近思録後序

淳熙乙未之夏、東萊呂伯恭來自東陽、過予寒泉精舍。畱止旬日、相與讀周子程子張子之書、歎其廣大閎博、若無津涯、而懼夫初學者、不知所入也。因共掇取關於大體而切於日用者、以爲此編。總六百二十二條、分十四卷。蓋凡學者所以求端、用力、處己、治人之要、與夫所以辨異端、觀聖賢之大略、皆粗見其梗概。以爲窮鄕晩進、有志於學、而無明師良友以先後之者、誠得此而玩心焉、亦足以得其門而入矣。如此然後求諸四君子之全書、沈潛反覆、優柔厭飫、以致其博、而反諸約焉、則其宗廟之美、百官之富、庶乎其有以盡得之。若憚煩勞、安簡便、以爲取足於此而可、則非今日所以簒集此書之意也。五月五日、新安朱熹謹識。
【読み】
淳熙乙未の夏、東萊の呂伯恭東陽より來り、予が寒泉精舍を過る。畱止すること旬日、相與に周子程子張子の書を讀み、其の廣大閎博にして、津涯無きが若くなるを歎じ、夫の初學者の入る所を知らざるを懼る。因りて共に大體に關し日用に切なる者を掇取[てっしゅ]し、以て此の編を爲[つく]る。總べて六百二十二條、十四卷に分つ。蓋し凡そ學者端を求め、力を用い、己を處し、人を治むる所以の要と、夫の異端を辨じ、聖賢を觀る所以の大略とは、皆粗[ほぼ]其の梗概を見わす、以爲えらく窮鄕の晩進、學に志有れども、明師良友の以て之に先後すること無き者は、誠に此を得て心に玩せば、亦以て其の門を得て入るに足らん。此の如くして然る後諸を四君子の全書に求め、沈潛反覆、優柔厭飫、以て其の博きを致し、諸を約に反らば、則ち其の宗廟の美、百官の富、其の以て盡く之を得る有るに庶からん。若し煩勞を憚り、簡便に安んじ、以て足るを此に取りて可と爲さば、則ち今日此の書を簒集する所以の意には非ざるなり。五月五日、新安の朱熹謹んで識す。

淳熙乙未之夏東萊呂伯恭。東萊は伯恭の居処ではない。只號なり。東陽は婺州なり。朱子の御宅からは、云はば日本の方へ近ひ方ぞ。爰は本国ではない。寒泉精舎。朱子の母の死なれた時分、学問所を立てた。そこへ行でこざりた。墓の邉りなり。精舎と云も寺と云も本こちの字ぞ。後世学者が佛に取られたと云て腹を立る。それはをろかなこと。因て笑曰、あれが五倫さへ引たくりたがる。精舎などはやってもよい。周程張子之書。東萊にはよい馳走ぞ。斯ふよむとをれがわる心とみへるが、史記左傳好きの東萊にはよい藥と見て出してよみたもの。
【解説】
「淳熙乙未之夏、東萊呂伯恭來自東陽、過予寒泉精舍。畱止旬日、相與讀周子程子張子之書、歎其廣大閎博」の説明。精舎も寺も元々はこちらの字であり、仏は儒教を引ったくりたがる。東萊は史記左伝好きだったので、「相与読周子程子張子之書」がよい薬となる。
【通釈】
「淳熙乙未之夏東萊呂伯恭」。「東萊」は伯恭の居所ではなく、彼の号である。「東陽」は婺州である。朱子の御宅からは、言ってみれば日本に近い方である。ここは本国ではない。「寒泉精舎」。朱子の母が死なれた時分に学問所を建てた。そこへ行かれた。墓の辺りである。精舎も寺も元々はこちらの字である。後世学者が仏に取られたと言って腹を立てるが、それは愚かなこと。そこで笑って言う、あれが五倫さえ引ったくりたがる。精舎などは遣ってもよい。「周程張子之書」。東萊にはよい馳走である。この様に読むと俺の嫌味の様に見えるが、史記左伝好きの東萊にはよい薬だと見て、この様に読んだのである。

若無津涯。周子のは太極通書ちっとあるが、程張はいかいことある。其上意味の深長、どふもどこからと云手の付け処もない様だ。不知所入なり。某が山﨑先生以来の先軰の筆記なぞを大切にするを假名ものをと云て笑ふものもあるが、意のあることを知らぬのぞ。朱子が東萊たま々々の出合には四子六經の吟味と出そふなものを、周程張と出た。周程張の書を知ら子ば四子六經のむまみは知れぬ。吾黨の諸先軰の筆記でなければ周程張の書がむまくをちぬ。假名書を千兩道具にするは此のあやなり。朱子の東萊に四君子の書を第一として吟味せらるるも同じあやぞ。ここのあんばい、東萊得手方ではなし。それでは近思の編集の相手には足りまいと云に、東萊は書のあつかいにかけては又よい筈。道体のうつりは甲斐なしとも、編集の相手にしたもの。
