第九 遯者隂之始長の条  亥正月廿九日  慶年録
【語釈】
・亥…寛政3年辛亥。1791年。
・慶年…北田慶年。東金市福俵の人。通称太兵衛。自家を「学思斎」とし、默斎に学ぶため他郷から来る人々を宿泊させると共に、子弟をそこで教導した。

遯者陰之始長。君子知微、固當深戒。而聖人之意、未便遽已也。故有與時行、小利貞之敎。聖賢之於天下、雖知道之將廢、豈肯坐視其亂而不救。必區區致力於未極之閒、強此之衰、艱彼之進、圖其蹔安。苟得爲之、孔・孟之所屑爲也。王允・謝安之於漢・晉、是也。
【読み】
遯は陰の始めて長ずるなり。君子は微を知れば、固より當に深く戒むべし。而して聖人の意は、未だ便ち遽に已まざるなり。故に時と行く、小なれば貞しきに利ろしの敎有り。聖賢の天下に於る、道の將に廢れんとするを知ると雖も、豈肯て其の亂るるを坐視して救わざらん。必ず區區として力を未だ極まらざる閒に致し、此の衰えたるを強め、彼の進むを艱[はば]み、其の蹔[しばら]く安らかなるを圖らん。苟も之をすることを得ば、孔・孟のすることを屑[いさぎよ]しとする所なり。王允・謝安の漢・晉に於る、是れなり。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の遯卦彖伝の注にある。遯卦彖伝は、「彖曰、遯亨。遯而亨也。剛當位而應、與時行也。小利貞、浸而長也。遯之時義、大矣哉」である。

隂の始て長すると云は、さして今ま急にわるいことてはないか、爰て一つ君子か見てとる。晩に床につく疫病、朝から違ふものなり。そこを見てとる。知微故當深戒。これはかりとてすてて置くことてなし。そこか出處の大事なり。遯はのかるることて、奉公するに此屋敷にはもふ居られぬとちらりとした処て見てとる。あぢな人か家老になったなと思ふ。もふ油断はせぬ。隂の長するがさのみ火急な悪ひこともないが、御部屋の妾のと云があながち皆悪心なくとも、それがあたまを持あける段になると、これはと君子は微をしるなりて、出處は大切なものゆへここにはもふと思ふなり。垩人之意云々。遯の卦なれとも垩賢は心を用ひ療治する心かあるて未便遽に已也て、垩人も六ヶしいと思か、さて爰に一つ手あてありとをもふなり。医者も先日からごほんと云た咳が只ではなかったか、一手段とかかるのなり。
【解説】
「遯者陰之始長。君子知微、固當深戒。而聖人之意、未便遽已也」の説明。遯は陰が成長する始めだから急に悪くなるものではないが、そこを君子は見て取る。遯の時節なので難しい状況だが、聖賢はそこでも療治をする。
【通釈】
「遯者陰之始長」では、今は大して急に悪くなることではないところだが、ここで一つ君子は見て取るのである。晩に床につく疫病は、朝から違うもの。そこを見て取る。「知微故当深戒」。これだけならと捨てて置きはしない。そこが出処の大事である。遯は遯れることで、奉公をしていても、この屋敷にはもういられないとちらりとした処で見て取る。悪い人が家老になったなと思う。もう油断はしない。陰が長ずるのはそれほど火急に悪くなることでもないが、御部屋の者や妾があながち皆悪心ではなくても、それが頭を持ち上げる段になれば、これはと君子は微を知る。そこで、出処は大切なものだから、ここにはもういられないと思うのである。「聖人之意云々」。遯の卦ではあるが、聖賢は心を用いて療治する心があるので「未便遽已也」で、聖人も難しいとは思うが、さてここに一つ手当があると思うのである。医者も先日からごほんと言っていた咳が普通のものではなかったがと、一手段に取り掛かる。

與時行小利貞云々。孔子の彖傳に書れた。智者は身がまへはかりしたがるか、時と行とは垩人の御心は手前の身はかり引くことてもない。處詮遯の時節なれはよいことは出来ぬなれとも、せめてはと一つ仕向をする。医者が迚も命はたすかるまいか責めて苦痛のないやうにはしてやろふと云きみなり。雖知道將廃云々。垩人はとてもなるまいとは合点なれとも、見てはかりもならぬと手あてをする。知者は見とって、このやうな処にはか々々しひとついと去る。區々はこせ々々することて、未たもと世話をして見る。強此之衰。易て云から陽のをとろふを云のなり。艱彼之進。所詮いくまいと思へとも、彼が病を押さへ隂のあたまををさへて暫くでもよくせふとする。
【解説】
「故有與時行、小利貞之敎。聖賢之於天下、雖知道之將廢、豈肯坐視其亂而不救。必區區致力於未極之閒、強此之衰、艱彼之進、圖其蹔安」の説明。智者は見取って見捨てるが、聖人はできないとわかっていても見捨てない。
【通釈】
「与時行小利貞云々」。孔子が彖伝に書かれたこと。智者は身構えばかりをしたがるが、「有与時行」で、聖人の御心は自分の身を引くことばかりでもない。所詮遯の時節であればよいことはできないのだが、せめてはと一つ仕向けをする。医者がとても命は助からないだろうがせめて苦痛のない様にはしてやろうと言う気味のこと。「雖知道将廃云々」。聖人はとてもできないとは合点しているのだが、見てばかりでもならないと手当をする。知者は見取って、この様な処にいるのは馬鹿らしいと言って直ぐに去る。「区々」はこせこせとすることで、まだまだと世話をする。「強此之衰」。易だから陽の衰えを言うのである。「艱彼之進」。所詮はうまく行かないと思っても、あの病を抑え、陰の頭を押さえて暫くでもよくしようとする。

孔孟云々。孔孟の出處に立派なことはない。用れは三月にして魯國大に治るといへとも、孔孟は全体が遯の時分なり。知者のやふに先きをからすと出はせぬはつなれとも、少ともよくしようとするて孔孟も出た。王允謝安之云々。王允。後漢の末の人なり。謝安。晋の世の人。全体遯の卦の時分なれとも此二人かあったて晋漢の命を少っとながらへた。王允は董卓を相手にして云こと。王允か謀て董卓は打てとった。尤王允も卓か手下に殺されたか、漢の世の命は存へた。謝安は又大腹中もので、のろりとしてすわって居たで晋の爲になった。桓温が謀叛を企ても謝安か扣へているて手出しがしにくかった。其内に桓温も病死したて晋が暫く存へた。是らが何となくこらへていたで晋漢をすこしとり留めたことあり。
【解説】
「苟得爲之、孔・孟之所屑爲也。王允・謝安之於漢・晉、是也」の説明。孔孟は遯の時節だったのだが、少しでもよくしようとして出た。王允や謝安も遯の時節だったが、彼等によって晋漢は少し長らえた。
【通釈】
「孔孟云々」。孔孟の出処に立派なことはない。用いれば三月にして魯国は大に治まると言っても、孔孟は全体が遯の時分だった。先が枯れるとわかっていれば知者の様に出はしない筈だが、少しでもよくしようとして孔孟も出た。「王允謝安之云々」。王允。後漢の末の人。謝安。晋の世の人。全体が遯の卦の時分だったが、この二人がいたので晋漢の命を少し長らえた。王允は董卓を相手にして言うこと。王允が謀って董卓は打ってとった。尤も王允も卓の手下に殺されたが、漢の世の命は長らえた。謝安はまた大腹中の者で、のろりとして座っていたのが晋のためになった。桓温が謀叛を企てても謝安が控えているので手出しがし難かった。その内に桓温も病死したので晋が暫く長らえた。彼等が何となく堪えていたので晋漢を少し取り留めたのである。
【語釈】
・用れは三月にして魯國大に治る…論語序説。「三月、魯國大治」。


第十 明夷初九の条

明夷初九、事未顯而處甚艱。非見幾之明不能也。如是則世俗孰不疑怪。然君子不以世俗之見怪、而遲疑其行也。若俟衆人盡識、則傷已及而不能去矣。
【読み】
明夷の初九は、事未だ顯れずして處ること甚だ艱なり。幾を見る明に非ずんば能わざるなり。是の如くんば、則ち世俗孰か疑怪せざらん。然れども君子は世俗の怪しまるるを以てして、其の行くを遲疑せず。若し衆人の盡く識るを俟たば、則ち傷已に及んで去る能わず。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の明夷卦初九の注にある。明夷卦初九は、「初九。明夷、于飛埀其翼。君子于行、三日不食。有攸往、主人有言。象曰、君子于行、義不食也」である。

易の明夷の卦は明夷[やふるる]と云て、道理のくらくなったことなり。明夷の時分と云には奉公せぬときなり。初九はずっと下たなり。事未顕而處云々。わるいこともないやうなれとも、處ること難てどふもおりにくいもの。こと破れきると又片づいて致しよいが、未たそふでない内がしにくいもの。医者も疑似之症と云が死ぬとも生きよふとも定められぬが六ヶしい。必死と片付けば手もないことなり。爰が見幾之明でなければ察しられぬ。迂斎云、雨がふって来ると傘合羽てすむが、ふらぬ内に降る処を見てとるはしにくい。世俗孰云々。世間てはなぜじゃ々々々々と云ひ、あの人は何て先つ脈をとるなと世人は怪む。君子はそこを人かかれこれ云ても見とって退く。やかて皆のいかさま出る。はっと云段になるともふ引こまれぬ。傷已に及ては去れぬ。人の知らぬ内てなけれは出処のたぎったではない。洪水の來るやふなもの。此水はどふもと思ふなら、膝きりのとき去れは去らるる。溢すは々々々と見ているて溺死もする。火事もそれて、風むきか悪ひと思はば、人か笑ふとも早く見きってにげるがよい。明夷の初九は其見きりはかりが大切なことなり。迂斎此二章、上の一条は去らぬ方を主に云、下の此条は去る方を主に云。ゆとりのあるて君のためになることあり、ここは幾を見て去ること。目がきかぬと去ることのならぬを云。今の学者は目がないて、兩方ともにならぬ。上の段は不手廻しのやふなが義に叶ひ、爰は手廻しの過たやうて理に叶ふ。どちとふしても太極の道理なりになる。大ふあつかいが大切なり。
【解説】
明夷は道理が暗くなった時節で、初九はその最初であり、未だ悪くなりきっていない状態である。その段階で見切ることが必要である。前条は見切って去らないことを言い、この条は見切って去ることを言う。前条は義に叶い、この条は理に叶ったことで、どちらも道理の通りである。
【通釈】
易の明夷の卦は明が夷[やぶ]れると言って、道理の暗くなったこと。明夷の時分と言えば奉公をしない時である。初九はそのずっと下のこと。「事未顕而処云々」。悪いこともない様だが、「処甚艱」でどうも居難いもの。破れ切るとまた片付いてやり易いが、未だそうでない内がし難いもの。医者でも疑似の症というのが死ぬとも生きるとも定められなくて難しい。必死と片付けばわけもない。ここが「見幾之明」でなければ察することはできない。迂斎が、雨が降って来れば傘合羽で済むが、降らない内に降る処を見て取るのはし難いと言った。「世俗孰云々」。世間では何故だ何故だと言い、あの人は何で先ず脈を取るのかなどと世人は怪しむ。君子はそこを人がかれこれ言っても見取って退く。やがて色々なことが大層出て、はっと言う段になればもう引っ込むことはできない。「傷已」に及んでは去ることはできない。人の知らない内でなければ出処は滾らない。それは洪水が来る様なもの。この水はどうもと思えば、膝まで上がった時に去れば逃げることができる。どんどん増すぞと見ているので溺死もする。火事もそれで、風向きが悪いと思えば、人が笑おうと早く見切って逃げるのがよい。明夷の初九はその見切りだけが大切である。迂斎がこの二章を、上の一条は去らない方を主に言い、下のこの条は去る方を主に言うと言った。ゆとりがあるので君のためになることがあるが、ここは幾を見て去ること。目が利かないと去ることができないことを言う。今の学者は目がないので、両方共にできない。上の段は不手廻しの様なことが義に叶い、ここは手廻しの過ぎた様で理に叶う。どちらにしても太極の道理の通りになる。大分ここの扱いが大切である。


第十一 晉之初六の条

晉之初六、在下而始進。豈遽能深見信於上。苟上未見信、則當安中自守、雍容寛裕、無急於求上之信也。苟欲信之心切、非汲汲以失其守、則悻悻以傷於義矣。故曰、晉如摧如、貞吉。罔孚、裕无咎。然聖人又恐後之人不達寛裕之義、居位者廢職失守以爲裕。故特云初六裕則无咎者、始進未受命當職任故也。若有官守、不信於上而失其職、一日不可居也。然事非一概、久速唯時。亦容有爲之兆者。
【読み】
晉の初六は、下に在りて始めて進む。豈遽に能く深く上に信ぜられんや。苟も上未だ信ぜられずんば、則ち當に中を安らかにして自ら守り、雍容寛裕にして、上の信ずるを求むるに急なること無かるべし。苟も信ぜられんことを欲する心切なるとき、汲汲として以て其の守を失うに非ざれば、則ち悻悻として以て義を傷らん。故に曰く、晉如たり摧如たり、貞しければ吉なり。孚とせらるること罔けれども、裕かなれば咎无し、と。然れども聖人は又後の人の寛裕の義に達せず、位に居る者の職を廢し守りを失いて以て裕かと爲すを恐る。故に特に初六裕かなれば則ち咎无しと云う者は、始めて進み、未だ命を受け職任に當たらざる故なり。若し官守有りて、上に信じられずして其の職を失わば、一日として居る可からざるなり。然れども事は一概に非ず、久速は唯時のままなり。亦之が兆を爲す者有る容[べ]し。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の晉卦初六の注にある。晉卦初六は、「初六。晉如摧如。貞吉。罔孚、裕无咎。象曰、晉如摧如、獨行正也。裕无咎、未受命也」である。

この章は大ふ奉公人の心得になること。晋はすすむて浪人が奉公に出たなり。初六は一ち下たて、初てそこへ出て、さてうい々々しい。在下而始進なれは、百姓が抱へられて出たのなり。見信於上。それ々々の普代の家来じゃの家抦じゃのと云も、あれは新参が中々上に信せられうよふはない。其筈なことなり。苟上未見信。苟と云か靣白ひ。信せられうはつはない。そふした道理なり。そこて、苟もそふせられぬ段になってはと云意なり。論語集註に誠とあるとはちかう。苟と云かとかく其ときになりてはもふと云意なり。當安中云々。中ちとよめ。心のことそ。小学にも不得君熱中す、と。淮南子にあり、心のむか々々することなり。又、曹操を麁中と云も麁心のことなり。安中は心をむか々々せぬことなり。奉公人が君に得られぬと云ふと胷はよふないはつなれとも、自守は、君か吾ことを信用せふかせまいか吾義を守て、首尾がよいのわるいのと云に搆はず道理次第にすることで、どふぢゃなと聞耳立ることてはなし。
【解説】
「晉之初六、在下而始進。豈遽能深見信於上。苟上未見信、則當安中自守」の説明。晋の初六は出仕する始めである。新参者だから上に信じられる筈はない。そこでは、自分の義を守って道理次第にするのである。
【通釈】
この章は大分奉公人の心得になること。晋は晋むことで浪人が奉公に出たのである。初六は一番下で、初めてそこへ出て、さて初々しい。「在下而始進」なので、百姓が抱えられて出たのである。「見信於上」。何処の譜代の家来だとか家柄だとかと言っても、新参であれば中々上に信じられる筈はない。その筈である。「苟上未見信」。苟と言うのが面白い。信じられる筈はない。そうした道理がある。そこで、苟はその様に信じられない段になってはという意である。論語集註に誠とあるのとは違う。苟は、とかくその時になってはもうという意である。「当安中云々」。中[うち]と読みなさい。心のこと。小学にも「不得於君則熱中」とある。淮南子にあり、心がむかむかすること。また、曹操を粗中と言うのも粗心のこと。「安中」は心をむかむかさせないこと。奉公人が君に得られないといえば胸中はよくない筈だが、「自守」は、君が自分のことを信用しようがしまいが自分の義を守って、首尾がよいとか悪いとかということには構わず道理次第にすることで、どうだろうと聞き耳を立ることではない。
【語釈】
・論語集註に誠…論語里仁4集註。「苟、誠也」。
・不得君熱中…小学外篇稽古。「有妻子則慕妻子、仕則慕君、不得於君則熱中」。
・淮南子にあり…
・曹操を麁中…

寛裕云々。ゆったりてなく、とかく心かいそひて、こふはない筈々々々々々々とあせる。そこを信を求るに急と云ふ。少のことても上に信仰の深ひやふにとするは汲々悻々の二色にをちる。汲々は誠の方から氣をもみ、上の信用なく御役にたたいて居てと心をあせること。悻々は孟子にも悻々然而怒と、公孫丑下篇出。をれを知らぬか、此のやふなくらい屋鋪にはもふと云て氣をもむ。それて上へには失其守とあり、下は傷於義とあり、これ程のことは渡り徒士や足輕にはないもの。あれは供を仕たり、火の用心々々々々と廻るですむ。禄士でも学問なとて出たものは君に得らるる得られぬにあつかるが、そこを平氣ていよと周公の晋の初六の辞て晋如たり。すすむこと。君に召れずか々々はかどりすすむかとすれば、摧如。をさへらるること。出ても用ひられす。上手な医者も抱へられて、今からはをれか藥を上るかと思ふに匕はとらせぬ。やはり前々の下手医者の藥を御用ひなり。
【解説】
「雍容寛裕、無急於求上之信也。苟欲信之心切、非汲汲以失其守、則悻悻以傷於義矣。故曰、晉如摧如」の説明。上に信じられる様にしようと焦れば「汲々悻々」に落ちる。晋んでも抑えられるが、そこを寛裕でいるのである。
【通釈】
「寛裕云々」。ゆったりではなく、とかく心が急いで、こうではない筈と焦る。そこを「急於求信」と言う。少しでも上に信仰の深い様にとするのは「汲々悻々」の二色に落ちる。「汲々」は誠の方から気を揉み、上の信用がないから御役に立てないでいると心を焦らせること。「悻々」は孟子にも「悻々然而怒」とある。公孫丑下篇にある。俺を知らないのか、この様な暗い屋敷にはもうと言って気を揉む。それで上には「失其守」とあって、下には「傷於義」とあるが、これほどのことは渡り徒士や足軽にはないもの。あれは供を仕えたり、火の用心と廻るだけでよい。禄士でも学問などて出た者は君に得られるか得られないかに与るが、そこを平気でいなさいと周公が晋の初六の辞で「晋如」と言ったのである。晋むこと。君に召されてずかずかと捗り進むかと思えば、「摧如」。抑えられること。出ても用いられない。上手な医者も抱えられて、今からは俺が薬を盛るのかと思えば匙は執らせてもらえない。やはり前々の下手な医者の薬を用いられるのである。
【語釈】
・悻々然而怒…孟子公孫丑章句下12。「予豈若是小丈夫然哉。諫於其君而不受、則怒、悻悻然見於其面、去則窮日之力而後宿哉」。

貞吉云々。君が脉を見せふと見せまいと、医をみかき身を守、向に搆はぬことなり。学者もそれて、講釈しても旦那も感心せす、家老も靣白から子とも、此方は四子六經を磨て道理なりに月並の講釈を讀めはよい。裕無咎て兎角向に搆はぬことぞ。谷底の鴬や梅なり。見る人も聞く人もないかそれを何とも思はぬ。よく匂はせ、よい音を出せばあちの分んはすむ。一向に氣はもまぬ。学者もそれ。上の方てはあれは新参と云ているに、こちから無理に匂はせ聞せたかる。垩人又恐云々。垩人の氣のつけられやふが面白ひ。寛裕々々と云か初六新参ものきりのこと。職分をなけやりにして、うちなくりて寛裕かよいと、役人が初六の眞似をして月番ばかりを勤め寛裕ごかしをしたかる。晋の趙孟がことを玩日濁月と云た。あれが晉の上卿。どふともなる身分でとかくぶら々々しているがわるい。家老用人普代のれき々々はそふはせぬ筈。玄関廣間番の新参とは違ふ。初六はかりか裕てよきなり。失其職。役人なとは職分をせずにぶらとかまへては一日もすまぬなり。そふしたことなれとも、又そふ云理はかりにもいかぬ。
【解説】
「貞吉。罔孚、裕无咎。然聖人又恐後之人不達寛裕之義、居位者廢職失守以爲裕。故特云初六裕則无咎者、始進未受命當職任故也。若有官守、不信於上而失其職、一日不可居也」の説明。上に信じられなくても向こうに構わない。しかし、「寛裕」は初六の新参者に対してだけのことであって、それ以外の者は寛裕であっては済まない。
【通釈】
「貞吉云々」。君が脈を見せようと見せなくても、医を磨き身を守って向こうに構わない。学者もそれで、講釈をしても旦那も感心せず、家老も面白がらなくても、自分は四子六経を磨いて道理の通りに月並の講釈を読めばよい。「裕無咎」で、とかく向こうに構わない。それは谷底の鴬や梅である。見る人も聞く人もいないが、それを何とも思わない。よく匂わせ、よい音を出せばあちらの事は済む。一向に気は揉まない。学者もそれ。上の方であれは新参だと言っているのに、こちらから無理に匂わせ聞かせたがる。「聖人又恐云々」。聖人の気の付けられ様が面白い。「寛裕」と言うのは初六の新参者に対してだけのこと。職分を投げ遣りにし、打ち殴って寛裕がよいと、役人が初六の真似をして月番ばかりを勤め寛裕ごかしをしたがる。晋の趙孟のことを「玩日濁月」と言った。彼は晋の上卿で、どうとでもなる身分なのにとかくぶらぶらしているのが悪い。家老や用人、譜代の歴々は、そうはしない筈。玄関広間番の新参とは違う。初六だけが裕でよいのである。「失其職」。役人などが職分をせずにぶらぶらとしていては一日も済まない。そうしたことだが、また、そうした理だけでもうまくは行かない。
【語釈】
・玩日濁月…

事非一概云々。然し、一概にも又ならぬとは道理の手に入たなり。道理も手に入ぬ内はつかはれぬ。道理がはたからぬ。孔子の魯を去るに冠をぬかすして去る。又、少と猶預するて向の大ふためになることあるは扣るなり。惟時のみて其もよふによることなり。早く去るとのろりとするとが時によると、上の遯と明夷の二章迠くるめた捌なり。亦容有爲之兆者。爰はもと孟子が孔子の御噂なり。孔子のああしたは、今ないことを先きを見とって去るもあり、又、今はわるいなれともやがてよふなると、そこを兆をしってしたこともあり、季桓子か女樂を受た。家老かあれてはと直に冠もぬかす去れた。久しけれは外から見ては埒もない長居のやうなれとも、ここは居こたへたらばと兆を見たなり。孔子はゆっくとした人なれとも冠を秡す去ることもあり、孟子はきり々々した人なれとも、濡滞とあるも兆を見て齊王の志のよい処のあるでもふ一療治もならふかと、あのするどな人が二三日國境に滞留せられた。皆兆を見てすることなり。垩賢の出處と云ふはたぎったことばかりではない。いろ々々そ。されとも皆道理次第そ。
【解説】
「然事非一概、久速唯時。亦容有爲之兆者」の説明。出処には時があり、その兆しを見なけなければならない。ゆっくりとする場合も急ぐ場合もあるが、それは皆道理次第にするのである。
【通釈】
「事非一概云々」。しかし、一概にもまたならないとは、道理を手に入れることだからである。道理も手に入らない内は使うことはできない。それでは道理が働かない。孔子が魯を去る時に冠を脱がずに去った。また、少し猶予して、大分向こうのためになることがある時は控えた。それは「唯時」で、その模様によることなのである。早く去るのとのろりとするのとが時に由ると、上の遯と明夷の二章までをくるめた捌きである。「亦容有為之兆者」。元々ここは孟子が孔子の御噂をしたこと。孔子があの様にしたのは、今ないことを先を見取って去ることもあり、また、今は悪いがやがてよくなると、そこを兆しを知ってしたこともある。季桓子が女樂を受けた。家老があれではと直ぐに冠も脱がずに去られた。久しければ外から見れば埒もない長居の様だが、ここは居堪えたらと兆しを見たのである。孔子はゆっくとした人だが冠を脱がずに去ることもあり、孟子はてきばきとした人だが「濡滞」とあるのも、兆しを見て斉王の志によい処があるのでもう一療治できようかと、あの鋭い人が二三日国境に滞留されたのである。皆兆しを見てしたこと。聖賢の出処は滾ったことばかりではない。色々である。しかしながら皆道理次第である。
【語釈】
・冠をぬかすして去る…論語微子4。「齊人歸女樂。季桓子受之、三日不朝。孔子行」。
・濡滞…孟子公孫丑章句下12。「三宿而後出晝、是何濡滯也」。
・久速…孟子公孫丑章句上2。「可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速、孔子也」。


第十二 不正而合之条

不正而合、未有久而不離者也。合以正道、自無終睽之理。故賢者順理而安行、智者知幾而固守。
【読み】
正しからずして合せば、未だ久しくして離れざる者有らざるなり。合するに正道を以てせば、自ら終わりまで睽[そむ]く理無し。故に賢者は理に順いて安らかに行い、智者は幾を知りて固く守る。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の睽卦六三象伝の注にある。睽卦六三は、「六三。見輿曳。其牛掣。其人天且劓。无初有終。象曰、見輿曳、位不當也。无初有終、遇剛也」である。

出處々々と云ふは外はない。道理次第にすること。根は正しいと云にきわまる。去によって董仲舒が正其義と云たを白鹿洞の五倫のあとへあの語を朱子の引れたも聞へたことなり。なんでも正道と云につまる。未有久而不離。必竟、本とか茶の湯て、心安さからの誹諧て念頃ゆへの碁を打で出たと云やふなが端になりて政をとる役人に成ては永く續く筈はない。普代のきっとした者の出るとは違て道理なりてないこと。町人ても好色に溺れて踊り子をつれて來ては長くつつかぬ。仲人のある女房は正いてあとかつづく。人之生也直て根がこれじゃゆへ、正直な筋合でなふてはゆかぬ。學者の吟味と云は、とかく合ふに正道を以てするでなふてはならぬことなり。
【解説】
「不正而合、未有久而不離者也。合以正道」の説明。出處は道理次第にすること。根本が正しくなくてはならない。
【通釈】
出処というのは外でもない。道理次第にすること。根は正しいということに極まる。そこで董仲舒が「正其義」と言ったのを白鹿洞の五倫の後へ朱子が引かれたのもよくわかる。何でも正道ということに詰まる。「未有久而不離」。畢竟、元が茶の湯で、心安さから俳諧をし、懇ろになって碁を打つ様になった様なことが端緒になり、それで政を執る役人になったのでは永く続く筈はない。譜代のきっとした者が出るのとは違い、それでは道理の通りではない。町人でも好色に溺れて踊り子を家に連れ来ては長く続かない。仲人のある女房は正しいので後が続く。「人之生也直」で根がこれだから、正直な筋合でなくてはうまく行かない。学者の吟味とは、とかく合うことに正道をもってするのでなくてはならないのである。
【語釈】
・正其義…「正其義不謀其利。明其道不計其功」。
・白鹿洞…白鹿洞書院学規。
・人之生也直…論語雍也17。「子曰、人之生也直。罔之生也、幸而免」。

無終睽之理云々。これが睽の卦の傳て、睽は後ろ向くやふな意そ。無理にをしつけたことは終に睽くもの。正道なことは終り迠つつく。人の家に居て五穀を食ていれば久く續くに、舟に住み果實を食はどふもつつかぬ。順理。德のある人は欲のないて理なりにする。知幾而固守と、知者はちらりとした道理のなりをよく見とってそこを守る。順はすら々々行くこと。知幾は、あぢじゃなと見るとはや引こむ。爰の幾を知るはちと文意がちごふ。明夷の章の幾を知るは時に望でちらりとした処を見てはやく引こと。爰のは知者のもちまへで云。道理の當然をこまかあたりの処から見てとること。賢者の安行も智者の固守も賢者知者と日頃へかけて云。つまり正いと云処へ帰着することなり。順理はすら々々なり。欲なさになり。知幾はちらりとなり。知のてりなり。
【解説】
「自無終睽之理。故賢者順理而安行、智者知幾而固守」の説明。無理なことは睽くが、正道は終りまで続く。「順理」は理の通りにすること。「知幾而固守」はちらりとした道理の当然をよく見取って守ること。
【通釈】
「無終睽之理云々」。これが睽の卦の伝で、睽は後ろに向く様な意である。無理に押し付けたことは終には睽[そむ]くもの。正道なことは終わりまで続く。人が家にいて五穀を食っていれば久しく続くのに、舟に住み果実を食うのではどうも続かない。「順理」。徳のある人は欲がないので理の通りにする。「知幾而固守」は、知者はちらりとした道理の姿をよく見取ってそこを守る。順はすらすらと行くこと。知幾は、変だなと見ると早くも引っ込む。ここの知幾は少々文意が違う。明夷の章の知幾は、時に臨んでちらりとした処を見て早く引くこと。ここのは知者の持ち前で言う。道理の当然を当たりの細かな処から見て取ること。賢者の安行も智者の固守も賢者知者の日頃に掛けて言ったこと。つまり正しいという処へ帰着するのである。順理はすらすら。欲がないからである。知幾はちらりとしたところ。それが知の照りである。
【語釈】
・明夷の章…出処10。

