つ子の魂六十迠と云れた。仕込のわるいは忠信にならぬ。小児の這ひづるときに氣髓な躰が見へるもの。そこは親兄弟より外知らぬなり。そこを見て取て仕込むとわるくはせぬ。蜜柑をばちらがうときにはや我ままなも上品なも見へる。故教小児且先要安詳恭敬。ここで御手前のを云れた。しっとりと落付ていんぎん。をれは前々からこう仕込むがよいと思ふとなり。
【解説】
古の小児はできがよかったのではなく、仕込みがよかったのである。小児には先ず「安詳恭敬」を教えるのがよい。
【通釈】
先刻の程子の「自幼子常視無誑以上」の条と同じこと。本当のことを知った者は皆こうである。「古之小児」はできがよいということではなく、仕込みがよいのである。親も子を持てば身持ちをよくする。それが親の慈である。それなのに、人の頭を叩くことを親が小児にけしかける。愛に溺れ、時の慰みである。「不知尊卑長幼之序則厳訶禁之」で厳しくするのがよい。小児の心には人を打つのも擦るのも同じことなのかも知れないが、それはきつく戒めるのでよい。「長者与之提携云々」。子供を抱いて水溜りの処でも越す時は、長者の手を奉るのを心得にする。長者と口をきく時は息が掛からない様にする。そこまでするには及びそうもないことだが、古の教えはこうである。迂斎が三つ子の魂六十までと言われた。仕込みが悪ければ忠信にならない。小児が這いずる時に気随な様子が見えるもの。そこは親兄弟より外は知らない。そこを見取って仕込むと悪くはならない。蜜柑を散らかす時には早くも我侭な者か上品な者かがわかる。「故教小児且先要安詳恭敬」。ここで自分の考えを言われた。じっとりと落ち着いて慇懃にする。俺は前々からこう仕込むのがよいと思うと言った。
【語釈】
・自幼子常視無誑以上の條…教学12。「自幼子常視毋誑以上、便是敎以聖人事」。
・不知尊卑長幼之序則嚴訶禁之…
・安詳…心静かなこと。落ち着き。


第二十一 卒章

孟子曰、人不足與適也。政不足與閒也。唯大人爲能格君心之非。非惟君心、至於朋游・學者之際、彼雖議論異同、未欲深較。惟整理其心、使歸之正。豈小補哉。
【読み】
孟子曰く、人は與に適[とが]むるに足らざるなり。政は與に閒[そし]るに足らざるなり。唯大人のみ能く君心の非を格すと爲す、と。惟に君心のみに非ず、朋游・學者の際に至るまで、彼は議論の異同するありと雖も、未だ深く較ぶるを欲せず。惟其の心を整理し、之を正しきに歸せしむるのみ。豈小補ならんや。
【補足】
・この条は、張横渠の語録にある。

孟子曰人不足與適。先日も云た、政事の篇の終りの教小童の条とこれを入替へにしたいと云が某が見なり。先つ政事にこれがなくてならぬことなり。あの男が不出来だのなんのと云ても、跡から出る男もやっはり同挌なが出るもの。政と云も全躰の根からちごふと云でなくては頼もしくはない。あの医者をこれにかへ、あの方を是れにしたと云ても五十歩百歩也。全体が名医の手段と云でなくてはならぬ。政も大根からよいでなくてはほぎ々々とよいことはない。これは政事の上の治体なり。大人は伊尹周公太公望傅説なり。已に伊尹が口へ出して堯舜其君と云た。心の上へかかるでなくては政事の源が甲斐ない。今度はよかった位のことは淺はかなり。言行録などにある名臣が、あの人が斯ふあふと云こともないが、なんとして政の規模がちごふ。御當代の国初もよい人が多く出た。この衆が斯ふしたと云仕方のあると云ことでもないが、其人がすわっておるでもよかりた。
【解説】
「孟子曰、人不足與適也。政不足與閒也」の説明。政を執る者は全体の根が違っていなければならない。その様な人なら政の規模も違う。
【通釈】
「孟子曰人不足与適」。先日も言ったが、政事の篇の終わりの教小童の条とこれとを入れ替えにしたいというのが私の見である。先ず政事にはこれがなくてならないこと。あの男は不出来だの何のと言っても、後に出る男もやはり同格の者が出るもの。政も全体の根から違うというのでなくては頼もしくない。あの医者をこれに替え、あの者をこれにしたと言っても五十歩百歩である。全体が名医の手段というのでなくてはならない。政も大根からよくなくてはほぎほぎとよいことはない。これは政事の上の治体である。「大人」とは、伊尹や周公、太公望や傅説のこと。已に伊尹が口へ出して「堯舜其君」と言っている。心の上へ掛かるのでなくては政事の源が甲斐ない。今度はよかったと言う位のことは浅はかなことである。これが言行録などにある名臣の様に、あの人がこうの何のということでもないが、何としても政の規模が違う。徳川の国初にもよい人が多く出た。これ等の衆に決まった仕方があったわけでもないが、その人が座っているだけでもよかった。
【語釈】
・孟子曰人不足與適…孟子離婁章句上20。「孟子曰、人不足與適也。政不足閒也。惟大人爲能格君心之非。君仁莫不仁。君義莫不義、君正莫不正。一正君而國定矣。」
・堯舜其君…為学1。「伊尹恥其君不爲尭舜、一夫不得其所、若撻于市」。

