先生之門学者多云々  亥五月廿一日  纖邸文録
【語釈】
・亥五月廿一日…寛政三年辛亥(1791年)5月21日。
・纖邸文…林潜斎。花沢文二。東金堀上(細屋敷)の人。寛延2年(1749)~文化14年(1817)

学者多矣と云は、下の句の平易易知へかけること。論吾の序、弟子弥衆や自西自東無思而不服は孔子の徳に服してと云こと。爰の伊川の越向は大勢がそれ々々益を得たと云か主意にて、それは平易易知ゆへと落すことなり。さらりとした明道ゆへ、賢愚の甲乙もあれとも、それそれ益を得たと。これは平たいことで、明道の高があらはれる。ここの明道のことへ迂斎を出すは大ふとり合ぬことなれとも、此あんばいがありて、迂斎には高上を云て人ををどすことなく、我方に物かないゆへ誰にでも善く云て聞せられた。それゆへ人か服したなり。如群飲於河各充其量。かぎりないを形容する。群飲はそれ々々量りあれとも、明道の量ないを学者か各々飲てさて々々有かたいと云。
【解説】
「先生之門、學者多矣。先生之言、平易易知、賢愚皆獲其益、如羣飮於河、各充其量」の説明。明道は「平易易知」なので人が各々益を得た。迂斎も自分に一物がなく、誰にでも善く言って聞かせられたので人が服した。
【通釈】
「学者多矣」は下の句の「平易易知」へ掛けたこと。論語の序にある「弟子弥衆」や「自西自東無思而不服」は孔子の徳に服してということ。ここの伊川の趣向は、大勢がそれぞれ益を得たというのが主意で、それは平易易知だからだと落としたのである。さらりとした明道なので、賢愚の甲乙もあるが、それぞれが益を得たと言う。これは平たいことで、明道の高さがこれで現れる。ここの明道のことに迂斎を出すのは大分取り合わないことだが、迂斎にもこの塩梅があり、迂斎は高上なことを言って人を脅すことがなく、自分に一物がないので誰にでも善く言って聞かせられた。それで人が服した。「如群飲於河各充其量」。限りないことを形容した。群飲ではそれぞれに限度があるが、明道は限りがないので学者が各々飲んで、本当に有難いと言う。
【語釈】
・弟子弥衆…論語序説。「定公元年壬辰、孔子年四十三、而季氏強僭、其臣陽虎作亂專政。故孔子不仕、而退修詩・書・禮・樂。弟子彌衆」。
・自西自東無思而不服…孟子公孫丑章句上3。「以德服人者、中心悅而誠服也、如七十子之服孔子也。詩云、自西自東、自南自北、無思不服。此之謂也」。詩は詩経大雅文王有声。

自致知至於知止云々。致知はあたまの工夫。それから至極へまいる。ここは効の段の字を用ひられ、この至の字は文章の上にてここに至ると云こと。知至の至とは違ふ。至於平天下の至もそれなり。誠意至平天下云々。上の知止は效の段のあたまの字。ここは知至と同し。章句ても至善と云てぎり々々を云なり。こちの意か誠になれは君子になる。平天下に別の経済はない。齊家則挙此而措之耳なり。洒掃應對云々。これより外にひくいことないゆへ学者がけりゃふに思ふが、垩賢のは實事ゆへ軽ひことはどふでもよいでない。それか小児の當然てっちりゆへ圣学の実事なり。いつ迠も洒掃應對ているは小あま小丁雅なり。これから段々究理尽性の大きなことに至る。
【解説】
「先生敎人、自致知至於知止、誠意至於平天下、灑掃應對至窮理盡性」の説明。明道の教えは「致知」により「知止」に至り、誠意で平天下とすること。聖賢のは実事なので「洒掃応対」から始めるが、それから「窮理尽性」へと至る。
【通釈】
「自致知至於知止云々」。「致知」は最初の工夫。それから至極へ参る。ここは効の段の字を用いられた。この至の字は文章の上でここに至るということで、「知至」の至とは違う。「至於平天下」の至もそれ。「誠意至平天下云々」。上の「知止」は効の段の最初の字。ここは「知至」と同じ。大学章句でも至善と言い、至極を言う。こちらの意が誠になれば君子になる。平天下に特別な経済はない。「斉家則挙此而措之耳」である。「洒掃応対云々」。これより外に卑いことはないので学者がそれを軽く思うが、聖賢のは実事なので、軽いことはどうでもよいとはしない。小児の時から当然をしっかりとするのが聖学の実事である。しかし、いつまでも洒掃応対でいるのは小尼小丁稚である。これから段々と「窮理尽性」の大きなことに至る。
【語釈】
・齊家則挙此而措之耳…大学章句1集註。「正心以上、皆所以脩身也。齊家以下、則舉此而措之耳」。

循循有序。中へ飛ことはない。上の句に何より至る々々を見へし。今日の初心のも致知にて、それか知止に至ると一貫なり。知至なり。循々とすきまなくすると斯ふなる。それが明道の導きなり。さて誠意は君子になることゆへ一簞一瓢てもなるが、伊尹周公は天下の業ゆへ別のことと思をふが、平天下に別に支度はない。誠意か引つつきに平天下へ行ゆへ循々なり。天下のことに別に支度するは覇者のこと。去る大名の幸田子へ直方に經済の書ありやと問はれしこと、三九郎へ云はるるに、某あのとき返事の仕様がわるかった、排釈録鞭策録か直方の経済の書じゃと答るがよかった、と。よい氣付れやふなり。別に平天下はない。はばの大いことなれども、誠意からでなければならぬ。そこか循々なり。咒のやふなことてはゆかぬ。本のこと、人の知は假りられぬ。誠意からて無てどふして平天下に至られやふ。丘瓊山の補のやふでは知られぬことなり。
【解説】
「循循有序」の説明。誠意を引き続きして平天下へ行くのであって、それは自分自身ですること。平天下に特別な仕方はない。
【通釈】
「循循有序」。空中を飛ぶことはない。上の句で何から至るのかを見なさい。今日の初心の者も「致知」から始め、それが「知止」に至ると一貫である。それが「知至」である。循々と隙間なくするとこうなる。それが明道の導きである。さて誠意は君子になることなので一簞一瓢でもなることができ、伊尹周公は天下の業なので格別なことと思うだろうが、平天下に特別な支度はない。誠意が引き続いて平天下へ行くから循々なのである。天下のことに別に支度をするのは覇者である。ある大名が幸田子に、直方に経済の書があるかと問われたことを三九郎に話した際、あの時の返事の仕様が悪かった、排釈録と鞭策録が直方の経済の書だと答えればよかったと言った。よい気付かれ様である。別に平天下はない。それは幅の大きいことだが、誠意からでなければならない。そこが循々である。呪いの様なことではうまく行かない。本当に、人の知は借りられない。誠意からてなくて、どうして平天下に至ることができるだろうか。丘瓊山の補の様なことではわからない。
【語釈】
・幸田子…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・三九郎…
・丘瓊山…明の瓊山の人。丘濬。字は仲深。号は深菴。

病世之学者捨近而趨遠云々。當時の老佛にかぶるるを嘆るる。先日の処ては佛をつかまへて云、ここは宋朝の儒者は佛のかぶれあるゆへ云。此間も大学を引かここのあやて、とこ迠も大学へ行子は本んのことにあらす。そこて行状か致知至於知止云々の大学の通でなけれはならぬ。黄勉斎朱子の行状にも其爲書也爲道也と書くもここの訣にて、程朱のは学問の力でなければ行状でない。先生接物辨而不間。さて々々違ふことなり。辨は見ぬくこと。一坐の人を肺肝を見る如く、あれは君子、これは小人と晴天白日のやふに人の魂を見て置て、さて隔はせぬ。ここか大徳なり。只今の人は人の非を見ると其人と靣を合せたときに靣ぶりかわるい。阮籍か青眼白眼かへたてるなり。明道どれをも一所にするか、中には油断ならぬ奴として、さて隔はない。感而能通。向へひひきが違ふ。こちの誠か深ゆへ通りかよい。只今の者人の子を疱瘡のとき、感して通るてなし。無沙汰と云はれまいためなり。ほんのはひびくから、向で案じやふとて此方から病状を知らせるほどのこと。そこか能通ゆへなり。
【解説】
「病世之學者、捨近而趨遠、處下而窺高、所以輕自大而卒無得也。先生接物、辨而不閒、感而能通」の説明。宋朝の儒者は仏に被れた。明道は人の魂を見極めることができるが、それでも隔てることはしない。また、誠が深いので、相手にその心がよく通った。
【通釈】
「病世之学者捨近而趨遠云々」。当時、老仏に被れるのを嘆かれた。先日の処では仏を掴まえて言い、ここは宋朝の儒者には仏の被れがあるので言う。この間も大学を引いたのがここの綾で、何処までも大学へ行かなければ本当のことではない。そこで行状が「致知至於知止云々」の大学の通りでなければならない。黄勉斎の書いた朱子の行状に「其為書也為道也」とあるのもこのわけで、学問の力でなければ程朱の行状ではない。「先生接物弁而不間」。全く違うこと。「弁」は見抜くこと。一座の人を肺肝を見る様に、あれは君子、これは小人と晴天白日の様に人の魂を見て置いて、さて、それを隔てはしない。ここが大徳である。只今の人は人の非を見ると、その人と面を合わせた時に面振りが悪くなる。阮籍の青眼白眼が隔てること。明道は誰に対しても一緒で、中に油断のならない奴がいても、隔てはしない。「感而能通」。向こうへの響きが違う。こちらの誠が深いので通りがよい。只今の者は人の子が疱瘡の時にも感じて通るのではない。無沙汰と言われないためである。本物は響くから、向こうでも案じるだろうと言ってこちらから病状を知らせるほどになる。そこは、能く通るからである。
【語釈】
・黄勉斎…名は幹。字は直卿。1152~1221
・青眼白眼…晋書阮籍伝。「籍又能為青白眼」。親しむ目つきと憎む目つき。

