第三十六 職事不可以巧免之條  三月十六日  纎邸文録
【語釈】
・三月十六日…寛政3年辛亥(1791年)3月16日。
・纎邸文…林潜斎。花沢文二。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

職事不可以巧免。
【読み】
職事は以て巧に免[のが]る可からず。
【補足】
・この条は、程氏遺書七にある。

此条なとは役人の大切に心得へきことなり。我役を任することを示されたものなり。利巧に立まはるや身がまへかわるい。其役を勤るからは迯るはつなし。役を全体の身の任にするゆへ、よしや手抦があろふとも、又越度かあろふとも、とこ迠も引うけてする。以巧免は上手することを云。人を押冠せたり人へ塗ったり六ヶしい所を逃れて自分は高みて見ていると云のなり。甚わるい。兎角後世は利口男と云ことかはやりて、知惠のあると云かへ名なり。知巧の士と云を垩賢の大ふにくまるる。功成名遂而身退と云。あれが知巧の士なり。張良も始皇を亡したいか本意て、讎を報れは跡はかまわぬか、あれは垩賢の意てはなし。去によって召公奭は周公に頼まれ極老まて勤労せられて身搆はなし。仕君委其身からは手前の上手はないはつ。事を見てよい時分に湯治と云は巧なり。六ヶしい処を同役に讓りてのろりと温泉から帰るは私なり。小利口には何事もなるものなれとも垩賢はほめぬ。医者も利口に立まわると一生殺さぬもの。危い塲はよい加減ににけて知ぬ皃する。たたい親切になりてはそふはないはづなり。役人か誠に我任すれは君のことに迯るはづはなし。
【解説】
役を任じるとは自分の身を君に委ねることだから、何処までもそれを受けて行かなければならず、そこに巧や私があってはならない。召公奭は周公に頼まれて極老まで勤労されたが身構えはしなかった。
【通釈】
この条などは役人が大切に心得るべきことで、自らの役を任じる時のことを示されたもの。利巧に立ち回ったり身構えたりするのは悪い。その役を勤めるからは逃れる筈がない。役を我が身全体の任にするのだから、たとえ手柄があったとしても、また、落ち度があったとしても、何処までも引き受けてする。「以巧免」は上手をすることを言う。人に押っ被せたり人になすり付けたりして、難しい所を逃れて自分は高見で見ているということ。それは甚だ悪い。とかく後世は利口男ということが流行って、知恵のあることの替え名になっている。知巧の士を聖賢は大層憎まれる。「功成名遂而身退」と言うが、あれが知巧の士である。張良も始皇帝を亡ぼしたかったのが本意で、讎を報いれば後は構わなかった。それは聖賢の意ではない。一方、召公奭は周公に頼まれて極老まで勤労されたが身構えはしなかった。君に仕えるのはその身を委ねることだから、そこに自分の上手はない筈。事を見てよい時分に湯治をすると言うのは巧である。難しい処を同役に譲ってのろりと温泉から帰るのは私である。小利口は何でもするが、聖賢はそれを褒めない。医者も利口に立ち回ると一生殺さないもの。危ない場はよい加減に逃げて知らない顔をしている。そもそも親切であればそうすることはない筈である。役人が誠に自分の役を任じれば、君のことで逃げる筈はない。
【語釈】
・功成名遂而身退…老子運夷。「功成名遂身退天之道」。
・召公奭…周初の宰相。奭は名。文王の子。武王・周公旦の弟と伝えるが、殷代、河南西部で勢力を揮った召族の出身。周に協力し、成王の即位後、太保となり、陝西を治めた。燕の始祖となる。


第三十七 居是邦不非其太夫云々の条

居是邦、不非其大夫。此理最好。
【読み】
是の邦に居て、其の大夫を非[そし]らず。此の理最も好し。
【補足】
・この条は、程氏遺書六にある。

この語もと荀子か語なり。よい太夫を非らぬは固よりのこと。わるい太夫のあったときのことなり。其國に居るからは、どふ云ことが有ても非らぬ。此理最好。この道理を推したときによいなり。これを只礼式に心得ては靣白なし。藝者か他流をそしるなと云は礼式に云口上なり。程子の此理最好とはわけのあることと云こと。太夫は其國の一人にて君のかはりの人なれは、それを非るは君を非るになりて不忠なり。これは大ふ太切に心得べし。これを推せば、其土地に居たときに太夫がわるくは我土地に居ぬはつ。然るに非ると云は君を敬せぬなり。某底の浪人て云へは、其所の名主や役人を非る筈なし。田舎なとて飼差をも大切にするか君を敬するなり。そこで不非其太夫が全体のことになる。これが政事に載るは、輕々しく太夫を非るは上ををかすなり。上を侵すと國の乱になる。器量あるもの、人の非かみへるゆへ非る。学者がそれなり。書を見て古今の是非を知るゆへ非りたかるが、其土地にいて非る筈はない。
【解説】
軽々しく大夫を誹るのは上を侵すことであり、上を侵せば国の乱になる。その土地にいて大夫を誹る筈はない。
【通釈】
この語はもと荀子の語である。よい大夫を誹らないのは固よりのことで、悪い大夫がいる時のことである。その国にいるのだから、どういうことがあっても誹らない。「此理最好」。この道理を推せばよい。これをただ礼式と心得るのでは面白くない。芸者が他流を誹るなと言うのは礼式で言う口上である。程子が此理最好と言ったのはわけのあること。大夫はその国の一人であって君の代わりの人なのだから、それを誹るのは君を誹ることになるので不忠である。これを大切に心得なさい。これを推せば、その土地にいて大夫が悪ければ、自分はその土地にいない筈。それなのに誹るのは君を敬さないのである。私の様な浪人で言えば、土地の名主や役人を誹る筈がない。田舎などでは餌差をも大切にするのが君を敬すること。そこで「不非其大夫」が全体のことになる。これが政事に載ったのは、軽々しく大夫を誹るのは上を侵すことだからである。上を侵すと国の乱になる。器量のある者は人の非が見えるので誹る。学者がそれである。書を見て古今の是非を知っているので誹りたがるが、その土地にいて誹る筈はない。
【語釈】
・荀子か語…荀子子道。「禮、居是邑不非其大夫」。
・飼差…餌差。鷹の餌となる小鳥を黐竿でさして捕えること。また、その人。江戸幕府では、鷹匠の部下に属した職名。


第三十八 克勤小物最難条

克勤小物、最難。
【読み】
克く小物を勤むるは、最も難し。
【補足】
・この条は、程氏遺書一一にある明道の語。

これらは器量のあるものを戒る。器了ものはなぐることあり。結句不調法なものにはないものなり。なぐるが皆政事の欠になる。役人は細かを大切にすべし。克勤小物は畢命の文字で畢公をほめたことなり。小物は注に細行とあり、どふてもよいでなく、ささいなことを大切にする。最も難と云、これがならぬものなり。天下の大事は小事から崩る。不謹細行累大徳とも云て、細行から綻か切る。どふでもよい々々々々々々と云は上を侵すなり。最難が程子の思召にて、これかならぬことなり。医者が藥種や制法のことがやりばなしになるもの。はやり医ほとそふて、一味計り入れすともかまはぬと云ふになる。古人の名医はそこを大切にする。
【解説】
天下の大事は小事から崩れる。些細なことを大切にしなければならないが、それができ難いものなのである。
【通釈】
これ等は器量のある者を戒めること。器量者は投げ遣りにすることがある。これはつまり不調法な者にはないもの。投げ遣りにするのが皆政事の欠けになる。役人は細かなことを大切にしなければならない。「克勤小物」は畢命の文字で畢公を褒めたこと。小物は注に細行とあり、どうでもよいとするのではなく、瑣細なことを大切にする。これを「最難」と言い、これができないものなのである。天下の大事は小事から崩れる。「不謹細行累大徳」とも言って、細行から綻びが切れる。どうでもよいと言うのは上を侵すこと。最難が程子の思し召しで、これができないこと。医者は薬種や制法のことが遣りっ放しになるもの。流行り医ほどそうで、一味を入れないだけなら構わないと言う様になる。古人の名医はそこを大切にする。
【語釈】
・克勤小物…書経畢命。「惟公懋德、克勤小物」。
・不謹細行累大徳…書経旅獒。「嗚呼、夙夜罔或不勤、不矜細行、終累大德。爲山九仞、功虧一簣」。


第三十九 欲當大任云々の条

欲當大任、須是篤實。
【読み】
大任に當たらんと欲せば、須く是れ篤實なるべし。
【補足】
・この条は、程氏遺書一一にある明道の語。

どれもぢみちな章なり。器了あるもの經済を執て片手業てしたがる。天下の一大事を任するものは御老中、国ては家老なり。さて器量あるものは根入か浅ひ。篤実とは根入の深くとっくりとしたを云。ものの相談のとき才力あるものは目に立が、篤実な人は面白ないもの。然れともほんのことなり。黑小袖が目に立ぬが落付て居る。拔身てないゆへこれ見よかしはない。當大任にはこっくりとかから子ば成就ならぬ。迂斎もそふ云へり。軽る口云やうでは大任にはあたられぬとなり。をどけや戯れも利口で云もの。器量あるものがそれはそれ、これはこれと云へとも、いつもかる口のあとはどっとせぬものなり。上にいるものは下からあなたはと眼をかけるでなけれはならぬ。才力あるもの、これは出来ぬと云ことはなく調法のやふなれとも、大任には當らぬ。篤実のこっくりとしたは手はつけられぬ。古より周公伊尹てもは子たと云ことなし。英雄豪傑はは子る。張良陳平を始としては子た人なり。そこで人も眼が付く。垩賢は篤実ゆへわき目からは知れぬ。
【解説】
大任に当たるのには器量が重要なのではなく、篤実さが大切なのである。英雄豪傑は跳ねるので人も眼が付くが、聖賢は篤実なので脇目からではそれを知ることができない。
【通釈】
どれも地道な章である。器量のある者が経済を執って片手業でしたがる。天下の一大事を任ずる者は御老中、国では家老である。さて器量のある者は根入れが浅い。「篤実」とは根入れが深くとっくりとしたことを言う。ものの相談の時に才力のある者は目立つが、篤実な人は面白くなく思われる。しかしながら、篤実が本物である。黒小袖は目立たないが落ち着いている。抜き身でないのでこれ見よがしではない。「当大任」にはこっくりと取り掛からなければ成就することはできない。迂斎もその様に言った。軽口を言う様では大任には当たれないと言った。おどけや戯れも利口だから言うもの。器量のある者がそれはそれ、これはこれと言うが、いつも軽口の後はぱっとしないもの。上にいる者は下から貴方はと眼を掛けられるのでなければならないと思い、才力のある者は、これはできないということはなく調法の様だが、大任には当たることはできない。篤実のこっくりとした者は手を出さない。古より周公や伊尹でも跳ねるということはなかった。英雄豪傑は、張良や陳平を始めとして跳ねた人である。そこで人も眼が付く。聖賢は篤実なので脇目からは知ることができない。


