第十 孔明有王佐之心条  五月十六日  纖邸文録
【語釈】
・五月十六日…寛政3年辛亥(1791年)5月16日。
・纖邸文…林潜斎。花沢文二。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

孔明有王佐之心、道則未盡。王者如天地之無私心焉。行一不義而得天下、不爲。孔明必求有成而取劉璋、聖人寧無成耳。此不可爲也。若劉表子琮、將爲曹公所幷、取而興劉氏、可也。
【読み】
孔明は王佐の心有りしも、道は則ち未だ盡くさず。王者は天地の私心無きが如し。一つの不義を行いて天下を得るは、爲さず。孔明は必ず成すこと有るを求めて劉璋を取りしも、聖人は寧ろ成すこと無きのみ。此れ爲す可からざるなり。劉表の子の琮、將に曹公の幷[あわ]す所と爲らんとせしとき、取りて劉氏を興すが若きは、可なり。
【補足】
・この条は、程氏遺書二四にある伊川の語。

王佐の才は顔子のことを云。王佐の才と云よりこの心と云かよさそふなものなれとも、顔子のとをりのはたらきが出来ぬゆへ心と云とみへる。成る程王道か直になるから顔子をは之才と云。出るとじきに伊尹周公の通りになるもちまへて之才と云。孔明そふはゆかぬ。只筋か王佐。そこて程子の王佐之心と云はるる。孔明は才がありそふて、顔子のやふに出きぬ。然るに爰に王佐之心と札のつくは孔明の手抦なり。三代以後の名あるものを一粒えりにして張良を一ち筆にして皆すっとの皮なり。皆垩賢の事業とはしょげて出る。孔明は垩賢の意に叶たこと。成敗利鈍の語はかりても陳平周勃か心からは出ぬ。そこて王佐之心と云。凡そ心と云字はよい字なれとも、却てここては事業迠こめぬから、之才と云はれぬ。只孔明が筋のよい処を云。只の軍者てないは心根か違ふなり。周公顔子に王佐之才を云は、徳は語るに及はす王佐たっふりなり。孔明が心は禹湯の思召にもあたれとも、伊尹のやふにいかぬ。心はよけれとも事迠はならぬ。某なとの浪人か人を救はふと云やふなもの。惻隠の心ありても救ふことはならぬ。孔明も王佐の心ありても、王道をしてとることはならぬ。
【解説】
「孔明有王佐之心」の説明。孔明は、心はよいが事業がうまく行かない。孔明の心は禹や湯の思し召しにも当たるものだが伊尹の様には行かない。そこで、ここは王佐之才と言わずに王佐之心と言う。筋がよいのである。周公や顔子を王佐之才と言う。
【通釈】
王佐の才とは顔子のことを言う。王佐の才と言うよりこの様に心と言う方がよさそうなものだが、顔子の通りの働きができないので王佐之心と言ったものと見える。なるほど王道が直に成るから顔子を之才と言う。出ると直に伊尹や周公の通りになる持前から之才と言う。孔明はその様には行かない。ただ筋が王佐なのである。そこで程子が王佐之心と言われた。孔明は才がありそうで顔子の様にはできない。しかしながら、ここで王佐之心と言ったのは孔明の手柄からである。三代以後で名のある者を一粒選りにして見れば、張良を筆頭にして皆騙りである。皆聖賢の事業だと言ってそれを抓んで出る。孔明は聖賢の意に叶う。「成敗利鈍」の語だけでも陳平や周勃の心からは出ないもの。そこで王佐之心と言う。凡そ心という字はよい字なのだが、却ってここでは事業までを込めていないから、之才とは言えないのである。ただ孔明の筋のよい処を言う。孔明が普通の軍者でないのは心根が違うからである。周公や顔子を王佐之才と言うのは、その徳を語るには及ばず、王佐がたっぷりとしているからである。孔明の心は禹や湯の思し召しにも当たるものだが伊尹の様には行かない。心はよいが事まではうまく行かない。私などの様な浪人が人を救おうと言う様なもの。惻隠の心があっても救うことはできない。孔明も王佐の心があっても王道をして取ることはできない。
【語釈】
・王佐の才は顔子…論語衛霊公10集註。「顏子王佐之才、故問治天下之道」。
・すっとの皮…透波の皮と同じ。かたり。盗人。盗人根性。
・成敗利鈍…後出師の表。「臣鞠躬尽力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣之明所能逆覩也」。

道則未尽。心と道か連立ぬ。王佐の心ありても心なりの働かならぬ。王者如天地之無私心焉云々。王者の王者たる所は、心はこうなれとも、せふことなしにすると云ことなし。事を一つ成就とさきへ目はかけぬ。義なりをして、向から轉ひかかれは取る。武王の放伐も、放伐すれはあとかよいと考てするでない。天から命を受て放伐を十分と思て為し玉ふ。ここらか大切の処。ここか孔明と違処なり。孔明求有成而取劉璋。孔明、漢の天下を再興せふと義兵を起したは垩賢の意に叶ひ、あの方て孔明、日本て楠なれとも、劉璋を取たは一思案あって、あれを取てをけは跡かよいと目をかけ、了簡あったものなり。惟秀云、直方先生曰、孔明漢を興ふとしたか人欲になりた。垩人寧無成耳此不可爲也。これか漢唐て云れぬこと。道統にあつかる人てなけれはこのやふな議論は出ぬ。是非ともと云は親切のやふなれとも、天地の無心と違ふ。某毎々云、学問もそれなり。学問か流行ずは流行らぬでよい。道理の起らぬときは出来ぬものなり。孔孟の学問にこの手ではやらせふとはせぬ。圣人道理なりゆへつめたい様なれども、天地と同しこと。遂事不諫既行不咎。死たものへ灸さへするに、孔子には似合ぬ。それはつめたいと云はふか、天地のなりなり。此不可為は出来ぬことはせぬ。劉璋は取ましきこと。これ孔明へたたりて云。
【解説】
「道則未盡。王者如天地之無私心焉。行一不義而得天下、不爲。孔明必求有成而取劉璋、聖人寧無成耳。此不可爲也。若劉表子琮、將爲曹公所幷、取而興劉氏、可也」の説明。孔明は漢を再興しようと義兵を起こしたのは聖賢の意に叶ったことだが、劉璋を取ったのは思惑があってのことで、それは悪い。聖人は道理の通りをする。
【通釈】
「道則未尽」。心と道とが連れ立たない。王佐の心があっても心の通りの働きができない。「王者如天地之無私心焉云々」。王者の王者たる所は、心はこうだが仕方なくすると言うことがないこと。事を一つ成就しようなどと先へ目掛けない。義の通りをして向こうから転び掛かれば取る。武王の放伐も、放伐すれば後がよいと考えてしたのではない。天から命を受けて放伐するのが十分と思ってされたこと。ここ等が大切な処。ここが孔明と違う処である。「孔明求有成而取劉璋」。孔明は漢の天下を再興しようと義兵を起こしたのは聖賢の意に叶ったことで、中国で言えば孔明、日本では楠と言うことだが、劉璋を取ったのは一思案あって、あれを取って置けば後がよいと目を掛けたのであって、一つ了簡があったのである。惟秀が言う、直方先生が孔明は漢を興そうとしたが、それが人欲になったのだと言った。「聖人寧無成耳此不可為也」。これが漢唐では言えないこと。道統に与る人でなければこの様な議論は出ない。是非ともと言うのは親切な様だが、天地の無心とは異なる。私がいつも言うことだが、学問もそれである。学問が流行らなければ流行らなくてもよい。道理が起こらない時はできないもの。孔孟の学問は、この手で流行らせようとはしない。聖人は道理の通りなので冷たい様だが、それは天地と同じこと。「遂事不諌既行不咎」で、死んだ者にまで灸をするのは孔子に似合わないこと。それでは冷たいと言い張っても、これが天地の姿である。「此不可為」は、できないことはしないということ。劉璋は取ってはならないこと。ここは孔明に祟って言う。
【語釈】
・劉璋…劉璋は初め曹操と組んでいたが、臣下の張松の勧めによって劉備と結んだ。後に張松は劉備に劉璋を捕らえることを勧めたが劉備はそれに従わなかった。そのことが劉璋の耳に入り、劉璋は張松を斬って成都にたてこもった。劉備は劉璋を捕らえて公安の地に幽閉した。
・遂事不諫既行不咎…論語八佾21。「哀公問社於宰我。宰我對曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰、使民戰栗。子聞之、曰、成事不説、遂事不諫、既往不咎」。

若劉表子琮云々。劉表が死で子の琮はやくにたたずなり。孔明劉備に琮を取ることをすすめたれとも劉備取ことをせぬ。然るにここを程子の孔明にかけたは事実が違ふやふなれとも、あのとき孔明は寢せやふと起そふと自由になることゆへに直に孔明へかけたものなり。孔明が捨て置たゆへ遂曹操に並せられた。孔明なせ達てと云はぬは、あれを取てもやくにたたぬと見たもの。やくにたたぬと云てせぬは圣賢の意と違ふ。ここの事迹は史傳てよく吟味すへし。劉璋を取たは工面もの。琮はすててをけ、望ないと、其工面だけが圣賢の意と相違があると落る論なり。ここて王佐之心を合点すべし。あれほどのすじのよい孔明なれとも伊尹顔子のやふに匕が廻らぬ。そこて色々とする。漢の天下を興ふとしたれとも手が廻らぬ。心はよいか道を尽さぬ。然れは王佐の才とは云にくひ。心はやたけにはやれともゆかぬから王者めかぬことをするは才の足ぬになる。伊尹顔子ならは色々とはせまい。せつなくなると國詞を出すやうなもの。
【解説】
「若劉表子琮、將爲曹公所幷、取而興劉氏、可也」の説明。孔明は劉備に琮を取ることを勧めたが、劉備はそれに従わなかったのでそれ以上は言わなかった。琮を取ることを孔明が主張しなかったのは、琮に価値がないと考えてのこと。その工面だけ聖賢の意とは違う。
【通釈】
「若劉表子琮云々」。劉表が死に、その子の琮は役立たずだった。孔明は劉備に琮を取ることを勧めたが、劉備は取らなかった。ここを程子が孔明に掛けたのは事実と違う様だが、あの時の孔明は寝せようと起こそうと自由にすることができた筈なので、直に孔明へ掛けたのである。孔明が捨てて置いたので遂に曹操に併合された。孔明が何故強いて言わなかったのかと言うと、あれを取っても役に立たないと見たからである。役に立たないと言ってしないのは聖賢の意ではない。ここの事跡は史伝でよく吟味しなさい。劉璋を取ったのは算段があってのこと。琮は捨てて置け、望みはないと言う、その工面だけ聖賢の意と相違があると落とすのがここの論である。ここで王佐之心を合点しなさい。あれほど筋のよい孔明だが、伊尹や顔子の様に匙が回らない。そこで色々とする。漢の天下を興そうとしたが、手が回らない。心はよいが道を尽くさない。そこで、王佐の才とは言い難い。心早だけに逸るがうまく行かない。王者めかないことをするのは才が足りないのである。伊尹や顔子であれば色々とはしないだろう。切なくなると御国訛を出す様なもの。
【語釈】
・劉表…後漢の高平の人。曹操が袁紹と争った時、袁紹は劉表に助けを求めた。曹操が袁紹を破り劉表を攻めようとした際に劉表は病死した。
・琮…劉表の子。曹操の軍に攻められて投降しようとした。そこで劉備は荊州を手に入れた。
・心はや…心早。気がはやいこと。すばしこいこと。


第十一 諸葛武侯有儒者氣象条

諸葛武侯有儒者氣象。
【読み】
諸葛武侯は儒者の氣象有り。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

ここに孔明かこと三条並へてあり、上の王佐の心の条は貶、これからの二條は褒なり。この章、上の王佐之心を詞をかへて出したものなり。儒者の氣象と云は大切に見やふこと。この字のかかる身分で違はないが、某前々云、周公之道と云は老中之道なれとも、やはり浪人の孔子の道即儒者之道なり。禹稷顔囘と並へるもやはり儒者の道のことなり。孔子や顔子も出れは王者の業、引こめは教学すると云やふなものなり。孔明の孔明たる所は儒者の氣象と云処のこと。はたらきの所のことてなし。孔明は張良に及はぬか、この儒者之のと云字のかかるのか本阿弥のきはめた。張良は孔明より懐手で高い黄老の学て、後は赤松子に従ったと云も功成名遂身退の老子なり。それは自私の異端流のかしこさなり。孔明は成敗利鈍のことからか圣賢の氣象ありて、義理の當然と見てかかる。謀畧の軍術のと云ことを取て程子のほめはせぬ。儒者の氣象と云は孔孟の思召に叶ふたを云。張良陳平を主として漢唐の間大勢手のあるはたらきものは孔孟の前へ取上けぬ。其ものともは魂を入かへてやら子はならぬ。孔明はここの魂からかよい。なるほと珎客なり。
【解説】
周公の道は老中の道であり、浪人だった孔子の道は儒者の道である。孔明の孔明たる所は儒者の気象という処で、働きの所のことではない。孔明は張良に事業では及ばないが、張良は異端流の賢さでそれを行った。孔明は義理の当然を見て行った。魂がよいのである。
【通釈】
ここに孔明のことを三条並べてあり、上にある王佐の心の条は貶[おと]し、これからの二条は褒めたこと。この章は上の王佐之心を言葉を変えて出したもの。儒者の気象と言うところを大切に見なさい。この字の掛かる身分に違いはないが、私が前々から言う、周公之道とは老中之道のことで、やはり浪人の孔子の道は即儒者之道なのである。禹稷顔回と並べるのもやはり儒者の道のこと。孔子や顔子も出れば王者の業、引き込めば教学をするという様なもの。孔明の孔明たる所は儒者の気象という処で、働きの所のことではない。孔明は張良に及ばないが、この儒者之という字が掛かるのが本阿弥の極めである。張良は孔明よりも懐手で高い黄老の学で、後には赤松子に従ったというのも「功成名遂身退」の老子の学である。それは自私の異端流の賢さである。孔明は「成敗利鈍」のことからも聖賢の気象があって、義理の当然と見て掛かる。程子は謀略や軍術ということを指して褒められはしない。儒者の気象とは、孔孟の思し召しに叶うことを言う。張良や陳平を主として漢唐の間にいた大勢の上手な働き者は孔孟の前へは取り上げない。その者共は魂を入れ替えて遣らなければならない。孔明はここの魂がよい。なるほど、珍客である。
【語釈】
・本阿弥…刀剣鑑定の家系。始祖妙本は足利尊氏の時の人。鑑定家の異称。
・赤松子…漢書列傳張陳王周伝。「良乃稱曰、家世相韓、及韓滅、不愛萬金之資、爲韓報仇彊秦、天下震動。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸、位列侯、此布衣之極、於良足矣。願棄人間事、欲從赤松子游耳」。
・功成名遂身退…老子運夷。「功成名遂身退天之道」。
・成敗利鈍…後出師の表。「臣鞠躬尽力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣之明所能逆覩也」。


