嘉言第五

嘉言1
横渠張先生曰、敎小兒、先要安詳恭敬。今世學不講、男女從幼便驕惰壞了、到長益凶狠。只爲未嘗爲子弟之事、則於其親已有物我不肯屈下。病根常在。又隨所居而長、至死只依舊。爲子弟、則不能安洒掃應對、接朋友、則不能下朋友、有官長、則不能下官長、爲宰相、則不能下天下之賢。甚則至於徇私意、義理都喪、也只爲病根不去、隨所居所接而長。
【読み】
横渠張先生曰く、小兒を敎うるには、先ず安詳恭敬ならんことを要す。今世學講ぜず、男女幼より便ち驕惰にして壞り了り、長ずるに到りて益々凶狠[きょうごん]なり。只未だ嘗て子弟の事を爲さざるが爲に、則ち其の親に於て已に物我有り、屈し下るを肯ぜず。病根常に在り。又居る所に隨いて長じ、死に至るまで只舊に依る。子弟と爲りては、則ち洒掃應對に安んずること能わず、朋友に接[まじ]わりては、則ち朋友に下ること能わず、官長有れば、則ち官長に下ること能わず、宰相と爲りては、則ち天下の賢に下ること能わず。甚しきは則ち私意に徇い、義理都て喪うに至るも、也[また]只病根去らざずして、居る所接わる所に隨いて長ずるが爲なり。

○嘉言は立教・明倫・敬身、善行は稽古。嘉言は書経の字。浅見先生の弁に、義理の目出度辞と云はれた。今日目出度と云へば鶴亀松竹と思ふが、垩賢のは道理に合たことを目出度と云。今人のいまわしいと云。あれは俗の習で、朔日に人の死をきくといやがる。冨士の夢うれしがる。だたい目出度と云は、木村長門は若死したがわるひやふなれとも、あれを目出度と云。道理も知らず長生をしたとて役に立つことはない。盗蹠が長寿も同しこと。伯夷は首陽山にかくれて飢へたが目出度。顔子は若死なれとも目出度と云。惣体垩賢の語は理づりで気づりなことはない。白髪になる迠と祝儀に麻苧をだし、腰のまがる迠と海老を出す類、学者功夫にはよろこはぬことぞ。命長ければ恥ををしと云が却て戒になる。とかくに精神の建立するがよい。そこで此篇の内には體を建立することども云。目出度咄をしやれの世なをしを云のと云は、皆俗のすることなり。嘉言の嘉の字の目出度わけは、皆理づりの目出度きことなり。
【解説】
嘉言は目出度い言のことだが、それは鶴亀松竹のことではない。聖賢は道理に合ったことを目出度いと言う。伯夷は首陽山に隠れて飢え、顔子は若死だったが、それが目出度い。
【通釈】
嘉言は立教・明倫・敬身で、善行は稽古のことである。嘉言は書経の字。浅見先生の弁に、義理の目出度い辞だとある。今日目出度いと言うと鶴亀松竹と思うが、聖賢は道理に合ったことを目出度いと言う。今の人が忌まわしいと言うが、あれは俗の習いで、朔日に人の死を聞くと嫌がり、富士の夢を嬉しがる。そもそも目出度いというのは、木村長門は若死したのが悪い様だが、あれを目出度いと言う。道理も知らずに長生きをしたとしても役に立つことはない。盗跖の長寿も同じこと。伯夷は首陽山に隠れて飢えた。それが目出度い。顔子は若死だが目出度いと言う。総体聖賢の語は理釣りであって気釣りなことはない。白髪になるまでと祝儀に麻苧を出し、腰の曲るまでと海老を出す類は、学者の功夫では喜ばないこと。命長ければ恥多しというのが却って戒めになる。とかく精神の建立をするのがよい。そこでこの篇の内では体を建立することをも言う。目出度い話をするとか世直しを言うのは、皆俗のすること。嘉言の嘉の字の目出度いわけは、皆理釣りで目出度いのである。
【語釈】
・嘉言は書経の字…「嘉言」は書経大禹謨と伊訓にある。
・木村長門…木村長門守重成。大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家のために戦って死ぬ。母の右京大夫局は豊臣秀頼の乳母。

