孟子卷之一筆記

梁惠王上 三月廿一日
【語釈】
・三月廿一日…天明8年(1788年)3月21日。

先頃序で云通り、論語孟子理は違いかないが、論語は御弟子衆と道理の御咄し、孟子の御議論は世の中をよくしたいと云ゆへあらい。そこで此方ではっきりと耳をあけて聞か子ば孟子への無礼なり。孟子を読で、こヽの処は孔子に及はぬ抔とこの方で了簡を云へば、孟子をもてあそぶやふなもの。そう見ては孟子を読だ甲斐はない。あつくない灸をすへたいと云やふなもの。灸はあついできくなり。直方先生鞭策録を読なら心を鞭策しろと云。孟子を読なら孟子の療治で心を直そうとせ子ば役にたヽぬ。孟子の藥で直そふと云てかヽら子ばきかぬ。これが發端を見るの一つなり。孟子の始は仁義とときつめる。これが孔子の道と同じ。これ二つなり。見梁惠王と云見の字が孟子の出處なり。こヽを見るが第三なり。奉公する者は肉身の爲めにしたがるものなり。圣賢の出處は、出る、直に領分の民をよくしたいと云。今の奉公する者はひだるい思をせぬ爲なりと云は人欲なり。圣賢は奉公する、新民の業をするなり。
【解説】
孟子を読むに当たっては、それで心を直そうとしなければならない。孟子が仁義を言うのは孔子の道と同じである。「見梁惠王」の見の字が孟子の出処である。孟子の出処は新民の業をするためである。
【通釈】
先頃序で言った通り、論語と孟子とでは理に違いはないが、論語は御弟子衆と道理の御話であって、孟子の御議論は世の中をよくしたいということなので荒い。そこでこちらではっきりと耳を空けて聞かなければ孟子への無礼となる。孟子を読んで、ここの処は孔子に及ばないなどとこちらで了簡を言うのは孟子を弄ぶようなもの。その様に見ては孟子を読んだ甲斐はない。それは熱くない灸をすえたいと言うようなもの。灸は熱いから効く。直方先生が鞭策録を読むのであれば心を鞭策しろと言った。孟子を読むのであれば孟子の療治で心を直そうとしなければ役に立たない。孟子の薬で直そうと言って掛からなければ効かない。これが発端を見るための一つである。孟子の始めは仁義と説き詰める。これが孔子の道と同じ。これが二つである。「見梁惠王」の見の字が孟子の出処である。ここを見るのが第三である。奉公する者は肉身のためにしたがるもの。聖賢の出処は、出ると直ぐに領分の民をよくしたいと言う。今の奉公する者は饑い思いをしないためだと言うのは人欲である。聖賢が奉公する時は新民の業をするのである。
【語釈】
・直方先生・・・佐藤直方。享保4年(1719) 8月15日没。年70。
・新民・・・大学章句経1。「大學之道、在明明德、在親民、在止於至善」。朱注に「程子曰、親、當作新」とある。

○孟子見梁惠王。みると云は、梁惠王は大名なり。儒者が大名に往くはあることなれども、みると云はあちから礼を以て■■■往くふにするゆへ、さらばと云て往くなり。まみゆると云は見遍反と云て、あの人に逢たいと云、こちから往くのなり。弟子が師匠へまみへたいと云なり。それなれば孟子は凡儒なり。今の儒者は大言を云ながら、こちから御見舞申したがる。
【解説】
「孟子見梁惠王。」の説明。ここの見はみると読む。それは梁の恵王に招かれて往くからである。招かれずに往く場合はまみゆると読む。
【通釈】
○「孟子見梁惠王」。見をみると言うのは、梁恵王は大名であって、儒者が大名に往くことはあることだが、みると言うのはあちらから礼を尽くして儒者が往くようにするので、それであればと言って往く場合に使う。まみゆると言う場合は、音は見遍反であって、あの人に逢たいと言ってこちらから往くのである。弟子が師匠へ見えたいという時などである。見えるのであれば孟子は凡儒である。今の儒者は大言を言いながら、こちらから御見舞申したがる。

△梁の惠王と云は、梁に都したゆへ梁と云。仙臺候と云やふなもの。魏候罃なりと云は、通鑑の筆で書たり。僭稱王。天子から御免んもなく、手前から王と称す。中間が紺の布子の下へちりめん儒伴を着るやふなもの。下へ着る内はまだよいが、上へ着る、もふ僭なり。史記云云。大名が浪人へ慇懃に我を卑くして、何とぞ御出と云ゆへなり。大名は浪人が途中で大へいをすれば切すてると云ほとのもの。それを何とぞ御出下されと云ゆへ、然らばと云。是れがなくて行くなら出たがるなり。されとも厚幣せ子ば卑礼してもうそになる。卑礼厚幣せ子ば状にいんぎんをして進物にごまめ一帒やるやふなもの。それを卑礼厚幣したゆへ、そんなら御見舞仕うと云。而孟軻至梁なり。戦国のときは儒者が大名へ往たがるが、孟子ばかり中々めったに行かぬなり。これほどに迠往くにも次第階級のあることぞ。石原先生のつまる処、こい、をいと出ぬことなり。
【解説】
梁惠王、魏侯罃也。都大梁。僭稱王。諡曰惠。史記、惠王三十五年、卑禮厚幣以招賢者。而孟軻至梁。」の説明。恵王が卑礼厚幣で招いたので、滅多に出ない孟子も梁に行った。石原先生も出ない人であった。
【通釈】
△梁の恵王と言うのは、梁に都したので梁と言う。仙台侯と言うようなもの。「魏侯罃也」とは、通鑑の筆で書いたもの。「僭稱王」。天子から許されたわけでもないのに自分から王と称す。中間が紺の布子の下に縮緬襦袢を着るようなもの。下に着る内はまだよいが、上に着ればもう僭である。「史記云云」。大名が浪人へ慇懃に自分を卑くして、何とぞ御出下されと言うので孟子が梁に行った。大名は浪人が途中で横柄をすれば切り捨てるというほどのもの。それを何とぞ御出下されと言うので、然らばと言った。これがなくて行くなら出たがるのである。しかし「厚幣」しなければ「卑禮」しても嘘になる。卑礼厚幣しなければ状に慇懃をして進物に田作一袋を遣るようなもの。それを卑礼厚幣したので、それなら御見舞仕ろうと言った。「而孟軻至梁」である。戦国の時は儒者が大名の所へ往きたがるが、孟子ばかりは中々滅多には行かない。往くにもこれほどにまでに次第階級がある。詰まる処、石原先生がこいと言われてもはい言ってと出ないのと同じ。
【語釈】
・石原先生・・・野田剛齋。名は德勝。七右衛門と称す。江戸の人。本所石原に住む。石原先生。明和5年(1768)2月6日没。年79。

○王曰叟。叟は老人の稱て尊んで云。不遠千里。この遠い所をはるゝゝとようごさって下された。定て我国を利てくれるて有ふ、辱と云。我国を利してくれろゝゝゝと云が戦国の風なり。口切や汝を呼も金の事と云やふなもの。△王所謂利云云。利と云がそのやふにとがの有る字ではないが、是が易に有る利の字とは違うていやなこと。そこで所謂利と出したもの。蓋冨国强兵。をれが国へ来たのは米を澤山にし、兵を强くせんと云のなり。序文に秦用商鞅云云。大名ともが我もゝゝと身帯をよくし、勢をつよふするばかりなり。そこで眞始めから所往者不合なり。
【解説】
「王曰、叟、不遠千里而來。亦將有以利吾國乎。叟、長老之稱。王所謂利、蓋富國彊兵之類。」の説明。恵王は孟子が我が国を利してくれると思った。孟子は、王の言う利とは米を沢山にし、兵を強くするということだろうと言った。
【通釈】
○「王曰叟」。叟は老人の称で尊んで言ったもの。「不遠千里」。この遠い所をはるばるとよく来られた。定めて我が国を利してくれるだろう、辱いと言った。我国を利してくれというのが戦国の風である。口切りや汝を呼ぶも金の事と言うようなもの。△「王所謂利云云」。利というのはその様に利(咎)の有る字ではないが、これが易に有る利の字とは違って嫌なこと。そこで「所謂利」と出したもの。「蓋富国彊兵」。俺が国へ来たのは米を沢山にし、兵を強くするためということだろう。序文に「秦用商鞅云云」とある。大名共が我も我もと身代をよくし、勢いを強くしようとするばかりである。そこで最初から「所如者不合」である。
【語釈】
・是が易に有る利の字・・・例えば、「乾、元亨。利貞」の様なもの。
・所往者不合・・・孟子序説。「所如者不合」。

○孟子對曰云云。王何ををっちゃります。利と云ことををっちゃりますが、はてひょんなことでござります。亦有仁義而已矣。私共の方に利と云ことはござりませぬと云て一つ宛かゝったり。眞先に孔子の道を云たり。而已矣と云が猫の鼠を取るやふなもの。外にほまちはない。△仁者心之德愛之理。從心上説來ると云方より心之德とさきへ出したもの。人間の人間たる所は心のこと。人間の心は仁の全德が主になって居るなり。其仁の御顔が見たいと云と、愛ちらりと顔を見せて愛之理なり。愛は、今あの子はあいらしいと云て愛するは人の心に愛と云ものをもっているなり。知らぬ者でも道に倒れてをると、はていつ方のものかと云て心へひヾいてくるなり。それは人間のもちまいて誰もかれもある。其奧の院が仁。そこで理と云。心之德と云ものはどふ云ものと云に、愛の理が即ち心之德なり。論語には愛之理心之德と出す。孟子は心之德愛之理と心が先へ立つ。論語は仁ゝとばかり仁へと云故へ愛、孟子は心々と先へするゆへなり。主とする処を先へ出す。義は心之制。心の中に義が有ゆへさばくなり。義は心のきれと云。物の切れがある。家内に女房も妹もある。皆可愛ゆいはかはゆいが、義があるゆへあしらいが違う。事之冝。義の相手が事なり。向のものをこちの義でさばくゆへ、丁どよろしくなるなり。義がなければ冝しくはない。喪に哀しいと云て泣は仁なれども、そうゝゝ泣はづはないと云。義なり。孟子が仁義と云のは、蘓秦張儀が来ても中々動かぬ。尭舜三代から来た流義なり。これ一章の大指なり。後多。孟子に計り有論語にはない。
【解説】
「孟子對曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣。仁者、心之德、愛之理。義者、心之制、事之宜也。此二句乃一章之大指。下文乃詳言之。後多放此。」の説明。孟子には利は無い。仁義のみである。人間の人間たる所は心である。人間の心は仁の全徳が主になっている。人には愛がある。愛の奥の院が仁であり理である。論語は仁を言うので愛が先、孟子は心を言うので心が先になる。義で事を捌く。それで宜しくなる。
【通釈】
○「孟子對曰云云」。王、何を仰ります。利を仰りますが、それはさてもひょんなことでございます。「亦有仁義而已矣」。私共の方に利ということはございませんと言って一つ宛掛かった。真っ先に孔子の道を言ったのである。「而已矣」というのが猫が鼠を捕るようなもの。外にほまちはない。△「仁者、心之德、愛之理」。「說從心上來」という方より「心之德」と先へ出したもの。人間の人間たる所は心のこと。人間の心は仁の全徳が主になっている。その仁の御顔が見たいと言うと、愛がちらりと顔を見せて「愛之理」である。今あの子は愛らしいと言って愛するのは、人の心に愛というものを持っているからである。知らない者でも道に倒れていると、はて何方の者かと言って心へ響いてくる。それは人間の持ち前であって誰も彼もある。その奧の院が仁。そこで理と言う。「心之德」というものはどの様なものかというと、愛の理が即ち心の徳である。論語には「愛之理、心之德」と出す。孟子は「心之德。愛之理」と心が先へ立つ。論語は仁々とばかり仁を言うので愛、孟子は心々と心を先にするからである。主とする処を先へ出す。「義者、心之制」。心の中に義が有るのでこれで捌く。義は心の切れと言う。物の切れがある。家内に女房も妹もいる。皆可愛いことは可愛いが、義があるのであしらいが違う。「事之宜」。義の相手が事である。向こうのものをこちらの義で捌くので、丁度宜しくなる。義がなければ宜しくはない。喪に哀しいといって泣くのは仁だが、そうそう泣く筈はないと言う。義である。孟子が仁義と言うのは、蘇秦・張儀が来ても中々動かないことで、堯・舜三代から来た流儀である。これが一章の大指である。「後多」。孟子にばかり有って論語にはない。
【語釈】
・ほまち・・・主人に内密で家族・使用人が開墾した田畑、また、たくわえた金。個人の所有となる臨時収入。役得。へそくり。
・從心上説來る・・・論語序説。「千變萬化、只說從心上來」。
・論語には愛之理心之德・・・論語学而2朱注。「仁者、愛之理、心之德也」。