講後、恭節問、知幾のあたりちごふとは如何。曰、知幾にちがいはなけれとも、易にあたりちごふことあり。下繋辞に君子見幾而作不俟終日。易曰、介于石不終日とはその一端に云。文言傳に知至至之可與幾は知の全体へかけて云。順理は賢者の日比のかぶ。知幾は知者の日頃のかぶ。
【解説】
知幾に違いはないが、易に当たりの違うことがある。それは全体を指した場合と一端を指した場合である。順理は賢者、知幾は知者の日頃の株である。
【通釈】
講後、恭節が知幾の当たりが違うとはどの様なことかと問うた。知幾に違いはないが、易に当たりの違うことがあると答えた。下繋辞にある「君子見幾而作不俟終日。易曰、介于石不終日」は一端で言う。文言伝にある「知至至之可与幾」は知の全体へ掛けて言う。順理は賢者の日頃の株。知幾は知者の日頃の株である。
【語釈】
・恭節…鵜澤(鈴木)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・君子見幾而作不俟終日…易経繋辞伝下5。「君子見幾而作、不俟終日。易曰、介于石、不終日、貞吉」。
・知至至之可與幾…乾卦文言伝。「九三曰、…知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也」。


第十三 君子當困窮之時の条

君子當困窮之時、既盡其防慮之道、而不得免、則命也。當推致其命、以遂其志。知命之當然也、則窮塞禍患、不以動其心、行吾義而已。苟不知命、則恐懼於險難、隕穫於窮戹、所守亡矣。安能遂其爲善之志乎。
【読み】
君子困窮の時に當たり、既に其の防慮の道を盡くせども、免るるを得ざるは、則ち命なり。當に其の命を推致し、以て其の志を遂ぐべし。命の當に然るべきを知らば、則ち窮塞禍患、以て其の心を動かさず、吾が義を行うのみ。苟も命を知らずんば、則ち險難に恐懼し、窮戹[きゅうやく]に隕穫して、守る所亡われん。安んぞ能く其の善を爲す志を遂げんや。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の困卦象伝の注にある。困卦象伝は、「象曰、澤无水困。君子以致命遂志」である。

困究は甚難義なものて、あとへも先へも身のふられぬことともなり。人の心を動すは困究より外のことはない。今人のこまる々々々と云ても、ひだるい目や寒ひ目はせぬなれとも貧ほどつらきものはなしとくる。詩にもついに窶く且つ貧し、とふもたまらぬと云。あそこがぎり々々のせつない処。孔子も曲肱枕と云るるも貧を云。顔子を誉るも簟瓢陋巷でにこ々々なればなり。あの孔顔でさへここにたのしむが能事になる。しからばただの人は困究と云処で取り乱すにきはまりた。今の人が私共困究でと云が、未だ本の困究に近付にならぬなり。本んのは食衣ともにない程なことなり。そこで手を出してとふなりとして奉公かせきしたかるは、困究をまぬかれたがりてなり。又出て仕へた後は、これではもふ道にそむく、仕へられまいと思ふても、又浪人すれば困究するがこはいでをして居る。今鋪ふとんて居てさへ病身じゃに編笠になって冷てはと、兎角困究がふらさがるで、ああ是れはと思ても暇も願はぬ。しかればこまりものなり。
【解説】
「君子當困窮之時」の説明。「困窮」は困ったものだが、本当の困窮は衣食共にないことで、今の人が困ったと言うのはまだ困窮の至極ではない。人は困窮を免れたくて奉公稼ぎをしたがる。奉公した後は、道に背くことがあっても困窮するのが恐いので職を辞さない。
【通釈】
「困窮」は甚だ難儀なもので、後へも先へも身動きのできないこと。人の心を動かすのは困窮より外はない。今人が困る困ると言う時も、ひもじい目や寒い目には遭わないが、貧ほど辛いものはないと言う。詩にも「終窶且貧莫知我艱」と、どうも堪らないとある。あそこがぎりぎりの切ない処。孔子が「曲肱枕」と言われたのも貧を言ったこと。顔子を誉めるのも簞瓢陋巷でにこにこしているからである。あの孔顔でさえここに楽しむのが「能事」になる。それなら普通の人は困窮という処で取り乱すのは当然のこと。今の人が私共困窮でと言うが、未だ本当の困窮に近付きになってはいない。本当の困窮は食衣共にないほどのこと。そこで手を出してどうにかして奉公稼ぎをしたがるのは、困窮を免れたくてするのである。また出て仕えた後に、これではもう道に背く、仕えることはできないと思っても、また浪人をして困窮するのが恐いので黙っている。今敷布団でいてさえ病身なのに編笠になって冷えてはと、とかく困窮がぶら下がるので、ああこれは悪いと思っても暇を願うこともしない。そこで、困りものなのである。
【語釈】
・ついに窶く且つ貧し…詩経国風邶北門。「出自北門、憂心殷殷。終窶且貧、莫知我艱。已焉哉、天實爲之。謂之何哉」。
・曲肱枕…論語述而15。「子曰、飯疏食、飮水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲」。

盡防慮之道。成たけ困究を防き手當をする。餓死が手抦てもない。どふなりとして妻子をはこぐむ道を尽す。筆耕でもするか、肩がつよけれは荷物をかづくとも當然ぞ。三宅先生も塩煎餅でも賣ふと云はれた。こふしても免ず、いかぬ。どふも凌れぬは天命なり。偏屈なものはせまりていっそ死たいとも云ふが、死たいと云はりっはなやふで、非義をして生たがるも同ことそ。同格にをちることなり。然し、命なりとて只手をつか子じっとしていることではない。こふ手當をし、明日食ふ米もないと云ふなれは命なり。食ふ米がなふても理なりでにこ々々する。理なりを知ると、たとへ死ぬとてもにこ々々なり。學者が見臺に向ふと十方もないうそを云て、朝に聞道夕死可なりと、若ひ學者たち晩に死てもよいと云たかる。それではまつ死と云ことをしらぬのなり。中々すは今死ぬと云段になると、兼ての申したは皆うそじゃと云そ。
【解説】
「既盡其防慮之道、而不得免、則命也」の説明。困窮を防ぎ、手当をしてもその困窮を免れなければ、それは命である。命で困窮になった場合は、孔顔の様に命を知ってそこに安んじるのがよい。学者が死を軽く言うが、それは命を知らないからである。
【通釈】
「尽防慮之道」。できる限り困窮を防ぎ、手当をする。餓死が手柄でもない。どうにかして妻子を育む道を尽くす。筆耕をしたり、肩が強ければ荷物を担ぐのも当然のこと。三宅先生も塩煎餅でも売ろうと言われた。こうしても免れず、うまくいかない。どうも凌ぐことができないのは天命である。偏屈な者は差し迫っていっそのこと死にたいとも言うが、死にたいと言うのは立派な様で、非義をして生きたがるのと同じこと。それと同格に落ちることなのである。しかし、「命也」と言ってもただ手を組んでじっとしていることではない。この様に手当をしても明日食う米もないというのであれば命である。食う米がなくても理のままでにこにことする。理の通りであることを知ると、たとえ死ぬにしてもにこにこである。学者が見台に向かうと途方もない嘘を言って、「朝聞道夕死可矣」と、若い学者達に晩に死んでもよいと言いたがる。それは先ず死ということを知らないからである。直に今死ぬという段になると、かつて申したことは皆嘘だと言う。
【語釈】
・筆耕…①写字などによって報酬を得ること。また、その人。②文筆により生計をたてること。

推致其命云々。上て云とをり、色々と尽してゆかぬ。天命なりときわめる。さて々々こなたは不調法な人ぞ。あそこへ出入て少と頭を下けれは此暮せつなくはないと云。いや々々そふはすまいと、志を遂け防慮をとかくしても、ゆかぬは天命ときわめてそふはせぬ。不以動其心。躰のよいことなり。日和のよいとわるい。ああよいのわるいのと云までなり。心は動さぬ。昨日の雨てあの人は乱心したと云ものはなし。あのやふにざっと來るなり。行吾義而已。道理なりにすること。貧すれば鈍すると云ふが、学者は貧してもどんせぬなり。苟不知命は論語末篇にも不知命とつめてあり、とかくここを知ぬと云がこまったことなり。犬なとが濱から肴が來る、はや嗅てあるく。今来た肴、たれが犬にあてがをふぞ。それでも嗅くは犬なり。人もそれ。兎角よいことを嗅あてたがりかけまわる。命を知らぬなり。
【解説】
「當推致其命、以遂其志。知命之當然也、則窮塞禍患、不以動其心、行吾義而已。苟不知命」の説明。色々と尽くしてもうまくいかないのは天命だからだと知らなければならない。天命を知って心は動かさない。道理の通りにするのである。
【通釈】
「推致其命云々」。上で言った通り、色々と尽くしてもうまく行かない。そこで、天命だと極める。本当に貴方は不調法な人だ、あそこへ出入って少し頭を下げればこの暮は切なくはないのにと言う。いやいやその様なことはしないと、志を遂げ防慮を色々としても、それでもうまく行かなければ天命だと極め、その様なことはしない。「不以動其心」。体のよいこと。日和のよい時と悪い時がある。それはああよい、ああ悪いのと言うまでのことで心は動さない。昨日の雨であの人は乱心したということはない。その様に粗くすること。「行吾義而已」。道理の通りにすること。貧すれば鈍すと言うが、学者は貧しても鈍はしない。「苟不知命」は論語末篇にも「不知命」と詰めてあり、とかくここを知らないというのが困ったこと。犬などが濱から魚が来ると、早くも嗅いで歩く。誰が今来た魚を犬に宛うものか。それでも嗅ぐのは犬である。人も同じで、とかくよいことを嗅ぎ当てたがり駆け回る。命を知らないのである。
【語釈】
・不知命…論語堯曰3。「子曰、不知命、無以爲君子也」。

恐懼險難云々。險は谷底へ蹴をとされたやふなで險の字がつく。今迠五百石も取りたものが今日限に引拂へと云付らるる。大騒きて谷へけをとされたやふなことなり。東坡さへ捕手のきたで土氣色になったと云。つまり命を知ぬからなり。天地に寒暑と云がある。人の盛衰もそれと同ことて、皆天命なり。中風や疫病も天命なり。それゆへ中風したと云す、中風仰付られたと云ふかよい。君命て長﨑へ奉行衆のゆかるる。やりか降てもゆか子はならぬ。君命なり。天命をばそふはをもわれぬものなり。隕穫。礼記の文字なり。隕は、をちると云字。貧乏て渕へはまったやふに心か落込なり。穫は、鎌て艸をかり、木の根をかるやふに貧乏に心かしてやられたことを云ことなり。寒風暑湿に當っていたむてはないか、究厄に魂かかりきられてしまふたなり。そこて所守を亡し、善をする志も遂えぬ。今とき云、あいつにしてやられたと云ことあり。爰もつまり究厄にしてやらるるなり。
【解説】
「則恐懼於險難、隕穫於窮戹、所守亡矣。安能遂其爲善之志乎」の説明。人の盛衰には天命がある。天命に従わなければならない。人は窮戹によって魂が刈り取られ、守る所を亡し、善をする志も遂げることができなくなる。
【通釈】
「恐懼険難云々」。険は谷底へ蹴落された様なことなので、ここに険の字が付く。今まで五百石も取っていた者が今日限りに引き払えと言い付けられる。それは大騒ぎで谷へ蹴落された様なこと。蘇東坡でさえ捕手が来たので土気色になったと言う。つまり命を知らないからである。天地に寒暑ということがある。人の盛衰もそれと同じことで、皆天命である。中風や疫病も天命である。そこで、中風したと言わずに中風仰せ付けられたと言うのがよい。君命で長崎へ奉行衆が行かれる。鑓が降っても行かなければならない。君命だからである。しかし、天命はその様に思われないもの。「隕穫」。礼記の文字。隕は、落ちるという字。貧乏で渕へ嵌った様に心が落ち込むこと。穫は、鎌で草を刈り、木の根を刈る様に貧乏に心がしてやられたことを言う。寒風暑湿に当たって傷むわけではないが、窮戹に魂が刈り切られてしまったのである。そこで守る所を亡し、善をする志も遂げることができない。それは今時言う、あいつにしてやられたということ。ここもつまり窮戹にしてやられたのである。
【語釈】
・隕穫…禮記儒行。「儒有不隕穫於貧賤、不充詘於富貴」。
・窮戹…戹は厄と同じ。苦しみ。


第十四 寒士之妻の条

寒士之妻、弱國之臣、各安其正而已。苟擇勢而從、則惡之大者、不容於世矣。
【読み】
寒士の妻、弱國の臣は、各々其の正に安んずるのみ。苟も勢を擇びて從わば、則ち惡の大なる者にして、世に容れらじ。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の困卦九四爻辞の注にある。困卦九四爻辞は、「九四。來徐徐。困于金車。吝有終。象曰、來徐徐、志在下也。雖不當位、有與也」である。

小野﨑先生のとかく學者が門柱の大ひ処へ欠こみたかると云たは出處の吟味なり。籏本衆の家来か大名で抱ふと云ふと直に行たかり、倍臣か公儀へ召れると云ふと直に旦那のことも昔のことも忘れて出たかる。忠臣不仕二君と云はもと歒に降参せぬを云ことなれとも、太平の世てもどふぞ二君に事へまいと云心なれば、この王蠋が語も生きてくる。二君に仕へるも今迠の旦那が我勝手にわるいからのことそ。今迠の君がよけれは外へはゆかぬもの、と。利からなり。田舎でも冨豪な百姓は地頭から用人にと云ても出ぬのでしれたり。寒士妻とは困窮びんぼう士ひの女房や浪人のかか。漸々洗濯てつないてをる。弱國の臣。滕は小國なりぞ。隣國でさわぐとはやひや々々するを弱国と云。此家来あるかないかなり。そのやふな女房になると、えて見限て里からあれをばと云て取もどしたがるぞ。各安其正而已て、忠臣不仕二君列女不更二夫。わき目もふらぬこと。
【解説】
「寒士之妻、弱國之臣、各安其正而已」の説明。太平の世でも二君に事えないようにしようとする心でなければならない。君を替えるのは利からするのである。寒士の妻や弱国の臣はそれから逃げたがるものだが、それに脇目も振らないのがよい。
【通釈】
小野崎先生がとかく学者が門柱の大きい処へ駆け込みたがると言ったのは出処の吟味である。旗本衆の家来に大名が抱えようと言うと直ぐに行きたがり、陪臣が公儀へ召されると言えば直ぐに旦那のことも昔のことも忘れて出たがる。「忠臣不仕二君」は本来敵に降参をしないことを言うが、太平の世でもどうか二君に事えないようにしようとする心であれば、この王蠋の語も生きて来る。二君に仕えるのも今までの旦那が勝手放題で悪いからだ、今までの君がよければ外へは行かないものだと言うのは利からである。田舎でも裕福な百姓は地頭から用人にすると言われても出ないことでこれがわかる。「寒士妻」とは困窮貧乏侍の女房や浪人の嬶。洗濯で漸く生計を繋いでいる。「弱国之臣」。これは「滕小国也」である。隣国で騒ぐと直ぐにひやひやするのを弱国と言う。これは家来があるかないかの違いである。その様な者の女房になると、得てして見限って里からあれをと言って取り戻したがることになる。そこを「各安其正而已」で、「忠臣不仕二君列女不更二夫」と脇目も振らない。
【語釈】
・小野﨑先生…小野崎舎人。本姓大田原。出羽秋田の人。牛島随筆に「小野崎師由、雅量通長」とある。直方晩年の門人。直方の子就正が秋田の佐竹候に仕えたのは、師由の推挙によったとある。
・忠臣不仕二君…史記田単伝。「王蠋曰、忠臣不事二君、貞女不更二夫」。
・滕は小國なり…孟子梁恵王章句下13。「滕文公問曰、滕、小國也。閒於齊楚、事齊乎事楚乎」。

擇勢而從云々。爰が彼の門柱の大ひを見こむので俗人は余義もないとも云ふが、程子甚の御呵なり。小口塲を迯たでもなく、首尾能暇も取り、百石が五百石にもなるのぞ。女も仲人が味よく手を入て取戻しよい処へ親が片付る。ずいぶん合点つくと云ものなり。それを不容於世矣とは、さて々々するどい吟味、出處のたましいなり。直に主殺し、夫と殺しのやふにした云分なり。大なしかりやふなり。同座はさせられぬ。これ程廣ひ世界なれとも、此大罪人の容れ所はないと云ふこと。一つ火では食れぬと云御呵なり。
【解説】
「苟擇勢而從、則惡之大者、不容於世矣」の説明。勢いを択んで従うことを程子は「悪之大」と言い、世に容れられないものだと厳しく呵った。
【通釈】
「択勢而従云々」。ここがあの門柱の大きいのを見込むことで、俗人には余儀もないとも言うが、程子は甚だ呵られた。小口場を逃げたわけでもなく、首尾よく暇も取り、百石が五百石にもなる。女も仲人がうまく手を入れて取り戻しよい処へ親が片付ける。それは随分要領がよいというもの。それを「不容於世矣」とは実に鋭い吟味であり、これが出処の魂である。直に主殺し、夫殺しの様にした言い分であり、厳しい呵り様である。同座はさせられない。これほどに広い世界だが、この大罪人の容れ所はないということ。一緒に食うことはできないという御呵りである。
【語釈】
・小口塲…非常に危険な場。また、危険な戦。


第十五 井之九三の条

井之九三、渫治而不見食、乃人有才智而不見用、以不得行爲憂惻也。蓋剛而不中、故切於施爲。異乎用之則行、舍之則藏者矣。
【読み】
井の九三、渫治[せっち]すれども食らわれざるは、乃ち人才智有れども用いられず、行うを得ざるを以て憂惻と爲すなり。蓋し剛にして中ならず、故に施爲に切なり。之を用うれば則ち行い、之を舍つれば則ち藏する者に異なる。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の井卦九三の注にある。井卦九三は、「九三。井渫不食。爲我心惻。可用汲。王明竝受其福。象曰、井渫不食、行惻也。求王明、受福也」である。

易は面白ものて、井の卦の井戸のことて云。井を掘て清水が出るに、あれを出處の道にして云は渫治而云々。よい水は誰てもくみたがる。至極のよい水ても誰も用いぬ。貰ひてがない。人の上にあることて、才智がありても人に用ひられぬ。大名の家中抔にもあるもので、才力のあるものが廣間番計してをるもあるもの。田舎などても才のある者か下百姓ている。爲憂惻は、とかく用ひられぬでずんど心のいたむことあり。わるい酒がうれて能ひ酒屋の賣ぬもあるもの。盖剛而不中云々。だたい九三の爻が九も三も陽で剛し。不中とは、内卦の端にをるて不中なり。切於施爲云々。この切と云がこまったもので、今講釈するも兎角にと所望するでやふ々々講ずるなれば人へもひびくが、此方から讀ふ々々と云とうるさい。それが切なり。事がな笛吹ふなり。笛は上手ても、はて、をれがを聞ぬな々々々と云ひ、医者が上手てもあまりこちから療治したかるがあるが、何程の才智があっても人が用ぬとてこちは騒かぬと云が本んのことなり。兎角少と吾に才あると腕に力らは覺へたりと云たがる。覺があらは尚じっとしていよふことなり。覺へと云が切にするなり。角力とりも力ら出さぬで人も可愛がる。笛もきかせたがるには及ばぬ。よい水のあるに汲ぬは先きの不調法。水の方からせきはせぬ。
【解説】
「井之九三、渫治而不見食、乃人有才智而不見用、以不得行爲憂惻也。蓋剛而不中、故切於施爲」の説明。至極よい水でも誰も用いないことがあり、人も才智があっても用いられないことがある。人が用いないのは相手の問題であり、その時にこちらから用いられようとすべきではない。
【通釈】
易は面白いもので、井の卦は井戸のことで言う。井を掘って清水が出たことを出処の道として言えば「渫治而云々」。よい水は誰でも汲みたがるものだが、至極よい水でも誰も用いない。貰い手がいない。それが人の上にもあることで、才智があっても人に用いられない。大名の家中などにもこれがあるもので、才力のある者が広間番ばかりをしていることがあるもの。田舎などでも才のある者が下百姓でいる。「為憂惻」は、とかく用いられなくて酷く心が痛むことがあり、そのこと。悪い酒が売れてよい酒屋が売れないこともあるもの。「蓋剛而不中云々」。そもそも九三の爻は九も三も陽で剛い。「不中」とは、内卦の端にいるので不中なのである。「切於施為云々」。この切というのが困ったもので、今講釈する際にも是非にと所望するので漸く講じるのであれば人へも響くが、自分から読もう読もうと言うと煩がられる。それが切である。それは、事がな笛吹かんである。笛は上手でも、何で俺の笛を聞ないのかと言う者がいる。上手な医者でもあまりに自分から療治をしたがる者がいる。しかし、それほどの才智があっても人が用いないからといって自分からは騒がないのが本当のことである。とかく少し自分に才があると腕に自信があると言いたがる。覚えがあれば尚更じっとしているべきである。覚えがあるというのが切にすること。相撲取りも力を出さないから人が可愛がる。笛も聞かせたがるには及ばない。よい水があるのに汲まないのは先方の不調法。水の方から急き立てることはない。
【語釈】
・渫治…井戸がえをして、きれいな水がよく湧き出る様にすること。
・事がな笛吹ふ…事がな笛吹かん。何か事が起ればいい、笛を吹いて囃し立てよう。機に乗じようとする意。

用之則行舎之云々。是は孔顔の上で云たこと。孔顔の出處は自由なり。すら々々なり。笛吹ふともせす、吹まいとも云ぬ。この処へ余りけっこふなものを出したやふなれとも、ここが近思録の精微なり。惟吾与汝と云程なことなれは、身六藝に通ずると云七十二人の衆も此行藏周舎はならぬ。をぬしとをれ計りじゃとなり。それを程子が出して、あれとは大な相違と云はるる。孔顔と相違なれば、手本にならぬゆへなり。吾に才力がありて用ひられぬをいなことにをもふなれば、用ひられたときもあまりろくなことはなるまい。九三が余程の才なれとも、用ひられぬを胷をいたみ切に思ふでは頼母しくないそ。迂斎の本に定家の歌に、何国まて風をも世をも恨むまじ吉野の奥の花は散けり、これが行藏周舎のことを云た歌か、諸生なんと取らるる。栄治云、憂惻切於施爲の證歌なるべし。曰、然り。
【解説】
「異乎用之則行、舍之則藏者矣」の説明。孔顔は行蔵用舍ですらすらとしていた。井卦の九三は「憂惻切於施為」だから、孔顔とは違う。
【通釈】
「用之則行舍之云々」。これは孔顔の上で言ったこと。孔顔の出処は自由であってすらすらとしている。笛を吹こうともせず、吹かない様にしようとも言わない。この処へあまりに結構なものを出した様だが、これが近思録の精微なのである。「惟吾与汝」と言うほどのことであれば、「身通六芸」という七十二人の衆もこの行蔵用舍はできない。お前と俺だけだと言った。それを程子が出して、それとは大きな相違であると言われた。孔顔と違うとは、手本にならないから言ったこと。自分に才力があるのに用いられないのを妙なことと思うのであれば、用いられた時もあまり碌なことにはならないだろう。九三はよほどの才だが、用いられないことに胸を痛み、切に思うのでは頼もしくない。迂斎の本に定家の歌で、いずくまで風をも世をも恨むまじ吉野の奥の花は散りけりとあるが、これが行蔵用舍のことを言った歌なのか、諸生はどの様に思うかと聞いた。それに答えて、栄治が「憂惻切於施為」の証歌であると言った。そこで、その通りであると言った。
【語釈】
・惟吾与汝…論語述而10。「子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏。惟我與爾有是夫」。
・身六藝…論語序説。「弟子蓋三千焉。身通六藝者七十二人」。
・定家の歌…千載和歌集。いづくにて風をも世をもうらみまし吉野の奥も花は散りけり。
・栄治…幸田栄次郎?