教人而人易從は、六ヶしいことないゆへなり。今の師はえこぢわるい。ためして見たり、或は向のならぬことをこづきまわすゆへ從ひにくひ。明道は向のなることて導けり。中庸の以人治人なり。そこて人かすら々々從ひ易ひ。怒人而人不怨。怒は明道にはあるまいと存るに、平生と違て怒るか明道の明道たる処なり。怒か理から出て、向をあいつにくひでないゆへ人不怨なり。たたい怒は蝮をにくむやふなもの。向かわるいからのこと。にくひつらとてのことてなし。山庄太夫をにくむと云か面白こと。あの画を見るものか誰れも山庄太夫に損したこともなけれともにくむやふなもの。明道に肉についた怒はない。向の人か耻入て明道に靣合せられぬとは云へとも、怨はせぬ。
【解説】
「敎人而人易從、怒人而人不怨」の説明。明道が相手のできることを教えたので、人が従い易かった。また、明道も理から怒ることもあるが、それは相手が憎くてのことではない。相手も恥入りはするが、怨むことはなかった。
【通釈】
「教人而人易従」は、難しいことがないからである。今の師は依怙地で悪い。試してみたり、或いは向こうのできないことを小突き回すので従い難い。明道は相手のできることで導いた。中庸の「以人治人」である。そこで人がすらすらと従い易い。「怒人而人不怨」。怒は明道にはないことだろうと思うが、平生と違って怒るのが明道の明道たる処。怒が理から出たことで、あいつが憎いということではないので「人不怨」である。そもそも怒は蝮を憎む様なもの。それは向こうが悪いからで、憎い面ということではない。山椒太夫を憎むというのが面白いこと。あの絵を見る者が山椒太夫によって損をしたわけではないのだが、誰もが憎む。明道には肉に付いた怒はない。向こうの人が恥入って明道に面を合わせられないとは言うが、怨むことはない。
【語釈】
・以人治人…中庸章句13。「子曰、道不遠人。人之爲道而遠人、不可以爲道。詩云、伐柯伐柯、其則不遠。執柯以伐柯、睨而視之。猶以爲遠。故君子以人治人、改而止」。

賢愚咸得其心云々。明道の御心をこちへえる。賢と善は云に及す、愚悪もさて々々あなたはと、一口に云へは否と云はぬなり。只の人のは賢愚ともにいなと云。狡偽者献其誠。狡偽はをふちゃくもののどふもならぬもの。今云下腹に毛のないと云なり。年貢も計るまいと云合点な奴つが、明道の前では日比のものが出されぬ。とふかして誠になる。脇ては迂詐を云ふか、其日は誠を出す。誠を献すると云かうかかわれぬ明道の妙処、垩に近ひ徳なり。暴慢者致其恭。いたづらもの。此邊て云ぶっこくりものなり。平生大あぐら大あばれものか今日はをとなしい。隣ではいたづらものなれども、明道の前では恭なり。大抵の人は手前の身のよいか十分なこと。明道のは人迠かこふなり。
【解説】
「賢愚善惡咸得其心。狡僞者獻其誠、暴慢者致其恭」の説明。明道の心を人が得ると愚悪でも感心する。狡偽の者も明道の前では誠になって、悪いことをすることができない。悪戯者も大人しくなる。明道は人を感化する。
【通釈】
「賢愚咸得其心云々」。明道の御心をこちらに得る。賢と善は言うに及すばず、愚と悪も本当に貴方はと感心する。一口に言えば、嫌と言えないこと。普通の人の言では賢愚共に嫌と言う。「狡偽者献其誠」。狡偽は横着でどうにもならない者。今言う下腹に毛がないという人である。年貢も計らない様にしようと思っている奴が、明道の前では日頃のものを出すことができない。どうしてか誠になる。脇では嘘を言うが、その日は誠を出す。誠を献じると言うのが窺い知れない明道の妙処で、聖に近い徳である。「暴慢者致其恭」。これは悪戯者のことで、この辺で言うぶっこくり者のこと。平生大胡座で大暴れの者が今日は大人しい。隣では悪戯者だが、明道の前では恭である。大抵の人は自分の身によいことをするので十分だが、明道のは人までがこうなる。

聞風者誠服。近づきでないものも觀感するなり。百里の外て靣も見ずに服す。覿徳者心醉。心酔は今迠と違ふを云。酒を酔と云字をつかふたもきこへたこと。酒に醉ふと今迠と違ふもの。口利ぬ男が口を利。平生弱いものかつよくなる。明道に逢ふて靣を合せると心もちが分んになりて、さて々々と云か心醉なり。そこて今迠の通てはなるまいと内へ帰ても最ふ無理を云ぬやうになる。大徳の人に合ふと自然とそふなり。ここへ幷て云はるる者てはないか、塩梅を云て見るに、文覚が西行を壓[おそ]ふとして、西行に靣を合せると一句も出ぬか心醉したなり。それから云へは、虞芮の君も心醉たゆへこれ迠の意と違ふて來たものなり。
【解説】
「聞風者誠服、覿德者心醉」の説明。遠くにいて明道を見たことのない人も明道に服す様になった。逢って面を合わせると、心酔して、これまでとは違った心となる。
【通釈】
「聞風者誠服」。近付きでないものも観感する。百里の外で面も見ずに服す。「覿徳者心酔」。心酔は今までとは違うことを言う。酒を酔うという字を使ったのもよくわかる。酒に酔うと今までとは違うもの。口を利かない男が口を利く。平生弱い者が強くなる。明道に逢って面を合わせると心持ちがよくなって、全くだと言うのが心酔である。そこで今までの通りでは悪いと思い、家に帰ってももう無理を言わない様になる。大徳の人に合うと自然とそうなる。ここへ併せて言える者ではないが、塩梅を言って見れば、文覚が西行を襲おうとして、西行に面を合せると一句も出なかったのが心酔したこと。それから言えば、虞芮の君も文王に心酔したのでこれまでの意と違って来たのである。
【語釈】
・文覚…文覚上人。北面の武士の出身。俗名遠藤盛遠。
・虞芮の君…史記周本紀。「西伯陰行善、諸侯皆來決平。於是虞・芮之人有獄不能決、乃如周。入界、耕者皆讓畔、民俗皆讓長。虞・芮之人未見西伯、皆慚、相謂曰、吾所爭、周人所恥。何往爲、祇取辱耳。遂還、倶讓而去。諸侯聞之曰、西伯蓋受命之君」。小学内篇稽古にもある。

小人以趨向之異云々。王荊公かことを心に持て書けり。つまり新法のことと見へし。葉解が排斥の取やふかわるい。あれを改て餘はあの註の通りに見べし。小人は誰て有ふと王荊公と見へし。利害と云かすぐに新法のこと。義理からでなく、王荊公口には尭舜々々と云へとも、利害なり。そこて明道の意に叶はぬ。さて、向の小人を明道の排斥せられたこと、葉解は明道當時御役御免てあったものゆへ、それを排斥と見たは了簡違ひなり。其意なれば排釈録も儒者が仏に排斥せられたになるが、そふてなく、向を云ことなり。さて、明道は小人と同心せぬゆへ小人の方で腹立そふなものに、そふない。退省其私は論語の字を假りたれとも、あの意とは違ふ。退はいつも靣を合せぬ時を云。小腹も立つか、あとて省ると尤と云なり。このこと実事あり。明道は道は知ぬが忠信の人なりと王荊公か云たことあり。王荊公は我を撞くものを根を切て葉をからすか、明道へはそふなく、只道を知らずと云たは我と合はぬゆへなり。ここはあの忠信の字を取て伊川の君子と書換へり。これて見れは葉解か排斥を退役のことと見たはいよ々々わるい。明道の云ことはきかぬが実は君子と云負け、腹も立てともどふも小人とは云はれぬ。
【解説】
「雖小人以趨向之異、顧於利害、時見排斥、退而省其私、未有不以先生爲君子也」の説明。ここは王荊公に対してのことである。明道は小人と心を同じくしないので小人が腹を立てそうなものだが、小人は後で省みて尤もなことだと感心する。それは王荊公にも同じで、明道は道を知らないが忠信の人だと言った。
【通釈】
「小人以趨向之異云々」。王荊公のことが心にあって書いたこと。つまり新法のことだと見なさい。葉解の「排斥」の取り様が悪い。あれは改め、その他はあの註の通りに見なさい。「小人」は誰であろうが王荊公だと見なさい。「利害」というのが直に新法のこと。王荊公は口では堯舜と言うが、それは義理からではなくて利害からである。そこで明道の意に叶わない。さて、向こうの小人を明道が排斥されたことについて、明道は当時御役御免だったので、これを葉解が排斥と見たのは了簡違いである。その意であれば排釈録も儒者が仏に排斥されたことになる。そうではなくて、向こうを言ったこと。さて、明道は小人と心を同じくしないので小人の方で腹を立てそうなものだが、そうではない。「退省其私」は論語の字を借りたものだが、あの意とは違う。退は面を合わせない時を言う。小腹も立つが、後で省みると尤もだと言う。これには実事がある。明道は道は知らないが忠信の人だと王荊公が言ったことがある。王荊公は自分を攻撃する者を根を切り葉を枯らすが、明道へはそうではない。ただ道を知らないと言ったのは自分と合わないからである。ここはあの忠信の字を取って伊川が君子と書き換えた。これで見れば、葉解が排斥を退役のことと見たのはいよいよ悪い。明道の言うことは聞かないが、実は君子と言い負け、腹も立てるがどうも小人と言うことができない。
【語釈】
・退省其私…論語為政9。「子曰、吾與囘言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發、囘也不愚」。

先生爲政治悪以寛。これらか今日の役人の手本になる。ちっと合点してもゆきよいことなり。太抵にくいやつと云が先へ立ゆへ治の靣ぶりかわるくなる。仕置する方の心に憎ひと云ことはないはづなり。論吾の哀矜而なり。にくひと云と法とをりになる。そこを寛て却て悪人もよくなるもの。訂斎の、小過をゆるすがよい、今どこでもそれがないてよくないと云はるるを、某なとも最なぜあのやふなこと云はるると思ふたが、なるほどなり。寛なけれはのだたぬ。若ひものもやきなをすとよくなれとも、寛てないと悪かそれきりになる。處煩而裕は、上み摂政の執政のことは一日二日有万機なり。それから軽い役でも役人は用事の煩多なもの。いそかしひに極ったものなれとも、そこをこせつくと道にはづれる。そこをゆっくりかよい。明道はいそかしい塲か寛裕なり。
【解説】
「先生爲政、治惡以寛、處煩而裕」の説明。政も憎いと言えば法の通りになる。そこを寛とすることで、悪人もよくなるもの。政は煩多なものだが、そこを急くと道に外れる。明道は忙しい場で寛裕だった。
【通釈】
「先生為政治悪以寛」。これ等が今日の役人の手本になる。一寸合点しただけでも行き易いこと。大抵憎い奴ということが先へ立つので治の面振りが悪くなる。仕置きをする方の心に憎いということはない筈。論語の「哀矜而」である。憎いと言えば法の通りになる。そこを寛で、却って悪人もよくなるもの。久米訂斎が小過は許すのががよい、今は何処でもそれがないからよくないと言われたのを、私なども何故あの様なことを言われるのかと思ったが、なるほどそうである。寛がなければ育たない。若い者焼き直すとよくなるが、寛でないと悪もそれで終わる。「処煩而裕」。上の摂政、執政のことは「一日二日有万機」である。それからして、軽い役でも役人の用事は煩多なもの。忙しいには極まったものだが、そこをこせこせとすると道に外れる。そこをゆっくりとするのがよい。明道は忙しい場で寛裕である。
【語釈】
・哀矜而…論語子張19。「孟氏使陽膚爲士師。問於曾子。曾子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜」。
・一日二日有万機…書経皋陶謨。「兢兢業業、一日二日萬幾」。

