稽古22
○箕子者紂之親戚也。箕、國。子、爵。紂、商王帝辛。紂始爲象箸。箕子歎曰、彼爲象箸、必爲玉桮。爲玉桮則必思遠方珍怪之物而御之矣。輿馬・宮室之漸自此始不可振也。紂爲淫泆。箕子諫。紂不聽而囚之。人或曰、可以去矣。箕子曰、爲人臣諫不聽而去、是彰君之惡而自説於民。吾不忍爲也。乃被髪佯狂而爲奴、遂隱而皷琴以自悲。故傳之曰箕子操。王子比干者亦紂之親戚也。見箕子諫不聽而爲奴則曰、君有過而不以死爭、則百姓何辜。乃直言諫紂。紂怒曰、吾聞聖人之心有七竅、信有諸乎。乃遂殺王子比干、刳視其心。微子曰、父子有骨肉而臣主以義屬。微子、名啓、帝乙之子。紂庶兄。故父有過、子三諫不聽、則隨而號之。人臣三諫不聽、則其義可以去矣。於是遂行。孔子曰、殷有三仁焉。
【読み】
○箕子は紂の親戚なり。箕は國。子は爵。紂は商王、帝辛。紂始めて象箸を爲る。箕子歎じて曰く、彼象箸を爲る、必ず玉桮を爲らん。玉桮を爲らば則ち必ず遠方珍怪の物を思いて之を御[もち]いん。輿馬・宮室の漸、此より始まり振[すく]う可からず、と。紂淫泆を爲す。箕子諫む。紂聽かずして之を囚う。人或は曰く、以て去る可し、と。箕子曰く、人の臣と爲り諫め聽かれずして去るは、是れ君の惡を彰かにして自ら民に説ばるるなり。吾爲すに忍びず、と。乃ち髪を被り佯狂して奴と爲り、遂に隱れて琴を皷して以て自ら悲しむ。故に之を傳えて箕子操と曰う。王子比干も亦紂の親戚なり。箕子の諫めて聽かれずして奴と爲るを見て則ち曰く、君過ち有りて死を以て爭わずんば、則ち百姓何の辜[つみ]かある、と。乃ち直言して紂を諫む。紂怒りて曰く、吾聖人の心に七の竅有りと聞く、信[まこと]に諸有るか、と。乃ち遂に王子比干を殺し、刳[さ]きて其の心を視る。微子曰く、父子は骨肉有りて臣主は義を以て屬す。微子、名は啓、帝乙の子。紂の庶兄。故に父過ち有り、子三諫して聽かれざれば、則ち隨いて之に號[さけ]ぶ。人臣三諫して聽かれざれば、則ち其の義以て去る可し、と。是に於て遂に行[さ]る。孔子曰く、殷に三仁有り、と。

十一月十一日
【語釈】
・十一月十一日…寛政元年(1789)11月11日。

○箕子紂親戚也。箕子は紂王の御家門て事をなされたもの。孟子に貴戚之卿と云がこれなり。先つ君臣の間のことは毎日々々のことて、其毎日々々のことにちらりとしたことがありても苦労になるてなけれは、夲の忠臣と云ものてはない。伊川先生か經筵官になられて、講官は上の巨細なこと迠耳に入ら子はならぬと云はれた。平生はこふしてをれとも、何そと云と君馬先て討死をすると云やふな取越たことてはない。平生苦労にしてをるなり。丁と大病人の看病をするやふなもの。咳か一つ出る。それにも気を付るなり。時々刻々上の御爲め々々々とするか君臣之義の大切の処ぞ。大賢の箕子が君を苦労にしたか、稽古の篇の君臣の義の精神になる。
【解説】
「箕子者紂之親戚也。箕、國。子、爵。紂、商王帝辛」の説明。君臣の間のことは毎日のことであって、悪いことがないかと、いつも苦労をしなければならない。いざという時はすると言うのは君臣之義ではない。箕子は君のことを苦労にした。
【通釈】
「箕子者紂之親戚也」。箕子は紂王の御家門で事をなされた者。孟子に「貴戚之卿」とあるのがこれ。先ず君臣の間のことは毎日のことで、その毎日のことにちらりとしたことがあっても苦労にするのでなければ本当の忠臣というものではない。伊川先生が経筵官になられて、講官は上の巨細なことまでが耳に入らなければならないと言われた。平生はこうしているが、何かあれば君の馬先で討死をすると言う様な、先のことを言うことではない。平生を苦労にしているのである。丁度それは大病人の看病をする様なもの。咳が一つ出る。それにも気を付ける。時々刻々上の御ためにとするのが君臣之義の大切な処。大賢の箕子が君を苦労にしたのが、稽古の篇の君臣之義の魂になる。
【語釈】
・貴戚之卿…孟子万章章句下9。「齊宣王問卿。孟子曰、王何卿之問也。王曰、卿不同乎。曰、不同。有貴戚之卿、有異姓之卿。王曰、請問貴戚之卿。曰、君有大過則諫、反覆之而不聽、則易位」。

○始爲象箸と云に気を付て見ること。事も大造にわるいことてもない。紂王も始から極悪てはないが、ここは丁と酉の年の火事もあの始めのもへ出しはと云話をするよふなもの。是か燃出しなり。紂王も最初はさのみ大悪人てもなかった。其大悪無道にならぬうちに象箸と云ものをこしらへた。箕子歎曰。ここなり。天子の上ですることにはあまりのやふに奢りてもない。それを箕子かさて々々もっけなことを始たと歎したもの。人欲の物好きのと云がそれきりてをらぬものなり。兎角人欲はじっとしてはをらぬものと思かよい。思ふ事ひとつかなへはまた二つと云哥もそれなり。そこを箕子か歎したもの。箸ははしと云字なれとも、樽のことそふなり。天子の奢りにはさしたることてもない。象牙て樽を今度こしらへたか、樽ぎりてはをるまい。箕子かさきをくくりてしりたもの。玉抔を作るてあろふ。玉杯か出来るとそれからはををさわきになりて、思遠方珍怪之物而御之矣。輿馬宮室之漸自此始也。
【解説】
「紂始爲象箸。箕子歎曰、彼爲象箸、必爲玉桮」の説明。紂王も最初はそれほどの大悪人でもなかった。その時に象箸を拵えた。それを箕子が、いずれ玉杯を作るだろうと歎じた。欲はじっとしていないもの。
【通釈】
「始為象箸」を気を付けて見なさい。事も大層に悪いことをするのでもない。紂王も初めから極悪ではなかった。ここは丁度酉の年の火事もあの初めの燃え出しはという話をする様なもの。これが燃え出しである。紂王も最初はそれほどの大悪人でもなかった。大悪無道にならない内に象箸というものを拵えた。「箕子歎曰」。ここである。天子の上ですることとしては、それほどの奢りでもない。それを箕子が実に物怪なことを始めたものだと歎じた。人欲の物好きというのがそれだけでは止まらないもの。とかく人欲はじっとしてはいないものだと思いなさい。思う事一つ叶えばまた二つという歌もそれ。そこを箕子が歎じたもの。箸ははしという字だが、樽のことだそうである。天子の奢りとしてはそれほどのことでもない。今度象牙で樽を拵えたが、樽だけではいないだろう。これが、箕子が先を駆って知ったもの。玉杯を作ることだろう。玉杯ができるとそれからは大騒ぎになって、「思遠方珍怪之物而御之矣。輿馬宮室之漸自此始」である。

○不可振が手の及ぬこと。紂王は天子ゆへ、天子かこれか御好と云になれは、津々浦々から得たりかしこしと珍しきものをもってくる。天子と云御身は御物好のないと云かよい。物好かあると、中蕐に斗りてはなく万国の夷狄からももってくる。珍はめつらしいことてよいことについた字なり。怪の字のあるてよくないことになる。外篇に、一釵七十万此妖物なりとあるもこのやふなこと。惣体人の調法かるめつらしいものにはあやしいと云ことかある。そふすると、それか人の身上を覆墜[つぶす]直段になる。利休の作と云へは田楽串のやふなものか、好むと云になると金一牧にも二牧にもなる。あやしいなり。茶人の茶杓にも怪の字かつく。ばけものなり。思と云も靣白ひ字を下したもの。欲の方に心がついてたくみ出す。能なしの食たくみと云も何を食たらよかろふと思てをる。それから心はらりになる。
【解説】
「爲玉桮則必思遠方珍怪之物而御之矣。輿馬・宮室之漸自此始不可振也。紂爲淫泆。箕子諫。紂不聽而囚之」の説明。天子が物好きだと、津々浦々から珍しいものを持って来る。「珍怪」の「珍」は珍しいことでよいことだが、これに「怪」の字が付くので悪いことになる。
【通釈】
「不可振」は手の及ばないこと。紂王は天子なので、天子が御好きというのであれば、津々浦々から得て参りましたと珍しいものを持って来る。天子という御身は御物好きのないのがよい。物好きがあると、中華だけでなく、万国の夷狄からもそれを持って来る様になる。「珍」は珍しいことでよいことに付いた字で、「怪」の字があるのでよくないことになる。外篇に、「一釵七十万、此妖物也」とあるのもこの様なこと。総体人の調法がる珍しいものには怪しいということがある。そうすると、それが人の身上を潰す直段になる。利休の作と言えば田楽串の様なものが、好むということになると金一枚にも二枚にもなる。それは怪しいこと。茶人の茶杓にも怪の字が付く。化物である。「思」と言うのも面白い字を下したもの。欲の方に心が付いて巧みを出す。能なしの食巧みと言うのも何を食べたらよいだろうと思っているからで、それからは心が台無しになる。
【語釈】
・一釵七十万此妖物…小学外篇善行64。「一釵七十萬、此妖物也」。