第十二 孔明庶幾禮樂条

孔明庶幾禮樂。
【読み】
孔明は禮樂に庶幾[ちか]し。
【補足】
・この条は、程氏遺書二四にある伊川の語。

ここの御免が大な手抦なり。隋文中子が使孔明而無死礼樂其有興乎と云て判を押したか、それを程子の礼樂興ると請合れぬか、垩賢の礼樂にちかいふりかあるとなり。だたい礼樂は周公旦ぎりで御暇乞なり。礼樂はもと圣賢の天下を治るとき興ること。それに庶幾と云。どふなれは、孔明は英雄豪傑の手段てをさぬ人。そこを云。三代の後天下を治た君も宰相も礼樂に遠ひ。高祖三尺の劍て儒者は入らぬと云か礼樂めかぬ。其柏子かぬけると迹はあかり兜の雨。死たあとへ豪傑はのこらぬ。呂后か天下を乱すになる。太閤もそふなり。礼樂は人の心を維持するものなり。劉備か天下一統したら圣賢の世にもをさ々々をとらぬやふな仕向にせうと云か程子の目利なり。某嘗て説、孔明か事の見へるは八陣の圖や軍術の上は人々近付なり。程子のあの御免しは学問あるを云。小学にも載てある。戒子書にも靜以脩身儉以養徳非澹泊云々なとても儒者の氣象か見へる。志を得たら礼樂にも庶幾かろふ。只あの働きのことでなし。迂斎庶幾は外から礼樂の望かける口上となり。そろ々々礼樂へ行へき御老中じゃと云こと。もちっとで礼樂へゆくなり。そこて叔孫通の制礼とは違ふ。高祖かあの通り豪傑て天下を一統して、朔望の朝義も火消屋鋪の鳶の者の底にて、劍をぬいて柱へ疵をつけたりさわひたりするに高祖もこまり、叔孫通に礼を云付たれとも、たたいあの通りのこと。三尺の劍て取た人、中々礼樂めかぬ。そこて迹の仕手かない。世々圣賢の天下一統したはあとか違ふ。風の浪の靜なり。そこて孔明はしっとりと儒者の道から治めやふなり。然れは礼樂に近かるべし。
【解説】
礼楽は本来聖賢が天下を治める時に興るもので、劉備が天下を統一していたら聖賢の世にも劣らない仕向けをしただろう。孔明は儒者の道から治めようとするから礼楽に近い。
【通釈】
ここの御許しが大きな手柄である。隋の文中子が「使孔明而無死礼楽其有興乎」と言って判を押したが、それを程子が、礼楽興るとは請け合われず、聖賢の礼楽に近い風があると言った。そもそも礼楽は周公旦だけで、それ以外は御暇乞いである。礼楽は本来聖賢が天下を治める時に興ること。それに「庶幾」と言う。それはどう言うことかと言うと、孔明は英雄豪傑の手段て推さない人で、そこを言ったこと。三代の後天下を治めた君も宰相も礼楽から遠い。高祖が三尺の剣で儒者は要らないと言ったのが礼楽めかないこと。拍子が抜ければ、後は上り兜に雨である。高祖が死んだ後に豪傑は残っておらず、呂后が天下を乱すこととなった。太閤も同じである。礼楽は人の心を維持するもの。劉備が天下を統一していたら聖賢の世にも少しも劣らない様な仕向けをしただろうと言うのが程子の目利きである。私が嘗て説いたことだが、孔明の事上が見えるのは八陣の図や軍術の上であって、それは人々がよく知っていること。程子のあの御許しは学問のあることを言ったこと。小学にも載せてある。戒子書にも「静以修身倹以養徳非澹泊云々」などとあり、儒者の気象が見える。志を得たら礼楽にも庶幾いだろう。ただ、あの働きのことだけではない。迂斎が、庶幾とは外から礼楽の望みを掛ける口上だと言った。そろそろ礼楽へ行くべき御老中だということ。もう少しで礼楽へ行く。そこで、これは叔孫通の制礼とは違う。高祖があの通り豪傑で天下を統一したので、朔望の朝儀も火消屋敷の鳶の者の様で、剣を抜いて柱へ疵を付けたり騒いだりするのに高祖も困り、叔孫通に礼を言い付けたが、そもそもあの通り、三尺の剣で取った人だから中々礼楽めかない。そこで後の仕様がない。世々聖賢が天下を統一したのは後は違う。風の浪の静である。孔明はしっとりと儒者の道から治めようとする。そこで、礼楽に近いことだろう。
【語釈】
・使孔明而無死礼樂其有興乎…文中子。「使孔明而無死、礼樂其有興乎」?
・あかり兜…上り兜。揚り甲。端午の節句に飾る紙製のかぶと。
・小学にも載てある…小学外篇嘉言。「胡文定公曰、人須是一切世味淡薄方好、不要有富貴相。孟子謂堂高數仭食前方丈侍妾數百人、我得志不爲。學者須先除去此等常自激昂。便不到得墜堕。常愛諸葛孔明當漢末躬耕南陽不求聞達、後來雖應劉先主之聘宰割山河三分天下、身都將相手握重兵、亦何求不得何欲不遂、乃與後主言成都有桑八百株薄田十五頃、子孫衣食自有餘饒、臣身在外別無調度不別治生以長尺寸、若死之日不使廩有餘粟庫有餘財以負陛下、及卒果如其言。如此輩人眞可謂大丈夫矣」。
・靜以脩身儉以養徳非澹泊…戒子書。
・叔孫通…前漢の儒者。号は稷嗣君。山東薛の人。高祖に仕えて朝儀を制定。恵帝の時、奉常卿として宗廟などの儀法を定め、太子太傅となる。


第十三 文中子條

文中子本是一隱君子。世人往往得其議論、附會成書。其閒極有格言。荀・揚道不到處。
【読み】
文中子は本是れ一隱君子なり。世人往往に其の議論を得、附會して書を成す。其の閒に極めて格言有り。荀・揚の道[い]い到らざる處なり。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある伊川の語。

文中子本是一隠君子。漢から唐の間へ文中子を載た。さて文中子は隋の文帝へ顔を出し、太平策なとも上たか用ひられす隠遁して若死せり。あの時分、あとにも先にも文中子にて、道理尊んた人なり。世人往々得其議論附會成書。よほとよいに極ったは、人か文中子か語を立にして附會し、一書として、あれか書とす。実は手前の編てなし。荀揚道不到處。文中子も程子の云るるて挌式かよくなった。荀揚は人の貴ふもの。温公も注したが、文中子には格言かあり、荀揚は及はぬと云。文中子は語の体かよい。其餘の者は一つ云て見やふとしてのこと。文中子はそふ見へぬ。人見よかしはせぬ。何のことなく見へて体かよい。そこて程子の思召に叶へり。
【解説】
文中子は道理を尊んだ人である。彼は朝廷に用いられず、隠遁して若死にした。彼は人に見せびらかしはしない。何事もなく見えて体がよいのである。
【通釈】
「文中子本是一隠君子」。漢から唐の間に文中子を載せた。さて文中子は隋の文帝の前に顔を出し、太平策なども上奏したが用いられずに隠遁して若死にした。あの時分は後にも先にも文中子だけしか挙げられず、彼は道理尊んだ人である。「世人往々得其議論附会成書」。よほどよいと言う証拠は、人が文中子の語をたてにして附会し、一書として彼の書とした。実は自分の編ではない。「荀揚道不到処」。文中子も程子が褒めたので格式がよくなった。荀揚は人の貴ぶもの。温公もそれの注をしたが、文中子には格言かあり、荀揚はそれに及ばないと言う。文中子は語の体がよい。その他の者は一つ言って見ようとしてのこと。文中子はその様には見えない。人に見せびらかしはしない。何事もなく見えて体がよい。そこで程子の思し召しに叶うのである。
【語釈】
・文中子…隋の王通の敬称。また、その著「中説」の別称。
・附會…自分の議論を付け加えること。


第十四 韓愈亦近世豪傑之条

韓愈亦近世豪傑之士。如原道中言語、雖有病、然自孟子而後、能將許大見識尋求者、才見此人。至如斷曰孟子醇乎醇、又曰荀與揚擇焉而不精、語焉而不詳、若不是他見得、豈千餘年後、便能斷得如此分明。
【読み】
韓愈も亦近世の豪傑の士なり。原道の中の言語の如き、病有りと雖も、然れども孟子より後、能く許大の見識を將[もっ]て尋求する者、才[わずか]に此の人を見る。斷じて孟子は醇乎として醇なりと曰い、又荀と揚とは擇びて精しからず、語りて詳らかならずと曰うが如きに至りては、若し是れ他[かれ]に見得るにあらずんば、豈千餘年の後に、便ち能く斷じ得て此の如く分明ならんや。
【補足】
・この条は、程氏遺書一にある。

豪傑之士はもと孟子の文字なり。つまりここへ出したは師匠なしに出来る人を云。圣賢の門に居てもはき々々ないかある。然るに垩賢の代を去って出来たは結搆なり。如原道中云々。韓文の原道なり。有病は葉解に挙た説がよし。程子の意はそれをすてて自孟子と云か韓氏の大な処なり。この間には孔安國馬融を始として大勢あれとも取らぬ。許大。したたかと云こと。この見識か人を後立にしたでなく、手前で新くふるひ出したものなり。尋来は取にくひ字なり。学問したと云やふなこと。漢唐の間六經の註も出来たれとも、許大の見識なく、文字訓詁の上甲斐ないことて字引学問なり。韓子は許大の見ありて、垩賢の思召を尋もとめてしたなり。此の多いうちをふるいぬいて少し出すか大眼力なり。ここへ付ぬことなれとも、見処と云は別なことて、直方先生、全蒙擇言か大全蒙引を取てなく、あの中て少し秡出し紙十枚ほどてこれぎりとなり。道理を見たからのこと。直方のそれと云も程子から来たものなり。才見此人は、漢唐文物明かなるに、其中て只一人と云。このやふな処見子は道統は見られぬ。僅この人ぎりと云がさへたこと。それで程子も見へる。
【解説】
「韓愈亦近世豪傑之士。如原道中言語、雖有病、然自孟子而後、能將許大見識尋求者、才見此人」の説明。韓愈は師匠がいなくても成る人物である。彼は大きな見識で聖人思し召しを尋ね求めた。
【通釈】
「豪傑之士」は元々孟子の文字である。つまりここへこれを出したのは、師匠がいなくてもできる人を言ったこと。聖賢の門にいてもはっきりとしない者がいる中で、聖賢の代が去っても出て来たのは結構なこと。「如原道中云々」。韓愈の原道のことである。「有病」は葉解で挙げた説がよい。程子の意は、その病があったとしても孟子より後は彼以外にいないとしたもので、それが韓氏の大きな処である。この間には孔安国や馬融を始めとして大勢の儒者がいたが、それ等は採らない。「許大」。したたかということ。この見識が人を後ろ楯にしたのではなく、自分で新しく奮い出したもの。「尋来」はわかり難い字だが、学問をしたという様なこと。漢唐の間には六経の註もできたが、許大の見識がなく、文字訓詁の上だけで甲斐のない字引学問だった。韓子は許大の見があって、聖賢の思し召しを尋ね求めてした。この多い内から奮い抜いて少し出すのが大眼力である。ここには合わないことだが、見処とは特別なことで、直方先生が、全蒙択言は大全蒙引を取ったものではなく、あの中から少し抜き出して紙十枚ほどだけにして、それで全てとしたもの。それは道理を見たからのことで、直方がその様に言うのも程子から来たもの。「才見此人」は、漢唐は文物が明らかなのだが、その中でただ一人だけだということ。この様な処を見なければ道統は見ることはできない。僅かにこの人だけと言ったのが冴えたこと。それで程子の冴えも見ることができる。
【語釈】
・豪傑之士…孟子尽心章句上10。「孟子曰、待文王而後興者、凡民也。若夫豪傑之士、雖無文王猶興」。滕文公章句上4にもこの語がある。
・孔安國…前漢の儒者。字は子国。孔子一二世の孫。
・馬融…字は季長。右扶風郡茂陵の人。安帝の永初四年(110)、校書郎に任ぜられた。鄧太后にさからって「広成頌」を上書したため、禁錮にあった。太后の死後、郎中として召され、のち議郎・武都太守・南郡太守などを歴任した。79~166