○王曰何以利吾国。利と云ことを方々で申します。御前もをっしゃりますが、利と云ことを云ときは天下はらりになる。御前が吾国を利せんと云と御家来もまた吾家を利せんと云て、とかく手前ゝゝと云て人に搆はぬ。士庻人。これは只の者。これも亦どふかして我身の勝手と云と天下が大事になって危い。まだある。萬乘之国。これがあとさき見られで中々云はれることに非ず。君を向へ置て云にくいことなれども、道理を云にはこれからきめて云は子ばならぬ。主弑の咄、側ではいやなこと云と思ているで有う。萬乘の国は王子なり。天下の君を弑は何が弑そう。千乗の国の大名が弑す。大名の君を弑すは百乘の家の家来が弑す。中々主を弑すに軽い者が弑すことはならぬ。そこらの掃除する奴が君を弑すことはならぬ。利と云ことを目を付るときは、君のものを取りゝゝして皆取てしまは子ばたんなふせぬなり。末た娘子共が善い着物をほしいゝゝゝと云は少いことなれとも、国天下を治るものがほしいゝゝゝと云ときは、奪て仕舞子ば心に足らぬなり。御前は利とをっしゃるが、利のことを云は主弑の種を蒔やふなものとなり。△弑は名分の有字なり。何ても生物を殺すなれども、下殺乎上は莫大のことゆへ別の字を書かへて弑すると云。若又以義爲後云云。人は仁義の心で礼義廉耻が人間の人間たることなり。それを礼義廉耻がなくて、亭主は食はせまい、客はくはふと云かへるときは、藏へ往て何そ持て往くやふにもなるなり。人間の欲は義と云がなくなるゆへ、義がうしろになり利と云ことばかりになるゆへ、つまり主弑になるより外はないなり。仮り初にも利と云ことをはをっしゃりますななり。
【解説】
「王曰何以利吾國、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而國危矣。萬乘之國、弑其君者、必千乘之家、千乘之國、弑其君者、必百乘之家。萬取千焉、千取百焉、不爲不多矣。苟爲後義而先利、不奪不饜。乘、去聲。饜、於豔反。○此言求利之害、以明上文何必曰利之意也。征、取也。上取乎下、下取乎上。故曰交征。國危、謂將有弑奪之禍。乘、車數也。萬乘之國者、天子畿内、地方千里、出車萬乘、千乘之家者、天子之公卿、采地方百里、出車千乘也。千乘之國、諸侯之國、百乘之家、諸侯之大夫也。弑、下殺上也。饜、足也。言臣之於君、每十分而取其一分、亦已多矣。若又以義爲後、而以利爲先、則不弑其君而盡奪之、其心未肯以爲足也。」の説明。利を言う時は天下が乱離になる。とかく自分のことばかりで人に構わなくなる。天下の君を弑すの千乗の国の大名が弑す。大名の君を弑すのは百乗の家の家来が弑す。主を弑すのに軽い者が弑すことはできない。利のことを言うのは主弑の種を蒔くようなもの。
【通釈】
○「王曰何以利吾国」。利ということを方々で申します。貴方も仰りますが、利を言う時は天下が乱離になる。貴方が我が国を利せんと言うと御家来もまた我が家を利せんと言って、とかく手前のことを言って人に構わなくなる。「士庶人」。これは只の者のこと。これも亦どうでも我が身の勝手と言えば天下が大事になって危ない。まだある。「萬乘之国」。これが後先を見ないでは中々言えることではない。君を向こうへ置いて言いにくいことではあるが、道理を言うにはこれから決めて言わなければならない。主弑の話、側では嫌なこと言うと思っているだろう。万乗の国は王子である。天下の君を弑すのは誰が弑そう。千乗の国の大名が弑す。大名の君を弑すのは百乗の家の家来が弑す。中々主を弑すのに軽い者が弑すことはできない。そこ等の掃除をする奴が君を弑すことはできない。利ということに目を付ける時は、君の物を取るにも、皆取って仕舞わなければ堪能しない。まだ娘子共が善い着物を欲しいと言うのは小さいことだが、国天下を治める者が欲しいと言う時は、奪って仕舞わなければ心が満たされない。貴方は利と仰るが、利のことを言うのは主弑の種を蒔くようなものだと言った。△弑は名分の有る字である。何でも生物を殺すことなのだが、「下殺乎上」は莫大なことなので別の字を書き替えて弑すと言う。「若又以義爲後云云」。人には仁義の心があって礼義廉恥が人間の人間たること。それを礼義廉恥がなくて、亭主には食わせまい、客に食わせようと言い換える時は、蔵へ往って何ぞ持ってゆくようにもなる。人間の欲は義がなくなり、義が後ろになって利ばかりになるからで、それで詰まりは主弑になるより外はなくなる。仮初にも利ということを仰りますなと言った。

○未有仁而遺其親者。惠王が仁義と云と顔つきをわるくして居。利と云と上戸の酒を出したやふにす。私が仁義を云がそのやふにつめたいものではごさらぬ、うまいものでこざる。仁は蝦蟆を蹈む、はっと云処が仁なり。蛙をふんではっと云心が有なら、親に疔が出来ても何とも思はぬ、往きかけの駄賃と云はつはない。義而云云。隣の亭主にをらが種を気をつけてくれろと頼まれて、隣の種は盗まれては成まいと夜起るが、旦那のことはどふしてもよいと云ことはないはづ。
【解説】
「未有仁而遺其親者也。未有義而後其君者也。」の説明。蟇蛙を踏むとはっとする処が仁である。仁があれば親を大事にする筈であり、義があれば君を先にする筈である。
【通釈】
○「未有仁而遺其親者」。仁義と言うと恵王は顔付きを悪くする。利と言うと上戸が酒を出したようになる。私が仁義を言うのはその様に冷たいものではありません、旨いものでございます。蟇蛙を踏むとはっとする処が仁である。蛙を踏んではっとする心が有るのなら、親に疔が出来ても何とも思わなかったり、行き掛けの駄賃などと言う筈はない。「義而云云」。隣の亭主に自分の種を気を付けてくれと頼まれて、隣の種は盗まれては成るまいと夜起きるが、旦那のことはどうでもよいということはない筈。

△仁義の中に仁義の利があるなり。遺猶棄。棚へ上けて置くやふなものなり。後は不急也。君命召不待駕と云か君臣の義なり。召す、はいと云てかけ出す。後にせぬのなり。今軍さのときは主の爲めに命を惜まず働らかふが、御番に雪が降から病氣にせふと云が後にするのなり。されとも日本の武士は番は誰れてもすると云。故に人君云云。躬仁義を行ふは寒三十日地黄を呑つ■くやうにからだの建立をする。仁義ゝゝと云と、利と云はどこに有かと云やふになくなるなり。上が仁義を行ふときは、いつとなく下が眞似て仁義になるなり。化之は仁義のこと。上み方て時花歌がいつとなく上總へもはやってくるなり。そうすると上下交利を取と云やふなことはなくなる。仁義と云は當分は人欲をすてる故勝手にわるいやふなれども、あとがよい。利は口へ入れたときは甘いやふなれども、跡が酢い。茶も初昔や其餘よい茶は、呑たときは苦いやふなれども、あとて甘みが出る。
【解説】
此言仁義未嘗不利、以明上文亦有仁義而已之意也。遺、猶棄也。後、不急也。言仁者必愛其親、義者必急其君。故人君躬行仁義而無求利之心、則其下化之、自親戴於己也。」の説明。仁義の中に仁義の利がある。仁義とばかり言えば、利は無くなる。上が仁義を行えば、下が真似て下も仁義になる。
【通釈】
△仁義の中に仁義の利がある。「遺、猶棄」。棚へ上げて置くようなもの。「後、不急也」。「君命召、不俟駕行矣」というのが君臣の義である。召す、はいと言って駆け出す。後にしないのである。今軍の時は主のために命を惜しまず働くが、御番には雪が降るから病気ということにしようというのが後にするのである。しかしながら、日本の武士は誰もが番をするという。「故人君云云」。躬ら仁義を行うとは、寒三十日に地黄を飲み続けるように身体の建立をすること。仁義とばかり言えば、利は何処に有るのかと言うように無くなる。上が仁義を行う時は、何時となく下が真似て仁義になる。「化之」は仁義のこと。上方の時花歌が何時となく上総へも流行ってくる。そうすると上下交利を征るというようなことはなくなる。仁義というものは当分は人欲を棄てるので勝手に悪いようだが、後がよい。利は口へ入れた時は甘いようだが、後が酸い。茶も初昔やよほどよい茶は、呑んだ時は苦いようだが、後で甘みが出る。
【語釈】
・君命召不待駕・・・論語郷黨13。「君命召、不俟駕行矣」。

王亦曰仁義云云。直方先生の、こヽで釘の裏をしめたとなり。御前の御流義は何じゃと云とき、仁義じゃと■■■なり。子子孫々迠も利と云ことを御法度になされませと云。△此章言。人の心にむかしから仁義と云ものが有来た故、いくら汲み干てもなくなると云ことはない。天理之公。仁義と云は天理のなりで、昼はあかるく夜はくらいと云やふなもの。向の御爲めの何のと云ことなく、天理なりをしてゆく。物我。人と吾が一つものならばそうは有まい。相形は物と我。形の違いあり。形が分って有ゆへ手前さへ食へばよいと云になるなり。循天理云云。董仲舒が語。子たる者は孝をするはづ、臣たる者は君を敬ひ忠をするはづ。中々利を求てすると云ことはない。自無不利の利と云は、瞽叟ほとの親なれども、舜と云子を持て舜が天理の通に孝行するゆへ、ついに允若ふと云。これが利なり。
【解説】
「王亦曰仁義而已矣。何必曰利。重言之、以結上文兩節之意。○此章言、仁義根於人心之固有。天理之公也。利心生於物我之相形。人欲之私也。循天理、則不求利而自無不利。」の説明。仁義は天理のなりである。天理に循うだけで、利を求めてはならない。
【通釈】
「王亦曰仁義云云」。直方先生が、ここで釘の裏を絞めたと言った。御前の御流儀は何かと言う時、仁義だと言ったのである。子々孫々までも利ということを御法度になさいませと言った。△「此章言」。人の心に昔から仁義というものが有り来たので、いくら汲み干してもなくなるということはない。「天理之公」。仁義は天理の通りで、昼は明るく夜は暗いというようなもの。向こうの御為だの何のということはなく、天理の通りをしていく。「物我」。人と自分が一つ物であればそうはなるまい。「相形」は物と我。形の違いがある。形が分かれて有るので自分さえ食えればよいということになる。「循天理云云」。董仲舒の語。子たる者は孝をする筈、臣たる者は君を敬い忠をする筈。中々利を求めてするということはない。「自無不利」の利は、瞽瞍ほどの親でも、舜という子を持ち、舜が天理の通りに孝行するので、ついに「允若」となるということ。これが利である。
【語釈】
・允若・・・孟子萬章章句上4。「書曰、祗載見瞽瞍、夔夔齊栗、瞽瞍亦允若」。書は書経大禹謨。

徇人欲。人欲にはしたがはれぬものなれども、人欲で利を求るゆへ、巾着切が銭を一貫拂ふて袷二牧とって罪に合うと云。殷紂王が鹿臺の財をためたけれとも、あれが武王のものになって仕舞ふ。害已隨之なり。造端託始と云て、孔子の道統を孟子の継だのも利と云をすてヽ仁義を云ゆへなり。明辨。學者が仁義ゝゝと云ても利の中を拔けぬゆへ、仁義のことや王道は語られぬ。油の中へ水を少しはよかろふと云ても中々とほらぬ。合のわるいものが同道するが、それは上手でする。うはべばかりなり。只うはべ計りにして、明に辨ずると云でなければ役に立ぬ。太史公は司馬選の孟子の賛なり。廃書。孟子の惠王の利吾国と云処に至て、書をすてヽさてゝゝと云て嘆ずるなり。それなら司馬選は学者かと云に、そうでない。そんなら文章でのことかと云に、そう見ては司馬遷を知らぬなり。司馬遷は戦国をよく知た人なり。あのときの戰は皆利から出たのなり。それに孟子一人仁義を云と、よくゝゝ感心した。
【解説】
徇人欲、則求利未得而害已隨之。所謂毫釐之差、千里之繆。此孟子之書、所以造端託始之深意、學者所宜精察而明辨也。○太史公曰、余讀孟子書、至梁惠王問何以利吾國、未嘗不廢書而歎也。曰、嗟乎、利誠亂之始也。」の説明。司馬遷は戦国をよく知った人である。あの時の戦は皆利から出たが、孟子一人が仁義を言うと感心した。
【通釈】
「徇人欲」。人欲には従うものではないが、人欲で利を求めるので、巾着切りが銭を一貫払って袷二枚取って罪になると言う。殷の紂王が鹿台の財を貯めたが、あれが武王のものになってしまう。「害已隨之」である。「造端託始」と言って、孔子の道統を孟子が継いだのも、利を棄てて仁義を言うからである。「明辨」。学者が仁義々々と言っても利の中を抜けないので、仁義のことや王道は語ることはできない。油の中へ水を少しはよいだろうと言っても中々通ることではない。仲の悪い者が同道するのは、それは上手でする。上辺ばかりのこと。只上辺ばかりで、明に弁ずるということでなければ役に立たない。「太史公」以下は司馬遷の孟子の賛である。「廢書」。孟子にある恵王が吾が国を利することを問うた処に至って、書を置いてさてさてと言って嘆じた。それなら司馬遷は学者かと言うと、そうではない。それなら文章でのことかと言えば、そう見ては司馬遷を知らないことになる。司馬遷は戦国をよく知った人。あの時の戦は皆利から出た。それなのに孟子一人が仁義を言うと、よくよく感心したのである。

