孟子筆記

序説 天明八年戊申三月十一日開講
【語釈】
・天明八年・・・1788年。

孟子の書を讀に第一の眼が入る。それはどうなれば、孔子と一致と見ることなり。風たいはちがへども道が同ことなり。孔子は尭舜文王孔子と並ぶ生知安行の圣人なり。その孔子と同ことと云は道で云たものなり。仲尼は己甚ことをせざると云て、ふっくりとして老子に似たやうな人なれども、大きに違う。孟子は違う処あるやうなれとも、中は一致なり。孔子は老子に似た処あるとて、似たが気の毒に非す。孔子の御皃が陽虎に似たとて、何も孔子の方でかまふことはない。孔子はあの通り垩人、陽虎は君を無みする謀叛人なり。子が親の顔に似たとて親の役を云付ると云ことに非す、只其意気の同じ処で云付ることなり。孔子の語を読で見れば、すらりとして坐敷をしゅろ箒で掃くやふなもの。孟子は事実で庭を竹箒で掃くやうなれども、塵を取は同ことなり。論語と孟子の語を読で見るに云云。孟子とは孟子のあみ玉ふ書ゆへ孟子と書名にする。老子荘子と云と同ことなり。
【解説】
孟子を読むには、孟子が孔子と一致しているということを前提とすることが重要である。孟子と孔子とでは風体は違うが道は同じである。
【通釈】
孟子の書を読むには第一に見方が重要である。それはどういうことかというと、孔子と一致すると見るのである。孟子と孔子とでは風体は違うが道は同じである。孔子は堯・舜・文王・孔子と並ぶ生知安行の聖人である。その孔子と同じであると言うのは道のことで言ったもの。仲尼は已甚[はなは]だしきことをせざる者なりと言われ、ふっくりとして老子に似たような人だが、老子とは大きく違う。孟子は孔子と違う処があるようだが、中は一致している。孔子に老子に似た処があるとしても、似ていることが気の毒ということではない。孔子のお顔が陽虎に似ているとしても、何も孔子の方で構うことはない。孔子はあの通りの聖人、陽虎は君を無みする謀叛人である。子が親の顔に似ているから親の役を言い付けるというわけではない。只その意気の同じ処で言い付けるのである。孔子の語を読んでみれば、すらりとして座敷を棕櫚箒で掃くようなもの。孟子は事実で庭を竹箒で掃くようなものだが、塵を取るのは同じこと。論語と孟子の語を読んでみるに云云。孟子とは、孟子の編まれた書なので孟子と書名にする。老子・荘子と言うのと同じこと。
【語釈】
・生知安行・・・中庸章句20。「或生而知之、或學而知之、或困而知之。及其知之一也。或安而行之、或利而行之、或勉強而行之。及其成功一也」。
・仲尼は己甚ことをせざる・・・孟子離婁章句下10。「孟子曰、仲尼不爲已甚者」。
・陽虎…孔子は陽虎に間違えられる(論語子罕5)。陽虎は陽貨。季孫氏の家臣でありながら、主家を抑えて魯の国政を動かした。後に乱を起こして敗れ、亡命した。

序説は一つゝゝに序の中に説がきれゝゝになってあるゆへ序説と云なり。史記列傳曰。史記に列傳あるなり。歴々を世家と云。名高い者の云たことあるを列傳と云。列は並べてあるゆへ列、傳は後世へのこすゆへ傳と云。△趙氏は趙岐。孟子の古註なり。古るいゆへ朱子のこゝへ出したり。
【解説】
「史記列傳曰、孟軻、趙氏曰、孟子、魯公族孟孫之後。漢書注云、字子車、一說、字子輿。」の説明。序説・列伝の意味を説明する。
【通釈】
序説とは、序の中に説が切れ切れになってあるので序説と言う。「史記列傳曰」。史記に列伝がある。歴々を世家と言う。名高い者の言を載せたのを列伝と言う。列は並べてあるので列、伝は後世へ遺すので伝と言う。△趙氏は趙岐。孟子の古註である。古いので朱子がここに出した。

騶人なり。△邾国は魯の附庸なり。孟子の時分は鄒なり。邾国は魯へ近い国で、拍子木をうてば魯へ聞へる。
【解説】
「騶人也。騶、亦作鄒。本邾國也。」の説明。邾国を説明する。
【通釈】
「騶人也」。△邾国は魯の附庸である。孟子の時分は鄒であった。邾国は魯へ近い国で、拍子木をうてば魯に聞える。

受業子思之門人。業は学業なり。学を子思の弟子に得たり。△王邵以人爲衍字。又弟子てはない、直弟子じゃと云。孔叢子は孔子より八代の孫。これも又直弟子とあるなり。こゝらに眼が入。こゝは直弟子にして見たがるものなり。それが学の水ばなれせぬのなり。直弟子でも又弟子てもかまはぬことなり。格式の上にはあることなり。御直参と又者とは違ことなり。こゝで直弟子の又弟子のと気をもむことはない。なれどもをして見れば孫弟子の方がよかろふと云。年数でへるに、孔子の二十の時伯魚生れ、五十一の時死す。孔子の御逝去の時は子思は御成長で有たり。さすれば孔子と孟子は時代がよほとはなれたれは、史記の方がよかろふと云。
【解説】
「受業子思之門人。子思、孔子之孫、名伋。索隱云、王劭以人爲衍字。而趙氏注及孔叢子等書亦皆云、孟子親受業於子思。未知是否。」の説明。孟子が子思の直弟子か又弟子かは問題ではないが、年数で考えれば又弟子の方がよい。
【通釈】
「受業子思之門人」。業は学業である。学を子思の弟子に得た。△「王劭以人爲衍字」。又弟子ではない、直弟子だと言う。孔叢子は孔子より八代の孫。これもまた直弟子だと言う。ここらに眼が要る。ここは直弟子にして見たがるものだが、それが学の水離れしないということ。直弟子でも又弟子でも構わないのである。格式の上ではそれはあることで、御直参と又者とでは違う。しかし、ここで直弟子だとか又弟子だとかと気を揉むことはない。しかしながら、推して見れば孫弟子の方がよいだろうと言う。年数でえるに、孔子が二十歳の時に伯魚が生まれ、五十一歳の時に死んだ。孔子御逝去の時は子思は成長しておられた。そうであれば、孔子と孟子とは時代が余程離れていたのであるから、史記の方がよいだろうと言う。
【語釈】
・又弟子・・・孫弟子。
・又者・・・陪臣。又家来(家来の家来。)。

道既通の三字、史記の内で莫大なことを記したり。これは孟子の御身の上で云たもの。何でもならぬことはない。天地日用五倫の上は云にも及はぬ。何事でも孟子のならぬと云こともなく、不得手と云こともなく、道理に通してあったゆへ、行に不出来と云ことはない。蔡虚齋が道既通はかるく見るがよいと云。山崎先生がそしりて、譬へ司馬選が書たらふとも、孟子の御身の上を書たれば、重く見るがよいと云。△趙氏曰。孟子は五経に通じたが、中でも詩経書経に長じたと云。これがわるい云やふではないが、食いたりぬ。漢の事業で見たやふなこと。
【解説】
「道旣通、趙氏曰、孟子通五經、尤長於詩書。」の説明。孟子は道理に通じていたので何でも出来ないことはなかった。それで「道旣通」と言う。
【通釈】
この「道旣通」の三字は、史記の中で莫大なことを記したもの。これは孟子の御身の上で言ったもの。何でも出来ないことはない。天地日用五倫の上は言うにも及ばない。何事でも孟子に出来ないということはなく、不得手ということもなく、道理に通じていたので、行に不出来ということはない。蔡虚斎が道既通は軽く見なさいと言った。それを山崎先生が譏って、たとえ司馬遷が書いたとしても、孟子の御身の上を書いたのだから重く見るのがよいと言った。△「趙氏曰」。孟子は五経に通じていたが、中でも詩経と書経に長じたと言う。これは悪い言い方ではないが、食い足りない。漢の事業で見たようなもの。
【語釈】
・蔡虚齋…
・山崎先生…山崎闇斎。

程子曰云云。趙岐が四書に通じたと云がわるい云やふではないが、眼は大切のことなり。詩に云、書に云と澤山あったゆへ長じたと云が、それは子ともの、鳥が居ればあそこに鳥が居たと見るやふなもの。程子のこの目なとは高いことなり。孟子の中に何でも易のことを云たことはないが、この語で見取たもの。孟子曰可以仕則仕云云。仕へてよければ仕へ、仕へてわるいときは止む。ゆったりとしてよいときはゆっくりと居る。そんならどこでもゆっくりとするかと思うに、衛靈公が陳を問の明日遂去る。或接淅而去る時もあり。孔子は垩之時なる者。寒ければ綿入、暑けれは帷子、朝廷では便々、郷黨では恂々如與上大夫言則誾々如、與下大夫言則侃侃如。何でも定った流義と云ことはない。丁どよいときにあたって其道を行ふ。皆中庸の道理なり。故知易。これが只知れることに非ず。易を知ら子ば出来ぬことなり。天地は暑くもなる、寒くもなる。かはるなり。圣人に伯夷流の桺下惠流のと云ことはない。今易者と云へば蓍を取て占ふを云。こゝの易は孔子の御身について云。
【解説】
程子曰、孟子曰、可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速。孔子聖之時者也。故知易者莫如孟子。」の説明。趙岐は孟子が四書に通じていると言ったが、程子は孟子が孔子のことを聖の時なる者と言ったことで、孟子に易のことは一つも書かれていないが、孟子は易を知っていると言った。
【通釈】
「程子曰云云」。趙岐が孟子は四書に通じていると言ったのは悪い言い方ではないが、眼は大切である。詩に云う、書に云うと沢山記されていたので長じたと言うが、それは子供が、鳥がいればあそこに鳥がいると見るようなもの。程子のこの目などは高いこと。孟子の中に易のことを言ったことは何もないが、この語で見取ったもの。「孟子曰、可以仕則仕云云」。仕えてよければ仕え、仕えて悪い時は止む。ゆったりとしてよいときはゆっくりとしている。それならどこでもゆっくりとするかと思えば、衛霊公が陳を問うた明日には遂に去る。或いは淅[かしみず]を接[う]けて行[さ]る時もある。孔子は聖の時なる者。寒ければ綿入れ、暑ければ帷子、朝廷では便々、郷党では恂々如、上大夫と言うときは誾々如、下大夫と言うときは侃侃如。何でも定まった流儀はない。丁度よい時にあたってその道を行う。皆中庸の道理である。「故知易」。単に知っているということではない。易を知らなければ出来ないこと。天地は暑くもなり寒くもなる。変わるもの。聖人に伯夷流とか柳下恵流とかということはない。今易者といえば蓍を取って占う者のことを言う。ここの易は孔子の御身について言ったもの。
【語釈】
・衛靈公が陳を問の明日遂去る…論語衛靈公1。「衛靈公問陳於孔子。孔子對曰、俎豆之事、則嘗聞之矣。軍旅之事、未之學也。明日遂行」。
・接淅而去る…孟子萬章章句下1。「孔子之去齊、接淅而行、去魯曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。可以速而速、可以久而久、可以處而處、可以仕而仕、孔子也」。
・孔子は垩之時なる者…孟子萬章章句下1。「孟子曰、伯夷、聖之淸者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也」。
・朝廷では便々、郷黨では恂々如…論語郷黨1。「孔子於郷黨、恂恂如也。似不能言者。其在宗廟・朝廷、便便言。唯謹爾」。
・與上大夫言則誾々如、與下大夫言則侃侃如…論語郷黨2。「朝與下大夫言、侃侃如也。與上大夫言、誾誾如也」。