断曰孟子醇乎醇と云が韓氏の株なり。温公は疑たゆへ無学と云。許大の見式て尋来たかこれなり。孔子とは違ふたやふなことを云はるる其孟子を醇乎醇と云。然れば温公無学がのがれぬ。又曰荀與楊云々。楊子は論語に似て甚下作なり。見所ないゆへなり。擇而不精も見て取たこと。孟子と荀子を幷べそうなことなるに、斯ふ云か韓氏、眼なしには切て出されぬ。千歳の後孟子を見た計て韓氏か株になる。韓氏これてからだがのび々々、それて株なり。温公は疑たはかりて学者仲ヶ間に入らぬ。然れば道統は身持のことてなし。知見か大切なり。道統は中庸の心法、それは大学のこと。其致知がすま子ば道統は得られぬ。韋斎の大中一致と云はるる。楊羅の傳なり。其様なことも爰へ入用と見べし。
【解説】
「至如斷曰孟子醇乎醇、又曰荀與揚擇焉而不精、語焉而不詳、若不是他見得、豈千餘年後、便能斷得如此分明」の説明。韓愈は孟子を高く評価し、荀子と揚雄を低く見たが、千歳の後にその様に言えるのが韓愈の株である。
【通釈】
「断曰孟子醇乎醇」と言うのが韓氏の株である。温公は疑ったので無学と言う。許大の見識で尋ね来たのがこれである。孔子とは違う様なことを言われる孟子を醇乎醇と言う。それで、温公は無学から逃れることはできない。「又曰荀与揚云々」。揚子は論語に似ているが、甚だ下作である。それは見所がないからである。「択而不精」も見て取ったこと。孟子と荀子は並べて言いそうなものだが、こう言うのが韓氏であり、眼がなければこの様に切って出すことはできない。千歳の後孟子を見ただけでも韓氏の株になる。韓氏はこれで体が伸び伸び、それで株となる。温公は疑っただけで学者の仲間には入らない。そこで、道統は身持ちのことではなく、知見が大切なのである。道統は中庸の心法で、それは大学のこと。その致知が済まなければ道統は得られない。韋斎が大中一致と言われた。楊羅の伝である。その様なこともここには入用だと見なさい。
【語釈】
・韋斎…朱韋斎
・楊羅…


第十五 學本是脩徳条

學本是脩德。有德然後有言。退之卻倒學了。因學文日求所未至、遂有所得。如曰軻之死不得其傳、似此言語、非是蹈襲前人、又非鑿空撰得出。必有所見。若無所見、不知言所傳者何事。
【読み】
學は本是れ德を脩むるなり。德有りて然して後に言有り。退之は卻って倒[さかしま]に學べり。文を學ぶに因りて日に未だ至らざる所を求め、遂に得る所有り。軻の死するや其の傳を得ずと曰うが如き、此の似[ごと]き言語は、是れ前人を蹈襲せしに非ず、又鑿空して撰び得出せしに非ず。必ず見る所有りしならん。若し見る所無くんば、傳うる所の者何事ぞと言うを知らざりしならん。
【補足】
・この条は、程氏遺書一八にある伊川の語。

学而時習か学と云は我か知ぬことを知り、我得ならぬことを仕習ふてよくする。ここも知行をそろへて云。学問は徳の脩覆。其脩覆は学問そ。知行の二つなり。そこて論孟が尊ひ。論孟から六経、それから発する。退之却倒学了。呵て云た語てなし。そこか文義の見やふなり。三代の世に生れ出す、當時教ないゆへに学而徳を脩ることを知らぬ。文学には游夏と云ゆへ文字かあたり前と思て文を学んた時に、文者載道之器ゆへ文を学ふ内に思はず道を知た。いかさま古書の文かそらためにならぬ。四書を見、或は六經を見合子はならぬ。其中にそれからして道理を得たもの。文から道を得たゆへ倒に学と云。ここはあの人の身に取ては目出度咄なり。そこて倒学を呵るは天下へ出して云こと。舜の司徒三代の学校てはそふはないはつなり。此時天下に教はない。
【解説】
「學本是脩德。有德然後有言。退之卻倒學了。因學文日求所未至、遂有所得」の説明。学問は徳の修復のためにするもので、知行の両方をすること。本来は徳を修めて文を成すものだが、韓愈は文から道を得たので「倒学」と言う。韓愈の時代には教えがなかったのである。
【通釈】
「学而時習」で学と言うのは、自分が知らないことを知り、自分のできないことを習ってよくすること。ここも知行を揃えて言う。学問は徳の修復。その修復は学問からであり、知行の二つである。そこで論孟が尊い。論孟から六経、それから発する。「退之却倒学了」。これは呵って言った語ではない。そこが文義の見方である。三代の世に生れず、当時に教えがないので学んで徳を修めることを知らない。文学には游夏と言うので文学が当たり前と思って文を学んでいると、「文者載道之器」なので文を学ぶ内に思わず道を知った。まさに古書の文は空頼めにならない。四書を見、或いは六経を見合わせなければならない。その内にそれから道理を得る。文から道を得たので「倒学」と言った。ここはあの人の身に取っては目出度い話である。そこで倒学を呵るのは天下へ出して言う時のこと。舜の司徒三代の学校ではそうでない筈だが、この時は天下に教えがなかったのである。
【語釈】
・学而時習…論語学而1。「子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。
・文学には游夏…論語先進2。「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行、顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏」。
・文者載道之器…朱子。

さてこれをのけては羅山鳩巣の二先生なり。初め善き師を取らす、天下一統学問は字をよむことと心得た時節ぞ。文を一大事とした。文から道理を知たなり。羅山先生我國へ程朱の学を開たは莫大なこと。あのときまては古注を用ひ、四書の朱註をよむものもないに、文を学ぶからして朱註のよいと云ことを知て、それから公儀でも今以て朱註を尊べり。然るに徂徠は文からして朱子をすてる。これはどふしても朱子の云はるる悪魔外道の筋そ。然れは文て道理を會したは韓子なり。此方ては羅山なり。自ら云はるるにも凡そ文章は文選に本つく。其文選を見れは六經から出ぬことはないと、本つく処から道理を知られたなり。日本ては昔仏經を内典とし、儒書を外典と云。これは日本きりのこと。儒学を字のことと心得た。徂徠それをほめぬもいかかなり。論語と伯氏文集を一つに取扱ふた。これてあのときのことは知れる。然れは惶窩道春は各別なことなり。
【解説】
日本でも文から道理を知った。羅山が出るまでは古注を用い、四書の朱註を読む者もいなかったが、文を学んで朱註がよいことを知り、それで今でも朱註が尊ばれている。
【通釈】
さて、韓愈を除いては羅山と鳩巣の二先生である。最初に善い師を取らず、天下一統の学問は字を読むことと心得ていた時節である。文を一大事とした。文から道理を知ったのである。羅山先生が我が国へ程朱の学を開いたのは莫大なこと。あの時までは古注を用い、四書の朱註を読む者もいなかったが、文を学ぶことから朱註がよいということを知って、公儀でもそれからは今に至るまで朱註を尊んでいる。それなのに、徂徠は文からして朱子を捨てる。これはどうしても朱子の言われた悪魔外道の筋である。そこで、文で道理を会したのは韓子であり、日本では羅山である。凡そ文章は文選に基づき、その文選を見れば六経から出ないことはないと自ら言われた。基づく処から道理を知られたのである。日本では昔、仏経を内典とし、儒書を外典とした。しかし、これは日本だけのこと。儒学を字のことと心得た。徂徠がそれを褒めないのはどうしたことだろう。論語と伯氏文集を同じく取り扱った。これであの時のことは知れる。そこで、藤原惺窩と林羅山は格別なのである。
【語釈】
・伯氏文集…唐の白居易の詩文集。

軻之死不得其傳云々。韓氏は文章々々と目かけ道を得た。そこて彼原道なり。性理の方へも行たゆへ道統のことか出た。軻之死不得其傳と云は書物よみの知ぬこと。司馬選か卓越の才で多く古人を評しても、こんなこと見ることはならぬ。韓氏の眼力は孟子の没後火は消たとなり。孟子の後あとの賑かな漢の經術に斯く云は見て取たに極まる。偖、文章は下卑たこと。孟子と文選幷べたときに、文の上ては腕をしなり。韓氏か見て、孟子の後道を得たものなし、と。そこて程子の御喜て、非是蹈襲前人云々なり。誰ぞがそふ云たか、そふ云ものはない。蹈襲でなし。中々司馬選や班固か眼には見へぬ。非鑿空撰得出。知ずに云あてたではない。鑿空は漢書の文字なり。鑿は開く、空は通するを云。鑿[あな]を明たれは通すると云こと。西域への開き通したを云。若無所見不知言所傳何事。只云はれぬ。只傳を得ぬと云ては儒者か大勢あるときにこまる。軻之死たとしたそこをよく見たで道統の傳の祖師も韓氏かなる。この傳のことも程子の口からは云ひそふなこと。あのとき云はれぬことなるに、韓氏見所あるなり。偖、先も云とをり、編集の意孟子から道かたへて周子継けり。其間へ漢唐の諸子を入れたはこちの道統を照り合せる為なり。集解のやふに統はつか子とも名教の補になるからと云ふは近思の坐鋪て云ふ口上てはない。
【解説】
「如曰軻之死不得其傳、似此言語、非是蹈襲前人、又非鑿空撰得出。必有所見。若無所見、不知言所傳者何事」の説明。「軻之死不得其伝」が韓愈の眼力である。それは踏襲して言ったのでもなく、当て推量で言ったのでもない。
【通釈】
「軻之死不得其伝云々」。韓氏は文章を目掛けて道を得た。そこで、あの原道である。性理の方へも行ったので道統のことが出た。「軻之死不得其伝」は書物読みの知らないこと。司馬遷が卓越の才で多くの古人を評しても、こんなことを見ることはできない。韓氏の眼力では、孟子の没後火は消えたと言う。孟子の後、賑やかな漢の経術の中でこの様に言うのは、見て取ったということに極まる。さて、文章は下卑たこと。孟子と文選を並べた時に、文の上では互角である。韓氏がそれを見て、孟子の後に道を得た者はいないと言った。そこで程子が喜んで、「非是踏襲前人云々」と言った。誰かがそう言ったか、その様な者はいない。踏襲ではない。司馬遷や班固の眼では中々見えないこと。「非鑿空撰得出」。知らずに言い当てたのではない。鑿空は漢書の文字である。鑿は開く。空は通じることを言う。鑿を開ければ通じるということ。西域へ開き通じたことを言う。「若無所見不知言所伝何事」。これが簡単には言えないこと。ただ伝を得ないと言っては儒者が大勢いるのに困る。「軻之死」とした、そこをよく見たので韓氏が道統の伝の祖師にもなる。この伝のことも程子の口からは言いそうなこと。あの時代は伝と言えないものだったが、韓氏に見所があったからその様に言う。さて、前にも言った通り、この編集の意は孟子から道が絶えて周子がこれを継いだということ。その間に漢唐の諸子を入れたのは、こちらの道統を照り合わせるためである。集解の様に、統は継がなかったが名教の補になるから載せたのだと言うのは、近思の座敷で言う口上ではない。
【語釈】
・腕をし…腕押し。腕で押すこと。腕相撲。
・鑿空…漢書張騫李廣利伝集註。「蘇林曰、鑿、開也。空、通也。騫始開通西域道也。師古曰、空、孔也。猶言始鑿其孔穴也。故此下言當空道、而西域傳謂孔道也」。


第十六 周茂叔胷中灑落条

周茂叔胸中灑落、如光風霽月。其爲政、精密嚴恕、務盡道理。
【読み】
周茂叔は胸中灑落にして、光風霽月の如し。其の政を爲すこと、精密嚴恕にして、務めて道理を盡くせり。
【補足】
・この条は、前半は黄山谷の濂渓詞の序に、後半は潘延之の濂渓先生墓誌銘にある。