夫子罕曰利。孔子も折ふしは高金もかすが、大金でもふける咄をするかと云に、どこに圣人じゃもの、そんなこと云はふはづはない。道理なりにすると自然と利が其中にある。惟秀録云、多怨。手前が凉い処に居て人の風のさまたげをする。秀直謂、この罕曰利の一條、記者の誤聞あるへし。程子曰。あの人はゆかりのある人じゃ、すてヽはおかれぬと云は、こちが何ぞのこと有時と云利心なり。奉公人へ太義ゝゝと云。そうやさしくして置とあいらがうれしがって働くと云てするも皆利心なり。當是之時。孟子のときは戦国で利とばかり云、仁義と云ことはない。拔源。草木も根をぬか子ばあとから出る。水も源をふさが子ばやまぬ。此圣賢之心也。少も手を出さず利心をせず仁義のなりをする。このとき孟子が事をしたら孔明ても追つくことでは有まいが、大賢がそのやうな世話することでない。只仁義のことなり。
【解説】
夫子罕言利、常防其源也。故曰、放於利而行、多怨。自天子以至於庶人、好利之弊、何以異哉。程子曰、君子未嘗不欲利、但專以利爲心、則有害。惟仁義則不求利、而未嘗不利也。當是之時、天下之人惟利是求、而不復知有仁義。故孟子言仁義而不言利、所以拔本塞源、而救其弊。此聖賢之心也。」の説明。利心をせずに仁義の通りをするのが聖賢の心である。
【通釈】
「夫子罕言利」。孔子も折節は高金も貸すが、大金で儲ける話をするかというと、聖人だからそんなことを言う筈はない。道理なりにすると自然と利がその中にある。惟秀録して云く、「多怨」。自分が涼しい処にいて人の風の妨げをする。秀直謂く、この「罕言利」の一條、記者の誤聞があるだろう。「程子曰」。あの人は縁のある人だ、捨てては置けないと言うのは、こちらで何ぞのことが有る時はという利心である。奉公人へ大儀と言う。その様に優しくして置くとあいつ等が嬉しがって働くと言ってするのも皆利心である。「當是之時」。孟子の時は戦国で利とばかり言い、仁義と言うことはない。「拔本塞源」。草木も根を抜かなければ後から出る。水も源を塞がなければ止まらない。「此聖賢之心也」。少しも手を出さず利心をせずに仁義の通りをする。この時に孟子が事をしたら孔明でも追い付くことではないだろうが、大賢がその様な世話することはない。只仁義のみである。
【語釈】
・惟秀・・・篠原惟秀。本姓は北田。字は秀甫。初名は安進。與五右衛門と称す。号は靜安。幼称は松次郎。東金市堀上の人。北田慶年の弟。文化9年(1812)2月15日没。年68。
・秀直・・・林潛齋。初め花澤文二と称す。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。


孟子見梁惠王立於池上章

孟子の來る折節惠王の庭を見てござる。顧鴻鳫の方を見て孟子に聞たものなり。垩賢はこのやふなこともあるかと思ふて聞なり。只の者が来たとて聞はづはない。賢者亦楽此乎。この方はこのやうに庭を作って楽むが、賢者の方にも楽むこと有かと云。惠王は辭がやはらかじゃ。宣王はすっと尖って出る。惠王は叱られぬやうに云。○孟子對曰。賢者亦と云処からつかまへて以てかヽるなり。賢者なれば楽む、不賢者は有ても楽むことはならぬ。
【解説】
「○孟子見梁惠王。王立於沼上、顧鴻鴈麋鹿曰、賢者亦樂此乎。樂、音洛。篇内同。○沼、池也。鴻、鴈之大者。麋、鹿之大者。孟子對曰、賢者而後樂此。不賢者、雖有此不樂也。此一章之大指。」の説明。楽しむというのは賢者であってこそのことであり、不賢者は楽しむことはできない。
【通釈】
孟子の来る折節、恵王が庭を見ておられる。顧みるとは、鴻鴈の方を見て孟子に聞いたもの。聖賢にもこの様なことがあるかと思って聞いたのである。只の者が来たならば聞く筈はない。「賢者亦樂此乎」。私はこの様に庭を作って楽しむが、賢者の方にも楽しむことが有るかと言った。恵王は辞が柔らかである。宣王はすっと尖って出る。恵王は叱られないように言う。○「孟子對曰」。「賢者亦」という処から捉まえてもって掛かる。賢者であれば楽しむ、不賢者はこの様なことが有っても楽しむことはできないと答えた。

○詩曰云云。賢者でなければ楽しまれぬことを詩を引て云。文王の昔し咄をするなり。經始靈臺。この仰付が有て拵へたらよかろふと云。経之営之は、普請奉行がそこがよかろう、こヽがよかろうと云。それより普請にかヽったなり。勿亟。これを作るが其方どもにひまな時分勝手に出ろと仰付るなり。そうすると庻民子來いさみすヽんで親の云付をするやうに我もゝゝと来る。王在靈囿。文王の御ひまなとき、これへこざる。麀鹿云云。禽獣にも文王の御德が見へる。ゆっくりと伏しているなり。惟秀録曰、人などを見てもにげもせず巨燵のわきに猫の寝ている如くなり。鳥や魚もいきゝゝして居る。盛德のさまじゃ。○文王以民力。これが文王の御手で出來たものでもない。民の力で出来たもの。夫を使ふはよくないことなれども、ひまな時農業の邪魔にならぬ、わいらが勝手にひまな時出ろと云ゆへ■■■ことならばと云て我もゝゝと來て、普請奉行がどふても二年もかヽろふと思う処を三十日やそこらで出来たゆへ、これは只事ではないと云て靈の字を付たなり。古之人與民樂。よく樂まれぬものなり。夫を出せと云と百姓共も難義ゆへぐつはつする。それでは楽にもならぬ。文王のは仰せ出があると勇み進んで、あなたのことならばと云て民が楽でくる。御前も文王の德有て楽まれる。下をむごくしては楽まれぬ。
【解説】
「詩云、經始靈臺、經之營之。庶民攻之、不日成之。經始勿亟、庶民子來。王在靈囿、麀鹿攸伏、麀鹿濯濯、白鳥鶴鶴。王在靈沼、於牣魚躍。文王以民力爲臺爲沼。而民歡樂之。謂其臺曰靈臺、謂其沼曰靈沼。樂其有麋鹿魚鼈。古之人與民偕樂。故能樂也。」の説明。文王は民が暇な時に霊台を造らせた。それで民も楽しんで造りに来た。文王の徳があって皆が楽しんだ。
【通釈】
○「詩云云云」。賢者でなければ楽しむことができないことを詩を引いて言う。文王の昔話をした。「經始靈臺」。この仰せ付けが有って拵えたらよかろうと言う。「經之營之」は、普請奉行がそこがよかろう、ここがよかろうと言う。それで普請に掛かった。「勿亟」。これを作るのだが、それはお前共が暇な時分に勝手に出ろと仰せ付けた。そうすると「庶民子來」が勇み進んで親の言い付けをするように我も我もと来る。「王在靈囿」。文王が御暇な時にここにおられる。「麀鹿云云」。禽獣にも文王の御徳が見える。ゆっくりと伏している。惟秀録して曰く、人などを見ても逃げもせず、それは炬燵の脇に猫が寝ているようであった。鳥や魚も活き活きとしている。盛徳の様である。○「文王以民力」。これが文王の御手で出来たものでもない。民の力で出来たもの。夫を使うのはよくないことだが、暇な時であって農業の邪魔にならない、私等が勝手に暇な時に出ろと言うので、そういうことであればと言って我も我もと来て、普請奉行がどうしても二年も掛かるだろうと思う処を三十日やそこらで出来たので、これは只事ではないと言って霊の字を付けた。「古之人與民樂」。中々楽しむことができないもの。夫を出せと言うと百姓共も難儀なのでぐつはつする。それでは楽しくもならない。文王のは仰せ出があると勇み進んで、あなたのことであればと言って民が楽しんで来る。御前も文王の徳が有って楽しむことができる。下を酷くしては楽しむことはできない。

△臺と云はもとより入用のもの。楽むことに作ったものではないが、そこへ往て楽むなり。不日と云ても一日もかヽらぬと云ことてはない。思ひ通りより早く出来たこと。子來云云。親の呼に速かにせぬ子はないが、御用と云ときはぶってぶづらするなり。文王を親のやふに思うゆへ、子の來るやふなり。民反云云。民力を用るは民の難義なことゆへしぶいつらをするはづに、反て歡楽。民が皆腹しているゆへなり。そこで誰が名付るともなく靈臺靈沼と云。故民楽。民か築くことを楽にする。通鑑に假山てはない、血山じゃと云たことがある。成るほど民の難義もいとわず、手前の作りたいとき夫を用て一日と思う日を使かわれるゆへ、百姓共が假山ではない、をらが血で出來たと云。
【解説】
亟、音棘。麀、音憂。鶴、詩作翯。戶角反。於、音烏。牣、音刀。○此引詩而釋之、以明賢者而後樂此之意。詩、大雅靈臺之篇、經、量度也。靈臺、文王臺名也。營、謀爲也。攻、治也。不日、不終日也。亟、速也、言文王戒以勿亟也。子來、如子來趨父事也。靈囿・靈沼、臺下有囿、囿中有沼也。麀、牝鹿也。伏、安其所、不驚動也。濯濯、肥澤貌。鶴鶴、潔白貌。於、歎美辭。牣、滿也。孟子言、文王雖用民力、而民反歡樂之、旣加以美名、而又樂其所有。蓋由文王能愛其民、故民樂其樂、而文王亦得以享其樂也。」の説明。民が楽しんで築くので予定よりも早く出来上がった。
【通釈】
△「臺」は固より入用なもの。楽しむことに作ったものではないが、そこへ行って楽しむ。「不日」と言っても一日も掛からないということではない。思ったよりも早く出来たということ。「子來云云」。親が呼ぶのに速やかにしない子はいないが、御用という時は仏頂面をする。文王を親のように思うので、子が来るようである。「民反云云」。民力を用いるのは民にとっては難儀なことなので渋い面をする筈なのだが、「反歡樂」。民が皆服している。そこで誰が名付けるともなく霊台・霊沼と言う。「故民樂」。民が築くことを楽しみにする。通鑑に仮山ではない、血山だと言ったことがある。成る程民の難儀も厭わず、自分の作りたい時に夫を用いて一日と思う日を使われるのだから、百姓共が仮山ではない、俺の血で出来たものだと言う筈である。

○湯誓曰。不賢者は楽まれぬ訣は桀王のことで云たものなり。時日と云は桀王のこと。桀王が、をれは天の日かあるやふなものと云たゆへ民が桀王を時日と異名をとなへたなり。人の悪くむ時はあだ名を云ものなり。何が桀王無道而民を難義させるゆへ、民の方から時日さまはいつ死なっしゃるやら、あの人か死ぬなら我も死てもよい、死せたいと云。これほと死ぬことを欲するなり。民がうらむれば臺池鳥獣独り楽まれまいとなり。△あの人が死でをれが生てをるなら猶よいが、そうは成るまいゆへ、あの人が死ぬなら死でも殺したいと云。
【解説】
「湯誓曰、時日害喪。予及女偕亡。民欲與之偕亡、雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉。害、音曷。喪、去聲。女、音汝。○此引書而釋之、以明不賢者雖有此不樂之意也。湯誓、商書篇名。時、是也。日、指夏桀。害、何也。桀嘗自言、吾有天下、如天之有日。日亡吾乃亡耳。民怨其虐。故因其自言而目之曰、此日何時亡乎。若亡、則我寧與之倶亡。蓋欲其亡之甚也。孟子引此、以明君獨樂而不恤其民、則民怨之、而不能保其樂也。」の説明。桀王は天にある日と同じだと言ったので民が桀王のことを時日と呼んだ。民は桀王が死ぬことを望み、怨んだ。これでは自分独りが楽しむことなど出来ない。
【通釈】
○「湯誓曰」。不賢者は楽しめない訳を桀王のことで言ったもの。「時日」は桀王のこと。桀王が、俺は天の日がある様なものだと言ったので、民が桀王のことを時日と異名を唱えた。人が悪む時は渾名を言うものである。どうも桀王が無道で民に難儀をさせるので、民の方から時日様は何時死なれるのだろうか、あの人か死ぬのなら私も死んでもよい、死なせたいと言う。これほど死ぬことを欲するのである。民が怨めば台池鳥獣が有っても独りで楽しむことはできないだろうと言った。△あの人が死んで俺が生きているのなら猶よいが、そうは成らないだろうから、あの人が死ぬのなら私は死でもよいから殺したいと言う。