第四十 凡為人言者理勝云々条

凡爲人言者、理勝則事明、氣忿則招怫。
【読み】
凡そ人の爲に言う者、理勝てば則ち事明らかにして、氣忿[いか]]れば則ち怫[いかり]を招く。
【補足】
・この条は、程氏遺書一一にある明道の語。

この章も役人の心得なり。理の勝が第一のこと。理はいやと云れぬもの。不孝はするが器用じゃと云は理の勝ぬなり。理が勝と不孝は其分にならぬと云。不孝なれとも取えがあると云は事明でない。仁は人の首のやふなもの。首がないなれば明でない。万端理を立てをくゆへ明なり。酒で吐血しても療治の仕方があるから飲めと云ふは理の勝ぬゆへ、それは明てない。氣忿則招拂。この方から先きへせいてかかることなり。其事がよし明なことても怒でかかっては向のうけがわるい。理がこふずれば非の一倍、理が有ても招拂なり。先生説かかって云。この段、期説ては筋がふれてこの章の正意でなし。必竟とくと下見せぬゆへの過なり。この正意は重く云はすに説べし。理の當然はすら々々行くものなれども、それも氣の忿りがあるとすら々々ゆかすに拂ると輕く云がよし。つまり氣の忿を戒る意が主なり。
【解説】
理が立っていれば事明である。それでも忿で急いては相手の怫りを招く。忿ってはならない。
【通釈】
この章も役人の心得のこと。理が勝つのが第一のこと。理は文句のつけられないもの。不孝はするが器用だと言うのは理が勝たないのである。理が勝てば不孝はしてはならないと言う。不孝だが取得があると言うのは「事明」でない。仁は人の首の様なもの。首がなければ明でない。万端理を立てて置くので明である。酒で吐血しても療治の仕方があるから飲めと言うのは理が勝たないからであって、それは明でない。「気忿則招怫」。自分から先の方へ急いて掛かること。その事がもしも明だとしても、怒で掛かっては向こうの受けが悪い。理が嵩じれば非の一倍、理があっても招怫である。先生が説きかかって言う。この段は期説では筋が振れてこの章の正意でない。畢竟しっかりと下見をしなかったことからの過りだろう。この正意は重く言わずに説きなさい。理の当然はすらすらと行くものだが、それも気の忿りがあるとすらすら行かずに怫ると軽く言うのがよい。つまりは気の忿を戒める意が主なのである。
【語釈】
・理がこふずれば非の一倍…理も嵩ずれば非の一倍。
・期説…


第四十一 居今之時不安今之法令条

居今之時、不安今之法令、非義也。若論爲治、不爲則已。如復爲之、須於今之法度内、處得其當、方爲合義。若須更改而後爲、則何義之有。
【読み】
今の時に居て、今の法令に安んぜざるは、義に非ざるなり。若し治を爲すを論ずるに、爲さざれば則ち已む。如し復之を爲さば、須く今の法度内に於て、其の當を處し得べく、方に義に合うと爲す。若し更改するを須[ま]ちて而る後に爲さば、則ち何の義か之れ有らん。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

これが世々の学者の病なり。今を忘れて先王の道々々々々と云。先王の道はよかろふが、時か我か私はならぬ。孔子も周に從んと云へとも春秋の時、何も皆わるい代なり。先王々々と云はあたまて義が欠る。復古々々と口癖に云へとも、復古と云は後来に垩王の出てのこと。下てなることでない。若論爲治不爲則已云々。懐手は只のこと。古々と計云了簡ちかひなり。此方がそれやなれはどふともなる。今の法度の中で當るかある。たたいいつの世ても法度に火を水、男を女と云やうなことはないもの。根からわるい法度と云か有ふはつなし。其中を此方でよいやふにする。それも才がないゆへ行ぬなり。医者があの男は平脉がわるいゆへ療治はならぬと云はつなし。其病の中て直そふなり。若須更改而後為則何義之有。根から仕直すなら義は調法なものて、截断の徳はこふすれば道理にあたる、ああすれは道理にはつれると云て丁どをする。根から改直すと云は義にかなはぬ。時にもとらずに丁度に叶ふが義なり。それ者かすれは根から更改せすともなるなり。丁と礼者が祭には簠簋籩豆と云が、唐の眞似することはない。麻上下てはよくない、深衣きたいと云へとも、どふてもよいこと。よく考れは今あたまもあぢな形に刺てをかしきものなれとも、斯ふ云天下のなりなれはそれもよい。礼式をこれから云よりてんでの魂か大切なり。孔子の周にそむいたことなし。然れは今の法令に從ふがよい。葉解に中庸を引てあるか、あの合点することなり。
【解説】
今の学者が復古をよく口に出すが、古に戻れば先王の道が成るというものではない。義によって道理の通りにすることができるのである。礼式よりも心の方が大切であり、今の法令に従うのがよい。
【通釈】
これが世々の学者の病いである。今を忘れて先王の道のことを言う。先王の道はよいだろうが、時は自分の思う通りに行かない。孔子も「吾従周」と言ったが、それは春秋の時で何もかも皆悪い代だったからである。先王と言うのは最初から義が欠けている。復古と口癖に言うが、復古とは後来に聖王が出てからのことで、下々のできるものではない。「若論為治不為則已云々」。懐手する者はそれだけのこと。古とばかり言うのは了簡違いである。こちらが優れていればどうにもできる。今の法度の中に当たるところがある。そもそもいつの世でも法度で火を水、男を女と言う様なことはないもの。根から悪い法度がある筈はない。その中をこちらでよい様にする。それも才がないのでうまく行かないのである。医者があの男は平脈が悪いから療治はできないと言う筈はない。その病の中で治すだろう。「若須更改而後為則何義之有」。根本から仕直すと言っても義は調法なもので、裁断の徳はこうすれば道理に当たる、ああすれば道理に外れると言って丁度のところをする。根から改め直すのは義に叶わない。古に戻らずに丁度に叶うのが義である。優れた者がすれば根から更改しなくても成る。丁度礼者が祭には簠簋籩豆と言うが、唐の真似をすることはない。麻裃ではよくない、深衣を着たいと言うが、それはどうでもよいこと。よく考えれば今頭も変な形に剃って可笑しなものだが、これが天下の姿であればそれもよい。礼式を言うよりそれぞれの魂の方が大切である。孔子が周に背いたことはない。それなら今の法令に従うのがよい。葉解に中庸を引いてあるが、あの様に合点しなさい。
【語釈】
・周に從ん…論語八佾14。「子曰、周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周」。
・簠簋籩豆…簠簋は、中国の祭典で神に供える穀物を盛る器。籩豆は、中国で祭祀・宴会に用いた供物を盛る器。籩は竹製で果実類を盛り、豆は木製で魚介・禽獣の肉を盛る。


第四十二 今之監司多不與州縣一体条

今之監司、多不與州縣一體。監司專欲伺察、州縣專欲掩蔽。不若推誠心與之共治。有所不逮。可敎者敎之、可督者督之。至於不聽、擇其甚者去一二、使足以警衆、可也。
【読み】
今の監司は、多く州縣と一體ならず。監司は專ら伺察せんと欲し、州縣は專ら掩蔽せんと欲す。誠心を推して之と共に治むるに若かず。逮[およ]ばざる所有らん。敎う可き者は之を敎え、督[ただ]す可き者は之を督せ。聽かざるに至り、其の甚だしき者を擇びて一二を去り、以て衆を警むるに足らしめば、可なり。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

監司は此方の百日目付のやうに諸国へ出る役なり。州懸は其守に居て天子命を受て守たり令たりしてをる遠国役を云。どちもあいさつのわるいものなり。監司は兎角州懸の越度を見つけやふとする。元と州懸は御膝元離れて居ゆへわるいことあらんかと監司をこさるるなり。そこで州懸の守令、己れの非を見せまいとかくす。監司は役目故わるいことあらはそれを見出すか善いことなれとも、そふもないに州懸の越度を見出さずには反てはずんど只ては役がらがたたぬやうゆへ、何やら見出そふとする。これらは人の心いきに有ふことなり。たとへは盗賊奉行は盗人を捕子ば役が立ぬやうに思ふは人情ぞ。されども盗人かなくはそれほと目出度ことはないが、どふか捕ら子は不調法のやうなり。監司も州懸に悪いことがなく上へ申上ぬほどよいことなし。然るに兎角州懸の越度を見出そふと監司かすれは、州懸は見咎められてはならぬと隠す。夫ては何ても私の出合なり。そこで州懸は仕方わるく風俗かわるくても監司にさへ知せ子ばよいとする。
【解説】
「今之監司、多不與州縣一體。監司專欲伺察、州縣專欲掩蔽」の説明。監司と州県は仲が悪いもの。州県を監視するするために監司が遣わされるから、監司は役目柄、越度を見付けようとし、州県は仕方が悪く風俗が悪くても監司にさえ知られなければよいと隠す。
【通釈】
「監司」は日本の百日目付の様に諸国へ出る役であり、「州県」はその守にいて天子命を受けて守ったり令したりしている遠国役を言い、どちらも仲が悪いものである。監司はとかく州県の越度を見付けようとする。元々州県は御膝元を離れているので、悪いことをしないかと監司が遣わされるものである。そこで州県の守令は自分の非を見せまいと隠す。監司は役目柄悪いことがあればそれを見出すのが善いことなのだが、州県の越度を見出さずに帰っては役目が立たない様なので、それほどのことでもなくても何かを見出そうとする。これ等は人の心意気にあること。たとえば盗賊奉行は盗人を捕えなければ役が立たない様に思うのが人情である。盗人がいなければこれほど目出度いことはないが、どうも捕えなければ不調法の様に思う。監司も州県に悪いことがなく上へ申上げることがないほどよいことはない。そこを、とかく州県の越度を見出そうと監司がすれば、州県は見咎められない様にと隠す。それでは何もかも私の出合いとなる。そこで州県は仕方が悪く風俗が悪くても、監司にさえ知られなければよいとする。