普請もありへかかりてなく、漸はそろ々々と始まるて、奢もいったんではないもの。これても役に立ぬ々々々々と云てこしらへなをすなり。ああ苦々しひと云たか、紂のまたわるくならぬ前のことなり。此を忠臣と云。宋の王荊公なとは天下を動かす大儒なれとも、君に権威か付子はならぬと思て、人主は是程のことは何ともない々々々々々と神宗へたき付けた。此か謀反人の云とは違へとも、箕子の思召なととは殊外相違したことそ。あれからして宋の世もつぶれたなり。名医に見たてられたそ。案の如く紂王がわるくなりた。少々わるくても好色と大酒がなけれは古風て治まることもある。殷の紂王か好色第一大酒第一な人ゆへ、そこて淫泆と云になられた。箕子の諌をすると對决なしに揚り屋へやられたそ。
【解説】
紂王は好色第一大酒第一の人なので淫泆になった。箕子が諌めると直ぐに彼を牢に入れた。
【通釈】
普請も型通りなものではない。「漸」はそろそろと始まることで、奢りも一旦に成るものではない。これも役に立たないと言って拵え直す。ああ苦々しいと箕子が言ったのは、紂のまだ悪くならない前のこと。これを忠臣と言う。宋の王荊公などは天下を動かす大儒だったが、君に権威が付かなければならないと思って、人主はこれほどのことは何ともないと神宗へ焚き付けた。それは謀叛人が言うのとは違うが、箕子の思し召しなどとは殊の外相違したこと。あれからして宋の世も潰れた。名医に見立てられたのである。案の如く紂王が悪くなった。少々悪くても好色と大酒がなければ古風で治まることもある。殷の紂王は好色第一大酒第一の人なので、そこで淫泆になられた。箕子が諌めると話し合うこともなく、揚屋へ遣られた。
【語釈】
・王荊公…王安石。1021~1086
・揚り屋…江戸小伝馬町の牢屋の一部。御家人、大名や旗本の臣、僧侶・医師・山伏などの未決囚を入れた所。

○或曰から同時のこととはみへぬか、此様な記彔は年々のことを一つにして録したものゆへこふなれとも、可以去と云か窂を破って迯たこととはみへぬそ。君へ諌を云て聞入れなくて去るは御定りなことてはあれとも、御定の通の忠臣てはない。箕子は御定の道理かいやなり。垩賢の上には御定りのないと云ことをよく合点するかよい。諌て去れは吾かことか下て評判かよいものそ。そこて人は去りもしよふか、をれはそれかいやじゃ。紂王の悪ひと吾か善ひか墨と雪ほと違てをるから、そこてくにゃ々々々にしてしまいたいと思ふて、つくり気違ひをしたなり。
【解説】
「人或曰、可以去矣。箕子曰、爲人臣諫不聽而去、是彰君之惡而自説於民。吾不忍爲也」の説明。諌めて聞き入れられなければ去るのが君臣の御定まりだが、箕子は気違いの振りをして去らなかった。彼は紂王の悪がわからない様にしてしまいたいと思った。
【通釈】
「或曰」からは同時のこととは見えない。この様な記録は年々のことを一つにして録したものなのでこうなるもの。「可以去」は、牢を破って逃げることとは見えない。君へ諌めを言って聞き入れなければ去るのが御定まりのことではあるが、御定まりの通りの忠臣ではない。箕子は御定まりの道理が嫌である。聖賢の上には御定まりがないということをよく合点しなさい。諌めて去れば、下では自分の評判がよくなるもの。そこで人は去りもするだろうが、俺はそれが嫌だ。紂王が悪いのと自分が善いのとが墨と雪ほどに違っているから、そこでぐにゃぐにゃにしてしまいたいと思って、作り気違いをした。

○奴は位の重ひ人を官をはいて奴にする。其塲を作り気違をした。鼻哥を謡たり、うたいをうたふたりして、なにやらその塲のしれぬやふにしたい深ひ誠の心なり。我子の悪ひことは親はぐにゃ々々々にしてしまいたい。はちはらいをすることはない。琴かをかしいやふな処へ出たやふなれとも、酒のやふなものなり。目出度ときも酒を飲み、憂な時も酒をのむ。可愛子を殺たときも酒をのむ。そこて憂ての琴なり。箕子の弾て居られた琴がどふもあわれて涙の流れるやふてありた。そこて此事を後世箕子操と名を付た。箕子節と云ことなり。先つ君臣之義のまっ初めに、箕子に一つも手抦のないことを出した。是か君臣の義のきり々々につまりたこととみることそ。箕子は歎たきりで紂王へはつんぼほともきかぬ。琴か天下の爲めにもなら子は君の爲にもならぬ。それてもそこか学者の君臣の義のきり々々になるなり。
【解説】
「乃被髪佯狂而爲奴、遂隱而皷琴以自悲。故傳之曰箕子操」の説明。遂には、箕子は琴を弾いて悲しんだ。箕子は天下のためにも紂のためにもならなかったが、学者のためには君臣之義の至極となる。
【通釈】
「奴」は位の重い人の官を剥いで奴にすること。その場で作り気違をした。鼻唄を歌ったり、謡を謡ったりした。それは、何やらその場を知れない様にしたい深い誠の心からのこと。我が子の悪いことは、親はぐにゃぐにゃにしてしまいたい。それは蜂払いをすることではない。「琴」がを可笑しな処へ出た様だが、これが酒の様なもの。目出度い時も酒を飲み、憂うる時も酒を飲む。可愛い子を殺した時も酒を飲む。そこで、ここは憂えての琴である。箕子の弾いておられた琴がどうも哀れで涙の流れる様だった。そこでこの事を後世箕子操と名付けた。箕子節ということ。先ず君臣之義の真っ初めに、箕子という一つも手柄のないことを出した。これが君臣の義のぎりぎりに詰まったことだと見なさい。箕子は歎じただけなので、紂王へは聾ほどにも効かない。琴が天下のためにもならなければ君のためにもならない。それでもそれが学者のためには君臣の義の至極になる。
【語釈】
・はちはらい…蜂払い。物を聞き入れないでしりぞけること。

王子比干。是も同し由緒の人そ。紂王は此通り大賢の家門を多くもって、ひとつはも役にたたぬ。扁鵲ほとな名医か居ても、匕のまわらぬことかある。三人の名医か居てもひとつはもきかぬ。天下の老中をすへき人か奴になり、比干は其上をもっとも難義をして命を捨ても、若しも上の御聞入れもあるかと家内へ盃をして出る気になりたもの。○百姓はここにでものなり。殷の紂王の御身分を云ことそ。天子はたた上に置くものてはない。天子は上に居て下の百姓を保たっしゃる身分なり。それに紂王か下をらりこはいにするゆへ、何の咎がありてあのやふにすると云なり。放伐の奥の院も百姓何辜と云処から出たもの。上一人の御方か下を養ふもの。そこて大名のことを牧君とも云。牧君はやしなふ君と云ことなり。百姓と云か人君の御身にかかったものそ。天下の百姓に何の尤かあればぞしゃとなり。史記かたん々々こふ書たか、たた書たてはない。箕子諌不聽と云処からして、不以死爭則百姓何辜乃直言諌紂と、今度は瀉剤を用たもの。偖てここの諌かとふ諌たことか傳らす、知れぬがしりたいものそ。王子比干か段々子じより々々々々御手討々々々と諌たことなり。今度は箕子を囚たやふなことてはない。甚しひことそ。大きく怒り、せいて拔打と云ことはありそふなものなれとも、前置を云はれた。ここか大悪人の処なり。
【解説】
「王子比干者亦紂之親戚也。見箕子諫不聽而爲奴則曰、君有過而不以死爭、則百姓何辜。乃直言諫紂」の説明。天子は上にいて下の百姓を保つ身分だが、紂はそれを台無しにした。そこで、比干が天下の百姓に何の咎があるのかと言った。
【通釈】
「王子比干」。彼も同じ由緒の人。紂王はこの通りに大賢の家門を多く持っていたが、少しも役に立たなかった。扁鵲ほどの名医がいても、匙の回らないことがある。三人の名医がいても少しも効かない。天下の老中をすべき人が奴になり、比干はその上で、難儀をして命を捨てても、もしかすると上の御聞き入れがあるかも知れないと家内へ盃をして出る気になった。「百姓」はここの出物である。殷の紂王の御身分を言ったこと。天子はただ上に置くものではない。天子は上にいて下の百姓を保つ身分である。それなのに、紂王が下を乱離骨灰にするので、何の咎があってあの様にするのかと言った。放伐の奥の院も「百姓何辜」という処から出たもの。上一人の御方が下を養う。そこで大名のことを牧君とも言う。牧君は養う君ということ。百姓は人君の御身に掛かったもの。天下の百姓に何の咎があるのかと言った。史記が段々にこの様に書いたのは、ただ書いたのではない。「箕子諌不聴」という処からして、「不以死争、則百姓何辜。乃直言諌紂」と、今度は瀉剤を用いたもの。さてここの諌がどの様に諌めたことか伝わらず、それは知れないが知りたいもの。王子比干が段々と捻り寄って御手討にしろと諌めた。今度は箕子を囚えた様なことではない。甚だしいこと。大きく怒り、急いて抜打ちということもありそうなものだが、前置きを言われた。ここが大悪人の処である。