當法令繁密之際云々。ここか学者の至てめいわくなこと。三代の政をする氣て出るか、宋朝の當時の政か繁密ゆへ事か仕にくひと云。明道はそふない。ここか一つ吟味ものなり。衆に從て応文逃責ことはせぬか、圣賢は同役の云ことは一つもきかぬてない。又衆に計り從ふなればやくにたたぬ。応文逃責か世々役人の弊なり。其役に居てよい加減と云ことはない。このこと語類にもあり、又語雜爼にも相よみあり。御史になると誰ぞが非を見だそうとする。盗賊奉行も盗人かなくはそれほと目出度ことはないに、盗人を捕子は役が立ぬやふに思ふ。医者も病人のないがだたいよいはづ。それて明道は応文逃責ことはせぬ。
【解説】
「當法令繁密之際、未嘗從衆爲應文逃責之事」の説明。法に従うと言って責を逃れるのが世々の役人の弊である。明道は同役と一緒に政をするが、同役に従ってばかりでもなく、全く従わないわけでもない。「応文逃責」はしないのである
【通釈】
「当法令繁密之際云々」。ここが学者には至って迷惑なこと。三代の政をする気で出るが、当時の宋朝の政が繁密なので事がし難いと言う。しかし、明道はそうでない。ここが一つ吟味ものである。同役に従って「応文逃責」はしないが、聖賢は同役の言うことを一つも聞かないわけではない。また、同役にばかり従うのであれば役に立たない。応文逃責が世々の役人の弊である。その役にいてよい加減ということはない。このことが語類にもあり、また、語雜爼にも相読みがある。御史になると誰かが非を見出そうとする。盗賊奉行も盗人がなければそれほど目出度いことはないのに、盗人を捕えなければ役が立たない様に思う。医者も病人のないのが本来はよい筈。そこで、明道は応文逃責はしない。

人皆病於拘礙。上の法令へかけて見へし。當時の御法と云でこまる。明道は治法の篇にも多衆人所謂法所拘者云々のこともこの筋なり。明道には妙かあるゆへ、當時のことか邪魔になると云やふなことはない。綽然は直方先生の云、かまぼこなり。初心のするは骨か立つ。直方先生の不断云はるることか語類文集を假名にしたもの。今語類文集を國字になをすとそふなる。政もそれなり。文武忠孝を勵むべしと云中に二帝三王のことかなる。三年の喪と云へとも服忌領でもなる。今役人になったゆへ大学衍義補か入るの、集義和書の經済録のと躁くやふなことはない。衆憂以為難云々。某などのは處士の大言なり。其塲になるとならぬもの。東坡が弟ても、又張天祺ても。尤天祺はよい方へつけとも、政事は手とりものなり。皆荊公とはり合ひ、やかましい。先生爲之沛然は、ずう々々となる。道理のなりが自然に出るゆへ向へさわることなし。
【解説】
「人皆病於拘礙、而先生處之綽然。衆憂以爲甚難、而先生爲之沛然」の説明。当時は王荊公の悪法があり、多くの学者が荊公と張り合った。しかし、明道はそんなものに障ることはなかった。
【通釈】
「人皆病於拘礙」。上の法令へ掛けて見なさい。当時の御法が困ったもの。明道は政事の篇で「多衆人所謂法所拘者云々」と言ったのがこの筋のこと。明道には妙があるので、当時のことが邪魔になるという様なことはない。「綽然」は直方先生の言う、蒲鉾である。初心がすることは骨が折れる。直方先生がいつも言われたことは語類や文集を仮名にした様なもの。今語類や文集を国字に直すとそうなる。政もそれ。文武忠孝を励むべしと言う中に二帝三王のことが成る。三年の喪と言っても服忌令でもできる。今役人になったので大学衍義補が要るとか、集義和書の経済録がと躁ぐ様なことはない。「衆憂以為難云々」。私などのは処士の大言である。その場になるとできないもの。蘇東坡の弟でも、また張天祺でも同じ。尤も天祺はよい方へ付いたが、政事は大変なものである。皆荊公と張り合い、喧しい。「先生為之沛然」。ずんずんと成る。道理の通りが自然に出るので向こうへ障ることがない。
【語釈】
・多衆人所謂法所拘者…政事3。「明道爲邑。及民之事、多衆人所謂法所拘者」。
・東坡が弟…蘇轍。北宋の文章家。唐宋八家の一。字は子由。性剛直にして直言をはばからず、新法党に反対したため官僚としては不遇。1039~1112
・張天祺…張戩。張横渠の弟。横渠とともに二張と言われた。1031~1089

雖當倉卒云々。これか押すにをされぬ処なり。何その時量か小いとさわく。平生は尤な了簡も出すが、急なときはうろたへる。明道は殊の外今日はのぼせたのさはがれたのと云ことなし。一大事と云とき、花見の靣なり。外科か金瘡の時胴ぶるいがする。余程稽古しても切腹の処へ來ると子ぶとのやふでない。明道のは兼ての存養が違ふ。方監司竸為嚴急之時云々。監司は遠國役を吟味する御目代ゆへ楦威あるもの。外の御代宦所ては六ヶ敷云へとも、明道を見ると寛厚なり。設施之際有所頼云々。設施は官府文字なり。かけひきを設施と云。有所頼は、明道のことを手本にして、たよりにしたなり。悪人へ明道の徳かひひいたなり。先生所爲綱條法度人可效而爲也云々。渕源録に法度のこと細かにあるを朱子の秡て、これを書とめに出して規摸を示せり。法度のことは、丁と名医の方を用ても名医になられぬやふなもの。明道のは人へ響か違ふ。
【解説】
「雖當倉卒、不動聲色。方監司競爲嚴急之時、其待先生率皆寛厚。設施之際、有所賴焉。先生所爲綱條法度、人可效而爲也」の説明。明道は度量が大きいから狼狽えない。それは前々からの存養が人と違うからである。厳しい監司も明道を頼るので、彼には寛厚である。法度だけで政は治まらないのである。
【通釈】
「雖当倉卒云々」。これが押すに押されない処。いざという時に量が小ければ騒ぐ。平生は尤もな了簡も出すが、急な時は狼狽える。明道は、殊の外今日はのぼせたとか騒いだと言うことがない。一大事という時に花見の面である。外科が金瘡の時に胴震いがする。よほど稽古をしても切腹の処へ来ると根太の時の様ではない。明道のは前々からの存養が違う。「方監司竸為厳急之時云々」。監司は遠国役を吟味する御目代なので権威がある。外の御代官所では厳しく言うが、明道を見ると寛厚となる。「設施之際有所頼云々」。設施は官府文字である。駆け引きを「設施」と言う。「有所頼」は、明道のことを手本にしたり頼りにしたということ。悪人へ明道の徳か響いたのである。「先生所為綱条法度人可效而為也云々」。淵源録に法度のことが細かにあるのを朱子が抜き、これを書き留めて規模を示した。法度のことは、丁度名医の処方を用いても名医の様になれない様なこと。明道のは人への響きが違う。
【語釈】
・金瘡…外科医術。
・子ぶと…根太。癰の一種。

道之而從動之而和云々。もと孔子のことを云て、これか知惠てはゆかぬ。大抵今人の了簡かよい工夫で金の返済をのべやふと考る位のもの。さて々々下卑たこと。明道のはこの手で服したと云ことでない。向から。何のことなく手の入ぬこと。動之而和か上と二つことてなく、下知なしに從ふて骨は折れぬ。招くと直に來る。兄弟田地爭も、明道がこれはどふしたことと声をかけると直に和くやふなことなり。未求物而物応は、向の相手のこと。物か向から來ることなり。未施信而民信は、こちから信をしかけるでなく、約束せぬに向からあなたに相違はないと云。盟か下卑たこと。垩賢には入ぬ。今日の證文もたたい不信からなり。凡人は口より印判か位かよいと見へる。天地に並ぶ三才の口が角や木の印判よりやくにたたぬと云は淺間敷ことなり。成徳の上は、あなたのことはと民から信する。仁を假て信せられたがりてもまいらぬ。偖、明道の綱條法度のかたを学ぶこと。其外は明道眞似はならぬと、其徳を称して人不可及也。
【解説】
「至其道之而從、動之而和、不求物而物應、未施信而民信、則人不可及也」の説明。政は知恵だけでもうまく行かない。明道の場合は相手が自ら服すので骨が折れない。信も向こうからのこと。盟や証文は不信からのことであり、凡人は人の口よりも印判を重宝がる。明道の綱條法度は学ぶことができるが、その徳を真似することはできない。
【通釈】
「道之而従動之而和云々」。もとは孔子のことを言ったことで、これは知恵ではうまく行かない。大抵、今の人の了簡は、よい工夫で金の返済を延ばそうと考える位のもの。それは本当に下卑たこと。明道のは、この手で服したということではない。向こうから服す。何事もなく、手の要らないこと。「動之而和」が上と別なことではなく、下知がなくても従うので骨は折れない。招くと直に来る。それは、兄弟の田地争いでも、明道がこれはどうしたことかと声を掛けると直に和らぐ様なこと。「不求物而物応」は、向こうにいる相手のことで、物が向こうから来ること。「未施信而民信」は、こちらから信を仕掛けるのではなく、約束もしないのに向こうから貴方に相違はないと言われる。盟は下卑たことで、聖賢には要らないもの。今日の証文もそもそも不信からのこと。凡人には口より印判の方が位が高いと見える。天地に並ぶ三才の口が角や木の印判より役に立たないと言うのは浅ましいこと。成徳の上は、貴方のことはと民の方から信じられる。仁を借りて信じられようとしてもうまく行かない。さて、明道の綱條法度の型を学びなさい。その外のことは明道の真似はできないと、その徳を称して「人不可及也」と言った。
【語釈】
・下知…指図をすること。命令。


第十八 窻前草不除去條

明道先生曰、周茂叔窻前草不除去。問之、云、與自家意思一般。子厚觀驢鳴、亦謂如此。
【読み】
明道先生曰く、周茂叔の窻前の草除去されず。之を問うに、云う、自家の意思と一般なり、と。子厚、驢の鳴くを觀るも、亦謂うこと此の如し。
【補足】
・この条は、程氏遺書三にある明道の語。

