第廿五 横渠先生行状  五月二十六日  惟秀録
【語釈】
・五月二十六日…寛政3年辛亥(1791年)5月26日。
・惟秀…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。与五右衛門。医者。1745~1812

呂與叔撰横渠先生行状云、康定用兵時、先生年十八。慨然以功名自許、上書謁范文正公。公知其遠器、欲成就之。乃責之曰、儒者自有名敎。何事於兵。因勸讀中庸。先生讀其書、雖愛之、猶以爲未足。於是又訪諸釋老之書、累年盡究其説。知無所得、反而求之六經。嘉祐初、見程伯淳・正叔於京師、共語道學之要。先生渙然自信曰、吾道自足。何事旁求。於是盡棄異學、淳如也。尹彦明云、横渠昔在京師、坐虎皮説周易。聽從甚衆。一夕二程先生至論易。次日横渠撤去虎皮曰、吾平日爲諸公説者皆亂道。有二程近到。深明易道、吾所弗及。汝輩可師之。晩自崇文移疾西歸横渠、終日危坐一室、左右簡編。俯而讀、仰而思、有得則識之。或中夜起坐、取燭以書。其志道精思、未始須臾息、亦未嘗須臾忘也。學者有問、多告以知禮成性、變化氣質之道、學必如聖人而後已。聞者莫不動心有進。嘗謂門人曰、吾學既得於心、則脩其辭。命辭無差、然後斷事。斷事無失、吾乃沛然。精義入神者、豫而已矣。先生氣質剛毅、德盛貌嚴。然與人居、久而日親。其治家接物、大要正己以感人。人未之信、反躬自治、不以語人。雖有未諭、安行而無悔。故識與不識、聞風而畏、非其義也、不敢以一毫及之。
【読み】
呂與叔、横渠先生の行状を撰して云う、康定、兵を用いし時、先生は年十八なり。慨然として功名を以て自ら許し、書を上[たてまつ]りて范文正公に謁す。公は其の遠器なるを知り、之を成就せんと欲す。乃ち之を責めて曰く、儒者には自ずから名敎有り。何ぞ兵を事とせん、と。因りて中庸を讀むことを勸む。先生は其の書を讀み、之を愛すと雖も、猶以て未だ足らずと爲す。是に於て又諸を釋老の書に訪[と]い、累年其の説を盡究す。得る所無きを知り、反りて之を六經に求む。嘉祐の初、程伯淳・正叔を京師に見、共に道學の要を語る。先生渙然として自ら信じて曰く、吾が道自ら足る。何ぞ旁求を事とせん、と。是に於て盡く異學を棄て、淳如たり。尹彦明云う、横渠昔京師に在り、虎皮に坐して周易を説く。聽從するもの甚だ衆し。一夕二程先生至りて易を論ず。次日横渠虎皮を撤去して曰く、吾平日諸公の爲に説く者は皆道を亂る。二程近く到る有り。易道に深明にして、吾が及ばざる所なり。汝が輩之を師とす可し、と。晩に崇文にて疾を移[い]し西のかた横渠に歸りしより、終日一室に危坐し、簡編を左右にす。俯して讀み、仰ぎて思い、得ること有らば則ち之を識す。或は中夜に起坐し、燭を取りて以て書す。其の道に志し思いを精しくすること、未だ始めより須臾も息[や]まず、亦未だ嘗て須臾も忘れざるなり。學者問うこと有らば、多く告ぐるに禮を知り性を成し、氣質を變化する道と、學は必ず聖人の如くにして而る後に已むこととを以てす。聞く者心を動かして進むこと有らざる莫し。嘗て門人に謂いて曰く、吾學びて既に心に得しときは、則ち其の辭を脩む。辭に命じて差うこと無く、然して後に事を斷ず。事を斷じて失無ければ、吾乃ち沛然たり。義を精しくし神に入るは、豫めするのみ、と。先生は氣質剛毅、德盛んにして貌嚴し。然れども人と居るに、久しくして日に親しむ。其の家を治め物に接する、大要己を正して以て人を感ぜしむ。人未だ之を信ぜずんば、躬に反りて自ら治め、以て人に語[つ]げず。未だ諭らざるもの有りと雖も、安んじ行いて悔ゆること無し。故に識ると識らざると、風を聞きて畏れ、其の義に非ずんば、敢て一毫を以て之に及ぼさず、と。
【補足】
・この条は、呂藍田の「横渠先生行状」にある。

先つ康定年中の騒動と云か元昊が乱で、西夏と云は夷狄の境。夷狄にも色々あり、西夏はさのみ大きくはなけれとも、こっちへへったりと付た処ての騒ぎなり。初手は輕々しく思ふたが、後には餘程なことで、日本で云へば天草陣の様なこと。以功名自許。兵道を学ばれたと云てからがまだ十八の横渠だ。それでも今度のことはをれならではと思ふた。范文正公御役でありた。韓琦と两人軍大將を蒙られた。これが范文公へ上書する筈だは張子のごさる。横渠も西国で范希文の国へも近ひ。公識其遠器。また十八のものを見て、これは只のものてはない、やがて大きなものになろふと云こと。只器用だの英材だのと云た位のことではない。大器のことそ。天地に一人か二人のものになろふとなり。范文公が只の人でないから、今度の御役に立ふなぞとは云はぬ。道を得るものじゃ、惜いことじゃと云れた。
【解説】
「呂與叔撰横渠先生行状云、康定用兵時、先生年十八。慨然以功名自許、上書謁范文正公。公知其遠器、欲成就之」の説明。元昊の乱で横渠は范文正公に謁した。それは彼が十八歳の時である。范文正公は彼を大器と思い、兵道を学んでいるのは惜しいことだと思った。
【通釈】
先ずは康定年中の騒動というのが元昊の乱で、西夏は夷狄の境である。夷狄にも色々とあり、西夏はそれほど大きくはないが、こちらへべったりと付いた場所での騒ぎである。初手は軽く思っていたが、後には大変なことになった。日本で言えば天草の乱の様なこと。「以功名自許」。兵道を学ばれたというものの、まだ十八歳の横渠である。それでも今度のことは俺ならではのことだと思った。その時は范文正公が御役だった。韓琦と両人が軍大将を仰せ付かっていた。これが范文公へ上書する筈なのは張子だったからである。横渠も西国で、范希文の国へも近い。「公識其遠器」。まだ十八歳の者を見て、これは只者ではない、やがて大きな者になるだろうと言った。ただ器用だとか英材だと言う位のことではない。これは大器のこと。天地に一人か二人の者になるだろうと思った。范文公は普通の人ではないから、今度の御役に立つだろうなどとは言わない。道を得る者なのに惜しいことだと言われた。
【語釈】
・康定…仁宗の時の年号。康定元年は1040。
・元昊が乱…1040年、夏の趙元昊が延州に侵入した。
・范文正公…范仲淹。字は希文。989~1052
・韓琦…北宋の宰相。字は稚圭。河南安陽の人。仁宗・英宗・神宗に歴仕し、英宗の時に魏国公に封。范仲淹と共に韓范と称される。神宗の時に上疏して王安石の新法の非を説いたが用いられず、病死。著「安陽集」「韓魏公集」。1008~1075
・呂與叔…名は大臨。号は藍田。