○横渠先生曰云々。子ともを教るに先つ土臺と云ことがある。安詳恭敬に教込がよい。○要は、そのやうにしこみ、そうせよとかへる俗語なり。○先つはよいことをさしをき、第一それと心掛ること。子ともと云相手なり。相手が相手ゆへ、た子く教子はならぬゆへ、かず多ひ土臺をこふせ子ばならぬことぞ。惣体のしっとりとをちついたていを安と云。○詳は麁相のなくこまかなこと。○恭は惣体行儀の急度したこと。○敬はその上に大叓々々とかけること。集成に誰やらよいことを云た。是が忠信の本とになるとなり。初手からぐはんぜない子にこう云教をするが忠信の土臺になる。ひょこすかといたづらな子は安詳でない。扨又恭敬でないとなにもかもやりはなしをするが、こふ云ことだとたまかにしっとりとをちついた下地になる。親の心掛がわるいと可愛子もよくすることがならぬ。いつともなく三代の後には英雄豪傑と云ものが出て、道の外に器量あるもの。今日も兎角一器量あることを自慢する方から、やりばなしをするとどふか一器量のあるやふにみへる故、呵るべきことを呵らず、却て手抦のやふに取成す。丁寧に手習をするが子共相応なれとも、楚の項羽も手習をせぬと云。楚の項羽と同格であろう筈はない。どうやら一器量あると云、それに腰をかけてをる。英雄豪傑のはやるが殊の外害になる。
【解説】
「横渠張先生曰、敎小兒、先要安詳恭敬」の説明。子供を教えるには、先ずは土台が必要である。「安詳恭敬」で教え込む。総体のしっとりと落ち着いた体を「安」と言う。「詳」は粗相がなくて細かなこと。「恭」は総体の行儀がきっとしたこと。「敬」はその上に大事と心掛けること。三代の後には英雄豪傑というものが出たが、彼等は器量に腰を掛けて遣り放しをした。
【通釈】
「横渠先生曰云々」。子供を教えるには先ず土台ということがある。「安詳恭敬」で教え込むのがよい。「要」は、その様に仕込み、そうしなさいと返す俗語である。先ずはよいことを差し置いて、第一にそれを心掛ける。子供が相手である。相手が相手なので、仔細に教えなければならないので、数多い土台をこの様にしなければならない。総体のしっとりと落ち着いた体を「安」と言う。「詳」は粗相のなく細かなこと。「恭」は総体の行儀がきっとしたこと。「敬」はその上に大事と心掛けること。集成に誰かがよいことを言っている。これが忠信の本になるとある。初手から頑是ない子にこの様な教えをするのが忠信の土台になる。ひょこすかと悪戯な子は安詳ではない。さてまた恭敬でないと何もかも遣り放しをするが、この様なことが、たまかでしっとりと落ち着いた下地になる。親の心掛けが悪いと可愛い子もよくすることができない。いつともなく三代の後には英雄豪傑というものが出たが、彼等は道の外に器量がある。今日もとかく一器量あることを自慢する方から、遣り放しをするとどうも一器量ある様に見えるので、呵るべきことを呵らず、却って手柄の様に取り成す。丁寧に手習をするのが子供相応のことだが、楚の項羽も手習をしないと言った。楚の項羽と同格である筈はない。どうやら一器量あると言ってそれに腰を掛けている。英雄豪傑の流行るのが殊の外害になる。
【語釈】
・たまか…まめやかなこと。実直。つましいこと。倹約。

垩賢になる抔樸、子は安詳恭敬から教込ことぞ。為師者知所以教而弟子知所以学也へ引付てみるがよい。今日は師がわるいなり。丁ど手引が坐頭を溷へ引つり込やふなもの。親や師がついて居てわるくするなれば、手引か溷へ入たのなり。横渠は宋仁宗の時の人で学者の沢山な歴々の多ひ時なり。然るに今世学不講と云なり。目の着け処はいくら書物を懐中する者がありても、古の小学大学の教がはやら子ば、今世学不講と云なり。徂徠が出たれば日本も文蕐がひらけたなどと云は、かたはらいたいことぞ。なに文花がひらけるものぞ。こびた人か酒に酔たことを酩酊いたしたと書き、堺町や悪所の行燈をからようでかき、しつくほくやで唐めいたことのあるを文花とは云はれぬことなり。またも古文三體詩は殊勝らしきが、それはやみて世説・唐詩選・滄溟尺牘とくる。ひとつ葉も役に立ぬことぞ。学問と云ても人心を正し、風儀をよくし、国家の用にたた子ば学問とは云はれぬ。たた唐紙や唐筆を用るがなんの役に立ぬ。そこが学不講也。○驕は気のたかぶり。幼年の内からたかぶりがつよく、何と云ことなく分にをごる気がある。藐然少年で人をつかうやうなことをしたがる。○壊はたましいをらりにしてとりのけること。小児は論に足らぬものなれとも、驕惰ゆへ壊了也。古人の八歳から教ると云のが大人になりてしたぢになる。病気もそれなり。子共の時のが成人してもある。五臓六腑に着てをるとみへる。
【解説】
「今世學不講、男女從幼便驕惰壞了」の説明。今は師が悪いから子供が悪い。当時、横渠は「今世学不講」と言った。それは小学や大学の教えが流行らなかったからである。日本でも徂徠が出てから文華が開いたと言うが、唐めいたからといってそれを文華とは言わない。「驕」は気の高ぶり。子供の時の驕惰によって、後に「壊了」となる。
【通釈】
聖賢になる抔樸で、子は安詳恭敬から教え込む。「為師者知所以教、而弟子知所以学也」へ引き付けて見なさい。今日は師が悪い。丁度案内が座頭を溝へ引きずり込む様なもの。親や師が付いていて悪くするのであれば、案内が溝へ入れたのと同じである。横渠は宋の仁宗の時の人で、学者も沢山で歴々も多い時だった。それなのに「今世学不講」と言った。いくら書物を懐中する者がいても、古の小学大学の教えが流行らなければ「今世学不講」だと言うのが目の着け処。徂徠が出たので日本も文華が開けたなどと言うのは、片腹痛いこと。何で文華が開けるものか。媚びた人が酒に酔ったことを酩酊致したと書き、堺町や悪所の行燈を唐様で書き、卓袱屋で唐めいたことがあるのを文華と言うことはできない。古文三体詩はまだしも殊勝らしいが、それは止めて世説・唐詩選・滄溟尺牘と来る。それは一つも役に立たないこと。学問と言っても人心を正し、風儀をよくし、国家の用に立たなければ学問とは言えない。ただ唐紙や唐筆を用いるのでは何の役にも立たない。そこが「学不講」である。「驕」は気の高ぶり。幼年の内から高ぶりが強く、何ということなく強く驕る気がある。小さな子でありながら、人を使う様なことをしたがる。「壊」は魂を台無しにして取り除けること。小児は論ずるに足りないものだが、驕惰なので「壊了」となる。古人が八歳から教えるというのが大人になっての下地になる。病気もそれ。子供の時の病が成人してもある。五臓六腑に付いているものと見える。
【語釈】
・抔樸…老子道経還淳19。「絶聖棄智、民利百倍。絶民棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盜賊無有。此三者、爲文不足。故令有所屬。見素抱朴、少私寡欲」。抱朴は抔樸と同じ。
・為師者知所以教而弟子知所以学也…小学内篇立教題下。「俾爲師者知所以敎、而弟子知所以學」。
・文蕐…文章のはなやかなこと。また、その文章。