又曰王者之迹熄。周の末、天子に相違はなけれども微々になりたり。勢行はれず、平王東遷の後、諸大名命を用ひず。天子より使者やっても、返答するものもあり、すてゝおけなどゝ云者も有て何とも思はぬ。詩亡。これを出さずともよさそふなものに、史記にはこのやふなことも出すなり。天子の御祭のとき、周南召南頌の詩を歌う。それを倍臣の李氏迠用るやふになり、樂も古とは違ふてきた。そこを孔子のなげき玉ふ。詩が亡ぶれば春秋を作ら子ばならぬ。無義戦。あの内に一つでも道理から出た軍はない。切取強盗も同ことなり。何でも軍を起して人の国を取ることを手柄にするなり。又曰春秋は天子の事なり。魯一国のことを記録したことで、孔子の御手を入れられたことなれども、あれが天子のことなり。尹氏の以此と云は、程子の語をふまへて、これで見れば云云なり。
【解説】
又曰、王者之跡熄而詩亡。詩亡然後春秋作。又曰、春秋無義戰。又曰、春秋天子之事。故知春秋者莫如孟子。尹氏曰、以此而言、則趙氏謂孟子長於詩書而已、豈知孟子者哉。」の説明。周の末期は周の権威が落ち、天子の詩や楽を陪臣が用いるようになったので「詩亡」である。春秋の時は道理に外れたことばかりであった。
【通釈】
「又曰、王者之跡熄」。周の末、天子には相違ないのだけれども微々になった。勢い行われず、平王東遷の後になっては諸大名が天子の命を用いなかった。天子から使者を遣っても、返答する者もあり、棄てて置けなどと言う者もあってそれを何とも思わなかった。「詩亡」。これを出さなくてもよさそうなものなのに、史記にはこの様なことも出す。天子の御祭の時には周南・召南・頌の詩を歌う。それを陪臣の李氏までが用いるようになり、楽も古とは違って来た。そこを孔子が嘆かれた。詩が亡んでしまえば春秋を作らなければならない。「無義戰」。あの内には一つも道理から出た軍はない。切取り強盗と同じである。何でも軍を起こして人の国を取ることを手柄にする。「又曰、春秋天子之事」。春秋は魯一国のことを記録したものであって、孔子が御手を入れられたものなのだが、あれが天子のことである。尹氏が「以此」と言ったのは、程子の語を踏まえてこれで見れば云云ということ。

○游は道既通から見がよい。道既通は明徳なり。游は新民なり。道既通たれば、ぢっとして居ることに非ず。隱者のやふなことはない。宣王の用で尊ふ心あるゆへ出たなり。直方先生の游事と点を直せり。游事とは、齊へ往て録をいくら取て役をすると云ことに非ず。宣王の御客になって道理の御咄をし、御心を改るために御坐る。そんなら事へりと云そふはないものと云はんが、斉の国に居て食て居れば、御客なりとも宣王は君なれば事ると云。宣王はよい人で、ものにも成る人と思へども、不能用。不能と云が面白。用ること得ならぬ。何なれば、こらへ情がない。こらへ情のないと云は、孟子のことを聞くと我か人欲の邪魔になる。そこで宣王が欠じゃ。それゆへ斉に居られぬ。適梁。梁惠王不果所言云云。惠王の自云たことなり。梁惠王篇にも寡人安承教とある。これからは心ををししづめて学問致そうと云ながら、とかく軍の相談ばかりしかける。
【解説】
「游事齊宣王。宣王不能用。適梁。梁惠王不果所言。」の説明。「道旣通」は明徳、「游」は新民である。斉の宣王の所に行ったが、宣王は孟子を用いることが出来なかった。そこで梁に行ったが、梁の恵王は自ら学問をしたいと言いながら戦の相談ばかりをした。
【通釈】
○「游」は「道旣通」から見るのがよい。道既通は明徳、游は新民である。道が既に通じれば、じっとしていはいない。隠者の様なことはない。宣王の用で彼に尊ぶ心があるから出た。直方先生が游事[ゆうじ]と点を直した。游事とは、齊へ往って禄を取って役をするということではない。宣王の御客になって道理の御話をし、御心を改めるためにいる。それなら事えりと言いそうなものではないと言うだろうが、斉の国にいて食っていれば、御客だとしても宣王は君であるから事えると言う。宣王はよい人で、ものにも成る人と思ったが、「不能用」。不能と言うのが面白い。用いることができない。それは何故かというと、堪え情がない。堪え情がないというのは、孟子のことを聞くと我が人欲の邪魔になる。そこで宣王が欠[あくび]をする。それで斉にいられない。「適梁」。「梁惠王不果所言云云」。恵王が自ら言ったこと。梁恵王篇にも「寡人安承敎」とある。これからは心を押し沈めて学問を致そうと言いながら、とかく軍の相談ばかりを仕掛ける。
【語釈】
・直方先生…佐藤直方。五郎左衛門と称す。備後福山の人。江戸に住む。享保4年(1719) 8月15日没。年70。
・寡人安承教…孟子梁惠王章句上4。「梁惠王曰、寡人願安承敎」。

○見以爲は、孟子の言を聞て惠王がをもへりなり。迂遠は、まわり遠いと云なり。闊於事情は、孟子の言ふことをば、あれは古風じゃ、當世には合はぬと云なり。孟子がまはり遠い人ではない。孟子のことを読でみるに何もかも的実なことなれども、惠王が迂遠と云は、本とうのことを云ゆへなり。戦国の時は其坐其坐に間に合なことばかりする。それを天下に及ぼそうと思ふなら、御前の御心から直し玉へと云。△史記と孟子年数合はぬ。合はぬが孟子の御德に構はぬが、孟子を尊敬するもの。通鑑は司馬温公の作、考異も同し。このやうな時代の違ふたことをば通鑑に出して考異で細かに説を付て置が、こゝは考異に何ともない。直方先生曰、大ていに見ておけ、と。○當是之時と云文字が孟子が世に合はぬと云ことを見せたもの。孟子は天下中を教て皆君子にしやふと云心。諸大名は、あの大賢の孟子ゆへ用ひたら国のつよみになろふと思へば、仁になれ、義を行へと云。それでは用いられぬはづじゃは。當是之時秦用商鞅。商鞅なみゝゝのものではない。これでゆかずはこの手でやろふと、色々世話をいたして秦に勢を付たもの。されとも仕廻には秦に殺された。孫子は孫臏がことなり。
【解説】
「則見以爲、迂遠而闊於事情。按史記、梁惠王之三十五年乙酉、孟子始至梁。其後二十三年、當齊湣王之十年丁未、齊人伐燕。而孟子在齊。故古史謂、孟子先事齊宣王、後乃見梁惠王・襄王・齊湣王。獨孟子以伐燕爲宣王時事、與史記・荀子等書皆不合。而通鑑以伐燕之歳爲宣王十九年、則是孟子先游梁、而後至齊見宣王矣。然考異亦無他據。又未知孰是也。當是之時、秦用商鞅、楚魏用吳起、齊用孫子・田忌、」の説明。戦国の時は場当たり的なことばかりをしたので、仁になれ、義を行えと言う孟子を恵王は迂遠で当世に合わないと思った。史記と孟子とでは年数が合わないが、そのことについて直方先生は適当に見ておけと言った。
【通釈】
○「見以爲」は、孟子の言を聞いて恵王が思ったこと。「迂遠」は、回り遠いということ。「闊於事情」は、孟子の言うことを、あれは古風だ、当世には合わないと言うこと。孟子は回り遠い人ではない。孟子のことを読んでみると何もかも的実なのだが、恵王が迂遠と言うのは孟子が本当のことを言うからである。戦国の時はその座その座に間に合いなことばかりをする。孟子は、それを天下に及ぼそうと思うのなら、御前の御心から直し玉えと言う。△史記と孟子とでは年数が合わない。合わなくても孟子の御徳に関係は無いが、孟子を尊敬するもの。通鑑は司馬温公の作、考異も同じ。この様な時代の違ったことを通鑑に出して考異で細かに説を付けて置くものだが、ここは考異に何ともない。直方先生曰く、大抵に見て置け、と。○「當是之時」という文字が、孟子が世に合わないということを見せたもの。孟子は天下中を教えて皆君子にしようという心。諸大名が、あの大賢の孟子なので用いたら国の強みになるだろう思えば、仁になれ、義を行えと言う。それでは用いられない筈である。「當是之時、秦用商鞅」。商鞅は並々の者ではない。これでうまくいかなければこの手でやろうと、色々と世話をして秦に勢いを付けた。しかしながら最後には秦に殺された。孫子は孫臏のこと。