有名教。晋書にある字。七賢が道樂をするを相手に云た字なり。いつでも片々な道を相手にするを見て云ときの口上ぞ。横渠が腕に力は覚たりと云て出たものへ、中庸を出してこれを見ろと云れた。これ迠は范文正を云たこと。胡文定か以明道希文自期待と云た。明道と並べられた希文、見も見たり。此砌とうで立の様に見へる勢なり。処を中庸をと云れてよみもよんだり。歴々の寄合ぞ。雖愛之。心にひびく処で云こと。和語で云へば心ゆくと云のそ。為未足。横渠が以功名自許のいぎりから取てかへして心法に入る。そこて、あまり心へ立いることがするどいから、中庸を見てもまだ心法のかかり様のするどさが足らぬ様に思た。それでは中庸はすまぬのしゃ。なれとも心法へかかり様のするどさを合点せふこと。初手孫呉を讀だが其心がいよ々々するどくなって、もそっとするどいかかり様がありそふなものと思て老釈なり。
【解説】
「乃責之曰、儒者自有名敎。何事於兵。因勸讀中庸。先生讀其書、雖愛之、猶以爲未足。於是又訪諸釋老之書」の説明。腕に自信のあった横渠に范文正公は中庸を読めと言った。横渠はそれを読んだが心への鋭さが足りない様に感じたので、その後に老釈を読んだ。
【通釈】
「有名教」。これは晋書にある字で、七賢が道楽をするのを相手にして言った字である。いつの時でも片々な道を相手にするを見て言う口上である。腕には覚えがあると言って出た横渠に、中庸を出してこれを見ろと言われた。これまでは范文正公のことを言ったこと。胡文定が「以明道希文自期待」と言った。明道と並べられた希文、見るも見たり。この場こそと腕立ての様に見える勢いだが、そこで中庸を見ろと言われ、しっかりと読んだ。歴々の寄り合いである。「雖愛之」。これは心に響く処で言うこと。和語で言えば心ゆくということ。「為未足」。横渠は「以功名自許」の熱から取って返して心法に入った。そこで、あまりに心へ立ち入ることが鋭いから、中庸を見てもまだ心法への取り掛かりに鋭さが足りない様に思えた。それでは中庸は済まない。しかしながら、ここは心法への掛かり様の鋭さを合点しなさい。初手は孫子や呉子を読んだが、その心がいよいよ鋭くなって、もう少し鋭い掛かり様がありそうなものだと思って老釈を読むことにした。
【語釈】
・胡文定…胡安国。宋、崇安の人。字は康侯。号は武夷先生。1074~1138
・うで立…腕立て。腕力の自慢をすること。また、自分の腕力を頼んで人と争うこと。

究るとは根を知るのぞ。てっきりと老仏の書が手に入ったなり。老荘に注をした位のあまいとはちごふ。知無得。これても足らぬと見たなり。中庸も釈老も足らぬと思ふ。横渠心の内にちっともういた処のないを知るがよい。反而求之六經。どふあっても爰の処にをちる。どの大賢も書經や易て見たと見るは定りのこと。そこを又六經と云こともわけて見ることなり。初手は孫呉管晏、あの様な処をやってのけ様と思ふた。その心で二典三謨を見たれば、どふでも垩学はちがったものと見たなり。釈老を見た目で易を見られたのなり。そこで功利の学も老釈もあらいぬいて六經にをちた。爰で始て中庸もむまくなって來た。横渠のぢばんと云がこふしたこと。これではや分銅を取る処じゃが、まだ形のつかぬことがある。
【解説】
「累年盡究其説。知無所得、反而求之六經」の説明。横渠はしっかりと老仏の書を理解したが、それでも足りないと思い、最後に六経を読むと心に響いて落ちた。ここで中庸もよくなって来た。
【通釈】
「究」とは根を知ること。しっかりと老仏の書が手に入った。老荘に注をした位の甘いこととは違う。「知無得」。これでも足りないと見た。中庸も釈老も足りないと思った。横渠の心の内には少しも浮いた処がないのを知りなさい。「反而求之六経」。どうあってもここの処に落ちる。どの様な大賢でも書経や易で見たと見るのがお定りのこと。そこを六経と言うのは、特に見なければならないところである。初手は孫呉管晏など、あの様な処をやってのけようと思った。その心で二典三謨を見ると、どうも聖学は違ったものに見えた。釈老を見た目で易を見られたのである。そこで功利の学や老釈をも洗い抜いて六経で落ちた。ここで初めて中庸もよくなって来た。横渠の地盤はこうしたこと。これで早くも分銅を取る処となる筈だが、まだ形の付かないことがある。

嘉祐初。程子御兄弟は廿四五、横渠は三十計なり。兼て親類なれとも、此時初て開封府の都で出合れた。これほど地盤はありたが、横渠を成就したは御兄弟の手柄なり。渙然は胸の疑が散ったこと。自信云。挌段な心いきになりたこと。また是迠は兎角釈老をちょこ々々々加へた。どふでもちっとづつふり返って見る氣がありたが、我道自足と云になれば学問の成就なり。学者、なんぞと云ふと老佛めいたことを借りる内はたらぬこと。自足か道を得るに大切なこと。俗学が宋朝をうつとき先王仲尼と云が、それでもなんぞと云と王弼郭象が老荘の注を見たがる。そんなあま口なことではゆかぬ。自足るにかることは入らぬ。こちでたっふり足らぬから異学が釈老申韓を借りたがる。荘子と孫子を見る。なんぞのとき出す下心なり。自足らぬゆへなり。
【解説】
「嘉祐初、見程伯淳・正叔於京師、共語道學之要。先生渙然自信曰、吾道自足。何事旁求」の説明。横渠は六経を読んだ後も老仏を参考にすることがあったが、二程に会って初めて自足し、学問が成就した。他から借りるのは自足していないのである。
【通釈】
「嘉祐初」。程子御兄弟は二十四五、横渠は三十歳の頃である。彼等は前からの親類だったが、この時初めて開封府の都で出合われた。これほどに地盤のあった横渠を成就させたは御兄弟の手柄でる。「渙然」は胸の疑いが散ったこと。「自信云」。これが格段な心意気になったこと。これまでは、まだとかく釈老をちょこちょこと加えていた。どうしても一寸ずつ振り返って見る気があったが、「我道自足」と言う様になれば学問の成就である。学者も何かというと老仏めいたことを借りる内は足りることはない。自足が道を得るのに大切なこと。俗学が宋朝を攻撃する時に先王や仲尼のことを言うが、それでも何かというと王弼や郭象の老荘の注を見たがる。そんな甘口なことではうまく行かない。自足に借りることは要らない。こちらがたっぷりとせず、足りないので異学が釈迦や老子、申不害や韓非子を借りたがる。また、荘子と孫子を見る。何かの時に出す下心なのである。それは自足でないからである。
【語釈】
・嘉祐…仁宗の時の年号。嘉祐元年は1056。
・王弼…三国の魏の儒者。字は輔嗣。老荘の学にも通じ、文辞に堪能。漢儒の易註を排撃、「周易注」を撰し、また「老子注」を著す。226~249
・郭象…字は子玄。河南郡の人。清談と老荘の学を好み、「荘子注」を著した。252?~312