○到長は、年を一つとり二つとりして十四五から二十計り迠ををしくるめて云。前の驕惰が官位をして凶狠と云わるものになる。そうなるとどうも手に抑へられぬ。此時になって始て親も顔をしかめ、忰にこまると云。不教民を用ひて戦ふと同しことで、不便なことなり。軍兵もしらぬ者をつれては殺すやふなもの。安詳恭敬の教がなくすててをくと凶狠になる。こふなるも手置のわるいのなり。悪馬ではないが、つかわずに置から厩から引出すとつかわれぬ。是は馬を畜ふ人のとがで、馬の咎ではない。そう云ては親の方をわるく云やふなれとも、そこが立教ゆへ、無調法を親迠かけて云たもの。親子の間はべったりとしたがよいにへた々々になって、親が何を云ても、親父が正德時分のこと云が、今はそれでは間に合ぬと云。成長しても子ともの時の驕惰かついてまわる。驕惰凶狠が病になり、骨がらみになりて段々をもってくる。名を替へしなをかへて凶狠が出る。なをらぬ段になると、いつになってもなをらぬ。世間へ出て世間つき合をしたらばよかろうと思に、驕惰と云ものをもち合せてをるゆへ、人に頭をさげることがならぬ。奉公すると頭がある。兎角頭とはりをふよふになる。それから宰相の重い官になり、これは天下の賢者を挙るが役なれとも、それにくだることがならぬ。為子弟から宰相迠はいこう久しい間なり。久しいことゆへ子ともの時の積はなをったかと云に、天下一人と云宰相の塲になったとき迠、やはり前の驕惰凶狠がついてをる。是迠教のないことを云。
【解説】
「到長益凶狠。只爲未嘗爲子弟之事、則於其親已有物我不肯屈下。病根常在。又隨所居而長、至死只依舊。爲子弟、則不能安洒掃應對、接朋友、則不能下朋友、有官長、則不能下官長、爲宰相、則不能下天下之賢」の説明。「驕惰」から「凶狠」となる。安詳恭敬の教えがないまま捨てて置くと凶狠になる。こうなると手に負えなくなる。宰相という場になっても前の驕惰凶狠が付いて回る。
【通釈】
「到長」は、年を一つ取り二つ取りして十四五から二十ばかりまでを押し包めて言う。前の驕惰が官位をして「凶狠」という悪者になる。そうなるとどうも手に負えない。この時になって初めて親も顔をしかめ、忰には困ると言う。それは教えていない民を用いて戦うのと同じことで、不便なこと。軍兵も知らない者を連れて行っては殺す様なもの。安詳恭敬の教えがないまま捨てて置くと凶狠になる。こうなるのも手置きが悪いからである。悪馬ではないが、使わずに置くから、厩から引き出すと抑えられない。これは馬を畜う人の咎であって馬の咎ではない。そう言っては親の方を悪く言う様だが、そこが立教なので、無調法を親にまで掛けて言うのである。親子の間はべったりとしたのがよいのにべたべたになって、親が何を言っても、親父は正徳時分のこと言うが、今はそれでは間に合わないと言う。成長しても子供の時の驕惰が付いて回る。驕惰凶狠が病になり、骨絡みになって段々重くなって来る。名を変え品を変えて凶狠が出る。治らない段になると、いつになっても治らない。世間へ出て世間付き合いをすればよいだろうと思っても、驕惰というものを持ち合わせているので、人に頭を下げることができない。奉公すると頭がいるので、とかく頭と張り合う様になる。それから宰相という重い官になっても、これは天下の賢者を挙げるのが役なのだが、それに下ることができない。「為子弟」から「為宰相」までは大層久しい間がある。久しいことなので子供の時の癪は治ったかと言えば、天下一人という宰相の場になった時まで、やはり前の驕惰凶狠が付いている。これまでは教えのないことを言う。
【語釈】
・不教民を用ひて戦ふ…論語子路30。「子曰、以不教民戰、是謂棄之」。