第十六 革之六二中正の条

革之六二、中正則無偏蔽、文明則盡事理、應上則得權勢、體順則無違悖。時可矣、位得矣、才足矣。處革之至善者也。必待上下之信、故已日乃革之也。如二之才德、當進行其道。則吉而无咎也。不進則失可爲之時、爲有咎也。
【読み】
革の六二、中正なれば則ち偏蔽無く、文明なれば則ち事理を盡くし、上に應ずれば則ち權勢を得、體順なれば則ち違悖[いはい]無し。時は可なり、位は得たり、才は足れり。革に處する至善なる者なり。必ず上下の信を待つ、故に已む日乃ち之を革む。二の才德の如きは、當に進みて其の道を行うべし。則ち吉にして咎无し。進まざれば則ち爲す可き時を失い、咎有りと爲す。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の革卦六二の注にある。革卦六二は、「六二。已日乃革之。征吉无咎。象曰、已日革之、行有嘉也」である。

革は只今迠のことを改めてしかへることて、大ふ大切なことなり。垩人も重んするは此改革なり。年来しきたりことはどっとせぬことでも人心が安堵なもの。能いことても、當年よりはこふせいと云と改めにくく思ふもの。民可共守成不可與之謀始。商鞅かが云た。先賢も取らるるそ。なるほと百姓なとが、わいらかためと云てもきかせても、此までのことを改めるをいやがるものなり。これにて改革の仕にくいと云を知るべし。輕はづみ麁相にしては中々いかぬ。垩人のこれを重すると云は先つ人にあることなり。道理の當然も人の服せぬはとふも行はれず、改革は人を相手にしてするものなればなり。医者も医按が違ふたと云はば又論じわけをも云はふが、あの医者は年が若ひからとて病人の信仰せぬはしかたがない。腹も立れぬ。信ぜぬことはならぬもの。仕手によるもの。そこで今日も、それであまり知惠もないが老人が往て云ふと挌別ひびくなり。
【解説】
革は今までしていたことを改めることで、聖人も改革を重んじる。今までしてきたことに人は安んじているので、それを改めようとしても中々うまくは行かない。それは、若い医者が信じられ難いのと同じである。
【通釈】
革は今までのことを改めて仕替えることで、大いに大切なこと。聖人も重んずるのはこの改革である。年来の仕来たり事はぱっとしないことでも人心が安堵するもの。よいことでも、当年よりはこの様にしなさいと言うと改め難く思うもの。「民可共守成不可与之謀始」。商鞅か誰かがこう言った。先賢もこれを採られる。なるほど百姓などが、お前達のためだと言って聞かせても、これまでのことを改めるのを嫌がるもの。これで改革の仕難いことを知りなさい。軽はずみや粗相があっては中々うまく行かない。聖人がこれを重んずると言うのは、先ず人のことだからである。道理の当然も人が服さなければどうも行うことができないが、それは改革が人を相手にしてするものだからである。医者も医案が違っていると言われれば、またそのわけを論じ説明するが、あの医者は年が若いからと病人が信仰しないのは仕方がない。それに腹を立てても仕方がない。信じられないのは仕方のない。それはする人によるのであり、そこで今日もあまり知恵もないのに老人が往って言えば格別に響くものなのである。
【語釈】
・どっとせぬ…あまり感心できない。ぱっとしない。
・民可共守成不可與之謀始…
・商鞅…中国、戦国時代の政治家。衛の公族。公孫子。刑名の学を好み、秦の孝公に仕え、法令を変革、富国強兵を推進、商邑に封。恵文王が立つに及んで讒せられ、車裂きの刑に処された。公孫鞅。衛鞅。前33~8

六二は革の卦で、改め手なり。革るの一ちよいのなり。下から二番めで内卦の眞中なり。そこを中と云。六も二も隂なり。隂の塲に隂がいるで正と云なり。無偏蔽。中正ゆへ片すみ片よらぬ。文明と云ふは沢火革なれば、火はあかるい。其文明て古今のことに通して事物の理を合点してをる。改手にこの上なしなり。應上則得權勢云々。上に九五と云賢君がある。上てあれが云ことをきかいでは々々々々々と云て堯舜の禹や皐陶の用ひらるるやうなり。體順云々。六二の体が隂なれは和かなり。上の九五が陽で賢君なり。そふたい強ひものへつよいものは茶碗と々々と云やふにあたること、さはることあるか、爰は茶わんへ綿なり。そこを無違悖と云。
【解説】
「革之六二、中正則無偏蔽、文明則盡事理、應上則得權勢、體順則無違悖」の説明。革卦六二は中であり、正であって片寄らない。また、革は沢火革だから明るい。九五は陽で賢君、六二は陰で和である。そこで「無違悖」となる。
【通釈】
革の卦の六二は改める者のことで、革めるのに一番よい爻である。下から二番目で内卦の真ん中、そこを中と言う。六も二も陰で、陰の場に陰がいるので正と言う。「無偏蔽」。中正なので片隅に片寄らない。「文明」とは、革は沢火革であって、火が明るいから言う。その文明で古今のことに通じて事物の理を合点している。改め手としてこの上はない。「応上則得権勢云々」。上に九五という賢君がある。上ではあれの言うことを聞かなければと、堯舜が禹や皋陶を用いられる様にする。「体順云々」。六二の体が陰なので和やかである。上の九五が陽で賢君である。総体、強い者に強い者が対するのは茶碗と茶碗という様にぶつかったり、疵付いたりすることもあるが、ここは茶碗へ綿である。そこを「無違悖」と言う。

時可矣位得矣才足矣と三つ矣の字のあるは、云をふやふもないて矣々と書た。上に賢君あり、下にかふした六二の家来ありて互に照應してありて、外から水をさすことはならぬ。革むべきときなり。中正なれは偏蔽なく体順て違悖なし。どふも云へぬ揃たことなり。揃と云がないもの。堯舜三代は別のこと。漢唐以来よい家来があると君が弱いの、君が賢なれば臣に才德なしだに、ここはよいことの三拍子揃たのなり。狂歌に、梅か香を桜の花に匂わせて柳の枝に咲せほしさよ。あれはならぬことを揃はせる。爰は其やふによいこと揃じゃ。改革至極揃ひ、然ればずっと革めそうなものに、兎角必待上下之信云々。先つちと待れよなり。
【解説】
「時可矣、位得矣、才足矣。處革之至善者也。必待上下之信」の説明。改革には時と位と才が必要である。革卦の六二はその三つが揃った者である。
【通釈】
「時可矣位得矣才足矣」と三つ「矣」の字があるが、言い様もないので矣々と書いたもの。上に賢君がいて下にこうした六二の家来があって互いに照応しているので、外から水を差すことができない。革めるべき時である。中正だから偏蔽がなく体順で違悖がない。どうも言い得ないほどに揃っている。この揃うということがないもの。堯舜三代は別のこと。漢唐以来よい家来があると君が弱かったり、君が賢であれば臣に才徳がなかったりするが、ここはよいことが三拍子揃ったのである。狂歌に、梅が香を桜の花に匂わせて柳の枝に咲かせ欲しさよとある。あれはできないことを揃わせる。ここはその様によいこと揃いである。改革が至極に揃ったので、それならかなり革められそうなものなのに、とかく「必待上下之信云々」。先ずは少々待ちなさいと言った。

已ぬる日乃革之也と云ふは周公の六二の爻にかけた辞。さて々々大切なことなり。これ程に揃たことても已んぬる日のこれてよいと云ときに革る。已ぬると云は何処もかしこも一統得心して、さあ々々と催促する程の日へもって來て、そこて改る。今若ひ学者が氏族弁證なとを見て、それ復姓と云たかる。その志はするどくよいが、そふは出來ぬもの。南軒の淫祠をこわしたをも、朱子かあれはあまり仕すぎたと云はれた。淫祠をこわすはもと支配所のものを目をあけてやろふとてするなれとも、上下の信がなんとして服せぬ。日蓮の難義にあへは合ふ程信仰するやふになる。向のためにとて淫祠をこわしても、向てそふは受取ぬなれは改革が十分にないのぞ。人々がいかにもとする所で改るを已日乃ちと云。疱瘡棚をつるなとと云ふは俗なことなれとも、それを学者が往てふみやぶっては、親類なれとも得心せぬ。すれば家内のことても得心するときでなふてはならぬ。今一と吟味した医者か妊娠に腹帯は入ぬこと、本とせぬものじゃと云ても、天下中上下するになって百年そこらのことではないなれば、急に云ても人がふくせぬぞ。それををしてすると難産のありたとき、それ、あの医者か腹帯せぬから大切の娘を殺したと云ぞ。しかれば人の服せぬにするは革の下手なり。
【解説】
「故已日乃革之也」の説明。上にある三つの条件の他、改革には「已日」が必要である。上下の信を得てからでなければ改革はできない。
【通釈】
「已日乃革之也」は、周公が六二の爻に繋けた辞であって、実に大切なこと。これほどに揃ったことでも已日のこれでよいという時に革める。已は、何処もかしこも全て得心し、さあさあと催促をするほどになることで、その日が来て革まるのである。今若い学者が氏族弁証などを見て、それ、復姓をしようと言いたがる。その志は鋭くてよいが、そうはできないもの。南軒が淫祠を壊したことも、朱子があれはあまりにし過ぎたことだと言われた。淫祠を壊したのは、本来は支配所の者の目を開けてやろうとしてしたことだが、「上下之信」がどうしても服さない。日蓮が難儀に遭えば遭うほど信仰する様になる。向こうのためにと言って淫祠を壊しても、向こうでその様に受け取らないのであれば、改革には十分でない。人々がいかにもとする所で改めることを「已日乃」と言う。疱瘡棚を吊るなどということは俗なことだが、それを学者が行って踏み破っては、それが親類であったとしても得心はしない。そこで、家内のことでも得心する時でなくてはならない。今一吟味した医者が妊娠に腹帯は要らず、本来はしないものだと言っても、天下中が上下の信となる様になって百年そこらのことではないから、急に言っても人は服さない。それを敢えてすると、難産があった時、それ、あの医者が腹帯をさせないから大切な娘を殺したと言うぞ。それで、人が服さないのにするのは革の下手な者なのである。
【語釈】
・疱瘡棚…疱瘡の神を祀った棚。これに祈れば、疱瘡を免れ、または軽くすむとした。

王荊公が新法を人はめったにそしるが、朱子はあれにもよいこともあると云れたなり。其筈ぞ、あれも大儒と云ほどな人なれは、そふめったもない筈なれとも、もと革るは血氣ではならぬことなり。荊公にかぎらす、出し時が不調法なれは改革やくにたたぬ。大く云へは湯武の放伐か改革なり。順天應人て、あれを革の時大なる哉と云そ。已ぬる日にしたことは天下中が偖も々々と有難がるなり。小いことても已ぬる日でなふてはならぬこと。如二之才德云々。人に進んて道を行ふへきときなり。三拍子揃たなり。それにことをせぬと時を失ふて咎と云もの。これを出処にのするは、革は大切なことなれとも、するときになってもせぬは咎ありじゃなり。役にたたずの学者は一生ならぬ々々々と云てをるものなり。
【解説】
「如二之才德、當進行其道。則吉而无咎也。不進則失可爲之時、爲有咎也」の説明。血気だけで改革は成らない。湯武の放伐も「順天応人」で行うことができた。しかしながら、この条は時を失うと咎があることを言ったものなのである。
【通釈】
王荊公の新法を人は滅多矢鱈に謗るが、朱子はあれにもよいこともあると言われた。その筈で、あれも大儒と言われるほどの人であれば、それほど酷いこともない筈だが、本来、革めるのは血気ではできないことなのである。荊公に限らず、出し時が不調法であれば改革も役に立たない。大きく言えば湯武の放伐が改革である。「順天応人」で、あれを「革之時大矣哉」と言う。已日にしたことは天下中がさてもさてもと有難がる。小さいことでも已日でなくては成らない。「如二之才徳云々」。これは、人が進んで道を行うべき時であって、三拍子揃ったのである。それなのに事をしないのであれば、時を失って咎があるというもの。これを出処に載せたのは、革は大切なことだが、すべき時になってもしないのは咎があるからである。役立たずの学者は一生できないできないと言っているもの。
【語釈】
・王荊公…王安石。
・順天應人…革卦彖伝。「天地革而四時成、湯武革命、順乎天而應乎人。革之時、大矣哉」。


第十七 鼎之有實の条

鼎之有實、乃人之有才業也。當愼所趨向。不愼所往、則亦陷於非義。故曰、鼎有實、愼所之也。
【読み】
鼎の實有るは、乃ち人の才業有るなり。當に趨向する所を愼むべし。往く所を愼まずんば、則ち亦非義に陷らん。故に曰く、鼎に實有るときは、之く所を愼む、と。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の鼎卦九二の注にある。鼎卦九二は、「九二。鼎有實。我仇有疾。不我能即。吉。象曰、鼎有實、愼所之也。我仇有疾、終无尤也」である。

易にもるることなし。隂陽寒暑から打立て天下の人事に至るまて、もれたことはなし。鼎の卦に實のあるはとかけたを人の才業あると才德にたとへたはさて々々靣白い。目や鼻は堯舜にも違はぬなれとも、才業のないはからだたをしなり。鼎も実のないを幷べては役にも立ぬ。直方の、父子親あり君臣義ありは樽と酒のやふなものて、今父子君臣はありても親と義が明にない。明き樽なり。鼎も実かなふてはせきふさぎなり。當愼所云々。才力あるものは出し所が大事なりと、そこの吟味にかかりた。人の才智はきれる庖丁のやふなもの。肴をきるはよいが、指をきるはわるい。才力も出し処によってわるい。そふたいかしこけれはどふらくになると云もわるい方へきれるのなり。そこで、愼所往と云文字のあるも垩賢の書へ出せはよし。雜博な書を見てわるくなるがある。文字の力らもわるい方へ出たのなり。徂徠もそれなり。迂斎の云、冉求か季氏冨於周公に、それへ御ためつくをして非義に陥る。才かあるからなり。焚遲にあぶなげはない。すれば才あるものは愼所之か大切なことなり。直方先生云、尊氏の方へ順へは不忠、楠か方へ從へは忠。三國ても劉備に從ふは忠、曹操に從ふは不忠なり。これも人足同前のものには搆はぬ。鼎に実のあるは人の才力あるのなり。才があるで此吟味あるなり。實のないものは詮方なし。
【解説】
鼎に実のあるのは、人に才力があるのと同じであって、その才力の出し所を間違えると悪いこととなる。出し所で慎むことが大事である。
【通釈】
易に漏れることはない。陰陽寒暑から打ち立てて天下の人事に至るまで、漏れることはない。鼎の卦で「有実」と繋けたのを、程子が「人之有才業」と才徳にたとえたのは実に面白い。目や鼻は堯舜にも違わないが、才業のないのは見かけ倒しである。鼎も実のないものを並べては役に立たない。直方が、父子親あり君臣義ありは樽と酒の様なもので、今父子君臣はあっても親と義が明でない。それでは空き樽だと言った。鼎も実がなくては邪魔なだけである。「当慎所云々」。才力ある者は出し所が大事だと、そこの吟味に掛かった。人の才智は切れる庖丁の様なもので、肴を切るのにはよいが、指を切るのでは悪い。才力も出し処によって悪くなる。総体、賢ければ道楽者になると言うのも悪い方へ切れるからである。そこで、「慎所往」という文字があるのも、聖賢の書へ出せばよい。雑駁な書を見て悪くなることがある。それは、文字の力が悪い方へ出たのである。徂徠もそれ。迂斎が、冉求が「季氏富於周公」なのに、季氏へ御為尽をして非義に陥ったが、それは才があるからであって、樊遅に危な気はないと言った。そこで、才のある者には「慎所之」が大切なこととなる。直方先生が、尊氏の方へ従えば不忠、楠の方へ従えば忠。三国でも劉備に従うのは忠、曹操に従うのは不忠だと言った。これも人足同前の者であれば構うことではない。鼎に実があるのは人に才力があること。才があるのでこの吟味となる。実のない者は仕方がない。
【語釈】
・からだたをし…体倒し。体だけ大きくていくじがない者。見かけ倒し。
・季氏冨於周公…論語先進16。「季氏富於周公。而求也爲之聚斂而附益之」。
・御ためつく…御為尽。御為ごかし。表面は相手のためになるように見せかけて、実は自分の利益をはかること。


第十八 士之處高位の条

士之處高位、則有拯而無隨、在下位、則有當拯、有當隨。有拯之不得而後隨。
【読み】
士の高位に處るときは、則ち拯[すく]うこと有りて隨うこと無く、下位に在るときは、則ち當に拯うべき有り、當に隨うべき有り。之を拯い得ざること有りて而る後に隨う。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の艮卦六二の注にある。艮卦六二は、「六二。艮其腓。不拯其隨。其心不快。象曰、不拯其隨、未退聽也」である。

士と云は奉公するものの惣名と見るがよし。士農工商で上にたち、大身小身にかきらす士と云。高位とは一國ては家老用人のこと。有拯而無隨は高位のものは拯ふか役て、今までのわるいに隨ふことはなし。身分ん々々々でそれなりにしてはをかれぬことなり。偖、此の下句をみせずに此の下の句はどふ付けよふと云たら、上をひっかへし逆にして、有隨而無拯とも云そふなもの。然るにそふは云ず、有當拯有當隨と云。六字出処の道になる。下位であらふと拯ふべきことはすくふ。又、隨まじきことても下位じゃから隨ふ。この二筋へ目をつける。ここを當の字てきめたが靣白ひことなり。それが下位にある者の當然なり。
【解説】
高位の者は君を拯うのが役目であって、悪いことに随ってはならない。しかし、下位の者は拯う場合と随う場合とがある。
【通釈】
「士」は、奉公する者の総名として見なさい。士農工商で上に立つ者は、大身小身に限らず士と言う。高位は、一国では家老や用人のこと。「有拯而無随」は、高位の者は拯うのが役であって、今までの悪いことに随うことはない。身分次第でそのままにしては置けないことがある。さて、この下句を見せず、ここの下の句はどの様なものにしようかと言えば、上の句を引っ繰り返し逆にして、「有随而無拯」とも言いそうなもの。しかしそうは言わず、「有当拯有当随」と言った。この六字が出処の道になる。下位であろうと拯うべきことは拯う。また、随うべきことではなくても下位だから随う。この二筋へ目を付け、ここを「当」の字で決めたのが面白い。それが下位にある者の当然なのである。
【語釈】
・拯ふ…救うこと。君子の過ちを救う意。

一命之士も心を愛物存せばと云はるるもそこなり。をらが身分てなるものかと投け出すと拯るることもすくわぬ。その心がわるい。たとへば我家事でも、とても此身代はいかぬとすてると尚わるくなる。中間頭ほど軽いものはないが、あれでも心掛次第で拯ふことがなる。大部屋の物相扶持を渡すでも、病人のときの手あてや少処にも拯ふことかある。増て士以上のものには尚あるはづなり。然に又仲間頭が目付へ、私か了簡通りに成らずは御役御免を云ほどのことはないはつ。そこを有拯之不得而後隨と云ふなり。旁に情を尽した程傳なり。さふならぬなれば隨ふ。只をれらがいらざることすべきことてはないとすてぬことなり。田舎で名主が地頭の云付次第なはづじゃが、一つ組下のためあるになることをせぬはわるい。我呑込てすれば下百姓が拯はるることもあり、ならずは地頭次第がよし。ここが出處の魂で、魂がはづまぬから吾拯るることも拯はぬ。学者の魂の庇をさして見せたものなり。
【解説】
できないものとして投げ出すのは悪い。先ずは拯って、それが成らなければ随うのである。
【通釈】
「一命之士苟存心於愛物」と言われたのもそこのこと。俺の身分でできるものかと投げ出せば、拯えることも拯えない。その心が悪い。たとえば自分の家の事でも、とてもこの身代はうまく行かないと言って捨てると尚更悪くなる。中間頭ほど軽い者はないが、あれでも心掛け次第で拯うことができる。大部屋の物相扶持を渡すにしても、病人が出た時の手当てなど、小さな処にも拯うことがある。ましてや士以上の者には尚更それがある筈である。そしてまた、中間頭が目付に対し、私の了簡通りにならなければ御役御免を言うというほどのことはない筈。そこを「有拯之不得而後随」と言うのである。色々と情を尽くした程伝である。そうならなければ随う。ただ、俺等が要らざることすべきではないと捨ててはならない。田舎では、名主は地頭の言い付け次第な筈だが、一つ組下のためになることがあれば、それをしないのは悪い。自分が呑み込んですれば下百姓が拯われることもあり、それがならなければ地頭次第にするのがよい。ここが出処の魂で、魂が弾まないから自分が拯えることも拯わない。ここは学者の魂の疵を指して見せたもの。
【語釈】
・一命之士も心を愛物存せば…小学嘉言。「明道先生曰、一命之士苟存心於愛物於人必有所濟」。

下の句の拯之不得云々は、をれは輕ひものしゃか爰を一つ拯ふて見よふとかかってもすくはれぬことあるは、萑の千声、鸖の一声ゆへ、軽ひもののはとふもしかたかないによって、そふならぬときは隨へ。このやふな委曲なことを出処に出したも三宅先生の出処を四つに見よと云とをり、已てに仕て下位と云もある、高位と云もある。仕てをる内に吾位て如此の心得あるか出処の出中の処置なり。高位にあるては人のわるいに少も隨ふことなく拯ふが任じゃ。伊尹の任じたやふに一夫も所を得すんは市中で打るる程の耻と思ふて拯ふなり。下位のものもどふもならぬと片付ることでなし。先して見て、それにならぬときは下位のものは人に隨へ、と。つまり、人に搆はすとつをいつ道理なりをして行くが出処の道なり。
【解説】
軽い身分の者が軽く見られるのは仕方のないこと。高位にあっては人の悪いところに少しも随うことなく拯うのが任であり、下位にあっては先ず拯って、それが駄目なら随うのである。人に構わず、道理の通りをして行くのが出処の道なのである。
【通釈】
下の句の「拯之不得云々」は、俺は軽い者だがここを一つ拯ってみようと掛かっても拯えないことがあるが、それは雀の千声、鶴の一声であって、軽い者ではどうも仕方がないから、その様にならない時は随えということ。この様な委曲なことを出処に出したのも、三宅先生が出処を四つに見ないさいと言う通り、既に仕えて下位ということもあり、高位ということもある。仕えている中で、自分の位によってこの様な心得のあるのが出処で出る時の処置である。高位にあっては人の悪いところに少しも随うことなく拯うのが任である。伊尹の任じた様に、一夫も所を得なければ市中で打たれるほどの恥だと思って拯う。下位の者もどうもできないと片付けてはならない。先ずしてみて、その様にできない時は下位の者は人に随えと言ったのである。つまりは人に構わず、あれこれと道理の通りをして行くのが出処の道なのである。
【語釈】
・一夫も所を得すんは市中で打るる程の耻…為学1。「一夫不得其所、若撻于市」。
・とつをいつ…あれこれと。特に、あれやこれやと思い迷うこと。


第十九 君子思不出其位の条

君子思不出其位。位者、所處之分也。萬事各有其所、得其所、則止而安。若當行而止、當速而久、或過或不及、皆出其位也。況踰分非據乎。
【読み】
君子は思い其の位を出でず。位とは、處る所の分なり。萬事各々其の所有りて、其の所を得ば、則ち止まりて安らかなり。當に行くべくして止まり、當に速やかにすべくして久しくし、或は過ぎ或は及ばざるが若き、皆其の位を出ずるなり。況や分を踰え據るに非ざるものをや。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の艮卦象伝の注にある。艮卦象伝は、「象曰、兼山艮。君子以思不出其位」である。

兎角當然か靣白くないものゆへ、當然てないことをしてうれしかる。常人の情なり。百姓が田から上ることを嬉しかり、飯炊が外へ使に出るをうれしがる。よしや遠くへ行こともいとわぬ。これが孔子の言なれとも、小人は思不出其位が面白くない。それゆへ出處の道に役人は却て隠居したがり、浪人は出たがる。思へば可笑きことなり。兎角位の持前をうれしからす、百姓が帯刀するをよろこひ、役人はごそと刺て後に脇指一本になりたいと云。思不出其位は外へ出さぬを云。大抵位を出るをうれしかるに、君子はそこを愼む。位者所處之分也。位の字、三公九卿の位のことてなし。凡そ人の居る処を云。束帯も赤合羽も同しことなり。萬事各有其所云々。士農工商各々それ々々定たこと。得其所則止而安は當然ゆへ、理なりて安し。家内に病人あれは外へ出ぬ。今日の太極圖説を聞ぬも残念てなし。さて、理なりをするは咽か渇くゆへ湯をのむ。渇せ子はのまず。それにはうろたへぬ。人か飲ゆへをれも飲でなし。そこらは明なれども、万事がそふはゆかぬ。我やかいでもよい世話をもするゆへ、又、我やか子ばならぬ世話をばすててをく。
【解説】
「君子思不出其位。位者、所處之分也。萬事各有其所、得其所、則止而安」の説明。「思不出其位」は外へ出ないことを言う。大抵の者は位を出ることを嬉しがるが、君子はそこを慎む。位とは、人のいるべき所であり、そこは当然の所なので安んじることができる。
【通釈】
とかく当然なことは面白くないものなので、当然でないことをして嬉しがる。それが常人の情である。百姓が田から上がることを嬉しがり、飯炊きが外へ使いに出るのを嬉しがって、たとえ遠くへ行くことでも厭わない。これは孔子の言だが、小人は「思不出其位」が面白くない。それで出処の道では、役人は却って隠居したがり、浪人は出たがる。思えばそれは可笑しいこと。とかく本来の位を嬉しがらず、百姓が帯刀をするのを喜び、役人は大層刺した後で脇差一本になりたいと言う。思不出其位は外へ出さないことを言う。大抵の者は位を出ることを嬉しがるが、君子はそこを慎む。「位者所処之分也」。位の字は三公や九卿の位のことではない。凡そ人のいる処を言う。束帯も赤合羽も同じこと。「万事各有其所云々」。士農工商は各々それぞれに定まったこと。「得其所則止而安」は、当然の所なので、理の通りで安んじる。家内に病人があれば外へは出ない。それで、今日の太極図説を聞かなくても残念なことではない。さて、理の通りをするのは咽が渇くから湯を飲むのと同じ。渇かなければ飲まない。それで狼狽えることはない。人が飲むから俺も飲むわけではない。その所は明だが、万事がその様には行かない。自分が焼かなくてもよい世話をするから、それで自分の焼かなければならない世話を放って置くことになる。
【語釈】
・思不出其位…論語憲問28。「曾子曰、君子思不出其位」。

若當行而止當速久云々。皆止りを得ぬなり。それは孔子の流義にはつるる。當行をじっとして出す、當速ことを久く埒かあかぬ。そこて道理を失ふ。とふに退役を願ふへきに願はぬ。朱子は御役願ひ、いつも速なり。難進而易退と云。そこて南軒や東莱か、それでは賢者は出ぬものと人か思はん。やっと進められて出るほとのことなり。然とも淅東の餓のときは単車なり。さし駕篭で出られた。何処のか旅人と思へば御奉行なり。常は出か子る人がああ早ひ。これか皆理なりなり。或過或不及云々。過不及は癖や氣質なり。それゆへ位を出て粗ひ心得で居る。大目付が留主居のことするは位を出たと云ことは誰も知るが、ここは丁どの塲所を云。あちらこちらに出入あれは皆位を出るなり。位は將棊の駒幷べたやふなもの。王のわきに金、それから銀と圖星へあたるを云。行へきを止り速を久きは並べの違た將棊なり。出る計でない。引込過たも出位なり。これが何なれば、艮の傳なり。艮はをり塲に止ることを云。
【解説】
「若當行而止、當速而久、或過或不及、皆出其位也」の説明。当行に止まり、当速に久しいと道理を失う。出過ぎも引っ込み過ぎも出其位である。朱子は出たがらなかったが、出る時は素早かった。
【通釈】
「若当行而止当速久云々」。皆止まりを得ていない。それは孔子の流儀に外れたこと。「当行」をじっとして出ず、「当速」のことを久しくしないので埒が明かない。そこで道理を失う。とっくに退役を願うべきなのに願わない。朱子は御役願いをする時はいつも速だった。「難進而易退」と言った。そこで南軒や東莱が、それでは賢者は出ないものだと人が思うだろうと言い、そこで、やっと薦められて出るほどだった。しかしながら、淅東の餓の時は単車だった。さし駕篭で出られた。何処かの旅人かと思えば御奉行だった。常は出たがらない人がすごく早く出る。これが皆理からのこと。「或過或不及云々」。過不及は癖や気質である。それで、位を出て粗い心得でいる。大目付が留守居のことをするのは位を出たことだと誰もが知っているが、ここは丁度の場所を言う。あちらこちらに出入があれば、それは皆位を出るのである。位は将棋の駒を並べた様なもの。王の脇に金、それから銀と図星へ当たることを言う。行うべきを止まり、速を久しくするのは並べ方を間違えた将棋である。出るだけではない。引っ込み過ぎるのも出位である。これが何のことかと言うと、艮の伝である。艮は居り場に止まることを言う。
【語釈】
・難進而易退…孟子万章章句上8集註。「徐氏曰、禮主於辭遜、故進以禮。義主於制斷、故退以義。難進而易退者也。在我者有禮義而已。得之不得則有命存焉」。
・淅東の餓…
・さし駕篭…

況踰分非拠乎。上に出べきに出ぬも引込へきに引こまぬも皆過不及て、それが思出其位ちゃと云て跡は御定りを云。これは云に及はぬと云が況やなり。浪人がいらざる口を出すもの。さん々々なことなり。殊更学者は歴々の前て講釈もするゆへ常に口を出しつけて、遂政事にも口を出したかる。分を踰ていらさることなり。非拠は、上の分んをこゆることを最ふ一つ云。今俗でもあぢな方から出たのと云ことあり。非拠かそれなり。田舎ても村役人のあるに手習師匠や寺が世話をすれば、あぢな処から出たなり。得てあること。非拠なり。さて又、非拠は公儀にはないこと。小身の衆には侭あることあり。必竟、小い方からて、家老用人をは打すてて外の者が出てすることあり。医者が療治塲の身上の世話するがあり、身上迠は医のかかりてない。あちな処から出たのなり。
【解説】
「況踰分非據乎」の説明。浪人が分を踰えて余計な口を出すもので、儒者もつい政治に口を出したがるが、それは悪い。
【通釈】
「況踰分非拠乎」。上に出るべきなのに出ないのも、引っ込むべき時に引っ込まないのも皆過不及で、それが思出其位だと言い、その後には御定りを言った。これは言うに及ばないというのが「況」である。浪人が余計な口を出すもの。それは散々なことである。殊更学者は歴々の前で講釈もするから常に口を出し馴れて、つい政事にも口を出したがる。それは分を踰えたことで不要なこと。「非拠」は、上の分を踰えることをもう一つ言ったこと。今俗でも悪い方から出たと言うことがあるが、非拠がそれである。田舎でも村役人がいるのに手習師匠や寺が世話をすれば、悪い処から出たのである。それはよくあることで、非拠である。さてまた、非拠は公儀にはないことで、小身の衆にはよくあること。畢竟、小さい方にあることで、家老や用人を打ち捨てて外の者が出てすることがある。医者が療治場の身上の世話をすることがあるが、身上までは医の問題ではない。それは、悪い処から出たのである。


第二十 人之止難於久終の条

人之止、難於久終。故節或移於晩、守或失於終、事或廢於久。人之所同患也。艮之上九、敦厚於終、止道之至善也。故曰、敦艮吉。
【読み】
人の止まるや、久終するに難し。故に節或は晩に移り、守或は終わりに失われ、事或は久しきに廢せらる。人の同じく患うる所なり。艮の上九は、終わるに敦厚にして、道の至善に止まる。故に曰く、艮まるに敦くして吉なり、と。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の艮卦上九爻辞の注にある。艮卦上九は、「上九。敦艮、吉。象曰、敦艮之吉、以厚終也」である。

