稽古10
○子曰、武王・周公其達孝矣乎。夫孝者善繼人之志、善述人之事者也。武王・周公、文王子。達、通也。言天下通共之孝也。踐其位、行其禮、奏其樂、敬其所尊、愛其所親。事死如事生、事亡如事存。孝之至也。踐、升也。其、先王也。所尊、所親、先王之祖考・子孫・臣庶也。始死、謂之死。既葬則曰反而亡焉。皆指先王也。此皆繼志述事之意也。
【読み】
○子曰く、武王・周公は其れ達孝なるかな。夫れ孝とは善く人の志を繼ぎ、善く人の事を述ぶる者なり。武王・周公は文王の子。達は通なり。天下通共の孝を言うなり。其の位に踐[のぼ]り、其の禮を行い、其の樂を奏し、其の尊ぶ所を敬い、其の親しむ所を愛す。死に事うること生に事うるが如く、亡に事うること存に事うるが如し。孝の至りなり。踐は升なり。其は先王なり。尊ぶ所、親しむ所は、先王の祖考・子孫・臣庶なり。始めて死する、之を死と謂う。既に葬せば則ち反て亡と曰う。皆先王を指すなり。此れ皆志を繼ぎ事を述ぶるの意なり。

十一月六日
【語釈】
・十一月六日…寛政元年(1789)11月6日。

○子曰、武王周公は其達孝矣乎云々。此章は前のつつきから武王と周公の孝行を云て、是は殊外幅の大きひ孝行なり。中々自餘の及ふことてはない。偖て是は武王の天下を保たことて、孝行とは銘のうたれそもないことなり。ところを孔子か孝行と銘を打った。○達孝を浅見先生の弁に、あそこてはこふ云かここてはこふは云はぬと云ことなく、とこても孝行と云ことなり。生た親につかへると云こと斗りてなく、死後まてもいつも々々々孝行なり。この通りの子をもては、親か死ても親の生て居ると同しことそ。然れは親をいつまても生してをく仕方ゆへ大な孝行なり。○践其位云々。其の字は先祖をさして云字なり。あのとをり天下へ功業か届き、先祖の思召の通りをしてとった。そこて事死如事生、事亡如事存なり。死た後迠手か届き、生た親に斗り共甘旨てなく、死た後迠生た時のとをりにする。
【解説】
「子曰、武王・周公其達孝矣乎。夫孝者善繼人之志、善述人之事者也。武王・周公、文王子。達、通也。言天下通共之孝也。踐其位、行其禮、奏其樂、敬其所尊、愛其所親。事死如事生、事亡如事存。孝之至也。踐、升也。其、先王也。所尊、所親、先王之祖考・子孫・臣庶也」の説明。武王と周公は、生きた親に事えるだけでなく、死後までもいつも孝行だった。そして、先祖の思し召しの通りを継いだ。
【通釈】
「子曰、武王周公其達孝矣乎云々」。この章では前に続いて武王と周公の孝行を言う。これは殊の外幅の大きい孝行で、他人の及ぶことでは中々ない。さてこれは武王の天下を保ったことで、孝行とは銘を打てそうにもないこと。そこを孔子が孝行と銘を打った。「達孝」は浅見先生の弁に、あそこではこう言うが、ここではこうは言わないということなく、何処でも孝行だということ。生きた親に事えるというばかりでなく、死後までもいつも孝行である。この通りの子を持てば、親が死んでも親が生きているのと同じこと。そこで、親をいつまでも生かして置く仕方なので大きな孝行である。「践其位云々」。其の字は先祖を指して言う字で、あの通りに天下に功業が届き、先祖の思し召しの通りをして取った。そこで「事死如事生、事亡如事存」である。死んだ後までに手が届き、生きている親にばかり美味い物を食わせるのではなく、死んだ後まで生きた時の通りにする。

○始死謂之死云々。これらに心を入れて見ることそ。死と云へは同しことなれとも、死亡とわけたにあんはいのあることなり。息を引取てしまふともふこちのものてはない。そのとふざを死と云。それから殯と云にしてをく。此内か挌式てちこふことそ。天子は七ヶ月目て葬り、諸侯は五ヶ月めて葬り、大夫は三つ月めて葬る。葬は葬地へやりて葬ることて、それから亡と云。此の様に名のわかると云か自然のありさまなり。息は引取てもまたそこにあり々々とあり、棺へ入れてもそこにあり々々とあり、殯もあり々々とあるか、もはや土の中へ埋てしまふたと云になっては行くこともなら子は見ることもならぬ。そこて葬と云になっては消へ失せてなくなりきりたもの。そこて亡と云。はやく手廻をして埋めたかるは気か薄々しいからなり。孝子の心から、死じゃの亡しゃのと云字もつけたものなり。跡方もなくやれ親御もをられぬと云処からして名か替るなり。早く埋めたかるのは死と云内を亡にするのなり。中庸てもと云とをり、本文事死如事生は忌中て合点し、事亡如事存は祭のことと合点するかよい。忌中の内は膳を備ても祭とは云はす、土へ埋めるとしきに虞祭と云なり。
【解説】
始死、謂之死。既葬則曰反而亡焉。皆指先王也。此皆繼志述事之意也」の説明。死は死んだ当座から葬るまでを言い、亡は葬った後を言う。「事死如事生」は忌中のことで、「事亡如事存」は祭のことである。
【通釈】
「始死謂之死云々」。これらは心を入れて見なさい。死んだのは同じことだが、死・亡と分けたのには塩梅がある。息を引き取ってしまうともうこちらのものではない。その当座を死と言う。それから殯にして置く。これが格式で違う。天子は七箇月目て葬り、諸侯は五箇月目で葬り、大夫は三箇月目で葬る。葬は葬地へ遣って葬ることで、それからは亡と言う。この様に名が変わるのが自然の有り様である。息は引き取ってもまだそこにありありとあり、棺へ入れてもそこにありありとあり、殯もありありとあるが、最早土の中へ埋めてしまうと、行くこともできなければ見ることもできない。そこで葬ということになっては消え失せてなくなり切る。そこで亡と言う。早く手回しをして埋めたがるのは気が薄々しいためである。孝子の心から、死や亡という字も付けたもの。跡形もなく、やれ親御もおられないと言う処から名が変わる。早く埋めたがるのは死の内に亡にするもの。始めに中庸で言った通り、本文の事死如事生は忌中で合点し、事亡如事存は祭のことと合点しなさい。忌中の内は膳を備えても祭とは言わず、土へ埋めると直ぐに虞祭と言う。
【語釈】
・中庸てもと云とをり…この条は中庸章句19である。


稽古11
○淮南子曰、周公之事文王也、行無專制、事無由己、身若不勝衣、言若不出口。有奉持於文王、洞洞屬屬如將不勝、如恐失之。可謂能子矣。
【読み】
○淮南子に曰く、周公の文王に事うるや、行い、專制すること無く、事、己に由ること無く、身、衣に勝えざるが若く、言、口より出でざるが若し。文王に奉持すること有れば、洞洞屬屬として將に勝えざらんとするが如く、之を失わんことを恐るるが如し。子たるを能くすと謂う可し。

○淮南子曰云々。はるか後世の者なれとも、周公のことを聞及て書たもの。此章て周公のことを云ふ云よふか、舜を怨慕と云たとあまりまけぬ云よふそ。孟子にもをさ々々をとらぬほとなことなり。偖て々々周公のことをよく云はれたそ。○行は惣体へかけたことて、なにもかも手前の方から一分てして出すよふなことはなく、親の云付通りをした人なり。これかありへかかりな人はなんのこともないか、周公はいこふ大才な人そ。孔子も周公の才と云て、ありあまりた才の人て居て、さて行無專制也。周礼の三百官てみれはしれる。あの通りのことを一人てするあの才て、なにもかも一人身て出来ぬやふに、親の云付斗りかしこまりました々々々々々々々々と云。行無專制と云か親の前て至極結搆なことなり。親の前て大人ぶると云は孝行てはない。周公はあの才力て頓と子共のよふなり。某江戸に居るとき、軽ひ町人七十はかりになる母親か四十斗りになる子を三月の節句に屋敷へ礼に出るを呼ひかへした。なんてござると云たれは、今日は御目出度と云へと云た。親はこふしたものゆへ、いつも子共らしいかよい。
【解説】
「淮南子曰、周公之事文王也、行無專制、事無由己」の説明。周公は大才だったが、親の言い付け通りをした人だった。大人ぶるのは孝行ではない。子供らしいのがよい。
【通釈】
「淮南子曰云々」。淮南子は遥か後世の者だが、周公のことを聞き及んで書いたもの。この章で周公のことを言う言い様が、舜を怨慕と言ったのと負けないほどのこと。孟子にもおさおさ劣らないほどのこと。周公のことを実によく言われた。「行」は総体へ掛けたことで、何もかも少しも自分の意を出す様なことがなく、親の言い付け通りをした人である。これが普通の人なら何の事もないことだが、周公は大層大才な人である。孔子も周公の才と言い、有り余る才の人でいながら、さて「行無専制」である。周礼の三百官で見ればわかる。あの通りのことを一人でするあの才でありながら、何もかも一人身ではできない様に、親の言い付けばかりを畏まりましたと言う。行無専制というのが親の前では至極結構なこと。親の前で大人ぶるのは孝行ではない。周公はあの才力で実に子供の様だった。私が江戸にいた時、軽い町人で七十ばかりになる母親が、四十ばかりになる子が三月の節句に屋敷へ礼に出るのを呼び返した。何ですかと聞くと、今日は御目出度いと言えと言った。親はこうしたものなので、いつも子供らしいのがよい。
【語釈】
・淮南子…前漢の学者。姓は劉、名は安。漢の高祖の孫。淮南厲王劉長の子。淮南王をつぐ。のち叛を謀って自殺。~前122。ここは本の名。
・舜を怨慕と云た…小学内篇稽古6を指す。
・周公の才…論語泰伯11。「子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已」。