○合從連衡。孟子の時は七雄と云て、七国が勢をはって争ふた。とふゝゝ仕舞には秦の始皇が天下を取ったり。秦は商鞅を用るときより勢いつよし。六国のもの力を合せて秦と戦ふたが合從なり。連衡は蘓秦張儀の手になったとき、どふしても秦に叶はぬゆへ、六国が一つになって秦をつぶそふと相談したれとも、張儀が秦に居て世話をし、蘓秦が六国へ説ても實は秦をも引たゆへ秦がますゝゝつよくなり、六国を合せて討ふとしたを合從と云。合從連衡は地形のたてを合せ、よこをつらぬと云文字で、秦では從を合せて六国を取ふと云、六国では秦を討って衡をつら子やふと云の争なり。合從連衡のこと誤聞あるべし。ちがひあり。○務ると云は專らこのことを家業にして外のことにはかまはぬ。百姓の農業と同ことなり。以攻伐爲賢。軍を起し切取を手柄にするときなり。○而。こゝらが司馬遷が筆なり。合從連衡を專ら仕事にするときに、而孟子一人唐虞三代の德を述へりじゃ。古へ堯舜の道をもって説くゆへ世間の諸大名は合はぬ。孟子が人にへつらってことをするなら、あの孟子じゃもの、中々蘓秦張儀の下につくことはない。孔明張良たりとも及ぶことではないが、其やふな人ならば戦国の巾着切仲か間なり。孔子と並ぶの何のと云処ではないなり。○退而與萬章之徒序詩書。これが孔子の六十八ぞ。魯へ返って書傳云云と同ことなり。孟子の書は御手前のことを顕はして王覇を辨じ、楊墨を開いたことなどを世にあらはしたものなり。△趙岐がこの長い孟子七篇をのこらず章をかぞへ字を數ふと云が何のやくにたゝぬやふなれども、これが尊ぶ上からでなければならぬことなり。二説不同史記近是。朱子の文筆を以て史記近是と云。孟子の内の文を見るに中々萬章公孫丑がしたやふには見へぬ。
【解説】
「天下方務於合從連衡、以攻伐爲賢。而孟軻乃述唐虞三代之德。是以所如者不合。退而與萬章之徒序詩書、述仲尼之意、作孟子七篇。趙氏曰、凡二百六十一章、三萬四千六百八十五字。韓子曰、孟軻之書、非軻自著。軻旣沒、其徒萬章・公孫丑相與記軻所言焉耳。愚按、二說不同、史記近是。」の説明。孟子の時は合従連衡の時であった。この時に孟子は一人唐虞三代の徳を述べた。その様な人だから孔子と並ぶのである。孟子の書は万章・公孫丑が記したとする説もあるが、朱子は史記の説に与した。
【通釈】
○「合從連衡」。孟子の時は七雄と言って、七国が勢いを張って争い、とうとう最後には秦の始皇が天下を取った。秦は商鞅を用いた時から勢いが強くなった。六国の者が力を合わせて秦と戦ったのが合従である。連衡は、蘇秦・張儀の手になった時、どうしても秦に敵わないので、六国が一つになって秦を潰そうと相談したのだが、張儀が秦にいて世話をして、蘇秦が六国へ説いても実は六国が秦にも通じていたので秦が益々強くなった。六国を合わせて討とうとしたのを合従と言う。合従連衡は地形の縦を合わせ、横を連ねるという文字で、秦では縦を合わせて六国を取ろうとし、六国では秦を討って衡を連ねようとする争いである。合従連衡のこと、きっと誤聞がある。違っている。○「務」とは、専らこのことを家業にして外のことには構わないこと。百姓の農業と同じである。「以攻伐爲賢」。軍を起こし切取りを手柄にする時である。○「而」。ここらが司馬遷の筆である。合従連衡を専ら仕事にする時に、而して孟子一人唐虞三代の徳を述べりである。古堯・舜の道をもって説くので世間の諸大名には合わない。孟子が人に諂ってことをするのなら、あの孟子だもの、中々蘇秦・張儀の下に付くことはない。孔明・張良たりとも及ぶことではないが、もしもその様な人であれば戦国の巾着切り仲間であって、孔子と並ぶの何のというどころではない。○「退而與萬章之徒序詩書」。これが孔子の六十八の時、魯に帰って書伝云云と同じこと。孟子の書は御手前のことを顕して王覇を弁じ、楊墨を闢いたことなどを世に著わしたもの。△趙岐がこの長い孟子七篇を残らず章を数え字を数えたというのが何の役にも立たないようではあるが、これは尊ぶ上からでなければできないこと。「二說不同、史記近是」。朱子の文筆をもって史記近是と言う。孟子の内の文を見るに中々万章・公孫丑がしたようには見えない。
【語釈】
・孔子の六十八ぞ。魯へ返って書傳云云…論語序説。「康子乃召孔子。而孔子歸魯。實哀公之十一年丁巳、而孔子年六十八矣。然魯終不能用孔子。孔子亦不求仕。乃敍書傳禮記、刪詩正樂、序易彖・繋・象・說卦・文言」。

○韓子曰。退之は文者なり。文章があたりまいなり。杜子美李白を詩人と云やふなもの。退之は文者でも唐で珍客と云も、孟子を知た計りて儒者の中へ入れたもの。司馬温公をば無学と云。温公の才、孟子に及ぼふと云人なれども、孟子を疑い楊子法言へ注をしたり。これで学問とは云はれぬことなり。秀直按温公之才、恐は誠或德なるへし。○尭以是。是と云をばさゝずに見がよい。退之は道德仁義のことを云たれども、是と云は道德仁義のことと云とかるくなるゆへ、朱子の孟子の序へ退之のことを出すとき、以是と云。知る人がしるなり。学而と云やふなもの。謝上蔡が近日のことと云やふなもの。上蔡と伊川か近日のことと云へは学問のことなり。米屋がよって近日のことと云へば米相塲のことなり。尭の天下を舜へ讓り玉ふとき、以是舜へゆづり玉ふ。舜以是云云。文王周公から孔子へ傳へて、周公の孔子の処へ尭からの大盃をこなたへさそふと云て孔子へさし、孔子から孟子へさして、孟子より後これをうけて飲むものなく、のみばなしに伏せて置たり。○軻之死。韓退之時分迠は傳へたものない。○荀與揚。これは世間のものへ聞せたものなり。孟子の次は荀子揚子と并へて出しても、孟子と荀揚の学が并へて云はれるものてはないなり。○擇は、よいことも気を付て置たこともあれとも、きぬぶるいはかけられぬ。○語焉。語って吟味をつめて詳らかならぬこともあらふ。△非蹈襲は、前に人の言て置た跡を言たに非す。手前から前に云た所を云たものなり。○鑿空は、今迠ない道を切ひらいたことなり。日本で中山道を切り開いたと云やふなもの。退之か一つ道統の傳を言て見やふと云たてもないなり。人の言たを手前の云たにしたでもなし。心の内に見る所有て云たことなり。○若無所見して言たら、傳へ傳へと云たこと何のことやら知らぬ。
【解説】
「○韓子曰、堯以是傳之舜、舜以是傳之禹、禹以是傳之湯、湯以是傳之文・武・周公、文・武・周公傳之孔子、孔子傳之孟軻。軻之死不得其傳焉。荀與揚也、擇焉而不精、語焉而不詳。程子曰、韓子此語、非是蹈襲前人、又非鑿空撰得出、必有所見。若無所見、不知言所傳者何事。」の説明。韓退之を唐には珍客であると言うのは孟子を知ったからで、司馬温公を無学と言うのは、孟子を疑って楊子法言へ注をしたからである。堯から代々伝えられた道は孟子に伝えられて途絶えた。あの荀子や揚子ですら孟子に並ぶことは出来ない。この韓退之の語は自らが知って言ったものである。
【通釈】
○「韓子曰」。退之は文者である。文章が上手いのは当たり前である。杜子美・李白を詩人と言うようなもの。退之は文者だが唐では珍客であると言うのも、孟子を知ったことだけで儒者の中へ入れたもの。司馬温公を無学と言うのは、温公の才は孟子に及ぼうという人ではあるが、孟子を疑って楊子法言へ注をした。これでは学問と言えないのである。秀直按ずるに温公之才の才は、恐らくは誠或いは德であろう。○「堯以是」。「是」は場を指さずに見るのがよい。退之は道徳仁義のことを言ったが、「是」というのは道徳仁義のことだと言うと軽くなるので、朱子が孟子の序へ退之のことを出す時に「以是」と言った。知る人ぞ知るである。「学而」と言うようなもの。謝上蔡が近日のことと言うようなもの。上蔡と伊川が近日のことと言えば学問のことである。米屋が寄って近日のことと言えば米相場のこと。堯が天下を舜に譲られた時、以是舜に譲られた。「舜以是云云」。文王・周公から孔子へ伝えて、周公が孔子の処へ堯からの大盃を貴方へ注そうと言って孔子へ注し、孔子から孟子へ注して、孟子より後はこれを受けて飲む者もなく、飲み放しにして伏せて置いてある。○「軻之死」。韓退之時分までは伝えた者はいない。○「荀與揚」。これは世間の者へ聞かせたもの。孟子の次は荀子・揚子と並べて出しても、孟子と荀・揚の学が並べて言えるものではない。○「擇」は、よいことを気を付けておいたこともあるが、絹篩には掛けられない。○「語焉」。語って吟味を詰めて詳らかにならないこともあるだろう。△「非是蹈襲」は、前に人が言って置いた跡を言ったのではない。自分が前に言った所を言ったもの。○「鑿空」は、今までにない道を切り開いたこと。日本で中山道を切り開いたと言うようなもの。退之が一つ道統の伝を言ってみようと言ったのでもなく、人が言ったのを自分が言ったことにしたのでもない。心の内に見る所が有って言ったこと。○「若無所見」で言ったのなら、伝え伝えと言ったことが何のことなのか知れなくなる。
【語釈】
・司馬温公…司馬光。字は君実。涑水先生と称。山西夏県の人。太師温国公を賜り司馬温公と略称。文正と諡。1019~1086。
・秀直…林潛齋。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。
・謝上蔡…顕道。良佐。程氏門人。1050~1103。
・伊川…程頤。程顥(明道)の弟。字は正叔。諡は正公。河南洛陽の人。1033~1107。