棄異学淳如。横渠を呂与叔が悉棄其学而学と初手書れた。其れを二程、これでは弟子のやふにきこへる、埒もない書きやふじゃと云たに付て、異学となをした。爰でこれを云はどふしたことなれば、横渠を勇氣がある々々と云が何も腕立てのことで有ふ筈はない。吾が我をすてて学ぶが勇氣なり。全く二程のかげだ々々々と云れた。今のものの負をしみとはちごふ。洗去舊見云々。あらい直したが勇氣そ。呂與叔が横渠のすり立の小僧なれは贔屓して二程同格と書きそうなものを、程子の影だといふたことを取て書たは、今迠のをさらりとすてたが、をらが師匠の師匠たる処と書たもの。横渠の学も程子御兄弟と講磨したとよそ々々しく云さうなものを、今迠のをすてたと云が横渠の一代の手柄になる。若ひ時の兵家の学もじりり々々々とした。それから後の老釈も究其説じりりとしたこと。それをすてての六經又じりり々々々としたこと。先刻ういたことのないと云たが爰なり。さうしたもののは情のこはいもの。それに舊学をすてたが横渠の勇なり。二程で学を仕なをしたと云へは云ほど手抦になる。我が方をよいと云なぞは、いつも云ふこげつきなり。道理を合点するものは、をれが思ひつめたなぞと云ことは云はぬ。
【解説】
「於是盡棄異學、淳如也」の説明。横渠には勇気があった。勇気とは自分の我を棄てて学ぶことである。兵学も老仏も六経もじっくりとした横渠だが、二程に会ってそれ等の旧学を棄てたのが横渠の勇であり、それが彼の手柄である。
【通釈】
「棄異学淳如」。横渠のことを呂与叔が「悉棄其学而学」と最初に書かれた。それを二程が、これでは我々の弟子の様に聞こえる、埒もない書き様だと言ったので異学と直した。ここでこれを言ったのはどうしてかと言うと、横渠を勇気があると言うのが何も腕立てのことである筈はなく、自分の我を棄てて学ぶのが勇気であり、全く二程の御蔭だと言われたからである。今の者の負け惜しみを言うのとは違う。「洗去旧見云々」。洗い直したのが勇気である。呂与叔が横渠の剃出しの小僧であれば贔屓して二程同格と書きそうなものだが、横渠が程子の御蔭だと言ったのを取って書いたのは、今までのをさらりと棄てたのが俺の師匠の師匠たる処であるしてと書いたもの。横渠の学も程子御兄弟と講磨したとよそよそしく言いそうなものを、今までのを棄てたと言うのが横渠の一代の手柄となる。若い時の兵家の学もじっくりとした。それから後の老釈も「究其説」でじっくりとした。それを棄てての六経もまたじっくりとした。先刻浮いたことがないと言ったのがここのこと。そうした者の情は怖いもの。それなのに旧学を棄てたのが横渠の勇である。二程で学を仕直したと言えば言うほど彼の手柄になる。自分をよいと言うことなどは、いつも言う焦げ付きである。道理を合点する者は、俺が思い詰めたことなどとは言わない。
【語釈】
・すり立…剃出し。江戸時代、髪結の弟子の称。

注。尹彦明云云々。横渠が上から召れて京都で講釈をした。横渠は西国なり。日本で云へは長﨑から京へ來たのぞ。二程は洛陽で京師とはちごふが、洛から開封府へござりた。次日撤去虎皮。さて々々心きみのよいこと。今迠鋪て居て講釈をした虎皮が見へぬ。さて云には、今迠をれが讀だ易はよくない、皆乱道しゃ。これが道を乱るとみることでなく、乱は胡乱の乱。めったなと云こと。道は道理の道でなく、説と云と同こと。をれがめったなことを云たとのこと。爰を朱子の宋朝の六先生の賛に勇徹皐比と書た。知見と云そふなことを朱子の勇と書れた。大抵の学者が、あの男のが隨分よいが、をれがにも又爰等はよい処もあろふと云もの。それはまぎらかしなり。今日の人も知もあるから学問も上りそふなものじゃが、いつも々々々同じ頬でをると云が勇のないゆへぞ。てっちりとすてることがならぬから、そこで心いきもいこふみぐるしい。直方先年の前々書たものを、江戸へ來てからのことか其前年のことか皆焼れたとある。これが若い時書たものだが、今見ればあまりよくもないが、そなた衆の益にはちっとなることもあると云が通情なもの。そんな心いきの内はまだ埒は明ぬ。旧見は濯ふがよい。利休が稲荷山で茶碗を百やら千やら焼た。十か八つのこして皆打こはした。これは出来でもないが、ざっとしたことには用ひらるるなどとは云はぬ。たぎりたことなり。横渠が三十以上での易、余りわるくもあるまいが、をれがのはめったなことじゃと云た。ちとにぶい処があればあとのよい迠がどみる。そこですてたもの。
【解説】
尹彦明云、横渠昔在京師、坐虎皮説周易。聽從甚衆。一夕二程先生至論易。次日横渠撤去虎皮曰、吾平日爲諸公説者皆亂道。有二程近到。深明易道、吾所弗及。汝輩可師之」の説明。二程と会って易を論じた後、横渠は今までに自分が話した易は悪いと言ってそれを棄てた。少しでも鈍い処があれば他のよいところまでが澱むので棄てたのである。自分の方にもよいところがあるなどと言うのは紛らかしである。
【通釈】
注。「尹彦明云云々」。横渠が上から召されて京都で講釈をした。横渠は西国の者である。日本で言えば長崎から京へ来たのである。二程は洛陽なので京師とは違うが、洛から開封府へ行かれた。「次日撤去虎皮」。実に心気味のよいこと。今まで講釈で敷いていた虎皮が見えない。そこで言うには、今まで俺が読んだ易はよくない、「皆乱道」だ。「乱」は道を乱すと見るのではない。乱は胡乱の乱。滅多矢鱈ということ。「道」は道理の道でなく、説くというのと同じ。俺は滅多なことを言ったということ。ここを朱子が宋朝の六先生の賛に「勇徹皐比」と書いた。知見と言いそうなことを朱子が勇と書かれた。大抵の学者が、あの男の方が随分よいが、俺にもまたここ等はよい処もあると言うもの。それは紛らかしである。今日の人も知があるから学問も上りそうなものだが、いつも同じ顔でいるのは勇がないからである。きっぱりと棄てることができないから、そこで心意気も大層見苦しい。直方先年が以前書いたものを、江戸へ来てからかその前年かに皆焼かれたとある。これが、若い時書いたもので今見ればあまりよくもないが、貴方衆の益には一寸はなることもあるだろうと言うのが通情である。その様な心意気の内はまだ埒は明かない。旧見は濯うのがよい。利休が稲荷山で茶碗を百やら千やら焼いて、十か八つ残して皆打ち壊した。これはよい出来でもないが、一寸したことには用いることができるなどとは言わない。それは滾ったことである。横渠三十歳以上での易だからあまり悪くもないだろうに、俺のは滅多矢鱈なものだと言った。少しでも鈍い処があれば後のよいところまでが澱む。そこで棄てたのである。
【語釈】
・尹彦明…名は焞。号は和靖。伊川門人。

晩自崇文。これか嘉祐のときのこと。崇文は御殿の名。崇文殿の校書を勤められた。移病。病氣での御役願なり。病をと云点より病に移[い]してと点つけたい。移文と云が上へ出す文のことなり。公移とも云なり。終日危坐云々。爰で正蒙なども出來たころなり。晩と云がずっとの晩年と云ことではない。前に嘉祐の初とある。あれから對しての晩なり。これからが又横渠の学問のもみ初めなり。西銘もこの後に成たもの。定性書の取りやりなぞは前のことなり。俯而讀仰而思。自足りの魂が爰へ出たもの。正蒙はちょっ々々々と書たもの。名は跡で付たもの。篇をわけたもあとのこと。取燭以書す。これらが前方なことに見へるが、あれ程な大きな学問でこれなり。ひょっと忘れてはならぬと云て夜の八つでもをきて書た。それを聞て、明道の子厚如此不熟と云へり。これは又別なこと。いかさまよく心にのりたことは忘れぬものたか、夜る起て書くなぞと云がどこにか熟せぬ塲があると見て笑れた。今の学者が虚氣の高ぶりだから明道のを聞てそれをばうれしがるが、それは鵜のま子する鴉だ。志あるものは爰を涙流して聞ふことぞ。あの慨然の勇氣から来たこと。
【解説】
「晩自崇文移疾西歸横渠、終日危坐一室、左右簡編。俯而讀、仰而思、有得則識之。或中夜起坐、取燭以書」の説明。これは横渠が役を辞して国に帰った頃のことで、この時期に正蒙や西銘ができた。あれほど大きな学問であっても「或中夜起座取燭以書」であった。これを明道が「不熟」と言ったが、あの慨然の勇気からしたことなのである。
【通釈】
「晩自崇文」。これが嘉祐の時のこと。崇文は御殿の名で、崇文殿の校書を勤められていた。「移病」。病気での御役願である。病をという点より病に移[い]してと点を付けた方がよい。移文が上へ出す文のことで、公移とも言う。「終日危座云々」。正蒙などもできた頃である。晩と言ってもかなり晩年ということではない。前に嘉祐の初とあり、あれに対しての晩である。これがまた横渠の学問の揉み始めとなる。西銘もこの後に成った。定性書の遣り取りなどはその前のこと。「俯而読仰而思」。自足の魂がここへ出た。正蒙はちょちょっと書いたもので、名は後で付けた。篇を分けたのも後のこと。「取燭以書」。これ等が前方なことの様に見えるが、あれほど大きな学問でこれである。うっかりと忘れてはならないと言って夜の八つでも起きて書いた。それを聞いて、明道が「子厚如此不熟」と言ったが、これはまた別なこと。いかにもよく心に乗ったことは忘れないものだが、夜起きて書くなどというのが何処かに熟さない場があると見て笑われたもの。今の学者は虚気の高ぶりがあるから明道の語を聞いてそれを嬉しがるが、それは鵜の真似をする鴉である。志ある者ならここは涙を流して聞かなければならないこと。あの慨然の勇気から来たこと。
【語釈】
・前方…初心。うぶ。未熟。