垩賢の上にあのやふな馬鹿らしいことはないか、兎角親の前ては知惠のないよふなと云かいこふ賞翫することなり。行は前て云通り惣体へかけて云ことて、事の一事の上て云ひ、衣服なともえきこなすことのならぬもののやふてありた。今上下つきのよいと云ことかある。是か君辺てはよいことて、親の前てはあとけなく着物をきてをることもならぬやふなり。衣服きこなすことならぬていなり。○奉持は文王の前へものをもって出ること。かいほふすることに云説もあるそふなれとも、それはわるいと云ことなり。文王の前へものをもって出た様子を云たものそ。ひょっとこれををとしはせまいかと気つかふていなり。○可謂能子矣。太極の本然から云たもの。孝行の至極なれとも、あるまいことをしたてはない。たたい人の子たる者はそふあるへきことしゃと云か可謂能子矣。これを餘りふきあけすに云か趣向そ。人間の人間たる当然はこふありつへきことしゃ。こふてないと云は、ちと人の子と云ても本道の子てはないのそ。次の章の可なりと云もこの意なり。
【解説】
「身若不勝衣、言若不出口。有奉持於文王、洞洞屬屬如將不勝、如恐失之。可謂能子矣」の説明。子は親の前では衣服を着こなすことができない体で、ものを持って出れば、落としはしないかと気遣う様な体が自然なもの。
【通釈】
聖賢の上にその様な馬鹿らしいことはないが、とかく親の前では智恵のない様にするのが大層賞翫されるもの。行は前で言う通りに総体へ掛けて言うことで、事の一事の上で言い、衣服なども着こなすことができない者の様だった。今裃つきがよいということがある。これが君辺ではよいことだが、親の前ではあどけなくて着物を着ることもできない様だった。衣服を着こなすことができない体である。「奉持」は文王の前へものを持って出ること。介抱することに言う説もあるそうだが、それは悪い。文王の前へものを持って出た様子を言ったもの。ひょっとしてこれを落としはしないかと気遣う体である。「可謂能子矣」。これが太極の本然から言ったもの。孝行の至極なことだが、ありえないことをしたのではない。そもそも人の子たる者はそうあるべきだと言うのが可謂能子矣である。これはあまり吹き上げずに言うのが趣向である。人間の人間たる当然はこうあるべき筈。こうでなければ、人の子と言っても本当の子ではない。次の章の「可也」もこの意である。


稽古12
○孟子曰、曾子養曾晳必有酒肉。將徹必請所與。問有餘必曰有。曾子、孔子弟子。名、參。曾皙、曾子父。名、點。徹、去也。曰有、恐親意更欲與人也。曾晳死。曾元養曾子必有酒肉。將徹不請所與。問有餘曰亡矣。將以復進也。此所謂養口體者也。曾元、曾子子。若曾子則可謂養志也。事親若曾子者可也。養志、承順父母之志、而不忍傷之也。
【読み】
○孟子曰く、曾子、曾晳を養うに必ず酒肉有り。將に徹せんとして必ず與うる所を請う。餘り有るかと問えば必ず有りと曰う。曾子は孔子の弟子。名は參。曾皙は曾子の父。名は點。徹は去るなり。有りと曰うは、親の意、更に人に與えんと欲するを恐るるなり。曾晳死す。曾元、曾子を養うに必ず酒肉有り。將に徹せんとして與うる所を請わず。餘り有るかと問わば亡しと曰う。將に以て復た進めんとするなり。此れ口體を養うと謂う所の者なり。曾元は曾子の子。曾子の若きは則ち志を養うと謂う可し。親に事うるに曾子の若き者は可なり。志を養うは、父母の志を承け順いて、之を傷るに忍びざるなり。

○孟子曰云々。有酒肉と云か、周公や武王の方ては吹聽することてはない。曽子は浪人の軽ひ身分て甘ひものをしんぜた。今のはまたあるかやと云と隨分あると云。ないものをあると云は親をだますやふなれとも、それにわけのあることそ。此をあの者にも一抔くわせたいとあるにないと云と、はてないかと云。そのはてと云はせるか親の心を寒くさせるのなり。隨分あると云と心持がよい。偖て手前に道理を得たことは流義の違ふと云か靣白ことそ。曽子は右の通りて、それを見習ふた曽元は又ぶんのことをして、うってつかぬことなれとも、なかはをなじこと。曽子のと曽元のと流のこわりそ。ここへ引たか、道理を得た上からは、其様に板行て押たやふなことはないと合点するかよい。三宅先生のやふな儼威嚴恪な方から訂斎のやふな先生かてき、直方先生のやふな活達な方に迂斎や石原のよふなかあり、あちこちしてちかった人が統を得られた。表向のちこふたに義論はいらぬことそ。
【解説】
曾子は浪人の軽い身分でも親に美味い物を進ぜた。親が今のはまだあるかと聞くと、なくてもあると答えた。それはあの者にも一杯食わせたいと思う親の心を大事にしたからである。曾元は親が今のはまだあるかと聞くと、あってもないと答えた。それは親に食わせたかったからである。曾子と曾元は流儀は違うが、どちらも道理を得たものである。道理は、板行で押した様なものではない。
【通釈】
「孟子曰云々」。「有酒肉」は、周公や武王の方では吹聴することではない。曾子は浪人の軽い身分で美味い物を進ぜた。今のはまだあるかと聞くと随分とあると言う。ないものをあると言うのは親を騙す様だが、それにはわけがある。これをあの者にも一杯食わせたいと思うのにないと言うと、はてないかと言う。そのはてと言わせるのが親の心を寒くさせるもの。随分あると聞くと心持がよい。さて自分に道理を得たことは流儀が違うというのが面白いこと。曾子は右の通りで、それを見習った曾元はまた違うことをした。それはうって違ったものだが、中は同じこと。曾子のと曾元のとは流れの小割である。それをここへ引いたのは、道理を得た上からは、板行で押した様なことはないということ。この様に合点しなさい。三宅先生の様な儼威厳恪な方から訂斎の様な先生ができて、直方先生の様な闊達な方に迂斎や石原の様な人がいる。あちこちして違った人が統を得られた。表向きが違うことに議論は要らない。
【語釈】
・訂斎…久米訂斎。名は順利。斷次郎と称す。別号は簡兮。京都の人。天明4年(1784)10月7日没。年86。三宅尚斎門下。
・石原…野田剛斎。名は德勝。七右衛門と称す。江戸の人。本所石原に住む。明和5年(1768)2月6日没。年79。佐藤直方門下。三宅尚斎にも学ぶ。