又曰。とかく孟子と荀子揚子を出すゆへ并べて云はれるものに非すと弁じたもの。○醇乎は実事を云ことなり。醇乎として醇と云は真っ白に白ひと云やふなもの。醇は少もまじりはない。荀子の揚子法言抔と云がなるほど異端の道を害すると云やふなではない。中々きまったこともあれども、あれこれと見るとあぶない云やふがあると云。△程子曰云云。韓退之があふ云たを孟子へ出すも程子と云注がなければ面白くない。朱子も裏判がなければ出さぬ。孟子意。孟子のことをいくら云ても意を知ら子ば本んに言てはない。又意をしらずに云てはかふは云はれぬ。されども荀子揚子がことを云たは非なり。偏駁。荀子は道にそげた学なり。只一句の性悪と云たで人間の根本を失ったり。荀子もめったに云ものでもなけれども、大切の根を言ひそこのふたり。性悪を云は、人の性は悪なもの、精出して学べと云。人の性が悪ければ盗人御見舞申すと云。揚子云云。この人身分で云へば謀叛人の王莽に組みし、これほど過の大きなことはなけれども、それを少過と云は揚子法言のことなり。揚子法言は孔子を真似て書た書なれば、あれは過は少なけれども、然亦不識性。性に善も悪もあると云。
【解説】
「○又曰、孟氏醇乎醇者也。荀與揚、大醇而小疵。程子曰、韓子論孟子甚善。非見得孟子意、亦道不到。其論荀揚則非也。荀子極偏駁。只一句性惡、大本已失。揚子雖少過、然亦不識性。更說甚道。」の説明。荀子や揚子法言には危ない言い様がある。荀子は性悪を言った。揚子は性には善も悪もあると言った。
【通釈】
「又曰」。とかく孟子と荀子・揚子を出すので、並べて言うことは出来ないと弁じたもの。○「醇乎」は実事を言う。醇乎として醇とは真っ白に白いと言うようなもの。醇は少も雑じりはない。荀子や揚子法言などというものはなるほど異端が道を害するというようなものではない。中々決まったこともあるが、あれこれと見ると危ない言い様があると言う。△「程子曰云云」。韓退之があの様に言ったのを孟子に出すのも程子という注がなければ面白くない。朱子も裏判がなければ出さない。「孟子意」。孟子のことをいくら言っても意を知らなければ本当に言うものではない。又意を知らずに言うのではこの様には言えない。しかしながら、ここは荀子・揚子のことを言ったのではない。「偏駁」。荀子は道に削げた学である。只一句の性悪と言ったので人間の根本を失った。荀子も滅多に言う人でもないが、大切な根を言い損ねた。性悪を言うのは、人の性は悪なものだから精出して学べと言ったもの。人の性が悪ければ盗人御見舞申すである。「揚子云云」。この人は身分で言えば謀叛人の王莽に与した。これほど過ちの大きなことはないが、それを「少過」と言うのは揚子法言のことである。揚子法言は孔子を真似て書いた書であれば、あれに過ちは少ないが、「然亦不識性」。性には善も悪もあると言う。

○又曰孔子之道大而能博。孔子の道は廣大で、ちょっと見てかふと云ことは云はれぬ。流義がないゆへ門弟子の尽く見識ることは出来ぬ。故学焉云云。皆弟子衆の得手な方を孔子のかたはしを得るなり。○其後離散。孔子御存生の内は御側で学べとも、御死去の跡で離散して見たら御膝元で学ぶときとちがうてきた。子夏は篤実謹厚、子游は過高、日用のこと何でもよいとなげやりにする。源遠末益分。子夏の又弟子に荘子の出来たもひょんなこと。
【解説】
「○又曰、孔子之道大而能博。門弟子不能徧觀而盡識也。故學焉而皆得其性之所近。其後離散分處諸侯之國、又各以其所能授弟子。源遠而末益分。」の説明。孔子の道は広大なので、弟子は全てを知ることは出来ない。そこで得手なところで孔子に学ぶ。孔子の死後は「源遠而末益分」で、子夏の又弟子に荘子が出来た。
【通釈】
○「又曰、孔子之道大而能博」。孔子の道は広大で、ちょっと見てはこうと言うことは言えない。流儀がないので門弟子が尽く見識ることは出来ない。「故学焉云云」。皆弟子衆の得手な方で孔子の片端を得る。○「其後離散」。孔子御存生の内は御側で学ぶが、御死去の後で離散してみたら御膝元で学ぶ時と違って来た。子夏は篤実謹厚だが、子游は高きに過ぎて日用のことを何でもよいと投げ遣りにする。「源遠而末益分」。子夏の又弟子に荘子が出来たのもひょんなこと。

惟孟軻。前に子思の門人に受と云が、何でも子思を宗としたものなり。子思の学は曽子より出て孔子の道を真っ直くに得たり。宗は惣領家を継だのなり。故に圣人を知るならば、孟子より見て入ることなり。司馬温公を無学と云がわる口に云たことではない。圣人の道を見は孟子が媒人なり。其孟子を疑い、大学は入德之門、致知格物から平天下迠揃ふた大学を説きちがへたれば学問とは云はれぬ。△程子曰云云。曽子の道統の傳を得たは一貫で云ことに非ず。参也魯也と云たは曽子の生質を云たもの。生質は魯なれども学は学なり。魯からこれほとの身帯にしたものなり。啓手足。これで道統傳を受たが知れる。死ぬときに手を啓け、足を啓け、疵はあるまいと云たれば、魂に少もきずをつけ、わきへそげたことはない。是より得た子思の学、其学より出た孟子の学で、孔子より眞直に宗を引けり。
【解説】
「惟孟軻師子思、而子思之學出於曾子。自孔子沒、獨孟軻氏之傳得其宗。故求觀聖人之道者、必自孟子始。程子曰、孔子言參也魯。然顏子沒後、終得聖人之道者、曾子也。觀其啓手足時之言、可以見矣。所傳者子思・孟子、皆其學也。」の説明。孔門で孔子の道を真っ直ぐに得たのは曾子である。曾子は魯からあれだけになり、最後は「啓手足」であった。曾子より得た子思、子思から得た孟子の学だから、孟子は孔子より真っ直ぐに宗を引いている。
【通釈】
「惟孟軻」。前に業を子思の門人に受くと言ったが、それは何でも子思を宗としたもの。子思の学は曾子より出て孔子の道を真っ直ぐに得たもの。宗は惣領家を継いだのである。故に聖人を知りたければ、孟子から見て入るのである。司馬温公を無学と言うのは悪口で言ったのではない。聖人の道を見るには孟子が媒人となる。その孟子を疑い、大学は入徳の門、致知格物から平天下まで揃った大学を説き違えたのだから、それでは学問とは言えないのである。△「程子曰云云」。曾子が道統の伝を得たのは一貫で言うことではない。「參也魯」と言ったのは曾子の生質を言ったもの。生質は魯だが学は学である。魯からこれほどの身帯にしたもの。「啓手足」。これで道統の伝を受けたことが知れる。死ぬ時に手を啓け、足を啓け、疵はあるまいと言うのだから、魂に少しも疵を付け、脇へ削げたことはない。曾子より得た子思の学、その学より出た孟子の学で、孔子より真っ直ぐに宗を引いた。
【語釈】
・一貫…論語里仁15。「子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」。
・参也魯…論語先進17。「柴也愚。參也魯。師也辟。由也喭」。
・啓手足…論語泰伯3。「曾子有疾。召門弟子曰、啓予足、啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫。小子」。

又曰揚子雲曰 三月十六日
先日の処に韓退之が一生の手柄は孟子を知たゆへなり。こゝへ揚雄を出して跡で功をつげたり。これでいよゝゝ知たなり。○古者云云。今はなけれども孟子の時分は楊朱墨翟が道行はる。窒路は、並木の松の道に横はって通せぬやふなもの。これが天下にはやって圣賢の道をふさぐなり。圣賢の道は何のこともない。飯を食やふなもの。難有とも思はず、甘ひとも思はず。楊墨圣賢の邪魔をすると云は何なれば、楊子は我爲に計りして、人はどふなるとも搆はぬ。墨翟は人も我も同じこととする。これが圣賢の道とは違ふて面白い処あるゆへ、人皆これにをちいるなり。そこで孟子の信をひらいたり。辭而は、楊墨の道を言つめて動きの取れぬやふに言ふたこと。廓如は、明にしたり。世の中に楊墨の道の行はれぬやふにとくと云つめたり。これ迠が揚雄の語。韓退之が揚雄のことを云て置て、跡へ手前のことを出したり。これが文章のなりで、先つ廓如たりと云て、これを抑揚したり。されとも揚雄を叱った語でもない。揚雄の語を抑揚して一つに成たなり。
【解説】
「○又曰、揚子雲曰、古者楊・墨塞路。孟子辭而闢之、廓如也。夫楊・墨行正道廢。孟子雖賢聖不得位。」の説明。孟子の時分は楊朱・墨翟の道が行われた。楊子は我が為に計りし、墨翟は人も我も同じこととする。それを孟子は闢いた。「夫楊・墨行正道廢」以降は韓退之の語。
【通釈】
「又曰、揚子雲曰」 三月十六日
先日の処で韓退之の一生の手柄は孟子を知ったからだと言ったが、ここに揚雄を出して後に功を告げた。これでいよいよ知ったことになる。○「古者云云」。今はないが孟子の時分は楊朱・墨翟の道が行われた。「塞路」は、並木の松が道に横張って通じないようなもの。これが天下に流行って聖賢の道を塞いだ。聖賢の道は何のこともない。それは飯を食うようなもの。有り難いとも思わず、甘いとも思はない。楊墨が聖賢の邪魔をすると言うのはどういうことかというと、楊子は我が為に計りして、人はどうなっても構わない。墨翟は人も我も同じこととする。これが聖賢の道とは違っていて面白い処があるので人が皆これに陥る。そこで孟子がこれを闢いた。「辭而」は、楊墨の道を言い詰め、動きの取れないように言ったこと。「廓如」は、明らかにしたこと。世の中に楊墨の道が行われないようにしっかりと言い詰めた。これまでが揚雄の語。韓退之が揚雄のことを言って置いて、後に自分の言を出した。これが文章の形で、先ず廓如たりと言って、これを抑揚した。しかしながらこれは揚雄を叱った語でもない。揚雄の語を抑揚して一つに成ったのである。

