嘉言23
○古者父母之喪既殯食粥。齊衰食水飮、不食菜果。父母之喪既虞、卒哭食水飮、不食菜果。期而小祥食菜果、又期而大祥食醯醬。中月而禫。禫而飮醴酒。始飮酒者先飮醴酒、始食肉者先食乾肉。古人居喪、無敢公然食肉飮酒者。漢昌邑王奔昭帝之喪、居道上不素食。霍光數其罪而廢之。晉阮籍負才放誕、居喪無禮。何曾面、質籍於文帝坐曰、卿敗俗之人、不可長也。因言於帝曰、公方以孝治天下、而聽阮籍以重哀飲酒食肉於公坐。宜擯四裔、無令汚染華夏。宋廬陵王義眞居武帝憂、使左右買魚肉珍羞、於齊内別立厨帳。會長吏劉湛入。因命臑酒、炙車螯。湛正色曰、公當今不宜有此設。義眞曰、旦甚寒。長吏事同一家。望不爲異。酒至。湛起曰、既不能以禮自處、又不能以禮處人。隋煬帝爲太子、居文獻皇后喪、毎朝令進二溢米、而私令外取肥肉・脯・鮓、置竹筒中、以蠟閉口、衣襆裹而納之。湖南楚王馬希聲葬其父武穆王之日、猶食雞臛。其官屬潘起譏之曰、昔阮籍居喪食蒸豚。何代無賢。然則五代之時、居喪食肉者、人猶以爲異事。是流俗之弊、其來甚近也。今之士大夫、居喪食肉飮酒無異平日。又相從宴集、靦然無愧、人亦恬不爲怪。禮俗之壞、習以爲常。悲夫。乃至鄙野之人、或初喪未歛、親賓則齎酒饌、往勞之、主人亦自備酒饌、相與飮啜醉飽連日。及葬亦如之。甚者初喪作樂以娯尸、及殯葬、則以樂導轜車、而號哭隨之。亦有乗喪即嫁娶者。噫、習俗之難變、愚夫難曉、乃至此乎。凡居父母之喪者、大祥之前皆未可食肉飮酒。若有疾暫須食飮。疾止亦當復初。必若素食不能下咽久而臝憊、恐成疾者、可以肉汁及脯・醢、或肉少許助其滋味。不可恣食珍羞盛饌、及與人宴樂。是則雖被衰麻、其實不行喪也。唯五十以上、血氣既衰、必資酒肉扶養者、則不必然耳。其居喪聽樂、及嫁娶者、國有正法。此不復論。
【読み】
○古は父母の喪既に殯して粥を食う。齊衰には疏食水飮し、菜果を食わず。父母の喪には既に虞し、卒哭して疏食水飮し、菜果を食わず。期にして小祥して菜果を食い、又期にして大祥して醯醬[けいしょう]を食う。月を中[へだ]てて禫[たん]す。禫して醴酒[れいしゅ]を飮む。始めて酒を飮む者は先ず醴酒を飮み、始めて肉を食う者は先ず乾肉を食う。古人喪に居りて、敢て公然として肉を食い酒を飮む者無し。漢の昌邑王、昭帝の喪に奔り、道上に居て素食せず。霍光其の罪を數[せ]めて之を廢す。晉の阮籍、才を負いて放誕、喪に居りて禮無し。何曾面たり、籍を文帝の坐に質して曰く、卿は俗を敗るの人、長ず可からざるなり。因りて帝に言いて曰く、公方に孝を以て天下を治めて、阮籍が重哀を以て公の坐に酒を飲み肉を食うを聽[ゆる]さんや。宜しく四裔に擯けて、華夏を汚染せしむること無かるべし、と。宋の廬陵王義眞、武帝の憂に居り、左右をして魚肉珍羞を買い、齊内に於て別に厨帳を立てしむ。長吏劉湛入るに會う。因りて臑酒、炙れる車螯[しゃごう]を命ず。湛色を正して曰く、公今に當りて宜しく此の設け有るべからず。義眞曰く、旦は甚だ寒し。長吏は事一家に同じ。異と爲さざるを望む、と。酒至る。湛起きて曰く、既に禮を以て自ら處ること能わず、又禮を以て人を處らしむこと能わず、と。隋の煬帝太子爲りしとき、文獻皇后の喪に居り、朝毎に二溢の米を進めしめて、私[ひそか]に外をして肥肉・脯・鮓を取り、竹筒の中に置き、蠟を以て口を閉じ、衣襆に裹[つつ]みて之を納れしむ。湖南の楚王馬希聲、其の父武穆王を葬るの日、猶雞臛[けいかく]を食う。其の官屬潘起、之を譏りて曰く、昔阮籍喪に居りて蒸豚を食う。何れの代にか賢無からんや、と。然れば則ち五代の時、喪に居りて肉を食う者は、人猶以て異事と爲す。是れ流俗の弊、其の來ること甚だ近し。今の士大夫、喪に居り肉を食い酒を飮むこと平日に異なること無し。又相從いて宴集し、靦然[てんぜん]として愧ること無く、人も亦恬として怪と爲さず。禮俗の壞るる、習いて以て常と爲す。悲しいかな。乃ち鄙野の人に至りては、或は初喪未だ斂せざるに、親賓は則ち酒饌を齎り、往きて之を勞し、主人も亦自ら酒饌を備え、相與に飮啜醉飽して日を連ぬ。葬るに及びても亦之の如し。甚しき者は初喪に樂を作して以て尸を娯しましめ、殯葬に及びては、則ち樂を以て轜車を導きて、號哭して之に隨う。亦喪に乗じて即ち嫁娶する者有り。噫、習俗の變じ難く、愚夫の曉し難きこと、乃ち此に至るか。凡そ父母の喪に居る者は、大祥の前には皆未だ肉を食い酒を飮む可からず。疾有るが若きは暫く須く食飮すべし。疾止まば、亦當に初に復るべし。必ず素食咽に下ること能わざること久しくして臝憊[るいはい]し、疾を成すを恐るる者の若きは、肉汁及び脯・醢[かい]、或は肉少しを許すを以て其の滋味を助く可し。恣に珍羞盛饌を食い、及び人と宴樂す可からず。是れ則ち衰麻を被ると雖も、其に實は喪を行わざるなり。唯五十以上、血氣既に衰え、必ず酒肉の扶養に資[よ]る者は、則ち必ずしも然らざるのみ。其れ喪に居りて樂を聽き、及び嫁娶する者は、國に正法有り。此に復た論ぜず。

十二月二十一日
【語釈】
・十二月二十一日…寛政元年(1789)12月21日。

○古者は今亡矣夫と云字なり。こふありたいものなれとも、どうも今にないゆへ古はとかたり出したもの。後世の政も中々よい。漢の高祖も唐の太宗もあれ程に治めたれとも、矢竹に思ても頓とならぬことがある。ならぬことがあるとは何れの処をさすと尋るに、天下人庻に親の喪をとることを天下の風俗にすることがならぬ。ここ斗りは三代でのふては息き勢ひ揉んで騒でも及ばれぬことぞ。三代の世は黄頭郎[せんとう]輿人[かこかき]迠本式に親の喪は執たことなり。是を偖てもと誉ることでもない。されとも是を只今しよふと云ときに、天下が一統して一つになら子ばならぬことなり。三代は天下中の人が皆一つに心がなったものゆへ如這様にゆき届たものぞ。
【解説】
「古者父母之喪既殯食粥」の説明。三代の世では、親の喪を執ることが天下の風俗となっていた。それは、三代は天下中の人の心が一つになっていたからである。漢唐も治まった世だったが、これはできなかった。
【通釈】
「古者」は、今は亡きかなという字である。こうありたいものだが、どうも今はないので古はと語り出したもの。後世の政も中々よい。漢の高祖も唐の太宗もあれ程に治めたが、弥猛に思っても全くできないことがある。できないことがあるとは何処の場を指すのかと尋ねれば、天下の民が親の喪を執ることを天下の風俗とすることができない。ここばかりは三代でなければ勢い揉んで騒いでも及べないこと。三代の世は船頭や駕篭舁きまでが本式に親の喪を執った。それは実によいことだと誉めることでもない。しかし、これを只今しようという時に、これは天下が一統して一つにならなければできないこと。三代は天下中の人の心が皆一つになっていたのでこの様に行き届いていた。