兎角に道統を得るは心法のこと。何ほと学問にはばがありても心法かまいら子はとうも道統は得られぬ。なせなれは、尭舜精一の訓か道統の心法の始りなり。そこて子思の中庸を作られ、道統の心法をあの書中にあらわせり。事てなくはばてなく、心法のことなり。周子の不傳學を継於遺経も圣賢の道を胷へ得られたもの。漢唐さま々々云ふか、其やふにわるいではなく、大違はないゆへ程朱もとれり。然るにどこか違ふなれば、書の上事の上て説て心へこぬ。それか道を得ぬなり。どふぞ心へやりたかろふかやらぬ。書は自書、我は自我ゆへなり。尭舜孔孟に御目にはかから子とも、あの道理が心へくれは道統、朱子の理与心と云はるるか大切のことなり。書をよむに事の上の違てなく、心へ來た所の違ひなり。其道統の人を黄山谷か云あてたなり。道統のこと云ならは明道伊川の云べきに、山谷か云あてたも筋あり。そこて李延平のいこう馳走せり。この句て周子の画姿を書ぬききったなり。灑落はさっはりとしてすすぎ上けたやふな底。灑落の文字は字義の上て云ことてはなけれども、然れとも字義て説のもきこへた。灑はそそくと云訓にて、水て洗ふこと。落はほろりと落るやふな底。水の縁もじう々々しみつくはいやなこと。水をさっとかけてほろりと落たやうなていは胸に滞らぬなり。直方の云へる、こげつかぬのなり。惣体人欲を馳走すると胷へこげつく。善悪ともに不断胷へ滞りて喜怒哀樂のはたらきかこげ付、善ひことも何と見たかと云。我勝手や得をとることは尚更のことなり。洒落は先軰の過化存神のやふなり。朱子の孟子の注とは違ふ。去れとも朱子の先軰の説も面白と云てあり。因某先輩の説と云。無送迎無内外て胷へ滞らぬ。過化存神は洒落の模様。留在期待に過化存神洒落の体はない。へったりと持れたことないゆへ、さらりとあらひあけたやふなり。
【解説】
「周茂叔胸中灑落」の説明。道統を得ると言うのは心法のこと。周子の胸中は灑落だった。灑落とは焦げ付かないこと。人欲があると胸が焦げ付く。
【通釈】
とかく道統を得ると言うのは心法のこと。どれほど学問に幅があるにしても、心法ができなければどうも道統は得られない。それは何故かと言うと、堯舜の精一の訓が道統心法の始りだからである。そこで子思が中庸を作られ、道統の心法をあの書中に著わした。それは事でも幅でもなく、心法のこと。周子の「不伝之学継於遺経」も聖賢の道を胸へ得られたこと。漢唐を様々と言うが、それほど悪いわけではなく、大きな違いはないので程朱も採った。しかし、どこが違うのかと言うと、彼等は書の上や事の上で説くだけで心へ来ない。それが道を得ないということ。何とかして心へ遣りたくてもそれができない。それは、書は書、自分は自分と別々だからである。堯舜孔孟に御目には掛からなくても、あの道理が心へ来れば道統であり、朱子の「理与心」と言われたのが大切なこと。書を読んでの事上の違いではなく、心へ来た所の違いである。その道統の人を黄山谷が言い当てた。道統のことを言うのなら明道や伊川が言うべきことなのに、山谷が言い当てた。しかしそれにもわけがある。そこで李延平が大層褒めた。この句で周子の画姿を書き抜き切った。灑落はさっぱりとして灑ぎ上げた様な底。灑落の文字は字義の上で言うことではないが、しかしながら、字義で説いてもよくわかる。灑は灑ぐという訓で、水て洗うこと。落はぽろりと落ちる様な底。水の縁もじめじめと染み付くのは嫌なこと。水をさっと掛けてぽろりと落ちた様な体だと胸に滞らない。直方の言った、焦げ付かないということ。総体人欲を馳走すると胸が焦げ付く。善悪共に絶えず胸へ滞って喜怒哀楽の働きが焦げ付き、善いことであってもどんなもんだと自慢する。自分勝手や得を取ることでは尚更である。洒落は先輩が言った「過化存神」の説の様なこと。それは朱子の孟子の注とは違う。しかしながら、朱子も先輩の説も面白いと言っている。そこで私も先輩の説と言った。「無將迎無内外」で胸に滞らない。過化存神は洒落の模様。留在や期待に過化存神洒落の風はない。べったりと持たれることがなく、さらりと洗い上げた様なこと。
【語釈】
・尭舜精一の訓…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
・不傳學を継於遺経…
・書は自書、我は自我…朱子語類大学3。「此一箇心、須毎日提撕、今常惺覺。頃刻放寬、便隨物流轉、無復收拾。如今大學一書、豈在看他。言語、正欲驗之於心如何。如好好色、如惡惡臭、試驗之吾心、好善、惡惡、果能如此乎。閒居為不善、見君子則掩其不善而著其善、是果有此乎。一有不至、則勇猛奮躣不已、必有長進處。今不知為此、則書自書、我自我、何益之有大雅」。
・理与心…
・過化存神…孟子尽心章句上13。「夫君子所過者化、所存者神」。
・無送迎無内外…為学4。「明道先生曰、所謂定者、動亦定、靜亦定、無將迎、無内外」。

如光風霽月。これは胷中洒落ゆへ光風霽月のやふじゃと云たなれとも、丁寧に見ればそふ説ては面白くない。この句は最ふ一つ別に云たことなり。これはこれて又模様を云。うえは全体、これか其上に一つ形容を立て云。光風はじと々々せぬ風のこと。霽月は朧てないこと。是は其裏から云弁なり。南風なと云いやな風あるもの。月も児女の云笠を冠ったと云のかそれ。風もじと々々、月も笠かむったと云はをもしろくない。尓雅に春晴而風曰光風とあり、春向きによく晴た日によい風と云ことあるもの。この風にもそっとこふして居たいと云ことかあるもの。それか光風なり。これを絲遊と云やふに説くは望みないそ。歌人や詩人の野馬糸遊なとと云ふ様には形容したふない。光風はしめり氣のないを云。仁の氣象のときは絲遊などと云かよし。これにそれはあしし。さて又霽月はつめたい月なり。こんなとき入らざる仁氣を云はわるい。無極而太極を云人なり。そこへ仁の滋味親切を云よりさらりと説たい。胷の中に人欲かなくは、あとは無極而太極なり。太極圖の上の丸のなりか身にかたまりたゆへ塵も灰もつかぬ。無極而太極のなりか胸になったゆへ洒落なり。打見た処、光風のやう、霽月のやうなり。そこを滋味親切なとと云は靣白からず。ときにこれを山谷か云たはつなり。あれは全体詩人なり。然し詩人と云ても李杜とは違ふ。さひ々々した処をすく人。我詩の方へ合ったゆへ周子は違ったものじゃ、胷中灑落光風霽月と得手たから言あてたものなり。詩や名歌、この方のことに合ふものなり。本に周子の道を得たてなく、度々出會て格段とみたものなり。
【解説】
「如光風霽月」の説明。また、周子は光風霽月の様だとも言う。無極而太極の姿が胸に成ったので灑落であり、それを覗いた処は、光風の様、霽月の様だということ。ここで滋味親切などと言うのでは面白くない。
【通釈】
「如光風霽月」。胸中が洒落なので光風霽月の様だと言ったのだが、丁寧に見ればその様に説いては面白くない。この句はもう一つ別に言ったことで、これはこれでまた周子の模様を言ったこと。上は全体を言い、これでその上に一つ形容を立てて言ったのである。光風はじとじととしない風のこと。霽月は朧でないこと。これは裏から言った弁である。南風などという嫌な風がある。月も児女の言う笠を冠るということがある。風もじとじと、月も笠を冠るというのでは面白くない。爾雅に「春晴而風曰光風」とあり、春向きによく晴れた日によい風があるもの。この風の中でもう少しこうしていたいということがあるもの。それが光風である。これを絲遊という様に説くのは望みがない。歌人や詩人が野馬糸遊などと言う様には形容したくない。光風は湿り気のないことを言う。仁の気象の時は絲遊などと言うのがよいが、これにそれは悪い。さてまた霽月は冷たい月のこと。こんな時に入らない仁気を言うのは悪い。無極而太極をいう人なのだから、ここでは仁の滋味親切を言うよりもさらりと説きたい。胸の中に人欲がなければ、後は無極而太極である。太極図の上の丸の姿が身に固まったので塵も灰も付かない。無極而太極の姿が胸に成ったので洒落である。覗いた処は、光風の様、霽月の様である。そこを滋味親切などと言うのは面白くない。時にこれを山谷が言った筈で、彼は一体が詩人である。しかし詩人と言っても李白や杜甫とは違い、寂寂とした処を好く人だった。自分の詩風に合ったので周子は違った人だ、胸中が灑落光風霽月だと、詩が上手だから言い当てたのである。詩や名歌はこちらのことに合うもの。彼は本当に周子の道を得たのではなく、度々出会って格段な人だと見たのである。
【語釈】
・春晴而風曰光風…爾雅?
・絲遊…陽炎。
・野馬…陽炎。

其為政精蜜嚴恕務盡道理。上の句はあちへ持てゆくと隠者や詩人、それから茶人も使はふと云ゆへ、この下の句なり。上は山谷、この語は余の者の云たこと。二つ一つにするて周子なり。世間の人は光風霽月、向の蓮と思ふ。それは隠者めく。夫では道統は語られぬ。周子は其氣象で、さて政へ出た処が別なり。政事か如此と座を改めてきくことなり。潘延之か墓誌の語なり。周子の政務と云は淵源録にある通りの御役つとめられたときのことなり。つまり大腹中にせぬ政なり。某毎々云ふ、政事のことは英雄豪傑でゆかぬと云かこのことなり。大さや力では子を取ふと云か史記や左傳て見る人の了簡なり。政は一々細てなけれはならぬ。精蜜は高くくくらぬこと。朱子の同安の任至官謹敏纖悉必親らすと黄勉斎か書てあり。道統の人は氣質は出さぬ。朱子と周子とは合そふもないやふて一つに落る。これか明道に周子、伊川に朱子は同しふりて有ふと思ふは氣象を外から除いた者のことなり。罷り出て事をするときは皆理てするゆへ氣質と云ことはない。皆同し処へゆく。
【解説】
「其爲政、精密嚴恕」の説明。周子は胸中灑落光風霽月で隠者めいているが、政事の上では格別である。その政は精密なものだった。道統の人は政事に気質を出さず、皆理でする。
【通釈】
「其為政精密嚴恕務盡道理」。上の句はあちらに持って行くと隠者や詩人、それから茶人も使うだろうというので、この下の句がある。上は山谷の作で、この語は他の者が言ったこと。二つを一つにするので周子となる。世間の人は光風霽月、向こうの蓮と思う。それでは隠者めく。それでは道統は語れない。周子はその気象を持っており、そこで政へ出た処が格別なのである。政事とはこの様に座を改めて聞くもの。これは潘延之の墓誌の語である。周子の政務とは、淵源録にある通りの御役を勤められた時のこと。つまり大腹中にしない政である。私が毎々言っていることだが、政事のことは英雄豪傑ではうまく行かないと言うのがこのこと。大きさや力ではねを取ろうとするのが史記や左伝に見える人の了簡である。政は一々細かでなければならない。精密は高を括らないこと。朱子の同安の任至官謹敏纖悉必親らすと黄勉斎が書いている。道統の人は気質を出さない。朱子と周子とは合いそうもない様で一つに落ちる。これを明道と周子、伊川と朱子は同じ風体だと思うのは気象を外から覗いた者の言うこと。罷り出て事をする時は皆理でするので気質ということはない。皆同じ処へ行く。
【語釈】
・朱子の同安の任至官謹敏纖悉必親らす…
・黄勉斎…名は幹。字は直卿。1152~1221

さて嚴恕か甚よい字なり。爰らも細にみよ。嚴はかり人へ知れて、恕は人へ知れぬほとのことと見へし。只今の人は人に愛せられたかるゆへ、恕をは知らせたかるそ。嚴は人のいやかる字なり。嚴の字の人の機嫌わるいは、法にそむくと其分にせぬと云ゆへなり。周子は恕はこちへ取てをく。恕は人か賣たかるもの。周子に大ふ思やりはあれとも、頓と胷の中へ仕まってをく。これか某か見た所なり。今のは恕を早く知らせたかる。いやみなり。山﨑先生の門人友松勘十郎を鬼勘十郎々々々々と云た。此て會津か治ったなり。周子に嚴の字はあるまいと思ふたに、政か嚴そ。ここか太極に形ない処なり。無極而太極は易の頭書をし、其迹のことはならぬでない。政か圖説から出るなり。周子はからだが太極ゆへ光風霽月精蜜嚴恕、どこ迠も理なりぞ。やはり無極而太極なりと見れは見付たのなり。又嚴恕の二字てからが太極圖説の末に剛與柔と云。政の上も二つて嚴も恕も天地自然の形りなり。
【解説】
周子は思い遣りのある人だが、政事の上では厳な人だった。厳も恕も天地自然の姿であり、周子は体が太極なので、何処までも理の通りなのである。
【通釈】
さて「厳恕」が甚だよい字である。ここ等も細かに見なさい。周子は厳ばかりが人に知れ、恕は人に知れないほどのことだと見なさい。只今の人は人に愛されたがるので恕を知らせたがる。厳は人の嫌がる字である。嚴の字に人が機嫌を悪くするのは、法に背くとそのままにしないと言うからである。周子は、恕はこちらへ取って置く。恕は人が売りたがるもの。周子には大分思い遣りはあるが、すっかりと胸の中へしまって置く。これが私の見た所である。今の人は恕を早く知らせたがるが、それは嫌味なこと。山崎先生の門人の友松勘十郎を鬼勘十郎と呼んだ。これで会津か治まった。周子に厳の字はないだろうと思っていれば、政が厳である。ここが太極に形のない処。無極而太極は易の頭書きをするだけで、その後のことはしないということではない。政が図説から出る。周子は体が太極なので「光風霽月精密厳恕」、何処までも理の通りである。やはり無極而太極だと見れば、それは見付けたことになる。また、厳恕の二字自体が太極図説の末に「剛与柔」と言うのと同じで、政の上も二つであり、厳も恕も天地自然の姿である。
【語釈】
・友松勘十郎…
・剛與柔…道体1。「立天之道、曰陰與陽、立地之道、曰柔與剛、立人之道、曰仁與義」。

