嘉言15
司馬温公曰、凡諸卑幼、事無大小、毋得專行。必咨稟於家長。易曰、家人有嚴君焉、父母之謂也。安有嚴君在上、而其下敢直情、自恣不顧者乎。雖非父母、當時爲家長者亦當咨禀而行之、則號令出於一人、家政可得而治矣。
【読み】
司馬温公曰く、凡そ諸々の卑幼は、事大小と無く、專ら行うことを得る毋かれ。必ず家長に咨稟[しひん]せよ。易に曰く、家人に嚴君有るは、父母を之れ謂うなり。安ぞ嚴君上に在ること有りて、其の下敢て情を直ちにし、自ら恣して顧みざる者あらんや。父母に非ずと雖も、當時家長爲る者も亦當に咨禀して之を行うべく、則ち號令一人に出で、家政得て治まる可し。

十二月十六日
【語釈】
・十二月十六日…寛政元年(1789)12月16日。

○是からは父子の親なり。父子の親は親に孝行することで、親に孝は心てすることなれとも、事を立子ば孝行が届かぬ。此章などが始にあってあらいことの様に思ふが、一ち大事なことなり。孝子は誠の心が深い。誠の心が深くても、平生親を重ずるでなふては孝が届ぬ。偖て家内のことになっては瑣細なこと迠子共たるべき者は自由にせぬがよい。たとへば鄰から桺の枝を貰にくる。これ程ささいなことはなけれとも、それも聞がよい。ことによると、それ迠をれにきかずとよいと親は云が、万端親に聞て指圖を受てする。是方からどふかふとすることはない。いつも云、是か成難ことではない。成難ことでないが垩人の道の尊ひこと。一ち々々親に聞てすると云は誰もなることが、垩人の道の平常な処なり。
【解説】
「司馬温公曰、凡諸卑幼、事無大小、毋得專行。必咨稟於家長」の説明。孝行は心ですることだが、それは事に出なければ届かない。平生から親を重んじ、何でも親の指図を受ける。それは誰にでもできることであり、これが聖人の道の尊いところである。
【通釈】
これからは父子の親である。父子の親は親に孝行をすることで、親に孝は心ですることだが、事を立てなければ孝行が届かない。この章などが始めにあるのが粗いことの様に思えるが、一番大事なこと。孝子は誠の心が深い。しかし、誠の心が深くても、平生親を重んずるのでなくては孝が届かない。さて家内のことになっては瑣細なことまで子供たるべき者は自由にしないのがよい。たとえば隣から柳の枝を貰いに来る。これほど瑣細なことはないが、それも聞くのがよい。事によると、それまでは俺に聞かなくてもよいと親が言うが、万端親に聞いて指図を受けてする。自分からどうこうとすることはない。いつも言う、これが成り難いことではない。成り難いことではないというのが聖人の道の尊いこと。一々親に聞いてするのは誰にもできることで、これが聖人の道の平常な処である。

○嚴君は孔子の彖傳、家人の卦へ仰られた語ぞ。そこて家内打寄て睦いことなるに、嚴君と云立羽な字を繋られた。きびしい君と云ことなり。きびしい君とは殿中や主の前へ出たことのやふに思ふがそうでない、家の内にある父母之謂なりと、子共へかぶせて云字なり。母は子をなめたりくうたりするものなれとも、其母迠殿様あしらいにする。吾親と云ものは食ひかけたものも、是を食はぬかと云もの。其親をとっつかまへて嚴君と云が、圣人か万世へ治めやうをしめしたことなり。○安んそからは司馬温公が孔子のことをとっつかまへて云たもの。嚴君はきびしいこわい君と云こと。すれば家の内に天子や諸矦の様なものがある。それを心安だてをせう様はない筈。子か親に不敬なも、本とあまへの長じたのなり。わるくすると逆かにちをする子もある。それは嚴君と云ふことを知らぬゆへなり。○直情は思侭にすること。あたりにかまわず人もないやふにする。○顧は、此はどうかと二の足をふんで用心することなれとも、不顧でそれがない。そこて我侭になる。親を嚴君と思へばそうする筈はない。
【解説】
易曰、家人有嚴君焉、父母之謂也。安有嚴君在上、而其下敢直情、自恣不顧者乎」の説明。「厳君」は父母を指す。子が厳君を知らないから不敬をして我侭をする。
【通釈】
「厳君」は孔子の彖伝で、家人の卦で仰せられた語である。家内打ち寄って睦まじいことなのに、厳君という立派な字を繋けられた。厳しい君ということ。厳しい君とは殿中や主の前に出る様に思うが、そうではなく、家の内にある「父母之謂」だと、子供に被せて言う字である。母は子を嘗めたり食ったりするものだが、その母までを殿様あしらいにする。親というものは食い掛けのものも、これを食わないかと言うもの。その親をとっ掴まえて厳君と言うのが、聖人が万世へ治め方を示したもの。「安」からは、司馬温公が孔子のことをとっ掴まえて言ったもの。厳君は厳しい恐い君ということ。それなら家の内に天子や諸侯の様なものがいるのと同じで、それに心安立てをする筈はない。子が親に不敬なのも、本は甘えが長じたのである。悪くすると逆捩じをする子もいる。それは厳君ということを知らないからである。「直情」は思いのままにすること。辺りに構わず人もない様にする。「顧」は、これはどうかと二の足を踏んで用心することだが、不顧なのでそれがない。そこで我侭になる。親を厳君と思えばそうする筈はない。
【語釈】
・嚴君…易経家人彖伝。「家人有嚴君焉、父母之謂也」。

○家長は親でなくても叔父もあれば兄もある。何でも其家の主になるものがあるとそれにきく。是等も司馬温公の家を治る釘をよくしめられたことなり。○號令は家内のふれなかし。これも家の主たるべき者が云はぬとわるい。○家政は、天下ははばひろく政と云、家にもさま々々なことがあるゆへ家政と云。どこ迠も主人の量簡を立てぬくでなければならぬ。せう々々わるくてもとをるもの。家内夛く皆が云とはてしもなくなる。肴を一疋貰てもこちではにろと云、あちでは焼と云ひ、そうすると又さし身がよいと云。料理人が肴を一疋もってあちこちとうろたへてあるく。如此一介のことすらこれなるに、まして部立た家政は尚更のことなり。偖、爰か何れにも、父子の親に出て居ても孝行らしいこともないが、是で家内がしっとりとなる。家内のしっとりとしたと云ほどよいことはない。親類へちと得御意たいと手紙がくると、日比家内のしっとりとないのはまたいつものであろうと云。このやふなはやうないことぞ。亭主たるものを敬ふと家が治まる。家か治ってわるいことがなければ、親の苦労をすることもない。
【解説】
雖非父母、當時爲家長者亦當咨禀而行之、則號令出於一人、家政可得而治矣」の説明。家長の指示に従う。家長が指示をせず、色々な者が勝手に指示をしてはまとまりがなくなって悪い。亭主たる者を敬うと家が治まる。家が治まれば親に苦労はない。
【通釈】
家長は親でなくても叔父もあれば兄もある。何でもその家の主になる者があるとそれに聞く。これらも司馬温公が家を治める釘をよく締められたもの。「号令」は家内の触れ流し。これも家の主たるべき者が言わなければ悪い。「家政」。天下では幅広く政と言うが、家にも様々なことがあるので家政と言う。何処までも主人の了簡を立て貫かなければならない。それで少々悪くても通る。家内の皆が色々なことを言うと果てしもなくなる。魚を一匹貰ってもこちらでは煮ろと言い、あちらでは焼けと言う。そうするとまた刺身がよいと言う。料理人が魚を一匹貰ってあちこちと狼狽えて歩く。この様な一介のことでもこうなるのに、まして部立った家政では尚更のこと。さて何れにしても、これが父子の親に出ていても孝行らしいこともないが、これで家内がしっとりとなる。家内がしっとりとするというほどよいことはない。親類から一寸御意を得たいと手紙が来ると、それが日頃家内がしっとりとしない者からのものであれば、またいつものことだろうと言う。この様なことはよくない。亭主たる者を敬うと家が治まる。家が治まって悪いことがなければ、親が苦労をすることもない。


嘉言16
○凡子受父母之命、必籍記而佩之、時省而速行之、事畢則返命焉。或所命有不可行者、則和色柔聲、具是非・利害而白之、待父母之許、然後改之。若不許、苟於事無大害者亦當曲從。若以父母之命爲非、而直行己志、雖所執皆是、猶爲不順之子。况未必是乎。
【読み】
○凡そ子、父母の命を受けては、必ず籍に記して之を佩び、時に省みて速かに之を行い、事畢れば則ち命を返ず。或は命ずる所行う可からざる者有れば、則ち色を和し聲を柔かにし、是非・利害を具にして之を白[もう]し、父母の許すを待ちて、然して後に之を改む。許さざるが若きは、苟も事に於て大なる害無き者は亦當に曲從すべし。父母の命を以て非と爲して、直に己の志を行うが若きは、執る所皆是なりと雖も、猶不順の子と爲す。况や未だ必ずしも是ならざるをや。