梁惠王曰寡人之於国章

拙者が国へ仕向けは心一はいにする耳矣と云が、口で軽く云て心ては自満したことなり。大てい心を尽すことではないと。河内凶。惠王の領分。よの大名は凶年でもぬっくりとして居が、私はそうでござらぬ。隣国を見に私ほどには心を用ひませぬ。そんなら隣国のものがこの方へ参りそふなものに、他の民がへりもせす、こちの民がふへもせず、心を尽しても面白くない。どふしたものでごさると云。△寡人。德のすくないものと云こと。家來が他国ゆいて我君のことを寡君と云。凶歳云云。旱損水損で五穀熟せぬときは其民を豊なる処へつけて、其者の粟を持て老人子ともの往くことならぬものへあてがふなり。
【解説】
「○梁惠王曰、寡人之於國也、盡心焉耳矣。河内凶、則移其民於河東、移其粟於河内。河東凶亦然。察鄰國之政、無如寡人之用心者。鄰國之民不加少、寡人之民不加多何也。寡人、諸侯自稱。言寡德之人也。河内・河東皆魏地。凶、歳不熟也。移民以就食、移粟以給其老稚之不能移者。」の説明。恵王は国政に心を尽くしているが、どうして民が増えないのだろうと尋ねた。
【通釈】
私の国への仕向けは心一杯にするのみと言ったのは、口では軽く言って心では自慢したこと。大抵は心を尽くすことをしないものだということ。「河内凶」。恵王の領分である。他の大名は凶年でもぬっくりとしているが、私はそうではない。隣国を見るに私ほどには心を用いない。それなら隣国の者がこちらへ参りそうなものだが、他国の民が減りもせす、こちらの民が増えもしないので、心を尽くしても面白くない。どうしたものでしょうと言った。△「寡人」。徳の少ない者ということ。家来が他国に行って我が君のことを寡君と言う。「凶歳云云」。旱損水損で五穀が熟さない時はその民を豊な処へ付けて、その者の粟で豊かな土地に行くことのできない老人や子供へ宛がう。

○孟子對曰王好戦。これが惠王の胸へあたることなり。この好と云字がよくないこと。芲の好きなどはまだなれども、戦と云がひょんなことなり。孟子の御前には軍が好きでごさる、これで云て御きかせ申ふ。塡然は進むときなり。棄甲云云。これ臆病もので五十歩ほどにげる。大臆病は百歩にげて止る。五十歩にげたものが百歩にげたものを臆病なと云て笑はヾ如何。百歩五十歩のちがい計りにて、にげたはにげたのなり。曰王如云云。それを御存の御前なら、隣国より夛くなるはづと云がどふ多くなりませふ。思召ちがいでこざりませふ。△惠王隣国ては惠むまい、をれは惠むと云ても小惠なり。垩賢のことに小惠と云ことはない。圣賢は公で、雨のふり日の照やうなもの。どこと云ことは。凶年にすこしこれに心を用るが、王道を行ふことならず。これのみ以て隣国を笑て手前を自満するにたとへたものなり。楊氏曰。惠王のがわるいではない。このことは有ることなれども、王道を行てするならよいが、先王の道を行ふこともならず、これに心を尽すと云ことは末なり。
【解説】
「孟子對曰、王好戰。請以戰喩。塡然鼓之、兵刃旣接、棄甲曳兵而走。或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。曰、不可。直不百歩耳、是亦走也。曰、王如知此、則無望民之多於鄰國也。好、去聲。塡、音田。○塡、鼓音也。兵以鼓進、以金退。直、猶但也。言此以譬鄰國不恤其民、惠王能行小惠、然皆不能行王道以養其民。不可以此而笑彼也。楊氏曰、移民移粟、荒政之所不廢也。然不能行先王之道、而徒以是爲盡心焉、則末矣。」の説明。王道を行わずに心を尽くすのは小恵である。聖人に小恵ということはない。ここが五十歩百歩の出典。
【通釈】
○「孟子對曰、王好戰」。これが恵王の胸へあたること。この好という字がよくないこと。花好きなどはまだしもだが、戦というのがひょんなこと。孟子が、貴方は軍が好きでごさいます、このことから御聞かせ申しましょうと言った。「塡然」は進む時である。「棄甲云云」。臆病者で五十歩ほど逃げる。大臆病は百歩逃げて止まる。五十歩逃げた者が百歩逃げた者を臆病だと言って笑うとしたら如何。百歩と五十歩の違いだけで、どちらも逃げたことは逃げたのです。「曰王如云云」。それを御存じの貴方なら、隣国より多くなる筈と言いますがどうして多くなりましょう。思し召し違いでこざいましょう。△惠王が隣国では恵むまい、俺は恵むと言ってもそれは小恵である。聖賢のことに小恵ということはない。聖賢は公で、雨が降り日が照るようなもの。何処ということはない。凶年に少しこれに心を用いるが、王道を行うことができない。これをもって隣国を笑って自分を自慢することに譬えたもの。「楊氏曰」。恵王の行ったことが悪いというのではない。このことは有ることだが、王道を行ってするのならよいが、先王の道を行うこともならないで、これに心を尽くすのは末のこと。

○不違農時。戦国には色々に人足を使ふが、百姓が難義なり。先王のときは農事はちっとも使はぬ。急御用と云ても使はぬ。そこで米が沢山に、どふ精出しても食いしまふと云ことはならぬ。其上法度がある。數罟は目の大きな網なり。これを入るゆへ、小い魚は皆ぬけて大きなばかりかヽるなり。そこで魚が澤山あるなり。斧斤以時と云が、いつ切と云がせまって切る時でなければ切らせぬ。そこで材木が沢山有て用になるなり。穀與魚鼈云云。民養生云云。これが八ヶ間敷ことなり。今はうらはらなり。先王のときさまゝゝ仕むけのあること。喪死は棺椁を丁寧にして澤山もの入のあるものなり。今の様に持てすてるやふなことはない。今供養に人に飲食さすると云ことはないが、物入は夛いことなり。これを急度して置て人の勝手にさせぬゆへ、うらみがない。これを王道の眞始に用ることなり。
【解説】
「不違農時、穀不可勝食也。數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀與魚鼈不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。」の説明。先王の時は農事には百姓を少しも使わなかった。その上に法度があり物産が豊富だったので、民は死ぬまで憾むことはなかった。
【通釈】
○「不違農時」。戦国には色々と人足を使って百姓が難儀をする。先王の時は農事には少しも使わない。急な御用と言っても使わない。そこで米が沢山できて、どう精を出しても食い終えるということにはならない。その上に法度がある。「數罟」は目の大きな網。これを入れるので、小さい魚は皆抜けて大きな魚ばかりが掛かる。そこで魚が沢山である。「斧斤以時」は、何時切るという時が迫って切るのでなければ切らせない。そこで材木が沢山有って用になる。「穀與魚鼈云云」。「民養生云云」。これが喧しいこと。今は裏腹である。先王の時には様々な仕向けがある。「喪死」は棺椁を丁寧にして沢山物入りのあるもの。今の様に持って捨てるようなことはない。今供養に人に飲食させるということはないが、物入りは多い。これをしっかりとしておいて人の勝手にさせないので憾みがない。これを王道の真っ始めに用る。

△至冬。雨が降ても漏っても冬迠はすてヽおくなり。洿は窊下之地。人の掘たでなく、汚下の地と云がある。池などのやうで水たまりの処なり。惟秀録曰、洿は人力で掘たでない。池は人力でほりたこと。四寸。周尺なれとも余程のこと。今は法度があるが、あまり澤山なり。先王の世には法度でないやうなことを法度にするなり。市に役人が有て賣物を改め、なぜ此の小い魚を賣と云。因て謂、先王の世には竹の子などは法度で有う。あれが一月に立ぬ内に家の棟を越すほとに成長する。民用にいこう足りたもので、中々棒商賣て今日を食うものが、あれを拔て食などヽ云はあたらぬことなり。厲禁。今法度と云はなぜ止川で魚を取の、公儀の御林で木を切るのと云が、先王の世にはそれは切らせるが、常盤木はいつ切、葉の落る木は何時切とこれに厲禁あるなり。印しをつけておく。爲治之始。先王の世は周の世などとは違うてまだ法制も備らぬ。秀直謂、治治之始の一條、録の闕あるべし。資之と云が物入のあるとき金を才角すると云■■ない。仕むけがよいゆへそのやふにさばくことはない。荘子が筆で耕田而食、掘井而飲、帝力何有於我と云。このやふなときは民の力で御上の有かたいと云ことは少しもない。後世は人君が民のうれしがるやうなことをして見せるゆへ難有君じゃと云が、それのみのことで本が立ぬ。皆覇者の仕方なり。
【解説】
勝、音升。數、音促。罟、音古。洿、音烏。○農時、謂春耕夏耘秋收之時。凡有興作、不違此時、至冬乃役之也。不可勝食、言多也。數、密也。罟、網也。洿、窊下之地。水所聚也。古者網罟必用四寸之目。魚不滿尺、市不得粥、人不得食。山林川澤、與民共之、而有厲禁。草木零落、然後斧斤入焉。此皆爲治之初、法制未備、且因天地自然之利、而撙節愛養之事也。然飮食宮室所以養生、祭祀棺槨所以送死、皆民所急而不可無者。今皆有以資之、則人無所恨矣。王道以得民心爲本。故以此爲王道之始。」の説明。先王の世では法度でないようなことを法度にする。そして仕向けがよいので民の恨みがない。後世、民の嬉しがるようなことをして見せるのは皆覇者の仕方である。
【通釈】
△「至冬」。雨が降っても漏っても冬までは放っておく。「洿、窊下之地」。人が掘ったものではなく、窊下の地というものがある。池などの様で水溜まりの処である。惟秀録して曰く、洿は人力で掘ったものではない。池は人力で掘ったもの。「四寸」。周尺ではあるが余程のこと。今は法度があるが、あまりに沢山である。先王の世には法度でないようなことを法度にする。市に役人がいて売り物を改め、何故この小さい魚を売るのかと言う。そこで謂う、先王の世には竹の子などは法度だっただろう。あれが一月も経たない内に家の棟を越すほどに成長する。民用に大層足りたもので、棒商売で今日を食う者が、あれを抜いて食うなどということは中々できないことである。「厲禁」。今の法度は何故止川で魚を捕るのか、公儀の御林で木を切るのかという様なものだが、先王の世ではそれは切らせるが、常磐木は何時切る、葉の落ちる木は何時切ると、これに厲禁がある。印を付けておく。「爲治之始」。先王の世は周の世などとは違ってまだ法制も備らない。秀直謂く、「爲治之始」の一條、録の闕けがあるだろう。「資之」は、物入りのある時に金を才覚するということではない。仕向けがよいのでその様に捌くことはない。荘子の筆で「耕田而食、掘井而飲、帝力何有於我」と言う。この様な時は民の力が十分で御上を有難いと思うことは少しもない。後世は人君が民の嬉しがるようなことをして見せるので有難い君だと言われるが、それだけのことであって本が立っていない。皆覇者の仕方である。
【語釈】
・耕田而食、掘井而飲、帝力何有於我…十八史略鼓腹撃壌。「日出而作、日入而息、鑿井而飮、耕田而食、帝力何有於我哉」。