務尽道理のぎり々々とそれを仕事にせり。これて上の精蜜嚴恕か死法てないか知るる。精蜜も余り念入過きいりほがになるは尽道理てない。嚴や恕にも疵か出來て、嚴すぎるの、あまり御情けふかいゆへ下か怠ると云。務尽道理は理のぎり々々、太極なりそ。これて道統也。周子も道理は無極而太極なれとも尭典のやふにはならぬと云へは、太極か受用にならぬになる。周子はからたか無極而太極ゆへ務尽道理、本末精粗へだてはない。胷中灑落精蜜嚴恕をはり合せて周子なり。某兼て圖説後論を主張し、無極而太極か家禮迠の吟味をつめることと云かそれなり。学者か光風霽月へ計氣を付るか、爲政精蜜嚴恕を靣白からぬは周子を半分見たやふなもの。又無極而太極へ計乘りが附ても、それか二つにわれて万事になる、即三千三百の礼じゃと見付ぬ。朱解を當時細か々々と云へとも、太極圖の朱解か周子を知て分別したか後論に尽たり。因てここをとくにも太極圖を引て證すへし。この章か知れるぞ。
【解説】
「務盡道理」の説明。周子は道理の至極をすることを仕事とした。それで道統なのである。今の学者は光風霽月にばかりに目が付いて、為政精蜜厳恕を重く見ない。無極而太極が二つに割れて万事になり、三千三百の礼となることに気付いていないのである。そこで、ここは太極図を参考にして読むのがよい。
【通釈】
「務尽道理」。道理の至極をする。それを仕事にした。これで上の精密厳恕が死法でないことが知れる。精密もあまりに念を入れ過ぎて穿鑿がましくなるのは尽道理ではない。厳や恕にも疵ができると、厳過ぎるとか、あまりに御情け深いので下が怠るということになる。務尽道理は理の至極、太極の通りをすること。これで道統である。周子も道理は無極而太極だが、堯典の様にはならないと言えば、太極が受用にならないことになる。周子は体が無極而太極なので務尽道理。本末精粗隔ではない。胸中灑落精密厳恕を張り合わせての周子である。私が前から図説後論を主張し、無極而太極が家礼までの吟味を詰めることだと言うのがそこのこと。学者は光風霽月へばかりに気を付けて、為政精蜜厳恕を面白がらないのは周子を半分見た様なもの。また、無極而太極にばかり乗りが付いてもそれが二つに割れて万事になり、三千三百の礼となることを見付けない。朱解を当時細に入ると言ったが、太極図の朱解が、周子を知って分別したことをその後論で書き尽くしている。そこで、ここを説くにも太極図を引いて明らかにしなさい。それでこの章がわかる。
【語釈】
・いりほが…鑿、入穿。穿鑿し過ぎて的をはずれること。穿ち過ぎ。
・三千三百の礼…中庸章句27。「優優大哉、禮儀三百、威儀三千」。同集註。「禮儀、經禮也。威儀、曲禮也」。


第十七 明道先生行状

伊川先生撰明道先生行状曰、先生資稟既異、而充養有道。純粹如精金、温潤如良玉。寛而有制、和而不流。忠誠貫於金石、孝悌通於神明。視其色、其接物也、如春陽之温、聽其言、其入人也、如時雨之潤。胸懷洞然、徹視無閒。測其蘊、則浩乎若滄溟之無際、極其德、美言蓋不足以形容。先生行己、内主於敬、而行之以恕。見善若出諸己、不欲弗施於人。居廣居而行大道、言有物而動有常。先生爲學、自十五六時、聞汝南周茂叔論道、遂厭科擧之業、慨然有求道之志。未知其要、泛濫於諸家、出入於老・釋者幾十年。返求諸六經、而後得之。明於庶物、察於人倫。知盡性至命、必本於孝弟、窮神知化、由通於禮樂。辯異端似是之非、開百代未明之惑。秦・漢而下、未有瑧斯理也。謂孟子沒而聖學不傳、以興起斯文爲己任。其言曰、道之不明、異端害之也。昔之害、近而易知、今之害、深而難辨。昔之惑人也、乘其迷暗、今之入人也、因其高明。自謂之窮神知化、而不足以開物成務。言爲無不周遍、實則外於倫理。窮深極微、而不可以入堯舜之道。天下之學、非淺陋固滯、則必入於此、自道之不明也。邪誕妖異之説競起、塗生民之耳目、溺天下於汚濁。雖高才明智、膠於見聞、醉生夢死、不自覺也。是皆正路之蓁蕪、聖門之蔽塞。闢之而後可以入道。先生進將覺斯人、退將明之書。不幸早世、皆未及也。其辨析精微、稍見於世者、學者之所傳耳。先生之門、學者多矣。先生之言、平易易知、賢愚皆獲其益、如羣飮於河、各充其量。先生敎人、自致知至於知止、誠意至於平天下、灑掃應對至窮理盡性、循循有序。病世之學者、捨近而趨遠、處下而窺高、所以輕自大而卒無得也。先生接物、辨而不閒、感而能通。敎人而人易從、怒人而人不怨。賢愚善惡咸得其心。狡僞者獻其誠、暴慢者致其恭。聞風者誠服、覿德者心醉。雖小人以趨向之異、顧於利害、時見排斥、退而省其私、未有不以先生爲君子也。先生爲政、治惡以寛、處煩而裕。當法令繁密之際、未嘗從衆爲應文逃責之事。人皆病於拘礙、而先生處之綽然。衆憂以爲甚難、而先生爲之沛然。雖當倉卒、不動聲色。方監司競爲嚴急之時、其待先生率皆寛厚。設施之際、有所賴焉。先生所爲綱條法度、人可效而爲也。至其道之而從、動之而和、不求物而物應、未施信而民信、則人不可及也。
【読み】
伊川先生、明道先生の行状を撰して曰く、先生は資稟既に異なりて、而も充養するに道有り。純粹なること精金の如く、温潤なること良玉の如し。寛なれども制有り、和すれども流れず。忠誠は金石を貫き、孝悌は神明に通ず。其の色を視るに、其の物に接するや、春陽の温の如く、其の言を聽くに、其の人に入るや、時雨の潤の如し。胸懷洞然として、徹視閒無し。其の蘊を測らんとせば、則ち浩乎[こうこ]として滄溟の際[はて]無きが若く、其の德を極めんとせば、美言も蓋し以て形容するに足らじ。先生己を行うに、内は敬を主として、之を行うに恕を以てす。善を見ては諸を己より出だせしが若く、欲せずんば人に施さず。廣居に居りて大道を行い、言に物有りて動に常有り。先生の學を爲す、十五六の時、汝南の周茂叔の道を論ずるを聞きしより、遂に科擧の業を厭い、慨然として道を求むる志有り。未だ其の要を知らざるに、諸家に泛濫し、老・釋に出入する者幾んど十年なり。返りて諸を六經に求め、而る後に之を得たり。庶物を明らかにして、人倫に察[つまび]らかなり。性を盡くして命に至るは、必ず孝弟に本づき、神を窮め化を知るは、禮樂に通ずるに由るを知れり。異端の是に似たる非を辯じ、百代未だ明らかならざる惑を開く。秦・漢よりして下、未だ斯の理に瑧[いた]るもの有らざるなり。孟子沒して聖學傳らずと謂い、斯文を興起するを以て己が任と爲せり。其の言に曰く、道の明らかならざるは、異端之を害すればなり。昔の害は、近くして知り易く、今の害は、深くして辨じ難し。昔、人を惑わすや、其の迷暗に乘じ、今、人に入るや、其の高明に因る。自ら之を神を窮め化を知ると謂うも、以て物を開き務[こと]を成すに足らず。言爲は周遍ならざる無きも、實は則ち倫理を外にす。深きを窮め微かなるを極むるも、以て堯舜の道に入る可からず。天下の學、淺陋固滯するに非ざれば、則ち必ず此に入るは、道の明らかならざるによるなり。邪誕妖異の説競い起りて、生民の耳目を塗り、天下を汚濁に溺れしむ。高才明智と雖も、見聞に膠[こう]し、醉生夢死して、自覺せざるなり。是れ皆正路の蓁蕪[しんぶ]、聖門の蔽塞なり。之を闢きて而る後に以て道に入る可し、と。先生進みては將に斯の人を覺らしめんとし、退きては將に之を書に明らかにせんとす。不幸にして早世し、皆未だ及ばざるなり。其の精微を辨析して、稍[やや]世に見[あらわ]るる者は、學者の傳うる所のみ。先生の門には、學者多し。先生の言は、平易にして知り易く、賢愚皆其の益を獲ること、羣の河より飮み、各其の量を充すが如し。先生の人を敎うる、知を致すより止まるを知るに至るまで、意を誠にするより天下を平かにするに至るまで、灑掃應對より理を窮め性を盡くすに至るまで、循循として序有り。世の學者の、近きを捨てて遠きに趨り、下に處りて高きを窺うは、輕々しく自ら大として卒に得る無き所以なるを病[うれ]う。先生の物に接する、辨ずれども閒せず、感じて能く通ず。人を敎えて人從い易く、人を怒りて人怨まず。賢愚善惡咸[みな]其の心を得たり。狡僞なる者も其の誠を獻じ、暴慢なる者も其の恭を致す。風を聞く者は誠に服し、德を覿る者は心醉す。小人趨向の異なるを以て、利害を顧み、時に排斥せらると雖も、退きて其の私を省るとき、未だ先生を以て君子と爲さざるもの有らざるなり。先生の政を爲す、惡を治むるに寛を以てし、煩を處して裕かなり。法令繁密なる際に當たりては、未だ嘗て衆に從いて文に應じ責を逃るる事を爲さず。人皆拘礙[こうがい]を病うるも、先生は之を處すること綽然[しゃくぜん]たり。衆は憂えて以て甚だ難しと爲すも、先生は之を爲すこと沛然たり。倉卒に當たると雖も、聲色を動さず。監司競いて嚴急を爲す時に方[あた]り、其の先生を待つこと率ね皆寛厚なり。設施の際、賴る所有り。先生爲[つく]る所の綱條法度は、人效[なら]いて爲る可し。其の之を道[みちび]けば從い、之を動かせば和し、物を求めずして物應じ、未だ信を施かずして民信あるに至りては、則ち人及ぶ可からず、と。
【補足】
・この条は、程氏文集一一(伊川先生文七)の「明道先生行状」にある。

資稟の字が行状なり。学問は生れつきを貴ふことはなし。行状ゆへ資稟異而と云。中庸の天命性に生れつきは入らぬか、行状は画姿を語るに入る。既の字、直方先生、先つはやとなり。とっくに下地から別と云こと。先生資稟既異にか明道の明道たる処。明道を知る入り口。ここがはや千両道具。なるほど明道は分んのことぢゃと云か、つっかけか別なり。充養有道。其よいを當てにせぬ。そこを養こめり。充養はやはり存養のこと。充は充實而有光輝と云の充るなり。浩然の章塞天地之間も、字は違へとも一つことなり。皆養て違う。よい種へこやしなり。この二句て鬼に鉄棒と云やふなもの。これて圣は益垩、愚益愚が知るる。身上のよいもの、儉約て尚よい。今の学者のわるい上に養はぬ。身上わるくて銭使ひするなり。
【解説】
「伊川先生撰明道先生行状曰、先生資稟既異、而充養有道」の説明。明道は生まれ付きがよいが、それを当てにせずに存養をした。今の学者は悪い上に養わない。
【通釈】
「資稟」の字が行状である。学問は生まれ付きを貴ぶことはない。しかし、行状なの「資稟異而」と言う。中庸の天命性に生まれ付きは入らないが、行状は絵姿を語るので入る。「既」の字は、直方先生が先ずは早くもということだと言った。とっくに下地から別格だということ。「先生資稟既異」が明道の明道たる処。これが明道を知る入り口である。ここが早くも千両道具。なるほど明道は大したものだと言うのは、最初から格別だからである。「充養有道」。よいのを当てにしない。そこを養を込めて言った。「充養」はやはり存養のこと。「充」は「充実而有光輝」の充である。浩然の章にある「塞天地之間」も字は違うが同じこと。皆養で違う。よい種へ肥やしである。この二句で鬼に金棒という様なもの。これで聖は益々聖、愚は益々愚が知れる。身上のよい者は倹約して尚よい。今の学者は悪い上に養わない。身上が悪い上に銭使いである。
【語釈】
・中庸の天命性…中庸章句1。「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎」。
・充實而有光輝…孟子尽心章句下25。「充實而有光輝之謂大」。
・塞天地之間…孟子公孫丑章句上2。「敢問何謂浩然之氣。曰、難言也。其爲氣也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之閒」。

純粹如精金。先ここて金玉の二つで云。純は物のましらぬこと。世俗て云口上に又かのが出たと云。いくらたしなんても持合せのひょんなものあり。純粹てないゆへ折々地か子をあらはす。明道はあたまて聖賢の道具持つゆへまじりないなり。今日の人はああ云ても當にならぬと云は贋金なり。温潤如良玉は氣象のほっこりて云。凡夫の躰は何やらいら々々物へあたるやふなり。学問して人に尊仰される人も我に邪氣あるゆへ、向の病を見出して非を云故人かいやかる。明道はそこへ出た処かふっくりて玉のやふなり。寛而有制。胷の大なゆっくりとしたこと。よいことてもせは々々ではのふじゅがない。明道はせわ々々せぬ。大徳の量あり。有制は、寛なれは柳下惠めいてきめかなくなるか、明道は規矩の眞柱あり、制はもののきまりあることなり。和而不流。只和は埒かあかぬ。何もわすれるやふでは垩賢のなりでない。和はもののかたく究窟でないを云。よってもつかれぬと云やふなは究くつなり。不流は、酒をのみながらいつも酔たことないと云。これか垩人へ近いこと。某も覚へあること。向て酒をにくむ処ては和せぬ。上戸もどふものめぬと云。明道のは、そなたものめと云て和して呑む所が又別なり。不流なり。
【解説】
「純粹如精金、温潤如良玉。寛而有制、和而不流」の説明。明道は混じりのない純粋で、その気象はふっくりとして急かない。また、和しながらもそれに流されることがない。
【通釈】
「純粋如精金」。先ずここは「金」と「玉」の二つで言う。「純」は物の混じらないこと。世俗て言う口上に、またあれが出たと言う。いくら嗜んでも持ち合わせのひょんなものがある。純粋でないので折々地金を現す。明道は最初から聖賢の道具を持っているので混じりがない。今日の人はああ言っても当てにならないのは贋金だからである。「温潤如良玉」は気象のほっこりしたことを言う。凡夫の体は何やらいらいらとして物へ当たる様なもの。学問をして人に尊仰される人も自分に邪気があるので、向こうの病を見出して非を言うから人が嫌がる。明道はそこへ出た処がふっくりで玉の様である。「寛而有制」。胸が大きくゆっくりとしたこと。よいことでもせかせかとしては納受がない。明道はせかせかとしない。大徳の量がある。「有制」は、寛であれば柳下恵めいて決めがなくなるが、明道には規矩の真柱があるということ。「制」はものに決まりがあること。「和而不流」。ただ和では埒が明かない。何でも和す様では聖賢の姿でない。和はものが堅くなく窮屈でないことを言う。寄り付くこともできないという様なものは窮屈である。「不流」は、酒を飲みながらいつも酔ったことがないという様なことで、これが聖人に近いこと。私にも覚えがある。向こうが酒を憎む様な処では和せない。上戸もどうも飲めないと言う。明道のは、貴方も飲めと言って和しながら、飲んで酔わない所が別なのである。それが不流である。
【語釈】
・せは々々…忙忙。心の落ち着かないさま。せかせか。
・のふじゅ…納受。うけおさめること。うけつけること。受納。特に、神仏などが祈願の趣旨を聞き入れること。「のうじえ」か?