○凡子受父母之命云々。内篇に搢笏と云がこれなり。父母に云付られたことをちょっ々々々と頭付をして置て、用事を仕舞と点をかける。○返命と云が親を安堵させることぞ。ととこをらぬことでも、それを聞せぬととうかと思ふ。そこで返命なり。○或所命云々。親は十人が十人皆知惠のある親計はないもの。知惠のない親がある。そこで了簡違で悪ひことを云付るもある。わるいことはされぬゆへ、○和色云々。是がいつも子たる者の御定で、内篇にも度々あったぞ。いつとてもこれなり。○爰に利害と云字があるが甚た面白。利害などと云ことは垩学の峻ひことを吟味するときはないことなれとも、親や兄をつかまへては至極よいことで悪くはない。是非の義理なりにするが学者の精神なれとも、父子の間は利害を云で開ける。董仲舒の正其誼不謀其利は是非の方のつきぬけること。これはすると井ことぞ。孟子の未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也は、ちと利害の咄をもされたことなり。梁惠王が素人ゆへ、あのように云て聞せぬと胷に落ぬ。たとへば親が此暮にあの金を横に子ろと云た時、それはいかかと直に是非を云て、さて此暮にかへさぬと何ぞのとき不自由、御ためにあしいと云が利害なり。父子の間も利害を云てにっとりとなる。是非の次に利害と云やわらかなものを云がよい。文按に、具是非利害は詳々諄々の意を以て云ふ。そこで、そんならをれが此中云付たのはわるかったと云。そうして改めるなり。
【解説】
「凡子受父母之命、必籍記而佩之、時省而速行之、事畢則返命焉。或所命有不可行者、則和色柔聲、具是非・利害而白之、待父母之許、然後改之」の説明。返命するのがよい。それで親が安堵する。ここに「利害」とあり、利害は学者が言うべきことではないが、父子の間ではこれでにっとりとなる。
【通釈】
「凡子受父母之命云々」。内篇に搢笏のことがあるのがこれ。父母に言い付けられたことを一寸走り書きして置いて、用事を終えると点を掛ける。「返命」が親を安堵させること。瑣細なことでも、それを聞かせないとどうしたのかと思う。そこで返命をする。「或所命云々」。親は十人が十人皆知恵のある親ばかりではないもの。知恵のない親がある。そこで、了簡違いで悪いことを言い付けることもある。悪いことはできないので、「和色云々」。これがいつも子たる者の御定まりで、内篇にも度々あった。いつもこれである。ここに「利害」という字があるのが甚だ面白い。利害などということは聖学で峻いことを吟味する時はないことだが、親や兄を掴まえては至極よいことで悪いことではない。是非と義理の通りにするのが学者の魂だが、父子の間は利害を言うので開ける。董仲舒の「正其誼、不謀其利」は是非の方の突き抜けること。これは鋭いこと。孟子の「未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也」は、一寸利害の話をもされたこと。梁恵王が素人なので、あの様に言って聞かせないと胸に落ちない。たとえば親がこの暮にあの金を横に寝ろと言った時、それはいかがかと直ぐに是非を言い、さてこの暮に返さないと何かの時に不自由、御ためにならないと言うのが利害である。父子の間も利害を言ってにっとりとなる。是非の次に利害という柔らかなものを言うのがよい。文が按ずるには、「具是非利害」は詳々諄々の意で言う。そこで、それなら俺がこの間言い付けたのは悪かったと言う。そうして改める。
【語釈】
・搢笏…小学内篇明倫1。「搢笏、搢猶扱也。扱笏於紳。笏、所以記事也」。
・正其誼不謀其利…小学外篇嘉言56。「董仲舒曰、仁人者正其誼、不謀其利。明其道、不計其功」。
・未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也…孟子梁恵王章句上1の語。
・横に子ろ…借財を返さない。借りたものも返さずに居直る。
・文…林潜斎。初め花澤文二と称す。名は秀直。東金市堀上の人。丸亀藩儒臣。文化14年(1817)5月6日没。年68。稲葉黙斎門下。

でもまた中かに情の剛ひがんはりをやぢがあって、いくら是非利害を云ても合点せぬ。その時はよくはなけれとも、さのみわるいことでもなければ、○當曲従がまげることなり。まげると云は儒者の禁物なことなれとも、親のこと故まげる。孝子は工みに変ずる意じゃと迂斎云へり。親には四角四面なことをするが禁物でも、それでは太極の方がすまぬと云。その時且く太極を頼む。親への孝行ゆへちとまける。○為不順之子は親に従ぬ子なれば、よいぐるみに親に従ぬと云がわるい。逆様に流れる水のやふなもの。親のわるいをわるいと諌めるが理なれとも、親に順ぬと云になれば、理もこうすれば非の一倍なり。迂斎の、順の字が孝行のさなごと云へり。順は唐辛子の辛く沙糖の甘ひ様なもの。不順と云が、いくら理を云をふとわるいことぞ。舜などは父母に順と云ふこと斗り心がけてをられた。まして吾方がよくなくて聞ぬはもっての外のこと。わるくすると况未必是乎の連衆がををい。をらか親父にはこまると云が、やっはり親の方がよいのがあるぞ。
【解説】
「若不許、苟於事無大害者亦當曲從。若以父母之命爲非、而直行己志、雖所執皆是、猶爲不順之子。况未必是乎」の説明。是非利害を言っても親が聞かないのであれば、子はそれを曲げて親に従う。ここで理を通しては、理も嵩じれば非の一倍となる。ましてや、親の方が正しいこともある。
【通釈】
でもまた中には情強な頑張り親父がいて、いくら是非利害を言っても合点しない。その時はよくないことだが、それほど悪いことでなければ従う。「当曲従」は曲げること。曲げるというのは儒者の禁物だが、親のことなので曲げる。孝子功変の意だと迂斎が言った。親に四角四面なことをするのは禁物だが、それでは太極の方が済まない。その時は暫く太極に頼む。親への孝行なので少し曲げる。「為不順之子」は親に順わない子は、よいことを包めて悪い。それは逆様に流れる水の様なもの。親の悪いところを悪いと諌めるが理だが、親に順わないのでは、理も嵩じれば非の一倍である。迂斎が、順の字が孝行の核子だと言った。順は唐辛子が辛く砂糖が甘い様なもの。不順では、いくら理を言ったとしても悪い。舜などは父母に順うことばかりを心掛けておられた。まして自分がよくなくて聞かないのは以の外のこと。悪くすると「况未必是乎」の連衆が多い。俺の親父には困ると言うが、やはり親の方がよいということがある。
【語釈】
・孝子は工みに変ずる…大戴礼記。「孝子唯巧變、故父母安之」。


嘉言17
○横渠先生曰、舜之事親有不悦者、爲父頑母嚚、不近人情。若中人之性、其愛惡、若無害理、必姑順之。若親之故舊所喜、當極力招致。賓客之奉當極力營辨。努以悦親爲事、不可計家之有無。然又須使之、不知其勉強勞苦。苟使見其爲而不易、則亦不安矣。
【読み】
○横渠先生曰く、舜の親に事えて悦ばれざる有るは、父頑に母嚚に、人情に近からざるが爲なり。中人の性の若き、其の愛惡、理を害すること無きが若きは、必ず姑く之に順え。親の故舊、喜ぶ所の若きは、當に力を極めて招き致すべし。賓客の奉は當に力を極めて營み辨ずべし。努めて親を悦ばすを以て事と爲し、家の有無を計る可からず。然るに又須く之をして、其の勉強勞苦するを知らざらしむべし。苟も其の爲して易からざるを見せしめば、則ち亦安んぜず。

○横渠先生曰云々。者と云字がきめて云ことなり。ものへあたりて云ふ字。○有不悦者か、者の字がないとゆるい。舜にありそもないものがある。それへ理屈を云とき書く字なり。證文に金の下へ者と云字を書くは、あとでそのことを云をふとてのこと。○父頑母嚚。此通りの病気をもったぞ。古今ない親なり。人の持たなりを人情と云。親が子ともほど可愛ものはないと云。誰れも彼れもそれでめつらしからぬことゆへ人情と云が、舜の親斗りは子のかはいいを知ず。鼠を取らぬ猫のやふなもの。鼠のきらいな猫はあるまい。舜の親の様なはどうさがしてもないから、不近人情と云ふ。其様なはあげてをくがよい。
【解説】
「横渠先生曰、舜之事親有不悦者、爲父頑母嚚、不近人情」の説明。人の通情を人情と言うが、舜の親にはそれがなかった。
【通釈】
「横渠先生曰云々」。「者」という字が決めて言ったことで、ものへ当てて言う字である。「有不悦者」が、者の字がないと緩くなる。舜にありそうもないものがある。理屈を言う時に書く字である。証文に金の下へ者という字を書くのは、後でそのことを言おうとしてのこと。「父頑母嚚」。この通りの病気を持った。古今ない親である。人の持った通りのことを「人情」と言う。親が子供ほど可愛いものはないと言う。誰も彼もそれが珍しいことではないので人情と言うが、舜の親だけは子が可愛いことを知らない。それは鼠を捕らない猫の様なもの。鼠の嫌いな猫はいないだろう。舜の親の様な者は何処を探してもいないから、「不近人情」と言う。その様な者は別にして置くのがよい。
【語釈】
・父頑母嚚…書経堯典。「瞽子、父頑、母嚚、象傲」。