曽元かあちこち骨を折て求た鯛や平目ゆへ、復た進しやふとて、問有餘曰亡と思ひつめたものなり。此は今日平人の眞似よい孝行なり。学者これを眞似るかよい。兎角親を甘物て養ふことそ。吾家へ来るものに食せると云は小身な不勝手な者はならぬ。曽元のは眞似よい。江戸にも田舎にもありて、人にみへて甘物を食はせる。遠くから医者かくるとはや疾親をは第二にして、親に食せるものを出し、外聞つくらふて客にもふるまふ。曽元のしよふとはををきなちかい。何もくわせすかへしては外聞わるいと思ふてくわせる。つめて云へは、どちどふしても人みへから起りたもの。然れは、親へくわするものを朋友に振舞と云になっては、せめて朋友の義にもなれはよいか、もと朋友にも親切から食せるてないから、朋友の方へもほんのことてない。平人のすることはなにもかもろくたまなことはない。
【解説】
とかく人に美味い物を振舞うのは見栄からである。曾元の真似をするのがよい。
【通釈】
曾元があちこち骨を折って求めた鯛や平目なので、また進ぜようとして、「問有余曰亡」と思い詰めたもの。これは今日平人の真似し易い孝行である。学者はこれを真似るのがよい。とかく親を美味い物で養う。我が家へ来る者に食わせるというのは小身で不勝手な者にはできないことだが、曾元のは真似をし易い。江戸にも田舎にもあることで、見栄で人に美味い物を食わせる。遠くから医者が来ると早くも病親を第二にして、親に食わせる物を出し、外聞を繕って客にも振舞う。曾元の仕方とは大きな違いである。何も食わせずに帰しては外聞が悪いと思って食わせる。詰めて言えば、どうみてもそれは人の見栄から起こったもの。そこで、親に食わせる物を朋友に振舞うということになっては、せめて朋友の義にもなればよいが、元々朋友にも親切から食わせるのではないから、朋友の方へも本当のことではない。平人のすることは何もかも碌なことはない。

曽元の眞似よいと云は、みへに人に食せるなとと云ことは决してない。しまってをくなり。はてしわい人の云に、いや晩程老親にたべさするとなり。これ、立派な心いきなり。曽元と曽子の孝行か心にちかいはないか、どふもまた曽子には及はれぬ。曽子の孝行のははか廣ひ。何から何迠親の心にさからわぬよふにするなり。孟子がここで曽元をとってすてたことてはない。孝はとちも同挌なれとも、後世へ教るとき、曽元のか第二番目になる。曽子のとをりてなくてはまた本のことてはない。○養口体と云は的切なことゆへ眞似よい。養志と云はつかまへとかない。薄情な人は養志と云とまきらかす。そこて今日へはきっとみへるやふに、養口体かよい。
【解説】
曾子の孝行は幅が広い。何から何まで親の心に逆らわない様にする。そこで、曾元は二番目となる。しかし、「養口体」は的切なことなので真似がし易い。「養口体」がよい。
【通釈】
曾元の真似はし易いと言うのは、見栄で人に食わせるなどということは決してないからである。しまって置く。さて吝いことだと人が言うと、いや晩に老親に食べさせると言う。これが立派な心意気である。曾元と曾子の孝行は心に違いはないが、どうもまだ曾子には及ばれない。曾子の孝行は幅が広い。何から何まで親の心に逆らわない様にする。孟子はここで曾元を取って捨てたわけではない。孝はどちらも同格だが、後世へ教える時、曾元のが二番目になる。曾子の通りでなくてはまだ本物ではない。しかし、「養口体」は的切なことなので真似がし易い。「養志」は掴まえ処がない。薄情な人は養志というと紛らかす。そこで今日へははっきりと見える様に、養口体がよい。


稽古13
○孔子曰、孝哉閔子騫。人不間於其父母・昆弟之言。閔子騫、孔子弟子。名、損。父母昆弟、稱其孝友、人無異詞。
【読み】
○孔子曰く、孝なるかな閔子騫。人、其の父母・昆弟の言を間[そし]らず。閔子騫は孔子の弟子。名は損。父母昆弟、其の孝友を稱し、人異詞無し。

○孔子曰、孝哉云々。孝哉と哉の字の付たは肝にめいするとき云こと。歌の上ても哉と云ことはめったによまれぬことなり。花にわるいと云はないか、すくれたときてなけれは哉と云字はてぬ。孔子の思召に殊外孝行とひひいた。是等は垩人の御目利なり。何処か孝行とひひいたなれは、兄弟か閔子騫を誉る。それを聞く人か、いよ々々そふてあろふ、成程あの人こそはと云ふ。人不間於其父母云々なり。父母兄弟の云ことはよい加减のことを云。親の目にきりかふる。兄弟かひいき味方見ぐるしいなとと云ものなれとも、閔子のはそふてはなく、なるほとよかろふそやと云。浅見先生の弁に、仰られる迠もない、そふてこさろふと云ことしゃと云へり。これらも吟味してをか子はならぬ。上手ものか親をたますことかある。是もそれくるみに不孝て親と爭ふ類てはないか、不孝によった方なり。なせなれは、大切な親をたます、とと親をかるしめるのなり。親かうれしかりて忰めかと云。つきのわるいよりはよけれとも、手くろてしてはもったいないことぞ。そこてこれかいこふ孝行の大事にあつかることなり。
【解説】
閔子騫は、親兄弟に誉められるだけでなく、誉められるのが当然だと多くの人に思われていた。そこで、孔子が孝哉と言った。
【通釈】
「孔子曰、孝哉云々」。「孝哉」と「哉」の字が付くのは肝に銘ずる時に言うことで、歌の上でも哉ということは滅多に詠まれないこと。花に悪いということはないが、優れた時でなければ哉という字は出ない。孔子の思し召しに殊の外孝行なことだと響いた。これらは聖人の御目利きである。何処が孝行と響いたのかと言うと、兄弟が閔子騫を誉める。それを聞く人が、いよいよそうだろう、なるほどあの人こそはと言う。「人不間於其父母云々」である。父母兄弟はよい加減なことを言う。親の目に霧が降る。兄弟の贔屓味方は見苦しいが、閔子のはそうではなく、なるほどよいだろうと言う。浅見先生の弁に、仰せられるまでもない、そうだろうということだとある。これらも吟味をして置かなければならない。上手者が親を騙すことがある。これも不孝で親と争う類ではないが、それ包み不孝に寄った方である。それは何故かと言うと、大切な親を騙すのは、結局は親を軽んじることになるからである。親が嬉しがって忰めがと言う。次章の悪い者よりはよいが、手くろでしては勿体ない。そこで、これが大層孝行の大事に与ること。
【語釈】
・手くろ…人目をごまかすこと。人をたぶらかすこと。手練手管。


稽古14
○老萊子孝奉二親。行年七十作嬰兒戲、身著五色斑斕之衣。嘗取水上堂、詐跌仆臥地、爲小兒啼、弄雛於親側。欲親之喜。
【読み】
○老萊子二親に孝奉す。行年七十にして嬰兒の戲を作し、身に五色斑斕[はんらん]の衣を著る。嘗て水を取りて堂に上り、詐りて跌[つまず]き仆れて地に臥し、小兒の啼を爲し、雛を親の側に弄す。親の喜ばんことを欲するなり。

○老莱子云々。さて孝行と云になっては舜の様な垩人、文王武王周公としたたかながでで、其次に曽子、それをのけて閔子騫なり。殊の外雲の上のことかありて、其迹へ老莱子を出した。是は何にもしらぬ人なり。ありかたいもの、孝と云か天道の元亨利貞の元と云あたまから出たものゆへ、文王や武王の御前へ出て吸物かすわれる。孝と云か仁ゆへなり。老莱子は今泉の五郎左ェ門もをなしこと。垩賢の道もしらぬか同坐がなる。偖、老莱子か七十になりて子ともの眞似をし、笛を吹たりはった々々々ををさへるよふなことをしられた。○斑斕は訳を附れはもみ裏のさしもやふの衣服を着たなり。水をこぼしてちいさい子のやふに泣き、平生何をするかと云にひよこなとをもってあそんて、大概乱心の沙汰なことともなり。誰か見てもとふかされたと云。○欲親之喜。これて帳を消してしまふことなり。乱心かと思たれは孝心なり。
【解説】
老莱子は七十にもなって子供の真似をして、乱心の沙汰だった。しかし、それは親を喜ばせるための孝心から出たもの。そこで、ここに老莱子を載せたのである。孝は元亨利貞の元から出たもので、仁である。
【通釈】
「老莱子云々」。さて孝行ということになっては舜の様な聖人、文王・武王・周公としたたかな人が出て、その次に曾子、それから閔子騫である。殊の外雲の上のことがあって、その後に老莱子を出した。これは何も知らない人。有り難いもので、孝は天道の元亨利貞の元という頭から出たものなので、文王や武王の御前へ出て吸物を吸うことができる。それは孝が仁だからである。老莱子は今泉五郎左衛門も同じこと。聖賢の道も知らないのだが同座ができる。さて、老莱子が七十になって子供の真似をして、笛を吹いたり飛蝗を押さえる様なことをされた。「斑斕」は、わけを付ければ紅裏の差し模様の衣服で、それを着たのである。水をこぼして小さい子の様に泣き、平生何をするかと言えば、雛などを持って遊んだ。大概それは乱心の沙汰である。誰が見てもどうかされたかと言う。「欲親之喜」。これで帳消しにしてしまう。乱心かと思えば孝心である。
【語釈】
・今泉の五郎左ェ門…土浦城主。1506年に菅谷勝貞に城を奪われる。