○それ詩経にもあった粛々兔罝椓之丁丁、赳々武夫公侯腹心とあり、兎の罝を打日雇取が殿様の腹になると云ことゆへ比屋可封も迂偽でないことぞ。如那箇[あのやふな]が是と同しことにて、垩賢の世に親の喪を執ること、天下一統行はるること。譬之今世武人大小を離さぬ様なもの。武家の世が盛ゆへ大小をはなさず、誰でもかれでも武士とさへ称呼[いへば]大小ははなさぬことになって、珎しきことにとは不為異[をもはぬ]。那箇たま々々あろうものなれば異事とも思べし。今心喪でもつとめ、親の喪を大切と云へば珎異と云が、垩賢の世は珎異と誉めぬ。其誉めぬが古の尊ひ処ぞ。大学序、非後世之所能及と云もここらでもみへること也。親の死で四日目に棺へ入れ、殯と云て家の内の土間に假でうづめてをく。是迠は飯もくわずにをる。今人の心では、それてはつづくまいと云に、その筭用はない。三日の内はうか々々涙を食てをる様なもの。そこでその様に泣てばかり居てはなるまいとて、三日目に近処より粥をもってゆく。のんで初てくうなり。
【解説】
聖賢の世では天下中で親の喪を執ることが行われていた。それは武士が大小を離さない様なもので、珍異なことではなかったから別に誉めることでもなかった。親が死んで三日間は飯を食わない。三日目に粥を食う。
【通釈】
詩経にも「粛粛兔罝、椓之丁丁、赳赳武夫、公侯腹心」とあり、兎の罝を打つ日雇取りまでが殿様の腹になるということなので、「比屋可封」も嘘ではない。あの様なことがこれと同じことで、聖賢の世では天下一統に親の喪を執ることが行われた。たとえばこれは今の世で武人が大小を離さない様なもの。武家の世が盛んなので大小を離さない。誰も彼も武士とさえ言えば大小は離さないことになっていて、それを珍しいことだとは思わない。それが偶々あるであれば変わったことだとも思うだろう。今心喪でも勤め、親の喪を大切だと言えば珍異とも言うだろうが、聖賢の世では珍異だと誉めはしない。その誉めないのが古の尊い処である。大学序で「非後世之所能及」と言うのがここらでも見える。親が死んで四日目に棺に入れ、殯と言って家の内の土間に仮に埋めて置く。これまでは飯も食わずにいる。今の人の心では、それでは続かないだろうと言うだろうが、その算用はない。三日の内はうかうかと涙を食っている様なもの。そこでその様に泣いてばかりいてはならないとして、三日目に近処が粥を持って来る。それを飲んで初めて食う。
【語釈】
・粛々兔罝椓之丁丁、赳々武夫公侯腹心…詩経国風兔罝。「肅肅兔罝、椓之丁丁。赳赳武夫、公侯干城。肅肅兔罝、施于中逵。赳赳武夫、公侯好仇。肅肅兔罝、施于中林。赳赳武夫、公侯腹心」。
・比屋可封…文選。「尚書大傳曰、周民可比屋而封」。
・非後世之所能及…大学章句序。「此古昔盛時所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也」。

○水飲と云は汁の菜のと云ことのなく、飯斗り食ふことで、あつものを食はぬことを水飲と云。是が今の精進とはちがふことぞ。今の精進は佛法の殺生戒よりきたことで、性あるものを食はぬと云ことなり。そこで菜果は食ふことになってをるぞ。此方のは頓と夫れとは筋の違てをることて、此方の精進と云は、親はもはや死れて土の中へ入りてをるに、栄曜をして食ふことではないとなり。飯は食ぬと死ぬゆへ食ふ。子ともの乳を呑む様なもの。○卒哭は百日比のことなり。士三月而葬とあるぞ。某因仏法之制に百ヶ日を用ゆ。仏法では百ヶ日と云様なことはないことであれとも、今佛法天下汎乱して誰も彼も是を用ることを免れざればなり。しかし卒哭は必しも百ヶ日と限ることではなうて、殯とて家の内にをさめをきたるを三月にして葬地へつかはしたるとき、虞の祭ありて卒哭になることなり。そこで何かなしに百ヶ日と云ものを卒哭にあてをくことなり。偖てその虞とは如何したることと云へは、殯して死者のまだ家の内に居る時は精神が落泊[おちつい]てをれとも、九原へ遣て葬り埋てはをちつかぬゆへ、精神の落泊ように虞祭ありて、そこで又卒哭の祭と云ものあるなり。これよりして朝夕なくことはやめにするぞ。
【解説】
「齊衰食水飮、不食菜果。父母之喪既虞、卒哭食水飮、不食菜果」の説明。「水飲」は飯だけを食うことで、今の精進とは違う。飯を食わないと死ぬから食うのだが、今の精進は仏法の殺生戒から来たもの。「卒哭」は百ヶ日のことだが、それとは限らず、虞の祭の時を言う。
【通釈】
「水飲」は汁や菜ということでなく、飯ばかりを食い、羹を食わないこと。これは今の精進とは違う。今の精進は仏法の殺生戒から来たことで、性のあるものを食わないということ。そこで、菜果は食うことになっている。こちらのはそれとは全く筋が違ったことで、こちらが精進と言うのは、親は最早死なれて土の中へ入っていれば、栄耀をして食ってはならないというもの。飯を食わないと死ぬので食う。それは子供が乳を呑む様なもの。「卒哭」は百日頃のこと。「士三月而葬」とある。よって仏法の制も百ヶ日を用いる。仏法では百ヶ日という様なことはないことだが、今仏法が天下に氾濫して誰も彼もがこれを用いることを免がれないからする。しかし卒哭は必ずしも百ヶ日と限ることではなくて、殯で家の内に納め置いていること三月にして葬地へ移す時に虞の祭があって、これが卒哭になる。そこで何でも百ヶ日というものを卒哭に当てる。さてその虞とはどの様なことかと言えば、殯して死者がまだ家の内にいる時は魂が落ち着いているが、九原へ遣って葬り埋めては落ち着かないので、魂が落ち着く様に虞祭があって、そこでまた卒哭の祭というものがある。これで朝夕泣くことは止めにする。
【語釈】
・士三月而葬…礼記上礼器の語。
・九原…墓地。あの世。黄泉。よみじ。

○期而小祥は、是が一周忌なり。これからは味噌下地の醤油下地のと云ふを食ふことなるなり。○さて、大祥は三回忌なり。これ迠が今の忌中と云ものなり。○中月而禫。中月と云へば其月の中でなかのこと。中月と云へば大祥の次の月のこと。これから平生になると云処て改めて禫の祭と云をするなり。此時が精進をちで酒を飲む。それをよいはと灸をして山を見るやうなことではない。飲みはのむが飲みか子る故、醴酒を飲む。そろ々々と常に復れと云が古人の厚ひ意ぞ。精神をちと云て食ふに、因旧[やっはり]精進の時に同前なものを食ふ。○古人居喪云々。公然は、をつけはれて食ふこと。爰の古人と云は、劈初頭[まっはしめ]の古者はと云とは違ふ。是は後世のわるいへたいして。今は十方もない体しゃ。十方もないとはどうなれば、東周以来三代でない時、礼の行はれぬときでも古人は公然と居喪肉食する者はない。
【解説】
「期而小祥食菜果、又期而大祥食醯醬。中月而禫。禫而飮醴酒。始飮酒者先飮醴酒、始食肉者先食乾肉。古人居喪、無敢公然食肉飮酒者」の説明。三回忌を終えると平生になるが、それでもゆっくりと元に戻すのである。三代の世でなくても、当時は喪にあって公然と肉食する者はいなかった。
【通釈】
「期而小祥」は、一周忌である。これからは味噌下地や醤油下地のものを食うことができる。さて、「大祥」は三回忌である。これまでが今の忌中というもの。「中月而禫」。中月と言えばその月の中で、真ん中のこと。月を中[へだ]ててと言えば大祥の次の月のこと。これから平生になるという処で改めて禫の祭をする。この時が精進落ちで酒を飲む。それはよいと、灸をして山を見に行く様なことではない。飲みはするが飲みかねるので、醴酒を飲む。ゆっくりと常に復れというのが古人の厚い意である。精進落ちだと言って食うにも、やはり精進の時と同然のものを食う。「古人居喪云々」。「公然」は、程なく晴れて食うこと。ここの古人は最初にあった古者とは違う。これは後世の悪いことに対して言ったこと。今は途方もない体である。途方もないとはどういうことかと言うと、東周以来、三代ではなく、礼の行われない時でも、古人は喪にあって公然と肉食する者はいなかった。
【語釈】
・醴酒…甘酒。一夜酒。