○若中人之性云々。五郎兵衛も六兵衛もしりたこと。そなたは子は可愛かと云と、子の可愛くないものがあるものか、しれたことと云。どの様な六ヶしい親父と云ても、大概中分なものは、道の十分にはあらず、小々理にはづれたることにても直に禍もこ子ば、公義からとがのくることもなけれは、まづそれなりにする。論吾や孟子の規矩にはあはぬが、阡陌長[なぬし]へ預けることもない。順ふがよい。兎角この病痛が学者にある。斈問して明になると非がみへる。非をみると仁のあたたまりがなくなる。心にあてではないと思ふとどことなくざっとする。そこで親の気に入ぬ。何でも土臺が順ふと云がよい。
【解説】
「若中人之性、其愛惡、若無害理、必姑順之」の説明。学問をして明になると、人の非が見えて来るものだが、中人の親であれば、少々理外なことであってもそれに順うべきである。
【通釈】
「若中人之性云々」。これは五郎兵衛も六兵衛も知っていること。御前は子が可愛いかと聞くと、子の可愛くない者がいるものか、知れたことだと言う。どの様な難しい親父でも、大概中分な者であれば、道が十分でなくても、少々理に外れることがあっても、直ぐに禍も来なく、公儀から咎の来ることもなければ、先ずはそれなりにする。論語や孟子の規矩には合わないが、名主へ預けることでもない。それなら順うのがよい。とかくこの病痛が学者にある。学問をして明になると非が見える。非を見ると仁の温まりがなくなる。心でああではないと思えば何処となく粗忽になる。そこで親を気に入らなくなる。何でも土台は順うというのがよい。

○若親之故旧云々。事を出したが親切。昔からのなじみを年寄はよろこぶもの。そこて人をやとふてもよびにやりて力一盃を尽し、何でも手のまわるやうにするがよい。寐るやふにふとんを出し、腰をさするやうに人を出してをく。これも親切なと云処からでなければならぬ。老人を介抱するも親の悦ぶ為めなり。さて務てとは、それを役にしてをる。七つから起て鍛治屋がたたく。是が鍛治屋のしょうばい。人の子たる者は親を悦すがしょうばい。人の隱居をなぜ其様にする、世話にもなるまいと云。いや自己の隱居を悦せてくれると云。親のことになると飢饉年と云ても挌外なことをする。ここらへ孝子愛日の風樹之嘆と云て入れると務と云に精彩がつく。今日の利口やけた者が分限々々と云ふ。親に孝行もよいが、分限相應にするがよいと云。それはあとから云ことなり。
【解説】
「若親之故舊所喜、當極力招致。賓客之奉當極力營辨。努以悦親爲事、不可計家之有無」の説明。年寄りは昔馴染みを悦ぶもの。そこで故旧を招く。子は親を悦ばせるのが商売であり、それは分限を考えてするものではない。
【通釈】
「若親之故旧云々」。事を出したのが親切である。昔馴染みを年寄りは悦ぶもの。そこで人を雇ってでも呼びに遣って力一杯を尽くし、何でも手の回る様にするのがよい。寝る様に布団を出し、腰を摩る様に人を出して置く。これも親切という処からでなければならない。老人を介抱するのも親が悦ぶからする。さて「務」は、それを役にするということ。七つから起きて鍛冶屋が叩く。これが鍛冶屋の商売。人の子たる者は親を悦ばすのが商売。人の隠居を何故その様にするのか、世話になったこともないだろうと言う。いや自分の隠居を悦ばせてくれるからだと言う。親のことになると飢饉の年でも格外なことをする。ここらへ「孝子愛日」や「風樹之嘆」を入れると務に精彩が付く。今日の利口焼けた者が分限と言う。親に孝行もよいが、分限相応にするのがよいと言う。それは後から言うこと。
【語釈】
・孝子愛日…揚子法言。「不可得而久者、事親之謂也。孝子愛日」。
・風樹之嘆…韓詩外伝9。「樹慾静而風不止、子慾養而親不待」。

親のことになっては身帯のよいわるいにかまわぬと云が身帯を覆墜[つぶせ]がしのようなもの。親のことにあとさきを見ずにするがよい。廣瀬の飛脚が孝行じゃと云がそうであろう。あれが手紙を一本届けても百銭にはなるまいに、必親へなんぞこふてくる。孝行な者は計らず氣象があるもの。有無をはかれば江戸酒土産にとは出ぬなり。学者の入らざる理屈を云だけ孝行寸方が始から小さくなるなり。まづうっかりとして、有無の分限のと云はあとから気の付がよい。分限々々と云は夛くは不孝ゆへ云ふ。我が人欲には有無ははからぬ。そこで親に孝行が届かぬ。親が何の肴を食ひたいと云へば、それと鯛でも買にやれと云がよい。俗儒が三年の喪をして死だ者がある、喪をつとめると夭をすると云が、それは大な了簡違。誰がほんに喪をするものぞ。丁どそれと同じこと。親のことも天下中に分限の計手がををい。○不可計家之有無と云てよふ々々よい加减になる。そこで無分別ながよい。
【解説】
親のことは後先を見ずにするのがよい。理屈を言うと最初から孝行の寸法が小さくなる。有無や分限は後で考えればよい。
【通釈】
親のことになっては身代のよい悪いに構わないと言うのは、身代を潰せと言う様なもの。親のことは後先を見ずにするのがよい。広瀬の飛脚が孝行だと言うが、その通りだろう。あれが手紙を一本届けても百銭にもならないだろうが、必ず親へ何かを買って来る。孝行な者に計る気象はない。有無を計れば江戸酒を土産にとは出ない。学者が要らない理屈を言うだけ孝行の寸法が始めから小さくなる。先ずはうっかりとして、有無や分限は後から気が付くのがよい。分限と言うのは、多くは不孝だからである。自分の人欲には有無を計らない。そこで親に孝行が届かない。親が何か魚を食いたいと言えば、それ、鯛でも買いに行けと言うのがよい。俗儒が、三年の喪をして死んだ者がいる、喪を勤めると早死をすると言うが、それは大きな了簡違い。誰が本当に喪をするものか。丁度それと同じこと。親のことも天下中には分限の計り手が多い。「不可計家之有無」と言うので、漸くよい加減になる。そこで無分別なのがよい。

○勉強労苦をしらせると親の胸がいっはいになる。東金の市て買ても貰たと云がよい。仁斉もとは材木屋にて冨饒なる者にてあるに、学問出精のため遂に貧究に及び、或時晩食難給継[ゆうめしこめかなくて]、女房が耳語たれば、仁斉何とも云はず、じろりと羽織を見て頥指たれば、女房それを曲衣[しちにをいて]米を買ひけるとなり。さっきの絮衣[わたいれ]此米と云と親の咽へつかへる。○苟使見其為而不易は上をもふ一つ云こと。勉強労苦をして易からぬ。それを見せると親が安ぜぬゆへ見せぬやふにする。
【解説】
「然又須使之、不知其勉強勞苦。苟使見其爲而不易、則亦不安矣」の説明。子は自分の勉強労苦を親に見せてはならない。親がそれを知れば安んじない。
【通釈】
「勉強労苦」を知らせると親の胸が一杯になる。東金の市で買ったとしても貰ったと言うのがよい。仁斎は本は材木屋で富饒な者だったが、学問に出精して遂に貧窮に及び、或る時夕飯の米がなくて、女房がそっとそのことを言うと、仁斎は何も言わずにじろりと羽織を見て頤で指した。女房がそれを質に入れて米を買ったそうである。先ほどの綿入れがこの米だと言えば親の咽が支える。「苟使見其為而不易」は更にもう一度言ったこと。勉強労苦をして大変である。それを見せると親が安んじないので見せない様にする。
【語釈】
・仁斉…伊藤仁斎。京都材木商の長沢屋七右衛門長勝の子として生まれた。1672~1705。


嘉言18
○羅仲素論瞽瞍底豫而天下之爲父子者定云、只爲天下無不是底父母。了翁聞而善之曰、唯如此而後天下之爲父子者定。彼臣弑其君、子弑其父、常始於見其有不是處耳。
【読み】
○羅仲素、瞽瞍豫を底して天下の父子爲る者定まるを論じて云う、只天下に不是底の父母無きが爲なり、と。了翁聞きて之を善しとして曰く、唯此の如くにして而る後に天下の父子爲る者定まる。彼の臣其の君を弑し、子其の父を弑するは、常に其の不是の處有るを見るに始まるのみ、と。