○空言。作田銀録曰、直方先生の云、むだ花じゃ、と。よい辨也。孟子は浪人に居て引込であれば、何程弁じても世間に益がない。何補。これが抑揚也。廓如たりと云がそうではない。そんなら役にたゝぬかと思うに然頼其言。後世の爲になるなり。○崇仁義。孟子は仁義ゝゝと計り云たものなり。作田銀録曰、人間の人間たる処は仁義の二つなり。これはどちもかゝれぬものぞ。又王覇を分たが孟子の手柄なり。王者は二帝三王、天下安民の業をしたものなり。覇は斉桓晋文、天下安民のことはあれども、心の内にいやなことあったり。そこで三尺の童子も覇者の咄をしなんだ。これ賎しむなり。大経は五倫、大法は礼楽。これが三代の大切なれども、孟子の時分はすたれた。不救は、孟子は御老人の御身なれば手に及はぬ。下に居てたゞなげかるゝぞ。○所謂十一千百は、文選の中に秦の云云。これも引事になったそうなり。孟子の賢垩なれども浪人ゆへ、あれほどに云ても、世の中に十の者が一つ、千のものなら百ならでは功にならぬ。そんなら孟子が出ても役に立ぬかと思うに、かふをさへて置て、然るに向無孟子則云云。侏離は南蠻の辨。何か分らぬ。かうきこゆるそうなり。唐のことを日本できけばちんぷんかんぷんとばかり、わからぬ。
【解説】
「空言無施。雖切何補。然賴其言、而今之學者尙知宗孔氏、崇仁義、貴王賤霸而已。其大經大法、皆亡滅而不救、壞爛而不收。所謂存十一於千百。安在其能廓如也。然向無孟氏、則皆服左衽而言侏離矣。」の説明。「大經」は五倫、「大法」は礼楽である。これが孟子の時分には廃れた。孟子は聖賢だが浪人なので、手に及ばない。しかし、孟子がいなければこの国は夷狄と同じになっただろう。
【通釈】
○「空言」。作田銀録して曰く、直方先生が言う、徒花だ、と。よい弁である。孟子は浪人で引っ込んでいれば、何程弁じても世間に益がない。「何補」。これが抑揚である。廓如たりと言ったがそうではない。それなら役に立たないかと思えば「然賴其言」。後世の為になる。○「崇仁義」。孟子は仁義仁義と計り言ったもの。作田銀録して曰く、人間の人間たる処は仁義の二つである。これはどちらも欠くことのできないもの。又王覇を分けたのが孟子の手柄である。王者は二帝三王、天下安民の業をした者である。覇は斉桓・晋文、天下安民のことはあったが、心の内に嫌なことあった。そこで三尺の童子も覇者の咄をしなかった。これが賎しむということ。「大經」は五倫、「大法」は礼楽。これが三代の大切なものなのだが、孟子の時分には廃れた。「不救」は、孟子は御老人の御身なので手に及ばない。下にいてただ嘆かれるのである。○「所謂存十一於千百」は、文選の中に秦の云云とある。これも引言になったそうである。孟子は聖賢なのだが浪人なので、あれほどに言っても世の中に十のものであれば一つ、千のものであれば百でなければ功にはならない。それなら孟子が出ても役に立たないかと思うに、この様に抑えて置いて、「然向無孟子則云云」。「侏離」は南蠻の弁で、何なのか判らない。こう聞えるそうである。唐のことを日本で聞けばちんぷんかんぷんで判らない。
【語釈】
・作田銀…九十九里町作田の人。
・斉桓晋文…論語憲問16。「子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎」。
・三尺の童子も覇者の咄をしなんだ…梁惠王章句上7集註。「董子曰、仲尼之門、五尺童子羞稱五霸。爲其先詐力而後仁義也」。

○故愈嘗云云。これが韓退之が孟子を見た手柄なり。史記列傳に司馬遷が見世へ物を并べたやうに并べて置すてたが、韓退之が始て見出して推尊んだぞ。○不在禹下。これが退之の文なり。孟子の手柄は禹の水を治めたより上て有ふとも下ではあるまい。これが孔子の道、尭舜にまさりたと云やふなもの。尭舜のことは書経の尭典舜典を讀で見ても、あれが論語とは違うてしれぬ。大禹謨にあることも讀たとて、何か孟子のやふに後世には役にたゝぬ。禹王は天子の内ても水を治め功の有天子で、禹世になくんば萬民魚の餌になるで有う。それを治めて万民を救ふたゆへ、功の大を語るときは禹王なり。其功にをとるまいとなり。これ迠韓子の孟子を知たが手柄と云やふなもの。これからは程子なり。退之は腹から云たもの。程子は眼から見たもの。
【解説】
「故愈嘗推尊孟氏、以爲功不在禹下者、爲此也。」の説明。禹王は水を治めて万民を救ったので、功の大きなことを語る時は禹王を出す。孟子はその禹にも劣らないと言うのが韓退之の手柄である。
【通釈】
○「故愈嘗云云」。これが韓退之が孟子を見た手柄である。史記列伝に司馬遷が店に物を並べたように並べて置き捨てたが、韓退之が始めて見出して推し尊んだ。○「不在禹下」。これが退之の文である。孟子の手柄は禹の水を治めたことより上で有ろうとも下ではあるまい。これが孔子の道が堯・舜に勝っていると言うようなもの。堯・舜のことは書経の堯典や舜典を読んでみても、あれは論語とは違ってよくわからない。大禹謨にあることも読んだとしても、何か孟子のようには後世に役に立たない。禹王は天子の内でも水を治めて功の有る天子で、禹が世にいなければ万民が魚の餌になったことだろう。それを治めて万民を救ったので、功の大きなことを語る時は禹王である。その功に劣らないだろうと言う。これまでは韓子が孟子を知ったことが手柄というようなもの。これからは程子である。退之は腹から言ったもの。程子は眼から見たもの。

○或問於程子曰。孟子還ては、こちの弁とは違うゆへしいて説かれぬ。この還ての弁ははやと云弁に通ずるなり。檀弓に還葬と云字ある。孟子ははや圣人で有ふかと云たことなり。程子曰云云。圣人とは云はれぬ。そんなら圣人でないとも云はれぬ。敢便なり。學はしつめたり。向迠ゆきつめて、もう往き所がない。或人が圣人かと聞ゆへ、いや学は至処に往たが圣人とはまだ云はれぬ。刀のあらみのやうなもの。古るびのつかぬ計り。
【解説】
「○或問於程子曰、孟子還可謂聖人否。程子曰、未敢便道他是聖人。然學已到至處。愚按、至字、恐當作聖字。」の説明。孟子は既に聖人かという問いに、程子は学は「至處」に行き着いたが聖人とはまだ言えないと答えた。
【通釈】
○「或問於程子曰」。孟子還っては、こちらの弁とは違うので強いて説くことはできない。この還っての弁ははやという弁に通じる。檀弓に還葬という字がある。孟子ははや聖人で有ろうかと言ったのである。「程子曰云云」。聖人とは言えない。しかしながら聖人でないとも言えない。「敢便」である。學はし詰めた。向こうまで行き詰めて、もう往き所がない。或る人が聖人かと聞くので、いや学は「至處」に往ったが聖人とはまだ言えないと答えた。刀の新身の様なもの。古びが付かないだけである。
【語釈】
・檀弓に還葬…礼記檀弓上。「子游問喪具。夫子曰、稱家之有亡。子游曰、有無惡乎齊。夫子曰、有毋過禮。苟亡矣、斂首足形、還葬、縣棺而封。人豈有非之者哉」。礼記檀弓下。「子路曰、傷哉貧也。生無以爲養、死無以爲禮也。孔子曰、啜菽飮水、盡其歡、斯之謂孝。斂手足形、還葬而無槨、稱其財、斯之謂禮」。還は直ぐにの意。