○漢昌邑王云々。これからあとはわるいを出して見せたものぞ。古人の教には様々ありて、よいことを出して手本にするもあり、わるいを出して戒にすることもある。よいを出して手本にしても、わるいを出して戒にしても、どちどうしてもこちの為めになる処は同じことなり。直方先生の、咎人を日本橋でさらすやうなものと仰られし。ここも彼のさらすのぞ。親の喪をわるくしたを出すと云か人々の戒になる。これらなどもよく思へは親切なことなり。大名の屋形でよまうと下々の席で読ふと、わるい方をよぎもないとは云はぬ。悪ひを聞と、誰でも埒もないことじゃと云。其悪を出せば誰も彼も悪ひと云。そこを民之秉彛と云。然し、町人のあきないをする処などでは、親の喪三年なとと云とばか々々しいと云。どうでも直方先生の云はっしゃる、町人は性善の外を云塲があるなり。利欲を挊[かせく]方からそのやふな馬鹿なことにする。町人一変至於武士もこの様な処から云たものと見へる。どうしても武士はまた格別なこともある。これからして甚た卑しき者に至ては、ぢきに月代剃てもよいことになる。武士がすれはきっと云付けらる。偖てこれは歴々の不埒を出して見せる。この様なことぞ。此のわるいを出すが人にたしなませることになる。漢昌邑王が昭帝の喪と聞て来る道すがら肉食をした。たたの者ならまだも格別なことなれとも、今度あとをとると云てくる、その道すがら精進をせぬと云ことなれば、是であとのことはしれた。かの霍光ゆへ、ここてとを々々と昌邑王を追墮した。それゆへ昌邑王は一度天下は譲らんとしたれとも、つい天下取にはならなんだ。
【解説】
「漢昌邑王奔昭帝之喪、居道上不素食。霍光數其罪而廢之」の説明。商人は親の喪は三年などと言うのは馬鹿馬鹿しいことだと言う。それは利欲を稼ぐ方から言ったことで、性善の外のことである。漢の昌邑王が昭帝の喪と聞いて来る道すがら肉食をした。そこで霍光が彼を追落した。
【通釈】
「漢昌邑王云々」。これから後は悪い人を出して見せたもの。古人の教えは様々とあって、よいことを出して手本にすることもあり、悪いことを出して戒めにすることもある。よい者を出して手本にしても、悪い者を出して戒めにしても、どちらにしてもこちらのためになる処は同じこと。直方先生が、咎人を日本橋で晒す様なものだと仰せられた。ここもあの晒すということ。親の喪を悪くした者を出すというのが人々の戒めになる。これらなどもよく思えば親切なこと。大名の館で読もうと下々の席で読もうと、悪い方を余儀もないとは言わない。悪いことを聞くと、誰もが埒もないことだと言う。悪い者を出せば誰も彼も悪いと言う。そこを「民之秉彛」と言う。しかし、町人が商いをする処などでは、親の喪は三年などと言うと馬鹿馬鹿しいと言う。どうでもこれが直方先生の言われた、町人は性善の外を言う場があるということ。利欲を稼ぐ方からその様に馬鹿なことだとする。町人一変すれば武士に至ると言うのもこの様な処から言ったものと見える。どうでも武士にはまた格別なこともある。これからして甚だ卑しい者に至っては、直ぐに月代を剃ってもよいことにするが、武士がそれをすれは厳しく言い付けられる。さてこれは歴々の不埒を出して見せたもの。この様な悪い者を出すのが人に嗜ませることになる。漢の昌邑王が昭帝の喪と聞いて来る道すがら肉食をした。普通の者ならまだしも格別だが、今度跡を継ぐといって来る、その道すがらに精進をしないということであれば、これで後のことは知れる。あの霍光なので、ここでとうとう昌邑王を追落した。それで、一度昌邑王へ天下を譲ろうとしたのだが、遂に天下取りにはならなかった。
【語釈】
・漢昌邑…漢の武帝の第五子昌邑哀王の子。名は賀。
・民之秉彛…詩経大雅烝民。「天生烝民、有物有則。民之秉彝、好是懿德」。
・霍光…前漢の政治家。字は子孟。霍去病の異母弟。武帝に仕えて匈奴を征し、太子の傅となり、昭帝の時、大司馬大将軍。~前68

○さてその二番目は阮籍なり。是は竹林の七賢とて晋の世ではとりはやし流行たることなり。とれも豪傑者ともで、世間通用の人欲はない。そこでいこう自分を高上にとまり、世の中をやすくみる。清談と云も老荘を後楯にしてをる。老荘は無為を道にしてをるゆへ、そこで七賢などもどうなりと天次第と云。親の死ぬも天次第。涙が出るなら泣け。肴が食ひたくは食へ。何にも彼もあち次第と云。天次第と云ことゆへ、なせ親が死だとて其様に騒の、死なれたとてどうするものと云。成程親の喪をつとめぬ筈なり。○負才は、吾方を自慢して自己こそはと云てやりばなしをしてをる。○誕はいつはると云字で、迂偽つくことなり。迂偽つくと云字ではあれとも、只今のけちな迂偽を云のではない。人を馬鹿にして世の中を非にみてをるを放誕と云。なせ放誕と非にみることに、やりはなしをし迂偽をすると云字を書たなれば、をらが親父がをれが死だらぢきに肴を食へと云たなどと云。
【解説】
「晉阮籍負才放誕」の説明。阮籍は老荘のの無為を道としているので、世間通用の人欲はない。しかし、親が死ぬのも天次第で大したことではないとした。阮籍は人を馬鹿にして世の中を非と見ていた。それで、「放誕」と言う。
【通釈】
さて、その二番目は阮籍である。これは竹林の七賢と言われ、晋の世では取り栄されて流行った者。誰もが豪傑者共で、世間通用の人欲はない。そこで大層自分を高上に見て、世の中を安く見る。清談というのも老荘を後ろ楯にしている。老荘は無為を道にしているので、そこで七賢なども、どうなろうが天次第と言う。親の死ぬのも天次第。涙が出るなら泣け。肴が食いたければ食え。何もかもあちら次第と言う。天次第ということなので、親が死んだからといって何故その様に騒ぐのか、死なれたとしてもどうしたことがあるものかと言う。なるほど親の喪を勤めない筈である。「負才」は、自分を自慢して、自分こそはと言って遣り放しでいること。「誕」は偽るという字で、嘘を吐くこと。嘘を吐くという字ではあるが、只今のけちな嘘のことではない。人を馬鹿にして世の中を非と見ているのを「放誕」と言う。何故放誕と、非に見て遣り放しをして嘘を吐くという字を使ったのかと言うと、俺の親父が、俺が死んだら直ぐに肴を食えと言ったなどと言うからである。
【語釈】
・阮籍…三国の魏の隠士。竹林の七賢の首班。字は嗣宗。阮咸の叔父。河南陳留の人。210~263

刘伯倫か餘り酒を呑むゆへ女房が異見を云たれば、成程此上は酒を飲むまい、天と誓ふと云て檀をついて酒肴を具ふ。女房は至極実底者ゆへ誠に思ふて居る内、天を祭るふりをして酒も肴も皆己か飲で食ふてしまい、以後女の云ことは用まいと天へ誓た。そこで今の迂偽をついてかたりをすることではない。人の面白がるあやなり。そこが誕の字のことなり。偖て晋の世て清談かきつくはやりたゆへ、天子の御前へも阮籍などははばからぬこととみへる。○何曽が天子の御前で、をのしなぞをそのふんにはしてをかれぬものなり。○不可長は下々で云ふ、云はせてをけば方頭もないと云のなり。かぎりもないことじゃ、もうをきやれ。御前は天下の御制度を孝行で治めると云に、あの阮籍を御前へ召し、親の忌中に酒を飲み肴を食ふことをゆるさるるはどうしたことしゃ。このやふな者は遠の嶋へでもやりて唐の地をけがさぬ様になされいとなり。
【解説】
「居喪無禮。何曾面、質籍於文帝坐曰、卿敗俗之人、不可長也。因言於帝曰、公方以孝治天下、而聽阮籍以重哀飲酒食肉於公坐。宜擯四裔、無令汚染華夏」の説明。晋の世では清談が大層流行ったので、天子の御前でも阮籍などは憚らなかった。そこで何曾が、公は天下の御制度を孝で治めるものなのだから、阮籍などは遠島にしなさいと文帝に言った。
【通釈】
劉伯倫があまりに酒を飲むので女房が異見を言うと、なるほどこれからは酒を飲むまい、天に誓うと言って壇を築いて酒肴を供えた。女房は至極実体な者だったので、それを誠だと思っている内に、天を祭る振りをして酒も肴も皆自分で飲み食いしてしまい、以後女の言うことは用いまいと天に誓った。そこで、これは今の嘘を吐いて騙りをする様なことではない。人の面白がる綾である。そこが誕の字である。さて晋の世では清談が大層流行ったので、天子の御前でも阮籍などは憚らなかったことと見える。何曾が天子の御前で、阮籍などをその分にはして置けないと言った。「不可長」は下々で言う、言わせて置けば方頭もないということ。限りもないことだ、もう起きろ。御前は天下の御制度を孝行で治めるものなのに、あの阮籍を御前へ召し、親の忌中に酒を飲み肴を食うことを許されるのはどうしたことか。この様な者は遠島でもして唐の地を汚さない様になされと言った。
【語釈】
・刘伯倫…劉伯倫。竹林の七賢の一人劉伶。酒好きで有名。
・何曽…字は穎孝。陽夏の人。199~278