○五畝之宅。百姓とさへ云へば五畝之宅なり。その廻りへ桑をうへる。五十者は老人で衣帛なり。可と云がられると云こと。若ひ者もさぞきたかろふが、五十にならざれば着られぬ。五十になればどのやうなものでも着るなり。雞豚狗彘は蓄て置て、其時と云は子を孕んだときは取らすに置ゆへ、七十になれば平生肉が食はれる。百畝之田は一人前の持まいゆへ、是を時を奪はぬゆへ飢ると云ことはない。衣帛食肉飢ることないやうに身上をよくするやふに仕むけて、それでよいと云と禽獣に同じきゆへ、そこて庠序。学校の教をする。師たる人が孝悌のことを教るなり。頒白者は白髪まじりのちヽさまの入口。これがとこへ何をかついて往と云と、隣のむすこが私かと云てかつかせぬ。惟秀録曰、狗は食ふ犬。あの方に三色あり。守犬・田犬・食犬で、食犬を狗と云なり。惟秀録曰、庠序以下食足りて教にかヽることを云。然而不王者。このやうにするゆへ、天下の民がこちへ服してくるゆへ不王者はない。名醫の処へ藥を取にくるやふなもの。賣薬とは違ふなり。名医ゆへ天下中の者が薬取にくるなり。
【解説】
「五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣。雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣。謹庠序之敎、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉、黎民不飢不寒、然而不王者、未之有也。」の説明。帛を衣し肉を食って飢えることないようにした上で学校で孝悌を教える。これで天下の民が服して来る。
【通釈】
○「五畝之宅」。百姓であれば「五畝之宅」である。その周りに桑を植える。「五十者」は老人で帛を着る。「可」というのはられるということ。若い者もさぞ着たかろうが、五十にならなければ着ることはできない。五十になればどの様な者でも着ることができる。「雞豚狗彘」を畜って置いて、「其時」という子を孕んだ時は取らすに置くので、七十になれば平生肉を食うことができる。「百畝之田」は一人前の者の持ち前であり、農事の時を奪わないので飢えるということはない。帛を衣し肉を食って飢えることないように身上をよくするように仕向けて、それだけでよいと言えば禽獣と同じなので、そこで「庠序」。学校の教えを行う。師たる人が孝悌のことを教える。「頒白者」は白髪雑じりの爺様の入口。これが何処かへ何かを担いで往くというと、隣の息子が私がしますと言って担がせない。惟秀録して曰く、狗は食う犬。あちらには三通りある。守犬・田犬・食犬で、食犬を狗と言う。惟秀録して曰く、庠序以下は食足りて教えに掛かることを言う。「然而不王者」。この様にするので、天下の民がこちらへ服して来るので王とならない者はいない。名医の処へ薬を取りに行くようなもの。売薬とは違う。名医なので天下中の者が薬を取りに来る。

△二畝半在田云云。今のやうに家を作るが勝手次第と云ことはない。邑に二畝半の家を作り、両方へ門をつけてすっと並べて一里二十五家なり。田中の二畝半は田のほとりにつくるなり。惟秀録曰、今は小前の者と大じんと云ものが有が、一夫はひとしく五畝在邑、町のやふに並んでをる。在田、田の中と云ことではない。田の方へ近い所のこと。夏になって手のまわらぬとき、こヽにをるぞ。未五十。身上がよかろうが、よくても着ることならぬなり。着すども隨分あたヽか、肉を食はずとも隨分くへるなり。犠牲。孟春には腹に子が有ゆへなり。七十非肉。七十になると肉でなけれは咁くない。不飽は食がすヽまぬと云やふなもの。経界正云云。日雇取てくらすと云やふなものは先王の世にはない。皆百畝つヽなり。申ぬと云が丁寧反覆なり。今のやうては学は入らぬやふなもの。軽いものは不孝してもよいと云ことはないゆへ孝悌を教る。かるい者は孝悌の教ばかりなり。衣食不足。食ふや食はすと云ときに、親に孝の兄に悌のと云ことをせぬやうになる。この時とて孝をせずとよいと云ことではないが、それよりも一はいも食たいなり。澤山食やうにしてから教がなけれは犬や猫と同じ。惟秀録曰、百姓が学問は入らぬと云は文盲の至り。教は孝悌ですることじゃ。軽い者が孝悌は入らぬと云ことはない。親兄弟がなくても孝悌があるとわるいことはせぬ。他人の老人でもたヾ見てはおかぬ。今日はむすこがわづらふゆへに親の老人が物をかづくときは其労にかはるなり。財成輔相。易の字。天地のことを財成し天地の道を輔相と云こと。往古の百姓のことはしらぬ。後に垩賢が出て天地をたすけたすくなり。先王の制はこのやふなことなり。それをが少し心を用るとて自満することはない。
【解説】
衣、去聲。畜、許六反。數、去聲。王、去聲。凡有天下者、人稱之曰王、則平聲、據其身臨天下而言曰王、則去聲。後皆放此。○五畝之宅、一夫所受。二畝半在田、二畝半在邑。田中不得有木。恐妨五穀。故於牆下植桑以供蠶事。五十始衰。非帛不煖。未五十者不得衣也。畜、養也。時、謂孕子之時。如孟春犧牲毋用牝之類也。七十非肉不飽。未七十者不得食也。百畝之田、亦一夫所受。至此則經界正、井地均、無不受田之家矣。庠序、皆學名也。申、重也。丁寧反覆之意。善事父母爲孝、善事兄長爲悌。頒、與斑同。老人頭半白黑者也。負、任在背、戴、任在首。夫民衣食不足、則不暇治禮義。而飽煖無敎、則又近於禽獸。故旣富而敎以孝悌、則人知愛親敬長而代其勞、不使之負戴於道路矣。衣帛食肉、但言七十、舉重以見輕也。黎、黑也。黎民、黑髮之人。猶秦言黔首也。少壯之人、雖不得衣帛食肉、然亦不至於飢寒也。此言盡法制品節之詳、極財成輔相之道、以左右民。是王道之成也。」の説明。邑と田の近くに家を作る。農繁期は田の方にいる。田は一人百畝を持つ。沢山食えるようにした上で孝悌を教える。
【通釈】
△「二畝半在田云云」。今の様に勝手次第に家を作るということはない。邑にも二畝半の家を作り、両方へ門を付けてすっと並べて一里二十五家である。田中の二畝半は田のほとりに作る。惟秀録して曰く、今は小前の者と大尽という者が有るが、一夫は均しく「五畝在邑」、町のように並んでいる。「在田」は田の中ということではない。田の方に近い所のこと。夏になって手の廻らない時、ここにいる。「未五十」。身上がよかろうが着ることはできない。着なくても随分と温か、肉を食わなくても随分と食える。「犠牲」。孟春には腹に子が有るからである。「七十非肉」。七十になると肉でなけれは美味くない。「不飽」は食が進まないというようなもの。「經界正云云」。日傭取で暮らすような者は先王の世にはいない。皆百畝ずつある。申[かさ]ぬというのが丁寧反覆である。今の様では学は要らないようなもの。軽い者は不孝をしてもよいということはないので孝悌を教える。軽い者は孝悌の教えばかりである。「衣食不足」。食うや食わずの時は、親に孝とか兄に悌とかということをしなくなる。この時でも孝をしなくてもよいということではないが、それよりも一杯食いたいのである。沢山食えるようにして、その上で教えがなけれは犬や猫と同じである。惟秀録して曰く、百姓に学問は要らないと言うのは文盲の至り。教えは孝悌ですること。軽い者には孝悌は要らないということはない。親兄弟がなくても孝悌があると悪いことをしない。他人の老人でもただ見てはおかない。今日は息子が煩うので親の老人が物を担ぐという時は、その労を代わる。「財成輔相」。易の字である。天地のことを財成し天地の道を輔相するということ。往古の百姓のことは知らない。後に聖賢が出て天地を輔け相けた。先王の制はこの様なこと。それを君が少し心を用いるからといって自慢することではない。
【語釈】
・小前…小百姓の意。
・財成輔相…周易上象傳泰。「天地交、泰。后以財成天地之道、輔相天地之宜、以左右民」。

○狗彘食人食。豕や狗を畜て置て、百姓の食やくはずの者が有ても搆はずに、畜生にはあてがいの通りくはせるなり。塗有餓莩。飢死する者があれども藏をひらいてたすけやふと云こともなく、人死すれば人君のにげ口上に、をれがわるいじゃない、歳のわるいゆへじゃなどヽ云。民の困窮するは、どのやふににげても人君のにげられる処でない。全体刃を持て人を殺して、をれがころしたではない、この脇指がと云やふなもの。斯天下之民至。私が云通りになされたならは天下之民至るなり。△先王のやふに五畝之宅云云の本がたヽぬ戦国の時ゆへに狗彘へは澤山くはせて置ゆへふとってをるが、民のくるしむにかまはぬ。飢へ死すと云ても藏をひらいて救ふことを知らぬ。王道をすると隣国処ではない。天下中がくるなり。
【解説】
「狗彘食人食而不知檢。塗有餓莩而不知發。人死、則曰、非我也、歳也。是何異於刺人而殺之、曰非我也、兵也。王無罪歳、斯天下之民至焉。莩、平表反。刺、七亦反。○檢、制也。莩、餓死人也。發、發倉廩以賑貸也。歳、謂歳之豐凶也。惠王不能制民之產、又使狗彘得以食人之食、則與先王制度品節之意異矣。至於民飢而死、猶不知發、則其所移、特民閒之粟而已。乃以民不加多、歸罪於歳凶、是知刃之殺人、而不知操刃者之殺人也。不罪歳、則必能自反而益脩其政、天下之民至焉。則不但多於鄰國而已。」の説明。豚や犬を飼って太らせるが、百姓が困窮しても構わず、歳のせいだとする。王道を行えば天下中が来る。
【通釈】
○「狗彘食人食」。豕や狗を畜っておいて、百姓の食うや食わずの者がいても構わずに、畜生には宛行の通りに食わせる。「塗有餓莩」。飢え死にする者がいても蔵を開いて助けようとすることもなく、人が死ねば人君の逃げ口上に、俺が悪いのではない、歳が悪いからだなどと言う。民が困窮するのは、どの様に逃げても人君の逃げられる処ではない。全体刃を持って人を殺しておいて、俺が殺したのではない、この脇差がしたと言う様なもの。「斯天下之民至」。私が言う通りになさったら天下の民が至る。△先王の「五畝之宅云云」の様な本が立たない戦国の時なので、狗彘は沢山食わせておくので太っているが、民が苦しむことには構わない。飢え死にすると言っても蔵を開いて救うことを知らない。王道をすると隣国処ではない。天下中が来る。

程子曰云云。孟子の王道ゝゝと云が何ぞ六ヶ鋪ことかと思うに、只五畝之宅の衣帛のと云ぎりのことなり。戦国の時に孟子の王道めづらしかろふと思で有ふが、これより外はない。可謂實。これは格別のこと、人の氣のつかぬこと抔と云ことてはない。唯一筆啓上と書ても尊圓親王は違ふなり。又曰孔子之時云云。これからは孔孟の時代のわけを云たものなり。孔子の時は周室雖微まだしもでありた。孟子の時は孔子より纔百年ばかり後なれども脉が切れた時で七国争雄。周の天子は代る者が有なら渡さふと云やうなり。七国の者は勝手次第をして、天子これを制することならぬ故、生民之塗炭。どこからも搆い手がないゆへむごい目にあふなり。惟秀録曰、七国の君、天子を何とも思はぬ。そこで処ゝで切合じゃ。其中につき出し者に成て居るは民じゃ。どちらへしてもむごい目にあふぞ。
【解説】
○程子曰、孟子之論王道、不過如此。可謂實矣。又曰、孔子之時、周室雖微、天下猶知尊周之爲義。故春秋以尊周爲本。至孟子時、七國爭雄、天下不復知有周、而生民之塗炭已極。當是時、諸侯能行王道、則可以王矣。」の説明。孟子の言う王道は「五畝之宅」や「衣帛」だけのことで、珍しいものではない。孔子の時は周室がまだあったが、孟子の時は周は衰えて七雄が争った時であった。
【通釈】
「程子曰云云」。孟子の王道というものは何か難しいことかと思えば、只「五畝之宅」や「衣帛」というだけのこと。戦国の時に孟子が王道を言うとは、さぞ珍しいことを言ったのだろう思うが、これより外はない。「可謂實」である。これは格別なことだ、人の気付かないことだなどということではないが、唯一筆啓上と書いても尊圓親王は違う。「又曰、孔子之時云云」。これからは孔孟の時代の違いを言ったもの。孔子の時は「周室雖微」で、まだしもであった。孟子の時は孔子より纔かに百年ばかり後だが脈が切れた時で「七国爭雄」である。周の天子は代わる者がいるのであれば渡そうと言うようであった。七国の者は勝手次第をして、天子がこれを制することができないので、「生民之塗炭」。何処からも構い手がないので酷い目に遇った。惟秀録して曰く、七国の君は天子を何とも思わない。そこで処々で斬り合いである。その中で突き出し者になっているのは民である。どちらにしても酷い目に遇う。
【語釈】
・尊圓親王…伏見天皇の皇子。名は守彦。青蓮院門主・天台座主となる。和歌に秀で、また書を世尊寺行房・行尹に学び、小野道風・藤原行成の書法を参酌して青蓮院流(後の御家流)を開いた。1298~1356。
・つき出し者…突き出し者。突き出された者。のけ者。