○程子又曰孟子有功於垩門。圣門の門の字は初学入德の門の字なり。孔子を学の問屋にして置て云字なり。不可勝言。迂斎先生の、四つ五つは勝けて云はれるものなれども、数も限りもないことは云はれぬものなり。孟子の圣門に功有ことは中々云に云はれぬ、新しい発明ばかりを云。孔子と孟子の違うは少しの違いなり。仲尼は只説一箇仁字。孔子は何を云にも仁ゝとばかり云なり。孟子は人にあへば仁に義をつけて云也。これ孔子と孟子は世がちがうゆへなり。孔子の仁ばかりが足らぬでなく、孟子の仁義がひやしたでもなく、世の中のなりが違う。言えば孔子の仁は無事な子へ言やふなもの。孟子のは一とどらうった子へ云やふなもの。あんばいが違う。譬へば孔子の仁は只釘をうって置。孟子のは釘を打て裏をかへすやふなもの。孟子の時代に仁ばかり云とわきへ切れたがる。そこで仁を云て跡へ義をつけて釘を裏をかへしておけば、中々うごきはせぬ。一箇の志。これが中へ入て料理を食た云分也。外からいやゝゝと誉たやうなことではない。論語を云抜いたことなり。論語中を志と見たものなり。只孔子は仁になれゝゝと云たのぞ。そこへ又孟子のひやしたり。孔子はよい子を持たり。養氣。理の外に一つ氣を養う。氣がかじけると志が少くなるゆへ、かじける。そこで氣を一つ養ふて置か子ばならぬ。出し來るは宋朝の俗語で、説と計り云とは違う。これ發明して云なり。志は親の歒を討ふと云やふなもの。氣を養は釼術の達したやうなもの。親の歒は念力で討もせふが、釼術を知たらばそれほど丈夫なことはない。迂斎先生の、養氣がなければ膾の酢のきかぬやふなもの。獨活の粉で鯛の切身をなますにしても、酢がきか子ば膾のあんばいはない。此二字は養氣の二字なり。孔子の志の上へ養氣と云ことを云たが誠に一代の手柄なり。今の学者の手柄とは違ふ。今の学者は少の発明を大きな手柄にするが、中々孟子の養氣と云がやさしいことでない。
【解説】
「○程子又曰、孟子有功於聖門、不可勝言。仲尼只說一箇仁字。孟子開口便說仁義。仲尼只說一箇志。孟子便說許多養氣出來。只此二字、其功甚多。」の説明。孔子は仁ばかりを言ったが、孟子は仁義を説いた。それは孔子と孟子とでは世が違うからである。また、孔子は志を説いた。論語全体が志である。孟子は理の他に気を養うことを説いた。気が悴けると志が少なくなる。
【通釈】
○「程子又曰、孟子有功於聖門」。聖門の門の字は初学入徳の門の字である。孔子を学の問屋にしておいて言う字である。「不可勝言」。迂斎先生が、四つ五つは勝げて言うことができるが、数限りないことは言うことができないと言った。孟子の聖門に功有ることは中々言うに言えないので、新しい発明だけを言う。孔子と孟子の違うところは少しの違いである。「仲尼只說一箇仁字」。孔子は何を言うにも仁々とばかり言う。孟子は人に遇えば仁に義を付けて言う。これは孔子と孟子とでは世が違うからである。孔子が仁ばかり言うのが足りないのではなく、孟子の仁義が増やしたのでもなく、世の中の姿が違うのである。敢えて言えば孔子の仁は無事な子へ言うようなもの。孟子のは一どら打った子へ言うようなもの。塩梅が違う。譬えば孔子の仁は只釘を打って置く。孟子のは釘を打って裏を返すようなもの。孟子の時代に仁ばかりを言うと脇へ切れたがる。そこで仁を言ってその跡に義を付けて釘を裏を返して置けば、中々動きはしない。「一箇志」。これが中へ入って料理を食った言い分である。外からいやいやと誉めたようなことではない。論語を言い抜いたもの。論語中を志と見たもの。只孔子は仁になれと言ったのである。そこへ又孟子が増やした。孔子はよい子を持った。「養氣」。理の外に一つ気を養う。気が悴けると志が少なくなるので悴ける。そこで気を一つ養っておかなければならない。「出來」は宋朝の俗語で、説くとだけ言うのとは違う。これは発明して言ったもの。志は親の敵を討とうと言うようなもの。気を養うのは釼術の達したようなもの。親の敵は念力で討てもしようが、釼術を知ればそれほど丈夫なことはない。迂斎先生が、養氣がないのは膾の酢の効かないようなものだと言った。独活の粉で鯛の切身を膾にしても、酢が効かなければ膾の塩梅はない。「此二字」は養気の二字である。孔子の志の上へ養気ということを言ったのが誠に一代の手柄である。今の学者の手柄とは違う。今の学者は少しの発明を大きな手柄にするが、中々孟子の養気というのは易しいことではない。
【語釈】
・迂斎先生…名は正義。十左衛門(重左衛門)と称す。江戸の人。稲葉黙齋の父。宝暦10年(1760)11月10日没。
・一とどらうった…どらを打つ。放蕩して財産を使い果たす。

○又曰孟子有大功於世。世と云字がひろいこと。天下後世をさして云。孟子の御議論をかっさらへて云。孟子の世に大切あることは性善なり。これが万世の人のはづみになることなり。後世君子にならぬは自棄自暴なり。朱子の小学にも急度出して幼少なものにも敎へる。今のものは手前から卑くしてかゝる。をらは畜生も同じことじゃと云。これが謙退で云でもない。暴棄の言訳けなり。性善を云は御直参のやうなもの。何ほど小身でも大門を開らかせる。人のよいと云は性善ゆへなり。さまゝゝわるいことをするは性善をすてたもの。それを復へせば本んの仁義になる。性善と云は唐辛のからく砂糖の甘ひのなり。唐辛にからくないも砂糖に甘くないもない。人間のわるいことをするは禽獣と同ことなり。性善の仁義礼智の本然が備ってあるゆへ禽獣とは違ふなり。湯武も性は善ゆへもとの仁義に復へりたれば、尭舜と同ことなり。もと尭舜と同じ人ではないが、本とにかへったゆへ同じ。これほど大きいことをするには氣を養は子ばならぬ。氣を養は子ば性善もぢっとしては居ぬ。孟子のこれがどこにもないことを云、誠に大手柄なり。
【解説】
「○又曰、孟子有大功於世、以其言性善也。○又曰、孟子性善・養氣之論、皆前聖所未發。」の説明。孟子の大功は性善を言ったこと。人がよいのは性善だからで、様々に悪いことをするのは自棄自暴である。人は性善の仁義礼智の本然が備わってあるので禽獣とは違う。しかし、気を養わなければ性善もじっとしてはいない。
【通釈】
○「又曰、孟子有大功於世」。世という字が広いこと。天下後世を指して言う。孟子の御議論を掻っ攫って言う。孟子の世に大切なことは性善である。これが万世の人の弾みになる。後世君子にならないのは自棄自暴だからである。朱子が小学にもこれをしっかりと出して幼少な者にも教えた。今の者は自分から卑しくしてかかる。おらは畜生も同じことだと言う。これが謙退で言ったのでもない。暴棄の言訳である。性善を言うのは御直参の様なもの。どれほど小身でも大門を開かせる。人がよいのは性善だからである。様々に悪いことをするのは性善を棄てたのである。それを復せば本当の仁義になる。性善とは唐辛子が辛く砂糖が甘いのと同じ。辛くない唐辛子や甘くない砂糖はない。人間が悪いことをするのは禽獣と同じこと。人は性善の仁義礼智の本然が備わってあるので禽獣とは違う。湯・武も性は善なので元の仁義に復せば、堯・舜と同じこと。本来は堯・舜と同じ人ではないが、本に復ったので同じ。これほど大きいことをするには気を養わなければならない。気を養わなければ性善もじっとしてはいない。孟子が何処にもなかったことを言った。誠に大手柄である。
【語釈】
・自棄自暴…孟子離婁章句上10。「孟子曰、自暴者、不可與有言也。自棄者、不可與有爲也。言非禮義、謂之自暴也。吾身不能居仁由義、謂之自棄也」。

○又曰学者全要識時。初の一と行は軽く見るがよい。時と云て易を知ることに非ず。跡に云こと有ゆへ時を知と云たもの。かるく見べきことなり。時を知と云は顔子と孟子のことなり。顔子の時は楊墨をふせぐやふなこともない。折節孔子の処へ往き御咄を聞て、食ものがなくともにこゝゝして居るなり。世の中のことを云にも、孔子か言ふゆへ中々顔子が云べきこともない。孟子の時は世の中に人がなく、孟子がせ子ばならぬなり。親父のあるとき息子はかまはぬやふなもの。親のない跡は息子が中々見てはおられぬ。事を取るなり。世に孔子がないゆへ孟子の云は子ばならぬ。任は直方先生の冬至の文にある任と同じこと。それを仕事にしていることなり。道の御用の荷物が落てある。只の道者は見ても荷物がありと計り思うが、公儀の役人が見るとすてゝはおかれぬ。村中に行きたをれがある。村の名主が見るとすてゝはおかれぬ。立合て由緒知れぬものなら葬ら子ばならぬ。此時は孟子一人ゆへ、世の中の邪道は孟子がひらか子ばならぬ。
【解説】
「○又曰、學者全要識時。若不識時、不足以言學。顏子陋巷自樂、以有孔子在焉。若孟子之時、世旣無人。安可不以道自任。」の説明。顔子には孔子がいたので何もせずに自ら楽しむことが出来たが、孟子の世には孔子の様な人がいなかった。そこで自ら道を任じて邪道を闢かなければならなかった。
【通釈】
○「又曰、學者全要識時」。初めの一行は軽く見なさい。時と言っても易を知ることではない。後に言うことが有るので時を識ると言ったもの。軽く見るべきである。時を識るというのは顔子と孟子のこと。顔子の時は楊墨を禦ぐようなこともない。折節孔子の処へ往き御咄を聞いて、食い物がなくてもにこにこしている。世の中のことを言うにしても、孔子が言うので中々顔子が言うべきこともない。孟子の時は世の中に人がなく、孟子がしなければならない。親父が存命中は息子は構わないようなもの。親が亡くなった後は息子は中々傍観してはいられない。事を取るのである。世に孔子がいないので孟子が言わなければならない。「任」は、直方先生の冬至の文にある任と同じ。それを仕事にしているということ。道の御用の荷物が落ちている。只の道者は見ても荷物があると計り思うが、公儀の役人が見ると捨てては置けない。村中に行き斃れがいる。村の名主が見ると捨てては置けない。立ち合って由緒の知れない者であれば葬らなければならない。この時は孟子一人なので、世の中の邪道は孟子が闢かなければならない。
【語釈】
・道者…連れ立って社寺に参詣する旅人。道衆。回国。巡礼。

○又曰孟子有些英氣。些はちとゝ云弁。英氣は陽氣でするどくするが英氣なり。有たいことなり。竹の子の椽をつきぬいて出るやふなもの。孟子はつきぬいて出る所を持てござる。程子の目と云は又大いこと。垩人の孔子と大賢の孟子を並て見た処、それが少し孟子のに英気がわるいことになるなり。只の者の英気はよい。孟子にはわるい。圭角は將棊頭。孟子は英気有て人に出合ての上につゝかゝる氣が有るなり。孔子のやうに温和でない。孟子の書を読でみるに、息子へ云やふなことでない。孔子と孟子を一つにしたいものなれども、どふも孔子と同格にならぬ。英気の有るゆへなり。甚害事。作田録曰、害事は俗語と見るがよい。こまったものと云こと。太宰がしたゝかわるく云て、程子害事と云たが甚間違じゃと大に叱りて有が、それを知らぬ程子ではないぞ。心にひがむ処あるゆへ違ふぞ。孟子をわるく云たやふに取ゆへわるいぞ。親父が達者にこまりますと云やふなもの。早く死子ばよいと云ことに非ず。火事と云と屋根へでもあがりたがり、若い者のするやふなことをしたがるゆへ、これで落やふかと思ふて苦になる。これが孝行の心からなり。
【解説】
「○又曰、孟子有些英氣。才有英氣、便有圭角。英氣甚害事。」の説明。孔子は温和だが孟子には英気がある。孟子には突っ掛かる気が有る。それで孟子は孔子と同格にはならない。「害事」は困ったものだということ。
【通釈】
○「又曰、孟子有些英氣」。「些」はちょっとという弁。「英氣」は陽気で鋭くするのが英気である。有難いことである。竹の子が縁を突き抜いて出るようなもの。孟子は突き抜いて出る所を持っている。程子の目というのは又大きいこと。聖人の孔子と大賢の孟子を並べて見たところ、それが少し孟子の方で英気が悪いことになる。只の者の英気はよい。孟子には悪い。「圭角」は将棋頭。孟子は英気が有って人に出合った時に突っ掛かる気が有る。孔子の様に温和ではない。孟子の書を読んでみると、息子へ言うようなことではない。孔子と孟子を一つにしたいものなのだが、どうも孔子と同格にはならない。それは英気が有るからである。「甚害事」。作田録して曰く、害事は俗語と見るがよい。困ったものということ。太宰が強か悪く言って、程子が害事と言ったのは甚だ間違いだと大いに叱って有るが、それを知らない程子ではない。心に僻む処があるので間違える。孟子を悪く言ったように取るから悪い。親父が達者で困りますと言うようなもの。早く死ねばよいということではない。火事というと屋根へでも上がりたがり、若い者のする様なことをしたがるので、これで落ちるのではないかと思って苦になる。孝行の心からそうなるのである。
【語釈】
・太宰…太宰春台。名は純。字は徳夫。号は春台・紫芝園。信濃の人。出石藩に仕え、後に辞して荻生徂徠に学ぶ。1680~1747。