○宋廬陵王云々。是は晋の末、南北朝の頃なり。近習向に云付て、忌中なから酒や肉を買ひ求られた。珎羞と云は酒を飲に飲める仕方の口取なり。此時に歴々は肉食はないこと。そこで假に臺所を立て、まくなどをはりてをかれた。○臑酒。牛羊のひじのきりみなどを酒の中へ入れ、酒をやはらにするものなり。此方でかも酒なとと云がこれ。○車螯は、なにかはまぐりそうなり。やきはまぐりそ。劉湛が色をかへて、此御時節に此設何んとしたることぞと起て、御前は御勝手に遊はさるるがよいか、私に迠くへとは何事ぞ。大切の天下の御中隂に手前の精進せぬは格別、人をも手前の様にするかとなり。こふ云はれてはちりをひ子ることぞ。こう云て、たたいこの刘湛はよい者ではない。仕廻には誅伐にをふたが義眞を訶りた計りの手柄でここへでたことぞ。
【解説】
「宋廬陵王義眞居武帝憂、使左右買魚肉珍羞、於齊内別立厨帳。會長吏劉湛入。因命臑酒、炙車螯。湛正色曰、公當今不宜有此設。義眞曰、旦甚寒。長吏事同一家。望不爲異。酒至。湛起曰、既不能以禮自處、又不能以禮處人」の説明。義真が忌中に台所を立て、それを幕で隠して酒肉を飲食した。それを劉湛が咎めた。
【通釈】
「宋廬陵王云々」。これは晋の末で南北朝の頃のこと。近習向きに言い付けて、忌中ながら酒や肉を買い求められた。「珍羞」は、酒を飲む際の口取肴である。この時に歴々は肉食をしない。そこで仮に台所を立てて、幕などを張って置かれた。「臑酒」。牛羊の肘の切り身などを酒の中へ入れ、酒を柔らかにするもの。こちらで醸酒などと言うのがこれ。「車螯」は蛤だそうで、焼き蛤である。劉湛が色を変えて、この御時節にこの設けは何たることかと怒って、御前は御勝手に遊ばされるのがよいが、私にまで食えとは何事か。大切な天下の御中陰に貴方が精進をしないのは格別だが、人をも貴方の様にするのかと言った。この様に言われては塵を捻ること。こうは言っても、そもそもこの劉湛はよい者ではない。最後には誅伐に遭ったが、義真を訶っただけの手柄でここへ出たもの。
【語釈】
・宋廬陵王…武帝(劉裕)の第二子。
・劉湛…字は弘仁。南陽河南の人。最後は文帝(義隆)を殺そうと謀って誅せられる。

○隋煬帝云々。これは名ある桀紂に並ぶ悪玉なり。文献皇后と云御袋様の喪に居られた。あの方に忌中の礼に一溢米と云字がある。片把の手のくぼに米をいれ、一日それを二つほどたいてくうが忌中の姿。若君様はこれじゃとみせて、内證は取肥肉脯鮓なり。歴々へ是が表へ知れては六ヶ鋪ゆへ、竹の筒に入れて蝋で口をはり、布呂敷に包て取り入れられた。○湖南楚王云々。鷄を汁にして食はれた。そこで御附ヶ人の潘起が、昔阮籍と云いたつら者があって親の忌中に肴をくった。○蒸豚は、ゆだいの鴨のじはやきなどと云がこれなり。是を忌中に阮籍がしたが、今、をらが旦那もそれじゃ。○何代無賢と云が、不埒者と云はず、ひょくりて云ふ口上ぞ。昔の親の精進をせぬ賢者があった。こちにもあると。
【解説】
「隋煬帝爲太子、居文獻皇后喪、毎朝令進二溢米、而私令外取肥肉・脯・鮓、置竹筒中、以蠟閉口、衣襆裹而納之。湖南楚王馬希聲葬其父武穆王之日、猶食雞臛。其官屬潘起譏之曰、昔阮籍居喪食蒸豚。何代無賢」の説明。隋の煬帝は文献皇后の喪に、二溢米を食う振りをして、隠れて肥肉や脯・鮓を食った。湖南楚王の馬希は鶏を汁にして食った。潘起が、それでは阮籍と同じだと言った。
【通釈】
「隋煬帝云々」。これは桀紂に並ぶ名のある悪玉である。文献皇后という御袋様の喪におられた。中華の忌中の礼に一溢米ということがある。片把の手窪に米を入れ、一日にそれを二つほど炊いて食うのが忌中の姿。若君様はこれだと見せて、内証は「取肥肉脯鮓」だった。これが歴々に知れては大変なので、竹の筒に入れて蝋で口を張り、風呂敷に包んで取り入れられた。「湖南楚王云々」。鶏を汁にして食われた。そこで御付人の潘起が、昔阮籍という悪戯者がいて親の忌中に肴を食った。「蒸豚」は、ゆだいの鴨のじは焼きなどというのがこれ。これを忌中に阮籍がしたが、今、俺の旦那もそれだと言った。「何代無賢」と言ったのが、不埒者と言わず、ひょぐって言った口上である。昔、親の精進をしない賢者がいたが、こちらにもそれがいると言ったのである。
【語釈】
ゆだいの鴨のじはやき…

○然則云々。是から温公の論なり。五代の世と云ものは此方の元弘以来の東山から末への乱の様にをっかけ々々々々天下が替り、とんなことをしてもくるしうあるまいと思ふ世の中なれとも、あの様に呵りたをみれば、其時分もすまいこととは思たとみへる。○人猶以為異事は官屬の潘起をさすなり。○流俗之幣は前を指す言ではない。後を云ことぞ。五代の時でさいこれじゃに、今の士大夫と云たもの。五代のあの乱では隨分肴も食ひそうなものなれとも、宋徳隆盛、治教休明と云時、づんと不断に替らず酒を飲み肴をくう。司馬温公の殊外気の毒に思てしわをよせて云たもの。忌中に懇合の者が食ひ物て寄て花見や遊山のよふである。悪王の名高ひ隨煬帝でさへ肴食ふことはそっとしたが、此頃はそんなことでない。忌中に肴をくうことを何とも思はぬ顔ぞ。
【解説】
「然則五代之時、居喪食肉者、人猶以爲異事。是流俗之弊、其來甚近也。今之士大夫、居喪食肉飮酒無異平日」の説明。五代の世は天下が色々と替って悪い時だったが、忌中に肴を食うのは悪いことだと知っていたので隠れてした。しかし、今の宋では全く普段と変わらず、酒を飲んで肴を食う。
【通釈】
「然則云々」。これからが温公の論である。五代の世というものは、日本の元弘の変以後、東山から末の乱の様に追っ掛け追っ掛け天下が替わり、どんなことをしても苦しくはないと思う世の中だったが、あの様に呵ったことを見れば、その時分にもこれが悪いと思ったものと見える。「人猶以為異事」は官属の潘起を指す。「流俗之弊」は前を指す言ではなく、後を言ったこと。五代の時でさえこれなのに、今の士大夫はと言ったもの。五代のあの乱では随分と肴も食いそうなものだが、「宋徳隆盛、治教休明」と言う時に、全く普段と変わらず酒を飲み肴を食う。これが、司馬温公が殊の外気の毒に思って皺を寄せて言ったもの。忌中に懇ろ合いの者が食物で寄って、花見や遊山の様である。悪王として名高い隋の煬帝でさえ肴を食うことはそっとしたが、この頃はそんなこともない。忌中に肴を食うことを何とも思わない顔である。
【語釈】
・宋徳隆盛、治教休明…大学章句序。「天運循環、無往不復。宋德隆盛、治教休明」。

○靦然無愧は、輕者の口上にしゃあ々々々としてをると云がこれで、何とも思はぬ。あるまいことと思へば批判をするが、珍敷なひゆへ靦然無愧なり。松魚のさしみもしそうなものじゃはと云。扨久しいことで、温公は吾東邦頼光の時分にあたる乎なり。今の日本の體にちっとも替はない。今日世俗が何も知す、當時の習はせと云ことを云が、何も知らぬ人がこしらへた習はせなれば識者目からはをかしいことぞ。其れ死と云と、棺へも歛めぬ内に親族も賔もそこへくるものは樽を提けてきて、死た人を哀みもせず、嘸[さ]そ御愁傷などと云て死だ人は頓とそこ々々にしてをき、其体が甚だにぎやかで大概元服や昏礼も同じことの様なり。是も今のは佛法が手傳ふてすることぞ。人にものを食はせれば罪咎が消滅てしまうと云。今世礼に背たことに仏法の手傳たこと夛し。田舎でも平生は茶漬も人の内へ行てはめったに食はぬと云人も、死人のある時はより合て食ふことに心得る。是は菩提のためになると思ふとてのことにてあるべし。然し今日の體は食ふことが主になって客も亭主も酒に酔ひ、わるくすると下々は歌も謡ひ出す。喪と云と大取込で十七日迠は忙しいと云てをるが、死者は桶に入れて犬や猫の死だも同しことにしてをく。それにしてはきつい物入りにて、なんで其様にいそがしくもの入りあると云に、客にくわせる物入り取込。皆今日田舎にひしと合たこと。又、あの方では死た當座がそれほどで、また来月葬る時、樽や肴を提けさせてくる。
【解説】
「又相從宴集、靦然無愧、人亦恬不爲怪。禮俗之壞、習以爲常。悲夫。乃至鄙野之人、或初喪未歛、親賓則齎酒饌、往勞之、主人亦自備酒饌、相與飮啜醉飽連日。及葬亦如之」の説明。温公の時も今の日本も喪に服する仕方が悪い。その喪は、死んだ人を哀れみもせず、大層賑やかで、元服や昏礼の様である。それは仏法が手伝ったものが多い。仏は人にものを食わせれば罪咎が消えてしまうと言う。そこで、皆が寄り集まって食う。その様な喪は、客に食わせる物入りや取り込みで忙しいのであって、死者のためのことではない。
【通釈】
「靦然無愧」。軽い者の口上にしゃあしゃあとしていると言うのがこれで、何とも思わない。あってはならないうことと思えば批判もするが、珍しくないので靦然無愧である。鰹の刺身でもしそうなものだと言う。さて久しいことで、温公は我が国では頼光の時分に当たるのだろうか。今の日本の体と少しも変わりはない。今日世俗が何も知らず、当時の習わしだと言うが、何も知らない人が拵えた習わしであれば識者の目からは可笑しいこと。それ死ぬと言うと、棺へも斂めない内に親族も客もそこへ来る者は樽を提げて来て、死んだ人を哀れみもせず、さぞ御愁傷などと言って死んだ人のことは頓とそこそこにして置く。その様子は甚だ賑やかで、大概元服や昏礼と同じ様である。これも今のは仏法が手伝ってすること。人にものを食わせれば罪咎が消えてしまうと言う。今世、礼に背くことに仏法の手伝ったことが多い。田舎でも、平生は人の家に行っては滅多に茶漬も食わないという人でも、死人のある時は寄り合って食うことと心得る。それは菩提のためになると思ってのことだろう。しかし今日の体は食うことが主になって、客も亭主も酒に酔い、悪くすると下々は歌も歌い出す。喪といえば大取り込みで十七日までは忙しいと言うが、死者は桶に入れて犬や猫が死んだのと同じ様にして置く。それにしては大層な物入りであって、何でその様に忙しく物入りがあるのかと言えば、客に食わせる物入りや取り込みである。これが皆今日の田舎にぴったりと合ったこと。また、中華では死んだ当座がそれほどのことで、来月葬る時には、また樽や肴を提げさせて来る。
【語釈】
・頼光…源頼光。平安中期の武将。満仲の長男。大江山の酒呑童子征伐の伝説や土蜘蛛伝説は著名。~1021