周子の庭の掃地せぬなり。椽側や窓の前などの鼻の先きに草のはへてあるをすててをかれた。唐ても日本ても古今庭の艸はぬくに、周子のすててをかるるゆへ、そこて不審してなせ庭の草と問へは、偖さどふやらあの艸の青々と生々した処がこちの胸に合ふて秡きをしくて秡ぬてやと云。與自家意思一般は、此方の心も生きもの、艸も生もの、そこてのこと。秡へきはつなれとも、こちに似たと思へはいたいけじゃが、此ごろに秡かせやふさとなり。このやふなこと塩梅ありて、理屈思慮ではこの章が死ぬ。丁どこの位の地位になら子ばほっこりと面白ない。偖、窓前の草を見付たも明道、それを無情ゆへとは思はず、訣あろふと云か明道なり。思へはたはけなと云と見るほとのこと。周子の誠か艸と生意の照合ふことなり。此方に人欲かあり、物好きありては照り合ぬ。胷中灑落の寡欲のと、あの拭に至りたとき與自家意思一般かあること。今日云へは面々式てもこれに似たことがあろふが、独庭の艸にかきらぬこと。窓前の草を挌式にしては了簡違ひなり。
【解説】
周子が庭の掃除をしなかったのは、窓前の草と自分とが照り合ったからである。明道も、窓前の草が抜かれないのは無情だからではなく、わけがあるのだろうと思った。胸中灑落で寡欲でなければこの様には感じないもの。
【通釈】
周子が庭の掃除をしない。縁側や窓の前などの鼻の先きに草が生えているのを放って置かれた。唐でも日本でも古今庭の草は抜くものだが、周子がそれを放って置かれるので、そこで不審に思って何故庭の草を抜かないのかと問うと、それは、どうもあの草の青々と生き生きとした処が自分の胸に合って抜き惜しくて抜けないのだと言う。「与自家意思一般」は、自分の心も生き物で、草も生き物だから、それで言ったこと。抜くべき筈のものだが、こちらに似ていると思えば幼気だが、近く抜かせようと言った。この様なことには塩梅があり、理屈思慮ではこの章が死ぬ。丁度この位の地位にならなければほっこりと面白くない。さて、窓前の草を見付けたのも明道、それを無情だからとは思わず、わけがるのだろうと言ったのが明道である。思えばそれは戯けたことを言うと見えるほどのこと。周子の誠が草と生意の照り合う。自分に人欲があり、物好きがあっては照り合わない。胸中灑落、寡欲と、あの域に至った時に「与自家意思一般」がある。今日で言えば面々にさえもこれに似たことがあるだろうが、それは庭の草に限ったことではない。窓前の草を格式とするのは了簡違いである。

子厚觀驢鳴亦謂如此。周子は草、横渠は馬なり。これて氣を付へし。人は天地人の中に居て天地の氣て出來、天地にはらまれるものゆへ感に觸れてこちへひひく。それゆへ靣壁て悟でない。活物へ氣を付ると馬てあれ生き々々の処が周張暗に合へり。これからは御座へ出されぬことなれとも、宣王が牛を見たも此意なり。宣王人欲だらけなれども、牛のうつむいて往く底かさてもふびんと云処が一つことなり。人心の自然にて、ひびき合ふもの持つと見へる。ここが大切の宝ゆへ、周張を出して垩賢の心が知れる。仁は天地生物之心、孔子の一箇の仁を説もここへあたりあること。佛は寂滅と云。そこて儒釈の違もここのあやなり。此うるをひの有てほと々々と汁氣や涙の出るか生物の心なり。このやふな処か凡夫は欲、学者は理屈ていそかしく、此方の胸へのらぬ。花を見ても鳥か鳴ても生物之心を一般と見ると心の氷かとける。そこてここを周張をあげて垩賢のことを知らせる。
【解説】
草に限らず活物の生き生きとしたところに感じ触れて、それがこちらに響く。凡夫は欲で忙しく、学者は理屈で忙しいからこの様なことが自分の胸に乗らない。
【通釈】
「子厚観驢鳴亦謂如此」。周子は草で、横渠は馬で言った。これで気付きなさい。人は天地人の中にいて、天地の気ででき、天地に孕まれたものなので感に触れてこちらに響く。そこで、面壁で悟るという様なことはない。活物へ気を付けると馬であれ生き生きとした処が周張共に暗に合う。これからは御座に出せないことだが、宣王が牛を見たのもこの意である。宣王は人欲だらけだが、牛が俯いて往く姿が実に不憫だと言う処がこれと同じこと。人心の自然で、響き合うものを持っているものと見える。ここが大切な宝であって、周張を出したことで聖賢の心が知れる。「仁者天地生物之心」で、孔子が一箇の仁を説くのもここへ当たりのあること。仏は寂滅と言う。そこで儒釈の違もここの綾にある。この潤いがあってぽとぽとと汁気や涙の出るのが生物の心である。この様な処が凡夫は欲、学者は理屈で忙しいから自分の胸へ乗らない。花を見ても鳥か鳴いても生物之心を一般と見ると心の氷が解ける。そこで、ここに周張を挙げて聖賢のことを知らせた。
【語釈】
・宣王が牛を見た…孟子梁恵王章句上7。「臣聞之胡齕曰、王坐於堂上、有牽牛而過堂下者。王見之、曰、牛何之。對曰、將以釁鐘。王曰、舍之。吾不忍其觳觫。若無罪而就死地。
・仁は天地生物之心…中庸章句20集註。「仁者、天地生物之心、而人得以生者。所謂元者善之長也」。


第十九 聞生皇子喜甚之条

張子厚聞生皇子、喜甚。見餓莩者、食便不美。
【読み】
張子厚は皇子生まると聞けば、喜ぶこと甚だし。餓莩[がひょう]者を見れば、食便ち美とせず。
【補足】
・この条は、程氏遺書三にある明道の語。

只今誰有て皇子の御誕生を聞てけっこうと云はぬ者はないなり。上のことて恐悦とは云へども、さほどのりはないもの。張子は誠に心のそこからぞく々々してのこと。これは伺はれぬ張子の御心なり。驢鳴や庭の草も生もののこと。其中て別して皇子の御誕生は思へば重ひこと。張子の御喜か一かたならず、呂与叔なとが先生今日は別していそ々々した底と云たてあろふ。見餓死者食便不美。これは皇子と違ひ、とこの鉢坊主か古椀を持て溝のわきに死たのなり。先生今日はどふかなされたか、好物なものも常のやうてない、なじぇなと云へは、供の丁雅が今日堀に行倒れて死たものあり、それを御覧して氣の毒そふな御顔て有しと云。此やふなこと段々ありたと見へる。そこて門人か記録したものなり。皇子の重ひ御方と堀て死ぬ身分の者にて、横渠とはどちも遠々しいこと。横渠も御直参なれとも高位高官てもなく、皇子御誕生の恐悦に出る身分てもない。又、餓莩の者か我親類てもなく、皆のいた中の者。然るに喜と憂か胸中の誠から出たもの。
【解説】
皇子の誕生は結構なことだが、上のことなのでそれほどには感じないもの。しかし。横渠は心からそれを喜んだ。また、餓死者をみると好物もあまり食べなくなった。皇子も餓死者も横渠に近い人ではないが、彼の誠から喜と憂が出たのである。
【通釈】
今、皇子の御誕生を聞いて結構なことだと言わない者は誰もいないが、それは上のことなので恐悦とは言っても、さほど乗りはないもの。張子は誠に心の底からぞくぞくして喜んだ。これが窺い知れない張子の御心である。驢の鳴くのや庭の草は生き物のこと。思えばその中で特に皇子の御誕生は重いこと。張子の御喜びは一方ならず、呂与叔などが、今日の先生は特にいそいそしていると言ったことだろう。「見餓莩者食便不美」。これは皇子とは違い、何処かの鉢坊主が古椀を持って溝の脇で死んだこと。先生今日はどうかなされたか、好物なものもいつもと違うがそれは何故かと聞くと、供の丁稚が、今日堀に行き倒れて死んだ者がいて、それを御覧になって気の毒そうな御顔であったと答えた。この様なことが色々とあったと見える。そこで門人がこれを記録した。皇子という重い御方と堀で死んだ身分の者のことは横渠にはどちらも遠々しいこと。横渠も御直参だが高位高官でもなく、皇子御誕生の恐悦に出る身分でもない。また、餓莩の者は自分の親類でもなく、皆縁のない者。しかしながら、喜と憂が胸中の誠から出る。
【語釈】
・驢鳴や庭の草…聖賢18の語。

これからの西銘て天地万物を一体と見る氣象か、大君は吾父母宗子ゆへ恐悦なり。皆吾兄弟顚連而無告者ゆへ餓莩を憂へり。それか我兄弟のやふゆへ食不美も尤なことなり。今の人これを煎藥にして飲ても此方の誠かそふ至らぬゆへとふもならぬ。偖、これに深ひことのあるは、此二つか眞似てならぬ。天下の政も尤な理屈も君父の歒討つこともなるか、ここの段は直段のならぬことなり。世説の序に定價の字かある。窓前の草驢鳴皇子誕生のことは千両道具なり。なせ千両道具なれは、價ひか定て眞似でならぬ。この実がなけれは西銘の文章はかりを有難かることはない。昔から文者がありて能文も有ふが、西銘の尊ひはこのやふな処のこと。これは仏の云菩提と菩薩のやふなもの。ここは菩薩なり。西銘は我からだに成たなり。太宰かあの中て横渠かよいと云へとも知ぬなり。西銘のよいは爰へ帰着なり。
【解説】
西銘にある通り、「大君者吾父母宗子」なので喜び、「天下疲癃殘疾惸獨鰥寡皆吾兄弟之顛連而無告者」なので憂うのである。このことは真似てできることではない。西銘は自分の体に成ることなのである。
【通釈】
西銘で天地万物を一体と見る気象が、「大君者吾父母宗子」なので恐悦なのである。「皆吾兄弟顛連而無告者」なので餓莩を憂えた。それが自分の兄弟の様なので「食不美」も尤もなこと。今の人がこれを煎薬にして飲んでも自分の誠がその様に至らないのでどうにもならない。さて、これには深い意があり、この二つが真似ではできないこと。天下の政も尤もな理屈で君父の敵を討つこともできるが、ここの段は値段をつけることはできない。世説新語の序に定価の字がある。窓前の草や驢鳴や皇子誕生のことは千両道具である。何故千両道具なのかと言うと、価が定かで真似することができないからである。実がなければ西銘の文章ばかりを有難がることはない。昔から文者がいて能文もあるだろうが、西銘が尊いのはこの様な処のこと。これは仏の言う菩提と菩薩の様なもの。ここは菩薩である。西銘は自分の体に成る。太宰春台があの中で横渠がよいと言ったが、知らないから言ったのである。西銘のよいところはここへ帰着すること。
【語釈】
・大君は吾父母宗子…為学89。「大君者、吾父母宗子、其大臣、宗子之家相也」。
・皆吾兄弟顚連而無告者…為学89。「凡天下疲癃殘疾、惸獨鰥寡、皆吾兄弟之顚連而無告者也」。
・世説…後漢から東晋に至る貴族・学者・文人・僧侶などの徳行・言語・文学などに関する逸話を三八門(または三六門)に分類し収録した書。三巻。南朝宋の劉義慶編。五世紀前半に成る。