○吾聞は列女傳に相続みあり。妲己か云たこととなり。成程べったりとよくあふか、是はよ井加减にこしらへたことかもしれぬ。妲己か云たこと聞こふか聞まいか、比干へなんたいを云たことなり。聞たか聞ぬかそれは知れぬ。垩人の心には七つの穴かあると云。其元は理屈を云から垩人でかなあろふか、誰も定めてかない。是はええためしものしゃ。七竅あれは垩人、なけれはたたの奴つ。さあ殺せと云た。是か大悪人のなりなり。云へはこれかなぶり殺しと云やふなもの。是等は沢山ないことそ。古今一人なり。極悪の状[なり]を書てみせたものそ。これも頓と薬かきかすにすんたときに、これか忠直と云もきり々々にきまること。大切なことなり。上の箕子と同し心てしさしった垩人なり。
【解説】
「紂怒曰、吾聞聖人之心有七竅、信有諸乎。乃遂殺王子比干、刳視其心」の説明。聖人の心には七つの穴があると言うから、それを確かめようと言て、紂王は比干を殺した。
【通釈】
「吾聞」は列女伝に相続みがある。それは妲己が言ったことだとある。なるほどべったりとよく合うが、それはよい加減に拵えたことかも知れない。妲己が言ったことを聞こうが聞くまいが、比干へ難題を言ったのである。妲己の言を聞いたか聞かないか、それは知れない。聖人の心には七つの穴があると言う。貴方は理屈を言うから聖人なのだろうが、誰も定め手がいない。ここはよい試しものだ。七竅があれば聖人、なければただの人だ。さあ殺せと言った。これが大悪人の姿である。これが弄り殺しという様なもの。これらのことは沢山はないことで、古今一人である。極悪の情状を書いて見せたもの。これも全く薬が効かずに終えたが、これを忠直と言うのも至極に極まることで、大切なことである。上の箕子と同じ心でされた聖人である。

○微子曰云々。とちも垩賢のすることて同し手なことはない。たたとちもそれ々々に誠を尽したものなり。見た処はちかへとも、心の誠を尽すにちこふたことはない。此の微子のはまた前とは分な了簡。是は理屈を云た。親子は骨肉をわけたゆへ、はなれられす一つものなり。勘当すれは子てはないと思か、勘当したとてふんのものてはない。君臣の間はそれとは違ひ、義てかためたもの。本と二つものなれとも、君よ臣よと云釘てむすひつけたものなり。夫婦はどこのか女が婚礼をして夫婦になりたもの。君臣ももとわかったものて、義てむすふ。ここは君臣父子の道体を語たものそ。親子の間は切りよふはない。そこて親へ諌をしてきかぬときは膝元に泣てをるより外はない。君臣はそふしたものてはない。義のきれる処かある。そこて去る時分じゃと見切をしったかしゃうぶなり。そのときは肉なしづっと去るそ。箕子の佯狂も親切に見へ、胷をさかれたはなを親切にみへるが、ここは懐中て去るゆへ、とふやら親切てないやふなれとも、それは凡夫の了簡。此の衆はからたを大極の理なりにかたつけた。三人がぶん々々なり。後世て見たとき、をれは誰かよいと云は物好きなり。
【解説】
「微子曰、父子有骨肉而臣主以義屬。微子、名啓、帝乙之子。紂庶兄。故父有過、子三諫不聽、則隨而號之。人臣三諫不聽、則其義可以去矣。於是遂行」の説明。父子とは違い、君臣も夫婦も本は他人である。君臣は義で結ばれたものだから、諌めて聞き入れられなければ去る。微子は去った。微子は太極の通りをしたのである。
【通釈】
「微子曰云々」。どちらも聖賢のすることだが、同じ手であることはない。ただどちらもそれぞれに誠を尽くしたもの。見た処は違うが、心の誠を尽くすのに違ったことはない。ここの微子のはまた前とは別な了簡で、ここは理屈を言ったもの。親子は骨肉を分けたものなので、離れられずに一つのもの。勘当すれば子ではないと思うが、勘当したとしても別のものではない。君臣の間はそれとは違い、義で固めたもの。本は二つなものだが、君よ臣よという釘で結び付けたもの。夫婦は何処かの女が婚礼をして夫婦になったもの。君臣も本は分かれたもので、義で結ぶ。ここは君臣父子の道体を語ったもの。親子の間は切り様がない。そこで親へ諌めをして聞かない時は膝元で泣ているより外はない。君臣はそうしたものではない。義の切れる処がある。そこで去る時分だと見切りを知るのが丈夫なこと。その時は肉なしなのでずっと去る。箕子の佯狂も親切に見え、胸を割かれたのは尚更親切に見えるが、ここは懐中して去るので、どうやら親切でない様に見える。しかし、それは凡夫の了簡である。ここの衆は体を太極の理なりに片付けた。三人がそれぞれにした。後世で見た時に、俺は誰がよいと言うのは物好きである。

孔子か出て云。是か本阿弥目利なり。仁と云ことも吟味のかかる字そ。君臣の間は忠と云ことと義と云ことなり。そんなら三忠とか三義とか仰せられそふなものなれとも、三仁と云か三人の衆の精神迠請合はしったもの。義の忠のと云は道理の規矩ゆへ、そこへ身か至らすともなるか、仁は至て重ひこと。孔子も仁我不知と云ひ、孔子のついに仁をゆるさしったことかない。これて斗り殷有三仁と始て仁を許るさしった。三人の衆の心へ立入て云はれたことそ。三人のわさはぶんなれとも、仁と云ほぞの甘ひ処へ至られたそ。忠の義のと誉す、三仁と云て此上はない。天へととく処の忠臣なり。わさの上にちとあじじゃと云と仁に傷がつく。わさがよくても心かとふてもすると仁に傷かつくなり。親切かありても知惠かないと、仁と云名か付られぬ。屈原かあの忠義は三仁にもをさ々々をとるまいか、わけなしに海や川へ身を投ける。それかそこつなり。子ちより々々々々諌をしても忠に云分なく、たた当理と云吟味になって、ほそ落の処の心かそてなくては仁とは名か付られぬ。孔子か三仁と云か三人の心はへから、さて理にあたるて云たもの。そこて忠臣のきり々々になる。
【解説】
「孔子曰、殷有三仁焉」の説明。ここを孔子は忠義と言わずに三仁と言った。業に一寸悪いことがあっても仁に傷が付く。親切があっても智恵がないと仁ではない。この三人の心栄えが当理なので、孔子は三仁と言ったのである。
【通釈】
孔子が出て言う。これが本阿弥の目利きである。仁ということも吟味の掛かる字である。君臣の間は忠と義である。それなら三忠とか三義とか仰せられそうなものだが、三仁と言ったの三人の衆の魂までを請け合われたもの。義や忠というのは道理の規矩なので、そこへ身が至らなくてもよいが、仁は至って重いこと。孔子も「仁則吾不知」と言い、孔子は最後まで仁を許されはしなかったが、これだけは「殷有三仁」と初めて仁を許された。これが三人の衆の心へ立ち入って言われたこと。三人の業はそれぞれだが、仁という臍の甘ひ処へ至られた。忠や義と誉めずに三仁と言うのでこの上はない。天へ届く処の忠臣である。業の上に一寸悪いことがあると仁に傷が付く。業がよくても心がどうかすると仁に傷が付く。親切があっても智恵がないと、仁という名が付けられない。屈原のあの忠義は三仁にもおさおさ劣るものではないが、わけなしに海や川へ身を投げる。それが粗忽ということ。捻り寄って諌めをするのは忠に言い分はなくても、ただ当理という吟味になって、臍落ちの処の心がよくなければ仁とは名付けられない。孔子が三仁と言ったのが三人の心栄えから。それが理に当たるので言ったもの。そこで忠臣の至極になる。
【語釈】
・仁我不知…論語憲問2。「克・伐・怨・欲、不行焉、可以爲仁矣。子曰、可以爲難矣。仁則吾不知也」。