○羅仲素云々。如那な瞽瞍の悪人がころりと成て機嫌がなをりた。それを孟子が御評判で、此以後万々世の後迠親子の間がきまりた。親子の相塲の定たと云ことなり。兎角世の中親子の相塲が定らぬ。そちの親父はよいが、こちのは中々孝行もならぬと云。親の方でもそれで、そちらのやうな子はよいが、こちのはどうも成ぬ奴でこざると云。瞽瞍の様な親でも舜の様な子があれは機嫌はなをる。すれば今瞽瞍の様な親はないゆへ、舜の様な誠でするとたれでも孝子と云。今又親の方もそれなり。世間の親を瞽瞍じゃと云たら定て腹を立て、どのやふなことをして自家[をれか]瞽瞍じゃと云。然れば瞽瞍さへよろこびをすれば、平[つ子]の親じゃから子をかわゆがってやられよと云。親の方も子の方も定る。是等が孟子でなふては頓と人氣の付ぬことぞ。知舜者莫如孟子と云。ただの人の云れぬこと。其れを羅仲素の論じられて、孟子から二番目を云はれたぞ。孟子を主に論じたもの。是をうっかと見るな。
【解説】
「羅仲素論瞽瞍底豫而天下之爲父子者定云」の説明。瞽瞍と舜を出せば親子の相場が決まる。瞽瞍の様な悪い親は何処にもいない。その瞽瞍が舜の孝行で「厎豫」となった。そこで、孝行は誰もができることなのである。
【通釈】
「羅仲素云々」。あの様な悪人の瞽瞍がころりとなって機嫌が直った。それを孟子が誉められて、これ以後の万々世の後までの親子の間が決まった。親子の相場が定まったということ。とかく世の中、親子の相場が定まらない。貴方の親父はよいが、私のは悪くて中々孝行もできないと言う。親の方もそれで、そちらの様な子はよいが、こちらのはどうにもならない奴だと言う。瞽瞍の様な親でも舜の様な子がいれば機嫌は直る。それなら今瞽瞍の様な親はいないから、舜の様な誠ですれば誰でも孝子である。今また親の方もそれ。世間の親を瞽瞍だと言えばきっと腹を立て、どの様なことから俺を瞽瞍だと言うのかと言う。そこで、瞽瞍でさえ悦ぶのだから、普通の親であれば子を可愛がって遣りなさいと言う。親の方も子の方も定まる。これらが孟子でなくては全く人気の付かないこと。「知舜者莫如孟子」と言う。これがただの人では言えないこと。それを羅仲素が論じられて、孟子から二番目を言われた。ここは孟子を主に論じたもの。これをうっかりと見てはならない。
【語釈】
・羅仲素…羅従彦。楊亀山の弟子。仲素の門下に李延平があり、李延平の門から朱子が出た。1073~1135
・瞽瞍さへよろこびをすれば…孟子離婁章句上28。「舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化。瞽瞍厎豫而天下之爲父子者定。此之謂大孝」。
知舜者莫如孟子…

○天下無不是底父母也。是がかたじけないことぞ。わるい親はとんと一人もないと合点するがよい。悪ひ父母と云もあるもの、時にわるいもの御坐ると云。悪ひを知る筈はない。太極から云へば、親のわるいも子のわるいも同じこと。されども親のわるいは子はしらぬと云ほどなことであるはづ。ここが人子の心の骨ずいなり。號泣于旻天は父母の不是をこまったものと泣たことではない。自己しかたかわるかろうが、それがしられぬ、うらめしいと泣たることなり。頓と舜の御了簡を見るに、親をわるいと思ふ様なことは微塵も見へぬぞ。今日の人大率親をわるいと思からぶすかわ々々々々する。わるい親はないと云ことじゃ。羅仲素の如此仰られた。見手はみてなり。
【解説】
「只爲天下無不是底父母」の説明。太極から言えば、親が悪いのも子が悪いのも同じこと。親の悪いところは知らない様にするのがよい。舜が旻天に泣いたのは、自分の仕方が悪いと思ってのことである。
【通釈】
「天下無不是底父母也」。これが忝いこと。悪い親は一人もいないと合点しなさい。悪い父母もいるもの、時には悪い者がいると言うが、悪いことを知る筈はない。太極から言えば、親が悪いのも子が悪いのも同じこと。親の悪いところを子は知らないという筈のこと。ここが人子の心の骨髄である。「號泣于旻天」は父母の不是を困ったものだと泣いたのではない。自分の仕方が悪いのだろうが、それがわからない、恨めしいと泣いたのである。舜の御了簡を見るに、親を悪いと思う様なことは微塵も見えない。今日の人は大率親を悪いと思うから不満を抱く。悪い親はいないということ。羅仲素がこの様に仰せられた。見手は見て取る。
【語釈】
・號泣于旻天…孟子万章章句上1。「萬章問曰、舜往于田、號泣旻天。何爲其號也」。

右之通講釈をきいてすむ。それを陳了翁の聞かれて、成程自家などが目にはそうは見へなんだが感心したと云て、それに付て陳了翁のまた発明なり。よいことをだした。上にわるいことをみせるが面白ひ。不孝不忠の種とて別にはないはづ。どうして乱臣賊子は出来るとたんたへたときに、昨日迠忠臣でひょっと今日君を殺し、昨日迠孝子でひょっと今日親を殺したと云は乱心なり。主弑親殺は急には出来ぬもの。そろ々々と出来る。九月頃の秋冷になったと云とき、ひいやりと霜がふる。それが段々此節に及んでは厚ひ氷になる。そろ々々とゆく。そろ々々とゆくとはどうなれば、漸々目の付く処がある。親を殺も主を殺も平生にあることで、乱の起らぬ前にあることぞ。急になるものではない。五月一隂の兆したが十月極阴になる。親をわるい々々々と思ふ。それがふとって来て殺すやうにもなる。ああはない筈々々々々々々と云が朝夕ゆへ、微塵もつもって山となるなり。急にわるいことが出来るものではない。乱臣賊子もちら々々と不是を見る処から起る。ちょっとでも親に不是があるとみると、乱心賊子の方へ足がよったのなり。
【解説】
「了翁聞而善之曰、唯如此而後天下之爲父子者定。彼臣弑其君、子弑其父、常始於見其有不是處耳」の説明。突然に君や父を殺すのは乱心である。君や父を殺すことになるのは、前々から親を悪いと思っていることの積み重ねからである。不是を見るから乱臣賊子となる。
【通釈】
右の通りに講釈を聞けば済む。それを陳了翁が聞かれて、なるほど私などの目にはそうは見えなかった、感心したと言って、それに付いて陳了翁がまた発明を出した。よいことを出した。始めに悪いことを見せるのが面白い。不孝不忠の種が別にある筈はない。どうして乱臣賊子はできるのかと探題えた時に、昨日まで忠臣だったが急に今日君を殺し、昨日まで孝子だったが急に今日親を殺したというのは乱心である。主弑親殺は急にはできないもので、そろそろとできる。九月頃の秋冷になったという時、ひんやりと霜が降る。それが段々この節に及んで厚い氷になる。そろそろと行く。そろそろと行くとはどういうことかと言うと、漸々で目の付く処がある。親を殺すのも主を殺すのも平生にあることで、乱の起らない前にあること。急に成るものではない。五月一陰が兆したのが十月極陰になる。親を悪いと思う。それが太って来て殺す様にもなる。ああではない筈と思うのが朝夕のことなので、微塵も積もって山となるである。急に悪いことができるものではない。乱臣賊子もちらちらと不是を見る処から起こる。一寸でも親に不是があると見るのは、乱心賊子の方へ足が寄ったのである。
【語釈】
・陳了翁…陳瓘。

爰が僅の様で、いこう道理ののべちちみになることぞ。舜の孝行のあのやふに大なれとも、親の不是をしらぬ処からなり。大悪人は親の不是を見るのこうじたのなり。子たる者の身になって、あれがきこへぬ々々々々と云が親を殺すの本になる。こうきけば、さてそっと胸にこたへをそろしいことなり。是等は俗学者の頓と云ことの得ならぬことぞ。外篇の内にも漢唐の間からの発明ある人の語をのせて面白こともあるが、此様なことは道学を味へたる者でなふては云ことならぬ。嘉言の内でもただの人のは語が甚だ大味て、此様に胸へひびかぬ。漢唐の人も様々なことも云へとも、どうもこうは云はれぬとみへて如此はない。舜の心を知て云はれたが孟子、それを継で楊亀山の弟子の羅仲素か云はれた。陳了翁は程子には御目にかからぬが、何があの宋の世てもまれたものゆへ語の精彩が違ふ。ちらりと不是を見る。それが不孝になり、さて不忠にもなる。ちらりとした処から仁にもなれは、ちらりとした処から不仁にもなるやうなもの。
【解説】
舜の孝行は大きいものだが、それは親の不是を知らない処からのこと。ちらりと不是を見ると、それが不孝不忠になる。また、ちらりとしたところで仁と不仁とに分かれる。
【通釈】
ここが僅かな様で、大層道理の伸び縮みになること。舜の孝行はあの様に大きいものだが、それは親の不是を知らない処からのこと。大悪人は親の不是を見るのが高じたのである。子たる者の身になって、あれが悪い、間違っていると言うのが親を殺す本になる。こう聞けば、さてぞっと胸に応えて恐ろしいこと。これらは俗学者では全く言うことのできないこと。外篇の中にも漢唐の間から発明のある人の語を載せて面白いこともあるが、この様なことは道学を味わった者でなくては言えないこと。嘉言の内でもただの人のは語が甚だ大味で、この様には胸に響かない。漢唐の人も様々なことも言うが、どうもこうは言えないものと見えてこの様ではない。舜の心を知って言われたのが孟子、それを継いで楊亀山の弟子の羅仲素が言われた。陳了翁は程子には御目に掛からなかった、どうもあの宋の世で揉まれた者なので語の精彩が違う。ちらりと不是を見る。それが不孝になり、さて不忠にもなる。これが、ちらりとした処から仁にもなれは、ちらりとした処から不仁にもなる様なもの。