稽古15
○樂正子春下堂而傷其足。數月不出。猶有憂色。門弟子曰、夫子之足瘳矣。數月不出。猶有憂色何也。樂正子春曰、善、如爾之問也。善、如爾之問也。吾聞諸曾子、子春、曾參弟子。曾子聞諸夫子。曰、天之所生、地之所養、無人爲大。父母全而生之。子全而歸之、可謂孝矣。不虧其體、不辱其身、可謂全矣。故君子頃歩而不敢忘孝也。頃、當爲跬。一舉足爲跬。再舉足爲歩。今予忘孝之道。予是以有憂色也。一擧足而不敢忘父母。是故道而不徑、舟而不游。不敢以先父母之遺體行殆。壹出言而不敢忘父母。是故惡言不出於口、忿言不反於身、不辱其身、不羞其親、可謂孝矣。人不能無忿怒之言。當由其直。直則人服、不敢以忿言來也。
【読み】
○樂正子春、堂より下りて其の足を傷う。數月出でず。猶憂色有り。門弟子曰く、夫子の足瘳[い]ゆ。數月出でず。猶憂色有るは何ぞや、と。樂正子春曰く、善いかな爾の問の如きや。善いかな爾の問の如きや。吾諸を曾子に聞き、子春は曾參の弟子。曾子諸を夫子に聞く。曰く、天の生ずる所、地の養う所、人より大爲るは無し。父母全くして之を生む。子全くして之を歸すは孝と謂う可し。其の體を虧[か]かず、其の身を辱しめざるは、全くすと謂う可し。故に君子は頃歩[きほ]にして敢て孝を忘れず。頃は當に跬に爲るべし。一たび足を舉ぐるを跬と爲す。再び足を舉ぐるを歩と爲す。今予孝の道を忘る。予是を以て憂色有るなり、と。一たび足を擧げて敢て父母を忘れず。是の故に道にして徑[こみち]せず、舟にして游がず。敢て先父母の遺體を以て殆きに行かず。壹たび言を出して敢て父母を忘れず。是の故に惡言口に出さず、忿言身に反らず、其の身を辱しめず、其の親を羞しめずして、孝と謂う可し。人、忿怒の言無きこと能わず。當に其の直に由るべし。直なれば則ち人服し、敢て忿言を以て來らざるなり。

○楽正子春云々。孝行を眞先にかけたか、曽子の弟子と云かあたまからあることなり。足を傷たことをいつまてもくよ々々と思て、久しく過てもまたつんと憂な体ゆへ門人か聞たれは、よふ気か付た、異なことと思をふか、わけのあることしゃ。天地の内にあるものに人間ほと尊ひものはない。禽獣も皆親をもってをるか、親とも何もしらすにをる。人間はかり親の大切と云ことを知りてをる。然れは此体は親から傷を付すにもらふたゆへ、傷を付ずにかへすことなり。四支百体に傷を付す、不身持をして辱をとることをせぬ。上の句は気の上を云、下の句は理のなりから云。形体に傷を付す、仁義礼智に傷を付ぬこと。ここの取扱を大事にするかよい。体に傷か付けても仁義礼智には傷を付ぬと云たがるが、そふてはない。身を辱しめぬはもとよりのこと、体にも傷を付ぬと云てなけれは本道の孝行てはない。
【解説】
天地の内で、人間だけが親が大切だということを知っている。仁義礼智を辱めないのは固よりのことであり、体も傷付けないというのでなければ本当の孝行ではない。
【通釈】
「楽正子春云々」。孝行を真っ先に目掛けたのも、曾子の弟子だという思いがあるからである。足を傷ったことをいつまでもくよくよと思い、久しく過ぎてもまだかなり憂いた体なので門人が問うと、よく気が付いた、妙なことだと思うだろうが、これにはわけがある。天地の内で人間ほど尊いものはない。禽獣も皆親を持っているが、親とも何とも知らずにいる。人間だけが親が大切だということを知っている。そこで、この体は親から傷を付けずに貰ったものなので、傷を付けずに返さなければならない。四支百体に傷を付けず、不身持をして辱めを受けてはならない。上の句は気の上を言い、下の句は理から言う。形体に傷を付けず、仁義礼智に傷を付けないこと。ここの取り扱いを大事にしなさい。体に傷を付けても仁義礼智には傷を付けないと言いたがるが、そうではない。身を辱めないのは固よりのことで、体にも傷を付けないと言うのでなければ本当の孝行ではない。

をれか大切な忘れまいことを忘れた。孝行を忘れたてはあるまい、ひょっところんたてあろふと云。いや其ひょっところんたか親を忘れたのなり。そこて、ちょっと足を蹈出すにも父母と云ことを忘れぬ。そこて親に孝なとと云か、今日はとふてもよいと云ことあらふはづはない。体が親のものと云ことゆへ、一時でも忘れると云ことはない。何も彼も此の体を大切にして、道を通るにも本海道をあるいて近道はあるかぬ。迂斎先生か、御朱印のやふな心ゆへこれしゃと云へり。此体を公方様の御朱印のやふに思てをるゆへ、ここか近道しゃと云てもめったにあるきはせぬ。胡乱にものを云はす、吾か女房や家来ても、もの云をわるくして怨をとるは親を耻しめるなり。そこて、人をあしさまにののしりて云ことなとは頓とせぬ。やかはら立にものを云ことはない。そこて忿言かこちへこぬ。こちか云と向もしっとしてはをらぬゆへ、そのいしゅかへしかくるか、云はぬゆへこぬ。それと云も吾方のことてはない。
【解説】
ひょっと転んだのが親を忘れたのである。体は親のものなので、一時でも忘れるということはない筈である。物言いが悪くて怨まれるのは親を辱めることになる。人を悪し様に罵ってはならない。
【通釈】
俺は大切で忘れてはならないことを忘れたのだ。孝行を忘れたのではないだろう、ひょっと転んだのだろうと言う。いや、そのひょっと転んだのが親を忘れたのである。そこで、一寸足を踏み出すにも父母ということを忘れない。そこで、親に孝などということは、今日はどうでもよいと言う筈はない。体は親のものなので、一時でも忘れるということはない。何もかもこの体を大切にして、道を通るにも本海道を歩いて近道は歩かない。迂斎先生が、御朱印の様な心なのでこうだと言った。この体を公方様の御朱印の様に思っているので、ここが近道だと言っても決して歩きはしない。妄りにものを言わない。自分の女房や家来にも、物言いを悪くして怨まれるのは親を辱めることになる。そこで、人を悪し様に罵ることなどは全くない。やけになってものを言うことはない。そこで「忿言」がこちらへ来ない。こちらが言うと向こうもじっとしてはいないので、その意趣返しが来るが、言わないので来ない。それと言うのも自分のためではない。
【語釈】
・やかはら…やけを起して腹を立てること。やけっぱら。

○不羞其親なり。これを孝行と云。然る処、足を傷りたと云かこれを忘れたのなり。風寒暑湿は向からくるか、是は向からくるてはない。吾がそそふて足を傷りたもの。偖て人間には忿怒はありうちなことて、心に義と云かあるゆへ、義にそむいたことはああそふてはないと云。いつもぜら々々笑てをると云ことはない。砂糖のあまく唐辛の辛ひやふにありうちなり。○此の直と云か大事なこと。今のは自分の肉や欲から腹を立つ。吾勝手のよいことは、人にたわけと云はれても笑てをるそ。これは義にそむいた不埒なことを怒るから、由其直と云。直と云て怒れは、何程怒ても忿言かこぬ。怒人而人不怨と明道の行状に伊川のかかれたもこれなり。そなたはなせに酒を呑むと怒るゆへ、腹の立やふかない。道理の当然からするなり。
【解説】
足に傷を付けるのは自分の粗相からのこと。また、忿怒は人間に備わっているものだが、直で怒れば道理の当然なので忿言は来ない。
【通釈】
それは「不羞其親」だからである。これを孝行と言う。そこで、足を傷ったというのがこれを忘れたのである。風寒暑湿は向こうから来るが、これは向こうから来るのではない。自分の粗相で足を傷ったもの。さて、忿怒は人間に備わっているもので、心に義があるので、義に背いたことはああそうではないと言う。いつもげらげら笑っているということはない。砂糖が甘く唐辛子が辛い様に、人に備わったもの。この「直」が大事なこと。今は自分の肉や欲から腹を立てる。自分の勝手のよいことは、人に戯けと言われても笑っている。これは義に背いた不埒なことを怒るのだから、「由其直」と言う。直で怒れば、どれほど怒っても忿言は来ない。「怒人而人不怨」と明道の行状で伊川が書かれたのもこれ。貴方は何故酒を呑むのかと怒るので、腹の立ち様がない。道理の当然からする。
【語釈】
・怒人而人不怨…近思録聖賢17。「先生接物、辨而不閒、感而能通。敎人而人易從、怒人而人不怨」。