○甚者初喪云々。また今日是等がなくで竒特ぞ。生て御坐ったうち三弦がすきであったなとと云て、枕元で浄瑠璃などをかたる。○導轜車云々。音楽をしながら死者を送る。今日出家がどら鐃鉢を打は死者を天道へやると云ことからするとみへる。偖て音楽のことは古垩人の礼に何事でも音楽のないことはなく、平生も身を離さずつまはしきなぞしてをらるることなれとも、葬礼に斗りはたへて用ることなし。朱子の、喪礼にばかり音楽がないか、喪礼に音楽ないが音楽の音樂たる処しゃと仰られたり。これほどなわけじゃに、温公の、後世道が昏冥なり、如此ざまにはなりたることとなり。扨又喪中に昏礼をするものなどがある。是等は今日武家などではなんと咄にもならぬことなり。ここは又いかう武家はよし。公儀の制度忌五十日服一年と定て、親の喪は一年なり。一年の内には昏礼の相談などは遠慮あることぞ。此時分世間一統如這箇に大勢かたまりたゆへ、急にかへられぬ。まして学者志ありても浪人の身はとんとならぬことなり。
【解説】
「甚者初喪作樂以娯尸、及殯葬、則以樂導轜車、而號哭隨之。亦有乗喪即嫁娶者。噫、習俗之難變」の説明。礼には何事でも音楽のないことはないが、葬礼だけは音楽を用いることはない。葬礼に音楽を用いるのは仏法からのこと。また、喪中に昏礼の相談をするのは遠慮しなければならない。今の葬礼は悪いところがあっても大勢が固まっているので変えるのは難しい。ましてやそれは浪人の任ではない。
【通釈】
「甚者初喪云々」。また今日はこれらがなくで奇特である。生きておられた内は三弦が好きだったなどと言って、枕元で浄瑠璃などを語る。「導轜車云々」。音楽をしながら死者を送る。今日それをするのは、出家が鐃鈸を打てば死者を天道へ遣ることができるということからするものと見える。さて音楽のことでは、古聖人の礼には何事でも音楽のないことはなく、平生も身を離さずに爪弾きなどをしておられる筈だが、葬礼ばかりは絶えて用いることはない。朱子が、喪礼だけには音楽がないが、喪礼に音楽のないのが音楽の音楽たる処だと仰せられた。これほどのわけなのだが、温公が、後世道が昏冥なので、この様な姿になってしまったと言った。さてまた喪中に昏礼をする者などがある。これらは今日の武家などでは話にもならないこと。ここはまた大層武家はよい。公儀の制度では忌五十日服一年と定まっていて、親の喪は一年である。一年の内は、昏礼の相談などには遠慮のあること。この時分、世間一統この様に大勢が固まっているので急には変えられない。ましてや学者に志があったとしても、浪人の身では全くできないこと。

○愚夫は知惠のないもののこと。理がわからぬゆへ信ずべきことを信せず、信すまじきことを信ずれはなり。此機[からた]が違ふてくるゆへとんとさとされぬ。其愚でをりなから、今我々が古の礼を以て死者を三日の内は生きかへることもあろうとて三日をくと云と、死だ者が生きかへると云ことがあるものか、あほうなことをと云。どふか知惠もあるよふなことを云。そう明に知る知惠があるなら地獄はないと思ひそうなものなれとも、これはまたあると思ふ。これみよ、俗人はかしこうて理がくらさに愚夫そ。此様なやからは頓と孔子の手際にも孟子の手際にも暁すことはならぬ。愚と云名字が付てはしかりても一つも入ることはない。そこで愚夫に逢てはただうん々々とばかり云てをくぞ。すててをくがよい。
【解説】
「愚夫難曉、乃至此乎」の説明。俗人は賢くて理が暗い。そこで「愚夫」と言う。愚夫は曉すことができないから、棄てて置くのがよい。
【通釈】
「愚夫」は知恵のない者のこと。理がわからないので信じるべきことを信じず、信じてはならないことを信じるからそう言う。この体が違って来るので全く曉すことができない。愚でいながら、今我々が古の礼を以って死者を三日の内は生き返ることもあるだろうとして三日置くと言うと、死んだ者が生き返ることがあるものか、阿呆なことを言うと、どうも知恵のある様なことを言う。その様に明に知る知恵があるのなら地獄はないと思いそうなものだが、これはまたあると思う。見なさい、俗人は賢くて理が暗いので愚夫である。この様な族は孔子の手際でも孟子の手際でも曉すことはできない。愚という名字が付いては、叱っても一つも通じない。そこで愚夫に逢ってはただうんうんとばかり言って置く。棄てて置くのがよい。

○凡居父母之喪云々。劈初頭に古と云てここで凡と云が、ちきに取捕て今をかふせよと云ことぞ。司馬温公が古垩賢の本道の処をまけてかかりそうなものなれとも、垩賢の道より外に云はぬ。これか司馬温公流儀とみへる。三年の喪は今はならぬから喪は一年と云はぬものなり。あたまからいたくない灸をしたいと云様なもの。温公が當世へ出すことなれとも、大祥の前に肉食をするなと云はれたは、手もなく三年の喪をせよなり。○有疾は肴をくうてもよい。○當復初か借金を返した様なもの。内篇にも復初と云字あるが、皆よい字なり。理なりな文字なり。今どうで忘れて食ふたから精進をちよふと云。是がをかしくてならぬことなり。忘れたは不調法にて、二度目に食は子はよい。それて筭用すむぞ。○素食不能下咽が、中に病身者ありて、肉肴のふては飯を食ふことのならぬものがある。是が彼の貝原氏のあんじさっしゃる処なり。然るに垩賢の教は道理のとをり教をするゆへ無調法はない。肉汁及云々なり。肉をくうても病気病身なればくわぬと同しこと。これなれは一体の肉も大補湯も益気湯も同じことになる。今日肴を食はずとも、甘物を食へば精進をちになる。今大身なものの百ヶ日の振舞などをみるに、中々乾肉などを食ふやうなことではない。いっかど甘いことなり。それが精進をちたのなり。
【解説】
「凡居父母之喪者、大祥之前皆未可食肉飮酒。若有疾暫須食飮。疾止亦當復初。必若素食不能下咽久而臝憊、恐成疾者、可以肉汁及脯・醢、或肉少許助其滋味」の説明。、大祥の前には肉食飲酒をしてはならないが、病人はそれがなければ飯を食えない場合もあるから、病人はそれをしてもよい。一方、肉を食わなくても甘物を食えば精進落ちになる。
【通釈】
「凡居父母之喪云々」。最初に古と言って、ここで凡と言うのが、直に取り捕えて今はこうしなさいということ。司馬温公であれば古聖賢の本道の処を曲げて掛かりそうなものだが、聖賢の道より外は言わない。これが司馬温公の流儀と見える。三年の喪は今はできないから喪は一年だとは言わない。そうでなければ、最初から痛くない灸をしたいと言う様なもの。温公が当世で、大祥の前に肉食をするなと言われたのは、手もなく三年の喪をしろということ。「有疾」では肴を食ってもよい。「当復初」は借金を返した様なもの。内篇にも復初という字があるが、皆よい字である。理の通りな文字である。今どうも忘れて食ったから精進が落ちるだろうと言う。これが実に可笑しいこと。忘れたのは不調法で、二度目に食わなければよい。それで算用が済む。「素食不能下咽」が、中に病身者がいて、肉肴でなければ飯を食うことがならない者がいる。これがあの貝原益軒の案じられた処である。そこを聖賢の教えは道理の通りに教えをするので無調法はない。「肉汁及云々」である。肉を食っても病気で病身であれば食わないのと同じこと。これであれば一体の肉も大補湯も益気湯も同じことになる。今日肴を食わなくても、甘物を食えば精進落ちになる。今大尽の百ヶ日の振舞いなどを見ると、中々乾肉などを食う様なことはない。しかし、甘い物をよく食う。それが精進落ちである。
【語釈】
・内篇にも復初…小学内篇明倫24集註と稽古8にある。