君子同士なら共々治をするがよいはづのこと。大勢の人をあつかる州懸の役、それを伺察が監司の役。何れも天下のことゆへ睦くして上へ事へべきことなり。其仕方は推誠心云々なり。有所不逮可教者教之。不逮と教之とはあながち違はなく一つことて、不逮は行ととかぬを云。可教は、あの手段ではわるかろふ、斯ふするがよいと云なり。可督者督之は横目に来る役ゆへ糺すがよい。督すと云か上の御耳へ入れてすることてはない。至于不聽云々。たん々々監司からのことを州縣が用ぬときは、方々をめくる其中て至極わるい者を都へかえったとき天子へ奏して、たれ々々は不埒ゆへ御役御免と云。そこて西国のことか東国へもひひく。さてこの警衆の衆も監司のことゆへ州縣のことを衆と云、民のことを衆と云ことてなし。
【解説】
「不若推誠心與之共治。有所不逮。可敎者敎之、可督者督之。至於不聽、擇其甚者去一二、使足以警衆、可也」の説明。監司と州県は誠心を推して共に治めるのがよい。監司が督しても州県がそれを用いない時は、その中で一番悪い者を天子に上奏して御役御免にすることにより、他の州県をも警める。
【通釈】
君子同士であれば共々に治めるのがよい筈である。大勢の人を預かるのが州県の役、それを伺察するのが監司の役。どちらも天下のことなので睦まじくして上へ事えるべきである。その仕方は「推誠心云々」である。「有所不逮可教者教之」。不逮と教之とは大した違いはなく、同じことで、不逮は行届かないことを言う。可教は、あの手段では悪いだろう、こうするのがよいということ。「可督者督之」は、横目に来る役なので糺すのがよいということ。督すというのは上の御耳へ入れてすることではない。「至于不聴云々」。それでも監司の督したことを州県が用いない時は、方々を巡ったその中で至極悪い者を都に帰った時に天子へ奏して、誰々は不埒なので御役御免と言う。そこで西国のことが東国へも響く。さてこの「警衆」の衆も監司のことなので州県のことを衆と言ったのであり、民のことを衆と言ったのではない。
【語釈】
・横目…横目付。武家時代、将士の挙動を検察し、非違を弾劾することを司ったもの。


第四十三 伊川先生曰人悪多事云々条

伊川先生曰、人惡多事。或人憫之。世事雖多、盡是人事。人事不敎人做、更責誰做。
【読み】
伊川先生曰く、人は事の多きを惡む。或人は之を憫[いた]む。世事多しと雖も、盡く是れ人事なり。人事は人をして做[な]さしめずんば、更に誰をか責めて做さしめん、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある。

扨いそかしいと云をいやがるものなり。浪人でさへ浪人ひまなしと云を云立にするが人情なり。ここは上の句も下の句も人情て云。今日花見にと云に、いや花見処ではないと云は人の憫れむものなり。人情は唐も日本も同ことなり。人情を二つ出してをいて、あとで道理を云。人事はどこへいてものかれぬ。欲安死而已。生ていれは暇てもいられぬ。一生水火のはなれられぬやふなもの。をれは隠居したゆへ火はいらぬとは云はれぬ。十得や寒山も蜘蛛の巣をとる。況や人は家内かある。人事は人間の業なれは、それを人間がせすは仕手があるまい。禽獣の方て人のことはならぬ。たたい役人はいそかしいはつ。筈を迯ることはならぬ。いそかしいは當然、迯けやふは當然にはつるる。それをいやに思ふは寒暑をきろふやふなもの。人が人事はにけられぬ。犬は昔から吠へ鷄は昔から時をつくる。あれらが方ではにけはせぬ。人は知のあるたけにけたがる。たたい道理の上を遁れやうはない。
【解説】
人事は人間の業だから、人がしなければならないものである。忙しいのは当然の理であり、それから逃れようとするのは理から外れることである。
【通釈】
さて、忙しいことは嫌がるもの。浪人でさえ浪人暇なしと言い立てるのが人情である。ここは上の句も下の句も人情で言う。今日花見に行こうと言うと、いや花見処ではないと言うのは人が憫れむもの。人情は唐も日本も同じである。人情を二つ出して置いて、その後に道理を言う。人事は何処にいても逃れられない。「欲安死而已」で、生きていれば暇ではいられない。それは一生水火から離れられない様なもの。俺は隠居したので火は要らないとは言えない。拾得や寒山も蜘蛛の巣をとる。ましてや人には家内がある。人事は人間の業だから、それを人間がするのでなければする者がいないだろう。禽獣の方で人のすることはできない。そもそも役人は忙しい筈。筈を逃れることはならない。忙しいのは当然のことであり、それから逃げようとするのは当然から外れる。それを嫌だと思うのは寒暑を嫌う様なもの。人は人事から逃げられない。犬は昔から吠え、鶏は昔から時を作る。あれ等は逃げない。人は知があるだけ逃げたがる。そもそも道理の上を逃れる術はない。
【語釈】
・欲安死而已…
・十得…拾得。唐代の僧。天台山の近くに寒山と共に住む。
・寒山…唐代の僧。天台山の近くに拾得と共に住む。


第四十四 感慨殺身者易の条

感慨殺身者易、從容就義者難。
【読み】
感慨して身を殺すは易く、從容として義に就くは難し。
【補足】
・この条は、程氏遺書一一にある明道の語。

これも凡夫より上歴々迠あることなり。いこうげなげなも又あわれなもあり、どふ云ことなれば、平生は少の腫物も癰てはあるまいかの、疔てはないかのと云て、それにさへ騒くも命か惜ひからなり。然るに切腹するの、淵へ身を沈めるのと云が古今多くあること。あれが感慨から来ることなり。惣身から奮い立てする。それが恨もあり忿もあり、猫や犬にはないが人はどう云ことかそふ云筆法になって来る。それも前から胸に浮んで斯ふせふでなし。わるい方のことても相對死などと云が、あれも皆感慨てすること。丁ど道理にそむいたことて死ぬと云は皆相對死のやうなもの。けなげと云て取上けられぬことなり。屈原が汨羅へ身を投たは忠臣のきり々々の魂なり。それゆへ古今人の尊仰するも尤なり。然れとも道理を考て見べきこと。程子の感慨殺身易しと云はるる。死はあとさきなしに一旦ゆへ、其ときのことてそれきりゆへ易い。それて古今殺身ものあり。ここは文義でなく胸へのせて見へし。そなたは死ぬかと云に死ぬと云ものはないか、感慨して其塲になると死ぬ。女なとは何のこともないに井戸へ身を投る。此安と難か学者へ並て見せる。
【解説】
「感慨殺身者易」の説明。人は本来命を惜しむものだが、人が死を選ぶのは「感慨」からのことである。屈原が汨羅へ身を投げたのは忠信からだが、そのことも道理で考えて見なければならない。
【通釈】
これも凡夫から歴々にまであること。大層健気なこともまた哀れなこともあり、それはどうしてかと言うと、平生は小さな腫物でも癰ではないか、疔ではないかと言う。そんなことにも騒ぐのは命が惜しいからだが、それなのに切腹するとか淵へ身を沈めるということが古今多くある。それは「感慨」から来ること。総身から奮い立ってする。それは恨みからすることもあり、忿りからもすることもあって、これは猫や犬にはないが人はどういうことかそういうことになって来る。それも前から胸に浮んでいて、こうしようとするのではない。悪い方では相対死になどということがあるが、あれも皆感慨ですること。丁度道理に背いて死ぬということは皆相対死の様なもの。それは健気だと言って取り上げることはできない。屈原が汨羅へ身を投げたのは忠臣としての至極の魂からである。それで古今人が尊仰するのも尤もなこと。しかしながら、道理を考えて見なければならない。程子が「感慨殺身易」と言われた。死は後先なしに一度限りで、その時のことでそれ切りなので易い。それで古今殺身する者がいる。ここは文義でなく胸へ乗せて見なさい。貴方は死ぬかと聞けば死ぬと言う者はいないが、感慨してその場になると死ぬ。女などは何事もないのに井戸へ身を投げる。この易と難が学者へ並べて見せること。
【語釈】
・相對死…心中。

感慨殺身と云ことは学問ないものもするが、從容就義ことはならぬ。さて死の對句ゆへ從容就義を生ることに見へるがそうてない。道理の通りをして生てよけれは生き、死てよけれは死ぬが從容就義なり。たとへは酒飲の肌をぬくなり。酒て熱くなりたなり。感慨で身をころすなり。道理て殺すとは違ふ。まじめな皃て、いきるが當然か、死ぬが當然かと云て、義理次第に生も死もする。比干と屈原同挌にならぬかそこなり。屈原は斯ふ成ては死にたい々々々々と云。太極の道理に死たい々々々と云ことはない。比干は死たい々々々とは云まい。屈原か死たい々々々は忠信の誠からなれとも、從容就義ではない。比干は今日の出仕は身があふないとは思ふたろふが、死たい々々々とのことてあるまい。あのとき殺されずは退出して又出る氣で有たろふ。ここは六ヶしいことなり。屈原はどうもやまれずに身を投げたもの。從容と云は相談することなり。屈原が孔孟へ相談したら懐王のこと承及んた、御心底察入たとは云はりゃうが、身を投けよとは云れまい。去れとも忠臣ゆへ、あとさきなく身を沈たゆへ古今の忠臣と人が称するなり。微子箕子比干のこと書經を見よ。相談で身をふったなり。三人の流義は違へとも、皆從容就義なり。これて見れは役人などの事をするも人をさばくもけなげなこともせふか、とど從容就義の近思のか子にならぬ内はほんのことてなし。四十六士のこと直方先生の論せらるるも学者の手本にならぬゆへなり。
【解説】
「從容就義者難」の説明。「従容就義」は学問のない者にはできないこと。「従容就義」とは、道理の通りをすることで、生きてよければ生き、死んでよければ死ぬのである。微子や箕子、比干は「従容就義」であり、屈原とは違う。四十六士も「従容就義」ではない。
【通釈】
「感慨殺身」は学問のない者もするが、「従容就義」は彼等にはできない。さて死の対句なので従容就義は生きることの様に見えるがそうではない。道理の通りをして生きてよければ生き、死んでよければ死ぬのが従容就義である。たとえば酒飲みが肌を脱ぐことと同じ。それは酒て熱くなったからである。感慨で身を殺すのは道理で殺すのとは違う。真面目な顔で、生きるのが当然か、死ぬのが当然かと言い、義理次第に生も死もする。比干と屈原とが同格にならないのがそこ。屈原はこうなっては死にたいと言う。太極の道理に死にたいと言うことはない。比干は死にたいとは言わなかっただろう。屈原が死にたいと言うのは忠信の誠からのことだが、従容就義ではない。比干は今日の出仕は身が危ないとは思っただろうが、死にたいということではないだろう。あの時殺されなければ退出してまた来る気だっただろう。ここは難しいこと。屈原はどうも已まれずに身を投げた。従容は相談すること。屈原が孔孟に相談すれば、懐王のことは承った、御心底察し入ったとは言われるだろうが、身を投げろとは言われないだろう。しかしながら、忠臣なので、後先なく身を沈めたので古今の忠臣と人が称するのである。微子箕子比干のことは書経を見なさい。相談で身を振った。三人の流儀は違うが、皆従容就義である。これで見れば役人などが事をするにも人を裁くにも健気なこともしようが、結局は従容就義の近思の規矩に合わない内は本当のことではない。四十六士のことを直方先生が論じられるのも学者の手本にならないからである。
【語釈】
・懐王…楚の懐王の信任を受けて屈原は左徒の官に任命されていたが、讒言によって懐王は屈原を遠避ける様になる。秦の昭王が懐王に会盟を求めてきたが屈原はこれに反対した。しかし懐王は臣下の子蘭の進言を採り、秦に赴いて囚われの身となり、そこで死ぬ。
・微子箕子比干…論語微子1。「微子去之。箕子爲之奴。比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉」。