この章も艮なり。艮は山。山は艮るが艮の象なり。風は吹ども山は動ぜぬ。其象を見て道理の動ぬを云。艮の止りが若いときは別はないものゆへ、垩人の血氣未定戒之在色との玉ふ。山の動かぬやふにそこに止る。金持か商賣かへぬもの。人か進めても笑て居る。山師は根がないゆへ、いろ々々して止ることならぬ。学者もものにかかり世につれて騒くは艮を知らぬ。難於久終故節移於晩。久しく止り課せす了簡が替るものなり。節義で自身を立、身持よくして不義をせまいと云ても、風の吹まわしで移りたかる。若ひときは立波であったが此頃あぢに成たと云。若ひときりきんだら年よりてどふらくものさへ改るゆへそふあるまいはつなれとも、あぢに替るもの。不学則老て衰と云。あたまを冗て尤らしいが心の底に不氣味ながある。海に千年川に千年万端世の中經歴してこなれたゆへ、若ひときの握り拳がやんで賄賂もとる。直方の出来人欲と云がそれで、晩に移る。最ふをれが年になりては氣つかひないと云て晩にかはるなり。なる程年を取たゆへ欠落も身を隠すこともないが、若ひときせぬ不埒もせぬもの。そこが節移於晩なり。
【解説】
「人之止、難於久終。故節或移於晩」の説明。艮は山であって止まる。人は長いこと止まっていることができず、晩年になって替わるものである。
【通釈】
この章も艮である。艮は山で、山は止まるのが艮の象である。風が吹いても山は動じない。その象を見て道理の動かないことを言った。艮の止まりは、若い時も別ではないから、聖人が「血気未定戒之在色」と言われた。山が動かない様にそこに止まる。金持は商売を替えないもの。人が勧めても笑っているだけ。山師は根がないので色々なことをして止まることができない。学者も、ものに掛かり世につられて騒ぐのは艮を知らないのである。「難於久終故節移於晩」。久しく止まり果たせずに了簡が替わるもの。節義で自身を立て、身持をよくして不義をしないようにしようと言っても、風の吹き回しで移りたがる。若い時は立派だったがこの頃は悪くなったと言う。道楽者でさえ若い時に力めば年取って改まるのだからその様なことはない筈だが、悪く替わるもの。「不学便老而衰」と言う。頭は禿げて尤もらしいが心の底に不気味なものがある。海に千年河に千年、万端世の中を経歴してこなれたので、若い時の握り拳が止んで賄賂も取る様になる。直方が出来人欲と言うのがそれで、晩年に移る。もう俺の年になっては気遣いはないと言って晩年に替わる。なるほど年を取ったので駆け落ちも身を隠すこともないが、若い時にはしなかった不埒をするもの。そこが「節移於晩」である。
【語釈】
・血氣未定戒之在色…論語季氏7。「孔子曰、君子有三戒。少之時、血氣未定、戒之在色。及其壯也、血氣方剛、戒之在鬭。及其老也、血氣既衰、戒之在得。」。
・不学則老て衰…為学36。「不學、便老而衰」。
・海に千年川に千年…海千山千に同じ。海千河千。

守或失於終事或廃於久。守と節は大抵似たもの。丁と道義も義は輕く道は重く、義は細か道は大と云やふなもの。この節と守も其筋なり。心喪三年せふと云ても終りに失する。宰我、手前も心覺へあるゆへ新穀既登鑚燧改火期而可已と云が終りに失するものなり。初のやふにゆかぬものなり。何ことも初手したことはよいものなれとも、久き内にはかわる。三月庭訓と云やふなもそれて、あとがつつかぬ。四月ごろからは、はや廃る。正月から禁酒と云ものが、三月例の千部のときから破れたと云が上総にも多かるべし。灸も一日に六百丁すへると云はなるものなれとも、少しつつても七日は大義になる。灸は皮きりよりつついてすへるにこまる。そこて艮の卦なり。艮はそふでない。上九が一ち仕舞ゆへ止りにくたびれそふなものに、やはり其合点なり。極月大晦日も元日の氣。元日からの覺悟と云たか、大晦日迠も禁酒なり。
【解説】
「守或失於終、事或廢於久。人之所同患也。艮之上九、敦厚於終」の説明。初めはよいものだが、それが長い間には替わる。元日に意を決すれば、大晦日までもそれを守り続けなければならない。
【通釈】
「守或失於終事或廃於久」。守と節は大抵は似たもの。丁度、道義も義は軽くて道は重く、義は細かで道は大という様なもの。この節と守もその筋である。心喪三年をしようと言っても終わりに失する。宰我が自分にも心覚えがあったので「新穀既登鑚燧改火期而可已」と言ったが、それが終わりに失するということ。初めの様には行かないもの。何事も初手したことはよいものだが、久しい間には替わる。三月庭訓という様なものも同じで、後が続かない。四月頃からは、早くも廃する。正月から禁酒すると言う者が、三月例の千部の時から破れたと言うが、その様なことが上総にも多いだろう。灸も一日に六百丁すえるのはできることだが、少しずつでも七日続けるのは大儀になる。灸は皮切りから続けてすえるのが厳しい。そこで艮の卦である。艮はそうではない。上九は最後なので止まるには草臥れそうなものだが、やはりそこの合点が大事である。十二月の大晦日も元日の気である。元日からの覚悟と言えば、大晦日までも禁酒をするのである。
【語釈】
・新穀既登鑚燧改火期而可已…論語陽貨21。「宰我問、三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壞。三年不爲樂、樂必崩。舊穀既沒、新穀既升。鑽燧改火。期可已矣」。
・三月庭訓…学習にあきやすいこと。
・千部…千部会。追善や祈願のために同じ経千部を五百ないし千人の僧で読む法会。

止道之至善也。止の見こみは上九のやふかよい。不意と一日止の日は當にならぬ。六十になりてもこの通と云。それかならぬこと。そこで晩節難持とも云。年よりてふみはどす。第一好色なとはそれなり。老人にあるまいと人も云ひ自身もそふ思ふか、それは心法の功夫仕つけぬ人のことなり。老人に氣使ないと云ても、目にたたず心にあるものなり。故曰敦艮吉。仕へぬと云了簡なれは、どふあっても仕へぬ。謝安を高潔と云て人か貴ひ、あの人か出ずはなるまい々々々々、謝公か出すは如蒼生何と云ふたに、それか不意に出た。そこて又人か蒼生如謝安何んと詆りた。伊尹の幡然と改たは違筈。とふしても謝安はあのときに出たか、敦艮てない。郝隆か、處れは則爲遠志、出れは則爲小艸と云に赤面をした。偖、浪人のとき大言云か出ると、それから冨貴に心をよせてよはくなる。浅間敷ことなり。だたい隠居しようと云了簡なれはどんなことでも出ぬ。そこて敦艮吉と云。
【解説】
「止道之至善也。故曰、敦艮吉」の説明。老人に欲はないと思っても、それは目立たないだけのことで、心の中にある。止まるべきところで出るのは悪い。止まると決めたらどの様なことがあっても出てはならない。
【通釈】
「止道之至善也」。止の見方は上九の様なものがよい。一寸一日止まる様な日は当てにならない。六十になってもこの通りだと言う。それができないこと。そこで「晩節難持」とも言う。年寄って踏み外す。第一に好色などがそれである。それは老人にはないことだろうと人も言い、自身もそう思うが、それは心法の功夫をしなかった人の言うこと。老人に気遣いはないと言っても、それは目に立たず心にあるもの。「故曰敦艮吉」。仕えないという了簡であれば、どうあっても仕えない。謝安を高潔な人だと言って人が貴び、あの人が出なければならない、謝公が出なくては蒼生を如何せんと言ったが、それは不意に出たこと。そこでまた人が蒼生謝安を如何せんと言って詆った。それは、伊尹が幡然と改めたのとは違う筈。どう見ても謝安があの時に出たのは敦艮ではない。郝隆が「処則為遠志出則為小草」と言ったので赤面した。さて、浪人の時に大言を吐くと、それから富貴に心を寄せて弱くなる。それは浅ましいこと。そもそも隠居しようという了簡であれば、どんなことがあっても出ない。そこで「敦艮吉」と言う。
【語釈】
・晩節難持…「保初節易、保晩節難」。
・謝安…東晋の宰相。字は安石。行書をよくした。
・幡然と改た…孟子万章章句上7。「湯三使往聘之。既而幡然改曰、與我處畎畝之中、由是以樂堯舜之道、吾豈若使是君爲堯舜之君哉。吾豈若使是民爲堯舜之民哉。吾豈若於吾身親見之哉」。
・郝隆…晋の人。
・處れは則爲遠志、出れは則爲小艸…世説新語。「謝公始有東山之志、後嚴命屢臻、勢不獲已、始就桓公司馬。于時人有餉桓公藥草、中有遠志。公取以問謝、此藥又名小草、何一物而有二稱。謝未即答。時郝隆在坐、應聲答曰、此甚易解。處則爲遠志、出則爲小草。謝甚有愧色。桓公目謝而笑曰、郝參軍此過乃不惡、亦極有會」。


第二十一 中孚之初九曰の条

中孚之初九曰、虞吉。象曰、志未變也。傳曰、當信之始、志未有所從。而虞度所信、則得其正。是以吉也。志有所從、則是變動。虞之不得其正矣。
【読み】
中孚の初九に曰く、虞[はか]れば吉なり、と。象に曰く、志未だ變わらざるなり、と。傳に曰く、信の始めに當たり、志未だ從う所有らず。而して信ずる所を虞度せば、則ち其の正しきを得。是を以て吉なり。志從う所有らば、則ち是れ變動なり。之を虞るも其の正しきを得じ。
【補足】
・この条は、周易程氏伝の中孚卦初九爻辞の注にある。中孚卦初九は、「初九。虞吉。有它不燕。象曰、初九虞吉、志未變也」である。

中孚は、うちまことと云こと。卦のなりから名が付たなり。人のからたで云に一身が実したものて、皮肉の中も血がめぐりすき間はないが、心の藏ばかりすいてほら穴あり、ほら穴の処に誠がつまってある。そこで人は中孚でなければならぬ。あの人のよいは爰がよいと胷をたたいて見せて云。さし出しや弁舌もよくないが、胷のすいた処に孚ある人ゆへよいと云。この出處へ中孚を引が靣白ひ。進も退も胸にあること。ここがわるくてはならぬ。虞吉は初九ゆへ、我も陽て器量あれとも、先日も云通初は了簡もの。大名へ出ても新参ものなれば一つ道を行はふとは云はれぬ。そこで虞はどふせふそと扣る。中孚のあいた処て道理を虞る。象曰志不変なり。孔子の中孚を云ぬいたこと。孚なりの心を変せぬ。道理の通にする。直方の、季文子三思と変すると云へり。病人かある。人参を合力せずはなるまいと思は中孚なり。そこを季文子は、この時節がらにと三ひ思ふと合力せぬ。
【解説】
「中孚之初九曰、虞吉。象曰、志未變也」の説明。「中孚」は人の体で言えば心臓であり、その空洞に誠が詰まっている。人の進退は心によるものだから、心が悪くてはならない。初九は新参者だから直にうまく行くものではないが、孚の通りにして心を変えてはならない。
【通釈】
「中孚」は、うちまことということ。卦の姿から名が付いた。人の体で言えば一身が実したもので、皮肉の中も血が巡って隙間はないが、心の蔵だけは空いて洞穴になっていて、その洞穴の処に誠が詰まっている。そこで人は中孚でなければならない。あの人のよいところはここがよいと胸を叩いて見せて言う。差出しや弁舌はよくないが胸の空いた処に孚のある人なのでよいと言う。出処に中孚を引用したのが面白い。進も退も胸にあること。ここが悪くてはならない。「虞吉」は初九なので自分も陽で器量もあるが、先日も言う通り初には了簡が要る。大名へ出ても新参者なので、一つ道を行おうとは言えない。そこで、「虞」でどうしたものかと控える。中孚の空いた処で道理を虞る。「象曰志不変也」。これは孔子が中孚を言い抜いたこと。孚のままに心を変えず、道理の通りにする。直方が、季文子は三度思って変わると言った。病人がある。人参を与えなければならないだろうと思うのは中孚である。そこを季文子は、この時節柄にと三度思って結局は助けない。
【語釈】
・季文子三思…論語公冶長20。「季文子三思而後行。子聞之曰、再斯可矣」。

傳曰當信之初云々。信はやはり中孚を云ことなり。初九の塲で志未有所從はこの方にこれと云ことなく、これにと引れぬことを云。迂斎云、女房のための、子の爲のと云が從ふ所あるとなり。奉公は君の為を思て事へる。それを女房の為によいの、子の手當になるのと云は有所從なり。虞度所信得其正。信なる所と云てよいあたりのことなれとも、やはり信するても信なる所の意とみよ。こちの信なれとも、出し処を虞り度ること。ここへ離れて廣く云へはそふなれとも、ここは初九を云ゆへ六四の相手の外へ出さぬを云。たとへは孝をするも親に進せやふと思た肴ゆへ友には喰せぬと云てよし。わきへ水かさすと中孚でない。
【解説】
「傳曰、當信之始、志未有所從。而虞度所信、則得其正。是以吉也」の説明。初九は最初なので、本来は何にも引かれない場である。初九は正応する六四の正に従って外に出ない様にしなければならない。
【通釈】
「伝曰当信之初云々」。「信」はやはり中孚を言ったこと。初九の場なので、「志未有所従」は自分にこれということがなく、何かに引かれないことを言う。迂斎が、女房のため、子のためと言うのが従う所があることだと言った。奉公は君のためを思って事える。それを女房のためによい、子の手当になるなどと言うのは有所従である。「虞度所信得其正」。信なる所と読めばよい当たりの意となるが、やはり信ずると読んでも信なる所の意として見なさい。自分の信ではあるが、その出し処を虞り度ること。ここから離れて広く言えばその意となるが、ここは初九を言ったことなので、対応する六四の外には出さないことを言う。たとえば孝をするにも、親に進じようと思った肴だから友には喰わせないと言うのでよい。脇へ水が差すのは中孚ではない。

志有所從則是変動云々。金銀を積で置くも火事の病氣の飢饉のと云ときの手當て、そこで用意の方へ出すはよいが、外のどふらくの方へ出すとわるい。出すましき所へ出るを変動と云。君へ奉公は中孚なり。忰が不便と云へは忰は過分、君は迷惑。変動したのなり。それゆへ吟味大切なこと。学者が道を任するは固りのこと。然るに人を云こめたり、人に勝ち氣や名の方へ出も変動と云もの。この章、大ふ出處にあつかること。任へる本意か外へ出ると出処てない。四十而始任も不可則去も皆中孚なり。任れは爲になるの、栄耀せふのは変動。そこか任へるわけ、暇とるわけなれば、中孚なり。金が溜った、最暇取ふと云て引こむは変動。吾黨にも先生と云るる歴々に禄を取てゆく々々と引込たかある。外ては道德がこなれたやふに見ゆるゆへ、人が是非を云ぬか、これらは愼ふこと。訂斎翁もそれを腹を立られ、何とか云ものに匂わせて書てあり。惣体禄の為に出て年よりて食ふ程あると云て引こむは正を失ふ。
【解説】
「志有所從、則是變動。虞之不得其正矣」の説明。出てはならない所へ出るのを変動と言う。仕えるにしても、本意から外れれば正を失う。
【通釈】
「志有所従則是変動云々」。金銀を積んで置くのも火事や病気、飢饉などの時の手当であって、そこで、用意の方に出すのはよいが、外の道楽の方へ出すと悪い。出してはならない所へ出るのを変動と言う。君への奉公は中孚である。忰が不便と言えば忰は過分、君は迷惑。変動したのである。それで、この吟味が大切となる。学者が道を任じるのは固よりのこと。それなのに、人を言い込めたり、人への勝気や名の方へ出るのも変動というもの。この章は大層出処に与ること。仕える本意が外へ出ると出処ではない。「四十而始任」も「不可則去」も皆中孚である。任えればためになるとか栄耀するだろうと言うのは変動。そこに任えるわけ、暇を取るわけがあるのなら中孚である。金が溜った、もう暇を取ろうと言って引っ込むのは変動。我が党にも先生と言われる歴々に禄を取ってさっさと引っ込んだ者がいる。外では道徳がこなれた様に見えるので人が是非を言わないが、これ等は慎むべきことである。訂斎翁もそれに腹を立てられ、何とかいうものにそれを匂わせて書いてある。総体、禄のために出て、年寄って食うほどあると言って引っ込むのでは正を失う。
【語釈】
・四十而始任…小学内篇立教。「四十始仕方物出謀發慮道合則服從不可則去。五十命爲大夫服官政。七十致事」。
・ゆく々々と…ずんずん。遠慮せずにずかずかと。


第二十二 賢者惟知義而已の条

賢者惟知義而已。命在其中。中人以下、乃以命處義。如言求之有道、得之有命、是求無益於得。知命之不可求、故自處以不求。若賢者、則求之以道、得之以義、不必言命。
【読み】
賢者は惟義を知るのみ。命は其の中に在り。中人以下は、乃ち命を以て義を處す。之を求むるに道有り、之を得るに命有りとは、是れ求むるも得るに益無きなりと言うが如し。命の求む可からざるを知る、故に自ら處するに求めざるを以てす。賢者の若きは、則ち之を求むるに道を以てし、之を得るに義を以てして、必ずしも命を言わず。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

この章、盡心の篇の大意を理會して置て見へし。孟子の本意求るに二つあり。君子になろふとて求るは我方にあること。冨貴を求るは向のことてうろたへなり。そこを程子の、一と通のものは天命と云のてはりか付てよくなるか、賢者にそれは入らぬ。常人の上は天命て悟りを開き皺かとれる。この語を初て聞くと驚くこと。偖、命在其中と云が、賢者は義を知はかり、天命とふりかへるに及はぬ。迂斎の不孝不忠はならぬと云。行義よい人がどふしても胡座かかれぬと云ふ。義之や子昴かわるくかけと云ても、どふもわるく書れぬ。命在其中は、とと行きつまりを云こと。そこで君子は命と聞て、これはよいこと聞たてない。中人以下乃以命處人。中人には命て悟りを開かせる。いくらあくせくかせいても禄は得られぬと、命を先きへ聞てうろたへぬ。死生有命冨貴在天。そこで立身挊か止む。この命の御かけて義に處る。中人以下はこれて眼のさめることなり。
【解説】
「賢者惟知義而已。命在其中。中人以下、乃以命處義」の説明。求めるには二つあり、君子になろうとするのは内のことで、富貴を求めるのは外のことである。中人以下は天命によって悟りを開き、義にいることができるが、賢者は義を知るのみで天命は不要である。
【通釈】
この章は尽心の篇の大意を理会して置いてから見なさい。孟子の本意では、求めることには二つある。君子になろうとして求めるのは自分にあること。しかし、富貴を求めるは向こうのことで、それは狼狽である。そこを程子が、一通りの者は天命と言うことで張りが付いてよくなるが、賢者にそれは要らないと言った。常人は天命で悟りを開き皺が取れる。この語を初めて聞くと驚く。さて「命在其中」は、賢者は義を知るだけで、天命を振り返るには及ばないということ。迂斎が、賢者は不孝不忠ができないと言った。行儀のよい人がどうしても胡座をすることができないと言う。王羲之や陳子昴は悪く書けと言われても、どうも悪く書くことができない。命在其中は、つまりは行き詰まりを言ったこと。そこで君子は命と聞いて、これはよいこと聞いたとは思わない。「中人以下乃以命処人」。中人には命で悟りを開かせる。いくらあくせく稼いでも禄は得られないと、命を先に聞けば狼狽えない。「死生有命冨貴在天」。そこで立身稼ぎが止む。この命のお陰で義に処る。中人以下はこれで眼が醒めるのである。
【語釈】
・盡心の篇…孟子尽心章句上3。「孟子曰、求則得之。舍則失之。是求有益於得也。求在我者也。求之有道、得之有命。是求無益於得也。求在外者也」。
・死生有命冨貴在天…論語顔淵5。「司馬牛憂曰、人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰、商聞之矣。死生有命、富貴在天」。

如言求之有道得之有命云々。すぐに孟子の語。いくらあくせくしても出世はならぬ。日勤して精出しても加増がなく、又、ぬっくりとして勤るものに立身するがある。それは上にさせてがあるてのこと。斯して見れは是求無益於得。韓退之が釣のことに云てあるが靣白い。追從けいはくものの立身かせぎするが、魚のない川で釣するやふなものとなり。此者は此川に魚のないこと知て居れとも、やはりそこに釣て居るは天命を知ぬゆへ骨を折るなり。そこて爰へ論語の若不可求從吾所好。趙岐か出して云た。孟子の注。知命之不可求故に自處以不求。天命と云ものあるから人間が求てもならぬと知ると云こと。縁を求めたり、御近付になりたいと云こと、とんと置がよい。そこで今日も学問て上品になるか、孟子のこんな御咄聞くゆへなり。
【解説】
「如言求之有道、得之有命、是求無益於得。知命之不可求、故自處以不求」の説明。いくら努力をしても出世できない人がいて、のんびりとしていても出世する人がいる。それは天命であって、天命を知り、策を労さないことが必要である。
【通釈】
「如言求之有道得之有命云々」。直に孟子の語。いくらあくせくしても出世はならない。日勤して精を出しても加増がなく、また、ぬっくりと勤めていて立身する者がいる。それは上にそうさせる者があってのこと。こうして見れば「是求無益於得」。韓退之が釣にたとえて言っているのが面白い。追従軽薄な者が立身稼ぎをするが、それは魚のいない川で釣をする様なものだと言った。その者はこの川に魚がいないことを知っているのに、やはりそこで釣っているのは天命を知らないからで、それで骨を折る。そこでここへ論語の「若不可求従吾所好」。趙岐がそれを出して言った。孟子の注。「知命之不可求故自処以不求」。天命というものがあるから、人間が求めてもならないものだと知ること。縁を求めたり、御近付きになりたいということは、はっきりと捨てるのがよい。そこで、今日学問で上品になるのは、孟子のこの様な御話を聞くからなのである。
【語釈】
・若不可求從吾所好…論語述而11。「子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之。如不可求、從吾所好」。
・趙岐か出して云た…孟子尽心章句上3集註。「趙氏曰、言爲仁由己。富貴在天、如不可求、從吾所好」。

若賢者則求之以道得之以義云々。孟子を受たなれとも、孟子の正靣とは少しふれて見るかよい。賢者道を求るの合点、これて道を得やふなり。孟子の求ると得るとを程子が此方で云は孔子の十有五而志於學と云やふなもの。これが道を得るためなり。得之以義。ここの処の文字て万章が問も孔子を云て答へり。集註有礼義而已とあり、上から宦禄を賜はる、受てよいかわるいかと道理でさばく。天命て悟り開くに及はぬ。学問は道を求め、禄は義通なれは受ける。因て命はうろたへの來るとき飲ませる藥。これで胸かはれ々々としたと云。賢者に飲せるは大違ひ。賢者はそれて胸がさはやかと云ことでない。常人我子の死たとき、發心せふの、とも々々死たいのと云とき、天命を聞と胷がひらき涙が少くなる。御影で胸がすいたと云。賢者にそんなことなし。命て落付は学者のこと。さてこれを出処に云は、賢者以上の道義を手本にして学者もかせぎをやめる。命に落着するのつかまへ処は道義なり。
【解説】
「若賢者、則求之以道、得之以義、不必言命」の説明。学問で道を求め、禄は義の通りであれば受けるのであって、天命で悟り開くには及ばない。道義によって命に落ち着くのである。
【通釈】
「若賢者則求之以道得之以義云々」。これは孟子の語を受けたものだが、孟子の意から少しずらして見なさい。これは賢者が道を求る時の合点であり、これで道を得るのである。孟子の求めると得ることは、程子の方で言えば孔子の「十有五而志於学」と言う様なもの。これが道を得るためのものである。「得之以義」。ここの処の文字が、万章が問うたことを孔子の語を使って答えたもの。集註に「有礼義而已」とあり、上から官禄を賜われば、受けてよいか悪いかと道理で捌く。天命で悟り開くには及ばない。学問で道を求め、禄は義の通りであれば受ける。そこで、命は狼狽の来た時に飲ませる薬なのである。これで胸が晴々としたと言う。これを賢者に飲ませるのは大間違いである。賢者はそれで胸が爽やかになるということはない。常人が自分の子が死に、発心しようとか、共々死にたいなどと言う時に天命を聞くと胸が開き涙が少なくなる。御蔭で胸が晴れたと言う。賢者にそんなことはない。命で落ち着くのは学者のこと。さて、これを出処で言うのは、賢者以上の道義を手本にして学者が稼ぐのを止めさせるためである。命に落ち着く掴まえ処は道義である。
【語釈】
・集註有礼義而已…孟子万章章句上8集註。「徐氏曰、禮主於辭遜、故進以禮。義主於制斷、故退以義。難進而易退者也。在我者有禮義而已。得之不得則有命存焉」。


第二十三 人之於患難の条

人之於患難、只有一個處置。盡人謀之後、卻須泰然處之。有人遇一事、則心心念念不肯捨。畢竟何益。若不會處置了放下、便是無義無命也。
【読み】
人の患難に於る、只一個の處置有るのみ。人謀を盡くせし後、卻って須く泰然として之を處すべし。人有り一事に遇えば、則ち心心念念肯て捨てず。畢竟何の益かあらん。若し處置し了わりて放下するを會ざれば、便ち是れ義を無[な]みし命を無みするなり。
【補足】
・この条は、程氏遺書二上にある。

難義困究の時なり。このとき人が化けの皮をあらはす。何ことないときは見へぬもの。某なとも衣服に難義もなく暇で斯して先生ぶりして居れとも、今にも縛られると云なら大騒きなり。人が疫病も取つかす食ものもあるゆへ平氣に見へるが、患難に合ふと好な蕎麥も食ふまいと云。外聞わるきことなり。さて、其患難のときなり。素於冨貴行於冨貴素於患難行患難と中庸十四章目にあり、それを勇と見るへし。只有一箇處置。患難ても処置があるもの。どのやふなときでも處置のならぬことなし。有物有則なり。医書にない病ても、平生あるこれ迠の病から推してすれは処置あるはつなり。人の患難數多いこと。変なことも変なやうな仕方がある。某なと幸で一生患難に合ぬが、先年迂斎の中風したに兄が煩ふて平臥、それに二人の小児が疱瘡、嫂も懐妊、その処へ大火にて類焼した。如此をち重りたれとも、それたけの所置あるもの。あのときも処置てすら々々行たなり。
【解説】
「人之於患難、只有一個處置」の説明。人は患難に遭った時に化けの皮を現す。その様な患難の時でも処置はある。迂斎の家でも禍いが続いたが、その時もすらすらと処置をした。
【通釈】
これは難儀困窮の時のこと。この時に人は化けの皮を現す。何事もない時には見えないもの。私なども衣服に難儀することもなく暇でこうして先生ぶっているが、今にも縛られるという段になれば大騒ぎである。人は疫病にも取り付かれず食い物もあるので平気に見えるが、患難に遭うと好きな蕎麦も食わないと言う。それは外聞の悪いこと。さて、その患難の時である。「素於富貴行於富貴素於患難行患難」と中庸十四章目にあり、それを勇と見なさい。「只有一箇処置」。患難でも処置があるもの。どの様な時でも処置のできないことはない。「有物有則」である。医書にない病でも、平生あったこれまでの病から推して考えれば処置はある筈である。人の患難は数多い。変なことも変な様な仕方がある。私などは幸せで一生患難に遭わないが、先年迂斎が中風し、それに兄が煩って平臥し、加えて二人の小児が疱瘡、嫂も懐妊、その処へ大火で類焼した。この様な患難に遭っても、それだけの処置があるもの。あの時も処置をしてすらすらと行ったのである。
【語釈】
・素於冨貴行於冨貴素於患難行患難…中庸章句14。「君子素其位而行、不願乎其外。素富貴、行乎富貴、素貧賤、行乎貧賤。素夷狄、行乎夷狄、素患難、行乎患難。君子無入而不自得焉」。
・有物有則…詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則」。孟子告子章句上6にもある。