精思。学問の上らぬは精思せぬからぞ。某が上總で十年よむがとんと上らぬ。幸田が三九郎に、黙斎などもはや学問は上らぬと云たは尤なり。思を精ふせぬものに上ったものはないを知るべし。某などがことを爰らで云ては取り合ぬことなれとも、裏を云ふことじゃ。今迠のをあちへやりこちへやりする内は上らぬ。井戸も汲ほすほどよい水が出ると程子云へり。精思すれば学は進む。吾黨先軰の内でも三宅翁は小ぶりて幸田を始め吾黨の者が次に思ふが、八十迠思を精ふした人ぞ。及ばれぬことじゃ。朱子も死ぬ三日前に誠意の章句を三字なをしたてみよ。吾をよいと思ふものは精思せぬもの。そこて直方先生の、吾をよいと思が日本一の人欲だと云れた。此弁なぞはいつ聞ても皆よく耳を引立て聞ふことぞ。
【解説】
「其志道精思」の説明。精思で学は進む。自分をよいと思う者は精思しない者であり、直方はそれを日本一の人欲だと言った。三宅先生は八十歳まで精思をした。朱子も死ぬ三日前まで章句の訂正をしていた。
【通釈】
「精思」。学問が上がらないのは精思しないからである。私が上総で十年読んでいるが全く上がらない。幸田が三九郎に、黙斎などももう学問は上がらないと言ったのは尤もなこと。思いを精くしない者で上がった者ものはいないと知りなさい。私などのことをここ等で言うのは取り合わないことだが、裏を言ったのである。今までのをあちへ遣りこちへ遣りする内は上がらない。井戸も汲み干すほどよい水が出ると程子が言った。精思すれば学は進む。我が党の先輩の内でも三宅翁は小振りで幸田を始め我が党の者が第二等に思っているが、八十歳まで思いを精くした人である。それは及びもできないこと。朱子も死ぬ三日前に誠意の章句を三字直したのを見なさい。自分をよいと思う者は精思しないもの。そこで直方先生が、自分をよいと思うのが日本一の人欲だと言われた。この弁などはいつ聞いても皆よく耳を引っ立てて聞かなければならないものである。
【語釈】
・幸田…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。迂斎と野田剛斎に学ぶ。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・三九郎…

未始須臾息。不息はわざで云、不忘は心で云。横渠の学問の形りが道と云ものを向へをいて、あそこを々々々々と云て追っ詰めるから五尺のからだなぞに手間を取ることはない。近思録の坐鋪では今の学者なぞは話にはならぬ。なぜと云へば、五尺のからだに手間をとりておる。手間を取ると云が人欲のことで、飲食男女金銀利禄、身の勝手のよいことがゆくと心よい。あっちへ引るる内は間断なり。不息未忘でない。よくならぬ筈なり。爰に俯而讀仰而思云々から未息未忘三つで横渠の学問の看板は済た。学者が其仕方はどふと云と、多先なり。いつでも云語意ぞ。多先つか、餘のことをも云か多くは先つと云ことでなく、必と云様なもの。呂與叔かきいたときも蘇季明がきいたときも必と云こと。
【解説】
「未始須臾息、亦未嘗須臾忘也。學者有問、多告」の説明。横渠の学問は道を目掛けて進むものだから、「不息未忘」で欲に捉われることなどはない。欲に引かれると間断が生じる。
【通釈】
「未始須臾息」。不息は事で言い、不忘は心で言う。横渠の学問の形が道を向こうへ置いて、あそこへと追い詰めるものだから、五尺の体などに手間を取ることはない。近思録の座敷では今の学者などは話にならない。それは何故かと言えば、五尺の体に手間を取っているからである。手間を取るというのが人欲のことで、飲食男女金銀利禄、身に勝手のよいことがうまく行くと心よい。あちらへ引かれる内は間断であって不息未忘ではない。よくならない筈である。「俯而読仰而思云々」から「未息未忘」の三つで横渠の学問の看板は済んだ。学者がその仕方はどの様なものかと聞けば、「多告」である。これはいつも言う語意である。多告は、他のことも言うが多くは先ずということではなく、必という様なもの。呂与叔が聞いた時も蘇季明が聞いても必ずということ。
【語釈】
・蘇季明…蘇昞。

知禮成性。孔子の易で云れたこと。知高效天卑效地なり。学問は天地の真似をすること。学問の道体は仁義礼智の四つだが、其内から横渠が知礼と云た。知か高くないと人欲にもべた々々となる。それからは吾をもよいと思ふ。知を天の様にすれば俗流はない。礼は知の実なこと。その高ひ知で卑ひ礼をする。天に地の添ふ様なもの。礼と云は形でしてじかり々々々とゆくもの。知は天のやう、礼は地のやう。其見取ゆへ、それが吾ものになりて成就することなり。此性の字はどふ云ことじゃと云たれば、朱子か書經の習而成性の性じゃと云れた。知礼を両がけにして離さず、向へをいて目がけるで性を成すとなり。氣質変化。氣質は吾か氣の一方によりた方からじっと持前になりてをる。萬事そこから出る病、それをなをすか学問なり。氣質変化があるまいなら学問は入らぬものじゃ。炬燵で寐てをるがよい。又学者と云れて氣質を其侭にしておけは怒るものは世間にもかまはず怒る。だらいものはいつもだらい。それなればきかぬ藥を飲むのなり。学必如垩人而後已。是は目當を云たもの。あの通りでなければ本の学でないとなり。
【解説】
「以知禮成性、變化氣質之道、學必如聖人而後已」の説明。学問は天地の真似をすることで、知を天の様にする。礼は知の実したことなので、知と礼を自分のものにして成就する。気質は自分の気が一方に偏ることなので、それを治さなければならない。それを直すのが学問である。
【通釈】
「知体成性」。孔子が易で言われたことで、「知崇效天卑法地」である。学問は天地の真似をすること。学問の道体は仁義礼智の四つだが、その内から横渠が知礼と言った。知が高くないと人欲にもべたべたとなる。それからは自分をもよいと思う様になる。知を天の様にすれば俗流はない。礼は知の実したこと。その高い知で卑い礼をする。天に地が添う様なもの。礼とは形でしてじっくりと行くもの。知は天の様で礼は地の様なもの。その見取りなので、それが自分のものになって成就するのである。この性の字はどういうことかと言うと、朱子が書経の「習而成性」の性だと言われた。知礼を両掛けにして離さず、向こうへ置いて目掛けるので性を成すと言う。「気質変化」。気質は自分の気が一方に寄ることで、じっと持ち前となっている。万事そこから出るのが病であって、それを治すのが学問である。気質変化がなければ学問は要らない。炬燵で寝ているのがよい。また、学者と言われても、気質をそのままにして置けば、怒る者は世間に構わず怒り、だらしのない者はいつもだらがしない。それであれば効かない薬を飲むのと同じである。「学必如聖人而後已」。ここは目当てを言ったもの。あの通りでなければ本当の学でないと言った。
【語釈】
・知高效天卑效地…易経繋辞伝上7。「子曰、易其至矣乎。夫易、聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑。崇效天、卑法地。天地設位、而易行乎其中矣。成性存存、道義之門」。
・習而成性…書経太甲上。「伊尹曰、茲乃不義、習與性成」。