第四十五 人或勸先生以加礼近貴の条

人或勸先生以加禮近貴。先生曰、何不見責以盡禮、而責之以加禮。禮盡則已。豈有加也。
【読み】
人或は先生に勸むるに禮を加えて貴に近[ちかづ]くを以てす。先生曰く、何ぞ責めらるるに禮を盡くすを以てせずして、之を責むるに禮を加うるを以てする。禮盡きなば則ち已む。豈加うること有らんや、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

伊川先生平素すんとしてこさられたなり。君子はよわいやふてつよいもの。無学なものは強ひやふなこと云てもよわいものなり。そこで此加礼近貴と云が俗人の親切、この位のものなり。先生曰何不見責以尽礼而責之云々。これは伊川の詞じち取て云るるなり。向の人俗情なり。わる心で云たでなけれとも、伊川はそれて道理を示さるる。礼を尽さぬと云異見なれは聞へたか、加へると云ことはもとないことなり。どふ云ことなれば、物をさすと云ことなし。礼は自然なもの。砂糖の上に蜜を加へるの、蕃椒の上へ胡椒を加へるのと云ことはない。礼は人事の儀則て理のなりなり。自分か無礼ならば氣をつけて下さるへきこと。加へるとは聞ぬと云。さて只今は加ることをして居る。理はさび々々としたつめたいもの。氣のあたたまりはない。葉解が孟子の王驩かことをよく引けり。伊川の權門へ礼が足ぬやうに見へたゆへ或人か勸たを、伊川は礼の通すると云。伊川のはつめたい。無極而太極上天之載にあたたまりはないことなり。衆人愛敬かいやなこと。本分の上に加へ子はむくまいと云か、それを伊川の合点せふはづなし。さてこの章をきびしい章と見るとわるい。伊川の平生嚴なゆへそふ見やふが、それではこの章の本意でなし。これはすらりとしたことなり。礼なりにするを云。加の字、仲尼不爲甚已者也の注に本分之外不加一毫とある。伊川のつんときひしいやふなが不加一毫なり。下手な料理人かむせふに何やかや入るか、たたい持前を食せること。町料理か舌たるい。伊川のは道理なりて舌たるいことはせぬ。
【解説】
礼は理の形である。理は寂々とした冷たいもので、そこに気の温まりはない。伊川が厳なのは礼の通りをしているからである。礼は尽くすか尽くさないかであり、礼を加えると言うのは悪い。
【通釈】
伊川先生は平素つんとしておられた。君子は弱い様で強いもの。無学な者は強いことを言っても弱いもの。そこで、この「加礼近貴」というのが俗人の親切で、その程度のこと。「先生曰何不見責以尽礼而責之云々」。これは伊川が言葉尻を取って言われたこと。相手の人は俗情からで、悪心で言ったのではないが、伊川は道理を示された。礼を尽くさないという異見であればわかるが、加えるというのは本来ないこと。それはどういうことかと言うと、物を注すということはないからである。礼は自然なもの。砂糖の上に蜜を加えたり、蕃椒の上へ胡椒を加えるということはない。礼は人事の儀則で理の姿である。自分が無礼であれば気を付けて下さるべきこと。加えると言うのは悪いと言った。さて今は加えることをしている。理は寂々とした冷たいもので、気の温まりはない。葉解が孟子と王驩のことをうまく引いた。伊川の権門への礼が足りない様に見えたので或る人が勧めたのを、伊川は礼の通りすると言った。伊川のは冷たいものであって、無極而太極上天の載に温まりはないのである。衆人愛敬は嫌なこと。本分の上に加えなければうまく行かないだろうと言うが、それを伊川が合点する筈はない。さてこの章を厳しい章と見ると悪い。伊川が平生厳なのでその様に見るのも尤もだが、それではこの章の本意でなくなる。これはすらりとしたことで、礼の通りにすることを言う。加の字は、「仲尼不為甚已者也」の注に「本分之外不加毫末」とあるが、伊川のつんとして厳しいところが不加毫末である。下手な料理人は無性に何でも入れるが、そもそも持ち前を食わせるのが料理である。町料理は舌たるい。伊川は道理の通りで舌たるいことはしない。
【語釈】
・儀則…①儀式。②法則。規則。
・孟子の王驩…王驩は斉王のお気に入りの臣。孟子では公孫丑章句下6、離婁章句上24、離婁章句下27に出ている。ここは礼のことなので離婁章句下27のことを指す。「禮、朝廷不歴位而相與言、不踰階而相揖也。我欲行禮。子敖以我爲簡。不亦異乎」。
・本分之外不加一毫…孟子離婁章句下10。「孟子曰、仲尼不爲已甚者」。同集註。「楊氏曰、言聖人所爲、本分之外、不加毫末。非孟子真知孔子、不能以是稱之」。


第四十六 或問簿佐令者也の条

或問、簿佐令者也。簿所欲爲、令或不從、奈何。曰、當以誠意動之。今令與簿不和、只是爭私意。令是邑之長。若能以事父兄之道事之、過則歸己、善則唯恐不歸於令。積此誠意、豈有不動得人。
【読み】
或ひと問う、簿は令を佐[たす]くる者なり。簿の爲さんと欲する所、令或は從わずんば、奈何、と。曰く、當に誠意を以て之を動すべし。今令と簿と和せざるは、只是れ私意を爭うのみ。令は是れ邑の長なり。若し能く父兄に事うる道を以て之に事えば、過は則ち己に歸し、善は則ち唯令に歸せざるを恐れん。此の誠意を積まば、豈人を動かし得ざること有らんや。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

前の監司州縣と同し意なり。前の章には誠心の字あり、この章誠意とある。王覇がこの違なり。王道と云へは先王をふりかへりて見るか、伊川をは浪人ゆへそふないことと思へとも、やはり伊川の王道のことなり。誠と云がどこ迠も王道也。簿所欲為令或不從如何。才力ある下役あるときの、其事を頭がそふはせまいと云ときなり。簿は明道も勤られ、朱子も同安の主簿を勤めり。これか大切の役て、あの方ても簿は役人の手みせなり。あの事は斯ふすれは治りて百姓の為によいと云に、令の合点せぬ時はどふせふなり。爭私意。それ々々の我功を立たかる。浅間しいは我をよいと思はれたかりて皆私なり。令是邑之長云々。上の條の此理最好をここへ廣げて見るがよし。頭を親や兄のやうにすること。然るに何ぞのときは、上は役を押っくりかへそふとするゆへ和せぬ。自身が百姓の爲を思ひ、斯ふすれはよいと云に令か合点せぬとて不和になるは、どちへ廻はしても我をたて身を主にする。たたい頭をそしる筈なし。處官事如家事とも云。とかく下のためを我身ほとにをもわれぬ。少しして見て行ぬとはや組下か合点せぬの、御頭か用ひられぬのと云は誠ない故なり。さてここを誠はと云て、父兄と云實事てくくりたもの。この章をよんて近思てよいことを聞たと云ても早速の役にはたたぬ。誠は今出がけのことでない。この事誠意した人でなければならぬ。誠意を積ずにこふするものと云ても綻か切る。これは先ならぬことと思ふべし。誠は山奧の病人のあるとき、父兄があつまりて、先年誰が病たときこふしてなをしたなとと云て醫者なしにする。心誠求之雖不中不遠なり。山奧医者かないとて毎年々々死もせぬ。両親や祖父祖母の皆誠でする。簿がきかぬからの令かきかぬからのと告け口のやうなことては行ぬ。この動すと云をひろけて見へし。誠意の藥てととかぬ所なし。暖になると氷のとけるやふなもの。誠さへあれは感動せぬことなし。
【解説】
上役を誹るのは私からで、それは誠がないからである。誠があれば誰をも感動させることができる。王道と王覇との違いは誠があるかないかである。ここは聞いて直ぐにできることではなく、誠意を積んだ人でなければできないこと。
【通釈】
前にあった「監司州県」と同じ意である。その章に誠心の字があり、この章も誠意とある。王覇との違いはこれである。王道と言えば先王を振り返って見ることで、伊川は浪人だからその様なことはないと思えるが、やはりこれは伊川の王道の話である。誠というのがどこまでも王道である。「簿所欲為令或不従如何」。才力ある下役がいる時に、下役の言う事を上役が採用しない時のこと。簿は明道も勤められ、朱子も同安の主簿を勤めた。これが大切な役で、中国でも簿は役人の手見せである。あの事はこうすれば治まって百姓のためになると言っても令が合点しない時はどうすればよいか。「争私意」。皆それぞれ自分の功を立てたがる。中でも浅ましい者は自分をよいと思われたがってする。それは皆私である。「令是邑之長云々」。上の条の「此理最好」をここへ広げて見なさい。上役を親や兄の様に思うこと。それなのに、何かの時は、上役を引っ繰り返そうとするので和せない。自身が百姓のためを思い、こうすればよいと言うのに令が合点しないからと言って不和になるのは、どの様に考えても自分を立て我が身を主にしたこと。上役を誹る筈はない。「処官事如家事」とも言う。とかく我が身ほどには下のことを思わないもの。少ししてみてうまく行かないと、早くも組下が合点しないとか、御頭が用いられないなどと言うが、それは誠がないからである。さてここは、誠はと言って、父兄という実事で括ったもの。この章を読んで近思でよいことを聞いたと思っても早速の役には立たない。誠は今出掛けのことではない。この事は誠意した人でなければならない。誠意を積まずにこうするものだと言っても綻びが切れる。これは先ずできないことだと思いなさい。誠は山奥で病人のある時、父兄が集って先年誰が病んだ時にこうして治したなどと言って医者なしで治療する。これが「心誠求之雖不中不遠」である。山奥には医者がいないからと言って毎年死にもしない。両親や祖父祖母が皆誠でする。簿が聞かないからとか令が聞かないからと告口の様なことをしてはうまく行かない。この「動」を広げて見なさい。誠意の薬が届かない所はない。暖かくなると氷が解ける様なもの。誠さえあれば感動しないことはない。
【語釈】
・監司州縣…政事42の語。
・此理最好…政事37の語。
・心誠求之雖不中不遠…大学章句9。「康誥曰、如保赤子。心誠求之、雖不中不遠矣。未有學養子而后嫁者也」。