第二十 在興國寺講論之条

伯淳嘗與子厚在興國寺、講論終日。而曰、不知舊日、曾有甚人於此處講此事。
【読み】
伯淳嘗て子厚と興國寺に在りて、講論すること終日なり。而して曰く、知らず舊日、曾て甚[いか]なる人有りて此の處に於て此の事を講ぜしや、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書二にある。

この章は上の条よりももっと何のことない章なり。それてとつと垩賢の篇へのる大切のあんばい有ることなり。明道張子興國寺て一日遊山がてらの出會なり。暮方帰りぎわに、曰不知舊日曾有甚人於此処講此事となり。明道の曰なり。この寺昔から人も大勢來たらふか、何人か今日のこの咄した者か有ふかなり。今日の咄何かしれぬが、それがどふてござると云はふか、これは明道の御心へひびいたことを云。又これを高いことのこき上けたことと思は知らぬなり。そふ計り見ると目の付処が違ふ。先日伊川と邵子の及六合之外と云た、あの筋とは違ふ。この興國寺の會も其やふな高上なことて有ふと思はふか、この日も固り高ひ咄もあろふか卑ひことも有たろふ。性天道の高いこと計りては興國寺の會てない。先軰も云はれぬか、某遺書外書を見るにたまさか張子と問答ある。井田なとのことなり。其井田の話ても興國寺の會になる。とどひびく処かこの會なり。
【解説】
明道と張子の出合った興国寺の会では、高い話も卑い話もあった。その会は明道の心に響くものだった。
【通釈】
この章は上の条よりももっと何事もない章である。それでいて聖賢の篇に載っているのは大切な塩梅があるからである。これは、明道と張子が一日遊山をしたついでにした興国寺での出会いである。暮方帰り際に、「曰不知旧日曾有甚人於此処講此事」と言った。明道の「曰」である。この寺は昔から人も大勢来ただろうが、今日のこの様な話をした者がいただろうかと言ったのである。今日の話は何だったのかも知れず、それがどうしたことかと言われるのかも知れないが、これは明道の御心へ響いたことを言う。また、これを高いことを扱き上げたと思うのは知らないのである。そうとばかり見ては目の付け処が違う。先日伊川と邵子を「及六合之外」と言った、あの筋とは違う。この興国寺の会もその様な高上なことだろうと思うだろうが、この日も固より高い話もあっただろうが、卑いこともまたあっただろう。性天道の高いことばかりでは興国寺の会でない。先輩も言われないことだが、私が遺書や外書を見たところ、張子との問答が沢山あり、それは井田などのこと。その井田の話でも興国寺の会になる。つまりは響く処がこの会なのである。
【語釈】
・及六合之外…

上の窓前の艸や餓莩の章はつかまへ処あり、與自家之意思一般と云や西銘の意でつかまへられるが、この章はつかまへにくひ。朱子のこれを載せられて、旧日有甚人云々の中は知れぬが、斯ふ云処か垩賢の篇なり。節要を編むに呂子の蝉のこと一とくたり載てあり。蝉の音て御手前様の高風を思ふと云。そこか朱子のあんばいあるそ。一種傳授の大切なり。何のことないに意味のあることを理會すべし。ここを迂斎輕く説れて、をとけのやうなことを云はれたとなり。上戸か酒のみて昔からここて飲たもの有ふがと云か一入あんばいあり。そふして見れは垩賢のことかすらりとしたことでも意味氣象の得らるること。そこで垩賢の篇へ載られたもの。又迂斎云、鐘子期伯牙か琴もこもるとなり。とふても手合揃てなけれは塩梅はない。觀世や新九郎が昔誰ぞがと云やふなもの。それが乱柏子道成寺のことに限らす、羽衣や高砂ても塩梅か違ふこと。偖、呂栄公の渕源録にあること葉解がつまみて引てあり。なんのことなく云へとも、あれは禅の意あり。葉解て見合すべし。
【解説】
この章は捉まえ処がないが、何事もないことに意味があることを理会しなければならない。聖賢のすらりとしたところに意味気象があるのである。
【通釈】
上の窓前の草や餓莩の章は捉まえ処があり、「与自家之意思一般」や西銘の意で捉まえられるが、この章は捉まえ難い。朱子がこれを載せらたのは、「旧日有甚人云々」の中は知ることができないが、こう言う処が聖賢の篇だからである。節要を編む際に呂子の蝉のことを一行載せてある。蝉の音で御手前様の高風を思うと言った。そこが朱子の塩梅のあること。ここが一種伝授の大切なところである。何事もないことに意味があることを理会しなさい。ここを迂斎が軽く説かれ、戯けの様なことを言われたと言った。上戸が昔ここで酒を飲んだことだろうと言うのが一入塩梅のあること。その様に見れば、聖賢のすらりとしたことからでも意味気象が得られること。そこで聖賢の篇へ載せられたのである。また、迂斎が、鐘子期と伯牙の琴もここにこもっていると言った。どうしても手合いが揃うのでなければ塩梅はない。観世や観世新九郎が昔誰かがと言う様なもの。それは乱拍子の道成寺に限らず、羽衣や高砂でも塩梅が違うもの。さて、呂栄公の渕源録にあることを葉解が摘まんで引いてある。何事もなく言ってはいるが、あれには禅の意がある。葉解で見合わせなさい。
【語釈】
・窓前の艸…聖賢18の語。
・餓莩の章…聖賢19の語。
・鐘子期伯牙…列子湯問。「伯牙善鼓琴、鍾子期善聽。伯牙鼓琴、志在登高山。鍾子期曰、善哉、峨峨兮若泰山。志在流水。鍾子期曰、善哉、洋洋兮若江河。伯牙所念、鍾子期必得之。伯牙游於泰山之陰、卒逢暴雨、止於巖下。心悲、乃援琴而鼓之。初爲霖雨之操、更造崩山之音。曲毎奏、鍾子期輒窮其趣。伯牙乃舍琴而嘆曰、善哉、善哉、子之聽夫。志想象猶吾心也。吾於何逃聲哉」。


第廿一 謝顕道曰の条

謝顕道云、明道先生坐如泥塑人。接人則渾是一團和氣。
【読み】
謝顕道云う、明道先生は坐すること泥塑人の如し。人に接するときは則ち渾[まった]く是れ一團の和氣なり、と。
【補足】
・この条は、程氏外書一二にある。

明道は違たもの。ずっしりと居った所が人ではない、木偶と思はるる。それか、人か御見廻申すと云と直にほろ々々となる。一團和氣。一團はすっへり丸でと云ことなり。土人形のやふて息もかよわせぬかと見れは、丸てほっこりとなる。成ほと明道はそふで有たらふなり。
【通釈】
明道は違った人。ずっしりとしている所が人ではなく、木偶の様に思える。それが、人が御見舞い申すと言うと直ぐにほろほろとなる。「一団和気」。一団はすっかり、丸でということ。土人形の様で息も通わないかと見れば、全体がほっこりとなる。なるほど明道はそうだっただろう。


第廿二 侯師聖云之条

侯師聖云、朱公掞見明道於汝。歸謂人曰、光庭在春風中坐了一箇月。游・楊初見伊川、伊川瞑目而坐。二子侍立。既覺、顧謂曰、賢輩尚在此乎。日既晩、且休矣。及出門、門外之雪深一尺。
【読み】
侯師聖云う、朱公掞明道に汝に見ゆ。歸りて人に謂いて曰く、光庭春風の中に在りて坐ること一箇月なり、と。游・楊初めて伊川に見えしとき、伊川は瞑目して坐せり。二子侍立す。既に覺[さ]め、顧みて謂いて曰く、賢輩尚此に在るか。日既に晩[おそ]ければ、且く休め、と。門を出ずるに及び、門外の雪深きこと一尺なり。
【補足】
・この条は、程氏外書一二にある。侯師聖は、名は仲良。伊川門人。

上の和氣なり。ここの云やふがよい。春風の処に滞留したとなり。この時節が春か夏かそれにはかまはず、明道の御様子が春風なり。貴様はあそこて学問か。いや、春風に吹れたと云。朱公掞か俳諧めいたことてなし。明道の大切の学ひ処と見たゆへのこと。たたい朱公掞かたい人ゆへ東坡かにくみて、笏を正しくして行義よいを悪言したも朱公掞が相手なり。中々をとけめいた人てなし。揚游初見伊川云々。御咄かたん々々ありてのこと。そこへ往くと眠たてなし。字をたすけて見へし。先生坐睡せられたゆへ、をれらはかへらふと云ことならぬ。覺顧謂曰云々。そなた衆は未たそこにか、早く帰て休息せよとなり。これて初手何そはなしの有たかしるる。矣の字も早く帰てやすめを主に云ゆへなり。それから御前を出れは三里ぎわ迠の大雪なり。これは師匠の嚴てめったに帰ることならぬを云。
【解説】
明道は春風の様な人であり。伊川は厳な人である。朱公掞の様な堅い人でも、明道の所で春風に吹かれたと言った。
【通釈】
ここは前条の和気のこと。この言い様がよい。春風の処に滞留したと言った。この時節は春か夏かに構わず、明道の御様子が春風なのである。貴様はあそこで学問をしたのか。いや、春風に吹かれたと言う。朱公掞は俳諧めいたことを言ったのではない。明道の大切の学び処だと見たから言ったのである。そもそも朱公掞は堅い人で、それで蘇東坡が憎んだのであり、笏を正しくして行儀のよいことを悪言したのも朱公掞を相手にしてのこと。中々戯けめいた人ではない。「游楊初見伊川云々」。御話が色々とある。そこへ往くと伊川が眠っていたのではない。字を補って見なさい。先生が座睡をされていたので、俺達は帰ろうと言うことができない。「覚顧謂曰云々」。貴方衆はまだそこにいたのか、早く帰って休息しなさいと言った。これで最初にどの様な話があったのかがわかる。「矣」の字も早く帰て休めということを主に言うためのもの。それから御前を出れば三里際までの大雪である。これは、師匠が厳なので滅多に帰ることができないことを言ったもの。
【語釈】
・朱公掞…名は光庭。1037~1094
・揚…楊時。字は中立。号は亀山。1053~1135
・游…游酢。字は定夫。号は廌山。1053~1132