稽古23
○武王伐紂。伯夷・叔齊叩馬而諫。左右欲兵之。伯夷・叔齊、孤竹君之子。兵謂殺之也。太公曰、此義人也。扶而去之。武王已平殷亂天下宗周、而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟、隱於首陽山。釆薇而食之。遂餓而死。
【読み】
○武王紂を伐つ。伯夷・叔齊馬を叩[ひか]えて諫む。左右之を兵せんと欲す。伯夷・叔齊は孤竹君の子。兵は之を殺すを謂うなり。太公曰く、此れ義人なり。扶けて之を去る。武王已に殷の亂を平げ天下周を宗として、伯夷・叔齊之を恥じ、義、周の粟を食わず、首陽山に隱る。薇を釆りて之を食ふ。遂に餓して死す。

○武王伐紂云々。武王に五臟六腑はないとみることそ。それはなせなれは、浅見先生の所謂形のある天なり。形があるゆへ武王と云か、すくに天そ。武王と云て天とみること。天がやれかし々々々々と狼烟をあける。誰もそれをみてはない。天か武王を向に置てやれかし々々々々と云。そこてやむことをえず貧乏鬮をとられた。天下を取ることゆへ貧乏鬮てはありそもないものなれとも、望てはなし。後天奉天之時しゃ。垩人斗りのこと。是を権道と云。権道と云ことは小学てはいらぬことて、封をつけてしまふてをくこと。そこて学者かそっと小学て読て、それから易や中庸てあけて見て、また靖献遺言と云ふ錠をひんとをろしてしまふてをくことなり。錠ををろしはをろすか、権道と云ことはあるもの。だしてはならぬゆへ錠ををろす。武王と云者かあって紂王と云者かあれはなる。権道は瓢を川へ投けたやふなもの。とこへなけこんてもふっくりとうきる。
【解説】
「○武王伐紂」の説明。武王は形を持った天である。天が武王に放伐をするように命じた。これが権道である。権道は小学ではしまって置くもの。
【通釈】
「武王伐紂云々」。武王に五臓六腑はないと見なさい。それは何故かと言うと、浅見先生の謂う所の形のある天である。形があるので武王と言うが、直に天である。武王と言って天と見る。天がしなさいと狼煙を上げる。誰もそれを見る者はいない。天が武王を向こうに置いてしなさいと言う。そこで止むを得ず貧乏籤を引いた。天下を取ることなので貧乏籤ではありそうもないものだが、それは望みではない。「後天奉天之時」である。これが聖人だけのことで、権道と言う。権道は小学では要らないことで、封を付けてしまって置くこと。そこで学者がそっと小学で読んで、それから易や中庸で開けて見て、また靖献遺言という錠をぴんと下ろしてしまって置く。錠を下ろしはするが、権道ということはあるもの。出してはならないので錠を下ろす。武王という者がいて紂王という者がいればそれが成る。権道は瓢を川へ投げた様なもの。何処へ投げ込んでもぷっくりと浮く。
【語釈】
後天奉天之時…天に後れて天の時を奉ずる?

荘子か垩人は入水不溺と云た。垩賢が放伐をさしっても身に疵は付ぬ。たたの人か瓢を持て阿波の鳴戸へいると海へ沈む。王莽と云鰐もあれは曹操と云鯨もあって、海へ引込む。漢の景帝か食肉不食馬肝不爲不知味、言学者無言湯武受命不爲愚と云ひ、會津侯の放伐の話はをけと云れた。尋常の者か放伐ぐるいをすることてはない。放伐と云ことはあることてないことにして封を付てをくことそ。此章は伯夷叔斉の章なり。是程に説か子は跡の伯夷叔斉の武王をわるいと思召処かさへぬ。武王をわるいと思か伯夷叔斉の正靣なり。されとも権道もないこと、武王もわるいなれは、伯夷叔斉の手抦もなし。尤なことを御無用と止めたか伯夷の伯夷たる処なり。
【解説】
聖賢は放伐をしても身に疵を付けることはない。ここは伯夷叔斉の章であり、伯夷叔斉は武王の放伐を悪いことだと思った。尤もなことを悪いと言ったのが伯夷叔斉たる処である。
【通釈】
荘子が聖人は「入水不溺」と言った。聖賢が放伐をされても身に疵は付けない。ただの人が瓢を持って阿波の鳴戸へ入ると海へ沈む。王莽という鰐もいれば曹操という鯨もいて、海へ引き込む。漢の景帝が「食肉不食馬肝不為不知味、言学者無言湯武受命不為愚」と言い、会津侯も放伐の話は置けと言われた。尋常な者が放伐狂いをするものではない。放伐ということはあることだが、それをないことにして封を付けて置くもの。この章は伯夷叔斉の章である。これほどに説かなければ後にある伯夷叔斉が武王を悪いと思し召す処が冴えない。武王を悪いと思うのが伯夷叔斉の正面である。しかし、権道もないこととして、武王も悪いとするのであれば、伯夷叔斉の手柄もない。尤もなことを御無用と止めたのが伯夷の伯夷たる処である。
【語釈】
・入水不溺…荘子大宗師。「古之真人、不逆寡、不雄成、不謀士。若然者、過而弗悔、當而不自得也。若然者、登高不慄、入水不濡、入火不熱」。
食肉不食馬肝不爲不知味、言学者無言湯武受命不爲愚…「肉を食うに馬肝を食わざれば味を知らざると為さず、学を言う者、湯武の命を受くるを言うこと無くば愚と為さず」。
・會津侯…保科正之。1611~1672

○叩馬而諌は邪魔をすること。是はとふすることしゃ々々々々々々々々と馬を叩て諌られた。伯夷叔斉の精神か殊外君臣の義を丈夫に立てをられた。孟子も古垩人也と云ひ、権道のことも耳に聞きはつられたてもあろふか、兎角胸にのらぬ。あんなことはをれはならぬ々々々と思ふ。心かまっすくで丈夫ゆへ、武王はと云、まてしはしはない。とのやふに大悪人ても天子なり。上に天子と云御方かあれは津々浦々迠皆天子の家来、天子の御恩を蒙てをる。今迠の君臣の義を横にすることはとふもならぬ。そこて兎角御無用々々々と云。伯夷叔斉の精神を云とき、権道か胸にのらぬなり。人の品格を云は伯夷叔斉は武王の次なり。先軰の説にも、天か武王に云付たか伯夷叔斉には云付ぬと云はれた。云付ぬほとなことゆへ権道か胸にのらぬ。そんなら武王か上て伯夷叔斉は下かと云ふ。その下か小学てはのそみなり。前々爰を是程に人に説ぬ。古今なひ武王に古今なひ紂王を放伐なり。こちは天の御使者か行くに邪魔をするゆへ打捨にしよふと云た。今大名の歩士の先をわるとふちたをす。増して軍さのさきをとめることゆへ殺すか法なり。大公がそこへ出て、ああそのぶんにせい々々と左右の者に示す口上なり。武王の人数をそろへるか天道。それへ邪魔をしたゆへ打捨にしよふと云か麁忽てはない。
【解説】
「伯夷・叔齊叩馬而諫。左右欲兵之。伯夷・叔齊、孤竹君之子。兵謂殺之也」の説明。伯夷叔斉は殊の外君臣の義を丈夫に立てた人である。そこで権道が胸に乗らない。天の御使者として行くのに邪魔をするのであれば打ち捨てにする筈だが、武王はそのままにしろと命じた。
【通釈】
「叩馬而諌」は邪魔をすること。これはどうしたことだと馬を叩いて諌められたもの。伯夷叔斉の魂が殊の外君臣の義を丈夫に立てておられた。孟子も「古聖人也」と言い、権道のことも耳に聞いたことはあっただろうが、とかく胸に乗らない。あんなことは悪いと思った。心が真っ直ぐで丈夫なので、武王は悪いと言い、待て暫しはない。どの様な大悪人であっても紂は天子である。上に天子という御方がいれば津々浦々までが皆天子の家来、天子の御恩を蒙っている。今までの君臣の義を横にすることはどうしてもできない。そこでとかく放伐は御無用だと言う。伯夷叔斉の魂を言う時には、権道が胸に乗らない。人の品格を言えば伯夷叔斉は武王の次である。先輩の説にも、天が武王に言い付けたが伯夷叔斉には言い付けなかったと言われた。言い付けられないことなので権道が胸に乗らない。そこで、武王が上で伯夷叔斉は下かと言えば、その下が小学では望みである。前々はここをこれほどには人に説かなかった。古今にない武王が古今にない紂王の放伐する。天の御使者として行くのをお前は邪魔をするのだから打ち捨てにしようと言った。今大名の徒歩の先を割ると打ち倒す。ましてや軍の先を止めたことなので殺すのが法である。大公がそこへ出て、ああそのままにしろと左右の者に言った。武王が人数を揃えるのが天道。それに邪魔をしたので打ち捨てにしようというのは粗忽なことではない。
【語釈】
・古垩人也…孟子公孫丑章句上2。「曰、伯夷・伊尹何如。…皆古聖人也」。