盡人謀之後却須泰然處之。花見のときは誰も泰然なり。それさへ雨てもふり出し衣裳も濡る。はやさはぎ出すもの。況や患難はあたまの毛へ火のときなり。そこへ人謀を尽して泰然と云。中々及れぬことなり。直方子の門人に町人あり、火事に合た。先生も火事塲へ見舞に行れたに、其門人か私も藏も三戸前焼て身上皆に仕たが、先生の御かげて妻子に怪我もなくてと存すれは身代のことも苦にせぬ、安堵致すと云を、直方の、いや、そちにもそっと大事のこと云て聞せふ。藏三つは勿論、たとひ妻子に怪我が有てもうろたへぬことと云へり。人謀を尽せば心を動すことはない。妻子に怪我ありとも天地の中に火事で焚け死と云こともあれは仕方はない。斯ふたん々々吟味かつまると、泰山か崩れかかっても動ぬ。そこが泰然なり。これか存養にあってよさそふなことに出處にあるか靣白い。まだ々々只今の世なとは綿帽子のやふなけっこうふなこと。國初は太平と云てからが秡ひたり切たりもあり、百年前まては家来を手討にしたなとと云ことたび々々あるが、今は誠に太平ゆへそんなことも聞ぬ。天下が春の日のやふなれとも、今とても吾人禍は向からのことなれは、牆はならぬ。今禍に合ても道理なれは遺恨はない。雷かあたまの前へ落れは直に死ぬか、めいわくなから仕方はない。そこが泰然處之なり。
【解説】
「盡人謀之後、卻須泰然處之」の説明。今は太平の時だが禍いはある。しかし、禍いに遭っても道理の通りであれば遺恨はない。それが「泰然処之」である。弟子が火事に遭ったが妻子が無事だったので安堵したと言ったので、直方が、妻子が怪我をしたとしても狼狽えないことが大事だと言った。
【通釈】
「尽人謀之後却須泰然処之」。花見の時は誰も泰然としている。それでさえ雨でも降り出して衣裳も濡れれば早くも騒ぎ出すもの。ましてや患難は頭の毛へ火が付いた時である。そこへ人謀を尽くして泰然となると言う。それは中々真似のできないこと。直方子の門人に町人がいて火事に遭った。先生も火事場へ見舞いに行かれたが、その門人が、私の蔵も三戸が焼けて身上が台無しになったが、先生のお陰で妻子に怪我もないことを思えば身代のことも苦にはしない、安堵していると言ったのを、直方が、いや、お前にもう少し大事なことを言って聞かせよう。蔵三つは勿論、たとえ妻子に怪我があっても狼狽えないことだと言った。人謀を尽くせば心を動かすことはない。妻子に怪我があるとしても天地の中に火事で焼け死ぬということもあるのだから仕方がない。この様に段々と吟味が詰まると泰山が崩れ掛かっても動かない。そこが泰然である。これは存養にあってもよさそうなことだが、出処にあるのが面白い。まだまだ今の世などは綿帽子の様に結構な時。国初は太平と言うが、抜いたり切ったりもあり、百年前までは家来を手討ちにするなどということも度々あったが、今は誠に太平なのでその様なことも聞かない。天下が春の日の様だが、今も我々の禍いは向こうから来ることだから、牆はできない。今禍いに遭っても道理であれば遺恨はない。雷が頭の前へ落ちれば直に死ぬが、迷惑ながらそれも仕方がない。そこが泰然処之である。

有人遇一事則云々。患難の大に對して一事なり。一事はささいなこと。それさへ心々念々。兎角胷かさっはとならぬ。直方の、打わった茶碗を合せて見るかこれじゃと云。人か焼た前の咄したかる。金屏風も二双有たなとと、むさいことなり。死た子の年と云は親の仁愛の心からは有そふなこと。あれか當年存生なれば二十になるにと云。それを心々念々不肯捨と云なれとも、またそれ迠は聞へたが、ささいなことにくよ々々する。大高坂が類焼のときの文あり。あれが一と了簡あって記したことなれとも、豪傑の人が見たら笑ふこと。文章者ゆへむたなことなり。若不會處置了放下云々。放下はもとわるい字なれとも、處置のあとはやりはなして、それを胷へをかぬことなり。心々念々に對して云。篭の三光の鴬かにけた迚、鴬は仕合、をれは損と云た位のこと。たたい藪のを聞がよいはつなり。放下すことならぬゆへ心々念々なり。
【解説】
「有人遇一事、則心心念念不肯捨。畢竟何益。若不會處置了放下」の説明。人は些細なことにくよくよするものだが、処置した後はさっぱりと放下するのがよい。
【通釈】
「有人遇一事則云々」。患難の大に対して一事と言う。一事は些細なこと。それさえ「心心念念」である。とかく胸がさっぱりとならない。直方が、打ち割った茶碗を合わせて見るのがこれだと言った。人が焼く前の話をしたがる。金屏風も二双あったなどと言うが、それは卑しいことである。死んだ子の年というものは親の仁愛の心からはありそうなこと。あれが当年存生であれば二十になるのにと言う。それを「心心念念不肯捨」と言うのだが、そこまではよくわかっても、また、些細なことにくよくよする。大高坂が類焼したの時の文がある。あれは一了簡あって記したことだが、豪傑の人が見たら笑うこと。文章者の文なので無駄である。「若不会処置了放下云々」。放下とは本来悪い字だが、処置の後は遣りっ放しにして、それを胸へ置かないことで、心心念念に対して言ったこと。篭の三光の鴬が逃げたとしても、鴬は幸せ、俺は損という位のこと。そもそも藪の鴬を聞く方がよい筈である。放下すことができないので心心念念なのである。
【語釈】
・大高坂が類焼…高知城のこと。大高坂山にある。享保12年(1727)の大火で、天守を含むほとんどの建物が灰燼と帰した。
・三光…飼鶯の鳴き声。

便是無義無命なり。義のしんぎも天命を知るの了期もない。そふした人の出處によいはつなし。偖、こふして見れは、道学が世の中に明に成らぬと云てもそれをどふするものそ。儒者は学問が流行れはよい々々とをもふが、はやら子ば仕方はない。そこか義命を知るなり。或時迂斎、武敬勝との咄に、予も今極老になりた。今にも病氣と云はは兩人の子とももさぞよくするであらふが、然し、子ともが孝行もせす病氣の看病もせぬとてとふするもの。よしや不孝しても、此方の了簡はかはらぬとなり。高ひことなり。君子は義命が魂なり。子ともが孝行せぬ、こまりたやつと云た迠のこと。堯の子不肖、舜の子も不肖、それて堯舜の心をやみて雲林須身丸合せてくれろとは出ぬ。放下すと云が、魂はこふ持へき筈のこと。只今云道学はやらぬとて、道学者はかまはぬこと。題目をすすめるやふなことはせぬ。大勢の人を相手にして何にせふ。斯ふ魂がすわればそこで出処かよい。太公望や伯夷は跡をふりかへらずに引こんで九十九里で釣なり。紂がときにきれはなれた心ゆへ、武王へ敬勝怠と丹書を以て出きわかさへる。去にきれ離れがよけれは出た所がはへる。常人の出処は必竟義命を知たゆへなり。
【解説】
「便是無義無命也」の説明。道学が世の中に明にならないからといって、それを残念に思う必要はない。学者は義命を知るのである。義命を知って魂が据われば出処がよくなる。
【通釈】
「便是無義無命也」。義の審議も天命を知る了簡もない。そうした人の出処がよい筈はない。さて、こうして見れば、道学が世の中に明にならないと言うのも、それがどうしたことか。儒者は学問が流行ればよいと思うが、流行らなければ仕方がない。そこが義命を知るということである。ある時迂斎が武井敬勝との話の中で、私も今極老になった。今にも病気と言えば両人の子供もさぞよくするだろうが、しかし、子供が孝行もせず病気の看病もしないからといってどうするものか。もしも不孝をしても、自分の了簡は変わらないと言った。高いことである。君子は義命が魂である。子供が孝行をしなければ困った奴だと言うまでのこと。堯の子は不肖、舜の子も不肖、それで堯舜が心を病んで雲林須身丸合せてくれとは出ない。放下すと言うが、魂はこの様に持つべき筈である。只今の道学は流行らないと言われても、道学者はそれを構ってはならない。題目を勧める様なことはしない。大勢の人を相手にして何をするのか。この様に魂が据わればそこで出処がよくなる。太公望や伯夷は跡を振り返らずに引っ込んで九十九里で釣をしている。しかし、紂の時に切れ離れた心を持っていたので、武王へ「敬勝怠」と丹書を送り、その出際が冴えていた。その様に切れ離れがよければ出た所が映える。常人の出処は畢竟義命を知らないからである。
【語釈】
・武敬勝…武井敬勝。下野古河藩儒。天明6年(1786)2月28日没。年78。稲葉迂齋の妻の弟。
・雲林須身丸合せてくれろ…
・敬勝怠…小学内篇敬身。「丹書曰、敬勝怠者吉。怠勝敬者滅」。


第二十四 門人有居大學而云々の条

門人有居太學而欲歸應鄕擧者。問其故。曰、蔡人尠習戴記。決科之利也。先生曰、汝之是心、已不可入於堯舜之道矣。夫子貢之高識、曷嘗規規於貨利哉。特於豐約之閒、不能無畱情耳。且貧富有命。彼乃畱情於其閒、多見其不信道也。故聖人謂之不受命。有志於道者、要當去此心、而後可與語也。
【読み】
門人、太學に居りて歸り鄕擧に應ぜんと欲する者有り。其の故を問う。曰く、蔡の人は戴記を習うこと尠[すく]なし。科を決するの利あり、と。先生曰く、汝の是の心は、已に堯舜の道に入る可からず。夫の子貢の高識、曷[なん]ぞ嘗て貨利に規規たらんや。特[ただ]豐約の閒に於て、情を畱[とど]むること無きこと能わざるのみ。且つ貧富には命有り。彼乃ち情を其の閒に畱め、多[まさ]に其の道を信ぜざるを見[しめ]す。故に聖人は之を命を受けずと謂えり。道に志有る者は、要[かなら]ず當に此の心を去るべく、而る後に與に語る可きなり、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書四にある。

小学李君行の章とこの条逆さなり。あちは手前の國から出ては遲いゆへ大學からと云、ここは御膝元の大学からは埒明ぬゆへ郷学からか早道と云。これにわけがある。蔡人尠習戴記云々。をれが國元の蔡には礼記の吟味すんたものないゆへ、ここて决科と一番帳になる。礼記て在所中をさらへるゆへ、蔡の郷挙が早道とてのことなり。この門人と云が謝上蔡なり。汗流浹脊の二十年色欲を絶たのと云へはこの事が上蔡とは思はれぬが、これも若ひときのことなり。云へは嘘てはあるまいかと思るるほとのこと。ここて見れは上蔡の学問の上ったも知るる。謝氏は揚氏游氏とは違ふて学問あからぬときは氣かさて俗で有たろふ。
【解説】
「門人有居太學而欲歸應鄕擧者。問其故。曰、蔡人尠習戴記。決科之利也」の説明。謝上蔡は、郷里では礼記を吟味した者がいないから、礼記で郷挙を受けるのが早道だと思った。
【通釈】
小学にある李君行の章とこの条とは逆様である。あちらは自分の国から出るのでは遅いので大学から行うと言い、ここは御膝元の大学からでは埒が明かないので郷学からするのが早道だと言う。これにはわけがある。「蔡人尠習戴記云々」。俺の国元の蔡では礼記の吟味の済んだ者がいないので、ここで科目を決めれば一番になる。礼記で在所中を浚えるので蔡の郷挙が早道だと考えたのである。この門人というのが謝上蔡である。汗流浹背や、二十年色欲を絶ったと言えばこの事が上蔡とは思えないが、これも若い時のこと。言わば嘘ではないかと思えるほどのこと。ここで見れば上蔡の学問の上がったこともわかる。謝氏は楊氏や游氏とは違って学問の上がらない時分は気嵩で俗だったのだろう。
【語釈】
・小学李君行…小学外篇善行。「李君行先生名潜、虔州人。入京師至泗州留止。其子弟請先往。君行問其故。曰、科場近。先至京師貫開封戸籍取應。君行不許。曰、汝虔州人而貫開封戸籍、欲求事君而先欺君可乎。寧遲緩數年不可行也」。
・郷挙…地方で行われる資格試験。
・謝上蔡…顕道。良佐。程氏門人。1050~1103
・汗流浹背…近思録為学27の語。
・揚氏…楊亀山。伊川の門人。楊時。字は中立。号は亀山。
・游氏…游酢。二程門人。字は定夫。号は廌山。
・氣かさ…気嵩。負けん気が強いさま。勝気。

先生曰汝之此心不可入堯舜之道矣。思もよらぬ御呵なり。この御呵か、其魂がと云こと。大学からても郷挙からでも早道に立身せふと云其魂がどふもならぬ。堯舜の道と云は魂のこと。仏て其一心が地獄に落ると云やふなもの。さて、堯舜の道は惟精惟一や孝悌而已のことかと思ふにそふてない。仏て仏心と云やふなもの。あれが釈迦の御心と云ことて、それが法なり。学者は堯舜が祖で、堯舜の魂の処。皆一念に本つくことて、法や事の麁跡のことてない。迂斎、人欲は人欲とまけ出すがよいと云。茶碗酒のむは氣の毒なこと。あれを誉めてはないが、直に人欲とあらはれるでよい。学者も道德を以て出進したと云、何から何迠言行云へきことなく尤なれとも、尤つくの上に人欲が靣を冠ている。そこの魂を堯舜の道に入らぬと云なり。
【解説】
「先生曰、汝之是心、已不可入於堯舜之道矣」の説明。早道で立身するのは悪いと程子が呵った。堯舜の道とは魂のことを言ったことで、そこに人欲があってはならない。
【通釈】
「先生曰汝之此心不可入堯舜之道矣」。思いもよらない御呵りである。この御呵りが、その魂が悪いということ。大学からでも郷挙からでも早道で立身しようとするその魂がどうでも悪い。堯舜の道とは魂のこと。仏でその一心が地獄に落ちると言う様なもの。さて、堯舜の道は「惟精惟一」や「孝悌而已」のことかと思えばそうではない。仏で仏心と言う様なもの。あれが釈迦の御心ということで、それが法である。学者は堯舜が祖で、堯舜の魂の処。皆その一念に基づくのであって、法や事という粗跡のことではない。迂斎が人欲は人欲と撒け出すのがよいと言った。茶碗酒を飲むのは気の毒なこと。あれを誉めるわけではないが、直に人欲と現れるのでよい。学者も道徳によって出進したと言い、何から何まで言行言うべきことなく尤もな様だが、その尤も尽くの上に人欲が面を冠っている。その魂を堯舜の道に入らないと言うのである。
【語釈】
・惟精惟一…書経大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。
・孝悌而已…孟子尽心章句上39。「孟子曰、是猶或紾其兄之臂、子謂之、姑徐徐云爾。亦教之孝弟而已矣」。

長藏など始として奉公筋でもここを顧て、これては堯舜の道に入られまい々々々々々と毎事それを思へは堯舜の道に入る。其次でに人の上へ行ふの、只今をれ程合点したものはあるまいのと思ひ、人より越て善かろふと思へばはや其魂がわきへ出て、手前が秡て人欲に上下着せる。幸田子の、学者には凡夫にない欲があるとなり。其心が猪牙舩にのって遊所へ行くと同挌なり。尤な靣をして先生と仰かれなから、我人欲を行へば以の外のこと。そこて、思ひよらぬ処へ堯舜の道を出せは大ふ戒になることなり。直方の咄あり。ここをすます爲に云ふか、稲荷堀の屋鋪近火あり。ときにかけ付た諸門人へ皆粥て膳と云に、弟子か一人配膳しながら箸は竒麗かと云を直方先生、汝之是心不可入堯舜之道と呵れり。靣白い呵りやふて、箸のきれいは庭の牡丹か月見のときのこと。火事騒のとき其魂がなさけないことなり。堯舜の道は生たこと。それて道を求る。然るに科挙も早ひの遲いのとは大ふ体がわるい。
【解説】
堯舜の道を絶えず顧みることでその道に入ることができるのであって、その他に人の上に行こうとしたり慢心をしたりしてはならない。
【通釈】
長蔵などを始めとして奉公筋でもここを顧みて、これでは堯舜の道に入れないだろうと毎時それを思えば堯舜の道に入る。その序でに人の上へ行っているだろうとか、只今俺ほど合点した者はいないだろうと思い、人を越えて善いだろうと思えば早くもその魂が脇へ出て、自分が抜けて人欲に裃を着せることになる。幸田子が、学者には凡夫にない欲があると言った。その心が猪牙舩に乗って遊所へ行くのと同格である。尤もな面をして先生と仰がれながら、自分は人欲を行なうのは以の外のこと。そこで、思いもよらない処へ堯舜の道を出せば大いに戒めになる。直方の話がある。ここを済ますために言うが、稲荷堀の屋敷で近火のあった時、駆け付けた諸門人が皆粥で膳をとっていると、一人の弟子が配膳しながら箸は綺麗かと言っているのを直方先生が聞いて、「汝之是心不可入堯舜之道」と呵った。面白い呵り方である。箸が綺麗かどうかは庭の牡丹や月を見る時のこと。火事騒ぎの時にその魂では情けない。堯舜の道は生きたこと。それで道を求める。それなのに、科挙に早い遅いと言うのは大分体が悪い。
【語釈】
・長藏…鈴木(鵜沢)恭節。通称は長蔵。黙斎門下。寛政元年(1789)、黙斎の推薦で館林藩主松平侯の儒臣となる。1762~1830
・幸田子…幸田子善。名は誠之。善太郎と称す。江戸の人。幕臣。享保5年(1720)~寛政4年(1792)
・猪牙舩…江戸で造られた、細長くて屋根のない、先のとがった舟。

夫子貢之高識云々。堯舜のあとへ子貢を出すは必竟上段々のこと。つまり利心ゆへ。孔門て顔子の外は子貢なり。俗人のやふに金ためたいてはなし。只それが外のことでなく豊約の間のこと。あたたかとつめたいとの違い。子貢も爰に少意がありたと見へる。手のまはる方から一寸と魂がそこへ行た。留情。魂のことを云。上の决科は今此方て云、武藝を精出して出世するやふなもの。これが宋朝の時体なり。それに情が留るゆへ礼記であてやふと云。この貨殖と云も顔子の明英ではずいぶんなりそふなもの。たたし顔子はここへ意をとめぬゆへ、そこて一簟一瓢なり。子貢は留たゆへ貨殖された。そこて孔子不受命と云へり。考てみよ。其一心かわるい。堯舜の道へあたる。多見其不信道。ここへ迂斎の曽点漆雕開を引けり。道へ目がつくと豊約へ意はよせぬ。彼、指子貢。而後可語なり。それから話がなるなり。斯ふして見れは土臺かちこふこと。心に大根の処の地盤がなければいかやふなことしても学者とは云はれぬ。そこて、事で云ずに堯舜の道と云てこれを出處の魂と云。
【解説】
「夫子貢之高識、曷嘗規規於貨利哉。特於豐約之閒、不能無畱情耳。且貧富有命。彼乃畱情於其閒、多見其不信道也。故聖人謂之不受命。有志於道者、要當去此心、而後可與語也」の説明。子貢は孔門で顔子の次の人である。彼の貨殖は貧富を気にしてのことであって、金を貯めるのが目的なのではない。しかし、彼は貨殖に情が留まったから、孔子は「不受命」と言った。顔子は一簞一瓢で情を留めなかった。
【通釈】
「夫子貢之高識云々」。堯舜の後へ子貢を出すのは畢竟上の段々のことを言うためで、つまりは利心のことである。孔門で顔子の次は子貢である。俗人の様に金を貯めたいと思ったのではない。ただ、それは外でもなく豊約の間のこと。暖かいのと冷たいとの違い。子貢もここに少し意があったと見える。手の回る人なので一寸魂がそこへ行った。「留情」。魂のことを言う。上の決科は、今こちらで言う武芸を精出して出世する様なもの。これが宋朝の時の姿である。それに情が留まるので、礼記で充てようと言う。この貨殖も明英な顔子であれば随分となりそうなもの。しかし顔子はここへ意を留めないので、そこで一簞一瓢である。子貢は留めたので貨殖をされた。そこで孔子が「不受命」と言った。考て見なさい。その一心が悪い。堯舜の道に障る。「多見其不信道」。ここで迂斎が曾点と漆雕開を引用した。道に目が付くと豊約へは意が寄らない。「彼」、子貢を指す。「而後可語也」。それから話ができる様になる。こうして見れば土台が違う。心に大根の処の地盤がなければどの様なことをしても学者とは言えない。そこで、事で言わずに堯舜の道と言うのであって、これを出処の魂と言う。
【語釈】
・一簟一瓢…論語雍也9。「子曰、賢哉、囘也。一簞食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉、囘也」。
・不受命…論語先進18。「子曰、囘也其庶乎。屢空。賜不受命、而貨殖焉。億則屢中」。


第二十五 人苟有朝聞道夕死可之志の条

人苟有朝聞道夕死可矣之志、則不肯一日安於所不安也。何止一日。須臾不能。如曾子易簀、須要如此、乃安。人不能若此者、只爲不見實理。實理者、實見得是、實見得非。凡實理、得之於心自別。若耳聞口道者、心實不見。若見得、必不肯安於所不安。人之一身、儘有所不肯爲、及至他事、又不然。若士者、雖殺之使爲穿窬、必不爲。其他事未必然。至如執卷者、莫不知説禮義。又如王公大人、皆能言軒冕外物。及其臨利害、則不知就義理、卻就富貴。如此者、只是説得、不實見。及其蹈水火、則人皆避之。是實見得。須是有見不善如探湯之心。則自然別。昔曾經傷於虎者。他人語虎、則雖三尺童子、皆知虎之可畏、終不似曾經傷者神色懾懼、至誠畏之。是實見得也。得之於心、是謂有德、不待勉強。然學者則須勉強。古人有捐軀隕命者。若不實見得、則烏能如此。須是實見得生不重於義、生不安於死也。故有殺身成仁。只是成就一個是而已。
【読み】
人苟も朝に道を聞かば夕に死すとも可なりの志有らば、則ち肯て一日も安からざる所に安んぜじ。何ぞ止[ただ]に一日のみならん。須臾も能わじ。曾子の簀を易えしが如き、須く此の如くなるを要すべく、乃ち安らかなり。人此の若くなること能わざる者は、只實理を見ざるが爲なり。實理とは、實[まこと]に是を見得、實に非を見得ることなり。凡そ實理は、之を心に得ば自ら別なり。耳に聞き口に道う若き者は、心實に見ず。若し見得ば、必ず肯て安からざる所に安んぜじ。人の一身、儘[まま]肯て爲さざる所有るも、他事に至るに及んでは、又然らず。士の若きは、之を殺さんといいて穿窬[せんゆ]を爲さしめんとすと雖も、必ず爲さず。其の他の事は未だ必ずしも然らず。卷を執る者の如きに至りては、禮義を説くを知らざる莫し。又王公大人の如き、皆能く軒冕は外物なりと言う。其の利害に臨むに及んでは、則ち義理に就くを知らずして、卻って富貴に就く。此の如き者は、只是れ説き得るのみにして、實に見ず。其の水火を蹈むに及んでは、則ち人皆之を避く。是れ實に見得しなり。須く是れ不善を見ては湯を探るが如き心有るべし。則ち自然に別なり。昔曾經[かつ]て虎に傷[やぶ]れし者あり。他人虎を語れば、則ち三尺の童子と雖も、皆虎の畏る可きを知るも、終に曾經て傷れし者の神色懾懼[しょうく]し、至誠に之を畏るるに似[し]かず。是れ實に見得しなり。之を心に得る、是れ德有りと謂い、勉強を待たず。然れども學者は則ち須く勉強すべし。古人に軀を捐[す]て命を隕[おと]す者有り。若し實に見得ずんば、則ち烏んぞ能く此の如くならん。須く是れ實に生は義より重からず、生は死より安からざるを見得べし。故に身を殺して仁を成すこと有り。只是れ一個の是を成就するのみ。
【補足】
・この条は、程氏遺書一五にある伊川の語。

孔子のこれをの玉ふはとふ云ことなれは、此方に丈夫なものの出来たを云、これが学問のきたいになる。直方先生道學標的へ出したが聞へて、朝聞道とは我心に安堵の出來たこと。知天命と同こと。落着のつく処て覚悟の出来たなり。君子の難進而易退かたたいてはない、これなり。安んせぬ塲には一日も居れぬ。何止一日須臾云々。一日は待て下されと云に、いやはや半時もまたれぬと云。井戸へ落たやふなもの。片時もまたれぬ。あたまの毛へ火の付たなり。ここを須臾とつめて曽子なり。曽子はあのとき置かしやればよいと云ほどのこと。棺槨も松脂の支度もとくに出来たと云ときに、ちょっと童子か言が耳へはいりて安堵せられぬ。胡文定がよく見られて、曽子のほそひ声して云はれたと云。曽元や門人を呵り、我を姑息であしろふかと云はれた。須臾は姑息なり。まあそふしてと云なり。手や足へ不淨の付たとき、まあとは云はぬ。非義をば人がそれほどに思はぬ。そこで誠意の章、如悪々臭と云もわるいことを大ふいやに思ふなり。曽子は易簀たで安い。そこが朝聞道の安心なり。それで胷がすら々々なりた。それを堯舜の道とも云。人が昨夜寢られなんだと云は何かあるゆへのこと。垩賢も道理なりでないことのあるときは寢られぬ筈。
【解説】
「人苟有朝聞道夕死可矣之志、則不肯一日安於所不安也。何止一日。須臾不能。如曾子易簀」の説明。「朝聞道」とは心が安堵することで、「知天命」と同じ。曾子も易簀で安んじた。道理の通りでなければ安んじることはできない。
【通釈】
孔子がこれを仰ったのはどうしてかと言うと、自分の方に丈夫なものができたことを言ったのであり、これが学問の鍛えになる。直方先生が道学標的にこれを出したのが尤もなことで、「朝聞道」とは自分の心に安堵のできたことで、「知天命」と同じこと。落ち着きある処で覚悟ができたのである。君子の「難進而易退」がそもそもこれ以外のことではない。安んじられない場には一日もいることができない。「何止一日須臾云々」。一日待って下さいと言うのに、いやはや半時も待てないと言う。それは井戸へ落ちた様なもので、片時も待てない。頭の毛へ火が付いたのである。ここを須臾と詰めて曾子に移る。曾子のことは、あの時はそうして置けばよいと言うほどのこと。棺槨も松脂の支度も十分にできたという時に、童子のちょっとした言が耳へ入って安堵することができない。胡文定がよく見られて、曾子が細い声で言われたと言った。曾元や門人を呵って、自分を姑息であしらうのかと言われた。須臾は姑息である。まあそうして置けということ。手や足へ不浄の付いた時は、まあとは言わない。しかし、人は非義をそれほどには思わない。そこで誠意の章で「如悪悪臭」と言うのも、悪いことを大層嫌に思うこと。曾子は易簀で安んじた。そこが朝聞道の安心と同じこと。それで胸がすらりとなった。それを堯舜の道とも言う。人が昨夜寝られなかったと言うのは何かがあったからである。聖賢も道理の通りでないことがあると寝られない筈。
【語釈】
・朝聞道…論語里仁8。「子曰、朝聞道、夕死可矣」。
・知天命…論語為政4。「五十而知天命」。
・難進而易退…孟子万章章句上8集註。「徐氏曰、禮主於辭遜、故進以禮。義主於制斷、故退以義。難進而易退者也。在我者有禮義而已。得之不得則有命存焉」。
・胡文定…胡瑗。字は翼之。993~1059
・如悪々臭…大学章句6。「所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色、此之謂自謙。故君子必愼其獨也」。
・易簀…礼記檀弓上。「曾子寢疾。病。樂正子春坐於床下。曾元・曾申、坐於足。童子隅坐而執燭。童子曰、華而睆、大夫之簀與。子春曰、止。曾子聞之、瞿然曰、呼。曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然、斯季孫之賜也。我未之能易也。元起易簀。曾元曰、夫子之病革矣。不可以變。幸而至於旦。請敬易之。曾子曰、爾之愛我也不如彼。君子之愛人也以德。細人之愛人也以姑息。吾何求哉。吾得正而斃焉。斯已矣。舉扶而易之。反席未安而沒」。

須要如此乃安云々。鳥篭明て出すと鳥が安い。鮒も魚舟から池へ放したら安かろふ。垩賢の道に安んするもそんな意で有ふ。人不能如此者云々。市の人を云てない。学者のことなり。学者と云に論語朝聞道の章をよまぬものもなし。爲不見實理か知り顔でしらす、見た顔で見ぬ。若耳聞口道者心實不見云々。口耳三寸、荀子の云通りなり。いつも云飛脚の状なり。只届けるはかり。内に何云てあるやらしらす。学者も知すに子曰々々とよむが、とかく学者か口では云が心に得ぬ。若見得必不肯安於所不安。致知格物から誠意正心になるが是れなり。見やふがよいと行に出る。たたい身持がわるいと云は学問のかいないゆへのこと。学問はよいが出処がわるいと云は、つまり学問のわるいのなり。吾黨の学者は知見が高ければ行はどふでもよいとなぐりたがるが、實に見れば行もよくなる。知ずり行ずりはどちも本のものでない。
【解説】
「須要如此、乃安。人不能若此者、只爲不見實理。實理者、實見得是、實見得非。凡實理、得之於心自別。若耳聞口道者、心實不見。若見得、必不肯安於所不安」の説明。とかく学者は実理を見ていない。色々と言うが、心に得ていないのである。実理を見れば学問がよくなって、行もよくなる。
【通釈】
「須要如此乃安云々」。鳥籠を開けて逃がすと鳥が安んじる。鮒も魚舟から池へ放したら安んじるだろう。聖賢が道に安んじるのもそんな意だろう。「人不能如此者云々」。これは市の人を言ったことではなく、学者のことである。学者で論語の朝聞道の章を読まない者はいない。「為不見実理」は、知り顔で知らず、見た顔で見ていないこと。「若耳聞口道者心実不見云々」。口耳三寸であって、荀子の言う通りである。いつも言う飛脚の状である。ただ届けるだけで内に何が書いてあるのかは知らない。学者も知らずに「子曰」と読むが、とかく学者は口では言っても心に得ていない。「若見得必不肯安於所不安」。致知格物から誠意正心になるのがこれである。見方がよいとそれが行に出る。そもそも身持ちが悪いのは学問の甲斐がないからである。学問はよいが出処が悪いと言うのは、つまり学問が悪いのである。我が党の学者は知見が高ければ行はどうでもよいと殴り捨てたがるが、実に見れば行もよくなる。知吊り行吊りはどちらも本物ではない。
【語釈】
・口耳三寸…口耳四寸。荀子勧学。「小人之学也、入乎耳出乎口口耳之間、則四寸耳」。