【解説】
「若無津涯、而懼夫初學者、不知所入也。因共掇取關於大體而切於日用者、以爲此編」の説明。周程張の書を知らなければ四子六経の甘味はわからない。東萊はそれが苦手だったが、書の編集が上手だったので近思録の編集の相棒とした。
【通釈】
「若無津涯」。周子の書は太極や通書が一寸あるだけだが、程張の書は大層ある。その上意味が深長で、どうも手の付け処もない様で、「不知所入」である。私が山崎先生以来の先輩の筆記などを大切にするのを仮名物などをと言って笑う者もいるが、それは意のあることを知らないのである。朱子と東萊の偶々の出合いには四子六経の吟味と出しそうなものだが、周程張と出した。周程張の書を知らなければ四子六経の甘味はわからない。我が党の諸先輩の筆記でなければ周程張の書がうまく心に落ちない。仮名書を千両道具にするのはこの綾からである。朱子が東萊に四君子の書を第一として吟味させたのも同じ綾である。ここの塩梅は、東萊は苦手だった。それでは近思の編集の相手として不足ではないかと言えば、東萊は書の扱いにかけては上手だった。道体の映りは甲斐ないが、編集の相手にしたのである。

六百一十二條を氣を付て見ることそ。なぜこんなこと書たと云に、あの多い中に一条計りはなくてもよさそふなものだと云に、どふも一条足らぬでもならぬこと。ぬきもさしもならぬ処が六百十二条。朱子が大学の傳文の字が千五百四十六字とかぞへてをいた。あれが大事なことゆへなり。魂を建立する大切な書ゆへ、これほどにかくなり。求端。学問の端的をつかまへること。端と云にあかるみのつかぬ内は、いくら進でもすてる。直方先生が大名衆の学問、夜着をきて角力を取る様だと云て笑れた。学者も爰だなと云ぎり々々を見ぬ内は埒明ぬ。道体から十二篇をくるめて云て、異端を弁し、垩賢を観ると別に云たは、異端はあちのもの、垩賢はこちの行きつき処、餘篇のしてゆく道中ではない。とど領分へゆきついた処。又、弁異端は、生金をも取あつかい、似せ金をも見たと云で本んのことがをちつく。
【解説】
「總六百二十二條、分十四卷。蓋凡學者所以求端、用力、處己、治人之要、與夫所以辨異端、觀聖賢之大略」の説明。近思録の六百二十二条は一条も抜き差しはできない。ここで弁異端と観聖賢を他の十二条とは別に言ったのは、異端は聖学ではなく、聖賢は行き着き処だからである。
【通釈】
「六百二十二条」を、気を付けて見なさい。何故こんなことを書いたのかと言うと、あの多い中に一条だけならなくてもよさそうなものだと思っても、どうも一条足りなくても悪い。抜きも差しもならない処が六百二十二条である。朱子が大学の伝文の字は千五百四十六字と数えて置いた。あれが大事なことだからである。魂を建立する大切な書なのでこれほどに書いたのである。「求端」。学問の端的を掴まえること。端に明るみの付かない内は、いくら進んでも棄てる。直方先生が、大名衆の学問は夜着を着て相撲を取る様だと言って笑われた。学者もここだなという至極を見ない内は埒が明かない。道体から十二篇を包めて言って、別に、異端を弁じ聖賢を観ると言ったのは、異端はあちらのもので聖賢はこちらの行き着き処だからで、余篇のして行く道中のことではないからである。つまりは領分へ行き着いた処なのである。また、弁異端があるのは、生金をも取り扱い、贋金をも見たと言うので本当のことが落ち着くのである。