○甚則云々から其かふじてきたを云。驕惰と一つにしてありそうなものなれとも、別にしてをくが面白。驕惰にこふがいりてくる故、私意と云が手のこんだわるいこと。凶狠は町ろっほうや競組にある心ざまが歴々にもあるのなり。私意はさま々々こしゃくを付る。私意と云になると王荊公もこれ、東坡もこれなり。この二人は天下にをし並ふ者もない大儒なれとも、とどの処が私意なり。東坡かあの身分で伊川のことをろくそうはりと云たことがある。枉死市の叔孫通と云た。はっけやろうと云ことぞ。驕惰凶狠が成就した。何れの世にか敬の字を打破せんと云たこともあり、程子の弟子の朱公掞がきっとしたを見て、あの敬を打破たいと云た。大儒ゆへぶんのことに思ふが、これも小学の教がないから驕惰凶狠がついてみなになる。三代の教の結搆は周召伊傅のよふな人が出来た。あのやうな人は出来ぬ。東坡のやうなれき々々はないが、皆驕や狠の成就した私意なり。詩や文章が一つはも学問の役に立ぬ。氣質変化は敬でなる。その敬が役に立ぬの変化がならぬと云ては病根不去なり。○所居所接とは、出合ひ頭に長ずる。土用八專に病気のをこるやうなもの。とかく病は根をぬくやうにしろ。垩賢が教をするも病をぬくことじゃ。気質変化をせぬと所居所接云々なり。此事を君子は上達小人は下達と云。教があると上達し、教がないと下達するなり。
【解説】
「甚則至於徇私意、義理都喪、也只爲病根不去、隨所居所接而長」の説明。「私意」というのが手の込んだ悪いことで、驕惰に巧が入ったもの。王荊公や東坡がこれである。詩や文章は一つも学問の役に立たない。また、敬が役に立たないとか気質変化はできないと言うのは「病根不去」である。聖賢の教えは病を取り去ることである。
【通釈】
「甚則云々」からはそれが高じて来たことを言う。驕惰と一つにしてありそうなものだが、別にして置くのが面白い。驕惰に巧が入って来るので、この「私意」というのが手の込んだ悪いこと。凶狠は、町六方や競い組にある心様が歴々にもあるということだが、私意はそれに様々な小癪を付ける。私意ということになれば、王荊公もこれ、東坡もこれ。この二人は天下に押し並ぶ者もいないほどの大儒だが、つまりは私意である。東坡があの身分で、伊川のことをろくそうばりと言ったことがある。枉死市の叔孫通だと言った。八卦野郎ということで、驕惰凶狠が成就したのである。何れの世にか敬の字を打破しようと言ったこともあり、程子の弟子の朱公掞がきっとしているのを見て、あの敬を打破したいと言った。大儒なので大層なことに思うが、これも小学の教えがないからで、驕惰凶狠が付いて台無しになる。三代の教えは結構なものなので、周召伊傅の様な人ができた。今はあの様な人はできない。東坡の様な歴々もいないが、皆驕や狠の成就した私意がある。詩や文章は一つも学問の役に立たない。気質変化は敬で成る。その敬が役に立たないとか気質変化はできないと言っては「病根不去」である。「所居所接」とは、出合い頭に長ずること。土用八専に病気の起こる様なもの。とかく病は根を抜く様にしなさい。聖賢が教えをするのも病を抜くこと。気質変化をしないと所居所接云々である。このことを、君子は上達、小人は下達と言う。教えがあると上達し、教えがないと下達する。
【語釈】
・ろっほう…六方。侠客。旗本奴。町奴。
・競組…勇み肌の連中。
・王荊公…王安石。1021~1086
・東坡…蘇軾。1036~1101
ろくそうはり
枉死市
・叔孫通…前漢の儒者。号は稷嗣君。山東薛の人。高祖に仕えて朝儀を制定。恵帝の時、奉常卿として宗廟などの儀法を定め、太子太傅となる。
・周召伊傅…周公、召公奭、伊尹、傅説。
・八專…暦で、干支の十干と十二支の五行が合う日。厄日になる。
・君子は上達小人は下達…論語憲問24。「子曰、君子上達、小人下達」。


嘉言2
○楊文公家訓曰、童稺之學不止記誦。養其良知良能、當以先入之言爲主。日記故事、不拘古今、必先以孝悌・忠信・禮義・廉恥等事。如黄香扇枕、陸績懷橘、叔敖陰德、子路負米之類、只如俗説、便曉此道理、久久成熟、德性若自然矣。
【読み】
○楊文公の家訓に曰く、童稺の學は記誦に止まらず。其の良知良能を養うには、當に先入の言を以て主と爲すべし。日に故事を記し、古今に拘らず、必ず先ず孝悌・忠信・禮義・廉恥等の事を以てす。黄香の枕を扇ぎ、陸績の橘を懷にし、叔敖の陰德、子路の米を負うの類の如き、只俗説の如くして、便ち此の道理を曉し、久久に成熟せば、德性自然の若くならん。