此孟子勸斉梁之君。天下を取やうを教るならば謀反人のをんべいかつきなり。其やふなことを教るはづはない。斉梁の君へ天下になるやふに云ふは君を圣人になるやふに教るなり。圣人になると天下中が向から一人手に來るなり。秀直録曰、斉梁の君に王道を勧めるは君が自ら垩王の德になれとすヽめることなり。天下を取れとすヽめることてはない。天下之義主と云は肉けのないことじゃ。たヾわけ有て取る。主と云ことてはないぞ。そればかりではかるくなる。肉でなしに喪を着るを義服と云。養子を義子と云。天下を子に讓りたは禹王が始なり。御子が天下取と云は平安の時なり。夏のあのやうにつヾいたれとも、桀王が悪人ゆへ湯王へ来り、紂王の天下が武王へくるやふなもの。今迠天子でないすぢの者の取りたことなり。これが義主なり。圣人でなければ天下は治らぬと云ことでもない。天命のころげおちるなり。垩賢亦何心也。孔子孟子は同し道の圣賢なれどもどふ云心と云が、孔子はあヽ孟子はこふと云が、孔子のときは天命が改らぬ。孟子の時は天命改ったり。迂斉先生の、天命改ったは火の消た処、天命改らぬはまだ火のあるのなり。火のある処を隣へ往て貰ふて來やふと云には及はぬ。吹けばをこるなり。きへた火は吹て居ても埒は明かぬ。そこで外の火を持て來る。秀直按義子と云の下唐虞の二字脱するならん。唐虞の後天下を子に譲ったは禹王が始なり。夏のあのやうにつヽいたれとも桀王から云云なるべし。○御子が天下を取と云は平安の時の十四字誤なるへし。
【解説】
此孟子所以勸齊梁之君也。蓋王者、天下之義主也。聖賢亦何心哉。視天命之改與未改耳。」の説明。孟子は天下取りを言ったのではない。聖人になれと言ったのである。「義主」とは、湯王や武王の様に天子の筋でなかった者が天下を取ること。孟子と孔子とでは道は同じだが、孔子の時はまだ天命が改まらず、孟子の時は天命が改まったという相違だけである。
【通釈】
「此孟子所以勸齊梁之君」。天下の取りようを教えるのであれば謀反人のおんべい担ぎである。その様なことを教える筈はない。斉梁の君へ天下の主になるように言うのは君を聖人になるようにと教えたのである。聖人になると天下中が向こうから独りでに来る。秀直録して曰く、斉梁の君に王道を勧めるのは君が自ら聖王の徳になれと勧めること。天下を取れと勧めたのではない。「天下之義主」というのは肉気のないこと。ただ訳が有って取る。主ということではない。主だけでは軽くなる。肉でなくて喪を着るのを義服と言う。養子を義子と言う。天下を子に譲ったのは禹王が始めである。御子が天下を取るのは平安の時である。夏はあの様に続いたが、桀王が悪人なので湯王へ来、紂王の天下が武王へ来る様なもの。今までは天子の筋でなかった者が天下を取った。これが義主である。聖人でなければ天下は治まらないということでもない。天命が転げ落ちたのである。「聖賢亦何心哉」。孔子と孟子は同じ道の聖賢だがどういう心かというと、孔子はああ、孟子はこうと言うが、孔子の時は天命が改まらなかった。孟子の時は天命が改まった。迂斎先生が、天命が改まったのは火の消えた処、天命が改まらないのはまだ火があるのだと言った。火があるのに隣へ行って火を貰って来ようとは言うに及ばない。吹けば熾る。消えた火は吹いてみても埒が明かない。そこで他の火を持って来る。秀直按ずるに、義子とある下に唐虞の二字を脱したのだろう。唐虞の後、天下を子に譲ったのは禹王が始まりである。夏はあの様に続いたが桀王から云云ということだろう。○御子が天下を取と云は平安の時とある十四字は誤りだろう。
【語釈】
・をんべいかつき…おんべいは諂い者。
・迂斉…稲葉迂斎。名は正義(正誼)。十左衛門(重左衛門)と称す。江戸の人。稲葉黙齋の父。宝暦10年(1760)11月10日没。年77。


梁惠王曰寡人願安承教章

今迠は疑もあり一物もあり心が落つかぬが、上の段で心服いたした。教を承たいと云。○孟子對曰。難文を云かけたなり。人を殺すとき杖でころしたと刄でころしたと違いませふかと云。惠王曰無異。以刄與政。刄で人を殺すと政をからくして人を殺さは異なるか。曰無異。これを云たいで前から云かけたものなり。さらば御咄し申しませう。○曰庖有肥肉。臺所を肉が澤山ある。厩を見と馬が肥太っている。夫れを見れば腹がくちいやふじゃが、其足で御領分へ出て百姓の底を見れば三日食ませぬと云ものもあり、餓死する者もあり、これては百姓を殺て獣へ食せるやふなものと云。△取り箇を高く役を夛くして下の物を取上けて、民をくるしめ餓死するほどにして、我畜う処の獣にくはせるは、人の肉を獣に食はせるやうなもの。○獣相食。人君は民の父母と云が、御領分の底を見るに、あれで民の父母と云はれませふかと云。父母と云は重いことで、子が少し啼てもどふかかふかと云て撫さすり、どのやふな不埒ものても小い子を内へ置て出れば道にのめゝゝとは居らぬ。
【解説】
「○梁惠王曰、寡人願安承敎。承上章言。願安意以受敎。孟子對曰、殺人以梃與刃、有以異乎。曰、無以異也。梃、徒頂反。○梃、杖也。以刃與政、有以異乎。曰、無以異也。孟子又問、而王答也。曰、庖有肥肉、厩有肥馬、民有飢色、野有餓莩。此率獸而食人也。厚斂於民以養禽獸、而使民飢以死、則無異於驅獸以食人矣。獸相食、且人惡之。爲民父母行政、不免於率獸而食人。惡在其爲民父母也。惡之之惡、去聲。惡在之惡、平聲。○君者、民之父母也。惡在、猶言何在也。」の説明。刃物で人を殺すのも政で人を殺すのも人を殺すことは同じ。今梁の宮廷は食料が十分にあって馬も肥えているが民は困窮している。それは人の肉を獣に食わせるようなもの。
【通釈】
恵王が、今までは疑いもあり一物もあって心が落ち着かなかったが、上の段で心服致した。教えを承りたいと言った。○「孟子對曰」。難文を言い掛けた。人を殺す時に杖で殺すのと刃で殺すのとでは違いがありますかと尋ねた。惠王が「曰、無以異也」と答えた。「以刃與政」。刃で人を殺すのと政を厳しくして人を殺すのとでは異なりますか。「曰、無以異也」。これを言いたいのでその前段から言い掛けたもの。それであれば御話申しましょう。○「曰、庖有肥肉」。台所に肉が沢山ある。厩を見ると馬が肥え太っている。それを見れば民も満腹のようだが、その足で御領分へ出て百姓の姿を見れば三日食いませんと言う者もあり、餓死する者もあって、これでは百姓を殺して獣へ食わせるようなものだと言う。△取箇を高くし役を多くして下の物を取り上げて、民を苦しめ餓死するほどにしていながら、自分の畜う処の獣に食わせるのは、人の肉を獣に食わせるようなもの。○「獸相食」。人君は民の父母と言うが、御領分の様子を見るに、あれで民の父母と言えましょうかと言う。父母というものは重いもので、子が少し泣いてもどうだこうかと言って撫でさすり、また、どの様な不埒者でも小さい子を内へ置いて出れば道にのめのめとしてはいない。
【語釈】
・取り箇…取箇。江戸時代、田畑に課した年貢のこと。

○仲尼曰作俑者云云。俑は人形。これはあつい意からわるいことになりたり。父母の死に御淋しかろう、御■然て有ふと云て、孝行からして人間の形を作って同し棺へ入て御相手と云てやる。孔子の御悪くみなされた。これが人間ではなし、わるいことでも有そもないものに、此やふなことを仕出したは子孫はあるまいと云。これが人間ではなけれども、人間の形をこしらへて埋めると云は不仁なり。孔子は不能忍なり。これをさへにくんだに、御領分の民が飢て死ぬと云ならこれはむごいこと。人君の皆手打にするも同ことなり。手討に合ふものは科有ての上なれば安堵して死ぬ。科もない百姓を餓死させると云、このやふな不仁はないことなり。
【解説】
「仲尼曰、始作俑者、其無後乎。爲其象人而用之也。如之何其使斯民飢而死也。」の説明。孔子は俑でさえ悪んだ。領内の民が飢えて死ぬのは俑どころではない。これは人君が皆手討にしたも同然である。
【通釈】
○「仲尼曰、始作俑者云云」。俑は人形。これは厚い意から悪いことになったもの。父母が死んで御淋しかろう、御然であろうと言って、孝行からして人間の形を作って同じ棺へ入れて御相手にしてやる。それを孔子が御悪みなされた。俑は人間ではないし、悪いことでもなさそうなのに、この様なことをし始めたら子孫はあるまいと言う。これは人間ではないが、人間の形を拵えて埋めるというのは不仁である。孔子は忍ぶことができなかった。これをさえ悪んだのに、御領分の民が飢えて死ぬというのであれば、それは酷いこと。人君が皆手討にしたも同然である。手討にあった者は科があった上なので安堵して死ぬ。科もない百姓を餓死させるという、この様な不仁はない。

△機發は、手足から眼や眉毛迠動き、人間の形の動きのなるやふにする。これは非常のものなのものなれども、それをも土の中へ入れると云は不仁なことにて孔子はにくみ玉ふに、況やげにゝゝ我領分のものを飢て死せしむること、どうも云やふもないこと。李氏曰云云。人君が民を飢しめ獣に食ますと云心か初手から有てはないが、ついにこれになるなり。然徇一己之欲。下屋敷へ臺を作らふ五月でござると云と、五月がどうだと云を、これから段々に長して民をめぐむことはなくなって、ついに率獣食人になる。民の父母と云が大学から出て孔子曽子子思孟子と來たれば同じことなり。人の父母と云は今下女が子を持ても何をも知らぬが、少しのことでも丁寧に世話をするもの。それに犬馬ほどのなさけに及はぬはあまりのことなり。
【解説】
俑、音勇。爲、去聲。○俑、從葬木偶人也。古之葬者、束草爲人以爲從衛。謂之芻靈。略似人形而已。中古易之以俑。則有面目機發、而太似人矣。故孔子惡其不仁、而言其必無後也。孟子言、此作俑者、但用象人以葬、孔子猶惡之。況實使民飢而死乎。○李氏曰、爲人君者、固未嘗有率獸食人之心。然徇一己之欲、而不恤其民、則其流必至於此。故以爲民父母告之。夫父母之於子、爲之就利避害、未嘗頃刻而忘於懷。何至視之不如犬馬乎。」の説明。君は民の父母である。それなのに民への情けが犬馬に及ばないのはあまりなことである。
【通釈】
△「機發」は、手足から眼や眉毛までが動き、人間の形の動きのできるようにする。これは非常のものだが、それをも土の中へ入れるのは不仁なことであって、孔子は悪んだのである。況んや実に自分の領分の者を飢えて死なせることはどうも言い様もないこと。「李氏曰云云」。人君に民を飢えしめ獣に食ますという心が初手から有るわけではないが、最後にはこれになる。「然徇一己之欲」。下屋敷へ台を作ろう、五月でござると言うと、五月がどうしたと言う。これから段々に長じて民を恤むことはなくなって、ついに「率獸而食人」になる。民の父母というものは大学から出て孔子・曾子・子思・孟子と来たものであるから同じこと。人の父母というものは、今下女が子を持っても何も知らないが、少しのことでも丁寧に世話をするようなもの。それなのに犬馬ほどの情けに及ばないのはあまりのこと。