○義人也と云か手のつけられぬことて、大極の中から出た文字。伯夷叔斉か大極の中から出て君と云ものに手は付られぬと云。武王の放伐も大極から出る。伯夷叔斉かならぬと云か伯夷叔斉の状[な]りなり。武王か異見をききはせぬ。異見を聞けは天の云付ではない。常て云へは初手からわるい。常理を云ゆへ伯叔か是もわるくはないそ。そこて義人しゃと二声三声もかけたもの。偖て大公かここて始て伯夷叔斉をみたてはあるまいなり。武王の軍は仁義の軍。義人を兵するやいばはもつまい。不埒な者はころそふか、義人へ声をかけてやめにした。大名の供廻かほふ々々と云ても、盲人をは抱て脇へ片付るやふなもの。伯叔を先つ御前はこちへこされとのけて、それからはら々々と人数を進めた。ここを細に云へは、伯叔かとふあってもあれは君へ弓を引しゃと云て、武王へ鉄炮を打、手裏釼を打てはあるまい。たたこれはいかなことをこれは々々々とをさへたと直方先生の云へり。
【解説】
「太公曰、此義人也。扶而去之」の説明。武王の軍は仁義の軍なので、義人を兵する刃は持たない。不埒な者は殺すが、義人へは声を掛けて殺さなかった。伯夷叔斉も武王を攻撃したのではなくて、進軍を止めようとしただけのことだろう。
【通釈】
「義人也」というのが手の付けられないことで、太極の中から出た文字である。伯夷叔斉が太極の中から出て、君という者に手は付けられないものだと言う。武王の放伐も太極から出る。伯夷叔斉がならないと言うのが伯夷叔斉の姿である。武王はその様な異見を聞きはしない。異見を聞けば天の言い付けに違う。常で言えば初手から悪いが、常理を言うので伯叔は悪くはない。そこで義人だと二声三声も掛けたもの。さて大公がここで初めて伯夷叔斉を見たのではないだろう。武王の軍は仁義の軍。義人を兵する刃は持たないだろう。不埒な者は殺すが、義人へは声を掛けて止めにした。大名の供廻りがほうほうと言っても、盲人は抱いて脇へ片付ける様なもの。伯叔を、先ずは御前はこちらにおられよと除けて、それからばらばらと人数を進めた。ここを細かに言えば、伯叔がどうしてもあれは君へ弓を引くことだと言って、武王へ鉄砲を撃ち、手裏剣を投げたのではなかっただろう。ただこれはどうしたことだと押さえたのだと直方先生が言った。

伯夷を垩と云も、心か鉄炮玉の拔るほとに突き出て、さて是非に及はす叶ぬと云た、其魂のつまり処か君臣の義の万代の則になる。そこて天下か一統した跡て伯夷叔斉がつきぬけた君臣の義ゆへ、耻之と云はどふもあの天下か周の方へ行きたが、殷の天下しゃ、をれも殷の臣しゃにまたと事へるは人間てはないと耻たことそ。わるくとると、をれか云ことをきかぬゆへ、せめて負れはよいか、利運したゆへ耻と云ことに思かそふてはない。これは一埒すんて二君に事るは耻しゃと手前の心を云たもの。これから五穀も周の五穀ゆへもふつかへられぬと云て、隱れて周の者はくわれなんた。
【解説】
「武王已平殷亂天下宗周、而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟」の説明。周の世になってからは、伯夷叔斉は隠れて周に事えず、五穀も食わなかった。
【通釈】
伯夷を「聖之清」と言うのも、心が鉄砲玉の抜けるほどに突き出ていたからである。そこで是非に及ばず叶わないことだと言った。その魂の詰まり処が君臣の義の万代の則になる。そこで天下が一統した後で伯夷叔斉が突き抜けた君臣の義なので、「恥之」だった。どうもあの天下が周の方へ行ったが、殷の天下だ、俺も殷の臣だから周に事えるのは人間ではないと恥じたのである。悪く取ると、俺の言うことを聞かないので、せめて負ければよかったが、利運で勝ったので恥ずかしかったということと思うがそうではない。これは一埒済んで、二君に事えるのは恥だと自分の心を言ったもの。これから五穀も周の五穀なので、もう事えられないと言って、隠れて周のものを食わなかった。
【語釈】
・伯夷を垩…孟子万章章句上9。「孟子曰、伯夷、聖之清者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也」。

○隠は奉公をせぬことなり。今は隠と云へはたた引込てみへぬ処にをれは隠と思か、たたい中蕐ては引込て奉公をせぬこと。本町のやふな処に居ても隠居と云。此頃元服しても奉公せ子は隠居なり。○薇なとを取て食れた。五穀は食はぬ。絶食したと云ことはない。飲食もつつかす死なれた。ここの体か遂にと云字をみよ。断食ではない。貧窮で飢へ寒へて死なれたことなり。君臣の義か死ぬ迠でとをりぬけたぞ。浅見先生が、雁はうぢになりても北へとぶと云はれた。それほどな処が志のとほりぬけたもの。伯夷叔斉の潔白な心かいつも々々々同しことて、此手那手と云ふことはない。笠か曲るとああにが々々しいと避る。其時の心も、孤竹て欠落された心も、叩馬た心も同し手な心てされたものなり。伯夷の清とさす手かしまった将棊。いつも同しことて、石田囲ときたなり。そこへをちるてなくては本んの君臣の義とは云れぬ。論吾に鄙夫可與事君とあり、又、朱子の菜根を咬むことかならぬゆへ本心を失と云ことを鞭策彔にあり、飢て死ぬとても笑を含んて死ぬなり。大極に疵を付るかいやそ。そこて今日万鐘明日飢餓と云こともある。それを靣白ひと云は子は君臣の義はたたぬ。肉身に心ありてはならぬ。肉身をはなれ子はならぬことなり。是程に吟味をつめ子は小学て君臣の義を読たとは云はれぬことそ。
【解説】
「隱於首陽山。釆薇而食之。遂餓而死」の説明。伯夷叔斉は餓えて死んだが、それは君臣の義を死ぬまで貫いたのである。伯夷叔斉の潔白な心はいつも同じだった。肉身に心があってはならない。
【通釈】
「隠」は奉公をしないこと。今は隠と言えばただ引き込んで見えない処にいれば隠と思うが、そもそも中華では引き込んで奉公をしないこと。本町の様な処にいても隠居と言う。この頃元服しても奉公をしなければ隠居である。薇などを採って食われた。五穀は食わなかったが、絶食したということではない。飲食も続かずに死なれた。「遂」という字を見なさい。断食ではない。貧窮で飢寒で死なれたのである。君臣の義が死ぬまで通り貫けた。浅見先生が、雁は蛆になっても北へ飛ぶと言われた。それほどの処が志の通り貫けたもの。伯夷叔斉の潔白な心がいつも同じことで、この手あの手という様なことはない。笠が曲るとああ苦々しいと避ける。その時の心も、孤竹で駆け落ちされた心も、馬を叩いた心も同じ心でされたもの。伯夷の清は指す手が決まった将棋である。いつも同じことで、石田囲いと来る。そこへ落ちるのでなければ本当の君臣の義とは言えない。論語に「鄙夫可与事君」とあり、また、朱子が菜根を咬むことができないので本心を失うと言ったことを鞭策録に載せてある。飢えて死ぬとしても笑いを含んで死ぬのである。太極に疵を付けるのが嫌なのである。そこで「今日万鐘明日飢餓」ということもある。それを面白いと言うのでなければ君臣の義は立たない。肉身に心があってはならない。肉身から離れなければならない。これほどに吟味を詰めなければ小学で君臣の義を読んだとは言えない。
【語釈】
・笠か曲るとああにが々々しいと避る…孟子公孫丑章句上9。「孟子曰、伯夷、非其君不事、非其友不友。不立於惡人之朝、不與惡人言。立於惡人之朝、與惡人言、如以朝衣朝冠坐於塗炭。推惡惡之心、思與鄕人立、其冠不正、望望然去之、若將浼焉。是故諸侯雖有善其辭命而至者、不受也。不受也者、是亦不屑就已」。
・鄙夫可與事君…論語陽貨15。「子曰、鄙夫、可與事君也與哉。其未得之也、患得之。既得之、患失之。苟患失之、無所不至矣」。
・菜根を咬むことかならぬ…講学鞭策録19。「某觀今人、因不能咬菜根、而至於違其本心者衆矣」。
・今日万鐘明日飢餓…近思録出処39。「天下事、大患只是畏人非笑。不養車馬、食麄衣惡、居貧賤、皆恐人非笑。不知當生則生、當死則死、今日萬鐘、明日棄之、今日富貴、明日飢餓、亦不卹、惟義所在」。