○楊文公云々。家訓と云がよいことぞ。なぜと云に、垩賢の書があれば家訓なくてもよさそうなものなれとも、子孫は家訓あれば垩賢の語より尊ぶもの。會津中將様なども家訓と云ものがある。ひひきのいこう違ふもの。司馬温公なども家範と云ものあり。○記誦はものをよむこと。素読でもしてものをよむがもとよりのことなれとも、それ計りと思ふな。子共のぐはんぜのない内から良知良能を養がよい。扨、其良知良能は誰ももち合せたもの。よふ々々はいずる子が兎角親の方へ行く。是は垩賢だの凡夫だのと云ことなく、これがある。さて殊の外結搆なものをもってをるなり。その持てをる処をしこむ。根のないことは養はれぬ。良知良能があるゆへ、よい咄をしてきかせるとよくなる。故事などを知るは道理を知る下地になるゆへよいが、ただよんではなんにもならぬ。はやく耳で聞こんだことがぬけか子るもの。覚のわるい人も、子ともの時乳を呑みながら聞たことは一生覚てをるもの。今の先入にろくなことはない。月をのの様と覚てをる。精進日に灸をせぬものしゃと云。なんのことかしれぬ。子共の時からそう云ことばかり聞てをる。兎角子ともをよくするにはた子くよいことを云て聞せ子はならぬ。某駿臺雜話を誉るがこれなり。学者があれを感心するもあんまりなこと。あの書は学問をせぬ祐筆が見ても医者がみてもよい。大名の若殿が見てもよい。予補師保之闕と書たもそれなり。道理の咄を桃太郎の咄のやうにしらせたいものぞ。
【解説】
「楊文公家訓曰、童稺之學不止記誦。養其良知良能、當以先入之言爲主。日記故事、不拘古今」の説明。子孫は家訓を聖賢の語よりも尊ぶからこれが響く。小さい頃から素読をするのは固よりのこと、人は皆良知良能を持っているから、その頃から良知良能を養うのである。小さな頃に覚えたことは忘れ難いもの。
【通釈】
「楊文公云々」。家訓というのがよいもの。それは何故かと言うと、聖賢の書があれば家訓はなくてもよさそうなものだが、子孫は家訓を聖賢の語よりも尊ぶものだからである。会津中将様などにも家訓というものがある。それは大層響きの違ったもの。司馬温公などにも家範というものがある。「記誦」はものを読むこと。素読でもしてものを読むのは固よりのことだが、そればかりだと思うな。頑是ない子供の内から良知良能を養いなさい。さて、その良知良能は誰も持ち合わせているもの。漸く這いずる子がとかく親の方へ行く。聖賢だの凡夫だのということなく、さて殊の外結構なものを人は持っているのである。その持っている処を仕込む。根のないことは養えない。良知良能があるので、よい話をして聞かせるとよくなる。「故事」などを知るのは道理を知る下地になるのでよいことだが、ただ読んでいるのでは何にもならない。早く耳に聞き込んだことは抜け難いもの。覚えの悪い人も、子供の時に乳を呑みながら聞いたことは一生覚えているもの。今の「先入」に碌なことはない。月のことをのの様と覚えている。精進日に灸はしないものだと言う。それは何の意やら知れない。子供の時からそういうことばかりを聞いている。とかく子供をよくするには丁寧によいことを言って聞かせなければならない。私が駿台雑話を誉めるのがここのこと。学者があれを感心するのもあまりなことだが、あの書は学問をしない祐筆が見ても医者が見てもよい。大名の若殿が見てもよい。「予補師保之闕」と書いたのもそれ。道理の話を桃太郎の話の様に知らせたいもの。
【語釈】
・楊文公…楊億。字は大年。宋の真宗の翰林学士。
・會津中將様…保科正之。1611~1672
予補師保之闕

○礼はわざにあらわれた上を云。心にはっきりとして、わるいことをせぬを義と云。○廉はかどのあること。がどのあるが結搆なり。かどがないとなにもならぬが、かどのあるで道理の心になってくる。がどがないと自由にころげる。道理の成就した上は格別なれとも、一通りの者はよい方へころければよいが、わるくするとわるい方へころげる。かどのありてぎくしゃくするが義理をのせる臺になりてをる。廉があると、道理にたかふたことでは、ためになることでも工面のよいことでもいやになる。世の中に段々経歴すると今迠の耻ヶしいがやみてくる。鳩巣の、をらが若ひ時分は好色の咄をすると若ひ者が顔を赤くしたが、今はそれがないなどと云はれた。歴々て銭がなくて面白ふないなどと云ふ人もあり、皆廉耻のないのぞ。武士が子ともを教るには、侍がそんなことをするものかとはづかしめるがよい口上なり。これが廉耻のことなり。
【解説】
「必先以孝悌・忠信・禮義・廉恥等事」の説明。「礼」は業に現われた上を言い、心がはっきりとして、悪いことをしないのを「義」と言う。「廉」はかどのあることで、これが義理を乗せる台になる。
【通釈】
「礼」は業に現われた上を言い、心がはっきりとして、悪いことをしないのを「義」と言う。「廉」はかどのあること。廉のあるのが結構なこと。廉がないと何もならないが、廉があるので道理の心になって来る。廉がないと自由に転げる。道理の成就した上は格別だが、一通りの者はよい方へ転げればよいが、悪くすると悪い方へ転げる。廉があってぎくしゃくするので義理を乗せる台になる。廉があると、道理に違うことは、ためになることでも工面のよいことでも嫌になる。世の中で段々と経歴をすると今まで恥ずかしかったことが止んで来る。鳩巣が、俺が若い時分は好色の話をすると若い者が顔を赤くしたが、今はそれがないと言われた。歴々なのに、銭がなくて面白くないなどと言う人もいる。皆廉恥がないのである。武士が子供を教えるのに、侍がそんなことをするものかと辱めるのがよい口上である。これが廉恥のこと。