○宴楽が大事なもので、酒でからかただ酒を飲むが宴楽ではない。間[あいの]押[おさい]のと云と宴楽になる。気の合た友と飲は宴楽。今日は寒ひから飲むと云は宴楽ではない。心喪と云も此様なところで合点すること。牡丹かよく咲たからあれを見ながらと云て德利をもってでる。もう宴楽になる。○衰麻は喪服の惣名。楽む意があれば、喪服は来てをろふとも喪をせぬになる。扨々わるい風俗になれば以の外なことどもがあれとも、是は頓とかまわぬことじゃ。なぜ是は搆はぬことと云へば、何国でも上からの御定があって、学者の方から彼此理屈を云に及はぬことぞ。役人沙汰にわたしてをけとなり。
【解説】
「不可恣食珍羞盛饌、及與人宴樂。是則雖被衰麻、其實不行喪也。唯五十以上、血氣既衰、必資酒肉扶養者、則不必然耳。其居喪聽樂、及嫁娶者、國有正法。此不復論」の説明。「宴楽」をしてはならない。喪服を着ていても楽しむ意があってはならない。その他、以の外のことは上の御定めがあるので、学者が構う必要はない。
【通釈】
「宴楽」が大事なもので、酒もただ飲むのであれば宴楽ではない。間や押えと言えば宴楽になる。気の合った友と飲むのは宴楽。今日は寒いから飲むと言うのは宴楽ではない。心喪もこの様なところで合点すること。牡丹がよく咲いたからあれを見ながらと言って徳利を持って出る。もう宴楽になる。「衰麻」は喪服の総名。楽しむ意があれば、喪服は着ていても喪をしないことになる。さて、悪い風俗であれば以の外なことがあるが、それには頓と構わない。何故これは構わないのかと言うと、何処の国でも上からの御定めがあって、学者の方からかれこれと理屈を言うには及ばないからである。役人沙汰に渡して置けと言ったのである。


嘉言24
○父母之喪、中門之外擇樸陋之室爲丈夫喪次。斬衰寢苫枕塊、不脱絰帶、不與人坐焉。婦人次、於中門之内別室、撤去帷帳・衾褥・華麗之物。男子無故不入中門、婦人不得輒至男子喪次。晉陳壽遭父喪有疾、使婢丸藥。客行見之、郷黨以爲貶議。坐是沈滯坎坷終身。嫌疑之際不可不愼。
【読み】
○父母の喪には、中門の外にて樸陋の室を擇びて丈夫の喪次と爲し、斬衰し苫に寢ね塊を枕にし、絰帶[てったい]を脱がず、人と坐せず。婦人の次は、中門の内に於て室を別にし、帷帳・衾褥・華麗の物を撤りて去つ。男子故無ければ中門に入らず、婦人輒ち男子の喪次に至ることを得ず。晉の陳壽父の喪に遭いて疾有り、婢をして藥を丸ぜしむ。客行きて之を見、郷黨以て貶議を爲す。是に坐して沈滯坎坷[かんか]して身を終う。嫌疑の際、愼まざる可からず。

○父母之喪云々。平生は内に夫婦一所に寢臥が、喪の時は表へ出て寢る。○樸陋はかざりのないこと。歴々は金張附もあり、眞の黒塗りの床ぶちの金銀をちりはめ、釘掩などあれとも、又どこぞに一つかざりなくうるしけのない間があるもの。そこにをるぞ。ここらも歴々のことに云ふことぞ。○枕はやわらかなものをするものなれとも、瓦やなんぞをする。それはなんの為めにすると云はれてはたまらぬこと。礼と云ものは孝子の親を思ふ心を考へ々々して性写に出来たもの。親は今土の中に居ると思へはとふも忍られず。そこで我は塊を枕にする。孝子の本意が吾身を責て親を思ふぞ。
【解説】
「父母之喪、中門之外擇樸陋之室爲丈夫喪次。斬衰寢苫枕塊」の説明。喪の時は表の飾りのない部屋で寝る。枕は堅いものを使う。孝子は自分の身を責めて親を思う。
【通釈】
「父母之喪云々」。平生は内で夫婦一所に寝るが、喪の時は表へ出て寝る。「樸陋」は飾りのないこと。歴々には金貼付けもあり、真の黒塗りの床縁に金銀をちりばめ、釘隠しなどもあるが、また何処かに一つ飾りのなく、漆気のない間があるもの。そこにいる。ここらも歴々のことで言うこと。「枕」は柔らかなものでするものだが、瓦や何かでする。それは何のためにするのかと言われては堪らない。礼というものは孝子が親を思う心を考えて生写しにできたもの。親は今土の中にいると思えばどうも忍びられない。そこで自分は塊を枕にする。孝子の本意が我が身を責めて親を思うもの。

○不脱経帯云々は、らくに子ぬこと。人と相對してよもやまの咄をせぬこと。喪の時は男女の間をわけるゆへ、小部屋を見立て幕をはりてをる。蕐麗なものは用ぬなり。男の分は决して奥へは入らぬ。母も祖母もあり、その外もあり、病用てなけれは决して奥へ入らぬことと云てもないが、訳なしに入らぬことなり。あとへ男女の間のたたぬをたして戒にする。○晋陳寿。まづ是が大博物、大才な名のあった、世上で大儒と云て三國志を作た高名の人なり。ときに喪中に病気で医者からこれ々々とさしづあって、下女に丸薬をこしらへさせた。ををきくわるいことでもない。見舞に来た客が見て、これはなんとしたことじゃと云た。晋の時分ゆへ名教は衰へたが、中蕐は礼国なり。陳寿は学者と聞たが忌中に女を側に置たと云て、それをあそこでもここでも云て、一生かげもののやうで世をくらした。○沈滞坎坷は、立身せずをちぶれた底を云。評判のわるいことぞ。たとへは忰を学問の為めに陳寿が処へやろふと云と、いやあの陳寿はをくがよかろうと云様にさしつかへてぎしかわすることを坎と云。あとへもさきへもゆかれぬていを云。はかどらぬことをも云。あれほど名高ひ陳寿で名を出すべき人なれとも、一生評判かわるふてしまわれた。
【解説】
「不脱絰帶、不與人坐焉。婦人次、於中門之内別室、撤去帷帳・衾褥・華麗之物。男子無故不入中門、婦人不得輒至男子喪次。晉陳壽遭父喪有疾、使婢丸藥。客行見之、郷黨以爲貶議。坐是沈滯坎坷終身。嫌疑之際不可不愼」の説明。喪の時は男女の間を分けるので、男は決して奥に入らない。晋の陳寿が喪中に病気になって、下女に丸薬を拵えさせた。それを人に言い触らされ、それからは一生日陰者で終えた。
【通釈】
「不脱経帯云々」は、楽に寝ないこと。人と相対して四方山話をしない。喪の時は男女の間を分けるので、小部屋を見立てて幕を張っている。華麗なものは用いない。男の分は決して奥へは入らないもの。母も祖母もあり、その外もあり、病用でなければ決して奥へ入らないと言うのでもないが、訳もなく入らない。この後に男女の間が立たないことを出して戒めにする。「晋陳寿」。先ずこれが大博物で大才な名のある人で、世上では大儒と言い、三国志を作った高名な人である。時に喪中に病気で医者からこれこれと指図があって、下女に丸薬を拵えさせた。それは大して悪いことでもないが、見舞いに来た客が見て、これは何としたことだと言った。晋の時分なので名教は衰えたが、中華は礼の国である。陳寿は学者だと聞いたが忌中に女を側に置いたと、あそこでもここでも言ったので、一生日陰者の様に世を暮らした。「沈滞坎坷」は、立身せずに落ちぶれた体を言い、評判の悪いこと。たとえば忰を学問のために陳寿の処へ遣ろうと言うと、いやあの陳寿は止めて置く方がよいだろうと言う様に、差し支えてぎしぎしすることを坎と言う。後へも先へも行けないことを言う。捗らないことをも言う。あれほど名高い陳寿で名を出すべき人だったが、一生悪い評判で終えた。


嘉言25
○父母之喪不當出。若爲喪事及有故不得已而出、則乗樸馬布裹鞍轡。
【読み】
○父母の喪には當に出ずるべからず。喪の事及び故有るが爲に已むを得ずして出ずるが若きは、則ち樸馬に乗り、布にて鞍轡[あんひ]を裹[つつ]む。

○父母之喪云々。忌中にはなりたけ出ぬがよい。されとも用向があって無拠他出すれば乘樸馬也。馬にはさま々々飾りあるものなれともそれがない。鞍はあれとも小荷駄のよふで、白い布にで包て親の喪のある者と知らせることなり。
【解説】
忌中にはなるべく出ないのがよいが、出なければならない時は樸馬に乗り、鞍轡を白い布で包んで喪中であることを知らせる。
【通釈】
「父母之喪云々」。忌中にはなるべく出ないのがよい。しかし、用向きがあって拠所なく他出する時は「乗樸馬」である。馬には様々な飾りがあるものだが、それがない。鞍はあるが小荷駄を運ぶ馬の様で、白い布で包んで親の喪がある者だと知らせるのである。
【語釈】
・小荷駄…馬に負わせる荷物。