忠誠貫於金石。君の方へかけて云。貫は誠の通ずるなり。金石はかたきもののたとへ。孝悌通神明。神明を云ふは、誠の人心へ通るはかりは甲斐なし。人は固り云に及ばず鬼神迠まいる。これを祭をするやふにとるとはわるし。生た親はかりてなく、死た親へも通ると云やふに説ことてない。人はをろか鬼神まてなり。視其色其接物也云々。この二句も其色其言を對に云。先顔色を伊川の見るにさて々々違ふたこと。人か来たとき御出かと云体か春のうららかな底なり。霞立て三月頃の、人へあたるに云に云へぬと云日かある。冬の巨燵にあたりたあたたかと春のあたたかは違ふことて、人も若かやきましたと云其日は、どのやふな人も桜見にても出るもの。其底にてさて々々と人へひびく。下の句に時雨とあるゆへ春陽之温を向の人へかけるかよい。
【解説】
「忠誠貫於金石、孝悌通於神明。視其色、其接物也、如春陽之温」の説明。明道の忠誠は人だけでなく鬼神にも通じる。その顔色は春のよい日の様に麗らかである。
【通釈】
「忠誠貫於金石」。君の方へ掛けて言う。「貫」は誠が通じること。金石は硬いもののたとえ。「孝悌通神明」。「神明」と言ったが、誠が人心へ通るだけでは甲斐がない。人は固より言うに及ばず、鬼神にまで通じる。これを、祭をする様にとるのは悪い。生きた親だけではなく、死んだ親へも通るという様に説くことではない。人はおろか鬼神までもということ。「視其色其接物也云々」。この二句は「其色」と「其言」を対にして言ったこと。先ずは顔色を伊川が見ると本当に違う。人が来た時御出かと言う体が春の麗らかな体である。霞が立って三月頃、人に対して言うに言えないという様なよい日がある。冬、炬燵にあたっての暖かさと春の暖かさは違うもの。人が若やぎましたと言う様な日は、どの様な人も桜見にでも出るもの。その体で、本当に麗らかだと人へ響く。下の句に「時雨」とあるので、「春陽之温」は向こうの人へ掛けるのがよい。

聽其言其入人也如時雨潤。人の心へ入ると云ふも明道の誠の深いゆへなり。時雨は春雨の万物をうるをすこと。夕立底のあとから乾くやふなことてなく、とっくりとはいるを云。外の者の言は何ほとそふをっしゃってもと人へ入ぬ。明道の御側に居る内は皆か君子になるやふなり。胸懐洞然云々。透き通て見へる。迂斎、曇りかかりないことと云。胸の中の知れぬはよいやふなことて、君子てない。魚鱗靎翼内甲と見られまいと云。あの大徳のうかかはれぬ明道なれとも、さらりとした処のこと。徹視無間か人から云ことなり。内がそうゆへ外からもそふ見へるなり。上へ蓋をして白い歯見せぬと云人にこれはない。喜は喜、怒は怒なり。ありなりなこと。手のある人は怒ることを笑て見せる。
【解説】
「聽其言、其入人也、如時雨之潤。胸懷洞然、徹視無閒」の説明。明道の言には時雨の潤いがあるから人の心に入る。明道の心は窺い知れない様だが、それが透き通って見える。作為がないのであるがままに見える。
【通釈】
「聴其言其入人也如時雨潤」。人の心へ入ると言うのも明道の誠が深いからである。「時雨」は春雨が万物を潤すこと。夕立の様に直ぐに乾く様なことでなく、とっくりと入ることを言う。外の者の言は、どれほどその様に仰ってもと言われ、人に入らない。明道の御側にいる内は皆が君子になる様である。「胸懐洞然云々」。透き通って見える。迂斎が曇りのないことだと言った。胸の中が知れないのはよいことの様で君子ではない。魚鱗鶴翼で内側を見られない様にしようと言う。あの窺われない大徳の明道だが、さらりとしているということ。「徹視無間」が人から言われること。内がそうなので外からもその様に見える。上へ蓋をして白い歯を見せないという人にこれはない。喜は喜で、怒は怒である。あるがままのこと。作為する人は怒ることを笑って見せる。

偖、明道のは何のことなくさらりとしたことなれとも、測其蘊則洪乎若滄溟之無際なり。洞然と照りぬいて見へるやうなれとも、其中に蘊かある。外の道具つめたてないか、天理をみかきぬいて内にある。それかふらす子の中へ物を入たやふに形はない。微視無間の中から生てはたらくものかありて、何か出るか青海原の如くはかりはない。極其德美云々。徳美は家語の文字そうなり。ここの行状を一寸ここてしめたもの。つめて云へは明道をどふこうと言語にはのべられぬと云こと。伊川のこれ迠見たことを云て、全体の徳のきり々々の所が極て居る。不足以形容は言語に出されぬ処を云。明道のよい処は極其徳美なり。伊川のまづ上段々のことを云て見たか、斯ふ云ても云ぬかれぬ。口で云てよく書たとは足らぬと云ことなり。このやふな処か一と通りの行状にないことと知るへし。一と通りのは氣質を画なり。人のこと画に書は司馬選かもとて、其後歴史に多くあるか、七福神をあたまの長ひは福禄壽、槌を持たは大黒と云やふなものてむつかしいことはない。明道を資稟既に異より徹視無間迠は言へとも、全体圣人の資ゆへ形容されぬ。とと学のことにて、滄々の無際其德美のことは画にならぬ。伊川の、をれか死後をれかことを知たくは、先兄の行状てみよとなり。この言か皆学知のこと。資質て云へは明道は温、伊川は嚴、それを同ことと云は道か主ゆへのこと。先日孟子のことを顔子の春生へ秋殺を合せると云は、孟子に顔子氣かないと思ふは知らぬゆへなり。伊川きびしけれとも、兄の道の上へきびしいが出る。そこで徳のことは筆ては書ををせられぬは、だたい道統得た人は氣質はかりてなく道の上のことゆへ、一口に行状は書れぬはつなり。
【解説】
「測其蘊、則浩乎若滄溟之無際、極其德、美言蓋不足以形容」の説明。明道の内には天理を磨き抜いたものがある。今まで色々と表現したが、明道は全体が聖人の資質なので形容し切ることはできない。
【通釈】
さて、明道の風体は何事もなくさらりとしたものだが、「測其蘊則洪乎若滄溟之無際」である。「洞然」と照り抜いて見える様だが、その中に蘊がある。他の道具を詰めたわけではなく、天理を磨き抜いたものが内にある。それがフラスコの中へ物を入れた様な形はない。「徹視無間」の中から生きて働くものがあって、何が出るのか、青海原の様に際限がない。「極其徳美云々」。徳美は家語の文字だそうだ。ここの行状を一寸ここで締めた。詰めて言えば、明道を言語でどうのこうのとは述べられないということ。伊川がこれまで見たことを言ったことで、全体の徳の至極が極まっている。「不足以形容」は言語に出せない処を言ったもの。明道のよい処は「極其徳美」である。伊川が先ずは上段々のことを言ってはみたが、この様に言っても言い抜くことはできない。口ではよく書いたとは言っても、それは言い足りないということなのである。この様な処が一通りの行状にはないことだと知りなさい。一通りの者は気質を画く。人のことを画に書くのは司馬遷が始まりで、その後は歴史に多くあるが、それは七福神を、頭の長いのは福禄寿、槌を持っていれば大黒と言う様なもので難しいことはない。明道を「資稟既異」より「徹視無間」とまでは言ったが、全体が聖人の資質なので形容することができない。つまりは学のことだから、「滄溟之無際極其徳美」のことは画にならない。伊川が、俺の死後俺のことを知りたければ、先ず兄の行状を見なさいと言った。この言が皆学知のこと。資質で言えば明道は温、伊川は厳、それを同じことだと言うのは道を主とするからである。先日孟子のことを顔子の春生へ秋殺を合わせると言ったが、孟子に顔子の気がないと思うのは孟子を知らないのである。伊川は厳しい人だが、兄の道の上にその厳しさが出る。そこで徳のことは筆では書き切ることができないのであって、そもそも道統を得た人は気質ばかりでなく道の上のことなので、一口で行状を書くことはできない筈なのである。
【語釈】
・徳美は家語の文字…孔子家語致思。「孔子曰、汝以民爲餓也、何不白於君、發倉廩以賑之、而私以爾食饋之。是汝明君之無惠、而見己之德美矣。汝速已則可、不則汝之見罪必矣」。
・顔子の春生へ秋殺を合せる…聖賢2を指す。

先生行己内主於敬云々。明道の全体敬なり。一事をつつしむは全体の敬のわれたもの。中庸の心法を得て戒謹恐懼の工夫するか是なり。霍光か不失尺寸の様なは卓へはなれせぬ敬なり。さてここの行状は心法を云。これか明道の本立。明道を直に持て來て圣人の如くに云。湯王の誠敬日躋文王の敬止もここへつまることなり。行之以恕。ここかすくに仲弓か敬恕を云。人と人との出合手もなくすんたこと。敬て片付て、それを出すにわるいことはない。見善若出諸己云々。さてもよいと云ても凡夫の内は人のよいがこちのよいやふに思はれぬ。人の手柄かこちの手抦のやうに一つにはならぬ。学者か吾か説を善とし、人の説はそれも通するなとと云。医者も人か傷寒をよく治したを我なをしたやふには思はぬ。明道は向とこちか一牧なり。凡人は人の難義と我難義は違ふ。手前の病人と人のと別なり。垩賢は人我一靣ゆへ我不欲ことは人へ施さぬ。今日の人は以隣国爲谿なり。ここは明道のもふ垩人分上の所なり。凡人も四支は一体ゆへ、左の足は蜂にさされても右の足をさされ子はよいとは云はぬ。
【解説】
「先生行己、内主於敬、而行之以恕。見善若出諸己、不欲弗施於人」の説明。明道は全体が敬だった。敬で片付けて恕で出せば何でもうまく行く。また、明道は人我が一つだったので、自分の欲しないことは人へ施さなかった。
【通釈】
「先生行己内主於敬云々」。明道は全体が敬である。一事を謹むのは全体の敬が割れたもの。中庸の心法を得て戒謹恐懼の工夫をするのがこれである。霍光の言う「不失尺寸」の様なことは卓へ離れさせないための敬である。さて、ここの行状は心法のことを言う。これが明道の本立であり、明道を直に持って来て聖人の如く言う。湯王の誠敬日躋や文王の敬止もここへ詰まる。「行之以恕」。ここが直に仲弓の敬恕のこと。人と人との出会いも簡単に済む。敬で片付けてそれを出せば悪いことはない。「見善若出諸己云々」。実によいと言っても、凡夫の内は他人のよいことがこちらのよいことの様には思えない。人の手柄がこちらの手柄になる様に、一つには思えない。学者が自分の説をよいとし、人の説はそれも通じるなどと言う。医者も人が傷寒をうまく治したのを、自分が治した時の様には思わない。明道は向こうとこちらが一つである。凡人では人の難儀と自分の難儀は違う。自分の病人と人の病人とは別である。聖賢は人我が一つなので自分の欲しないことは人へ施さない。今日の人は「以隣国為壑」である。ここはもう明道の聖人分上の所である。凡人も四支は一体なので、左の足は蜂に刺されても右の足を刺されなければよいとは言わない。
【語釈】
・霍光…前漢の政治家。字は子孟。霍去病の異母弟。~前68
・不失尺寸…漢書霍光金日磾傳。「毎出入下殿門、止進有常處。郎僕射竊識視之、不失尺寸」。
・湯王の誠敬日躋…詩経商頌長発。「帝命不違、至于湯齊。湯降不遲、聖敬日躋」。
・文王の敬止…大学章句3。「詩云、穆穆文王、於緝熙敬止」。詩は詩経文王。
・仲弓か敬恕…論語顔淵2集註。「敬以持己、恕以及物、則私意無所容而心德全矣。内外無怨、亦以其效言之、使以自考也。程子曰、孔子言仁、只説出門如見大賓、使民如承大祭。看其氣象、便須心廣體胖、動容周旋中禮。惟謹獨、便是守之之法。或問、出門使民之時、如此可也。未出門使民之時、如之何。曰、此儼若思時也、有諸中而後見於外。觀其出門使民之時、其敬如此、則前乎此者敬可知矣。非因出門使民、然後有此敬也。愚按、克己復禮、乾道也。主敬行恕、坤道也。顏・冉之學、其高下淺深、於此可見。然學者誠能從事於敬恕之間而有得焉、亦將無己之可克矣」。
・以隣国爲谿…孟子告子章句下11。「禹以四海爲壑。今吾子以鄰國爲壑」。