粗見梗概。垩賢の学はこふしたもの。今人はわるじゃれで、爰が垩学の骨たと云ことを見もせずにただ高ぶる。それゆへ吾黨近思録迠は見るが、はや鞭策録は何のこともないとして見ぬ。近思でなふては四書すまず、鞭策録でのふては近思が実にならぬそ。只大きい処へとまりたがる。とかく朱子々々と云てをるが、学問に精釈のつかぬはどふぞ。其朱子の書と云は語類文集計りぞ。そんならそれを見るかと云に、これも近年某が彼れ此れ世話してかぢり習はせた。此の一六の講釈も、迂斎初年はのけて一六の日ときめて大方八十年ほども續くが、先君子も語類文集は手前の業にはして、弟子へ彼れ此れと世話はせず。今はそれはをろか吾黨学者が先輩の編集ものさへ讀む者すくなし。此れ近思の意をしらぬゆへなり。さうなけれは垩学の趣は知られぬ。近思の編集、切要なことは皆あげてある。あれでなけれは窮郷晩進がいかほど志ありても、垩賢の学うかがふことはならぬ。吾黨諸老もその為めの編集ものぞ。皆近思録の意ぞ。玉山附録や啓発鞭策排釈鬼神集説を近思の續録と思へと某毎々云はそこなり。
【解説】
「皆粗見其梗概。以爲窮郷晩進、有志於學、而無明師良友以先後之者、誠得此而玩心焉、亦足以得其門而入矣」の説明。今の学者は近思録を読んで済ませる。彼等はとかく朱子のことを言うが、それは語類と文集のことだけである。我が党では語類や文集はおろか、先輩の編集さえ読む者が少ない。先輩の編集は近思の続録なのである。
【通釈】
「粗見梗概」。聖賢の学はこうしたもの。今の人は悪戯なので、ここが聖学の骨だということを見もしないでただ高ぶる。それで我が党でも近思録までは見るが、早くも鞭策録は何事もないものとして見ない。近思でなくては四書は済まず、鞭策録でなくては近思は実にならない。しかし、ただ大きい処へ留まりたがる。とかく朱子のことを言うが、学問に精彩が付かないのはどうしてなのか。彼等の言う朱子の書とは語類文集だけである。それならそれを見るのかと言えば、これも近年私がかれこれ世話をしてかじり習わせた。この一六の講釈も、迂斎の初年を除いては一六の日と決めて大方八十年ほども続くが、先君子も語類文集は自分の業にして、かれこれと弟子へは世話をしなかった。今はそれはおろか、我が党の学者には先輩の編集物をさえ読む者が少ない。これは近思の意を知らないからである。これでなければ聖学の趣はわからない。近思の編集に切要なことは皆挙げてある。あれでなければ窮郷晩進にどれほど志があっても、聖賢の学を窺うことはできない。我が党の諸老もそのために編集をした。それは皆近思録の意である。玉山附録や啓発鞭策排釈鬼神集説を近思の続録と思えと私がいつも言うのはそこのこと。
【語釈】
・梗概…大略。あらまし。あらすじ。
・窮郷…辺地の後進者。
・玉山附録…玉山講義附録(三巻)。保科正之が山崎闇斎に命じて編集したもの。寛政五年九月に成る。玉山講義は朱子が六十五歳の時、玉山にて講義したもので、凡そ三千字の文章。

沈潜反覆。これが駁雜な学問ではならぬこと。順礼の札をうつ、諸国一見のためと云やうではならぬ。方々で四君子の全書で近付になりて、近思で熟さ子ばならぬ。今此の中の学友も四子の全書を見るときに初めて近付になりた様で、ここはとっくに近思で近付じゃと思ものはすくないであろふ。それは近思に熟さぬゆへそ。近思でとくと近付になりて、さて全書で見て、それから又近思へもどりてとくとみることぞ。それが反諸約なり。憚煩労。これは又あまり近思でよいと合点しすぎた人の上にあること。近思さへあれば程張の全書は入らぬ、太極さへあれは通書は入らぬと云。それては簒集此書した意と合ぬ。全蒙擇言は大全蒙引にはよい処がこれ計りとたきるか主なり。爰は周程張を尊信する上からは、全書へかから子は中々此編はかりては足らぬと云。されとも、亭主の口上と客の口上とは振舞のときにちごふと云がそれと同じことで、兎角近思にきまることなり。程書抄略、張書抄略、近思へのらぬを抄したなれとも、ぎり々々の処は近思ぞ。太極通書程易は又別段のことなり。
【解説】