梁惠王曰晋国天下莫強焉章

晋国は天下に強いと云はれた国なれども、私代に至て東斉と戦ふて敗軍を致し西喪地於秦。魏は秦へよっている。爲死者と云をもふ先祖へ對してと云。敗齊喪秦辱楚を、私先祖へ不孝申訳ごさらぬ。又長子死すと云ことの有ゆへ長子の方がひヾきがよいが、理では先祖と云が當るなり。惟秀録曰、爲死者。蒙引が云には長子のことではない。地を喪ひし事の箇條共が有から先祖のことと有るがよい見やうじゃが、されとも長子と云方があたりがよいなり。願比死者。死だ子供へ對しても一度軍さを出して長子の本望をとげさせ、国の耻をすヽぎたいもの。これはどうしたらよふござらふと云。つまり弔ひ軍の相談なり。○孟子對曰。向きから出ることとは打て違ふた荅なり。地方百里。少い国ても隨分王となって民が惠くまれますと云。惟秀録曰、孟子の打て違ふたことを云はるヽ。弔ひ軍などヽ云ちいさいことなしに、天下を服さすることがなると云ことを云はれた。国と云は大くても德がなければつぶれる。德さへあれば少くてもよい。
【解説】
「○梁惠王曰、晉國天下莫強焉、叟之所知也。及寡人之身、東敗於齊、長子死焉。西喪地於秦七百里。南辱於楚。寡人恥之。願比死者一洒之。如之何則可。長、上聲。喪、去聲。比、必二反。洒與洗同。○魏本晉大夫魏斯、與韓氏・趙氏共分晉地。號曰三晉。故惠王猶自謂晉國。惠王三十年、齊擊魏、破其軍、虜太子申。十七年、秦取魏少梁。後魏又數獻地於秦。又與楚將昭陽戰敗、亡其七邑。比、猶爲也。言欲爲死者雪其恥也。孟子對曰、地方百里而可以王。百里、小國也。然能行仁政、則天下之民歸之矣。」の説明。恵王は弔い軍のことを孟子に相談したが、孟子は小さい国でも民を恵んで王となることが出来ると答えた。
【通釈】
晋国は天下で強い国と言われていたが、私の代になって東は斉と戦って敗軍を致し、「西喪地於秦」。魏は秦に近い。死者の為にと言うのが、もう先祖に対して言ったこと。「敗齊」「喪秦」「辱楚」は、私の先祖への不孝であって申し訳ない。又長子死すということが有るので長子の方が響きがよいが、理では先祖と言うのが当たっている。惟秀録して曰く、「比死者」。蒙引に言うには長子のことではない。地を喪ったことの箇條が有るから先祖のこととするのがよい見方だが、しかしながら長子と言う方が当たりがよい。「願比死者」。死んだ子供に対しても一度軍を出して長子の本望を遂げさせて国の恥を雪ぎたいもの。これはどうしたらよいでしょうかと尋ねた。つまり弔い軍の相談である。○「孟子對曰」。相手から出たこととは打って違った答えである。「地方百里」。小さい国でも随分と王となって民が恵まれますと言った。惟秀録して曰く、孟子が打って違ったことを言われた。弔い軍などどいう小さいことではなく、天下を服させることが出来ると言われた。国は大きくても徳がなければ潰れる。徳さえあれば小さくてもよい。

○王如しは、今せぬゆへこれをするならばと云。弔軍よりこれをさっしゃりませと云。省刑罸。刑罸が多いと云はばらの中で仕事をするやうなもの。少し身を動しやうがわるいと刑に合ふ。刑罸の少ひと云が民の服する処なり。漢高祖などか圣賢ではないが約三章と云て只刑法三つなり。薄税歛は貢法の少いことなり。田をうなふにも念を入易耨。一番草ぎりてはをかぬ。以暇日。人情は易耨ものは金がたまる。耨らぬものはどふらくをするものなり。今は教がないゆへ金をためる方がよいやふなれども、易耨ものなれば孝悌忠信を教るにうけがよい。事其長上云云。劍げきを用ひずに梃一本で仁政を民に施すものならば、どのやうに秦楚が强と云ても杖一本の政に刄はたヽぬ。民の方からあなたの御領分へと云てくるなり。軍を出して民を役するには及はぬ。
【解説】
「王如施仁政於民、省刑罰、薄稅斂、深耕易耨、壯者以暇日脩其孝悌忠信、入以事其父兄、出以事其長上、可使制梃以撻秦楚之堅甲利兵矣。」の説明。刑罰が少ないことで民が服す。どんなに秦楚が強くても、仁政を民に施す者には歯が立たない。
【通釈】
○「王如」は、今していないので、これをするのであればということ。弔い軍よりもこれをなさりませと言った。「省刑罰」。刑罰が多いというのは薔薇の中で仕事をするようなもの。身の動かし方が少し悪いだけで刑に遇う。刑罰が少ないというのが民の服する処である。漢の高祖などは聖賢ではないが約三章と言って只刑法は三つだけだった。「薄稅斂」は貢法の少ないこと。田を耕すにも念を入れて「易耨」。一番草だけということではない。「以暇日」。人情で易耨者は金が貯まる。耨[くさぎ]らない者は道楽をするもの。今は教えがないので金を貯める方がよいようだが、易耨者であれば孝悌忠信を教えるのに受けがよい。「事其長上云云」。剣戟を用いずに梃一本で出来る。仁政を民に施す者であれば、どの様に秦楚が強いと言っても杖一本の政に歯が立たない。民の方から貴方の御領分へ来たいと言って来る。軍を出して民を役するには及ばない。

△法度を多く其上高免と云ならば民の立つ目はない。この二つの者民を惠むの第一なり。これを厳しくすると離散するなり。年貢を薄ふすると云が民の服する本となり。魏は格別、秦には商鞅を用ひ法度を厳しくし、井田をつぶし、阡陌をひらき、政苛いゆへ人が思いはなれた。税を薄く刑罸を省き孝悌忠信を以て上に仁政をするゆへ孝悌忠信が民の質になる。上で刑をきびしくするが民の方では猶わるくなるなり。有暇日以脩礼義。武王の三千が紂の億萬に向ふたよふなもの。中々臆萬の中へ三千ぐらいで働くゆへ、ついに打敗った。これ尊君親上のなり。今いくら大勢でも日雇取を連て出ては役にたヽぬ。日雇取十人と譜代の三人では、三人の方が勝つ。君の御爲になるならはと云て死を軽んする。
【解説】
省、所梗反。斂・易皆去聲。耨、奴豆反。長、上聲。○省刑罰、薄稅斂。此二者仁政之大目也。易、治也。耨、耘也。盡己之謂忠、以實之謂信。君行仁政、則民得盡力於農畝、而又有暇日以脩禮義、是以尊君親上、而樂於效死也。」の説明。法度を少なくし、年貢を薄くして、孝悌忠信で上が仁政をするので孝悌忠信が民の質になる。武王の兵が紂を破ったのは「尊君親上」だからである。
【通釈】
△法度を多くして更に高免と言うのであれば民の立つ瀬はない。この二つのものが民を恵むにあたっての第一である。これを厳しくすると離散する。年貢を薄くするというのが民の服す本である。魏は格別だが、秦は商鞅を用いて法度を厳しくし、井田を潰し、阡陌を開き、政が苛酷なので人が離れた。税を薄くして刑罰を省き、孝悌忠信で上が仁政をするので孝悌忠信が民の質になる。上で刑を厳しくすると民の方では猶悪くなる。「有暇日以脩禮義」。武王の三千が紂の億万に向かったようなもの。億万の中へ三千位で働いて、遂に打破った。それは「尊君親上」だからである。今いくら大勢でも日傭取を連れて出ては役に立たない。日傭取十人と譜代の三人では、三人の方が勝つ。君の御為になるならばと言って死を軽んずる。
【語釈】
・高免…江戸時代、年貢賦課率の高いこと。
・阡陌…南北の通路と東西の通路。縦横の路。路が交差している所。また、田や地所の境界。

○彼奪其民時。五月に至り役に使い軍に出すときは父母を養ふことならず。達者なものは奉公に出る。それゆへ上を恨むる処を、こちで仁政を行ふなら皆服してくるなり。○彼陷溺其民。穴へ入水へ入れることなり。彼の国はかふするに、こちで仁政を以て正すゆへ誰有て歒するものはない。君を恨んでいるゆへ民幸としてよろこび服するなり。○陷溺。これほとむごい政と云はないなり。其民をむごくする処をこちから尊君親上、人数をひきいて其罪を正すものならば、上を怨む民吾仁政を望んで帰服するゆへ、一人歒するもの有らふはづはない。
【解説】
「彼奪其民時、使不得耕耨以養其父母。父母凍餓、兄弟妻子離散。養、去聲。○彼、謂敵國也。彼陷溺其民。王往而征之、夫誰與王敵。夫、音扶。○陷、陷於阱。溺、溺於水。暴虐之意。征、正也。以彼暴虐其民、而率吾尊君親上之民、往正其罪、彼民方怨其上、而樂歸於我、則誰與我爲敵哉。」の説明。こちらが仁政を行って、「尊君親上」の民を率いて不仁の国を征すれば、不仁の国の民は仁政を望んで皆帰服する。
【通釈】
○「彼奪其民時」。五月に至って役に使い軍に出す時は父母を養うことはできない。達者な者は奉公に出る時である。それで上を恨む処を、こちらで仁政を行えば皆が服して来る。○「彼陷溺其民」。穴へ入れ水へ入れること。向こうの国はこの様にするところをこちらが仁政で正すので誰も敵する者はない。向こうの君を恨んでいるので民はこれ幸いとして喜んで服す。○「陷溺」。これほと酷い政ということはない。その民を酷くする処をこちらから「尊君親上」の人数を率いてその罪を正すのであれば、上を怨む民は我が仁政を望んで帰服するので、一人として敵する者が有る筈はない。

○故曰仁者無歒。仁者には歒はござらぬ。仁になったと云ても疑ふでござらふが、御前が仁者にならずは歒も有うが、仁者になれば歒はない。豕狼は圣人へも食つかふが、人は萬物の霊と云で向のよいやうに仁政をするものへ劍をぬいてかヽるものはないなり。これを疑ふことあらふと思て、王請勿疑と云。△孟子の古語を引たものなり。百里可王云云。孟子のこれ迠きめてをかぬ故、朱子のちょっとこヽできめたものなり。これか朱子の孟子のこふ仰せられたことを知ての注なり。恐王疑。序に不果所言以爲迂遠とある通り、聞く内にそれては廻りくどいことと思召あらふかと、孟子のこふ云たものなり。孔氏曰。これは宋朝の人で、こヽはよく手短に云たゆへ朱子の出したなり。惠王之志云云。惟秀録曰、今迠のことにかまはず、口惜や残念やをのけて領分をよくすること。天吏は天の役人なり。軍はにくいやつじゃから伐などヽ云ことはない。天から仰付られて伐なり。これ湯武の放伐などが天吏なり。天吏でなけれは伐つことをせぬ。
【解説】
「故曰、仁者無敵。王請勿疑。仁者無敵、蓋古語也。百里可王、以此而已。恐王疑其迂闊。故勉使勿疑也。○孔氏曰、惠王之志、在於報怨、孟子之論、在於救民。所謂惟天吏則可以伐之、蓋孟子之本意。」の説明。人は万物の霊だから、仁政に刃向かう者はいない。他国を伐つなどということは天吏でなければ行わない。湯武の放伐がそれである。
【通釈】
○「故曰、仁者無敵」。仁者に敵はいない。仁になると言っても疑うでしょうが、御前が仁者にならなければ敵も有るでしょうが、仁者になれば敵はいない。豕狼は聖人にも食い付こうが、人は万物の霊と言い、向こうのよい様に仁政をするので剣を抜いて掛かる者はいない。これを疑うこともあろうか思って、「王請勿疑」と言った。△「仁者無敵」は孟子が古語を引いたもの。「百里可王云云」。孟子がこれまで決めて置かなかったので、朱子がちょっとここで決めたもの。これは朱子が孟子がこの様に仰せられたということを知っての注である。「恐王疑」。序に「不果所言」「以爲迂遠」とある通り、聞く内にそれは回りくどいことだと思し召そうかと思って、孟子がこの様に言ったもの。「孔氏曰」。これは宋朝の人で、ここはよく手短に言ったので朱子がこれを出した。「惠王之志云云」。惟秀録して曰く、今までのことには構わずに、口惜い、残念だという思いを除けて領分をよくすること。「天吏」は天の役人。軍とは憎い奴だから伐つなどということではない。天から仰せ付けられて伐つ。湯武の放伐などが天吏である。天吏でなければ伐つことをしない。


孟子見梁襄王章

惠王死て御子の襄王なり。この人不人柄てわるいゆへ、孟子みたぎりて其後梁へは往かぬそふしゃと朱子云へり。惟秀録曰、惠王の死後のことか、又部屋ずみの時でありたか。○出語人曰。これは孟子の外へ出てなに人へか語たことなり。望之云云。人君たるべき人はそれだけの威が有て容貌顔色共に外に厳厲な処あるものに、至て無人柄なり。不見所畏とは、人君の前へ出ては中々威にをそれてめったにものも云はれぬものなれども、襄王それもなく、やっはり只の人にあふも同じことなり。卒然は、あとさきの咄もなく、そこへ出るとひょいと善くごさった、寒いのと云。直きに、今軍が澤山あって諸国の人君腕をこいて戦うが、天下はどこへ定ろふと麄忽に禮もなく問たゆへ、孟子も不得止不與でどこぞへいつか定るでござろうと云た。
【解説】
「○孟子見梁襄王。襄王、惠王子。名赫。出語人曰、望之不似人君、就之而不見所畏焉。卒然問曰、天下惡乎定。吾對曰、定于一。」の説明。梁の襄王は人柄が悪かった。礼も踏まえずに急に天下は何処に定まるかと問われたので、孟子は何処かへ定まると答えた。
【通釈】
恵王が死んで御子の襄王である。この人は人柄が悪いので、孟子は会っただけで、その後は梁へは往かなかったそうだと朱子が言った。惟秀録して曰く、恵王の死後のことか、又部屋住みの時であったか。○「出語人曰」。これは孟子が外に出て誰かに語ったこと。「望之云云」。人君たるべき人はそれだけの威が有って容貌顔色共に外に厳厲な処があるものだが、至って無人柄である。「不見所畏」とは、人君の前へ出ては中々威に畏れて滅多にものも言えないものなのだが、襄王にはそれもなく、やはり只の人に会うのと同じこと。「卒然」は、後先の話もなく、そこへ出るとひょいとよくござった、寒いのと言う。直ぐに、今戦が沢山あって諸国の人君は腕をこきて戦うが、天下は何処に定まるだろうと粗忽に礼もなく問うたので、孟子も止むを得ず與らずで、何処ぞへ何時か定まるでしょうと答えた。