稽古24
○衛靈公與夫人夜坐、聞車聲轔轔至闕而止、過闕復有聲、轔、車聲。公問夫人曰、知此謂誰。夫人曰、此蘧伯玉也。伯玉、名瑗。孔子居衛主其家。公曰、何以知之。夫人曰、妾聞禮、下公門式路馬、所以廣敬也。路馬、君路車。所駕之馬也。夫忠臣與孝子、不爲昭昭信節、不爲冥冥惰行。蘧伯玉、衛之賢大夫也。仁而有智。敬於事上。此其人必不以闇昧廢禮。是以知之。公使人視之。果伯玉也。
【読み】
○衛の靈公、夫人と夜坐し、車聲轔轔として闕に至りて止み、闕を過ぎて復た聲有るを聞き、轔は車の聲。公、夫人に問いて曰く、此れ誰と謂うを知るか、と。夫人曰く、此れ蘧伯玉なり、と。伯玉、名は瑗。孔子衛に居りて其の家を主とす。公曰く、何を以て之を知る、と。夫人曰く、妾、禮に、公門を下り路馬に式すは、敬を廣むる所以なりと聞く、と。路馬は君の路車。駕する所の馬なり。夫れ忠臣と孝子とは、昭昭の爲に節を信[の]べず、冥冥の爲に行を惰らず。蘧伯玉は、衛の賢大夫なり。仁にして智有り。上に事うるに敬む。此れ其の人必ず闇昧を以て禮を廢せず。是を以て之を知る。公人をして之を視せしむ。果して伯玉なり。

○衛灵公云々。此章は殊外柔かな君臣の義なり。柔と云か大切なこと。君臣の義と云へは腕をこくことのやふなれとも、それかぬけになる。何そ侍の役に立ぬと云かそれそ。ここは衛の蘧伯玉か稽古なり。灵公か夜る夫人と酒盛かなしてをられたてあろふ。表門の前を車の通る声かする。たた中と思ころ、ひっしりと其声がやんだ。はて誰か今登城したと思たれは、また車か鳴て行く。はてあちなとかんをつけて夫人に問たれは、夫人かとふても衛の国廣と云へとも、あれは伯玉てあろふとなり。
【解説】
「衛靈公與夫人夜坐、聞車聲轔轔至闕而止、過闕復有聲、轔、車聲。公問夫人曰、知此謂誰。夫人曰、此蘧伯玉也。伯玉、名瑗。孔子居衛主其家。公曰、何以知之。夫人曰、妾聞禮、下公門式路馬、所以廣敬也」の説明。これは殊の外柔らかな君臣の義だが、柔らかなのがよい。何ぞ侍は役に立たない。
【通釈】
「衛霊公云々」。この章は殊の外柔らかな君臣の義である。柔らかというのが大切なこと。君臣の義と言えば腕を扱くことの様だが、それが抜けになる。何ぞ侍の役に立たないと言うのがそれ。ここは衛の蘧伯玉の稽古である。霊公が夜夫人と酒盛りなどをしておられたのだろう。表門の前を車の通る音がする。その只中と思う頃、ひっそりとその音が止んだ。さて誰かが今登城したのかと思えば、また車が鳴って行く。はて妙なことだと勘を付けて夫人に問うと、夫人が衛の国広しと言っても、きっとあれは伯玉だろうと答えた。
【語釈】
・何そ侍…何かの時には身を捧げると言う侍。

○さて、此註は本註らしくないか、説もよかろふ。蘧伯玉はつんとさま々々の事実はあまりのこらぬ人なれとも、孔子か君子哉蘧伯玉と云はれていこふ垩人のあんはいに似た人なり。そこて荘子か異端なれとも目の高ひ男ゆへ見て取た。聞き傳たことを云へり。さて々々伯玉はゆかしい人てありた。惣体人の君子にならぬは兎角吾をよいと思か本なり。直方先生か、天下一ち上なしの人欲かある、しってか。我をよいと思ふことしゃと云へり。立派な家かほしいの、よいきるものか着た井のと云は我もよいとは思はぬ。そのやふな人欲より一ちわるいは吾をよいと思なり。殷勤に謙退をする人も、とかくいつも是か骨からみになりてをる。とかく我非をしらぬ。若ひ内はずな々々しいことをして人に呵られるやふなことをする。年を取ると尤らしくなりて一入吾か非はないやふに思ゆへ、なを々々わるいことか増長する。これては一生死てをるも同しことなり。伯玉か日新の工夫を積て、ああこふてはなかった、是迠はたわけをしたと云ふ。此の一件てあの人かしれる。六十の年になっては德か成就して雪を熱湯へいれたやふに子っとりとなられた。其前は是は誤た々々々々と切磋してふんになったそ。六十の年は何となくへったりと分のものになりた。さて六十と云字を重てある。古るい書にこふしたことあるなり。六十と云ことをもふ一つをどりたか六十にかどを付て書たもの。たとへは寛政改元、改元何月と書たやふなもの。初手の六十の字はなくなる。六十の年に化せられた。衍文てはない。済すなりて古文辞の姿なり。
【解説】
一番の人欲は自分をよいと思うことだと直方先生が言った。荘子が蘧伯玉のことを、「蘧伯玉行年六十而六十化」と言った。蘧伯玉は切磋して六十で徳を成就した人である。
【通釈】
さて、この註は本註らしくはないが、説くのもよいだろう。蘧伯玉は事実があまり残っていない人だが、孔子が「君子哉蘧伯玉」と言われ、大層聖人の塩梅に似た人だった。そこで荘子は異端だが目の高い男なので見て取た。聞き伝わったことを言った。伯玉は実にゆかしい人だった。総体、人が君子になれないのはとかく自分をよいと思うのが本である。直方先生が、天下で一番上なしの人欲があるが知っているか、それは自分をよいと思うことだと言った。立派な家が欲しいとか、よい着物が着たいと言うのは自分もよいとは思わない。その様な人欲よりも一番悪いのは自分をよいと思うことである。慇懃に謙退をする人でも、とかくいつもこれが骨絡みになっている。とかく我が非を知らない。若い内は途方もないことをして、人に呵られる様なことをするが、年を取ると尤もらしくなって一入自分に非はない様に思うので、尚更悪いことが増長する。これでは一生死んでいるのも同じこと。伯玉が日新の工夫を積んで、ああこうではなかった、これまでは戯けをしたと言う。この一件であの人が知れる。六十の年になっては徳が成就して雪を熱湯に入れた様にねっとりとなられた。その前は、これは誤ったと切磋したので分の者になったのである。六十の年には何となくべったりと分の者になった。さて六十という字を重ねてある。古い書にこうしたことがある。六十ということをもう一つ入れたのは六十に角を付けて書いたもの。たとえば寛政改元、改元何月と書いた様なもので、初手の六十の字はなくなる。六十の年に化せられた。これは衍文ではない。済まない様だが、これが古文辞の姿である。
【語釈】
・君子哉蘧伯玉…論語衛霊公6。「君子哉蘧伯玉。邦有道、則仕、邦無道、則可卷而懷之」。
・聞き傳たことを云へり…荘子則陽。「蘧伯玉行年六十而六十化、未嘗不始於是之、而卒詘之以非也。未知今之所謂是之非五十九非也。萬物有乎生而莫見其根、有乎出而莫見其門。人皆尊其知之所知、而莫知恃其知之所不知而後知、可不謂大疑乎。已乎、已乎。且無所逃。此則所謂然與、然乎」。
・ずな々々しい…図無いが、途方もない。並はずれている。
・日新…大学章句2。「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新」。