聞者莫不動心。横渠は世語に云、子つい人で不調法な方なり。雄弁ではない。それでは動しそふもないものだか、そこをどうしたことと考てみよ。今学者講釈上手じゃの雄弁なぞと云がちょろいことなり。だたい云様は下手でもひびくと云は心の誠から云ゆへのことぞ。吾學既得心則脩其辞。度々弟子衆へ、をれが学問の流義はこふじゃと云れたこと。道理を胸へのせて、さなこの処へほっこりとをちた処て得於心と云。今あのことが胸へをちぬと云ことがあるもの。それを中て動かしては役に立ぬ。名医の療治は心に得たのぞ。後世の醫者はまあ此藥がよかろふと云。胸へをちぬのぞ。脩其辞。爰の次第が面白。心にをちたことを文に書てみる。こんなことが後世ないことと思へ。今の文章を書くのとはきついちがいなり。言は心の花と云に、後世の文章は吾心にないことを云。松に梅の花のさくのなり。張子のは梅に梅の花、櫻に櫻の花なり。横渠は心に得てから辞に脩む。だたいはさうしたもの。韓退之本と心に得ぬことを文に書た。それを書く内に道をさとりたゆへ倒学了もきこへた。横渠とはうらはらなり。
【解説】
「聞者莫不動心有進。嘗謂門人曰、吾學既得於心、則修其辭」の説明。横渠は雄弁ではなかったが、心の誠から言うので人の心を動かす。また、彼の学は心に得ることである。その心に得たものを文に書いた。逆に韓愈は心にないことを書くことから道を覚った。
【通釈】
「聞者莫不動心」。横渠は世語で言うねつい人で、不調法な方である。雄弁ではない。それでは人の心を動かしそうもないものだか、そこをどうしたことかと考えてみなさい。今学者が講釈上手だとか雄弁などと言われるのが愚かなこと。そもそも言い方は下手でも響くというのは心の誠から言うからである。「吾学既得心則修其辞」。度々弟子衆へ、俺の学問の流儀はこうだと言われていた。道理を胸へ載せて核子の処へほっこりと落ちた処で「得於心」と言う。今あのことが胸へ落ちないということがあるもの。それを中で動かしては役に立たない。名医の療治は心に得るからよい。後世の医者はまあこの薬がよいだろうと言う。それでは胸へ落ちない。「修其辞」。ここの次第が面白い。心に落ちたことを文に書いてみる。こんなことが後世ないことと思いなさい。今の文章を書く者とは大した違いである。言は心の花と言うのに、後世の文章は自分の心にないことを言う。松に梅の花が咲くのと同じ。張子のは梅に梅の花、桜に桜の花である。横渠は心に得てから辞に修める。そもそもはそうしたもの。韓退之が全く心に得ないことを文に書いた。それを書く内に道を覚ったのであって、「倒学了」と言うのもよくわかる。横渠とは裏腹である。
【語釈】
・子つい…しつこい。淡泊でない。ねつこい。熱心である。ねばりづよい。
・さなこ…核子。瓜のたね。
・倒学了…聖賢15。「退之卻倒學了」。

命辞無差。文にすれば人も見、我も見るから丈夫なこと。心で計りはつかまへ処がない。これか今迠たれも云ぬ口上とをもへ。胸から出たことは靣白ひもの。然後断事。心に得たことを書て文がちがわぬ。そこで行に出すから丈夫なり。行が三番目になりた。今公儀へ願ふことは心に思ふことを文にかいて願書として江戸へもって行くではなきや。ここもそれと同こと。吾乃沛然。をれはそれて心も行もさて々々きみよく行くとなり。最初に未息を事とあてたが爰のことぞ。吾道は心と事と揃ふことぞ。佛は心めいて事がない。伯者は事だらけで心がない。初に事と心を出したが垩学の規摸ぞ。朱子の南軒の神道の碑に心と事が一つになりたと書れた。此が眞儒じゃ。それでなければ垩学は語られぬ。朱子のときの学者が陸象山心はかりて事がない。陳同甫呂東萊兄弟事計りで心がない。
【解説】
「命辭無差、然後斷事。斷事無失、吾乃沛然」の説明。心に得たことを書いてもそれが違わない。そこで行に出す。それで沛然とする。仏は事がなく、伯者は心がない。陸象山は心だけで事がない。陳同甫呂東萊の兄弟は事だけで心がない。
【通釈】
「命辞無差」。文にすれば人も見て自分も見るからしっかりとする。心だけでは掴まえ処がない。これが今まで誰も言わなかった口上だと思いなさい。胸から出たことは面白いもの。「然後断事」。心に得たことを書いて文が違わない。そこで行に出すから丈夫である。行が三番目になった。今公儀へ願うことは心に思うことを文に書いて願書として江戸へ持って行くではないか。ここもそれと同じこと。「吾乃沛然」。俺はそれで心も行も本当に気味よく行くと言った。最初に未息を事と当てたのがここのこと。我が道は心と事と揃うこと。仏は心めいて事がない。伯者は事だらけで心がない。最初に事と心を出したのが聖学の規模である。朱子が南軒の神道の碑に心と事が一つになったと書かれた。これが真儒である。それでなければ聖学を語ることはできない。朱子の時の学者では、陸象山が心ばかりで事がない。陳同甫と呂東萊の兄弟は事ばかりで心がない。
【語釈】
・南軒…張南軒。
・陳同甫…

精義入神。これを爲学で出したは心から事へ出ることを云たもの。爰は横渠の知惠の出し処を語りたもの。精義入神は向にある道理を吟味して、さてもと落ることを云。大学の補傳も凡即天下之物。向のものできわめたもの。どちも知の惣名なり。致知と云ことが當坐の役に立ぬことと思へ。今の役に立つもあれとも、そんなことでは致知とは云れぬ。異学の徒が挌物致知を借りものの様に思ふて、今度役人になりたから經済録をかりたいと云。そんなことで間に合ふものではない。入神はほっつりと胸へをちることゆへ、今聞て今の役に立つものではない。これが只覚へるですむことなら、覚のよいものがよいになる。覚へるも挌物の外てもないが、そんなことで舜の大知などと云には至られぬ。
【解説】
「精義入神者」の説明。「精義入神」とは、道理を吟味して、それを心に得ること。それは知の総名である。それは当座の役に立つためのものではなく、大知に至るためのものである。
【通釈】
「精義入神」。これを為学で出したのは心から事へ出ることを言うためで、ここは横渠の知恵の出し処を語ったもの。精義入神は向こうにある道理を吟味して、全くだと落ちることを言う。大学の補伝にも「凡即天下之物」とあり、向こうのもので窮める。どちらも知の総名である。致知は当座の役には立たないことと思いなさい。今の役に立つこともあるが、そんなことでは致知とは言えない。異学の徒が格物致知を借り物の様に思って、今度役人になったから経済録を借りたいと言う。そんなことで間に合うものではない。入神はほっつりと胸へ落ちることなので、今聞いて今の役に立つものではない。これがただ覚えることで済むものであれば、覚えのよい者がよいとなる。覚えるのも格物の外ではないが、そんなことで舜の大知などには至ることはできない。
【語釈】
・精義入神…易経繋辞伝下5。「精義入神、以致用也。利用安身、以崇德也。過此以往、未之或知也。窮神知化、德之盛也」。
・爲学…為学79を指す。
・凡即天下之物…大学章句5補伝。「是以大學始教、必使學者即凡天下之物、莫不因其已知之理而益窮之、以求至乎其極」。
・舜の大知…中庸章句6。「子曰、舜其大知也與」。