嘉言19
○伊川先生曰、病臥於床、委之庸醫、比之不慈不孝。事親者、亦不可不知醫。
【読み】
○伊川先生曰く、病みて床に臥し、之を庸醫に委するは、之を不慈不孝に比す。親に事うる者、亦醫を知らざる可からず。

○伊川先生曰云々。孔子も子之所慎斉戦疾とあって、疾は殊外大切に御取あつかわれた。どうでも此体はよいなどと云は隱者めいたことなり。父母唯其病之憂と云語もあって、親が何もかも子のことは憂ると云うちに、一ちに病気を苦労にするもの。息才と云なれば親の心はいかりををろしてをく。そこで吾が体を大事にするが垩人の思召あることで、病を慎が孝行の本となるゆへなり。孝子は親の心にしてをるゆへ病を麁末にすることは頓とない。それじゃから父母の病と云になっては、大切と云にこの上へもないことなり。親の病気はさま々々介抱をする。冠者不櫛行不翔と云ても、預けてをく医者がわるくてはならぬ。
【解説】
親は子の病気を一番の苦労にする。孝子は親の心の通りをするから病に気を付ける。ましてや親が病気の時は様々な介抱をする。
【通釈】
「伊川先生曰云々」。孔子も「子之所慎斉戦疾」と言い、疾は殊の外大切に取り扱われた。この体はどうでもよいなどと言うのは隠者めいたこと。「父母唯其疾之憂」という語もあり、親は子の何もかもを憂うるが、一番に病気を苦労にするもの。息災であれば親の心は碇を下ろす。そこで自分の体を大事にするというのが聖人の思し召しのあることで、病を慎むのが孝行の本となる。孝子は親の心の通りにするものなので病を粗末にすることは全くない。そこで、父母が病んだ時は、この上もなく大事なこと。親が病気だと様々な介抱をする。「冠者不櫛行不翔」と言っても、預けて置く医者が悪くては何もならない。
【語釈】
・子之所慎斉戦疾…論語述而12。「子之所愼、齊・戰・疾」。
・父母唯其病之憂…論語為政6。「孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂」。
・冠者不櫛行不翔…小学内篇明倫24。「父母有疾冠者不櫛、行不翔」。

○庸医は世間なみの医者なり。小斈に医のこと、医不三世とここと二つなり。くわしく云へばどの位と程の云はれぬことなれども、三世と云は麁末にない医者と云ことなり。又ここの庸の字を一口に云へば、理にくらひとみるがよい。医術の仕入仕込のないと云は危殆ことなり。そこでよく医者の吟味をするがよい。医術を知る時は手易なることではないが、医者を吟味してよいわるいを知がよい。繪の目利をする様なもの。我畵くことがならずとも、探幽は挌別ちがったもの抔と云やうに、医の目利も心掛ればなること。春秋に許世子を殺父とかいたは薬ちがいで親をころした。医者の不吟味などが子の罪になる。
【解説】
「庸医」は世間並みの医者で、理に暗い人。医者を吟味しなければならない。医者を吟味しないと親を殺すことにもなる。それは子の罪である。
【通釈】
「庸医」は世間並みの医者。医のことは、小学では「医不三世」とここの二つだけである。詳しく言うとどの位のことだとは言えないが、三世は粗末でない医者のこと。また、ここの庸の字を一口に言えば、理に暗いことだと見るのがよい。医術の仕入れ仕込みがないというのは危殆なこと。そこでよく医者の吟味をしなければならない。医術を知るのは手易くできることではないが、医者を吟味してよい悪いを知りなさい。それは絵の目利きをする様なもの。自分では描くことができなくても、探幽は格別違ったものだなどと言う様に、医の目利きも心掛ければできること。春秋に許世子を殺父と書いたのは薬違いで親を殺したからである。医者を吟味しないのが子の罪になる。
【語釈】
・医不三世…小学内篇明倫25。「醫不三世不服其藥」。
・許世子を殺父…春秋左氏伝昭公。「經十有九年、春、宋公伐邾。夏、五月、戊辰。許世子止弑其君買」。


嘉言20
○横渠先生嘗曰、事親奉祭、豈可使人爲之。
【読み】
○横渠先生嘗て曰く、親に事え祭を奉ずる、豈人をして之を爲さしむ可けんや。

○横渠先生曰云々。兎角誠を重にすることでなければならぬ。○事親もわざに落てしまふと、親に事へさへすれば帳は消してしまうが孝行にはならぬ。不自由にないよふにすると親も孝行じゃとよろこぶか、家来をつけて置て金銭ですることは吾がせずとも他人てなるが、根本[たたい]事親はそうしたものではない。文王や武王周公は、あの重い御身分で自身になされたと云が孝行のさなごの処。手前が自身にするでなければ孝行も孝子とも云はれぬことなり。
【解説】
「事親」は自らがしなければならない。そうでなければ孝とは言えない。
【通釈】
「横渠先生曰云々」。とかく誠を重んじなければならない。「事親」も事に落としてしまうと、親に事えさえすれば帳消しにはなるが、孝行にはならない。不自由でない様にすると親も孝行な子だと悦び、家来を付けて置いて金銭ですることは自分がせずに他人でできることだが、そもそも事親はそうしたものではない。文王や武王・周公が、あの重い御身分でありながら自分でなされたというのが孝行の核子の処。自分でするのでなければ孝行とも孝子とも言えない。

○祭もそれぞ。豈と云字が心にたたりて云たもの。心からぞく々々してする筈。名代でするやうなことがなにしにあろふぞ。ここが孝行の事を心へ引つける章なり。親の病氣の介抱を名代でし、祭も名代でして、をれが自身にせずともよいと云。それでは事親も奉祭もくやくになる。それでも事はすむであろうが、心がすむまい。孔子も吾不與祭如不祭と云はれて、祭の御前でならぬ時はあって、公用もあり、病気もありて、子や孫ですんだこともあるが、とんと祭はせぬ氣なり。くやくでせぬことぞ。くやくですることが向へひひく筈はない。垩賢君子の心は凡夫の人欲をかわかすと同じこと。人欲に名代は出さぬ。をれが名代に色を好めと云はぬ。人に酒をのませてこちの寒ふせくことはない。垩賢は、親に事ることや祭をすることに人になさせることはない。今日歴々家人が大勢ゆへ手はまわるが心が届かぬ。名代ですることは、兎角は誠は届かぬことと合点するがよい。
【解説】
親に事えるのも祭をするのも名代でするものではない。名代でするのは公役と同じである。公役では向こうへ響かない。
【通釈】
祭もそれ。「豈」という字が心に祟って言ったもの。心からぞくぞくしてする筈。名代でする様なことがどうしてあるものか。ここは孝行の事を心へ引き付ける章である。親の病気の介抱を名代でして、祭も名代でして、自分自身でしなくてもよいと言う。それでは事親も奉祭も公役になる。それでも事は済むだろうが、心が済まないだろう。孔子も「吾不与祭如不祭」と言われた。祭に出られない時があり、公用もあり、病気もあり、子や孫で済ますこともあるが、それでは祭を全くしなかった気になる。公役でしてはならない。公役ですることが向こうへ響く筈はない。聖賢君子の心は凡夫の人欲を出すのと同じ。人欲に名代は出さない。俺の名代になって色を好めとは言わない。人に酒を飲ませて自分の寒を防ぐということはない。聖賢が、事親や祭を人にさせることはない。今日の歴々は家人が大勢なので手は回るが心が届かない。名代ですることは、とかく誠が届かないものだと合点しなさい。
【語釈】
・吾不與祭如不祭…論語八佾12。「祭如在。祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭」。


嘉言21
○伊川先生曰、冠昏喪祭禮之大者、今人都不理會。豺獺皆知報本。今士大夫家多忽此、厚於奉養而薄於先祖、甚不可也。某嘗脩六禮大略。六禮、冠・昏・喪・祭・郷飮酒・士相見。家必有廟、古者庶人祭於寢、士大夫祭於廟。庶人無廟、可立影堂。廟必有主。高祖以上、即當祧也。又云、今人以影祭。或一髭髪不相似、則所祭已是別人。大不便。月朔必薦新。如仲春薦含桃之類。時祭用仲月。物成也。古者天子諸侯於孟月者、爲首時也。時祭之外更有三祭。冬至祭始祖、冬至、陽之始也。始祖、厥初生民之祖也。無主、於廟中正位設一位、合考姒享之。立春祭先祖、先祖、初祖以下高祖以上之祖也。立春、生物之始。故象其類而祭之。季秋祭禰。季秋、成物之始。亦象其類而祭之。忌日遷主祭於正寢。凡事死之禮、當厚於奉生者。人家能存得此等事數件、雖幼者可使漸知禮義。
【読み】
○伊川先生曰く、冠昏喪祭は禮の大なる者なるに、今人都て理會せず。豺獺[さいだつ]も皆本を報ずるを知る。今士大夫の家多く此を忽にし、奉養に厚くして先祖に薄くするは、甚だ不可なり。某嘗て六禮の大略を脩む。六禮は、冠・昏・喪・祭・郷飮酒・士相見。家に必ず廟有り、古は庶人寢に祭り、士大夫廟に祭る。庶人廟無ければ、影堂を立つ可し。廟に必ず主有り。高祖以上、即ち當に祧すべし。又云う、今人影を以て祭る。或は一髭髪相似せざれば、則ち祭る所已に是れ別人。大いに便ならず、と。月朔は必ず新を薦む。仲春に含桃を薦むの類の如し。時祭は仲月を用う。物成ればなり。古は、天子諸侯孟月に於てするは、首時爲ればなり。時祭の外更に三祭有り。冬至に始祖を祭り、冬至は陽の始なり。始祖は厥の初生民の祖なり。主無ければ、廟中の正位に於て一位を設け、考姒を合して之を享る。立春に先祖を祭り、先祖は初祖以下高祖以上の祖なり。立春は物を生ずるの始。故に其の類に象りて之を祭る。季秋に禰を祭れ。季秋は物の成るの始。亦其の類に象りて之を祭る。忌日に主を遷して正寢に祭る。凡そ死に事うるの禮、當に生に奉ずる者より厚くすべし。人家能く此れ等の事數件を存し得ば、幼者と雖も漸く禮義を知らしむ可し。