人之一身侭有所不肯為云々。人は誰でもなり。からだのことに此義に於てはせぬと云なり。侭は、たっふりを云。及至他事又不然。一事にあるが惣体は揃はぬ。若士者雖殺之云々。これをせぬと殺と云に、殺されるとも夜盗はせぬと云が、他事には夜盗同然の迂詐をする。巧言令色して私を胷へつつんて内症でするは穿窬も同こと。夜と云かつつんてすること。巧言令色を明るみへ出すと夜盗に落る。斯ふ魂へきり付るが朝聞道の処。あちらで立派でも、又こちらでそれに劣らぬ下卑たことする。法花宗て死ぬとも念仏倡へぬは偖々たのもしいと思へば、他事では仏に違ふことかず々々ありて破戒する。学者も其通りなり。手前の学派を立ることには立派を云ても、内證ではわるいことする。
【解説】
「人之一身、儘有所不肯爲、及至他事、又不然。若士者、雖殺之使爲穿窬、必不爲。其他事未必然。至如執卷者、莫不知説禮義」の説明。人は、たとえ殺されようともそれはしないということがあるが、他方ではそれに劣らない下卑たことをするもの。内証で悪いことをするのは盗みと同じである。
【通釈】
「人之一身侭有所不肯為云々」。人には誰にでもあること。体のことでは、これはしないと言う。「侭」は、たっぷりとしたことを言う。「及至他事又不然」。一事ではしないが総体ではそうでない。「若士者雖殺之云々」。これをしなければ殺すと言われても、たとえ殺されるとしても夜盗はしないと言うが、他事では夜盗同然の迂詐をする。巧言令色をして私を胸へ包んで内証でするのは穿窬と同じこと。夜というのが包んですること。巧言令色を明るみへ出すと夜盗に落ちる。この様に魂へ切り付けるのが朝聞道の処。あちらでは立派でも、また、こちらでそれに劣らない下卑たことをする。法華宗が死んでも念仏は倡えないのは本当に頼もしいことだと思えば、他事では仏に違うことが数々とあって破戒する。学者もその通りである。自分の学派を立てることでは立派なことを言っても、内証では悪いことをする。
【語釈】
・穿窬…堀に穴を開けたり、垣を越えたりして人家に入り、物を盗むこと。

言軒冕外物。これを云が伊達にもなることなれとも、冠や駕篭は外物。そこへ村雲の出たやふなものと云、みへを云ふなり。それが本のことかと思へば、はや利害につく。范魯公さへ趙匡胤に頭を下けるが、周の世宗の恩をうけてもそふなり。見不善如探湯。餅をつく日の大釜、あの湯へは乱心しても手を入れぬ。善く知たなり。万端それなれはよい。昔曽經傷於虎云々。程子の一座の人にあったことなり。他人。誰で有ふともと云弁。別にこれに類した録もあるが、これが直咄なり。神色懾懼。顔が替て来たなり。昔虎にさいなめられた男は人の話で聞でない。何とか云上總の座頭の猪にかけられたではなきや、与五右衛門、顧惟秀而言。此事そなたの話てはなきや。野猪のことなり。偖、某が唐津仲舅方に家兄勤番にて同宿するとき、雷のこと云は大ふ違たなり。家内のもの三人目をまわし、兄もそれほとに繋れた。直に其塲に觸れたものは心へひひきが違ふ。
【解説】
「又如王公大人、皆能言軒冕外物。及其臨利害、則不知就義理、卻就富貴。如此者、只是説得、不實見。及其蹈水火、則人皆避之。是實見得。須是有見不善如探湯之心。則自然別。昔曾經傷於虎者。他人語虎、則雖三尺童子、皆知虎之可畏、終不似曾經傷者神色懾懼、至誠畏之。是實見得也」の説明。冠や駕篭は外物だと言ってはみても、直ぐに利害に付くもの。実に見て得ることは、大釜の湯には手を入れない様なこと。よく経験して知った人は心の響きも違う。
【通釈】
「言軒冕外物」。これを言うと伊達にもなるが、冠や駕篭は外物である。そこで叢雲の出た様なものだと言うが、それは見栄を言ったもの。それが本当のことかと思えば、早くも利害に付く。范魯公さえ趙匡胤に頭を下げる。周の世宗の恩を受けてもそうなのである。「見不善如探湯」。餅を搗く日の大釜、あの湯へは乱心しても手を入れない。よく知っているからである。万端それであればよい。「昔曾経傷於虎云々」。程子の一座の人にあった出来事。「他人」。誰であってもという弁。別にこれに類した録もあるが、これが直か話である。「神色懾懼」。顔が変わって来た。昔虎に苛められた男は、人が話で聞くのとは違う。何とか言う上総の座頭が猪に追い掛けられられたのではなかったか、与五右衛門、惟秀を顧みて言った。その事はお前の話ではないか。野猪のこと。さて、唐津仲舅方に私の兄が勤番で同宿した時だが、雷のことを言うと大分変わったことになった。家内の者の三人が目を回し、兄もそれほどに繋れた。直にその場に触れた者は心への響きが違う。
【語釈】
・范魯公…
・趙匡胤…宋の太祖。後周の禁軍総司令官で節度使を兼ねていたが、幼主恭帝の時、部下に擁立され、開封に入り、帝位につき、国号を宋と称。文治主義の方針を樹立、中央集権体制を確立、皇帝権を強化。927~976
・見不善如探湯…論語季氏11。「孔子曰、見善如不及、見不善如探湯。吾見其人矣。吾聞其語矣」。
・与五右衛門…篠原惟秀。東金市堀上の人。北田慶年の弟。医者。1745~1812

得之心是謂有德。大凡、人そよめきを云のて實でない。直方の鞭策録にも皆が人そよめきの鞭策録を云たがる。心へきたいたことかなけれは迂詐なり。得の字かすぐに有德の德で恰好やはばで云ことでない。ここへ掲けた搒にもある。得尺者己尺得寸者己寸なり。得ると云に大和知行のあること。韓退之は張りこの虎、尹彦明はいんすの蚤なり。そこて韓退之は大顚に迷ふ。不待勉強。ここは程子の御丁寧を云へり。聞上手はかりなれは云に及はぬ。上の不勉強は我金を使ふやうなもの。それを学者が取そこなわふと思て咄の腰がをれたなり。地廻は股引に及はぬが、道中するには股引かいる。又、京へつけはそれもいらぬ。古人有損身隕命者。比干を始として。比干も思ひかけなくではあるまい。今日は只ては帰るまいと云て、仕舞の諫のときは覚悟て出たであろふ。日和のわるいにさへ出にくいに、比干は胸をさかれに出た。それも實にみたゆへのこと。胸をさかれて安堵せらるるて有ふ。そこで三仁と云。
【解説】
「得之於心、是謂有德、不待勉強。然學者則須勉強。古人有捐軀隕命者。若不實見得、則烏能如此」の説明。有徳は勉強を待たないが、学者は勉強をしなければならないと言ったのは、学者が勘違いをしない様にとの程子の計らいである。比干は胸を裂かれることを覚悟して出た。それは実に見たからである。
【通釈】
「得之心是謂有徳」。大凡、人そよめきを言うので実でない。直方の鞭策録にも皆が人そよめきの鞭策録を言いたがる。しかし、心へ鍛えたことがなければ迂詐である。「得」の字は直に有徳の徳であって、恰好や幅で言うことではない。ここへ掲げた額にもある。「得尺者己尺得寸者己寸」である。「得」には大和知行がある。韓退之は張り子の虎、尹彦明は印子の蚤である。そこで、韓退之は大顚に迷った。「不待勉強」。ここは程子が御丁寧に言われたこと。聞き上手ばかりであれば言うには及ばない。上の不勉強は自分の金を使う様なもの。それを学者が取り損なうだろうと思って話の腰を折ったのである。地廻りは股引を履くには及ばないが、道中をするには股引が要る。また、京へ着けばそれも要らない。「古人有損身隕命者」。比干を始めとしてということ。比干も思いがけなくではなかったのだろう。今日はただでは帰らないと言って、最後の諫めの時は覚悟して出たのだろう。日和が悪いのにさえ出難いのに、比干は胸を裂かれに出た。それも実に見たからである。胸を裂かれて安堵されたのだろう。そこで「三仁」と言う。
【語釈】
・得尺者己尺得寸者己寸…迂斎の遺文の語。
・尹彦明…尹和靖。名は焞。程伊川の高弟。紹興の初め祟政殿説書兼侍講。当時金との和議に反対し、学問は伊川の敬を継承して著しく主体的。『伊洛淵源録』『宋元学案』同『補遺』。1071~1142
・いんす…印子。よく精錬された舶来の純金。純金で作った品物。
・大顚…韓退之は、潮州に左遷された際、当地の傑僧大顚禅師と交流する。長安に帰って、大顚との交流を質問されるが、積極的には評価しない返答内容であったとのことである。かつて仏教を排斥し、後に熱心な仏教徒となった白居易とは異なり、韓退之は、基本的には排仏を貫いていた。
・地廻…①近郷をめぐりあるいて商売すること。また、その商人。②その土地に住みついている者。特に、遊里や盛り場に住んでうろつきまわるならず者。
・三仁…論語微子1。「微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉」。

生不重於義云々。本語告子の篇。生は生きてをる塲なり。ここへ筭盤を出す。それから又秤りをかりて出して、生ては旨い物食ひ、足が痛めば娘に撫させると云て、凡人は生を重んする。仁人のここへ筭盤を出すはどふ云筭盤なれは、からたの安てなく、死子は安からぬと云。ここはどふも常人の筭盤とは出し処か違ふ。心にのらぬこと、計知れぬことなるに、それが仁人君子なり。身はなくなったか仁を成就した云。因て伯夷を求仁得仁と云。孤竹の君にならずに首陽て餓死せり。斉景公馬千駟は民がほめぬ。只そふして見れば仁を得て筭盤に合ふたと云もの。上に實に見得是見得非とある。この章是か骨なり。是を成就すると云が親切なこと。仁を成就と云ことなれとも、それをは大ふ重く遠いことのやふに心得て学者が目がさめぬ。仁と云と、仁は顔子にさへと云。そこて是と云とめた。是非は鷺と鳫のやふなものて、学者も是非は分かる。この死生の間で上は氣ではあるまい。是非が明からのこと。仁人君子は死ぬ方が生たより心持のよいはこの是のこと。そこで眼がたぎら子ば義利死生のことは分らぬ。偖この条、直方先生云、学者の平生のことを出處へ引たは去るべきことには速に去れ、よどむ処かわるい。そこて、朝聞道のやふにきわとく出處をすることに引たとなり。
【解説】
「須是實見得生不重於義、生不安於死也。故有殺身成仁。只是成就一個是而已」の説明。凡人は生を重んじるが、仁人は身を亡くしても仁を成就することを重んじる。この条は「実見得是見得非」が核である。是非は学者でもわかることであり、是非を明にするのである。
【通釈】
「生不重於義云々」。元は告子の篇の語。「生」は生きている場のこと。ここへ算盤を出す。それからまた秤を借りて出し、生きては美味い物を食い、足が痛めば娘に撫でさせると言って、凡人は生を重んじる。仁人がここへ算盤を出すのはどの様な算盤かと言うと、体の安ではなく、死ななければ安らかではないということ。ここはどうも常人の算盤とは出し処が違う。心に乗らないことで計り知れないことだが、それが仁人君子である。身はなくなったが仁を成就したと言う。因って伯夷を「求仁得仁」と言う。孤竹の君にならずに首陽で餓死した。「斉景公馬千駟」は民が褒めない。ただそうして見れば、仁を得て算盤に合ったというもの。上に「実見得是見得非」とある。この章はこれが骨である。これを成就するというのが親切なこと。仁を成就するということだが、それを学者は大分重く遠いことの様に心得、目を醒まさない。仁と言うと、仁は顔子にさえできないと言う。そこで「是」と言い止めた。是非は鷺と鳫の様なもので、学者も是非はわかる。この死生の間に浮付いた気はないだろう。是非が明だからである。仁人君子は死ぬ方が生きることよりも心持がよいと言うのはこの是のこと。そこで、眼が滾らなければ義利死生のことはわからない。さて、この条について直方先生が、学者の平生のことを出処に引いたのは、去るべきことには速やかに去らなければならず、淀む処が悪いのであって、朝聞道の様に際どく出処をすることを述べるために引いたのだと言った。
【語釈】
・告子の篇…孟子告子章句上10。「生亦我所欲也。義亦我所欲也。二者不可得兼、舍生而取義者也」。
・求仁得仁…論語述而14。「伯夷・叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨」。
・斉景公馬千駟…論語季氏12。「齊景公有馬千駟。死之日、民無德而稱焉。伯夷・叔齊、饑于首陽之下。民到于今稱之」。


第二十六 孟子辨舜跖之分云々の条

孟子辨舜・跖之分、只在義・利之閒。言閒者謂相去不甚遠、所爭毫末爾。義與利只是個公與私也。纔出義、便以利言也。只那計較、便是爲有利害。若無利害、何用計較。利害者天下之常情也。人皆知趨利而避害。聖人則更不論利害、惟看義當爲不當爲。便是命在其中也。
【読み】
孟子舜・跖の分を辨ずるは、只義・利の閒に在り。閒と言うは相去ること甚だ遠からず、爭う所は毫末のみなるを謂う。義と利とは只是れ個の公と私となり。纔かに義を出ずれば、便ち利を以て言う。只那[か]の計較は、便ち是れ利害有るが爲なり。若し利害無くんば、何ぞ計較を用いん。利害とは天下の常情なり。人は皆利に趨[おもむ]きて害を避くるを知る。聖人は則ち更に利害を論ぜず、惟義として當に爲すべきか當に爲すべからざるかを看るのみ。便ち是れ命其の中に在るなり。
【補足】
・この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

此処も義利のこと。それゆへ孟子の見梁惠王と、あの見ゆるか出処そ。あそこを義理の弁と云も、梁惠王がこなたの此国へくるも定めてと云からぞ。孟子は只義と云ことなり。なにか蘓参張儀などが利を目がけて名を好の欲をする。孟子のは向ふをさとそふとてすること。御手前の方に利と云ことはない。そこが出処の見るの字なり。垩人と盗人を幷べた。雲泥の違ひなものなれとも、それも只義と利との間なり。そこて程子の其間と云字の御発明が靣白ひそ。所爭毫末と云を見よ。義理と云へはかけ離れたものと思へとも、舜の仲ヶ間か盗跖の仲ヶ間かと云を吟味すへし。学者も義を目かければ舜の仲間なり。難有ことぞ。何ほと立波なことをしても利に目がつけば跖方なり。そこで義利の姿を公と私て云て見せたもの。利と云は我身一箇のこと。又、金銀利禄此体らたへのことなり。人のことや遠くのことにかまいはない。金銀のほしいと云も樂をせふと云ことなり。義は公けゆへに身の體のと云ことはない。義からちょっと一分ても足を出すともふ利と名を附る。我も人も義じゃ々々々と思ふ処がちとふみ出す、もふ利じゃほどに、そこをよく合点せよと云ことなり。
【解説】
「孟子辨舜・跖之分、只在義・利之閒。言閒者謂相去不甚遠、所爭毫末爾。義與利只是個公與私也。纔出義、便以利言也」の説明。孟子は梁恵王に合っても義を言うだけである。義と利はかけ離れたものと思えるが、義から少しでも踏み外せば直に利なのである。利とは自分の身についてのことだが、義は公である。
【通釈】
この処も義利のこと。それで孟子に「見梁恵王」とあるが、あの「見」が出処のことである。あれを義理の弁と言うのも、梁恵王が、貴方がこの国へ来たのもきっと利するためだと言うからである。孟子はただ義と言うだけ。蘇秦や張儀などが何か利を目掛け、名を好む欲をするが、孟子のは向こうを諭そうとするだけのこと。貴方に利と言うことはない。そこが出処の「見」の字である。聖人と盗人とを並べた。それは雲泥の違いなのだが、それもただ義と利との間のこと。そこで、程子の「其間」という字の御発明が面白い。「所争毫末」とあるのを見なさい。義利と言えばかけ離れたものと思えるが、舜の仲間か盗跖の仲間かということを吟味しなさい。学者も義を目掛ければ舜の仲間である。それは有難いこと。どれほど立派なことをしても利に目が付けば跖の方である。そこで義利の姿を公と私で言って見せた。利は我が身一箇のこと。また、金銀利禄はこの体へのこと。人のことや遠くのことに構うことはない。金銀が欲しいというのも楽をしたいからである。義は公なので身や体ということはない。義から一寸一分でも足を出すともう利と名を付ける。自分も人も義だと思う処が少しでも外に踏み出すともう利となるから、そこをよく合点しなさいということ。
【語釈】
・義理の弁…孟子梁恵王章句上1。「孟子見梁惠王。王曰、叟、不遠千里而來、亦將有以利吾國乎。孟子對曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣」。
・垩人と盗人を幷べた…孟子尽心章句上25。「孟子曰、雞鳴而起、孳孳爲善者、舜之徒也。雞鳴而起、孳孳爲利者、蹠之徒也。欲知舜與蹠之分、無他。利與善之閒也」。

此からは上の義利のことを細にわけたもの。孟子の道二つ。仁與不仁而已と云をみよ。今日兎角片方つかす、仁てもない、不仁てもないと思ふが、仁でなければじきに不仁とをとすことなり。伯夷や顔子をは仁と思ひ、桀紂をば不仁と思ふ。其様なあらひことではない。孝不孝もゆるかせに心得てをる。孝でもなく不孝てもないと思へとも、孝でなければ不孝、義でなければ利と名が付ほどに安堵はならぬことなり。爰の堺目が大切。此やふなきわどいことは漢唐の學者のとんと云得ぬこと。程子か朱子でなけれはこふ魂をきめることはならぬ。徂徠なとが君子にはなられぬものと思ひ、魂がたぎらぬ。垩賢のはこふしたこと。孔子の仁と云も魂へきめること。孟子の仁義と云も魂へきめることと思へし。どふせふこふしようと色々了簡するは皆計較そ。今日の人は朝から晩迠計較たらけ。爰がくめんものじゃなどと商人の筭盤はじくやふに、歴々は筭盤なしに胷の中で彼や是やとする。其元祖が伯者斉桓晉文の大器量な衆に家老と云へは管仲と云。それから唐の太宗か細にぬけ目なく人によく思はれ、とど我をよいと人に信せらるる工面をする。
【解説】
「只那計較、便是爲有利害。若無利害、何用計較。利害者天下之常情也」の説明。仁でも不仁でもないことはなく、仁でなければ直に不仁であり、孝不孝も同じである。今の人は計較するばかりである。計較の元祖は斉桓晋文、管仲であり、唐の太宗もそれである。
【通釈】
ここからは上の義利のことを細かに分けたもの。孟子にある「道二仁与不仁而已」を見なさい。今日ではとかく一方に付かないで、仁でも不仁でもないと思っているが、仁でなければ直に不仁と落としたのである。伯夷や顔子を仁と思い、桀紂を不仁と思う。その様な粗いことではない。孝不孝もゆるがせに心得ている。孝でもなく不孝でもないと思っているが、孝でなければ不孝であって、義でなければ利と名が付くほどに安堵はならないのである。ここの境目が大切。この様な際どいことは漢唐の学者では全く言い得ないこと。程子か朱子でなければこの様に魂を決めることはならない。徂徠などは君子にはなることができないと思っているが、それは魂が滾らないのである。聖賢の魂はこうしたこと。孔子の仁というのも魂へ決めること、孟子の仁義も魂へ決めることだと思いなさい。どうしようこうしようと色々了簡するのは皆「計較」である。今日の人は朝から晩まで計較だらけ。ここが工面のしどころだなどと商人が算盤を弾く様に、歴々は算盤なしで胸の中であれやこれやと計る。その元祖が伯者の斉桓晋文という大器量の衆と、その家老である管仲である。それから唐の太宗か細に抜け目なくして人によく思われたが、それはつまり自分をよい者だと人に信じられる様な工面をしたのである。
【語釈】
・道二つ。仁與不仁而已…孟子離婁章句上2。「孔子曰、道二。仁與不仁而已矣」。
・斉桓晉文…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。

迂斎の云し、惻隠羞悪はずっと出る。計較安排はない。明日隣の子が井戸へ落たらばはっと云をふの、明日七つ時分に顔を赤くせふのと、今日から計較してしたくをするやふなことはない。皆其時に臨でのことなり。南京の茶碗を打破たらはっと云をふと下た見をすることもない。皆理なりなことなり。兎角此にはよみとうたがあるなとと云は計較なり。浅見先生の、すっと出てしそこなふたより考てよいことをした方がわるいとなり。これは面白ひことそ。ずっと出てわるい方が増しなとと見ることか中々只のものの見られぬこと。よいことでも計較安排あれは本のことてはない。奉公人に給金をましてやる。これは気どくなと思へば、それも利害なり。学問せぬものの利口なと云は、それ見たかなとといやなことを云て、細工は流々仕上けをみよなとと云。義理のなりなれはそんなことはない。それも余義もないことじゃ。天下之常情てよい人も悪ひ人も皆此なり。
【解説】
惻隠羞悪に計較安排はない。計較安排をせずに理の通りに出るのがよい。しかし、計較安排は天下の常情なのである。
【通釈】
迂斎が、惻隠羞悪はずっと出て、計較安排はないと言った。明日隣の子が井戸へ落ちたらはっと言おうとか、明日七つ時分に顔を赤くしようなどと、今日から計較して支度をする様なことはない。皆その時に臨んですること。南京の茶碗を打ち破ったらはっと言おうと下見をすることもない。皆理の通りのこと。とかくこれには読みと歌があるなどと言うのは計較である。浅見先生が、ずっと出てし損なったよりも考えてよいことをした方が悪いと言った。これは面白いこと。ずっと出て悪い方が増しなどと見ることが中々普通の者にはできないこと。よいことでも計較安排があれば本当のことではない。奉公人に給金を増してやる。これは奇特なことだと思えば、それも利害からである。学問をしなくて利口な者は、それ見たことかなどと嫌なことを言い、また、細工は流々仕上けを見よなどと言う。義理の通りであればそんなことはない。それも余儀もないことで、「天下之常情」でよい人も悪い人も皆これである。
【語釈】
・よみとうた…読みと歌。①意味の似て非なること。②勘定ずくで此を捨て彼を取る場合にいう。得する方をとること。③一得一失の意。

なせに常情なれは、直方の肉身あるゆへしゃとなり。肉身のうれしかることは利なり。寒くて大義なと思処へ私名代にと云と喜ふ。役人かよい時分に迯て樂をせふとする。田舎てもよい時節に名主退役、うるさいこともなく樂なことと心得てをる。皆私なり。公なれはそんなことはない筈と云合点なれは迯ることはない。爰に圣人とあれとも、圣賢はこふしたこと。孔孟程朱に利害はないと思べし。孔子の在陳絶糧。あの垩人の知惠てとふしたことぞ。至誠可以前知と云ふ圣人か從者病莫能與。孔子にも似合ぬと云やふなことなれとも、看義當爲不當爲て當然をする。火消は火を消すが當然。蘇鉄を打折ふとも牡丹を踏ちらさふとも火を消すと云ことなり。
【解説】
「人皆知趨利而避害。聖人則更不論利害、惟看義當爲不當爲」の説明。計較安排が天下の常情なのは、肉身があるからで、肉身が嬉しがることが利である。聖人は「看義当為不当為」である。
【通釈】
何故常情かと言えば、直方が肉身があるからだと言った。肉身の嬉しがることは利である。寒くて大儀だと思う処へ私が名代に行きますと言われると喜ぶ。役人がよい時分に逃げて楽をしようとする。田舎でもよい時節に名主が退役するが、それが煩いこともなく楽なことだと心得ている。それは皆私である。公であればそんなことはない筈だと合点していれば逃げることはない。ここに聖人とあるが、聖賢はこうしたこと。孔孟程朱に利害はないと思いなさい。孔子の「在陳絶糧」。あの聖人の知恵でどうしたことか。「至誠可以前知」という聖人が「従者病莫能興」。孔子には似合わないことの様だが、「看義当為不当為」で当然をする。火消は火を消すのが当然。蘇鉄を打ち折ろうとも牡丹を踏み散らそうとも火を消すのである。
【語釈】
・在陳絶糧…論語衛霊公1。「在陳絶糧。從者病、莫能興」。
・至誠可以前知…中庸章句24。「至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孽。見乎蓍龜、動乎四體。禍福將至。善、必先知之。不善、必先知之。故至誠如神」。

命在其中也。此前にも賢者只知義而已とあり、常人無義無命。たた色々にさはぐ。垩人は只義形りなり。爰が打とめなり。垩賢に命を聞て胷かさわ々々して來たと云ことはない。命は其中にある。義をするとよいことか向てくる。積善の家有餘慶なり。善を積か福を得やふとするてはない。自分に道德があれは上に用ひらるる。命はいわすとも自ら付てある。養生すると長生き、長生きをせふとて養生すれば利心なり。天から拝領の体だだから大切にする。大切に養生すれば長生きと云は付て回ることなり。魯國で孔子を用る。孔子の方は司職吏となる。蕃息委吏となる。料量平。たん々々立身て遂に爲司空も命なり。夾谷の會のときもあの通り。それもこれも孔子の方にとふこふと云ことはない。わきから見れは命とも云をふか、孔子の方は其筭用はない。命在其中そ。孟子なとも一生浪人なれとも、後車數十乘從者數百人云々と云のか、孔孟のは自こふなることなり。こんな上品なことを云も、学者の出處でとんと義と云こと計て利と云ことはないと思ふべし。
【解説】
「便是命在其中也」の説明。常人は色々と騒ぐが、聖人は義の通りをするだけである。義を行えば自然と命はその中に存する。福を得ようとして善を積むのではなく、善を積むことによって福が自然に来るのである。孔子が位を得たのも、孟子が車や従者を持っていたのも、そうなりたくてしたのではなく、ただ義を行っただけであり、その結果そうなったのである。
【通釈】
「命在其中也」。この前にも「賢者只知義而已」とあり、常人は「無義無命」。ただ色々と騒ぐのみ。聖人はただ義の通りをするだけ。ここが打ち止めである。聖賢には、命を聞いて胸がざわざわとして来たということはない。命はその中にある。義をするとよいことが向かって来る。「積善之家必有余慶」である。善を積むのは福を得ようとしてのことではない。自分に道徳があれば上に用いられる。命は言わなくても自ら付いてある。養生すると長生き、長生きをしようと養生をすれば利心である。天から拝領の体だから大切にする。大切に養生をすれば、長生きは付いて回るのである。魯国で孔子を用いる。孔子の方は司職吏となり、蕃息委吏となる。「料量平」。段々と立身して遂に司空になったのも命である。夾谷の会の時もあの通り。それもこれも孔子の方にどうこうということはない。脇から見れば命とも言うだろうが、孔子の方にその算用はない。「命在其中」である。孟子なども一生浪人をしていたが、「後車數十乗従者数百人云々」と言われた。孔孟の場合は自ずとこの様になるのである。こんな上品なことを言うのも、学者の出処は全て義だけで利ははないことをわからせるためである。
【語釈】
・賢者只知義而已…出処22の語。
・無義無命…出処23の語。
・積善の家有餘慶…易経坤卦文言伝。「積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃」。
・料量平…論語序説の語。司職吏、蕃息委吏、司空のことも序説にある。
・夾谷の會…論語序説。「十年辛丑、相定公、會齊侯于夾谷。齊人歸魯侵地」。
・後車數十乘從者數百人…孟子滕文公章句下4。「彭更問曰、後車數十乘、從者數百人、以傳食於諸侯、不以泰乎」。


第二十七 大凡儒者云々の条

大凡儒者未敢望深造於道。且只得所存正、分別善惡、識廉恥。如此等人多、亦須漸好。
【読み】
大凡儒者は未だ敢て深く道に造[いた]るを望まず。且く只存する所正しく、善惡を分別し、廉恥を識るを得んのみ。此等の如き人多くんば、亦須く漸く好かるべし。
【補足】
・この条は、程氏遺書一七にある伊川の語。