第四十七 問人於議論云々の条

問、人於議論、多欲直己、無含容之氣。是氣不平否。曰、固是氣不平。亦是量狹。人量隨識長、亦有人識高而量不長者。是識實未至也。大凡別事、人都強得。惟識量不可強。今人有斗筲之量、有釜斛之量、有鐘鼎之量、有江河之量。江河之量亦大矣。然有涯。有涯亦有時而滿。惟天地之量則無滿。故聖人者、天地之量也。聖人之量、道也。常人之有量者、天資也。天資有量、須有限。大抵六尺之軀、力量只如此。雖欲不滿、不可得也。如鄧艾位三公、年七十、處得甚好。及因下蜀有功、便動了。謝安聞謝玄破苻堅、對客圍碁。報至不喜。及歸折屐齒。強終不得也。更如人大醉後益恭謹者、只益恭謹、便是動了。雖與放肆者不同、其爲酒所動、一也。又如貴公子位益高、益卑謙、只卑謙便是動了。雖與驕傲者不同、其爲位所動、一也。然惟知道者、量自然宏大、不待勉強而成。今人有所見卑下者、無他、亦是識量不足也。
【読み】
問う、人の議論に於る、多く己を直[なお]しとせんと欲し、含容の氣無し。是れ氣の平かならざるや否や、と。曰く、固より是れ氣の平かならざるなり。亦是れ量狹し。人の量は識に隨いて長ずるも、亦人の識高くして量長ぜざる者有り。是れ識、實は未だ至らざるなり。大凡別の事は、人都て強い得。惟識量は強う可からず。今人には斗筲[とそう]の量有り、釜斛[ふこく]の量有り、鐘鼎の量有り、江河の量有り。江河の量は亦大なり。然れども涯有り。涯有れば亦時有りて滿つ。惟天地の量は則ち滿つること無し。故に聖人は、天地の量なり。聖人の量は道なり。常人の量有るは天資なり。天資に量有れば、須く限り有るべし。大抵六尺の軀、力量只此の如し。滿ちざるを欲すと雖も、得可からざるなり。鄧艾の如き、三公に位せしは、年七十にして處し得て甚だ好し。蜀を下すに因りて功有るに及び、便ち動ぜり。謝安は謝玄の苻堅を破りしを聞きしとき、客に對して碁を圍む。報至れども喜ばず。歸るに及び屐齒[げきし]を折る。強いること終に得ざりしなり。更に人大いに醉いし後益々恭謹なる者の如き、只益々恭謹なるは、便ち是れ動けるなり。放肆なる者と同じからずと雖も、其の酒の動かす所と爲るは、一なり。又貴公子の位益々高ければ、益々卑謙なるが如き、只卑謙なるは便ち是れ動けるなり。驕傲なる者と同じからずと雖も、其の位の動かす所と爲るは、一なり。然れども惟道を知る者のみ、量は自然に宏大にして、勉強を待たずして成る。今の人見る所卑下なる者有るは、他無し、亦是れ識量足らざればなり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

学者から役人迠一つにして不断入用のことなり。学者の議論から役人の評義がこれなり。手前の云出したことはよいに立て引ぬもの。實体な人は実底たけに合点せぬもの。私ても我見込だことはよいと思ふものなり。曰固氣不平云々。言にも及ふ、不平なり。されとも氣の不平にはつれはないか、氣の不平より未た奧の院に訳がある。それは兼て量がせまいからなり。量はもと舛目のことから胸のことなり。大食な人を腹を大いと云、小食な人を腹か小いと云やふなもの。人の胸もそふなり。氣の不平ては量のせまいなり。人量隨識長。量は知惠次第て違ふ。知があると量が大くなる。小児が何のこともないに啼出すも量がせまいからなり。年をとるとそふてない。そのやふなわるさすると沈めにかけると云と泣出すか、親が何沈めにかけるものぞ。それが七つ八つにもなるとそのやうなこともをどしと思ふ。藏へ入れるの、化けもの咄しをこわがると云も識かないゆへなり。これがずんとかるいことてよく知る。識次第て量も違ふもの。下女下男か量かせまいて役に立ぬ衣服なとを大切にするが、それか江戸へでも出ると前に惜んだ衣裳も人にこれをやろふなとと云。それたけ識か長して量が大くなりたなり。上方儒者が道を任ずるほど腹を立つ。小市や宗伯も少のことも腹を立たが、歴々になりては文義が違たと云てそのやふに腹を立はづはなし。知かあると莞尓々々笑て居るもの。有識高而量不長者云々。学問たけて何事もさばき見処も高いが量の不長と云か、それもやはり未た識の至らぬなり。
【解説】
「問、人於議論、多欲直己、無含容之氣。是氣不平否。曰、固是氣不平。亦是量狹。人量隨識長、亦有人識高而量不長者。是識實未至也」の説明。自分の言い分はよいと主張して引かないのは不平だからだが、その不平になるのは量が小さいからであり、胸が小さいのである。量は知によって大きくなる。知があれば莞爾している。
【通釈】
これは学者から役人までにいつも入用なこと。学者の議論や役人の評議がこれである。自分の言い出したことはよいことと主張して引かないもの。真面目な人は実直なだけに合点しないもの。私でも自分の見込んだことはよいと思うもの。「曰固気不平云々」。言にも及ばないことで、それは不平である。しかしながら、気の不平には違いないが気の不平より前に奥の院にわけがある。その前に量が狭いからである。量は本来升目のことで、これが胸のことになる。大食な人を腹が大きいと言い、小食な人を腹が小さいと言う様なもの。人の胸も同じである。気の不平は量が狭いからである。「人量随識長」。量は知恵次第で違って来る。知があると量が大きくなる。小児が何事もないのに泣き出すのも量が狭いからである。年をとるとそうはならない。その様な悪さをすると沈めると言えば泣き出すが、親がどうして沈めにかけるものか。それが七つ八つにもなるとその様なことは脅しだと思う。蔵へ入れられることや化け物話を恐がるのも識がないからである。これが実に簡単なことでよくわかる。識次第て量も違うもの。下女下男が量が狭く、役に立たない衣服などを大切にするが、それが江戸へでも出ると前に惜んだ衣裳も人にこれを遣ろうなどと言う様になる。それだけ識が長じて量が大きくなったのである。上方儒者は道を任ずるほど腹を立てる。小市や宗伯も少しのことで腹を立てたが、歴々になれば、文義が違ったとしてもその様に腹を立てる筈はない。知があるとにこにこと笑っているもの。「有識高而量不長者云々」。学問だけで何事も捌いて見処も高いが量が不長なのは、それもやはり未だ識が至らないからである。
【語釈】
・小市…宇井黙斎。久米訂斎門下。名は弘篤。通称は小一郎。別名丸子弘篤。肥前唐津の人。天明元年(1781)、57歳で没。弟子に千手旭山があり、旭山の孫弟子が橋本佐内である。
・宗伯…明石宗伯。柳田求馬。迂斎門下。名は義道。号は村松樵夫。城代の息子。野田剛斎にも師事。黙斎と共同で「胡子知言」を校刊。天明4年(1784年)7月22日没。行年47歳。

大凡別事人都強得惟識量不可強。よのことは歯をくひしばってもなるか識量はならぬ。迂斎の、かしこくはなられぬと云。灸はこらへてもなるが利口にはなられぬ。明日迠に利口になれと云て利口になろふとするほと馬鹿になる。偖顔へ出るのて量は知れる。金持か金拾両落した迚さはぎもせぬが、貧乏ものは金十両て身上をも仕舞ゆへ顔がたんは色になる。そこで識量は強られぬ。今有斗筲之量云々。量は舛目を云て入ものの名ゆへ、これからたん々々舛目のことて云。葉解も舛目のことを云てあり、舛目はそれたけつつつまるもの。丁どやくそくだけにつまる。これほとの男々々々々々々と徳利を一舛入二舛入と幷べたやふなものなり。有江河之量云々。江河は舛目のならぬものなり。亦大なり。矣はどふなれは、神田川や立川でもどれほどの水とは量れぬゆへ大と云。舛目は知れぬか江河もかきりある。有時滿なり。大井川もいくら川と積られる。川が泊なり。
【解説】
「大凡別事、人都強得。惟識量不可強。今人有斗筲之量、有釜斛之量、有鐘鼎之量、有江河之量。江河之量亦大矣。然有涯。有涯亦有時而滿」の説明。識量は強いて得ることはできない。量は升目と同じで人それぞれに違う。江河は升目のないものだがそれにも限りがある。
【通釈】
「大凡別事人都強得惟識量不可強」。他のことは歯をくいしばっても成るが識量は成らない。迂斎が賢くはなることができないと言った。灸は堪えてもできるが利口になることはできない。明日までに利口になれと言って利口になろうとするほど馬鹿になる。さて、顔に出るので量は知れる。金持が金を十両落しても騒ぎはしないが、貧乏者は金十両で身上をも仕舞うので顔が真っ青になる。そこで、識量は強いられないもの。「今有斗筲之量云々」。量は升目のことで入れ物の名なので、これから段々と升目のことで言う。葉解も升目のことを言っており、升目はその大きさの分だけ詰まるもの。丁度約束の分だけ詰まる。徳利を一升入徳利、二升入徳利と並べる様に人を並べた様なもの。「有江河之量云々」。江河は升目のないもので「亦大」である。「矣」は、神田川や立川でもどれほどの水とは量れないので大きいと嘆じたこと。しかし、升目は知れないが江河にも限りがあり、「有時満」である。大井川もどれほどの川だと見積もることはできる。川が満ちるからである。
【語釈】
・たんは色…胆礬色。真青な色。
・筲…一斗二升を容れる竹製の器。
・釜斛…釜は六斗四升、斛は十斗。
・鐘…六斛四斗。