○伊川先生曰冠昏云々は、礼の中で一ち重いことなり。礼は三千三百の数ををいことなれとも、冠昏喪祭がををつなになる。綱は大つなあって万目がある。人間もこの大な処に礼があって、それからさま々々な細な礼をする。是がないと小笠原になってしまう。此四つをばかかれぬものなれとも、垩人の世をさったものゆへ誰も合点してをるものがない。是迠冠昏喪祭と惣体を云。○豺獺云々からは祭のこと計りかかって云。禽獸は無智なものなれとも、人間に先祖を祭ると云ことがある。それをあれがあやかりて此様なことあるなり。烏に孝行のあると云も、人間に孝と云ことのあるが烏の反哺へうつりたもの。一理ゆへ人間にあることが豺獺にのりてをる。理が一ゆへ一線路の明をうけてそのやうなことがあるなり。前に今人都て不理會とひろく後世の人と云て、あとで今士大夫の家と云が面白ひ。御人抦にも似合ぬなり。ここで日雇取と云へば其も尤なと云になる。
【解説】
「伊川先生曰、冠昏喪祭禮之大者、今人都不理會。豺獺皆知報本」の説明。礼は冠昏喪祭が大綱になる。禽獣は無知なものだが、それでも人に肖って祭をする。それは理一だからである。
【通釈】
「伊川先生曰冠昏云々」。これが礼の中で一番重いこと。礼は三千三百の数多いことだが、冠昏喪祭が大綱になる。綱は大綱があって万目がある。人間もこの大きな処に礼があって、それから様々な細かな礼をする。これがないと小笠原になってしまう。この四つは欠かせないものだが、聖人が世を去ってしまったので、これを合点している者は誰もいない。これまでは冠昏喪祭の総体を言ったものだが、「豺獺云々」からは祭のことだけに掛けて言う。禽獣は無知なものだが、人間に先祖を祭るということがあり、それをあれが肖ってこの様なことをする。烏に孝行があると言うのも、人間に孝ということのあるのが烏の反哺へと移ったもの。一理なので人間にあることが豺獺にも乗る。理が一なので一線路の明を受けてその様なことがある。前に「今人都不理会」と広く後世の人と言い、後で「今士大夫家」と言うのが面白い。御人柄にも似合わないということ。ここで日雇取りと言えばそれも尤もだということになる。
【語釈】
・豺獺…礼記上月令。「季秋之月…豺乃祭獸戮禽」。「孟春之月…獺祭魚」。
・烏の反哺…梁武帝。孝思賦。「慈烏反哺以報親」。

○自分の身を奉羪はする。普請も立派にするが祠堂は建ぬ。自己僅か平の塩梅わるふても好事を云が、先祖のことには何にもかまはぬ。此は沙汰の限りなことで、わるいに此上はない。そこで伊川先生が脩六礼大略なり。今二程全書にあらまし出してあり、あれを読でみるとしれる。祭を主に説たもの。必々と云は略されぬことを云字。なくてすむことはいくら手がまわろふともせぬ。なくてならぬことはいくら手がまわらずともする。せずともすむことがある。無用なものがある。それを唐の文字で長物とも云。そのやうな栄曜道具はなくてもすむ。なくてならぬものは、いかほど身代がせつなくいそがしくてもせ子ばならぬ。
【解説】
「今士大夫家多忽此、厚於奉養而薄於先祖、甚不可也。某嘗脩六禮大略。六禮、冠・昏・喪・祭・郷飮酒・士相見」の説明。人は自分の身をよくすることには熱心だが、先祖のことは何も構わない。しなければならないことはどうしてもしなければならない。
【通釈】
自分の身は奉養し、普請も立派にするが祠堂は建てない。自分は料理の塩梅が悪いだけでも文句を言うのに、先祖のことは何も構わない。これは沙汰の限りのことで、これ以上悪いことはない。そこで伊川先生が「修六礼大略」と言った。今二程全書にあらまし出してあり、あれを読んで見るとわかる。祭を主に説いたもの。「必」というのは略せないことで使う字。なくても済むことはいくら手が回ろうともしない。なくてはならないことはいくら手が回らなくてもする。しなくても済むことがある。無用なものがある。それを唐の文字で長物とも言う。その様な栄耀道具はなくても済む。なくてはならないものは、どれほど身代が切なくて忙しくてもしなければならない。

女房や子を居く家は誰が建て居かせると云に先祖なり。女房や子を置く部屋はありて先祖の部屋がなふてはつまらぬことぞ。どんなことでも此を一ち先きにしてをか子ばならぬ。礼記の語を家礼に引てある。君子將営宮室必先立祠堂の先の字が此必の字と同じこと。先祖の廟からさきに拵へれとも、礼の明な時でも百姓町人には宗庿はない。そこて坐鋪で祭るとある。ここは伊川の当時のなりて云たもの。伊川の時は天下一統に礼がないゆへ神主はない。祖父や父の顔をかいてをく。そこで影堂と云。その御定の影堂を建るがよい。浅見先生があの礼を守る人なれとも、文字の筋をしられたゆへ、これを持佛堂と思へと譯された。持佛堂のない家はない。日雇取の内もある。然れとも、伊川の意は俗礼をしろと云意ではない。分に古之制にこしらへることをせぬなり。意さへ合点すればよいと云こと。影堂ですむと云こと。凡そ礼を説は、垩人の本意を合点して、今日へなるよふにするがよい。本意を合点してもあわぬことはわるい。直方先生云ふかまほこがそれで、古のことも六ヶ敷ことなり。今なるよふにすると、そんならなると云。ならせることでなければ礼は頓とならぬ。
【解説】
「家必有廟、古者庶人祭於寢、士大夫祭於廟。庶人無廟、可立影堂」の説明。自分の住む家は先祖が建てたもの。そこで、先ず先祖の部屋を作る。しかし、百姓や町人には宗廟がないので影堂を立てる。影堂は持仏堂の様なもの。聖人の本意を合点して、古通りでなくても今日にできる様にするのがよい。
【通釈】
女房や子を居く家は誰が建てたのかと言えば先祖である。女房や子を置く部屋はあっても先祖の部屋がなくては詰まらない。どんなことでもこれを真っ先にして置かなければならない。礼記の語を家礼に引いてある。「君子将营宮室必先立祠堂」の先の字がこの必の字と同じこと。先祖の廟から先に拵えるのだが、礼の明な時でも百姓町人には宗廟がない。そこで座敷で祭るとある。ここは伊川が当時の形で言ったもの。伊川の時は天下一統に礼がなかったので神主はない。祖父や父の顔を描いて置く。そこで「影堂」と言う。その御定まりの影堂を立てるのがよい。浅見先生があの様に礼を守る人だったが、文字の筋を知っておられたので、これを持仏堂と思えと訳された。持仏堂のない家はない。日雇取りの家にもある。しかし、伊川の意は俗礼をしろということではない。特別に古の制で拵えることはしないということ。意さえ合点すればよいということ。影堂で済むということ。凡そ礼を説くには、聖人の本意を合点して、今日でもできる様にするのがよい。本意を合点しても合わないのでは悪い。直方先生の言う蒲鉾がそれで、古のことは難しいが、今できる様にすると、それならできると言う。ならせなければ礼は全くうまく行かない。
【語釈】
・君子將営宮室必先立祠堂…家礼。「君子将营宮室,必先立祠堂于正寝之東」。