偖、朱公掞は春風て形容、伊川の大雪の実事、これを二つならべて御兄弟の温と嚴か見へる。このやふなことを聞て明道ひいきになり、伊川はまたしいと思ふ。それから後世の附會ありて、明道はどふらくめき、伊川は偏屈で小尻とかめと思ふは皆垩賢を見ることならぬ。氣質は違ても道は一なり。温な中にも嚴あり、嚴な中にも滋味親切あり。つまり氣象風彩違ても道は同こと。辛ひ甘を云は氣質にかかわる故のこと。垩賢篇の始にも孟子を顔子の春生の上へ秋殺を合せる。程子兄弟もそれと同こと。先日も云、伊川の自曰はるるに、某か死後某かことを知たくは先兄の行状て見よとなり。ここて見ては知れぬか、道か一なり。朱子の集註も始めは程伯氏程叔氏とせられたか、後に改て、兄弟の氣象は違ても道にめりかりないとて皆程子曰々々々とせり。道の一つか道統の行状。これか垩賢篇を讀の法なり。
【解説】
明道は温で伊川は厳と気質は違うが、温な中にも厳があり、厳な中にも滋味親切がある。気象風采は違っていても道は同じなのである。道が同じなので、朱子も集註に程子曰と記した。
【通釈】
さて、朱公掞は春風で形容し、伊川は大雪の実事で言い表した。これを二つ並べると御兄弟の温と厳が見える。この様なことを聞いて明道贔屓になり、伊川は未熟だと思う。それから後世では附会があって、明道は道楽めいて、伊川は偏屈で鐺咎めをすると思うのは皆聖賢を見ることができないからである。気質は違っても道は一つである。温な中にも厳があり、厳な中にも滋味親切がある。つまり気象風采は違っても道は同じである。辛い甘いを言うのは気質に拘るからである。聖賢篇の始めにも孟子を顔子の春生の上へ秋殺を合わせると言ったが、程子兄弟もそれと同じ。先日も言ったが、伊川が自ら、私の死後私のことを知りたければ先ず兄の行状で見なさいと言った。ここで見てもわからないが、道が一つである。朱子の集註も始めは程伯氏程叔氏とされたが、後に改めて、兄弟の気象は違っていても道に甲乙はないと言って皆程子曰とした。道が一つと言うのが道統の行状。これが聖賢篇を読む方法である。
【語釈】
・附會…無理につなぎ合せること。こじつけること。
・小尻とかめ…鐺咎め。わずかなことを咎めだてすること。
・孟子を顔子の春生の上へ秋殺を合せる…聖賢2。「顏子春生也。孟子幷秋殺盡見」。

淵源録には伊川の年譜あり。あれも朱子の新く書たでなく、今の二程全書の中や遺書外書から撰み出してあれを載せり。この垩賢篇へは伊川のことはなく明道計を云て、只ついでに一寸雪のことあり。年譜の例なれはまたも伊川の語を載せそふなものに、そこが朱子の思召に、兄弟風釈氣象の生れつき違ふたに見ることはない。道の一か垩賢篇へ収めたいなり。明道の二條あれは別に伊川を出して見せぬが朱子の思召なり。優劣を云は我得手方へ落る。そふすると明道狐なり。すいた方へ贔屓つけるのなり。因てここて氣質はともあれ道の一なるを改めて知ることなり。
【解説】
聖賢篇には明道のことを多く書き、伊川の事は雪のことだけしか書かないが、気質は違っていても二人の道は同じだからそれでよい。
【通釈】
淵源録には伊川の年譜がある。あれも朱子が新しく書いたことではなく、今の二程全書の中や遺書や外書から撰み出してあれを載せたのである。この聖賢篇へは伊川のことはなく明道ばかりを言い、ただついでに雪のことを一寸言っただけ。年譜の例によれば、また伊川の語を載せそうなものだが、朱子の思し召しは兄弟の風采や気象という生まれ付きの違いを見ることはなく、道が同じであることを聖賢篇に収めたかったのである。明道の二条があるので、別に伊川を出して見せないのが朱子の思し召しである。優劣を言うのは自分の得手方へ落ちる。そうすると明道狐となる。好いた方へ贔屓を付けることになる。そこでここは、気質はともあれ道が一つであることを改めて知るものである。


第廿三 劉安礼之条

劉安禮云、明道先生德性充完、粹和之氣、盎於面背。樂易多恕、終日怡悦。立之從先生三十年、未嘗見其忿厲之容。
【読み】
劉安禮云う、明道先生は德性充完し、粹和の氣、面背に盎[あふ]る。樂易して恕多く、終日怡悦す。立之の先生に從うこと三十年、未だ嘗て其の忿厲の容を見ず、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書附録の「明道先生門人朋友叙述」にある。劉安禮は劉宗礼の誤り。劉立之。字は宗礼。

明道のこと、伊川の行状て盡ている。此章を載たはあの外のことは見へ子とも、辞の立やふがちごう。辞の立やふて調法あるは、垩賢の氣象はめったに見へぬことなれとも、辞の立やふて見へぬことか又見へて來ることあり。徳性充完云々。やはり固有の性なれとも、充完ゆへ盎靣背と云。上戸のうむほど飲だと云は一寸てない。粹和の氣かたっふりはみ出るほと見へる。樂易多恕。此二字易か主になる方てたのしましい。豈弟の君子かそれなり。あなたの御側に居ても氣かつまらぬと云。多恕はをもいやり多を云。一日にこ々々か、つまり人欲ないゆへなり。にこ々々かならぬこと。顔樂もそこなり。三十年未嘗見其忿厲之色。これて氣象の格別も知るることなり。人を恕ても其色を見ぬ。行状にも恕人とあるか、向か道理にそむくゆへのこと。こちに忿厲はない。人を怒ることはありても忿厲はない筈のこと。馬子さへ馬を叱すれとも色に出ぬにてみよ。
【解説】
辞の立て様で見えないことが見えて来る。明道からは酔和の気が滲み出ている。また、三十年の間、忿厲したのを見たことがない。
【通釈】
明道のことは伊川の行状で尽きている。この章はあの外のことは見えないが、辞の立て様が違う。辞の立て様で調法するのは、聖賢の気象は滅多に見えないことだが、辞の立て様で見えないことがまた見えて来ることがあるからである。「徳性充完云々」。やはり固有の性だが、「充完」なので「盎面背」と言う。上戸が倦むほど飲んだと言うのは一寸でないこと。「粋和之気」がたっぷりはみ出るほどに見える。「楽易多恕」。この二字は易が主になことで、楽しみ易いこと。「豈弟君子」がそれ。貴方の御側にいても気が詰まることはないと言う。「多恕」は思い遣りの多いことを言う。一日中にこにこしているのは、つまりは人欲がないからである。にこにこができないことで、顔楽もそれ。「三十年未嘗見其忿厲之色」。これで気象が格別なことも知れる。人を怒っても色を見ない。行状にも「怒人」とあるが、それは向こうが道理に背くためである。こちらに忿厲はない。人を怒ることはあっても忿厲はない筈。馬子でさえ、馬を叱っても色に出ないことで見なさい。
【語釈】
・盎靣背…孟子尽心章句上21。「君子所性、仁義禮智根於心。其生色也、睟然見於面、盎於背、施於四體、四體不言而喩」。
・豈弟の君子…詩経に多くある語。
・顔樂…論語雍也9。「子曰、賢哉、囘也。一簞食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉、囘也」。
・恕人…聖賢17。「怒人而人不怨」。


第廿四 呂與叔撰明道先生哀詞条

呂與叔撰明道先生哀詞云、先生負特立之才、知大學之要。博文強識、躬行力究。察倫明物、極其所止。渙然心釋、洞見道體。其造於約也、雖事變之感不一、知應以是心而不窮。雖天下之理至衆、知反之吾身而自足。其致於一也、異端竝立而不能移、聖人復起而與易。其養之成也、和氣充浹、見於聲容。然望之崇深、不可慢也。遇事優爲、從容不迫。然誠心懇惻、弗之措也。其自任之重也、寧學聖人而未至、不欲以一善成名。寧以一物不被澤爲己病、不欲以一時之利爲己功。其自信之篤也、吾志可行、不苟潔其去就。吾義所安、雖小官有所不屑。
【読み】
呂與叔明道先生の哀詞を撰して云う、先生は特立の才を負い、大學の要を知る。博文強識し、躬行力究す。倫を察し物を明らかにして、其の止まる所を極む。渙然として心釋[と]け、道體を洞見す。其の約に造[いた]るや、事變の感一ならずと雖も、應ずるに是の心を以てして窮まらざるを知る。天下の理至て衆[おお]しと雖も、之を吾が身に反りて自ら足るを知る。其の一に致るや、異端竝び立つも移すこと能わず、聖人復起るとも與[ため]に易えじ。其の養の成るや、和氣充浹[じゅうしょう]し、聲容に見[あらわ]る。然れども之を望むに崇深にして、慢る可からず。事に遇いて優に爲し、從容として迫らず。然れども誠心懇惻は、之を措[お]かざるなり。其の自ら任ずることの重きや、寧ろ聖人を學びて未だ至らざるも、一善を以て名を成すを欲せず。寧ろ一物の澤を被らざるを以て己が病と爲すも、一時の利を以て己が功と爲すを欲せず。其の自ら信ずることの篤きや、吾が志行う可くんば、苟も其の去就を潔くせず。吾が義の安んずる所は、小官と雖も屑[いさぎよ]しとせざる所有り、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書附録の「哀詞」にある。

先生負特立之才大学之要云々。行状の資稟既異を云たものなり。ここもとこ迠も大学をはなさぬ。これか吾黨のつかまへ処なり。只のでなく大学、あたまで斯ふ云けだしなり。漢唐はこれを知らぬ。博文強識。天資の高ひ上に博学なり。ここか体のよいは玩物喪志の処に一字をつまづかぬ意を見べし。察倫明物極其所止云々。所止は至善に止るを云。上の句に大学とあるゆへこれて結ぶ。それで学問のがかいが足る。渙然心釋。御手に入たを云。渙然心釋は道理と我とか別てない。大学の要も只の者はあつかりもの。明道のは心かほどけちりて道と一つになったなり。洞見道体。道体をかんざりと見ぬいたこと。子思の言其上下察也と疂をたたいて云も洞見たゆへなり。不會得弄精神もここなり。道通天地有形外思入風雲変態中と明道の世間をは笑止く思はるる。正蒙をあれは未熟と云。發明をわすれてはならぬと夜起て帳につけるはつくへばなれせぬと云はるる。明道は洞見たゆへ帳につけるに及はぬ。道体が手前にあるゆへいつでも思のまま出した時てよいなり。
【解説】
「呂與叔撰明道先生哀詞云、先生負特立之才、知大學之要。博文強識、躬行力究。察倫明物、極其所止。渙然心釋、洞見道體」の説明。明道は天資質が高い上に博学だった。道体が自分の身にあったので、道理の通りをすることができた。
【通釈】
「先生負特立之才大学之要云々」。これは行状の「資稟既異」を言ったもの。ここも何処までも大学を離さない。これが我が党の捉まえ処である。ただの書ではなくて大学、最初からこの様な出だしである。漢唐はこれを知らない。「博文強識」。天資が高い上に博学である。ここが体のよいのは玩物喪志の処にある「不蹉一字」の意があるからである。「察倫明物極其所止云々」。「所止」は至善に止まることを言う。上の句に大学とあるのでこれで結ぶ。それで学問の規模が足りる。「渙然心釈」。手に入れたことを言う。渙然心釈は道理と自分とが別でないこと。大学の要も普通の者にとっては預かり物だが、明道のは心が解け散って道と一つになっている。「洞見道体」。道体をしっかりと見抜いたこと。子思が「言其上下察也」と畳を叩いて言ったのも洞見したからである。「不会得弄精神」もこれ。「道通天地有形外思入風雲変態中」と明道が世間を可笑しく思われた。正蒙をあれは未熟と言った。発明を忘れてはならないと夜起きて帳面に書きとめる様では机離れがしないと言われた。明道は洞見したので帳面につけるには及ばない。道体が自分にあるのでいつでも思いのままに出した時がよい。
【語釈】
・行状…聖賢17を指す。
・博文強識…礼記曲礼上。「博聞強識而讓、敦善行而不怠、謂之君子」。
・玩物喪志…書経旅獒。「玩人喪德、玩物喪志。志以道寧、言以道接」。ここは為学27の本註の「不蹉一字」を指す。
・言其上下察也…中庸章句12。「詩云、鳶飛戻天、魚躍于淵。言其上下察也」。
・不會得弄精神…
・道通天地有形外思入風雲変態中…偶成。明道作。「閒來無事不從容、睡覺東窗日已紅。萬物靜觀皆自得、四時佳興與人同。道通天地有形外、思入風雲變態中。道通天地有形外,思入風雲變態中」。
・呂與叔…名は大臨。号は藍田。