挌君心之非。これが政務の本になる。至于朋游学者之際云々。これでいよ々々此条が政事の末から教学へかかるていなり。議論異同ぐらいのことは牛角なり。未欲深較惟整理其心。これが横渠の教学なり。大きい望なり。学者は心の工夫が大事なり。文義があらいの、あやがちがったの処のことではない。心を一と吟味吟味して、此の心ざまで垩賢になられやふか々々々々々々と吟味することぞ。某が前々朋友共とさま々々議論もしたが、どれでも一人貴ふもののないと云が皆心の工夫の方をば押付てをくからなり。心の吟味と云段には大きいことなり。あれ程の学者が直方先生に見さげられた。心の誠に届いたはない。誠意の功夫した者者は嘉右衛門、重治良と永田羪菴計りじゃと云れた。其後は迂斎先生、野田先生、永井先生なり。これは心を整理した人たちなり。あなた方は垩人じゃと云なら吾寺の佛尊しだ。ひいきぐるしいとも云はふが、三人の衆を心を正に皈したとはどこへ出しても云はるる。さればこそ冬至文を三人へ附託したなぞと云が直方先生の目なり。其外には心の吟味にかかったはへと見た人もすくない。すれば学者もすくない。さびしいことぞ。小補と云が伯者を相手にした字。心へ立入らぬ内は政事も教学も役に立ぬ。政事も心迠と云になれば小補ではないとなり。先軰此章を人不足與適云々を前書にして、教学のぎり々々じゃと説いた。政事にしても教学にしてもどちにしてもよいと云がここのことなり。なれども教小童の章とこれを入かへにして見よと云が動ぬ説とをもふぞ。
【解説】
「唯大人爲能格君心之非。非惟君心、至於朋游・學者之際、彼雖議論異同、未欲深較。惟整理其心、使歸之正。豈小補哉」の説明。学者は心の吟味が大事であり、文義や綾が大事なのではない。心の吟味をした者は少ないから、従って本当の学者も少ない。心へ立ち入らない内は政事も教学も役に立たない。
【通釈】
「格君心之非」。これが政務の本になる。「至于朋游学者之際云々」。これでいよいよこの条が政事の末から教学へ掛かる態となる。「議論異同」ぐらいのことはお互い様である。「未欲深較惟整理其心」。これが横渠の教学である。大きい望みである。学者は心の工夫が大事である。文義が粗いとか、綾が違うどころのことではない。心を一吟味して、この心様で聖賢になれるだろうかと吟味をする。私が前々朋友達と様々議論もしたが、一人も貴ぶ者がいないというのが皆心の工夫の方を押し付けて置くからである。心の吟味という段は大きいことで、あれほどの学者が直方先生に見下げられた。心の誠に届いた者はいない。誠意の功夫した者は嘉右衛門、重治郎と永田養菴だけだと言われた。その後は迂斎先生、野田先生、永井先生である。これは心を整理した人達である。貴方が聖人だと言うのであれば我が寺の仏尊しで、贔屓苦しいとも言われるだろうが、三人の衆が心を正に帰した者だとは、何処へ出しても言うことができる。そこで、冬至文を三人へ附託したなどというのが直方先生の目である。その外には心の吟味に掛かったぞと見た人は少ない。それで学者も少ない。それは寂しいことである。「小補」は伯者を相手にして言った字。心へ立ち入らない内は政事も教学も役に立たない。政事も心までということになれば小補ではないと言った。先輩がこの章を人不足与適云々を前書にして、教学の至極を説いたものだと言った。政事にしても教学にしてもどちらにしてもよいと言うのがここのこと。しかしながら、教小童の章とこれとを入れ替えにして見なさいというのが確かな説だと思う。
【語釈】
・嘉右衛門…山崎闇斎。
・重治良…浅見絅斎。
・永田羪菴…山崎闇斎門下。佐藤直方は初め永田養庵に学び、彼を介して山崎闇斎の弟子となる。

講後曰、小書の孟子説と云でもみよ。孟子が政事のことを云た條なり。いよ々々政事へのせてよいとをもふぞ。あの納約自牖などの章も跡のとめなどが教必就人之所長成德達才と教学のことあり、すれば此条政事の末に置て教学へうつるでよし。教学の末に居て警戒へのひびきはなきことなり。
【解説】
この条は孟子説であり、孟子が政事のことを言った条についてのことなので、政事へ載せる方がよい。教学の最後にこの条があっても次の警戒へは響かない。
【通釈】
講後に言う。小書に孟子説とあることからも考えなさい。それは孟子が政事のことを言った条のことである。益々政事へ載せた方がよいと思える。あの「納約自牖」などの章も後の止めなどが「教必就人之所長成徳達才」と教学のことがある。そこでこの条を政事の末に置いて教学へ移るのがよい。教学の末にいては警戒への響きはない。
【語釈】
・納約自牖…政事11の語。
・教必就人之所長成德達才…政事11の語。