○廟必有主。廟には神主と云ものがある。扨、その神主のこしらへ様は家礼に出てありて、形迠ふかいあやのあると云ことではない。先祖を祭ると云になっては大切なことで、先祖も夫婦あってしたものゆへ夫婦ならんですること。神主も夫婦の、祭る者も夫婦。寺めかぬこと。夫婦並ぶと云ことは仏法にはないこと。あの方は子を持たぬを道とみるゆへこのやうなことはない。さて先祖へだてをしては鬼神の感挌はないと思がよい。父母があって此方も生れた者ゆへ夫婦で祭る。ずんど先祖のことになっては仏法の筋とは違ふことぞ。伊川の時分、祖父や考を畵像や木像にすることがはやりた。これも子たるものへはひびくことなれとも、伊川の思召に、是は易す大事なことじゃ、ちっとも違はすはよいが、すこしにてもちがへば親と思てもよのものなり。日本でも畵像があったと見へる。東照宮の林道春へ初め百石下されて、京都に今に其跡あり。某も先年上京の節行、彼所拜したるに、道春より以来近代の林公皆畵像であり、似たらばいこうよかろうと思ぞ。○月朔云々。新しい物をすすめる。○含桃はなにかしれぬが、和訓でゆすら梅と云。二月時分ゆすら梅が菓子になるとみへる。此の実を黄鳥か好でふくむゆへ含桃と云説もある。
【解説】
「廟必有主。高祖以上、即當祧也。又云、今人以影祭。或一髭髪不相似、則所祭已是別人。大不便。月朔必薦新。如仲春薦含桃之類」の説明。先祖は夫婦あってのことなので、夫婦が並んで祭る。仏は子を持たないのが道なので、この様なことはしない。画像や木像を使うのもよいが、それが少しでも親と違っていれば他人の像である。
【通釈】
「廟必有主」。廟には神主というものがある。さて、その神主の拵え方は家礼に出ているが、形にまで深い綾があるということではない。先祖を祭るのは大切なことで、先祖も夫婦あってのことなので、夫婦並んでする。神主も夫婦で、祭る者も夫婦。寺めいてはならない。夫婦が並ぶということは仏法にはない。あちらは子を持たないのを道と見るのでこの様なことはない。さて先祖を隔てては、鬼神の感格はないと思いなさい。父母がいて自分も生まれたのだから夫婦で祭る。先祖のことになっては仏法の筋とは大層違う。伊川の時分は祖父や考を画像や木像にすることが流行った。これも子たるものには響くことだが、伊川の思し召しも、これは実に大事なことで、少しも違わなければよいが、少しでも違えば親と思っても他の者だと言う。日本でも画像があったと見える。初め東照宮が林道春に百石下されたが、今も京都にその跡がある。私も先年上京の節にそこへ行って拝したが、道春以来近代の林公までが皆画像で、似ていたら大層よいだろうと思った。「月朔云々」。新しい物を薦める。「含桃」は何のことかは知れないが、和訓でゆずら梅と言う。二月時分にゆずら梅が菓子になるものと見える。この実を鴬が好んで含むので含桃と言うという説もある。

○時祭云々。かの内篇の春雨露云々は時祭を云たもの。正月はまだ春がわかい。二月は春のものが出来るゆへ二月にする。五月は夏のものが出来るゆへ五月にする。四時の間三月つつの中を用る。○冬至祭始祖は、人間の始めて出来たときの祖を祭る。甚遠ひことなれとも、是が由来を忘れぬことぞ。天地が始て開けると人間か出来、それから二代目は夫婦あって出来たものぞ。冬至になって陽気が兆す。そこで垩賢の心が感したもの。甚た遠ひことなれとも、とかく始祖と云ものありはあったにきはまる。ここを静に思てみよ。ぞっとするやうなことなり。どうしても始て出来たと云みなもとがある筈。これには神主はないが、吾思ところで気があつまってくる。惣体理のあることは氣がよる。なんであろう天地開けた時の始めがあろうとて祭る。始祖としまいの両親を出して相客にする。ここがあとさきでしめたが感通もあろうことぞ。
【解説】
「時祭用仲月。物成也。古者天子諸侯於孟月者、爲首時也。時祭之外更有三祭。冬至祭始祖、冬至、陽之始也。始祖、厥初生民之祖也。無主、於廟中正位設一位、合考姒享之。立春祭先祖、先祖、初祖以下高祖以上之祖也。立春、生物之始。故象其類而祭之」の説明。時祭は二・五・八・十一月に祭る。それは次の季節が始まる月だからである。冬至には始祖を祭る。冬至が陽気が兆す時だからである。
【通釈】
「時祭云々」。内篇の「春雨露云々」は時祭を言ったもの。正月はまだ春が若い。二月は春のものができるので二月に祭る。五月は夏のものができるので五月に祭る。四時の間の各三ヶ月の真ん中を用いる。「冬至祭始祖」は人間の初めてできた時の祖を祭る。それは甚だ遠いことだが、これが由来を忘れないこと。天地が初めて開けると人間ができて、それから二代目は夫婦によってできた。冬至になって陽気が兆す。そこで聖賢の心が感じたもの。甚だ遠いことだが、とかく始祖があったということは確かである。ここを静かに思って見なさい。ぞっとする様なことである。どうしても初めてできたという源がある筈。これには神主はないが、自分が思うところで気が集まって来る。総体理のあることに気が寄る。何であろうと天地の開けた時の始めがある筈だとして祭る。始祖と最後の両親を出して相客にする。後先で締めるので感通もあることだろう。
【語釈】
・春雨露云々…小学内篇明倫28。「春雨露既濡、君子履之必有怵惕之心。如將見之」。

○季秋云々。時祭が一年に四度祭り、又冬至立春には十方もなく遠ひ処と、それからして高祖の前迠のを祭り、季秋は殊の外近ひ親を祭る。禰は示す篇に近ひと云字て、吾身に近ひと云は親ほどなものはない。先祖は幾人あるかしれぬが、其内吾か此躰を生んだと云ほと近ひことはない。九月はものの成就するときなり。此体は親からの拜領もので、親て成就したものなり。重ひものも挙らるる様に其手は誰か成就した、五里六里あるく様に其足は誰か成就したと云に親なり。そこで親は挌別に改めて九月祭る。浅見先生の方で新米振舞と名を付て、此月に两親計り祭られた。偖てこれは輕い者でもしよいことぞ。ごまめなますでもこしらへてなることなり。始祖から先祖を祭ること、中庸にある天下の重ひ祭りに似たり。甚た厚ひ親切な心で伊川は仰られたれとも、朱子が、をれが家ではせぬが、天子の祭に似てをるゆへ僭に近ひ、自己はせぬと云はれた。朱子は禰の祭斗りいたされた。殊更朱子は九月生れ。誕生日に禰の祭をいたされた。是等は皆の衆よく々々しられてをるべきことぞ。
【解説】
「季秋祭禰。季秋、成物之始。亦象其類而祭之」の説明。冬至と立春には高祖までを祭り、季秋には親を祭る。それは九月がものの成就する時だからである。人は親によって成就するもの。伊川はこの様に言ったが、朱子はこれが天子の祭に似て僭越なことだとして、禰の祭だけをした。
【通釈】
「季秋云々」。時祭は一年に四度の祭り、また、冬至と立春には途方もなく遠い処から高祖の前までを祭り、季秋では殊の外近い親を祭る。「禰」は示す偏に近いという字で、我が身に近いといえば親ほどの者はいない。先祖は幾人あるのかは知れないが、その内で自分のこの体を生んだというほど近いことはない。九月はものが成就する時である。この体は親からの拝領物で、親で成就したもの。重いものも挙げることのできる様な手を誰が成就した、五里六里歩ける様にした足は誰が成就したのかと言えば親である。そこで親は格別に改めて九月に祭る。浅見先生の方で新米振舞いと名を付けて、この月に両親だけを祭られた。さてこれは軽い者でもし易いことで、鱓膾でも拵えてできること。始祖から先祖を祭るのは、中庸にある天下の重い祭に似たことで、甚だ厚い親切な心で伊川は仰せられたのだが、朱子が、俺の家ではそれをしない。これが天子の祭に似ているので僭越に近いことだから、俺はしないと言われた。朱子は禰の祭だけをされた。更に朱子は九月生まれ。誕生日に禰の祭をされた。これらは皆の衆よくよく知って置かなければならない。
【語釈】
・中庸にある天下の重ひ祭り…中庸章句18。「武王末受命、周公成文武之德、追王大王・王季、上祀先公以天子之禮。斯禮也、達乎諸侯大夫、及士庶人。父爲大夫、子爲士。葬以大夫、祭以士。父爲士、子爲大夫。葬以士、祭以大夫。期之喪達乎大夫、三年之喪達乎天子、父母之喪無貴賤一也」。