嘉言26
○世俗信浮屠誑誘、凡有喪事無不供佛飯僧。云、爲死者、滅罪資福、使生天堂受諸快樂。不爲者必入地獄、剉焼舂磨、受諸苦楚。殊不知死者形既朽滅、神飄散、雖有剉焼舂磨、且無所施。亦况佛法未入中國之前、人固有死而復生者。何故、都無一人誤入地獄、見所謂十王者耶。此其無有而不足信也明矣。
【読み】
○世俗浮屠の誑誘を信じ、凡そ喪の事有れば佛に供し僧に飯せざる無し。死する者の爲に、罪を滅し福を資[たす]け、天堂に生まれ諸々の快樂を受けしむ。爲さざる者は必ず地獄に入り、剉焼舂磨[ざしょうしょうま]し、諸々の苦楚を受くと云う。殊に、死する者は形既に朽滅し、神已に飄散し、剉焼舂磨有りと雖も、且く施す所無きを知らず。亦况や佛法未だ中國に入らざる前、人固より死して復た生くる者有り。何の故ぞ、都て一人誤りて地獄に入り、十王と謂う所の者を見ること無きや。此れ其の有る無くして信ずるに足らざるや明かなり。

○世俗信云々。さて今日此方で親の喪を執ること、誠がないゆへならぬ。重荷に小附て、仏法と云ものがまた其内にはへりてをる。是が替たことで、人の喪の請合しごとをする。親の喪などと云は子たる者の誠でして、他人を頼みがたいことなれとも、出家を頼めは死者の為めによいと云てたのむ。この邪魔のあるで、喪をとらいでも仏へ頼むですむになりた。○浮屠と云字のをこりは、中國で仏法を浮屠と云。浮屠と云へば人の名かなんぞの様に思がそうではない。中蕐の者の耳へは天竺の者のことはしれぬ。何を読でも経文のことがしれぬが、いかいこと仏陀々々と云ふことがある。それが中州[から]の者の耳へは浮屠ときこへ、仏法の名を浮屠と云た。此類はさま々々あることなり。人のことを漢と云も、中州の者か匈奴へゆきたれば、向で漢々と云しとぞ。人のことを漢と云。酒酔を醉漢と云字などもある。皆の衆なぜここてあのやうに長言云ふと思はれんが、字の筋をしらせる為めに如此云ことぞ。又、先年たれやら咄した、朝鮮来聘の時、御馳走の為め御城にて御能あり、朝鮮人の耳へ何にかひとつもしれず、惟候々と云斗耳に入るゆへ、能のことをそうろうと名づけたと云咄しあり。是等と同日の談なり。浮屠と云て只仏のと云こと。
【解説】
世俗信浮屠」の説明。親の喪は子の誠でするものだが、今は仏が請け合ってそれをする。中華の者は天竺の言葉を知らないので、仏陀のことが浮屠と聞こえた。そこで仏法のことを浮屠と言う様になった。
【通釈】
「世俗信云々」。さて今日日本で親の喪を執ることは、誠がないのでできない。重荷に小付で、仏法というものがまたその内に入っている。これが変わったことで、人の喪の請け合い仕事をする。親の喪などというものは子たる者の誠でして、他人を頼み難いことなのだが、出家を頼めば死者のためによいと言って頼む。これが邪魔なことで、喪を執らなくても仏に頼めば済むことになった。「浮屠」という字の起こりは、中国で仏法を浮屠と言う。浮屠と言えば人の名か何かの様に思うがそうではない。中華の者は天竺の者の言葉はわからない。何を読んでもわからず、経文のこともわからないのだが、大層仏陀ということがある。それが唐の者の耳へは浮屠と聞こえたので、仏法の名を浮屠と言った。この類は様々とある。人のことを漢と言うのも、唐の者が匈奴へ行くと、向こうで漢と言ったそうである。そこで、人のことを漢と言う。酒酔いを酔漢ということもある。皆の衆は何故ここでその様に長言を言うのかと思うだろうが、字の筋を知らせるためにこの様に言ったのである。また、先年誰かが話したことだが、朝鮮来聘の時、御馳走のために御城で御能があった。朝鮮人の耳へは何一つもわからなかったが、ただ候という語ばかりが耳に入ったので、能のことを候と名付けたという話がある。これらと同日の談である。浮屠はただ仏ということ。

○誑誘は人の心に迷ひあるをもう一つ迷はせて、あとでよくしよふとてのこと。元しれたことはなんでも鷺は鷺、鳫はからすと云が理のなりなこと。疑もなけれとも、人の死なぞと云はさりとはいやなきびのわるいもの。そこで人が迷ふなり。所へもちこむ。是が那箇流義ぞ。なきこそ本の姿なりけりと云があちのたかいことであれとも、それを合点するものはない。其塲を云て聞せても通せぬゆへ、相手になるものがない。それゆへ仏法も此様な地獄なとと第二段なことで教をなすなり。誑誘は畢竟教をはやくまわらせよふとてのこと。嬰族[こども]へ飯を食ふて直に寐ると牛になると云ふ。知惠がないゆへ、そう云はれるとどうか氣味わるいゆへ起てをる。中々一長者[おとな]は其位のことは合点せぬことぞ。今仏法に迷ふも子共と同じことなり。根はあれとも、親切でしたことでもあろうが本道でない。教よふそではない。あれも昏礼と云ては仏法の示しやふがないゆへ死と云処へもちこんだぞ。ここはあちのあつかりことになってくる様にしたぞ。
【解説】
「誑誘」の説明。死は人が嫌う気味の悪いものなので、人がそれに迷う。仏は本来虚無を唱えるものだが、それでは人に理解されない。そこで地獄などを出す。誑誘は教えを早く回らせようとしてのこと。それは、飯を食って直ぐに寝ると牛になると子供に言うのと同じである。
【通釈】
「誑誘」は人の心の迷いをもう一つ迷わせることだが、それは後でよくしようとしてのこと。本来、知れたことは何でも鷺は鷺、烏は烏というのが理の通りのこと。これは疑いもないことだが、人の死などというものは実に嫌な気味の悪いもの。そこで人が迷う。そこへ持ち込む。これが仏の流儀である。なきこそ本の姿なりけりと言うのがあちらの高いことなのだが、それを合点するものはいない。その場を言って聞かせても通じないので、相手になる者がない。そこで仏法もこの様な地獄などの第二段なことで教えを成す。誑誘は畢竟教えを早く回らせようとしてのこと。飯を食って直ぐに寝ると牛になると子供に言う。知恵がないので、そう言われるとどうも気味が悪いので起きている。大人はその位のことでは中々合点しない。今仏法に迷うのも子供と同じこと。根は親切でしたのだろうが、本道ではなく、教えにならない。あれも昏礼と言っては仏法の示し様がないので死という処へ持ち込んだのである。これをあちらの与り事になる様にしたのである。

さてあの道はなにももたぬと云ことなれとも、後世は身帯よいがある。那道も昏冥なりたるゆへなり。火宅僧とて自身己の家て飯を炊てくうぞ。あちはものにしうしゃくせぬが本意ゆへ家もかまどもなく、人の内で炊た飯をもろふて食ふ。人に振舞れるより外食ひやうはない。そこで僧には飯するはづのことぞ。今出家を乞食と云たら腹をたとふが、だたい乞食と云が品の高いことぞ。女房もてばしゅうじゃくする、子があればしゅうじゃくになるとて家を出るを出家と云ぞ。今庫裏もありて米をつくは俗にかへりたのなり。釈迦や達磨にはないことぞ。樹下に不三宿。木の下にも三晩は寐ず。是はよい榎と云と、もはやそれに執着と云。善悪をのけて、今の寺の立派な書院などは本道のことではない。寂滅虚無の見ぬゆへ、又こうするも仏心とすきしだいなことを云。
【解説】
「凡有喪事無不供佛飯僧」の説明。仏は寂滅虚無を唱えるのだから、身代を持つことなどはなく、飯も貰って食う筈だが、後世は火宅僧もいて、立派な書院を持つ者もいる。
【通釈】
さてあの道は何も持たない筈だが、後世は身代のよい者がいる。それは、あの道も昏冥なったからである。火宅僧と言って我が家で飯を炊いて食う。あちらは物に執着しないのが本意なので、家も竈もなく、人の家で炊いた飯を貰って食うもの。人に振舞われるより外に食い様はない。そこで僧には飯する筈のこと。今出家を乞食と言えば腹を立てるだろうが、そもそも乞食というのは品の高いもの。女房を持てば執着する、子があれば執着になるとして家を出るのを出家と言う。今庫裏もあって米を搗くのは俗に還ったのである。釈迦や達磨にそれはない。「樹下不三宿」。木の下にも三晩は寝ない。これはよい榎だと言えば、最早それに執着すると言う。善悪を別としても、今の寺の立派な書院などは本道のことではない。寂滅虚無が見えないので、またこうするのも仏心だと好き次第なことを言う。
【語釈】
樹下に不三宿…