居廣居而行大道云々。伊川の出しやうかよい。上は論語の敬恕、ここは孟子の仁義。只の人のとは違ふゆへ皆論孟て云。さて、内に居る仁、外へ出る義、体用なり。心が仁て、出すは義。居は体、行は用なり。言有物而行有常。明道を知て見れは靣白こと。明道の高いことなり。さて高ことはつかまへる処ないものなるに、明道のはつかまへ処あるゆへ有物と云。礼記の文字なり。老荘は有物てなく空理なり。行有常はいつも同し。まていなことか出る。これか氣象は似て邵子の及はぬ処。當時は明道より邵子か上へと見た者も有ふが、邵子はつかまへ処かない。これて言行二になる。
【解説】
「居廣居而行大道、言有物而動有常」の説明。明道は、内には仁、外へは義と体用が整っていた。彼は高い人だが掴まえ処がある。実地の人なのである。
【通釈】
「居広居而行大道云々」。伊川の出し様がよい。上は論語の敬恕で、ここは孟子の仁義。普通の人とは違うので皆論孟で言う。さて、内にいる仁、外へ出る義、これが体用である。心が仁で出れば義、居は体で、行は用である。「言有物而行有常」。明道を知ると面白い。それは明道が高いということ。さて高いことは掴まえ処のないものだが、明道のは掴まえ処があるので「有物」と言う。礼記の文字である。老荘は有物でなく、空理である。「行有常」はいつも同じということ。実地なことが出る。これが気象は似ていても邵子の及ばない処。当時は明道よりも邵子の方が上と見た者もいただろうが、邵子は掴まえ処がない。それで言行が別になる。
【語釈】
・孟子…孟子滕文公章句下2。「居天下之廣居、立天下之正位、行天下之大道、得志與民由之」。
・礼記の文字…礼記緇衣。「子曰、言有物而行有格也」。

先生爲學自十五六時云々。周子と目さすと科挙のことかいやになり、これを非義と云でなく、只いやとなり。もふ魂から違ふて來たもの。どふぞあれは置たいものと云なり。何ても知見から実に出るもの。親か芝居見よと云てもいやと云。知か高くなると金銀のことてもいやになるもの。厭と云は上戸の甘ひもののいやと云のなり。慨然有求道之志云々。厭から慨然が出る。未知其要云々。直方先生云通り、師の力は三分なり。今てもあそこへ行けはじきに格別になると云ことはなし。此方からでなけれは垩賢の側に居ても仕方はない筈なり。明道も吟風弄月、心持は違って來たと云へとも直に大道は得られぬ。周子の処へ行て道を聞たか不得其要迚、周子の不調法てなし。氣の毒なことはない。直になるもある。反て李初平なとは一二年にして道を得られたとあるても明道とは違ふ。ここは伊川のとっくと知て書たことなり。明道も十分のことと落なんだそふなり。始は大極圖も周子の心ほとにはすめなんたとみへる。出入老仏とある。出入とは、それ氣か出るを云。胷の中てこれては老子めく、これては仏氏めくと云処かある。佛老も必竟かすりはらひの処へ道を説たゆへのこと。明道も十年の間くるいかあったなり。
【解説】
「先生爲學、自十五六時、聞汝南周茂叔論道、遂厭科擧之業、慨然有求道之志。未知其要、泛濫於諸家、出入於老・釋者幾十年」の説明。周子を目指すと科挙が厭になったが、それは知見が高くなったからである。しかし、当初はその知見も十分なものではなかったので要旨を得ることができず、十年ほど狂いがあった。
【通釈】
「先生為学自十五六時云々」。周子を目指すと科挙のことが厭になったが、これは非義だからということではなく、ただ厭になったのである。もう魂から違って来た。どうもあれはしたくないと言った。何でも知見から実に出るもの。親が芝居を見ろと言っても厭だと言う。知が高くなると金銀のことでも厭になるもの。厭とは、上戸が甘いものが厭と言うのと同じこと。「慨然有求道之志云々」。厭から慨然が出る。「未知其要云々」。直方先生の言う通り、師の力は三分である。今でもあそこへ行けば直に格別になるということはない。こちらからでなければ聖賢の側にいても仕方がない筈。明道も吟風弄月で、心持ちは違って来たと言っても、直に大道は得られない。周子の処へ行って道を聞いたが、それで「不得其要」だとしても周子の不調法ではない。気の毒なことではない。直に成ることもある。却って李初平などは一二年で道を得られたとあるが、それは明道とは違う。ここは伊川がしっかりと知って書いたこと。明道も十分に納得できなかったそうである。始めは大極図も周子の心ほどにはわからなかったと見える。「出入老仏」とある。出入とは、逸れ気が出ることを言う。胸の中に、これでは老子めく、これでは仏氏めくという処がある。仏老も畢竟、すりはらいの処に道を説いたからのこと。明道にも十年の間、狂いがあった。
【語釈】
・李初平…
・すりはらい…

返求之六経而後得之。諸家の仏老に泛濫出入して十年の後六經て道を得、初てここて前の周子のこともすんだろうと思はるる。先年小源太も疑て問てよこしたか、某もここかこのころよくすんだ。六經て得たと云ても周子の鼻が低くなるてない。又周子の御蔭はかふむらぬと云ことでない。このとき周子のも一度に落たで有ふ。さて又周子の道と云も、六經にはつれたら周子を継於遺經とは云はれまい。太極圖説通書か詩書易へかけても丁どゆへ継遺経と云ふ。明道も前は一决せす。かたまらぬゆへのことなり。某か、思へは周子の道も一つに落たろうと云か、周子の功なくすくって云ことてなく、誰か本尊も六経なり。明道もこれ迠は周子のことか知れなんだと見へる。六經に得ると云は文字をゆたかに書ゆへのこと。周子のは益にならす、六經てと云ことでなし。田獵のことに呵られ顔樂の処を求めぬ。太極圖を授り其外吟風弄月のことても皆周子の御屁て十年後埒か付た。ぎり々々を得ぬは若ひ内のことなり。それもこれも六經と云て落着したなり。
【解説】
「返求諸六經、而後得之」の説明。明道は六経で道を得たと言うが、それは周子が役に立たなかったということではない。周子の道も元は六経である。
【通釈】
「返求之六経而後得之」。諸家や仏老に泛濫出入して十年の後六経で道を得て、初めてここで前の周子のことも済んだものと思われる。先年小源太も疑って問うて遣したが、私もこの頃ここがよくわかった。六経で得たと言っても周子の鼻が低くなることではない。また、周子の御蔭は被らないということでもない。この時、一度に周子の道もわかったのだろう。さてまた周子の道と言っても、それが六経に外れたら周子を「継於遺経」とは言わないだろう。太極図説や通書が詩書易へ掛けても丁度なので継遺経と言う。前は明道も一決しなかった。それは固まらなかったからである。私が、思えば周子の道も一つに落ちただろうと言うのは、周子の功がなかったということではない。誰の本尊も六経なのである。明道もこれまでは周子のことがわからなかったと見える。六経に得るとは文字を豊かに書いたのである。周子のは益にならず、六経でということではない。顔楽の処を求めないから、田猟のことで呵られた。太極図を授かった外、吟風弄月のことも皆周子の御蔭で十年後に埒が明けた。至極を得なかったのは若い内のこと。それもこれも六経と言って落着した。
【語釈】
・小源太…
・田獵…孟子梁恵王章句下1。「今王田獵於此、百姓聞王車馬之音、見羽旄之美、舉欣欣然有喜色而相告曰、吾王庶幾無疾病與。何以能田獵也。此無他、與民同樂也。今王與百姓同樂、則王矣」。
・顔樂…論語雍也9。「子曰、賢哉、囘也。一簞食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉、囘也」。

明於庶物察人倫。孟子の字。ここか一つ吟味処あり。明道を直に舜と同しこととも云はれぬに此字を使ふたは、明道に假したてない。なせなれは此文字、明道かゆきたけ合はぬてもない。この段は舜と同格なり。孟子のことを未敢便道也是圣人然學則到至處と云。明道も明於庶物察於人倫の地位か舜の通りなり。明道は舜より目方か五六匁輕ひと云にも及はぬ。明察か道の根を理會し致知格物かすみて知至の塲ゆへ舜と同しことに落る。時雨の潤と云ゆへ人倫の間に握り拳ではない。そふてなふて道統の傳は云はれぬ。異学の徒か道統のこと程朱か始たと云ふか、このやふな処か道統なり。温公の誠も垩人に近ひやうて素人細工なりと云は、学問の根か違ふ。明道のは直にそこの箱にすみか子かある。長蔵が作字甚謹を曽点の氣象と云てをこした。なる程そふなれとも、明道は曽点よりは上の人。曽点を出しては食ひたらぬ。曽点は道統へは入れにくい。
【解説】
「明於庶物、察於人倫」の説明。明道は道の根本を理会して致知格物が済み、知至の場なので、彼の明察は舜と同格なのである。
【通釈】
「明於庶物察人倫」。孟子の字。ここに一つ吟味処がある。明道を直に舜と同じとも言えないのにこの字を使ったのは、明道にこれを貸したわけではない。それは何故かと言うと、この文字が明道の裄丈に合わないものでもないからである。この段では舜と同格である。孟子のことを「未敢便道也是聖人然学則到至処」と言う。明道も「明於庶物察於人倫」の地位が舜の通りである。明道は舜より目方が五六匁軽いと言うには及ばない。明察が道の根を理会し致知格物が済んで知至の場なので舜と同じだと言う。時雨の潤いと言うので人倫の間に握り拳はない。そうでなければ道統の伝は言えない。異学の徒が道統のこと程朱が始めたと言うが、この様な処が道統である。温公の誠も聖人に近い様だが素人細工だと言うのは、学問の根が違うからである。明道のは直にそこの箱に墨金がある様なもの。長蔵が「作字甚敬」を曾点の気象と言って遣した。なるほどそうではあるが、明道は曾点よりも上の人。曾点を出しては食い足りない。曾点は道統へは入れ難い。
【語釈】
・明於庶物察人倫…孟子離婁章句下19。「孟子曰、人之所以異於禽獸者幾希。庶民去之、君子存之。舜明於庶物、察於人倫。由仁義行、非行仁義也」。
・未敢便道也是圣人然學則到至處…孟子序説。「或問於程子曰、孟子還可謂聖人否。程子曰、未敢便道他是聖人、然學已到至處」。
・すみか子…墨金・墨曲尺。まがりがね。曲尺。
・長蔵…鵜沢(鈴木)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・作字甚謹…作字甚敬。

盡性至命云々。庶物人倫へ引はりかよい。これは垩人の能事を語りたことなり。学問の実地ゆへ初手からそこを見てとる。これか飛でゆくことてなく、あの高いことか孝悌からと目と足か一つに至るなり。某なとの見るは能役者か熊坂になった、熊坂てはない役者なり。明道のは目はかりてなく足もゆく。孝悌をなけやりにして、これは弥太も平太もと心得てはほんの高と云ものてなし。さてこれからそろ々々異端へやる。究神知化云々。異端のいやかる孝悌、異端のいやかる礼樂なり。あちの高ひは空理、こちのは孝悌や礼樂そ。これからと見た目が、足目倶に進んて一つに至たゆへ明庶物察人倫究神知化なり。そう道を得たゆへ異端がすててをかれぬ。
【解説】
「知盡性至命、必本於孝弟、窮神知化、由通於禮樂」の説明。「尽性至命」も孝悌からの実地でする。知るだけでなく行動もするから異端を放っては置けない。
【通釈】
「尽性至命云々」。「庶物人倫」への引っ張りがよい。これは聖人の能事を語ったこと。学問の実地のことなので、初手からそこを見て取る。これが飛んで行くことでなく、あの高いことが孝悌からと言うので目と足が一つに至る。私などの見るのは熊坂になった能役者であり、熊坂ではなく役者を見る。明道のは目ばかりでなく足も行く。孝悌を投げ遣りにして、これは弥太も平太も同じと心得ては本当に高いというものではない。さてこれからそろそろ異端へ遣る。「窮神知化云々」。異端の嫌がる孝悌、異端の嫌がる礼楽である。あちらの高いと言うのは空理で、こちらのは孝悌や礼楽である。これからすると見た目が、足目共に進んで一つに至ったから、「明庶物察人倫窮神知化」である。その様に道を得たので異端を捨てては置けない。
【語釈】
・盡性至命…易経説卦伝1。「窮理盡性以至於命」。
・能事…なすべき事柄。
・熊坂…熊坂長範。平安末期の大盗。
・究神知化…易経繋辞伝下5。「窮神知化、德之盛也」。