「如此然後求諸四君子之全書、沈潛反覆、優柔厭飫、以致其博、而反諸約焉、則其宗廟之美、百官之富、庶乎其有以盡得之。若憚煩勞、安簡便、以爲取足於此而可、則非今日所以簒集此書之意也」の説明。近思に近付きになり、それから全書を見て、また近思へ戻ってじっくりと見る。それが「反諸約」である。また、近思さえあれば四子の全書は要らないと言うのはこの書を簒集した意と合わないが、とかく近思に窮まることは確かなことである。
【通釈】
「沈潜反覆」。これが雑駁な学問ではできないこと。順礼の札を打ち、諸国一見のためと言う様では悪い。一つずつ四君子の全書で近付きになり、近思で熟さなければならない。今この中の学友も四子の全書を見た時に初めて近付きになった様に思い、ここはとっくに近思で近付きだと思う者は少ないだろう。それは近思に熟さないからである。近思でじっくりと近付きになり、さて全書で見て、それからまた近思へ戻ってじっくりと見るのである。それが「反諸約」である。「憚煩労」。これはまた近思でよいとあまりに合点し過ぎた人の上にあること。近思さえあれば程張の全書は要らない、太極さえあれば通書は要らないと言う。それではこの書を簒集した意と合わない。全蒙択言は大全蒙引にはよい処がこれだけだと滾るのが主である。ここは周程張を尊信するのだから全書へ掛からなければならず、中々この編だけでは足りないということ。亭主の口上と客の口上とは振舞いの時に違うというのがそれと同じで、とかく近思に決まる。程書抄略や張書抄略は近思に載らないものを抄したものだが、至極の処は近思と同じである。太極通書程易はまた別段なことである。

近思録既成。或疑、首卷陰陽變化性命之説、大抵非始學者之事。祖謙竊嘗與聞次緝之意。後出晩進、於義理之本原、雖未容驟語、苟茫然不識其梗概、則亦何所底止。列之篇端、特使之知其名義、有所嚮望而已。至於餘卷所載、講學之方、日用躬行之實、具有科級。循是而進、自卑升高、自近及遠、庶幾不失簒集之指。若乃厭卑近而騖高遠、躐等陵節、流於空虚、迄無所依據、則豈所謂近思者耶。覽者宜詳之。淳熙三年四月四日。東萊呂祖謙謹書。
【読み】
近思録既に成る。或ひと疑う、首卷陰陽變化性命の説は、大抵始學者の事に非ず、と。祖謙竊かに嘗て次緝の意を聞くに與れり。後出の晩進、義理の本原に於て、未だ驟[にわ]かに語る容[べ]からずと雖も、苟も茫然として其の梗概を識らざれば、則ち亦何ぞ底止する所あらん。之を篇端に列するは、特[ただ]之をして其の名義を知りて、嚮望[きょうぼう]する所有らしむるのみ。餘卷載する所に至りては、講學の方、日用躬行の實、具[つぶさ]に科級有り。是に循って進み、卑きより高きに升り、近きより遠きに及ばば、簒集の指[むね]を失わざるに庶幾からん。若し乃ち卑近を厭いて高遠に騖せ、等を躐[こ]え節を陵ぎ、空虚に流れ、依據する所無きに迄[いた]らば、則ち豈所謂近思という者ならんや。覽る者宜しく之を詳らかにすべし。淳熙三年四月四日、東萊の呂祖謙謹んで書す。

近思録既成或疑。道体を人の疑ふも尤なり。切問近思と云がをらは合点がゆかぬ。眞始に無極而太極。初学の合点ゆくでない。なれともそのあやををらは聞いた。祖謙云々となり。或疑と有ても、東萊も科挙の世話をしたり道学にうつりの甲斐ない人。それでこの或疑ふも御自分ても此疑あろふも知れぬ。近思はをろか小学にも天命性之謂性。三代の後道体を先拂にせぬ書は役に立ぬこととをもへ。道体と云さき拂なくては垩賢の道はあるかれぬ。名義が大事の字なり。太極は斯ふ、誠は斯ふ、仁は斯ふと知るがよい。不立文字とまきらす、役に立ぬ。孔子の性天道と子貢へ話したあの時分までは、名義は明なり。後世は道体の名義をさきに立子はならぬ。すれは大事のことなり。
【解説】
小学にさえも道体が最初にある。道体を最初に置かない書は役に立たない。孔子の時までは名義が明らかだったが今は不明なので、道体の名義を先に立てなければならないのである。