○為死者云々。これから地獄極楽の咄なり。是が死だ者をだますではなく、生た者をだます趣向。愚俗を暁すぞ。彼の牛になるの処なり。是を歴々から軽者迠信するが、人は死ぬと一日々々となくなる。棺椁でもなふてはなをさら形は烟草のすいがらの様になり、魂は煙のやふになくなってしまう。どのやうなせめがあるにしても形がきへてしまうては出来ぬ筈。これらは殊外咫尺のことなり。どうしてまよふが不思儀と云ほどなことそ。假間時考たら少し點[りこふな]者は迷ひそもないものなれとも、大勢の者が迷ふ。其筈よ、愚夫之難曉なり。仏法の中国に来たもづんと後世のこと。中州は後漢の明帝、大倭國は欽明天皇の時に海舶したそ。それより前死して蘇たる人夛くあれとも、一人でも地獄へ行た話はきかぬ。○十王は閻魔の下役じゃと浅見先生の弁なり。これを見たものない。これらはよく考てみやれ。どふもある筈はない。これではまた温公の云やふがたりぬ。出家も是を信じはせぬ。是を信ずる位では出家ではない。なれとも信する立になってをるゆへ信ずる者もあろふか、それはひくいことなり。まづ大概な者はこれに迷ふゆへ、こう云はれたもの。
【解説】
「云、爲死者、滅罪資福、使生天堂受諸快樂。不爲者必入地獄、剉焼舂磨、受諸苦楚。殊不知死者形既朽滅、神已飄散、雖有剉焼舂磨、且無所施。亦况佛法未入中國之前、人固有死而復生者。何故、都無一人誤入地獄、見所謂十王者耶。此其無有而不足信也明矣」の説明。地獄極楽は生きている人を騙すもの。人は死ぬとなくなって行くのだから、地獄の責めがある筈はない。また、誰からも地獄へ行った話も十王を見た話も聞いたことはない。実は出家もその様なことを信じてはいないのである。
【通釈】
「為死者云々」。これからは地獄極楽の話である。これが死んだ者を騙すのではなく、生きた者を騙す趣向である。愚俗を曉すのであり、あの牛になるの処である。これを歴々から軽い者までが信じるが、人は死ぬと一日々々になくなる。棺椁でもなくては尚更形は煙草の吸殻の様になり、魂は煙の様になくなってしまう。どの様な責めがあるにしても形が消えてしまっては、それはできない筈。これらは殊の外咫尺のことで、どうして迷うのか、不思議なことだと言うほどのこと。暇な時に考えたら少し利口な者なら迷いそうもないものだが、大勢の者が迷う。その筈で、「愚夫難曉」である。仏法が中国に来たのはかなり後世のこと。唐では後漢の明帝、日本では欽明天皇の時に渡来した。それより前に死んで蘇った人が多くいたが、誰からも地獄へ行った話は聞かない。十王は閻魔の下役だとは浅見先生の弁である。これを見た者はいない。これらをよく考えて見なさい。どうもある筈はない。これではまだ温公の言い様が足りない。出家もこれを信じはしない。これを信じる位では出家ではない。しかし、信じることになっているので信じる者もあるだろうが、それは卑いこと。大概な者は先ずはこれに迷うので、こう言われたもの。
【語釈】
・愚夫之難曉…小学外篇嘉言23。「愚夫難曉」。


嘉言27
○顔氏家訓曰、吾家巫覡・符章、絶於言議、汝曹所見。勿爲妖妄。
【読み】
○顔氏家訓に曰く、吾が家は巫覡[ふげき]・符章、言議に絶すること、汝が曹[ともがら]の見る所なり。妖妄を爲すこと勿かれ。

○顔氏家訓曰云々。小學の父子の親に仏法を呵るはなぜと云に、喪をつとめる邪魔になる。人間一生孝行のしまいは親の喪なり。仏法行はれてより人の体を火にやくことあるなり。火を付たものを火で焼か刑罪。親をそれと同じことにする、一生の孝行をはたくことになる。是迠仏の害を喧べ、此段は子ぎ山伏の御符の札と云を信することを云ふ。是も仏法と同しこと。親の病気を祈祷をするの咒をするのと云へは、孝行のさまたげになる。委庸医と云もそれ。不吟味な医者にまかせてをく。日比の孝行みなになる。○巫覡が、此の符を戴けば医者の薬を呑に及ぬと云。こちの孝行をみなにされる。さま々々な妖怪なことを云て人をたます。それもただ手振ではない。此符を枕元に置けばよいなどと云。唐も日本もあることで、をれが家てはあれが云ことをかれこれ云な、根抦やめよとなり。山伏かと云と此方では無用と云。御子息疱瘡と云と、いや々々無用々々と云。○絶於言議が門留じゃと云やうなもの。皆がみる通り、あやしいことはかりにもするなとなり。
【解説】
火付けを火炙りにするのは刑罰としてであり、仏法によって親を火葬にするのは一生の孝行を台無しにすることになる。禰宜山伏の護符や札などを信じるのも仏法を信じるのと同じで、人を騙すものであり、孝行の妨げになる。その様なものは不要である。
【通釈】
「顔氏家訓曰云々」。小学の父子の親で仏法を呵るのは何故かと言えば、喪を勤める邪魔になるからである。人間の一生で、孝行の最後は親の喪である。仏法が行われてから人の体を火で焼くことがある。火を付けた者を火で焼くのは刑罰としてであり、親をそれと同じにすれば、一生の孝行を叩くことになる。これまでは仏の害を述べて、この段は禰宜山伏の護符や札などを信じることを言う。これも仏法と同じこと。親の病気に祈祷をしたり咒をしたりするのは孝行の妨げになる。「委庸医」と言うのもそれ。不吟味な医者に任せて置くと、日頃の孝行が台無しになる。「巫覡」。この符を戴けば医者の薬を飲むには及ばないと言う。それで、こちらの孝行は台無しにされる。様々な妖怪なことを言って人を騙す。それもただの手振りではない。この符を枕元に置けばよいなどと言う。これが唐にも日本にもあることだが、俺の家ではあれが言うことをかれこれ言うな、根から止めろと言った。山伏がと言えば、こちらでは無用と言う。御子息が疱瘡と言えば、いやいや無用と言う。「絶於言議」が門留めという様なもの。皆が見た通りで、怪しいことは仮にもするなと言った。
【語釈】
・委庸医…小学外篇嘉言19。「伊川先生曰、病臥於床、委之庸醫、比之不慈不孝。事親者、亦不可不知醫」。


嘉言28
○伊川先生曰、人無父母、生日當倍悲痛。更安忍置酒張樂、以爲樂。若具慶者可矣。
【読み】
○伊川先生曰く、人父母無ければ、生日には當に悲痛を倍すべし。更に安んぞ酒を置き樂を張りて、以て樂を爲すに忍びん。具慶の者の若きは可なり。

○伊川先生曰云々。誕生日のこと。宋朝でも天子の御誕生日は大礼て祝ありたことなり。いかさま祝ふべきことではあれとも、両親のない者はすることではない。ああをれが今日生れた日じゃが、両親はござらぬとなくはづのことじゃ。山﨑先生が、忌日は終身の喪と云が、生日も終身の喪じゃと云れた。虚文度数の礼者では中々云はれぬ口上。あなた方の云はれることは格別なことぞ。两親の息才な者は祝ふも美事なこと。今日生れた日であって、其日雨か降たなとと云か楽しましいことで、料理をこしらへて祝がよい。甚た祝ふことになりてをる。陳同甫の処から、朱子の生日を覚へて進物をよこいたことなど見へてをるぞ。朱子の親御は朱子の嬰孩の時死なれたが、御袋へ對して祝ふたかしれぬ。朱子九月生れて生日に季秋の祭をなされた。親御に料理を備られたなれば、同甫の進物も此に用たなるへし。生日は目出度ことなれとも、親のないものは祝ふ筈はないと云が、かぎりもない厚ひことを云たものぞ。
【解説】
誕生日は祝うべきものだが、両親のいない者は両親がいないことを悲しむ筈で、誕生日を祝うことはない筈。山崎先生が、忌日は終身の喪と言うが、生日も終身の喪だと言われた。朱子は九月生まれなので、生日に季秋の祭をして親を祭った。
【通釈】
「伊川先生曰云々」。誕生日のこと。宋朝でも天子の御誕生日は大礼で祝った。いかにも祝うべきことではあるが、両親のいない者はそれをしない。ああ今日は俺の生まれた日だが、両親はいないと泣く筈のこと。山崎先生が、忌日は終身の喪と言うが、生日も終身の喪だと言われた。これが虚文度数の礼者では中々言えない口上である。貴方方の言われることは格別なこと。両親が息災な者は祝うのも美事なこと。今日が生まれた日であって、その日雨が降ったなどというのが楽しましいことで、料理を拵えて祝うのがよい。甚だ祝うことになっている。陳同甫が朱子の生日を覚えていて進物を遣したことなどが見える。朱子の親御は朱子が子供の時に死なれたので、御袋に対して祝ったのかも知れない。朱子は九月生まれで生日に季秋の祭をなさった。親御に料理を供えられたのであれば、同甫の進物もこれに用いたことだろう。生日は目出度いことだが、親のいない者は祝う筈はないとは、限りもなく厚いことを言ったもの。