明道の御様子は異端は搆はす、をとなしく寛容て居そふなものに、辯異端似是之非なり。開百代未明之惑は異端を云。秦漢而下未有臻斯理也云々。行状貫於金石通神明とあなたを見て云こと。この秦漢からか大切なり。孟子七篇の末に学不傳千歳無眞儒と云。道統の傳は眞儒のことなり。道統を云にいつても孟子を云は子はならぬ。韓氏は道統の傳を云たぎり、明道は我任にせり。孟子の後は明道か道統を持てをらるる。道之不明異端害之。道の行はれぬことを云。初鼻に異端と云か呂東萊などの目のつかぬ処なり。明道の苦労せられて道の暗ひはあれゆへと云。なに異端かと云に、明道はそれと云て火事羽織、土藏をかたつけるかよく知たゆへのことなり。孟子の懼閑揚墨と云かそれなり。明道は寛裕ゆへ何異端がとゆっくりとして居られそふなことなるに、ちっとも免して置れぬ。今日上下押出した仏法なり。それに排釈録もあたり障りあることあれは編ずともすまふと云に、直方先生の眼がたぎる。その筈そ。明道さへ躁かかることなり。鞭策録でよく、排釈録は餘計のことのやふに思ふか、直方はやはり明道のここの意、これからてなけれは教学の鞭策録も横へつきたをさるる。
【解説】
「辯異端似是之非、開百代未明之惑。秦・漢而下、未有瑧斯理也。謂孟子沒而聖學不傳、以興起斯文爲己任。其言曰、道之不明、異端害之也。昔之害、近而易知」の説明。寛容な明道だが、道統を自分の任にしたから異端を弁じた。直方が排釈録を編んだのもその意があったからである。
【通釈】
明道の御様子であれば異端は構わず大人しく寛容でいそうなものなのだが、「弁異端似是之非」である。「開百代未明之惑」は異端を言う。「秦漢而下未有瑧斯理也云々」。これは「行状貫於金石通神明」で、彼方を見て言ったこと。この秦漢からが大切である。孟子七篇の末に「学不伝千歳無真儒」とある。道統の伝は真儒のこと。道統を言えば、いつでも孟子を言わなければならない。韓氏は道統の伝を言っただけだが、明道はそれを自分の任とした。孟子の後は明道が道統を持っておられた。「道之不明異端害之」。道が行なわれないことを言う。初っ端に異端と言うのが呂東萊などの目の付かない処である。明道が苦労をされて道の暗いのはあのためだと言った。何、異端がと人は言うが、明道はよく知っているからそれと言って火事羽織で土蔵を片付ける。孟子が「懼閑楊墨」と言ったのがそれ。明道は寛裕なので何異端がとゆっくりとしておられそうだが、少しも許さない。今日流行っているのが仏法である。排釈録も当たり障りのあることだから編まなくても済むと言っても、直方先生の眼が滾る。その筈で、明道でさえ躁がれたのである。鞭策録だけでよく、排釈録は余計なことの様に思うが、やはり直方には明道のここの意があった。これからでなければ教学の鞭策録も横へ突き倒される。
【語釈】
・学不傳千歳無眞儒…孟子尽心章句下38。「孟軻死、聖人之學不傳。道不行、百世無善治。學不傳、千載無眞儒」。
・懼閑揚墨…孟子滕文公章句下9。「仁義充塞、則率獸食人、人將相食。吾爲此懼。閑先聖之道、距楊・墨、放淫辭、邪説者不得作」。

今之害深而難辨。近理而大乱眞ゆへなり。昔之人惑は今上総の佛学のやふなもの。四月八日にあたりさわくは皆迷暗なり。因其高明は、皆知見高ひものかあちへ向てゆく。程子の鼻の先て謝游楊もあちへ招きこまれかぶれる。御兄弟のこのやふなことを云はるる側て、あぶなくなるほどあちも似たことを云て、有物先天地無形本寂寥なとと云。とふもこわいことなり。自謂之究神知化而云々。そこか悲ひ。此句が向の両方をこめたことなり。あちの高いことをくびり、又跡上の断もある。さて、この語小学にも載てあり、文會も仏のことには色々なことを引て勤めて用心してあるなり。究神知化はこの方の文字。この方の道体のきり々々なり。これを仏もあちても此塲と云て鼻を高くするか、あちには開物成務かない。反鑑索照なり。磨て土へ埋る。あちも磨はとげとも物を照さぬ。飯を炊て食ぬやふなものなり。使契爲司徒教以人倫か開物成務のこと。達磨もきついさはぎ。眠いか邪魔とてまふたをきる。人か眼か大ひと計思ふ。きつい修行なり。此方は明徳新民、こち々々と云内に向へ出る。佛はそれはない。
【解説】
「今之害、深而難辨。昔之惑人也、乘其迷暗、今之入人也、因其高明。自謂之窮神知化、而不足以開物成務」の説明。仏は聖学に非常に似ているので、知見の高い学者がそれに被れた。「窮神知化」は道体の至極であり、仏にもそれと同じものがあると言うが、彼等には「開物成務」がない。
【通釈】
「今之害深而難弁」。それは「近理而大乱真」だからである。「昔之惑人」は、今の上総の仏学の様なもの。四月八日に騒ぐのは皆「迷暗」だからである。「因其高明」は、知見の高い者が皆あちらへ向いて行くこと。程子の鼻の先で謝上蔡や游定夫、楊亀山もあちらへ招き込まれて被れた。御兄弟がこの様なことを言われる側で、危なくなるほどにあちらも似たことを言い、「有物先天地無形本寂寥」などと言う。それはどうも怖いこと。「自謂之窮神知化而云々」。それが悲しい。この句は向こうの両方を込めて言ったこと。あちらの高いことを縊ったのであり、また迹上の断もある。さて、この語は小学にも載せてあり、文会でも仏のことは色々なことを引いて勤めて用心している。窮神知化はこちらの文字で、こちらの道体の至極のこと。これを仏もこの場と言って鼻を高くするが、あちらには「開物成務」がない。「反鑑索照」である。磨いで土へ埋める。あちらも磨ぐには磨ぐが物を照らさない。それは、飯を炊いて食わない様なもの。「使契為司徒教以人倫」が開物成務のこと。達磨も大層な騒ぎだった。眠気が邪魔をするとして瞼を切った。人の眼が大きいとばかり思う。きつい修行である。こちらは明徳新民、こちらへこちらへと言う内に向こうへ出る。仏にそれはない。
【語釈】
・近理而大乱眞…中庸章句序。「則吾道之所寄不越乎言語文字之閒、而異端之説日新月盛、以至於老佛之徒出、則彌近理而大亂眞矣」。
・四月八日…釈迦の誕生日とされる。
・開物成務…易経繋辞伝上11。「子曰、夫易何爲者也。夫易開物成務、冐天下之道」。
・反鑑索照…為学4。「今、以惡外物之心、而求照無物之地。是反鑑而索照也」。
・使契爲司徒教以人倫…孟子滕文公章句上4。「人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸。聖人有憂之、使契爲司徒、教以人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」。

言爲無不周遍実則外於倫理。佛の言なり。すすめの飼をはこぶ迠か仏心と云。萬行叢中不捨一方と云て、周遍なと云なから五倫をすてる、父母をすてる。それと云もあとから云たこと。仏は兎角云わけせ子はならぬ。父母は迷ひ悟た上は又よいと云もつまらぬ。黄蘗運禅師か母をどふしたやら省した。黑木や芭蕉と同しやふに思ひ、知らぬ顔て別れて、次の日母か黄蘗と聞て追かけた処を黄蘗は舟にのる。母がやれ々々と云て渡し塲て倒れて死た。それをふり向もせす、それか母の為になると云。丁ど旦那か家来に給金をやらず、それてあれも金を使はずによいと云なり。それか天地へ通せぬ。黄蘗倒死した母か男子の身になって天にのぼると云類か高ひ塲に居て卑ひこと云ふ。辻つま合ぬことなり。よく思てみよ。鼠迠か子をもつに、五倫を捨ては天地と割符か合はぬ。あちは必竟空理ゆへ言次第のこと。そこて、こちにも父母経かあると云もさはかしい。又、言語道断不墜理路喝と云てしまふ。何んぼ高妙をうっても本のなりてない。学者それを面白かりても尭舜の道に入らぬ。然れは儒者なとかあれにと明道の任して云はるるなり。
【解説】
「言爲無不周遍、實則外於倫理。窮深極微、而不可以入堯舜之道」の説明。仏は「万行叢中不捨一方」と言いながらも五倫を捨て、父母を捨てる。五倫を捨てては天地と割符が合わない。
【通釈】
「言為無不周遍実則外於倫理」。これは仏の言である。雀が餌を運ぶことまでが仏心だと言う。「万行叢中不捨一方」と言い、周遍などと言いながら五倫を捨て、父母を捨てる。それと言うのも後から言ったこと。仏はとかく言い訳をしなければならない。迷い悟った上はそれでよいと言うが、それも詰まらないこと。黄蘗運禅師が母をどうしてか省いた。黒木や芭蕉と同じ様に思い、知らぬ顔で別れて、次の日母が黄蘗と聞いて追い掛けた処を黄蘗は舟に乗る。母はやれやれと言って渡し場で倒れて死んだ。それを振り向きもせず、それが母のためになると言う。丁度それは旦那が家来に給金を遣らず、これであれも金を使わないからよいと言うのと同じこと。それでは天地に通じない。黄蘗の倒死した母が男子の身になって天に昇ると言う類が高い場で卑いことを言うこと。それでは辻褄が合わない。よく思って見なさい。鼠までが子を持つのに、五倫を捨てれば天地と割符が合わない。あちらは畢竟空理なので言いたい放題である。そこで、こちらにも父母経があるなどと言うのも騒がしいこと。言語道断不墜理路喝と言って終わりにする。それほど高妙を売っても本物の姿ではない。学者がそれを面白がっても堯舜の道に入ることはできない。そこで、儒者などがあれに被れない様にと、明道が任じて言われたのである。
【語釈】
・黄蘗運禅師…中国唐代の禅僧。

天下之学非淺陋固滯云々。淺陋固滞、上の迷暗を云。文字訓詁の徒なり。其中て少し高ひのは仏に入。邪誕妖妄云々。耳目を塗るは学上知見へかけて云。溺天下於汙濁。經術へかけて云。儒者の道は天下の耳目を明にすることなり。是皆正路なり。蓁蕪云々。只道を々々と云ても、この異端の盛な内はならぬ。丁と百姓かかかまれませぬと云やふなもの。水を切て流して置て耕をせ子はならぬ。仏の邪魔を弁せ子はかかられぬことなり。先生進将覚斯人。進は上へ用られたときのこと。孔子の浪人てもさとすことなれとも、上に溺天下於汚濁とあるゆへ勢力かなけれはならぬ。そこて經済へかける。覚も伊尹の先覚の覚。經済にかかり、伊尹の志を行ふ思召なり。退将明之書云々。これは孔孟の志にて、孔子の詩書易春秋や孟子の七篇と同意なり。
【解説】
「天下之學、非淺陋固滯、則必入於此、自道之不明也。邪誕妖異之説競起、塗生民之耳目、溺天下於汚濁。雖高才明智、膠於見聞、醉生夢死、不自覺也。是皆正路之蓁蕪、聖門之蔽塞。闢之而後可以入道。先生進將覺斯人、退將明之書」の説明。文字訓詁の徒の中で高い者が仏に入る。道を得ようとしても異端が盛んな内は、それはできない。先ずは異端を弁じなければならない。明道は伊尹の志で出て、退いては孔孟の志しで書に向かった。
【通釈】
「天下之学非淺陋固滞云々」。「淺陋固滞」は上の「迷暗」のことを言ったもの。それは文字訓詁の徒である。その中で少し高い者は仏に入る。「邪誕妖妄云々」。耳目を塗るとは、学の上で知見へ掛けて言う。「溺天下於汚濁」。これは経術へ掛けて言う。儒者の道は天下の耳目を明らかにすること。それが「是皆正路」である。「蓁蕪云々」。ただ道を得ようとしても、異端の盛んな内はできないこと。丁度百姓が取り掛かれませんと言う様なもの。水を切って流して置いてから耕やさなければならない。仏が邪魔するのを弁じなければ取り掛かれない。「先生進将覚斯人」。進は上へ用いられた時のこと。孔子は浪人であっても覚すことができるが、上に「溺天下於汚濁」とあるので勢力がなければならない。そこで経済へ掛ける。「覚」は伊尹の先覚の覚。経済に掛かり、伊尹の志を行うという思し召しのこと。「退将明之書云々」。これは孔孟の志で、孔子の詩書易春秋や孟子の七篇と同意である。
【語釈】
・蓁蕪…草が生い茂ること。
・伊尹の先覚…孟子万章章句上7。万章章句下1。「予天民之先覺者也。予將以斯道覺斯民也」。

不幸早世。時に明道は五十五ゆへ早世とは書そふもないものなれとも、道統の任重ひことみへる。五十は早世の内なり。伊川は六十余て書をあらはすと云。五十五を早世の相よみは伊川の六十からと云ゆへなり。道の任は重ひことゆへめったに書にはせぬ。文章書のは軽いこと。とふでもよい。明道のはたん々々仕上て圣人にも至る思召ゆへ五十五を早世と云。其辨析精微云々。伊川は易傳、明道は語類なとにある語を云。稍はちっと計り門人の記録に殘たなり。学者の所傳は文集語類も一つに見へし。明道のはわづかなれとも、直に書れたもこめて学者之所傳なり。
【解説】
「不幸早世、皆未及也。其辨析精微、稍見於世者、學者之所傳耳」の説明。明道は五十五歳で世を去ったが、それを早世と言うのは、道統の任は重く段々と仕上げるものだからである。明道の書は僅かだか、それ等は学者の所伝である。
【通釈】
「不幸早世」。時に明道は五十五歳だったので早世とは書きそうもないものだが、道統の任は重いことと見える。五十歳は早世の内である。伊川は六十余りで書を著わしたという。五十五が早世の相読みになるのは、伊川が六十から書を著したからである。道の任は重いことなので滅多に書にはしない。文章を書くのは軽いことで、それはどうでもよい。明道のは段々と仕上げて聖人にも至る思し召しなので五十五を早世と言う。「其弁析精微云々」。伊川のは易伝に、明道のは語類などにある語のことを言う。「稍」は少しばかり門人の記録に残ったということ。「学者之所伝」は文集も語類も一つに見なさい。明道のそれは僅かだが、直に書かれたのも含めて学者之所伝である。

講後曰、吾黨の学者、鬼と云はれし学者二人あり。友松勘十郎、美濃て槇七郎左ェ門を鬼爺と云き。我々式でも精密厳恕は形からも学ばれふもしれぬが、光風霽月はどふも学ばれぬぞ。然れば体のわるき学者ぶりなり。
【解説】
精密厳恕は型で学ぶこともできるが、光風霽月は学び難い。
【通釈】
講後に言う、我が党の学者に鬼と言われた学者が二人いる。友松勘十郎と美濃の槙七郎左ェ門を鬼爺と言った。我々の様な者でも精密厳恕は形からも学ぶこともできるかも知れないが、光風霽月はどうも学ぶことはできない。それで、体の悪い学者振りなのである。
【語釈】
・友松勘十郎…
・槇七郎左ェ門…