吾が胸へこれでもふよいはと云処へをちたが豫なり。豫は前にすること。学問と云が出來合でないこと。とかくせまくてはならぬ。孔子の博文、子思の博学、物挌知至、ほっつりとをちた処のあるでなくてはならぬこと。帳靣に付けた知惠ではゆかぬ。知らぬ道中記よむも本草の吟味も挌物ではあるが、何もかも一つになりてをちるでなければ豫とは云はれぬ。孔子漆彫開仕と云も豫の処で見たもの。あれは政も預けらるると云た。それをまだと云たは、脇目からよいと云ても、また私は胸へをちぬと云た。其筈じゃは、精義入神は一生のことだ。俗学が大学の挌物を封印のままでよむからこんなあやを知ることがならぬ。垩門は精義入神のもみ様がちごふ。そこで曽点漆彫開と並ふなり。大意を見ると云て称せられた。
【解説】
「豫而已矣」の説明。知は狭くてはならない。漆雕開が「未能信」と答えたのも知が十分でないと思って言ったのであり、曾点と漆雕開は大意を見ると言って称せられた。
【通釈】
自分の胸で、これでもうよいという処へ落ちたのが「豫」である。豫は前にすること。学問は出来合いではない。とかく狭くてはならない。孔子の博文、子思の博学、物格知至、ほっつりと落ちた処があるのでなければならない。帳面だけの知恵ではうまく行かない。知らない道中記を読むのも本草の吟味も格物だが、何もかも一つになって落ちるのでなければ豫とは言えない。「孔子漆雕開仕」も豫の処で見たもの。あれなら政も預けられると孔子が言った。それを未能信と答えたのは、脇目からはよいと言われても、まだ私は胸に落ちないと思ったからである。その筈で、精義入神は一生のこと。俗学が大学の格物を封印したままで読むからこんな綾を知ることができない。聖門は精義入神の揉み様が違う。そこで曾点漆雕開と並ぶ。彼等は大意を見ると言って称せられた。
【語釈】
・孔子の博文…論語雍也25。「子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫」。
・子思の博学…中庸章句20。「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也。博學之、審問之、愼思之、明辨之、篤行之」。
・物挌知至…大学章句1。「物格知至、則知所止矣」。
・孔子漆彫開仕…論語公冶長6。「子使漆雕開仕。對曰、吾斯之未能信。子説」。
・大意を見る…論語先進24集註。「曾點・漆雕開、已見大意」。

先生剛毅。づんと手つよいこと。上の剛は内からはり出しのつよいの、下の毅の字は外からあたられて下へめりこまぬつよみなり。剛は竹の子の疂をつきぬいて出る様なこと。毅は子ぶ川石。めりこまぬこと。徳盛貌嚴。呂与叔文者なり。よく書た。上の剛毅は生れ付。ここは学問て成たこと。剛毅か学問でなくなりはせぬが、それに古びがついて來たことを徳成なり。嚴はやはり嚴々の氣象と云と同こと。岩を立た様ぞ。夫では寄ても付れそもないものだに、横渠が全体をどすの子めるの高ぶるのといふことがないから、人の方から日親。而とは子かへしたあとへ日親とあるから、横渠が人を親むと云文義ではない。人の方からを云こと。こなたはよくあそこへ行くことではあると云と、いや思の外にゆきよいぞと云。衆人愛敬をどけを云て笑ふと云も甚しい悪德でもないが、以言色而假人也。横渠は東銘をつくりた。戯言戯動をどけも云はぬが、邪氣が去たから人が親むぞ。
【解説】
「先生氣質剛毅、德盛貌嚴。然與人居、久而日親」の説明。横渠の気質は剛毅である。剛は内から外へ強いことで、毅は外からの防ぎに強いこと。彼は学問によって徳が盛んとなった。また、その容貌は厳だったが、邪気がないから人から親しまれた。
【通釈】
「先生剛毅」。しっかりと手剛いこと。上の剛は内からの張り出しが剛いことで、下の毅の字は外から当たられた際に下にめり込まない強味である。剛は竹の子が畳を突き抜いて出る様なこと。毅は根府川石の様にめり込まないこと。「徳盛貌厳」。呂与叔は文者である。よく書いた。上の剛毅は生まれ付き。ここは学問で成ったこと。剛毅は学問でなくなりはしないが、それに古びが付いて来たことを徳成と言う。厳はやはり厳々の気象というのと同じで、岩を立てた様なこと。それでは寄ることもできないものだが、横渠は全体が脅したり睨んだり高ぶったりする様なことがないから、人の方から「日親」となる。「而」と跳ね返した後へ「日親」とあるから、ここは横渠が人を親しむという文義ではない。人の方から親しむということ。貴方はよくあそこへ行くと言われると、いや思いの外行きよいと言う。衆人愛敬戯けを言って笑うというのも甚しい悪徳でもないが、「以言色而仮人也」。横渠は東銘を作った。戯言戯動戯けも言わないが、邪気が去っているから人が親しむ。
【語釈】
・以言色而假人也…

其治家接物大要正己以感人。この感と云が横渠の方の心には覚へのないことと思がよい。正己人を服させやふとはせぬが、さて々々ちがったものだ々々々々々々々と云て人が感心する。人未之信。中には横渠の家内で子共のしをきや妻妾の交り嚴なを見て、あまりなことた、ああでもあるまいと云た人のあったときに、反躬自治。人の異見をする上でも、此間をれが云たことを人の承知せぬと云のがこちの足らぬであろふと省るなり。人未信と云は横渠の方へもひひくものぞ。たとへは酒の異見を云たにをれが鼻のさきで飲む。これはをれが云様でもわるかったそふなと自治むなり。さう云て人へ話にもせぬ。其筈ぞ。御手前を磨くのぞ。人についたことでなし。たいていの人が手前のわるいことをくよ々々云もの。吾わるさをかくすものよりはよいことだが、くよ々々云も知見ないにをちる。土藏の鼠穴ふさいたとて、隣へ聞せるにも及ぬ。あの人は悪を掩ふと云るるよりましなれとも、朱子も吾がわるさを人へ語りて何にする、つまりなをさぬ氣で有ふとしかりたこともある。わるさを語るもどふしても人をあてにする意がある。横渠の不語は剛毅から来たこと。手前でなをすと合点してさわかぬのぞ。
【解説】
「其治家接物、大要正己以感人。人未之信、反躬自治、不以語人」の説明。横渠は人を服そうとして己を正すのではないが、人は彼に感心する。人が自分の異見を聞かない時は、自分の方に足りないところがあるのではないかと省みて、そのことを人に語らない。それは自分を磨くためのことだからである。くよくよと言う人は知見がない。
【通釈】
「其治家接物大要正己以感人」。この「感」は、横渠の心には覚えのないことだと思いなさい。己を正すのは人を服させようとしてのことではないが、実に違った人だと言って人が感心する。「人未之信」。中には横渠の家内で子供の仕置きや妻妾の対応が厳なのを見て、あまりなことだ、あそこまでしなくてもと言う人がいた時に、「反躬自治」。人に異見をする上でも、この間俺が言ったことをその人が承知しないのは、こちらが足りないのだろうと省みる。「人未信」は横渠の方へも響くもの。たとえば酒の異見を言ったのに、俺の鼻先で飲む。これは俺の言い方でも悪かったのだろうと自ら治める。その様に思って人にはそれを言わない。その筈で、自分を磨くのである。人に関したことではない。大抵の人が自分の悪いことをくよくよと言うもの。それは自分の悪さを隠す者よりはよいことだが、くよくよと言うのも知見のないことに落ちる。土蔵の鼠穴を塞いだとしても、隣へ聞かせるには及ばない。あの人は悪を掩うと言われるよりはましだが、朱子も、自分の悪さを人に語って何にする、つまりは治さない気だろうと叱ったこともある。悪さを語るのも、どうしても人を当てにする意がある。横渠の「不語」は剛毅から来たこと。自分で直すと合点して騒がないのである。