天地之量則無滿。これを云たい斗て上のことを云。天地の方からこれきりと云たことなし。そこで学者がたん々々大きなことを聞て天地之量とつかまへられぬか、人の手本は垩人。其垩人は天地と同挌て垩人は天地なりなり。これか仏經なとにある虚大を云筋てなく、斗筲之量から天地の量とつめて、それも譬でこそ云へ、垩人は道のこととなり。道は手がつかぬ。知のないか道にはづれたもの。せくと云も不平と云も道にはづれたことなり。垩人は道理なりゆへ怒のいからぬの不平のと云氣へついたことはない。上の段の從容就義もここへかけて見べし。皆理なりをする。汨羅へ身をなけたがよくは文王も羑里て死へき筈なり。天地の量と云が大腹中と云ことてなく、道なりを云。天王垩明也と、あの紂王を垩人と思わるる程なれとも、あのとき易の彖をかけてゆっくりとしたことなり。それか屈原か忠臣にをとるへき筈なし。文王の死はづなれは死ふなり。そこて乾を觀て元亨利貞と云て居玉ふ。
【解説】
「惟天地之量則無滿。故聖人者、天地之量也。聖人之量、道也」の説明。江河でも限りはあるが、天地には限りがない。人の手本は聖人であり、聖人は天地と同格なので限りがない。聖人の量は道である。知のないのは道に外れることであり、理の通りをしなければならない。文王は屈原とは違い、幽閉されても道の通りにゆったりとしていた。
【通釈】
「天地之量則無満」。これを言いたいばかりに上のことを言ったのである。天地の方でこれ限りと言うことはない。学者が段々に大きなことを聞いて天地之量となり、その捉まえられるものではないのが人の手本となる聖人であり、その聖人は天地と同格で聖人は天地の通りである。これが仏教などで虚大を言う筋ではなく、「斗筲之量」から「天地之量」と詰め、それもたとえでこそ言ったことで、聖人の量は道だと言った。道には手が付かない。知のないのが道に外れること。急くのも不平も道に外れたことである。聖人は道理の通りなので怒ったり怒らなかったりや不平という気に付いたことはない。上の段の「従容就義」もここへ掛けて見なさい。皆理の通りをする。汨羅へ身を投げるのがよいのであれば、文王も羑里で死ぬべき筈である。天地の量は大腹中ということではなく、道の通りのことを言う。「天王聖明也」と、あの紂王を聖人と思われたほどの文王だったが、幽閉された時には易の彖を繋けてゆっくりとしていた。それが屈原の忠臣に劣る筈はない。文王も死ぬ筈であれば死んだだろう。そこで、乾を観て元亨利貞と言っておられた。
【語釈】
・從容就義…政事44の語。
・天王垩明也…文王拘幽操。「嗚呼臣罪当誅兮、天王聖明」。
・元亨利貞…易経乾卦。「乾、元亨利貞」。

常人之有量者天資也。大腹中なとと云かありて、世の中何んとも思はぬなり。天から産付けて天下の下だされ次第てこの方の道を知ぬゆへ、いつぞさしつかへるなり。生れつきはけっこふで調法てもあてにならぬ。大抵六尺之軀力量只如此なり。これが道でないを云。道なりが垩人之量。平人は生れつきと云から六尺之軀とかけたものなり。力量はよい日に生れ合ふたて、道の根へかけれは役にたたぬ。垩人の量は道とかけて涯りはない。氣質の上て云へは、江河の量と云ても雖欲不滿不可得なり。そこで道へ説き落すが伊川の思召なり。扨これで訳はつきて、生れつきと云て鄧艾謝安なり。垩人の量と違て只のではあてにならぬ。孔明が死後魏が蜀を片つけるとき、鄧艾年も七十なり。人も鄧艾年も七十、殊に三公の塲なり。手抦はあれに歸した。そこで何となく勢がつき、どこともなく功が鼻へ出てして取たと云やふに心かなりたゆへ、そこて鐘會に害せられた。鄧艾は我へ滿たと云処て動たなり。よって害にも合う。伊尹や周公に動くと云ことはなく、道理に止るなり。
【解説】
「常人之有量者、天資也。天資有量、須有限。大抵六尺之軀、力量只如此。雖欲不滿、不可得也。如鄧艾位三公、年七十、處得甚好。及因下蜀有功、便動了」の説明。生まれ付きは調法で結構なものだが当てにはならない。鄧艾は自分に満ちた処があったので動いたが、伊尹や周公は動かずに道理に止まっていた。
【通釈】
「常人之有量者天資也」。大腹中などということがあって、世の中を何とも思わない。それでは天から産み付けのままで天が下された次第で自分のする道を知らないので、いつかは差し支えることになる。生まれ付きは結構で調法でも当てにならない。「大抵六尺之躯力量只如此」。これが道でないことを言う。道の通りが聖人の量である。平人は生まれ付きだから六尺之躯と掛けたのである。力量はよい日に生まれ合っただけで、道の根へ掛ければ役には立たない。聖人の量は道と掛けて涯はない。気質の上で言えば江河の量と言っても「雖欲不満不可得」である。そこで道へ説き落とすのが伊川の思し召し。さてこれでわけは尽き、生まれ付きと言って鄧艾と謝安を出す。聖人の量と違って凡人の量は当てにならない。孔明の死後魏が蜀を片付ける時に鄧艾の年は七十だった。人も鄧艾、年も七十、殊に三公の場にいて手柄はあれに帰した。そこで何となく勢いが付いて、何処ともなく功が鼻へ出てして取ったという様に心かなったので、そこて鐘会に害せられた。鄧艾は自分に満ちた処があったので動いたのである。そこで害にも遇う。伊尹や周公に動くということはなく、彼等は道理に止まっていた。
【語釈】
・鄧艾…字は士載。棘陽の人。魏に仕えて征西将軍となり、蜀を平定後に大尉(三公の位)となる。197~264
・謝安…字は安石。陽夏の人。晋の孝武帝のとき中書監となる。苻堅を伐った時は征討大都督だった。320~385

謝安聞謝玄破符堅云々。三國の末より晋ても符堅か僣て秦王と称し晋へ冠したを謝玄等か破り、謝玄は謝安か姪なり。其注進があれとも嬉い靣もなく、平生の底て碁を打て居たなり。これか無理に巧言令色をしたてもないなり。それはよかったか、下駄の歯を踏かけり。揜ふにををはれぬことて、心に動かついたゆへのことなり。この二人が量の大ひものなれとも、道からてないゆへ化けの皮をあらはした。これを政事に載せたは、ここを聞ては最役所て大な顔かならぬ。何ぞのときあらはれると云て油断はならぬ。某なとも人の咄ききても知ているが、書役なとが見てとるもの。をらが御頭も今日はのったなどと云ふぞ。強不得なり。更如大酔後益恭謹者云々。かくすにかくされぬことを云。酔ほどたん々々いんぎんになるかあれとも、やはり酔たなり。某が知たものにもこれがありて、不断はをぬしなとと云なから醉て來ると貴公様と云が、やっはり醉なり。又如貴公子位益高益卑謙云々。いんぎんが大抦すると同挌になる。いんぎんはよけれとも、どちも一つなり。
【解説】
「謝安聞謝玄破苻堅、對客圍碁。報至不喜。及歸折屐齒。強終不得也。更如人大醉後益恭謹者、只益恭謹、便是動了。雖與放肆者不同、其爲酒所動、一也。又如貴公子位益高、益卑謙、只卑謙便是動了。雖與驕傲者不同、其爲位所動、一也」の説明。心が動くのは隠すことのできないことで、動いたことは人に知られる。それは酔ったのと同じである。酔って慇懃になるのも大柄になるのも動くことでは同じである。
【通釈】
「謝安聞謝玄破苻堅云々」。三国の末より晋でも苻堅が僣って秦王と称し晋へ寇したのを謝玄等が破った。謝玄は謝安の姪である。その注進があったものの嬉しい面もしないで平生の様に碁を打っていた。これが無理に巧言令色をしたのでもない。それはよかったが、下駄の歯を折ってしまった。それは隠すに隠し切れないことで、心に動がついたからである。この二人は量の大きい者だが、道からのことでないので化けの皮を現した。これを政事に載せたのは、これを聞いてはもう役所で大きな顔ができないということ。何かの時には現れるので油断はならないのである。私なども人の話を聞いていてもわかるものだが、書役などがよく見て取るもの。俺の御頭も今日は乗ったなどと言うぞ。「強不得也」である。「更如大酔後益恭謹者云々」。これは隠すに隠せないことを言う。酔うほど段々慇懃になる者がいるが、それはやはり酔ったのである。私が知っている者にもこれがあって、普段はお主などと言いながら、酔って来ると貴公様と言う。やはりそれが酔である。「又如貴公子位益高益卑謙云々」。慇懃が大柄と同格になる。慇懃は本来よいものだが、どちらも同じである。
【語釈】
・符堅…苻堅。字は永固。晋の升平年間、鄴に拠って秦天王と称した。肥水のほとりで謝玄に敗れる。