○如顔子云云。学問で云ときは孔孟と并べるが、こゝは德で云ことなり。顔子などはまた違ふたものなり。学問のよいのわるいのと云ことではない。どうも御德が違う。顔子を出すで孟子が知れる。見た所かうすてゝなくてふっくりとする。其筈、去垩人只毫髮間云云。孟子大賢。賢の内でも大の字のつくは、周子の顔子孟子は大賢也と云と同し。大賢なれども顔子より次じゃと云。亞垩は顔子のことなり。それは英気のあるゆへなり。孟子を大賢亞垩の次也と云と孟子の位づけがなくなる。孟子は大賢、顔子と云亞垩の次じゃと云こと。
【解説】
「如顏子便渾厚不同。顏子去聖人只豪髮閒。孟子大賢、亞聖之次也。」の説明。孟子と顔子とでは徳が違う。そこで顔子を亞聖と言い、孟子を大賢と言う。
【通釈】
○「如顏子云云」。学問で言う時は孔孟と並べるが、ここは徳で言ったこと。顔子などはまた違ったもの。学問が良い悪いということではない。どうも御徳が違う。顔子を出すので孟子が知れる。見た所が薄手でなくてふっくりとする。その筈で、「去聖人只毫髮閒云云」。「孟子大賢」。賢の内でも大の字が付くのは周子が顔子・孟子は大賢也と言うのと同じ。大賢なのだが顔子の次だと言う。「亞聖」は顔子のこと。孟子は英気があるからである。孟子を大賢・亜聖之次也と言うと孟子の位付けがなくなる。孟子は大賢で、顔子という亜聖の次だということ。
【語釈】
・周子の顔子孟子は大賢也…通書志學第十。「聖希天、賢希聖、士希賢。伊尹・顏淵大賢也」。

或曰英気見於何處。或人のどこで孟子の英氣が見へますと云。いやなにと云ことはない。只孔子の言語と并べて見れば知れる。迂斎先生の、孟子の語に豈ゝと云が大分ある。これで英気が見へる。論孟讀法に程子の句々自然、句々事実と云たで知れる。又迂斎先生の、芲見の塲でものを言と火事塲でものを云やふなもの、と。孔子のは芲見の塲でものを云、孟子のは火事塲でものを云やふなもの。塲所が違う。○顔孟を氷や水精に譬へたもの。玉自湿潤はうるをいのある。含蓄は光が外へ顕はれるものでないが、どふかてらゝゝ外からは見へぬなり。秀直謂、含蓄の辭、記者の誤なるべし。含蓄は光を中にふくんで持てをるなり。どふかこれでは孟子を悪く云やふなれとも、中々そふ云ことではない。孟子を知たのなり。前に他是圣人と云はずよりここで光耀でとめたのも、そんなら孟子はわるいかと思に、孔子の藥のきかぬ所を孟子ではきくほどのこと。されども并べて見ればこの通じゃが、道は同じことなり。明道伊川もそれで、明道は芲の坐、伊川はきびしい人ゆへ人がいやがる。兎角明道ゝゝと好むゆへ、朱子の心有て兄弟くるめて程子と称す。伊川の、をれが行状を見たくは先兄の行状で見ろと云。大きに違ふやふで道は同じ。秀直謂、伊川のをれが事を知りたくは、先兄の行状を見ろと云に改べし。
【解説】
「或曰、英氣見於甚處。曰、但以孔子之言比之、便可見。且如冰與水精。非不光。比之玉、自是有溫潤含蓄氣象、無許多光耀也。」の説明。孟子の英気は孔子の言と比べれば知れる。孔子と孟子とでは孟子の方が悪く見えるが、それは場が違うためであって、道は同じである。それは明道と伊川の場合と同じである。
【通釈】
「或曰、英氣見於甚處」。或る人が何処で孟子の英気が見えますかと聞いた。いや何ということはない。只孔子の言語と並べて見れば知れると答えた。迂斎先生が、孟子の語に豈々と言うところが大分ある。これで英気が見えると言った。論孟読法に程子が句々自然、句々事実と言ったことでも知れる。又迂斎先生が、花見の場でものを言うのと火事場でものを言うようなものと言った。孔子のは花見の場でものを言い、孟子のは火事場でものを言うようなもの。場所が違う。○孔・孟を氷や水精に譬えたもの。「玉自是有溫潤」は潤いがあること。「含蓄」は、光は外へ顕れるものではないが、どうしてかてらてらと外からは見えないこと。秀直謂く、含蓄の辭、記者の誤りだろう。含蓄は光を中に含んで持っていること。どうもこれでは孟子を悪く言ったようであるが、中々そういうことではない。孟子を知ったのである。前の「未敢便道他是聖人」があってここで光耀で止めたのも、それなら孟子は悪いかと思うに、孔子の薬の利かない所を孟子では利くほどのこと。並べて見ればこの通りだが道は同じ。明道・伊川もそれで、明道は花の座だが、伊川は厳しい人なので人が嫌がる。兎角明道を好むので、朱子が心有って兄弟くるめて程子と称した。伊川が、俺の行状を見たければ先ず兄の行状で見ろと言う。大いに違うようで道は同じ。秀直謂く、伊川が、俺の事を知りたければ、先ず兄の行状を見ろと言ったに改めなさい。
【語釈】
・句々自然、句々事実…讀論語孟子法。「程子曰、孔子言語句句是自然、孟子言語句句是事實」。
・明道…程顥。字は伯淳。明道先生と称。河南洛陽の人。弟の頤と共に二程子と称。1032~1085。

○楊氏曰孟子一書云云。前に趙岐が数へた通二百六十一章三万四千六百八十五字、あれほどの大部なれども、只是也。何のことはない。こゝが楊亀山の道統の傳を受たもこのやふなことから知れるなり。孟子の全体を只是と見たもの。要正人心。孟子の時は戦国で人の心のわるくなったときなり。惠王のあのやふに云たのも、心のわるくなったゆへなり。直方先生の、孟子のときは巾着切の寄合しゃと云云云。これが只云てはない。孟子にある。○存心養性。これが二た所あれども、巻頭の何曰利を始、皆七篇が本に反ることばかりなり。存心は心の欠落せぬやふに内に居るやふにゝゝゝゝゝとすることなり。養性。器を動かせば水も動くやふなもの。放心は恠異なものに合たときわっと云とき放心する。そこで気がつく。直に收るなり。どっこいやらぬと云やふなことではない。存心養性收放心と云心法の功夫を禅坊主を盗んだと云が、あたまから時代違うなり。禅は達磨が元祖なれども未だ渡らぬときなり。孔子が仁、尭が中を執、皆存心養性放心を收ることなり。
【解説】
「○楊氏曰、孟子一書、只是要正人心。敎人存心養性、收其放心。」の説明。孟子の時は戦国で人の心の悪くなった時である。孟子の書は人心を正しくすることを書いたもの。「存心」・「養性」・「收放心」は心法の功夫だが、孔子の仁や堯の執中もこれであり、禅から盗んだものではない。
【通釈】
○「楊氏曰、孟子一書云云」。前に趙岐が数えた通り二百六十一章三万四千六百八十五字、あれほどの大部だが、「只是」である。何のことはない。楊亀山が道統の伝を受けたのもこの様なことから知れる。孟子の全体を只是と見たもの。「要正人心」。孟子の時は戦国で人の心の悪くなった時である。恵王があの様に言ったのも、心が悪くなったからである。直方先生が、孟子の時は巾着切りの寄合だと言って云云。これが只言ったことではない。孟子にある。○「存心養性」。これが二所あるが、巻頭の「何必曰利」を始め、皆七篇が本に反ることばかりを言う。「存心」は心が欠落しないように、内にいるようにとすること。「養性」。器を動かせば水も動くようなもの。「放心」は怪異なものに合ってわっという時に放心する。そこで気が付く。直ぐに収まる。どっこい遣らぬというようなことではない。「存心」・「養性」・「收放心」という心法の功夫は禅坊主から盗んだと言うかも知れないが、全く時代が違う。禅は達磨が元祖だが未だ渡らない時である。孔子が仁、堯が中を執るのは、皆存心養性、放心を収めること。
【語釈】
・尭が中を執…書經虞書大禹謨。「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中」。