【通釈】
「近思録既成或疑」。道体を人が疑うのも尤もなことで、「切問近思」が俺は合点が行かない。最初に「無極而太極」があるが、初学が合点できるものではない。しかしながら、その綾を俺は聞いた。「祖謙云々」と言った。「或疑」とあるが、東萊も科挙の世話をしたり道学に映りの甲斐ない人。それでこの或る人疑うも御自分にもこの疑いがあったのかも知れない。近思はおろか小学にも「天命性之謂性」とあり、三代の後、道体を先払いにしない書は役に立たないことと思いなさい。道体という先払いがなくては聖賢の道を歩くことはできない。「名義」が大事な字である。太極はこう、誠はこう、仁はこうと知りなさい。不立文字と紛らすのは役に立たない。孔子が性天道と子貢へ話したあの時分までは、名義は明らかだった。後世は道体の名義を先に立てなければならない。そこで、名義は大事なのである。
【語釈】
・切問近思…論語子張6。「子夏曰、博學而篤志、切問而近思。仁在其中矣」。
・小学にも天命性之謂性…小学内篇立教。「子思子曰、天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎」。
・不立文字…悟りは文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものであるの意。
・孔子の性天道…論語公冶長13。「子貢曰、夫子之文章、可得而聞也。夫子之言性與天道、不可得而聞也」。

厭卑近而騖高遠。宋朝では平生の用心がこれじゃ。皆禅のかぶれがある。家ごみな処では入梅にも火の用心をふれる。宋朝では朱子も東萊も皆此用心を云たが、今日の学者にはこの用心は入らぬ。吾黨ても山﨑先生、佐藤淺見の二先生の風韻を見たものもなし。三宅先生死れてから学者の風切りがぬけた。高飛することはならぬ。今上總の諸生へは身帯を上けながら学問をせよと云は子はならぬ。もし道理のためならは身代つぶせと云たら大きにをとろくべし。高遠に馳するなどと云用心は入らぬ。飛ばせたくも人欲と云子ばりがあるから飛ぶことはならぬ。程朱のときから吾黨の先輩の時は、身上をつぶすをも手抦にした。欲と云子ばりを洗ひぬくでなくては高遠に馳せることはならぬ。佛法も今とはちごふ。近理而乱眞と云も高遠からそ。先日の明道の行状に今之入人也因其高明とある。高ぞれに用心がいる。朱子も潭州などては高遠の用心は入らぬ。門人か先生のあの教では可無臘等之患と云たれは、ちとこへさせたいものだが、こへるものがないと云た。若こへた人があったら敬服せふものと云れた。此が上総そ。
【解説】
宋朝は禅の被れがあったから高遠に馳せることを用心したが、今はその様な用心は要らない。それは、馳せさせたくても人欲という粘りがあって、飛ぶことができないからである。朱子の潭州の時が今の上総と同じである。
【通釈】
「厭卑近而騖高遠」。宋朝では平生の用心がこれ。皆禅の被れがある。家の混んでいる処では入梅にも火の用心を触れる。宋朝では朱子も東萊も皆この用心を言ったが、今日の学者にこの用心は要らない。我が党でも山崎先生や佐藤浅見の二先生の風韻を見た者はいない。三宅先生が死れてから学者の風切りが抜けた。高飛することができない。今上総の諸生へは身代を上げながら学問をしなさいと言わなければならない。もしも道理のためであれば身代を潰せと言えば大いに驚くだろう。高遠に馳すなどという用心は要らない。飛ばせたくても人欲という粘りがあるから飛ぶことができない。程朱の時から我が党の先輩の時までは、身上を潰すことをも手柄にした。欲という粘りを洗い抜くのでなければ高遠に馳すことはできない。仏法も今とは違う。「近理而乱真」と言うのも高遠だからである。先日の明道の行状に「今之入人也因其高明」とある。高逸れに用心がいる。朱子の時も潭州などでは高遠の用心は要らなかった。門人が先生のあの教えでは「可無躐等之患」と言うと、一寸越えさせたいものだが、越える者がいないと言った。もしも越える人がいれば敬服するものをと言われた。これが今の上総である。