其造約也雖事変之感不一云々。其の字、明道の上を指て云。約は明道のつかまへ処なり。それはどこと見ると事變云々。向て來るはどのやふなこと來るか知れ子とも、皆此一心てする。この席大勢居るか今如何やふなことか來るや、留主の中何事あるや、隙な樂くなとは云はれぬもの。それを胸て捌くより外ないと一心へ約せり。道理は一心から段々涌て出る。朱子の人之為学心與理耳と云。雖天下之理至衆云々。陸象山王陽明も手前て高をくくるはするか、天下之理と云向へ見ることならぬ。人に聞子はすまぬこともあり、當國では斯ふ唱へると云こともあり、本艸をあけて見るとさま々々名物もあり、然れは天下の理は一生てもと云に、そこか約なり。万物備於我なり。直方先生、をれか御代官仰付られると手代ともに聞て仕やふと云。天下のことさま々々なれとも、反之身と足るなり。民のことても誰も難義を悦ぶ者はない。米か出來ずとも年貢を出せと云とさしつかへる。老我老及人之老なり。天下の理か衆くても、相手は人なり。そこて我身てなるゆへ別には入ぬ。理は粲然なれとも約かありて、我身からすると遠國百姓の出羽奥州ても、百姓の心も吾心も二つはない。そこて、民の治めやふても公事の捌やふても反之身と足るなり。心身の二つが天下事変の相手ゆへ、そこて約に至ると云。
【解説】
「其造於約也、雖事變之感不一、知應以是心而不窮。雖天下之理至衆、知反之吾身而自足」の説明。天下の事変は数限りがないが、その相手は人なのだから、我が身に反ってすれば事足りる。我が身で成るのである。
【通釈】
「其造約也雖事変之感不一云々」。「其」の字は、明道の上を指して言う。「約」は明道の捉まえ処のこと。それは何処にあるのかと見れば「事変云々」。どの様なことが向かって来るのかはわからなくても、皆この一心でする。この席も大勢だが、今どの様なことが来るのか、留守の内に何事があるのかも知れない。そこで、暇だ、楽だなどとは言えないもの。それを胸で捌くより外はないと一心へ約した。道理は一心から段々と涌いて出る。朱子が「人之為学心与理耳」と言った。「雖天下之理至衆云々」。陸象山や王陽明も自分で高を括ることはするが、天下之理という方を見ることができない。人に聞かなければ済まないこともあり、当国ではこう唱えると言うこともあり、本草を開けて見ると様々な名物もあって、それなら天下の理は一生掛かってもわからないものかと言えば、そこで約である。「万物備於我」。直方先生、俺が御代官を仰せ付けられるとしたら手代供に聞いて仕えようと言った。天下のことは様々だが、「反之身」で足りる。民のことでも、難儀を悦ぶ者は誰もない。米ができなくても年貢を出せと言うのでは差し支える。「老我老及人之老」である。天下の理か衆くても、相手は人である。そこで我が身で成ることだからそれ以外は要らない。理は粲然としたものだが約があり、我が身からすれば、出羽や奥州という遠国の百姓でも自分の心と別ではない。そこで、民の治め様でも公事の捌き様でも反之身で足りる。心身の二つが天下事変の相手だから、そこで約に造ると言う。
【語釈】
・人之為学心與理耳…
・万物備於我…孟子尽心章句上4。「孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉」。
・老我老及人之老…孟子梁恵王章句上7。「老吾老、以及人之老。幼吾幼、以及人之幼。天下可運於掌」。

其致於一也異端並立云々。約と一か似たやうて違ひあり。約はさま々々、理から我身に反するを云、一は精微、極致のぎり々々へやる。不一の至衆のと云を心身へつばめる。一はきり々々へ窮理したゆへ、そこへ止ってうこかぬ。仏や老子も一理あると云は致於一故なり。ここの段に至ては異端かかすりはらいのことを云ても動すことならぬ。川留に逢て荘子と一処に泊て居ても、此男靣白ひことを云か道にそむいたと云。垩人復起不與易。これか丈夫なり。垩人か出られたらあたまは下けやふか、道に於ては只今迠のと違たことか出やふとは思はぬ。それか違っては、麒麟鳳凰かかざり物して來ても合点せぬ。和氣充浹見于聲容望之云々。劉安礼か云た通りなり。ここか上文計て定らぬ所を云。崇深不可慢也か、よってもつかれぬてい。然れとも心安立ならぬ。和氣充浹のにこ々々て氣つかいないと云にあなとられぬ。不可慢は伯母さまのやふにならぬなり。こちを可愛かるか、そこへ行くと心安立がならぬ。いやと云れぬことなり。
【解説】
「其致於一也、異端竝立而不能移、聖人復起而與易。其養之成也、和氣充浹、見於聲容。然望之崇深、不可慢也」の説明。至極に窮まれば異端に被れることはなく、聖人が現れても今までの自分を易えない。明道は和気充浹で気遣いをする必要はない人柄だが、彼の前で心安立てはできない。
【通釈】
「其致於一也異端並立云々」。「約」と「一」は似た様で違いがある。約は様々に理から我が身に反すことを言い、一は精微で極致の至極へ遣ること。「不一」や「至衆」ということを心身へ集める。一は至極へ窮理したことなので、そこへ止まって動かない。仏や老子も一理あると言うのは「致於一」だからである。ここの段に至っては異端がかすりはらいなことを言っても動かすことはできない。川留めに逢って荘子と一処に泊まっていても、この男は面白いことを言うが道に背いていると言う。「聖人復起不与易」。これが丈夫なこと。聖人が出られたら頭は下げるだろうが、道のことに関しては今までと違ったことが出るとは思わない。それが違っては、麒麟や鳳凰か飾り物をして来ても合点はしない。「和気充浹見于声容望之云々」。劉安礼が言った通りである。ここは上の文で言い切れない所を言ったこと。「崇深不可慢也」は、寄り付くこともできない風体。しかし、心安立てはできない。和気充浹でにこにこしていて気遣いはないと言っても慢れない。「不可慢」は伯母様の様なもの。自分を可愛がってくれるが、そこへ行くと心安立てができない。嫌だと言えないのである。
【語釈】
・かすりはらい…
・劉安礼か云た…聖賢23を指す。
・心安立…親しさになれて遠慮のないこと。

遇事優爲。何ことでもたっふりと爲す。直方先生、萑に鞠てないと云。周公優爲と云。この優爲や從容不迫と云は垩人のやふすなり。優爲は實事、從容不迫は外から形容して云。然誠心懇惻弗之措也。呂氏の書やふ上の和氣充浹云々然望之とあり、ここも然の字ありて、從容はかりで一と間ぬけたやふかと云に、そふない。然になり。ゆっくりとしたものは間のびぐのびかするものに、弗之措なり。これが二つそろは子ば本んのことでない。実子の看病誠心のぎり々々から出るゆへ、まあ明日とは云はぬ。迂斎の云はるるもきこへた。才力あるものは事をしてとり胸がひろく優に爲そふか、誠心懇惻かないとなり。仁のふるい出るからするゆへ弗之措なり。
【解説】
「遇事優爲、從容不迫。然誠心懇惻、弗之措也」の説明。明道は従容だったが「弗之措」でもあった。ゆったりとしてはいたが、仁が奮い出て放って置くことはなかった。この二つがなければならない。
【通釈】
「遇事優為」。何事でもたっぷりとする。直方先生が、雀に鞠ではないと言った。「周公優為」と言う。この「優為」や「従容不迫」は聖人の様子のこと。優為は実事で、従容不迫は外から形容して言う。「然誠心懇惻弗之措也」。呂氏の書き様は、上に「和気充浹云々然望之」とあり、ここにも然の字があって、従容ばかりで一間抜けた様なものかと言えば、そうではない。「然るに」である。ゆっくりとしたものは間延びがするものだが、「弗之措」である。これが二つ揃わなければ本当のことではない。実子の看病は誠心の至極から出るので、まあ明日にしようとは言わない。迂斎が言われたのもよくわかる。才力のある者は事をして取り、胸が広く優に為すが、誠心懇惻がないと言った。仁が奮い出てするので「弗之措」である。
【語釈】
・周公優爲…礼記文王世子。「仲尼曰、昔者周公攝政、踐阼而治、抗世子法於伯禽、所以善成王也。聞之曰、爲人臣者、殺其身、有益於君、則爲之。況于其身以善其君乎。周公優爲之。是故知爲人子」。