仁義礼智が本來の面目のやふなことではない。仁義礼智は天から下されても、有るとも無とも御目にかゝったことはないゆへ知れぬ。そこを孟子が知らせたものなり。孟子が、そこもとには仁がある。どふしたものでござると云。惻隱之心は仁也。羞悪。手前にわるいことあると顔を赤くする。誰でもあるなり。羞悪がないと姦夫盗賊御見舞申すになる。こそゝゝするは盗碩にも義が有からなり。辞讓。老人をば先つ御さきへと云。これ礼有ゆへなり。是非。誰も鷺を烏と云ものはない。これ智の有ゆへなり。からだ有て先祖を知るやふなもの。心が有て心の咄しするゆへ通るなり。
【解説】
「至論仁義禮智、則以惻隱・羞惡・辭讓・是非之心爲之端、」の説明。人には仁義礼智がある。それは惻隠・羞悪・辞譲・是非によってわかる。
【通釈】
仁義礼智は本来の面目の様なことではない。仁義礼智は天から下されても、有るとも無いとも御目に掛かったことがないのでわからない。そこを孟子が知らせたもの。孟子が、貴方には仁があると言うと、どうしたものかと尋ねられた。そこで「惻隱之心、仁也」。「羞惡」。自分に悪いことがあると顔を赤くする。誰でもある。羞悪がないと姦夫盗賊御見舞申すになる。こそこそするのは盗跖にも義が有るから。「辭讓」。老人に先ず御先へと言う。これは礼が有るから。「是非」。誰も鷺を烏と言う者はいない。これは智が有るから。身体が有って先祖を知る様なもの。心が有って心の話をするので通る。
【語釈】
・惻隱之心は仁也…孟子告子章句上6。「惻隱之心、仁也。羞惡之心、義也。恭敬之心、禮也。是非之心、智也。」。

邪説は楊墨。生於心害政。これがのっひきならぬものなり。心に有が直に政に出る。釋迦は世をすてた、ゆるせと云が、害政と云て赦されぬなり。老師仏氏を信仰するときは政は出來ぬ。邪正一如、落れは同し谷河乃水と云。どふでもよいと云と経済に害があるなり。徂徠の政談や経済録があれば政は出來ると云と、入歯で物を食ふやふなもの。論事君。法と云は圣人のして置てうごかされぬものなれども、法でばかりするとこつゝゝして塩梅がない。熱のあるとき食事をするやふなもの。政は君の心をよくしてからでなければ法もやくにたゝぬ。桀紂の天下も、御先祖の法はあれども心のわるいゆへなり。一正君。君の心を正くすると跡はすらゝゝなり。君がわるくて下々へ孝々をしろの心持をよくせよのと云てもならぬことなり。千変萬化只説従心上來は、孟子の内皆これなり。人能。万能より一心の俗語と同じ。何もかも心でするゆへ心を正ふすれば何でも手高にして取るなり。切れる庖丁で物を切るやふなもの。それと云も孟子のしたことではない。大学にあるなり。孔子の道と同しと云も、大学から学んたゆへなり。
【解説】
「論邪說之害、則曰、生於其心、害於其政。論事君、則曰、格君心之非。一正君而國定。千變萬化、只說從心上來。人能正心、則事無足爲者矣。大學之脩身齊家、治國平天下、其本只是正心誠意而已。」の説明。仏は世を捨てたので経済に害がある。徂徠の政事は味気ない。法でばかりするするのは塩梅がない。君の心を正しくするのが第一である。大学の修身・斉家・治国・平天下も正心・誠意が本となる。
【通釈】
「邪說」は楊墨。「生於其心、害於其政」。これがのっぴきならぬもの。心に有るのが直に政に出る。釈迦は世を捨てた、赦せと言うが、害政なので赦すことはできない。老師仏氏を信仰する時は政は出来ない。邪正一如、落ちれば同じ谷川の水と言う。どうでもよいと言うと経済に害がある。徂徠の政談や経済録があれば政は出来ると言うのは、入歯で物を食うようなもの。「論事君」。法は聖人がして置いて動かすことのできないものだが、法でばかりするとごつごつして塩梅がない。それは熱のある時に食事をするようなもの。政は君の心をよくしてからでなければ法も役に立たない。桀紂の天下も、御先祖の法はあったが心が悪いから悪い。「一正君」。君の心を正しくすると後はすらすらと行く。君が悪くて下々へ孝々をしろとか心持をよくしろと言ってもそれはできないこと。「千變萬化、只說從心上來」。孟子の内は皆これである。「人能」。万能より一心の俗語と同じ。何もかも心でするので心を正しくすれば何でも手高にして取る。それも切れる庖丁で物を切るようなもの。それというのも孟子のしたことではない。大学にある。孔子の道と同じと言うのも、大学から学んだからである。

心得其正。正心と性善を一つにしたと云が楊亀山の見識なり。正心と丁どのよいときにして時計の違はぬやふなもの。正心は學者の功夫で、こゝへ來て始て性の善なることを知る。心正しくなるもをれがす子から揉み出したではない。性善でなければこふはならぬなり。世乃中を渡りくらへていまそ知る。故孟子遇人云云。どの病人へもこの藥、どこへ以て行いてもはづれはない。歐陽永叔は儒者の頭なり。これは八大家の文者なれども、宋朝ではこれが儒者の上坐になるが、あの言たこと大きに誤りじゃと云。性非所先。今金の講釋せぬやふなもの。作田録曰、徂徠なども性を云をきろふ。永叔と一つことぞ。夫れゆへ性命をめったに云はぬとあり。夫れこそ時代が違う。後世は性と云ことを知らぬゆへ、孟子がそこを説たぞ。
【解説】
「心得其正、然後知性之善。故孟子遇人便道性善。歐陽永叔卻言、聖人之敎人、性非所先。可謂誤矣。」の説明。正心と性善を一つにしたのが楊亀山の見識である。正心は学者の功夫で、これで初めて性の善であることを知る。
【通釈】
「心得其正」。正心と性善を一つにしたというのが楊亀山の見識である。正心と丁度のよい時にして時計の違わないようなもの。正心は学者の功夫で、ここへ来て初めて性の善であることを知る。心が正しくなるのも自分が脛から揉み出したのではない。性善でなければこの様にはならない。世の中をわたりくらべて今ぞ知る。「故孟子遇人云云」。どの病人へもこの薬、何処へ持って行っても外れない。歐陽永叔は儒者の頭である。これは八大家の文者で宋朝ではこれが儒者の上座になるが、彼の言ったことは大いに誤りだと言う。「性非所先」。今金の講釈をしないようなもの。作田録して曰く、徂徠なども性を言うことを嫌う。永叔と同じこと。それで性命を滅多に言わないとある。それこそ時代が違う。後世は性ということを知らないので、孟子がそこを説いたのである。
【語釈】
・世乃中を渡りくらへていまそ知る…道歌。「世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は波風ぞなき」。

○人性上。何でもこちから手を出すことはない。尭舜孔子などは性が多く今日の人は少ひと云ことに非ず。やっはり同じ。仁義礼智尭舜の万世の法となるは性のまゝで置た故なり。中庸に率性と云は何のことと云に、やっはり天理なり。天にある内は理、人へ来ては性なり。公方様にある米は御米、御籏本衆が受取て來れば米と云やふなものなり。作田録曰、循性と云は、何にしたごふじゃと云ときにすぐに天に從ふじゃ。天理に從と云は、信義別序信皆道理なりにする。さまゝゝちがへども、難波のあしは伊勢のはまおきと云ものも皆一つこと。そこじゃによって孟子ををれが心じゃと云。夫れに今の者はと云こと。
【解説】
「人性上不可添一物。堯舜所以爲萬世法、亦是率性而已。所謂率性、循天理是也。」の説明。「率性」の性は天理のこと。天にある内は理、人へ来ては性である。天理に率うとは、信義別序信、皆道理のままにすること。
【通釈】
○「人性上」。何でもこちらから手を出すことはない。堯・舜・孔子などは性が多くて今日の人は少ないということではない。やはり同じ。仁義礼智が堯・舜の万世の法となるのは性のままで置いたからである。中庸に「率性」と言うのは何のことかと言うと、やはり天理のこと。天にある内は理、人へ来ては性である。公方様にある米は御米、御旗本衆が受け取って来れば米と言う様なもの。作田録して曰く、率性というのは、何に従うかと言う時に直ぐに天に従うということ。天理に従うというのは、信義別序信、皆道理のままにすること。様々に違っているが、難波の葦は伊勢の濱荻と言うのも皆同じだからである。それで孟子を俺の心だと言う。それなのに今の者はいうこと。
【語釈】
・率性…中庸章句1。「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂敎」。

○外邉云云。こゝは王荊公をそしったことなり。楊亀山が荊公を弁ずるは度々なり。弁ずるが上手なり。王荊公は(以下闕)。
外邉は夷狄のこと。夷狄をこの方へ入れぬため計を用い、いろゝゝのふせぎをして天下を安泰にすることと思ふで有ふぞ。それも出來ぬことは有まいゆへ、たとひなり。昔の五覇の者もそのやふなこと有たゆへ功も有ふが、功業を立れば立るほど人欲之私。管仲などはあれほど天下に功有たれとも、心はやっはり凡夫なり。この人欲をすて子ば垩賢の作處とは天地懸隔。孟子抔がこのやふなことに世話をやく時は垩賢の通にするゆへ合はぬ。存心養性收其放心は歐陽永叔にあてゝ論じ、論事君正君心之非は王荊公にあてゝ云。
【解説】
「外邊用計用數、假饒立得功業、只是人欲之私。與聖賢作處、天地懸隔。」の説明。昔の五覇などは功業を立てれば立てるほど「人欲之私」である。管仲も同じ。人欲を捨てなければならない。「存心」・「養性」・「收其放心」は歐陽永叔にあてて論じ、「論事君」・「格君心之非」は王荊公にあてて言う。
【通釈】
○「外邉云云」。ここは王荊公を譏ったこと。楊亀山が荊公を弁ずることは度々ある。弁ずるのが上手である。王荊公は(以下闕)。
「外邉」は夷狄のこと。夷狄をこちらに入れないために計を用い、色々と禦ぐ方策をして天下を安泰にすることと思うだろうが、それも出来ないことではないので、「假」と言う。昔の五覇の者もその様なことがあったので功も有るだろうが、功業を立てれば立てるほど「人欲之私」である。管仲などはあれほど天下に功が有ったが、心はやはり凡夫である。この人欲を捨てなければ「聖賢の作處」とは「天地懸隔」である。孟子などがこの様なことに世話を焼く時は聖賢の通りにするので合わない。「存心」・「養性」・「收其放心」は歐陽永叔にあてて論じ、「論事君」・「格君心之非」は王荊公にあてて言う。
【語釈】
・王荊公…王安石。1021~1086。