雖有未諭安行而無悔。これが上の句をうけた様でうけぬことと思へ。諭の字は向へ云ことにも吾がむ子で云ことにもなる。諭す諭る二役に用る字なり。ここは向のことなり。安行無悔。手前の身の方にちっとも悔はない。悔は丈夫にないときにあるもの。斯ふより外ないとすんだことに悔はない。識與不識、向の方へはかまわぬが、それでも人が畏るなり。手前を正くして、さきへついて兎や角のない人。するどなことなり。医者が今日は頭痛がしたの眩暈がしたのと云ても藥に加減をしてやらぬ様なもの。横渠はこまかあたりはない人。道理計りで出るのなり。非其義也不敢以一毫及之。これはわるいことを人からしかけることのならぬこと。非義はあそこへは持てゆかれぬとなり。聞風而畏るのぎり々々なり。今機嫌を見合て云て見様と云のはひょっと聞こむこともあるからのぞ。そこで今日は思の外訶られずにすんだと云こともあるなり。あの人は决して賄賂は取らぬが菊の花は取ると云。摸様がかわれば取ることもあると云はまだしいこと。菊花も取らぬがよい。横渠は生質の剛毅からちっともわるいことのかぶれはうけぬ。
【解説】
「雖有未諭、安行而無悔。故識與不識、聞風而畏、非其義也、不敢以一毫及之」の説明。横渠は人に構うことはないが、人は彼を畏れる。彼は自分を正しくして、人に対しても道理だけで出る。それで、人が悪いことを仕掛けることができない。
【通釈】
「雖有未諭安行而無悔」。これが上の句を受けた様だが、受けていないもの思いなさい。「諭」の字は向こうへ言うことにも我が胸の中で言うことにもなる。諭すと諭るの二役に用いる字である。ここは向こうのこと。「安行無悔」。自分の身の方には少しも悔いはない。悔いは丈夫でない時にあるもの。こうするより外はないと、済んだことに悔いはない。「識与不識」、向こうの方へは構わないが、それでも人が畏れる。自分を正しくして、相手に対して手心を加えない人であり、それは鋭いことである。今日は頭痛がしたとか眩暈がしたと言っても、医者が薬に加減をして遣らない様なもの。横渠は色々とする人ではない。道理だけで出るのである。「非其義也不敢以一毫及之」。これは、悪いことを人が仕掛けることができないということ。「非義」は、あそこへは持って行けないということ。「聞風而畏」の至極である。今機嫌を見合わせて言って見ようとするのは、ひょっとすると聞き込むこともあるからである。そこで今日は思いの外訶られずに済んだということもある。あの人は決して賄賂は取らないが菊の花は取ると言う。模様が変われば取ることもあるというのは未熟である。菊花も取らないのがよい。横渠は生質の剛毅から、少しも悪い被れは受けない。

さて、明道の行状を讀でからは、これは甘みも何もない様だか、どれも道統ぞ。これてやっはり程張と並ふと合点せふことぞ。何でも道理より外はない。道統のものは行状で計り見ると云ことではない。行状なしとも道統はみへる。かけにはならぬ。行状て始て知れると云は第二等の人のこと。既に伊川には行状はない。横渠は嚴毅な生れで、ちとあそこへ行て話そふなどと云ことはならぬが、つまり道理なりと云より外はない。迂斎などは和順な生質なり。されともちと話にこいなぞと云ことは一生云ず、其外にもあま口な人情めいたことはとんとない。五節句年始の礼なら礼、一日話にこいとは云はぬ。冬至文の末にのりた、淺見先生の谷丹三郎へ云てやられたことでも見よ。俗情めいたことはない。爰が靣白ひ位のことを聖賢の篇で馳走することはない。程朱からうっ立ての先賢でも、吾黨の諸先輩で、道理なりより外ないと云が聖賢の姿ぞ。
【解説】
横渠は厳毅な生まれ付きなので人が寄り付き難い人だった。迂斎は和順な気質だったが、それでも甘口な人情めいたことは全くなかった。道理より外はないと言うのが聖賢の姿なのである。
【通釈】
さて、明道の行状を読んでも、これは甘みも何もない様だか、どれも道統である。これでやはり程張と並ぶ者だと合点しなさい。何でも道理より外はない。道統の者は行状でだけ見るということではない。行状がなくても道統は見える。行状がなくても欠けにはならない。行状で初めてわかると言うのは第二等の人のこと。伊川に行状はない。横渠は厳毅な生まれで、一寸あそこへ行って話そうなどと言うことはできないが、つまりは道理の通りと言うより外はない。迂斎などは和順な生質である。しかしながら、一寸話に来いなどとは一生言わず、その外、甘口な人情めいたことは全くない。五節句年始の礼なら礼、一日話に来いとは言わない。冬至文の末にある、浅見先生の谷丹三郎へ言って遣ったことでも見なさい。俗情めいたことはない。面白い位のことを聖賢の篇で馳走することはない。程朱から打ち立てた先賢でも我が党の諸先輩でも、道理の通りより外はないと言うのが聖賢の姿である。
【語釈】
・谷丹三郎…谷重遠。谷秦山。姓は大神[みわ]、幼字は小三郎。通称は丹三郎。寛文3年3月11日生れ。17歳で上京、浅見絅斎、山崎闇斎に学ぶ。土佐郡秦泉寺村に移居。その後また上洛して浅見絅斎、佐藤直方に学び、渋川春海に就いて神道を学ぶ。


第廿六 卒章

横渠先生曰、二程從十四五時、便脱然欲學聖人。
【読み】
横渠先生曰く、二程は十四五の時より、便ち脱然として聖人を學ばんと欲せり、と。
【補足】
・この条は、経学理窟三の学大原上篇にある。

二程從十四五時脱然欲学垩人。迂斎少壮の時脱然筆記を書れた。なにもさほとよいこともないなれとも、手からの一つぞ。脱然のことはあれにあづけて、今日こまかには云ぬ。和書集にあり。あれもよむことぞ。さて、此一条を十四篇の終にのせたが近思録の魂だと思ふことぞ。絶学をついたと云ふも爰のことなり。此魂がなければ学者垩賢の旅には立れぬ。朝聞道夕死可矣はこれとはちごふ。あれは直方の云、老人のために云たと云れた様にしょげた語なり。此語は本行列なり。されともつまり一つ処へゆくこと。そこて道学標的兩方なからのせた。これを道理の上から云たは好学論、此條は好学論の実事を云た。学以至垩人之道也とは某も書ふが、腕に覚がなくて書てはうそを云たになる。二程は十八計のとき好学論は書たが、それが此十四五の時の此魂から出た。爲学始て讀た好学論か、今垩賢の篇で人間にして取りのけた。爰は肉の付た好学論ぞ。好学とは顔子を云たこと。然れば学者の甚の目當なり。それをきいても今の人は朝鮮人参飲んだほどにはきとはならぬ。舜何人吾何人と云ても目はさめぬ。それに二程はもぬけた見處で、十四五の時よりとある。孔子十有五而志学。爰の便脱然もそれぞ。あたまの処の枯れぬ処。そこで朝聞道とはちごふとも云たもの。夕死はここてこそと云。その朝聞を標準にすることは一つことなり。
【解説】
二程は十八歳頃に好学論を書いたが、それは十四五歳の時の魂から出たもの。この条は好学論の実事を言ったものである。
【通釈】
「二程従十四五時脱然欲学聖人」。迂斎が少壮の時に脱然筆記を書かれた。さほどよいことも何もないが、手柄の一つである。脱然のことはあれに預けて今日は細かくは言わない。和書集にある。あれも読みなさい。さて、この条を十四篇の終わりに載せたのが近思録の魂だと思いなさい。絶学を継いだと言うのもここのこと。学者にこの魂がなければ聖賢の旅に立つことはできない。「朝聞道夕死可矣」はこれとは違う。あれは、直方が老人のために言ったと言われた様に悄気た語だが、この語は本行列である。しかしながら、つまりはどちらも一つ処へ行くこと。そこで道学標的では両方を載せてある。これを道理の上から言ったのが好学論で、この条では好学論の実事を言う。「学以至聖人之道也」とは私も書くことができるが、腕に覚えがなくて書いては嘘を言うことになる。二程は十八歳ばかりの時に好学論を書いたが、それがこの十四五歳の時のこの魂から出たもの。為学の初めで読んだ好学論を、今聖賢の篇で人間にして取り上げた。ここは肉の付いた好学論である。好学とは顔子を言ったこと。それで、学者にとってのはっきりした目当てとなる。それを聞いても今の人は朝鮮人参を飲んだほどにははっきりとならない。「舜何人吾何人」と言っても目は醒めない。そこを二程は優れた見処で、十四五の時よりとある。「孔子十有五而志学」。ここの「便脱然」もそれ。最初の処の枯れない処。そこで「朝聞道」とは違うと言ったのである。しかし、「夕死」は、ここでこそということで、朝聞を標準にすることでは同じことである。
【語釈】
・絶学をついた…為学95。「爲天地立心、爲生民立道、爲去聖繼絶學、爲萬世開太平」。
・朝聞道夕死可矣…論語里仁8。「子曰、朝聞道、夕死可矣。」
・舜何人吾何人…孟子滕文公章句上1。「顏淵曰、舜何人也。予何人也。有爲者亦若是」。
・孔子十有五而志学…論語為政4。「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」。