朱子の幷べやう、此前に垩人のことて云とめ、爰は大きなことを云はすにいこふ平実に云。未敢望云々。先学者大きな望をかけずともとなり。爲学に言学便以道爲志言人便以垩爲志とあり、道学標的にも引てあり、処を未敢望と云は一了簡あって云ことなり。深造の字は孟子で、そふたい学問はこれと云ことなく、ぎり々々の至善につめることなり。爰の処へは望をかけす、且まあとなり。道に造るだのなんだのと云ことなく、先心さまの存する処の正いがよいとなり。これが正くないと義理を脇の方へ打やり、我名聞や勝手ずくにかかる中は所存正とは云はれぬ。始めに儒者と名乘かけて分別善悪とはあまりやすくしたあいさつのやふなれとも、兎角人なり。知り顔にして知ぬなり。先生株のものにも此がある。只をとなしひ計で善悪は分らぬ。をれかすることにわるいことはないの、をれが胷にあるなどとふいちゃふすれとも、其胷中に善悪がある。上の段の義利と同じことで、義々と思へとも義でなく、分別々々と思てもそふいかぬ。
【解説】
「大凡儒者未敢望深造於道。且只得所存正、分別善惡」の説明。本来学問は至善に詰めることだが、先ずは心の存する処を正しくする。そうしないと義理を脇の方へ打ち遣ることになる。「分別善悪」は、人が知っている様で知らないから言ったのである。
【通釈】
朱子の並べ方、前条は聖人のことで言い止め、ここは大きなことを言わずに大層平実に言った。「未敢望云々」。先ず学者は大きな望みをかけなくてもよいと言う。為学に「言学便以道為志言人便以聖為志」とあり、道学標的にもこれを引いてあるが、それを未敢望とは一了簡あって言ったこと。「深造」の字は孟子で、総体学問はこれということなく、ぎりぎりの至善に詰めること。しかし、ここの処へは望みをかけず、且くまあと出る。道に造るの何のと言うことなく、先ず心様の存する処が正しいのがよいと言う。これが正しくないと義理を脇の方へ打ち遣り、自分の名聞や勝手尽くに掛かるが、そんな内は「所存正」とは言えない。始めに「儒者」と名乗り掛けて「分別善悪」とはあまりに安く見た挨拶の様だが、とかく人は知り顔で知らない。先生株の者にもこれがある。ただ大人しいだけで善悪はわからない。俺のすることに悪いことはないとか、俺の胸にあるなどと吹聴するが、その胸中に善悪がある。上の段の義利と同じで、義と思っても義でなく、分別と思ってもそうはうまく行かない。
【語釈】
・言学便以道爲志言人便以垩爲志…為学59の語。
・深造…孟子離婁章句下14。「孟子曰、君子深造之以道、欲其自得之也。自得之、則居之安。居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原。故君子欲其自得之也」。

廉耻と云をしらぬもの。耻はいこう數の多ひもの。知た々々と思ても何ぞのときに出ぬもの。今人に無心をせぬかと云ふと何そんなことをするものか、たとへ死ぬともと云。そふかと思へば外のことはそふいかぬ。学者と呼れ人に尊敬される人も本へかへりて見ると耻ヶしいこと多し。耻を知ると云。書をよむ上にもこれがある。あさはかなことなり。隨分程朱を信し人抦もよけれとも、はやらせたくなりて耻を忘れる。今山﨑派の学者と云て唐詩撰や蒙求の講釋もしたくなる。とかくはやりたいからなり。廉耻を知ぬゆへなり。直方先生の前々云、あの法花坊主に念仏を唱へよと云ては中々唱へぬ、と。耻を知たのそ。ここを知ると先つ一疋の人になる。
【解説】
「識廉恥。如此等人多」の説明。人は廉恥を知らないもの。学者も流行りたくなって廉恥を忘れる。廉恥を知れば一人前である。
【通釈】
「廉恥」ということを知らない。恥は大層数多いもの。知ったと思っても何かの時にそれが出ないもの。今人に無心をしないかと言うと、何そんなことをするものか、たとえ死ぬとしてもしないと言う。しかし、そうかと思えば外のことはそうは行かない。学者と呼ばれて人に尊敬される人も本へ返って見ると恥ずかしいことが多い。恥を知ると言う。書を読む上にもこれがある。浅はかなこと。随分程朱を信じて人柄もよいが、流行らせたくなって恥を忘れる。今山崎派の学者と言いながら唐詩撰や蒙求の講釈もしたくなる。とかく流行りたいからであり、廉恥を知らないからである。直方先生が前々から言う、あの法華坊主に念仏を唱えろと言っても中々唱えない、と。恥を知っているのである。ここを知ると先ず一人前の人になる。
【語釈】
・蒙求…児童・初学者用教科書。唐の李瀚撰。三巻。中国古代から南北朝までの有名な人物の、類似する言行二つずつを配して四字句の韻語で記し、経・史・子類中の故実を知るのに便にした書。計五九六句。

此語なとが和な語り出しなれとも、さて々々するどなことなり。漸好と云も土臺がよけれはそろ々々よかろふと云ことなり。先年迂斎爰を講するとき、今の学者は惠心の僧都が母に及ばぬとなり。惠心を出家にして其後惠心僧都村上帝の御前にて説法ありし。其時天子も御感あり、御衣を給はりしなり。惠心僧都も喜の余りに定て母も喜であろふ、早く母に知せたいとて早速母に告たれは、母大の不機嫌なり。其方仏心を得させんと出家さしたに世渡りのためかと呵れしとなり。是等は学者の聞て大ふ耻べきことなり。道理を知子はこそ我子を出家にもしたものなれとも、此心は孟母にも劣らぬほどの志なり。今の学者がささいな取にも足らぬことを奔走する。彼母に對しても耻べきことなり。御紋付どふぞと願ふやうな学者の出處はたぎらぬ筈なり。
【解説】
「亦須漸好」の説明。今の学者は恵心僧都の母に及ばないと迂斎が言った。些細なことに奔走し、出世を願う様な学者の出処は滾らない。
【通釈】
この語なとが穏やかな語り出しだが、さてさて鋭いこと。「漸好」というのも土台がよければそろそろとよくなるだろうということ。先年迂斎がここを講じた時、今の学者は恵心僧都の母に及ばないと言った。恵心を出家にし、その後恵心僧都が村上帝の御前で説法したことがあった。その時天子も御感じあって御衣を給わった。恵心僧都も喜びのあまりきっと母も喜ぶだろう、早く母に知らせたいと早速母に告げると、母は大いに不機嫌になった。貴方に仏心を得させようとして出家をさせたのに、それは世渡りのためだったのかと呵ったという。ここ等は学者が聞いて大いに恥ずべきこと。道理を知らないからこそ自分の子を出家にもしたが、この心は孟母にも劣らないほどの志である。今の学者が些細な取るにも足りないことに奔走する。それは、あの母に対しても恥ずべきことである。どうぞ御紋付をと願う様な学者の出処は滾らない筈である。
【語釈】
・惠心の僧都…平安中期の天台宗の学僧。通称、恵心僧都。大和の人。良源に師事し、論義・因明学をもって知られたが、横川に屏居。二十五三昧会を主導し、「往生要集」を著して浄土教の理論的基礎を築いた。ほかに著「一乗要決」など。942~1017


第二十八 趙景平問子罕言利云々の条

趙景平問、子罕言利。所謂利者何利。曰、不獨財利之利、凡有利心、便不可。如作一事、須尋自家穩便處、皆利心也。聖人以義爲利。義安處、便爲利。如釋氏之學、皆本於利、故便不是。
【読み】
趙景平問う、子は利を言うこと罕[まれ]なり。謂う所の利とは何の利ぞ、と。曰く、獨り財利の利のみならず、凡そ利心有れば、便ち可ならず。一事を作[な]すが如き、須く自家穏便の處を尋ぬべし、皆利心なり。聖人は義を以て利と爲す。義として安らかなる處、便ち利と爲す。釋氏の學の如き、皆利に本づく、故に便ち是ならず、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一六にある伊川の語。

論語をあけての問なり。さて、此御答の不独財利之利は白人へ對して云分なり。世間で云才利の利でない。こなた衆の心得た利てはないとなり。垩賢の利と云は御坐へ出される利がある。奉公に情を出し、親に孝、君に得られ、親も喜ふ。そこが利じゃと云ことなり。そこで御坐へ出さるる。だけれとも、そこへ目か付くとよくない。少とても吾身に工靣のよい方に目かつくは利なり。穩便はずんとすわりよい疂じゃと云よふなもの。火事沙汰がなくてよいなどと万端に工面のよい方へそふないたい々々々々と尋る。それかさのみわるいでもなけれとも、近思の吟味では皆利心と落すことなり。爰の吟味は中々一分もゆるさぬ。私金もちになりたいと云は利心と思ひ、分限者のわるくなりたいと云は珎ひことと思ふ。それも利心なり。爰の吟味に見のがしはならぬ。ぬるけることはならぬなり。手を入て役人になりたかるもあり、引込たかるもある。それも樂をせふとて引込めは利心そ。百姓町人の帯刀したかるも利心、落髪して樂をしたかるも利心なり。
【解説】
「趙景平問、子罕言利。所謂利者何利。曰、不獨財利之利、凡有利心、便不可。如作一事、須尋自家穏便處、皆利心也」の説明。聖賢の利は世間で言う利とは違う。それは行ってよいものだが、これを目的にするのは悪い。金持や役人になりたいと思うのは利心だが、引っ込んで楽をしたいと思うのも利心なのである。
【通釈】
論語を開いての問いである。さて、この御答の「不独財利之利」は素人に対しての言い方である。世間で言う財利の利ではない、貴方衆の心得ている利ではないと言った。聖賢の利には御座へ出すことのできる利がある。奉公に精を出し、親に孝をし、君に認められて親も喜ぶ。そこが利だということ。そこで御座へ出すことができるのである。しかしながら、そこへ目が付くとよくない。少しでも我が身に工面のよい方に目が付くのは利である。穏便はしっかりと座りよい畳という様なもの。火事沙汰がなくてよいなどと万端に工面のよい方へそうなりたいと尋ねる。それが大して悪いことでもないが、近思の吟味では皆利心だと落とすのである。ここの吟味は中々一分も許さない。私は金持になりたいと言うのは利心だと思うが、分限者が貧乏になりたいと言うのは珍しいことだと思う。しかし、それも利心である。ここの吟味に見逃しはならない。穏やかでは悪いのである。手を入れて役人になりたがる者もあり、引っ込みたがる者もある。それも楽をしようと引っ込めば利心である。百姓町人が帯刀したがるのも利心、落髪をして楽をしたがるのも利心である。
【語釈】
・論語をあけて…論語子罕1。「子罕言利。與命與仁」。
・趙景平…名は彦道。伊川の門人。

垩人以義爲利。易文言傳に利者義之和とあり、義の通ゆへあとが順路にゆく。なせになれば、義をすると心持が安く安堵する。そこを利と名付る。中々名聞利禄に心あっていくことてない。灸をすへてあとの心持のよいやふなもの。すへるは義、あとのよいは利なり。平生人々の心得た利とは大く違ふことなり。伯夷叔齊求仁而得仁が利そ。朱子答陳安郷書にあり。伯夷叔齊の心に、をれかあのやふなことをせすに居たらは大名てあろふと云氣はない。薇を取て食ひ餓て死なれた。そこをよい仕合とをもわるる。死ぬ方が心持が安い。大名て居ても安いとは云はれぬ。釈氏は今のことを捨て、先きの爲をする、利なり。先のためと云か、やはり彼岸に談義参りにゆく婆々の後生を願ふと同しこと。こふしたらよかろふと思ふ。釈迦も兎角初一心かうるさくなって樂をせふと云氣なり。そこて、心の灵妙なものを宗旨に立て、あれを煩わさぬには家内かうるさくなって雪山へ迯出す。生老病死の苦を厭ひ、何の角のとうるさいだらけゆへ逃げ出した。
【解説】
「聖人以義爲利。義安處、便爲利。如釋氏之學、皆本於利、故便不是」の説明。聖人の利とは、義を行うことによって心持が安堵することで、灸にたとえれば、灸をすえるのが義で、すえた後に安堵するのが利である。仏は義を捨て、死んだ後のことに世話を焼いて煩わされ、現実から逃げ出す。
【通釈】
「垩人以義為利」。易の文言伝に「利者義之和」とあり、義の通りなので後は順路に行く。それは何故かと言うと、義をすると心持が安く安堵するからである。そこを利と名付ける。名聞利禄に心があっては中々そうなることはない。灸をすえた後に心持ちのよい様なもの。すえるのは義、後のよいのは利である。それは、平生人々の心得ている利とは大きく違うこと。「伯夷叔斉求仁而得仁」が利である。朱子答陳安郷書にあるが、伯夷叔斉の心に、俺があの様なことをしないでいれば大名であっただろうという気はない。薇を取って食い、餓えて死なれた。そこを幸せなことだと思われた。死ぬ方が心持が安い。大名でいても安いとは言えない。釈氏は今のことを捨て、先のためをするが、それは利である。先のためというのが、やはり彼岸に談義参りに行く婆々が後生を願うのと同じこと。こうしたらよいだろうと思う。釈迦もとかく初一心が煩くなって楽をしようという気である。そこで、心の霊妙なものを宗旨に立て、あれを煩わないためには家内が煩いから雪山へ逃げ出す。生老病死の苦を厭い、何のかのと煩いことだらけなので逃げ出した。
【語釈】
・利者義之和…易経乾卦文言伝。「文言曰、元者善之長也。亨者嘉之會也。利者義之和也。貞者事之幹也」。
・伯夷叔齊求仁而得仁…論語述而14。「伯夷・叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨」。
・初一心…初一念。最初に思い立った一念。初志。

義を見ぬから皆利心そ。功成名遂けて身退く。張良なとか是なり。赤松か子に從ふたと云。やっはり老子流なり。秦を亡し君の歒も打、項羽もほろびて仕舞ふ処て引込。長居はせぬものと身の牆をする。利心なり。召公奭なとを見よ。七十致事て隱居する処を周公旦の留られたゆへ、中々樂をせふなとと云ことはないから長く勤められた。とんと利心ない。義斗りそ。偖、ためしみよ。何の爲と云。利心も時々て易る。君子風の小人風のと云かあって、とちとふしても手前勝手をすれは本於利故便不是なり。人のものを取ぬと云へは上品なれとも、そこを取へきも取らずなれば、奉公人か扶持を取まいと云なれは本のことてない。舜禹は天下をさへ受られた。義から切て出さぬは、きれいらしいことも皆手前勝手なり。
【解説】
義を見ないから利心となる。張良は身を守って致事をしたが、召公奭などは七十歳を過ぎても勤められた。それは、召公奭に利心がなく、義ばかりだったからである。義から出たことでなければ皆利心である。
【通釈】
義を見ないから皆利心になる。功成り名遂げて身退く。張良などがこれである。赤松子に従ったと言う。やはり老子流である。秦を亡ぼし君の敵も打ち、項羽も亡んで仕舞った処で引っ込む。長居はしないものと身に牆をする。それが利心である。召公奭などを見なさい。七十致事で隠居する処を周公旦が留められたので、中々楽をしようなどと言うことはできないから長く勤められた。そこには全く利心はなく、義ばかりである。さて、試して見なさい。何のためと言う。利心も時々で易る。君子風や小人風ということがあって、どちらにしても手前勝手をすれば「本於利故便不是」である。人のものを取らないと言えば上品だが、取るべきものも取らないのであれば不是であり、奉公人が扶持を取らないと言うのは本当のことではない。舜禹は天下でさえ受けられた。義から切って出さないことは、綺麗らしくても皆手前勝手である。
【語釈】
・功成名遂けて身退く…老子運夷。「功成名遂身退天之道」。
・赤松か子…漢書列伝張陳王周伝。「良乃稱曰、家世相韓、及韓滅、不愛萬金之資、爲韓報仇彊秦、天下震動。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸、位列侯、此布衣之極、於良足矣。願棄人間事、欲從赤松子游耳」。
・召公奭…論語泰伯20。「武王曰、予有亂臣十人」。同集註。「馬氏曰、亂、治也。十人、謂周公旦・召公奭・太公望・畢公・榮公・太顛・閎夭・散宜生・南宮适、其一人謂文母」。
・七十致事…礼記曲礼上。「大夫七十而致事」。


第二十九 問邢七從先生の条

問、邢七久從先生、想都無知識、後來極狼狽。先生曰、謂之全無知、則不可。只是義理不能勝利欲之心、便至如此也。
【読み】
問う、邢七は久しく先生に從えども、想うに都て知識無く、後來極めて狼狽せん、と。先生曰く、之を全く知無しと謂わば、則ち可ならず。只是れ義理利欲の心に勝つこと能わざれば、便ち此の如きに至る、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある伊川の語。

あの方に行弟と云ことあり、七と云も一をもとにたて、いくらもある行弟て云ことなり。小学晁以道か処にもあり、本を立て、それから七にも八にもなる。日本の太良次良とは違。あれは兄弟て云、此は本家を立て置てからなり。五十にも六十にも當ることあり。周子も六十兄と云あり。邢和叔は程子の弟子てしまいには以の外なことになった。伊川の向面にまわり、伊川を千段に切ふともかまわぬなとと云たなり。そこて、門人衆の其噂さなり。あの男なとも御弟子でござったれとも、必竟知惠かないからあの通になって宦禄にうろたへたであろふとなり。狼狽は俗語ではない。文選などにもあり、古ひ文字。たたいはあのときの俗語なり。狼狽か二つそろへばよけれとも、手々になるといかぬから云こと。そこてうろたへたにつこふ。あの通ほろを乱した処が狼狽そ。この問人の必竟知識かないからと云も靣白ひ云分なり。あのやふに成たもとと知見かないからと見たもの。今道落をするを不身持と云ずに見識かないからと云よふなもの。この云様も程門の高ひ方からの云分なり。
【解説】
「問、邢七久從先生、想都無知識、後來極狼狽」の説明。邢七が程門を離れたのも知見がなくて狼狽えたからだろうと伊川の弟子が言った。それは程門の知見の高いところからの言い分である。
【通釈】
中国には行弟ということがあり、七と言うのも一を本に立て、いくらもある行弟から言ったこと。小学の「晁以道」の処にもあり、本を立て、それから七にも八にもなる。日本の太郎次郎とは違う。あれは兄弟のことを言い、ここは本家を立てて置いてから言う。それは五十にも六十にも当たることもあり、周子を六十兄と言うこともある。邢和叔は程子の弟子で最後には以の外なことになった。伊川の向こう面に回り、伊川を千段に切っても構わないなどと言った。そこで、門人衆がその噂をしたのである。あの男なども御弟子だったが、畢竟知恵がないからあの通りになって官禄に狼狽えたのだろうと言った。狼狽は俗語ではない。文選などにもあって古い文字である。そもそもは当時の俗語である。狼狽が二つ揃えばよいが、一方になると悪いから言う。そこで狼狽えたことに使う。あの通り幌を乱した処が狼狽である。この問人の畢竟知識がないからと言うのも面白い言い分である。あの様に成ったのも、つまりは知見がないからと見たもの。今道楽をするのを不身持と言わずに見識がないからと言う様なもの。これも、程門の知見の高さからの言い分である。
【語釈】
・晁以道…小学外篇善行。「近世故家惟晁氏因以道申戒子弟皆有法度。群居相呼、外姓尊長必曰某姓第幾叔若兄、諸姑尊姑之夫必曰某姓姑夫某姓尊姑夫、未嘗敢呼字也。其言父黨交游必曰某姓幾丈、亦未嘗敢呼字也。當時故家舊族皆不能若是」。
・邢和叔…邢七。後に禅学を学ぶ。

そこて伊川の、そふ云はわるい。あのやふに不埒になったも必竟義理を見ても利欲の心か勝て居るからじゃとなり。伊川にそむいたも只浪人て居るならとんじゃくはあるまい。程子と云へは誰あって人か喜はぬ。當世へ合ぬからそむかれた。皆利欲の心なり。そこて程子の弟子と云ははやいやに思ひ、程子に食あいはないなとと云のが利心から至如此なり。この人も史て姦佞の部へ入てあり、そこて学者の戒に、知識かないと云より利欲の心か勝と云て大ふ出處の吟味になることなり。惰る迠はゆるすことなれとも、師匠のずた々々に切られてもかまわぬなとと云はきついことなり。伊川の僞学の禁て陪州へ流さるる時も志ある門人は皆從て居るに、和叔あの様なことを云たゆへ、上の首尾もよかりたなり。
【解説】
「先生曰、謂之全無知、則不可。只是義理不能勝利欲之心、便至如此也」の説明。伊川は弟子の問いに対して、邢七は義理よりも利欲の心が勝っていたのだと答えた。邢七は利心から程門を離れたのである。
【通釈】
そこで伊川が、その様に言うのは悪い、あの様に不埒になったのも畢竟義理を見ても利欲の心が勝っているからだと言った。伊川に背いたことも、ただ浪人でいるのであれば頓着することはなかっただろう。程子と言えば誰であっても人は喜ばない。そこで、当世へ合わないから背かれた。それは皆利欲の心からのことである。そこで程子の弟子になっているのはもう嫌だと思った。程子に賛同することはないなどと言うのが利心からで、「至如此」である。この人も史では姦佞の部に入っており、そこで学者の戒めとして、知識がないというより利欲の心が勝つと言ったのであり、これが大分出処の吟味になること。惰るまでは許すが、師匠がずたずたに切られても構わないなどと言うのは許せないこと。伊川が偽学の禁で陪州へ流される時も志ある門人は皆従ったが、和叔はあの様なことを言ったのである。そこで、この章の首尾もうまく書けている。


第三十 謝湜自蜀云々の条

謝湜自蜀之京師、過洛而見程子。子曰、爾將何之。曰、將試敎官。子弗答。湜曰、如何。子曰、吾嘗買婢、欲試之。其母怒而弗許。曰、吾女非可試者也。今爾求爲人師、而試之。必爲此媼笑也。湜遂不行。
【読み】
謝湜[しゃしょく]蜀より京師に之くとき、洛に過[よ]ぎりて程子に見ゆ。子曰く、爾將に何に之かんとする、と。曰く、將に敎官に試せんとす、と。子答えず。湜曰く、如何、と。子曰く、吾嘗て婢を買ひ、之を試みんと欲せり。其の母怒りて許さず。曰く、吾が女[むすめ]は試む可き者に非ざるなり、と。今爾人の師と爲るを求めて、之に試す。必ず此の媼[おう]の笑いと爲らん、と。湜遂に行かず。
【補足】
・この条は、程氏遺書二一上にある伊川の語。

京師の大学校の教官があって、秀才を取上る役人なり。謝湜がこれをよいと思て行く処を伊川の不機嫌ゆへわるふごさらふと云の問なり。そこで程子の御咄をなさるる。先年をれが下女をかかゆるとき、先をいてためして見やふとしたれば、其母怒而弗許云々なり。私娘は慥なものでこざるから、奉公に出すに試るとござるならば御免なされ、中々あぶないことはないほどに其義は御ゆるしなされとなり。なるほどうい婆々じゃ。婆でさへこふしゃに、学問をして人の師となるものがそんなことをしたらば爲此媼笑れん。迂斎先年云、自重すると云がこのあやじゃ、と。只手前を高くするではなけれとも、此方から賣ものにする筈はない。我身軽る々々とせぬことなり。軽くすると手まわしがよくなる。人の師となるは向をよくせふと云ことじゃに、こちから賣るやふてはそれからあとのことが思ひやらるるなり。医者もめったに療治をしたがるやふては向で軽んずる。そこで藥がきかぬ。学者も向の為めにならぬ様な出處なれば何の役に立ものぞ。学問をするは自らのこと。内に居てなることなり。出處は向の為めぞ。悪くすると講釈をせ子ば手持不沙汰ゆへ、この方から招てするやふなことあり。それでは向の為にならぬぞ。
【解説】
学問で人の師となろうとする者が人に試される様では悪い。学問は自分自身のことで、出処は相手のためにすることである。自分を軽くする様では相手のためにはならない。
【通釈】
京師に大学校の教官の職があって、それは秀才を取り上げる役人である。謝湜がこれはよいと思って行く処、伊川が不機嫌なので、それが悪いことなのだろうかと問うた。そこで程子が御話をなさった。先年俺が下女を抱える時、先ず試しに置いて見ようとすると、「其母怒而弗許云々」である。私の娘は慥かな者ですから、奉公に出すのに試されるというのであれば奉公には出しません。全く危ないことはないのだからその義はお許し下さいと言う。なるほど殊勝な婆だ。婆でさえこうなのに、学問をして人の師となる者がそんなことをしたら「為此媼笑」。迂斎が先年言った。自重するというのがこの綾だ、と。ただ自分を高くするのではないが、自分から売り物にする筈はない。我が身を軽くしないのがよい。軽くすると手回しがよくなる。人の師となるのは向こうをよくしようということなのに、こちらから売る様ではそれから後のことが思い遣られる。医者も滅多矢鱈に療治をしたがる様では向こうが軽んじる。そこで薬が効かない。学者も向こうのためにならない様な出処をすれば何の役に立つものか。学問をするのは自らのこと。外に出ないで成ることもある。出処は向こうのため。悪くすると講釈をしないと手持無沙汰なので、自分の方から招いてそれをする様なことがある。それでは向こうのためにはならない。
【語釈】
・京師…「京」は大、「師」は衆の意。都。
・謝湜…字は持正。金堂の人。後に国子博士となる。


第三十一 先生在講筵云々の条

先生在講筵、不曾請俸。諸公遂牒戸部、問不支俸錢。戸部索前任歴子。先生云、某起自草萊無前任歴子。舊例初入京官、時用下状出給料錢歴。先生不請。其意謂、朝廷起我、便當廩人繼粟、庖人繼肉也。遂令戸部自爲出劵歴。又不爲妻求封。范純甫問其故、先生曰、某當時起自草萊、三辭然後受命。豈有今日乃爲妻求封之理。問、今人陳乞恩例、義當然否。人皆以爲本分、不爲害。先生曰、只爲而今士大夫道得個乞字慣、卻動不動又是乞也。因問、陳乞封父祖如何。先生曰、此事體又別。再三請益。但云、其説甚長、待別時説。
【読み】
先生講筵に在りしとき、曾て俸を請わず。諸公遂に戸部に牒[ちょう]し、俸錢を支せざるを問う。戸部前任の歴子を索[もと]む。先生云う、某草萊より起こり前任の歴子無し、と。舊例に初めて京官に入るに、時に下状を用いて給料錢の歴を出だす。先生請わず。其の意に謂う、朝廷我を起こすこと、便ち當に廩人粟を繼ぎ、庖人肉を繼ぐがごとし、と。遂に戸部をして自ら爲に劵歴を出さしむ。又妻の爲に封を求めず。范純甫其の故を問う。先生曰く、某當時草萊より起こり、三辭して然して後に命を受く。豈今日乃ち妻の爲に封を求むる理有らんや、と。問う、今人の恩例を陳乞[ちんこつ]するは、義として當に然るべきや否や。人は皆以て本分と爲し、害と爲さず、と。先生曰く、只而今[じこん]の士大夫は個の乞の字を道[い]い得て慣るるが爲に、卻って動不動に又是れ乞うなり、と。因りて問う、父祖を封ずるを陳乞するは如何、と。先生曰く、此は事體又別なり、と。再三益[ま]さんことを請う。但云う、其の説甚だ長ければ、別の時を待ちて説かん、と。
【補足】
・この条は、程氏遺書一九にある伊川の語。