△語はこちから言て聞かせて、不似人君不見所畏云云。人君たるべき人柄がないを云意なり。容貌詞氣乃德之符。これは朱子のかふはかヽぬ。荘子の字であろう。符はしるし。内の德が外へあらわれるものなり。容貌詞氣は外についたもので、これが内の德のしるしなり。容貌詞氣でみかぎると云はいとしいことなれども、外ばかりでない、内がこの通りのものなり。そこで孟子のみかぎりたものなり。王問列国分爭。このときは戦国なれば大名どもが吾もゝゝと腕をこきて国をうばい天下をにぎらんと爭ふが、あれがどの国へ天下が定ふかと問。孟子對以必合于一云云。いや天下を合せゝゝして、どこへか定るでごさらふと云。定于一と云が襄王の耳よりで手を出して、
【解説】
語、去聲。卒、七沒反。惡、平聲。○語、告也。不似人君、不見所畏、言其無威儀也。卒然、急遽之貌。蓋容貌辭氣、乃德之符。其外如此、則其中之所存者可知。王問、列國分爭。天下當何所定。孟子對以必合於一、然後定也。」の説明。内の徳は外に顕れる。襄王は容貌辞気が悪い。それで内も悪いことがわかる。
【通釈】
△「語」はこちらから言って聞かせたもの。「不似人君、不見所畏云云」。人君たるべき人柄がないことをを言う意である。「容貌辭氣、乃德之符」。朱子はこの様には書かない。荘子の字だろう。符はしるし。内の徳は外へ顕れるもの。容貌辞気は外についたもので、これが内の徳のしるしである。容貌辞気で見限るというのは不憫ではあるが、外ばかりでなく、内もこの通りなのである。そこで孟子は見限った。「王問、列国分爭」。この時は戦国であれば大名共が我も々々と腕をこきて国を奪い天下を握ろうと争うが、どの国へ天下が定まるだろうかと問うた。「孟子對以必合於一云云」。いや天下を合わせながら、何処かに定まるでしょうと言った。「定于一」というのが襄王の耳寄りなことなので、そこで手を出して、

○孰能一之。どふして出来るものかと云心て問たなり。○對曰不嗜殺人者能一之。これが知慧でもならず勇でも勢でもならぬものなり。これがざっとしたことでしるしのあることなり。人を殺すことを何とも思はぬ。てうへいの戦には四十餘万人死だと云がはてのうと云て居る。大火で人が死でも何とも思はぬ。これ人を殺すことを嗜だのなり。人を殺すことを何とも思はず、兎角国を取うと云ときに人を殺すことをいやと思う人君が出るとこの人の天下になる。殺すことを甘んずると云が人のいやがる処で、このやうな人君をば下々で難義しはてヽ恨で居るゆへ、殺すことを甘んぜぬ君が出ると歸服するなり。
【解説】
「孰能一之。王問也。對曰、不嗜殺人者、能一之。嗜、甘也。」の説明。誰が一つに定めることができるかとの襄王の問いに、孟子は人を殺すことを甘んじない人だと答えた。殺すことを甘んずるというのが人の嫌がる処である。
【通釈】
○「孰能一之」。どうして一つに出来るものかという心で問うた。○「對曰、不嗜殺人者、能一之」。これが智慧でもできず勇でも勢いでもできないもの。これがざっとしたことでしるしのあること。人を殺すことを何とも思わない。長平の戦には四十余万人が死んだというが、はてなと言っている。大火で人が死んでも何とも思わない。これは人を殺すことを嗜んだのである。人を殺すことを何とも思わず、兎角国を取ろうという時に、人を殺すことを嫌と思う人君が出るとこの人の天下になる。殺すことを甘んずるというのが人の嫌がる処で、この様な人君には下々が難儀し果てて恨んでいるので、殺すことを甘んじない君が出ると帰服する。
【語釈】
・てうへいの戦…長平の戦い。秦と趙が紀元前260年に長平で戦う。秦が勝利する。

○孰能與之。人を殺すことを甘んせぬ君が出たなら何者がこれにくみしませふと云。○對曰云云。襄王の孰か與すと云故、誰れかれと云ことはない、天下中が歸服してくるなり。王知夫苗乎。御前も歴々でござるゆへ知てもござろうさ。七八月之間云云。かんしんの時に旱がすると苗が赤くしをれて枯んとする。そこへ天油然、一面に曇りて眞っくらになる。そうすると間もなくしだゝゝと降てくる。興之。これが天下中の人苗の旱りに合たやうに見られぬざまになっておる処を、人を殺すことを甘んぜさる君が出るゆへ、どちからもこちからもこれへゝゝゝと云て服するなり。これを禦くものはない。今夫天下之人牧。人牧と云字はよい字。人君たる人は下を養てやるはづのものなり。それをむげに人を殺しても何とも思はぬものヽ澤山のときなり。そこへ人を殺すことをいやと思う君が出て民を惠み仁政を行ふときは、天下中のもの我もゝゝと云て來るなり。誠如此也。これは又別に一つ譬て云たもの。水の下きへついて流れ落る如く、人を殺すことを甘んぜさる君が出ると、水の下きへ流るヽ如く服して、これを禦ぐことはならぬ。
【解説】
「孰能與之。王復問也。與、猶歸也。對曰、天下莫不與也。王知夫苗乎。七八月之閒旱、則苗槁矣。天油然作雲、沛然下雨、則苗浡然興之矣。其如是、孰能禦之。今夫天下之人牧、未有不嗜殺人者也。如有不嗜殺人者、則天下之民、皆引領而望之矣。誠如是也、民歸之、由水之就下。沛然誰能禦之。」の説明。人を殺すことを甘んじない君が出れば、天下中がこれに帰服する。人を殺すことを甘んじない君が出れば、苗が雨を得た様に、水が低きに流れる様に天下中が服す。
【通釈】
○「孰能與之」。人を殺すことを甘んじない君が出たなら何者がこれに与しましょうかと聞いた。○「對曰云云」。襄王が孰が与するかと聞くので、誰彼ということはない、天下中が帰服してくると答えた。「王知夫苗乎」。御前も歴々なので知っておられるでしょう。「七八月之閒云云」。肝心の時に旱がすると苗が赤く萎れて枯れようとする。そこへ「天油然」、一面に曇って真っ暗になる。そうすると間もなくじとじとと降ってくる。「興之」。天下中の人が苗の旱に遇った様に見られぬ様になっている処を、人を殺すことを甘んじない君が出るので、どちらからもこちらからもこれへこれへと言って服する。これを禦ぐ者はいない。「今夫天下之人牧」。人牧という字はよい字。人君たる人は下を養ってやる筈のもの。しかしながら、この時は無下に人を殺しても何とも思わない者が沢山いた時である。そこへ人を殺すことを嫌だと思う君が出て、民を恵み仁政を行う時は、天下中の者が我も々々と言って来る。「誠如是也」。これは又別に一つ譬えて言ったもの。「由水之就下」。人を殺すことを甘んじない君が出ると、水が低きに流れるように服して、これを禦ぐことはできない。

△周は十一月を正月に取ゆへ夏の五六月に當る。夏は今の正月と同じ。油然雲盛貌。旱に難義の折節雨に勢を得て皆本とにかへるなり。禦は禁止也。民の仁政に服すること、水の下へ流るヽ如き処を誰有て禁止するものはない。人牧は謂牧民之君。人君は人を養が役ゆへ人牧なり。天下中のものやれ軍ゝゝゝと云てあき切ているゆへ、人を殺すことを甘んぜざる君が出ると喜んでくるなり。人は大和巡りにゆくさへわつかのわかれをかなしみて泣くものなり。それにいつ歸るとも知れぬ、命を失ふもしれぬ軍役に使はれる。怨みて居るゆへ手もなく来る。蘓氏曰云云。一服で直ると云語に近い。この薬が一服で直りそふもないものと思ふゆへ、これが深く意を味ふて、どふして人を殺すことを甘んぜぬものが出たら服そうと云に、其實をきわめざれば一寸聞ては迂とす。孟子以来を以て云たが蘓氏の思入なり。段々秦がつよくなってとふゝゝ人を殺すことを甘んずる者が天下を取たゆへ、孟子の云たも當てにならぬと云はふが、これは明智が天下と同ことで、項羽高祖が出て秦亡し後漢楚に及んで項羽はあれほと軍も上手、勇力な大將なれども人を殺すことを甘んじた人なり。高祖はむざうさな人なれども一たいが人を殺すことをいやがる男ゆへ、とふゝゝ天下を長く保ちたなり。後漢の光武もその如く、唐の大宗は猶更のこと。宋の太祖皇帝も大学に宋德隆盛と云。これ人を殺すことを甘んせぬ人君たちなり。其餘殺人愈夛。どれも長くつヾがぬ。秦始皇晋武帝隨文帝人を殺すことを甘んじた人が一たび天下を合せたやうなれども、直に亡びて長くつヽかぬ。人を殺すことを甘んせぬものは漢唐宋の四君、永くつヽいた。孟子之言。東坡孟子のの人を出して其しるしを見せて云たことを朱子のこヽへ出された。孟子のをっしゃったことがひょっとあたったと云ことがあらふが、
【解説】
「夫、音扶。浡、音勃。由當作猶。古字借用。後多放此。○周七八月、夏五六月也。油然、雲盛貌。沛然、雨盛貌。浡然、興起貌。禦、禁止也。人牧、謂牧民之君也。領、頸也。蓋好生惡死、人心所同。故人君不嗜殺人、則天下悦而歸之。○蘇氏曰、孟子之言、非苟爲大而已。然不深原其意而詳究其實、未有不以爲迂者矣。予觀孟子以來、自漢高祖、及光武、及唐太宗、及我太祖皇帝、能一天下者四君。皆以不嗜殺人致之。其餘殺人愈多、而天下愈亂。秦晉及隋、力能合之、而好殺不已。故或合而復分、或遂以亡國。孟子之言、豈偶然而已哉。」の説明。秦の始皇、晋の武帝、隋の文帝など、人を殺すことを甘んじた人は一度天下を合わせたかのようだが、直ぐに亡んで長く続かなかった。人を殺すことを甘んじない者は漢の高祖、後漢の光武、唐の太宗、宋の太祖の四君で、その政治は永く続いた。
【通釈】
△周は十一月を正月とするが、それは夏の五六月に当たる。夏は今の正月と同じ。「油然、雲盛貌」。旱に難儀な折節、雨に勢いを得て皆本に復る。「禦、禁止也」。民が仁政に服することは、水が下に流れるようなものであって、誰も禁止することはできない。「人牧、謂牧民之君」。人君は人を養うのが役なので人牧である。天下中の者が軍に飽き切っているので、人を殺すことを甘んじない君が出ると喜んで来る。人は大和巡りに行くにさえ僅かの別れを悲しんで泣くもの。それなのに何時帰るとも知れず、命を失うかも知れない軍役に使われるのである。怨んでいるので手もなく来る。「蘇氏曰云云」。一服で治るという語に近い。この薬一服で治りそうもないものと思うので、人を殺すことを甘んじない者が出たら服すだろうと言っても、深く意を味わって「其實」を究めなければ、一寸聞いただけでは「迂」とする。「孟子以來」を言ったのが蘇氏の思い入れである。段々と秦が強くなってきて、とうとう人を殺すことを甘んずる者が天下を取ったので、孟子の言うことも当てにならないと言うとしても、これは明智の天下と同じことで、項羽や高祖が出て秦を亡ぼした後、漢と楚に及んでは、項羽はあれほど軍も上手、勇力な大将だったが、人を殺すことを甘んじた。高祖は無造作な人だったが、総じて人を殺すことを嫌がる男なので、とうとう天下を長く保った。後漢の光武もその如く、唐の太宗は猶更のこと。宋の太祖皇帝も大学に「宋德隆盛」とある。これが人を殺すことを甘んじない人君達である。「其餘殺人愈多」。どれも長くは続かない。秦の始皇、晋の武帝、隋の文帝、人を殺すことを甘んじた人が一度天下を合わせたようであるが、直ぐに亡んで長く続かない。人を殺すことを甘んじない者は漢・唐・宋の四君で、永く続いた。「孟子之言」。東坡が孟子の後の人を出してそのしるしを見せて言ったことを、朱子がここへ出された。孟子の仰ったことがひょっと当たったということがあろうが、
【語釈】
・大学に宋德隆盛と云…大學章句序。「宋德隆盛、治敎休明」。