稽古16
○伯兪有過、其母笞之泣。其母曰、他日笞子未嘗泣、今泣何也。對曰、兪得罪笞常痛。今母力、不能使痛。是以泣。故曰、父母怒之、不作於意、不見於色、深受其罪使可哀憐、上也。父母怒之、不作於意、不見其色、其次也。父母怒之、作於意、見於色、下也。
【読み】
○伯兪過有り、其の母之を笞つに泣く。其の母曰く、他日子を笞つに未だ嘗て泣かず、今泣くは何ぞや、と。對えて曰く、兪罪を得て笞たるれば常に痛む。今母の力、痛らしむる能わず。是を以て泣く、と。故に曰く、父母之を怒るに、意を作[おこ]さず、色に見わさず、深く其の罪を受けて哀憐す可からしむるは、上なり。父母之を怒るに、意を作さず、色に見わさざるは、其の次なり。父母之を怒るに、意を作し、色に見わすは、下なり。

○伯兪有過云々。ひととをりならぬ小児。平生はなかす、度々ふつにないたことはない。今日か今日とてなくはとふしたことしゃ。さてけなげな小ななりて尤なことを云た。今日は母の御訶て打れたが、なせかいたくない。痛みそふなものしゃに痛くないゆへ、母のよはりたかと泣と云た。子ともなれとも至て孝行なり。吾か体の痛むは泣す、痛くないに泣。天性の孝行。そこて小学に引たもの。是は刘向か説苑の語なり。このことを出して跡て評をあけた。左傳なとにも事を挙て跡て君子曰と云。故曰から刘向か語なり。無理な親も古今あることなれとも、爲子身になっては異なことしゃと心に思はぬことなり。父子の一体と云をしれは意に発[あらはす]筈はない。親の子を打のは吾尻こべたを打つも同しこと。親かいくら腹を立ふと、それを意にはをこさぬ筈。御尤と云て異なことしゃとは思はぬ筈なり。そふすると親の心かほとけきて可愛ゆくなる。親か子を打つに盗人を打つやふな心て打はせぬ。
【解説】
父子は一体なので、親が子を打つのは自分を打つのも同じである。そこで、親に対してそれを異なことだと逆らってはならない。御尤もと思うのである。
【通釈】
「伯兪有過云々」。一通りでない小児である。平生は泣かず、度々打たれても泣いたことはない。それが今日泣くのはどうしたことか。さて健気な小さななりで尤もなことを言った。今日は母の御訶りで打たれたが、何故か痛くない。痛みそうなものなのに痛くないので、母が弱ったのかと泣くと言った。子供ながら至って孝行なことである。自分の体が痛むのには泣かず、痛くないので泣く。天性の孝行である。そこで小学に引いた。これは劉向の説苑の語である。この話を出した後に評をした。左伝などにも事を挙げた後に君子曰と言う。「故曰」からが劉向の語である。無理な親も古今あるが、子たる身になっては異なことだと心に思ってはならない。父子が一体なのを知れば意に表す筈はない。親が子を打つのは自分の尻を打つのも同じ。親がいくら腹を立てようとも、それを意に作さない筈。御尤もと言い、異なことだとは思わない筈である。そうすると親の心が解けて来て可愛くなる。親が子を打つのに盗人を打つ様な心で打ちはしない。

○上のことを云て、不作於意不作於色は二番目とある。上と同挌なことて二番目にあるか、色にも出ぬか親の方へひひかぬたけを其次と云。瞽叟底豫は哀憐させたのなり。○哀憐と云が大切て、さて是か出来ぬこととみへるなり。○作於意云々。靣目もないことて、多は天下中かみなこれなり。友達の前ては不作於意不見於色と云ても、納戸ては作於意見於色なり。それはあんまりなことしゃと云か、此様な処を吟味してをこふことなり。高それた学者か小学抔を片手てあかると思か、なるほとなることもあれとも、不作於意不見於色かなるかと云にならぬ。大極阴阳の道理は云へとも、駕籠舁も同しことな心かある。それては小学は読れぬことそ。ときに学者が下也と云例に入りてはならぬから、猛省すへきことなり。凧をあけたりこまをまわしてをる、その年の小児にも及ぬと云ては云訳けのたたぬことなり。○下也を遠くのいたことにみては筭用かあふまい。やっはり吾れにこれかあるとみるかよい。
【解説】
「不作於意、不作於色」は二番目であり、その上で親を哀憐させるのが最上である。「作於意、見於色」は下である。自分に「作於意、見於色」があると見なさい。
【通釈】
上のことを言って、「不作於意、不作於色」は二番目とある。上と同格なことで二番目にあるが、色には出ないが親の方へ響かないだけ「其次」と言う。「瞽叟厎豫」は哀憐させたのである。哀憐が大切で、さてこれができないことと見える。「作於意云々」。面目ないことで、天下中が皆これ。友達の前では不作於意不見於色と言っても、納戸では作於意見於色である。それではあまりなことだと言うが、この様な処を吟味してをかなければならない。高逸れた学者が小学などは片手でできると思うが、なるほどできることもあるが、不作於意不見於色ができるかと言えばできない。大極陰陽の道理は言えても、駕籠舁と同じ心がある。それでは小学を読むことはできない。時に学者が「下也」という例に入ってはならないから、猛省しなければならない。凧を揚げたり独楽を回している、その年の小児にも及ばないということでは言訳が立たない。下也を遠くのことと見ては算用が合わないだろう。やはり自分にこれがあると見なさい。
【語釈】
・瞽叟底豫…孟子離婁章句上28。「舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化、瞽瞍厎豫而天下之爲父子者定。此之謂大孝」。


稽古17
○公明宣學於曾子三年不讀書。曾子曰、宣而居參之門三年不學何也。公明宣曰、安敢不學。宣見夫子居庭、親在叱咤之聲未嘗至於犬馬。宣説之、學而未能。宣見夫子之應賓客、恭儉而不懈惰。宣説之、學而未能。宣見夫子之居朝廷、嚴臨下而不毀傷。宣説之、學而未能。宣説此三者、學而未能。宣安敢不學而居夫子之門乎。
【読み】
○公明宣、曾子に學び三年書を讀まず。曾子曰く、宣、而[なんじ]參の門に居ること三年、學ばざるは何ぞや、と。公明宣曰く、安んぞ敢て學ばざらんや。宣、夫子の庭に居るを見るに、親在せば叱咤の聲未だ嘗て犬馬に至らず。宣之を説び、學びて未だ能くせず。宣、夫子の賓客に應ずるを見るに、恭儉にして懈惰せず。宣、之を説び、學びて未だ能くせず。宣、夫子の朝廷に居るを見るに、嚴に下に臨みて毀い傷らず。宣、之を説び、學びて未だ能わず。宣、此の三の者を説び、學びて未だ能わず。宣、安んぞ敢て學ばずして夫子の門に居らんや、と。