伊川晩年講筵官をなされた時のこと。天子の御前で講釈をする役なり。あの方の事体が經筵官に出るからは俸と云ことがある。これにはこれと俸があると見ゆるなり。皆こふしたことで世間なみなことなれとも、なせにか請はれぬ。爰の諸公は伊川をひいきする歴々衆と見るべし。此時節は温公も死ぬ。定て韓持國や范文正公の御子范忠宣公などでもあろうかなり。戸部は日本民部の正で関東の勘定奉行なり。牒は、凡公儀の書付につかふことなり。諸公が祐筆に云付て書せてやられた官府のやりとりの書付を牒と云。御膝元は勿論、他國迠送り状の觸書先觸のと云が牒なり。上の方から書付を出して、程伊川はなぜに俸銭を請はぬぞと戸部への御尋なり。支は俗語なれとも官府文字なり。此方に用に立ることを支ると云。支梧と云ときは病氣のこと。此手當で持つと云様なことにつかう。朱子不可支吾は、もてまいと云こと。これで見れば俸銭で身がもてるに、それを支へぬなり。なるほど廣いことと見ゆ。伊川の出られた前任のこと、戸部の衆知らずに云はれたと見へるなり。これ迠は何役を勤めたと、これ迠のこまかなことをかいた歴子を見せられよと索めたなり。そこで、いや私儀は田舎から出たものなれば前任なし。歴子はござらぬとなり。外のものと違ひ草萊からすぐに經筵官になったゆへ、前任の歴子はないとなり。伊川も伊洛の人ゆへ片田舎でもなけれども、在野言草萊之臣、浪人から出ることを云なり。
【解説】
「先生在講筵、不曾請俸。諸公遂牒戸部、問不支俸錢。戸部索前任歴子。先生云、某起自草萊無前任歴子」の説明。伊川が晩年に講筵官になった時に俸給の申請をしなかったので、諸公は戸部に伊川が俸給を申請する様に要求した。戸部の索めに対して、伊川は直に講筵官になったので前任の歴子はないと答えた。
【通釈】
伊川が晩年に講筵官をなされた時のこと。講筵官は、天子の御前で講釈をする役である。中国の風習として、経筵官として出るからは俸給がある。これにはこれと決まった俸給があると見える。皆こうしたことで、世間では普通のことなのだが、何故か請わない。ここの諸公は伊川を贔屓する歴々の衆だと見なさい。この時節は温公も死んでいたので、きっと韓持国や范文正公の御子の范忠宣公などだったのだろう。「戸部」は、日本では民部の正で関東の勘定奉行と同じ。「牒」は、凡そ公儀の書付に使うもの。諸公が祐筆に言い付けて書かせて送る官府の遣り取りの書付を牒と言う。御膝元は勿論、他国への送り状の触書や先触というのが牒である。上の方から書付を出して、程伊川は何故俸銭を請わないのかと戸部への御尋ねである。「支」は俗語だが官府文字である。自分に用立てることを支えると言う。支梧と言う時は病気のことで、この手当で保つという様なことに使う。朱子の「不可支吾」は、保てないだろうということ。これで見れば俸銭で身が保てるのに、それを支えない。なるほどのんびりとしたことと見える。伊川の出られる前の任のことを戸部の衆が知らずに言われたものと見える。これまでは何の役を勤めたのかと、これまでの細かなことを書いた歴子を見せなさいと索めたのである。そこで、いや私は田舎から出たので前任はない、歴子はありませんと言った。他の者とは違って草莱から直に経筵官になったので前任の歴子はないと言ったのである。伊川も伊洛の人なので片田舎にいたわけではないが、野に在ることを草莱之臣と言い、それは浪人から出仕することを言う。
【語釈】
・伊川晩年講筵官…哲宗の元祐元年、伊川は西京国子監教授に任じられる(54歳)。
・温公…司馬光。
・韓持國…韓維。雍丘の人。神宗の時翰林学士に進み、開封の知事となる。哲宗の時に門下侍郎になり、太子少傅で致仕。1017~1098
・范文正公…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。仁宗に仕え辺境を守り、羌人から竜図老子と尊ばれた。989~1052
・民部…大和朝廷時代の部の一種で、豪族の私有民。蘇我部・大伴部などと豪族の氏に部の字を加えて名字とする。
・正…諸司の長官。
・祐筆…文筆に長じた人。文学に従事する者。文官。
・朱子不可支吾…朱子語類52。「蹶趨多遇於猝然不可支吾之際、所以易動得心」。
・歴子…書付。前職の歴子によって料銭(本俸の他に食費として与えられるもの)が定められていた。

小書。舊例初入京官時はたれてもこの通り、始の御定りなり。京官と云も遠國に對して云ことなり。天子の御殿てつとめるは京官なり。用下状て上から書付が下りて下したまわるの氣味なり。此度何役から何役になり都へいったゆへに月々にこれほどと云やふに、料銭歴を何人ゆへ何程と云あてがいがある。これが前任の歴子になる。それを戸部の方へ出すと俸銭が出るなり。先生不請其意云々。中々伊川などの出處は及第なとと云とは違ふ。朝筵起我て、このほふかふではない。起すと云はとりあげてつこふことなり。出身などと云こともある。これで見れば廩人の藏奉行は飯せ、庖人の臺処からは肉をよこす筈じゃとなり。こふ云が伊川の御胷にあったゆへ請ず、戸部へのあいさつも鼻をこくった様なり。
【解説】
舊例初入京官、時用下状出給料錢歴。先生不請。其意謂、朝廷起我、便當廩人繼粟、庖人繼肉也」の説明。伊川は乞うて京官になったのではないから俸給の申請をしなかったのである。
【通釈】
小書。「旧初入京官時」は誰でもこの通りで、最初の御定まりである。京官と言うのは遠国に対して言うこと。天子の御殿で勤めるのが京官である。「用下状」で上から書付が下り、それを下し賜る気味である。この度何役から何役になって都へ行ったので月々にこれほどになるという様に、料銭歴をどの様な人なのでどれほどという宛行がある。これが前任の歴子になる。それを戸部の方へ出すと俸銭が出るのである。「先生不請其意云々」。中々伊川などの出処は試験で入った者とは違う。「朝廷起我」で、自分の方から乞うたものではない。「起」とは採り上げて使うこと。出身などと言うこともある。それから見れば廩人の蔵奉行は食わせ、庖人の台所からは肉をよこす筈だと言った。この様な意が伊川の御胸にあったので請わず、戸部への挨拶も木で鼻を括った様だったのである。
【語釈】
・廩人…穀倉の係。

遂令戸部云々。ここは前の諸公から掛けたもの。諸公がいきをふきかけて、戸部の方から、伊川は請子とも券歴の手形を出してこれに准してと云になったなり。又不爲妻求封。伊川の御身分がをもいから奧方も挌式が重くなることなり。やはり夫の官位で妻も官位を付ると云ことあることなれとも、伊川はそれをされぬ。ここらは伊川などは何でも此方から乞ふと云ことはない。万代の手本になると云が、たとへ義理にはづれず先例からありても乞と云が魂ひのぬける処なり。ここが出處の大切なり。
【解説】
「遂令戸部自爲出劵歴。又不爲妻求封」の説明。そこで諸公は戸部が券歴の手形を出し、これに準じて俸銭の支給をせよと求めた。また、奥方の封も求めなかった。義理に外れず先例があったとしても、乞うと魂が抜けることになる。
【通釈】
「遂令戸部云々」。ここは前の諸公から掛けたもの。諸公が息を吹き掛けて、伊川は請わなくても、戸部の方から券歴の手形を出し、これに準じて俸銭の支給をせよと求めた。「又不為妻求封」。伊川の御身分が重いから奥方も格式が重くなること。やはり夫の官位で妻も官位を付けるということがあるが、伊川はそれをされない。ここ等が、伊川などは何でも自分から乞うということがないこと。万代の手本になると言うのが、たとえ義理に外れず先例があっても、乞ということが魂の抜ける処となるからである。ここが出処の大切な処。

范純甫の問も、すてに皆こふしたことなるに、伊川のそふなさらず、なみのあることをせぬからの問なり。そこで伊川の、某はなみとは違ふとなり。昔からぢきに經筵官になったものはない。然るに某義はじきにこの官に仰付られたゆへ、已に三度迠辞退して無據出るからはたたい世間の振合とは一々ちごふに、今更何のために女房が封を願ふぞ。旧例にはかまわぬとなり。さてこれからはこのことに付て問を設けて兼ての疑をたたすなり。伊川のことではなし。陳乞恩例と云も例のあることなり。何の挌になれば上からこふ云恩例があると云ことなり。此前にもある通り、親の官位で子ともも出るもそれなり。今當時のなりでも或は親が小從人の組頭なれば子息達は大御番に出ると云やうなこと。餘の御番衆もそれなり。これは皆きまりたこと。今公儀のは上の方から仰せ付ること。あの方のはそれをこの方から御先例の通りと願ひ乞ふことなり。全体あの方のは大まかなことて上からは出ぬと見へる。そうするのが本分のあたり前て害はないと思ふて居るなり。これも義理にをいて害はなけれとも、乞の字が伊川の氣に入らぬ。世間のあてにならぬは歴々も兎角乞ふと云字を云をほへたがいやなことなり。いつの世からかこふなりたぞ。
【解説】
「范純甫問其故、先生曰、某當時起自草萊、三辭然後受命。豈有今日乃爲妻求封之理。問、今人陳乞恩例、義當然否。人皆以爲本分、不爲害。先生曰、只爲而今士大夫道得個乞字慣、卻動不動又是乞也」の説明。日本では上が仰せ付けるが、中国では自分で願い乞うのである。それが「陳乞恩例」である。伊川は乞うことが気に入らない。
【通釈】
范純甫の問いも、既に皆こうしたことなのに、伊川はその様になさらず、普通のことをしないから問うたこと。そこで伊川が、私は並みとは違うと言った。昔から直に経筵官になった者はいない。それなのに私は直にこの官に仰せ付けられたので、既に三度まで辞退して止むを得ず出たのだから、そもそも世間の振合いとは一々違うのに、今更何のために女房の封号を願うものか、旧例には構わないと言った。さてこれからはこのことに付いての問いを設け、かねてからの疑いを質すもので、伊川のことではない。「陳乞恩例」と言うのも例があってのこと。どの格式になれば上からこういう恩例があるということ。この前にもある通り、親の官位によって子供が出るのもそれ。今時のことでも、或いは親が扈従人の組頭であれば子息達が大御番に出るという様なこと。他の御番衆もそれである。これは皆お決まりのこと。今の公儀のそれは上の方から仰せ付けるものだが、中国ではそれを自分から御先例の通りと願い乞うのである。全体あの方は大まかで上からは出さないものと見える。そうするのが本分の当り前て害はないと思っているのである。これも義理に関しては害はないが、乞の字が伊川は気に入らない。世間が当てにならないというのは、歴々もとかく乞うという字を言い覚えるからで、それは嫌なこと。いつの世からかこうなった。
【語釈】
・范純甫…名は祖禹。司馬光の門人。唐鑑を著す。1041~1098
・振合…他との比較または釣合。事のなりゆき。
・陳乞…事情を述べて乞う。
・小從人…小十人組。扈従人組。江戸幕府旗本の軍事組織。若年寄に属し、将軍を護衛し、将軍出行の時、先駆をつとめる。20人を一組とし、各組に小十人頭・組頭を置いた。
・大御番…江戸幕府の職制の一。平時は要地・城郭を守備し、戦時には先鋒となった。

だたい乞の字は乞食非人とならぶ字で、ずんとよろしふないことなれとも、慣却てなれたのなり。鳩巣先生の、をれが若ひとき顔をあかくしたことは今の若ひものは何も思はぬと云へり。乞と云のが士風のゆるみなり。此方からは乞はず、上から出るはづのことなり。処を此方から乞と云のが風俗の衰へて、丁と歴々の手紙の文言が丁寧になり、あまりいんきんすき、柔がすきるやふになる。風俗があじになると、歴々衆の口からも銭がなくてこまるなとと、町人百姓の云口上を云やうになると云のが皆慣却なり。被下なとと云口上は士以上の云はぬ口上なり。動不動は寢てもをきてもの意なり。天下一統皆この乞の字ぞ。
【解説】
「乞」とは乞食非人と並ぶ字だが、人は「慣却」でそれに慣れる。
【通釈】
そもそも乞の字は乞食非人と並ぶ字で、実に宜しくないことだが、「慣却」で慣れたのである。室鳩巣先生が、俺が若い時に顔を赤くしたことを今の若い者は何も思わないと言った。乞というのが士風の緩みである。自分からは乞わない。それは上から出る筈である。そこを自分から乞うというのが風俗の衰えで、丁度歴々の手紙の文言が丁寧になり、あまりに慇懃過ぎ、柔が過ぎる様になる。風俗が悪くなると、歴々衆の口からも銭がなくて困るなどと、町人や百姓が言う口上を言う様なる。それが皆慣却である。下さいなどという口上は士以上の言わない口上である。「動不動」は寝ても起きてもの意。天下全体が皆この乞の字になっている。

因陳乞云々。さて又それに付ての問なり。親や祖父の封號は乞ふはとふじゃとなり。眼前親や祖父は我身のこととちがい、父祖を尊ふするは私ならぬ願なれば、これは又別段のことであろふと云の問なり。既に周の追王、又孔子を王号にもしたやふに、我かこととはわけのちこうことであらふとなり。これは我身をのけて父祖を尊くすることゆへ、再三請益と問はれたなり。そこで伊川の、これに付ては長い話のあることゆへ、待別時説となり。事体又別なと云にわけもあり、近思の文會に載せてあり。さて、某若ひときの説はだたいこの人の問をけりゃうに思ひ、向をなくって鼻であしろふた様に見たなり。それでは伊川の甚た長と云がいたつらを云た筋になる。爰の答はそれにはわけあることじゃ、話のあることじゃと云たこと。なれとも、某若年の説もわるくないは、爰はだたい乞はぬ々々々と云が伊川の趣向じゃに、問手が乞ふことをたん々々と云ゆへ程子の鼻であしらい、待別時説んと云やふに見るも一意なり。乞ふ々々と云がつい親の方へきたゆへ、親ても乞はぬとも云はぬなれとも、乞はぬと云はどこ迠も乞はぬことと思ふべし。だたい事体のあることで、この手段は咄が長いと云が平な説なり。
【解説】
「因問、陳乞封父祖如何。先生曰、此事體又別。再三請益。但云、其説甚長、待別時説」の説明。父祖のために乞うのは自分のために乞う場合と異なる。ここで伊川が「待別時説」と言ったのは、説くと話が長くなるというのが一般の説だが、問い手が乞うことを色々と言うので程子が鼻であしらったと見るのも一説である。
【通釈】
「因陳乞云々」。さてまたそれについての問いである。親や祖父の封号を乞うのはどうかと尋ねた。明らかに親や祖父は我が身のこととは違い、父祖を尊ぶのは私心ではない願いなのだから、これはまた別段のことだろうという問いである。既に周の追王や孔子を王号にもした様に、自分のこととはわけの違うことだろうと言った。これは我が身のことではなく父祖を尊くすることなのだとして、「再三請益」で問われた。そこで伊川が、これについては長い話となるので、「待別時説」と言った。「事体又別」と言うのにはわけもあって、近思の文会に載せてある。さて私が若い時の説は、大方この人の問いを軽く思い、向こうを無視して鼻であしらった様に見た。しかし、それでは伊川が「甚長」と言ったのが悪戯を言った筋になる。ここの答えはそれにはわけがあることだ、話のあることだと言ったこと。しかしながら、私の若年の説も悪いものではないのであって、ここはそもそも乞わないというのが伊川の趣向なのに、問い手が乞うことを色々と言うので程子が鼻であしらい、「待別時説」と言ったという様に見るのも一意である。乞うということがつい親の方にまで来たので、親でも乞わないというのではないが、乞わないと言えばどこまでも乞わないことだと思わなければならない。そもそもここは事体のあることで、この手段を説くと話が長くなるというのが通常の説である。

これで見れば奉公するものは兎角乞と云ことをせぬがよい。伊川などのちと偏屈なと云程なことなれども、学者が世味經歴で世をわたりかどがとれてくる。それから體がかわゆくなり、つい利禄にうろたへるに、かどのあると云が頼母しきことなり。あまり恰好のほどよいことではなくとも出處はへんくつなと云やふながよし。柳橋の老人が東金の傳十良方へ泊り、朝うす暗ひ中に出て返り、なぜそふはやく帰られたと尋子たれば、もそっと居ると又朝飯を食は子はならぬからと云た。あの冨豪な家で朝飯を食ったとてとんぢゃくはなけれとも、このへん屈に出て人の家で飯を食ふは心持かはるいと云ほどながよいなり。ここが出處の魂にはいかふよい。君子は難進易退と云ので、出処も出る方へはやいと云男がもふ道に穴があく。今の学者出処に尻輕なり。乞の字も兎角御並次第御振合と云たがる。父祖の為に乞ふならばよくもあろふが、それも乞はぬと云てなければ本の魂ではない。たとへば人の物をめったにもらいたがるはわるいが、親の病氣のときは挌別なれども、それてもめったに下されと云ぬなり。人参を下されなどと乞ふこともあろふが、その乞ふもむさと乞ぬ魂てすることなり。爰を父祖の為ならばと通されぬ。すら々々して道理なりと云とつい道理ごかしになるから出處の心得大切なり。学者のたしなみなり。士人の風節乞ふと云字はいやなことなり。
【解説】
学者は角が取れて来るよりも偏屈な方がよい。角の取れた者が道理を言っても、それは道理ごかしである。父祖のために乞うのなら悪くもないだろうが、それも乞わないと言うのでなければ本当の魂ではない。
【通釈】
これで見れば奉公する者はとかく乞うということをしないのがよい。伊川などは少し偏屈だという程だが、学者が世味経歴で世を渡り角が取れて来る。それから身が可愛いくなってつい利禄に狼狽えるが、角があるというのが頼もしいことである。出処は、あまり恰好がよくなくても偏屈だという方がよい。柳橋の老人が東金の伝十郎方に泊まり、朝の薄暗い内に出て帰る。何故その様に早く帰られたと尋ねると、もう少しいるとまた朝飯を食わなければならないからと言った。あの富豪の家で朝飯を食ったからといって頓着することはないが、この偏屈で、人の家で飯を食うのは心持が悪いと言うほどのことがよい。ここが出処の魂には大層よい。君子は「難進易退」と言い、出処も出る方に早い男の道は直ぐに穴が空く。今の学者は出処に尻軽である。乞の字もとかく御並次第御振合と言いたがる。父祖のために乞うのならよくもあろうが、それも乞わないと言うのでなければ本当の魂ではない。たとえば人の物を滅多矢鱈に貰いたがるのは悪い。親の病気の時は格別だとしても、それでも下さいとは滅多に言ってはならない。人参を下さいなどと乞うこともあるだろうが、その乞うことも無闇に乞わない魂でするのである。ここを父祖のためであればと通すことはできない。すらすらとして道理の通りと言えばつい道理ごかしになるから、出処の心得が大切である。それが学者の嗜みである。士人の風節に乞うという字は嫌なこと。
【語釈】
・柳橋の老人…大原要助。大網白里の人。
・傳十良…櫻木誾斎の長男。
・難進易退…孟子万章章句上8集註。「徐氏曰、禮主於辭遜、故進以禮。義主於制斷、故退以義。難進而易退者也。在我者有禮義而已。得之不得則有命存焉」。


第三十二 漢策賢良云々の条

漢策賢良、猶是人擧之。如公孫弘者、猶強起之、乃就對。至如後世賢良、乃自求擧爾。若果有曰我心只望廷對、欲直言天下事、則亦可尚已。若志富貴、則得志便驕縱、失志則便放曠與悲愁而已。
【読み】
漢のとき賢良を策するに、猶是れ人之を擧ぐ。公孫弘の如き者は、猶強いて之を起こし、乃ち對に就けり。後世の賢良の如きに至りては、乃ち自ら擧げられんことを求むのみ。若し果たして我が心只廷對のみを望むは、直ちに天下の事を言わんと欲すればなりと曰うもの有らば、則ち亦尚ぶ可きのみ。若し富貴を志すときは、則ち志を得ば便ち驕縱にして、志を失わば則ち便ち放曠と悲愁とのみ。
【補足】
・この条は、程氏遺書一にある。

漢に賢良の策と云がありて、上から取上げることなり。賢德のあるものを上から取上げると云のがやはり董仲舒の對策と云もそれ。義理と云ものは有物必有言で、上へ申上けることが一々道理にかのふなれば賢良ぞ。そこが對策なり。猶是とは漢だけに云口上と見るべし。本のことは三代の通り。漢などは本のことではなけれとも、猶是。上の方の人が見出してあげる。公孫弘も十分の人てはないから又猶と云なり。あまり好ましくもない人なり。すんと重い身分になった人てあまり不断が馳走すべき人てもなけれとも、強て起之してから出られた。國人固推弘とあり、あれでなければならぬと云になったなり。後世はいこふわるくなり、下で兎角謝湜がやふに此方からするなり。
【解説】
「漢策賢良、猶是人擧之。如公孫弘者、猶強起之、乃就對。至如後世賢良、乃自求擧爾」の説明。賢良の策に公孫弘が推されて挙げられた。彼は褒めるべき者ではないが国人が推したのでしかたなく出たのである。
【通釈】
漢に賢良の策という制度があり、それは上から採り上げること。賢徳のある者を上から採り上げるというのが、やはり董仲舒の対策もそれである。義理は「有物必有言」で、上へ申し上げることが一々道理に叶うのであれば賢良であり、そこが対策である。「猶是」は漢だけに言える口上だと見なさい。本来のことは三代の通りで、漢などは本来のことではないのだが、「猶是」である。上の方の人が見出して挙げる。公孫弘も十分な人ではないから、また猶と言うのである。あまり好ましくもない人である。かなり重い身分になった人で、普段はあまり褒めるべき人でもないが、「強起之」なので出られた。「国人固推弘」とあり、あれでなければならないということになったのである。後世は大層悪くなり、下にいてとかく謝湜の様に自分からした。
【語釈】
・賢良の策…賢良は賢良方正と言って試験科目の一つ。策は官吏登用試験の問題。
・有物必有言…「物」は「德」の誤りではないか?論語憲問5。「子曰、有德者、必有言。有言者、不必有德。仁者必有勇。勇者不必有仁」。
・公孫弘…漢の武帝の時の人。丞相となる。前200~前121
・國人固推弘…漢書列伝公孫弘卜式兒寬伝。「元光五年、復徵賢良文學、菑川國復推上弘。弘謝曰、前已嘗西、用不能罷、願更選。國人固推弘、弘至太常。上策詔諸儒」。
・謝湜…字は持正。金堂の人。後に国子博士となる。出処30に彼の話がある。

だけれとも爰が一がいに云はれぬは欲直言天下て、天下に志のある人は必隠者のやうではない。范文正公なども概然として有志天下とあり。廷對はすぐに天子に直對して申上けることなり。本に志のある人が天下のことが天子へ通せぬこともあり、天下の為になることを申上ることなり。これらは可尚ことぞ。これは事で云ことではなく志を云ことなり。隠者とは違い、天下の爲になることを申上けたいと云なれば可尚ことなり。だけれともそんなはすけない。志を得て上に用ひられると冨貴と云ことが付てある。たとへ天下のことは直言しても、全体が志在冨貴て兩方あるものなり。
【解説】
「若果有曰我心只望廷對、欲直言天下事、則亦可尚已」の説明。天下に志のある人が天下のためになることを天子に直言するのは尚ぶべきことだが、それと共に富貴に志があるものである。
【通釈】
しかしながら、ここが一概に言うことのできないのは「欲直言天下」で、天下に志のある人は決して隠者の様ではないからである。范文正公なども概然として有志天下とある。「廷対」は直に天子に直対して申し上げること。天下の事が天子へ通じないこともあって、本当に志のある人が天下のためになることを申し上げること。これ等は尚ぶべきこと。これは事で言ったことではなく志を言ったこと。隠者とは違って天下のためになることを申し上げたいと言うのであれば尚ぶべきことである。しかし、その様な者は殆どいない。志を得て上に用いられると富貴ということが付いてある。たとえ天下のことを直言しても、全体が志在富貴であって、両方があるもの。
【語釈】
・范文正公…范仲淹。北宋の詩人・文筆家。字は希文。蘇州呉県の人。仁宗に仕え辺境を守り、羌人から竜図老子と尊ばれた。989~1052
・概然として有志天下…

出処の始に欲尊之心與行道之心と交戦於中とある。兎角この心がぬけぬもの。浪人も大名に用られたいと云心があるから何そのときほろを乱す。驕は氣の高ぶることなり。その高ぶりから縱になる。今の世にをれ一人と云氣になると其驕から身持もついしだらくになる。高ぶると縱になる。驕は子とものときからついてある疾ひ。自幼驕惰壞了の驕なり。世間の人を人くさいとも思はぬ。驕から縱になるは人くさいとも思はぬ処から。こはいものないで身持もわるくなる。どふしたとてをらに指をさすことがなるものかと出る。古今歴々の人たちが用ひらるるとつい驕縱になる。管夷吾は市より挙ると云、管仲も三歸反坫と、それなり。宋の王旦などもしまいにはつい好色めき奢にもなったり、驕がじだらくをもってをるものなり。学者もをら以上は酒を呑でもよいの、ちと文義ふれがあってもよいなどと出たがるが、驕縱になったのなり。根がほんのものでないと冨貴で動くなり。
【解説】
「若志富貴、則得志便驕縱」の説明。「驕」は気の高ぶることで、それから「縦」になる。古今の歴々も用いられて驕縦になった。根が本物でないと富貴で心が動く。
【通釈】
出処の始めに「欲貴之心与行道之心交戦於中」とある。とかくこの心が抜けないもの。浪人も大名に用いられたいという心があるから何かの時に幌を乱す。「驕」は気の高ぶること。その高ぶりから「縦」になる。今の世には俺一人という気になるとその驕から身持もつい自堕落になる。高ぶると縦になる。驕は子供の時から付いてある疾で、「従幼便驕惰壊了」の驕である。世間の人を人臭いとも思わない。驕から縦になるのは人臭いとも思わない処からである。恐いものがないので身持ちも悪くなる。どうでも俺に指を指すことができるものかと出る。古今歴々の人達が用いられるとつい驕縦になる。管夷吾は市より挙げられたと言われるが、管仲も「三帰反坫」と、それである。宋の王旦なども最後にはつい好色めいて奢にもなった。驕は自堕落を持っているもの。学者も俺以上なら酒を呑んでもよいとか、少々文義に違いがあってもよいなどと出たがるのが、驕縦になった処。根が本物でないと富貴で動く。
【語釈】
・欲尊之心與行道之心と交戦於中…出処4。「若欲貴之心、與行道之心、交戰於中、豈能安履其素乎」。
・自幼驕惰壞了…克己41。「世學不講、男女從幼便驕惰壞了、到長益凶狠」。
・管夷吾…管仲。
・三歸反坫…論語八佾22。「子曰、管仲之器小哉。或曰、管仲儉乎。曰、管氏有三歸。官事不攝、焉得儉。然則管仲知禮乎。曰、邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮、孰不知禮」。
・王旦…北宋の人。真宗が即位した当時は副宰相を務める。後に宰相となる。

又失志。冨貴なものが引込と丸に道樂になる。放曠ぞ。此間まで先供で駕籠であるいたものが浪人して、これからはどふでもよいと一休もどきをやりて見せたりして、仁者無歒脇指もいらぬなどと云。又それでなければ悲愁してしほ々々として泣ぬ斗りになる。このかみな身分したいで色々に易る。用ひらるれば驕惰になり、引込は放曠の道樂が悲愁の泣出すかなり。兎角義理を知ら子ばならぬ。素冨貴行冨貴素貧賎行貧賤。こふした魂でなければ出處はたぎらぬ。凡人は冨貴に目が付くから用ひられるとのりがつき、引込と頭を刺ら子ばならぬ様になる。なぜなれば、昨日迠は道具もたせて立波にして通たものが、今日は偏笠一つにまがった杖ばかりになることゆへ、皆うろたへる。そんな心では仕へてとふして君の為になるものぞ。病身な医者のかけあるくやふなもの。人をなをすより我身が先つ風寒にあたる。そこで学者も道を得子ば病身ぞ。病身なものが外へ手を出すことはない。やはり屈己者能不有伸人者ぞ。此方がまかりた出処てどふして道を行れやうぞ。
【解説】
「失志則便放曠與悲愁而已」の説明。人は用いられれば驕惰になり、引っ込めば放曠で道楽か悲愁で泣き出すかである。それは狼狽があるからであり、そうならないためには義理を知らなければならない。
【通釈】
また、「失志」。富貴な者が引っ込むとすっかりと道楽者になる。それが「放曠」である。この間まで先供に駕籠で歩いていた者が浪人になって、これからはどうでもよいと一休もどきをやって見せたりして、仁者無敵で脇指も要らないなどと言う。また、そうでなければ「悲愁」してしおしおとして泣きだすばかりになる。これが皆身分次第で色々に変わる。用いられれば驕惰になり、引っ込めば放曠の道楽か悲愁の泣き出すかである。とかく義理を知らなければならない。「素富貴行富貴素貧賎行貧賎」。こうした魂でなければ出処は滾らない。凡人は富貴に目が付くから用いられると乗りが付き、引っ込むと頭を剃らなければならない様になる。それは何故かと言うと、昨日までは道具を持たせて立派にして通った者が、今日は編笠一つに曲がった杖だけになることなので、皆狼狽えるのである。そんな心では仕えてどうして君のためになるものか。病身な医者が駆け歩く様なもの。人を治すよりも自分の身が先ず風寒に当たる。そこで学者も道を得なければ病身である。病身な者が外へ手を出すことはない。やはり「屈己者能不有伸人者」である。自分が曲がった出処をして、どうして道を行うことができるだろうか。
【語釈】
・素冨貴行冨貴素貧賎行貧賤…中庸章句14。「君子素其位而行、不願乎其外。素富貴、行乎富貴。素貧賤、行乎貧賤。素夷狄、行乎夷狄。素患難、行乎患難。君子無入而不自得焉」。
・屈己者能不有伸人者…