○如黄香云々からは故事を挙たもの。陸績は懐中へ密柑を入れ、落したゆへ笑たれば、此は母にくわせると云た。叔敖は両頭の蛇をころし、両頭をみれば死ぬと云。われが死ぬはよいが、をれが死ぬと母様が力らを落すと泣たれば、いやをのしのやうな隂德ある者は死なぬと云たことあり。子路は遠方米をかついて親を養はれた。手前かてばかりくふた。○如自然とは教て行たやうてはなく、もちまひのやうになる。此が立教の初に幼成如天性にあててみるがよい。此様な話をすると、いつとなくよくなる。関東に生れて京談にはならぬが、十歳斗りから京へやりてをくと、二十歳斗りて歸たとき京談になってくるなり。
【解説】
「如黄香扇枕、陸績懷橘、叔敖陰德、子路負米之類、只如俗説、便曉此道理、久久成熟、德性若自然矣」の説明。陸績や叔敖、子路の例を出し、この様に務めれば自然に徳性が身に付くと言った。
【通釈】
「如黄香云々」からは故事を挙げたもの。陸績は懐中へ蜜柑を入れ、それを落としたので笑われた。そこで、これは母に食わせると言った。叔敖は両頭の蛇を殺した。両頭を見た者は死ぬというので、自分が死ぬのはよいが、俺が死ぬと母様が力を落とすと泣いていると、いやお前の様な陰徳のある者は死なないと言われた。子路は遠方へ米を担いで行って親を養われ、自分は藜ばかりを食った。「如自然」とは、教えで行った様ではなく、持前の様になること。これを立教の始めの「幼成如天性」に当てて見なさい。この様な話をすると、いつとはなくよくなる。関東に生まれれば京詞にはならないが、十歳ばかりから京へ遣って置くと、二十歳ばかりになって帰った時には京詞になって戻って来る。
【語釈】
・陸績…呉書。「陸績字公紀、呉郡呉人也。父康、漢末爲廬江太守。績年六歳、於九江見袁術。術出橘、績懷三枚。去、拜辭墮地。術謂曰、陸郎作賓客而懷橘乎。績跪答曰、欲歸遺母。術大奇之」。
・叔敖…楚の蔿艾。後に楚の宰相となる。
・子路は遠方米をかついて親を養はれた…孔子家語致思。「子路見於孔子曰、負重渉遠、不擇地而休、家貧親老、不擇祿而仕。昔者由也、事二親之時、常食藜藿之實、爲親負米百里之外。親歿之後、南遊於楚、從車百乘、積粟萬鍾、累茵而坐、列鼎而食、願欲食藜藿、爲親負米、不可復得也。枯魚銜索、幾何不蠹、二親之壽、忽若過隙。孔子曰、由也事親、可謂生事盡力、死事盡思者也」。
・幼成如天性…小学内篇立教2集註。「孔子曰、幼成若天性、習慣如自然」。


嘉言3
○明道程先生曰、憂子弟之輕俊者、只敎以經學念書、不得令作文字。子弟凡百玩好、皆奪志。至於書札、於儒者事最近。然一向好著亦自喪志。
【読み】
○明道程先生曰く、子弟の輕俊なる者を憂えば、只敎うるに經學念書を以てし、文字を作らしむるを得ず。子弟凡百の玩好、皆志を奪う。書札に至りては、儒者の事に於て最も近し。然れども一向に好著すれば亦自ら志を喪う。