【語釈】
・風韻…おもむきのあること。雅致。風趣。風致。
・近理而乱眞…中庸章句序。「則吾道之所寄不越乎言語文字之閒、而異端之説日新月盛、以至於老佛之徒出。則彌近理而大亂眞矣」。
・明道の行状…聖賢17を指す。

今日吾黨の学者が時節を知らぬから等をこへるな々々々々と示したがるが、等をこへたら近く思ふの仲ヶ間にしてやろふ。こんな魂では垩賢にはなられまいとをもふと近く思ふのぞ。宋朝には等をこへた人がいかいことあるが、陸象山初め欲はない。欲がなくば道か得られさふなものなれとも、道体めいても致知がないからゆかぬ。垩学は致知が始、もつ處は存羪、くくり処は垩賢。斯ふしたあやじゃに近思を空虚によみては役には立ぬ。さて、高遠の用心が宋朝では入りて、今の学者には入らぬと云はどふなれば、欲があるからぞ。此高遠に馳する用心の入らぬ学者と云れては、さて々々下卑た学問だとをもへ。近思の文義がすんでも近思録の坐鋪で話をするは不礼ぞ。此用心が入らぬ段には垩賢に成る氣づかいはないにきはまる。一生郷人俗人で果る。そんなら心法の工夫処ではない。京都の訂斎先生が弟子に度々俗を脱せよ々々々々々と云れた。なぜそう云たならば、いかにしても皆魂に俗々とした処があるからのことぞ。あの男はかわった学問だと云やふなていでなくてはどふでも俗なり。よい様でも町料理、喰へぬものぞ。
【解説】
宋朝には等を越えた人が大層いたが、彼等に欲はなかった。欲がなければ道が得られそうなものだが、道体めいていても致知がないからうまく行かない。高遠に馳せることの用心が不要な学者と言われるのは下卑た学問である。
【通釈】
今日我が党の学者が時節を知らないから等を越えるなと示したがるが、等を越えたら近く思うの仲間にしてやろう。こんな魂では聖賢にはなれないだろうと思うのが近思である。宋朝には等を越えた人が大層いたが、陸象山を始めとして欲はない。欲がなければ道が得られそうなものだが、道体めいても致知がないからうまく行かない。聖学は致知が始まりで、持つ処は存養、括り処は聖賢である。こうした綾なのに、近思を空虚に読むのでは役に立たない。さて、高遠の用心が宋朝では必要で、今の学者には要らないと言うのはどういうことかと言うと、欲があるからである。高遠に馳すことを用心する必要のない学者だと言われては、本当に下卑た学問だと思いなさい。近思の文義が済んでも、それで近思録の座敷で話をするは無礼である。この用心が要らない段では聖賢に成る気遣いはないに極まる。一生郷人俗人で果てる。それなら心法の工夫処ではない。京都の訂斎先生が弟子に度々俗を脱せよと言われた。何故そう言ったのかと言うと、どうしても皆魂に俗々とした処があるからである。あの男の学問は変わっていると言われる様な体でなければどうしても俗である。よい様でも町料理は喰えないもの。

既に東萊が此序を斯ふは書たが燈臺本暗しぞ。四君子の傳には遠し。あまり高遠の用心がすぎたとみへる。それで死ぬころなどは論吾をよめば虚だ、左傳を見るが実じゃと云れた。にが々々しきことぞ。されとも東萊はまあ一躰がよいからをして通りた。あまりわるくもなかったが、其弟子や弟の子約になりては法度もないことになりた。此序もそれなり。あまり尊信して東萊を手本にすると近思には遠くなる。四君子のあの高妙精微の言をこちへ引付る心でするか近く思と云もの。此近思の後序は高遠に馳るものを見かけて云こと。吾黨にも此後序をたてに取り、一生渾厚和平の俗流ではてる人多し。さて又学者が不吟味て、近思をあみた東萊た、朱子と同腹中だと心得る。それては只親類書で誰は伯父、誰は從弟とみるやふなもの。