○公明宣云々。後世のやふな学問のしやふは古人にはとんとない。書物を懐中さへすれは学者が通ると云。是、わさに落たゆへなり。公明宣なとは曽子の弟子になりて三年書を手にとらぬ。孔子の弟子は書を読むことになりてをるに、とふ云わけて読ぬそとなり。いったんの学ふの学はぬのと云は読か入口になる。公明宣の仕方は孔門の掛札にはつれたことなり。○敢はものをふんきって云ときのことて、つよく云字なり。どふして学はすにをりましょう、隨分学ふとなり。曽子のよふすを平生みるに、親の御坐る処ては犬を呵るよふなこともない。曽子の御心かとふ云御心と云に、親をいこふ大切に思から、なんても呵る声なとをせぬ。呵る声かよふないものなり。そこて人てもあれか処へゆくと馳走はよいか、どふも家来を呵る、行くまいと云。これみよ。凡そ呵る声か人の安堵せぬものなり。犬もしからぬなれは、人は固よりなり。此の様子を公明宣か見て、偖々違たものしゃと心にひひいて、さてああこそあらめ、人間はああしたことてあらふと学ふなり。
【解説】
「公明宣學於曾子三年不讀書。曾子曰、宣而居參之門三年不學何也。公明宣曰、安敢不學。宣見夫子居庭、親在叱咤之聲未嘗至於犬馬。宣説之、學而未能。宣見夫子之應賓客、恭儉而不懈惰。宣説之、學而未能」の説明。書を読むのが孔門では当たり前のことだが、公明宣は曾子の弟子になって三年間書を読まなかった。公明宣は曾子の平生の様子を見て学んでいたのである。
【通釈】
「公明宣云々」。後世の様な学問の仕方は古人には全くない。今は書物を懐中さえすれば学者が通ると言う。それは業に落ちたからである。公明宣などは曾子の弟子になって三年書を手に取らなかった。孔子の弟子は書を読む筈だが、どういうわけで読まないのかと聞いた。全体、学ぶとか学ばないというのは読むのが入口になる。公明宣の仕方は孔門の掛札に外れている。「敢」はものを踏み切って言う時のことで、強く言う字である。どうして学ばずにおりましょう、随分と学ぶと答えた。曾子の様子を平生見るに、親のおられる処では犬を呵る様なこともない。曾子の御心がどういう御心かと言えば、親を大層大切に思うから、呵る声などは何もない。呵る声がよくないもの。そこで、人でもあれの処へ行くと馳走はよいが、どうも家来を呵るから行かない様にしようと言う。これを見なさい。凡そ呵る声が人の安堵させないもの。犬も呵らないのであれば、人は固よりのこと。この様子を公明宣が見て、さてさて違ったものだと心に響いて、さてあの様でこそあるべきこと、人間はああしたことだろうと思って学んだ。

○嚴臨下は、呵りたり子めたりするやふなことはない。○不毀傷とは迂斎の、小児をあしらうよふに、はっ々々と思ふて取扱と云た。此義を心掛てをるとなり。此段は親在叱咤之声未嘗至於犬馬か曽子の孝行になって載たか、前後に取り合ぬやふにみへる。学問はこふありつへきことと云学ひかたのよいことにをちるか、曽子の孝と云からここへのりたもしれぬ。
【解説】
「宣見夫子之居朝廷、嚴臨下而不毀傷。宣説之、學而未能。宣説此三者、學而未能。宣安敢不學而居夫子之門乎」の説明。朝廷での曾子は呵ったり睨んだりする様なことはなく、子供をあしらう様だった。学問はこうあるべきである。
【通釈】
「厳臨下」。呵ったり睨んだりする様なことはない。「不毀傷」を迂斎が、小児をあしらう様に、はっはっと思って取り扱うことだと言った。この義を心掛ける。この段は「親在叱咤之声未嘗至於犬馬」が曾子の孝行になって載ったものだが、前後と取り合わない様に見える。学問はこうあるべきことだと、学び方のよいことを言ったことに落ちるが、曾子の孝からここに載ったのかも知れない。


稽古18
○少連・大連善居喪。三日不怠、三月不解、期悲哀、三年憂。怠、惰也。解、倦也。期、周年也。東夷之子也。言其生於夷狄而自知禮也。
【読み】
○少連・大連善く喪に居る。三日怠らず、三月解[おこた]らず、期に悲哀し、三年に憂う。怠は惰なり。解は倦なり。期は周年なり。東夷の子なり。其の夷狄に生まれて自ら禮を知るを言うなり。

○少連大連云々。孝行の一ちしまいは親の執喪なり。一生孝行をしても喪の執りやふかわるくては、立派に手紙を書ても恐々謹言をかかぬやふなもの。一筆啓上から段々よく書ひても恐々謹言かないと、何処からても追ひ返さ子はならぬ。親の死た跡迠をよくせ子は孝行したにならぬ。少連大連か喪の執りやふか至極よいゆへ善の字かつくなり。喪服の事は上に法かあり、其法のとをりすることは誰も彼もする。善の字の付たは云ををよふもない喪の勤めよふなり。三日の内、たるみかない。あの方ては喪の執りやふに丁との恰好かある。五月は五月の姿あり、三月は三月の姿かある。棺へいれぬ内は飯も食はすうろ々々してをった。ちと違ふたことかあれは怠たと云か、三日の内、云ををやふもなく三日のあるへきよふにし、三月は家の内に脇に土を塗りて置き、さて朝夕膳をすへる。丁となにもかも約束の通りに行てけだいない。それから云一周期にて、哀て不断顔か憔悴して顔色かうき々々となく、誰か見ても親を失たもののよふてありた。去る者日疎也。一日ましにうすくなるもの。ところを三年憂なれは誠に善居喪と云ものなり。三年て云分ないの、ありあまりてかへるほとあるのと云ことなり。
【解説】
親の喪の執り様が悪くては孝行にならない。唐では喪の執り様に丁度の恰好があるが、少連大連のしれは至極よかった。
【通釈】
「少連大連云々」。孝行の最後は親の執喪である。一生孝行をしても喪の執り様が悪くては、立派に手紙を書いても恐々謹言を書かない様なもの。一筆啓上から段々とよく書いても恐々謹言がないと、何処からのものでも追い返さなければならない。親が死んだ後までをよくしなければ孝行をしたことにならない。少連大連の喪の執り様が至極よかったので善の字が付く。喪服の事は上に法があり、その法の通りするのは誰も彼もがするが、善の字が付くのは言い様もない喪の勤め様である。三日の内に弛みがない。唐では喪の執り様に丁度の恰好がある。五月は五月の姿あり、三月は三月の姿がある。棺に入れない内は飯も食わずにうろうろとしている。少し違ったことがあれば、それを「怠」と言う。三日の内が言い様もなく三日のあるべき様にし、三月は家の内に脇に土を塗って置き、さて朝夕膳を据える。丁度何もかも約束の通りに行って懈怠がない。それから一周期で、哀みで絶えず憔悴して顔がうきうきとせず、誰が見ても親を失った者の様だった。「去者日以疎」で、一日増しに薄くなるもの。そこを三年憂うるのであれば誠に「善居喪」というもの。三年で言い分はない、あり余って返るほどのこと。
【語釈】
・去る者日疎…文選。「去者日以疎、生者日以親」。

親の肉をわけたものゆへ、一生も喪を執りそふなものなれとも、垩人か親の喪は三年ときめてをかれた。論吾にも三年然後免於父母懐とあり、三年の内は手を引かれ、親の手をはなれてならぬものなり。三年の中、なんともないと云なれは、返礼はないと云もの。少連大連は三年の内の顔か病人のよふてありた。今日の人は五十日の中をのっつそっつするは親に薄ゆへなり。信玄か信虎を追出したにはわけかあると云たれは、直方先生の、不孝と云わけかあると云はれた。古今是程な不孝も希なことなるへし。如此心にては三年の喪処てはなく、親の死を悦てあろふ。偖々不埒とや云ん、不義とや云ん。天地の容さるの誅なり。
【解説】
生まれて三年の内は手を引かれ、親の手を離れることができないもの。そこで聖人が親の喪を三年と決めて置かれた。
【通釈】
親の肉を分けたものなので、一生喪を執りそうなものだが、聖人が親の喪を三年と決めて置かれた。論語にも「三年然後免於父母懐」とあり、三年の内は手を引かれ、親の手を離れることができないもの。三年の内を何ともないと言うのであれば、返礼はないというもの。少連大連は三年の内の顔が病人の様だった。今日の人が五十日の中を伸っつ反っつするのは親に薄いからである。信玄が信虎を追い出したのにはわけがあると言うと、直方先生が、不孝というわけがあると言われた。古今にこれほどの不孝も希なことだろう。この様な心では三年の喪処ではなく、親の死を悦ぶことだろう。さて、これを不埒と言い、不義と言う。天地の容れざる誅である。
【語釈】
・三年然後免於父母懐…論語陽貨21。「子曰、予之不仁也。子生三年、然後免於父母之懷。夫三年之喪、天下之通喪也。予也、有三年之愛於其父母乎」。