○明道程先生曰云々。生質の睿敏、きやうなものはかるはづみなもの。垩賢は俊の上に軽の字がつかぬ。利口はよいが猿がわるいと云がこれなり。済ぬことも済んたやふな顔で、とかく身に入らぬ。只とをすとああ利口じゃと誉めちぎることなれとも、あああれではものにはなるまいと憂るなり。○經學念書とはすら々々吟味するでなく、胷にのせること。念仏などがこれじゃ。南無阿弥陀佛を胸へ入れて唱へるで、念仏、それで仏になることと云ふ。道理を胸にのせることぞ。文章を作るがわるい。孔子の教不学詩以無言とはあるが、作詩とはない。なぜ作詩文が法度なれば、兎角人にみせたくなる。人に誉られたくなるゆへ、そこで作らぬ。これをすると吾が精神をらりにする。なぐさみなり。圍棋でも打、將戯をさす。あれが玩物で、志かあれへとられる。学始為士終為垩とて飯を食ふひまもないもの。そうしたことしゃに、文章を書ては脇へ奪はれるなり。急病人のある時、医の処へ欠出して行よふなもの。其道て浄瑠璃を聞き、杜若を見ては云訳たたぬこと。○書は手をかくこと。○札は口上を文にむくやうにかく。これは六藝の内でなくてならぬものなれとも、ここに筋がある。それをすいてかくと、其方へべったりとなりて本の精神はぬけてしまう。これもよく書てみせたい気になる。唐毛がよいの朱印の肉をこしらへるのと云其心ざま、娘の白粉をぬり、流行帯を求ると何ぞ異ならんや。学者のすべきことではない。
【解説】
生質が睿敏で器用な者は軽はずみなもの。聖賢も俊だが、軽は付かない。「経学念書」は道理を胸に乗せること。文章を作るのが悪い。詩文を作るとそれを人に見せて誉められたくなる。それで自分の精神が台無しになる。学者は忙しいから詩文をする様な脇道はしない。
【通釈】
「明道程先生曰云々」。生質が睿敏で器用な者は軽はずみなもの。聖賢は「俊」の上に「軽」の字は付かない。利口はよいが猿の付くのが悪いと言うのがこれ。済まないことも済んだ様な顔で、とかく身に入らない。ただ通せばああ利口だと誉めちぎることになるが、あああれではものにはならないだろうと憂うる。「経学念書」はすらすらと吟味するのでなくて胸に乗せること。念仏などがこれ。南無阿弥陀仏を胸へ入れて唱え、念仏するのは仏になることだと言う。道理を胸に乗せるのである。文章を作るのが悪い。孔子が「教不学詩無以言」とは言ったが、作詩とは言わない。何故作詩文が法度なのかと言うと、とかく人に見せたくなる。人に誉められたくなるので、そこで作らない。これをすると自分の精神を台無しにする。それは慰みである。囲碁を打ち、将棋を指す。あれが玩物で、志があれに取られる。「学始為士終為聖」と、飯を食う暇もないものなのに、文章を書いていては脇へ奪われる。急病人のある時に医の処へ駆け出して行く様なもの。その道で浄瑠璃を聞き、杜若を見ては言訳の立たないこと。「書」は手を書くこと。「札」は口上を文に向く様に書く。これは六芸の内になくてならないものだが、ここに筋がある。それを好いて書くとそちらにべったりとなって、本の精神は抜けてしまう。これもよく書いて見せたい気になるもの。唐毛がよいとか朱印の肉を拵えるというその心様は、娘が白粉を塗り、流行帯を求めるのと何処が異なるのか。学者のすべきことではない。
【語釈】
・教不学詩以無言…小学内篇稽古3。「曰、學詩乎。對曰、未也。不學詩無以言。鯉退而學詩」。
・学始為士終為垩…荀子勧学。「學惡乎始、惡乎終。曰、其數則始乎誦經、終乎讀禮。其義則始乎爲士、終乎爲聖人」。


嘉言4
○伊川程先生曰、敎人、未見意趣、必不樂學、欲且敎之歌舞。如古詩三百篇、皆古人作之。如關雎之類、正家之始。故用之郷人、用之邦國、日使人聞之。此等詩其言簡奥、今人未易曉。別欲作詩、略言敎童子、洒掃・應對・事長之節、令朝夕歌之。似當有助。
【読み】
○伊川程先生曰く、人を敎うるに、未だ意趣を見ざれば、必ず學ぶことを樂[よろこ]ばず、且く之に歌舞を敎えんと欲す。古詩三百篇の如きは、皆古人之を作る。關雎の類の如きは、家を正するの始なり。故に之を郷人に用い、之を邦國に用い、日に人をして之を聞かしむ。此等の詩は其の言簡奥にして、今人未だ曉り易からず。別に詩を作り、略々童子を敎うるに、洒掃・應對・長に事うるの節を言いて、朝夕之を歌わしめんと欲す。當に助有るべきに似たり。

○伊川程先生曰云々。○始に横渠を出し、明道伊川と三人ならべたで、此三人の不傳の学を遺経に継た衆の教方なり。横渠は子ともの時から安詳恭敬でじりんをよくせ子ばならぬと云て、明道のは、器用はたのものに油断をするな、つい俗人でしまうと英才ををっつかまへたときのかけ引を云。一ちしまいの伊川の手段は心のそこにのりをつけること。学問は、心のそこにのりのつくでなければ頓とならぬものなり。心のそこからうきたってする教の把抦をよくしるがよい。前漢の賈誼が若殿の好色の心をしりたが教処じゃと云た。十方もないやうなことて、見手か見てとる。朱子が経傳通解に取てをかれた。芝居なども子ともか正客でありそうなものなれとも、子共は心にのらず、退屈してそとへ出んとする。好色の心あるものがみてをる。人の心を淫乱にしやうとてするもの故、子共が見ては面白くない。意趣のあるとないはここなり。子共は意趣なしに見る故のりがつかぬ。大人は好色と云意趣があるゆへのりがつく。丁とそのやふに、学問も急度法が立ても意趣がないと、小笠原でするやうでのりがつかぬ。心にのりがつか子は益がない。
【解説】
「伊川程先生曰、敎人、未見意趣、必不樂學、欲且敎之歌舞。如古詩三百篇、皆古人作之」の説明。学問は心に乗りが付かなければうまく行かないと伊川は言う。学問も、しっかりと法が立っていても意趣がなければ小笠原でする様で乗りが付かない。心に乗りが付かなければ益はない。
【通釈】
「伊川程先生曰云々」。始めに横渠を出し、明道と伊川の三人を並べた。これが不伝の学を遺経に継いだ衆の教え方である。横渠は子供の時から「安詳恭敬」で下地をよくしなければならないと言い、明道は、器用肌の者は油断をするな、最後は俗人で終えるものだと英才を掴まえた時の掛け引きを言う。この伊川の手段は心の底に乗りを付けること。学問は、心の底に乗りが付くのでなければ頓とうまく行かないもの。心の底から浮き立ってする教えの取柄をよく知りなさい。前漢の賈誼が、若殿が好色の心を知った処が教え処だと言った。それは途方もないことの様だが、見手は見て取る。朱子が経伝通解にこれを取って置かれた。芝居なども子供が正客でありそうなものだが、子供は心に乗らず、退屈して外へ出ようとする。好色の心のある者が見ている。芝居は人の心を淫乱にしようとしてするものなので、子供が見ても面白くはない。「意趣」のあるのとないのはここのこと。子供は意趣なしに見るので乗りが付かない。大人は好色という意趣があるので乗りが付く。丁度その様に、学問もしっかりと法が立っていても意趣がないと、小笠原でする様で乗りが付かない。心に乗りが付かなければ益はない。