心を知らぬ。東萊は朱子とべったりとは合ぬ。合ふたと見ると早近思の見そこないになる。某か東萊の後序をよむに向へまはりてこんなことを云は替ったことだと皆も思はふ。さふ思ふも尤なれとも、ちっとぬける、はや近思の見そこないになる。呂氏後序がわるいではなし。日比の呂氏学かわるいを聽徒にしらするためそ。某が死だら呂朱をわける人はあるまい。此講釈を近思の跋ほどに思でなくては本にきいたではない。ヶ様なことも語類文集をみれば、どふもかふ講せ子ばならぬ。豈好弁やの筋ぞ。それと云も、此編の相手も後序も南軒なればなんのことはなし。東萊だけに主張入ることなり。これよりをせば、直方闇斎の序を講ぜぬも習合のかぶれをふくれたかこの筋。某か父師の云れぬことなれとも、一つ主張するも近思の精彩なり。亦時然り。
【解説】
東萊の序はあまりに高遠の用心が過ぎたものである。そこで、これを尊信し、東萊を手本にすると近思には遠くなる。東萊を悪く言うのは、呂氏後序が悪いということではなく、日頃の呂氏学が悪いからである。東萊と朱子とを同腹中だと心得てはならない。
【通釈】
既に東萊がこの序をこの様には書いたのが灯台下暗しで、四君子の伝には遠い。あまりに高遠の用心が過ぎたものと見える。それで、死ぬ頃などは論語を読むのは虚だと言い、左伝を見るのが実だと言われた。それは苦々しいこと。しかし、東萊はまあ一体がよいから押して通った。あまり悪くもなかったが、その弟子や弟の子約になって途方ももないことになった。この序もそれ。あまり尊信して東萊を手本にすると近思には遠くなる。四君子のあの高妙精微の言をこちらへ引き付ける心でするのが近く思うというもの。この近思の後序は高遠に馳せる者を目掛けて言ったこと。我が党でもこの後序を楯に取り、一生渾厚和平の俗流で果てる人が多い。さてまた学者が不吟味で、近思を編んだ東萊だ、朱子と同腹中だと心得る。それではただ親類書で誰は伯父、誰は従弟と見る様なもの。心を知らない。東萊は朱子とべったりとは合わない。合ったと見ると早くも近思の見損ないになる。私が東萊の後序を読むのに向こうへ回ってこんなことを言うのは変わったことだと皆も思うだろう。その様に思うのも尤もだが、一寸でも抜ければ早くも近思の見損ないになる。呂氏後序が悪いわけではない。日頃の呂氏学が悪いことを聴徒に知らせるためである。私が死んだら呂東萊と朱子とを分ける人はいないだろう。この講釈を近思の跋というほどに思うのでなれけば本当に聞いたことにはならない。語類文集を見ていると、この様なことをどうしても講じなければならなくなる。それは「豈好弁」の筋である。それと言うのも、この編の相手や後序が南軒であれば何事もなかったこと。東萊だけに主張が要るのである。これから推せば、直方が闇斎の序を講じないのも、習合の被れを嫌ってのことで、それがこの筋からのこと。私が父師の言われなかったことを一つ主張するのも近思の精彩であり、「亦時然」である。
【語釈】
・豈好弁…孟子滕文公章句下9。「孟子曰、予豈好辯哉。予不得已也」。
・亦時然…論語憲問14。「子問公叔文子於公明賈。曰、信乎。夫子不言不笑不取乎。公明賈對曰、以告者過也。夫子時然後言、人不厭其言。樂然後笑、人不厭其笑。義然後取、人不厭其取。子曰、其然。豈其然乎」。

講後餘論
今日脱然の処て葉解か引たことを讀ふと思たか、間違にならふかと思ふてやめた。あの葉解か十四五の脱然からつづけて十八の時か好学論、それから及第、廿三の時か定性書、其外跡へ遊山の諸詩皆好しと鄠縣のときのことを朱子の云れた説を出した。見処のない注のやうなか却て靣白ことそ。又先生微笑曰、今日の上總などでは東萊の跋入用になし。そこてあのやふに云。此讀やふを與八や東金の老人眞靣できいたら黙斎乱心と云はふ。究格になれは吾邦神道を弁して罸のあたりたものもないを見れは、東萊をわるく云ても罸もあたるまい。たとへ罸が當ろふとも云は子はならぬ。諺に云、行がけの駄賃だ。兼々直方以来東萊と不合口ぞ。貝原の大疑録、はや太宰喜んで跋を書、東萊の博議、はや堀川喜んて跋を書。腹ふくるることなり。南軒の統を薛文靖かつぎ、東萊の統を丘瓊山かつき、朱子の統を李退渓かつく。ここを知る人なし。このこと近思にあつからざることのやふてあつかること。これ予主張する所なり。