○東夷之子也は、中国なれはそふもあろふ。東のはつれの夷狄者しゃと感心して書たもの。夷狄に生れて礼を知る。竒特しゃとほめたことじゃと浅見先生の云はれた。垩賢の教には上の方から手本を出して眞似ることもあれは、下の方から手本を出して眞似ることもある。垩人のすることてもその通りの道理を具てをる人間ゆへ、眞似れはなるべきはつのことなり。それは上を手本にするなり。又下の方をと云はここなり。そこて夷狄の者さへこふしゃと見せたものなり。稽古の題下に興起と云字かあるがこれなり。今日日本ては上古は一年の喪なれとも、それか段々五十日になり、五十日ものっつそっつする。今は上の御法て五十日に定りたゆへ、五十日を五十一日目てしまっても上を犯すになる。是を朱子の興起へ引れてをくからは、上の御定は五十日ても古の三年の喪を勤る筈。心喪と云ことかあり、心喪は心の喪ゆへ自由なこと。そこて心喪は手前なり。手前の心から思ひたた子はならぬ。
【解説】
「東夷之子也」は、これが東の外れの夷狄者のことだと感心して書いたもの。真似るとは、上を真似ることもあり、下を真似ることもある。ここは下を真似ることで、これが題下の興起のことである。今は上の御法で五十日に定まっているが、心喪で三年の喪をすることができる。それには自分の心から思い立たなければならない。
【通釈】
「東夷之子也」は、中国であればそうでもあるだろう。東の外れの夷狄者だと感心して書いたもの。夷狄に生まれて礼を知るのは奇特なことだと褒めたのだと浅見先生が言われた。聖賢の教えには上の方から手本を出して真似ることもあれば、下の方から手本を出して真似ることもある。聖人のすることでも、その通りの道理を具えている人間なので、真似をすればそれができる筈。それは上を手本にしたこと。また、下の方を真似ると言うのがここである。そこで夷狄の者でさえこうだと見せたもの。稽古の題下に興起という字のあるのがこれ。日本では、上古は一年の喪だったが、それが段々と五十日になり、五十日も伸っつ反っつする。今は上の御法で五十日に定まっているので、五十日を五十一日目で終えても上を犯すことになる。これを朱子が興起へ引かれて置くからは、上の御定は五十日でも古の三年の喪を勤める筈。心喪ということがあり、心喪は心の喪なので自由なこと。そこで心喪は自分のこと。自分の心から思い立たなければならない。

俗儒はあじなことを云もの。貝原は道德先生と聞しか、日本て三年の喪をつとめると死ぬと云た。なんのためにあのやふなことを云そ。况んや唐は米がわるい、日本は米かよい、肴を食はすとも隨分達者なり。さりとは異な世話をするものそ。根から合点がゆかぬ。それても備考をこしらへさま々々のことを云。それゆへ捨て打やぶること斗り書た。朱子は興起と仰られたか、三年の喪ならぬと云へは興起はない。喪は五十日て心喪は三年なることなり。三年の喪を勤て死たものもあるなとと云は、甚たしく名教の害をしたことなり。太宰か、役人は気をつこふものゆへ酒を飲もよいと云た。酒をのめと云はずとのむものなり。俗儒は知惠かないからやかすとよい世話をやくなり。にか々々しいそ。
【解説】
貝原は、日本で三年の喪を勤めると死ぬと言いながら、日本は米がよいのだから肴を食わなくてもよいと言った。根から合点していない。
【通釈】
俗儒は妙なことを言う。貝原は道徳先生と聞くが、日本で三年の喪を勤めると死ぬと言った。何のためにあの様なことを言うのか。況や唐は米が悪く日本は米がよいのだから、肴を食わなくても随分と達者だと言う。異な世話をするもの。根から合点が行かない。それでも備考を拵えて、様々なことを言う。そこで捨てて打ち破ることばかりを書いた。朱子は興起と仰せられたが、三年の喪が悪いと言うのであれば興起はない。喪は五十日で心喪は三年である。三年の喪を勤めて死んだ者もあるなどと言うのは、甚だしく名教の害をするもの。太宰が、役人は気を遣うものなので酒を飲むのもよいと言った。酒は飲めと言わなくても飲むもの。俗儒は智恵がないから、焼かなくてもよい世話を焼く。それは苦々しいこと。

さて、少連大連は昔王代にむらじと云姓がある。そこてこれは日本の人てあろふと云が、たしかな説もないゆへ日本人とかたつけられぬと浅見先生の云へり。某はとかくならは日本人にかたつけたい。日本人か期の喪をし、三年憂ふ。これか日本人たと云へは、此の方の人の心へは至てよくひひいて興起するなり。先兄心喪するとて肴を食はす、親類ともより病身ゆへ肴を食せよと異見云へとをり々々某へ云へとも、予其頃放蕩なり。我か放蕩て兄の心喪迠邪魔をすることはない。そこで决してそのことをきき入れす、兄は三年心喪をした。因て兄の死後に碑銘にそのことを書てみたれは、日本に心喪をしたもの幾人そ。日本て何人と云人間になった。
【解説】
少連大連は日本人のことだと思いたい。兄は三年の心喪をした。日本で心喪をした者は少ないが、兄はその一人である。
【通釈】
さて、少連大連については昔王代に連という姓があった。そこでこれは日本の人のことだろうと言うが、確かな説もないので日本人とは片付けられないと浅見先生が言った。私はできれば日本人のことだと片付けたい。日本人が期の喪をし、三年憂う。これが日本人だと言えば、日本の人の心へは至ってよく響いて興起する。先兄が心喪すると言って肴を食わなかったので、病身なので肴を食う様に異見を言えと親類共が折々私に言ったが、私はその頃放蕩だった。自分が放蕩でありながら兄の心喪を邪魔をすることはない。そこで決してそのことを聞き入れず、兄は三年心喪をした。そこで兄の死後に碑銘にそのことを書いて見て、日本に心喪をしたもの幾人ぞと言った。兄は日本で何人という人間になった。

貝原かなんの役に立ぬ世話をするそ。此国ては三年はならぬと云て朱子の思召に叶ふか。且つ日本は米かよく、脾胃の便には肉よりよい。肉食をせすによいこともある。信州なとのやふな山国には長寿あり。兄なとは三年肉食をせぬて持病の喘息もやんた。然れは三年の喪をしたて、却て達者にもなる。貝原か三年の喪をするのわるいと云ことか養性訓にあり、某は却て養性にもよかろふと思ふ。さて若し有病暫食飲すべしと温公云へり。ぬけめはないそ。彼等は皆興起の邪魔をするゆへ丁寧に云は子はならぬ。三年心喪を勤ると云は仁の建立をすること。そこて是をすると云なれは、仁がをどりををどるのなり。如此事ゆへ、すらりと廻状に点をかけるやふに小学を読ては吾黨の講釈にあらす。精釈をいれて見るへきことなり。とかく稽古の篇ては興起の二字を忘れぬかよい。今迠は五十日と心得ても、少連大連て興起して心喪をつとめるてこそ朱子の本意なれ、その興起の咽をしめるは以ての外のことなり。
【解説】
信州などの様な山国には長寿もいて、兄も三年肉食をしなかったので持病の喘息も止んだ。三年の喪で、却って達者にもなる。三年心喪は仁の建立である。
【通釈】
貝原は何の役にも立たない世話をする。この国では三年はならないと言っては朱子の思し召しに叶うものか。また、日本は米がよく、脾胃の便には肉よりもよいと言う。肉食をせずによいこともある。信州などの様な山国には長寿がいる。兄などは三年肉食をしなかったので持病の喘息も止んだ。それなら三年の喪をしたことで、却って達者にもなる。貝原が三年の喪をするのは悪いと言ったことが養生訓にあるが、私は却って養生にもよいだろうと思う。さて、もしも病があれば暫く食飲すべしと温公が言った。抜け目はない。彼等は皆興起の邪魔をするので丁寧に言わなければならない。三年心喪を勤めるというのは仁の建立をすること。そこでこれをすれば、仁が踊りを踊ることになる。この様なことなので、すらりと廻状に点を掛ける様に小学を読んでは我が党の講釈ではない。精釈を入れて見るべきこと。とかく稽古の篇では興起の二字を忘れないのがよい。今までは五十日と心得ても、少連大連で興起して心喪を勤めてこそ朱子の本意であり、その興起の咽を絞めるのは以の外のことである。
【語釈】
若し有病暫食飲すべし…温公。


稽古19
○高子皋之執親之喪也、泣血三年、未嘗見齒。君子以爲難。子皋、孔子弟子。名、柴。泣血、言泣無聲、如血出。未嘗見齒、言笑之微。
【読み】
○高子皋の親の喪を執るや、泣血三年、未だ嘗て齒を見わさず。君子以て難しと爲す。子皋は孔子の弟子。名は柴。泣血は、泣きて聲無く、血出るが如きを言う。未だ嘗て齒を見わさずは、笑いの微きを言う。