會席を一坐もかかぬと云ても何の役に立ぬ。君と一夜の話、十年の書を読むに勝ると云ことあり、のりのついたことなり。興国寺の會と云もこれなり。李初平もこれぞ。学問はここじゃと云意趣をみ子はならぬ。さて面白ものじゃと云でなる。下戸か此の甘くない酒をなぜそのやうに飲む々々と云たれば、まだ盃中之趣をしらぬと云たことがある。あれが意趣を知らぬのなり。太閤か関白になられてから茶の湯を始められたぞ。あの武勇な太閤ゆへ、人でもふったをすことが面白そうなものなれとも、茶の湯を始めたは利休と云名人がちらりと意趣をみせたもの。それゆへ兎角師匠が下手ではひびかぬ。これらか藝なれとも、名人のしたことゆへ楽学たなり。さらば人に意趣をこしらへさせるは何かよかろうと云に、歌より外しかたはない。
【解説】
学問は実に面白いものだと思うことで上達する。意趣を知るのは歌による外はない。しかし、それも師匠が下手では響かない。
【通釈】
会席を一座も欠かさないと言っても何も役に立たない。君と一夜の話は十年の書を読むに勝るということがあり、それが乗りの付いたこと。興国寺の会というのもこれ。李初平もこれ。学問はここだという意趣を見なければならない。実に面白いものだというのでよくなる。下戸がこの甘くもない酒を何故その様に飲むのかと聞くと、まだ盃中の趣を知らないのだと言ったことがある。あれが意趣を知らないということ。太閤が関白になられてから茶の湯を始められた。あの武勇の太閤なので、人でもぶっ倒すことが面白そうなものだが、茶の湯を始めたのは利休という名人がちらりと意趣を見せたからである。それで、とかく師匠が下手では響かない。これらは芸のことだが、名人のしたことなので「楽学」である。それなら人に意趣を拵えさせるには何がよいのかと言えば、歌より外に仕方はない。
【語釈】
・興国寺の會…近思録聖賢20。「伯淳嘗與子厚在興國寺、講論終日。而曰、不知舊日、曾有甚人於此處講此事」。
李初平もこれ…「李初平二年而大覚悟」のこと?

○關雎云々。下々の夫婦かけ向ひの者にもこれがよけれは、加賀様のよふな処で用てもよい。詩経の歌舞ほどよいことはないが、今はそれがない。伊川先生がこれゆへ日本はなをなり。徒然文枕草紙でさへ講釈をせ子ばすまぬ。そこて伊川かく云へり。然れとも、作りはされず。ここを残念なと云はちこうたこと。たとひ伊川の作たにしても、日本では知れぬ。朱子の序例の五賛や小学題辞がこの意て、覚よひやうに韻をふんでかかれた。必竟此やうな処を手嶋などが合点したもの。そこであの志は隨分親切ぞ。かるい者にはよい。然れとも、よいと云と筋がふれてくる。詩がよいと云ては詩經假名にして、是を三弦にのせて舜の楽と心得てはあほうなることなり。またただのりなしにきくと四つ目殺しになる。ここは心得た師の掛引でのうてはのりはこまいぞ。
【解説】
「如關雎之類、正家之始。故用之郷人、用之邦國、日使人聞之。此等詩其言簡奥、今人未易曉。別欲作詩、略言敎童子、洒掃・應對・事長之節、令朝夕歌之。似當有助」の説明。詩は誰にでもよいものだが、今それを知るのは難しい。そこで伊川は別に詩を作ったと言うが、本当は作らなかった。朱子の序例の五賛や小学題辞がこの意で作ったもの。ここは師の掛け引きが大事なのである。
【通釈】
「關雎云々」。下々の掛向いの夫婦にもこれがよく、加賀様の様な処で用いてもよい。詩経の歌舞ほどよいことはないが、今はそれがない。伊川先生でさえこうだから、日本では尚更である。徒然草や枕草子でさえ講釈をしなければわからない。そこで伊川がこの様に言った。しかし、作りはされなかった。それを残念なことだと言うのは違う。たとえ伊川が作ったとしても、日本ではそれがわからない。朱子の序例の五賛や小学題辞がこの意で、覚えよい様に韻を踏んで書かれた。畢竟、この様な処を手嶋堵庵などが合点したのである。そこであの志が隨分親切で軽い者にはよい。しかし、よいと言えば筋が振れて来る。詩がよいと言っても、詩経を仮名にして、これを三弦に乗せて舜の楽と心得るのは阿呆なこと。また、ただ乗りがなくて聞けば四目殺しになる。ここは心得た師の掛け引きでなければ乗りは来ない。
【語釈】
序例の五賛
・四つ目殺し…四目殺し。綴五。互いに碁石を並べ、自分の四石で相手の一石を囲んで殺すこと。その数の多寡で勝敗を決める。