然惟知道者量自然宏大云々。量へ目をかけて手を出すではないか自然なり。ここがこの章の眼なり。知道と云につまることなり。学者は道理を磨く。今日人にこなたは量が小いと云はれたとき、なるほどをれが学問がかいないゆへ量か小かろふと思ふかよい。道をしると量宏大なり。人にきらしてと云ふは本ないこと。これは銭つかふ筋かつかはぬ筋と云て道理てする。学者の上て大腹中と云は道理なりを云ことて、生れつきを入れぬことなり。生付で量の大いは人に合力、それと云てする。そふなくとも義理の當然てこれはやるはつと云てすると、とど同挌になる。学問の巧て量を大くする。別に胸をひろく見せよふとせすに相談がなると云は学問なり。今人有所見卑下者無他識量不足也。前へかけて云ことなり。今日のは卑下ゆへなり。卑下はかくされぬと云はなして、それは道理を知ぬゆへと落したものなり。
【解説】
「然惟知道者、量自然宏大、不待勉強而成。今人有所見卑下者、無他、亦是識量不足也」の説明。学者における大腹中とは道理の通りのことであって、生まれ付きを入れないこと。今の者は卑下であり、卑下は隠すことができない。それは道理を知らないからで、学問の功で量を大きくするのである。
【通釈】
「然惟知道者量自然宏大云々」。量に目掛けて手を出したのではないが自然と宏大になる。ここがこの章の眼であり、知道に詰まること。学者は道理を磨く。今日人に貴方は量が小さいと言われた時に、なるほど俺の学問が甲斐ないので量が小さいのだろうと思いなさい。道を知れば「量宏大」である。切れ手ということは本来ないことで、銭を使う筋か使わない筋かと考えて道理でする。学者の上で大腹中と言うのは道理の通りのことを言ったことで、生まれ付きを入れないこと。生まれ付きで量の大きい者は人に合力する場では、それと言ってするが、そうでなくても義理の当然でこれは遣る筈だと言ってすれば、結局は同格になる。学問の功で量を大きくする。別に胸を広く見せようとしなくてもうまく行くのは学問による。「今人有所見卑下者無他識量不足也」。これは前へ掛けて言ったこと。今日の者が卑下だからこれを言ったのである。卑下は隠せないという話で、それは道理を知らないからだと落としたのである。
【語釈】
・きらして…切れ手。①気前よく金銭を出す人。②決断のよい人。物事をてきぱきと処理する人。きれもの。


第四十八 人纔有意於爲公の条

人纔有意於爲公、便是私心。昔有人典選。其子弟係磨勘、皆不爲理。此乃是私心。人多言古時用直不避嫌得、後世用此不得。自是無人。豈是無時。因言少師典擧、明道薦才事。
【読み】
人纔かに公を爲すに意有らば、便ち是れ私心なり。昔人有りて選を典[つかさど]る。其の子弟磨勘に係りしとき、皆理[おさ]むるを爲さず。此れ乃ち是れ私心なり。人多く古時は直にして嫌を避けざるを用い得たるも、後世は此を用い得ずと言う。自ら是れ人無きなり。豈是れ時無きならんや。因りて少師擧を典り、明道才を薦むる事を言えり。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

この章、ずんと心得になる章なり。学者の工夫ても天下の政事でも公ほとよいことなし。然れとも、公を一つせふとしてかかるとわるい。これらは学者でなけれはすめぬことなり。公も意のあるないて公不公になる。そこに氣のつかぬで公なり。子の親に孝をするも、どりゃ一つ孝を仕てと云と私なり。孝は萬善之源と云へとも、其孝くるみわるいになれはをそるへきことなり。そこて私心と云。よいことするほど私心に落る。人にもどりが寒かろふと云て羽織を借そふと云はよけれとも、向て寒くはないと云に無理に着せてやらふと云、ひだるくはないと云に、やれ食へと云。必竟この方を向へ通して親切を立るやふて皆私心なり。有人典選其子弟係磨勘云々。典選は人をとりあける役なり。惣体御役人を取上るても御番衆召出すことてもこれかする。磨勘はたん々々帳をくってするときに手前の弟や從弟か小口ちへ廻って來たなり。磨勘は唐から云ことそふなり。今年は誰を出すと云。それに當れは我子でも弟ても呼出す。
【解説】
「人纔有意於爲公、便是私心。昔有人典選。其子弟係磨勘」の説明。公はよいものだが、それに私心が入ると不公となる。典選で磨勘をする際、自分の兄弟や従弟の名が挙がったとしてもそれを採用するのが公である。
【通釈】
この章は大層心得になる章である。学者の工夫でも天下の政事でも公ほどよいことはない。しかしながら、公を一つしてみようとして掛かるのは悪い。これ等は学者でなければわからないこと。公も意があるかないかで公にも不公にもなる。そこに気が付かないので公となる。子が親に孝をするにも、どれ一つ孝をしようと言えば私である。孝は「万善之源」とは言うが、その孝までが悪いことになるのは恐るべきことである。そこで「私心」と言う。よいことをするほど私心に落ちる。帰りが寒かろうと思って人に羽織を貸そうと言うのはよいが、向こうで寒くはないと言っているのに無理に着せてやろうと言い、空腹ではないと言っているのに、やれ食えと言う。畢竟それは自分の意を相手に通して親切を立てる様なもので、皆私心である。「有人典選其子弟係磨勘云々」。典選は人を採り上げる役である。総体、御役人を採り上げることも御番衆に召し出すこともこれがする。磨勘は段々と帳を繰って調べることだが、その時に自分の弟や従弟が小口へ廻って来た。磨勘は唐からその様に言うそうである。今年は誰を出すのかと調べる。それに当たれば自分の子でも弟でも呼び出す。
【語釈】
・孝は萬善之源…

皆不爲理此乃私心。これがこの男のいやみなり。寸志のやふなれとも、伊川の私心と呵らるる。手前の子が消し口を取たにだまって居るやふなもの。かれやこれやの計較のあるを私心と云。それを立派と云はふが、よいほとうるさいなり。人多言古時用直不避嫌云々。今はえんりょするがよいと云が、古今の分るかそのやふなことてない。てんでのいやみの心あるゆへのこと。時代のことてない。注。因言少師典挙明道薦才事。この咄の序に古今のことでなく、必竟人かない、それに付て此方の先祖のことなり。少師は伊川の高祖父なり。この事實は何事やら知れぬ。明道薦才のとき、横渠と伊川のすすめたことあり。横渠は外姓のいとこをちにあたりて近きつつきあるもの。況や伊川は我弟なり。明道は私心てないゆへ去嫌ことはない。
【解説】
「皆不爲理。此乃是私心。人多言古時用直不避嫌得、後世用此不得。自是無人。豈是無時。因言少師典擧、明道薦才事」の説明。昔は「用直不避嫌得」だったが今はそれができないと、時のせいにするのは間違いであり、人がいないのである。少師もそれをしたし、明道も横渠や伊川を薦めた。
【通釈】
「皆不為理此乃私心」。これがこの男の嫌味である。寸志のことの様だが、伊川がそれを私心だと言って呵られた。自分の子が消口を取ったのに黙っている様なもの。かれこれと計較があるのを私心と言う。それを立派だと言うが、よいほど煩い。「人多言古時用直不避嫌云々」。今は遠慮するのがよいと言って古今を分けるが、その様なことではない。それぞれに嫌味の心があるからであって、これは時代のことではない。注。「因言少師典挙明道薦才事」。この話のついでに、古今のことではなく、畢竟人がいないことについて、自分の先祖を例にとって言った。少師は伊川の高祖父である。この事実は何の事かは知らない。明道が才を薦す時に、横渠と伊川を薦めたことがある。横渠は外姓の従弟叔父に当たり、近続きである。ましてや伊川は自分の弟である。明道は私心でないので嫌疑を避けることはない。
【語釈】
・消し口を取た…ある消防組が、他の組に先んじて消口をつくる。そこにその組の纏を立てる。
・少師…太子少師。周の三公の次に位した三つの官の一。伊川の四代前の祖先程羽を指す。


第四十九 君實嘗問先生云の条

君實嘗問先生云、欲除一人給事中。誰可爲者。先生曰、初若泛論人才、卻可。今既如此。頤雖有其人、何可言。君實曰、出於公口、入於光耳、又何害。先生終不言。
【読み】
君實嘗て先生に問いて云う、一人を給事中に除せんと欲す。誰かす可き者ぞ、と。先生曰く、初め若し泛[ひろ]く人才を論ぜば、卻って可なり。今既に此の如し。頤に其の人有りと雖も、何ぞ言う可けん、と。君實曰く、公の口より出でて光の耳に入る、又何の害あらん、と。先生終に言わず。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある。

伊川の朝廷にあるはしばしの間のことなり。荊公が引こんで温公が宰相になり、伊川の講筵官の時なり。温公の給事中にあきかある、誰を取上たものて有ふと相談なり。給事中はこの方の少納言に當る。職原に後世侍從ても勤ると云。初若論人才却可云々。今の世に人才は誰れ、徳行はたれと泛く云はは挌別なれとも、此度給事中と問れては、上の政事のことゆへ其人か有ふとも申さぬなり。出於公口入於光耳又何害。上の御ためなり。殊に外に知り手もない、と。温公も上の御為を思ふてのことなり。これらか役人の心得になりて、今日も心得なり。温公のこのことか越度てもない。又左様な相手てもなく伊川先生ゆへ、挌段に思はれて問たもの。夫子至此邦也必聞其政と云。あの温公ゆへめったな者には言ことてなく、これが不調法てはないか、すくりぬいた伊川なり。この事どこ迠も云はれぬ。今日の了簡になりて学者などの大ふ戒なり。只今天下て云ても儒者なとはそれと云役もなけれとも、学者へは又別段な義あるべし。大名の家中ても徳義のことや政のことをも家老用人か問もの。政事の道理の上のことは挌別。此度何役に誰がよいと云ことなとは决して云はぬこと。じかに役替などのことになりては御為になるとも申上ぬ。浪人儒者も歴々と交るもの。天下の道理を泛く云が役義。觜を出さぬこと。某なとの浪人儒者、田舎てさへ村役人へ一寸々々と云ひふくめると村の益にもなろふが、学者が外から觜入れることはない。学者は小学や家礼の講釈して一二の人家有化之を庶幾ふべし。所向のことに口を出すは門違になる。其事がよくても丁どにまいらぬ。これを政事にのせたも学者の大ふ戒になることなり。
【解説】
人才や徳行のことを聞かれるのなら答えてもよいが、政事のことで人を推薦するのは悪い。政事は役人がするものであって、儒者は人をよくするのが務めである。
【通釈】
伊川が朝廷にいたのは少しの間だった。これは荊公が引っ込んで温公が宰相になり、伊川の講筵官の時のこと。温公が給事中に空きがあるから誰を取り上げたものかと相談に来た。給事中は日本では少納言に当たる。職原に後世侍従でも勤めるとある。「初若論人才却可云々」。今の世に人才は誰か、徳行は誰かと泛く聞くのであれば格別だが、「此度給事中」と問われては、上の政事のことなので、その人がいたとしても申すことはできない。「出於公口入於光耳又何害」。上の御ためでもあり、殊に外に知る人もいないと言った。温公も上の御ためを思ってのこと。これ等が役人の心得になることで、今日も心得となる。これは温公の越度でもない。また普通の者ではなくて伊川先生なので格段に思われて問うたもの。「夫子至此邦也必聞其政」ともあり、あの温公なので滅多な者には言ことはなく、これが不調法なわけではないが、選り抜いた伊川である。この事は決して言われなかった。今日の了簡では、学者などの大層な戒めとなる。只今の天下で言っても儒者などはこれといった役もないが、学者へはまた別段な義がある筈である。大名の家中でも、徳義のことや政のことなどをも家老や用人が問うもの。政事の道理の上のことは格別で、この度は何役に誰がよいなどとは決して言ってはならない。直に役替などのことになどは、御ためになるとしても申し上げてはならない。浪人儒者も歴々と交わるものだが、天下の道理を泛く言うのが役義だから、この様なことに觜を出してはならない。私などの様な浪人儒者が田舎にいてさえ、村役人に一寸言い含めれば村の益にもなるだろうが、学者が外から觜を入れる必要はない。学者は小学や家礼の講釈をして「有一二人家化之」を願いなさい。向こうのことに口を出すのはお門違いである。言ったことがよくてもうまく行かない。これを政事に載せたのも学者の大きな戒めになるからである。
【語釈】
・荊公…王安石。1021~1086
・温公…司馬光。君実。1019~1086
・職原…職原鈔。有職故実書。北畠親房著。二巻。漢文でわが国の官職の沿革・職掌・慣例などを記述。1340年(興国一)成る。1599年(慶長四)刊。
・夫子至此邦也必聞其政…論語学而10。「子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政、求之與。抑與之與」。
・一二の人家有化之…治法17。「正叔云、某家治喪、不用浮圖。在洛亦有一二人家化之」。