○高子皐云々。泣か血の流れるやふにじみ々々となくこと。今血の涙と云ことかあるか、あれとはちこふ。泣様か音もせす、限りなくあとからもなき々々する。史傳に泣如血と云ことかある。浅見先生の、血涙流と云ことかある、それしゃと云へり。絶へす涙の流れること。三年の内、めそ々々とないてじみ々々うつむいてをるゆへ歯かみへなんた。莞尓と云ふやふなことはあったてもあろふか、歯の出たこと决してなかった。此注はいらぬことなれとも、昔からあるゆへ出したものなり。
【通釈】
「高子皋云々」。「血泣」は血の流れる様にじみじみと泣くこと。今血の涙と言うことがあるが、あれとは違う。泣き様が音もせず、限りなく後からも後からも泣く。史伝に「泣如血」ということがある。浅見先生が、血涙流ということがある、そのことだと言った。絶えず涙が流れること。三年の内、めそめそと泣いてじみじみと俯いているので歯が見えなかった。莞爾という様なこともあったのだろうが、歯が出たことは決してなかった。この注は要らないものだが、昔からあるので出した。
【語釈】
泣如血


稽古20
○顔丁善居喪。始死、皇皇焉、如有求而弗得。既殯、望望焉、如有從而弗及。既葬、慨然如不及。其反而息。顔丁、魯人。從、隨也。慨、憊也。
【読み】
○顔丁、善く喪に居る。始めて死すれば、皇皇焉として、求むること有りて得ざるが如し。既に殯すれば、望望焉として從うこと有りて及ばざるが如し。既に葬れば、慨然として及ばざるが如し。其れ反りて息す。顔丁は魯人。從は隨なり。慨は憊なり。

○顔丁云々。偖て模様をよふ書たそ。親の死た時、それを脇てみてをって書たもの。○皇々焉を浅見先生の、とばかはとすることと云へり。今云子ほけたていなり。何やらあちの方へ行き、こちの方へ行たり、たつ子るものの出ぬやふなり。古ひ書付を尋るに出ませぬ々々々々と、そこらをうろたへてあるくゆへ、とふやら狐にてもつかれたかと云、そのよふな体に見へたてあろふ。○望々焉云々。棺へ土を塗て置く。そこて向の方を見詰てをるか、あっけにとられたやふなり。望々か靣白ひ云やふそ。浅見先生の、もちと々々々、とと遠き方の山をいくらも見るやふなことしゃと云へり。あれかあしがらやまと云て、どふもをいつかれぬていなり。それから日数立て葬た。ここて大きくため息をつきだしたやふなもの。つかれはてて、もふかなはぬはへと云。とふからかなはぬか、また家に柩ある内はまたも生て復るかと思たか、もふとりかへされぬ。ここかたたかへるてなく、反哭の礼なり。反哭の処てげっそりとなりて、もうどふもならぬと云。そこて腰の秡たやふなもの。○息の字は休息とつつけとも、あの息の字てはない。浅見先生の、世話をやいてをかれたそ。もふなにもすることかないと云やふなもの。
【解説】
顔丁は、親が死んだ時は寝惚けた体で狐にでも付かれた様だった。殯の時は遠くの山を見る様だった。葬る時は何もすることはできないという体だった。
【通釈】
「顔丁云々」。さても模様をよく書いた。親の死んだ時にそれを脇で見ていて書いたもの。「皇々焉」を浅見先生が、とばかわとすることだと言った。今言う寝惚けた体である。何やらあちらの方へ行ったり、こちらの方へ行ったり、尋ねるものが出ない様なこと。古い書付を尋ねて出ない様なこと。そこらを狼狽えて歩くので、どうやら狐にでも付かれたのかと言う、その様な体に見えたことだろう。「望々焉云々」。棺へ土を塗って置く。そこで向こうの方を見詰めているのが、呆気に取られた様である。望々が面白い言い様である。浅見先生が、もう少しもう少しと、つまりは遠い方の山をいくらも見る様なことだと言った。あれが足柄山だと言い、どうしても追い付くことのできない体である。それから日数が経って葬った。ここで大きく溜息を吐く。疲れ果てて、もう叶わないと言う。とっくに叶わないものだったのだが、まだ家に柩のある内はまだも生きて復るかと思ったが、もう取り返すことはできない。ここはただ返るのではなく、反哭の礼である。反哭の処でげっそりとなって、もうどうにもならないと言う。そこは腰の抜けた様である。「息」の字は休息と続くが、あの息の字ではない。浅見先生が世話を焼いて置かれた。もう何もすることがないという様なもの。
【語釈】
とばかは…寝惚けた体とある。
反哭の礼


稽古21
○曾子有疾、召門弟子曰、啓予足。啓予手。啓、開也。曾子以爲身體髪膚受於父母、父母既全而生之。子當全而歸之。故平日保守不敢毀傷。至此將死。故使弟子開其衾而視之、見其所歸之全也。詩云、戰戰兢兢如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫、小子。詩、小旻之篇。既以其所歸之全示門人、而又言其所以全之之難如此。免謂既死、然後得免於毀傷。小子、門人也。呼之、使記其言也。
【読み】
○曾子疾有り、門弟子を召して曰く、予が足を啓け。予が手を啓け。啓は開なり。曾子以て身體髪膚を父母に受け、父母既に全くして之を生む。子當に全くして之を歸すべしと爲す。故に平日保ち守りて敢て毀い傷らず。此に至りて將に死せんとす。故に弟子をして其の衾を開かせて之を視せしめ、其の歸すの全きを見わす。詩に云う、戰戰兢兢として深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し、と。今にして而して後、吾免るることを知るかな、小子、と。詩は小旻の篇。既に其の歸す所の全きを以て門人に示して、又其の之を全くする所以の難きを言うこと此の如し。免は、既に死して、然して後に毀い傷ることを免るるを得るを謂う。小子は門人なり。之を呼ぶは、其の言を記さしむるためなり。

○曽子有疾云々。此章、明倫の篇の孝經を精金てみせたものなり。明倫は理屈、此章は人をみせたそ。曽子の孝經を受るとき、大勢孔子の御門人も聞かれ、曽子も其後人へ示されたてあろふか、あの通りになり、かたまりたものかない。證文斗りて精金かない。それを此章てみせるなり。曽子かをれか足を見てくれい、手を見てくれいと云た。見るに用向はない。あけて見もすまい。身体髪膚は孔子の語なれとも、曽子のものにして云ことなり。虫にささせす足を傷なとと云こと一刻の間もせぬ。身体髪膚を大事にしたことをみせたもの。ものを大事にすることを戦々兢々と云。下総の鴻の臺のやふに、のぞいて見ると何丈かしれぬ、落ると身もくたけると云ことゆへ、こわ々々のそく。あのやふなことて、ものを大切にするたとへなり。この合点て一生居たか、今日と云今日、をれも死ぬからその気つかいはあるまいとなり。なみや大抵なことてはない。偖て、上み段々の喪を一ちしまいに出しそふなことを、力のいる処をしまいに出したかきこへた。一生これをし、守を大切にしたものなり。父子之親の稽古をわたもちの孝經てとめたはさて々々なり。
【解説】
ここは明倫の篇の孝経を人で見せたもの。曾子は我が身を死ぬまで大切にして守った。
【通釈】
「曾子有疾云々」。この章は明倫の篇の孝経を精金で見せたもの。明倫は理屈で、この章は人を見せたもの。曾子が孝経を受ける時には、孔子の御門人も大勢が聞かれ、曾子もこれを後人へ示されただろうが、あの通りになり、固まった者がいない。証文ばかりで精金がない。それをこの章で見せた。曾子が俺の足を見てくれ、手を見てくれと言った。見ることに用向きはない。開けて見もしなかったことだろう。身体髪膚は孔子の語だが、曾子のものにして言う。虫に刺させず、足を傷るなどということは一刻の間もしない。身体髪膚を大事にしたことを見せた。ものを大事にすることを「戦々兢々」と言う。下総の鴻之台の様に、覗いて見ると何丈か知れない、落ちると身も砕けるということなので、恐々と覗く。あの様なことで、ものを大切にするたとえである。この合点で一生いたが、今日という今日、俺も死ぬからその気遣いはないだろうと言った。並みや大抵なことではない。さて、上段々の喪を最後に出しそうなものだが、力の要る処を最後に出したのがよくわかる。一生これをして、守を大切にした。父子之親の稽古を腸持ちの孝経で止めたのは流石である。
【語釈】
・明倫の篇の孝經…小学内篇明倫34を指す。
・下総の鴻の臺…江戸時代の絶壁の名所。広重の絵などがある。鴻之台。国府台。