○路馬は君の御馬。それには式と云てしきをするなり。君の御門前ゆへ蘧伯玉か馬から下りられた。凡夫の姿とはををきくちかったことなり。○昭々云々は、さしだして節義をのべること。人か見ぬとてよい加减にすることてはない。是て見れは君臣の義に影日向ないことなり。なんそのときと云は日向ゆへしよい。日向ては死ぬ気にもなりそふなものなれとも、冥々はをこたりそふなことなり。人の見ぬ処をよくすると云なれは、誠の忠臣にはきまりた。是を活して見れは、過位色勃如也。君の御前ては敬むか、吾か内てはそふはならぬものなり。○不爲冥々信節。此のたましいかこくち塲てははずすことはない。なんそのとき々々々々々々と云はひょっとかわろふもしれぬ。
【解説】
路馬、君路車。所駕之馬也。夫忠臣與孝子、不爲昭昭信節、不爲冥冥惰行。蘧伯玉、衛之賢大夫也。仁而有智。敬於事上。此其人必不以闇昧廢禮。是以知之。公使人視之。果伯玉也」の説明。君臣の義に陰日向はない。人の見ない処をよくするのが誠の忠臣である。
【通釈】
「路馬」は君の御馬。それには式と言って辞儀をする。君の御門前なので蘧伯玉が馬から下りられた。これが凡夫の姿とは大きく違ったこと。「昭々云々」は、差し出して節義を述べること。人が見ないからと言ってよい加減にすることはない。これで見れば君臣の義に陰日向はないこと。何ぞの時と言うのは日向なのでし易い。日向では死ぬ気にもなりそうなものだが、「冥々」では惰りそうになる。人の見ない処をよくすると言うのであれば、誠の忠臣に極まる。これを活かして見れば、「過位色勃如也」で、君の御前では敬むが、我が家ではそうはできないもの。「不為冥々惰行」。この魂であれば小口場で外すことはない。何ぞの時というのはひょっと変わるかも知れない。
【語釈】
・過位色勃如也…小学内篇明倫43の語。


稽古25
○趙襄子殺智伯、漆其頭以爲飮器。二人皆晉大夫。智伯之臣豫讓欲爲之報仇、乃詐爲刑人、挾匕首入襄子宮中、塗廁。左右欲殺之。襄子曰、智伯死、無後而此人欲爲報仇。眞義士也。吾謹避之耳。讓又漆身爲癩、呑炭爲啞、行乞於市。其妻不識也。其友識之、爲之泣曰、以子之才臣事趙孟必得近幸。子乃爲所欲爲、顧不易耶。何乃自苦如此。讓曰、委質爲臣而求殺之、是二心也。吾所以爲此者、將以愧天下後世之爲人臣、而懐二心者也。後又伏於橋下欲殺襄子。襄子殺之。
【読み】
○趙襄子、智伯を殺し、其の頭に漆して以て飮器と爲す。二人は皆晉の大夫。智伯の臣豫讓、之が爲に仇を報いんことを欲し、乃ち詐りて刑人と爲り、匕首を挾みて襄子の宮中に入り、廁を塗る。左右之を殺さんと欲す。襄子曰く、智伯死し、後無くして此の人爲に仇を報いんと欲す。眞の義士なり。吾謹みて之を避けんのみ、と。讓又身を漆して癩と爲り、炭を呑みて啞と爲り、市に行乞す。其の妻も識らざるなり。其の友之を識り、之が爲に泣きて曰く、子の才を以て趙孟に臣とし事うれば必ず近幸を得ん。子乃ち爲さんと欲する所を爲さば、顧うに易からざらんや。何ぞ乃ち自ら苦しむこと此の如きや、と。讓曰く、質を委き臣と爲りて之を殺さんことを求む、是れ二心なり。吾が此を爲す所以は、將に以て天下後世の人の臣と爲りて、二心を懐く者を愧しめんとするなり。後に又橋下に伏して襄子を殺さんと欲す。襄子之を殺す。

○趙襄子云々。これからは歒討なり。歒討は上の父子の親て親の喪をつとめることのあると同しこと。いくら生た肉親に孝行をしても、喪をつとめぬと云なれは孝行を半分してしまふたになる。復讎をして歒討ぬと生た内の忠かみなになる。偖てここにしよいこととしにくいことかある。いっさんにぎり々々とすることはなるか、つい一日二日とさめてくることはならぬものなり。忠臣はそふてはない。人だのみなとをすることは决してない。孔子の知松柏之後凋と云もそれ。世乱知忠臣もそれなり。夏は何もかも青々としてをれとも、霜枯れになりては常盤木斗りなり。人の命をとると云か此上はないことしゃに、其上に爲飲器。十方もないことをした。このやふなことは春秋の時分てなくはあるまい。仁義礼智のひっくりかへりた人間なり。髑髏と云ものは常はけがらはしいと云ものなり。人を悪さの餘りにした。
【解説】
「趙襄子殺智伯、漆其頭以爲飮器。二人皆晉大夫」の説明。敵討は、父子之親で親の喪を勤めるのと同じこと。趙襄子は智伯の頭を飲器にした。それは仁義礼智の引っ繰り返った春秋の時でなければないこと。
【通釈】
「趙襄子云々」。これからは敵討である。敵討は上の父子之親で親の喪を勤めるのと同じこと。いくら生きた肉親に孝行をしても、喪を勤めないというのであれば孝行を半分して終えたことになる。復讐をして敵を討たないと生きた内の忠が台無しになる。さてここにし易いこととし難いことがある。一散にぎりぎりにすることはできるが、つい一日二日と過ぎて冷めて来るとできないもの。忠臣はそうではない。人頼みなどをすることは決してない。孔子の「知松柏之後彫」と言うのもそれ。「世乱知忠臣」もそれ。夏は何もかも青々としているが、霜枯れになっては常盤木だけである。人の命を取るというのはこの上もないことだが、その上に「為飲器」で、途方もないことをした。この様なことは春秋の時分でなくはないだろう。仁義礼智の引っ繰り返った人間である。髑髏というものは常では汚らわしいというもの。人を悪さの余りでした。
【語釈】
・知松柏之後凋…論語子罕27。「子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也」。
・世乱知忠臣…老子道経俗薄。「大道癈有人義、智惠出有大僞、六親不和有孝慈、國家昏亂有忠臣」。

○豫譲云々。これか殊外の忠臣。趙襄子は至てををきな大夫て大身なものなり。趙魏の老とたとへにさへ云。それをかたきにしたとてもよってもつかれぬことそ。人は耳や鼻をとれは様子も違ふもの。刑人の体になりて忍入た。ちきに殺せと云そふなものなれとも、智伯死云々と云た。昔からこのやふなことを云、大腹中をしらせる。ことかたた主の歒を討と云さへ忠臣しゃに、跡もないに歒を討ふと云。本道の義士しゃ。をれか用心すれはよい。○譲又漆身云々。兎角豫譲と云の知れぬか望なり。○呑炭と云は、さくらずみをのんて唖になることてはない。炭に似たものか分に一つある。福州にこれかありて毒の種類になってをる。後世の説なり。豫譲もそれを呑たてあろふ。○其妻不識かいこふ姿の替りたこと。夫婦もわかれ々々々になりてとんと吾女房も吾亭主と云ことをしらぬ。何者かはしらぬか、豫譲の心をしりたゆへ、たしかと覚たてあろふ。涙を流して異見。御手前の才力て奉公したら自由に気に入られよふ。そこて討かよい。そふしたら御本意が手もなくなるてあろふとなり。
【解説】
「智伯之臣豫讓欲爲之報仇、乃詐爲刑人、挾匕首入襄子宮中、塗廁。左右欲殺之。襄子曰、智伯死、無後而此人欲爲報仇。眞義士也。吾謹避之耳。讓又漆身爲癩、呑炭爲啞、行乞於市。其妻不識也。其友識之、爲之泣曰、以子之才臣事趙孟必得近幸。子乃爲所欲爲、顧不易耶。何乃自苦如此」の説明。豫譲は刑人の姿になって趙襄子を襲ったが失敗した。次は癩で唖の姿になって趙襄子を襲おうとした。彼の友は趙襄子に事えて討てばよいだろうと言った。
【通釈】
「豫譲云々」。これが殊の外の忠臣。趙襄子は至って大きな大夫で大身な者。趙魏の老とたとえにさえ言う。それを敵にしたが、寄り付きもできないこと。人は耳や鼻を取れば様子も違うもの。刑人の体になって忍び入った。直ぐに殺せと言いそうなものだが、趙襄子は「智伯死云々」と言った。昔からこの様なことを言って大腹中を知らせるもの。ただ主の敵を討つことでさえ忠臣なのに、後もないのに敵を討とうと言う。本当の義士だ。俺が用心すればよいと言った。「譲又漆身云々」。とかく豫譲ということがわからなくなるのが望みである。「呑炭」は、佐倉炭を呑んで唖になることではない。炭に似たものが別に一つある。福州にこれがあって毒の種類になっている。これは後世の説である。豫譲もそれを呑んだのだろう。「其妻不識」が大層姿の変わったこと。夫婦も別れ別れになって女房も亭主であることが全くわからない。何者かは知らないが、豫譲の心を知ったので、これが豫譲だと気付いたのだろう。涙を流して異見をした。御手前の才力で奉公をすれば楽に気に入られることだろう。そこで討てばよい。そうしたら御本意が手もなく成就するだろうと言った。