仏者はさきをからす。儒者の道にさきをからすと云ことはない。徂徠がそふ云。程朱がいつ垩人に成りたと云は甚しい俗論ぞ。それでは豫讓も歒討はせぬ、楠や孔明忠臣でないになる。成敗利鈍にかまはずずっ々々とゆきた処が忠臣なり。垩人になるならぬに搆はず筭用なしにゆくが二程なり。脱然はそこの塲をもぬけたことで、筭用をせぬこと。迂斎曰、親の歒を討つ様なもの、と。釼術が熟せぬの、病身だのと云はれぬこと。只今の学者は氣質を手傳はせる。安暴棄が筭用だけいの一番ぞ。迂斎又曰、一毫のかかわりがありては此心にはなられぬ、と。成程そうで、今町人の大和巡でも、今月行ては啇賣のためにわるい、妻が臨月だのとささわりでは立れぬ。二程脱然はささわりがない。成[なん]でささわりがないと云に、氣にさへられぬ。形氣が障へると理がくらむ。垩賢にはなられぬ。これを譬て云はは、心は飛びもせふが、からだがあるから飛れぬと云様なもの。又垩賢に成らるると云は、心は飛はれると云様なもの。形氣にさへられぬなれは成らるる。その筈よ。心は垩賢も凡夫も本來一つなもの。すれば脱然がなる筈なり。
【解説】
二程は算用をせずに行く。今の学者は算用が最初にある。二程は気に障えられないから脱然になることができた。聖賢に成ることができると言うのは、心が飛べるからである。しかし、形気に障えられるから飛べなくなるのである。
【通釈】
仏者は先を枯らす。儒者の道に先を枯らすということはない。徂徠が、程朱がいつ聖人に成ったのかと言ったのは甚しい俗論である。それでは豫譲も敵討をせず、楠や孔明も忠臣でないことになる。「成敗利鈍」に構わず、真っ直ぐに行った処が忠臣なのである。聖人になるかならないかには構わず、算用なしに行くのが二程である。脱然はその場を抜け切ったことで、算用をしない。迂斎が、親の敵を討つ様なものだと言った。その場では、剣術が熟していないとか、病身だなどとは言えない。只今の学者は気質を手伝わせる。「安暴棄」は、算用だけがいの一番である。また迂斎が言った。一毫の拘りがあってもこの心になることはできない、と。なるほどそうで、今町人の大和巡りでも、今月行っては商売のために悪い、妻が臨月だなどと障っては旅立てない。二程の脱然は障りがない。何で障りがないのかと言うと、気に障えられないからである。形気が障えると理が眩む。それでは聖賢に成ることはできない。これをたとえて言えば、心は飛びもしようが体があるから飛べないと言う様なもの。また、聖賢に成ることができると言うのは、心は飛べるからである。形気に障えられないのであれば成ることができる筈である。心は聖賢も凡夫も本来は同じもの。それなら脱然はできる筈である。
【語釈】
・成敗利鈍…後出師の表。「臣鞠躬尽力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣之明所能逆覩也」。
・安暴棄…

程子の人有身則有自私之理冝與道難一と云れた。只脱然々々とさはくことはない。氣にさへられぬ様にするがよい。人の胸中には人心と道心がある。とはおもへともぬるる袖哉も、雪の降夜はさむくこそあれもある。其人心を道心の支配にすると、することが皆道心になる。爰で垩賢にならるると云道があいて来る。三宅先生の、垩賢は道心計りと云た。それでは人心道心と云ことを知らぬ様な云様で、中庸の序もつぶした様な云やふなれとも、其つぶしたやふなが却てよく合点のゆきたのなり。斯ふこまかによむはどふなれば、吾黨のものにわるいくせがありて呑込ちがいがある。或人が直方先生の川上の歎の講釈を聞てからいきりにいきりさはぐを一坐の人輕んじて、それ脇さしが鞘はしりますと云たものがある。此条もただいきりて脱然々々と云てもやくにたたぬ。脱然はちっとも氣の方へひかれず理計りでかけ出すこと。脱然はそんならならぬことだ、石の吸物だと云はふか、そふしたことでない。なることぞ。垩賢喰れぬ料理を出したことはない。氣にさへられ子はなることぞ。たとへをれは孔子の氣質に似たからよいと云をふとも、それでも氣にをちるぞ。理はするどいもの。朱子や伊川に柔めいたことはない。柔弱めいたことでは近思は治らぬ。
【解説】
脱然を騒ぐのは悪い。気に障えられない様にしなければならない。人には人心と道心とがあるが、人心を道心が支配する様にする。脱然は気に引かれずに理ばかりで行くことであり、柔弱めいては悪い。
【通釈】
程子が「人有身則有自私之理宜与道難一」と言われた。ただ脱然と騒ぐのではない。気に障えられない様にしなさい。人の胸中には人心と道心とがある。とは思えども濡るる袖哉も、雪の降る夜は寒くこそあれもある。その人心を道心の支配にすると、することが皆道心になる。ここで聖賢に成るための道が開いて来る。三宅先生が、聖賢は道心ばかりだと言った。それでは人心道心ということを知らず、中庸の序も潰す様な言い方だが、その潰した様な言い方が却ってよく合点の行くことである。この様に細かに読むのは何故かと言うと、我が党の者には悪い癖があって、飲み込み違いがあるからである。或る人が直方先生の川上の歎の講釈を聞いてから息巻いて騒ぐのを一座の人が軽んじ、それ脇差の鞘が走りますと言った。この条もただいきって脱然と言っても役には立たない。脱然は少しも気の方へ引かれず理ばかりで駆け出すこと。それなら脱然はできないことだ、石の吸物だと言い張るだろうが、そうしたことではない。できること。聖賢が喰えない料理を出すことはない。気に障えられなければ成る。たとえ俺は孔子の気質に似たからよいと言おうとも、それでも気に落ちる。理は鋭いもの。朱子や伊川に柔めいたことはない。柔弱めいたことでは近思は治めらない。
【語釈】
・人有身則有自私之理冝與道難一…克己22。「伊川先生曰、大抵人有身、便有自私之理。宜其與道難一」。
・中庸の序…中庸章句序。「心之虚靈知覺、一而已矣。而以爲有人心、道心之異者、則以其或生於形氣之私、或原於性命之正、而所以爲知覺者不同。是以或危殆而不安、或微妙而難見耳…」。