【解説】
今日の上総などでは東萊の跋は入用でない。そこで、東萊を悪く言ったのである。南軒の統を薛文靖が継ぎ、東萊の統を丘瓊山が継ぎ、朱子の統を李退渓が継いだ。これを知る者がいない。
【通釈】
今日鋭然の処で葉解が引いたことを読もうと思ったが、間違いになるかもしれないと思って止めた。あの葉解では、十四五歳の脱然から続けて十八歳の時が好学論、それから及第、二十三歳の時が定性書、その外遊山の諸詩が皆好いと言い、鄠縣の時のことを朱子が言われた説を出した。見処のない注の様だが却って面白いこと。また先生微笑して、今日の上総などでは東萊の跋は入用でないと言った。そこであの様に言ったのである。この読み様を与八や東金の老人が真顔で聞いたら黙斎乱心と言う。究格になれば、我が邦神道を弁じて罰の当たった者もいないのを見れば、東萊を悪く言っても罰は当たらないだろう。たとえ罰が当たったとしても言わなければならない。諺に言う、行き掛けの駄賃である。直方以来、常に東萊とは仲が悪い。貝原の大疑録を直ぐに太宰が喜んで跋を書き、東萊の博議を直ぐに堀川が喜んで跋を書く。それは腹の膨れること。南軒の統を薛文靖が継ぎ、東萊の統を丘瓊山が継ぎ、朱子の統を李退渓が継いだ。ここを知る人がいない。このことは近思に与らないことの様で与ること。これが私の主張する所である。
【語釈】
・脱然の処…鋭然の誤り。聖賢26。「横渠先生曰、二程從十四五時、便鋭然欲學聖人」。
・與八…
・堀川…伊藤仁斎。
・薛文靖…薛徳温、薛敬軒。
・丘瓊山…明の瓊山の人。丘濬。字は仲深。号は深菴。

午後讀節要。陳安郷のことにつき、先生曰、爰等でも見たがよい。千歳の後も療治の手段はしれるもの。さきの東萊へ周程張の書を出して見せたなぞか、たとひ近思を編む思召なくとも、こなたは不断舌たるい、砂糖煮の餅計でいらるる、今日此生酢和會を喰ふて胸をぐっと透かすかよいと云ことがあるぞ。そんなら編集の相手にはわるいかと云によい筈だ。こちで云へは多田先生のやふなり。博識で書のさばきがよい。そんなら御子息の塾を託されたはどふじゃと云に、どふも塾は道統傳授のためてはない。科挙の学にでもせふと思召たもの。又、科挙には呂氏かよい。をらなども多田先生で益をは得た。某十九の時、日光山に從ふ。古今の博物にて寛厚の長者なり。
【解説】
東萊は編集の相手としてはよい人だった。彼は多田先生に似ている。先生は古今の博物で寛厚な長者だった。
【通釈】
午後節要を読む。陳安卿のことに付いて、先生が言った。ここ等でも見なさい。千歳の後でも療治の手段はわかる。先ほどの東萊へ周程張の書を出して見せたことなどがよい。たとえ近思を編む思し召しがなくても、貴方はいつも舌たるい、砂糖煮の餅ばかりを食っておられる、今日はこの生酢和会を喰って胸をぐっと透かすのがよいということがある。それなら編集の相手には悪いかと言えば、よい筈。こちらで言えば多田先生の様なもの。博識で書の捌きがよい。それなら御子息に塾を託されたのはどうしたことかと言うと、どうも塾は道統伝授のためではなく、科挙の学にでもしようと思し召したためである。また、科挙には呂氏がよい。俺なども多田先生で益を得た。私が十九歳の時、日光山に従った。先生は古今の博物で寛厚な長者だった。
【語釈】
・多田先生…多田維則。儀八郎。

右近思録之講始于寛政二年庚戌六月六日同三年辛亥五月廿六日終業。
黙斎先生所講