○此の乃は豫譲か体をみて云こと。そこて、こなたの云も一通きこへたか、近路なやふなこともあるか、自分の了簡とは違ふ。豫譲の正しひ了簡そ。垩人の御心も同しこと。後世は利ををもにするゆへ其事をしををせさへすれはよいと思ふ。垩賢の御心にはそふしたことはない。君にして討となれは、君に事ると云心か一つ、復讐しよふと心か一つ。二心なり。これは人間のあるまいことそ。君子の心てない。奉公するは自由なれとも、をれは忠臣の操をとこ迠もとをそふと思。天下後世云々。先軰の説もあり、此様なるいはたた口上に云こと。恐負翟黒子と云と同しこと。とをやら懐二心者のためにしたやふなれとも、それはきき下手なり。石原先生かここの処を大切にかんかへよ、重ひ名分のことゆへかりそめ云ことはない。まあ主にしてをいてと云ことはせぬ。主と云がかりそめにすへきものてはない。
【解説】
「讓曰、委質爲臣而求殺之、是二心也。吾所以爲此者、將以愧天下後世之爲人臣、而懐二心者也」の説明。君に事え、その君を討つのは二心である。それでは忠臣ではない。
【通釈】
ここの「乃」は豫譲の体を見て言ったこと。そこで、貴方の言うのも一通りはわかった。近路な様なこともあるが、自分の了簡とは違う。これが豫譲の正しい了簡である。聖人の御心もそれと同じ。後世は利を主にするので事をし遂げさえすればよいと思う。聖賢の御心にはそうしたことはない。君に仕えて君を討つということになれば、君に事えるという心が一つ、復讐をしようという心が一つで、二心である。これは人間にあってはならないことで、君子の心ではない。奉公するのは自由だが、俺は忠臣の操を何処までも通そうと思うと言った。「天下後世云々」。先輩の説もあり、この様な類はただ口上で言うことで、「恐負翟黒子」と言うのと同じこと。どうやら二心を懐く者のためにした様だが、それは聞き下手である。石原先生がここの処を大切に考えなさい、重い名分のことなので仮初に言ったことではないと言った。まあ主にして置いてということはしない。主は仮初にすべきものではない。
【語釈】
・恐負翟黒子…小学外篇善行21。「恐負翟黑子故也」。

当時武家に養子をし、八九年すきて娘に妻する年軰多あり。しかれとも養子するとき其娘五六歳なれとも、後々此に妻とすと願書にかくは一端妹にしては妻合せられぬ。名分ゆへ始にそのことをかくなり。これしょせん養子のことなれとも、名分をは立たことなり。君と名を付れは君を討になる。こふしてをいて、跡てしかたのあると云ことはせぬことなり。大行不顧細近と云は垩賢の意てない。豫譲なとは正靣のとをりをしたもの。さるによってかへりうちになりた。偖てまだ吟味かある。十郎五郎はあゆみの板迠切付たとあり、返討もある。どちも同挌になること。是を垩賢の大義の心と云。それを合点したものは孔明と楠。勝ふか負よふかその心はない。湊川の合戦に勝利はないか忠臣。豫譲もまつその如く返討にならふとかまわぬ。正靣からする。左傳なとは利を好むと朱子の云はれた。このやふな敗れに義あるをしらぬ。
【解説】
「後又伏於橋下欲殺襄子。襄子殺之」の説明。趙襄子を君とすれば、君を討つことになる。孔明や楠は勝ち負けを一番のこととはせず、忠義を貫いた。
【通釈】
今は武家で養子をして、八九年過ぎて娘に妻する年輩が多くある。しかし、養子にする時にその娘は五六歳だが、後々これに妻とすと願書に書くのは、一端妹にしては妻合わせができないからである。名分なので始めにそのことを書く。これは所詮養子のことだが、名分を立てたこと。君と名を付ければ君を討つことになる。こうして置いて、後で仕方があるということはしない。「大行不顧細謹」と言うのは聖賢の意ではない。豫譲などは正面の通りをした。そこで返り討ちに遭った。さてまだ吟味がある。十郎五郎は歩みの板まで切り付けたとあり、返り討ちもある。どちらも同格である。これを聖賢の大義の心と言う。それを合点した者は孔明と楠。勝とうが負けようがその心はない。湊川の合戦に勝利はないが忠臣である。豫譲も先ずはその様に、返り討ちになったとしても構わなかった。正面からする。左伝などは利を好むと朱子が言われた。この様な敗れに義があることを知らない。
【語釈】
・大行不顧細近…鴻門の会での樊噲の語。「大行不顧細謹、大禮不辭小讓。如今人方爲刀俎、我爲魚肉、何辭爲」。
・十郎五郎…曾我兄弟。曾我十郎祐成と五郎時致。


稽古26
○王孫賈事齊閔王。王出走。賈失王之處。其母曰、女朝去而晩來、則吾倚門而望、女莫出而不還、則吾倚閭而望。女今事王、王出走、女不知其處。女尚何歸。王孫賈乃入市中曰、淖齒亂齊國殺閔王。欲與我誅齒者袒右。市人從之者四百人、與誅淖齒、刺而殺之。
【読み】
○王孫賈、齊の閔王に事う。王出でて走る。賈、王の處を失う。其の母曰く、女朝に去きて晩に來れば、則ち吾門に倚りて望み、女莫に出でて還らざれば、則ち吾閭に倚りて望む。女今王に事え、王出で走るも、女其の處を知らず。女尚何ぞ歸るや、と。王孫賈乃ち市中に入りて曰く、淖齒齊の國を亂り閔王を殺せり。我と齒を誅せんと欲する者は右を袒せよ、と。市人之に從う者四百人、與に淖齒を誅し、刺して之を殺す。

○王孫賈云々。閔王か国を出奔してあれやこれやとしたか、王のござり処かしれぬ。母か偖々其方はきこへぬものしゃと、王孫賈か若ひ時からを云。大抵な母義てはなかった。朝さ他出してかへらぬと、親の心がきはきてはない。東金の方へ行たと思と東金の方をみる。返るへきものか返らぬとをれらなどをちつかれぬ。ましてこなたは大夫の身て主の行処をしらぬと云はあるまいことしゃ。○尚をは、迂斎のまちもせぬのにと云へり。まちもせぬと云か字にもあたらぬか、意をたすけて云たもの。そこて王孫賈か殊外ふるった。つまる処、御袋の章なれとも、君臣の義に取ては母を上客にも云はれす。母に云はれて胸かさわ々々となりて声をあけたと云やふなもの。精神がちこふてくる。皆か散り々々ばら々々になりて今これと云人もないゆへ、市へ出て一人の家老か敗軍してしかたはないか、與我者は袒右と云た。急な時の軍法なり。それをこちの目印にする。一番の家老か出てもふしたものゆへ、酒屋の樽拾迠胸にひひいた。大工の左官のと云も出たろふ。四百人も千人も同しこと。玉しひの軍になりた。こふなりて負たことはないもの。寸鉄殺人もこれなり。それからばた々々と討た。此章て君臣の義かすみ、復讐迠しををせた。変なこと。変なことか平生か出て働く。伯玉のあとへ復讐を出してとめたて、のこる処かないことなり。
【解説】
これは王孫賈の母の章で、母が王孫賈に、大夫の身でいながら、主が行った処を知らないということはあってはならないことだと言った。王孫賈はその言に奮い立ち、市へ出て、戦う者は右袒せよと言った。
【通釈】
「王孫賈云々」。閔王が国を出奔したのであれやこれやと探したが、王の居場所がわからない。母がさてさて御前はよくわかっていない者だと、王孫賈の若い時からのことを言った。大抵な母義ではなかった。朝他出して帰らないと、親の心は気が気ではない。東金の方へ行ったと思うと東金の方を見る。帰るべき者が帰らないと私でも落ち着かない。ましてや貴方は大夫の身でいながら、主が行った処を知らないということはあってはならないことだと言った。「尚」は、迂斎が、待ちもしないのにということだと言った。待ちもしないというのは字にも当たらないが、意を助けて言ったもの。そこで王孫賈が殊の外奮った。詰まる処はこれは御袋の章だが、君臣の義に取っては母を上客にすることもできない。母に言われて胸がざわざわとなって声を揚げたという様なもの。これで魂が違って来る。皆が散り散りばらばらになって今これという人もないので、市へ出て、一人の家老が敗軍して仕方はないが、私と組む者は右袒せよと言った。これが急な時の軍法である。それをこちらの目印にする。一番の家老が出て申したことなので、酒屋の樽拾いまでが胸に響いた。大工や左官という者も出たことだろう。四百人も千人も同じことで、魂の軍になった。こうなっては負けることはない。寸鉄殺人もこれ。それからはばたばたと討った。この章で君臣の義が済み、復讐までし遂げた。変なことだが、その変なことが平生が出て働く。伯玉の後へ復讐を出して止めたので、残す処はない。