其自任之重也云々。このさきが前の条にない新いことなり。劉安礼呂与叔のこれ迠のこと、大概行状にある。自任からの辞の立やふが違て、明道をうかがふによい。又呂氏の書やふもよいなり。呂氏は横渠にもまれて後に程門になり、自分の氣質変化の論、中庸章句に載せし。張子の道継たゆへ明道を見やふも挌別なり。これから先き今日の人にはかけぬこと。任と云字は伊尹か本なり。事業の事にかけるに、傍花隨柳過前川と云ゆへ、明道抔をは事業の任かかけられぬかと思ふに、そこを呂与叔か見たもの。任の字か道統の人の明道伊川でなけれはかけられぬ字なり。とこを任してなら、垩人になら子は食たらぬと云。尊ふことにこれほとのことはない。これか学者の手本になら子は俗学するも同こと。好学論にも学至垩人之道と云。あれを顔子計てなく行状へかけると明道も垩人へ追かけて息を取た人なり。明道垩人を学ふを任にして、をれか垩人に目をかけるが至られぬゆへ、それへ至ると云の任なり。そこて一善の御誉なとはうるさいと不機嫌なり。柳下惠が和、伯夷が清のと云は一善の名なり。ここらが中庸の傳を知ら子はこのことはかけられぬ。和や清は垩之と云字が付ゆへ善いやう。爲我や兼愛は異端ゆへわるいと云が、どちでも名かつくと偏かある。明道は名の付かいやなり。孔子に名は付ぬ。寧の字、不欲へ落すことなり。垩人へ至らずは何も望みない。我望を安んせぬゆへ寧なり。寧熟々諌の類。いっそと云訓に多く取るか、ここのは上へかけて安する方へ云。上へかけるは垩人に至ら子は外ではいやと云て、垩人と一善とを對したとき、一善は欲せぬ。寧ろ垩人て無けれは我望に足らぬとなり。迂斎、一方へ落し付る字と云。
【解説】
「其自任之重也、寧學聖人而未至、不欲以一善成名」の説明。ここからの呂氏の書き様がよい。明道は聖人を学ぶことを自分の任とした。聖人に至ることを任にしたのである。そこで一善を誉められることなどは欲しなかった。聖人でなければ我が望みには足りないと考えたのである。
【通釈】
「其自任之重也云々」。この先が前の条にはない新しいこと。劉安礼や呂与叔がこれまでに言ったことは大概行状にある。しかし、自任からの辞の立て方が違っていて、明道を窺うのによい。また、呂氏の書き様もよい。呂氏は横渠に揉まれた後に程門になり、自分の気質変化の論を中庸章句に載せた人。張子の道を継いだので明道への見方も格別である。これから先は今日の人には書けないこと。任という字は伊尹が本である。事業の事に掛けると「傍花随柳過前川」で、明道などには事業の任は掛けられないかと思うと、そこを呂与叔が見て取った。任の字は道統の人である明道や伊川でなければ掛けられない字である。何処を任じたかと言うと、聖人にならなければ食い足りないと言ったことである。尊ぶことにこれほどのことはない。これが学者の手本にならなければ俗学をするのと同じこと。好学論にも「学至聖人之道」とある。あれを顔子ばかりでなく行状へ掛ければ、明道も聖人へと追い駆けて息を取った人となる。明道は聖人を学ぶことを任にした。俺は聖人を目掛けているが至ることができない。それへ至るのを任とした。そこで一善の御誉めなどは煩いと言って不機嫌である。柳下恵の和や伯夷の清などは一善の名である。ここ等は中庸の伝を知らなければ掛けられないこと。和や清は「聖之」という字が付くので善い様に思い、為我や兼愛は異端なので悪いと言うが、どちらにしても名が付けば偏がある。明道は名が付くのが嫌である。孔子に名は付かない。「寧」の字は「不欲」へ落とす。聖人へ至らなければ何も望みはない。我が望みを安んじることができないので「寧」と言う。これは「寧熟々諌」の類。いっそのこという訓に多くは取るが、ここのは上へ掛けて安んじる方へ言う。上へ掛けるのは聖人に至らなければ外は嫌だということで、聖人と一善とを対した時に一善は欲さない。寧ろ聖人でなければ我が望みに足りないと言ったのである。迂斎が、一方へ落し付ける字だと言った。
【語釈】
・傍花隨柳過前川…
・学至垩人之道…為学3。「學以至聖人之道也」。
・柳下惠が和、伯夷が清…孟子万章章句下1。「孟子曰、伯夷、聖之清者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也」。

以一物不被澤云々。上の学垩人と同し文意て新民の方を云。一人ても澤を蒙ら子は望に足らぬ。天下中を三代の通りにするを我經済の御望なり。時にそふまいらぬとき、一時の利は目をかけられぬ。伊尹の一夫もとここも同ことなり。廣ひ天下ゆへ一人計はと云に、そこが新民の苦労なり。以一時之利と云か王荊公をじろりと見て云こと。明道のは一寸とよい迚も二帝三王に割符か合は子ば合点せぬ。王荊公は斉桓晋文の地獄へ落たと思召。一寸よい役人のよい地頭のと云て、今度のは出來たと云へとも、それは一時の利なり。明道は尭舜を志ゆへ、一寸と人の爲になると云位ては食足らぬ。一時の利は小康の治にて、大学の序非後世之所能及なり。漢唐はそれなり。明道の意、明徳は垩人を希ひ新民は伊尹の志を第一着にする。
【解説】
「寧以一物不被澤爲己病、不欲以一時之利爲己功」の説明。天下中を三代の通りにすることが明道の経済の望みである。それで、一時の利には目も向けない。それでは物足りないのである。明道の意は、明徳では聖人を希い、新民では伊尹の志を第一番にすることである。
【通釈】
「以一物不被澤云々」。上の「学聖人」と同じ文意で新民の方を言う。一人でも沢を蒙らなければ望みに足りない。天下中を三代の通りにすることが我が経済の望みである。時にそうできない場合でも、一時の利には目を掛けない。ここは伊尹が一夫もと言うのと同じこと。広い天下なので一人だけならと思うが、そこが新民の苦労なのである。「以一時之利」が王荊公をじろりと見て言ったこと。明道の政は、一寸よくても二帝三王に割符が合わなければ合点しない。王荊公は斉桓晋文の地獄へ落ちたのだと思し召した。一寸よい役人、よい地頭と言い、今度のはよくできたと言っても、それは一時の利であり。明道は堯舜を志すので一寸人のためになるという位では食い足りない。一時の利は小康の治で、それは大学の序の「非後世之所能及」である。漢唐はそれ。明道の意は、明徳は聖人を希い、新民は伊尹の志を第一番にすること。
【語釈】
・伊尹の一夫も…書経説命下。「予弗克俾厥后惟堯舜、其心愧恥、若撻于市。一夫不獲、則曰時予之辜」。
・斉桓晋文…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。孟子梁恵王章句上7にもある。

其自信之篤云々。見こんだ療治のやふなものなり。先これを一服てない。此外はないとはまる。まあこうして置けと云やふなことなし。この外は天地の間にない。質鬼神而不疑なり。吾志可行不苟潔其去就云々。この事せふと云ときのこと。これは事の上て見べし。禹王や益稷のやふにするはづのことと出て、そふして立派をせぬ。廉潔ぢゃと云て一日に去ことはせぬなり。然らは知行を目かけるかと云に、雖小官なり。立派せふとかからぬ人か義に任せて、ついてよけれは就く。上総詞の男ぶりすると云が潔くするなり。それに規にせぬは自信するゆへのこと。さへぬ療治と云れても、これて仕て取ると云。原運菴か不換金のやふなものなり。我方に覚へあり。偖、吾黨多くは引込む方なり。明道は小官ても出る。小官は先つ抱關撃拆、仲間頭や大名の買物方の小役人と云もの。それをも耻とせぬ。
【解説】
「其自信之篤也、吾志可行、不苟潔其去就」の説明。明道は義に従って就く。小官であってもこれを恥としない。
【通釈】
「其自信之篤云々」。見込んだ療治の様なもの。先ずこれを一服ではない。この外はないと嵌る。まあこうして置けと言う様なことはない。この外は天地の間にない。「質鬼神而不疑」である。「吾志可行不苟潔其去就云々」。この事をしようという時のこと。これは事の上で見なさい。禹王や益稷の様にする筈のことと言って出るが、立派なことができない。しかし、そこで廉潔だと言って一日で去る様なことはしない。それなら知行を目掛けるのかというと、「雖小官」である。立派なことをしようしない人が義に任せ、就いてよければ就く。上総詞の男ぶりするというのが潔くすること。それを規にしないのは自ら信じるからである。冴えない療治と言われても、これで仕て取ると言う。原運菴の不換金の様なもの。自分に覚えがある。さて、我が党の多くは引っ込む方だが、明道は小官でも出る。小官は、先ずは抱関撃柝で、仲間頭や大名の買物方の小役人というもの。それをも恥としない。
【語釈】
・質鬼神而不疑…中庸章句29。「質諸鬼神而無疑。百世以俟聖人而不惑。質鬼神而無疑、知天也。百世以俟聖人而不惑、知人也」。
・原運菴…
・抱關撃拆…抱関撃柝。門を守る人と拍子木をうって夜を警める人。身分の低い小役人。

有所不屑は、このやうな役と云て、それにかかはらぬ。屑の字、古い点にもののかずともせぬとあり、あれかよくすむ。それを筭用にせぬを云なり。ここのあんばいが伯夷柳下惠へ落さぬことなり。垩之和と云へとも学問かかいない。手前の持前てをす人なり。明道は大極なりをする。伊尹の出処孔子に似たやふじゃが、終に任底之意思ありと云。孔子は其太極乎と明道もこき上けたことなり。吾義の所安と云か明道の安心ぞ。外にたてはない。伯夷柳下惠はあれやなり。あれかたぎ、あのなりふりで我たてをする。明道に流義はない。それへ片付と云ことなし。義か主ゆへ道統の人になる。我に流義なく道理の當然でするゆへ学者の法則になる。多く一時の利て出処に迷ふ。明道無適無莫義なりにして、足輕もつとめる。因てこれが氣質にかからぬことなり。こふでなふては垩賢てない。彼眞儒と云かここてわかるるなり。
【解説】
「吾義所安、雖小官有所不屑」の説明。伯夷や柳下恵は自分の持ち前を押す人だが、明道は太極の通りをする。彼に流儀はない。気質に関わらないので小官をも勤める。義を主として道理の当然をするので、これが学者の法則となる。
【通釈】
「有所不屑」は、その様な役でもそれに拘らないということ。屑の字は、古い点にものの数ともしないとあり、あれでよくわかる。それを算用にしないことを言う。ここの塩梅が伯夷柳下恵へ落とさないこと。聖之和と言っても学問が甲斐ない。彼等は自分の持ち前で押す人。明道は大極の通りをする。伊尹の出処は孔子に似ている様で違うと疑われても、「終是任底意思在」と言う。孔子は其太極乎と明道も扱き上げた。「吾義所安」と言うのが明道の安心である。外に法則はない。伯夷柳下恵はあれやこれやである。あの気質、あの形振りで自分の流儀をする。明道に流儀はない。それに片付くということはない。義が主なので道統の人になる。自分に流儀がなく、道理の当然でするので学者の法則になる。多くは一時の利で出処に迷う。明道は無適無莫で義の通りにして、足軽も勤める。これが気質に関わらないこと。こうでなくては聖賢ではない。真儒というのがここで分かれる。
【語釈】
・伊尹の出処…孟子万章章句下1集註。「或疑伊尹出處、合乎孔子。而不得爲聖之時、何也。程子曰、終是任底意思在」。
・孔子は其太極乎…
・無適無莫義なり…論語里仁10。「子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之於比」。