○忌日遷主云々。是は今は寺かかりてなって法事をする。それで忌日の名はのこりてをる。忌日は君子終身の喪と云。時祭は目出度祭で肴も食ふが、是は一生の喪と云ことゆへ當日は酒も飲ず肴も食ぬ。神主にはそなへてわれはとんとくわぬ。其人唯一人を祭るにわきへ膳をすへぬでは外の鬼神へ無礼になるゆへ、祠堂から一つ神主をもってくる。祭は生きたものより厚くすると云でなければならぬ。厚すると云は塩梅をよくして、其上吸口迠入れると云でなければならぬ。礼と云と人が書物をあけてみることと思ふが、それでなるものではない。してがあると自然とする。今仏の經文の読手ないが、寺が方々にあるて子ともが見てをるゆへ經をよむま子をする。人があれば若ひ者がする気になる。某東金の爺を毎々誉るもそれで、あの男の斈問は好き次第をして中々山崎派をふるふと云ことでないが、先祖の祭をする斗りはいかうよい。あの男の毎々からするゆへ、傳重郎が子も定てこれは替たことをするとは思まい。そこで雖。幼者と云へとも礼義を知らしむる処ぞ。してみせるでなければ藝になる。○学者と云はず、人家能云々が面白ひ。世間では肴は備へぬが、こちでは肴を備へる。そうしても段々してみせると不思儀なこととは思はぬ。今人は不埒をすることは方々をか子ぬもの。此様なことになると、人がどう云ふの、誰がこふ云のと云は勇気が足りぬゆへなり。
【解説】
「忌日遷主祭於正寢。凡事死之禮、當厚於奉生者。人家能存得此等事數件、雖幼者可使漸知禮義」の説明。忌日は君子終身の喪であり、当日は神主を正寝に移して酒肴を供えるが、自分は何も食わない。祭は生きたものよりも厚くしなければならない。それは書物で知ることではなく、仕手がいれば自然とそうなる。
【通釈】
「忌日遷主云々」。これは今は寺の係りで法事をすること。それで忌日という名が遺っている。忌日は君子終身の喪と言う。時祭は目出度い祭で肴も食うが、これは一生の喪ということなので、当日は酒も飲まず肴も食わない。神主には供えるが、自分は全く食わない。その人一人を祭るのだが、脇に膳を据えないのでは外の鬼神に無礼となるので、祠堂から神主一つだけを持って来る。祭は生きたものより厚くするというのでなければならない。厚くするというのは塩梅をよくして、その上に吸口までを入れるということ。礼と言うと人が書物を開けて見ることと思うが、それでできるものではない。仕手があれば自然にできる。今仏の経文の読み手はいないが、寺が方々にあり、子供が見ているので経を読む真似をする。人がいれば若い者がする気になる。私が東金の爺を毎々誉めるのもそれで、あの男の学問は好き次第をして中々山崎派を揮うということでないが、先祖の祭をすることだけは大層よい。あの男が毎々からするので、伝重郎の子もきっとこれは変わったことをするとは思わないだろう。そこで「雖幼者」で、これが礼義を知らしめる処である。して見せるのでなければ芸になる。学者と言わずの「人家能云々」と言うのが面白い。世間では肴を供えないが、こちらでは肴を供える。そうして段々として見せると不思議なこととは思わなくなる。今の人は不埒をすることでは方々を見ない。しかしこの様なことになると、人がどう言う、誰がこう言うと言う。それは勇気が足りないのである。
【語釈】
・吸口…吸物に浮べて芳香を添えるつま。
東金の爺…櫻木誾齋?名は千之。初め大木剛中、後に清十郎と称す。東金の人。長崎聖堂教授。文化1年(1804)5月1日没。年80。


嘉言22
○司馬温公曰、冠者成人之道也。成人者將責爲人子、爲人弟、爲人臣、爲人少者之行也。將責四者之行於人、其禮可不重與。冠禮之廢久矣。近世以來人情尤爲輕薄。生子猶飮乳、已加巾帽。有官者、或爲之製公服而弄之。過十歳猶總角者蓋鮮矣。彼責以四者之行、豈能知之。故往往自幼至長愚騃如一。由不知成人之道故也。古禮雖稱二十而冠、然世俗之弊、不可猝變。若敦厚好古之君子、俟其子年十五上、能通孝經・論語、粗知禮義之方、然後冠之。斯其美矣。
【読み】
○司馬温公曰く、冠するは成人の道なり。成人は將に人の子爲り、人の弟爲り、人の臣爲り、人の少爲る者の行を責めんとするなり。將に四の者の行を人に責めんとす、其の禮、重んぜざる可けんや。冠禮の廢れたること久し。近世以來人情尤も輕薄爲り。子を生みて猶乳を飮むに、已に巾帽を加う。官有る者は、或は之が爲に公服を製して之を弄す。十歳を過ぎて猶總角なる者、蓋し鮮し。彼責むるに四の者の行を以てすとも、豈能く之を知らんや。故に往往幼より長に至るまで愚騃[ぐかい]なること一の如し。成人の道を知らざるに由る故なり。古禮、二十にして冠すと稱すと雖も、然れども世俗の弊、猝[にわか]に變ず可からず。敦厚にして古を好む君子の若きは、其の子年十五上にして、能く孝經・論語に通じ、粗禮義の方を知るを俟ち、然して後之に冠する。斯に其れ美し。

○司馬温公曰云々。冠者成人之道也は礼記の文字で、子供から大人になるさかいめ。子供ではないと云の看板なり。大人になれは人一疋。子ともの内は軍の御供は用捨するが、冠をすると用捨はない。そこで、冠を着ると云はせつないと云が本意なり。冠を着て、いつも々々々其様に子共の様でなるものと云。今は人の心がうすいゆへ何でもないことに思ふ。甚た慎むべきことなり。たた親の情で、子を可愛と云方からはやくををきくしやうと思ゆへ、をとなくさくなる。○弄之が面白こと。もちあそびにする。公服は役人が御役を勤めるゆへ着る。それこまをまわす子に公服をきせるゆへ弄之と云。紙鳶を上ける子にきせる筈はない。此様なことゆへ、子共から大人になっても同し馬鹿でをるそ。垩人は二十で元服するゆへ其年迠仕込ありて冠する、はや分んのことになるが、今日のはいつ迠も雨埀拍子に馬鹿をつくす。温公が家範を作る時、古は二十で元服すると云が、それは急にならぬ。そこでをれが寸志がある。其寸志が温公の家風になりたぞ。温公がよい規矩をたされた。孝経論吾と云がでもののようなれとも、温公の時分は四書と定てはない。あれは朱子以後のことぞ。論吾は伊川も十七八からよんで七十になってつきぬと云ことなれとも、ここはほぼと云てみよ。不断よめばなり。力なりでわけが通する。
【解説】
「司馬温公曰、冠者成人之道也。成人者將責爲人子、爲人弟、爲人臣、爲人少者之行也。將責四者之行於人、其禮可不重與。冠禮之廢久矣。近世以來人情尤爲輕薄。生子猶飮乳、已加巾帽。有官者、或爲之製公服而弄之。過十歳猶總角者蓋鮮矣。彼責以四者之行、豈能知之。故往往自幼至長愚騃如一。由不知成人之道故也。古禮雖稱二十而冠、然世俗之弊、不可猝變。若敦厚好古之君子、俟其子年十五上、能通孝經・論語」の説明。冠を着れば大人の扱いとなる。そこで、子供に冠は着けない。聖人は二十で元服するが、それは二十歳になるまでの仕込みがあって分の者となるからで、それがなくて成人すれば、馬鹿を尽くすだけである。温公が、「孝経論語」に通じなければならないと言った。
【通釈】
「司馬温公曰云々」。「冠者成人之道也」は礼記の文字で、子供から大人になる境目。これが子供ではないということの看板である。大人になれば人一疋。子供の内は軍の御供は容赦するが、冠をすると容赦しない。そこで、冠を着るということは切ないというのが本意である。冠を着て、いつまでもその様に子供のままでいるものかと言う。今は人の心が薄いので、それを何でもない様に思うが、甚だ慎むべきこと。ただ親の情で、子を可愛いと思う方から早く大きくしようと思うので、大人臭くなる。「弄之」が面白い。持ち遊びにする。公服は役人が御役を勤めるために着るもの。それを独楽を回している子に着せるので弄之と言う。凧を揚げる子に公服を着せる筈はない。この様なことなので、子供から大人になっても同じ馬鹿でいる。聖人は二十で元服する。その年までの仕込みがあって冠するので、直ぐに分のことになるが、今日のはいつまでも雨垂れ拍子に馬鹿を尽くす。温公が家範を作る時に、古は二十で元服すると言うが、それは急にはならない。そこで俺に寸志があると言った。その寸志が温公の家風になった。温公がよい規矩を出された。「孝経論語」と言うのが出物の様だが、温公の時分は四書と定められていなかった。あれは朱子以後のこと。論語は伊川も十七八から読んで七十になっても尽きないと言ったほどだが、ここは「粗」とあるのを見なさい。普段から読んでいれば力なりにわけが通じる。
【語釈】
・冠者成人之道也…礼記下冠義。「己冠而字之、成人之道也」。

○粗は温公のまけた口上ぞ。本のことはきり々々につめて、何処へ出しても無調法のないよふにすることなれとも、先つ大概是程に礼の吟味をして元服したらよかろう。偖、此章に檢校[きんみ]のあること。ここへ出る筈はない。浅見先生の錯簡と云はれた。まちがいと云に付て直方先生の、范魯公質の歌の次に人有三不幸章を載せ、さて此章を入れ、それから康節邵先生とすべし。此語は兎角立教に載せる筈。明倫に載る筈はないと云はれた。ここにあるは誤りなり。
【解説】
「粗知禮義之方、然後冠之。斯其美矣」の説明。礼義を知って冠を着ける。尚、この章は錯簡である。
【通釈】
「粗」は温公が優しく言った口上である。本当のことはぎりぎりに詰めて、何処へ出しても無調法のない様にするものだが、先ず大概はこれほどに礼の吟味をして元服するのがよいだろうと言った。さて、この章には吟味がある。ここへ出る筈はない。浅見先生が錯簡だと言われた。間違いと言うことに関して、直方先生が、范魯公質の歌の次に人有三不幸の章を載せ、それからこの章を入れ、康節邵先生の章とすべきであり、ともかくもこの語は立教に載せる筈で明倫に載る筈ではないと言われた。ここにあるのは誤りである。
【語釈】
・范魯公質の歌…小学外篇嘉言10を指す。
・人有三不幸章…小学外篇嘉言69を指す。
・康節邵先生…小学外篇嘉言11を指す。