第五十 韓持國服義条

先生云、韓持國服義、最不可得。一日頤與持國・范夷叟泛舟於潁昌西湖。須臾客將云、有一官員上書、謁見大資。頤將爲有甚急切公事、乃是求知己。頤云、大資居位、卻不求人、乃使人倒來求己。是甚道理。夷叟云、只爲正叔太執。求薦章、常事也。頤云、不然。只爲曾有不求者不與、來求者與之、遂致人如此。持國便服。
【読み】
先生云う、韓持國の義に服する、最も得可からず。一日、頤は持國・范夷叟と舟を潁昌の西湖に泛[うか]べぬ。須臾にして客將云う、一官員有りて書を上[たてまつ]り、大資に謁見せんとす、と。頤將[はた]甚[いか]なる急切なる公事か有ると爲すに、乃ち是れ己を知らんことを求めしなり。頤云う、大資は位に居るとき、卻って人を求めず、乃ち人をして倒[かえ]って來り己を求めしむ。是れ甚なる道理ぞ、と。夷叟云う、只正叔の太[はなは]だ執すと爲すのみ。薦章を求むるは、常の事なり、と。頤云う、然らず。只曾て求めざる者には與えず、來り求むる者には之を與うること有りしが爲に、遂に人を致すこと此の如し、と。持國便ち服す。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある伊川の語。

韓持國は明道先生伊川先生を大ふ信向なり。言へは御弟子と云ものなり。高位に登り参知政事てもなく、やかてそこらへ行た人なり。此人を老中と云は間違なり。何やらの官て老中てはなし。韓持國このとき歯と云位と云そふないものなれとも、よく義に服する人なり。泛舟于頴昌西湖。彼の名高ひ絶景にて此方の松嶋なり。そこへ舟遊山に出られたとき、客将云々。客将云を客将去るとも書てある。客は持國が下役でも有ふ。何やら云たなり。この方の時体では歴々に斯ふしたことないことなれとも、あちにはあることと見へる。知ぬものか此遊山さきて御目見へしたいと云たなり。大資は韓持國を云て品格のことなり。一資半給の資もそれなり。重ひ役人をされて大資と云。頥將為有急切公事。あとの咄なり。最初は御役中のことゆへ急御用かありたと思ふたに、あとて見れはそふてなく、立身知られに来たのなり。頥云大資居位却不求人云々。韓持國を一つきめて、御手前さまに似合ぬと云なり。あちから求られに来たか、先王の代に下から何とぞと云て出たことなし。選挙と云ことはあるか、向から逆さに出ると云ことはないこととなり。
【解説】
「先生云、韓持國服義、最不可得。一日頤與持國・范夷叟泛舟於潁昌西湖。須臾客將云、有一官員上書、謁見大資。頤將爲有甚急切公事、乃是求知己。頤云、大資居位、卻不求人、乃使人倒來求己。是甚道理」の説明。舟遊山をしている時、韓持国に自分を売り込むために面会を求めた者がいて、韓持国がそれに応じた。伊川は、先王の代には下から言って来ることなどはなかったと言って韓持国を訶った。
【通釈】
韓持国は明道先生と伊川先生を大層信仰していた。言ってみれば御弟子という様なもの。高位に登ったが参知政事ではなく、やがてその辺りに行った人である。この人を老中と言うのは間違いである。何やらの官だが老中ではない。韓持国はこの時歯という位であって、そうでない筈だが、よく義に服する人だった。「泛舟于潁昌西湖」。あの名高い絶景のことで、日本で言えば松島である。そこへ舟遊山に出られた時に「客将云々」。「客将云」を「客将去」と書いてあるものもある。客は持国の下役のことだろう。何やら彼が言った。日本では歴々にこうしたことはないが、あちらにはあることと見える。知らない者がこの遊山先で御目見えしたいと言った。「大資」は韓持国のことを言い、品格のこと。一資半級の資もそれ。重い役人をされていたので大資と言う。「頥将為有急切公事」。これは後の話である。最初は御役中のことなので急な御用があったのかと思ったが、後で見ればそうではなくて立身を知られに来たのだった。「頥云大資居位却不求人云々」。韓持国ともあろう人が、それは貴方様には似合わないことだと言った。向こうから求められに来たが、先王の代に下から何とぞと言って来ることはなかった。選挙ということはあるが、逆に向こうから出て来るということはないことだと言ったのである。
【語釈】
・韓持國…韓維。雍丘の人。神宗の時翰林学士に進み、開封の知事となる。哲宗の時に門下侍郎になり、太子少傅で致仕。1017~1098
・参知政事…中国の官名。唐以後元代に至る間、最高政務に参与した宰相または副宰相。宋では執政と呼ばれ、副宰相として権限があった。
・歯と云位…
・一資半給…一資半級。低い官位とわずかの俸給。少しの官禄。

夷叟云只為正叔太執求薦章常事也。伊川のきひしいゆへ夷叟も氣の毒に思ひ、とりなしなり。執は、ここは御かとふござると譯するかよい。執か訶たことてなく、伊川の御かたいゆへに斯く云はるるととりなしなり。頥云不然云々。この章の大切は役人の心得に此一行りを見せたもの。其次に服義なり。服義と云か政事第一なれとも、ここは只為曽有不求者不與云々か正客なり。不求者不與来求者與之ゆへにかふはなりたもの。方々の摸様になりたゆへ斯ふとなり。だたい向から来るによいはない。御とりなし頼むと云に大器量はないもの。昔から道徳者は勿論、英雄豪傑てもそんなけちなことはない。求薦は常事、古から斯ふじゃ、これか御定りと云と善ひものに出手はない。持國便服。まことにそふと聞が重いこと。役人の第一なり。このとき歴々の交て西湖の景色の遊山さきて、殊に宦位と云、歯徳と云其人斯ふ呵られて、それに服す。これてなけれは頼はない。人情非を氣にかけぬはないか、これか韓持國の德なり。尤持國の徳が政事の手本になることなれとも、それは又美質にはあらふか、不求者不與と云の祟りはさて々々上たる役人衆へ釘のきいた云分ぞ。されは此条は伊川のこの云分が政事の正客て、持國の服義は相客そ。同しく政事の大体にあつかることともなり。
【解説】
「夷叟云、只爲正叔太執。求薦章、常事也。頤云、不然。只爲曾有不求者不與、來求者與之、遂致人如此。持國便服」の説明。夷叟は伊川が真面目だからその様に言うのだと取り成したが、伊川は、求めない者は採用しないで、求める者を採用するからこの様になったのだと訶った。これを韓持国は尤もなことだとして同意した。ここは「不求者不与」が正客で、韓持国の服義が相客である。
【通釈】
「夷叟云只為正叔太執求薦章常事也」。伊川が厳しいことを言うので、夷叟が気の毒に思って取り成しをした。「執」は、ここは御硬過ぎますと訳すのがよい。執は訶ったことではなく、伊川が御硬いのでそう言われたのだと取り成したこと。「頥云不然云々」。この章の大切なところは役人の心得としてこの一下りを見せることで、その次が「服義」である。服義は政事にとって第一のことだが、ここは「只為曾有不求者不与云々」が正客である。「不求者不与来求者与之」なのでこの様になった。方々の模様になった原因はこれである。そもそも向こうから来ることによいものはない。御取り成しを頼むと言う者に大器量はいないもの。昔から道徳者は勿論英雄豪傑でもそんなけちなことはしない。「求薦常事」。古からそうだ、これが御定りだと言えば、善い者は出ることができない。「持国便服」。誠にその通りだと聞くのが重いことで、これが役人の第一のことである。この時歴々の交わりの中で、景色のよい西湖の遊山先で、殊に官位もあり歯徳もある人がこの様に呵られてそれに服す。これでなければ頼みはない。非人情を気に掛けないわけではないが、これが韓持国の徳である。尤も持国の徳は政事の手本になることだが、またそれは美質ではあるだろうが、「不求者不与」と言って訶ったことが実に上たる役人衆へ釘の利いた言い分である。そこで、この条は伊川のこの言い分が政事の正客で、持国の服義は相客となる。しかし、それ等は同じく政事の大要に与ることである。
【語釈】
・夷叟…范純礼。呉県の人。范仲淹の第三子。神宗の元祐年間に給事中になる。官は尚書右丞に至る。1031~1106
・歯徳…年齢と徳行。